歴史

2026年1月11日 (日)

日本の温泉 - はだか、混浴、内湯について

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日本の温泉 - はだか、混浴、内湯について

- 入浴の功徳を説く経典? -

 

吉川弘文館のPR誌
本郷 2025年9月号
2509hongo

 温泉評論家 石川理夫(いしかわみちお)
 いま見直される日本の温泉文化

という記事があった。

日本の温泉文化について
コンパクトにまとめられているだけでなく、
私個人の思い込みによる誤解を
訂正してくれる内容も含んでいたので、
記事を参考に、改めて
日本の温泉文化について学んでみたい。
(以下、水色部記事からの引用)

まず規模から。
環境省の統計では、日本は
宿泊施設のある温泉地数が約2900ヵ所、
源泉(湯元)総数は約27,900

と世界トップレベルの温泉大国。

単純に都道府県の数47で割ってみると
平均して一都道府県あたり
宿泊施設のある温泉が約60、
源泉が約590
、ということになる。

文献では「古事記」に記される
「伊余湯(いよのゆ)」(道後温泉)が初出
5世紀半ば頃のこと。

文献ではその後、飛鳥時代の
三人の天皇の有馬・道後・白浜温泉への
二ヵ月から最大四ヵ月に及ぶ
行幸と滞在が『日本書紀』に記録され、
733年に完成した『出雲国風土記』には
初めて「溫(温)泉」という言葉
用いられ、
玉造温泉に集う老若男女が
「燕楽(うたげ)」を催す様も記している。

温泉が入浴だけでなく、
滞在や交流の場として
機能していた歴史は長いようだ。

そんな日本の温泉文化に奈良時代以降
多大な影響を及ぼしたのは仏教らしい。

どんな影響を与えたのか。
それは、【入浴作法】と【温泉信仰】

東大寺正倉院文書にも収められた
『仏説温室洗浴衆僧経』
(うんしつせんよくしゆそうきょう)
という入浴・温浴の功徳を説く経典
示す入浴作法は、
寺院の温室・浴堂にとどまらず、
温泉を含む入浴規範となって
その後の入浴文化を規定づけた


同経典は入浴の際用いる「七物」に
「内衣」(ないえ 湯帷子 ゆかたびら。
後の浴衣)を挙げ、
はだか入浴を戒めた

入浴・温浴の功徳を説く経典があって
そこで
はだか入浴は戒められていた!?

内衣は後に簡素化され、
男性は湯ふんどし、
女性は腰巻着用での入浴
となり、
文化の爛熟で規範も緩む
江戸時代後期に至るまで入浴作法の
スタンダードとなる。

「昔ははだかで混浴があたりまえ」は
どうも正しくないようだ。

実際、

旧加賀国(石川県)を含む
西日本の主要温泉地では、
江戸時代に入浴の主な場となる
共同浴場を男女別浴とした所が多かった

らしい。

また、温泉信仰は、

熱泉もほとばしる温泉湧出という
超常現象への畏怖心にはじまり
飲泉や入浴を試みるうち
喜びと何らかの治癒効果を体感し、
天与の恵みとして温泉への
感謝と畏敬の念を育むことから
芽生えた。

とのことだが、
畏怖心、感謝、畏敬の念、ともに
ムリのない自然な発想という気がする。

そうした温泉信仰に
仏教で医薬の仏とされる
薬師如来信仰が参入し、
神仏習合が進む。
温泉地に薬師神社が見られるのは
典型
である。


もうひとつ、メモしておきたいのは
内湯の歴史が浅いこと。

日本で旅館が内湯を持つようになるのは
温泉掘削が始まる明治以降
、さらに
道後や城崎、有馬温泉といった
多くの著名温泉地では
戦後にかけてのこと
で、
それ以前は外湯すなわち
共同浴場が主役
であった。

有限な地域資源を
地域住民で共同管理する方法は、
合理的であり
サステイナブルの観点からも
有効な運営方法といえるだろう。

 

 

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2025年12月28日 (日)

「妙立寺」別名「忍者寺」

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「妙立寺」別名「忍者寺」

- 「ガイド付きのツアー」でのみ見学可能 -

 

この秋( 2025年秋 )、夫婦で
石川県金沢市に旅行に行った際、
一度訪問したかった
妙立寺(みょうりゅうじ)に行ってきた。
Pb255542s

別名「忍者寺」と呼ばれるが、
忍者がいた、というわけではなく、
建物の複雑な構造が
その名の由来になっているらしい。

ここは、お寺ではあるものの
予約をしてその時間に集合、
「ガイド付きのツアーで回る」
という見学方法しかなく、
しかも、内部の写真撮影が許されていない。

「ほっと石川旅ねっと」
が公式YouTubeチャンネルで
内部を一部
 妙立寺
として公開してくれているが
実際に見学しないと、
その複雑さは理解しにくいだろう。

Pb255543s

妙立寺は
加賀初代藩主・前田利家公が
金沢城に入城して間もない
天正13年(1583年)、
政治の理念を日蓮宗・法華経の
中道精神に求め、
藩を守護する祈願所として
建立したのが起源。

その後、
加賀三代藩主、前田利常公が
寛永20年(1643年)に金沢城近くから
現在地に移築建立した。

建立当時は、幕命で
三階建て以上の建築は禁止されていたため
外観は 2階建て
だが
内部は 4階建て7層
になっている。

中二階、中々二階などの構造の中に
部屋数 23
階段数 29
が組込まれて
まさに迷路のようになっている。

そのうえ、屋根には望楼、
外敵を見つけ攻撃する明り取り階段、
落とし穴としても機能する賽銭箱、
落とし階段や隠し階段、
金沢城への逃げ道といわれる大井戸、
などを備え、
出城としての要素を数多く秘めている。

なぜこんな寺を作ったのか?

