社会

2018年6月17日 (日)

オーストリア旅行記 (43) 銀器コレクション

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オーストリア旅行記 (43) 銀器コレクション

- 33mのセンターピース -

 

旧王宮の中、

* 「宮廷銀器コレクション」
* 「シシィ博物館」
* 「皇帝の部屋」&「皇妃シシィの住居」

の3つのエリアは
見学順路として繋がっており、
続けてみることができる。

このうち、写真撮影OKなのは
「宮廷銀器コレクション」のみ。

【宮廷銀器コレクション】

P7158867s

行ってみて驚くのは、
新王宮内の「古楽器博物館
などと違って、こちらは人、人、人。
ツアーや団体客も含めて、
観光客の大メインルートとなっている。

チケットを購入すると、
日本語も選べるオーディオガイドを
全員に貸し出してくれるので、
時間に余裕があれば、
一点一点ガイドを聞きながら
丁寧に回ることができる。

もちろん「銀」だけではない。

P7158869s

そう言えば、
ここのオーディオガイドは
いわゆる受話器タイプ
本体を片手に持ち、
耳に当てながら音を聞く、
電話しているときのスタイル。

本体には首から下げて持ち歩けるよう
ネック・ストラップがついているが、
音を聞くときは、耳に当てるしかない。

ところが、このスタイルでは、
片耳、片手がふさがってしまうため、
メモを取ったり、
写真を撮ったりが
きわめてやりにくい。

なんとかならないものだろうか?

本体をよく見ると
3.5mmのイヤホンジャックがある。
思わず
いつも持ち歩いているWalkmanの
イヤホンを抜いて挿してみた。

完璧だ!
首からぶら下がっている本体から
イヤホンを通じて音が聞こえる。
このとき、両手は完全にフリー!

写真もメモも音を聞きながら
自由自在にできる。

ここでは、
Myイヤホンの機内持ち込みを推奨したが、
Myイヤホンは、
博物館のオーディオガイドでも役に立つ


見学の際は、お薦め。
写真を撮ったりメモを取ったりしたい方
ぜひお忘れなく。

 

P7158867s

さて、展示の内容。

ハプスブルク家歴代の銀器と
金器(?)の量はすさまじく
最初はその量に驚くものの
途中からある種の感覚が
完全に麻痺してくる。


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銀器・金器だけでなく
陶磁器ももちろん大量にあり
ヨーロッパの名窯で作られたものが並ぶ。

銀器にも陶磁器にも
双頭の鷲の紋章が。

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クリスタルガラスは、
ロブマイヤーのものが多い。

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数ある食器・調度品の中でも、
食卓を飾る豪華なセンターピースは
ひときわ目をひく。

【古いフランス風センターピース】

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ブロンズに金メッキされている。
1838年くらいのもの。

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いったいどれほどの金が
使われているのだろう。

P7158878s

帰るときに寄った
ミュージアムショップには
日本語のこんなガイドブックが
あったので購入してみた。

Ginnki1

この中に、
シェーンブルン宮殿大広間の祝宴で
センターピースが
実際に使われている時の絵がある。

Ginnki2

なるほど、これほど大きなテーブルを
飾る必要があるわけだ。

19世紀前半にミラノで作られた
センターピースは33mにもおよぶ。

P7158870s

そう言えば、
上のガイドブックに、
「磁器」と「貴金属食器」の関係について
こんな興味深い記述があった。
ちょっと引用したい。(水色部)

18世紀当時、
ウィーン磁器工房にとって
皇帝の宮廷は
決して重要な顧客ではなかった。

磁器はまだ装飾品であり、
高価なばかりでなく
壊れやすかったので、
皇帝家の食卓には
金、金メッキした銀、銀など、
貴金属の食器が使われていたからである。

磁器は主にデザート、スープ、
朝食セットに利用され、
あるいは神話のシーンなどを示す
群像としてテーブルに飾られた。

壊れやすいのは確かにそうだが、
18世紀ごろ、基本的に
磁器はまだ装飾品だったのだ。

メインは貴金属の食器。

 

