食・文化

2017年4月23日 (日)

謎のお店の異空間

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謎のお店の異空間

- 一見さんお断り -

 

知人の厚意により、「一見さんお断り」の
紹介制のお店に連れて行ってもらった。

このお店、
「料理の写真を撮ることも、
 店が特定できるような紹介を
 ネットですることも遠慮してほしい」
とのことで、「食べログ」等の
飲食店案内サイトにも出ていない。

 

都内の某駅で待合せた。
私のグループは紹介者を含めて5名。
時間通りに全員揃った。

「さぁ、行きましょうか」
「はい」

とは言うものの、
どちらに歩けばいいのかわからない。
私を始め、初めての人は店の場所さえ
事前に調べようがなかったもので。

紹介者の背中を追う。

良い噂しか耳に入ってこない
私にとっては、まさに幻のお店ゆえ、
期待値の方は相当に高かったのだが、
気持ちの方のワクワク感に反し、
足取りがどこか「おそるおそる」
といった感じになってしまうのは、
なぜなのだろう。

駅前の繁華街を抜けて、
ひと気のない静かな道を歩く。

場所くらいは覚えてしまおう、
と思いながら歩いていたのだが、
考えてみると、私自身は某条件により
基本的に「紹介者」にはなれない。

つまり今後も、ひとりで来たり、
誰かを連れてきたりすることはない。

だったら謎のままでもいいかな、
という気がしてくる。
「場所もよくわからない」
のままにしておこう。

 

【全員一斉入店】

しばらく歩くと、
全く人通りのない道に面した
民家のような家の前で列が止まった。

「ここ?」と改めて見ると
看板も表札もなにもない家の軒の下に
杉玉だけが下がっている。
それが唯一の目印、という感じ。
そう、この店は日本酒のお店なのだ。

開店は夜7時半。

10分ほど早く着いた私たちは
道の脇に並んで開店を待った。

少しすると、別に2名と3名の組が来て、
合計10名が建物の前に並んだ。
男性6名、女性4名。
年齢層も幅広い。

ぴったり7時半。
板戸が開いて、和服姿の女将が出てきた。

紹介制ゆえ各グループに
最低ひとりは知人がいるせいか、
アイコンタクトでの
静かな挨拶はあるものの、
いちいち名前を聞いたり、
客から名乗ったりはしない。

導かれるまま、
靴を脱いで薄暗い店に入った。

 

【着席】

店内は小さく、真ん中に、
正方形の大きなテーブルが
ひとつあるだけ。

そのテーブルの三辺に、3人、4人、3人と
テーブルを囲むように座るよう促された。
各席には正座補助椅子と
膝掛けが用意されている。

空いた一辺の真ん中に女将が立ち、
ぐるりと客を見回しながら、暗い中、
着席に戸惑っている客に声をかけている。

ようやく全員が席についた。

さて、なにがどう始まるのか?

全員が座ったのを見届けると、女将は
テーブル中央に下がっていた
照明のスイッチを入れた。
3つの小さなダウンライトが
テーブルを照らす。
まぶしくはないが、
一瞬で幕が上がったようになる。

テーブルからの反射光で、
客の顔もぼんやり浮かび上がっている。

客同士もお互いを
ちょっと横目で気にしているが、
全体の雰囲気はまだまだ硬い。

各自の目の前には
5種類のタイプの違う盃が並べられていた。
もちろんどれも中身はカラ。
「切子」から「うすはり」まで、
色も形も違っていて区別しやすい。

 

【店のコンセプト】

最初に女将の丁寧な挨拶があった。

* ここでは料理と日本酒の組合せを
 じっくり味わって、楽しんでもらいたい。

* 日本酒は選んだ「ひとつの蔵」からのみ
 提供する。
 同じ蔵でも米や製法が違うと、
 どんなふうに味や香りが変わってくるのかを
 ぜひ体験してもらいたい。

* 残念ながら戦後、日本では
 日本酒がどんどん飲まれなくなっている。
 仕事帰りにビールを買って帰るように
 「日本酒を買って帰る」
 そんな習慣が広まることに
 少しでも貢献できたら、と思っている。

* 感想や質問はいつでもどうぞ遠慮なく。
 お客様の中には
 料理やお酒にものすごく詳しい人もいるし、
 逆に初心者、という方もいる。
 私がなんでも知っているわけではないので、
 質問があるときは、全員に聞こえるような
 大きな声でしてほしい。
 質問をきっかけに、お客様間での意外な
 コミュニケーションが始まる場合もある。
 そういうやりとりも大事にしたい。

店のコンセプトも趣旨もきわめて明快。
ヘンに偉ぶっても、高級ぶってもおらず、
fairに日本酒の美味しさを共有しましょう、
の精神が溢れていて気持ちがいい。

お店側は
女将と隣の調理場にいる女性の二人のみで
切り盛りしているとのこと。

 

【最初の一杯】

いよいよ、最初の一杯が登場。

ガラスの徳利に入ったお酒を
指定された色の盃に入れるよう案内された。

女将は両脇の人の盃に酌。
注がれた客は隣の人に酌。
2本の徳利がゆっくり客の間を回る。

全員の用意ができたころ
「では、最初のお酒。きいてみて下さい」

(「きき酒」は「利き酒」と書いたりするので
 この場合は「利く」と書くのかもしれないが、
 どうもしっくりこないので「ひらがな」で
 失礼させていただく)

色を見て、香りをかいで、味を確かめる。
視覚、嗅覚、味覚は動員するものの
聴覚は使わない。なのに「きく」。
改めて考えてみるとおもしろい表現だ。

一口目。
香りも味も透明感があってうまい。
料理を口にする前のまさに乾杯の一杯。

「今から、お料理をお出ししますが、
 食べる前と食べた後で、お酒の味が
 どんなふうに変化するのかも
 ぜひお楽しみ下さい」

「ウド、熟成牛タンのスープ」から
料理が始まった。

 

【マリアージュ】

酒も、料理に合わせて違ったものが
順番に登場するが、三種類目までは、
その正体が一切明かされず、
付加情報なしで、ただ香りと味だけを頼りに
その違いを楽しんでいく。

名称は不明でも、
各自、同じ盃に同じ酒が入っているので、
会話で迷うことも混乱することもない。

「切子の盃の酒は、香りはあまりないけれど
 マイルドな柔らかさがあっておいしい」
などと感想が飛び交う。

料理も一皿づつにサプライズがある。
女将の演出もうまく、
「写真を撮りたい」
の思いが何度こみあげてきたことか。

ワインならまさに「マリアージュ」と
呼ぶべき組合せを、
日本酒との組合せとしてはちょっと意外な
肉料理で繋いでいく。

牛、馬、鹿と肉を変え、
バルサミコ酢、ポン酢と酸味を変えて、
組合せも千変万化。

料理や酒の細かい蘊蓄を伝えることが
本報告の趣旨ではないので、
その細かい内容は端折りたいが、
やはり「知る」ということはおもしろい。

蔵が展開している、蔵の地下水、
仕込み水の水脈までを考慮した
「同じ水で作られた田んぼの米」に
限定した酒造りの話。

水に貫かれた栽培、醸造、瓶詰。
ワインの「ドメーヌ」に倣って、
ドメーヌ化と呼んでいるようだが、
この徹底した一貫性を表現する
いい日本語はないものだろうか。

 

