書籍・雑誌

2025年11月 2日 (日)

遺伝の常識からの逸脱

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遺伝の常識からの逸脱

- 塩基配列の変化なしに遺伝するもの -

 

武村 政春 (著)
DNAとはなんだろう
 「ほぼ正確」に遺伝情報をコピーする
 巧妙なからくり
ブルーバックス 講談社

Dnatohanandarou

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)
は、前回書いた通り、
前半、
「遺伝子の本体はDNAである」とか
二重らせん構造からの
巧妙な複製のしくみとか、
基礎知識としての
教科書的説明をしてくれている本だが、
後半、
話は意外な方向に話が広がっていく。

なので、本ブログでは
この「意外な方向」の話を
紹介したいと思っているのだが、
その前に、
どうしてもコレには触れておきたい。

2022年1月の記事
エピジェネティクス - 世代をこえて
でも記事ネタにした
エピジェネティクス」についてだ。

本書においても
エピジェネティクス 
 -「遺伝の常識」からの逸脱

なる題のコラムで取り上げられている。

最近の研究では、細胞から細胞へ、
そして親から子へと遺伝するのは
DNAの塩基配列だけではなく、
DNAという物質に生じる
〝ある化学的変化〞
もまた引き継がれる
、ということが
わかってきている。

細胞のDNAに、メチル化やアセチル化という
化学修飾が起こる。すると、
数ある遺伝子のなかであるものは発現し、
あるものは発現しないという選択が起こる。
その化学修飾のパターンがそのまま
子孫の細胞へと引き継がれることにより
たとえば、肝細胞は分裂しても
肝細胞のままでいられるわけだ。

DNAの塩基配列以外の要素
(ここでいう化学修飾のパターン)が、
細胞が分裂してもそのまま
次の細胞に引き継がれるような
現象のことを、あるいは、
この現象を研究する学問分野を
「エピジェネティクス(後成的遺伝学)」
という

従来、ある個体が、
外部からなんらかの作用を受けて
ある形質を獲得したとしても、
その形質が生殖細胞の遺伝子に
塩基配列の変化として伝わらない限り、
「獲得形質の遺伝」はありえない、
とされてきた

しかし、化学修飾のパターンが
そうした「形質」の
もとになるとするならば、
獲得形質の遺伝という現象も、
エピジェネティクスの側面から見れば
「ありうる」
ということになる。

いわば
「遺伝の常識からの逸脱」である
ともいえる。

たとえば、現在では、細胞のがん化にも
エピジェネティクスが関わっていると
考えられるようになってきたようだ。

がん遺伝子やがん抑制遺伝子の
塩基配列そのものは変化しなくても

これらの遺伝子発現を調節するための
化学修飾が異常をきたすことで、
通常は発現しないはずの遺伝子が
発現してしまったり、
ふつうは発現するはずの
がん抑制遺伝子が発現しなくなって
しまったりすることが
発がんの原因になる、
ということも知られるようになってきた。


* DNAの塩基配列は
  タンパク質の設計図ではあるけれど、
  それに基づいて何が作られ
  どう振る舞うようになるのか、
  については、
  塩基配列の情報だけが
  すべてを握っているわけではない

ということ。
* その発現に深く関わる
  化学修飾自体が、
  子孫の細胞へも引き継がれると
  考えられている

ということ。
遺伝まわりはまだまだワクワクするような
謎ばかりだ。

エピジェネティクスは、
現在の分子生物学のなかでも
特に活発に研究がおこなわれている分野

らしい。

当初は、
「常識からの逸脱」だったかもしれないが、
その研究には、今は大きな期待しかない。

 

 

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2025年10月26日 (日)

DNAは生物の設計図にすぎないのか?

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DNAは生物の設計図にすぎないのか?