ところが、
ハプスブルク家といえども
いつでも潤沢に
金銀を使えたわけではない。

戦費調達のために、宮廷の食器まで
貨幣鋳造に回されたこともあるのだ。

そのとき、磁器が活躍している。

ナポレオン戦争の戦費調達に、
窮余の策として食器類の金銀も
貨幣鋳造に転用された
ため、
宮廷における磁器の需要が
飛躍的に増大した。

宮廷の部局でも皇帝家の食卓にも、
ますます多くの磁器製品が
調達されるようになった。

1814年の春になって
戦後処理を論議する国際会議のため
ウィーンが候補地になった時、
ハブスブルク家の宮廷には貴金属の食器が
殆ど残っていなかった


再び窮余の策としてウィーン磁器工房に
公式のディナーに使う
金色のディナー・セットが注文された。

貴金属の食器が
ほとんど残っていなかったので、
「磁器工房」に「金色」の
ディナー・セットを注文、
そんなこともあったのだ。

 

磁器と言えば、
日本の伊万里コレクションもあった。

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「宮廷銀器コレクション」の
エリアを抜けると、外に出ることなく
そのまま「シシィ博物館」へと
導かれていく。

 

 

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2018年5月13日 (日)

オーストリア旅行記 (38) カフェ文化

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オーストリア旅行記 (38) カフェ文化

- ひとりでいたい、でも仲間が必要だ -

 

ウィーンの文化と言えば、
やはりこれに触れないわけには
いかないだろう。

カフェ文化。

【カフェ フラウエンフーバー】

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Café Frauenhuber
ウィーン最古のカフェ

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夕日を背に外のテラスで食事をしたが、
食事のあと、
店内の写真を撮らせてもらった。

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女帝マリア・テレジアの料理人
フランツ・ヤーン(Franz Jahn)が
1788年に開業。

1788年にはモーツァルト
「ヘンデルのパストラーレ」を

1797年にはベートーヴェン
「4本の金管楽器とピアノのための5重奏」

をここで演奏。

特に、モーツァルトが公衆の面前で
ピアノ演奏を行ったのは、
ここが最後になったらしい。

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モーツァルトとベートーヴェンが
演奏したことのあるカフェ
というだけで、
もう寄らずにはいられない。

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落ち着いた店内の雰囲気に
まさにピッタリといった感じの正装で、
丁寧な接客をする
ケルナー(ウェイター)さんが
ほんとうに印象的。

かなりなご高齢と思われるが、
所作と言うか身のこなしが美しく、
まさにプロフェッショナル。

ワイワイと
各国からの観光客が多くても、
店の独特な空気感が
キッチリ守られていることが、
なんとも気持ちがいい。

 

【カフェ ブロイナーホーフ】

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カフェ「Café Bräunerhof」

ここにも、多くの芸術家が
集(つど)っていたと言う。

ところで、
「ウィーンといえばカフェ」
と言われるほどにウィーン文化を
代表しているもののひとつがカフェ。

「文化」と呼ばれるまでの
その独特な存在意義を
下記の本を参照しながら
覗いてみたい。

広瀬佳一、今井顕 編著
 ウィーン・オーストリアを
 知るための57章【第2版】
明石書店

(以下水色部、本からの引用)

 

まずは起源から。

 ウィーンといえば、
即座にコーヒーやカフェを
思い浮かべる人も少なくないだろう。

確かに、ウィーンは、
東方に起源をもつ
この「黒いスープ」を、
ヨーロッパで最も早く
普及させた都市
であった。

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ウィーン風コーヒーや
カフェの起源については、
数多くの伝説が
まことしやかに語り伝えられている。

たとえば-

1683年、
トルコ軍によるウィーン包囲の際、
トルコ語の才能を買われて伝令となり、
敵陣に潜入して
皇帝軍を勝利に導いた
コルチスキーが、戦後、
トルコの野営地に放置された
コーヒー豆を得て、
ウィーン初のカフェ・ハウスを
開店したというエピソードは、
あまりにも有名である。

しかし実際には、
このコルチスキーより以前に、
都市在住の東方商人らを相手に
コーヒーを出す店が、
すでに存在していたようだ。

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すでに18世紀には、
カフェはウィーンの名物、
見どころのひとつに
数えられていた。

