食・文化

2024年7月21日 (日)

ワイングラスにワインは 1/3 だけれど

(全体の目次はこちら


ワイングラスにワインは 1/3 だけれど

- 『道具のブツリ』 -

 

「長い年月をかけて
 人の英知が集まってできた道具は、
 みごとにブツリの理に
 かなっていることをお伝えしたい」
との熱い思いで物理の先生が書いた

田中幸, 結城千代子 (著)
道具のブツリ

雷鳥社

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

は、日常よく目にする道具に関わる
ブツリの話をだれにでも理解できるよう
わかりやすく解説してくれている。

単行本としては見たこともないような
変形版だし、それに合わせての製本も
凝ったものだが、
大塚文香さんのやさしいイラストが
あふれていて、本全体の印象としては
ブツリの本っぽくない(?)
ソフトなトーンでまとまっている。
著者のおふたりは大学の同級生とか。

その中での、ワイングラスの説明に
たいへん印象深い記述があったので
今日はその部分を紹介したい。

古代ローマの食卓や
キリスト教の聖餐餐式では、
ワインは銀やガラスの器に
注がれていました。

現在のレストランで見かけるような、
ふくらみのあるボウルと
足がついたワイングラスが
登場したのは、
20世紀後半になってからのこと


この形は、ブドウの品種や産地、
醸造方法により
味や香りが大きく異なるワインの特徴を
引きだせるようにと
オーストリアのリーデル社が
設計したものです。

20世紀後半、
足のついたワイングラスの歴史は
意外に浅いもののようだ。

現在のワイングラスが誕生した
20世紀ごろまで味覚はそれぞれ、
甘みは舌先、酸味は舌の両脇、
苦みは舌根で
感じられると考えられ、
ワイングラスもこれを意識して
デザインされました。

苦みが特徴の円熟した赤ワイン
大ぶりのボルドー型ワイングラスに、

酸味が特徴の赤ワイン
口のすぼまった
ブルゴーニュ型ワイングラスに、

がよいとされたのは、
グラスのふくらみで流速を変えることで
味覚を感じやすいとされていた舌の部位に
適した味がよく流れ込むように、
グラスがデザインされていたかららしい。

ところが、ところが、

ところが、21世紀になると、
舌や口内奥に分布する
「味蕾」と呼ばれる小さな器官が
五味を感じていることが判明しました。

つまり、酸味や甘味などの
それぞれの味覚は
舌の特定の部分で感じられるのではなく、
舌の全領域ですべての味を
感じていたことが分かってきた
のです。

というわけで、味覚の研究が進むにつれて
当初のグラスに込められた狙いが
十分発揮されているのか、
疑問が生じてきている部分もあるようだが、
これもまた、
道具の一歴史としておもしろい。

 

ワインで味とともに
忘れてはならないのは香り。
こちらももちろんグラスの形が
大きく関わってくる。

ボルドー型のように
ボウルのふくらみが小さければ、
先に揮発する成分と
遅れて揮発する成分で
香りに段階が生まれて、
花や果実のような香りから
アルコールの香りというように
香りの変化を楽しむことができます。

ブルゴーニュ型のように
ボウルのふくらみが大きく
口がすぼまったグラスは、
ワインの表面の揮発量に対し
グラスの口径が小さいので
先に揮発した香りが滞留しやすく、
グラス内で異なる成分が
混じり合います

これによって複雑な香りを
堪能できるのです。

で、今日紹介したかった記述は
以下の部分。

ワインを注ぐときは、
グラスの3分の1程度が
望ましい
といわれていますが、
それは残りの空間を
ワインから揮発した香りで
満たすためなのだそうです。

(中略)

目に見えないけれども、
ワイングラスには
「ワインの成分」が
グラスいっぱいに
湛えられている
のです。

ワインが 1/3 入ったグラスは、
1/3 しか入っていないのではなく、
 1/3 がワインで
 2/3 がワインの香りで
 満たされていると。

ブツリの視点は、
目には見えないこういう豊かさにも
気付かせてくれる。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2023年8月20日 (日)

食べるものを恵んでもらおう、という決め事

(全体の目次はこちら


食べるものを恵んでもらおう、という決め事

- 木皿泉さんの脚本裏話 -

 

今回も、2003年に放送された
テレビドラマ「すいか」について
書きたいと思う。

冒頭部、DVDと
書籍化された脚本の紹介部分は
前回と同じ。
繰り返しの掲載、ご容赦あれ。
(前記事との重複部分は読み飛ばしたい
 ということであれば
 ここをクリック下さい)

