食・文化

2022年11月13日 (日)

舌はノドの奥にはえた腕!?

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舌はノドの奥にはえた腕!?

- 音色、音の色に違和感はなく -

 

実際の講演は
今から40年以上も前の話になるが、
解剖学者の三木成夫さんが、
保育園で講演した内容をまとめた

三木成夫 (著)
内臓とこころ
河出文庫

(以下水色部、本からの引用)

は、たいへんユニークな視点で語られた
「こころ」の本だ。

独特な口調で
幼児の発育過程を語りながら、
内臓とこころを結びつけ、
話は、宇宙のリズムや
4億年の進化の過程にまで
広がっていく。

一方で、

ただ、舌の筋肉だけは、
さすがに鰓(えら)の筋肉、
すなわち内臓系ではなくて、
体壁系の筋肉です。
(中略)

舌の筋肉だけは
手足と相同の筋肉
です。

われわれはよく
「ノドから手が出る」
というでしょう。

舌といえば、ノドの奥にはえた腕
だと思えばいい。

のような、
ユーモアあふれる大胆な表現もあって
あっと言う間に「三木ワールド」に
とりこまれてしまう。

舌はノドの奥にはえた腕!?
強烈すぎるフレーズだ。

講演を原稿化したものゆえ、
読みやすくはあるものの、
論理的には話が飛ぶ部分もあり、
「えっ?」と思うところもあるが、
それも含めてひとつの味だ。

簡単にはまとめられない、
三木さんの「こころ」論は本に譲るとして、
印象的なフレーズを2つ紹介したい。

(1) 原初の姿 (指差しこそ人類!)

ルートヴィヒ・クラーゲスという、
ドイツの哲学者は、
幼児が「アー」と声を出しながら、
遠くのものを指差す---この動作こそ
人間を動物から区別する、
最初の標識
だといっています。

どんなに馴れた猫でも、ソレそこだ!と
指差すのがわからない。
鼻づらをその指の先に持ってきて、
ペロペロなめる……

指差しが認識できず、
指先を舐める猫か、なるほど。

赤ちゃんも、
「なめ廻し」の時期を過ぎたころから
「指差し」を始めるようになる。

クラーゲスは、
この呼称音を伴う指差し動作のなかに、
じつは、原初の人類の”思考”の姿
あるのだといっています。
スゴい眼力ですね

この感じは、
しかし現代でも充分にわかります。

たとえば私たち、ビルの屋上から
真っ赤な夕焼け雲を見たりした時、
思わず「アー」と声を出しながら、
指差しの
少なくとも促迫は覚えるでしょう。

この瞬間、私たちはもう
好むと好まざるとにかかわらず、
原初の姿に立ち還っているのです。

圧倒的な大自然を前にした、
その時の思考状態ですね・・・。

頭の中はけっして空っぽではない

圧倒的な大自然を前にしたとき、
言葉にできない根源的な幸福感に
包まれることは確かにある。

あれは原始の姿に立ち還った
そのリラックス感から
来るものなのだろうか?

ミケランジェロ作の
システィーナ礼拝堂の天井画の
アダムの人差し指に対して

アダムの人差し指に
魂が注入される瞬間。
人類誕生の曙が
指差しの未然形として描かれている

こんな表現ができる人は
他にいないだろう。

私どもの”あたま”は
”こころ”で感じたものを、
いわば切り取って固定する

作用を持っている。

あの印象と把握の関係です。

そしてやがて、この切り取りと固定が、
あの一点の「照準」という
高度の機能に発展してゆくのですが、
「指差し」は、この照準の”ハシリ”
ということでしょう。

つまり、この段階で
もう”あたま”の働きの
微かな萌(きざ)しが
出ているのです。

 

(2) 「音色」(音の色?)

私たちの目で見るものも、
耳で聞くものも、
すべて大脳皮質の段階では
融通無礙に交流し合っております

フォルマリンで固定した人間の
大脳皮質下の「髄質」を見ますと、
ここでは、
ちょうどキノコの柄を割ぐ感じで、
無数の線維の集団を
割いでゆくことができる。

視覚領と聴覚領の間でも、
この両者の橋わたしは豊富です


連合線維と呼ばれる。

視覚と聴覚の交流?
以下の言葉の例で考えると
わかりやすい。

「香りを聞く」「味を見る」
「感触を味わう」
などなど、

皆さん、
あとでゆっくり数えてください。

どんな感覚も四通八達で、
たがいに自由自在に
結び付くことができる。

大脳皮質は
こうした連合線維の巨大な固まりです。

<中略>

私ども人間は、
こうした、感覚のいわば「互換」が、
とくに視覚と聴覚の間、
それも視覚から聴覚に向かって
発達しているのでしょう。

「音」は聴覚、「色」は視覚、
でも「音色」という言葉は
違和感なく溶け込んでいる。

解剖学の知識が全くない遠い昔から
私たちはその交流に
気づいていたに違いない。

 