1720年に開業し、
国内はもちろん、全ヨーロッパの
主要な新聞・雑誌を常備していた

「クラーマー・カフェハウス」は、
やがて首都の知識人の結集地となった。

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こんな感じで、どこのカフェでも
新聞や雑誌が読み放題になっている。
特に新聞のフォルダが印象的。

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ただ、

 薄暗く狭い店の中、
大テーブルに相席で押し込まれた
大勢の客が、
騒がしくひしめき合う。

多くの風刺画や銅版画が
今日に伝えるように、
これが、18世紀前半までの
カフェの日常風景であった。

それが大きく変化を始めるきっかけが
18世紀、後半に起こる。

 こうした状況が
変化を見せはじめたのは、
1780年代のことである。

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皇帝ヨーゼフ2世による
飲食店営業規制穏和の結果、
カフェの数がさらに増大すると、
多くの店主たちは、
生き残りを賭けて大改装に着手
した。

内装は上流階級のサロンに擬せられ、
採光が不具合な立地でも、
クリスタル製の
豪華なシャンデリアが
明るく照らすようになった。

目抜き通りに面した店では、
軒先に植木鉢を並べた
「シャニ・ガルテン」、
今でいう
オープン・エアが創案された

オープン・エアのテラス席は
このころの発明だったわけだ。

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公共の場において追求される
個人の孤独


これこそ、その後、
19世紀から現在まで
人々を魅了し続けた、
ウィーンのカフェの
最大の特色にほかならない。

たとえば、20世紀前半に
活躍した文筆家で、
「カフェ・ツェントラール」をはじめ、
名だたる文学カフェの
常連としても知られる
アルフレート・ポルガーは、
カフェの魅力についてこう語った。

「一人でいたい、
 けれど、
 同時に仲間が必要だ。
 こういう人々が、
 カフェに通うのである」

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ちなみに、上の引用に出てきた文学カフェ
【カフェ ツェントラール】
は、こんな感じ。

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興味深いのは、歴史ある
「ツェントラール」のすぐそばに
これを発見したこと。

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ウィーンの人には
どんな風に見えているのだろう?

2001年末、ケルントナー通りに
第一号店をオープンさせたとき、
多くのウィーンっ子から、

コーヒーを
 紙コップで飲むなんて、
 あり得ない
」と、

猛反発を受けた
スターバックス・コーヒーが、
その後、若い世代を中心に
広く受け入れられ、現在、
市内に9店舗を展開している事実もまた、
ウィーンにおけるカフェ文化の変遷の、
その一面を象徴しているのかもしれない。

 

 

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2018年4月29日 (日)

オーストリア旅行記 (36) シュテファン大聖堂

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オーストリア旅行記 (36) シュテファン大聖堂

- 聖堂内での夜のコンサート -

 

 

【シュテファン大聖堂】

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市壁に守られていた旧市街にある
ゴシック様式の大聖堂。


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旧市街の
まさにど真ん中にあるこの聖堂は、
自然史博物館や歌劇場のような
リンク通り建設に伴った
都市拡張開発によって
建てられたものではない。

完成は古く、1356年。
136メートルにおよぶ塔の建設には
65年もかかったという。

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ハプスブルク家歴代君主の墓所でもある。

特徴あるモザイク屋根。

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北側に回って見上げると
ちょっと見えにくいものの、
こんなところにも鷲の紋章が。

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モーツァルトの結婚式、
そして葬儀
が行われた場所としても
知られている。

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旧市街の中心地ということもあって
ひっきりなしに観光客が訪れるせいか、
聖堂前には
「観光客向けコンサート」の客引き
妙に多い。

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皆、
モーツァルトを思わせる衣装を身に纏い、
次々と観光客に声をかけている。

何人かの客引きの話を
興味本位で聞いてみた。
私が聞いた範囲ではこんな特徴がある。

【曲目】
 夜のコンサートのプログラムは、
 モーツァルトやヨハン・シュトラウスを
 中心に超有名曲ばかり。
 クラシックファンでなくとも
 気軽に楽しめる選曲になっている。