=+=+=+=+=+=+=+=+=

夏になると
木皿泉さんの脚本で放送された
テレビドラマ「すいか」を
見返したくなる。
主演は小林聡美さん。

放送は2003年の夏だったので
もう20年も前のドラマということになるが、
今でもブルーレイやDVD-BOXが
On Sale状態なのは、
ファンとして嬉しい限りだ。

ブルーレイBOX


DVD BOX

三軒茶屋にある
賄いつきの下宿「ハピネス三茶」を舞台に
そこに住む四人の女性を中心に描かれる
小さな物語。

小林聡美さん、ともさかりえさん、
市川実日子さん、浅丘ルリ子さん
が四人をみごとに演じている。

当初シナリオブックも出たが、
たった3千部だったらしく、
手に入れるのが難しかった。
ところがその後、
河出書房新社からの文庫で再発売となり
今は入手可能。

木皿 泉 (著)
すいか 1

河出文庫 <2巻構成>

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに)

Kindleでは「合本版」もある。

=+=+=+=+=+=+=+=+=

今日は、上の河出文庫「すいか2」にある
「あとがき」を紹介したい。
(以下水色部は本からの引用)

ドラマのセリフにはなかった
脚本家「木皿泉」さんの声だ。

そうそう、「木皿泉」というのは
実際にはご夫婦で、共同執筆。
「私たち」という
一人称を使っているのは、そのせいだ。

「すいか」を書くにあたって、
私たちだけの密かな決め事があった。

それは、毎回、誰かに食べるものを
恵んでもらおう
という事である。

刺し身のトロに始まって、ケーキ、
豆腐、桃、メロン、米、松阪牛、
饅頭、松茸。

ハピネス三茶の住人は、
かくも様々な食べ物を
人様(ひとさま)から
分けていただいてきた。

 昔は、到来物があると、
近所に配ったり
配られたりしたものである。が、
いつの間にか、見ず知らずの人に
食べ物を分けてもらうのは、
どこか気の重い事に
なってしまったようだ。

なんておもしろい「決め事」だろう。
「食べ物を恵んでもらう」なんて。
改めて気をつけて見てみると
確かに、いろいろな食べ物が
うまく組み込まれている。

「すいか」は、ハピネス三茶という
下宿の中だけで繰り広げられる、
それこそ閉じられた世界のドラマだが、
だからこそ、
どこかで世間とつながっている事を
描いておきたかった。

ある時は、拾い物であったり、
おすそ分けであったり、
押しつけられたものであったり、
失敬してきたものであったり、と
様々な形ではあるが、
外から食べ物がやってきて、
それを住人たちは何のためらいもなく
口にする


そういうふうに、
世間とちゃんと
つながっている人たちを描こう。
これが二人で決めた約束事だった。

そもそも賄い付きの下宿を
舞台にしているため、ドラマでは
一緒に食べるシーンや料理、
大きなテーブルが
効果的に使われている。

それに加えて、到来物を
自己ルールとして設定していたなんて。

「もらう」、「皆で分ける」、
そこには金銭による交換や分配にはない
特別な人の繋がりがある。

ゴリラの生態を通して
「円くなって向き合いながら
一緒に同じものを食べる」ことの意味を
人類学者の山極壽一さんが
語っていたことを、以前
「円くなって穏やかに同じものを食べる」
に書いた。

その記事の最後の部分を引用したい。

そう言えば、
故郷の「」という字は、
ふたりが食物をはさんで
向かい合っている様子
」を
表している、と聞いたことがある。
確かによく見るとそんな形、
構成になっている。

そこにある「音」が「響」であり、
そういった
飲食のもてなしが「饗」であると。

「円くなって向き合いながら
 一緒に同じものを
 穏やかに食べられる場所」
それがまさに、ふるさと(故郷)。

食べるものを通じて
「ハピネス三茶」は
住人にとっての
まさに故郷になっていった。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2023年3月 5日 (日)

微笑むような火加減で

(全体の目次はこちら


微笑むような火加減で

- 「レシピ」と「おいしいもの」の間 -

 

