社会

2017年4月 9日 (日)

深谷の煉瓦(レンガ)

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深谷の煉瓦(レンガ)

- 東京駅から迎賓館まで -

 

埼玉県深谷市というと、
深谷ネギというネギが有名だが、
ここは明治の大実業家
「渋沢栄一」の出身地でもある。

第一国立銀行(現みずほ銀行)や地方銀行、
東京瓦斯(ガス)や王子製紙、
帝国ホテルやキリンビール、
一橋大学、同志社大学、日本女子大学校
東京海上火災保険や東京証券取引所、
などなど
渋沢栄一が設立に関わった企業や学校は
多種多様でその数、実に500以上。

まさに「日本資本主義の父」
と呼ばれるにふさわしい輝かしい実績。

どの会社も組織も、その後の発展と
日本社会への影響度、貢献度を思うと、
一生の間にこれほど多様な仕事が
できるものだろうかと、
にわかには信じられないほどだ。

そんな渋沢が
設立に関わった会社のひとつに
日本煉瓦製造株式会社」がある。
1887年(明治20年)に設立。

明治になって、急速に増え始めた
欧米に倣った近代建造物のための
赤レンガを製造、販売していた。

会社は2006年に廃業してしまうが、
レンガを焼いていた窯(かま)は、
重要文化財として今でも深谷に残っている。

実際に窯を見に行ってみた。

【ホフマン輪窯(わがま)】
ドイツ人ホフマンが考案した
煉瓦の連続焼成が可能な輪窯(わがま)。

Fukaya2_2

明治40年の建造で、
長さ56.5m、幅20m、高さ3.3mの
煉瓦造り。
陸上のトラックのような形状の
輪になっており、一周約120メートル。

見学は無料だが、
丁寧にも説明員がついてくれる。

Fukaya1

ヘルメットを被り、
窯の中に入って説明を聞くことができる。

Fukaya3

今は仕切りはないが、
内部を18の部屋に分け、
窯詰め・予熱・焼成・冷却・窯出しの
工程を順次行いながら移動し、
およそ半月かけて窯を一周したとのこと。

燃料の石炭は、粉にして上の穴から
15分おきに投入していたらしいが、
実際に窯に入ると、
その穴を下から見上げることができる。

Fukaya4

生産能力は月産65万個。
1968年(昭和43年)まで
約60年間煉瓦を焼き続けた。

木造平屋の会社の旧事務所も
輪窯と一緒に
国の重要文化財となっているが、
内部は今は史料館となっている。

Fukaya5

あんな大きな窯が、
最盛期には6基もあったらしい。

Fukaya6

各窯建屋の内部はこんな感じ。
一番下に窯。
煙突の途中にあるハの字にご注目。
窯の上にあった建屋の屋根の跡。

Fukaya7

この屋根の跡は今も煙突に残る。
あの高さにまで建屋があったわけだ。

Fukaya8

さて、この大規模な工場で作られた煉瓦は、
いったいどこに使われていたのか。

史料館で100円で購入した
「深谷の煉瓦物語」という小冊子から
代表的な建造物を紹介したい。

(1) 東京駅 丸ノ内本屋
明治41年に着工し、大正3年に完成。
辰野金吾の設計による
国内最大級の煉瓦建築。
深谷の煉瓦が約833万個使われた。

(2) 旧信越本線碓氷第三橋梁
  (碓氷峠鉄道施設〉
横川~軽井沢間の碓氷峠鉄道敷設工事は
明治24年に開始。
けわしい峠を縫う11.2km余りの区間には
26ものトンネルと18の橋が必要で
そのほとんどが煉瓦で作られた。
使った煉瓦1800万個
500人以上の尊い犠牲を出しながら
明治26年初めに開通。

(3) 法務省旧本館 明治28年完成
(4) 日本銀行本店本館 明治23-29年
(5) 表慶館 明治41年完成
(6) 旧横浜正金銀行本店本館
  明治37年完成
  (現・神奈川県立歴史博物館)
(7) 旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)
  明治41年

(1)-(6)はすべて重要文化財、
(7)は国宝。

(4)-(7)は、外見だけを見ると
石造建築のように見えるが、
実はいすれも深谷の煉瓦を使って建設され、
表面に石材を張って仕上げたものらしい。

鉄筋コンクリート建築に
とって代わられるまで、
本格的な西洋建築の多くは
煉瓦造だったとのこと。

建築・建造物に限らないが、
開国後、短期間でよくここまで
新技術・新文化を取り込んだものだ。

欧米列強に追いつこうとしていた
日本の勢いを、強く強く実感できる。

 

 

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2017年3月19日 (日)

2017 数字あそび

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2017 数字あそび

- 降順と昇順の傑作 -

 

唐突だが、下記の写真をご覧あれ。

よく見かける道路の案内図。
特に謎が隠れているわけではない。

この図に
なにか感じるものがあるだろうか?

Sosu

地理に詳しい方は
撮ったのは??あたりかな、と
場所が浮かんでいるかもしれない。

ほかに何か・・・


これを見て、あっ、と思った方は、
かなりの数学、というか数字好きだろう。
3月14日と聞いたとき、
「ホワイトデー」よりも
「Π(円周率パイ:3.1415...)の日」や
「数学の日」が
浮かぶような人かもしれない。


そう、並んでいる
国道「157」県道「193」は
どちらも3桁の素数なのだ。

素数とは中学で習った
「1とその数自身以外に
 約数をもたない1以上の整数」
つまり、
 1とその数以外では割り切れない数。

小さいところだと
 2, 3, 5, 7, 11 ...

(素数そのものは無限にあって、
 その証明は意外に簡単だが、
 今日は省略)

素数番の道が並んでいる。
「だからナンだ」と聞かれても
返す言葉はないけれど。

 

そう言えば、

 森田真生 著
「数学する身体」
  新潮社

にもこんな記述があった。

数学科に入りたての頃、
飲み会に参加して居酒屋の下駄箱が
素数番から埋まっていく
のに
驚いたことがある。

素数に反応してしまうのは、
数学好きに共通の性質(?)
なのかもしれない。

 

前回、 ブルーバックス2000タイトルの
記念小冊子

について書いたが、
その中にはこんな記述があった。

同年11月には、日付に使われる
すべての数字が奇数
という、
数論好きにはたまらない一日が訪れている
(1999年11月19日)。

ちなみに、この次に
奇数だけで日付が構成されるのは、
実に32世紀のことで、
3111年1月1日まで待たねばならない。

そのとき、ブルーバックスはいったい、
通巻何番に到達していることだろう。

こんなことを書くのは、
ブルーバックスの読者を想定した
この小冊子くらいだろう。

西暦で書いて
全部の数字が奇数になる日付

1999年11月19日の次は、
3111年1月1日つまり、1112年後

こちらも
「だからナンだ」と聞かれても
返す言葉はない。

でも今日は、ちょっと開き直って
もう少しタダの数字ネタを続けたい。

 