利常公の頃、徳川幕府の基礎固めは
着々と整っていっていたが、
逆に全国諸大名はいつ改易になるかと
戦々恐々、
公儀隠密の動きに震え上がっていた

そんな中、
利常公は徳川家から嫁を迎え、
母親を人質に出し、
鼻毛を伸ばして馬鹿殿様を演じ、
謀反などとんでもないと
幕府を安心させようとする。

一方で、
多くの武士が起居できる寺院群を、
現在の寺町に新築
した。

下の写真は妙立寺のそばにあった
現在の案内板の地図。
Pb255545s
右下赤い矢印部分が妙立寺だが
右下から左上に走る寺町通りの両脇
ずらりと並んだ寺にご注目いただきたい。
まさにこれらが
「多くの武士が起居できる寺院群」
ということだろう。

その中心に監視所の役割を持つ
妙立寺を建立
した、ということらしい。

公儀隠密や外敵の目をあざむく仕掛けを
持つと同時に、作戦指揮所ともなる寺


「ガイド付きのツアーで回る」以外に
実物を見る方法がないものの、
歴史と同時に建築の面白さを体験できる
貴重な建物だ。
Pb255546s

寺のパンフレットの最後にはこうある。

 結局、戦火にあうこともなく、
 まさに加賀百万石の繁栄は
 利常公の智略の賜で、
 徳川幕府三百年の歩みとともに
 歴代の加賀藩主は当妙立寺を
 祈願所として崇め、
 家紋「剣梅鉢」を守ってきたのである。

 

今年( 2025年 )も
気ままなブログに訪問いただき
ありがとうございました。
どうぞよいお年をお迎え下さい。

 

 

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2025年12月14日 (日)

ただ置いてあるだけ!?厳島神社の大鳥居

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ただ置いてあるだけ!?厳島神社の大鳥居

- 千本杭の上とはいえ -

 

この秋(2025年秋)、
広島県廿日市市の厳島(宮島)にある
厳島神社に初めて行ってきた。

ちなみに、
廿日市は「はつかいち」が読みとなるが
廿は十と十を合わせた会意文字。
それで二十を意味し、廿日で「はつか」とは
わかりやすいしおもしろい。

さて、厳島神社といえば
海に建つ大鳥居が有名だが、
今回訪問した時はちょうど干潮だったため、
鳥居の下まで歩いて行くことができた。

その時撮った写真がこれ。
Pb035353ss

実物を眼の前にしたとき、
それが期待したイメージと異なる、
という意味で、札幌の時計台などを
「日本三大がっかり名所」と
言ったりすることがよくあるが、
厳島神社の大鳥居はその正反対、
実物を見て、その大きさ、迫力に
ほんとうに驚いてしまった。

高さ約17m、幅約24mで
木造の鳥居としては日本最大らしい


ちなみに、
高さ約34m、幅約42mの
和歌山県田辺市本宮町
大斎原(熊野本宮大社の旧社地)
の鳥居が、大きさでは日本最大とか。
こちらの材質は耐候性鋼らしい。

さて、この鳥居、大きさだけでなく、
もうひとつ大きな驚きがある。

それは、柱が地中に埋め込まれておらず、
ただ置いてあるだけ
、ということ。

初めてその説明を聞いた時、
「えっ!?どういうこと」
とその意味がよく理解できなかった。

解説してある情報ページはいくつもあるが、
その名の通り、宮島に詳しい
 県立広島大学宮島学センター
が作成した

 「大鳥居のひみつ」パンフレット

が、たいへんわかりやすかったので
それを参考資料として
大鳥居について少し学んでみたい。
(なお、この記事は
 そのパンフレットからの抜粋が主なので
 詳細を知りたい方は、
 上記リンクから簡単に参照できる
 パンフレットをぜひ参照下さい)

Pb035355ss
大鳥居の柱は
地中に埋め込まれているように見えるが、
実際には砂地の海底に置かれており、
約60トンと推定される鳥居自身の重みで
立っている


大鳥居の柱の下には
たくさんの松の丸太(杭)が打ち込まれていて、
(海底の)地面を固めている。

主柱の下には計算上100本前後の丸太が
袖柱の下には約30本の丸太が埋められている。

これを「千本杭」という。

現在の大鳥居が
再建されたときの記録によると、
宮島の多々良潟から「千本杭用」として
松の丸太を580本伐り出したと記されている。

「大鳥居のひみつ」パンフレットから
千本杭の絵だけお借りするとこの部分。

Ootoriimaruta
この「丸太」部分が「千本杭」

鳥居の上部、屋根の真下の部材には、
中に約4トンもの小石を詰め込んで
より重くしているらしい。

現在建っている鳥居は
平安時代の初代からかぞえて8代目
1875年に再建されたもの。
すでに150年が経過している


主柱(2本の太い柱)はクスノキ(楠)の自然木。
楠は耐久性や耐水性が高く、
樟脳の原料となることから
防虫効果も期待できる。
何よりもどっしりとした
根元の安定感が主柱に最適。

大鳥居の柱の根元は、
満潮時には海水に浸かり、
海虫が生息しやすい環境になるため、
傷みやすい。

昭和25年(1950)からおこなわれた修理では、
傷んだ柱の根元部分を切り取って
新しい楠に取り替える「根継ぎ」が
おこなわれた。

Pb035326ss

もうひとつ、ピックアップしたいネタは色。
現在の大鳥居の再建当時は
明治政府による神仏分離政策が
進められていた時期で、
厳島神社の朱塗りの社殿も
仏教的であると非難され、柱の朱色を
砂で掻き落としたと伝えられている


大鳥居も再建当時は
着色されなかったと考えられる。

現在の大鳥居が
「朱の大鳥居」となったのは、
明治42年(1909)から始まった修理の後


明治35年ころの絵には、
朱色に塗られていない、
木の色のままの鳥居を見ることもできる。

 

千本杭で固められた上とはいえ、
自重が60トンあるとはいえ、
砂の上に置かれただけとは
やはりにわかには信じられない。

何度も見上げ、そして柱の根元を見ては
不思議な気持ちになる、
そんな干潮時の散歩であった。

<おまけ>
米国人の知人が、
「2週間の観光ツアーで日本を回る予定」
とのことで、こんなルートマップを
送ってきた。
Edstour2511
東京から始まり大阪から米国に帰る、を軸に
実に盛りだくさんな2週間となっているが、
コース終盤には宮島も組込まれている。

