食・文化

2019年9月29日 (日)

炭素14年代測定法の信頼性

(全体の目次はこちら



炭素14年代測定法の信頼性

- 「科学的分析」の儚(はかな)さ -

 

世界の富や権力は、
なぜ現在あるような形で
分配されてしまったのか?


なぜほかの形で分配されなかったのか?

たとえば、南北アメリカ大陸の先住民、
アフリカ大陸の人びと、そして
オーストラリア大陸のアポリジニが、
ヨーロッパ系やアジア系の人びとを
殺戮したり、征服したり、
絶滅させるようなことが、
なぜ起こらなかったのだろうか。

こんな壮大なテーマに
真正面からかつ
多角的に取り組んでいる

ジャレド・ダイアモンド(著)
倉骨彰(翻訳)
銃・病原菌・鉄
1万3000年にわたる人類史の謎
草思社文庫

(記事中、水色部は本からの引用)

 

前回
考察の対象となる「1万3000年」について
考えてみたが、
今日は、
歴史研究のまさにベースとなる
年代測定法のひとつ
「炭素14年代測定法」についての部分を
紹介したい。

本書で言及している
過去1万5000年にわたる期間は、
これまでの炭素14年代測定法ではなく、
新たに採用された
炭素14年代測定法
による
誤差を修正した数値を使用している。

と本文にも何度も出てくる通り、
従来のよく知られた炭素14年代測定法には
いろいろ問題があったようだ。

それはどんなもので、
どこに問題があったのか?
よく聞く年代測定法でもあるうえ、
そこで得られた数字は
歴史を考えるときの
根拠としてもよく使われるので
改めてその信頼性について学んでみたい。

まずは、測定法の原理から。

【炭素14年代測定法】

考古学では、
食料生産がおこなわれていた年代を
推定するのに炭素14年代測定法を
もちいている。

この測走法は、
あらゆる生命体を構成する
普遍的な原子のひとつである
炭素原子のなかの、
ほんの一部の放射性炭素14が、
生命体が死ぬと
一定の曲線を描いて減少し、
非放射性同位元素の窒素14に
変化することを利用して、
遺物に残存している
放射性炭素14の量を計算することで
年代を求める
というものである。

大気中には、
宇宙線の照射によって発生した
炭素14が常に存在している。

植物は大気中の炭素を取り入れるが、
そこには炭素12と炭素14が
一定の割合でふくまれている
(この割合は、炭素12が100万個に対して
 炭素14が1個である)。

植物の体内に取り込まれた炭素は、
その植物を食べる草食動物の
体内に取り込まれる。

さらに、その草食動物を食べる
肉食動物の体内に取り込まれる。

動植物が死ぬと、体内の炭素14は
5700年の半減期を経て炭素12に変化し、
死後4万年で大気中の濃度と
ほぼ同じレベルにまで減少して
測定不能になるか、
あるいは人工物の中にふくまれる
微量の炭素14との区別がむずかしくなる。

このように、遺跡の出土物は、
それに残っている
炭素14と炭素12の量を測定し、
その割合を算出することで、
年代を求めることができる

上記文章で理解できたであろうか?

簡単に言うと、
植物も動物も生きているときは
大気中と同じ比率で
体内に炭素14を含んでいるが、
死んでしまうと
大気からの炭素14の取り込みが
なくなるため
炭素14の半減期に従って
体内から炭素14が消えていく。

なので炭素14の比率を測れば
死んでから何年経ったのかがわかる、
そういう原理だ。

さて、長く使われていたこの方法の
どこに問題があったのだろうか。

本では2点、指摘されている。

【炭素14年代測定法の問題点1】

そのひとつは、
1980年代まで利用されていた技術が、
比較的多量(数グラム単位)の試料を
必要としていた
ことである。

数グラムという量は、
小さな種子や骨から
取りだせる量ではないので、
科学者たちは、
それらの遺物を直接測定するかわりに、
それらと
「かかわりがありそうなもの」
つまりそれらが出土した場所の
近くで出土し、
同時代のものと推定される遺物を
測定することが多かった。

「かかわりがありそうなもの」
として利用された典型的なものは、
炭化した燃えカス
である。

 しかし遺跡というものは、
そこから出土するすべてが
同時期に封印された
タイムカプセルであるとはかぎらない。

別々の時代に残されたものが、
たとえばミミズ、ネズミ、
その他の動物によってほじくり返されて、
混ざりあってしまうこともある。

したがって、ある時代の燃えカスが、
その時代より1000年も離れた時代に
死んだり食べられたりした動植物の
すぐそばから出土することも
ありうるのだ。

そこで、今日では、
試料に含まれる極微量の同位体
正確に数えて同位体比を測定する
「加速器質量分析法」
という方法を使って、
この問題を回避するようになりつつある。

 

【炭素14年代測定法の問題点2】

炭素14年代測定法の
もうひとつの問題は、
過去の大気中の
炭素14と炭素12の割合が一定でなく

年代とともにゆらいでいるため、
測定誤差が生じるということである。

しかしこの誤差の大きさは、
樹齢の長い木の年齢を数える
年齢年代測定法で求めることができる。

これによって木の年齢の
絶対的な年表(カレンダー)ができると、
その木の炭素の試料から、
ある年代の炭素14と炭素12の割合が
求められるので、
炭素14年代測走法で求められた年代は、
大気中の炭素14の割合のゆらぎを
考慮した正確な年代に
修正できるのである。

誤差無修正で、
ほぼ紀元前6000年から紀元前1000年の
あいだと測定された遺物に対して
誤差を修正してみると、
じつはそれより数世紀から数千年も前に
さかのぼるものだったりすることもある。

もうひとつは、なんと
炭素14の比率が
 年代とともにゆらいでいる

という事実。

年齢年代測定法によって
誤差の修正はできるようであるが
その範囲は限定的であろう。

 

【表記でわかる修正の有無】

最近では、いくぶん古い時代だと
思われる遺物に対しては、
炭素14年代測定法とは別の
放射性年代測定法
もちいられるようになった。

その結果、
これまで紀元前9000年頃のものと
されていた遺物が、
紀元前1万1000年頃のものであったと
結論づけられたことがある。

 考古学者は、

誤差を修正した年代を
「3000BC」というように
大文字で表記し、

修正されていない年代は
「3000bc」と
小文字で表記する


ことで、
両者を区別する傾向にある。

しかし、考古学の文献のなかには、
誤差を修正していない年代を
BCというように大文字で記述しながら、
その旨を明記しないものが多く、
混乱をまねくことがしばしばある。

この本では、過去1万5000年のあいだに
起こった出来事については
誤差を修正した年代をもちいている。

こうしてみると
「対象試料そのものの正確性」
「対象時代の大気の状態(炭素14比率)」
どちらもかなり
頼りない指標だということがわかる。

 

最近、過去の事件に関して、
最新のDNA判定結果が、
過去のDNA判定結果を覆えした例が、
ニュースになっていた。

当時としては「科学的に分析して」
同一人物のものと判断されたものが
最新の分析結果では別人のものであると。

「科学的な分析」は
絶対的な正しさではなく、
実際にはかなり「儚(はかな)い」ものだ。

「当時の知識や技術では
 それが正しかった」
という説明が通ってしまうという意味で。

客観的な証拠や分析は重要なものだが
「科学的な分析」という言葉には
常にそういった危うさが
含まれていることを
忘れてはならないと思う。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2019年8月11日 (日)

出雲大社

(全体の目次はこちら


出雲大社

- ぜんざいは神在(じんざい)? -

 

島根・鳥取方面への旅行、
最終日は、出雲大社にお参りした。

勢溜(せいだまり)の大鳥居から
松の参道と呼ばれる参道を
ゆるやかに上っていく。

Img_4306s

(写真はすべてiPadにて撮影)

ふと前方の鳥居を見ると、
そこから先、参道から人が消えている。
どうして?

