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2012年11月28日 (水)

トルコ旅行記2012 (24) イスタンブール ヒッポドローム編

トルコ旅行記 2012/7/8-7/17 (旅行記の目次はこちら


(24) イスタンブール ヒッポドローム編


2012年7月16日

いよいよ最終日。午後の飛行機で日本に帰る。

朝一、ブルーモスクをもう一度覗いてみた。

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一度目の訪問時は午後、今回は朝、と時間がまったく違うため印象が大きく異なる。
光の向きや色が、いかに大きな影響力を持つかを痛感。
でも、いつ見ても息をのむほどに美しい。

 

【ヒッポドローム】

ブルーモスク(スルタン・アフメット・ジャーミィ)の西側は広場になっている。
ここは、競馬や戦車競争が行われていた大競技場の跡。
時代も場所も違うが、戦車競争そのものは映画「ベン・ハー」の世界だ。

ギリシア語でヒッポは馬、ドロームは道、
今はトルコ語で「アトゥ・メイダヌ(馬の広場)」と呼ばれている。

元となった競技場は、イスタンブールが東ローマ帝国の首都(コンスタンティノープル)となるよりも前、
ビザンティオンと呼ばれていたころに建造されている。3世紀初頭の話。

その後、ローマからビザンティオンに遷都した皇帝コンスタンティヌス1世が、
4世紀、この競技場を大幅に拡張した。

その結果、U字形のトラック部をもつ、長さ約450m、幅約140m、
観客収容人数10万人という、まさに「大」競技場となる。

7世紀ごろまでは、年間100日以上も戦車競争が開催され、
莫大な金額が賭けられていたというのだから、
「パンと見世物を」が維持できた東ローマ帝国の底力を感じないわけにはいかない。

また、戦車競争は単なるイベントではなく、
皇帝と一般市民が同じ場所に会するという他にはない特別な機会を提供していたことにもなる。

競技場は、競技以外の政治的なイベントや公開処刑の場としても使われていた。

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一方、競争チームはスポンサーとしての政治勢力と深く絡んでいたため、
その抗争は内戦にまで発展することもあった。

特に、532年に勃発した「ニカの乱」は帝国をゆるがす反乱となり、深刻な被害をもらたした。
最終的に暴徒は、計略によりこの競技場に追い込まれる。
そこで約3万人が殺害されたと言われている。

また、この反乱では、アヤソフィアなど重要な建築物が数多く破壊されてしまった。
現在のアヤソフィアは、ニカの乱の後にユスティニアヌス1世が再建したものである。

7世紀以降は競争の回数も激減。
東ローマ帝国は1453年まで続いたが、そのころには競馬場は廃墟と化していた。

その後のオスマン帝国では、戦車競争を楽しむことはなかったが、
その跡地を完全に別の建物で覆ってしまうことはしなかった。

広場として残り、今は3本の柱が残っている。

 

【テオドシウス1世のオベリスク】

台座を入れた高さ25.6m。

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オベリスクは4面にレリーフの施された大理石の台座の上に立っている。

このオベリスクは、元々はエジプトのカルナック神殿に、紀元前1490年に建てられたもので、
元は高さ30m、重さ400トン程度だったと推定されている。

テオドシウス1世は、これを3つに分割して、はるかエジプトから運ばせ、
390年、ここに建てた。
現存しているのは一番上の19.6mの部分のみ。
つまり、四面にヒエログリフが刻まれているオベリスクの本体は、
「3500年前のもの」ということになる。

刻まれている碑文では、紀元前1550年のトトメス3世の軍事的偉業をたたえている。
彼はエジプト王朝の版図を最大にまで拡げたファラオ(王)だ。

ちなみに、40年前の「仮面ライダー」に登場したエジプタスという怪人は、
このトトメス3世の隠し財宝の所在を知っていたらしい。(by Wikipedia)
ツタンカーメンのような姿はおぼろげながらに覚えていても、
さすがにそんな詳細なことまでは覚えていない、と言うか
子供向け番組に、そこまでのネタ探しをしていた当時のスタッフの苦労が偲ばれる。
が、では、財宝はどこにあったのか。日本にないと番組にならない。
やっぱりこの件、詳細まで覚えていなくてかえってよかったかも。