題名の通り、
「もっとおいしく」の視点で
料理を見直している

樋口直哉 (著)
もっとおいしく作れたら

マガジンハウス新書

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

は、料理のレシピも含まれているとはいえ
樋口さんの料理への思いが伝わってきて
読み物としてもおもしろい。

基本姿勢は

料理にプロもアマも関係なく、
あるのは素材を生かすための
方法だけだ。

であり、

「家庭料理とレストランの料理は別」
という意見があるが、
僕は同意しない。

ではあるが

40mlの生クリームを加える。
生クリームの分量が中途半端なので、
わざわざ買うのはちょっと……
という人は

のような家庭料理ならではの
小さな戸惑いへの配慮も忘れていない。

特に興味深かったのは、
レシピを書く際に、
「どんなふうに料理を伝えるか」
に悩んでいる部分の記述だ。

例えば骨付きの鶏肉から
ブイヨンをつくるのであれば、
温度でいうと95℃くらいで
煮出すのがいい。

しかし、毎回温度を
計るわけにもいかないので 
伝え方が重要になってくる。

温度記述だけして
突き放そうとしていない。

水の温度ひとつをとっても

水の温度を決める要素は
大きく二つ。

一つはもちろん
熱源から鍋に伝わる熱で 
火を強くすれば温度が高くなる。

でも、水の沸点は、
台風による気圧の変化や
高地のような高度によって
変わってくる。

もう一つ。
忘れがちな要素に
煮汁が蒸発することで生じる
気化熱がある。

(中略)

鍋の水温は
この気化熱によって失われる温度と、
下から加えられる
熱のバランスで決まる

さらに、そこには
鍋の口径や、蓋の有無も
関係してくるので

単純に「弱火で煮る」と
レシピに書いてあっても、
じつは関係する要素が意外に多い。

 

スープを例にこんな表現を紹介している。

どのスープも真髄はたった一つ。
フランス語で(ミジョテ)と表現される
強すぎない火加減である。
ミジョテはとろ火で煮込む、と
よく訳されるけれど、
フランス人はよく
スープの表面が
 微笑んでいるような火加減

という。

とろ火や弱火といった
鍋の大きさや熱源との距離
などによって違う火加減を使わず、
料理の状態を使った表現。

樋口さんも

そう考えると
「微笑むように」という表現は
レシピに従うよりも
料理の状態を観察することの
重要性を示唆していて、
つくづく素晴らしいと思う。

とコメントしている。

そうそう、ほんとうは手順ではなく、
「状態を観察すること」が
料理の肝のはず
なのに
手順が優先してしまっている傾向があるのは
どうしたことか。

「レシピ」と「おいしいもの」の間が
なかなか埋まらない
理由のひとつかもしれない。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2022年11月13日 (日)

舌はノドの奥にはえた腕!?

(全体の目次はこちら


舌はノドの奥にはえた腕!?

- 音色、音の色に違和感はなく -

 

実際の講演は
今から40年以上も前の話になるが、
解剖学者の三木成夫さんが、
保育園で講演した内容をまとめた

三木成夫 (著)
内臓とこころ

河出文庫

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

は、たいへんユニークな視点で語られた
「こころ」の本だ。

独特な口調で
幼児の発育過程を語りながら、
内臓とこころを結びつけ、
話は、宇宙のリズムや
4億年の進化の過程にまで
広がっていく。

一方で、

ただ、舌の筋肉だけは、
さすがに鰓(えら)の筋肉、
すなわち内臓系ではなくて、
体壁系の筋肉です。
(中略)

舌の筋肉だけは
手足と相同の筋肉
です。

われわれはよく
「ノドから手が出る」
というでしょう。

舌といえば、ノドの奥にはえた腕
だと思えばいい。

のような、
ユーモアあふれる大胆な表現もあって
あっと言う間に「三木ワールド」に
とりこまれてしまう。

舌はノドの奥にはえた腕!?
強烈すぎるフレーズだ。

講演を原稿化したものゆえ、
読みやすくはあるものの、
論理的には話が飛ぶ部分もあり、
「えっ?」と思うところもあるが、
それも含めてひとつの味だ。

簡単にはまとめられない、
三木さんの「こころ」論は本に譲るとして、
印象的なフレーズを2つ紹介したい。

(1) 原初の姿 (指差しこそ人類!)

