社会

2022年1月 9日 (日)

新たな3つの音楽メディア

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新たな3つの音楽メディア

- 増えているのはネット配信だけではない -

 

前回

 烏賀陽弘道 (著)
 「Jポップ」は死んだ
 扶桑社新書

(以下水色部および表とグラフの
 元となる数値・用語は本からの引用)

から「著作権使用料徴収額」の総額を
1998年と2016年の比較で見てみた。

  <表A 著作権使用料徴収額>

Jpop2a
Jpop2ga

CDを中心とした
オーディオレコードの著作権使用料は
ほぼ1/3に減っているが
成長している分野もある。

表Aにおいて増えている
「通信カラオケ」と「ビデオグラム」
にはどんな背景があるのだろう?

 

そこに詳しく触れる前に、
著作権使用料を稼ぎ出している曲、
上位には具体的にどんな曲があるのか
見てみよう。

JASRACは毎年度、
著作権使用料の分配金額ベスト3
JASRAC賞の金・銀・銅賞として
発表・表彰している。

著作権使用料の多寡を元にした
「ヒットチャート」だともいえる。

そのランキングを見て
「ほんと!?」と目を疑ってしまった。
2015年-2017年の上位3曲は・・・

2015年
①「恋するフォーチュンクッキー」(AKB48)
②「進撃の巨人BGM」(アニメ映画の背景音楽)
③「ルパン三世のテーマ'78」(アニメのテーマ曲)

2016年
①「R.Y.U.S.E.I.」(三代目J Soul Brothers)
②「恋するフォーチュンクッキー」(AKB48)
③「糸」(中島みゆき)

2017年
①「糸」(中島みゆき)
②「名探偵コナンBGM」
③「ドラゴンクエスト序曲」

この記事を書くきっかけになった前回
大野雄二作曲「ルパン三世のテーマ」は
ここに登場している。

「ルパン三世のテーマ」は1977年、
「糸」は1992年に発表された曲。
どちらも名曲とはいえ、
38年前、24年前の曲が
ベスト3に入っているということは
いったいどういうことだろう?

 

まずは「ルパン三世のテーマ」。
これがまさに「ビデオグラム」の代表選手で、
「ビデオグラム」とは、
「大半がパチンコ・スロットマシン」

のことらしい。
アニメや歌手の動画や音楽を
再生する機能をもったパチンコ機
(スロット機を含む)を、パチンコ業界では
「版権もの」「タイアップもの」と呼ぶが、
これらが著作権使用料をもたらしている。

いまやパチンコ機は
「音楽再生機」
として、
日本人にとって重要なマスメディアに
なったということだ。

長引く不況に苦しんでいるとはいえ
パチンコ業界(貸玉料基準売上)
1995年 30.5兆円
2015年 23.2兆円

パチンコ産業はコンサート産業の
75倍という巨大な国民的娯楽
なのだ。

そして著作権使用料額でいえば、
パチンコは通信カラオケの約2倍の金額を
著作権者にもたらしている。

「なんだ、パチンコか」と
軽視してはならない。

「巨大な音楽マスメディア」。
それが現在のパチンコの姿である

 

「糸」のほうはどうだろう。

結婚式での音楽の使用から発生する
著作権使用料を専門に扱う
「ISUM」(アイサム)
という団体がある

ロシア人のアブラモフさんが
2013年に立ち上げた一般社団法人だ。

「新郎新婦が安心して人生の
 スタートの記録を残せるよう、
 権利処理の代行をする。
 それがISUMです」

結婚式で使われる音楽についても
記録として残されるビデオも含めて
著作権使用料が回収される仕組みが
今はしっかり機能している。

ちなみにどの程度の費用がかかるかと言うと

披露宴のBGMやプロフィールスライドに
5分未満の曲を使うと、
一曲あたり著作権料200円+
著作隣接権料(複製、演奏・歌唱など)2000円
=2200円である。
ISUMは手数料として
その10%=220円を取る。

最終的には一曲2420円を払う計算

 

もうひとつカラオケ関連で
見逃せないトピックスがある。

カラオケボックス等の施設は
2005年 22万施設
2015年 17万施設
と減っているが、

「老人ホーム」「高齢者住宅」
「デイケア施設」などの
「高齢者介護施設」は増えているのだ。

カラオケは、
誤嚥の改善にも効果があると
「娯楽産業」から「医療・福祉分野」に
進出しているとも言える。

 