【会話も味のうち】

女将は、もちろん給仕もするものの、
料理の演出、酒の詳細な解説、
客の会話のコントロールで
テーブルにつきっきり。

選んだ蔵の歴史や方針、特徴を
細かいことまでよく掴んでいるし、
どんな質問にも
ポンポンと歯切れよく答えてくれる。

客のほうも、
自己紹介をしたわけでもないのに、
会話の端々から少しずつキャラクタが
滲みでてくる。
年齢も性別も全く違うふたりが
「えっ、私もそのお酒大好きです」
と意気投合したり、
「これについては
 あの方に決めてもらいましょう」と
自然に役割分担ができたり、と
客の間の空気もどんどん緩んでくる。

最後8皿目のデザート
「酒粕のムースとヨーグルト、 
 塩漬けの桜と一緒に...」
まで、ほんとうにあっという間だった。

すべてが終了したあと、
「お酒の写真だけはOKです」
とのことで、ゆっくり「きき比べた」
 栃木県さくら市
 株式会社せんきん
の5種の日本酒の写真を一枚。

P4127075s

それにしても
「山田錦」や「雄町」ではなく
「亀ノ尾」の味が
あんなに印象的だったとは。
米の違いも新たな発見とともに
目一杯楽しめた夜だった。

2時間強、様々な情報を得たせいか、
いつのまにか「せんきん」は
私にとって、特別な蔵になってしまった。
こういうキッカケのある繋がりはいい。

夜10時前、名残惜しいもののお開きに。

女将に丁寧に見送られて、
一斉に入った客は、
一斉に帰ることになった。

最初に書いた通り、
外見は一切お店に見えないし、
営業時間中の人の出入りもゼロ。
これでは、断るまでもなく
「一見」では入りようがない。

日本酒のお店ながら
女将も言っていた通り、
お酒をガブガブと飲みたい人には
向いていない。

でも、
料理を、お酒を、
女将との会話を、客同士の会話を、
「へぇ」とか、「ほぉ」とか、
「ほんとだ!」とか、
「知らなかったなぁ」とか言いながら、
ゆっくり丁寧に楽しむ。

そういう時間や経験が
愛おしく思える方には最高のお店だ。

こういうお店が
もっともっと増えるといいのに、
と改めて思う。

もちろん料理も美味しかったけれど、
「料理の味」だけが
「料理店の価値」を決めるわけではない。

 

最後に記録を兼ねて
お酒と料理のメモだけ残しておきたい。

酒(蔵)
栃木県さくら市 株式会社せんきん

(n1) 仙禽一聲(せんきんいっせい)
    35%まで磨き上げた山田錦
(n2) モダン仙禽   無垢
(n3) モダン仙禽   雄町
(n4) モダン仙禽   亀ノ尾
(n5) クラシカル仙禽 亀ノ尾 

料理
(d1) ウド、熟成タンのスープ
(d2) 牛ホホ肉の日本酒煮込み
      里芋のマッシュポテト
      柚子胡椒ソース
(d3) 内モモ肉のローストビーフ
      桃ベースのソース
      わさび
(d4) 牛のハツ刺し ダシ醤油
   馬肉の漬け寿司
   ホルモン(ミノ)の軍艦
(d5) 鹿肉のロースト 
      バルサミコ酢ソース
(d6) 牛肩肉のホイル焼き 
      えのき茸とポン酢
(d7) 稲庭中華ソバ 
      鰹とコブの出汁
      肉味噌には生姜と豆板醤
(d8) 酒粕のムース 
   ヨーグルト 塩漬けの桜

 

誘ってくれたTさん、どうもありがとう。

 

 

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2017年1月 8日 (日)

「消化する」とは

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「消化する」とは

- 小学生男の子の質問 -

 

年末年始の新聞を読み返していたら、
こんな記事が目に留まった。

生物学者の福岡伸一さんが
書いていたコラム。

旧年からの記事で恐縮だが、
紹介させていただきたい。

 福岡伸一の動的平衡
 他の生物を「消化する」とは

A161229fukuoka

(以下水色部、2016年12月29日の
 朝日新聞の記事から引用)

 お正月のおせち料理やお雑煮は
しっかりかんで食べましょう。
消化がよくなるように。

消化とは、食べ物を細かくして栄養を
取り込みやすくする作業だと
思っていませんか。

実は、消化のほんとうの意味
もっと別のところにあるんです。

「消化のほんとうに意味」とは
いったい何だろう。

 食べ物は、動物性でも植物性でも
そもそもは他の生物の一部。

そこには元の持ち主の遺伝情報が
しっかりと書き込まれている。

遺伝情報はたんばく質の
アミノ酸配列として表現される。

アミノ酸はアルファベット、
たんばく質は文章にあたる


他人の文章が
いきなり私の身体に入ってくると、
情報が衝突し、干渉を起こす。
これがアレルギー反応や拒絶反応。

 それゆえ、
元の持ち主の文章をいったん
バラバラのアルファベットに分解
し、
意味を消すことが必要となる。

福岡さんらしい、
実にわかりやすいたとえだ。

 他人(他の生物)の
 文章(たんぱく質)は、
 アルファベット(アミノ酸)に
 分解する必要がある。

その上でアルファベットをつむぎ直して
自分の身体の文章を再構築
する。
これが生きているということ。

つまり消化の本質は
情報の解体
にある。

他人の文章をアルファベットに分解し、
そのアルファベットを使って、
自分の文章を作ることが、
生きるということ。

 

 食用のコラーゲンは魚や牛のたんばく質。
食べれば消化されてアミノ酸になる。

一方、体内で必要なコラーゲンは
どんな食材由来のアミノ酸からでも
合成できる


だからコラーゲンを食べれば、
お肌がつやつやになると思っている人は、
ちょっとご注意あれ。

それは、他人の毛を食べれば、
髪が増えると思うに等しい

どんなにいいたんぱく質でも
食物として摂取する限り
それがそのまま自分の体の一部、
つまり自分の体を構成するたんぱく質に
なるわけではない。

一度はアミノ酸にまで分解し、
それを原料に、
自分自身のたんぱく質を作らないと
自分の体の一部にはならないわけだ。

消化は「良く噛む」といった程度の
小ささではなく、
まさに食物をアミノ酸レベルにまで
「小さく小さくする分解作業」なのだ。

 