 

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2022年10月 2日 (日)

鰆(さわら)を料理店で秋にだす

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鰆(さわら)を料理店で秋にだす

- 盛り方のしゃれたひと工夫 -

 

東京にある日本料理店で
総料理長を務める野﨑洋光さんが書いた
下記の本には、
おいしく料理を作るための
特に素材の味を活かすための
ちょっとしたヒントが
各ページにちりばめられている。

野﨑 洋光(のざきひろみつ) (著)
おいしく食べる 食材の手帖
池田書店

(以下水色部、本からの引用)

長年の経験に基づくコメントは
多岐にわたり、

 「ほうれん草」は
 熱湯でゆでてもいいけれど、

 アブラナ科の「小松菜」は
 80℃くらいのお湯のほうが
 本来の味が引き出せる。

 他にも、同じアブラナ科の野菜
  かぶ
  カリフラワー
  キャベツ
  大根
  菜の花
  白菜
  ブロッコリー
  水菜
 などは、
 グラグラと沸騰したものではなく
 80℃くらいのお湯のほうがいい。

といった調理法に関するものから

 かぼちゃを選ぶとき、皮の色が一部分だけ
 オレンジ色や黄色になっているものを
 見ることがあるが、
 あれは日光にあたっていなかっただけで
 品質に問題はない。
 むしろ、ここの色が濃いものほど
 甘くておいしい

のような買い物アドバイス、

調理法によって、
むく皮の厚さを変えている意味、

ゆでたり、煮たりするときの
ふたをする・しないが味や色に与える影響、

加えて

じゃがいもは、
イモ科ではなくナス科!
ちなみに、
イモ科という分類はもともとない。

といったビックリ豆知識まで
食材や料理に関する知識を
多方面から楽しむことができる。

本の内容自体は
「素材の味を最大限に活かす調理」
を基本メッセージに、
家庭料理にむけて書かれたものだが
ところどころに
プロならではコメントがあって、
そこがなかなか興味深い。
印象的なのはコレ。

漢字では鰆と書き、
春を告げる魚とされています。

これは、かつて春になると
瀬戸内海に産卵のために
集まってきたことから
あてられた字です。

しかし、脂ののった冬のものも
寒さわらとして関東では好まれ、
春に限らず楽しめる魚なのです。

けれど、春のイメージが強く、
料理屋ではほかの季節は出しにくい


そこで、秋は皮目を下にして盛る
なんてこともします。
春の裏側は秋なので、
しゃれをきかせるというわけです。

漢字で書くと違和感があるなら、
平仮名にするなんて手もありますね。

おいしいのに、漢字の影響もあって
料理店ではだしにくい秋の鰆、
それを盛り方のしゃれで克服しているなんて。

日本料理のおしゃれなところのひとつだ。

 

 

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2022年5月29日 (日)

九州・佐世保 一日観光

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九州・佐世保 一日観光

- もう少し近くに寄らせて -

 

新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の
広がりにより
旅行できない期間が長く続いていたが、
この5月、久しぶりに出かけられたので、
メモと写真を残しておきたい。

訪問先は、初訪問となる九州・佐世保と唐津。
唐津では知らなかった歴史との出会いがあり、
旅を機会にまた世界が広がったのだが、
まずは佐世保から書き始めたい。

(1) 九十九島

佐世保観光の目玉のひとつ、
九十九島はいろいろな場所から
楽しむことができる。
全景を、ということであれば
石岳展望台からの眺めは特にお薦めだ。

P4301661s

ハリウッド映画「ラスト・サムライ」の
ロケ地になった、という案内も出ているが、
島々の景色はほんとうに美しい。

P4301672s

遊覧船に乗って海から眺めるのもいい。

P4301622s

200人も乗れる規模の遊覧船ながら、
かなり狭い島の間にグングン入っていく。

P4301624s

船上では
「九十九島と言いますが、
島の数は99ではなく、208もあるのです」
とのアナウンスが流れている。

海面を眺めていると
明らかに島と呼べるものもあるが、
海中の岩山のようなものもある。
はて?
何をもって「島」と呼べるのだろう?
そう思いながら船を降りると、
観光案内所には
ちゃんと「ここでの島の定義」が出ていた。