Img_4308s

ここまで真ん中を歩いて来た人たちは
この鳥居から先、鳥居の両脇の道に
進路を変えているのだ。

神様の集まる出雲大社のこと、
「真ん中は神様の通る道で
 人はその両脇を歩く」
なる話も聞いたことがあったので、
「もしかしたら、このこと?」
と思いながら近づいていった。

鳥居の下まで来ると、
何か書いてある。
いったい、何が書いてあるのだろう?

Img_4309s

「松の根の保護のため
 参道左右をお進み下さい」

なんだ、松の養生のためか。
なぜかガッカリ。

脇の参道を歩くことになったが、
参道からちょっと右に目を遣ると
山の緑がほんとうに美しい。

Img_4311s

 

「ムスビの御神像」と呼ばれる像。

Img_4312s

立派な像ではあるが、
なぜか「気恥ずかしい」。

Img_4314s

 

「御自愛の御神像」

Img_4315s

因幡の白ウサギの話って、
子どものころ絵本で読んだ記憶しかない。

絵本で語られる物語というのは、
多くの子どもに知ってもらえるという
大きなメリットがある反面、
それだけで知った気になってしまう
そういう子どもを大量に生産してしまう
ある種の不幸を背負っている気がする。

「大人になってからちゃんと知ろう」
をサボっている自分の怠惰を棚に上げての
勝手な思い込みではあるが、
小学生のころ読んだ
「こども**全集」に入っていた話を
大人になってから「原作」で読んでみると、
その印象のあまりの落差に
驚くことはよくある。

絵本で知った、ならなおさらだ。

 

「拝殿」まで来た。

Img_4319s

出雲大社独特の
「2礼4拍手1礼」でお参りする。

左奥に本殿、右に拝殿

Img_4322s

 

境内を右回りに、大きく歩く。

左に八足門、右に観祭楼

Img_4324s

八足門

Img_4325s

右下の足元、赤い丸については
のちほど見学する歴史博物館で
驚きの事実を知ることになる。

 

御本殿西側

Img_4326s

西側から臨む御本殿

Img_4328s

 

素鵞社(そがのやしろ)
Img_4330s

境内の一番うしろ、
もっとも奥まったところにある。
大国主大神の父神とされる
素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀る社
御本殿を背後から見守るかのような
位置にある。

Img_4331s

 

真後ろから見る御本殿

Img_4333s

物理的な距離という意味では、
この真後ろが一番近いかもしれない。

東側から臨む、右が御本殿

Img_4338s

左から御本殿、御向社、天前社

Img_4342s

東十九社

Img_4344s

旧暦10月の神在月(かみありづき)の際
全国から訪れる神々の宿舎
西十九社として西側にもある。

御本殿を一周、拝殿に戻ってきた。

Img_4345s

 

お参りした後は、名物のコレを。

出雲割子そば

Img_4346s

蕎麦の実を皮つきのまま製粉するため
色は黒っぽくいが、香りもよく、
お参りで歩いて
ちょっとすいたお腹にピッタリ。

食事のあとはデザート代わりに
別なお店で「ぜんざい」を。

Img_4349s

このぜんざい、「縁結び」にからめて
なんと結んだ「蕎麦」が入っている。

Img_4352s

そもそも
「ぜんざい」の発祥はこの地だとか。

出雲では神在祭の時に
神在餅(じんざいもち)をふるまっていた。
「祇園物語」には
「赤豆を煮て汁を多くし、
 少し餅を入れ」とある。

この「じんざい」が
出雲弁でなまって「ぜんざい」となり、
京都に伝わったとのこと。

元は、神在(じんざい)か。

旅行最後に立ち寄った
島根県立古代出雲歴史博物館
の話は次回に。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

 

2019年6月16日 (日)

鳥取県の民藝めぐり(1)

(全体の目次はこちら


鳥取県の民藝めぐり(1)

- 吉田璋也(しょうや)の功績 -

 

大山登山で嬉しい達成感を味わえたうえ、
皆生(かいけ)温泉の恩恵にも浴したものの、
登山ド素人の我々夫婦は、予想通り、
足の筋肉痛を避けることはできなかった。

というわけで、登山の翌日は
「あまり歩かなくてもいいコース」
で動くことにした。

今回の旅行では、大山登山のほかに
もうひとつ、
ぜひやりたいと思っていることがあった。
それは、
「民藝の焼き物を見て回ること」。

というわけで、登山の翌日は、
「鳥取県の民藝に触れる一日」
とすることにした。

 

鳥取県の民藝を語るうえで欠かせないのが
吉田璋也(1898-1972)」だ。
まずは、彼が作った
「民藝美術館」から話を始めたい。

なお、参考図書は、
 鞍田崇 他著
 私の好きな民藝
 NHK出版

(以下、水色部は本からの引用)

 

【鳥取民藝美術館】

Tottorimingei1

吉田璋也さん、
どんな人だったのだろう?

山陰の民芸の発展に
大きく貢献した吉田璋也(しょうや)


開業医だった璋也は、
「民芸のプロデューサー」を自任。
地元の手仕事の伝統をもとに、
職人たちを指導して、
新しいデザインの民芸品を作らせ、
また職人の集団「鳥取民藝協団」も
組織しました。

こうした「新作民芸運動」を背景に、
璋也は昭和24年(1949年)、
自分が蒐集した民芸品を展示する
鳥取民藝美術館を開設した。

JR鳥取駅からすぐのところにある。

Img_4092s

(写真はすべてiPadで撮影)

 

1階には、璋也がデザイン
もしくはプロデュースした民芸品を
メインに展示してある。

Img_4080s

焼き物に限らず、家具や障子の桟や

Img_4090s

コンセントカバーのような小物まで、

Img_4082s

吉田璋也のセンスが感じられる。

2階には、蒐集した民芸品。
コレクションは鳥取地方に
限定されたものではなく、
日本はもとより中国等海外からのものもある。

Img_4086s

この美術館の目的は

来館者に民芸品の美しさを
伝えることだけでなく、
職人たちに民芸の美の基準を
示すこと
にありました。

ここにあるものを手本に、
新しい民芸品を
作ってもらおうと考えたのです。

 