この記事を読んでいたら学生時代の
ある景色が急に甦ってきた。

私は、理系学部の学生だったこともあり、
学生時代、
数学や理科の家庭教師をよくしていた。
小学生から高校生まで、
ずいぶんいろいろな生徒さんに
巡り合った。

ある時期、
小学校高学年の男の子ばかり5人、
グループ学習という形で、
理科を教えていたことがある。

ちょうど「消化」について
教えている時だった。

福岡さんのような
上手なたとえはできなかったし、
小学生にアミノ酸についてまでは
教えなかったと思うが、
とにかく、「消化とは」
口から胃、腸に移動する過程における
食物を小さく小さくする分解作業
だということは強調した。

たしか「唾液」の作用くらいまでは、
教科書でも触れられていた気がする。

ひととおりの説明を終えたあと、
最後に「ハイ、質問は?」と聞くと、
ひとりが手を挙げた。

「先生! 食物は、
 小さくしないと体に吸収できない。

 だから、消化は
 小さく小さくする作業だ、は
 よくわかりました。

 でもぉ・・・

 だったら、最後はどうして
 あんなにデカいのですか?


小学生の男の子5人、
爆笑の渦はよく覚えているが、
どう回答したかは全く覚えていない。

 

 

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2017年1月 1日 (日)

「おいしいもののまわり」

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「おいしいもののまわり」

- 子どもの頃きちんと教えられたこと -

 

あけましておめでとうございます。

「はまのおと」
本年もどうぞよろしくお願いします。

 

さて、新年
「新たな気持で」を思った時、
最初に浮かんだのはこの本だった。

土井善晴著
「おいしいもののまわり」
グラフィック社

(以下水色部、本からの引用)


レシピ集ではない。
テレビ朝日「おかずのクッキング」に
2007年から2012年まで連載されていた
土井さんのエッセイを
加筆・修正のうえ再編集したもの。

印象的な表紙のデザインは、
柿木原政広さん。

 「大気の青」
 「植物の緑」
 「黒い土」
 「命の水色」
 「火の赤」

による縞文。

 

料理そのもの、というよりも、
料理のまわり、まさに
「おいしいもののまわり」
に関するエッセイが並んでいる。

調理道具や調理方法など
取り上げている題材はさまざまだが、
土井さんの料理に対する姿勢、
(乱暴にひとことで言ってしまえば)
「丁寧に美しく」
がピシッと貫かれていて、
読んでいてなぜか背筋が伸びるというか、
姿勢を正したくなる


それは、家庭料理であっても
プロの料理人のしごとであっても同じ。

丁寧な、丁寧な仕事の中に、
楽しみを見出し、
美しさを見出している。

 

「はじめに」から
土井さんの思いがあふれている。

料理とは命をつくる仕事である

・・・

料理することはすでに愛している。
食べる人はすでに愛されている


・・・

おいしいものは、はかないものである。
音楽にたとえれば、
ロックコンサートのように
刺激の強い音ではない。

耳を澄ませなければ聞こえない、
鳥のさえずりや川のせせらぎのような
穏やかなるもの。

真のおいしさとは、
舌先で味わうのではない、
肉体が感じる心地良さ、
ひとつ一つの細胞が喜ぶものなのだ

 

「箸で盛ること」
の節では、和食の盛り付けに関して、
こんな話を披露している。

 和食では、料理を盛るときは、
箸を決して右手から離すことはない


和え物、酢の物なら、まず、
複数の食材をひとつのポールに入れて、
和え衣や合わせ酢を加え、
箸に左手を添えて和える。

左手で直接材料に触れて箸を添えて、
形を整えて、そのまま器に盛り込む。

料理する人の手は
清潔であることが前提であるが、
この左手は
「五本箸」と言われて直接料理に触れる。

このとき、和食のルールとして、
右手は箸から決して離してはいけない。

なるほど。
和食の料理人が盛り付けるときの
ある種の動きの美しさは、
こんなところから来ていたのかもしれない。

そして左手は料理以外に触れることはない。
もし両手で料理に触れてしまえば、
器にも、箸にも
触れられなくなってしまうからだ。

 汚れた手で、器や道具を触れれば、
器を汚し、道具を汚してしまうことになる。

両方の手でサラダを合えたり、
和え物をつくったりしているのを見ると、
あの手はいったいどうするのだろうか
と思ってしまう。

手を洗うにも、
水道のハンドルを汚してしまう。
手は洗ってきれいになっても、
再びハンドルに触れれば
また汚れると考えるのが
衛生管理である。

箸が清潔な和食をつくっている

こんな簡単なことでも、
ちょっと説明してもらえるだけで、
和食の盛り付けへの関心はグッと深まる。

しかもシンプルにしてreasonable。

 

そんな中、
妙に気に入ってしまった一節がある。
「おひつ」についての
土井さんの子どものころの思い出。

親子の会話の一場面だが、
なぜか言葉のトーンに愛があふれていて、
情景が優しい。

 おひつを見ていたら、
幼い頃に初めてご飯をよそった記憶が
甦ってきた。

それはちょうど
物心のつき始めた時期と重なる。

「ご飯は一度でよそったらあかんよ。
 二回に分けてよそいなさい」。

「よそった後、おひつの中に
 穴があいているようではあかんよ。
 ちょっとならしときなさい」。

子どもの頃きちんと教えられたことは、
いつまでも忘れないものだ。

「子どもの頃、きちんと教えられたこと」が
大人になってもごく自然にできる人は、
それだけで美しい。

 

 

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2016年3月 6日 (日)

ユーモアを忘れない

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ユーモアを忘れない

- 検索で見つからないけれど -

 

閏日2月29日は4年に一度。

4年に一度と言えば、以前
ここで、4年に一度の洗濯ですむ
「オリンピックパンツ」の紹介をした。

もうひとつ、2月29日で
思い出したことがある。

以前目にした某料理レシピサイトだ。

そのサイトは、
「今日の献立」が毎日更新される
人気サイトだった。

さて、問題。
某年2月29日。
そこにはどんな料理が紹介されていたでしょう?

 

2月29日、「今日の献立」には
料理の紹介がなく、
ひと言こう書いてあった。

「4年に一度くらいは外食しましょう」

 

うまい!
レシピの欄にこのコメント。
なんてユーモアのある
ウィットに富んだひと言だろう。

というわけで、4年に一度のチャンス、
今年はどんなコメントが載るのだろうと
密かに楽しみにしていた。

ところが、当日、掲載されたのは
いつも通りの料理の紹介記事だけだった。

 

あれ? 
期待していた私が間違い?
私が見て笑ったのは4年前? 8年前?