今年は西暦2017年で平成29年。
2017も29も素数

しかもどちらも
「2つの平方の和」で表現できる
ピタゴラス素数だ。

【2つの平方の和(ピタゴラス素数)】
 2017   = 92+442
 (平成) 29 = 22+ 52

【3つの立方の和でも】
 2017   = 73+73+113
 (平成) 29 = 13+13+ 33

 

以下は、今年(2017)の年明け
数学というか数字好きの人たちが
やりとりしていた
2017と29に関する数字遊びの中から、
これは面白い!とメモっていたものだ。

【異なる32の素数の和で】
 2017=
    2+   3+   5+   7+  11+  13+  17+
   19+  23+  29+  37+  41+  43+  47+
   53+  59+  61+  67+  71+  73+  83+
   89+  97+ 101+ 103+ 107+ 109+
   113+ 127+ 131+ 137+ 139

【2017を29で】
 2017 =
  29 x 29 x 2 + 9 x 2 x 9 x 2 + 9 + 2

【降順(・・4, 3, 2, 1・・)で】ではこれが見事。
 2017 =
  210+29+28+27+26+25+24-23-22-21-20

 2017 =
  (9! x 8! / 7! / 6! + 5! / 4! - 3! / 2!) / (1! + 0!)
     <補足:4!は階乗、4! = 4 x 3 x 2 x 1
      0!は0でなくて1。なぜ?は
      数学の教科書に譲ります>

 2017 = 74 - 73 - 72 + 71 + 70

【昇順(1, 2, 3, 4 ・・)で】の傑作はこの2つ。
 2017 = 122 - 342 - 562 + 782 + 92
     <一見、平方の組合せだが、底(abのa)に
      1から9が見事に並んでいる>

 2017+29 =
    21 + 22 + 23 + 24 + 25 +
    26 + 27 + 28 + 29 + 210

発見した方々に敬意を表して、
記録として留めておきたい。

もちろんこれらも全部
「だからナンだ」と聞かれても
返す言葉はないのだけれど。

 

 

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2017年2月 5日 (日)

オランダ政府からのメッセージ

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オランダ政府からのメッセージ

- America Firstなら -

 

すでに1700万回も再生されているから、
ご存知の方も多いと思うが、
オランダが作った
「歓迎、米トランプ大統領」のビデオが
あまりにもよくできているので、
記録も兼ねて、ここに紹介しておきたい。

オランダ語の最初のコメントも含めて
全編英語字幕付き。
<再生>したらそのまま読めるよう
サイズをちょっと大きめに。

字幕があっても英語はちょっと、
という方も心配ご無用。
映像だけでもぜひ一度ご覧あれ。
作りがいいので、日本語訳はなくても
メッセージは伝わるはず。

 

このビデオ、タイトルにも

 The Netherlands welcomes Trump
 in his own words

とあるように、まさに「自分の言葉」で
歓迎の意を表している3分半の作品だが、
自慢あり、皮肉あり、批判あり、で
ほんとうに楽しめる。

まずはともあれ作品をどうぞ。

最初から大袈裟かつ大まじめ。

 This is a message from
 the government of the Netherlands.

 これはオランダ政府からのメッセージです。

でもそのまじめさが、
すでにおかしさを予感させる。
いきなりトランプ口調だし。

(1) William of Orange
オランダ建国の歴史から話が始まるのは
いかにも欧州の国らしい。
80年も争った戦争相手のスペイン人のことを
さんざんひどく言っておきながら、

 They're all dead now by the way.

 今は全員死んでいるけれどね。

とサラリとかわしている。

(2) オランダ語
「オランダ語は欧州で最高の言語だ」を
オランダ自身が言うのはいいとしても、
total disaster(大失敗)だとか、
fake(偽物)だとか、
トランプ氏が使った言葉を、
デンマーク語やドイツ語に向けて
もう言いたい放題。

欧州内では互いの言語を
この程度のジョークでなら
言い合うことがあるのだろうか。

(3) Pony Park
最後の部分

 you can grab 'em by the pony

で笑い声が入っているのは、
この文そのものの意味ではなく、
大統領選挙期間中に暴露された
トランプ氏の超下品な会話

 Grab them by the p***y

をイメージさせるからだろう。

(4) Afsluitdijk(アフシュライトダイク)
  締め切り大堤防

オランダが世界に誇る世界最大の堤防を
メキシコとの壁にたとえてのこの話。

「月からも見える」大西洋を挟みながらも、

 from all the water from Mexico.

 メキシコからの
 すべての水から我々を守るために、

と、奔放なセリフのスケール感に
頭がついていかない。
実際、長さ32km、幅90m、もある
堤防としては本当に巨大なもののようだが。

(5) Lee Towers
「トランプ・タワー」と「リー・タワー」
Leeさんのほうは
1946年生まれのオランダの歌手。
YouTubeでちょっと聞いてみよう。

確かにいい声だ。

(6) ミニチュア・タウン
Madurodamという
ミニチュアタウンを紹介しておいて、

 The squares are so small

 広場はとっても狭いので

それを埋めるのに
たくさんの人は必要ないよ、と。

(7) Black Pete
12月、聖二コラウスの日に行われる
伝統行事らしい。

伝統行事ながら、
英語版のWikipediaによると、
ニコラウスの仲間Black Peteについての
黒い顔に赤い口紅といった化粧は、
近年オランダでも人種差別的な側面から
論争の対象にもなっているようだ。

(8) 足が不自由な政治家
これまた、
大統領選挙期間中に問題となった
トランプ氏の障碍者の真似を
皮肉ったもの。

選挙期間中に報道されていた
見るに堪えない
トランプ氏の真似映像を思い出すと、
Klijnsma氏の、穏やかな笑顔と
議場での毅然とした姿が、
対照的に気高く、美しく見える。

(9) 脱税システム
脱税の仕組みがあるよ、と言ったうえで、

 You should tell your sons
 to put all your...
 sorry, their businesses here.

 あなたの息子さんたちにあなたの
 失礼、彼らのビジネスをここに

とのわざとらしい言い間違いで、
「あなたの」を強く印象付けている。

(10) そして最後はコレ!
America Firstなら

 The Netherlands second?