 1年中で一番潮位が高い時に
 水面から出ていて、
 陸生の植物が生えている陸地を
 「島」と定めて数えると、
 九十九島には208の島があります。


なるほど。
陸生の植物が生えていることが
条件のひとつなンだ。

 

(2) 旧佐世保海軍工廠 修理艦船繋留場
   (立神係船池)


弓張岳(ゆみはりだけ)展望台まで登ると
九十九島方面とともに
佐世保の街を一望できる。

P4301607s

その中でも特に印象的なのは
中央右に見えている
旧佐世保海軍工廠 修理艦船繋留場
(立神係船池)。

工廠は「こうしょう」と読む。
軍需工場のことで、
武器・弾薬をはじめとする軍需品を
開発・製造・修理・貯蔵・支給するための
施設。

P4301606s

「凹字状の構造物が工廠の中核施設だった
 修理艦船繋留場(立神係船池)」
との説明案内板が設置されているが、
ご覧の通り、まさに図面のままの形の施設を
眼下に望むことができる。

凹字状の岸壁は総延長1,699m。
常時海水に触れる面に
大規模にコンクリートが用いられた
初めての岸壁だ。

驚くのはその製造年。
明治39年(1906)からの11年

今から100年以上も前に、
耐海水コンクリート技術が
確立していたわけだ。

コンクリート構造物の本格的な海洋進出の
画期となった建造物ということになる。

 

(3) 佐世保重工業(株)佐世保造船所
   (旧佐世保海軍工廠) 施設群


思わず足が止まってしまう
第七船渠(現第四ドック)。

P4301643s

昭和15年(1940)に完成。
全長343.8m、全幅51.3m。
この写真でその大きさが伝わるだろうか。
写真中央の小さな白い点が一台の自動車。

昭和16年7月には
三菱長崎造船所で建造中だった
戦艦武蔵が入渠し、
スクリューや舵、水中聴音器など
艤装の一部を行っている。

クレーンを始め、
なにもかもが巨大で興奮してしまうが、
その圧倒的な迫力は
写真や言葉ではなかなか伝えられない。
全身で体感するしかない、感じ。

P4301660s

いずれにせよ、
これら佐世保重工業の巨大施設は
観光客向けには公開されておらず、
近くを走る道路の歩道から
柵ごしに眺めるしかない。
まさに覗き見だ。

 

(4) 佐世保バーガー

市内の
一直線の長~いアーケード商店街も
シャッター商店街にはなっておらず、
人通りも多く賑わっている。

P4301684s

お昼には、
「佐世保バーガー」を選んでみた。
1950年ごろに米軍関係者から持ち込まれた
ハンバーガーらしいが
特に変わった点があるわけではない。

作り置きしていないので、
待たされるものの、できたてを
美味しくいただくことができる。

店内には
「Where Are You From?
 Plz put the Pin」
(どこから来たの?ピンをさして)
のメッセージとともに
世界地図が貼ってあった。

P4301686s

ピンひとつひとつに
ここ佐世保のハンバーガー屋さんに
立ち寄ったことの物語があるかと思うと
打った人にいろいろ話を聞いてみたくなる。

 

一日観光を楽しんだ佐世保。
九十九島の自然はほんとうに美しかったが、
欲求不満なのは佐世保重工業の巨大施設。

観光客がもっとそばで見られるような
観光資源化はしてもらえないものだろうか?
工場としての実作業を邪魔することなく
だれもが見られるようにすることは
可能だと思うのだが。
もちろんガイド付きツアーでもいい。

柵の外からの覗き見しか手段がないなんて
あまりにももったいない。
その巨大さにも、歴史にも
ワクワクさせる要素があるので
多くの観光客を惹きつけることができると
思うのだが。

 

 

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2022年5月 8日 (日)

「私はきれいなゴミを作っている」

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「私はきれいなゴミを作っている」

- 生産者も消費者も双方が変わることで -

 

スクラップブックをめくっていたら

朝日新聞の2021年12月3日「ひと」欄
で紹介されていた
エチオピアで人と環境にやさしい
 バッグをつくる起業家
 鮫島弘子さん

の記事が目に留まった。
(以下水色部、記事からの引用)