民藝美術館のとなりには、
昭和7年(1932年)に吉田璋也が開いた、
日本初の民芸店「たくみ工芸店」がある。

Img_4093s

この民芸店、開店の理由が感動的だ。

「すごいと思うことですが、
 璋也は職人たちの生活のため、
 自分が作らせたものを
 すべて買い取ったんです


 それを売るための場所が
 必要だったんですね」

と美術館の理事が語っている。

さらにその隣には、
昭和37年(1962年)
民芸の器で郷土料理を提供する、
「たくみ割烹(かっぽう)店」
オープンする。

こちらは実際に
民芸品を使っている姿を見せ、
その使い勝手を知ってもらう場所、
と位置づけられている。

写真左から
「美術館」「たくみ工芸店」「たくみ割烹」
の3棟が並んで建っている。

Img_4096s

今回訪問した時には、
割烹店の前(写真右下)には
入店のための行列ができていた。

 

ちなみに美術館の人の話によると、
通りを挟んだ反対側ある
吉田歯科医院は
吉田璋也のお孫さんがやっている
歯医者さんらしい。

Img_4091s

 

美の実例・基準を提示するだけでなく、
職人に作らせたものをすべて買い取って
それを売る場、使う場を設けながら
新しい作品を作る機会を与えていく。

「民芸のプロデューサー」として
なんという実行力だろう。
エピソードと共に話を聞くと
忘れられない名前になる、吉田璋也。

最後に、人柄を偲ぶため
民藝館の入館パンフレットの写真を
添えておきたい。

Yoshidasyoya

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2019年5月26日 (日)

世界遺産「石見銀山」大森地区

(全体の目次はこちら


世界遺産「石見銀山」大森地区

- 「おだやかな暮らしを守る」という合意 -

 

改元に合わせた連休を利用して、
夫婦で国内旅行を楽しんできた。

選んだのは島根と鳥取。
ふたりとも行ったことがない
初訪問の地だ。

旅行記として、
訪問地をいくつか紹介したい。

最初は、
世界遺産「石見(いわみ)銀山」。

江戸時代の町並みの雰囲気を残す
大森地区と呼ばれるエリアと、
坑道跡を残す銀山エリアとが
主な見学地となっているが、
環境保全のため
どちらも一般車の乗り入れが
制限されている。

なので、車で向かった観光客は
両エリアから少し離れた
「世界遺産センター」の駐車場に
車を停めて、そこからバスで
目的地に向かうことになる。

我々夫婦が「世界遺産センター」に
到着したのは11時半ごろ。
ところが、連休中のせいか
大きな駐車場はすでに「満車」。
入り口に車の列ができていた。

山の中で、他に駐車場の選択肢が
あるわけではないため
しかたなく並んで待つことにした。

道路左側に寄って並んでいると
その横を、
観光地との間を往復しているバスが
通り抜けていく。

当然ながら
バスは帰る客も運んでくるので、
バスが通過するたびに
待機している車の列が動く。

思ったよりも回転がはやく、
長く待たずに駐車することができた。

まずは「世界遺産センター」で
地区全体の説明を聞き、地図をもらって
バスで大森地区に向かった。

【大森地区】
江戸時代の武家屋敷や代官所跡、
銀山で栄えた豪商の住宅などが並ぶ通りを
ゆっくりと散策。

【石見銀山資料館(大森代官所跡)】

P5013023s

 

この通りの雰囲気だけでも十分楽しめる。

P5013039s

 

【西性寺】

P5013042s

町並みも緑も美しい。

P5013046s



観世音寺はちょっと高くなっているので、
登ると町を見下ろすことができる。

P5013053s

石州瓦と呼ばれる赤瓦が印象的だ。

P5013054s

 

【町並み交流センター(旧大森区裁判所)】

P5013057s

 

「ベッカライ コンディトライ ヒダカ」
という美味しいパン屋さんがある、
と聞いていたので、
そこのパンを楽しみにしていたのだが、
お店の前まで行ってみると運悪くお休み。

「残念だったね」と
夫婦で言い合っていたころ
かなり怪しかった雲から
ポツポツと雨が舞い始めた。

「ヒダカさんのパンも食べられないし、
 雨宿りを兼ねてお昼でも食べようか」と
近くのイタリアン「ぎんざん」に入った。

P5013064s

メニューを見ると
ランチセットにはなんと
「ヒダカさんのバゲット」
が含まれているではないか。
まさに地元のお店の連携だ。

P5013063s

単なる偶然とはいえ、こちらの気持ちを
汲みとってもらえたようで、
妙に嬉しい。

チャンスは意外なところに
ころがっているものだ。
一切れだけではあったものの、
希望を叶えることができた。

ランチのパスタも、
ヒダカさんのバゲットも、
どちらも美味しく◎。

お店に入る前の気分は「江戸」だったのに
舌はイタリアンやバゲットを
楽しんでいるという
組合せのギャップもまた楽しい。

 

昼食をすませて外に出ても
残念ながら雨は上がっていなかった。
でも、ウィンドブレーカのフードで
しのげる程度なので散策続行。

【菓子屋:有馬光栄堂】

P5013066s

雰囲気のある町並みが続く。

P5013069s

 

取ってつけたような
ケバケバしい看板の土産物屋も
一軒もない。

P5013073s

小雨が舞う天気だったとはいえ
「世界遺産センター」の駐車場が満車でも
通りの人出はこの程度。

P5013076s

雰囲気をのんびり楽しむことを
邪魔しない「静かさ」がいい。

P5013082s

飲み物の自動販売機にも
街の景観を意識した工夫が。

P5013113s

懐かしいポストも現役だ。

P5013084s

 

なんとも味のある看板に引き寄せられた。

P5013087s

築170年の古民家を最大限に活かし、
およそ300坪の敷地を舞台に、
衣・食・住にまつわるライフスタイルを
おしゃれに提案している
「群言堂 石見銀山本店」だ。

P5013099s

中庭を眺めるカフェのほか、

P5013098s

魅力ある雑貨、衣類を並べた店舗は

P5013101s

かなりゆっくり回っても飽きることはない。

P5013104s

古いチーク材を大胆に使った
写真立てが妙に気に入ったので、
思わず購入。

 

二階は読書スペースとして開放されている。

P5013108s

読書向けの空間ながら、
椅子にすわったり、寝転んだり、
自由なスタイルで本を読める
なんともゆるい空間だ。

P5013110s

 

この群言堂を展開しているのが、
「石見銀山生活文化研究所」という会社。

人口わずか400人の島根県大田市大森町に
根を張りながら、
アパレルの企画・製造・販売、
飲食店経営、古民家再生などを手掛け、
全国に30店舗を展開、
という規模にまでなっているという。

人口400人の町に日本の未来をみた。
「群言堂」で知られる
「石見銀山生活文化研究所」
との新連載がキックオフ!