ルートヴィヒ・クラーゲスという、
ドイツの哲学者は、
幼児が「アー」と声を出しながら、
遠くのものを指差す---この動作こそ
人間を動物から区別する、
最初の標識
だといっています。

どんなに馴れた猫でも、ソレそこだ!と
指差すのがわからない。
鼻づらをその指の先に持ってきて、
ペロペロなめる……

指差しが認識できず、
指先を舐める猫か、なるほど。

赤ちゃんも、
「なめ廻し」の時期を過ぎたころから
「指差し」を始めるようになる。

クラーゲスは、
この呼称音を伴う指差し動作のなかに、
じつは、原初の人類の”思考”の姿
あるのだといっています。
スゴい眼力ですね

この感じは、
しかし現代でも充分にわかります。

たとえば私たち、ビルの屋上から
真っ赤な夕焼け雲を見たりした時、
思わず「アー」と声を出しながら、
指差しの
少なくとも促迫は覚えるでしょう。

この瞬間、私たちはもう
好むと好まざるとにかかわらず、
原初の姿に立ち還っているのです。

圧倒的な大自然を前にした、
その時の思考状態ですね・・・。

頭の中はけっして空っぽではない

圧倒的な大自然を前にしたとき、
言葉にできない根源的な幸福感に
包まれることは確かにある。

あれは原始の姿に立ち還った
そのリラックス感から
来るものなのだろうか?

ミケランジェロ作の
システィーナ礼拝堂の天井画の
アダムの人差し指に対して

アダムの人差し指に
魂が注入される瞬間。
人類誕生の曙が
指差しの未然形として描かれている

こんな表現ができる人は
他にいないだろう。

私どもの”あたま”は
”こころ”で感じたものを、
いわば切り取って固定する

作用を持っている。

あの印象と把握の関係です。

そしてやがて、この切り取りと固定が、
あの一点の「照準」という
高度の機能に発展してゆくのですが、
「指差し」は、この照準の”ハシリ”
ということでしょう。

つまり、この段階で
もう”あたま”の働きの
微かな萌(きざ)しが
出ているのです。

 

(2) 「音色」(音の色?)

私たちの目で見るものも、
耳で聞くものも、
すべて大脳皮質の段階では
融通無礙に交流し合っております

フォルマリンで固定した人間の
大脳皮質下の「髄質」を見ますと、
ここでは、
ちょうどキノコの柄を割ぐ感じで、
無数の線維の集団を
割いでゆくことができる。

視覚領と聴覚領の間でも、
この両者の橋わたしは豊富です


連合線維と呼ばれる。

視覚と聴覚の交流?
以下の言葉の例で考えると
わかりやすい。

「香りを聞く」「味を見る」
「感触を味わう」
などなど、

皆さん、
あとでゆっくり数えてください。

どんな感覚も四通八達で、
たがいに自由自在に
結び付くことができる。

大脳皮質は
こうした連合線維の巨大な固まりです。

<中略>

私ども人間は、
こうした、感覚のいわば「互換」が、
とくに視覚と聴覚の間、
それも視覚から聴覚に向かって
発達しているのでしょう。

「音」は聴覚、「色」は視覚、
でも「音色」という言葉は
違和感なく溶け込んでいる。

解剖学の知識が全くない遠い昔から
私たちはその交流に
気づいていたに違いない。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2022年10月 2日 (日)

鰆(さわら)を料理店で秋にだす

(全体の目次はこちら


鰆(さわら)を料理店で秋にだす

- 盛り方のしゃれたひと工夫 -

 

東京にある日本料理店で
総料理長を務める野﨑洋光さんが書いた
下記の本には、
おいしく料理を作るための
特に素材の味を活かすための
ちょっとしたヒントが
各ページにちりばめられている。

野﨑 洋光(のざきひろみつ) (著)
おいしく食べる 食材の手帖
池田書店

(以下水色部、本からの引用)

長年の経験に基づくコメントは
多岐にわたり、

 「ほうれん草」は
 熱湯でゆでてもいいけれど、

 アブラナ科の「小松菜」は
 80℃くらいのお湯のほうが
 本来の味が引き出せる。

 他にも、同じアブラナ科の野菜
  かぶ
  カリフラワー
  キャベツ
  大根
  菜の花
  白菜
  ブロッコリー
  水菜
 などは、
 グラグラと沸騰したものではなく
 80℃くらいのお湯のほうがいい。

といった調理法に関するものから

 かぼちゃを選ぶとき、皮の色が一部分だけ
 オレンジ色や黄色になっているものを
 見ることがあるが、
 あれは日光にあたっていなかっただけで
 品質に問題はない。
 むしろ、ここの色が濃いものほど
 甘くておいしい

