音楽

2025年10月 5日 (日)

ヒップホップ文化における評価軸

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ヒップホップ文化における評価軸

- 誰と何を争っているのか -

 

雑誌「世界思想」の2025年春号
25springsekaishiso
に掲載されている
「ヒップホップ文化は、争いつつ争わない」
は、文筆家のつやちゃん
ヒップホップ文化における「争い」を
論じたものだが、
いくつか印象に残るキーワードがあったので、
メモとして残しておきたい。

ラッパーがスキルを競う
MCバトルについてこう書いている。

MCバトルの勝敗を決定づける
最も重要な要因は、
どれだけ観客が
「このラッパーの勝ちを見たい」と
思うかなのだ。

社会からはじかれた者たちが
マイク1本で成り上がっていく競争の中で

「次もまたこのラッパーを見てみたい」
という夢にベットする(=賭ける)のが
このカルチャーに住むオーディエンスの
無自覚的な欲求

らしい。
夢にベットする(=賭ける)とは
まさに夢のある表現だ。

著者のつやちゃんは、
MCバトルを含むヒップホップ文化における
戦いには「三層の戦いがある」と
解説を続けている。

まずは自分と対戦相手との戦いである。
これはいわゆる「Battle」であろう。

また、
ラッパーはルーツや価値観を見つめ直し
ラップする過程で
自分自身と戦いもするが、
これは「Struggle」と表現される。

そして、
そのようなラッパーたちを見て
ベットしたオーディエンス同士が
派閥としてぶつかり合う戦いは
Conflict」が近いだろうか。

これら中心部から波状に広がる
Struggle → Battle → Conflict
という三層の戦いがヒップホップに
息づいている。
この中で、
Struggleにのみ他者性の介在が弱いことが
注目点だ。

プレイキンにしろラップにしろ、
ヒップホップという
カルチャーにおいては、
オーディエンスからの
リスペクトの蓄積と
未来にベットする欲望

絡み合うことでの合意形成が
評価軸を決定づけている。

戦いというと、通常、
他者とのBattleが注目されがちだが、
それのみが評価対象ではない、
ということらしい。

争うことの根源にあるものが
「自分自身との」Struggle
であり、
それをジャッジするオーディエンスも、
Struggleの観察を通して
ラッパーやダンサーの未来に
夢を託しているからなのだ。

誰と争っているのか、
何を争っているのか、
Battleのみに注目することなく
争いの質にも目を遣りたい。

自らの美学と対峙しながら
もがき這い上がる
Struggleの精神さえあれば、
醜い争いには堕さない。

オリンピック種目となった「ブレイキン」は
スポーツの競技として
それ自体が目的となってしまったが、
カルチャーとしてのブレイキンは手段で、
そもそもは
リスペクトに価値が置かれているものらしい。

ヒップホップ文化を見るとき、
まさに題名にある
「争いつつ争わない」の価値を、美学を
Struggle → Battle → Conflict
の3層を思い出しながら考えてみたい。

でもそれは、ヒップホップでの「争い」に
限らない視点でもある。

 

 

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2025年8月10日 (日)

映画における「音の同期」

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映画における「音の同期」

- 画と音はそもそも合っているもの? -

 

養老 孟司, 久石 譲 (著)
脳は耳で感動する

実業之日本社
Nouhamimide

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)
は、
養老さんと久石さんの対談本だ。
その中からいくつか印象的な言葉と
エピソードを紹介したい。

冒頭、
映画音楽を長くやってきた久石さんが
素朴な疑問として感じてきた
次のような話を養老さんになげかける。

ご存知のように、映画というのは
一秒に24コマの映像が流れます。

映画音楽というのは、
そのコマレベルまで
合わせていく作業になるわけです。

ところが、
厳密に映像に合わせで音楽をつけると、
間違いなく
音楽の方が早く感じる
んですよ。

ぴったり合わせると、
映像より先に音が聞こえてくる
という現象が起きる。

僕は経験則で、3コマか4コマ、
場合によっては5コマ、
音楽を遅らせたりしてきました。

そうすると、
映像と音楽がちょうど合う、
違和感なくシンクロするんです。

普通に考えたら、映像は光ですから、
音速より速いですよね。
それなのに音の方が早く感じられる。
これがどういうメカニズムなのか
不思議に思ってきたんです。

同時だと音楽の方が早く感じる。

3コマから5コマ、
3/24=約0.13秒、5/24=約0.21秒なので、
0.1秒から0.2秒ほど
画像に対して音が遅れたほうが
違和感がない、とは。

これは確かに不思議だ。
久石さんも言っているように
見ている人に到達する時間で言えば、
光である映像の方が、
音である音楽よりも圧倒的に早いのに。

それに対して、養老さんは、
目で見たものと、耳で聞いたもの、を
脳の神経細胞が伝達して
意識が発生するまでの時間が、
視覚系と聴覚系とでは違う。
だからズレでいる。と説明したあと、
2点おもしろいコメントを足している。

(1) 合わせようとするのは人間だけ?