という記事がグリーンズにあった。

この記事の中で、
石見銀山生活文化研究所の
広報担当・三浦類さんが、
たいへん興味深いことを言っている。
(以下水色部は上記記事からの引用)

ピークのときは、
年間80万人以上が訪れたんです。
何十台も観光バスが来て。

世界遺産登録直後、
自治会協議会が中心になって
住民憲章をつくりました。

その一文には
「私たちはこのまちでおだやかさと
 賑わいを両立していきます」
とありますが、

世界遺産になったからといって
これまでの暮らしを変えるのではなく、
おだやかな暮らしがある
ということこそをこの町の魅力として
お客様に発信していこうと
宣言
しています。

いま観光客数は半分以下になって
40万人を切っていますが、
暮らしている身としては
落ち着いていて、
休みの日も適度な賑わいで
暮らしやすい、いいまちです。

極端に観光地化されなかったのは、
このまちにとってよかった

思っています。

派手派手しい看板や
土産物屋さんもつくらず
有料駐車場もない


田畑や古民家をつぶして
駐車場にするのは簡単ですが、
誰もそうはしないというモラルが
共有されています


景観を守り、
暮らしが息づいているまち、
観光地としては珍しい形で
存続していると思います。

住民の合意で、派手派手しい看板や
土産物屋がつくられていないのならば
すばらしいではないか。

その合意には「まちのサイズ」も
意味があるようだ。

「400人というまちのサイズは
 どうですか?」

の質問に対して、三浦さんは、

人の顔が覚えられる、
お互いの顔が見える安心感が
ありますね。

意識の共有や合意形成が
しやすいとも言えます


(中略)

世界遺産登録されたタイミングのときに、
もし人口が1000人なら
合意形成できずに観光地化してしまう
可能性はあったのかもしれませんね

小さな町ゆえ、
景観と暮らしが守られている。

ほんとうに
キーホルダや饅頭を売っているような
土産物屋には一軒も出会わなかった。

世界遺産に認定された町ではあるけれど
ひとりでも多くの観光客が来ればいい、
土産物がたくさん売れればいい、
そんなことを目指してはいない
別の価値観が流れている、
静かな観光地だ。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2019年1月 6日 (日)

初めての中国・上海 (6)

(全体の目次はこちら


初めての中国・上海 (6)

- 見下ろす景色と豫園と -

 

すでに6日も経ってしまいましたが、
あけましておめでとうございます。

=========
安倍首相、
新元号は「4月1日公表」と正式発表
=========
なる見出しが「産経ニュース」で流れ、
それに対して
「えっ! 新元号って
 『4月1日公表』っていう名前に
 なったっていうこと?」
と白々しい誤解のコメントで
ツイッターが盛り上がるのは
そんなにきらいじゃぁないのですが
その中に、
「読み方は、
 『わたぬききみひら』でしょ」
なるコメントがあって
さらに気に入りました。

四月一日になると
綿の入っている着物を脱いで
あわせの着物になる事から
四月一日(四月朔日)を
『わたぬき』と読むのだとか。

世界はいろいろなところから
広がるものです。

とまぁ、
自分自身への備忘録を兼ねた
ブログではありますが、
気ままに続けていきたいと
思っていますので、
今後ともどうぞよろしくお願いします。

皆様にとって素敵な一年となりますよう。

***************

というわけで(?)
前回に引き続き、
2018年11月、出張で行った
中国・上海で印象に残ったことを
写真を添えて紹介したい。
今日はその最終回。

 

仕事が終わって日本に帰る土曜日。
飛行機の出発時間までの半日、
上海観光をしようと思っていた。

すると、私が「上海は初めて」、
と言っていたせいか、
訪問先の会社の方のおひとりが
気を遣って下さり、
休日にもかかわらず、
「案内しますよ」
と言って来て下さった。

初めての国であっても、
自分であれやこれや悩みながら
観光することはちっとも苦ではなかったし、
自分ペースで回れるほうが
気が楽だと思っていたし、
なにより相手のお休みの日を
私のために使わせてしまうのは
申し訳なかったので、
一旦は丁寧にお断りした。

ところが、金曜日
私の固辞を忘れたかのように
「明日はどこに行きたい?」
とかなり積極的。
熱意におされて
今回は厚意に甘えることにした。

現地中国人による英語のガイド付き
半日ツアー、贅沢な時間だ。
こうなれば、逆に任せてしまおう。

土曜日の朝、
ホテルまで来てくれた彼が
最初に「行こう!」と
連れて行ってくれたのは、
黄浦江という川の東側「浦東エリア」。

高層ビルが多い地域の中でも、
特に目立っているビルのひとつ。
ここに上って、まずは上から眺めよう、
ということになった。

Pb032369s

展望台があるような高い塔やビルは
他にいくつもあるのに、
「ここは日本の森ビルが作ったンですよ。
 エレベータも東芝のもので
 すごく静かで速いンです」
と日本人が少しでも喜びそうな
日本に関連の深いビルを選んでくれる
その心遣いがうれしい。

91階のレストランを目指す。

Pb032334s

「上海環球金融中心」
2008年に日本の森ビルが
15年の歳月をかけて完成させた。
高さは494mもある。
日本一の「あべのハルカス」でも300mだ。

91階からの眺め。
正面の赤い玉を持つ塔は、
上海のシンボルタワー
「東方明珠塔」高さ462m。

Pb032340s

下の写真右側の高層ビルは
「金茂大厦88層観光庁」
高さ420.5m、88階建ての高層ビル

Pb032348s

前夜、金曜日の夜
こんなふうにライトアップされていた

Pb022267ss

対岸のバンドエリアも
全景がよく見渡せる。

Pb032363s

川沿いのビルをライトアップすることは、
regulationで決まっているらしい。
照明の電気代も
税金で払われているのだとか。

79階から94階には5つ星のホテル
「パークハイアット上海」が入っている。
なんて高いところにあるホテルなんだ。
(値段も高いらしいけれど)

ここは、ホテルの朝食にも
使われているレストランゆえ
景色だけでなく雰囲気もいい。

Pb032364s

 

降りてくると、すぐとなりには
2016年に完成したばかりの
「上海中心(上海タワー)」。
高さはなんと632m!!
もう一度書く、
日本一の「あべのハルカス」でも300mだ。

Pb032367s

 

91階から頭部が見えていた
金茂大厦88層観光庁も
下から見るとこんな感じ。
竹をモチーフにした外観らしいが、
言われてみるとわからなくもない。

Pb032368s

 

近代的な超高層ビル群を
見たあとは、
川の対岸、
「豫園(よえん)」に向かった。

Pb032380s

豫園は
江南古典庭園の名園と称されるところだが、
まわりは豫園商城と呼ばれる
土産物屋が並ぶ
一大観光スポットとなっている。

Pb032384s

Pb032388s

 