鮫島さんは、
羊の革を使ったバッグブランド
「anduamet(アンドゥ・アメット)」
を設立し、
代表兼デザイナーとして
活躍しているという。

使うのは食肉の副産物で、
環境対策をした工場でなめされた皮だけ。

元ストリートチルドレンや
読み書きできない人を雇い、
忍耐強く20人の職人を育ててきた。

原点は、
デザイナーとして働いた
化粧品会社で感じた疑問だという。

美術専門学校を出たばかりで
仕事は面白かったが、
新製品を出すたびに
大量の商品が廃棄された。

私はきれいなゴミを作っている

そう思った鮫島さんは、
化粧品会社を3年で辞め、
青年海外協力隊に応募。
派遣先のエチオピアで羊革と
出会い、その後、エチオピアに渡って
起業することになったという。

「私はきれいなゴミを作っている」
なんとも悲しい、虚しい言葉ではないか。

化粧品に限らない。
衣料品も食料品も
大量廃棄の問題はほんとうによく耳にする。

もちろん、たとえば
新商品ブランドの確立と
拡販を目的にした旧商品の廃棄と
食料品の廃棄は
そもそもその理由が全く違うものだが
結果として
「きれいなゴミ」を
大量に発生させていることは同じだ。

どんな理由であれ
「私はきれいなゴミを作っている」では
働く側のモチベーションが
上がるはずはない。

以前「売り切れ」程度は我慢しようなる副題で
食料品廃棄の話を書いたが、
ゴミを出さないためには
生産者側もそして消費者側も
大きく意識を変えていく必要がある。

価値観の変換と同時に
双方ちょっとの「我慢」が
キーワードだろう。

誰だって、あるときは生産者であり、
またあるときは消費者なのだから。

作る人も使う人も
みんなが幸せになるブランド目指す。

ことは可能なはずだ。

 

 

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2022年5月 1日 (日)

SNSの写真が表現するもの

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SNSの写真が表現するもの

- 事実よりも情動を引き出すことを -

 

食べ物の色が
どのように作り出されてきたのかを、
*着色料や農産物の生産過程の調整など、
 実際の食べ物の色を作り出す
 技術や方法といった物理的な側面
と、
*料理本や宣伝広告の影響を受けながら、
 その色をどのようにして「当たり前」と
 思うようになったかという認識的側面
の、ふたつの面から探っている

 久野 愛 (著)
 視覚化する味覚-食を彩る資本主義
 岩波新書

(以下水色部、本からの引用)

だが、
最後の章では現代社会における
食べ物の色や見た目について
SNS上での写真を通して考えている。

他の本も参照しながらの
写真の考察がおもしろい。

写真を撮ったり
料理を作る主体のみならず、
写真撮影と鑑賞に関わる行為も
大きく変わった


大山顕が、
写真は「見る」ものから
「処理」するものになった
と述べているように、
写真は、
撮る・見るものであるだけでなく、
SNSの写真においては
「加工」「シェア(共有)」「いいね」
することが重要
となったのだ。

ここで参照されている
大山顕さんの本はこれ。

 大山顕 (著)
 新写真論 スマホと顔
 ゲンロン叢書

「シェア(共有)」や「いいね」はもちろん、
簡単な「加工」であれば、
ワンクリックまたは数秒で可能だ。
それでもかなり多彩な加工ができる。
確かに
「見る」だけでなくなっている。

 

SNSの写真には、
日常の記録や思い出の保存
というだけではなく、
むしろそれ以上に、
ユニークな見た目であること
求められる。

よって映える被写体というのは、
単に綺麗な色をしているとか、
撮影者が
おいしそうと思うものというよりは、
多くの人の目にとって
「面白い」ものということになる。

それはSNS写真独特の美学である。
佐藤卓己が論じるように、
こうした写真は、
見栄えを優先させる一方、
被写体・素材の事実性は
軽視されがち
である。

つまり、
「データ素材として
 どのような加工もできる
 デジタル写真は、
 記録のメディアというより
 表現のメディア

となったのである。

ここで参照されている
佐藤卓己さんの本はこれ。

 佐藤 卓己 (著)
 現代メディア史 新版
 岩波テキストブックス:岩波書店

「素材の事実性は軽視されがち」
「記録のメディアというより表現のメディア」
色も含めて、
事実を伝える、事実を記録する、
という写真の役目は今、
大きく変わってきている。

SNSに投稿される写真は、
見る者の情動を
引き出すため(affective)のもの

ではないだろうか。

大盛りの料理や
見た目が派手な食べ物などは、
いわゆる「映える」ための写真として、
色・見た目が作り出されている。

自作料理の写真はどちらかというと
「エモさ」を追求したものが
多いといえるかもしれない。

手作りのケーキや
食卓に並べられた数々の料理は、
派手さや斬新さというよりも、
「おいしそう」とか
「こんな料理を作れるなんてすごい」、
「自分も作ってみたい」といった、
賞賛や羨望・憧れ、共感といった感情を
見る者に与える