のような買い物アドバイス、

調理法によって、
むく皮の厚さを変えている意味、

ゆでたり、煮たりするときの
ふたをする・しないが味や色に与える影響、

加えて

じゃがいもは、
イモ科ではなくナス科!
ちなみに、
イモ科という分類はもともとない。

といったビックリ豆知識まで
食材や料理に関する知識を
多方面から楽しむことができる。

本の内容自体は
「素材の味を最大限に活かす調理」
を基本メッセージに、
家庭料理にむけて書かれたものだが
ところどころに
プロならではコメントがあって、
そこがなかなか興味深い。
印象的なのはコレ。

漢字では鰆と書き、
春を告げる魚とされています。

これは、かつて春になると
瀬戸内海に産卵のために
集まってきたことから
あてられた字です。

しかし、脂ののった冬のものも
寒さわらとして関東では好まれ、
春に限らず楽しめる魚なのです。

けれど、春のイメージが強く、
料理屋ではほかの季節は出しにくい


そこで、秋は皮目を下にして盛る
なんてこともします。
春の裏側は秋なので、
しゃれをきかせるというわけです。

漢字で書くと違和感があるなら、
平仮名にするなんて手もありますね。

おいしいのに、漢字の影響もあって
料理店ではだしにくい秋の鰆、
それを盛り方のしゃれで克服しているなんて。

日本料理のおしゃれなところのひとつだ。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2022年5月29日 (日)

九州・佐世保 一日観光

(全体の目次はこちら


九州・佐世保 一日観光

- もう少し近くに寄らせて -

 

新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の
広がりにより
旅行できない期間が長く続いていたが、
この5月、久しぶりに出かけられたので、
メモと写真を残しておきたい。

訪問先は、初訪問となる九州・佐世保と唐津。
唐津では知らなかった歴史との出会いがあり、
旅を機会にまた世界が広がったのだが、
まずは佐世保から書き始めたい。

(1) 九十九島

佐世保観光の目玉のひとつ、
九十九島はいろいろな場所から
楽しむことができる。
全景を、ということであれば
石岳展望台からの眺めは特にお薦めだ。

P4301661s

ハリウッド映画「ラスト・サムライ」の
ロケ地になった、という案内も出ているが、
島々の景色はほんとうに美しい。

P4301672s

遊覧船に乗って海から眺めるのもいい。

P4301622s

200人も乗れる規模の遊覧船ながら、
かなり狭い島の間にグングン入っていく。

P4301624s

船上では
「九十九島と言いますが、
島の数は99ではなく、208もあるのです」
とのアナウンスが流れている。

海面を眺めていると
明らかに島と呼べるものもあるが、
海中の岩山のようなものもある。
はて?
何をもって「島」と呼べるのだろう?
そう思いながら船を降りると、
観光案内所には
ちゃんと「ここでの島の定義」が出ていた。

 1年中で一番潮位が高い時に
 水面から出ていて、
 陸生の植物が生えている陸地を
 「島」と定めて数えると、
 九十九島には208の島があります。


なるほど。
陸生の植物が生えていることが
条件のひとつなンだ。

 

(2) 旧佐世保海軍工廠 修理艦船繋留場
   (立神係船池)


弓張岳(ゆみはりだけ)展望台まで登ると
九十九島方面とともに
佐世保の街を一望できる。

P4301607s

その中でも特に印象的なのは
中央右に見えている
旧佐世保海軍工廠 修理艦船繋留場
(立神係船池)。

工廠は「こうしょう」と読む。
軍需工場のことで、
武器・弾薬をはじめとする軍需品を
開発・製造・修理・貯蔵・支給するための
施設。

P4301606s

「凹字状の構造物が工廠の中核施設だった
 修理艦船繋留場(立神係船池)」
との説明案内板が設置されているが、
ご覧の通り、まさに図面のままの形の施設を
眼下に望むことができる。

凹字状の岸壁は総延長1,699m。
常時海水に触れる面に
大規模にコンクリートが用いられた
初めての岸壁だ。

驚くのはその製造年。
明治39年(1906)からの11年

今から100年以上も前に、
耐海水コンクリート技術が
確立していたわけだ。

コンクリート構造物の本格的な海洋進出の
画期となった建造物ということになる。

 

