食・文化

2019年8月11日 (日)

出雲大社

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出雲大社

- ぜんざいは神在(じんざい)? -

 

島根・鳥取方面への旅行、
最終日は、出雲大社にお参りした。

勢溜(せいだまり)の大鳥居から
松の参道と呼ばれる参道を
ゆるやかに上っていく。

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(写真はすべてiPadにて撮影)

ふと前方の鳥居を見ると、
そこから先、参道から人が消えている。
どうして?

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ここまで真ん中を歩いて来た人たちは
この鳥居から先、鳥居の両脇の道に
進路を変えているのだ。

神様の集まる出雲大社のこと、
「真ん中は神様の通る道で
 人はその両脇を歩く」
なる話も聞いたことがあったので、
「もしかしたら、このこと?」
と思いながら近づいていった。

鳥居の下まで来ると、
何か書いてある。
いったい、何が書いてあるのだろう?

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「松の根の保護のため
 参道左右をお進み下さい」

なんだ、松の養生のためか。
なぜかガッカリ。

脇の参道を歩くことになったが、
参道からちょっと右に目を遣ると
山の緑がほんとうに美しい。

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「ムスビの御神像」と呼ばれる像。

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立派な像ではあるが、
なぜか「気恥ずかしい」。

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「御自愛の御神像」

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因幡の白ウサギの話って、
子どものころ絵本で読んだ記憶しかない。

絵本で語られる物語というのは、
多くの子どもに知ってもらえるという
大きなメリットがある反面、
それだけで知った気になってしまう
そういう子どもを大量に生産してしまう
ある種の不幸を背負っている気がする。

「大人になってからちゃんと知ろう」
をサボっている自分の怠惰を棚に上げての
勝手な思い込みではあるが、
小学生のころ読んだ
「こども**全集」に入っていた話を
大人になってから「原作」で読んでみると、
その印象のあまりの落差に
驚くことはよくある。

絵本で知った、ならなおさらだ。

 

「拝殿」まで来た。

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出雲大社独特の
「2礼4拍手1礼」でお参りする。

左奥に本殿、右に拝殿

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境内を右回りに、大きく歩く。

左に八足門、右に観祭楼

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八足門

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右下の足元、赤い丸については
のちほど見学する歴史博物館で
驚きの事実を知ることになる。

 

御本殿西側

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西側から臨む御本殿

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素鵞社(そがのやしろ)
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境内の一番うしろ、
もっとも奥まったところにある。
大国主大神の父神とされる
素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀る社
御本殿を背後から見守るかのような
位置にある。

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真後ろから見る御本殿

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物理的な距離という意味では、
この真後ろが一番近いかもしれない。

東側から臨む、右が御本殿

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左から御本殿、御向社、天前社

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東十九社

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旧暦10月の神在月(かみありづき)の際
全国から訪れる神々の宿舎
西十九社として西側にもある。

御本殿を一周、拝殿に戻ってきた。

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お参りした後は、名物のコレを。

出雲割子そば

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蕎麦の実を皮つきのまま製粉するため
色は黒っぽくいが、香りもよく、
お参りで歩いて
ちょっとすいたお腹にピッタリ。

食事のあとはデザート代わりに
別なお店で「ぜんざい」を。

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このぜんざい、「縁結び」にからめて
なんと結んだ「蕎麦」が入っている。

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そもそも
「ぜんざい」の発祥はこの地だとか。

出雲では神在祭の時に
神在餅(じんざいもち)をふるまっていた。
「祇園物語」には
「赤豆を煮て汁を多くし、
 少し餅を入れ」とある。

この「じんざい」が
出雲弁でなまって「ぜんざい」となり、
京都に伝わったとのこと。

元は、神在(じんざい)か。

旅行最後に立ち寄った
島根県立古代出雲歴史博物館
の話は次回に。

 

 

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2019年6月16日 (日)

鳥取県の民藝めぐり(1)

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鳥取県の民藝めぐり(1)

- 吉田璋也(しょうや)の功績 -

 

大山登山で嬉しい達成感を味わえたうえ、
皆生(かいけ)温泉の恩恵にも浴したものの、
登山ド素人の我々夫婦は、予想通り、
足の筋肉痛を避けることはできなかった。

というわけで、登山の翌日は
「あまり歩かなくてもいいコース」
で動くことにした。

今回の旅行では、大山登山のほかに
もうひとつ、
ぜひやりたいと思っていることがあった。
それは、
「民藝の焼き物を見て回ること」。

というわけで、登山の翌日は、
「鳥取県の民藝に触れる一日」
とすることにした。

 

鳥取県の民藝を語るうえで欠かせないのが
吉田璋也(1898-1972)」だ。
まずは、彼が作った
「民藝美術館」から話を始めたい。

なお、参考図書は、
 鞍田崇 他著
 私の好きな民藝
 NHK出版

(以下、水色部は本からの引用)

 

【鳥取民藝美術館】

Tottorimingei1

吉田璋也さん、
どんな人だったのだろう?

山陰の民芸の発展に
大きく貢献した吉田璋也(しょうや)


開業医だった璋也は、
「民芸のプロデューサー」を自任。
地元の手仕事の伝統をもとに、
職人たちを指導して、
新しいデザインの民芸品を作らせ、
また職人の集団「鳥取民藝協団」も
組織しました。

こうした「新作民芸運動」を背景に、
璋也は昭和24年(1949年)、
自分が蒐集した民芸品を展示する
鳥取民藝美術館を開設した。

JR鳥取駅からすぐのところにある。

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(写真はすべてiPadで撮影)

 

1階には、璋也がデザイン
もしくはプロデュースした民芸品を
メインに展示してある。

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焼き物に限らず、家具や障子の桟や

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コンセントカバーのような小物まで、

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吉田璋也のセンスが感じられる。

2階には、蒐集した民芸品。
コレクションは鳥取地方に
限定されたものではなく、
日本はもとより中国等海外からのものもある。

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この美術館の目的は

来館者に民芸品の美しさを
伝えることだけでなく、
職人たちに民芸の美の基準を
示すこと
にありました。

ここにあるものを手本に、
新しい民芸品を
作ってもらおうと考えたのです。

 