まずはチケットを買って
豫園(よえん)見学。

Pb032395s

入り口の門は小さいが、
見上げると石の彫刻がすごい。

Pb032402s

Pb032396s

 

漸入佳境と呼ばれる遊廊。

Pb032409s

 

仰山堂からの庭の眺め。

Pb032406s

 

仰山堂は1866年に創建された。

Pb032413s

 

足元を見ると、
敷き詰められた石の模様が
エリアによって違っていておもしろい。

Pb032416s

Pb032422s

 

くり抜き門が随所に見られる。

Pb032423s

 

石の配置に特徴のある庭園

Pb032429s

 

瓦にも細部まで手の込んだ施しが。

Pb032432s

 

屋根も独特な形状をしている。

Pb032439s

 

「龍壁」と呼ばれる塀。

Pb032448s

Pb032453s

思わず写真を撮りたくなるが、
同行の中国人によると
再建時に観光用に作られたもので
もともと古くからあったものではない、
とのこと。


ガジュマルで作られた家具や彫刻のある
建物もある。

Pb032455s

 

池や遊廊との組合せも絶妙。

Pb032463s

 

内園と呼ばれる
7m四方の舞台を囲む空間。

Pb032486s

 

窓の格子も細かくて美しい。

Pb032487s

 

豫園を出ると、
同じトーンで作られた
巨大な土産物屋が目の前に迫ってくる。

Pb032491s

 

豫園の外ながら、隣接して建つ
「上海緑波廊酒楼」。
中国十大レストランの1つに名を連ねる
上海料理の名店だ。

Pb032500s

ちょうど季節ということもあり、
ここで有名な「上海蟹」を
食べることにした。

昼食時は予約ができないらしく、
受付で名前を登録して順番を待つ。
もちろんお知らせはスマホに来る。
なので、入り口付近でじっと待たずに
近くの土産物店をウロウロしながら
待つことができるのだが、
土曜日の昼時、園周辺は観光客で大混雑。
呼ばれてもサクサクと移動できないので、
ついつい入口付近で待つ人が多くなる。

ここで待っているとき、同行の中国人が
おもしろいことを言った。

「このお店は、
 観光地のベストロケーションにあるので
 観光客でいつも溢れかえっている。

 レストランの名店としても
 よく知られていて、
 大統領や王様級のお客様も来る。

 つまり商売としては大繁盛なのだが、
 お店はgovernmentがやっている。
 なので、お客様で大賑わいなのに、
 店員にはお客への笑顔がないンだ。
 見ててみて。
 笑わないから」

思わずその視点で店員を見てしまう。
なるほど、キビキビと動き、
事務的に忙しそうに働いてはいるが、
愛想笑いも含めて笑顔がない。

忙しくて機嫌が悪い、
というわけではないようだ。

笑顔がなくても、
対応自体が悪いわけではない。

上海蟹を頼むと、調理前の
数杯の蟹をザルに入れて持ってきて
「選べ」と言う。

もちろん私には選べないので、
同行の中国人に頼んでしまった。

「どこを見て選ぶの?」

会話が弾む。
2杯決定!

Pb032505s

しばらく待つと、
この状態で目の前に再登場。

Pb032514s

食べ方(解体の仕方)を
教わりながら初上海蟹。

Pb032516s

蟹を食べると皆静かになってしまうのは
洋の東西、というか国を問わないようだ。
手も汚れてしまったので
以降写真なし。
独特な甘みもあって
ほんとうにおいしい蟹だった。

 

Pb032519s

半日ではあったが、
ガイド付きの贅沢な観光終了。

丁寧に礼を言い、空港に向かった。

もし、彼が日本に来た時は、
ぜひともこの御礼をしたいと思うのだが、
さて、半日あったとして、
東京ならどこに案内しよう?

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2018年12月23日 (日)

初めての中国・上海 (4)

(全体の目次はこちら


初めての中国・上海 (4)

- ひとりで飲むな -

 

前回に引き続き、
2018年11月、出張で行った
中国・上海で印象に残ったことを
写真を添えて紹介したい。

 

【ひとりで飲むな】
日本からの訪問者は私ひとりだったが、
訪問先の会社の方が親睦会を兼ねた
夕食の機会を作ってくださった。

「中国の宴会は、
 白酒(パイチュウ)などで
 相当呑まされる」

と聞いていたので、
かなり覚悟していたのだが、
技術屋が中心のメンバだったせいか
お行儀のいい、なごやかな宴会だった。
営業の会だとこうはいかない、と
中国人自身が言っていたので、
業種によっては
雰囲気が大きく違うのかもしれない。


Pb012158s

「日本との違い」で目についたものを。

まず箸。
縦方向に二膳置いてある。
洋食のナイフ・フォークのように
外側から使うのだろうか?

聞いてみると、
外側の一膳が取り箸で、
内側の一膳は自分用、とのこと。

取り箸を大皿ごとにつけないという発想。
なるほど。

間違えないように、
見た目がかなり違ったトーンの
二組になっているが、
よく見ていると、ちゃんと守られていたのは
宴会の最初のころのみだった。
途中からはもう、中国人も皆
どっちがどっちだか、という感じ。

あまり神経質に
気にして使っているわけではないようだ。

ちなみに、
「日本では箸を置くとき
 横方向に置くのはどうしてか?」
と質問されたが、答えられなかった。

箸を置く角度が90度違うことは
中国と日本の違いのひとつと
認識されているようだ。

Pb012159s

 

グラスを合わせた
いわゆる「乾杯」を皆でしたあと、

食事をしていると、
「**さん、謝謝(シエシエ)」
とか言いながら、グラスをもった人が
次から次へとやってくる。

お互いグラスを持ち上げて、
顔を合わせてニコッ、
その後、酒を口に運ぶ。

この「グラスの挨拶」が、
中国人同士の間でも
あちこちで行われている。

「これってどういう習慣?」
と聞くと
「Don't drink alone.」だって。
つまり
「ひとりで飲むな」
が基本型らしい。

たとえ自分のグラスの酒を飲むときでも、
勝手にグラスを取ってひとりで飲まず、
必ず誰かにひと言「グラスの挨拶」をし、
誘って飲むようにせよ、
ということのようだ。

また、「乾杯」と言うと
まさに飲み干さなければならないらしく、
お行儀のいいこの宴会では
あまり「乾杯」の声は聞かれなかった。

ちょっと面倒なようだが、
「**さん、謝謝(シエシエ)」は
気軽に声をかけるきっかけになるし
まさにひとりで飲むことはなくなるし
悪くない。

 

【ビル全体ディスプレイ】
日本で見たことはないが、
ビル全体がディプレイとなっているビルを
いくつも見た。

Pb012176s

表示が常に動いているので
写真で美しい瞬間をとらえるのは難しいが
文字表示だけでなく
かなり遊び心もある演出になっている。

Pb022264s

いずれにせよ、夜のみとはいえ
インパクトはかなり大きい。

Pb022269s

動画でもお見せしたいと
YouTubeをちょっと探していたら
上海ではないものの
同じ中国・深センのビル全体ディスプレイの
すごい動画があったので、
参考までに貼っておきたい。