【パフォーマンス】
 楽器による演奏だけでなく、バレエや
 オペラのアリアを一部組合せたりして
 エンターテイメント性に
 めいっぱい傾いた
 プログラムになっている。

【会場】
 どこも100-200名程度の
 小規模な公演ながら、
 会場はかなり魅力的。
 王宮の中の一部屋であったり、
 シェーンブルン宮殿の一室であったり、
 楽友協会内の小ホールであったり、
 ウィーン市内の魅力ある場所を
 フル活用している感じ。

【ドレスコード】
 会場は宮殿の一室であったりしても、
 ドレスコードはゆるゆる。
 ジーパン、スニーカでもOKと言っている。

【料金】
 定価(?)はあってないようなもの。
 「通常はコレだが、夫婦2枚なら」とか
 「同じ値段でワンランク上の席に」とか
 「お得感」を強調した提案を
 次々としてくる。
 本気で買う気ならかなり交渉できそう。

というわけで、
これはこれでエンターテイメントとして
十分楽しめそうではあった。
実際に行ったわけではないので、
肝心な演奏の質まではわからないが。

 

我々夫婦はと言えば、
こういった客引きとは全く関係のない
別な演奏会を聴きに行くことにした。

目の前、
シュテファン大聖堂内で開催される
室内楽。

【夜の演奏会前の大聖堂内】

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ちょうどこちらの都合にハマった
一晩だけの演奏会だったとは言え、
メインの曲が
ヴィバルディの「四季」となっていたので
これもまた観光客向けのプログラムの
ひとつだったのだろう。

それでも、気分としては
「いい演奏を」というよりも、
大聖堂内で音楽がどう響くのか、
その響きの中に身を置いてみることを
最優先にしてみたかった。

音響的に言えば
残響がありすぎであろうことは
容易に想像できたが、
そういったことも承知のうえで、
現地ならではの空気感に
浸ってみたかったのだ。

【リラックスした気分で集まる聴衆】

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実際の演奏を聴いてみて、
その思いは充分満たされた。

残響が多いとはいえ、
頭のずーっと高いところに
響きが浮遊するように残る感じは、
天井の高い大聖堂ならでは、だ。

モーツァルトの結婚式の時は
どんな響きで満ちていたのだろう、
と考えるだけでも楽しい。

ちなみに演奏のほうは、
ビオラの方がほんとうにうまかった。

小さな合いの手的旋律を
実に丁寧に演奏していて、
彼が弾くと、音楽がそこで
キュッと引き締まると同時に
グッと深まる感じもして
なんともいえず心地よかった。

やはりプロはすごい。
そしてどんな環境であれ、
生の演奏はいい。

 

 

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2018年3月25日 (日)

オーストリア旅行記 (31) 新王宮

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オーストリア旅行記 (31) 新王宮

- 新王宮は未完成 -

 

ここで書いた
リンク通りの整備と共に建てられた
代表的建築物から
「ウィーン自然史博物館」
「ウィーン国立歌劇場」
「ウィーン楽友協会」
を紹介してきたが、通常であれば
まずはコレから
紹介すべきだったのかもしれない。

【新王宮】

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英雄広場と呼ばれる
正面の広場から見ると
円弧を描く曲線が美しい。
完成は1913年。

自然史博物館が1889年、
国立歌劇場が1869年、の完成なので
それらに比べるとずいぶん遅い。

ただ、その完成からわずか5年後、
1918年には
「ハプスブルグ君主国消滅」
という歴史が待っていた


というわけで、
写真の建物は完成したものの
このエリアの開発は
未完成で終わってしまっている。

のちに訪問した美術史博物館に
当初の古い計画図が展示してあった。

美術史博物館は写真が撮れたので
その計画図を示そう。

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この計画図に対して、
実際に完成したのはここだけ。
(Google mapの航空写真から)

Neueburg

右側円弧部分しか完成しておらず、
左側円弧部分は広場のまま。

それでも、迫力十分だ。

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前の騎馬像は、
オスマントルコ帝国による
ウィーン包囲時の救国の英雄
オイゲン公。