民藝美術館のとなりには、
昭和7年(1932年)に吉田璋也が開いた、
日本初の民芸店「たくみ工芸店」がある。

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この民芸店、開店の理由が感動的だ。

「すごいと思うことですが、
 璋也は職人たちの生活のため、
 自分が作らせたものを
 すべて買い取ったんです


 それを売るための場所が
 必要だったんですね」

と美術館の理事が語っている。

さらにその隣には、
昭和37年(1962年)
民芸の器で郷土料理を提供する、
「たくみ割烹(かっぽう)店」
オープンする。

こちらは実際に
民芸品を使っている姿を見せ、
その使い勝手を知ってもらう場所、
と位置づけられている。

写真左から
「美術館」「たくみ工芸店」「たくみ割烹」
の3棟が並んで建っている。

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今回訪問した時には、
割烹店の前(写真右下)には
入店のための行列ができていた。

 

ちなみに美術館の人の話によると、
通りを挟んだ反対側ある
吉田歯科医院は
吉田璋也のお孫さんがやっている
歯医者さんらしい。

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美の実例・基準を提示するだけでなく、
職人に作らせたものをすべて買い取って
それを売る場、使う場を設けながら
新しい作品を作る機会を与えていく。

「民芸のプロデューサー」として
なんという実行力だろう。
エピソードと共に話を聞くと
忘れられない名前になる、吉田璋也。

最後に、人柄を偲ぶため
民藝館の入館パンフレットの写真を
添えておきたい。

Yoshidasyoya

 

 

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2019年5月26日 (日)

世界遺産「石見銀山」大森地区

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世界遺産「石見銀山」大森地区

- 「おだやかな暮らしを守る」という合意 -

 

改元に合わせた連休を利用して、
夫婦で国内旅行を楽しんできた。

選んだのは島根と鳥取。
ふたりとも行ったことがない
初訪問の地だ。

旅行記として、
訪問地をいくつか紹介したい。

最初は、
世界遺産「石見(いわみ)銀山」。

江戸時代の町並みの雰囲気を残す
大森地区と呼ばれるエリアと、
坑道跡を残す銀山エリアとが
主な見学地となっているが、
環境保全のため
どちらも一般車の乗り入れが
制限されている。

なので、車で向かった観光客は
両エリアから少し離れた
「世界遺産センター」の駐車場に
車を停めて、そこからバスで
目的地に向かうことになる。

我々夫婦が「世界遺産センター」に
到着したのは11時半ごろ。
ところが、連休中のせいか
大きな駐車場はすでに「満車」。
入り口に車の列ができていた。

山の中で、他に駐車場の選択肢が
あるわけではないため
しかたなく並んで待つことにした。

道路左側に寄って並んでいると
その横を、
観光地との間を往復しているバスが
通り抜けていく。

当然ながら
バスは帰る客も運んでくるので、
バスが通過するたびに
待機している車の列が動く。

思ったよりも回転がはやく、
長く待たずに駐車することができた。

まずは「世界遺産センター」で
地区全体の説明を聞き、地図をもらって
バスで大森地区に向かった。

【大森地区】
江戸時代の武家屋敷や代官所跡、
銀山で栄えた豪商の住宅などが並ぶ通りを
ゆっくりと散策。

【石見銀山資料館(大森代官所跡)】

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この通りの雰囲気だけでも十分楽しめる。

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【西性寺】

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町並みも緑も美しい。

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観世音寺はちょっと高くなっているので、
登ると町を見下ろすことができる。

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石州瓦と呼ばれる赤瓦が印象的だ。

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【町並み交流センター(旧大森区裁判所)】

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「ベッカライ コンディトライ ヒダカ」
という美味しいパン屋さんがある、
と聞いていたので、
そこのパンを楽しみにしていたのだが、
お店の前まで行ってみると運悪くお休み。

「残念だったね」と
夫婦で言い合っていたころ
かなり怪しかった雲から
ポツポツと雨が舞い始めた。

「ヒダカさんのパンも食べられないし、
 雨宿りを兼ねてお昼でも食べようか」と
近くのイタリアン「ぎんざん」に入った。

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メニューを見ると
ランチセットにはなんと
「ヒダカさんのバゲット」
が含まれているではないか。
まさに地元のお店の連携だ。

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単なる偶然とはいえ、こちらの気持ちを
汲みとってもらえたようで、
妙に嬉しい。

チャンスは意外なところに
ころがっているものだ。
一切れだけではあったものの、
希望を叶えることができた。

ランチのパスタも、
ヒダカさんのバゲットも、
どちらも美味しく◎。

お店に入る前の気分は「江戸」だったのに
舌はイタリアンやバゲットを
楽しんでいるという
組合せのギャップもまた楽しい。

 

昼食をすませて外に出ても
残念ながら雨は上がっていなかった。
でも、ウィンドブレーカのフードで
しのげる程度なので散策続行。

【菓子屋:有馬光栄堂】

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雰囲気のある町並みが続く。

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取ってつけたような
ケバケバしい看板の土産物屋も
一軒もない。

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小雨が舞う天気だったとはいえ
「世界遺産センター」の駐車場が満車でも
通りの人出はこの程度。

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雰囲気をのんびり楽しむことを
邪魔しない「静かさ」がいい。

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飲み物の自動販売機にも
街の景観を意識した工夫が。

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懐かしいポストも現役だ。

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なんとも味のある看板に引き寄せられた。

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築170年の古民家を最大限に活かし、
およそ300坪の敷地を舞台に、
衣・食・住にまつわるライフスタイルを
おしゃれに提案している
「群言堂 石見銀山本店」だ。

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中庭を眺めるカフェのほか、

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魅力ある雑貨、衣類を並べた店舗は

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かなりゆっくり回っても飽きることはない。

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古いチーク材を大胆に使った
写真立てが妙に気に入ったので、
思わず購入。

 

二階は読書スペースとして開放されている。

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読書向けの空間ながら、
椅子にすわったり、寝転んだり、
自由なスタイルで本を読める
なんともゆるい空間だ。

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この群言堂を展開しているのが、
「石見銀山生活文化研究所」という会社。

人口わずか400人の島根県大田市大森町に
根を張りながら、
アパレルの企画・製造・販売、
飲食店経営、古民家再生などを手掛け、
全国に30店舗を展開、
という規模にまでなっているという。

人口400人の町に日本の未来をみた。
「群言堂」で知られる
「石見銀山生活文化研究所」
との新連載がキックオフ!