やられた!という決め台詞。
噴出さずにはいられない。

 

それにしても、全編
It's great. It's true.
を繰り返しながら
トランプ氏の口調自体を
完全におちょくっている。

オランダのことを
ちゃんと紹介しながらも
笑いあり、批判ありで
メッセージ性もバッチリ。

しかも、
全体が安っぽい作りになっておらず、
仕上がりは極めて上質。


くやしいけれど、残念だけれど、
日本がほんとうに不得意な分野だと思う。

 

 

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2017年1月22日 (日)

偶然五七五

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偶然五七五

- 大阪府/四條畷市/北出町 -

 

2017年1月15日に行われた
大阪府四條畷市の市長選で
28歳の新人東修平氏が当選し、
全国最年少市長が誕生した、
とのニュースがあった。

四條畷市(しじょうなわてし)
の名前を見たらあることを思い出した。

(1) 住所篇
四條畷市には、
北出町(きたでちょう)という町がある。

住所をそのまま音読してみよう。

大阪府 / 四條畷市 / 北出町
(おおさかふ 
 しじょうなわてし きたでちょう)


そう、俳句とは言えないが
五七五のリズムになっている。

しかもおもしろいことに
この住所の郵便番号
現在は「575-0043」だが
1998年に7桁になる前までは、
これまた偶然にも
575」だったのだ。

私が読み難いこの市の名前を覚えたのは、
この五七五がきっかけだった。

 

「偶然五七五」のリズムを刻む日本語は
気をつけて探すとあちこちにある。

(2) 法律条文篇
法律の条文関連では、

日本国憲法第23条
学問の/自由は、これを/保障する

民法882条
相続は/死亡によって/開始する

軽犯罪法第1条22号
こじきをし、/又はこじきを/させた者

などがよく知られている。

 

(3) 駅名篇
数年前、
「連続した駅名で五七五七七」
つまり短歌調になる区間が
ネットで話題になっていた。

次々と挙がってくる作品(?)に
「みんなよく探しだすなぁ」と
当時は感心させられるばかりだった。
単なる駅名の組合せではなく、
「連続した駅名で」だ。

JR京浜東北線(8駅)
浜松町 = 田町 = 品川 = 大井町 =
大森 = 蒲田 = 川崎 = 鶴見(つるみ)


西武新宿線(6駅)
本川越 = 南大塚 = 新狭山 =
狭山市 = 入曽(いりそ) = 新所沢


富山地方鉄道本線(5駅)
新魚津 = 電鉄魚津 = 西魚津 =
越中中村 = 早月加積(はやつきかづみ)


JR飯田線(7駅)
上市場(かみいちば) =  
浦川 = 早瀬 = 下川合(しもかわい)
中部天竜 = 佐久間 = 相月(あいづき)

 

(4) Wikipedia日本語版篇
この五七五七七探し、
もともとは「偶然の発見」を
楽しんだものだったと思うが、
五七五七七検索プログラムを作り
フリーのオンライン百科事典
Wikipediaの本文をまるまる
検索にかけてしまった人がいる。

しかも、その結果は
こんな本にまでなっている。

いなにわ, せきしろ著
「偶然短歌」飛鳥新社

本からいくつか紹介したい。
(以下水色部、本からの引用
 五七五七七のあとの「」は、
 Wikipedia日本語版の見出し語)

 

アルメニア、アゼルバイジャン、ウクライナ、
中央アジア、およびシベリア
     「モロカン派」

柔道部・バレーボール部・卓球部
ハンドボール部・吹奏楽部
     「一宮市立北部中学校」

文学部・経済学部・法学部
経営学部・医療健康
     「日東駒専」

単なる名詞の羅列なのに、
音やリズムに特徴があって、
思わず声に出して読みたくなる。

 

空洞になっているため、大きさを
支えきれずに壊れてしまう
     「マリモ」

研究で、ネコが砂糖に関心を
持たないことは示されていた
     「ネコ」

たいていは家屋の中で日当たりの
よい場所にあり、窓が大きく
     「居間」

説明臭いものは、
リズム的にはあてはまっても
おもしろさには欠ける。

 

「立ち乗り」を行っている最中に
車のドアが閉まってしまい
     「ペター・ソルベルグ」

楽団の首席指揮者の就任も
決まっていたが、果たせなかった
     「イシュトヴァン・ケルテス」

大好きで毎日苺成分を
摂取しないと生きていけない
     「鈴木まりえ」

同じ説明調でも、
なぜか背景の物語を感じさせる。

 

艦長が自分好みの制服を
艦の資金で誂(あつら)えていた
     「セーラー服」

そんな中、白いくじらが出現し、
歓喜の声を上げる船長
     「白いくじら」

こうなると物語のほうが
前面に出てくる感じ。

 

泣き言や空想ばかりを書いている
ジャーナリストの連中が何
     「リシャルト・カプシチンスキ」

念仏で救済される喜びに
衣服もはだけ激しく踊り
     「盆踊り」

照らされて雨露(うろ)が輝く半分の
クモの巣だけが残されていた
     「くもとちゅうりっぷ」

このくらいになると、
説明文の一部、ということを忘れてしまう。

 

言葉遊びはいつでもどこでも楽しめる。

 

 

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2016年12月18日 (日)

地図二題

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地図二題

- 北方領土と日本海 -

 

ロシアのプーチン大統領が
2016年12月15日,16日訪日。

安倍首相と日露首脳会談が開かれたが、
昨日17日の朝日新聞一面は、
相変わらずこんな見出しになっていた。

A161217hoppou

「領土交渉は進展なし」

手もとに米国で買った
 HAMMOND
 ODYSSEY ATLAS OF THE World
という地図帳がある。

米国産のこの地図に、
北方四島を含む国境は
どんなふうに描かれているのだろう?
ちょっと見てみよう。

Russia2

国境線は国後島の南側。
すぐ北側にはRUSSIAの文字が。
やはりロシア領になっている。
ただしコメントが添えてある。
(ご興味があればクリックしてご覧あれ)

こちらにも。

Russia1

コメント部だけを書くと

Occupied by Russia since 1945,
 claimed by Japan.

「1945年からロシアに占領されており、
 日本がクレームしている」

うーん、なんとも冷静で客観的な記述だ。

外国の地図は、
その国からの視点を教えてくれる。

 

グーグルマップ等、
Web版の地図の登場と
スマホやカーナビの普及で
地図帳の大きな制約だった、
「固定縮尺」と「ページ割」からは
今はすっかり開放された。

技術的な改革が進む一方で、
「編集の意図」を前面に押し出して
興味深い「形」を見せてくれている
地図もある。

佐渡市が、
「環境にやさしい歴史と文化の島」として、
東アジア諸国との交流に視点をおいて
平成22年3月に刊行した地図

逆さ日本地図「東アジア交流地図」

もそのひとつ。

佐渡を中心に、
北の札幌市と南の福岡市を結ぶ線が
水平方向になるように回転。
大陸を下部に、
日本列島を上部に配置している。

そうするとこんな姿が現れる。

Easia

たったこれだけのことなのに、
見慣れた日本列島を見失ってしまうほど。

日本海がいかに閉じた海なのかもよくわかる。

この地図、
購入はこちらから簡単にできる。

なお、「日本海」については、
今年出版された

 蒲生俊敬著
 「日本海 その深層で起こっていること」
 講談社ブルーバックス


がたいへんおもしろい。

日本海を取り囲む4つの海峡
間宮、宗谷、津軽、対馬は
幅が狭いだけでなく、どれも浅い。
そのため、日本海は
まさに海洋としての閉鎖性が高い。
そのことにどういう意味があるのか。

内容については、
改めて別な機会に紹介したいと思う。

お正月の読書に向けて、
本を探している方にはお薦め。
直接は見えないけれど、
「その深層で起こっていること」に
思いを馳せることができる。

 

 

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2016年10月23日 (日)

ソングライン

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ソングライン

- 歌は地図、大地は楽譜 -

 