大鳥居、英語では「Floating gate」
言うようだ。
砂の上に置かれただけ、もしっくりこないが
floatingもこれまたしっくりこない。

海の中の大鳥居には、興味深い疑問符が
いくつも貼り付いたままだ。

 

 

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2025年7月27日 (日)

『逝きし世の面影』から

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『逝きし世の面影』から

- 外国人が見た昔の日本の子ども -

 

内田樹さんの著作
「図書館には人がいないほうがいい」
から

渡辺京二さんの『逝きし世の面影』には
幕末に日本を訪れた外国人たちが、
日本で子どもたちが
大切にされているのを見て驚いたという
記述がありました。

を引用し、前回の記事で紹介した。
この部分、ちょっと気になったので、
今日は引用の原典

渡辺京二 (著)
逝きし世の面影

平凡社
Yukishiyonos

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)
を読んでみたい。

幕末から明治にかけて
日本を訪問した外国人たちが、
日本を見て何を書き残したのか。

この本は、それらの文献を広く読みながら
当時の日本人の生活様式、習慣、
教育などを浮かび上がらせる
独特な歴史書になっている。

とは言え、外国人の体験の多くは、
個人的・限定的なもので
日本社会を広く調査した報告書
というわけではない。

なので、それだけを根拠に
「当時の日本は」と
一般論を語ることはできないが、
たとえ個人的なものであっても
「実体験・実感想」として尊重し、
多くの体験・感想を丁寧に扱い
重ねていくことで
当時を多角的に蘇らせようとしている。

子どもの様子がメインとなっている
「第十章 子どもの楽園」から
印象的な記述を紹介したい。


日本について
子どもの楽園」という表現を
最初に用いたのはオールコックである。

彼は初めて長崎に上陸したとき、
「いたるところで、半身または
 全身はだかの子供の群れが、
 つまらぬことで
 わいわい騒いでいるのに出くわ」して
そう感じたのだが、
この表現はこののち欧米人訪日者の
愛用するところとなった

1889年に来日して、
娘とともに麻布に家を借り、
1年2カ月滞在したエドウィン・アーノルドは

「街はほぼ完全に
 子どもたちのものだ」と感じた。

街路の真っただ中で
はしゃぎ回っていたからだ。

子どもが馬や乗物をよけないのは、
ネットーによれば
「大人からだいじにされることに
 慣れている」からである。

彼は言う。
「日本ほど子供が、
 下層社会の子供さえ
 注意深く取り扱われている国は少なく
 ここでは小さな、ませた、
 小髷をつけた子供たちが
 結構家族全体の暴君になっている」

「下層社会の子ども」という表現には
まさに外国人を感じるが、
「家族の暴君」には笑ってしまう。
よくそこまで見たものだ。
子育てをしていると、確かに
暴君と思える瞬間がある。

1878年、
日光を訪問したイザベラ・バード。

彼女の眼には、
日本人の子どもへの愛は
ほとんど「子ども崇拝」の域に
達している
ように見えた。

子どもに面白いものを見せようとする
日本ではごくありふれた光景も
外国人には印象に残ったようだ。

モースも父親が子どもと手をつなぎ、
「何か面白いことがあると、
 それが見えるように、
 肩の上に高くさし上げる
」光景を、
珍らしげに書きとめている。

子どもへの体罰についても
こんな記述がある。

日本人は刀で人の首をはねるのは
何とも思わないのに

「子供たちを罰することは
 残酷だと言う」。

フロイスは

「われわれの間では普通
 鞭で打って息子を懲罰する
 日本ではそういうことは
 滅多におこなわれない。
 ただ言葉によって
 譴責するだけ
である」。

ポルトガルでは、
鞭(ムチ)が子の懲罰に
使われていたのであろうか。
(章の最後では
 当時の児童虐待にも触れているが)

「子どもの楽園」という表現を
初めて使ったオールコックは、

「イギリスでは近代教育のために
 子供から奪われつつある
 ひとつの美点
を、
 日本の子供たちはもっている」
 と感じた。

「すなわち日本の子供たちは
 自然の子であり

 かれらの年齢にふさわしい娯楽を
 十分に楽しみ、
 大人ぶることがない」。

この「自然の子」が
象徴的な言葉なのかもしれない。
まさに
「異界」とつながる「聖なる存在」
背景にあるからだろう。

モースは
「世界中で、両親を敬愛し
 老年者を尊敬すること、
 日本の子供に如くものはない」
と言っている

先のバードは、
こんな小さなエピソードも記録している。
彼女はいつも菓子を用意していて
子どもたちに与えたが

「彼らは、まず父か母の
 許しを得てからでないと

 受け取るものは一人もいな」かった。

バードは、子どもたちが遊びの際に
自分たちだけでやるように教えられている
そのやり方にも感心した。

日本の子どもは
自分たちだけの独立した世界をもち
大人はそれに
干渉しなかったのである。

モースは、

日本の子どもが
他のいずれの国の子供達より
 多くの自由を持」っている

感じたのだ。

大人とは異なる文法をもつ子どもの世界を、
自立したものとして認める文明のありかた。

他にも、
大人の祭礼に参加する子どものことや、
大人の服装をただ小型にしただけの
子どもの服装のことや、

ネットーによれば、子どもが
母親の背から降りるようになって
第一にする仕事は、
弟や妹の子守りだった。

といった子どもも参加しての
子育ての様子、なども
驚きとともに綴られている。

明治9年に横浜に上陸したギメは、

「出会う女性がすべて、
 老若の婦人も若い娘も、
 背中に子供をおぶっていること」に
おどろかされた。

他にも

「日本ほど子供の喜ぶ物を売る
 おもちゃ屋や縁日の多い国はない

とグリフィスは言う。

フォーチュンも

おもちゃの商売が
 こんなに繁昌
していることから、
 日本人がどんなに子どもを好いて
 いるかがわかる」

と、おもちゃ屋が目に留まった人もいる。

一方で、
子ども教育への賞讃ばかりではない。
カッテンディーケは、

一方
「彼らの教育は余りに早く終りすぎる」

と書き、チェンバレンも

「残念なことは、
 少し経つと彼らの質が
 悪くなりがちなことである。

 日本の若い男は、
 彼の八歳か十歳の弟よりも
 魅力的でなく、
 自意識が強くなり、
 いばりだし、
 ときにはずうずうしくなる」

と書き残している。

それにしてもどの外国人も、
言葉の壁だけではない
さまざまな制約のなか、
ほんとうによく日本を見ていて
その観察眼には驚かされる。

 