という記事がグリーンズにあった。

この記事の中で、
石見銀山生活文化研究所の
広報担当・三浦類さんが、
たいへん興味深いことを言っている。
(以下水色部は上記記事からの引用)

ピークのときは、
年間80万人以上が訪れたんです。
何十台も観光バスが来て。

世界遺産登録直後、
自治会協議会が中心になって
住民憲章をつくりました。

その一文には
「私たちはこのまちでおだやかさと
 賑わいを両立していきます」
とありますが、

世界遺産になったからといって
これまでの暮らしを変えるのではなく、
おだやかな暮らしがある
ということこそをこの町の魅力として
お客様に発信していこうと
宣言
しています。

いま観光客数は半分以下になって
40万人を切っていますが、
暮らしている身としては
落ち着いていて、
休みの日も適度な賑わいで
暮らしやすい、いいまちです。

極端に観光地化されなかったのは、
このまちにとってよかった

思っています。

派手派手しい看板や
土産物屋さんもつくらず
有料駐車場もない


田畑や古民家をつぶして
駐車場にするのは簡単ですが、
誰もそうはしないというモラルが
共有されています


景観を守り、
暮らしが息づいているまち、
観光地としては珍しい形で
存続していると思います。

住民の合意で、派手派手しい看板や
土産物屋がつくられていないのならば
すばらしいではないか。

その合意には「まちのサイズ」も
意味があるようだ。

「400人というまちのサイズは
 どうですか?」

の質問に対して、三浦さんは、

人の顔が覚えられる、
お互いの顔が見える安心感が
ありますね。

意識の共有や合意形成が
しやすいとも言えます


(中略)

世界遺産登録されたタイミングのときに、
もし人口が1000人なら
合意形成できずに観光地化してしまう
可能性はあったのかもしれませんね

小さな町ゆえ、
景観と暮らしが守られている。

ほんとうに
キーホルダや饅頭を売っているような
土産物屋には一軒も出会わなかった。

世界遺産に認定された町ではあるけれど
ひとりでも多くの観光客が来ればいい、
土産物がたくさん売れればいい、
そんなことを目指してはいない
別の価値観が流れている、
静かな観光地だ。

 

 

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2019年1月 6日 (日)

初めての中国・上海 (6)

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初めての中国・上海 (6)

- 見下ろす景色と豫園と -

 

すでに6日も経ってしまいましたが、
あけましておめでとうございます。

=========
安倍首相、
新元号は「4月1日公表」と正式発表
=========
なる見出しが「産経ニュース」で流れ、
それに対して
「えっ! 新元号って
 『4月1日公表』っていう名前に
 なったっていうこと?」
と白々しい誤解のコメントで
ツイッターが盛り上がるのは
そんなにきらいじゃぁないのですが
その中に、
「読み方は、
 『わたぬききみひら』でしょ」
なるコメントがあって
さらに気に入りました。

四月一日になると
綿の入っている着物を脱いで
あわせの着物になる事から
四月一日(四月朔日)を
『わたぬき』と読むのだとか。

世界はいろいろなところから
広がるものです。

とまぁ、
自分自身への備忘録を兼ねた
ブログではありますが、
気ままに続けていきたいと
思っていますので、
今後ともどうぞよろしくお願いします。

皆様にとって素敵な一年となりますよう。

***************

というわけで(?)
前回に引き続き、
2018年11月、出張で行った
中国・上海で印象に残ったことを
写真を添えて紹介したい。
今日はその最終回。

 

仕事が終わって日本に帰る土曜日。
飛行機の出発時間までの半日、
上海観光をしようと思っていた。

すると、私が「上海は初めて」、
と言っていたせいか、
訪問先の会社の方のおひとりが
気を遣って下さり、
休日にもかかわらず、
「案内しますよ」
と言って来て下さった。

初めての国であっても、
自分であれやこれや悩みながら
観光することはちっとも苦ではなかったし、
自分ペースで回れるほうが
気が楽だと思っていたし、
なにより相手のお休みの日を
私のために使わせてしまうのは
申し訳なかったので、
一旦は丁寧にお断りした。

ところが、金曜日
私の固辞を忘れたかのように
「明日はどこに行きたい?」
とかなり積極的。
熱意におされて
今回は厚意に甘えることにした。

現地中国人による英語のガイド付き
半日ツアー、贅沢な時間だ。
こうなれば、逆に任せてしまおう。

土曜日の朝、
ホテルまで来てくれた彼が
最初に「行こう!」と
連れて行ってくれたのは、
黄浦江という川の東側「浦東エリア」。

高層ビルが多い地域の中でも、
特に目立っているビルのひとつ。
ここに上って、まずは上から眺めよう、
ということになった。

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展望台があるような高い塔やビルは
他にいくつもあるのに、
「ここは日本の森ビルが作ったンですよ。
 エレベータも東芝のもので
 すごく静かで速いンです」
と日本人が少しでも喜びそうな
日本に関連の深いビルを選んでくれる
その心遣いがうれしい。

91階のレストランを目指す。

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「上海環球金融中心」
2008年に日本の森ビルが
15年の歳月をかけて完成させた。
高さは494mもある。
日本一の「あべのハルカス」でも300mだ。

91階からの眺め。
正面の赤い玉を持つ塔は、
上海のシンボルタワー
「東方明珠塔」高さ462m。

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下の写真右側の高層ビルは
「金茂大厦88層観光庁」
高さ420.5m、88階建ての高層ビル

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前夜、金曜日の夜
こんなふうにライトアップされていた

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対岸のバンドエリアも
全景がよく見渡せる。

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川沿いのビルをライトアップすることは、
regulationで決まっているらしい。
照明の電気代も
税金で払われているのだとか。

79階から94階には5つ星のホテル
「パークハイアット上海」が入っている。
なんて高いところにあるホテルなんだ。
(値段も高いらしいけれど)

ここは、ホテルの朝食にも
使われているレストランゆえ
景色だけでなく雰囲気もいい。

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降りてくると、すぐとなりには
2016年に完成したばかりの
「上海中心(上海タワー)」。
高さはなんと632m!!
もう一度書く、
日本一の「あべのハルカス」でも300mだ。

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91階から頭部が見えていた
金茂大厦88層観光庁も
下から見るとこんな感じ。
竹をモチーフにした外観らしいが、
言われてみるとわからなくもない。

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近代的な超高層ビル群を
見たあとは、
川の対岸、
「豫園(よえん)」に向かった。

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豫園は
江南古典庭園の名園と称されるところだが、
まわりは豫園商城と呼ばれる
土産物屋が並ぶ
一大観光スポットとなっている。