気になっていろいろ調べてみたのだが、
そういった記述に関しては、
なぜか全く検索に引っかからない。

老舗有名サイトゆえ、
サイト名自体を間違って覚えているとは
考えにくいのだが。

というわけで、
今回はどうしてもウラがとれなかったため、
サイト名の紹介は控えさせていただく。
おかしいなぁ?
私は幻(まぼろし)を見たのだろうか。

検索で見つからなかったからといって、
存在が否定されたわけではないのに、
なぜか自信が揺らいでしまっている。
どこで見たコメントだったのだろう?

 

「ユーモアのあるコメント」と言えば、
これも忘れられない。

こちらは、画像も残っている。

 

全米第二位の規模を誇っていたにもかかわらず、
2011年に倒産してしまった
米国の書店チェーンBorders。

経営不振には、もちろん、
オンライン書店「Amazon」の台頭が
大きく影響していたことは間違いない。

そのBordersが倒産の危機に瀕していたころ、
Borders実書店の入り口扉に貼ってあったという
貼り紙。

Borders_amazon

「NO RESTROOMS.
 TRY AMAZON」

あえて訳すと

「お手洗いはありません。
 使いたいならAmazonに聞いてみたら」

そんな感じか。
どんな状況でも、ユーモアを忘れていないのは
さすがだ。

 

 

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2016年1月24日 (日)

「もの食う人びと」

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「もの食う人びと」

- 「売り切れ」程度は我慢しよう -

 

産業廃棄物処理業者に
廃棄を委託したビーフカツが、
大量に横流しされ、販売されていた事件。
2016年1月16日の朝日新聞によると、
廃棄を委託したのは、
カツ60万枚を含む計6品目の冷凍食材」という。

カレーチェーン店のビーフカツから発覚した今回の事件、
その後、スーパーやコンビニの廃棄食品も
転売ルートに乗っていたことが明らかになったが、
販売された総量はまだわかっていないようだ。

それにしても、カツ60万枚だけでも凄まじい量だ。

この記事を読んでいたら、
辺見庸著「もの食う人びと」角川文庫
を思い出した。ちょっと紹介したい。

この本は、辺見さんが世界中を歩きまわって、
現地で現地のものを食べてみた、という
食のルポルタージュ。

ただ、食のルポではあるが、
訪問先は紛争地帯、飢餓地帯が多く
グルメとはほど遠い話ばかり。

その一つが、インドのお隣、
バングラデシュでのエピソード。
(以下水色部、本からの引用)

 

十数円で食事ができると喜び勇んで、
高いほうを私は頼んだ。

 バングラデシュでの最初の食事である。
 それにふさわしく、ここでの習慣に従い、
右手の指だけ使って食べてみよう。

慣れると、舌だけでなく
指もまた味を感じるという
ではないか。

 そうなりたいものだと、
小皿のご飯におずおずと指を当てると、
おや、ひんやりと冷たい。
 安いのだから文句は言えない。

親指、人さし指、中指、
それに薬指まで動員しても、
下手なものだからボロボロとみっともなく
ご飯粒をこぼしてしまう。

 それでもなんとかご飯をほおばった。
希少動物の食事でも観察するように、
店の娘と野次馬が私の指と口の動きに
目を凝らしている。

 インディカ米にしては腰がない。
チリリと舌先が酸っぱい。水っぽい。
それでも噛むほどに甘くなってきた。

 お米文化はやっぱりいい、とうなずきつつ、
二口、三口。
次に骨つき肉を口に運ぼうとした。
すると突然「ストップ!」という叫び

どうして突然制止させられたのだろう?

 

それは、食べ残し、残飯なんだよ
 たどたどしい英語が続いた。
よく見れば肉にはたしかに他人の歯形もある。
ご飯もだれかの右手で
すでに押ししごかれたものらしい。
線香は、腐敗臭消しだったのだ。

 うっとうなって、皿を私は放りだした。
途端、ビーフジャーキーみたいに細い腕が
ニュッと横から伸びてきて、皿を奪い取っていった。
十歳ほどの少年だ。

ふり向いた時には、クワッと開いた口が
骨つき肉に噛みついていて、
もう脇目もふらないのだった。

 忠告の主は、モハメド・サムスと名乗る
タカのような目の男だった。

三十歳。ホテル従業員だったが、
いまは失業中だという。
歩きながらモハメドは言った。

ダッカには金持ちが残した食事の市場がある。
 残飯市場だ。卸売り、小売りもしている


 口に酸っぱい液がどくどく湧いてきて、
私はしきりに唾(つば)を吐いた。

残飯市場があり、まさに正々堂々と
卸売りも小売りもしているらしい。

 

 東京では日々、
50万人分の一日の食事量に匹敵する残飯が
無感動に捨てられているというではないか


ダッカでは残飯が人間の食料として売られていた

神をも恐れぬ贅沢の果てに、
彼我のありようがいつか逆転しはしないか。
東京で残飯を食らう日……。

(中略)

 金曜日の夜。私とモハメドは都心の
「ダッカ・レディーズ・クラブ」という建物の
前の木立の陰に隠れていた。

なかから笑いさんざめきが聞こえる。
結婚披露宴なのだ。

 喧噪(けんそう)が収まった。
やがて建物の裏手にウエーターが
食べ残しを載せたままの机を運んできた。

そこにビニール袋を手にしたサリーの女たち五人が
どこからか影のように近づいた。

 そして膨れた袋を提げ、一列になり、
皆なぜか猫背にして、しずしずと闇に消えていった。

 モハメドがささやく。

木曜と金曜が、残飯の主な出荷日なんだ。
 イスラム教徒がこの両日に
 結婚式をするのを好むからさ」

 披露宴の食べ残しが商品化するわけである。

 富者のハレ(祭礼、儀式)の日はまた、
貧者にとって食の流通の時でもあるのだ。

残飯市場に、独特な拒否感というか、
違和感があるのはどうしてなのだろう。

衛生上の問題だけではないような気がする。
実際問題として、
食べても「健康上」問題のないものも
多いと思うのだが、何かが許せない。

越えてはいけないものを越えているような、
というべきか。
いったいそれは何なのだろう?