 

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2025年7月20日 (日)

「異界」とつながる「聖なる存在」

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「異界」とつながる「聖なる存在」

- 童名(わらわな)の背景 -

 

内田 樹 (著), 朴 東燮 (編訳)
図書館には人がいないほうがいい

アルテスパブリッシング
Tosyokannniha

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)
から、
* 場所を調(ととの)える、という感覚
* 記憶と現実との和音をたのしむ
について書いてきたが、
今日は、書名に含まれる「図書館」とは
直接関係ないものの、
子どもと子どもの教育について
語っている部分で、
たいへん興味深い記述があったので、
その部分を紹介したい。

子どもというのは
「なんだかよくわからないもの」

なんです。それでいいんです。
そこから始めるべきなんです。

(中略)

昔の日本では子どもたちっていうのは
7歳くらいまでは「聖なるもの」として
扱うという決まりがあった

「えっ!?どういうこと?」
と思いながら先を読んだ。

渡辺京二さんの『逝きし世の面影』には
幕末に日本を訪れた外国人たちが、
日本で子どもたちが
大切にされているのを見て驚いたという
記述がありました。

でも、これは
日本人は子どもを可愛がっている
ということとは
ちょっと違う
と思うんです。

大切にされている、のは
可愛がっている、のとは違う?

可愛がっているんじゃなくて、
「まだ
 この世の規則を適用してはいけない、
 別枠の存在」として敬していた
ということだと思います。

中世以来伝統的にはそうなんです。
子どもは7歳くらいまでは
「異界」とつながる
「聖なる存在」
なんです。

でもある程度の歳になると、
そのつながりが切れてしまう。

「異界」とつながる「聖なる存在」?
興味と謎は深まるばかりだ。

そうやって人は
「聖なるもの」から「俗なるもの」に
なる。

だから、
「この世ならざるもの」と
この世を架橋するものには
基本的に童名を付けるという習慣

ありますでしょう? 

童名(わらわな)って
そういうことと関係しているのか。

いくつか例が続くので
整理しながら読んでいきたい。

【酒呑童子】

「酒呑(しゅてん)童子」とか
「茨城童子」とか「八瀬童子」とか。

彼らはこの世の秩序には従わない。

Wikipediaから説明文を引用しよう。
酒呑(しゅてん)童子:
 鬼の頭領、あるいは盗賊の頭目

茨木(いばらき)童子:
 酒呑童子の最も重要な家来

八瀬(やせ)童子:
 比叡山延暦寺の雑役や
 駕輿丁(輿を担ぐ役)を務めた
 村落共同体の人々。
 寺役に従事する者は結髪せず、
 長い髪を垂らしたいわゆる大童であり、
 履物も草履をはいた
 子供のような姿であったため
 童子と呼ばれた


【牛飼い童(わらわ)】

牛飼いもそうです。
牛飼いというのは、その当時
日本列島に居住する最大の獣である牛を
御する者ですから、
聖なる存在なわけです。だから、
大人でも童形をして、童名を名乗った。

デジタル大辞泉には
牛飼い童(わらわ):
 牛を使って牛車を進ませる者。
 成人後も童形(どうぎょう)の姿をした
 牛健児(うしこでい)。
との説明がある。

【京童(きょうわらべ)】

京童もそうですね。
別にあれは子どもじゃないんですよ。
大の大人なんだけれど、
「権力にまつろわぬ人たち」だから、
子どもにカテゴライズされた。

デジタル大辞泉には
京童(きょうわらべ):
 「京童部(きょうわらわべ)」に同じ。
 京の若者たち。京都市中の
 物見高くて口さがない若者ども。
 京わらべ。京わらわ。京わらんべ。
との説明がある。

【船の◯◯丸】

あと童名をつけるものというと
船がそうですね。
「なんとか丸」という。
あれは童名なんです。

海洋や河川という
野生のエネルギーが渦巻く世界と
人間の世界の
「間に立つ」ものですから、
船もまた子どもなんです。

子どもは半分野生で半分文明ですから、
野生と人間の世界の
間に立つことができる。

子どもは半分野生で半分文明、
子育てをしてみるとそう思わされるときが
確かに何度もある。

【日本刀の◯◯丸】

あと刀がそうですね。
刀には音名をつけるんです。
『土蜘蛛』の蜘蛛切り丸とか
『小鍛冶』の小狐丸とか、
名刀はなんとか丸という
童名を与えられる。

(中略)

刀は自然の力と
人間の力の間を架橋する


だから童名をつける。

小狐丸は「こぎつねまる」と読むようだ。

 

内田さんは、
こういった伝統的な「子ども」観が
今はまったく顧みられなくなったことを
嘆いているが、

そもそも、童名をつけることに、
「この世ならざるもの」と
この世を架橋するもの
、への
思いがあったとは全く知らなかった。

子どもというのは
「なんだかよくわからないもの」
なんです。それでいいんです。

「聖なるもの」から「俗なるもの」へ、を
急ぐ必要も、急がせる必要もない。

 

 

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2025年6月 8日 (日)

「日本史」の日本史という視点

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「日本史」の日本史という視点

- 時代の要請として変化している歴史 -

 

ミネルヴァ書房の雑誌
ミネルヴァ通信「究 (KIWAMERU)」
2025年5月号
2505kiwameru
に、佐賀大学地域学歴史文化研究センター
准教授の三ツ松誠さんが
 「日本史」の日本史
 江戸から明治の歴史学(最終回)
 「日本史」の役立ち方

という文章を寄せている。
(以下水色部、本文からの引用)