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まずはチケットを買って
豫園(よえん)見学。

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入り口の門は小さいが、
見上げると石の彫刻がすごい。

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漸入佳境と呼ばれる遊廊。

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仰山堂からの庭の眺め。

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仰山堂は1866年に創建された。

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足元を見ると、
敷き詰められた石の模様が
エリアによって違っていておもしろい。

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くり抜き門が随所に見られる。

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石の配置に特徴のある庭園

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瓦にも細部まで手の込んだ施しが。

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屋根も独特な形状をしている。

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「龍壁」と呼ばれる塀。

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思わず写真を撮りたくなるが、
同行の中国人によると
再建時に観光用に作られたもので
もともと古くからあったものではない、
とのこと。


ガジュマルで作られた家具や彫刻のある
建物もある。

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池や遊廊との組合せも絶妙。

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内園と呼ばれる
7m四方の舞台を囲む空間。

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窓の格子も細かくて美しい。

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豫園を出ると、
同じトーンで作られた
巨大な土産物屋が目の前に迫ってくる。

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豫園の外ながら、隣接して建つ
「上海緑波廊酒楼」。
中国十大レストランの1つに名を連ねる
上海料理の名店だ。

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ちょうど季節ということもあり、
ここで有名な「上海蟹」を
食べることにした。

昼食時は予約ができないらしく、
受付で名前を登録して順番を待つ。
もちろんお知らせはスマホに来る。
なので、入り口付近でじっと待たずに
近くの土産物店をウロウロしながら
待つことができるのだが、
土曜日の昼時、園周辺は観光客で大混雑。
呼ばれてもサクサクと移動できないので、
ついつい入口付近で待つ人が多くなる。

ここで待っているとき、同行の中国人が
おもしろいことを言った。

「このお店は、
 観光地のベストロケーションにあるので
 観光客でいつも溢れかえっている。

 レストランの名店としても
 よく知られていて、
 大統領や王様級のお客様も来る。

 つまり商売としては大繁盛なのだが、
 お店はgovernmentがやっている。
 なので、お客様で大賑わいなのに、
 店員にはお客への笑顔がないンだ。
 見ててみて。
 笑わないから」

思わずその視点で店員を見てしまう。
なるほど、キビキビと動き、
事務的に忙しそうに働いてはいるが、
愛想笑いも含めて笑顔がない。

忙しくて機嫌が悪い、
というわけではないようだ。

笑顔がなくても、
対応自体が悪いわけではない。

上海蟹を頼むと、調理前の
数杯の蟹をザルに入れて持ってきて
「選べ」と言う。

もちろん私には選べないので、
同行の中国人に頼んでしまった。

「どこを見て選ぶの?」

会話が弾む。
2杯決定!

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しばらく待つと、
この状態で目の前に再登場。

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食べ方(解体の仕方)を
教わりながら初上海蟹。

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蟹を食べると皆静かになってしまうのは
洋の東西、というか国を問わないようだ。
手も汚れてしまったので
以降写真なし。
独特な甘みもあって
ほんとうにおいしい蟹だった。

 

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半日ではあったが、
ガイド付きの贅沢な観光終了。

丁寧に礼を言い、空港に向かった。

もし、彼が日本に来た時は、
ぜひともこの御礼をしたいと思うのだが、
さて、半日あったとして、
東京ならどこに案内しよう?

 

 

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2018年12月23日 (日)

初めての中国・上海 (4)

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初めての中国・上海 (4)

- ひとりで飲むな -

 

前回に引き続き、
2018年11月、出張で行った
中国・上海で印象に残ったことを
写真を添えて紹介したい。

 

【ひとりで飲むな】
日本からの訪問者は私ひとりだったが、
訪問先の会社の方が親睦会を兼ねた
夕食の機会を作ってくださった。

「中国の宴会は、
 白酒(パイチュウ)などで
 相当呑まされる」

と聞いていたので、
かなり覚悟していたのだが、
技術屋が中心のメンバだったせいか
お行儀のいい、なごやかな宴会だった。
営業の会だとこうはいかない、と
中国人自身が言っていたので、
業種によっては
雰囲気が大きく違うのかもしれない。


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「日本との違い」で目についたものを。

まず箸。
縦方向に二膳置いてある。
洋食のナイフ・フォークのように
外側から使うのだろうか?

聞いてみると、
外側の一膳が取り箸で、
内側の一膳は自分用、とのこと。

取り箸を大皿ごとにつけないという発想。
なるほど。

間違えないように、
見た目がかなり違ったトーンの
二組になっているが、
よく見ていると、ちゃんと守られていたのは
宴会の最初のころのみだった。
途中からはもう、中国人も皆
どっちがどっちだか、という感じ。

あまり神経質に
気にして使っているわけではないようだ。

ちなみに、
「日本では箸を置くとき
 横方向に置くのはどうしてか?」
と質問されたが、答えられなかった。

箸を置く角度が90度違うことは
中国と日本の違いのひとつと
認識されているようだ。

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グラスを合わせた
いわゆる「乾杯」を皆でしたあと、

食事をしていると、
「**さん、謝謝(シエシエ)」
とか言いながら、グラスをもった人が
次から次へとやってくる。

お互いグラスを持ち上げて、
顔を合わせてニコッ、
その後、酒を口に運ぶ。

この「グラスの挨拶」が、
中国人同士の間でも
あちこちで行われている。

「これってどういう習慣?」
と聞くと
「Don't drink alone.」だって。
つまり
「ひとりで飲むな」
が基本型らしい。

たとえ自分のグラスの酒を飲むときでも、
勝手にグラスを取ってひとりで飲まず、
必ず誰かにひと言「グラスの挨拶」をし、
誘って飲むようにせよ、
ということのようだ。

また、「乾杯」と言うと
まさに飲み干さなければならないらしく、
お行儀のいいこの宴会では
あまり「乾杯」の声は聞かれなかった。

ちょっと面倒なようだが、
「**さん、謝謝(シエシエ)」は
気軽に声をかけるきっかけになるし
まさにひとりで飲むことはなくなるし
悪くない。

 

【ビル全体ディスプレイ】
日本で見たことはないが、
ビル全体がディプレイとなっているビルを
いくつも見た。

Pb012176s

表示が常に動いているので
写真で美しい瞬間をとらえるのは難しいが
文字表示だけでなく
かなり遊び心もある演出になっている。

Pb022264s

いずれにせよ、夜のみとはいえ
インパクトはかなり大きい。

Pb022269s

動画でもお見せしたいと
YouTubeをちょっと探していたら
上海ではないものの
同じ中国・深センのビル全体ディスプレイの
すごい動画があったので、
参考までに貼っておきたい。