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閑話休題、ビザンチン時代の台座のほうは、テオドシウス1世の命により作られたもので、
古代の自然主義的三次元表現から中世の表現主義的二次元表現への移行を示す、
美術史上重要な作品と言われている。

レリーフには,テオドシウス1世とそのファミリーや側近がヒッポドロームにおける
レースを観戦しているところや, オベリスクがどのように立てられたのか、の話が描かれている。

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台座の風化具合には千六百年という歴史を感じるが、それでもかなりきれいに残っている。

それにしても、オベリスク本体が3500年前のもので、かつ、
西暦390年にここに建てられて以来ずっとここに立っている、という話は
日本史年表しか頭にない私にはプロットのしようがない。

 

【蛇の柱】

コンスタンティヌス1世が、帝国全土から芸術作品を集めさせた時の物の一部。
高さ8m。青銅製だが途中から折れている。

ギリシアのアポロン神殿から運ばれたもの。
もとは、紀元前5世紀にギリシア都市国家がペルシア戦争の戦勝記念に建てたもの。

オスマン帝国時代の細密画には蛇の頭部が描かれているため、
元は頭部があったと思われる。第4回十字軍の最中に破壊または略奪されてしまった。

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【コンスタンティヌス7世のオベリスク】

コンスタンティヌス7世は10世紀の皇帝。
もともとは金メッキされた青銅製の板で覆われていたが、こちらも第4回十字軍に略奪された。
石積みの中核部分が残っている。

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3本の柱は、どれも少し掘った穴の中から立っているように見える。
これは、かつての地面が今の地面よりも低い位置にあったから、が理由。

 

このあと、歩いてエジプシャン・バザールを目指す。

 

朝のアヤソフィア。何度見ても存在感がほかの建物とはちがう。

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上に書いた「ニカの乱」で破壊されたため、現存するアヤソフィアは再建されたものだが、
それでも537年のものだ。

 

【エジプシャン・バザール】

元々は、すぐとなりにあるイェニ・ジャーミィを維持するために作られた市場。
賃料が維持のための資金となる。

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エジプトからの貢ぎ物を集めて設営されたことからエジプシャン・バザールと呼ばれるが、
香辛料の店も多く、別名スパイス・バザールとも呼ばれている。

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色とりどりなのはスパイスだけではない。ドライフルーツ、お茶、オリーブなどなど。

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観光客だけでなく、地元の人も多い。

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グランド・バザールよりはずっと小さいが、生活臭が強く、個人的にはこちらのほうが好み。

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裏通りもすごい賑わい。

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旅行最後の土産をここエジプシャン・バザールで買った。

 

さあ、観光もいよいよここまで。

 

空港まではトラムと電車を乗り継いで行った。
途中で一度チャージしたが、最後の最後まで、イスタンブールカードはフル回転。
自力でイスタンブール観光をする人には絶対にお薦めだ。

一枚あれば二人で使えるし、バスにも、トラムにも、電車にも乗れる。しかもわずかだが割引もある。
とにかく、小銭を用意する手間から解放されるだけでも利用価値大。

バスもトラムもようやく慣れてきたところなのに、お別れだ。やはりさみしい。

 

空港到着。無事チェックイン。

残ったトルコリラを使って最後のトルコ食。

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塩味ヨーグルト「アイラン」はこんなパッケージのものもあった。

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今度はもちろん飛行機も乗り遅れ無し。
2012年7月17日、夫婦揃って元気に帰国。

 

そうそう、
第1回出発編の冒頭で書いていた「セン・デ・ギョル」は結局どうなったかって?