(3) 佐世保重工業(株)佐世保造船所
   (旧佐世保海軍工廠) 施設群


思わず足が止まってしまう
第七船渠(現第四ドック)。

P4301643s

昭和15年(1940)に完成。
全長343.8m、全幅51.3m。
この写真でその大きさが伝わるだろうか。
写真中央の小さな白い点が一台の自動車。

昭和16年7月には
三菱長崎造船所で建造中だった
戦艦武蔵が入渠し、
スクリューや舵、水中聴音器など
艤装の一部を行っている。

クレーンを始め、
なにもかもが巨大で興奮してしまうが、
その圧倒的な迫力は
写真や言葉ではなかなか伝えられない。
全身で体感するしかない、感じ。

P4301660s

いずれにせよ、
これら佐世保重工業の巨大施設は
観光客向けには公開されておらず、
近くを走る道路の歩道から
柵ごしに眺めるしかない。
まさに覗き見だ。

 

(4) 佐世保バーガー

市内の
一直線の長~いアーケード商店街も
シャッター商店街にはなっておらず、
人通りも多く賑わっている。

P4301684s

お昼には、
「佐世保バーガー」を選んでみた。
1950年ごろに米軍関係者から持ち込まれた
ハンバーガーらしいが
特に変わった点があるわけではない。

作り置きしていないので、
待たされるものの、できたてを
美味しくいただくことができる。

店内には
「Where Are You From?
 Plz put the Pin」
(どこから来たの?ピンをさして)
のメッセージとともに
世界地図が貼ってあった。

P4301686s

ピンひとつひとつに
ここ佐世保のハンバーガー屋さんに
立ち寄ったことの物語があるかと思うと
打った人にいろいろ話を聞いてみたくなる。

 

一日観光を楽しんだ佐世保。
九十九島の自然はほんとうに美しかったが、
欲求不満なのは佐世保重工業の巨大施設。

観光客がもっとそばで見られるような
観光資源化はしてもらえないものだろうか?
工場としての実作業を邪魔することなく
だれもが見られるようにすることは
可能だと思うのだが。
もちろんガイド付きツアーでもいい。

柵の外からの覗き見しか手段がないなんて
あまりにももったいない。
その巨大さにも、歴史にも
ワクワクさせる要素があるので
多くの観光客を惹きつけることができると
思うのだが。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2022年5月 8日 (日)

「私はきれいなゴミを作っている」

(全体の目次はこちら



「私はきれいなゴミを作っている」

- 生産者も消費者も双方が変わることで -

 

スクラップブックをめくっていたら

朝日新聞の2021年12月3日「ひと」欄
で紹介されていた
エチオピアで人と環境にやさしい
 バッグをつくる起業家
 鮫島弘子さん

の記事が目に留まった。
(以下水色部、記事からの引用)

鮫島さんは、
羊の革を使ったバッグブランド
「anduamet(アンドゥ・アメット)」
を設立し、
代表兼デザイナーとして
活躍しているという。

使うのは食肉の副産物で、
環境対策をした工場でなめされた皮だけ。

元ストリートチルドレンや
読み書きできない人を雇い、
忍耐強く20人の職人を育ててきた。

原点は、
デザイナーとして働いた
化粧品会社で感じた疑問だという。

美術専門学校を出たばかりで
仕事は面白かったが、
新製品を出すたびに
大量の商品が廃棄された。

私はきれいなゴミを作っている

そう思った鮫島さんは、
化粧品会社を3年で辞め、
青年海外協力隊に応募。
派遣先のエチオピアで羊革と
出会い、その後、エチオピアに渡って
起業することになったという。

「私はきれいなゴミを作っている」
なんとも悲しい、虚しい言葉ではないか。

化粧品に限らない。
衣料品も食料品も
大量廃棄の問題はほんとうによく耳にする。

もちろん、たとえば
新商品ブランドの確立と
拡販を目的にした旧商品の廃棄と
食料品の廃棄は
そもそもその理由が全く違うものだが
結果として
「きれいなゴミ」を
大量に発生させていることは同じだ。

どんな理由であれ
「私はきれいなゴミを作っている」では
働く側のモチベーションが
上がるはずはない。

以前「売り切れ」程度は我慢しようなる副題で
食料品廃棄の話を書いたが、
ゴミを出さないためには
生産者側もそして消費者側も
大きく意識を変えていく必要がある。

価値観の変換と同時に
双方ちょっとの「我慢」が
キーワードだろう。

誰だって、あるときは生産者であり、
またあるときは消費者なのだから。

作る人も使う人も
みんなが幸せになるブランド目指す。

ことは可能なはずだ。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2022年5月 1日 (日)