ビル全体どころか、
街中のビルがシンクロしている。

近未来映画のシーンを見ているよう。
「いゃいゃ、これはCGでしょ」
と言ってしまいそうな
オジさん感覚が情けない。

 

 

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2018年10月28日 (日)

オーストリア旅行記 (62) ホイリゲ(新酒ワイン居酒屋)

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オーストリア旅行記 (62) ホイリゲ(新酒ワイン居酒屋)

- ベートーヴェンの散歩道もいっしょに -

 

Heurige(ホイリゲ)とは、
今年の」という意味。
今年できた新しいワインを指すと同時に
ホイリゲを飲ませる酒場
ホイリゲと呼ばれているようだ。

ウィーン郊外の
Grinzing(グリツィング)
Heiligenstadt(ハイリゲンシュタット)
とよばれるエリアに
ホイリゲが多いというので
路面電車でグリツィングに行ってみた。

ウィーン市街から30分弱。
バスのように細かく停車しながら行くので
決して速くはないし、
移動距離自体もたいしたことはないと
思うのだが、それでも車窓の景色は、
どんどん変化していく。

P7169467s

終点となっているグリツィングは
落ち着いた静かな街だった。

居酒屋が並ぶ賑やかな通り、
といった雰囲気は全くない。
ウィーン市街地の喧騒から
そう遠くない位置にいるのが
ウソのよう。

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石畳の小さな脇道も
ちょっと物語を感じさせる。

P7169468s

 

ホイリゲつまり
「新酒ワイン居酒屋」の
一軒に入ってみた。
バッハヘングル(Bach-Hengl)

P7169474s

外が気持ちよさそうだったので
緑の多い屋外席に。

子連れの家族もいる。

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頼んだのはいろいろ味わえる
「肉料理の組合せプレート」。
例によってすごいボリュームだ。

P7169484s

酒のほうは、
ホイリゲの名前の通り
今年の(?)白ワイン。
飲んでみると
確かに味が「若い」。

P7169476s

ガイドブック等には、
「ジョッキで出てくる」と
書かれていることが多いのだが、
注文の仕方が間違っていたのか、
ここのお店がそうなのか
ワイングラスで出てきた。

なお、ホイリゲでは、
Gespritzter(ゲシュプリツター)と呼ばれる
なんとワインを炭酸水で、
しかも1対1の割合で割った飲み方

あるというので頼んでみた。

すると
ワインと一緒にこんな炭酸水がでてきた。

P7169477s

沸騰しているお湯でも
見たことがないほどの泡、泡、泡。
いったいどうすればこんな強烈な
炭酸水を作ることができるのだろう。

それでなくても「若い」ワインを
炭酸水で割ってしまうので、
まさにガブガブ飲めてしまう。

 

しばらくすると、
バイオリンとアコーディオンの
陽気な生演奏が始まった。

P7169478s

ホイリゲで奏でられる昔ながらの曲は、
「シュランメル」と呼ばれている。
19世紀末にシュランメル兄弟が演奏して
ウィーン中に広まった大衆音楽。

民謡風であったり、
ワルツ(舞曲)風であったり、
ハンガリー風であったり、と
酒場に合う曲が多いが、
ちょっとメランコリックな部分もあって
そこに独特な味がある。

P7169480s

演奏は各テーブルを回り
リクエストにも応えている。

雰囲気だけ貼っておこう。

 

大人の会話(?)で盛り上がっている
テーブルもある。
なんともいい雰囲気だ。

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なお、このお店、
有名店なのか
各国著名人が訪問した際の写真で
店内の壁一面が埋め尽くされていた。

P7169488s

ブッシュやらプーチンやら
大統領級もゴロゴロいる。

P7169490s

 

食事のあとは、
お屋敷と呼びたくなるような

P7169495s

大きな家が並んでいる
高級住宅地(?)を通りを抜けて

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「ベートーヴェンがよく散歩した」
という道まで行ってみた。

道に沿って
今は小さな公園もあり
緑豊かな中、子どもたちは
バスケットボールを楽しんでいた。
「ベートーヴェンパーク」!?

P7169500s

公園内には銅像もある。

P7169501s

付近には、
ベートーヴェンが第九を書いたり
遺書を書いたことで知られる家まであり
ベートーヴェンゆかりの地として
小さな案内板も出ている。

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この道を散歩しながら
交響曲第6番「田園」を書いたと聞くと
後ろに手を回して、うつむき加減に
ゆっくり歩いてみたくなる。

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訪問した時間が遅かったため
暗くなってきてしまい
「日没タイムアウト」という
感じになってしまったが、
緑豊かな雰囲気だけは
十分感じ取ることができた。

楽しい居酒屋と豊かな緑、
そういう空気の中で、
「田園」が生まれ、
「合唱付き」が生まれたのだ。

 

十月革命から逃れるために
家族とともに米国に亡命した
ロシアの作曲家ラフマニノフは
その後5年以上にもわたって
作曲することができなかった。

その理由を聞かれて
こう言ったという。

「どうやって作曲するのですか?
 私はもう何年ものあいだ、
 (懐かしい故国ロシアの)
 ライ麦畑のささやきも
 白樺のざわめきも
 聞いていないのですから…」

(詳しくはここを参照下さい)
作曲には「環境」が必要なのだ。

ベートーヴェンが感じた風と緑が
そのままここにある。

 

 

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2018年9月16日 (日)

オーストリア旅行記 (56) ウィーン会議とフランス料理

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オーストリア旅行記 (56) ウィーン会議とフランス料理

- 胃袋を掴め -

 

マリア・テレジアの 初回
スペイン乗馬学校を紹介した。

王宮内にある室内馬場は、
「馬場」とはいえ
2層のバルコニー席で囲まれた
シャンデリアの下がる
優雅な空間だ。

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ここを「馬場」ではなく、
別な用途に使っていた時期がある。

フランス革命とナポレオン戦争という
ヨーロッパ大混乱ののち、
秩序の再建と領土分割を目的として
開催されたウィーン会議(1814-1815)

この長い会議の期間中、
舞踏会場として使われたのが、
この室内馬場だ。

有名な
「会議は踊る、されど進まず」
と言われたまさに「踊る」の会場。

このウィーン会議、

青木ゆり子 (著)
日本の洋食:
洋食から紐解く日本の歴史と文化
(シリーズ・ニッポン再発見)
ミネルヴァ書房

(以下水色部、本からの引用)