生き物になぜ目と耳があるかといえば、
それぞれまったく違うものを
つかまえるからでしょ。
両方が同じものをつかまえていたら、
意味がない

コウモリやクジラは音だけで見ている、
の例を挙げている。

野外に出てみたら、聞こえる音と
目に見える景色は別ものだということが、
よくわかります。
川が流れているから、音がする。
いや、逆でしょう? 
音がするから、
「ああ、川があるんだな」とわかる。

確かに「音が先」を
自然の中にいると数多く経験する。

外から聞こえてくる音と、
我々が見ている風景は
一致していない。
当たり前のこと
なんです。

一致していないのが当たり前、か。
一致して当然のように思っていることの
不思議さを、改めて考えてみる
きっかけになる指摘だ。

でもそうなると、
目と耳から入ってくるものを
一緒にするような機能を
人間の脳はなぜ持ったのだろう?
久石さんの質問に養老さんは
これまた意外な角度から回答している。

(2) 目と耳の連合野に「言葉」?

目からの情報と耳からの情報、
二つの異質な感覚を
連合させたところにつくられたのが
「言葉」


人間は「言葉」を持つことで、
世界を「同じ」にしてしまえたんです。
言葉は目で見ても、
耳で聴いても同じです。

えっ、ここで「言葉」登場!?
しかも、「時空」という
重要なキーワード込で。

目が耳を理解するためには
「時間」という概念を得る必要があり、
耳が目を理解するためには
「空間」という概念を
つくらなきゃいけない。

それで「時空」が言葉の基本になった。
言葉というのはそうやって
生まれてきたんです。

映画の「音の同期」の話から
思いもかけない方向に
話がドンドン広がっている。

対談なので、各項目に対する
詳しい説明まではないが
その意外な展開自体を
楽しむことができる。

 

 

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2025年8月 3日 (日)

望ましいほどにはないが、十分にはある

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望ましいほどにはないが、十分にはある

- ブルース・スプリングスティーンのスピーチ -

 

1949年生まれ、
ロック界のスーパースター
ブルース・スプリングスティーン
(Bruce Springsteen)

2025年5月14日、ツアー初日の
マンチェスター公演で、
今のアメリカの現状について
「3つの声明」を発表した。

その内容は、現トランプ大統領を
痛烈に批判したものだったので、
ライブとともに
大きな話題となっていた。

75歳になっても、
「ロックは声を上げることだ」の
精神は全く衰えていない。

その後、公演の様子は、
『Land of Hope and Dreams EP』
としてすぐにデジタル配信されたが、
そこには、
「Land of Hope and Dreams」、
「My City of Ruins」の
イントロでの声明も収録されている。

どんなことをどんなふうに語ったのか?
SONYミュージックのページ

2505springsteens

を見ていただければ、そこには
公式動画サイトへのリンクと
スピーチの日本語訳があるので、
彼のその時の口調と、その内容を
日本語で詳しく知ることができる。

現状の問題点を簡潔な言葉で羅列している
胸に迫るスピーチだが、
その中には、ぜひ残しておきたい
印象的なフレーズがあった。
記録を兼ねて、その部分を紹介したい。
(以下水色部は、上記
 SONYミュージックのページからの引用)

「My City of Ruins」イントロダクション
から。

さて、今世の中は非常に異様で、
奇妙で、危険なことになっている


アメリカでは
言論の自由という権利を行使して
異議の声を上げたものたちが
迫害されている。

そんなことが今起こっているんだ。

アメリカでは、
この上ない金持ちたちが
世界で最も貧しい子供たちを
見殺しにしている。

そんなことが今起こっているんだ。

で始まり、現状のアメリカで起こっている
「非常に異様で、奇妙で、危険なこと」
の例が簡潔に並べられていく。

そして、最後はこう締められている。

俺が50年間
みなさんに歌って来たアメリカは
本物であり、欠点があるにせよ、
素晴らしい人々のいる素晴らしい国だ


だから俺たちはこの時期を
乗り切っていくだろう。

そう、俺には希望がある。

それは偉大なアメリカ人作家の
ジェームズ・ボールドウィンが
言っていた真実を信じているからだ。
彼はこう言っていた。

この世には望ましいほど
 多くの思いやりは存在しない。
 だが、十分な量はある
」。

この最後の、ボールドウィンの言葉が
ほんとうにいい。
「望ましいほどにはないが、十分にはある」

そうなのだ。
思いやりに限らず、すでに十分にあるのに
もっと、もっとと
欲しがってしまっているものが
ありはしないだろうか。

もっともっとが「望ましい」と
思い込んでしまうことで、その欠乏感が
自らを苦しめてしまったり、
しなくてもいい苦労を
呼び込んでしまったり。

もっともっとの誘惑が芽生えたら
立ち止まって見つめ直してみよう。

「すでに十分にはある」
を見落としてしまっているだけ
かもしれないのだ。

 

 

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2025年6月 1日 (日)

明治に導入された音楽への思いこみ

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明治に導入された音楽への思いこみ

- 「ホントにそぉ?」と疑ってみる -

 

若尾 裕 (著)
親のための新しい音楽の教科書

サボテン書房
Dangomushinis

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

にある「音楽の免震構造」という
興味深い言葉を、前回 紹介した。

若尾さんは、
こどもへの音楽教育をベースに
いまとなっては多くの人に
共有されているであろう「思い込み」が
どんな背景でそうなってしまったのか
歴史や西洋音楽以外にも視点を広げながら
見つめ直している。

