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2022年8月 7日 (日)

西国分寺 東山道武蔵路

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西国分寺 東山道武蔵路

- 武蔵国は東山道から東海道へ -

 

前回
今から1200年以上も前に整備された
五畿七道について触れたが、

 七道は古代官道の名であると同時に
 諸国はいずれかの道に属すため、
 地方の行政区画ともなっている。

と書いた。

さて今回立ち寄った「姿見の池」がある
西国分寺付近は武蔵国となるが、
武蔵国は七道のうち東山道に配属された

ところが、
上野国(こうずけのくに)と
下野国(しもつけのくに)を通る
東山道の本道からは
南へ大きく外れた位置にあるため、
上野国の新田駅(にったのえき)付近から
武蔵国府に南下する支路が存在したことが、
奈良時代の歴史書
「続日本紀」に記されている。

この道を現在では
東山道武蔵路と称している。

現地の案内板には
こんなわかりやすい地図があった。

P6111994ss

地図を見れば明らかなように、
東山道武蔵路を往復することは
交通上かなり不便だ。
そこで武蔵国は宝亀2年(771)に
東山道から東海道へ所属替えとなる。

つまり771年には、東山道および武蔵路、
そして東海道が
すでに整備されていた
わけだ。

これにより駅路としての東山道武蔵路は
使命を終えることになるが、
発掘調査の成果から、
その後も武蔵国内の南北交通路として
平安時代の終わりごろまで
使用されていたことがわかっている。

 

さて、この東山道武蔵路の発掘調査は、
JR中央線の北側、恋ヶ窪地区だけでなく、
JR中央線の南側、西国分寺地区
でも行われている。

そちらにも回ってみよう。

国分寺市泉町二丁目
(旧国鉄中央鉄道学園跡地)で行われた
平成7年(1995年)の調査では、
東西に側溝を持つ
幅12mの直線道路が南北340mにわたって
発見された。

今は、遺構が一部展示施設となっている。

P6111997s

柵の中はこんな感じ。
当時の道路造成面を型取りして
復元したレプリカが展示されている。

P6111998s

道の側溝は主に平地を通る
古代道路の両端に設けられている。
路面の排水を目的としているほか、
溝によって
官道である道路の幅(範囲)を示したもの
考えられているとの説明がある。

展示施設を含めた泉町二丁目には、
幅15m、長さ400mの範囲で、
舗装した路面に当時の道路幅と
側溝の位置を表示したエリアがあり
展示施設から武蔵路の一部を
まっすぐに見通すことができる。

P6111996s

武蔵路発掘の話を知らないと、
単に「広い直線上の空き地」にしか
見えないが。

P6112000s

と言ってもわかりにくいので、
Googleの航空写真を借りて、
上空から眺めてみよう。
これを見ると
発掘による保存エリアが明らかだ。

Gmap1s

赤い星印が、遺構の展示施設。
そこからまっすぐに南方向、
赤い点線が囲まれたエリアが
発見・発掘されたエリア。

北側の泉町二丁目(西国分寺地区)、
そのすぐ南、短い
西元町二丁目(旧第四小学校跡地区)
どちらも今は
国史跡(くにしせき)に指定されている。

 

「野川に沿って歩こう」と
始めた「ぶらぶら散歩」だが、
今回はまだ野川にまで合流できていない。

五畿七道から見えてくる
1200年前の律令国家のパワーと
技術に驚かされて
すでに3回も書いてしまった。

さて、次回は野川に合流できるだろうか。

 

 

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