- 遺伝を離れた価値の提供も? -

 

武村 政春 (著)
DNAとはなんだろう
 「ほぼ正確」に遺伝情報をコピーする
 巧妙なからくり
ブルーバックス 講談社

Dnatohanandarou

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)
は、
2020年の初頭から全世界を揺るがした
コロナ禍をきっかけに
まさに、多くの人が知ることになった
「PCR」「メッセンジャーRNA」
という言葉をスタート地点にして、
DNAを中心に
生物のしくみを論じている本だが、
学校の教科書で学ぶような内容を
わかりやすく解説したブルーバックス、
というわけではない。

前半は、
「遺伝子の本体はDNAである」とか
二重らせん構造からの
巧妙な複製のしくみとか、
基礎知識としての
教科書的説明になっているのだが、
後半、
話は意外な方向に広がっていく。

その導入は、誰もが知りたくなるような
こんな話題からだ。

PCRはいったい、
新型コロナウイルスの
「なにを」検査するのか

メッセンジャーRNA
「メッセンジャー」とは
いったいどういうもので、
なぜそれがワクチンとなったのか

コロナ禍の記憶がまだ鮮明な今、
読者を導くテーマとしては
まさにタイムリーな用語を選んでいる。

DNAとは、生物や一部のウイルス
(DNAウイルス)に特有の、いわゆる
生物の <設計図> の一つであり、
通常は
タンパク質をつくるための情報、
そしてRNAをつくるための情報を
担う物質である。

こうしたタンパク質や
RNAをつくるための情報は
「遺伝子」とよばれ、
DNAはその「本体である」といわれる。

生物の教科書的に言えば
まさにそういうことだろうが、
コロナ禍のPCR検査は、
次のようなことを多くの人に
知らしめた面もある。

DNAは、生物の体をつくるのに
重要なだけでなく、
その生物(そしてウイルス)が
そこにいるかどうか、あるいは
それがかつてそこにいたかどうか
を、
人間たちがPCRによって「検出」する
ターゲットにもなる。

その意味で、DNAはもはや、
生物学的な存在を通り越して、
社会的な存在になっているともいえる。

「そこにいるかどうか、あるいは
 それがかつてそこにいたかどうか」
は、遺伝とは直接関係がない。
でも実際に
そこで存在価値を発揮しているのは、
DNAだ。

ほんとうにDNAは、
生物の <設計図> にすぎず、
ほかになんの役割も
もたないものなのだろうか。

の視点が急浮上してくる。

物質としてのDNAがもつ
さまざまな「情報」の謎や
複製の仕組みを
詳細に解説することのみを目的とせず、
まさに書名の通り
「DNAとはなんだろう」を
根本から見つめ直そうという
独特な意欲が、最初から強く感じられる。

そもそも、DNAとはいったい、
どういう物質であって、
いかにして生物たちの
<設計図> たりえたのか。

そしてDNAは、
僕たちの知らないところで、
どのような <行動> をとっているのか。

そんな視点で語ってくれるDNAの本は
初めてだ。

そうした観点であらためて
DNAを見つめなおすことには、
<常識にとらわれない見方>
想起する意味があると、
僕はそう思っている。

どんな
「常識にとらわれない見方」が
想起されることになるのか?

それは
ほんとうにびっくりするような視点だった。
次回以降、
数回に分けて紹介していきたいと思う。

 

 

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2025年10月19日 (日)

音だけで温度がわかる?

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音だけで温度がわかる?

- 「うるさい所」は「暗闇」 -

 

集英社の雑誌「青春と読書」2025年6月号
2506seisyuntodokusyo
に掲載されている
三宮麻由子
  奇跡の食卓
  13 お茶目にお茶を

からのエピソードを紹介したい。

三宮さんは、4歳の時、
病気で失明してしまったが
今はエッセイストとしてご活躍だ。

この回では、紅茶を中心に
お茶との思い出を書いている。

その中にこんな記述があった。

テレビ朝日のドラマ「相棒」は

主人公の杉下右京警部が
英国仕込みの紅茶通で、
美しいティーカップに
高みから巧みに紅茶を注ぐ場面が
名物である。

高い位置からカップに紅茶を注ぐシーンは、
事件とは関係ないものの確かに印象的だ。

このドラマに夢中だった三宮さんは、
このシーンにある違和感を持つ。

「相棒」では紅茶を注ぐ音に
お湯特有の
ふくよかな湯気の音が混じらず、
どうしても冷水の音にしか
聞こえなかった

このシーンを見た記憶はあるが
ボーっと見ていたせいか
そんなこと考えたこともなかった。

音だけで温度がわかるものだろうか?