ビル全体どころか、
街中のビルがシンクロしている。

近未来映画のシーンを見ているよう。
「いゃいゃ、これはCGでしょ」
と言ってしまいそうな
オジさん感覚が情けない。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2018年10月28日 (日)

オーストリア旅行記 (62) ホイリゲ(新酒ワイン居酒屋)

(全体の目次はこちら


オーストリア旅行記 (62) ホイリゲ(新酒ワイン居酒屋)

- ベートーヴェンの散歩道もいっしょに -

 

Heurige(ホイリゲ)とは、
今年の」という意味。
今年できた新しいワインを指すと同時に
ホイリゲを飲ませる酒場
ホイリゲと呼ばれているようだ。

ウィーン郊外の
Grinzing(グリツィング)
Heiligenstadt(ハイリゲンシュタット)
とよばれるエリアに
ホイリゲが多いというので
路面電車でグリツィングに行ってみた。

ウィーン市街から30分弱。
バスのように細かく停車しながら行くので
決して速くはないし、
移動距離自体もたいしたことはないと
思うのだが、それでも車窓の景色は、
どんどん変化していく。

P7169467s

終点となっているグリツィングは
落ち着いた静かな街だった。

居酒屋が並ぶ賑やかな通り、
といった雰囲気は全くない。
ウィーン市街地の喧騒から
そう遠くない位置にいるのが
ウソのよう。

P7169470s

石畳の小さな脇道も
ちょっと物語を感じさせる。

P7169468s

 

ホイリゲつまり
「新酒ワイン居酒屋」の
一軒に入ってみた。
バッハヘングル(Bach-Hengl)

P7169474s

外が気持ちよさそうだったので
緑の多い屋外席に。

子連れの家族もいる。

P7169475s

頼んだのはいろいろ味わえる
「肉料理の組合せプレート」。
例によってすごいボリュームだ。

P7169484s

酒のほうは、
ホイリゲの名前の通り
今年の(?)白ワイン。
飲んでみると
確かに味が「若い」。

P7169476s

ガイドブック等には、
「ジョッキで出てくる」と
書かれていることが多いのだが、
注文の仕方が間違っていたのか、
ここのお店がそうなのか
ワイングラスで出てきた。

なお、ホイリゲでは、
Gespritzter(ゲシュプリツター)と呼ばれる
なんとワインを炭酸水で、
しかも1対1の割合で割った飲み方

あるというので頼んでみた。

すると
ワインと一緒にこんな炭酸水がでてきた。

P7169477s

沸騰しているお湯でも
見たことがないほどの泡、泡、泡。
いったいどうすればこんな強烈な
炭酸水を作ることができるのだろう。

それでなくても「若い」ワインを
炭酸水で割ってしまうので、
まさにガブガブ飲めてしまう。

 

しばらくすると、
バイオリンとアコーディオンの
陽気な生演奏が始まった。

P7169478s

ホイリゲで奏でられる昔ながらの曲は、
「シュランメル」と呼ばれている。
19世紀末にシュランメル兄弟が演奏して
ウィーン中に広まった大衆音楽。

民謡風であったり、
ワルツ(舞曲)風であったり、
ハンガリー風であったり、と
酒場に合う曲が多いが、
ちょっとメランコリックな部分もあって
そこに独特な味がある。

P7169480s

演奏は各テーブルを回り
リクエストにも応えている。

雰囲気だけ貼っておこう。

 

大人の会話(?)で盛り上がっている
テーブルもある。
なんともいい雰囲気だ。

P7169485s

なお、このお店、
有名店なのか
各国著名人が訪問した際の写真で
店内の壁一面が埋め尽くされていた。

P7169488s

ブッシュやらプーチンやら
大統領級もゴロゴロいる。

P7169490s

 

食事のあとは、
お屋敷と呼びたくなるような

P7169495s

大きな家が並んでいる
高級住宅地(?)を通りを抜けて

P7169496s

「ベートーヴェンがよく散歩した」
という道まで行ってみた。

道に沿って
今は小さな公園もあり
緑豊かな中、子どもたちは
バスケットボールを楽しんでいた。
「ベートーヴェンパーク」!?

P7169500s

公園内には銅像もある。

P7169501s

付近には、
ベートーヴェンが第九を書いたり
遺書を書いたことで知られる家まであり
ベートーヴェンゆかりの地として
小さな案内板も出ている。

P7169503s

この道を散歩しながら
交響曲第6番「田園」を書いたと聞くと
後ろに手を回して、うつむき加減に
ゆっくり歩いてみたくなる。

P7169504s

訪問した時間が遅かったため
暗くなってきてしまい
「日没タイムアウト」という
感じになってしまったが、
緑豊かな雰囲気だけは
十分感じ取ることができた。

楽しい居酒屋と豊かな緑、
そういう空気の中で、
「田園」が生まれ、
「合唱付き」が生まれたのだ。

 

十月革命から逃れるために
家族とともに米国に亡命した
ロシアの作曲家ラフマニノフは
その後5年以上にもわたって
作曲することができなかった。

その理由を聞かれて
こう言ったという。

「どうやって作曲するのですか?
 私はもう何年ものあいだ、
 (懐かしい故国ロシアの)
 ライ麦畑のささやきも
 白樺のざわめきも
 聞いていないのですから…」

(詳しくはここを参照下さい)
作曲には「環境」が必要なのだ。

ベートーヴェンが感じた風と緑が
そのままここにある。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2018年9月16日 (日)

オーストリア旅行記 (56) ウィーン会議とフランス料理

(全体の目次はこちら


オーストリア旅行記 (56) ウィーン会議とフランス料理

- 胃袋を掴め -

 

マリア・テレジアの 初回
スペイン乗馬学校を紹介した。

王宮内にある室内馬場は、
「馬場」とはいえ
2層のバルコニー席で囲まれた
シャンデリアの下がる
優雅な空間だ。

P7179571s

ここを「馬場」ではなく、
別な用途に使っていた時期がある。

フランス革命とナポレオン戦争という
ヨーロッパ大混乱ののち、
秩序の再建と領土分割を目的として
開催されたウィーン会議(1814-1815)

この長い会議の期間中、
舞踏会場として使われたのが、
この室内馬場だ。

有名な
「会議は踊る、されど進まず」
と言われたまさに「踊る」の会場。

このウィーン会議、

青木ゆり子 (著)
日本の洋食:
洋食から紐解く日本の歴史と文化
(シリーズ・ニッポン再発見)
ミネルヴァ書房

(以下水色部、本からの引用)

を読んでいたら
フランス料理との関係
たいへん興味深い記述があった。

街歩きの際に撮ったスナップ写真を
挿絵代わりに挿入しながら、
今日は料理の話を紹介したい。

P7179711s

 