最終回とあるように、
本文はこれまでの連載のまとめ、
というスタイルを取っているので、
最終回の文章だけでは
ちょっとわかりにくい面もあるが、
その視点はたいへん重要で
かつおもしろいものなので
いくつか要点をピックアップしたい。

まず基本となる大前提を確認しておこう。

天下人が列島を
武力で統一することによって
出来上がった江戸時代の世の中は、
戦争動員のシステムが
凍結保存・転用される形で続いた
身分制社会であった。

政権の正当性を示すものは
第一に将軍の「御武威」であった


その支配はもともと、
体系的な教学ではなく、
軍事的実力とそれに基づく平和という
現実によって基礎付けられていた。

武威(ぶい)とは、
「軍事的な武力そのものだけでなく
 武力を持つ者が他者の服属を募り、
 敷衍して及ぼすさまざまな影響力をも
 含む言葉である」
ここでは説明している。

江戸時代、実戦がないまま
世代が移り変わっていくなかにあって、

父祖の地位を世襲することを正当化し、
経験したことのない戦争に
備えなければならない領主たちは、
先人の活躍を持ち上げ、
また過去の経験に学ぶため、
武士を主役にした「日本史」を
必要とした

ちょうどそのころ、
世の中が安定してきたこともあり、
社会の各所で
先例を参照することが重要になって
記録を残す習慣が定着してくる

これに伴う識字能力の発達によって
読書を楽しむ層が厚みを増し、
「日本史」に接して
それを自分たちの集合的記憶として
受け止める人々が世に広がっていく

また、東アジア世界に共有された
政治・人生哲学である儒学も
普及の度合いを高めていく。

中国の歴史に学んで
普遍的な道徳的正しさに
迫ろうとするだけでなく、
この国・この政権の歴史をも
論じようという動きが盛り上がり、
儒者を担い手として、
幕府や水戸藩では、
大規模な編纂事業が展開された

ただ、親孝行や主君への忠義を
説く限りにおいては便利な儒学も、
世襲身分制社会にとっては、
真に受けると危なっかしい部分が
含まれていた。

かくして本来の教えに迫ることを
標榜する古学が、
実際には儒学の日本社会への
適応形態として流行する

漢文で書かれた『日本書紀』よりも、
この国古来の言葉遣いを
保存しているはずの『古事記』に
重きを置き、外来思想の影響を
知的世界から排除しようとした
本居宣長は、
天皇を中心にした神話的秩序を
この国本来の在り方だと考え、
将軍の地位を天皇の代理人として
正当化した

こうした政権の正当性をめぐる理解は、
水戸藩の歴史家や、
松平定信のような政治家にも共有されて、
いつの間にか世間の常識に
なっていたようだ。

皮肉なことに、
将軍の軍事力が平和と学問に
打ち込む余裕をもたらした結果、
「日本史」研究が
天皇を将軍支配の権原たらしめる事態が
招来されたのである。

見慣れない権原の文字。
 「権原(けんげん)」とは、
 ある行為を正当化する
 法律上の原因
をいいます。
ここでは説明している。

一方で学徒たちも成長していく。
向上心を持った漢学書生が
立身を夢見て学問に励む時代にあって、
「日本史」は大きな意味を
持っていたようだ。
頼山陽の『日本外史』はその代表例。
ちなみに「外史」とは
 民間による歴史書
の意
ここにある。

非実用的な漢詩や経書の注釈に
飽き足らない連中の間で、
「日本史」に即して
政治や道徳を語る史論は、
流行りとなった

為政者側も、たとえば松平定信は、
幕府学問所へのテコ入れを図り、
地誌や古典・日本史の
調査・編纂事業を推進して
政治に役立てようとした。

そんな江戸時代の末、

そして幕府が
異民族の軍事力に圧迫されて
通商条約を結び、
将軍の行動が天皇の意向に反した
状況が生まれると、
「日本史」が
日本史を変えることになる

「日本史」が
日本史を変えることになる、とは
なんと刺激的な表現だろう。

攘夷を明言していた孝明天皇。
幕府は勅許(天皇の許可)を得ることなく、
日米修好通商条約を締結してしまう。

「御武威」は失墜し、
征夷大将軍は
天皇から与えられた役割を
果たせと責められるようになった


かつての戦争の時代に固まった
家格・身分秩序は失効し、
それよりも古い、
天皇を中心にした「日本史」こそが
「正しさ」の源泉となった

これを旗印にして、
それまでは能力に応じた活躍の場を
与えられてこなかった
全国の書生たちが、
現状打破のために動き、
政権交代が実現する。

この列島において近代国民国家が
王政復古」という形で
出発したことは、一面では、
江戸の世での「日本史」の広がりの
結果なのである。

その後、明治国家においても
天皇を中心にした正史等の編纂を目指して、
修史部局が設けられる。

既存の「日本史」の不正確さ正し
過去の記録に基づく考証を
新時代の「日本史」の基礎に置いたのだ。

彼らの考証は、
往々にしてそれまで事実の面でも
道徳の面でも「正しい」と
信じられてきた史実や人物の在り方を
否定するもの
であり、
無用な抹殺論として
世間の怒りを買ったりもしたようだ。

 

こうして見てくると、
江戸時代と明治時代だけでも
そのときの「日本史」が
ある意味時代の要請として
変化している
ことがよくわかる。

歴史と聞くと、
「過去の事実をベースにした確定したもの」
とつい考えてしまうが、
それ自体が変遷しており、
それ自身にもまた歴史があるのだ。

「歴史」を考えるうえでの、
大事な視点を提供してくれている。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2025年6月 1日 (日)

明治に導入された音楽への思いこみ

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明治に導入された音楽への思いこみ

- 「ホントにそぉ?」と疑ってみる -

 

若尾 裕 (著)
親のための新しい音楽の教科書

サボテン書房
Dangomushinis

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

にある「音楽の免震構造」という
興味深い言葉を、前回 紹介した。

若尾さんは、
こどもへの音楽教育をベースに
いまとなっては多くの人に
共有されているであろう「思い込み」が
どんな背景でそうなってしまったのか
歴史や西洋音楽以外にも視点を広げながら
見つめ直している。