その後、三宮さんは、
なんとドラマの効果音の担当者さんに
本件に関し取材する機会を得る。

すると、撮影で使われたのは麦茶など、
色の付いた冷たい液体だったことが
分かった。右京さん役の水谷豊さんが
やけどしないためなのだとか。

三宮さんの違和感は正解だったわけだ。
目の不自由さを耳の敏感さがカバーし、
見える人以上のものが見えている


この話を読んでいて、以前、
目の不自由な方から直接聞いた
こんな話を思い出した。

目が見えないと、音が頼りゆえ、
道を歩くときは、
特に危険を回避するためにも
音に敏感になっているという。

車の行き来や、人の往来、
その他身のまわりの危険度は
まず音で予測・判断する。

ところが、工事現場のような
音がうるさいところに近づくと、
大きな音にかき消されて
それ以外の音が聞こえなくなってしまう。
聞こえないということは
つまり見えないことと同じ。

目の見える人の言葉で言うと、
 『急に暗闇になったような感じ』

 なんです」

なるほど。
「うるさい所」は「暗闇」か。

耳は「音」を感じるものだけれど
その耳からの情報で、
温度を感じたり、暗闇を感じたりしている。

同じ状況にいても、
見える人には見えない世界を
感じたり、見えたりしている人たちがいる。

 

 

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2025年10月12日 (日)

『動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか』

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『動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか』

- もしライオンが話せたとしても -

 

数多(あまた)ある本の中から何を手にするか。
もちろんそのきっかけはいろいろある。
テーマであったり、著者であったり、
書評であったり、知人の推薦であったり、
書店での偶然の出合いであったり。
そんな中のひとつが書名・タイトルだ。

『動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか』

この書名には、ひと目でやられた。
気がついたらもう読み始めていた、
そんな感じ。

英文タイトルも
Are We Smart Enough to Know
How Smart Animals Are ?
となっているのでまぁ直訳だがそれにしても
なんと秀逸なタイトルをつけたことだろう。

まさに
「タイトルを見ただけで読みたくなった本」
の代表選手。

フランス・ドゥ・ヴァール (著)
松沢哲郎 (監訳), 柴田裕之 (翻訳)
動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか

紀伊國屋書店
Doubutsunokashikosa

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

監訳者の松沢哲郎さんは、
本書について巻末の「解説」に
次のように書いている。

フランス・ドゥ・ヴァール氏の提唱する
「進化認知学」の本である。

この学問は、人間とそれ以外の動物の
心の働きを科学によって解明する
きわめて新しい研究分野
であり、
本書はその格好の入門書となる。

人間とは何か。動物に心はあるのか。
それを研究するにはどうしたらよいか。
そうした問いへの
明確な答えが用意されている。

400ページを超える本文には、
動物を対象にした
これまでの様々な実験・研究成果が
数多く紹介されているだけでなく、
ある種の偏見や主義に対する
著者の愚痴っぽい記述もあったりして、
話を聞いているような感じで
スラスラと読み進めることができる。

一方で、繰り返し登場するネタもあり
講演ならともかく、本にするなら
エピソードの記述の仕方と
その構成については、再整理したほうが
よりわかりやすくなったのではないか、
というのが正直な読後感。

日本語版は2017年に出版されているが、
著者のドゥ・ヴァールさんは
2024年に75歳で亡くなっている。

動物を対象にした実験と研究の成果自体
興味深いものが多いが、
その内容の詳細については
ぜひ本文をお読みいただきたい。

本ブログでは、
本を読みながら思わずメモった
3つの「言葉」を紹介したい。

(1) 「変だぞ」

SF作家のアイザック・アシモフは
かつてこう述べたという。
「科学において
 耳にすると最も心躍る言葉、
 つまり新しい発見の先触れといえば、
『わかった!(ユリイカ)』ではなくて
『変だぞ』
である」。

最も心踊る言葉は『変だぞ』。
質問、疑問こそが最大の発見、と
言われることもあるが、
探求への「入口の発見」には
確かに心踊るものがある。

 

(2) ありのままではなく
  探求方法に対して
  あらわになる自然

私たちが目にしているのは
ありのままの自然ではなく、
私たちの探究方法に対して
あらわになっている自然にすぎない

ウェルナー・ハイゼンベルク

本では、動物を相手にする
実験の数々が紹介されているが、
研究者が
最も気をつけなければならないことが、
まさにこの点であることを、
著者も最初に強調している。

具体的な事例でみてみよう。

道具への応用度をみる
「棒を拾い上げてバナナを引き寄せる」
テストにおいて、
多くのサルはそれができたのに
テナガザルにはできなかった。
すると、それは
テナガザルの知能が劣っているせいだ、と
思ってしまいがちだ。