少なくとも、
そうした感情を与えることを
意図して投稿されることが多い。

つまり

情動を引き出すことが
主目的になったことで、
SNSでは写真に写った食べ物の色を
「自然な」色に寄せる必要がなくなった

本の主題であった
食べ物の「自然な」色、の話からは
ずいぶん離れてしまったが、
食の写真が溢れているSNSを考えるとき
「SNS上の写真」論は
人々の別な欲望も見えてきておもしろい。

 

 

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2022年4月24日 (日)

和菓子の色が表現するもの

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和菓子の色が表現するもの

- 物だけでなく四季や自然も -

 

前回
食べ物の色について深く語っている

久野 愛 (著)
視覚化する味覚-食を彩る資本主義
岩波新書

(以下水色部、本からの引用)

を紹介したが、
本文中のコラム「和菓子の美学」に
印象的な言葉があったので
ここで紹介したい。

 

和菓子の意匠・菓銘では、
季節感を抽象化したものとともに、
自然を摸したものが多い。
動植物の姿形を真似たり、
自然現象(春霞など)や
風景を表現したもので、
カラフルな色づけがなされたものも
多くみられる。

例えば、
透明感のある水色は涼しさを伝え、
朱色の紅葉に似せた菓子からは
秋を感じる
ことができる。

つまりここでの色は、
同じ「自然の色」と言っても
完熟のオレンジの色、といったものとは
違う「自然の色」だ。

和菓子が表す自然の中には、
実際には食べられない自然
(例えば川の流れや金魚など)も
含まれており、
必ずしも「おいしそうな」色として
作られているわけではない


この意味で和菓子は、
自然のミニチュア化
だといえる。

菓子そのものを花や動物、
自然現象などの自然に見立て、
見る人・食べる人に四季や自然を
感じてもらう
ためのものである。

菓子で、
草花や動物といった物だけでなく、
季節や自然現象をも
表現しているところが
まさに和菓子の奥深い魅力だ。

和菓子に込められた自然の美学は、
その色・形に留まらず、
菓銘や、見る・食べる人の
教養や感性をも含めたものだといえる。

例えば茶席では、
菓子の意匠・菓銘の意味や趣向について
会話を交わすことも
重要な茶の湯の楽しみの一つである。

教養、感性といった
素養に支えられて
色と自然を感じ、愛でる美学は
さらに深まっていく。

以前、
和菓子のおいしさを表わす言葉
の中で、
和菓子の魅力を「水」「季節」「名前」
などの観点から語っていたコラムを
紹介したが、
あの小さな和菓子には
「見た目の美しい美味しい菓子」
を越える大きな魅力が詰まっている。

 

 

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2022年4月17日 (日)

「自然な」色って何?

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「自然な」色って何?

- 「自然」と「人工」の線引きは難しい -

 

五感を通して人々の生活や
社会の変化を理解しようという
「感覚史」という研究分野があることを

久野 愛 (著)
視覚化する味覚-食を彩る資本主義
岩波新書
(以下水色部、本からの引用)

を読んで初めて知った。

この本では題名通り、
食べ物を味覚ではなく視覚、
特に「色」から考えている。

「まえがき」には

農業生産者や食品加工業者らは、
その食べ物の「自然な」色を再現し、
時には「自然よりも自然らしく」
見せるための技術やマーケティングに
多大な資金と労力をかけてきた。

という記述があるが、
考えてみると「自然な」というのが
何を指しているのか、と問われると
的確に答えることは難しい。

多くの人が共有する
「自然な」色という認識が、
翻って食品生産者らによる
色作りを規定してきた側面もある。

ここで「自然な」色という時、
それは、
人々がイメージする食品の
「あるべき」色という意味で、
本書では「当たり前の」色と
ほぼ同義に用いている。

よって、
自然に(人工的な操作なく)出現した色
という意味ではない。

ここで注意してほしいのは、
この自然な色やあるべき色という概念は、
ある時代や場所において、
人々が自然・あるべきだと
考えるようになった色
である。

私たちは一般に
トマトの赤やバナナの黄色を
「あるべき」色として認識しているが、
それはそう「考えるように」なった
今の時代の色でもあるわけだ。

本書では

 *フロリダのオレンジと
  カリフォルニアのオレンジ

 *バターとマーガリン

などを具体例として取り上げ
詳細に論じているが、
それらの色を巡る争いを通して

「天然着色料」と「人工(合成)着色料」、
「自然」と「人工」
の対比をまさに「色」から
深く考えさせられる。

たとえば、
「合成着色料」を使って、と聞くと
反応してしまう人も、

例えば牛の餌にニンジンなど
黄色(またはオレンジ色)の
色素を含む植物を混ぜて
食べさせることで、
牛乳およびバターに
黄色っぽい色味をつけることを
推奨した。

着色料は「人工的」な色の操作だが、
餌の材料を調整することは
あくまで「自然な」生産方法
だと
考えたのである。

などには、どうコメントするのだろう?