 

廃棄される食品が大量にある一方で、
食べられない人もいる。

廃棄物の転売は、もちろん問題で、
「廃棄物を砕くなどして
 転売できないようにする」
と委託した業者はコメントしたりしているが、
根本的に手を打たなければならないのは、
転売できないようにすることではなく
食品廃棄物自体をもっと減らす工夫
の方だろう。

* 廃棄物を出さない適切な量の製造
* 作ったものが「ゴミ」にならない流通のしくみ
* 「売り切れ」程度はガマンする消費者の意識

工夫・改善の余地はまだまだある領域だ。

特に消費者の一人としては、
「他に食べるものがないわけじゃぁない。
 品切れ、売り切れ程度は我慢しようよ
の意識を広げられないものかなぁ、と
強く思っている。

「品切れ、売り切れは絶対にダメ」
の大前提に縛られたままだと、いつまでたっても
「余分に作る」の発想から
脱却できないだろうから。

 

 

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2015年6月 7日 (日)

おいしい料理とは

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おいしい料理とは

- 高橋忠之さんの言葉 -

 

昨日、2015年6月6日の朝日新聞朝刊一面には、
こんな記事があった。

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伊勢志摩で2016年、主要国首脳会議(サミット)が
開かれることが決まったようだ。

会場となる予定のホテルは、
賢島にある「伊勢志摩観光ホテル」。

伊勢志摩観光ホテルと言えば、知る人ぞ知るの料理長
高橋忠之さんがいたところだ。

地元の食材を大事にする数々の名物料理だけでなく、
言葉においても多くの名言を残している高橋さん。
今日はそんな中から、
特に印象的だったインタビュー記事をひとつ紹介したい。

古いスクラップブックをめくって見つけた記事は、
なんと1988年4月28日の朝日新聞夕刊。
今から27年も前の記事だ。
日に焼けてまさに真っ黄色になってしまっている。
(以下水色部は記事からの引用)

聞き手は、2008年に亡くなってしまった筑紫哲也さん。
「筑紫哲也の気になるなんばあわん(NO.1)」

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高橋さんは、中学卒業後、修行15年。
29歳の若さで料理長に就任した。

【徒弟制度的な修行について】

料理は修業でどうこうではなくて、
科学的に解体していって
もう一回積み重ねていって
組み立てられるものだと思います。

ものを正しく計る、
分量、時間、温度を計ることで99%出来る。
修業は一年あれば十分です

もちろんこれは「料理を作る」に限った話。
「料理法を考える人」「料理長」となれば、
別な目が必要になる。

まず素材を究明する。
それは自然を見つめることです。


アワビの場合だと太陽と土と海。
太陽の光が届くところに海草がある。
その海草の生育には川の水がどういう土壌を得て
海に流れ込むかを知る。

そしてプランクトン、海底の地形、黒潮の流れ。
それに水温、水質、塩分など、
データから問いかけていくとアワビの成長の姿が決まる。

それから素材の成分。
例えば、たんばく質、糖分、脂肪などを追いかけて
火の通し方、調味料などを考える。

脂っこい魚に
バターやクリームを加え過ぎるとまずくなる。

アワビについて意外な発見は
大根といっしょに炊くと、
やわらかさとおいしさが出てきたことです。

タコと大根を炊く料理法から
偶然ヒントを得たんですが。

 

【こちらから行かなくても、むこうからやってくる】

本場フランスでの修業が売り物のこの世界で、
旅を除いて志摩を動かない。

代わりにフランスから有名な料理人がやってくる

その一人、
「好きなだけ滞在して私の店で食べていいが、
 パリに店を出さないでくれ」。

別の一人、
「もう一回来る。
 その時は食べるのではなくて一緒に働きたい」

 

「ご飯とみそ汁にたくあんがあれば一番」
という声に対しても、それを否定することなく
自分の料理をひと言で表現している。

それは食べ慣れたおいしさです。

それと食べ慣れない非日常の
ごちそうのおいしさとは別の世界。
一緒にしちゃいけないんですね。

私が作っているのは非日常の料理。

 

無類の勉強家で、
休まない、眠らない(睡眠四時間)。
月百冊の本を読む読書家?
の質問に。

それはオーバーですが、年に450万円、
本を買ったことがあります。

(略)

「料理人の世界」には反発がありましたが、
字をひっくり返したもの「世界の料理人」になるんだ、と、

 

いろいろ考えさせられる言葉の数々だが、
いまでもこの記事を捨てられずにいるのは、特に
【おいしい料理とは】
の説明があまりにもすばらしかったからだ。

おいしい料理というのは、
物語というか神話に近いものを持たねば
だめだと思うんです。

食べておいしかったということと併せて、
食べてみたいという潜在的なお客さま
つくり出すことからスタートする。

日本料理は様式美の世界だと思うんですが、
フランス料理は絶対美の世界に
お客さまの気持ちをもっていかないと、
ドラマは成功しない。

おいしかっただけでなくて、
またいつか引き返して来たい

思わせるまでいかないと・・・。

食べたことのない人には、
「食べてみたい」と思わせる。

食べた人には、
「またいつか引き返してきて、
 もう一度食べたい」と思わせる。

「食べておいしかった」だけではダメなのだ。

これ、料理だけでなく、
「いい仕事」にはすべてあてはまる名言だ。

読んだことのない人には「読んでみたい」と思わせる。
読んだ人には「もう一度読みたい」と思わせる。
ほんとうにいい小説にはそういう魅力がある。

「読んでおもしろかった」だけの小説は、
「食べておいしかった」で終わりの料理と同じ。

仕事どころか人も同じかも。

「会ってみたい」「もう一度会いたい」
そう思わせる人こそが、
まさに魅力的な人物なのではないだろうか。

 

【オマケ1】
記事右上隅の広告にご注目あれ。
「5月17日創刊 AERA  全72ページ300円」
週刊アエラは1988年5月の創刊だったんだ。

 

【オマケ2】
2015年と1988年の記事を同時に見て、
その文字の大きさの違いにビックリ。
同じ朝日新聞だ。

同一解像度でスキャンしたものを並べてみた。
つまり実サイズ比そのまま。
上が2015年の記事、下が1988年の記事

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これを、情報量が減ったと考えるか、
読みやすくなったと考えるか。

 

 

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2015年4月 5日 (日)

スリムな体型は脂肪のおかげ

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スリムな体型は脂肪のおかげ

- 脂肪はワルモノではない -

 

京都大学教授の伏木亨(ふしきとおる)さんが、
「からだで味わう動物と情報を味わう人間」
という題のエッセイの中で
次のような話を紹介していた。
(以下水色部、
 PR誌「学鐙」2002年11月号からの引用)

 

全くカロリーがなくて
しかもおいしい脂肪が作れたら爆発的に売れるに違いない。

と昨今の低カロリー志向から話を始めている。

ところで、
「体にとってカロリーにならない」とは
ミクロに見るとどういうことなのだろう。

 食品中の脂肪は脂肪酸という分子が
三つグリセロール分子に結合したものである。

小腸の中でこの結合が切断されてから体内に吸収される。
結合が切れなければ
吸収されないからカロリーはない、ゼロである。


この夢のような素材は
実は米国の食品会社によって開発されている。
米国の一部の州には、ポテトチップスなどの形で
試験販売されている。
少し前に、これを輸入して食べてみたが、
普通のポテトチップスと変わらない。

脂溶性のビタミンを排泄してしまうことなどが
指摘されているが、味の面ではうまくできている。

 

さて、こういったカロリーにならない油を使って、
動物実験をしてみると...