ところがそうではなかった。

多くの霊長類にとって、
手は掴んだり触ったりするための
万能の器官だが、
地表面で生活をしないテナガザルの場合は、
むしろフックに近い働きをしており
その手では、
「平らな面から物を拾い上げられない」

棒を地面におくのではなく
つかみ易い位置にすれば
他のサルと同じような成績を示すらしい。

知能が劣っていたわけではなく、
テストのやり方が悪かったわけだ。

ありのままの自然ではなく、
探究方法に対して
あらわになっている自然にすぎない

この感覚は動物相手だけでなく、
科学全般において大事な視点だろう。

 

(3) もしライオンが話せたとしても
「人間がコウモリになったら
 どのように感じるか」ではなく
「コウモリが、コウモリであることを
 どう感じるか」を
人間は理解できるのだろうか?

オーストリアの哲学者ルートヴィヒ・
ヴィトゲンシュタインも気づき、
もしライオンが話せたとしても、
 私たちには理解できない
だろう」
と言いきったことはよく知られている。

大きくて難しいテーマだ。
コウモリもライオンも
どうしても人間視点での理解になりがちだ。
でも、光ではなく音で位置を確認する
コウモリの反響定位(物体に音波を当て、
その反響によって位置を知ること)を
発見できたのは、人間視点に縛られずに
コウモリを観察し続けた
まさに科学者の想像力の賜物だ。

ライオンになることはできない。
しかし、人間の豊かな想像力で
その世界を覗き、検証することは
可能だ。それは、
探究方法に対してあらわになっている
自然の観測に過ぎないかもしれないが、
少しずつでも理解を深めていく
その一歩であることに間違いはない。

 

 

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2025年10月 5日 (日)

ヒップホップ文化における評価軸

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ヒップホップ文化における評価軸

- 誰と何を争っているのか -

 

雑誌「世界思想」の2025年春号
25springsekaishiso
に掲載されている
「ヒップホップ文化は、争いつつ争わない」
は、文筆家のつやちゃん
ヒップホップ文化における「争い」を
論じたものだが、
いくつか印象に残るキーワードがあったので、
メモとして残しておきたい。

ラッパーがスキルを競う
MCバトルについてこう書いている。

MCバトルの勝敗を決定づける
最も重要な要因は、
どれだけ観客が
「このラッパーの勝ちを見たい」と
思うかなのだ。

社会からはじかれた者たちが
マイク1本で成り上がっていく競争の中で

「次もまたこのラッパーを見てみたい」
という夢にベットする(=賭ける)のが
このカルチャーに住むオーディエンスの
無自覚的な欲求

らしい。
夢にベットする(=賭ける)とは
まさに夢のある表現だ。

著者のつやちゃんは、
MCバトルを含むヒップホップ文化における
戦いには「三層の戦いがある」と
解説を続けている。

まずは自分と対戦相手との戦いである。
これはいわゆる「Battle」であろう。

また、
ラッパーはルーツや価値観を見つめ直し
ラップする過程で
自分自身と戦いもするが、
これは「Struggle」と表現される。

そして、
そのようなラッパーたちを見て
ベットしたオーディエンス同士が
派閥としてぶつかり合う戦いは
Conflict」が近いだろうか。

これら中心部から波状に広がる
Struggle → Battle → Conflict
という三層の戦いがヒップホップに
息づいている。
この中で、
Struggleにのみ他者性の介在が弱いことが
注目点だ。

プレイキンにしろラップにしろ、
ヒップホップという
カルチャーにおいては、
オーディエンスからの
リスペクトの蓄積と
未来にベットする欲望

絡み合うことでの合意形成が
評価軸を決定づけている。

戦いというと、通常、
他者とのBattleが注目されがちだが、
それのみが評価対象ではない、
ということらしい。

争うことの根源にあるものが
「自分自身との」Struggle
であり、
それをジャッジするオーディエンスも、
Struggleの観察を通して
ラッパーやダンサーの未来に
夢を託しているからなのだ。

