詩が詩であるためには
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詩が詩であるためには
- ことばの置き換えごっこではない -
2026年、あけましておめでとうございます。
今年も
自分自身への備忘録を兼ねたブログとして
ぼちぼち気ままに続けていこうと
思っていますのでよろしくお願いします。
未来社のPR誌
未来 2025年秋 通巻621号

に、
詩人・評論家の野沢啓さんが
書くことの唯物論的認識
-メショニック詩学の投げかけるもの
なる題で文章を寄せている。
(以下、水色部本文からの引用)
アンリ・メショニックの
『詩学批判-詩の認識のために』
を引用しながら
詩学について語っているのだが、
題名から察せられる通り内容も難解で、
私の頭では理解できない部分も多い。
ただ、そんな私が読んでも、
これはちょっとメモして残しておきたい、
と思う言葉があったので
その部分を紹介したい。
詩の形式に盛り付けても
意識が詩の言語に先行し全体を司ると
信じて疑わない意識言語論者は
それを詩の形式に盛りつければ
詩になるという誇大な妄想と錯覚から
どうしても抜け出すことができない。
それは
詩のかたちをしたメッセージであって、
そんなものは散文のかたちで書いても
なんら質的な変容がない。
野沢さんは、「言語隠喩論」の中で
初源的な隠喩性の力に依拠して
ことばそれ自体の運動性のなかで
新しい世界を創造的に発見していこう
と主張しているようだが、
はじめて見出される認識
なので
ことばの置き換えごっこではない。
と厳しい。
「詩のかたちをしたメッセージ」と
散文と詩との関係を
改めて考えさせる野沢さんの言葉には
厳しいだけでなく独特な強さがある。
そのうえで、詩をつくることを
次のように表現している。
みずからの蓄積された無意識のなかから
ことばの自発的な作用により
汲み上げられてきたことばの集まりを、
こんどは方法的に取捨選択し
作品としての秩序を与えることである。
「無意識のなかから」がキーワードだ。
では意識はいつ登場するのだろう。
意味があるのであって、
最初や途中からしゃしゃり出てくると
せっかくのことばの自由な発展が
阻害され矮小化されてしまうのである。
上段で、
「詩のかたちをしたメッセージ」に対して
痛烈な皮肉を放っていた野沢さんだが、
詩への基本的なスタンスはまさに
この部分にあるのだろう。
だからこそ
こうした方法や意識を発動させるまえに
できるだけ一気呵成に
ことばの自律的運動に乗って
書けるところまで
書いてしまわなければならない。
その運動やリズムが損なわれないうちに
ことばの隠喩的躯動力を
徹底的に利用するのである。
「ことばの自律的運動」は
「意識」によって駆動されるわけではない。
一気呵成とは、まさにこんなときのことを
表現するための言葉と言っていいだろう。
事前には何をどう書くことになるのか
わからないが、
それでも何かどうしても書いておきたい
衝動があって成立するものであって、
それは書かれたあとにのみ
書き手にもその内容が知られるという
厄介かつ快楽的なシロモノなのである。
書き手にすら、
書いたあとでないとその内容がわからない。
もしそんな作品が作れたら
まさに「快楽」の極みだろう。
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