明治のはじめ、

日本人が少々無理をして乗りかえた
先の西洋音楽

と共に日本に入ってきたものは
何だったのか?
正しい、間違っている、
良い、悪いを論じているわけではない。

キーワードを【 】で見出しにしながら、
いくつか見てみよう。

【音楽は楽しいもの?】

「音楽を聞いたらみんなが楽しくなる」
というのは、かなり確度の高い
社会的な約束事に思えますが、
しかしそれはあまりにも一方的すぎます。

そもそも、楽しいとか悲しいとかの
感情表現として
音楽が使われるようになった歴史は、
案外浅い。

【音楽は感情表現?】 

音楽を感情の発現として扱ったり、
ある音楽からなにか共通した気分を
みなと共有した気になるのは
音楽の一般的特性といえますが、
喜怒哀楽の感情に
これほど特化した音楽
は、
さほど古くない欧米に出現した
特徴的な考え方のひとつです。
つまり、ほんの二百年ほどの
流行にすぎない
、ということです。

例えば、
宗教音楽も、日本の能楽も
感情を表現するものではない。

どんな感情を描写したものか、
という目で「音楽」を見てしまう面は
確かにある。

割り切った言い方になりますが、
楽しいとか悲しいとかの
感情を音楽に託すという思想が
はなっからない音楽
も、
この世の中には数多く存在している
ということです。

なので、次のような言葉にも要注意だ。

【音楽は万国共通?】

「音楽は万国共通だ」、
「民族音楽だって音楽であるかぎり
 人間であれば誰にでもわかるんだ」
という信念は、
西洋の音楽の味わい方が
世界のスタンダードになったと
盲信した人間だけがもつ、
不思議な錯覚
ともいえるでしょう

そもそも「音楽」という言葉自体、
明治期に作られたもののようだ。
もちろん、それまでだって
「うた」や「謡(うたい)」は
日本にもあったわけだが。

【伝統音楽を切り捨てた】

日本人は
明治の近代化の掛け声とともに、
千年以上の歴史をもつ
自分たちの音楽をあっさりと
切り捨てた
だけでなく、
西洋社会が長い年月をかけて
磨きあげてきた独特な文化に、
ものの20年ほどでさっさと
着替えてしまったわけです。

そこには

近代国家が軍隊をつくるにあたっては、
まずはリズム教育が必要
ということになりました。

日本の江戸期のように
謡いものをやっているような
のんびりしたリズム感ではタメだ、
というわけです

といった、強い軍隊への思いも
色濃く影響したようだが、

教育の現場において
「伝親的な音楽感性も
 大事にしないとね」
といったことが
おとなによっていわれても
不思議ではないのですが、
そのようなフォローは
ついぞ見られませんでした

という日本の音楽教育の背景も
知っておきたい。

他にも

【カリキュラムの正当性】 

「やさしいものから
 むずかしいものへ」という
段階的なカリキュラムの考え方は、
はたしてなんらかの正当性が
あるのでしょうか

例として

小学生低学年なら《かっこうワルツ》が
楽しめればいいけれど、高学年になったら
《交響詩モルダウ》みたいな
もうすこし長い音楽も理解しましょう、

を挙げているが、確かにその順に
正当性があるとは思えない。
正当性があるように思えるのは
単純から複雑へ、が成長の基盤にあると
思い込んでいるバイアスがあるからだ。

民族音楽において
5音の音楽よりもあとに
3音の音楽が作られた例があっても、
研究者が逆順と考えてしまった例を挙げ

【単純から複雑へ?】

ではなぜ、最初に音楽学者は
三音から五音に
変化したと考えたのでしょうか。

それは、音楽は単純なものから
複雑なものへと発展していくものだ、
という思いこみ

あったからではないでしょうか。

そして複雑さというものについても、
三音より五音のほうが
複雑だろうと考えたのは、
西洋人のものさしの
頑迷さをあらわしているように思えます。

と、いまや常識のようになっている
考え方や価値観の背景をも追っている。

 

上に挙げたようなキーワードで
物事を見直してみると、
それはまさに音楽に限らない。

当然のように思っている思い込みを
「ホントにそぉ?」と疑ってみることで
それぞれについて新発見・再発見がある。

 

 

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2025年5月25日 (日)

音楽の免震構造

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音楽の免震構造

- 壊れにくい音楽という発想 -

 

若尾 裕 (著)
親のための新しい音楽の教科書

サボテン書房
Dangomushinis

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)
を読んでいたら、
たいへん印象的な言葉に出会ったので
今日はそれを紹介したい。

著者の若尾さんは、親の立場から
主に今の「こどもと音楽教育」が
どうしてこうなっているのか、を
客観的に考えてみようとしている。


幼稚園/保育園や小学校で
おこなわれている音楽教育というのは、
いまだに整ってきちっとした
音楽というものが理想とされています

確かにそういう方向にはなっている。
学校で評価される「うまい演奏」とは
多くの場合、リズムも音程も
整っている、揃っている、音楽だし。

たとえば民族音楽を見てみましょう。

多くの民族音楽においでは、
演じ手のうまいへたは多少あっても、
そういう差をうまく吸収してしまう
構造があります。
いわば、音楽の免震構造が
すぐれている
わけです。