 これとよく似た原理で試作された
別の脂肪が手に入った。見た目は普通の油である。

熱にも安定で、天ぷらもフライもうまく揚げられる。
実験動物は、この試作品の油を最初喜んで食べた
市販のコーン油と比較しても実験動物の嗜好性には
差が見られないほどよくできている。
しかし、30分を過ぎる頃から事情が変わってきた。

実験動物が次第にこの油を好まなくなったのである
それからは動物はコーン油ばかりに群がって、
試作品の油を選ぶことはなかった。

わずか30分で見破られてしまったのである

実験に関する詳しいことは
この文章からではわからないが、
要は「30分後にはバレちゃった」ということらしい。

なぜバレたのか、
どうして30分後なのか。

 動物実験で30分というのは、
深い意味のある時間である。

油を摂取して30分ほど経つと、脂肪は消化吸収され、
からだの中でエネルギーに変わる。

ここで、
おそらく内臓からネガティブな信号が出たのである。
油としてはおいしいけれど、
エネルギーにならないぞ、という情報が、
一挙に実験動物の嗜好性を失わせたと考えられる。

舌は騙せても、からだには嘘はつけない

この時点ではまだ推測の範囲という感じだが、
おそらくそういうことなのだろう。

 

 動物は本来、脂肪に対して執着する。
モルヒネなどの依存性のあるドラッグと同じメカニズムで
本能の快感を生じ、もっと食べたいという執着を
抱くことが明らかになっている。

おいしさの快感はβエンドルフィン、
もっと食べたいという欲求はドーパミンが
主に関係することも明らかになっている。

 同じ方法で実験すると、
この試作品に動物は執着の行動を示さなかった。
本能はこの油に執着することを許さなかったのである

理由は一つ、
食べてもカロリーがないものは役に立たない、
こんなものに執着すると
カロリーが不足して命が危ない、である。

(中略)

動物にとっては
ノンカロリーなんてとんでもない食品
なのである。

言うまでもなく我々は
カロリーを摂取するために食事をしている
「ノンカロリーなんてとんでもない」が
生物としてのそもそもの自然な反応で、
「爆発的に売れるかも」と思うのは、
全く別な力の作用、というわけだ。

 

そう言えば、脂肪については
柳田理科雄著「空想科学読本5」メディアファクトリー

 

に、こんなユニークな記述もあった。

炭水化物やタンパク質は1gあたり4キロカロリー、
脂肪は9キロカロリーのエネルギーに変わる。
逆に言えば、
同じエネルギーを蓄えるのに、
炭水化物より脂肪のほうが量が少なくて済む


脂肪は、エネルギー貯蔵能力が高いのである。

おかげで人間は、食物が豊富なときに食い溜めし、
食べ物が少ないときの飢餓に耐えてきた。

食べ物が常に豊富な現代の先進諸国では、
美容その他の大敵と言われる脂肪だが、
見当違いも甚だしい

もし炭水化物が脂肪に変わらなかったら、
同じ量を食べても9/4=2.25倍も太るわけである。

つくづくありがたい自然の摂理といわねばならない。

 

今、体重70kg、体脂肪率24%の人がいたとする。
この人の脂肪量は (70x0.24=) 16.8kg

この16.8キロの脂肪と同量のカロリーを
炭水化物で維持しようとすると
 16.8 x 2.25 = 37.8kg
実に38キロ近くの炭水化物が必要になる。

(言うまでもなく、全部を「炭水化物で」は、
 現実的にはありえないので「仮に」の話だ)

その差 (37.8-16.8=) 21kg
つまり、70kgの人は91kgになってしまう。

 

逆に言うと、
91kgの体重になるかもしれない人が、
70kgの体型でいられるのは、
「脂肪」のおかげ


55kg体脂肪率24%の場合で計算しても、
炭水化物体型なら71.5kgになってしまう。

脂肪はワルモノではない。
スリムな体型は脂肪のおかげなのだ。

 

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2015年2月 1日 (日)

「円くなって穏やかに同じものを食べる」

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「円くなって穏やかに同じものを食べる」

- ヒトが、故郷がもっているもの -

 

少し前に録音した
NHKのカルチャーラジオの講義を聞いていたら、
ゴリラの専門家、
京都大学学長の山極寿一(やまぎわ・じゅいち)さんが、
たいへん興味深い話をしていた。
今日はそれを紹介したい。
(以下水色部、2014年12月7日の放送から)

 

まず、話全体の大前提となる、
ヒトとゴリラは、サルとゴリラよりも近いという話から。

まずですね、私たち人間というのは
ゴリラやチンパンジーやオラウータンと一緒に
「ヒト科」という分類群にいます。

重要なのは、
サルとゴリラの違いよりも、
ゴリラと人間の違いのほうが小さい、ということなんですね。

私たちもゴリラも同じくサルとは違う存在なんです。
これをヒト科と言うんですが、
ダーウィンの進化論と言うのは、昔共通の祖先がいて、
それから順を追って分岐をして
いろんな種に分かれたという話ですよね。

サルはずっと前に分かれました。

ゴリラやチンパンジーは最近になって人間と分かれました。
だから、人間とゴリラは、サルと人間よりも、
サルとゴリラよりも近いということなんですね。

 

ゴリラだってチンパンジーだってサルじゃないか、
と思って聞くと話がわからなくなってしまう。

山極さんの話の中では、
「ヒト、ゴリラ、チンパンジー、オラウータン、ボノボ」は
「ヒト科」と呼ばれるグループで、
たとえばニホンザルなどの「サル」とは
区別して話が進んでいる。ここはぜひ混乱なきよう。

さて、では
サルであるニホンザルと、ヒト科のゴリラとの違いは、
どんなところにあるのだろうか。
特に食事のシーンに興味深い違いがある。

ニホンザルを例に取ってみましょう。

ニホンザルは餌を間において
両方が一緒に手をのばすということはありえません。

両方手をのばしたらケンカになっちゃうんですね。
だから弱い方のサルが手を引っ込めます。

尻尾をあげて強そうな態度を示している強いサルがやってきて
その餌を独占します


その時に、強いサルは相手の顔をジーっと見つめて
「お前オレに挑戦する気か」というふうに
相手にシグナルを送るわけですね。

そうすると弱い方のサルは、歯茎をむき出してニッと笑う、
これグリメイスっていう顔の表情なんですが、
「私はあなたと戦う気持ちはありません、
 私はあなたより弱いです」
っていうふうに言うわけですね。