さすがに王宮においては
ハプスブルク家の紋章
「双頭の鷲」も存在感が大きい。

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オーストリア帝国の帝冠を持っている。

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「新」王宮は「旧」王宮に
隣接して建っているが
言うまでもなく、どちらもかつての
ハプスブルク家の居城だ。

 

今はその内部の一部が、
「博物館」として使われている。

つまり、コレクションだけでなく、
王宮の「建物」も一緒に楽しめる
贅沢な博物館というわけだ。

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ただ、王宮という
大きな建物の内部を区切って、
複数の博物館として利用しているため、
初めて訪問するビジターには、
目的地というか
入り口がどこになっているのかが、
かなりわかりにくい。

自然史博物館や美術史博物館と違って、
博物館と建物が一対一と
なっていないからだ。

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ちなみにこの新王宮の中には、
 (a)「エフェソス博物館」
 (b)「古楽器博物館」
 (c)「狩猟・武器博物館」
 (d)「民俗学博物館」
の4つのコレクション、博物館がある。

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広場を包み込むような雄大な建物だが、
この建物の中央バルコニー
そこで
1938年5月15日、アドルフ・ヒトラーが
「オーストリア併合」を宣言
している。

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そう言えば、
以前訪問したイタリア・ローマ、
その中心部にある
ヴェネツィア宮殿のバルコニーも、
1936年5月9日のイタリア帝国宣言をはじめ、
ムッソリーニが
広場に集まった大群衆に対して
数々の名演説を行った舞台となっていた。

どちらも今から約80年前。

バルコニーを見上げると
群衆へのダイレクトな肉声が持つ
強烈なパワーの片鱗が、
いまでもどこかに
残っているような気さえする。

 

建物自体は、
19世紀後半を象徴するような
「様式混在の建築」となっているが、
2階部分の柱も、
1階部分の石積みも、
見応え充分。

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彫刻も一体一体、力作揃いだ。

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新王宮の正面、英雄広場から、
隣接する旧王宮の一部
レオポルト宮を抜けた中庭には、
像を囲んだ小さな広場がある。

【フランツ二世像】

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広場中央にある像。

同一人物が
「神聖ローマ帝国
 最後の皇帝フランツ2世」
であり、
最初のオーストリア皇帝
 フランツ1世」
でもあるから混乱しやすい。

さらにさらに同じ人物が
「ハンガリー国王フェレンツ1世」
でもあり
「ベーメン国王フランティシェク2世」
でもあったというのだから、
いったいどう呼べばよかったのだか。

像の奥にはアマリエ宮がある。

【アマリエ宮】(写真右奥)

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完成は1611年。
皇帝ヨーゼフ1世の皇后アマリエが
1742年までここに住んでいたことから
アマリエ宮と呼ばれている。

その後、皇帝レオポルド2世、
フェルディナント1世、
エリザベート皇后や
最後の皇帝カール1世なども
住んでいた。

中央の初期バロック様式の塔の下には
月球儀と日時計を見ることができる。

 

【帝国宰相官房棟】(写真右側)

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フランツ2世像に向かって、
もう少し右に眼を遣ると、
この建物が大きく迫っている。

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旧王宮の一角となる
アマリエ宮と帝国宰相官房棟の
内部も一部
「シシィ博物館」と「皇帝の住居」として
一般公開されている。

「シシィ博物館」と
「皇帝の住居」については
回を改めて紹介したい。

 

 

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2018年3月11日 (日)

オーストリア旅行記 (29) ウィーン国立歌劇場(4)

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オーストリア旅行記 (29) ウィーン国立歌劇場(4)

- 国が支え続けているオペラ -

 

国立歌劇場のガイドツアー報告の4回目。

【ロイヤルボックスと応接間】

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皇帝も使っていた
ロイヤルボックスの応接間。

「今は記者会見の会場として
 使われたりもしています」
とガイドさん。

「この部屋は豪華ですが、
 時間貸しもしているんです」

「夜の二時間で約15万円」

「今度のお誕生会を
 ここでやってはいかがでしょう?」

 

部屋はドアの取手も象牙。

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ロイヤルボックスのほうに移ってみよう。
さすがに眺めはいい。