上記見てきた通り

新たな音楽メディアとして
姿を現したのが
 「パチンコ」
 「結婚式」
 「高齢者用カラオケ」

だった

増えているのはネット配信だけではない。
著作権料から見ていくと
音楽メディアの変化が
意外な角度から見えてきて
新たな発見、驚きがある。

 

 

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2021年12月26日 (日)

生き物はすべて騒がしい海にいる

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生き物はすべて騒がしい海にいる

- 分身が誕生する場所 -

 

イタリアでの精神病院廃絶の物語から
精神医療だけでなく
 正常と病(やまい)、
 精神と身体、
 地域と社会、
 抑圧と自由
などについて深く考察している

松嶋 健 (著)
 プシコ ナウティカ
 ―イタリア精神医療の人類学
世界思想社

(以下水色部、本からの引用)

からキーワードをピックアップする6回目。
個人的に感銘を受けたため
6回も書いてしまったが、
今日で一区切りとしたい。

プシコ ナウティカ(魂の航海)
近づいてみれば誰一人まともな人はいない
治療ではなく「社会の保護」が第一目的
地域精神保健と「住まう家」
地域が壁のない精神病院にならないように

イタリアでもかつては、
「訓練」あるいは「作業療法」と称して
精神病院の入院患者に
単純作業をやらせることが
広く行なわれていたが、
それがいかに人間から希望を奪い、
非人開化するかが認識されてからは、
そのような「にせの労働」は禁止された。

生に向き合うとは、
「人間」に向き合うことだ。

自らの行動が物事に因果関係を
引き起こすことをはっきりと感じられ、
そのフィードバックを利用して
自らの行動を調整し制御していく。

そうしたフィードバックの環が
環境とのあいだにちゃんと
働いていることが<主体性>にとって
不可欠
なのである。

逆に言えば、そうした「効力感」を
得られるような活動や環境から
切り離されたときには、
人は<主体>であることも、
「人間」であることも難しくなる。

精神病院に隔離されるというのは、
まさにそうしたフィードバックの環を
切断されるという経験
である。

たとえ地域で暮らしていたとしても、
効力感を得られるような活動から
切り離されているなら同じことである。

そうした試行錯誤を経て、
精神病院の廃絶は、
「生きること」を支援する地域の活動に
つながっていった。

イタリアで、
精神医療から精神保健への
転回がなされたとき、
問題はもはや「心」や「精神」を
治療することではなく

「生きること」に定位し、
「生きること」をどう支援していくか
に変わった。

「精神」の健康は、
「生きること」のなかに、
人々のあいだで
生きていく過程において
得られるものだ
ということである。

そこで忘れてはならない言葉に
「集合性」がある。

集合性の次元とは、
見えない大気や風のようなものである。

潜在的な行為は、
集合性の次元があるおかげで
現働化することができる。

その海は、凪いだり、波打ったり、
渦を巻いたりしている。

人間を含んだ生きものは、
「すべて騒がしい海にいるのである」

騒がしい海こそ、生きるために必要なのだ。

重要なのは、
凧を揚げ、音楽を演奏するには、
大気がある
具体的な場所が必要であるように、
人が<主体性>を行使するためにも、
具体的で現実的な<集合性>の場所が
必要だということである。

<地域>とは、そうした
<集合的主体化>の現働化の場所
なのである。

医者と患者との
一対一のインタラクションではなく、
もっと色々な人やモノを巻き込んだ
集合的な作業、
音楽の合奏のような共同作業。
定型的なマニュアルはないけれど
地域の果たす役割は大きい。

他者は私のなかに棲み込み、
私も他者の中に生きる。
そのときそこに分身が誕生するのである。

 

精神病院の話だったことを
忘れてしまうような読後感に
しばし浸ることができる一冊だ。

 

気ままに続けているブログですが、
ことしも訪問いただき
ありがとうございました。

皆さま、どうぞよいお年をお迎え下さい。

 

 

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2021年12月19日 (日)

地域が壁のない精神病院にならないように

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地域が壁のない精神病院にならないように

- 受け入れる側も変わらなければ -

 

イタリアでの精神病院廃絶の物語から
精神医療だけでなく
 正常と病(やまい)、
 精神と身体、
 地域と社会、
 抑圧と自由
などについて深く考察している

松嶋 健 (著)
 プシコ ナウティカ
 ―イタリア精神医療の人類学
世界思想社

(以下水色部、本からの引用)