旅行期間中、もちろんいつでも機会を伺っていた。
ただ、個人旅行とはいえ、回りには各国からの観光客がいることが多く、
くしゃみをしてもトルコ語の「チョク・ヤシャ」が聞こえてこないのだ。

というわけで、結果としては一度も使うことはできなかった。
残念と言えば残念だが、
この旅行記を読んで下さった方にはわかっていただけると思うが、
正直に言うと、途中から、そんなことはもうどうでもよくなっていた。

 

旅行は、特に個人旅行は、出発前から旅が始まっている。

どこに行くか、どんなところか、どうやって行くか、どこに泊まるか、
関連書籍やガイドブックを見ながら、いろいろ想像し、
ひとつひとつ自分たちで決めていく過程自体がもう完全に旅行だ。

荷物をどこに預けるか、預かってもらえなかったらどうするか、
事前にわかることもあれば、いくら調べてもちっともわからないこともある。

「セン・デ・ギョル」もそんな下調べの中から見つけた楽しみのひとつだった。
塩野七生さんの本を夫婦で読んで、「ルメリ・ヒサール」と「城壁」は絶対に本物を見に行きたい、
と思ったのも、同様の楽しみ方のひとつだ。

 

でもそれはある意味、出発「前」の旅で、
実際に行って、その場に身を置くと「現実」はそれらをみんな吹き飛ばしてしまう。
「前」に準備したことなんて、ほんとうにささやかな「きっかけ」にしかならない。
「その場にいること」の豊かなこと。楽しいこと。

より効率良く回れたり、より少ない出費で回れたりすると、
なぜか「勝った」ような気分になってしまうという
根っからの貧乏根性は否定しようがないが、それでも

 * 数をこなすことを目的としないようにしよう。
 * 気に入ったところでは可能な限りゆっくり観よう。
 * 効率が悪くても、失敗があっても、それも旅の一部。過程自体を楽しもう。

の三点は、いつも意識して動いていた。

 

たとえば、ルメリ・ヒサール。何時間居たことだろう。

急いで見れば30分程度でも充分回れる広さだ。
ルメリ・ヒサールの回にも書いた通り、全体としては単純な構造だし、
古い大砲が少し並んでいるものの、鉄鎖以外に展示物があるわけでもない。

そんな中、六百年前の城壁に登り、落ちないように気をつけながら上をそろそろと歩き、
要塞全体を、ボスポラス海峡を、そこを行く船を、対岸のアジアを、
ぼんやりと眺めてみる。

しばらくしたら、一度降りて、また違う部分の城壁に登り、
違う角度から同じようにただ眺めてみる。

日差しはジリジリと暑く、城壁の石組みはゴツゴツとしていて、
椅子があるわけでももちろんない。
そんな中、ただ眺めているだけ。

でも、「その場にいる」ときはそれがほんとうに楽しかった。

目を閉じると

「あぁ、来てよかった」

という言葉しか浮かばないが、ちっとも飽きることはなかった。

 

夫婦共々、まさに個人旅行ならではの自由を満喫しながら、
そういった思いを、今回の旅行では何度も経験することができた。
エフェソス遺跡で、カッパドキアで、イスタンブールで。
「その場にいること」以外はもうどうでもいい。
「セン・デ・ギョル」もどうでもいい。
「あぁ、来てよかった」としか表現のしようがない満足感。

ちょっと考えると矛盾しているようだけれど、
事前に準備したことがどうでもよくなってしまうような旅、
それこそが実はほんとうにいい旅なのかもしれない。
事前準備を「実行」することが旅の目的ではないのだから。

 

十日間、「暑い、暑い」と言いながら歩きまわった夫婦の旅も、いよいよおしまい。

 

なにかのご縁でこの旅行記を読んで下さった方々、ほんとうにありがとうございました。

こうして旅行記を書くことで、「前」だけでなく「後」も旅行を楽しむことができました。
トルコのテレホンカードもイスタンブールカードもまだ手元に残っています。
もう一度行かねば。

 

トルコでは誰かがくしゃみをすると近くにいる人が
「チョク・ヤシャ」(長生きしてください)と言う。
言われたほうは礼儀として
「セン・デ・ギョル」(それを見るくらいあなたも生きてください)
と返すことになっている。

     高橋由佳利 「トルコで私も考えた(1)」

 

おもしろい。
Bless you! よりもかなり気が利いている。
「旅行後」の旅行記を書き上げた今、今はもう次の「旅行前」の気分です。
今度こそ使ってみせましょう。

「チョク・ヤシャ」(長生きしてください)
「セン・デ・ギョル」(それを見るくらいあなたも生きてください)

 

トルコ旅行記 完 (旅行記の目次はこちら

 

 

 

 

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