を読んでいたら
フランス料理との関係
たいへん興味深い記述があった。

街歩きの際に撮ったスナップ写真を
挿絵代わりに挿入しながら、
今日は料理の話を紹介したい。

P7179711s

 

最初に簡単に、
フランスとフランス料理の関係を
見ておこう。

フランス料理と呼ばれる今の料理は
フランスの伝統的な料理
というわけではない。

【イタリアからやってきた
 フランス料理】

フランス料理は現在、
ヨーロッパをはじめ、
日本を含む世界中の多くの国で
外交儀礼の際の正餐
として
採用されています。

しかし、
16世紀までのフランスは
貴族でさえ手づかみで
がつがつと食事するような
野暮なマナーしかない国でした。

ナイフ・フォークを使った食事など
洗練された食事作法が
取り入れられたのは、
国王アンリ2世のもとに
イタリアから嫁いだ
カトリーヌ・ド・メディシスと
その専属料理人が
フランス王室に
やってきてからの
ことです。

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そんな
フランスの王宮でのみ供されていた
特別な料理が
フランスの街の中に広がっていくのには
歴史的な「あのできごと」が
大きなきっかけになった。

【料理が広がるきっかけ】

その後、1789年に勃発した
フランス革命によって
王宮を追われた料理人たちが
街に出てレストランを開き

フランス料理は
18世紀から19世紀にかけて
彼らの活躍で
その質がめざましく向上しました。

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フランス革命による
「王宮を追われた料理人たち」によって
フランスの街に広がり始めた
「フランス料理」。

そして1815年、
ウィーン会議が開催される。

【ウィーン会議】

フランス料理が∃-ロッパで一躍、
脚光を浴びる出来事が起こりました


1815年から1816年にかけて
オーストリア帝国の首都
ウィーンで開催された
「ウィーン会議」です。

 フランス革命後に
軍事独裁政権を樹立した
ナポレオン・ボナパルトは、
ナポレオン戦争によって
一時期∃-ロッパ大陸の
ほとんどを征服しましたが、
結局、失敗して失脚。

その結果
ヨーロッパの国境はスタズタになり、
戦後処理を話し合うために

フランスと、
∃-ロッパ列強国だったイギリスや
ロシア、プロイセン、
オーストリアらの代表が
集ったのが
この国際会議の目的でした。

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約1年におよぶ会議の期間中、
フランスの外交官の
お抱え料理人が大活躍する。

【敗戦国の宴会戦術】

フランスからは外交官
シャルル・モーリス・ド・
タレーラン・べリゴールが出席し、
会議期間中にしばしばお抱え料理人の
アントナン・カレームの手による
夕食会を開催
して各国の有力者を
もてなしました。

カレームは貧民街で育ち、
パリの菓子店で働いているところを
美食家のタレーランに
腕を見込まれた人で、
その卓越した料理は客人を魅了。

「会議は踊る、されど進まず」
といわれ、
各国の思惑が飛び交いながら
1年にもわたって続いた
ウィーン会議ですが、
この宴会戦術を使った
タレーランの巧みな外交によって、
フランスは
敗戦国の立場だったにもかかわらず、
戦勝国に要求を呑ませることができた

というエピソードが残っています。

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具体的に、料理の力が
単独でどれほどのものであったのかは
もちろん明確にしようがないが、
たいへん興味深いエピソードだ。

まさに胃袋を掴まれた、ということだろう。

いずにせよ、
主要国の代表が集まっている以上
その影響力は計り知れない。

実際、料理人カレームは、その後

ロシア帝国のアレクサンドル1世や
イギリス王室のジョージ4世らの
依頼を受けて料理人を務め、
フランス料理が西洋料理を
代表する存在
に導いたのです。

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フランス料理が世界に広がり、
そして、世界中の多くの国で
外交儀礼の際の正餐になっていく背景には
こんなきっかけがあったのだ。

 

 

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2018年6月17日 (日)

オーストリア旅行記 (43) 銀器コレクション

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オーストリア旅行記 (43) 銀器コレクション

- 33mのセンターピース -

 

旧王宮の中、

* 「宮廷銀器コレクション」
* 「シシィ博物館」
* 「皇帝の部屋」&「皇妃シシィの住居」

の3つのエリアは
見学順路として繋がっており、
続けてみることができる。

このうち、写真撮影OKなのは
「宮廷銀器コレクション」のみ。

【宮廷銀器コレクション】

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行ってみて驚くのは、
新王宮内の「古楽器博物館
などと違って、こちらは人、人、人。
ツアーや団体客も含めて、
観光客の大メインルートとなっている。

チケットを購入すると、
日本語も選べるオーディオガイドを
全員に貸し出してくれるので、
時間に余裕があれば、
一点一点ガイドを聞きながら
丁寧に回ることができる。

もちろん「銀」だけではない。

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そう言えば、
ここのオーディオガイドは
いわゆる受話器タイプ
本体を片手に持ち、
耳に当てながら音を聞く、
電話しているときのスタイル。

本体には首から下げて持ち歩けるよう
ネック・ストラップがついているが、
音を聞くときは、耳に当てるしかない。

ところが、このスタイルでは、
片耳、片手がふさがってしまうため、
メモを取ったり、
写真を撮ったりが
きわめてやりにくい。

なんとかならないものだろうか?

本体をよく見ると
3.5mmのイヤホンジャックがある。
思わず
いつも持ち歩いているWalkmanの
イヤホンを抜いて挿してみた。

完璧だ!
首からぶら下がっている本体から
イヤホンを通じて音が聞こえる。
このとき、両手は完全にフリー!