2016年10月5日の朝日新聞夕刊。
池澤夏樹さんが
コラム「終わりと始まり」に
「アポリジニの芸術
 人と土地をつなぐ神話」
なる文章を書いているが、
その中に、
「ソングライン」という言葉が出てくる。
(以下緑色部、記事からの引用)

 数万年前から文明に依らずに
生きてきた人たちがいる。
オーストラリアのアポリジニ(先住民)。

 彼らは速い昔にあの大陸に渡り、
その後は地殻変動で他の地域から隔離されたまま、
延々と世代を重ねてきた。

 雨が少ない土地なので農耕はむずかしい。
狩猟採集で生きることになるけれども、
密度が薄いので移動を続けなければ
充分な食料が得られない。

オーストラリアには馬やラクダやリャマのような
駄獣がいなかったので、
人は持てるだけのものを持って旅を続けた。
都市とも文明とも無縁な歴史

 その代わりにかどうか、
彼らはとても精緻で壮大な神話体系を作り上げた。
世界解釈としての神話である。

世界は遠い過去に創造されたのではなく、
人間の動きと共に今も創造されつつあり、
それは未来へも続く


 大事なのは人間と土地との絆だ。
すべての土地に固有の神話があって、
人間はいわばそれを鋤(す)き返しながら旅をする。

そのルートは歌で記憶されるから
ソングラインと呼ばれる

「ソングライン」、歌の道、
なんとも惹きつけられる言葉だ。

この言葉を初めて知ったのは、
ブルース・チャトウィンが書いた、
「ソングライン」
という本だった。

(今は、北田絵里子訳で復刊されているようだが、
 以下水色部は、右側の芹沢真理子訳からの引用)

「ソングライン」
単語の訳は簡単だが、
そもそも歌の道とは何なのだろう?

オーストラリア全土に延びる
迷路のような目に見えない道のことを知ったのは、
アルカディが教師になってからのことだった。

ヨーロッパ人はそれを"夢の道"
あるいは"ソングライン"と呼んだ


アポリジニにとって、
それは"先祖の足跡"であり"法の道"であった。

 アポリジニの天地創造の神話には
さまざまな伝説のトーテム
(未開の部族集団が
 血縁関係が有る祖先として信仰する自然物、
 あるいは記号
。動植物が多い。)
が登場する。

彼らは旅の途中に出会ったあらゆるもの、
鳥やけものや植物や岩や温泉の名前を歌いながら

そしてそうすることで
世界の存在を歌に歌いながら、
"夢の時代"、この大陸をさまよったのである。

その「ソングライン」を探しに行っている。

 私がオーストラリアにやってきたのは、
ソングラインとはいかなるものなのかを、
そしてそれがどのように機能しているのかを、
他人の書物からではなく、
自分のカで知るためだった


明らかに、私はソングラインというものの核心に
近づいていなかったし、
またそうしようともしていなかった。

私はアデレードで、その筋の専門家を知らないかと
女友だちに声をかけた。
彼女はアルカディの電話番号を教えてくれた。

さて、見えてくるだろうか、ソングライン。
もう少し先を読んでみよう。

 つづいて彼は、
各トーテムの先祖がこの国を旅しながら、
どのようにして
その足跡に沿って歌詞と旋律の道を残し、
どのようにしてそれら"夢の道"が
遠く離れた部族との
コミュニケーションの"方法"として
大地に広がっていったのかを、説明した。

歌が地図であり、方向探知器でもあった

と彼は言った。

「歌を知っていれば、
 いつでも道を見つけ出すことができた」

「それで"放浪生活"に出た人は
 いつもそうしたソングラインの上を
 歩いていたのかい?」

「昔はそうだった」彼は同意した。

「いまはみんな汽車や車で行く」

「もし、ソングラインをはずれたら?」

「他人の土地に侵入することになる。
 そのために槍を持っていたのかもしれない」

「でもその道からはずれさえしなければ、
 いつでも自分と同じ"夢"を共有する
 仲間を見つけられたわけだね? 
 それは、つまり、兄弟かい?」

「そう」

「その人たちからは
 もてなしを期待することができたのかい?」

「その逆もね」

「ということは歌はパスポートとか
 食事券のようなものだな?」

「もう一度言うが、もっと複雑なものなんだ」

 少なくとも理論上は、オーストラリア全土を
 楽譜として読み取ることができた。

 この国では歌に歌うことのできない、
 あるいは歌われることのなかった
 岩や小川はほとんどないのだ

歌が地図であり、方向探知器。
歌うことと、
存在することの深い関係は、
考え方自体が新鮮だ。

 アポリジニは、すべての"生きもの"が
大地の皮の下でひそかにつくられた
と信じていた。

それと同様に、白人の持ち込んだ道具 
-航空機、銃、トヨタのランドクルーザー-
のすべて、
将来発明されるであろう品物のすべても、
そうだと信じていた。

それらは地面の下で眠っており、
呼び出されるのを待っている
のだ。

「ひょっとしたら」私はふと思いついた。

歌うことで、彼らは神が創造した世界に
 鉄道を呼び戻す
のかもしれないね」

「そのとおり」アルカディが言った。

地下で眠っていたものが、
歌によって呼び出され、存在することになる。

「で、取り引きルートは
 かならずソングラインに沿っている、
 そうおっしゃるのですね?」

「取り引きルートがソングラインなのです」

フリンが言った。

「というのは、物ではなく歌が、
 交換の主要媒体だからです


 物のやりとりは歌のやりとりに
 付随して起こる結果なのです」

 彼はつづけた。

白人が来る前は、
オーストラリアで土地をもたない者はいなかった。

誰もが、私有財産として一連の先祖の歌と、
その歌が通過する土地を受け継いだからだ。

歌の文句は土地の権利書だった。
それは他人に貸すこともできた。
そのお返しに歌の文句を借りることもできた。

やってはいけないことは、
それら歌の文句を売ったり捨てたりすることだった。

 

この本、紀行文のように読めるが、
訳者はあとがきで
「一見ノンフィクションの観を呈している」

と言っているので、ちょっと注意が必要だ。
紀行小説と言えば正しいのだろうか。

アポリジニの考え方に触れながら、
「ソングライン」をはじめ、
「遊牧民」「放浪」「定住」などについて
自由に思いを巡らしながら読むのがいい。

 次に理解しなければならない大事な点は、
あらゆる歌が、部族や境界線に関係なく、
言語の壁を飛び越えることだ。

ある"夢の道"が北西部のブルーム付近から始まり、
20以上もの言語地域を通り抜け、
アデレード近くの海に達する
ということもあるのだ。

「それでもなお」と私は言った。

「それは同じ歌なのですね」

「われわれは」フリンは言った。
「歌を"味"や"匂い"で識別する、と言います。
 もちろん、それは"旋律"という意味です。
 最初の小節から最後の小節まで、
 旋律はずっと同じなのです」

「歌詞は変わるが、メロディーはそのままなんだ」
とアルカディがふたたび口をはさんだ。

「ということは」私はたずねた。

正しい旋律を口ずさむことができれば、
 若者でも放浪生活に出て、
 オーストラリアを横切る
 自分の歌の道をたどることができた

 そういうことですか?」

「理論的には、そうです」フリンは同意した。

言葉は単純ながら、
簡単には理解しにくいソングライン。

別な本の記述も借りてしまおう。

浦久俊彦著「138億年の音楽史」
講談社現代新書

(以下薄紫部、本からの引用)