最初に簡単に、
フランスとフランス料理の関係を
見ておこう。

フランス料理と呼ばれる今の料理は
フランスの伝統的な料理
というわけではない。

【イタリアからやってきた
 フランス料理】

フランス料理は現在、
ヨーロッパをはじめ、
日本を含む世界中の多くの国で
外交儀礼の際の正餐
として
採用されています。

しかし、
16世紀までのフランスは
貴族でさえ手づかみで
がつがつと食事するような
野暮なマナーしかない国でした。

ナイフ・フォークを使った食事など
洗練された食事作法が
取り入れられたのは、
国王アンリ2世のもとに
イタリアから嫁いだ
カトリーヌ・ド・メディシスと
その専属料理人が
フランス王室に
やってきてからの
ことです。

P7159108s

 

そんな
フランスの王宮でのみ供されていた
特別な料理が
フランスの街の中に広がっていくのには
歴史的な「あのできごと」が
大きなきっかけになった。

【料理が広がるきっかけ】

その後、1789年に勃発した
フランス革命によって
王宮を追われた料理人たちが
街に出てレストランを開き

フランス料理は
18世紀から19世紀にかけて
彼らの活躍で
その質がめざましく向上しました。

P7179605s

 

フランス革命による
「王宮を追われた料理人たち」によって
フランスの街に広がり始めた
「フランス料理」。

そして1815年、
ウィーン会議が開催される。

【ウィーン会議】

フランス料理が∃-ロッパで一躍、
脚光を浴びる出来事が起こりました


1815年から1816年にかけて
オーストリア帝国の首都
ウィーンで開催された
「ウィーン会議」です。

 フランス革命後に
軍事独裁政権を樹立した
ナポレオン・ボナパルトは、
ナポレオン戦争によって
一時期∃-ロッパ大陸の
ほとんどを征服しましたが、
結局、失敗して失脚。

その結果
ヨーロッパの国境はスタズタになり、
戦後処理を話し合うために

フランスと、
∃-ロッパ列強国だったイギリスや
ロシア、プロイセン、
オーストリアらの代表が
集ったのが
この国際会議の目的でした。

P7159110s

 

約1年におよぶ会議の期間中、
フランスの外交官の
お抱え料理人が大活躍する。

【敗戦国の宴会戦術】

フランスからは外交官
シャルル・モーリス・ド・
タレーラン・べリゴールが出席し、
会議期間中にしばしばお抱え料理人の
アントナン・カレームの手による
夕食会を開催
して各国の有力者を
もてなしました。

カレームは貧民街で育ち、
パリの菓子店で働いているところを
美食家のタレーランに
腕を見込まれた人で、
その卓越した料理は客人を魅了。

「会議は踊る、されど進まず」
といわれ、
各国の思惑が飛び交いながら
1年にもわたって続いた
ウィーン会議ですが、
この宴会戦術を使った
タレーランの巧みな外交によって、
フランスは
敗戦国の立場だったにもかかわらず、
戦勝国に要求を呑ませることができた

というエピソードが残っています。

P7158944s

 

具体的に、料理の力が
単独でどれほどのものであったのかは
もちろん明確にしようがないが、
たいへん興味深いエピソードだ。

まさに胃袋を掴まれた、ということだろう。

いずにせよ、
主要国の代表が集まっている以上
その影響力は計り知れない。

実際、料理人カレームは、その後

ロシア帝国のアレクサンドル1世や
イギリス王室のジョージ4世らの
依頼を受けて料理人を務め、
フランス料理が西洋料理を
代表する存在
に導いたのです。

P7159103s

フランス料理が世界に広がり、
そして、世界中の多くの国で
外交儀礼の際の正餐になっていく背景には
こんなきっかけがあったのだ。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2018年6月17日 (日)

オーストリア旅行記 (43) 銀器コレクション

(全体の目次はこちら


オーストリア旅行記 (43) 銀器コレクション

- 33mのセンターピース -

 

旧王宮の中、

* 「宮廷銀器コレクション」
* 「シシィ博物館」
* 「皇帝の部屋」&「皇妃シシィの住居」

の3つのエリアは
見学順路として繋がっており、
続けてみることができる。

このうち、写真撮影OKなのは
「宮廷銀器コレクション」のみ。

【宮廷銀器コレクション】

P7158867s

行ってみて驚くのは、
新王宮内の「古楽器博物館
などと違って、こちらは人、人、人。
ツアーや団体客も含めて、
観光客の大メインルートとなっている。

チケットを購入すると、
日本語も選べるオーディオガイドを
全員に貸し出してくれるので、
時間に余裕があれば、
一点一点ガイドを聞きながら
丁寧に回ることができる。

もちろん「銀」だけではない。

P7158869s

そう言えば、
ここのオーディオガイドは
いわゆる受話器タイプ
本体を片手に持ち、
耳に当てながら音を聞く、
電話しているときのスタイル。

本体には首から下げて持ち歩けるよう
ネック・ストラップがついているが、
音を聞くときは、耳に当てるしかない。

ところが、このスタイルでは、
片耳、片手がふさがってしまうため、
メモを取ったり、
写真を撮ったりが
きわめてやりにくい。

なんとかならないものだろうか?

本体をよく見ると
3.5mmのイヤホンジャックがある。
思わず
いつも持ち歩いているWalkmanの
イヤホンを抜いて挿してみた。

完璧だ!
首からぶら下がっている本体から
イヤホンを通じて音が聞こえる。
このとき、両手は完全にフリー!

写真もメモも音を聞きながら
自由自在にできる。

ここでは、
Myイヤホンの機内持ち込みを推奨したが、
Myイヤホンは、
博物館のオーディオガイドでも役に立つ


見学の際は、お薦め。
写真を撮ったりメモを取ったりしたい方
ぜひお忘れなく。

 

P7158867s

さて、展示の内容。

ハプスブルク家歴代の銀器と
金器(?)の量はすさまじく
最初はその量に驚くものの
途中からある種の感覚が
完全に麻痺してくる。


P7158866s

銀器・金器だけでなく
陶磁器ももちろん大量にあり
ヨーロッパの名窯で作られたものが並ぶ。

銀器にも陶磁器にも
双頭の鷲の紋章が。

P7158865s

P7158873s

P7158865ss

クリスタルガラスは、
ロブマイヤーのものが多い。

P7158862s

P7158864s

数ある食器・調度品の中でも、
食卓を飾る豪華なセンターピースは
ひときわ目をひく。

【古いフランス風センターピース】

P7158876s

ブロンズに金メッキされている。
1838年くらいのもの。

P7158874s

いったいどれほどの金が
使われているのだろう。

P7158878s

帰るときに寄った
ミュージアムショップには
日本語のこんなガイドブックが
あったので購入してみた。

Ginnki1

この中に、
シェーンブルン宮殿大広間の祝宴で
センターピースが
実際に使われている時の絵がある。

Ginnki2

なるほど、これほど大きなテーブルを
飾る必要があるわけだ。

19世紀前半にミラノで作られた
センターピースは33mにもおよぶ。

P7158870s

そう言えば、
上のガイドブックに、
「磁器」と「貴金属食器」の関係について
こんな興味深い記述があった。
ちょっと引用したい。(水色部)