から

プシコ ナウティカ(魂の航海)
近づいてみれば誰一人まともな人はいない
治療ではなく「社会の保護」が第一目的
地域精神保健と「住まう家」

などについて見てきた。

精神病院廃絶に尽力した
ヴェネツィア生まれの精神科医
フランコ・バザーリア
(Franco Basaglia)の発想には
学ぶところが多いのだが、
私が特に感銘を受けたのは
病院の「内」と「外」の考え方に潜む
根本的な問題点を
なんとかしようとしていた点だ。

根本的な問題点とは・・・

バザーリアとレインの
施設をめぐるやりとりに
みられるように、バザーリアには
そのことがよくわかっていた。

施設になんか構わず、
施設から出て行けばいいと考える
レインに対して、
バザーリアは、そうした考え方には
落し穴があると言う。

出られたら迷惑だ、といった
単純な「落とし穴」ではない。

なぜなら、出て行くことのできる
「外」があるうちはいいが、
もはやそうした
「外」がなくなったとき、
すべてが施設化してしまう
という問題が手つかずのまま
残されてしまうから。

なんという指摘だろう。
「外」を変えることなく
そのまま「内」を開放してしまえば
いずれは、全部が「内」のように、
つまり、
社会全体が施設の「内」のように
なってしまう可能性があると
言っているのだ。

開放者を受け入れる「地域」、
そこも変わる、変える必要があるのだ。

<地域>精神保健とは、
単に病院の外で
精神保健サービスを提供することを
意味しているのではない。

<地域>とは
単に病院の外の空間を
指しているわけではない
のだ。

「内」だけではなく「外」も変わる。
それは、「受け入れる」といった
消極的なものではなく
<主体性>や<自由>を
双方が感じられるような
積極的なものだったのだ。
つまり

それは、
人々の生と関係性が縫い込まれ
耕されることで生み出される、
生態学的なテリトリーである。

そこはくつろぎがあり
遊びのある<agio>の場所であり、
利用者たちの生が
そこに編み込まれていくことで
<主体性>を具体的に
行使できるようになっていく
集合的な環境である。

だからこそ精神保健サービスの
オペラトーレたちは、
利用者と<地域>の両方に
関わりながら仕事をする。

重要なイタリア語<agio>については、
ここを参照いただければと思う。

そうした営みがないなら、
地域は単に壁のない精神病院
なってしまうだろう。

フランコ・バザーリアが
危惧していたように、
「古い状況が一見新しい状況に
 変容したように見える。
 だがそこには常に、
 福祉的な管理の形式を再び持ち出す
 危険性が伴っているのである」

地域を単に壁のない精神病院にしない。
今の我々が生きている
現代社会を見渡したとき、
ドキリと思い当たることはないだろうか。

 

精神医療の改革は
様々な国で起こったが、その批判を
精神病院の廃絶というかたちで
国の法律のレベルにまで
もたらしたのはイタリアだけである。

その差には様々な要因が絡んでいるが、
少なくとも<主体性>と<自由>を
実現するためには
集合的かつ制度的な次元でのデザインが
絶対に不可欠であるということが
イタリアでは深く認識されていた
のは
間違いない。

Aを変革をするときは、Aだけでなく、
Aの変革を受け入れるBの変革も
一緒に考えないと
Aの変革後、
Bも含めて全部がAのようになってしまう
危険性がある。

AとBの間の壁が、単にBの外側に移っただけ、
になってしまう危険性がある。

なんとも重い、示唆に富む指摘だ。

 

 

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2021年12月12日 (日)

地域精神保健と「住まう家」

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地域精神保健と「住まう家」

- 「くつろぎ」をどう取り戻すのか -

 

イタリアでの精神病院廃絶の物語から
精神医療だけでなく
 正常と病(やまい)、
 精神と身体、
 地域と社会、
 抑圧と自由
などについて深く考察している

松嶋 健 (著)
 プシコ ナウティカ
 ―イタリア精神医療の人類学
世界思想社

(以下水色部、本からの引用)

から

プシコ ナウティカ(魂の航海)
近づいてみれば誰一人まともな人はいない
治療ではなく「社会の保護」が第一目的

などについて見てきたが、
今日は、イタリア語の<agio>
という言葉をきっかけに
イタリアの精神保健の基盤を学んでみたい。

イタリア語の<agio>のニュアンスを
日本語にするのはなかなか難しいが、
「くつろぎ」であり「ゆとり」であり
「安心」であり、
機械やハンドルの「遊び」のような
意味でも用いられる。