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【マーラーの間】

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グスタフ・マーラーは
1897年から1907年まで
歌劇場の総監督を務めた作曲家。

個人的には作曲家としてしか知らないが、
指揮者としても活躍していたようだ。

この広間は、音響もいいので、
演奏会やリハーサルに使われることも
あるとのこと。

ここで、こんな写真を目にした。
年に一度開催されるという大舞踏会の様子。

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舞台裏を案内された時、
舞台裏が50mもあるということに
驚いたが、この舞踏会では、
この50mをフル活用。

舞台と客席側を同じ高さにして
一体化

舞台裏、舞台、客席を繋げて
縦長の大きな一枚の床にし、
これだけの床面積を確保している。

夜10時からオープンニングセレモニー。
5500人が参加、朝5時まで続く
大イベントらしい。

 

【歌劇場正面2階のロビー】

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ここには、
ヘルベルト・フォン・カラヤン

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カール・ベーム

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といった、
歴代総監督の像も置かれている。

日本語でのガイドさんは、
小澤征爾さんが2002年から2010年まで
音楽監督を務めていたことも
忘れずにちゃんと添えてくれていた。

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ここで、歌劇場の総監督
音楽監督の代表的な方々と
劇場の大イベントを並べて
棒年表を作ってみよう。
(数字は生年と享年。
 色は60歳までは20年区切り)

Opera2

空襲で大破した歌劇場の
修復完成記念演奏会の指揮をしたのは
カール・ベーム。
この表を見ると、その時彼は
60歳くらいだったことがわかる。

マーラー、ワルター、
ベーム、カラヤン、マゼールと
10数年から20数年程度の差で並んでおり、
世代間の引継ぎが
順調に続いていることもわかる。

マゼール、アバド、小澤征爾は
ほぼ同世代で、
カラヤンと約20歳違いの
グループだということも。

それにしても、読者の皆様は
これをご覧になって
なにを思うだろう。

私が一番眼を奪われたのは
年齢差よりもなによりも
よく言われる
「指揮者は長生き」はほんとうだ
ということ。

棒を振る、というのは
よっぽど体にいいのだろう。

 

公演にはアーティストの他、
いわゆる裏方が約380人いて、
合計約1000人の人が関わっている。

ちなみに、年300回の公演をこなす
この歌劇場の年間予算は130億円。

チケットの売上でカバーできるのは
その約半分。

約半分は国家の税金から補助されている

なお、現在
ジェネラルスポンサーは、
トヨタのレクサス。
こんなりっぱなスポンサー表示が
劇場内通路にあった。

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国家からの補助については、

広瀬佳一、今井顕 編著
 ウィーン・オーストリアを
 知るための57章【第2版】
明石書店

にもこんな記述があった。
(以下水色部、本からの引用)

長年にわたる浪費の末に
国庫が潤渇し、
帝国の周囲は敵ばかり、
という状態にあった
マリア・テレジア女帝の時代でさえ
「オペラなしでは
 このような街に住めはしない」と、
年間15万グールデンという
多額な補助金が
国庫より支給されていた。

音楽芸術を手厚く庇護する伝統は
今日に至るまで続き、
1930年代の世界大恐慌の際でさえ、
オペラに対する
国庫補助金がとだえることはなかった

日本企業がスポンサーとして
一部を支えていることは嬉しい事実だが、
伝統的に国家がオペラを
 しっかりと支えているんです

という話には感嘆の声があがっていた。

 

以上で
ウィーン国立歌劇場ガイドツアーは終了。

実際のツアーは
トータルで40分ほどのものだったが
盛りだくさんで
おおいに楽しむことができた。

「次に来る時は、
 オペラを観に来なければ」
との強い思いと共に
ガイドさんに礼を言い、
劇場をあとにした。

 

 

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2018年3月 4日 (日)

オーストリア旅行記 (28) ウィーン国立歌劇場(3)

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オーストリア旅行記 (28) ウィーン国立歌劇場(3)

- 驚きの奥行きと建築家の悲しい運命 -

 

ウィーン国立歌劇場の
ガイドツアーの3回目。

いよいよ舞台裏だ。

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今は公演がないので、
ガランとしている。

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ここで一番驚いたが、
奥行きの説明。

幅が25mに対して
奥行きは、
本舞台と奥舞台合わせて
なんと50m!