SNSの写真が表現するもの

(全体の目次はこちら



SNSの写真が表現するもの

- 事実よりも情動を引き出すことを -

 

食べ物の色が
どのように作り出されてきたのかを、
*着色料や農産物の生産過程の調整など、
 実際の食べ物の色を作り出す
 技術や方法といった物理的な側面
と、
*料理本や宣伝広告の影響を受けながら、
 その色をどのようにして「当たり前」と
 思うようになったかという認識的側面
の、ふたつの面から探っている

 久野 愛 (著)
 視覚化する味覚-食を彩る資本主義
 岩波新書

(以下水色部、本からの引用)

だが、
最後の章では現代社会における
食べ物の色や見た目について
SNS上での写真を通して考えている。

他の本も参照しながらの
写真の考察がおもしろい。

写真を撮ったり
料理を作る主体のみならず、
写真撮影と鑑賞に関わる行為も
大きく変わった


大山顕が、
写真は「見る」ものから
「処理」するものになった
と述べているように、
写真は、
撮る・見るものであるだけでなく、
SNSの写真においては
「加工」「シェア(共有)」「いいね」
することが重要
となったのだ。

ここで参照されている
大山顕さんの本はこれ。

 大山顕 (著)
 新写真論 スマホと顔
 ゲンロン叢書

「シェア(共有)」や「いいね」はもちろん、
簡単な「加工」であれば、
ワンクリックまたは数秒で可能だ。
それでもかなり多彩な加工ができる。
確かに
「見る」だけでなくなっている。

 

SNSの写真には、
日常の記録や思い出の保存
というだけではなく、
むしろそれ以上に、
ユニークな見た目であること
求められる。

よって映える被写体というのは、
単に綺麗な色をしているとか、
撮影者が
おいしそうと思うものというよりは、
多くの人の目にとって
「面白い」ものということになる。

それはSNS写真独特の美学である。
佐藤卓己が論じるように、
こうした写真は、
見栄えを優先させる一方、
被写体・素材の事実性は
軽視されがち
である。

つまり、
「データ素材として
 どのような加工もできる
 デジタル写真は、
 記録のメディアというより
 表現のメディア

となったのである。

ここで参照されている
佐藤卓己さんの本はこれ。

 佐藤 卓己 (著)
 現代メディア史 新版
 岩波テキストブックス:岩波書店

「素材の事実性は軽視されがち」
「記録のメディアというより表現のメディア」
色も含めて、
事実を伝える、事実を記録する、
という写真の役目は今、
大きく変わってきている。

SNSに投稿される写真は、
見る者の情動を
引き出すため(affective)のもの

ではないだろうか。

大盛りの料理や
見た目が派手な食べ物などは、
いわゆる「映える」ための写真として、
色・見た目が作り出されている。

自作料理の写真はどちらかというと
「エモさ」を追求したものが
多いといえるかもしれない。

手作りのケーキや
食卓に並べられた数々の料理は、
派手さや斬新さというよりも、
「おいしそう」とか
「こんな料理を作れるなんてすごい」、
「自分も作ってみたい」といった、
賞賛や羨望・憧れ、共感といった感情を
見る者に与える


少なくとも、
そうした感情を与えることを
意図して投稿されることが多い。

つまり

情動を引き出すことが
主目的になったことで、
SNSでは写真に写った食べ物の色を
「自然な」色に寄せる必要がなくなった

本の主題であった
食べ物の「自然な」色、の話からは
ずいぶん離れてしまったが、
食の写真が溢れているSNSを考えるとき
「SNS上の写真」論は
人々の別な欲望も見えてきておもしろい。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2022年4月24日 (日)

和菓子の色が表現するもの

(全体の目次はこちら


和菓子の色が表現するもの

- 物だけでなく四季や自然も -

 

前回
食べ物の色について深く語っている

久野 愛 (著)
視覚化する味覚-食を彩る資本主義
岩波新書

(以下水色部、本からの引用)

を紹介したが、
本文中のコラム「和菓子の美学」に
印象的な言葉があったので
ここで紹介したい。

 

和菓子の意匠・菓銘では、
季節感を抽象化したものとともに、
自然を摸したものが多い。
動植物の姿形を真似たり、
自然現象(春霞など)や
風景を表現したもので、
カラフルな色づけがなされたものも
多くみられる。