明治のはじめ、

日本人が少々無理をして乗りかえた
先の西洋音楽

と共に日本に入ってきたものは
何だったのか?
正しい、間違っている、
良い、悪いを論じているわけではない。

キーワードを【 】で見出しにしながら、
いくつか見てみよう。

【音楽は楽しいもの?】

「音楽を聞いたらみんなが楽しくなる」
というのは、かなり確度の高い
社会的な約束事に思えますが、
しかしそれはあまりにも一方的すぎます。

そもそも、楽しいとか悲しいとかの
感情表現として
音楽が使われるようになった歴史は、
案外浅い。

【音楽は感情表現?】 

音楽を感情の発現として扱ったり、
ある音楽からなにか共通した気分を
みなと共有した気になるのは
音楽の一般的特性といえますが、
喜怒哀楽の感情に
これほど特化した音楽
は、
さほど古くない欧米に出現した
特徴的な考え方のひとつです。
つまり、ほんの二百年ほどの
流行にすぎない
、ということです。

例えば、
宗教音楽も、日本の能楽も
感情を表現するものではない。

どんな感情を描写したものか、
という目で「音楽」を見てしまう面は
確かにある。

割り切った言い方になりますが、
楽しいとか悲しいとかの
感情を音楽に託すという思想が
はなっからない音楽
も、
この世の中には数多く存在している
ということです。

なので、次のような言葉にも要注意だ。

【音楽は万国共通?】

「音楽は万国共通だ」、
「民族音楽だって音楽であるかぎり
 人間であれば誰にでもわかるんだ」
という信念は、
西洋の音楽の味わい方が
世界のスタンダードになったと
盲信した人間だけがもつ、
不思議な錯覚
ともいえるでしょう

そもそも「音楽」という言葉自体、
明治期に作られたもののようだ。
もちろん、それまでだって
「うた」や「謡(うたい)」は
日本にもあったわけだが。

【伝統音楽を切り捨てた】

日本人は
明治の近代化の掛け声とともに、
千年以上の歴史をもつ
自分たちの音楽をあっさりと
切り捨てた
だけでなく、
西洋社会が長い年月をかけて
磨きあげてきた独特な文化に、
ものの20年ほどでさっさと
着替えてしまったわけです。

そこには

近代国家が軍隊をつくるにあたっては、
まずはリズム教育が必要
ということになりました。

日本の江戸期のように
謡いものをやっているような
のんびりしたリズム感ではタメだ、
というわけです

といった、強い軍隊への思いも
色濃く影響したようだが、

教育の現場において
「伝親的な音楽感性も
 大事にしないとね」
といったことが
おとなによっていわれても
不思議ではないのですが、
そのようなフォローは
ついぞ見られませんでした

という日本の音楽教育の背景も
知っておきたい。

他にも

【カリキュラムの正当性】 

「やさしいものから
 むずかしいものへ」という
段階的なカリキュラムの考え方は、
はたしてなんらかの正当性が
あるのでしょうか

例として

小学生低学年なら《かっこうワルツ》が
楽しめればいいけれど、高学年になったら
《交響詩モルダウ》みたいな
もうすこし長い音楽も理解しましょう、

を挙げているが、確かにその順に
正当性があるとは思えない。
正当性があるように思えるのは
単純から複雑へ、が成長の基盤にあると
思い込んでいるバイアスがあるからだ。

民族音楽において
5音の音楽よりもあとに
3音の音楽が作られた例があっても、
研究者が逆順と考えてしまった例を挙げ

【単純から複雑へ?】

ではなぜ、最初に音楽学者は
三音から五音に
変化したと考えたのでしょうか。

それは、音楽は単純なものから
複雑なものへと発展していくものだ、
という思いこみ

あったからではないでしょうか。

そして複雑さというものについても、
三音より五音のほうが
複雑だろうと考えたのは、
西洋人のものさしの
頑迷さをあらわしているように思えます。

と、いまや常識のようになっている
考え方や価値観の背景をも追っている。

 

上に挙げたようなキーワードで
物事を見直してみると、
それはまさに音楽に限らない。

当然のように思っている思い込みを
「ホントにそぉ?」と疑ってみることで
それぞれについて新発見・再発見がある。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2025年3月30日 (日)

平戸 (4) 全278巻の随筆集『甲子夜話(かっしやわ)』

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平戸 (4) 全278巻の随筆集『甲子夜話(かっしやわ)』

- 藩主松浦静山による著作 -

 

前回に引き続き、平戸観光を続けたい。

平戸は、GoogleMapに赤丸で書くと
九州のこのあたり。
Hirado1a

今日も、平戸市中心部を観光したい。
Hirado2a

【オランダ塀】
石段に沿って続く漆喰で塗り固められた
(塗り固められていた?)塀は、
通称オランダ塀と言う。
1609年から1641年までの間、この塀の東側に
オランダ商館が置かれていた。
商館の目隠しと延焼防止が主な目的。
Pb254142s


【松浦史料博物館】
平戸の港を見下ろす高台に
松浦史料博物館がある。
(写真中央の建物)
Pb254150s
鎌倉時代から続き、
平戸をはじめ壱岐をふくむ
長崎県北を治めた
平戸藩主松浦家に伝来した
資料を保存・公開する博物館。

建物は、
明治26年(1893)に
松浦家の私邸として建てられた
「鶴ヶ峯邸」を利用している。

豪華な装飾が施された籠や
Pb254154s
大名婚礼調度品、
キリシタン禁制定書、
日蘭貿易で得た貴重な品々、
などが並んでいるが
個人的に一番惹かれたのはコレ。

【甲子夜話 (かっし やわ)】
甲子夜話は、藩主松浦静山(1760-1841)が、
師の勧めにより、1841年に死去するまでの
20年間にわたり書き綴った
合計278巻におよぶ膨大な著作
長崎県指定文化財
Pb254156s
しかもその対象となった分野は当時の
自然現象、社会風俗、人物、法制、宗教、
外国関係、狐狸妖怪など
まさに広範囲におよんでおり