(中略)

それゆえ、<agio>が欠けている
<disagio>の状態から
関わっていくことが
予防的な観点からしても重要になる。

イタリアの精神保健では、
社会的なレベルでの介入が必要な
「居心地の悪さ」や「生きづらさ」を
抱えた人に適切な対処がなされないと、
より医療的な介入を必要とする
「精神的な不調」へと移行すると
考えているようだ。

 

ちなみに
イタリア語の<agio>にあたる言葉を
英語で探すとすると、
それはおそらく<ease>が
最も近いと思われる。

<ease>もまさに、
「くつろぎ」や「ゆとり」「安心」や
「安楽」を意味する語であるが、
そうした<ease>が欠如した
状態としての<disease>は
普通「病気」を意味し、
特に医療人類学の文脈においては、
生物医学的に捉えられた変化としての
「疾患」を指すものとされてきた。

「くつろぎ」の欠如は疾患なのか?
「くつろげない」のは疾患だからなのか?
英語には<illness>という単語もあるが
言語による言葉の比較はおもしろい。

 

だが、イタリア語の<disagio>が
指し示している意味/方向性(senso)は、
ある意味で全く逆のものである


それは生物医学的に捉えられた
「疾患」ではなく、
ある人が生きていく上で
「くつろぎ」や
「ゆとり」が欠けることで、
居心地が悪かったり、
生きづらかったりするような
状態を指している

「くつろげる」環境の提供の意味は大きい。

このような理解に立てば、
精神保健の仕事は
より明快になるだろう。

それは、欠如している<agio>を
感じられるような環境を
いかにして作るか、
ということであり、
そうした環境こそが、
主体性を行使するための
ベースとしての居場所になるのである。

 

病院を前提に
考えなければならなかった人たちが
病院廃絶ののち
どこにどうやって住むのか。

イタリアの
地域精神保健の活動において、
最も重視されたことの一つが、
「住まう家」があることであった


家が必要なのは、
普通の正常な生活を送るため、
というよりも、
行為の可能性を広げていくための
物理的かつ情緒的な
ベースとなる居場所としてである。

もちろんそこには、場合によっては
精神保健的サポートが必要な場合もあるが
「住まう家」があり
そこで「くつろげる」ことの価値

大きく認識されていたことは、
地域の体制づくりにおける
重要な基盤のひとつだったと言えるだろう。

 

 

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2021年12月 5日 (日)

治療ではなく「社会の保護」が第一目的

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治療ではなく「社会の保護」が第一目的

- 攻撃性と暴力は病気由来ではない -

 

イタリアでの精神病院廃絶の物語から
精神医療だけでなく
 正常と病(やまい)、
 精神と身体、
 地域と社会、
 抑圧と自由
などについて深く考察している

松嶋 健 (著)
 プシコ ナウティカ
 ―イタリア精神医療の人類学
世界思想社

(以下水色部、本からの引用)

からキーワードをピックアップする3回目。

本全体の前提となる

プシコ ナウティカ(魂の航海)
近づいてみれば誰一人まともな人はいない

について簡単に紹介したが、
今日は、具体的に
精神病院まわりのことについて
学んでみたい。

まずは、
イタリアの精神病院の歴史を
簡単に見てみよう。

入院患者は、
治療らしい治療を受けることもなく、
裸のまま手足を鉄鎖でつながれ

というような、病院のひどい状況が
日刊紙で報じられたのは1902年。

その後、1904年
「精神病院および精神病者に関する規定。
 精神病者の保護と治療」
という通称「ジョリッティ法」が
公布される。

名称だけでは
その内容を想像することはできないが
そこには強制入院の規定だけがあった

強制入院の申し立ては、
親族と後見人のほか、
精神病者と社会についての
利害に関わる者であれば
誰でもが可能であった。

なぜなら強制入院の条件は、
本人にとっての
治療の必要性からではなく、
社会的な危険性と
公序良俗の紊乱(びんらん)
(パブリック・スキャンダル)に
あったからである。

つまり、名称に反して、
そもそもの目的が
患者の治療ではなかったわけだ。

つまり、
「精神病者」の保護と治療が
目的とされているにもかかわらず、
実際には、
社会的に危険な存在からの
「社会」の保護が第一の目的だった
ということである。

そして、精神病者の治療は
あくまでも
「社会」の保護という目的の下位に
位置づけられているのであり、
この二つの役割を
同時に遂行するための
特権的な場所として
精神病院は要請されている。