「音楽の免震構造」とは
うまい言い方だ。

ケチャでもガムランでもそうですが、
多少うまいへたがあっても、
そういうズレをまわりのみんなで
なんとなく吸収してしまう
わけです。

もちろん
ものすごくじょうずなグループと
そうでないグループもありますが、
だからといってケチャやガムランが、
そういう高度なテクニックを
最終目標とする
メンタリティの音楽かというと
けっしてそんなことはありません。

免震構造が強く、
まさに「壊れにくい音楽」と言えるだろう。

一方で、

西洋のオーケストラなどでは、
ひとりでもトチってしまうと
一発でその演奏は失敗したことに
なってしまいます


つまりクラシックというのは、
いまいった免震構造的な意味では
非常に性能が落ちる音楽だ

ということになります。

こういった音楽の寛容度とでも
呼べる特性は、
近世以後の西洋音楽からは
失われてしまいました。

ピアノの発表会のあと、
弾いた本人に感想を聞いたとき
「間違えずに弾けてよかった」
が最初にくるのはやはりさびしい。
全員が目指すべき目標が
「コンクールでの入賞」というわけでは
ないのだから。

「間違えない」ことや
「揃っている」ことを優先するあまり
音楽を楽しめていなければ本末転倒だ。

演奏の上達段階には
「間違えずに弾けるようになった」
という喜びはもちろんある。
でも、それは音楽の喜びのごく一部だ。

繊細で完成度の高い演奏だけを
一元的な目標のように高評価してしまうと、
ちょっとでも間違えると
それは「失敗」となってしまう。
完成度の高い演奏には大きな価値がある。
でも、音楽をやる喜びや価値は
もちろん、そこにだけあるわけではない。

今の音楽教育が提示している「失敗」を
「そのままでいいのか」と
投げかけてくれるような発言だ。

「壊れにくい」という観点で
音楽を見てみるというのもおもしろい。

 

 

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2024年4月21日 (日)

音語りx舞語り「春」日本舞踊編

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音語りx舞語り「春」日本舞踊編

- 芸は人を大きく見せる? -

 

(2024年5月6日 更新版)

(a) ヴィヴァルディ作曲/「四季」より「夏」
の音楽に
(b) 能 土蜘蛛
(c) オリエンタルダンス

を合わせるという大胆な企画を
2023年9月に実現した「音語りx舞語り」。

「こんな異質なものが合うの?」の
当初の疑念というか戸惑いを払拭した
驚きのパフォーマンスについては
こちらに記事として書いたが
今度は、

(c1) コラボ1
 ヴィヴァルディ x 日本舞踊

(c1-a) ヴィヴァルディ作曲/
    「四季」より「春」
(c1-b) 日本舞踊

(c2) コラボ2
 バッハ x 謡「吉野天人」x 日本舞踊

(c2-a) バッハ作曲/
    無伴奏ヴァイオリンのための
    パルティータ
(c2-b) 謡:吉野天人
(c2-c) 日本舞踊

に挑戦するという。
企画の本郷幸子さんの挑戦心、
イマジネーションには驚かされるばかりだ。

というわけで、
さっそく聴きに(観に)行ってきた。
印象的だったことを
忘れないうちに書いておきたい。
2404s

開催は、2024年4月13日。

(1) 会場
会場は東京・上野の
東京藝術大学のすぐ横にある
市田邸。

この市田邸、
築100年を越える木造建築で、
明治時代の日本橋・布問屋
市田善兵衛の私邸だったらしく
国登録有形文化財建造物になっている。

今回はここの
1階の和室8畳間を公演用ステージに、
隣接する和室6畳間を観客席にと、
まさに演者と観客の間に隔たりのない
アットホームなセッティング。

座布団または小さな丸椅子に座って
観覧する。

床の間の前の畳の間、
会場選択からして日本舞踊を活かすための
配慮が行き届いている。

 

(2) 計14畳の和室の空間
主宰の本郷幸子さんは企画のほか、
当日もヴァイオリン、お話と大活躍。

小学校5年生の時から教えているという
教え子の森永かんなさんとの共演
 ルクレール作曲
 2つのヴァイオリンのためのソナタ
で演奏会が幕を開けた。

上に書いた通り、観客含め全員が
(外廊下部分もあるとはいえ)
計14畳の和室の空間の中にいるので、
2台のヴァイオリンが、
お互い聞き合って合わせようとする
視線や息遣いまで細かく伝わってくる。

絶妙な2台のバランス、
先生にとっても、教え子にとっても
感無量の時間だろう。


さてさて、コラボ企画に関しては
前回同様、それぞれの分野の演者から
曲だけではなく各分野についての
初心者向けの解説があった。

解説して下さったのは演者でもある
 ヴァイオリン:本郷幸子さん
 日本舞踊:坂東三奈慧(みなえい)さん
 謡:大金智さん


(3) 語りから音楽へ
清元、長唄の披露のあと、
 (s1) 義太夫
 (s2) 常磐津 (ときわづ)
 (s3) 清元 (きよもと)
 (s4) 長唄
の違いについて、
三奈慧さんはこんな説明をしてくれた。