江戸時代を代表する情報誌、随筆集として
賞賛されている。
写真の通り、文章だけなく挿絵も多い。

大塩平八郎の乱、シーボルト事件、
鼠小僧の活動の様子なども
詳細に記されているという。

学問を奨励し、
学芸大名とも呼ばれた静山。彼は、
「藩校維新館」を開いて
家臣の教育につとめる一方、
「楽歳堂(らくさいどう)文庫」という
博物館も開設。
そこには海外からの
地球儀などの収集品のほか
1万7千冊以上もの本を集め、
収蔵していたという。

教育やコレクションに尽力するだけなく
全278巻におよぶ著作がある藩主松浦静山。

ちなみに、明治天皇とも
こんな間柄になるらしい。
Pb254157s

【平戸ザビエル記念協会】
1931年築。左側にだけ小塔があり、
正面が非対称な外観。
モスグリーンの色にも特徴がある。
Pb254175s

【瑞雲寺】
平戸ザビエル記念教会のすぐ下、
くるっと回って下りてくると
長い塀で囲まれた瑞雲寺がある。
Pb254185s

【寺院と教会の見える風景】
瑞雲寺横から平戸ザビエル記念教会の方を
振り返ると、間にある光明寺も挟んで
こんな景色が。
Pb254188s
平戸市はこれを
「寺院と教会の見える風景」と名付けて
観光標識まで立てて
観光客にアピールしている。

ちなみに、教会とお寺の
実際の位置関係はこんな感じ。
Pb254149s
中央右上が教会で、中央左下がお寺。
左下からお寺を通して教会を見上げることで
「寺院と教会の見える風景」が
成立している。

観光最終日は平戸大橋を渡り
Pb254201s
九州側の平戸瀬戸市場で、
おいしい海鮮丼を食べて、
平戸に別れを告げた。

九州側の平戸瀬戸市場から
平戸方面を臨むと
Pb254204s
左手、山の上に平戸城、
右手に白いオランダ商館
が見える。

最後にオマケとして、
現地で入手した観光ガイドにあった
「平戸ことはじめ」
紹介して平戸の観光記を
終わりにしたいと思う。

新しい文化の入口として栄えた平戸には、
日本初のモノやコトがたくさんある。

例を挙げると
「お茶」「パン」「ビール」
「さつまいも」「ペンキ」「葉タバコ」
「西洋医学」「禅宗」


海外からもたらされたこれらは皆、
平戸から日本中に広がっていった。

 

 

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2025年3月23日 (日)

平戸 (3) オランダ商館の目まぐるしい歴史

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平戸 (3) オランダ商館の目まぐるしい歴史

- 西暦表示があるという理由だけで -

 

前回に引き続き、平戸観光を続けたい。

平戸は、GoogleMapに赤丸で書くと
九州のこのあたり。
Hirado1a

今日は平戸市中心部を観光したい。
Hirado2a

【平戸市 城下町】
江戸時代、松浦(まつら)氏の城下町として
栄えた平戸は、オランダをはじめ、
欧州の国々との交流が盛んに行われた
港町だ。
Pb254200s
今も通りには江戸の街道を思わせる
その風情が残っている。
Pb254108s

うなぎの寝床的と言うのか
町家的と言うのか、
間口が狭く奥行きが深い建物が
通り沿いに並んでいる。
Pb254109s

平戸城と市街地を結ぶ幸橋は
「オランダ橋」とも呼ばれている。
オランダ商館の石造り建築に従事した
石工の技法がいかされたもので
1702年に完成。巨石による半月弧が美しい。
できて300年以上。
今は、国指定の重要文化財になっている。
Pb254193s

ここで名前が登場した「オランダ商館」、
2011年にその一部が復元されている。
オランダ橋から歩ける距離。
ちょっと寄ってみよう。

【オランダ商館】
白い建物が印象的だが、
正確にはこれは商館そのものではなく
「オランダ商館の倉庫」だ。
Pb254139s
今は中が資料館となっており
平戸の歴史を学ぶことができる。
公式のホームページ(HP)はこちら。
平戸オランダ商館

詳しい説明はHPを参照いただくとして
キーとなる歴史上のできごとと
資料館で見た印象的なものを一部
紹介したい。

まずは、関連する歴史を年号とともに
おさえておきたい。

1609年:江戸幕府から貿易を許可された
    東インド会社が平戸に商館を設置
1616年:キリスト教禁教令
1639年:石造り倉庫の建設(現在の復元倉庫)

1640年:倉庫にキリスト生誕にちなむ
    西暦の年号が示されているとして
    全ての建物の破壊が命じられる。
1641年:商館は長崎出島へ移転。
33年間の平戸オランダ商館の歴史に幕】

2011年:1639年築造倉庫の復元工事完成


復元された「オランダ商館の倉庫」は
日本最初の洋風建築物でありながら、
瓦葺の屋根など
随所に日本建築の特徴を見せている。

壁は漆喰になっているのでわかりにくいが
商館の外壁はすべて石積み造り
重さ60kgの石材が2万個以上も使われている。
石積み後に、漆喰が塗られたため
石積みは隠れている。
まさに石造り耐火倉庫だ。

屋根には平瓦や丸瓦など
約2万5千枚が使われている。総重量約50t。

屋台骨となる巨大な柱は約50cm四方。
1階に11本、2階に10本 立ち並んでいる。
樹齢約700年相当
これは館内で確認できる。
ほんとうに立派な柱だ。
Pb254134s

展示物から印象的なものを紹介すると・・・

【ファルク世界地図】
オランダのファルク親子が
1700年に作った世界地図。
オランダから見ての極東が怪しいとはいえ、
ここまで正確に世界を把握していたなんて。
Pb254118s

【外国人之図】
松浦家に伝来した極彩色の絵巻。
イギリス人、ポルトガル人、
スペイン人のほか、アジア諸国の
成人男女及び子供が計43名も
描かれている。
服装含め特徴の捉え方が秀逸。
Pb254120s

【新刻世界地図】
1700年頃に出版された地図帳。
九州の北部には平戸島が確認できる。
漢字で書き込まれた部分は、
長崎のオランダ通詞によるものと
考えられている。
Pb254127s