バターの色素が餌の一部に
由来するものであったとしても、
故意(人工的)にバターの色を
作り出していることに変わりはなく、
「自然」と「人工」の線引きは難しい。

トマトの色素を用いて表現された、
より「自然な」イチゴ色は、
どの程度「自然」であり、
また「人工的」なのだろうか。

 

加えて近年では、着色料の世界において
化学合成によって「天然」着色料を
生成する
方法まで開発されているという。
生成されたものは
合成着色料なのか天然着色料なのか。

 

 *「自然」と「人工」
 *「おいしそうに見える」ことと
  「実際においしい」こと

そういうものの関係を
「色」から考えてみる、
そんな視点を提供してくれる本だ。

 

 

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2021年11月 7日 (日)

『新しい料理の教科書』

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『新しい料理の教科書』

- 食材は変化しているのに調理方法は同じ? -

 

料理のレシピを見ていると、
今となっては理由は定かではないのに
昔からの常識として長く信じられている
調理方法がいくつもあることに気づく。

レシピが考案された当時の食材に対しては
どれもそれなりの理由があったのだろう。
しかし、
食材も流通経路も今は昔と大きく違う。
調理方法だけが「昔から同じ」
というのはおかしいのではないか、

「食材にあったベストな料理方法は
 時代によって違うのでないか」

その視点で、現在の食材を見ながら
定番となっている
調理方法の「当たり前」を
見直そうというのが、

樋口直哉 (著)
定番の“当たり前”を見直す 
新しい料理の教科書

(以下水色部、本からの引用)


実にreasonableな発想だ。

ハンバーグを例に具体的に見てみよう。

肉に塩を加えて練ると
ミオシンというタンパク質
溶け出します。
ミオシンは綱目構造をつくり、
肉汁を中に閉じ込めてくれます。

つまり、肉を練る目的は
ハンバーグをジューシーな
仕上がりにするためです。

と、練る必要性の説明から始まるが、
練りすぎを避けたほうがいいことも
後に理由を添えて説明している。

で、定番の見直し、という点では以下。

戦後に発表された
ハンバーグのレシピには、
ほぼすべて卵が入っています


これは昔、流通していた挽き肉が、
鮮度の悪いものばかりだったので
不足した結着力を補うために
入れていたのでしょう。

結着力のある今の挽き肉を使うのであれば、
「卵を使わない方が肉の味がしっかり出る
と卵を使わないレシピを推奨。

また、パン粉についても

既存のレシピの多くには
「パン粉は牛乳に浸す」
とありますが、
それはパン粉が乾燥しすぎて
固かった時代の話


最近のパン粉であれば
そのまま加えたほうがいいでしょう。
牛乳に浸してしまうと
肉汁を吸う効果が
なくなってしまいますからね。

また、よく聞く
「中心を凹ます」についても

昔のレシピには
「ハンバーグを成形するときは
 中心を凹ます」と書かれていますが、
その必要もありません。

凹ます理由は
「焼いている最中に
 中心が膨らんで
 火が通りにくくなるから」
とありますが、実際には
そんな事態は起きないからです。

中心が膨らむ理由は
外側の肉が縮むからで
主に肉種の練りすぎによるもの

今回のレシピ通りにつくれていれば、
中心が膨らんで困るようなことは
ありません


それよりも成形するときには
表面を滑らかにしておくことが重要です。

表面を滑らかにしておくと、
さきほど説明したミオシンが膜になって
肉汁をとどめてくれます。

合い挽き肉についても
実用的なコメントが添えられている。

豚肉は脂の融点が低いため、
少し混ぜると冷めても味が落ちない
というメリット
もあります。

お弁当に入れる場合には
特に豚肉の割合を増やすといいですが、
出来たてを食べる場合であれば、
豚肉の量は25%くらいまでに
抑えたほうがいいでしょう。

豚肉の割合が増えすぎると牛肉
香りが弱くなってしまいます。

こんな感じで、
定番の家庭料理の調理方法を
今の食材をベースに見直している。

 