・・・
ひとつの大陸を歌によって
描こうとした民族
にふれておきたい。

オーストラリアの先住民族アポリジニである。
彼らは、自分たちの世界で出会った
あらゆるものを歌にして歌ってきた。

ひとつの岩、川のせせらぎ、森の樹木など、
ひとつひとつに歌がある。
・・・
それはまるで、
大地そのものが楽譜であるかのようだ
・・・
大地に存在するあらゆるものはランドマークとなり、
そのひとつひとつが歌として記憶され、
それを線のようにつないで歩めば、
必ず目的地にたどり着くことができたというのだ。

「ソングライン」と名付けられた、
オーストラリア大陸に
無数に張り巡らされた目にみえない歌の道。

この世界観のユニークなところは、
アポリジニの人々にとっては、
彼らによって歌われるまで世界は存在していなかった、
というところにある。

つまり、これは音楽による天地創造の物語なのだ。

命は歌によってかたちを与えられ、世界が創られる。

存在するとは知覚すること。
その知覚が、彼らにとっては歌うということだったのだ。

上記、チャトウィンの
「ソングライン」もこんな風に紹介されている。

 イギリスの作家ブルース・チャトウィンは、
語り部とともに旅をしながら、
オーストラリア全土に張り巡らされた
迷路のような歌の道の伝統が、
いまも人々に継承され、語り継がれていることを、
紀行小説『ソングライン』に描いた。

「先祖たちは歌いながら世界じゅうの道を歩いた。
 川を、山脈を、塩湖を、砂丘を歌った。
 狩り、食べ、愛を交わし、踊り、殺した。
 歩いた跡には、音楽が残された」
 (北田絵里子訳)。

 ソングラインとは? という質問を繰り返しながら、
彼は、現代に受け継がれた
この伝説と生きる人々とともに、
アポリジニの先祖たちが刻んだ詩と旋律の
道の足跡をたどり続ける。

ここまで読んでも、
すっきりと「わかった」とは言い難い。

それでも、ソングラインの記述を通して見えてくる
アポリジニの世界観は、
歌によって世界を創造するというその世界観は、
音楽好きの私にとってはなんとも魅力的だ。

 

 

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2016年10月10日 (月)

大隅良典氏 ノーベル賞!

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大隅良典氏 ノーベル賞!

- 6紙読み比べ -

 

スウェーデンのカロリンスカ研究所は、
2016年10月3日、
2016年のノーベル医学生理学賞を、
細胞が自分で自分のタンパク質を
分解してリサイクルする
「オートファジー(自食作用)」の仕組みを解明した
大隅良典(おおすみよしのり)
東京工業大学栄誉教授に送ると発表した。

うれしいニュースに、
毎日新聞は4000部の号外を発行した。

翌日(2016年10月4日)の
東京での主要6紙はご覧の通り。
全紙一面トップで取り上げている。

A161004osumi

写真を撮った通り、6紙とも手元にあるので、
少し読み比べてみよう。

 

【授賞理由】

「オートファジー」の言葉ばかりが
ひとり歩きしているが、そもそも
カロリンスカ研究所はどんな理由で
授与すると言っているのだろうか?

こんなことは基本中の基本なので、
どこにでも書いてあるだろう、と思って読んでみたが、
意外にも記述は少ない。

読売新聞は、

授賞理由は
「オートファジーのメカニズムの発見」
・・・・
カロリンスカ研究所は授賞理由で
細胞がその中身を
 どうリサイクルするかについて、
 新しいパラダイム(枠組み)を導いた

と評価した。

 

日本経済新聞は、

カロリンスカ研究所は授賞理由として
オートファジーの仕組みの解明
と説明した。

とさらりと触れているだけ。

東京新聞は、一面真ん中に、
「授賞理由」の枠まで設けている。
中の記述はこう。

授賞理由

「オートファジー」について、
酵母の一種を使って重要な遺伝子を発見、
その仕組み解明した。
またよく似た洗練された機構が
人の細胞にもあることも示し、
細胞のリサイクルについて
新たな理解をもたらした


飢餓状態への適応や感染症への反応のような
多くの生理的過程で
オートファジーが重要であること、
その遺伝子変異は病気を引き起こし、
がんや神経疾患などに
関係していることが分かってきた。

なんだか理由なのか解説なのか
はっきりしない。

そんな中、そもそもの判断をした
カロリンスカ研究所の発表は、と
すっきりと載せてくれたのは、

産経新聞のみ。

161004sankeiosumi2s

授賞理由

 スウェーデンのカロリンスカ研究所が
3日発表した大隅良典氏への授賞理由は次の通り。
    ◇
 大隅氏の発見は、
細胞がどのように自身をリサイクルするのかを
理解するのに新しいバラダイムをもたらし
飢餓への適応や感染への応答のような
生態学的プロセスにおけるオートファジーの
基本的な重要性の理解に道を開いた


また、オートファジー遺伝子の変異は
疾患を引き起こす可能性があり、
オートファジーの機構はがんや神経疾患
を含むいくつかの条件に関与している。

なるほど。先の東京新聞の記述は、
産経新聞が載せているこの授賞理由を
わかりやすく書き直したつもりのものだったのだろう。

 

【発見の瞬間】

大隅さんが、光学顕微鏡を使って、
世界で初めて肉眼で「オートファジー」を確認した
まさにその発見の瞬間とその興奮は
どんな風に報じられているのだろう。

読売新聞

飢餓状態にある細胞の中に、
小さな粒状の物質が蓄積し、
盛んに動き回っている。
・・・
「オートファジー」を世界で初めて
光学顕微鏡で確認した瞬間だった。
・・・
大隅氏は、当時の興奮を
思わず息をのんだ
 何時間も顕微鏡をのぞき続けた」と語る。

 

毎日新聞

液胞の中に見たことのない小さな粒が生まれ、
激しく踊るように動いていた。
きっと、とても大事なことではないか」。

その日は何時闇も顕微鏡をのぞき続けた。
オートファジーを世界で初めて肉眼で
観察した瞬間だった。

 

産経新聞

 液胞内の顆粒は、
分子の不規則な衝突で起こるブラウン運動で
激しく動き回っていた。

大隅さんはその動きに感動し、
何時間も顕微鏡をのぞき続けた。

そして研究室を出て、
会う人ごとに
「とても面白いことを見つけた」と
熱弁をふるったという


 こうして、酵母が飢餓状態に置かれると
液胞に物質が取り込まれ、
分解される自食作用「オートファジー」を
世界で初めて確認できた。

 

妙に詳しく書いているのは、

朝日新聞

 1988年6月。
東京大教養学部の助教授になって2カ月余り。
できたばかりで学生がいない研究室で、
ひとり顕微鏡越しに酵母を見ていた。

たくさんの小さな粒が踊るよう
跳びはねていた。

何かすごい現象が起きているに違いない」。

細胞が不要なたんばく質を分解して再利用する
「オートファジー」にかかわる現象ではないか。
大隅さんが気づいた瞬間だった。
・・・
 液胞のなかには、
いくつも分解酵素があるが、
当時はその役割は分かっていなかった。