つまりニホンザルは、瞬時のうちに勝ち負けを決めてしまって、
勝ったほうが餌を横取りする、あるいは独占する
という
社会的なルールを設けているわけです。

だから、サルはいつも、相手と自分のどちらが強いか弱いか
よくわきまえて行動しています。

強いサルの前では遠慮、
弱いサルの前では堂々と自分の権利を主張します。
そういう社会なんですね。

強いサルが餌を独占する、
これがサルの世界のルール。

では、この餌の独占、
ヒト科の世界では、どうなっているのだろう。
ボノボを見てみよう。

これはボノボというチンパンジーの仲間、
そしてゴリラ、
私が研究しているゴリラの食物を介する行動です。

私たち人間はこっちのほうに属しているんですよ。

今、左側のボノボはですね、サトウキビ持っていますね。
右端のボノボが強いボノボなんです。

自分で餌を独占しようとして持っています。
ところがそこに子連れのお母さんがやってきた。
これ、オスより弱いです。
でも、手を差し出して「頂戴」って言うと
この餌が渡ります。
これを分配行動って言うんですね。

もう背中のほうにいる子どもは
すでに分けてもらって食べてます。

だからボノボの社会では、ニホンザルとはまったく真逆に
弱い方の立場のものが強い方の立場のものに、
餌の分配を要求するんですね。

それを断りきれない。


餌を持っている強い方のボノボはね。

 

ゴリラの場合でも同じような光景が見られる。

右側の写真もゴリラなんですけれど、
おんなじことが起こっています。

200キロを越える背中の白い大きなオス、
これをシルバーバックと言うんですが、
これが今、美味しい木の皮を食べています。

そこに子どもがやってきて、
食べている木の皮とそのオスゴリラの顔を
交互に覗き込むわけですね。

そうすると、その圧力に要求に耐えかねて
その場所を譲ってやる。

ここでも、弱い方の立場のものが、
餌の、餌場を譲り渡すことを要求して、
強い方の立場のものがそれを譲る
ということが起こります。
これ、まったくサルとは違うんです。

私たち人間は、こっちの方に属しているわけですね。

 

さて、その結果、ニホンザルでは見られない、
ある食事の光景が現れることになる。

その結果、なんか私たちが見慣れた光景が
ここに出ていると思いませんか。

つまり円くなって向き合いながら
一緒に同じものを食べる
、っていう光景です。

ニホンザルでは、こういう光景生まれないんですよ。
強いサルが独占しちゃいますから。
でも、チンパンジーでもゴリラでもボノボでも
こういう光景が生まれる。

つまり人間の食事と同じような光景が生まれるわけです。

 

そもそも「向き合って」
つまり「対面」という行為は、
サルでは穏やかにできないらしい。

そもそも対面するって言うのは
サルでは相手に対する脅しになります。

だから、相手の顔を見つめるのは
強いサルの特権になります。

弱い方は、見つめられたら
ちょっと視線を逸らさないといけない。

あるいはニッと笑って歯茎を見せて、
笑ったような顔をしなくちゃいけないわけですね。

 

人間にとっては毎日繰り返される
「向き合って穏やかに同じものを食べる」

これは、ごく自然で簡単なことのような気がするが、
実は、食べ物を強いほうが独占しないとか、
対面が威嚇にならないとか、
いくつかのハードルを乗り越えてはじめて
実現できるものなのだ。

 

そう言えば、故郷の「郷」という字は、
「ふたりが食物をはさんで向かい合っている様子」
表している、と聞いたことがある。
確かによく見るとそんな形、構成になっている。

そこにある「音」が「響」であり、
そういった飲食のもてなしが「饗」であると。

「円くなって向き合いながら
 一緒に同じものを穏やかに食べられる場所」
それがまさに、ふるさと(故郷)。

ゴリラの話を聞いてから見直すと、
「郷」の字が一段と味わい深くなる。

 

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2014年10月 4日 (土)

五感で味わう。

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五感で味わう。

- 「死ぬほどうまい!」 -

 

友人家族に誘われてハイキングをしたことがある。
そのとき、一緒に行った家族が小さな携帯バーナーを持っており、
途中の休憩時、お湯を沸かしてコーヒーを淹れてくれた。

歩き疲れた体を休め、
心地良い風で汗が冷やされるのを感じながら飲む
沸かしたてのお湯で入れたコーヒーには、
おもわず「死ぬほどうまい!」と漏らしてしまった。

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もちろん水筒に熱いお茶を入れて持って行っても、
そこそこ熱いまま飲むことはできるが、
「沸かしたてのお湯」が引き出してくれたものは、
まさに別世界の味だった。

あまりのおいしさにすっかり魅了されてしまった私は、
そうたびたびハイキングをするわけでもないのに、
「次に行く時は、絶対に携帯湯沸かしセットを持っていくぞ」
と購入を決意してしまった。

 

とはいえド素人。さて何を買ったらいいものやら。

器具を選ぶ基準をピックアップした。
1.とにかく小さくて軽いこと。
2.使用頻度が少なくても長く安全に使える耐久性があること。
3.外では、静かなようでも結構風がある。
  その度に火が消えてしまってはストレスとなるので、
  ある程度風に強いこと。
4.燃料のガスが入手しやすいこと。

冬山の登山をするわけではないので、
極寒でも使えるとか、気圧が低くても使えるとか、
そういった方面への要求はゼロ。

その方面に詳しい友人のアドバイスももらって、
結局以下の3点を選んで購入した。

 

(1) プリムス(PRIMUS) ウルトラバーナー P153
(2) プリムス(PRIMUS) GAS CARTRIDGE ノーマルガス(小)
(3) スノーピーク(snow peak) トレック900

(3)の中に(1)と(2)が完全に入ってしまうので、
アルミ製の(3)が丈夫な携帯ケース代わりになる。

取っ手もたためるので、実際に持ち運ぶときは
3つ全部でもこの大きさ。
(となりの500mlのペットボトルは、
 大きさ比較のために一緒に撮っただけ)

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たったこれだけをリュックにいれておけば、
いつでもどこでもお湯が沸かせる!

