最初にまず交換したかった
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最初にまず交換したかった
- 猿に労働はない -
昨年2020年4月の緊急事態宣言以降
「不要不急」と「経済活動」の関係について
いろいろな議論を耳にする機会が増えたが、
それらを聞きながら
「三浦雅士さんは
もっとおもしろいことを
言っていたのに」
と三浦さんの古い著書を思い出すことが
多かった。
今日はその部分を紹介したい。
本はこれ。
三浦雅士 (著)
考える身体
NTT出版
(書名または表紙画像をクリックすると
別タブでAmazon該当ページに。
以下、水色部は本からの引用)
初版は1999年の年末。
書き下ろしではなく
新聞や雑誌に発表した記事を
改めてまとめた一冊だ。
この本の中に、こんな記述がある。
普通は思われている。
だが、ネアンデルタール人から
クロマニヨン人への決定的な飛躍は、
むしろ逆に、交換が欲望を生み、
必要を生んだことを教えている。
必要だから交換したのではなく、
交換したいから必要になった!
そして、事実、多くの学者が、
共同体間の接触が欲望を生み、
その欲望が
労働をもたらしたと考えている。
すなわち、農産物に余剰が生じたから
交換したのではない。
交換したかったから
余剰を作るように
努力したのだというのである。
どこでどう学んだのか
「余ったものを交換したのが商業の始まり」
のように思い込んでしまっていたのは
いったいどうしてなのだろう。
それから
その交換の場として集落が成立する。
さらに、そこで交換するための物を
生産するために、農業が始められ、
漁業が始められるようになった。
つまり、農村が発展して
都市になったのではない、
逆に都市が農村を生んだのだ。
「余ったから交換した」のではなく、
「交換したいから余らせるようになった」
なぜそんなことがわかるのか?
実は本を丁寧に読んでも、
この本だけでは
そう言えるようになったことの根拠は
よくわからない。
それでも、
この視点を提供してくれた価値は大きい。
たとえば人類学者の山極寿一は、
類人猿と人間との違いは
狩猟採集したものを巣に持ち帰って
再分配するか否かにあると言う。
その場で食べたいという欲望を抑え、
他者が獲得したものと合わせて、
それらを分配し直すことを
するか否かにあるというのだ。
山極さんの話は、以前
「円くなって穏やかに同じものを食べる」
という題で本ブログでも紹介した。
独占しないことと、分配、交換は
もちろん深い関係があると思うが、
生物の進化や生物社会の変化の中で
それらはどんな役割を演じたのであろう。
「交換したかった」を前提として
以下の文と読むと、まさに「労働」が
これまでとは全く違う響きをもって
見えてくる。
ただ人間だけが苦しんででも
何かを獲得しようとする、
すなわち労働するのである。
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