オーストリア旅行記 (56) ウィーン会議とフランス料理
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オーストリア旅行記 (56) ウィーン会議とフランス料理
- 胃袋を掴め -
マリア・テレジアの初回、
スペイン乗馬学校を紹介した。
王宮内にある室内馬場は、
「馬場」とはいえ
2層のバルコニー席で囲まれた
シャンデリアの下がる
優雅な空間だ。
ここを「馬場」ではなく、
別な用途に使っていた時期がある。
フランス革命とナポレオン戦争という
ヨーロッパ大混乱ののち、
秩序の再建と領土分割を目的として
開催されたウィーン会議(1814-1815)。
この長い会議の期間中、
舞踏会場として使われたのが、
この室内馬場だ。
有名な
「会議は踊る、されど進まず」
と言われたまさに「踊る」の会場。
このウィーン会議、
青木ゆり子 (著)
日本の洋食
洋食から紐解く日本の歴史と文化
(シリーズ・ニッポン再発見)
ミネルヴァ書房
(書名または表紙画像をクリックすると
別タブでAmazon該当ページに。
以下、水色部は本からの引用)
を読んでいたら
フランス料理との関係で
たいへん興味深い記述があった。
街歩きの際に撮ったスナップ写真を
挿絵代わりに挿入しながら、
今日は料理の話を紹介したい。
最初に簡単に、
フランスとフランス料理の関係を
見ておこう。
フランス料理と呼ばれる今の料理は
フランスの伝統的な料理
というわけではない。
【イタリアからやってきた
フランス料理】
ヨーロッパをはじめ、
日本を含む世界中の多くの国で
外交儀礼の際の正餐として
採用されています。
しかし、
16世紀までのフランスは
貴族でさえ手づかみで
がつがつと食事するような
野暮なマナーしかない国でした。
ナイフ・フォークを使った食事など
洗練された食事作法が
取り入れられたのは、
国王アンリ2世のもとに
イタリアから嫁いだ
カトリーヌ・ド・メディシスと
その専属料理人が
フランス王室にやってきてからの
ことです。
そんな
フランスの王宮でのみ供されていた
特別な料理が
フランスの街の中に広がっていくのには
歴史的な「あのできごと」が
大きなきっかけになった。
【料理が広がるきっかけ】
フランス革命によって
王宮を追われた料理人たちが
街に出てレストランを開き、
フランス料理は
18世紀から19世紀にかけて
彼らの活躍で
その質がめざましく向上しました。
フランス革命による
「王宮を追われた料理人たち」によって
フランスの街に広がり始めた
「フランス料理」。
そして1815年、
ウィーン会議が開催される。
【ウィーン会議】
脚光を浴びる出来事が起こりました。
1815年から1816年にかけて
オーストリア帝国の首都
ウィーンで開催された
「ウィーン会議」です。
フランス革命後に
軍事独裁政権を樹立した
ナポレオン・ボナパルトは、
ナポレオン戦争によって
一時期∃-ロッパ大陸の
ほとんどを征服しましたが、
結局、失敗して失脚。
その結果
ヨーロッパの国境はスタズタになり、
戦後処理を話し合うために、
フランスと、
∃-ロッパ列強国だったイギリスや
ロシア、プロイセン、
オーストリアらの代表が
集ったのが
この国際会議の目的でした。
約1年におよぶ会議の期間中、
フランスの外交官の
お抱え料理人が大活躍する。
【敗戦国の宴会戦術】
シャルル・モーリス・ド・
タレーラン・べリゴールが出席し、
会議期間中にしばしばお抱え料理人の
アントナン・カレームの手による
夕食会を開催して各国の有力者を
もてなしました。
カレームは貧民街で育ち、
パリの菓子店で働いているところを
美食家のタレーランに
腕を見込まれた人で、
その卓越した料理は客人を魅了。
「会議は踊る、されど進まず」
といわれ、
各国の思惑が飛び交いながら
1年にもわたって続いた
ウィーン会議ですが、
この宴会戦術を使った
タレーランの巧みな外交によって、
フランスは
敗戦国の立場だったにもかかわらず、
戦勝国に要求を呑ませることができた
というエピソードが残っています。
具体的に、料理の力が
単独でどれほどのものであったのかは
もちろん明確にしようがないが、
たいへん興味深いエピソードだ。
まさに胃袋を掴まれた、ということだろう。
いずにせよ、
主要国の代表が集まっている以上
その影響力は計り知れない。
実際、料理人カレームは、その後
イギリス王室のジョージ4世らの
依頼を受けて料理人を務め、
フランス料理が西洋料理を
代表する存在に導いたのです。
フランス料理が世界に広がり、
そして、世界中の多くの国で
外交儀礼の際の正餐になっていく背景には
こんなきっかけがあったのだ。
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