西国分寺 駅制と五畿七道
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西国分寺 駅制と五畿七道
- 1200年前の道、東山道 -
前回
「姿見の池」について書いたが、
そこにあった案内板に
「国指定史跡 東山道武蔵路跡」
についての説明があった。
これ、たいへん興味深い内容だったので
少し紹介したい。
まず、基礎知識としての
「五畿七道」から。
天皇を中心とする古代日本の律令国家は、
7世紀後半から8世紀前半にかけて、
国の支配体制を全国に及ぼすために、
都のある五畿(畿内5ヵ国)と、
諸国の国府を結ぶ
放射線状に伸びる
七道(しちどう:東海道、東山道、山陽道、
山陰道、北陸道、南海道、西海道)を
整備した。
案内板には
延喜式(えんぎしき:平安時代)を
もとに復元した駅路として
下記の地図がある。
そしてそこには、
総延長は実に6300kmにも及び、
駅路の整備は
国家の威信をかけた
壮大なプロジェクトだった。
との説明が添えられている。
地図の赤い線。
今見ても実にreasonableなルートだ。
七道は古代官道の名であると同時に
諸国はいずれかの道に属すため、
地方の行政区画ともなっている。
しかも単に道路を通しただけではない。
「駅制」
七道には原則として
30里(16km)ごとに
駅家(うまや)が設けられ、
緊急の官用通信のために
駅馬が飼育された。
各駅には国司の補助要員として
駅務を行う駅長が任命された。
このような古代における
公使・官人による
中央と地方との交通・情報伝違の制度を
駅制と呼び、
このことから七道は
駅路(えきろ)とも言う。
駅路は目的地を最短距離で結ぶために、
必要に応じて山を切リ通したリ、
湿地を埋め立てるなど、
可能な限り直線的に設定されていたようだ。
さて、この東山道の一部として整備された
東山道武蔵路。
姿見の池のあるこの周辺では
恋ヶ窪谷の東山道武蔵路として
平成9年度(1997年)に、
発掘調査が行われた。
ここの道跡は、
丸太で枠をつくり木抗でおさえ、
粗朶(そだ:アシや木の枝)を敷き、
10-20cmの礫(れき)を敷き詰め、
さらにローム主体土と
黒色土を交互に積み重ねる
「敷粗朶(しきそだ)工法」と呼ばれる
版築(はんちく)道路の構造だった。
これは湧水が多い谷の
湿地に対応するためと考えられ、
直線道路を構築するための
古代の土木技術を知る
貴重な資料であるとともに
当時の恋ヶ窪谷の自然を
うかがい知ることができる。
敷粗朶工法による版築道路。
湿地帯での路面確保の工夫が
ちゃんと施されていたわけだ。
もう一度書く。
日本に6300kmもの幹線道路が
整備されていたのは
今から1200年以上も前の話だ。
鎌倉時代のエピソードに由来する
「一葉松」の伝承から見ても
400年以上も前。
しかも、土木技術だけでなく
通信手段についても確立しており、
駅路に設けられた「駅家(うまや)」に
準備されている馬を乗り継いで
使者(駅使)が
中央からの命令文書である「符(ふ)」や、
地方から都への上申文書である「解(げ)」
などを迅速に運んでいた。
おそるべし、奈良時代。
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