通常、酵母は飢餓状態になると休眠状態に入る。

「液胞内部で酵素が何かを分解するとしたら
 その直前だろう。
 それを観察すれば、
 仕組みが見えるんじゃないか」とひらめいた。

 分解酵素があるとたんばく質が分解されてしまい、
現象を観察できない。

このため、分解酵素がない酵母を使って調べた


顕微鏡をのぞくと、想像通り仕事を終えて
不要になったたんばく質がたまっているのが見えた。

 これが「踊る粒」だった。
生命力にあふれる躍動は、
「何時間見続けても飽きなかった」

 

 大隅さんはその後、
電子顕微鏡でオートファジーが起こる過程を
目に見える形で記録することに、
世界で初めて成功。

 

【世界への広がり】

毎日新聞

さらに3万8000種類の突然変異の酵母を検査し、
遺伝子を比較することで
14種類の遺伝子が関わっていることを突き止め、
93年に論文発表した。

地道な研究が実を結んだこの論文は
オートファジー研究史上
最も価値ある論文として世界に認められている


 その後、
オートファジー遺伝子は酵母から哺乳類、
植物にまで保存されている
ことも
吉森氏ら教え子と明らかにし、
研究は一挙に世界中に拡大した。

遺伝子は現在18種類が見つかっている。

年間数十本だった関係論文は
今では年間5000本にまで急増し、
生命科学分野でも最も進展が著しい
研究領域
となっている。

「だれもやっていなかった」研究が、
まさに世界中に広がっていく過程は、
論文数のグラフが一番わかりやすい。

論文数が増えたことは、各紙述べているが、
グラフを載せてその推移を見せてくれたのは
「毎日」と「産経」の二紙のみ。

毎日新聞

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産経新聞

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読売新聞

吉森氏は
「自分が先端で研究している分野が、
 どんどん大きくなるのを見せてもらった。・・」

と語っているが、このグラフを見ていると、
その渦中にいた研究者の興奮が伝わってくる。

大隅さんは記者会見で、
基礎研究を見守ってくれる社会になってほしい」
と強く語った。

東京新聞

記者会見を開き、
受賞決定の喜びと研究への思いを語った。
・・・
「今、科学が役に立つというのが
 数年後に企業化できることと
 同義語になっているのは問題。

 役に立つという言葉が
 とっても社会を駄目にしている


 実際、役に立つのは
 十年後、百年後かもしれない」。

基礎研究への情熱をにじませた。

 

ノーベル賞、ほんとうにおめでとうございます。

記者会見での言葉が、
より多くの人に、
より多くの人の心に届きますように。

 

 

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2016年6月 5日 (日)

「政府」だけでは国にならない

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「政府」だけでは国にならない

- アフリカの国々の独立 -

 

前回に引続き、
4月から放送中のNHKカルチャーラジオ
歴史再発見「アフリカは今 カオスと希望と」

のテキストを中心にアフリカの歴史と今を
もう少し見てみたい。

講師はジャーナリスト松本仁一さん。

(以下水色部、テキストからの引用)

繰り返しになってしまうが、
前の回、最後の部分から始めたい。

【原住民の部族を無視した国境】

国境線はあるところでは
一つの部族の居住地区の真ん中を突っ切り
二つの国に分断した。

勝手な国境線はまた、
利害の相反する複数の部族を
一つの国の中
に取り込むことになった。

一部族の強制的な分断と、
複数部族の強制的な一国化。
これではひとつの国として、
まとまるはずがない。

しかも、
列強の植民地が並んでいたアフリカは、
再立国のまたとない機会
「独立」に際しても、
部族を無視した国境線を
そのまま維持してしまった。

 

【ナイジェリアの例】

 たとえばナイジェリアだ。

英国領のナイジェリアは、
北部イスラム系住民と、
南部キリスト教系住民を
囲い込んだ植民地だった。

独立に際して英国は、
その異なる文化の地域を分けることなく、
ひとつの国境のままで独立させた


分離すると、
北に接するフランス植民地に
とられてしまうかもしれないと危惧したためで、
植民地を独立させた後も
影響力を残しておきたいという計算からだった。

当然のように
内部紛争にもとづく戦争(ビアフラ戦争)が勃発。

現在も北部住民と南部住民の間には
深い溝が残り、国家的統合は進まない

もちろんナイジェリアだけではない。

 

【モノモタパ王国も】

1000年の栄華を誇った
モノモタパ王国はどうなったか


(中略)

1923年、
モノモタパのあった南部と、
別な部族の住む北部をひっくるめて
英領ローデシアとなる。

1980年にローデシアは独立し、
ジンバブエとなったが、
国境は英領時代のままだった。

モノモタパ系の住民は人口の二割。
北部住民は七割。
それが一つの国境線でくくられた


北部の代表者がつねに選挙で勝利し、
自派だけに利益を誘導した。

政治は腐敗し、産業が崩壊した。
インフレ率が数兆パーセントという
破滅的な状況に落ち込み、
国家は崩壊してしまった

「勝利が確定している」ことによる
恒常化した利益誘導。
腐敗は止められないものなのだろうか。

 

【植民地支配、そして独立】

 アフリカ各地に自然発生的に生まれた国家は、
武力を背景にした
西欧帝国主義のためにつぶされた。

それから数百年して独立は達成されたが、
植民地勢力が
勝手に引いた国境線に囲まれた国々は、
かつての王国とは似ても似つかぬものだった。

植民地支配からの独立における問題点。
もちろんそれは、国境線だけではない。

 

こんな例もある。

英国の慈善団体が「善意の行為」として
英国の奴隷を解放し、アフリカに返す、
というアクションを取った。

解放奴隷が住みついた町が、
(シエラレオネの)フリータウン。

【シエラレオネの内部差別】

 シエラレオネは1961年に独立する。
しかし近代型の国家を
作り上げることができなかった


移住した英国系黒人が
先住の現地黒人を差別支配したからだ。

黒人による黒人差別だった。
国民同士が対立し、
同じ国民としての一体感が欠けたまま、
「政府」と「国家」だけができる。

奴隷とはいえ、英国で育った人たちは、
読み書きや車の運転などの技術を身につけており、
アフリカの先住民より
かなり優位な立場にあったようだ。

しかも、アフリカに返されたとはいえ、
解放奴隷にとって、フリータウンは
生まれた町でも育った町でもない。

そのうえ、シエラレオネには、
巨大なダイヤ利権がある。

結局、権力者は、その利益を私物化し
一族で山分けすることに走ってしまった。
国造りではなく、ダイヤ利権の奪い合いが、
独立後の歴史になってしまっている。

 

* 元から住む部族を無視した国境線
  それによって引き起こされる部族間の対立
* 解放奴隷による先住民の差別
* 権力者による利権の私物化

講師松本さんの話に驚きながら、
3回に分けて見てきた
これらの問題点の他にも
よく報道されているように、
貧困、差別、飢餓、
警察をはじめとする
国家機能の正常化、などなど
アフリカには問題が山積みだ。

「独立だ!」と言って
「政府」だけを作っても、
ひとつの国にはならない。

 

 

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2016年5月29日 (日)

国境線の持つ意味

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国境線の持つ意味

- 国の境になるべきものは -

 

前回に引続き、
4月から放送中のNHKカルチャーラジオ
歴史再発見「アフリカは今 カオスと希望と」

のテキストを中心にアフリカの歴史と今を
もう少し見てみたい。

講師はジャーナリスト松本仁一さん。

(以下水色部、テキストからの引用)

前回書いた通り、
かつてアフリカで繁栄していた
ガーナ、マリ、モノモタパ、
などの王国は、どこも
治安の維持された安定した国家だった。

それが、どうして、
現在の混乱したアフリカの国々に
繋がっていくことになるのだろう?