誰と争っているのか、
何を争っているのか、
Battleのみに注目することなく
争いの質にも目を遣りたい。

自らの美学と対峙しながら
もがき這い上がる
Struggleの精神さえあれば、
醜い争いには堕さない。

オリンピック種目となった「ブレイキン」は
スポーツの競技として
それ自体が目的となってしまったが、
カルチャーとしてのブレイキンは手段で、
そもそもは
リスペクトに価値が置かれているものらしい。

ヒップホップ文化を見るとき、
まさに題名にある
「争いつつ争わない」の価値を、美学を
Struggle → Battle → Conflict
の3層を思い出しながら考えてみたい。

でもそれは、ヒップホップでの「争い」に
限らない視点でもある。

 

 

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2025年9月28日 (日)

取材におけるたった一つの正攻法

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取材におけるたった一つの正攻法

- 取材方法自体の多様性 -

 

岩波書店の雑誌「図書」2025年4月号
2504tosyos

ノンフィクション作家、
ジャーナリズム論の伊澤理江さんが
 ジャーナリズムと多様性

なる題で
「取材」について書いている。
(以下水色部、本文からの引用)

話は、伊澤さんがある事件の重要人物を、
取材のため訪問するところから始まる。

玄関チャイムを鳴らすが反応がない。
近所を少し歩いたあと、戻ってきて
再度チャイムを鳴らす。

年嵩(としかさ)の男性が立っている。
グレーのスウェット。
私が名乗ると、元公務員は
すぐに「あっ」という反応になった。

以前出した手紙は
読んでくれていたようだ。

私の名前を耳にした途端、
この来訪目的も理解したのだろう。

しかし、男性は取材を拒む。
「今日のところは勘弁してほしい」
と。

仕方ないな、と私は思った。

私が追っているこの事件については、
話したくない事柄もあるだろう。
事前に手紙を出していたとはいえ、
いきなりの訪問だ。

驚きもしただろうし、
申し訳ない気持ちで
いっぱいになった。

この話を聞いて、
ベテランの先輩記者は
咎めるような口ぶりでこう言う。

「えー? それで引き下がったの?
 なんでドアが開いた瞬間に、
 自分の身体を隙間に
 挟まなかったの?」

先輩は
断られたところから取材は
 始まるんだ。
 断られたからって
 質問を止めていたら、
 真実をつかめない

と付け加える。
しかし、伊澤さんは

私自身は
「真実をつかむために、
 押し売りセールスのような手法が
 本当に不可欠なのだろうか

というモヤモヤを拭えずにいた。

伊澤さんは、先の取材対象の男性に
手紙を送り続ける、という方法を取る。
その思いが通じたのか、後日、
向かい合っての
数時間にわたる取材に
応じてもらえる
こととなる。

その席で彼は、
それまでに私が送った手紙や資料を
ナイロンのビジネスバッグから
取り出した。

自分なりに事件を分析し、
考えをまとめたと思しき
何枚もの手書きメモも広げた。

私の送った手紙や資料を
ちゃんと読み込んでくれていたのだ

そのときの伊澤さんの喜びは
想像に難くない。

あのとき、玄関先で
無理強いする必要はなかった。

取材に
たった一つの正攻法というものはない

伊澤さんは、
日本のジャーナリズムが
どこか一本調子になっていること

男性によって形づくられた
文化になっていること、を
まさに現場で痛感しているようだ。

多様な社会を多様に伝えるためには、
ジャーナリストもその取材方法も
多様でなければならない。

報道というと、
テーマの取り上げ方や取材内容、
視点や切り口ばかりが
話題になることが多いが、
取材方法そのものに
もう少し光を当てた報道があっても
いいのではないか。

単に手段だけでなく
報道内容の信頼度などについても
伝わることは多い気がする。

 

 

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2025年9月21日 (日)

知能検査で調べられるもの

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知能検査で調べられるもの

- 知能だけでは解決できない -

 