その結果、精神病者の
「モノ化」「施設化」が
進んでしまうことになる。

精神病院という施設が
他の諸々の施設と異なっているのは、
そこが「医学」の名のもとに
正当化された場所だという点である。

それゆえそこで
「治療」の名のもとに行なわれていた
様々を実践もまた、
人間をモノ化するための
技術の一つとして
据えられなければならない。

治療とは呼べないような施術の実態も
本には詳しい。

施設化とは、「もとの病気」の上に
さらに病気が重ね合わされ、
どこまでが本当の病気で
どこからが
施設にいることに由来する効果なのか

区別かつかなくなった
状態のことである。

そんな時代に、精神病院の院長となった
ヴェネツィア生まれの精神科医
フランコ・バザーリア
(Franco Basaglia)は、
拘束衣の使用の禁止や閉鎖病棟の開放等、
さまざまな改革を行っていく。

そして

入院者において
新たに出てきた攻撃性と暴力は、
病気に由来するものではなく、
施設化の暴力に対する
異議申し立ての表現である

というような実態に気づいていく。

その後、バザーリアは
精神病院廃絶に向けて尽力するようになるが
そこで彼が示したものの考え方には、
精神病院廃絶という分野に限らない
たいへん示唆に富む重要な視点が
含まれている。

次回は、その点に絞って話を進めたい。

 

 

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2021年11月28日 (日)

近づいてみれば誰一人まともな人はいない

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近づいてみれば誰一人まともな人はいない

- ひとりの「生」に耳を傾ける -

 

前回
その書名プシコ ナウティカ
(psico-nautica:魂の航海)
についてのみ紹介したが、

イタリアでの精神病院廃絶の物語から
精神医療だけでなく
 正常と病(やまい)、
 精神と身体、
 地域と社会、
 抑圧と自由
などについて深く考察している

松嶋 健 (著)
 プシコ ナウティカ
 ―イタリア精神医療の人類学
世界思想社

(以下水色部、本からの引用)

から、いくつかのキーワードを
ピックアップしながら
人間の「生」や「社会」について
改めて見つめ直してみたい。

 

最初に紹介したいのは、
本文に何回も出てくる
イタリア精神保健のモットーのひとつ。

「近づいてみれば
 誰一人まともな人はいない

 (Da vicino nessuno è normale)」

思わずクスッと笑ってしまいそうになるが
なんとも味のある言葉だ。

それはどんなに
「まとも/普通/正常(normale)」
に見える人でも、
近くからよく見てみると、
「正常さ」は雲散霧消し、
その人が人生のなかで身につけてきた
一連の特異性が
その人独特の「味」になっている
ということを示している。

まさに「個性」とは
そう捉えることもできる。
「近づいてみれば」という言葉に
ある種のやさしさがある。

こういった本質的な「個性」を
ユーモアを交えて語れる
言葉があるのはいい。

 

精神病院廃絶という大きな改革を
丁寧に追っている本書だが、
その中心にはバザーリアという
精神科医がいた。

改革の運動を牽引したのは、
いろいろな町の
多彩な人々だったのだが、
なかでも中心的かつ象徴的な
役割を担ったのが、
ヴェネツィア生まれの精神科医
フランコ・バザーリア
(Franco Basaglia)
である。

バザーリアは、広い視野で
精神病院廃絶に向けて
さまざまな取組みを展開、
大きな成果を上げることになるが、
それらをすべて把握したうえで、
著者の松嶋さんは彼が成したことの根幹を
次のひと言で言い切っている。

臨床家として
バザーリアが行なったことは、
結局のところ、
「狂人」たちの話に、
彼らが生きてきた生の物語に、
ちゃんと耳を傾けた、ということに
尽きるのではないかと思う。

精神病院廃絶は、単に病院を
開放すればいいわけではない。
法律、地域社会、サポート体制などなど
大きな課題は多い。
でも、そこでの肝心要の主役は、
精神病と診断されていた人たちである。
そういった人たちの「生」に
敬意をもって「近づいてみれば」の人が
いたからこそ、
制度の改革や整備が前進したのであろう。

「近づいてみれば
 誰一人まともな人はいない
 (Da vicino nessuno è normale)」
のだ。

次回に続く。

 

 

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2021年11月21日 (日)

『プシコ ナウティカ(魂の航海)』

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『プシコ ナウティカ(魂の航海)』

- イタリアでの精神病院廃絶の物語から -

 