18世紀当時、
ウィーン磁器工房にとって
皇帝の宮廷は
決して重要な顧客ではなかった。

磁器はまだ装飾品であり、
高価なばかりでなく
壊れやすかったので、
皇帝家の食卓には
金、金メッキした銀、銀など、
貴金属の食器が使われていたからである。

磁器は主にデザート、スープ、
朝食セットに利用され、
あるいは神話のシーンなどを示す
群像としてテーブルに飾られた。

壊れやすいのは確かにそうだが、
18世紀ごろ、基本的に
磁器はまだ装飾品だったのだ。

メインは貴金属の食器。

 

ところが、
ハプスブルク家といえども
いつでも潤沢に
金銀を使えたわけではない。

戦費調達のために、宮廷の食器まで
貨幣鋳造に回されたこともあるのだ。

そのとき、磁器が活躍している。

ナポレオン戦争の戦費調達に、
窮余の策として食器類の金銀も
貨幣鋳造に転用された
ため、
宮廷における磁器の需要が
飛躍的に増大した。

宮廷の部局でも皇帝家の食卓にも、
ますます多くの磁器製品が
調達されるようになった。

1814年の春になって
戦後処理を論議する国際会議のため
ウィーンが候補地になった時、
ハブスブルク家の宮廷には貴金属の食器が
殆ど残っていなかった


再び窮余の策としてウィーン磁器工房に
公式のディナーに使う
金色のディナー・セットが注文された。

貴金属の食器が
ほとんど残っていなかったので、
「磁器工房」に「金色」の
ディナー・セットを注文、
そんなこともあったのだ。

 

磁器と言えば、
日本の伊万里コレクションもあった。

P7158882s

「宮廷銀器コレクション」の
エリアを抜けると、外に出ることなく
そのまま「シシィ博物館」へと
導かれていく。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2018年5月20日 (日)

オーストリア旅行記 (39) ザッハ・トルテ

(全体の目次はこちら


オーストリア旅行記 (39) ザッハ・トルテ

- ○と△ -

 

前回、カフェの話を少し書いたが、
ウィーンのカフェと言えば
この話題にも触れておきたい。

ウィーンを代表する
チョコレートケーキのひとつ
ザッハ・トルテ

国立歌劇場のすぐ裏手にある
「ホテル・ザッハー」の一階に
カフェがあり、そこで供されている。

P7179530s

このお店、とにかく観光客に大人気で
いつ覗いても行列ができていた。

本場で食べる、というか
本家のザッハ・トルテの味や如何に、
と興味はあるものの
貴重なウィーンでの滞在時間を
ケーキの行列のためだけに
潰してしまう気にはなれず、
何度か前を通るものの、
なかなか立ち寄れないでいた。

P7179531s

というわけで、
「ここなら」と選んだ訪問時間は
夕食後!

夕食後にケーキを食べに行く輩は
ゼロとは言わないが多くはないだろう。

訪問したのは夜9時。
「寝る前に...」の声が
どこからか聞こえてきたが、
「ひと晩のこと」と
夫婦共々しばし無視することにした。

さすがに行列はできていなかったが、
それでも次から次に客は来ており
その時間でも店内は満員状態だった。

 

【カフェ ザッハー】

P7159183s

ここは、とにかく
店の雰囲気からしておしゃれ。

P7159174s

ふたりで寄ったので、
二種類のケーキを選び、
半分ずつ味見してみることにした。

P7159172s

もちろん、ひとつは
本家「ザッハ・トルテ」だ。

P7159179s

ホイップした生クリームが添えてある。
「ザッハー」の刻印のある「丸い」形の
チョコレートプレートが乗っている。

外側は見ての通りのチョコレートだが
スポンジ部分に
アンズのジャムが塗ってあるので、
食べると軽くアンズの香りが広がる。

店の雰囲気とケーキの味と、
両方をゆっくり楽しんだあと、
午後10時過ぎに店を出ようとすると、
なんと並んでいる方が数名いた。

P7159182s

 

もう一箇所、ウィーン旧市街に
ザッハ・トルテが
食べられるところがある。

【カフェ デーメル】
歌劇場のすぐ裏手の「ザッハー」と
対比して言うならば、
王宮のすぐそばの「デーメル」。

P7179614s

左奥ドームは王宮、
右側、白いテラス席がデーメル。

皇妃エリーザベトは
毎日のように使いを出して
デーメルのケーキを届けさせた、
と言われているが、まさに
「宮中御用達菓子商」。

P7179613s

こちらのザッハ・トルテはこんな感じ。

P7179620s

上に乗ったチョコレートプレートは
三角形だ。

 

一緒に食べたケーキも
おしゃれで美味。

P7179618s

今はどちらも
正真正銘の「ザッハ・トルテ」が
食べられる二軒だが、
名前を見れば明らかなように
そもそもは「ザッハー」のもの。

この二軒、「ザッハ・トルテ」を巡って
争っていた時期がある


どんな顛末だったのか、
少し覗いてみよう。

 

1930年代、
「ザッハー」の経営難を助けた
「デーメル」は
「ザッハー」から
ザッハ・トルテの販売権を得、
販売を始める。

順調に売上を伸ばすデーメルだったが、
その後、ザッハーから
「オリジナル・ザッハ・トルテ」と
標示するのは権利の侵害だ、として
その差し止めを求める裁判を
起こされてしまう。

多くの証言者が立った長い裁判の結果、
デーメルのものは
「デーメル・ザッハ・トルテ」
ザッハーのものは
「オリジナル・ザッハ・トルテ」
として売られることになった。

ケーキの上に乗っている
チョコレートのネームプレート。
ザッハーは〇(丸く)、
デーメルは△(三角)。
どちらがどちらかはひと目でわかる。


Img_0241s

ちなみに、お店の入り口近くの
ガラスケースを見てケーキを注文できる
デーメルのようなお店は、
コンディトライ(菓子店)と呼ばれ、
専門店としてカフェとは区別して
呼ばれることもあるようだ。

Img_0242s

肝心な味のほうは、
ザッハーもデーメルも
申し分なく美味しかったが、
「最高にうまいケーキだったか?」
と問われれば、
「もっとうまいザッハ・トルテは
 (そう呼ぶのがマズければ
  ザッハ・トルテのような
  チョコレートケーキは)
 日本にあるぜ」
と思ったのが正直な感想。

繊細さ、滑らかさ、甘さの深み、
日本のおいしいケーキが誇るべき
圧倒的な優位点は食べ比べても揺るがない。
それは単に「私が日本人だから」
そう思うだけなのだろうか?

いつの日か、
日本のおいしいケーキと食べ比べた
ウィーンの方の率直な感想を
ぜひ伺ってみたいものだ。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

最近のトラックバック

2019年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