【アフリカにあの男が到着】

1497年、
ポルトガルの航海者パスコ・ダ・ガマ
インド航路開発のため
二隻の艦隊でリスボンを出発し、
喜望峰を回ってインド洋に出た。

アフリカ東海岸で最初に寄った港は、
今のモザンビークのソファラだと見られている。

ガマが寄港したソファラ。
そこで彼が見たものは。
そこで彼が受けた扱いは。

 

【みすぼらしいポルトガルの船】

当時のソファラ港はモノモタパ王国の支配下にあり、
アラブ人商人と交易して栄えていた


ガマはポルトガル国王にこう報告している。

「われわれが入港すると、回りには倍以上もある
 大型のアラブ船が何隻も停泊していた。
 われわれの船はみすぼらしいほど小さかった

 黒い人々は、
 故国ポルトガルよりはるかに洗練された街に住み、
 豊かな生活をしている

ポルトガルの船がみすぼらしく見えるほどの
活気ある港。
ポルトガルより洗練された豊かな生活。
欧州に比べて、遅れているどころか
ずっと進んだ国だったのだ。その時は。

 

【野蛮な異国人扱いのポルトガル】

ガマは港の役人に、水と食料の購入の許可を求める。
しかし港の役人はちっとも来ない。
さんざん待たされてやっと役人が乗船してきた。

「役人は青い絹の服、絹の帽子を身につけ、
 堂々とした態度だった。
 われわれが贈り物を差し出すと、
 中を改めもせず後ろの召使にやってしまった。

 われわれは野蛮な異国人として無視された

 

【平和に続いていたアラブとの交易】

 アラブとの交易は、
長年にわたって平和的に続いていた


その交易で大きな富を蓄えていたアフリカの王は、
西欧のみすぼらしい船など相手にもしなかったのだ。

アラブとの平和な交易で栄えていた港。
「みすぼらしい」船から、
それを初めて見たガマは、
その後いったいどうしたか?


なんということか...

 

【ポルトガルの二度目の訪問】

 しかしポルトガルは、
次回は20隻に上る大艦隊を送る。
艦隊には100門もの大砲が積み込まれていた

モザンビークは
その武力攻撃の前になすすべもなく屈服し、
占領支配される。

以後5世紀にわたって植民地支配を受けるのである。

 モザンビーク以外の他の王国も同じ運命をたどる。
そしてポルトガルのあと、
ドイツやフランス、イギリスが続いた

ついに始まる西欧の植民地支配。

ただ、ここで注目すべきは、
植民地における入植者の支配そのものではなく
「国境線」。

【勝手に引かれる国境線】

 植民地支配の時代、西欧列強は地勢や気候、
そこに住む人々の生活などと関係なく

自分たちの力関係でアフリカに国境線を引いた。

ひとつの例として、
東アフリカのケニアとタンザニアの国境を
見てみよう。

インド洋から北西に
まっすぐ伸びた国境線(下図紫色の線)が
キリマンジャロ山の手前で
急に北にカーブしてクランク状となっている。

Kenya1

 

【ケニアとタンザニアの国境】

 この奇妙な国境線は、
1884年11月に開かれたベルリン会議で決まった。

ベルリン会議というのは、
欧州列強によるアフリカ分割の会議で、
翌85年2月まで3か月以上も続いた長い会議である。

その長い会議期間中に、
ドイツ皇帝のウィルヘルム二世が誕生日を迎えた。

英国のビクトリア女王が
誕生祝いに何が欲しいか尋ねる。
すると皇帝は
「万年雪のある山を一つ分けてもらえないか」
と答えた。

 当時、英領ケニアには
万年雪をかぶった山が三つあった。

キリマンジャロ山 (5895メートル)、
ケニア山 (5199メートル)、
エルゴン山 (4321メートル) である。

ケニアの南隣りのタンザニアに
万年雪のある山はなかった。

 ビクトリア女王は
「そんなものでいいの?」と気軽に承諾し、
一番南にあるキリマンジャロ山を
独領タンザニアにプレゼントすることにした。

それで国境が
不自然に曲がってしまったのである。

それから130年余がたった。
ケニア、タンザニアの両国は独立したが、
国境はまだ曲がったままだ。

そこに住む部族を全く考慮しない国境線。
それは何を生むことになるのか。

【原住民の部族を無視した国境】

両国の国境は住民の生活の都合などと関係なく、
英独の力関係だけで決まった。

国境線はあるところでは
一つの部族の居住地区の真ん中を突っ切り
二つの国に分断した。

勝手な国境線はまた、
利害の相反する複数の部族を
一つの国の中に取り込むことになった

一部族の強制的な分断と、
複数部族の強制的な一国化。
これでは国として「ひとつ」に
まとまるはずがない。

部族と国境線の話、
もう少し続けたい。

 

 

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2016年5月22日 (日)

かつてのアフリカの王国

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かつてのアフリカの王国

- 不正を憎む規律正しい国々 -

 

以前、アフリカは大きい
アフリカがいかに巨大か、
アフリカの国の名前を
私自身がいかに知らないか、
を書いたが
その程度のことでも驚いてしまうくらいなので、
歴史となると
それこそ情けないくらいに何も知らない。

4月から放送中のNHKカルチャーラジオ
歴史再発見「アフリカは今 カオスと希望と」

は、そんなアフリカ無知の私にとって、
あまりにも強烈な内容だったので、
思わずテキストまで買ってしまった。

(以下水色部、テキストからの引用)

歴史や地理の話に限らないが、
基礎知識がない分野というのは、
固有名詞の語彙が極端に狭い。
固有名詞を知らないと、音だけは
「えっ?今の何?」と何度も躓いてしまう。

正しい固有名詞があるだけでも、
再確認や再検索の負担はかなり軽くなるので、
テキストがあるとおおいに助かる。

今も週一回のペースで放送中で、
6月末まで続く全13回にわたるシリーズだが、
これまで聴いた中から一部を紹介したい。

講師はアフリカでの取材経験が豊富な
ジャーナリスト松本仁一さん。

 

米国のシンクタンク「平和基金会」は
毎年、いくつかの指標ごとに
点数をつけて崩壊国家の順位を発表しているが、
2013年の崩壊国家ランキングでは、
ワースト20の内の15カ国が
アフリカの国
になっている。

なぜ、
崩壊国家だらけになってしまったのだろうか?