寡聞にして全く知らなかったのだが、
イタリアでは、1999年に
イアリア全土の公立精神病院が
すべて閉鎖されたという。

1978年に成立した
180号という法律が契機となって
精神病院を廃絶。

その過程と背景を丁寧に追いながら
単なる制度の改革だけでなく、
 正常と病(やまい)、
 精神と身体、
 地域と社会、
 抑圧と自由
などについて深く考察している

松嶋 健 (著)
 プシコ ナウティカ
 ―イタリア精神医療の人類学
世界思想社

(以下水色部、本からの引用)

は、読み応えのある良書だった。

その中から、
印象的な言葉をいくつか紹介したい。

 

まず最初に書名。
「プシコ ナウティカ」って何?

書名に限らず、本書はその内容が
イタリアでの話ゆえ、当然ながら
すべてがイタリア語ベースになっている。

松嶋さんはその都度
丁寧に説明してくれているが
日本語、英語とは違った
言葉のグルーピングや
背景を感じることも多く、
それだけでも新しい発見がある。

もちろん医療そのものが言語、
つまりイタリア語に
依存しているわけではないが、
医療制度の整備もその変革も
イタリア語が持つ発想に支えられて
進められてきたわけで、
松嶋さんは
そういった言語が持つある種の価値観にも
細かく神経を配っている


で、最初の疑問に戻るが
プシコ ナウティカ(psico-nautica)は
イタリア語で「魂の航海」を意味する

らしい。

生きていくことそのものが、
目的地も知らないまま
人々のあいだで続いていく
航海である
といえるだろう。

そうした、
人間の「生」そのものとしての
航海のアンソロジーであり、
同時に航海術でもありうるような
ものとして本書は書かれている。

最終的に精神病院の全閉鎖に繋がる物語は、
「社会」中心から「人間」中心への
転換の物語として捉えることもできる。

「人々のあいだで続いていく」
という言葉が、全編を読み終わった後、
改めて深く響いてくる。

そう、生きていくって
目的地も知らない航海なのだ。

イタリアでの出来事を通じて、
航海とそこから見える景色に
新たな角度から光があたる驚きを、
発見を、新鮮さを、
しばし楽しんでみたい。

次回に続く。

 

 

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2021年10月24日 (日)

総計133巻142冊の大全集

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総計133巻142冊の大全集

- 100年を越えて蘇る「研究ノート」 -

 

前回、ベストセラーとなっている

 斎藤幸平 (著)
 人新世の資本論
 集英社新書

(以下水色部、本からの引用)

について、

 この本のことを
 ブログで取り上げたいと思ったのは、
 未来社会への提案の
 中身そのものではなく
 本の中で何度も説明されていた
 マルクス研究の背景が
 たいへん興味深かったからだ。

と書いた。

今日はその部分に絞って紹介したい。

 

この本、
「ここからが、いよいよ本題である」
が本のちょうど真ん中あたり
(370ページ超の本の179ページ目)
にまで来てようやく登場するのだが、
そもそも私には
資本主義の見方についての基礎知識が
ほとんど何もなかったので、
途中いくつもの?が浮かぶものの
本題の前提となる話自体も
おおいに楽しむことができた。

世間一般でマルクス主義といえば、
ソ連や中国の共産党による
一党独裁と
あらゆる生産手段の国有化
というイメージが強い。

そのため、時代遅れで、
かつ危険なものだ
と感じる読者も
多いだろう。

実際、日本では、ソ連崩壊の結果、
マルクス主義は大きく停滞している。
今では左派であっても、
マルクスを表立って擁護し、
その知恵を便おうとする人は
極めて少ない

なのになぜ、今、

マルクスならば、
「人新世」の環境危機を
どのように分析するのかを
明らかに

しようとするのだろう。
というか、
なぜそんなことが可能なのだろう。

実は、近年MEGA(メガ)と呼ばれる
新しい『マルクス・エンゲルス全集』
(Marx-Engels-Gesamtausgabe)
の刊行が進んでいるのだ。

日本人の私も含め、
世界各国の研究者たちが参加する、
国際的全集プロジェクトである。

規模も桁違いで、最終的には100巻を
超えることになる。

今年(2021年)の1月に放送された
NHK Eテレ「100分de名著」の
「資本論」の回で著者の斎藤さんは、
「すでに120冊」が刊行されていると
言っていた。