語りの要素が一番強いのが義太夫。
(s2),(s3)と語りが洗練されていき、
音楽の要素が強くなってくる。
聞く音楽として発展したのが長唄。

厳密な定義や分類はわからなくても
「語り」と「音楽」のある種の比重で
分類や推移があることを知るだけでも
三味線音楽への関心の度合いが
ぐっと深くなる。


(4) 型の存在
「型の存在」についても
たいへん興味深い話があった。

クラシックバレエには
1番、2番と番号がついている
足のポジジョンを始めとして、
最初に学ぶべき基本的な型がある。

能にも、
「サシ込開(さしこみひらき)」の
組合せのように型はあります、と
大金さん。

一方、日本舞踊のほうは、
型だけをくり返しお稽古したり、
型をマスターしてから
作品に入ったりはしない。

作品をお稽古しながら
型を自然に覚えていく、
という世界らしい。

とは言え、時代とともに、
お稽古の回数が少なくなってきたり、
畳がない暮らしなど
生活環境も変わってきている。
なので
日本舞踊にも型をお稽古するような
お稽古の仕方があってもよいのではないか

という意見も
昨今聞かれるようになってきた、とのこと。

芸の伝承とはどうあるべきなのだろう?

当日の内容と
のちに三奈慧さんから補足していただいた
「型」の説明とを合わせて考えると、
素人の私にもそんな疑問が浮かんでくる。

作品や技術の伝承のみが
その本質ではないとはいえ、
伝えるための工夫は
時代に合わせて必要なのかもしれない。


(5) 鏡の存在
理論ではなく、体が覚えるまで繰り返し
身につけるのが日本舞踊。

近年、稽古の環境が変わり、
鏡やビデオを使うこともあるけれど、
基本はご法度。

客観視しないで自分の身体感覚だけで
脳内の像を表現できるようにするのが
日本舞踊という芸。

能でも (「鏡の間」はあるけれど)、
稽古で鏡は使わない。

鏡を使う  :クラシックバレエ
鏡を使わない:日本舞踊、能


鏡を使うと鏡がないと稽古ができなくなる、
という言葉はいろいろ考えさせられる。
何も見なくても表現できる、が大事と。


(6) 扇とおもり
日本舞踊で使う「扇」と
能で使う「扇」との違いについても
実物を並べて丁寧に説明してくれた。
初めて知ったのは、
日本舞踊で使う扇には
要(かなめ)の部分に
「おもり」が埋め込まれている

ということ。

当日の舞踏の中でも
風であったり、花びらであったり、
さまざまな表現に使われていた扇。
その自然でなめらかな動きは、
単に手首の動きだけではなく、
おもりの重力をうまく活かして
作り出されたものだったようだ。


(7) 芸は人を大きく見せる
他にも、
西洋のものは舞踏と言われるように
大地を蹴って跳躍、が基本。
日本のものは下に下に、で田植えの感覚、
といった比較もおもしろい。

跳躍の気分あふれる今回の音楽「春」の
上にひっぱられないように
踊るのがむつかしいところ、と三奈慧さん。

上にの西洋音楽、下にの日本舞踊、能。

「対極のものをぶつけるのがおもしろい」
と企画の本郷さん。

各分野における基本事項や関連事項、
考え方の背景を教えていただいたうえで、
いよいよコラボを体験することとなった。

(c1) コラボ1
 ヴィヴァルディ x 日本舞踊

(c1-a) ヴィヴァルディ作曲/
    「四季」より「春」
(c1-b) 日本舞踊

(c2) コラボ2
 バッハ x 謡「吉野天人」x 日本舞踊

(c2-a) バッハ作曲/
    無伴奏ヴァイオリンのための
    パルティータ
(c2-b) 謡:吉野天人
(c2-c) 日本舞踊


音語り事務局が、(c1)を14秒だけ
ここで公開してくれている。

個人的に印象的だったのは、
(c1)の日本舞踊における
「春」のユニークな解釈と、
(c2)におけるバッハの選曲。

選曲のセンスには敬服しかないが、
バッハの偉大さも改めて痛感。
音楽と謡の融合により
今自分がどこにいるのか
わからなくなるような
独特なトリップ感を味わえる。


もうひとつ、今回の大きな発見は
踊っているときの坂東三奈慧さんが
すごく大きく見えたこと。

小さな空間で集中して観たから
よけいそう感じたのかもしれないが、
踊っているときと、
語りで解説してくれているときの
体格というか、纏う空気の大きさが
あまりにも違っていてびっくりした。

芸は人を大きく見せる、ということか。

もちろん私個人の感触で
物理的にはなにも変わってはいないけれど。

 

くつろいだ空気の中、
今回もほんとうに楽しい演奏会だった。
その場でのパフォーマンスはもちろん、
型の話だって、鏡の話だって、
おもりを活かした表現だって、
上にの西洋音楽、
下にの日本舞踊、能 の話だって、
その先に大きな世界が広がっている
その入口を示してもらえただけでも
大きな価値がある。