写真もメモも音を聞きながら
自由自在にできる。

ここでは、
Myイヤホンの機内持ち込みを推奨したが、
Myイヤホンは、
博物館のオーディオガイドでも役に立つ


見学の際は、お薦め。
写真を撮ったりメモを取ったりしたい方
ぜひお忘れなく。

 

P7158867s

さて、展示の内容。

ハプスブルク家歴代の銀器と
金器(?)の量はすさまじく
最初はその量に驚くものの
途中からある種の感覚が
完全に麻痺してくる。


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銀器・金器だけでなく
陶磁器ももちろん大量にあり
ヨーロッパの名窯で作られたものが並ぶ。

銀器にも陶磁器にも
双頭の鷲の紋章が。

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P7158873s

P7158865ss

クリスタルガラスは、
ロブマイヤーのものが多い。

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数ある食器・調度品の中でも、
食卓を飾る豪華なセンターピースは
ひときわ目をひく。

【古いフランス風センターピース】

P7158876s

ブロンズに金メッキされている。
1838年くらいのもの。

P7158874s

いったいどれほどの金が
使われているのだろう。

P7158878s

帰るときに寄った
ミュージアムショップには
日本語のこんなガイドブックが
あったので購入してみた。

Ginnki1

この中に、
シェーンブルン宮殿大広間の祝宴で
センターピースが
実際に使われている時の絵がある。

Ginnki2

なるほど、これほど大きなテーブルを
飾る必要があるわけだ。

19世紀前半にミラノで作られた
センターピースは33mにもおよぶ。

P7158870s

そう言えば、
上のガイドブックに、
「磁器」と「貴金属食器」の関係について
こんな興味深い記述があった。
ちょっと引用したい。(水色部)

18世紀当時、
ウィーン磁器工房にとって
皇帝の宮廷は
決して重要な顧客ではなかった。

磁器はまだ装飾品であり、
高価なばかりでなく
壊れやすかったので、
皇帝家の食卓には
金、金メッキした銀、銀など、
貴金属の食器が使われていたからである。

磁器は主にデザート、スープ、
朝食セットに利用され、
あるいは神話のシーンなどを示す
群像としてテーブルに飾られた。

壊れやすいのは確かにそうだが、
18世紀ごろ、基本的に
磁器はまだ装飾品だったのだ。

メインは貴金属の食器。

 

ところが、
ハプスブルク家といえども
いつでも潤沢に
金銀を使えたわけではない。

戦費調達のために、宮廷の食器まで
貨幣鋳造に回されたこともあるのだ。

そのとき、磁器が活躍している。

ナポレオン戦争の戦費調達に、
窮余の策として食器類の金銀も
貨幣鋳造に転用された
ため、
宮廷における磁器の需要が
飛躍的に増大した。

宮廷の部局でも皇帝家の食卓にも、
ますます多くの磁器製品が
調達されるようになった。

1814年の春になって
戦後処理を論議する国際会議のため
ウィーンが候補地になった時、
ハブスブルク家の宮廷には貴金属の食器が
殆ど残っていなかった


再び窮余の策としてウィーン磁器工房に
公式のディナーに使う
金色のディナー・セットが注文された。

貴金属の食器が
ほとんど残っていなかったので、
「磁器工房」に「金色」の
ディナー・セットを注文、
そんなこともあったのだ。

 

磁器と言えば、
日本の伊万里コレクションもあった。

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「宮廷銀器コレクション」の
エリアを抜けると、外に出ることなく
そのまま「シシィ博物館」へと
導かれていく。

 

 

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2018年5月20日 (日)

オーストリア旅行記 (39) ザッハ・トルテ

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オーストリア旅行記 (39) ザッハ・トルテ

- ○と△ -

 

前回、カフェの話を少し書いたが、
ウィーンのカフェと言えば
この話題にも触れておきたい。

ウィーンを代表する
チョコレートケーキのひとつ
ザッハ・トルテ

国立歌劇場のすぐ裏手にある
「ホテル・ザッハー」の一階に
カフェがあり、そこで供されている。

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このお店、とにかく観光客に大人気で
いつ覗いても行列ができていた。

本場で食べる、というか
本家のザッハ・トルテの味や如何に、
と興味はあるものの
貴重なウィーンでの滞在時間を
ケーキの行列のためだけに
潰してしまう気にはなれず、
何度か前を通るものの、
なかなか立ち寄れないでいた。

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というわけで、
「ここなら」と選んだ訪問時間は
夕食後!

夕食後にケーキを食べに行く輩は
ゼロとは言わないが多くはないだろう。

訪問したのは夜9時。
「寝る前に...」の声が
どこからか聞こえてきたが、
「ひと晩のこと」と
夫婦共々しばし無視することにした。

さすがに行列はできていなかったが、
それでも次から次に客は来ており
その時間でも店内は満員状態だった。

 

【カフェ ザッハー】

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ここは、とにかく
店の雰囲気からしておしゃれ。

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ふたりで寄ったので、
二種類のケーキを選び、
半分ずつ味見してみることにした。

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もちろん、ひとつは
本家「ザッハ・トルテ」だ。

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ホイップした生クリームが添えてある。
「ザッハー」の刻印のある「丸い」形の
チョコレートプレートが乗っている。

外側は見ての通りのチョコレートだが
スポンジ部分に
アンズのジャムが塗ってあるので、
食べると軽くアンズの香りが広がる。

店の雰囲気とケーキの味と、
両方をゆっくり楽しんだあと、
午後10時過ぎに店を出ようとすると、
なんと並んでいる方が数名いた。

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もう一箇所、ウィーン旧市街に
ザッハ・トルテが
食べられるところがある。

【カフェ デーメル】
歌劇場のすぐ裏手の「ザッハー」と
対比して言うならば、
王宮のすぐそばの「デーメル」。

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左奥ドームは王宮、
右側、白いテラス席がデーメル。

皇妃エリーザベトは
毎日のように使いを出して
デーメルのケーキを届けさせた、
と言われているが、まさに
「宮中御用達菓子商」。

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こちらのザッハ・トルテはこんな感じ。

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上に乗ったチョコレートプレートは
三角形だ。

 

一緒に食べたケーキも
おしゃれで美味。

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今はどちらも
正真正銘の「ザッハ・トルテ」が
食べられる二軒だが、
名前を見れば明らかなように
そもそもは「ザッハー」のもの。

この二軒、「ザッハ・トルテ」を巡って
争っていた時期がある


どんな顛末だったのか、
少し覗いてみよう。

 

1930年代、
「ザッハー」の経営難を助けた
「デーメル」は
「ザッハー」から
ザッハ・トルテの販売権を得、
販売を始める。

順調に売上を伸ばすデーメルだったが、
その後、ザッハーから
「オリジナル・ザッハ・トルテ」と
標示するのは権利の侵害だ、として
その差し止めを求める裁判を
起こされてしまう。

多くの証言者が立った長い裁判の結果、
デーメルのものは
「デーメル・ザッハ・トルテ」
ザッハーのものは
「オリジナル・ザッハ・トルテ」
として売られることになった。

ケーキの上に乗っている
チョコレートのネームプレート。
ザッハーは〇(丸く)、
デーメルは△(三角)。
どちらがどちらかはひと目でわかる。


Img_0241s

ちなみに、お店の入り口近くの
ガラスケースを見てケーキを注文できる
デーメルのようなお店は、
コンディトライ(菓子店)と呼ばれ、
専門店としてカフェとは区別して
呼ばれることもあるようだ。

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肝心な味のほうは、
ザッハーもデーメルも
申し分なく美味しかったが、
「最高にうまいケーキだったか?」
と問われれば、
「もっとうまいザッハ・トルテは
 (そう呼ぶのがマズければ
  ザッハ・トルテのような
  チョコレートケーキは)
 日本にあるぜ」
と思ったのが正直な感想。

繊細さ、滑らかさ、甘さの深み、
日本のおいしいケーキが誇るべき
圧倒的な優位点は食べ比べても揺るがない。
それは単に「私が日本人だから」
そう思うだけなのだろうか?