東京大学出版会の雑誌「UP」2025年6月号
2506upchinou

臨床心理学、心理士の
高岡佑壮(ゆうしょう)さんが、
 知能検査で「能力」は調べられない
なる記事を寄せている。

「知能(=頭の使い方の特徴)」は
心の不調(強い不安や怒りなど)と
関係してくる場合がよくあるため、
心理士の仕事において
知能検査を行う機会は多いらしい。

一方で、知能検査を通して
自分や自分の子どもの「能力」を知りたい
という相談もよく受けるようだ。
ところが、この要望に対しては
「弱腰」になってしまう高岡さん。

その理由をこうコメントしている。

「仕事や勉強などの、
 『生活の中でのいろいろな課題』を
 こなす能力の高さは、
 知能検査ではあまり正確に
 調べられない
から」です。

知能を調べる検査で
なぜ「課題をこなす能力」を
正確に調べられないのか。

大まかなイメージの話ですが、
知能検査は「クイズ番組」と
少し似ています。

そこには、仕事や勉強のような
「生活の中での課題」とは
かなり違う特徴がある。

それは、
「やるべきことを、一つひとつ、
 はっきりと指示される」
という特徴です。

それに対して、
仕事や勉強の課題においては
何を解決すればいいのか、
どう解決すればいいのか、
どういう手順で解決すればいいのか、
それ自体が
明確に指示されていない場合も多い。

そのことを高岡さんは
「自由度が高い」という言葉で
表現している。

「やるべきことを細かく
 指示してもらえる検査の問題」に
正確に答えられる人
(=知能が高い人)が、
自由度が高い状況でも同じように
優れたパフォーマンスを発揮できるとは
限りません。

思い当たることは多い。

自由度が高いということは、
「その課題をこなすために
 どのような要素を活用するべきか」
が、あまりキッチリと
決まっていない
ということです。

なので、人は、
状況に合わせた多くの要素を活用して
まずは問題を分析するところから
取組むことになる。

活用できる要素にはどんなものがあるか。
「知識」「経験」「人間関係」
「経済的な安定」「身体の健康」
などのキーワードを挙げている。

このようなたくさんの要素が 
「総動員」されることで発生するのが、
いわゆる能力なのです。

もちろん、知能だって
総動員されるべき能力のひとつではあるが、
それはその一部にすぎない。

(a) 個別に分解された問題に答える能力

(b) 要素を総動員して
  課題を分析し、問題解決のための
  手順と手段を明確にする能力
は、ずいぶんタイプの違う能力だ。

知能検査の対象というだけでなく、
日本の学校教育では(a)重視が続いている。
入試問題での成績もあくまで(a)に対する
能力判定だ。
問題には必ず正解があり、課題も解き方も
細かく指示されている。

一方で、
社会に出ると(b)を要求されることが多い。
(a)が好成績だからと言って、
(b)の能力が高いとは限らない。

知能検査で測れるような「知能」と
「問題解決能力」がどう違うのかを
たいへんわかりやすい言葉で
シンプルに表現してくれているので、
ここにメモとして残しておきたい。

 

 

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2025年9月14日 (日)

久石譲さんの言葉をメインに

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久石譲さんの言葉をメインに

- 作品と時代との共鳴 -

 

養老 孟司, 久石 譲 (著)
脳は耳で感動する

実業之日本社
Nouhamimide

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)
は、
養老さんと久石さんの対談本だが、
その中から

映画における「音の同期」
感覚器は必ず二つ存在している
アルファベットと漢字の違い
貴重な古い標本を前にして
「情報化」と「情報処理」

について紹介した。

これまでは主に養老さんの言葉からの
引用が多かったので、
本の紹介の締めとしたい今回は
久石さんの言葉をメインに
印象に残ったものを紹介したい。

(1) メロディー・ハーモニー・リズム

音楽を構成する要素は、
「メロディー」と
「ハーモニー」と
「リズム」です。

「リズム」というのは
刻んでいくわけですから
時間の上に成り立っています。

「ハーモニー」は響きです、
その瞬間、瞬間を輪切りで捉える、
いわば空間把握ですね。

では「メロディー」は何か。
時間と空間の中の「記憶装置」なんです。
時間軸上の産物であるリズムと、
空間の産物ハーモニー、
その両方を一致させる認識経路として、
メロディーという
記憶装置があるわけです。

音楽が「時空」の中で
どう成立しているのかを
わかりやすく表現してくれている。
同じ芸術でも絵画とはどう違うのか。
時間軸の有無という点で、
考えてみる視点も与えてくれている。