昔からの調理法が
食材に合わせて変化しないのは
家庭料理の世界に限らないようだ。

2021年10月3日の朝日新聞GLOBEでは
三ツ星レストランのシェフ
岸田周三さんがこんなことを言っていた。

「100年も200年も前に
 フランスで作られたシステムを
 いまだに『これが本物だ』と
 言い張っていること自体が思考停止だ」

この100年の間に
 調理技術も機材も進化した


 今まで1週間かかって届いていた食材が
 半日で届くようになったのに、
 なぜ昔と同じ香辛料をかけて
 臭み抜きをするのか

 

理由もよくわからないまま
昔からの方法が盲目的に信じられている、

状況に合わせて
方法も変化させたほうが
いい結果に結びつくはずなのに
確立された「方法」に固執し
変化した状況との「組み合わせ」で
方法を見直そうとはしない、

それは、
それこそ料理の世界に限った話ではない。

 

 

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2021年4月11日 (日)

人類が他の動物に食べられていたころ

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人類が他の動物に食べられていたころ

- 生得の武器がない -

 

今週は、2つの驚く記事を目にした。

(1) 人類は「肉を食べ尽くしたあと」雑食に移行したと判明
  人はもともと肉食動物だったが、
  過剰狩猟のため、その後、
  植物性の栄養源を取り入れるようになり
  次第に雑食化していったとのこと。

  詳しい内容は、
   American Journal of Physical Anthropology
  に。

(2) 素粒子物理学の根幹崩れた? 磁気の測定値に未知のずれ
  素粒子物理学の基礎である
  「標準理論」で説明できない現象
  捉えたと、
  米フェルミ国立加速器研究所が
  2021年4月7日、発表した。
  素粒子ミューオンの磁気的な性質が、
  理論で想定される値から
  大きくずれていたという。

  理論が想定していない力が働いていたり、
  未知の素粒子が影響
したりしている
  可能性がある。

  元となる発表はこちら。
   First results from Fermilab’s Muon g-2 experiment strengthen evidence of new physics

どちらもこれから精査が必要だろうが、
長く広く信じられていたことが
書き換えられるかもしれない発表には
ドキリとさせられる。

仮に100%の新発見でなかったとしても、
そこにはこれまで見落としていたような
大事な視点や事実が
含まれていることも多々あるし。

今後の検証報告等に気をつけていきたい。

 

これらのニュース、特に(1)を耳にして
思い出した本があるので、
今日はその本について触れたい。

 

動物と人間の関係を
200冊以上の引用文献を駆使し、
 *ペット
 *動物虐待
 *屠畜と肉食
 *動物実験
 *動物の福祉・解放
などの視点から見つめ直している

生田武志 (著)
いのちへの礼儀
筑摩書房

(以下水色部、本からの引用)

は、

「いのちへの礼儀」という書名が
ある意味「救い」とも言える
実に重い本だった。

特に、畜産業(本では工業畜産とか
動物工場とかの言葉を使っているが)
における動物の扱いの実態は
読むことさえ辛い。

もちろん、肉も卵も食べているのだから
その恩恵は目一杯受けているし、
逆に、本来は知らなくてはいけないこと
なのかもしれないが、
やはり「残酷」と思える現実からは
どうしても目をそむけたくなる。

ただ、この本の価値は
そういった現実を
単に読者に知らせることにはない。

動物と人間との関係を
広く、冷静に見つめ直すことで
読者に「いのちへの礼儀」を
改めて真摯に考える
きっかけを与えてくれていることにある。

なので、客観的な事実がどうか、
という情報の問題だけでなく、
新たに気付かされることも多い。

450ページほどの内容豊かな本から、
そんな点に絞って
いくつか言葉を紹介したい。

最初はやはりこれ。

肉食しなくても生きていけるのに、
なぜわたしたちは
わざわざ動物を殺すのでしょうか

明確な解があるわけではないのだが、
まさに通奏低音のように
本を読んでいる間じゅう
静かに流れ続ける問いだ。

まずは歴史を振り返ってみよう。

ジャングルに住む
初期の人類は草食でしたが、
サバンナに進出した後、
250万年ほど前から
少量の肉を食べ始め、
200万年前には
肉食が定着したようです。

そんな古い食性がどうしてわかるのか?
化石骨から読み取れるようだ。

250万年前から200万年前の
オーストラロピテクスの
化石骨の分析では、
食性の70%が植物性、
30%以下が動物性となっています。

動物性は、昆虫や
トカゲなどの小型の脊椎動物を
食べていたことに由来するらしい。

そもそも、人類の
大きく平たい切歯と臼歯という特徴は、
「肉食」動物でも「草食」動物でも
「雑食」動物でもなく
「果実食」であることを示しています
(三浦慎悟(2018)
 『動物と人間 関係史の生物学』
 東京大学出版会)