「夏」と「春」を経験できた。
本郷さんは
「四季をcompleteしたい」と
おっしゃっていたので、
ぜひまた次回にも期待したい。

 

 

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2024年4月 7日 (日)

脳内麻薬がでてこそ

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脳内麻薬がでてこそ

- 音楽は音だけで出来ていない -

 

1月は行ってしまう、
2月は逃げてしまう、
3月は去ってしまう、
4月は寄ってくる、
と言われるように、
今年も気がつくともう4月だ。

と、4月なのに(?)
今日は、昨年末の小さなネタから
思いがけない展開をみせた話を
書き留めておきたい。


昨年のクリスマスのころ、
「大手デパートのクリスマスケーキが
 崩れた状態で購入者に配達された」
というニュースがあった。

(1) カタログにあった美しいケーキの写真

(2) 実際に配達された崩れたケーキの写真
を並べて、
Masaruさんが
こんなコメントをXに投稿していた。

2312348

(1) に対して
楽器を弾いている時の脳内イメージ
(2) に対して
録音を聴き返した時の脳内イメージ

2枚の写真を見て、
こんな言葉が浮かぶなんて
なんて素晴らしいセンスの持ち主だろう。

私も学生時代のサークルを含め、
素人ながら長く楽器を楽しんでいるので、
奏者の体験として痛いほど同意できる。

自分で楽器を演奏している時の気持ちと
自分の演奏を録音で聞いた時の落ち込み、
奏者にしかわからないそのギャップを、
こんなに簡潔にかつ的確に
表現してもらったことがあるだろうか。

感激した私は、
高校時代、大学時代の音楽仲間に
早速URLを転送し、見てもらった。

皆、それぞれに身に覚えがあるようで、
反応は大きかった。
いくつかコメントを並べておきたい。

* しかし、なんで実際の演奏中は、
 (1)のように聴こえるんだろうねぇ。
 脳内麻薬でも出てるのかなぁ…。

* ド素人でも演奏が楽しいのは、
 脳内に(1)のイメージが
 広がるからなんだよね。

* スキーも同じです。
 滑っている時の脳内イメージと
 ビデオで見る現実。
 滑っているときは脳内麻薬がでています。

* これって、音楽に限らないよね。

そう、音楽に限らないのだ
趣味だろうと仕事だろうと
自らが心から楽しんでコトをなしているとき
客観的な事実のレベルとは関係なく
本人には(1)が見えるような
脳内麻薬(?)がでているのだ、きっと。

藤井さんのように将棋が強くなくても、
大谷さんのように野球ができなくても、
将棋や野球に夢中になれる人がいるのは
まさにそのおかげではないだろうか。

(1)を経験できた人は、
そのレベルとは関係なく、
ほんとうにソレが楽しくてしかたがないし、
その思いを励みに成長もしていける。
(1)はほんとうに貴重な経験だ。
(形だけはうまくいっても、
 脳内麻薬がでていなかった経験は
 むなしさだけが残っていたりするし)

 

最後に、
音楽仲間の言葉を残しておきたい。
「後で録音を聴くと
 たいしたことなかったりするのは、
 音楽が
 音だけで出来ているのではない
 証拠だと思います


これはこれで音楽に対する名言だ。

 

 

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2024年3月31日 (日)

交響曲「悲愴」の第4楽章、再び(2)

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交響曲「悲愴」の第4楽章、再び(2)

- 聴衆ではなく、演奏者を楽しませる目的で -

 

前回に引き続き
チャイコフスキー作曲
交響曲第6番「悲愴」第4楽章

の冒頭に見られる「特異な書法」
(本記事内でのみ
 便宜的に「交叉奏法」と呼ぶことにする)
をきっかけに広がった世界について
書きたい。

再び(1)では、
(1) スコアの解説欄に
  何らかの詳細説明はないのか?

(2) 交叉奏法採用の理由・効果
について書いた。
今日は演奏者の視点から生まれた
興味深いコメントを紹介したい。

(3) 聴衆よりも演奏者
「ホルン吹き」の知人が、同じ
交響曲第6番「悲愴」の第2楽章に、
こんな部分があることを教えてくれた。

まずは譜面を見てみよう。
(音楽之友社のスコア
 クリックすると拡大)
Sym62hra80

注目すべきはホルンパート(黄色矩形枠)。

Aの音でオクターブの跳躍が有るのだが、
これが1st/3rdと2nd/4thで
交互に入れ替わっている。

この部分、
実際の演奏をちょっと聞いてみよう。
クルレンツィス指揮 ムジカエテルナの演奏。


わかりにくい?
では、ホルンパートだけ取り出してみよう。
譜面はこんな感じ。
(クリックすると拡大)

Sym62hr80

1st/3rd の演奏


2nd/4th の演奏

ホルンパート全体演奏

当然だが合わせて聞くと
高いAの音と低いAの音が
8分音符で刻まれているだけ。
なのに演奏者には
オクターブの跳躍を要求している。

これに対して教えてくれたホルン吹きは、
「私は、遊び心が出たのだと
 思っています。
 そもそも、
 ワルツを5/4拍子で書くのも
 変わっていますよね」
と、チャイコフスキーの「遊び心」を指摘。