いつの日か、
日本のおいしいケーキと食べ比べた
ウィーンの方の率直な感想を
ぜひ伺ってみたいものだ。

 

 

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2018年5月13日 (日)

オーストリア旅行記 (38) カフェ文化

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オーストリア旅行記 (38) カフェ文化

- ひとりでいたい、でも仲間が必要だ -

 

ウィーンの文化と言えば、
やはりこれに触れないわけには
いかないだろう。

カフェ文化。

【カフェ フラウエンフーバー】

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Café Frauenhuber
ウィーン最古のカフェ

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夕日を背に外のテラスで食事をしたが、
食事のあと、
店内の写真を撮らせてもらった。

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女帝マリア・テレジアの料理人
フランツ・ヤーン(Franz Jahn)が
1788年に開業。

1788年にはモーツァルト
「ヘンデルのパストラーレ」を

1797年にはベートーヴェン
「4本の金管楽器とピアノのための5重奏」

をここで演奏。

特に、モーツァルトが公衆の面前で
ピアノ演奏を行ったのは、
ここが最後になったらしい。

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モーツァルトとベートーヴェンが
演奏したことのあるカフェ
というだけで、
もう寄らずにはいられない。

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落ち着いた店内の雰囲気に
まさにピッタリといった感じの正装で、
丁寧な接客をする
ケルナー(ウェイター)さんが
ほんとうに印象的。

かなりなご高齢と思われるが、
所作と言うか身のこなしが美しく、
まさにプロフェッショナル。

ワイワイと
各国からの観光客が多くても、
店の独特な空気感が
キッチリ守られていることが、
なんとも気持ちがいい。

 

【カフェ ブロイナーホーフ】

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カフェ「Café Bräunerhof」

ここにも、多くの芸術家が
集(つど)っていたと言う。

ところで、
「ウィーンといえばカフェ」
と言われるほどにウィーン文化を
代表しているもののひとつがカフェ。

「文化」と呼ばれるまでの
その独特な存在意義を
下記の本を参照しながら
覗いてみたい。

広瀬佳一、今井顕 編著
 ウィーン・オーストリアを
 知るための57章【第2版】
明石書店

(以下水色部、本からの引用)

 

まずは起源から。

 ウィーンといえば、
即座にコーヒーやカフェを
思い浮かべる人も少なくないだろう。

確かに、ウィーンは、
東方に起源をもつ
この「黒いスープ」を、
ヨーロッパで最も早く
普及させた都市
であった。

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ウィーン風コーヒーや
カフェの起源については、
数多くの伝説が
まことしやかに語り伝えられている。

たとえば-

1683年、
トルコ軍によるウィーン包囲の際、
トルコ語の才能を買われて伝令となり、
敵陣に潜入して
皇帝軍を勝利に導いた
コルチスキーが、戦後、
トルコの野営地に放置された
コーヒー豆を得て、
ウィーン初のカフェ・ハウスを
開店したというエピソードは、
あまりにも有名である。

しかし実際には、
このコルチスキーより以前に、
都市在住の東方商人らを相手に
コーヒーを出す店が、
すでに存在していたようだ。

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すでに18世紀には、
カフェはウィーンの名物、
見どころのひとつに
数えられていた。

1720年に開業し、
国内はもちろん、全ヨーロッパの
主要な新聞・雑誌を常備していた

「クラーマー・カフェハウス」は、
やがて首都の知識人の結集地となった。

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こんな感じで、どこのカフェでも
新聞や雑誌が読み放題になっている。
特に新聞のフォルダが印象的。

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ただ、

 薄暗く狭い店の中、
大テーブルに相席で押し込まれた
大勢の客が、
騒がしくひしめき合う。

多くの風刺画や銅版画が
今日に伝えるように、
これが、18世紀前半までの
カフェの日常風景であった。

それが大きく変化を始めるきっかけが
18世紀、後半に起こる。

 こうした状況が
変化を見せはじめたのは、
1780年代のことである。

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皇帝ヨーゼフ2世による
飲食店営業規制穏和の結果、
カフェの数がさらに増大すると、
多くの店主たちは、
生き残りを賭けて大改装に着手
した。

内装は上流階級のサロンに擬せられ、
採光が不具合な立地でも、
クリスタル製の
豪華なシャンデリアが
明るく照らすようになった。

目抜き通りに面した店では、
軒先に植木鉢を並べた
「シャニ・ガルテン」、
今でいう
オープン・エアが創案された

オープン・エアのテラス席は
このころの発明だったわけだ。

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公共の場において追求される
個人の孤独


これこそ、その後、
19世紀から現在まで
人々を魅了し続けた、
ウィーンのカフェの
最大の特色にほかならない。

たとえば、20世紀前半に
活躍した文筆家で、
「カフェ・ツェントラール」をはじめ、
名だたる文学カフェの
常連としても知られる
アルフレート・ポルガーは、
カフェの魅力についてこう語った。

「一人でいたい、
 けれど、
 同時に仲間が必要だ。
 こういう人々が、
 カフェに通うのである」

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ちなみに、上の引用に出てきた文学カフェ
【カフェ ツェントラール】
は、こんな感じ。

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興味深いのは、歴史ある
「ツェントラール」のすぐそばに
これを発見したこと。

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ウィーンの人には
どんな風に見えているのだろう?

2001年末、ケルントナー通りに
第一号店をオープンさせたとき、
多くのウィーンっ子から、

コーヒーを
 紙コップで飲むなんて、
 あり得ない
」と、

猛反発を受けた
スターバックス・コーヒーが、
その後、若い世代を中心に
広く受け入れられ、現在、
市内に9店舗を展開している事実もまた、
ウィーンにおけるカフェ文化の変遷の、
その一面を象徴しているのかもしれない。

 

 

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