このMEGA(メガ)、
いったいどんな全集なのだろう。

はじめて公開されることになる
新資料も含めて、
マルクスとエンゲルスが
書き残したものは
どんなものでも網羅して、
すべてを出版する
ことを
目指しているのがMEGAなのだ。

私は全く知らなかったのだが、
Wikipediaには
「1975年から刊行がはじまり(中略)
 総計133巻142冊の構成が確定した」
とまである。
しかも
「すべての著作には、
 著者であることの証明や日付の証拠、
 継承された手稿と
 正当性を認められた印刷物の
 正確な記述をふくむ成立と
 継承の歴史が表されている」
と内容の厳密さも確保されているようだ。

なかでも
とりわけ注目すべき新資料が、
マルクスの「研究ノート」である。

マルクスは研究に取り組む際、
ノートに徹底した抜き書きをする
習慣をもっていた。

亡命生活でお金もなかったため、
ロンドンの大英博物館で、
毎日、本を借りては、閲覧室で
抜き書きを作成したのである。

『資本論』の研究は
これまでももちろん精緻になされてきたが、
『資本論』においてさえ、
マルクスは自身の最終的な認識を
十分に展開できていなかったようだ。

というのは、『資本論』第一巻は
本人の筆によって完成し、
1967年に刊行されたものの、
第二巻、第三巻の原稿執筆は
未完で終わってしまった
からだ。

現在読まれている
『資本論』の第二巻、第三巻は、
盟友エンゲルスが
マルクスの没後に遺稿を編集
し、
出版したものにすぎない。
そのため、
マルクスとエンゲルスの
見解の相違から、編集過程で、
晩年のマルクスの考えていたことが
歪められ、見えにくくなっている箇所も
少なくない。

なぜなら、
マルクスの資本主義批判は、
第一巻刊行後の1968年以降に、
続巻を完成させようとする苦闘のなかで、
さらに深まっていったからである。

いや、それどころか、
理論的な大転換を遂げていったのである。

つまり、著作にならなかった研究が
大量の「研究ノート」から
読み解ける
というわけだ。

そういった研究ノートをも含む
大全集の規模をもう一度書いておきたい。
完成すれば総計133巻142冊!

斎藤さんのこの著書も
そういった新資料から見えてきた
これまでにはなかったマルクス像を
提示してきている。

 

著作だけでなく「研究ノート」までもが
死後100年を越えてなお
世界中の多くの学者によって
研究され続けているという現実、
しかも、読み解くと
そこには現代にも通じる数々の
有益な示唆が含まれているという現実、
マルクスという人物の偉大さには
驚かされるばかりだ。

一方で、考えてしまうのは
現代の「研究ノート」だ。
「研究ノート」はPCの中、
つまり電子ファイルで、という学者も
今は多いのではないだろうか。

マルクスに限らず、
著作や論文にならない研究内容や
思い悩む思考の過程が、
そこにはあるはずだ。

マルクスの研究ノートは
紙で残っていたからこそ
100年後も読むことができた。

電子ファイルはどんな媒体で、
どんなフォーマットで残るにせよ、
100年後も読むことができるだろうか?

 

 

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2021年10月17日 (日)

SDGsは現代版「大衆のアヘン」か

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SDGsは現代版「大衆のアヘン」か

- 目を背けても危機はなくならない -

 

そもそも経済学というものに
あまり興味がないせいか
マルクスのことも、資本論のことも
共産党宣言のことも、これまで
ほとんど何も知らなかった。

ところが、
今年(2021年)の1月に放送された
NHK Eテレ「100分de名著」の
「資本論」の回を見て以来、
資本論そのものは読みこなせなくても、
関連書籍は読んでみたいものだ、
と思うようになった。

というわけで手にしたのが、
番組での講師もつとめていた
斎藤幸平さんの著書

 斎藤幸平 (著)
 人新世の資本論
 集英社新書

(以下水色部、本からの引用)

新書大賞2021を受賞したことも
関係するのか、今(2021年10月)でも
本屋で平積みになっていることを
よく目にするベストセラーだ。

 

かつて、マルクスは、
資本主義の辛(つら)い現実が
引き起こす苦悩を和らげる「宗教」を
「大衆のアヘン」だと批判した。

SDGsはまさに
現代版「大衆のアヘン」
である。

と、「SDGsと言っておけばいい」の
昨今の風潮に対して、かなり挑発的な
「はじめに」で始まっているが、

アヘンに逃げ込むことなく、
直視しなくてはならない現実
は、
私たち人間が地球のあり方を
取り返しのつかないほど
大きく変えてしまっている
ということだ。

と、対処療法的流行に流されることなく
「直視する現実」を
そして未来社会への提言を
マルクス研究者の立場から
わかりやすくまとめてくれている。

そもそも題名にも使われている
聞き慣れない「人新世」とはなんだろう?