そのうえで、先の第4楽章を
「2つの声部に旋律を分けて書いた」ことも
今回の第2楽章のホルンの跳躍も、
聴衆よりも、むしろ
 演奏者を楽しませる目的で
 書いたのではないかと思っています

とコメントしている。

経験豊かな上級者ならではの
まさに味のあるコメントだ。

技量不足ゆえに
譜面にかじりついて
四苦八苦していた私には、
ともて思い至らない発想だが、
ちょっと冷静に考えてみると
これは「いい曲」の
大事な要件のひとつなのかもしれない。

演奏者が楽しめる曲だからこそ
いい演奏が生まれるのだから。

 

 

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2024年3月24日 (日)

交響曲「悲愴」の第4楽章、再び(1)

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交響曲「悲愴」の第4楽章、再び(1)

- 記事から広がっていった世界 -

 

チャイコフスキー作曲
交響曲第6番「悲愴」第4楽章

の冒頭の旋律についてとりあげた、
Eテレのクラシック音楽の番組
「クラシックTV」での内容を
ここに書いたところ、
この記事をきっかけに、

* 同じような例ってほかにもあるの?
* 複数の旋律が重なって演奏されたとき
 何をメロディとして捉えるのか、
 理論的に説明できるの?
* 昔からよく知られていたことなの?
* チャイコフスキーは
 なぜそのような仕組みを採用したの?

などの疑問が、読んだ方や音楽仲間との間に
飛び交うようになり、
さらなる情報交換の輪が広がっていった。

広がったからといって
それぞれの疑問に明確な回答が得られた、
というわけではないが、ブログをきっかけに
話題が次々と展開されていくワクワク感は
ひとりでは得られないものなので、
読者や音楽仲間への感謝の思いも込めて
記録としてその内容を残しておきたい。

まずは先の記事を簡単に復習しておこう。

1stバイオリンと2ndバイオリンは
こう弾いているのに

Sym64as

聴衆は、なぜか(?)

Sym64bs

の黄色丸の音を繋げて
メロディとして認識してしまう。
まさにチャイコフスキーに
魔法をかけられたような第4楽章冒頭。
先の記事では
 演奏(音)付きで紹介している
ので、
 詳しくはそちらを参照いただきたい。
 なお、本記事の中ではこの部分を
 便宜的に「交叉奏法」と呼ぶことにする)

この記事の投稿後に得られた追加情報を
整理してみるとこんな感じ。

(1) スコアの解説欄に
  何らかの詳細説明はないのか?


(1-a) 1968年版の音楽之友社のスコア
   (以下水色部引用)

悲痛な,哀切な,嘆くような第1主題
(1から)が弦ででる。

注意すべき点は,
第1バイオリンと第2バイオリンとが
主旋律の一音符ずつを交互にひいて
(1,3)旋律からなめらかさを
奪い去っていることである

(この主題が後に90から再びでる時は,
 主旋律が第1バイオリンに
 でているから比較されたい)。

「90から再びでる時は」とあるので、
90小節目を見てみよう。

6490s

90小節で
第1バイオリンが弾いているのは、
楽章冒頭で黄色丸の音を繋げて
メロディとして認識した、
まさにそのままだ。(黄色矩形部)

それにしても
「一音符ずつを交互にひいて」
旋律からなめらかさを奪い去っている
なんて。

いずれにせよ、50年以上前のスコアに
すでにこの記述。交叉奏法は
古くから知られていた構造のようだ、
と思わず漏らしたところ
さらに古いスコアを提供してくれた方も。

奥付がなく、発行年が不明なのだが、
1957年に購入した、とのメモがある。

(1-b) 1957年以前に発行された
   日本楽譜出版社のスコア

   (以下薄緑部引用)

先づ、アダヂオ・ラメントーソ、
ロ短調四分の三拍子で、
ヴァイオリンで奏せられる
下降的な主題は、
深い思いに沈むが如き感じである。
第一と第二ヴァイオリンが
 旋律を交叉して奏する
から、
 實際の旋律は第90小節と同じになる)

Sym64s

(70年近くも前の印刷物ゆえ
 使われている漢字も含め
 時代を感じていただきたく画像も添付)

こちらにも
「第一と第二ヴァイオリンが
 旋律を交叉して奏する」
と交叉奏法の記述がある。

しかも
「實際の旋律は第90小節と同じ」
とも。

音楽之友社版、日本楽譜出版社版、
どちらのスコアの解説にも
「一音符ずつを交互にひいて」
「旋律を交叉して奏する」
との記述はあったし、
90小節目では第1バイオリンのみが主旋律、
との認識も共通だったが、
残念ながらそれ以上の解説はなかった。


(2) 交叉奏法採用の理由・効果

(2-a) 対向配置のときのステレオ効果
交叉奏法の効果について、
「ホルン吹き」の知人からは、
「当時の私のホルンの先生は、
 対向配置のときのステレオ効果を
 狙ったのかな?
 とかコメントしていました」
なるメールをもらった。
対向配置とは、
第1バイオリンと第2バイオリンが
両サイドで向き合うような配置のこと。
第1・第2バイオリン間を
一音ごとに
パタパタとメロディが動くのだから
確かにステレオ効果は期待できそうだ。