なぜ、治安を維持できない、
混乱した状態になってしまったのだろうか?

混乱の原因に触れる前に、
まずは、かつてアフリカにあった
安定した国々の話から始めたい。

 

【14世紀ごろの「32」の王制国家】

アフリカでは
9世紀ごろから王国が形成されはじめ、
14世紀ごろには大きなものだけでも
32の王制国家があった


そのいずれもが
きちんとした社会ルールを持ち、
正義を基盤とした規律ある国家運営をしていた

32もの王制国家があったらしい。
歴史上のアフリカ国家、
いくつ名前が思い浮かぶだろうか?

 

【ガーナ王国】

1067年、
アラブ人地理学者エル・ベクリが著した 
『北アフリカ誌』には、
ガーナ王国は8世紀ごろから栄えたと、
次のように書かれている。

「ガーナの国王は
 20万人の兵士を動員することができ、
 そのうちの4万人は弓矢で武装している。

 国家財政は、
 ここで取引される塩や金に対する課税で
 支えられる。

 王は異教を信じているが、
 大臣や官僚にはイスラム教徒が登用されている」

「王国の版図は、
 西はセネガル川、東はニジェール川に及ぶ。
 採れた金のうち、金塊は王の所有に属したが、
 砂金は自由な処分に任されている」 
 (山川出版社 『アフリカ現代史Ⅳ』)

 日本でいえば平安後期。
藤原道長が没し、
平家と源氏の隆盛が始まるころだ。
そのころアフリカにはすでに、
活気ある王国が成立していたのだ。

20万人もの兵を動員でき、
税と官僚組織も備えていたガーナ王国。

 

【マリ王国】

 アラブ人歴史家の
イブン・ハルドゥーンが残した記録によると、
13世紀ごろから現在のトンブクトゥを中心に
マリ王国が形成され、
14世紀初期、マンサ・ムーサ国王のときに
最盛期を迎えた。

マリ王国の繁栄は
ガーナ王国をはるかにしのぐものだった。

1324年、ムーサ王はメッカに巡礼する。

王の大行列は、往路、
エジプトのカイロを通過した。
その際、
行列を見物する人々に大量の金の粒をばらまく
そのためカイロの金相場が下落して大騒ぎになった。

 この事件で、
マリの繁栄は西欧にも知られることになり、
西欧の世界地図にマリが描かれるようになった。

文化人類学者の川田順道民は、
このときムーサ王が携行した金は
13トンに及ぶと推定する 
(山川出版社『黒人アフリカの歴史世界』)。

単純に今のレートで換算すると
13トンの金は500億円をはるかに超す。
金13トンを持って旅したマリの王様!

トンブクトゥには、
2つの大学、
180のコーラン学校があり、
学生の数だけでも2万人を数えたと言う。
キャラバンサライ(隊商宿)が軒の連ね、
職人や商人が町にあふれていた。

【マリ王国の規律と治安】

当時、世界的に有名だった
アラブ人紀行家イブン・バトゥータは
1353年、マリ王国を訪れて半年も滞在した。

その体験を、
後にイブン・ジュザイイに口述筆記させた
『旅行記』でこう述べている。

「マリの王は規律正しく国を治めている。
 王国の黒人たちの資質はすぐれており、
 彼らは他のどの民族よりも不正を憎んでいる

 王はどんな小さな悪に対しても厳しい。
 旅行者も居住者も、
 泥棒や暴漢の心配をする必要はなく、
 治安の問題はまったくない

「マリの国内で外国人が死んだとき、
 その財産がいかに莫大であろうと、
 没収されるようなことはない」 
(山川出版社『アフリカ現代史Ⅳ』)。

 日本の南北朝時代、足利尊氏のころだ。
そのころ世界に覇を唱えていた
イスラム社会の紀行家が感心するほど、
整備され、安定した王国がアフリカにできていた

「他のどの民族よりも不正を憎んでいる」
「治安の問題はまったくない」

講師の松本さんは、
「国家と治安」の関係を、
このあとも何度も何度も強調する。

国家に要求される最大の使命は、
治安を守ることだ、と。
民主的な政治システムなどというのは、
そのあとの課題だ、と。

 

【東アフリカには】

一方の東アフリカ。
19世紀、インド洋岸から
奥地に探検に入った西欧の探検家たちは、
海岸から約800キロ内陸に、
石造りの遺構を見つけた。

探検家たちはずいぶん面食らったようだ。

黒人は泥と草の家しかつくれない、
黒人に石造りの建物は作れないと
思いこんでいたからだ。

そのうち一人は、大真面目に報告した。
「われわれはついに
 シバの女王の都を発見した」

旧約聖書に登場するあのシバの女王??

【ジンバブエ遺跡:モノモタパ王国】

 それがジンバブエ遺跡だ。
ジンバブエの首都ハラレから南へ約300キロ、
第二の都市マシンゴ郊外の山の中にある。

遺跡は丘と谷の起伏を利用して、
1キロ半四方に広がっている。

 建築の素材は、
レンガ大に切りだした花崗岩だ。

何百万個という石を丹念に積み上げ、
見上げるほどの高さのある石壁を
つくりあげている。

石積みには、
アラブやインドの遺跡で見られるモルタル、
粘土といった接合剤をいっさい使っていない

同じ大きさの石を積み上げただけで、
高い尖塔やカーブした壁がつくられている。
「エンクロージャー」(大囲壁)と呼ばれる建築物は
王の宮殿跡とされる。
長円形で東西約100メートル、南北で70メートル。

その石壁の中にまた石壁の囲みがあり、
間を迷路のような通が走っている。
その道はすべて石の舗装だ

建物と建物をつなぐ回廊もすべて石造りだ。

この石都市モノモタパ王国の隆盛は
9世紀から19世紀まで、1000年にわたって続いた。

石造りの技術だけでなく、
もちろん財源も確保していたようだ。

【金を目方も量らずに・・・】

モノモタパの民はインド洋岸の港町に現れ、
アラブ人商人に
「金を目方も量らずに与え、
 代わりに色つきの布を得て帰って行った」という。

その金の鉱脈はどこにあったのか、
今ではまったく分からない。

 

ガーナ、マリ、モノモタパ、
どの王国も、
治安の維持された安定した国家だった。

それがどうして、
現在の混乱したアフリカの国々に
繋がっていくことになるのか。

長くなってきたので続きは次回にしたいが、
一節のみ、予告の文章を。

1497年、
ポルトガルの航海者バスコ・ダ・ガマは
インド航路開発のため
二隻の艦隊でリスボンを出発し、
喜望峰を回ってインド洋に出た。

アフリカ東海岸で最初に寄った港は、
今のモザンビークのソファラだと見られている。

 

アフリカの歴史に登場する西欧列強。
かれらがアフリカに対して何をしたのか、
今のアフリカの問題点の原点はそこにある。

 

 

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