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2024年12月22日 (日)

後日に書き換えられたかも?

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後日に書き換えられたかも?

- 記憶が鮮明なればこそ -

 

いまや貴重な存在になってしまった
「大きな書店」のカウンタ横にあった
小冊子
100demeichotekefrees
から、印象的な言葉を
前回に引き続き紹介したい。
(以下、水色部は小冊子からの引用)

今日は、

安田登(能楽師)
古典の不思議に出会った瞬間


から。

安田さんは、中学時代の思い出を書いている。
読書家で物知りな彼女がいた安田さん。
彼女の話を理解するために本を読み始めた。

彼女との書店デートで見つけたのが
本書、『詩経』だった。

何気なく手にした本書の中に
一日見ざれは三月の如し
という句を見つけて驚いた。

思春期の男子である。

毎日でも彼女に会いたい。触れていたい。
一緒にいたい。
そんな自分と同じことを
数千年前の人間が思い、
しかもそれを書き、
さらにそれをいま読むことができる。

中国の古典、五経のひとつ『詩経』に載る
恋人とたった一日会わないだけで、
三か月も会っていないような気持ちになる、
という意味の詩句のその内容と
千年単位という時間スケール
圧倒される安田少年。


その日の書店の景色は
いまでも覚えている。
天気も覚えている。
匂いも覚えている。
隣にいた彼女のことも覚えている。

むろん、それは後日に
書き換えられた部分もあるだろうが

それでもその場の情景が、
そっくりそのまま、
自分の脳裏に
焼き付いたほどの衝撃だった。

「それは後日に書き換えられた部分も
 あるだろうが」
が読んでいて妙に印象に残った。
そう、そこまで鮮明な記憶であっても、
というか鮮明な記憶であるからこそ
後日書き換えられることは
確かにあるような気がする。

記憶って過去のことではあるが、
思い出すのはいつでも今なのだから、
今の気持ちがどうしても影響してしまう。

なので鮮明なればこそ
その強い印象によって書き換えられる機会が
多いのかもしれない。
個人の記憶ってその程度のものだ。
そこに正しい、間違っているを持ち出しても
あまり意味はないだろう。

書き換えられたかも?
そう思う心の余裕があれば十分だ


あの読書家の安田さんに

さまざまな名著に出会えたのは
ひとえに彼女のおかげである。

とまで言われた彼女さん。
今、どこでどうして
いらっしゃることだろう。

 

 

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