 

さて、ここで話を次の段階の
「狩猟」に発展させようとすると
あることに気づく。

一般に、体重が150キログラムより
軽い動物は捕食されやすく

それ以上の体重の動物
(スイギュウ、サイ、カバなど)は
ほとんど捕食されないことが
知られています
(タンザニアの
 セレンゲティ国立公園での
 40年間の調査による)

そう、人間自体が
大きな動物の獲物だったのだ。

人類はほとんど生得の
武器のない生き物です。

ライオンやヒョウのように
時速70キロメートルで走れず、
鋭い牙もかぎ爪もありません。

チンパンジーは鋭い犬歯があり、
握力も約300キログラムあり、
ゴリラも150キログラムの体重で
握力は500キログラム程度ある
とされますが、それでも
現在の野生の霊長類は
年間「4匹中1匹」が
捕食されている
のですから
人類もそれに近い程度
食べられていたと考えられます
(事実、動物に食べられた
 跡の残るホモ・サピエンスの骨格

 各地で発掘されています)

まさに

人類は「狩人」であると同時に
他の動物たちの「食べもの」

だった時期があるわけだ。

ホモ・サピエンスが
「出アフリカ」を果たすのが
約6万年前、
船、弓矢、針などを発明するのが
約7万年前から3万年前、
狩猟具を身に着け
食物連鎖の頂点に立つようになるのには
かなり時間がかかったことになる。

「食べられていた」ころの記憶が
体のどこかに残っているのであれば
他の動物に対してもう少し
優しくなれるような気がするのだが。
残念ながらそこからも時間が経ちすぎた
ということなのだろうか。

 

 

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2021年1月17日 (日)

お酒は二十歳になってから?

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お酒は二十歳になってから?

- 13歳が酒6合! 問題は無銭飲食 -

 

五年前の2016年も1月17日は
日曜日だったようだ。

ちょうど5年前の
その日のブログに書いたのだが、
この季節になると必ず見返すドラマに
「その街のこども」
がある。
ご興味があればリンク先の記事を読んで、
というかDVDにもなっているので
ドラマ自体をぜひご覧になってみて下さい。

11年も前のドラマなのに、
今年は17日(16日深夜)に
NHK BSプレミアムで再放送してくれていた。

ドラマの設定と同じような年齢で
阪神淡路大震災を実体験している
森山未來さん、佐藤江梨子さんの
自然な演技にも引き込まれるが
なんと言っても渡辺あやさんの脚本が
すばらしい。

しつこいようだが名作ゆえ
再度お薦めしておきたい。

 

閑話休題(!?)
私は、「成人の日」と聞くと
いまだに1月15日が浮かんでしまう
昭和のおじさんだが、
朝日新聞が
明治・大正期紙面データベースを
整えていた10年ほど前、
未成年の酒とタバコに関して
こんな古い記事を紹介していた。
(以下水色部、2009年4月3日の
 朝日新聞の記事から引用)

 

1922(大正11)年4月1日付けの夕刊は
「明日からお酒を飲むな
 警視庁は不良少年退治」
という見出しで
未成年者飲酒禁止法のスタート
を伝える。

1922年、
ほぼ100年前ということになるが、
つまり、それまでは
子供でもお酒を飲んで
よかったわけだ。

実際

1889(明治22)年に
13歳の少年が
 浅草公園のそば屋で
 そば7杯、酒を6合飲食したが、
 金がないので警察に突き出された」
という記事がある。

問題になったのは
飲酒のほうではなく、
無銭飲食のほう。

それにしても
そば7杯と酒6合とはすごい量だ。

 

では、タバコのほうは
どうだったのだろう?

未成年者の喫煙禁止法ができたのは
飲酒禁止法より20年以上早い
1900(明治33)年だ。

タバコの規制のほうが
ずいぶん早かったようだ。

いずれによ、どちらも
最初から決まっていたわけではない。

わずか100年ほど前のことでさえそう。

歴史を読むときは、
当時のルールは?と
今のルールを当然と思わないで読む視点を
いつも忘れてはならない、と思っている。

 

 

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