(2) 静けさが耳に痛い

香港から移住した中国人にとって、
大自然に囲まれたカナダの異常な静けさが
落ちつかなかったらしい。
うるさくて耳が痛いんじゃなくて、
静けさが耳に痛かったんですよ

うるさい環境の方が落ちつく、というよりも
賑やかな街の喧騒が懐かしかったのだろう。
養老さんが繰り返すように、
どちらがいい悪いではないが、
「静けさが耳に痛い」という表現は
ちょっと書き留めておきたい。

(3) 言葉の方向性と力

言葉について僕が感じるのは、
使っている言葉の方向が、
限られた一方向にしか
向かなくなっているのではないか
ということですね。

とくに若い人たちを見ていると
言葉が何かを表現するもの、
伝えるためのものではなくで、
自分を慰めるものになっている
ような
気がするんですよ。

人に対しては呪いの言葉のような
使い方をするのに、
自分は守ってもらいたい、
慰めでもらいたい…。

それってちょっと変じゃないかと思う。
そういう意味で、
言葉がカをなくしていますよね。

言葉が表現のためではなく、
自分を慰めるためのものになっている?

言葉の弱体化は、
いろいろな面から語られているが、
この視点はちょっとおもしろい。

(4) 作品と時代との共鳴

全然違う分野であって、相互に
話し合いをしているはずもないけれど、
そこに何か時代との共鳴感が
通奏低音のように流れている


いい創作というのは
そういうものではないか
という気がするんですよ。

村上春樹『海辺のカフカ』2002年9月刊行
宮崎駿『千と千尋の神隠し』2001年7月公開

村上春樹『アフターダーク』2004年9月刊行
宮崎駿『ハウルの動く城』2004年11月公開

村上春樹『1Q84』2009年5月刊行
宮崎駿『崖の上のポニョ』2008年7月公開

久石さんは、
ほぼ同時期に発表された文芸作品と映画を
例として並べ、

作家というのは
自分の中から湧き上がるものを
自由に形にすればいいわけではなくて、
やはり社会の影響と
無縁ではいられない。

その時代の空気の中で
生み出すべきものがある

と述べている。

宮崎さんも村上さんも、
つねに今という時代に寄り添って、
なおかつそこから普遍的なものを
探している気がします。

大衆性と芸術性の関係を
常に強く意識し、悩みながらも
積極的に創作活動を続けている
久石さんならではの視点といえるだろう。

いい創作には時代との共鳴感が
 通奏低音のように流れている
」は
久石さんの日々の悩みと思いが
詰まった言葉として、読者に響いてくる。

 

 

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2025年9月 7日 (日)

「情報化」と「情報処理」

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「情報化」と「情報処理」

- クリエイティブな仕事とは -

 

養老 孟司, 久石 譲 (著)
脳は耳で感動する

実業之日本社
Nouhamimide

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)
は、
養老さんと久石さんの対談本だが、
その中から

映画における「音の同期」
感覚器は必ず二つ存在している
アルファベットと漢字の違い
貴重な古い標本を前にして

について紹介した。

今日は、情報化と情報処理について
養老さんが語っている言葉を
紹介したい。

ある新種の虫の特徴を
言葉にして記載することを例に、
話を始めている。

「頭がこうなっています」
ということを説明するためには、
同じ仲間の同じ種類の
他の個体を見ていくとどうなっているか、
他の個体には当てはまることは何で、
当てはまらないことは何か
といったことを全部知っていないと
いけないんですよ。

つまり、何が書くに値するか
ということがわかるまでには、
相当の種類、数を見てないといけない。
それが一番ペースにある

何を書いて、何を書かないのか。
他のものと違う部分を、
パターン認識して言葉にしていく。
そういう作業を、養老さんは
「情報化」と呼んでいる。

たかが一匹の虫のことを
書くだけだろうと
思うかもしれませんが、
「情報化」というのは、
えらく時間がかかって、
えらく大変なことなんですよ。

自分が見ている世界を
言葉で表現しようとしたとき
それだけを見ていても言葉にはできない。

他のことをたくさん知っていて、
しかもよくわかっているとき、
初めて見ている世界の特徴がわかり、
的確な表現ができるようになる。

なるほど、それを「情報化」と呼ぶなら
それは確かにたいへんなことだ。

これに対して、
あの人はこう言っている、
この人はこう言っている、
これとこれは
理屈でいえは矛盾しているだろうとか、
あそこにはこう書いてあったとか、
そういう他の人の言っていることや
書いていることを
上手に整理してまとめていくのは
「情報処理」
なんです。