例えば、
透明感のある水色は涼しさを伝え、
朱色の紅葉に似せた菓子からは
秋を感じる
ことができる。

つまりここでの色は、
同じ「自然の色」と言っても
完熟のオレンジの色、といったものとは
違う「自然の色」だ。

和菓子が表す自然の中には、
実際には食べられない自然
(例えば川の流れや金魚など)も
含まれており、
必ずしも「おいしそうな」色として
作られているわけではない


この意味で和菓子は、
自然のミニチュア化
だといえる。

菓子そのものを花や動物、
自然現象などの自然に見立て、
見る人・食べる人に四季や自然を
感じてもらう
ためのものである。

菓子で、
草花や動物といった物だけでなく、
季節や自然現象をも
表現しているところが
まさに和菓子の奥深い魅力だ。

和菓子に込められた自然の美学は、
その色・形に留まらず、
菓銘や、見る・食べる人の
教養や感性をも含めたものだといえる。

例えば茶席では、
菓子の意匠・菓銘の意味や趣向について
会話を交わすことも
重要な茶の湯の楽しみの一つである。

教養、感性といった
素養に支えられて
色と自然を感じ、愛でる美学は
さらに深まっていく。

以前、
和菓子のおいしさを表わす言葉
の中で、
和菓子の魅力を「水」「季節」「名前」
などの観点から語っていたコラムを
紹介したが、
あの小さな和菓子には
「見た目の美しい美味しい菓子」
を越える大きな魅力が詰まっている。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2022年4月17日 (日)

「自然な」色って何?

(全体の目次はこちら



「自然な」色って何?

- 「自然」と「人工」の線引きは難しい -

 

五感を通して人々の生活や
社会の変化を理解しようという
「感覚史」という研究分野があることを

久野 愛 (著)
視覚化する味覚-食を彩る資本主義
岩波新書
(以下水色部、本からの引用)

を読んで初めて知った。

この本では題名通り、
食べ物を味覚ではなく視覚、
特に「色」から考えている。

「まえがき」には

農業生産者や食品加工業者らは、
その食べ物の「自然な」色を再現し、
時には「自然よりも自然らしく」
見せるための技術やマーケティングに
多大な資金と労力をかけてきた。

という記述があるが、
考えてみると「自然な」というのが
何を指しているのか、と問われると
的確に答えることは難しい。

多くの人が共有する
「自然な」色という認識が、
翻って食品生産者らによる
色作りを規定してきた側面もある。

ここで「自然な」色という時、
それは、
人々がイメージする食品の
「あるべき」色という意味で、
本書では「当たり前の」色と
ほぼ同義に用いている。

よって、
自然に(人工的な操作なく)出現した色
という意味ではない。

ここで注意してほしいのは、
この自然な色やあるべき色という概念は、
ある時代や場所において、
人々が自然・あるべきだと
考えるようになった色
である。

私たちは一般に
トマトの赤やバナナの黄色を
「あるべき」色として認識しているが、
それはそう「考えるように」なった
今の時代の色でもあるわけだ。

本書では

 *フロリダのオレンジと
  カリフォルニアのオレンジ

 *バターとマーガリン

などを具体例として取り上げ
詳細に論じているが、
それらの色を巡る争いを通して

「天然着色料」と「人工(合成)着色料」、
「自然」と「人工」
の対比をまさに「色」から
深く考えさせられる。

たとえば、
「合成着色料」を使って、と聞くと
反応してしまう人も、

例えば牛の餌にニンジンなど
黄色(またはオレンジ色)の
色素を含む植物を混ぜて
食べさせることで、
牛乳およびバターに
黄色っぽい色味をつけることを
推奨した。

着色料は「人工的」な色の操作だが、
餌の材料を調整することは
あくまで「自然な」生産方法
だと
考えたのである。

などには、どうコメントするのだろう?

バターの色素が餌の一部に
由来するものであったとしても、
故意(人工的)にバターの色を
作り出していることに変わりはなく、
「自然」と「人工」の線引きは難しい。

トマトの色素を用いて表現された、
より「自然な」イチゴ色は、
どの程度「自然」であり、
また「人工的」なのだろうか。

 

加えて近年では、着色料の世界において
化学合成によって「天然」着色料を
生成する
方法まで開発されているという。
生成されたものは
合成着色料なのか天然着色料なのか。

 

 *「自然」と「人工」
 *「おいしそうに見える」ことと
  「実際においしい」こと

そういうものの関係を
「色」から考えてみる、
そんな視点を提供してくれる本だ。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

より以前の記事一覧

最近のトラックバック

2025年1月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
無料ブログはココログ