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2022年2月27日 (日)

体が、成功はイヤだと言った

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体が、成功はイヤだと言った

- 「体にとっていいこと」があるはず -

 

2022年2月20日、
北京オリンピックが終わった。
3月4日からはパラリンピックが始まる。

アスリートたちの超絶としか
言いようのない技の数々は、
もうそれだけでほんとうに魅力的だ。

一方で、
オリンピックがかかえる様々な問題や疑惑、
マスコミの報道姿勢、
そこに群がる、経済的効果にしか
興味がない人たちの姿を見ていると
オリンピックという形そのものを
根本的に見直す時期に来ていることは
間違いない。

究極をめざす競技者の姿を
「アスリートファースト」の競技会で
見られることを待ち望んでいる。

さて、大きなスポーツの大会を目にすると
いつも思うことがあるので
今日はそのことを書きたいと思う。

 

スポーツに限らないが、
「練習のときはできていたのに、
 本番では失敗した」

という言葉をよく耳にする。

その理由については
「緊張してしまって・・・」
「あがってしまって・・・」
「オリピックの悪魔が・・・」
といったお決まりの言葉で
わかったように語られることが多い。

しかし、冷静に考えると

(a) 練習のときはできていた。
(b) 本番で成功すれば報酬も大きい。
 (この場合の報酬は、
  本人の達成感といった
  精神的な喜びはもちろん、
  関係世界における名誉や
  賞金等の金品など、
  かなり広い意味で使っている)
(c) 本人も関係者も本番での成功に向けて
  万全の体制を整えている。

の条件が揃っていながら
理由はともかく結果として
 「体が成功するように動かなかった」
ということが発生したことになる。

つまり、体以外は成功を目指しているのに
最終的に
 「体が、成功はイヤだと言った」
わけだ。

本人の強い強い意志や、
成功によって得られるであろう多くの報酬を
すべて捨ててでも、
「普段はできることを
 今はできないほうがいい」
と体が判断した
ということになる。

どうしてそんな判断をしたのか? 
ふつうに考えれば
「できないほうが、
 体にとっていいことがあるから」

と考えるのが一番自然だ。

成功だって、勝敗だって、
名誉だって、報酬だって、
すべて我々が作ってきた価値感にすぎない。

そこにおける不成功は
「失敗」とか「オリピックの悪魔が」
といった言葉とともに
「負けた」のひと言で簡単に
片付けられてしまうことが多いけれど、
実はその不成功の裏には
成功で得られる価値以上の
「体にとっていいこと」

あったのではないだろうか。

自分たちが勝手に作った「成功」という
価値観に囚われすぎて、
だれもそれを見ようとしていない。

なので未だにだれも
言葉で表現できていないけれど、
「不成功」によってもたらされる
「体にとっていいこと」の価値は
実はすごく大きいのではないか
と思っている。

生物として
「体が反応したこと・判断したこと」

頭で考えたりすることよりもずっとずっと
生きることの根幹に関わることが多いから。

 

 

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