【こしょろジャガタラ文】
1639年、平戸を出港したブレダ号には
同年発令された外国人取締に関係し
日本から追放された在留オランダ人や
その妻子32人が乗船していた。

この追放された人々から、
日本に送られた手紙をジャガタラ文と
言うらしい。
下の写真は、更紗に記されたもので
「こしょろ」という女性のもの。
Pb254130s

【外科全書】
1627年、フランス外科学の父といわれる
パレが記した外科全書の蘭訳版。
挿図も細かく丁寧に描かれている。
Pb254133s


上に書いた通り、商館としての歴史は
長崎に移るまでの33年しかないし、
復元された1639年築造倉庫に至っては
禁教期、(キリスト生誕にちなむ)
西暦表示があるという理由だけで、
築の翌年1640年に破壊されてしまっている


海外交易とキリスト教の
まさに激動の時代に
重要な役目を演じてきた平戸。

その歴史を知るのに最適な、
大きくはないが、中身の濃い資料館だ。
とにかく展示がどれも見やすいうえに、
説明が簡潔でわかりやすいのがいい。

平戸観光、次回も続けたい。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2025年3月16日 (日)

平戸 (2) 松浦(まつら)党と益冨(ますとみ)組

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平戸 (2) 松浦(まつら)党と益冨(ますとみ)組

- 江戸時代最大規模の鯨組 -

 

前回 に引き続き、長崎・平戸観光を続けたい。

平戸は、GoogleMapに赤丸で書くと
九州のこのあたり。
Hirado1a

平戸島から
水色に塗られた生月(いきつき)大橋
Pb244069s
を渡って、お隣の生月島まで来た。
Hirado2b

生月島では、ここに寄った。
【平戸市生月町博物館 島の館】
いわゆる町の博物館で、
「捕鯨」と「かくれキリシタン」が
展示が2大テーマ。
日曜日なのに入場者が数名しかいなかったが、
その展示内容は、期待以上のものだった。

博物館のホームページ(HP)はこちら。
平戸市生月町博物館 島の館

「かくれキリシタン」については、
前回 触れたので、
現地でもらったチラシやメモ、
HPでの解説を参照しながら
今日は、主に「捕鯨」について学びたい。

キーワードは
【松浦(まつら)党】と【益冨(ますとみ)組】


【松浦(まつら)党】
平戸は、日本の対外航路「大洋路」の
中継地として古くから機能していた。
 8世紀初頭:遣唐使船の航路
 9世紀以降:唐や宋の商船が寄港
と長い歴史がある。

陸上交通が発達していなかったころ
海上交通を制することは
特に重要だったわけだが、
そこで活躍していたのが松浦(まつら)党だ。

松浦(まつら)党は、
平安時代から戦国時代に肥前松浦地方で
組織された「海の武士団」。

源平合戦の壇ノ浦の戦い
平家方の水軍の主力となった記録もある。

鎌倉時代の元寇にも応戦。

室町時代には、勘合船貿易の船団を
護衛する水軍として
幕府から認められる存在にもなっている。

その後、戦国時代を経て、波多氏のように
滅亡へと進む一派がある一方、
傍系の平戸松浦氏は、戦国大名として成長。
江戸時代、平戸藩藩主として
存続、活躍を続けることになる。


長い歴史で鍛えられた船造りと操船技術は
のちに登場する、江戸時代の鯨組にも
大きな影響を与えている。

【益冨(ますとみ)組】
江戸時代、ここ生月を中心に、
突取捕鯨により大きな成長を遂げたのが、
益冨(ますとみ)組。

最盛期には3千人以上が働いており、
江戸時代最大規模の鯨組だった。
その利益はものすごく、
江戸の長者番付の上位に記載される
ほどだったという。

享保10(1725)年から明治6(1873)年の
中断期を含む142年間で捕鯨した鯨の数は
2万1千頭。一年あたり150頭を越えている。

捕鯨、そして解体の様子は、
模型を使って詳しく展示されている。
Pb244076s

江戸時代、鯨の利用はおもに鯨油。
灯油として需要だ。
1716年以降、農薬としての利用価値が増大。
稲の豊凶(ほうきょう)は
藩の存亡にも関わるため
九州各藩では、鯨油の備蓄や配布が
行われていた。

鯨肉を食べる習慣は、
旧捕鯨地や大阪を中心とした西日本から。

髭(ひげ)は細工用のバネ
油をとったあとの煎粕(いりかす)や骨粉も
肥料に、など
まさに鯨は余すところなく利用されていた

鯨油を田に散布する様子とそのための道具
Pb244075s

江戸時代最大規模の鯨組がここ生月で
活躍していたなんて、全く知らなかった。
テーマを絞った展示は、
メッセージが伝わりやすくていい。
特に地方の小さい博物館では、
「広く浅く」よりも
「狭く深く」を狙ったほうが、
味のある展示になる。
この博物館は、それに成功している例の
ひとつと言えるのではないだろうか。

ほとんど何も知らなかった
「捕鯨」と「かくれキリシタン」の情報で
頭が溢れてしまったので、
島の館を出たあとは、
生月島の北部まで
のんびりドライブを楽しんだ。

【生月島 塩俵断崖の柱状節理】
溶岩台地の上に玄武岩が重なり、
垂直方向に亀裂が入って
5~7角形の断面を作ることにより、
まさに柱がいくつも立っているような
形に見える柱状節理
南北500m、海面から20mの規模で
続いている。
Pb244099s

ここ塩俵から、
生月大橋付近までの島西側の道は、
「サンセットウェイ」と呼ばれ、
東シナ海に沈む美しい夕陽を眺めながら
ドライブができる絶景ロードとして
知られている。

まさに日没時にドライブしたが、
ほんとうに海と山が美しかった。
多くのCM撮影にも使われたらしいが、
「なるほど」と思えるお薦めロードだ。
が、それを伝えられる
写真の腕がないのがもどかしい。
Pb244102s

長崎・平戸観光、次回も続けたい。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

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