14ページからなる江田司さんの論文
(2-b) チャイコフスキー作曲
   《悲愴》交響曲をめぐる
   鑑賞指導の研究

(薄茶部は論文(2-b)からの引用)
にも

オーケストラの第1・第2バイオリンの
「対面配置」による
ステレオ音響的効果を得るため
とする考えも,2000年代に入り,
世界の著名なオーケストラが
作曲家の生きた時代の
伝統的なこの配置を採用する頃から
多く語られるようになっている

なる記述がある。

ところが、このステレオ効果、
実際には期待できないという
研究もあるようで、同じ論文内に

たとえ2つのバイオリン・パートが
対向配置であったとしても,
聴き手にはそれぞれの音進行を
ステレオ音響的には聴き取れないことを
実験結果から裏付けられている

との紹介もある。

そのうえで、江田さんは
第1楽章の出だしのファゴットの
H-Cis-D-Cis(動機X)が
曲全体を支配していて、

断定は避けなければならないが,
第2,3楽章の主題労作等から,
第4楽章のバイオリン・パートにおける
特異な書法は,
動機Xを敢えて目に付くよう配置したと
推察される
のである。

と結論づけている。

もちろん、
ほんとうの意図はチャイコフスキーに
聞いてみないとわからないが、
多くの人を惹きつける魅力が
「特異な書法」による交叉奏法にはある。

この話、もう少し続けたいが、
今日はここまで。
最後にひとつ番外のおまけを。

(XX) 番外のおまけ
記事、読みましたよ」という
知人に会った時のこと。
「交叉奏法の記事、読んでいたら
 これを思い出しちゃいました」と
おもむろにメモ用紙を取り出し、
「おわだまさこ かわしまきこ」を
二行に分けてひらがな書きをし始めた。

意味がわからずポカンとしている私に
「こうやって交叉奏法のメロディのごとく
 一文字ごとに丸をつけると・・」
Owadamasakos

赤丸でも、黄丸でも
両名の名前が成立する偶然。

チャイコフスキーから
こんな話に繋がるなんて。
思いもかけない飛躍にこそ
人との会話の醍醐味がある。

 

 

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2024年2月18日 (日)

小澤征爾さんのリズム感

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小澤征爾さんのリズム感

- 文章のリズムと音楽のリズム -

 

指揮者の小澤征爾さんが、
2024年2月6日、88歳で亡くなった。

恩師の斎藤秀雄の名を冠する
サイトウ・キネン・オーケストラ(SKO)を
創設した指揮者の秋山和慶さん
「本当の兄のように」慕った
小澤さんとの日々を

2024年2月11日の朝日新聞

240211
の記事で語っているが、
その中に、こんな言葉がある。

小澤さんの音楽の特徴を一言でいえば、
やはりあのリズム感

そして瞬発力です。

どこをちょっと緩めようとか、
ぐっと持ち上げようとか、
そうしたペース配分が
すごく上手だった。

「小澤さんの音楽の特徴はリズム感」
この記事を読んで思い出した本がある。

小澤征爾, 村上春樹 (著)
小澤征爾さんと、音楽について話をする

新潮社

(書名たは表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

村上春樹さんとの対談を記録した
単行本で370ページを越える
ちょっと厚めの本だ。

その中に
リズムに関してこんなやりとりがある。

村上春樹さんが、文章を書く方法を
音楽から学んだ、と言うシーン。

で、
何から書き方を学んだかというと、
音楽から学んだんです。
それで、
いちばん何が大事かっていうと、
リズムですよね


リズムがないと、
そんなもの誰も読まないんです。

前に前にと読み手を送っていく
内在的な律動感というか……。

機械のマニュアルブックが
リズムのない文章の典型だ、
と例を挙げなら、
文章のリズムについて、
村上さんは丁寧に説明を続ける。

言葉の組み合わせ、
センテンスの組み合わせ、
パラグラフの組み合わせ、
硬軟・軽重の組み合わせ、
均衡と不均衡の組み合わせ、
句読点の組み合わせ、
トーンの組み合わせによって
リズムが出てきます。

ポリリズムと言って
いいかもしれない


音楽と同じです。
耳が良くないと、
これができないんです。

文章のリズムについての
一連の説明を聞いたあとの
小澤さんの言葉がコレ。

文章にリズムがあるというのは、
僕は知らなかったな。

どういうことなのか
まだよくわからない。

2度見、どころか3度見するくらい
びっくりしてしまった。

あれほど音楽のリズムに敏感な人が
文章にはそれを感じていないなんて。

逆に、小澤さんほどの人が
感じていないのだとすると、
私が文章に感じているものは単なる幻!?
と疑ってしまうほど。

村上さんの言う
「文章で大事なのはリズム」
にはいたく賛同できるものの、
小澤さんの言葉を聞いて以来、
音楽に感じるリズムとは
実は別なものなのかも、
とも思うようになっている。

 

 

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