 

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もちろん荷物としては他に「水」や食材が必要となるが、
それらは行く前に、行程や気分に合わせて選べばいいので
選択の幅は広い。

バーナー本体はこんなに小さくたためる。
まさに片手に乗る大きさ。
作りがかなり精巧なのに、
丈夫さへの配慮も随所に感じられる。

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キャンプのように構えて準備しなくても、
ほんとうに気軽に、ちょこっと使えるのが魅力。

コーヒーやカップヌードルのように、
お湯を沸かすだけなら途中で器具を洗う必要すらない。

ほんとうに「買ってよかった」。
郊外の街歩き、山歩きには、もう必携だ。

このバーナーP153は、
小ささ、軽さはもちろん、風に強いのもいい。
風にあおられても、ヴォーとかなり迫力ある音で燃え続け、
驚くほど早くお湯が沸く。

 

それにしても、大自然の中で口にするものが
あんなに美味しいのはどうしてなのだろう。

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仕事の都合で、米国カリフォルニアに
住んでいたことがある。

よく知られている通り、カリフォルニアでは、
(日本からの輸入物であったり、
 米国産であったりはするが)
日本の食材はたいていのものが手に入る。

でも、食べてみるとなにか違う。

日本ほどの四季の変化がないせいか、
寒くなってきたから鍋が食べたい、とか、
暑くなってきたから冷奴が食べたい、とか、
季節にもとづく欲求が
日本にいるときに比べると希薄なのだ。

食べるものって、舌だけでなく
体全体で味わっているんだなぁ、
土地のものはその土地で、というのは
単に食材の新鮮さだけを
言っているわけではないんだなぁ、と
改めて思った記憶がある。

大自然の中、風に吹かれながらの味、
外国での日本食材の味、
そう、味は味覚だけでなく、五感で味わうものなのだ。

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2013年8月11日 (日)

「おかず」は食事、「料理」は行事

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「おかず」は食事、「料理」は行事

- 料理はイベントでありアトラクション -

 

漫画家・江戸風俗研究家の杉浦日向子さんの4回に渡った
「ぶらり江戸学」の講義から。

  (1) 江戸の粋(イキ)と上方の粋(スイ)
  (2) 「愛」より「恋」、「恋」より「色」
  (3) 江戸は「情けねえ」土地

に続く第四回目。

(以下水色部、「大人の学校 卒業編」静山社文庫からの引用)

きょうは、江戸庶民の食生活を覗いてみよう。

 一般の庶民、つまり長屋の熊さん八っつぁんクラスの人たちですね。
この層が一番厚くて、江戸に住んでる人間の八割方は、長屋住まいの階層です

この人たちがふだん何を食べていたかと言いますと、まずご飯です。
ほとんどご飯です。
一日の総カロリー摂取量の90パーセント以上を、ご飯で補っていました。

その残りの一割が、おかずであったりおやつであったりするわけで、
いかにご飯の量が多いかということが実感できるかと思います。

大人の江戸っ子は、一日平均五合(ごんごう)食べたと言います。一日に、です。

五合飯(ごんごうめし)。
当時は朝飯と夕飯、一日二食なんです。
江戸後期にやっと三食です。つまり、一食二合半ですね。
二合半のご飯は、どんぶりにてんこ盛りにして、二杯です。
すごい量です。

それが九割ですから、おかずはほとんどないと考えてけっこうです。

ほとんどないとはいえ、おかずは何だったのだろう?

一番ポピュラーなおかずは、たくあんです
江戸前のたくあんというのは、非常に塩辛かったんだそうです。
上方の上品なたくあんとは比べものにもならず、
「江戸のたくあんは塩よりも辛い」と言われていました。

江戸前のたくあんのしっぽ、一番固くてしまった細いところをちょんと切って、
ねぼけた人の口の中にボンと入れると、目がバチンと覚めたというくらい、辛い。

そんな塩より辛いたくあん二切れで、二合半をかっ込む。
これが平均的な食生活です。

他には、佃煮とか煮豆 ― こちらも、しようゆより辛いというぐらい、
からーく煮しめたものですが、それをチョコチョコッとおかずにする。

後は、嘗(なめ)味噌 ― これも金山寺味噌のような豪華なものではなくて、
ただほんとに味噌を焼いただけの、さっぱりした、甘味のないものですが、
この焼き味噌で、ご飯をかっ込む。

結局、塩っ辛いもので大量のメシをかっ込むというのが基本でした。

 

「おかず」は「料理」ではない?!

 ふだんがこういう食生活で、この食事は「菜(さい)」と言います

これに「お」がつくと、「お菜(かず)」と読みます。
この「お菜(かず)」は、イコール「しょっぱいもの」なんですね。

・・・

 これとは別に、たまに食べるごちそうで、
「料理」というものがあります。

いまは料理とお菜(かず)は同じことですけれど、
江戸のころは全然違うものでした。


お菜は塩っ辛い、ご飯を食べるための補助食品で、
料理は、ご飯を食べるためのもの、食事とは切り離して考えていました。

 江戸には、「家庭料理」という言葉自体が、ないんです。
なぜかと言いますと、料理屋で料理人が作るものが料理であって、
家でカカアが作るのは料理じゃないんです。

家で作る「お菜」 の場合は食事ですけれども、
料理の場合はもはや食事ではなくて、行事なんです。

「料理」という言葉は、
「あの件、うまく料理しておいてくれ」と使ったりするように、
「うまく処理する」や「処置する、世話する」などが元の意味らしく、
そもそもは「食べ物を作る」という意味ではなかったらしい。

ところが、日本では8世紀ごろにはすでに「食べ物を作る」の意味で使われ始めていた、
という話を別のところで聞いたことがある。

話が逸れてしまったが、いずれにせよ、「おかず」は「料理」ではない。

 お菜(かず)はお腹がすいたから食べるもの、
からだを保つために食べるものなんですが、
料理は楽しむために食べるものであって、
口と胃を使った遊び、つまり、イベントであり、アトラクションである


楽しみたいから、じゃあ料理屋に行こうか、
料理を食おうかということになるんであって、
これは体感イベントなんですね。

食事とは、まったく種類の違うものだと考えてください。

では、どんなものがイベントとしての「料理」になるのだろうか。

江戸っ子の料理イベントの中で、一番の嚆矢(こうし)と言いますか、
トップは「鰹」。
なんと言っても鰹です。

「初鰹」に関して、講義では

* 湘南のあたりで獲れた初鰹を、船の両側に水夫がびっしり並んで、
  むかでのようにオールを出してこぐ、超高速艇で日本橋の魚河岸に運んだこと。

* 価格はべらぼうに高い。
  しかし、売りに行く魚屋は、金持ちの門前はすっ飛ばしてしまう。
  江戸の金持ちはケチンボでムダ遣いをしないため、
  買ってくれないからだ。

* では、どういうところに売りに行くか。
  いわゆる職人。左官屋さんや大工さん。
  当時、火事による飛び込みの仕事もよくあり、アブク銭をもっていた。
  なので、特に腕のよさそうな職人衆の棟梁とか親方のところに売りに行った。

* 初鰹の場合、通常の初物の十倍、「750日長生きする」と言われ
  高くても珍重されていた。

などの話が続いており、
「料理」についても、「握り寿司」や「そば」に話が広がっていくが、
詳しく知りたい方は本の方を参照あれ。

今日紹介したかったのは、「おかず」は食事、「料理」は行事、の感覚。

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

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