トルコ旅行記2012 (21) ひとやすみ トルコと日本の友好関係編
トルコ旅行記 2012/7/8-7/17 (旅行記の目次はこちら)
(21) ひとやすみ トルコと日本の友好関係編
トルコ旅行記もいよいよ大詰めだが、今日は、旅行記をひと休み。
トルコと日本の友好関係に関するエピソードを一度ここにまとめておきたいと思う。
「トルコ人は親日的」
よく聞く言葉だが、旅行をしてみるとこの言葉が間違っていないことはすぐにわかる。
「日本人」とわかった瞬間に態度が変わった、という経験もした。
なぜ、親日的なのか?
今回、旅行するにあたって読んだトルコに関するいろいろな本や記事の中には、
この親日に繋がるようなエピソードがほんとうに何度も登場する。
それらのうちのどれかが、あるいは全部が「親日の理由だ」と
簡単に言い切れるようなことではもちろんないが、
トルコとの間にこんなことがあったンだ、は知っていてもいいだろう。
というわけで、ネットや本を読みながらメモったものを並べてみたい。
ソース(出典)ごちゃまぜの寄せ集めだが、読みやすいように詳細を省き、要点のみに絞っている。
ご興味があれば、これらをキーワードにサーチしてみて下さい。
で、話を始めようと思うが、文字ばかりでは寂しいので、
友好のエピソードとは関係ないが、
今回の旅行で訪問した場所の入場券を挿絵代わりに挿入していきたいと思う。
どういうルールに基づいているのかはわからないが、イスタンブール市内だけでなく、
トルコ国内の多くのところで観光地の入場券のデザインが統一されている。
統一感を維持しながらも、よく見ると各施設ごと、ちゃんと特徴ある写真を使っている。
特にコレクターというわけではないが、思わずいろいろ集めたくなるようなデザインだ。
エフェソス(エフェス)遺跡
まずは定番中の定番、「エルトゥールル号遭難事件」から始めたい。
トルコの親日の話をするとき必ずでてくる話なのでご存知の方も多いだろう。
「トルコの遭難船の生存者を日本人が手厚く救護し感謝された」という一言では語れない物語だ。
2012年9月12日の朝日新聞・天声人語では以下のように短くまとめられていた。
あすで122年になる。明治半ば、当時のオスマン帝国の軍艦が、紀伊半島沖で台風のため沈んだ。
500人以上が亡くなったが、69人が日本艦で国に帰り、沿岸漁民による温かい救護ぶりを伝えた。
かの国の人々は、続く日露戦争の結果にも熱狂する。
日本同様、ロシアの南下圧力を受けていたためだ。
友好は経済援助などを通じて続き、イラン・イラク戦争の際には、在テヘランの日本人が
トルコ航空機で救出された。
この文章で主なトピックスは網羅されているが、補足しながら話を進めたい。
エフェソス(エフェス)遺跡 丘の上の住宅
(a) 遭難と救護
1890年(明治23年)和歌山県串本町沖で、オスマン帝国の軍艦が遭難。
500名以上の犠牲者がでるが、なんとか救出された生存者69名に対して
沿岸漁民が献身的な救護活動を展開。
国も明治天皇の指示により迅速に対応。多くの義捐金・弔慰金が寄せられた。
日本海軍は遭難事故の20日後には、
生存者をイスタンブールに届けるため「比叡」と「金剛」を出港させた。
この船にはあの「坂の上の雲」の秋山真之が少尉候補生として乗り込んでいる。
2隻の船はオスマン帝国で大歓迎される。
カッパドキア ギョレメ野外博物館
(b) 礼金
オスマン帝国は、沿岸漁民の献身的な救助活動に対して礼金を送るが、
村長はそれを村民に分配せずに銀行に預け、その利息を村のために使うようになる。
カッパドキア ギョレメ野外博物館 暗闇の教会
(c) 山田寅次郎とアタチュルク
一方、個人的に義捐金を集めた山田寅次郎は、
遺族への慰霊金としてトルコに送ってほしいと青木外務大臣を訪ねる。
すると青木は、
「君自身で届けに行き、国交樹立のために働いてほしい」と
ヨーロッパに発つ海軍への便乗を手配する。
山田を歓迎したオスマン帝国の高官は、
「我が国の優秀なる青年士官たちに、日本語と日本の精神論を教えて欲しい」と
山田に依頼した。
教師となった山田の話を聞いた一人が、
1923年に「トルコ共和国」を誕生させた近代トルコの父、ケマル・アタチュルク。
カッパドキア ウフララ渓谷
(d) 共通の敵国ロシア
山田はイスタンブール、ガラタ橋近くで日本の工芸品を扱う店をやる一方、
日ト共通の敵国であるロシアの動きをさぐる諜報活動を展開。
トルコは日露戦争(明治37~38年)中もロシア黒海艦隊の動きを日本に通報した。
カッパドキア デリンクユ地下都市
(e) 日露戦争の英雄
日露戦争での日本の勝利を、トルコは自国の勝利のように喜んだ。
このころ、東郷平八郎に因んで息子に「トーゴーTogo」という名をつけるトルコ人が多くいた。
トルコの女流作家ハリーデ・エディプ(1884~1964年)も自分の息子に「Togo」と名付けた。
首都アンカラには「トーゴー通り」、イスタンブールには「ノギ通り」もある。
イスタンブール トプカプ宮殿
(f) テヘラン日本人救出活動
イラン・イラク戦争中の1985年3月17日、イラクのサダム・フセインが
「今から48時間後に、国籍に関係なくイラン上空を飛ぶ全ての航空機を撃墜する」と布告したため、
イランに住んでいた外国人は空港に殺到した。
ドイツ人やイタリア人が自国の航空会社の臨時便で次々と退去していくなか、
日本人は空港に取り残されていた。
日本政府の対応の遅れ、日本航空の組合の反対、などにより
救出のための日本航空機が飛ばなかったのだ。
もうだめか、と思われたそのとき、テヘラン空港にトルコ航空の特別機二機が到着した。
トルコ航空機は、空港で救出を待っていた日本人215名全員を乗せて、
トルコのアンカラへ向けて飛び立った。
タイムリミット1時間15分前。
トルコ航空が救援に行った理由をトルコ大使は次のように語った。
「エルトゥールル号の借りを返しただけです」
イスタンブール トプカプ宮殿 ハレム
(g) 和歌山の小学生
200名以上の遺体が眠る「エルトゥールル号遭難事件」沿岸の村有地に造られた墓地は、
近くの小学校の児童が学校行事の一部として100年以上に渡って掃除を続けてきている。
イスタンブール アヤソフィア博物館
(h) 100周年切手
1990年、トルコ・日本修交100周年記念切手がトルコで発行された。
そこにもエルトゥールル号が描かれている。
「エルトゥールル号の借りを返しただけです」
官も民も恩を返してもらえるような国だったのだ。日本は。
今はどうだ。
今日はここまで。
最後に、このあと訪問するカーリエ博物館の入場券を。
イスタンブール カーリエ博物館
(22) イスタンブール テオドシウスの城壁編に続く。 (旅行記の目次はこちら)
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