人類の経済活動が地球に与えた影響が
あまりに大きいため、
ノーベル化学賞受賞者の
パウル・クルッツェンは、
地質学的に見て、
地球は新たな年代に突入したと言い、
それを「人新世(ひとしんせい)
(Anthropocene)と名付けた。

人間たちの活動の痕跡が、
地球の表面を覆いつくした年代

という意味である。

繁栄をめざしていた「人間たちの活動」は
皮肉なことに
自らの繁栄の基盤自体を揺るがしつつある。

そこでは

SDGsは
アリバイ作りのようなものであり、
目下の危機から
目を背けさせる効果しかない

格差が広がり、自然が破壊され、
「モノは豊かにある。でも金がなければ
 何も手に入らない」の現代社会は
このままでいいのか?
豊かな未来社会に向けて、
何をしていくべきなのか?
そもそもめざすべき「豊かさ」とは何か?

後半、斎藤さんの提案も
具体的に述べられていくが、
その内容については
ご興味があるようであれば
ぜひ本を手にとって読んでいただきたい。

私ごときが簡単にブログで
まとめられるような内容ではないので。

実は、この本のことを
ブログで取り上げたいと思ったのは、
本筋というか
「提案の中身」そのものではなく
そこで何度も説明されていた
マルクス研究の背景が
たいへん興味深かったからだ。
次回、その部分に絞って紹介したい。

 

 

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2021年10月10日 (日)

「今何が起きているのか」を見つめる感性

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「今何が起きているのか」を見つめる感性

- 子どもたちから学べること -

 

雑誌「中央公論」2021年9月号に
掲載されていた
独立研究者 森田真生さんと
大阪市立大学准教授 斎藤幸平さん
との対談
 豊かな未来のための
 「脱成長」戦略

(以下水色部、記事からの引用)

から、先週に引き続き
もう一箇所紹介したい。

様々な活動を通じて
子どもたちとよく接している
森田さんらしい指摘だ。

森田:
僕は、危機において
主体を強くしていこうとする発想には
懐疑的です。

たとえば
大人と子供が一緒にいる場面
想像してみてください。

子供たちはテーブルの下で
かくれんぼをしたり、
本棚に上ってジャンプしたりして
遊び始める。

それを見ると、
大人はつい自分たちが知っている
"意味"を振りかざそうと
してしまう


「テーブルは食事をする場所だから、
 上がらないで」
「本棚は本を収めるところ」と。

確かにそんな時、
「意味を振りかざして」しまいそうだ。

森田:
この場合、
強い主体であろうとしているのが
大人の方です。

でも結局は、大人は
生き生きと遊ぶ子供たちの
主体の弱さに翻弄されてしまう。

子供たちは、
大人が設定した世界に
反旗を翻しているわけではありません

みずからの正しさを
主張しているわけでもない


彼らは大人が生きている世界の中で、
その世界の配置のまま
世界のあらゆる構成要素を、
それまでとはまったく違う意味で
使い始める。

斎藤:
なるほど。面白いですね。

「その世界の配置のまま」が
キーワードだろう。

振りかざしてしまう「意味」を
どの世界にでも
押し付けようとしてしまうのが、
押し付けて考えてしまうのが大人だ。

「その世界の配置のまま」
テーブルや本棚を捉えるとどうなるのか、
子どもから気付かされることは多い。

森田:
強い主体として
意味をコントロールしようとしている
大人よりも、既存の世界を
別の意味で遊び始める子供たちの方が
その場を支配してしまう。

これはいろいろな意味で
示唆的な構図だと思います。

問題を一方的に特定し、
これをとにかく解決するのだ

という考えそのものが
孕んでいる暴力性があります。

それよりも、
今何が起きているのかに、
まずはしっかり感性を
開いてみることが必要
ではないでしょうか

斎藤さんは、
「マルクス研究者としては、
 ソ連がまさにそうした"暴力"に加担し、
 失敗したという反省があります」
と述べている。

日本で、世界で、
「今何が起きているのか」を見つめる感性。
意味や固定観念で
ついつい見てしまいがちな大人たちは
子どもから学べることも多い。

 

 

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