養老さんは、「情報化」と「情報処理」を
このように明確に区別している。
こう見ると、
creativity(創造力・独創力)とは
「情報化」にこそあることがよくわかる。

今の人はよく
「クリエイティブな仕事をしたい」
とか言う。
言うわりにはみんな
情報処理ばかりしている


ネットで検索したりすることを
情報化だと思っている人が多い。

自分で考え出す、自分でつくり出す
ということをしません


情報処理がどんなに上手になっても、
情報化が
できるようになるわけじゃない。

「何が書くに値するか
 ということがわかるまでには、
 相当の種類、数を見てないといけない」
情報化することの、できることの肝は
まさにこの点だろう。
目の前のことだけ見つめていても
その特徴はわからないのだ

 

 

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2025年8月31日 (日)

貴重な古い標本を前にして

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貴重な古い標本を前にして

- 「解剖すべき」の発想 -

 

養老 孟司, 久石 譲 (著)
脳は耳で感動する

実業之日本社
Nouhamimide

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)
は、
養老さんと久石さんの対談本だが、
その中から

映画における「音の同期」
感覚器は必ず二つ存在している
アルファベットと漢字の違い

について紹介した。

今日は、
養老さんの貴重な体験談を紹介したい。

虫好きな養老さんは、
ロンドン自然史博物館に行って
よく虫の研究をしているらしいが、
ある虫のことを調べていたとき、
こんな経験をする。

日本の虫なんですが、
日本の専門家も外国の専門家も、
それは19世紀の終わりに、
あるロシア人が名前をつけたものと
同じ種類だ
、という見解だった。

ところが、僕はそれと
非常によく似た標本を
パリの博物館で見せてもらった。

そちらは1920年にフランスの専門家が
名前をつけていた


そこで、こいつは
ちょっとおかしいなと思った。

同じ種に正式な学名が複数ついてしまった
いわゆる「シノニム」と呼ばれるものなのか

あるいは別の種類なのか?
もし同じであれば、先につけられた方が
学名としては優先されることになる。

さてさて同じ種類なのだろうか?

その時、古い虫の標本を前にして、
僕はどうしようかとちょっと悩んだ。

「なんだ?」と
博物館の若い研究者の人が言うから、
「こういうわけで
 これを確認したいんだけど、
 確認するにはこの標本を
 解剖しなきゃいけない

と言ったんだ。

博物館の標本で、
古い大事なもの
でしょう?
僕がバラしてしまっていいのかな、
という気持ちがあったわけですよ。

こんな養老さんに博物館の人は即答した。

そうしたら、即座になんと言ったか。

「解剖しろ」と。

しかも、ただ解剖していいと
言うんじゃないんですよ。
"You should"
「しなきゃいかん」と言うんだ。

これにはさすがの養老さんも
「びっくりしたというか、教えられた」
と言っている。

仕事として考えれば、
大事な標本がチャラです。

だけど、これを調べれば
はっきりした事実が一つわかる。
だから
「しなきゃいかん」と言うんです。

(中略)

日本人はそういう時に、
別のことをいろいろ考えます。
貴重な標本なんだから、
残しておくことが大事だろう

とかね。

確かに、古い標本を前に
「解剖すべきだ」はなかなか言えない。

久石さんも「残しておくことが大事」の
気持ちはよくわかる、とコメントし
次のように続けている。

それを解剖して得られる知識の方が
大事に取っておいて、
長く保(も)たせるよりも
価値があるという発想は、
日本人にはないですね。

こういう、イギリスの経験論的発想が
行動や実践を重視し、理論や信念よりも
結果や有用性を基準に物事を判断する
米国のプラグマティズムに
つながって行くことになるようだが、
いずれにせよ、
その判断には考えさせられることが多い。

そういうところが
あの文化は奥深いんですよ。

そうせざるを得ないことを、
きちんとやらなきゃタメだよと、
そこのところは
非常に冷めた目を持っている

養老さんは、
「日本は基本的に、
 わけのわからないモヤモヤの方が
 大事なんだという思いが強い

とまさに養老節で節を締めている。

 

 

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