客席の奥行きよりも、
舞台の奥行きの方が大きい。

そのうえ脇舞台まであるという。
上下動とスライドを組合せて
舞台が入れ替わる様子を
ぜひ見てみたいものだ。

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しかも、最初の説明にあった通り、
ここの公演プログラムは日替わり。
つまり舞台装置も毎日変わる。

リハーサルと本番と入替えを考えると、
スタッフの皆さんの忙しさは
相当なものだろう。

 

舞台裏の次に案内されたのは正面階段。
空襲による破壊を免れた貴重なエリアだ。

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劇場の階段とは思えない贅沢な空間。

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階段の左右の壁には
二枚の顔のレリーフがある。

この劇場を設計した二名の建築家、
ファン・デア・ニュルと
アウグスト・シカート・
フォン・ジカルツブルク。

P7158914s

P7158915s

いやま世界を代表する歌劇場なので、
建築家のふたりもレリーフとなって
自らの作品を
さぞや誇り高く眺めていることだろう、と
思いがちだが、
現実は正反対だったようだ。

なんとも悲しい物語。

ガイドツアーでも簡単に触れていたが、
下記の本を参考に
少し詳しくみてみたい。

参考図書は、

広瀬佳一、今井顕 編著
 ウィーン・オーストリアを
 知るための57章【第2版】
明石書店

(以下水色部、本からの引用)

コンペを勝ち抜いたこの壮大な建築物が
ウィーン市民の前に
初めてその姿を現したころ・・・

当初は
「ギリシャとゴシックと
 ルネッサンスの様式が入り乱れた、
 節操に欠けたデザイン」
と酷評されたのである


それに加え、
建築工事開始後になってから
劇場正面の大通りの地表面が
1メートルもかさ上げされることになり、
その結果この劇場は

「沈没した箱」
「建築文化の敗北」
「食べ過ぎて横たわっている
 象のように重い」

などとこきおろされた。

道路工事の不運があったにせよ、
その評判は散々だったようだ。

「沈没した箱」と評したのは
ときの皇帝フランツ・ヨーゼフ1世。

多くの酷評に
ふたりは最悪の事態を迎えてしまう。

これらフランツ・ヨーゼフ1世
(1830~1916年)はじめ、
建設省、新聞、建築家や
一般市民の非難の声に耐えきれず、
ファン・デア・ニュルは
1868年4月3日に56歳で自殺


同年6月11日には
ジカルツブルクも54歳にして
失意のどん底に力尽き、
両人とも建物の完成を待たずして
世を去ってしまった。

なんということだろう。

建築家のふたりは自殺と憤死。
建物の完成も、こけら落としの公演も
見ていない
のだ。

ふたりの死は、
皇帝フランツ・ヨーゼフ1世にも
影響を与えた。

この事件以来、
国王は何事に対しても
個人的な見解を発言するのは
控えるようになった
という。

外観の意匠が市民に理解され、
受け入れられるには長い時間が
必要だったようだ。

 

次に案内されたのは、

【大理石の間】

P7158916s

名前の通り
床もテーブルも壁の一部も大理石。

P7158921s

この空間に重厚な雰囲気はなく、
モダンで明るい。

幕間をシャンパン片手に寛ぐのに
ピッタリ。

P7158919s

壁には色違いの石を上手に組合せて
舞台裏やら楽器やら
歌劇場の日常が
じつにオシャレに描かれている。

P7158918s

今はがらんとした空間だが、
オペラの幕間で人が溢れている時、
ここはいったいどんな空気で
満たされていることだろう。

 

舞台の奥行きに驚き、
建築家の悲しい運命にしんみりし、
と感情の起伏が思いのほか大きい
歌劇場のガイドツアーだが、
ガイドさんの案内はまだまだ続く。

 

 

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2018年1月28日 (日)

オーストリア旅行記 (23) ウィーン リンク通り

(全体の目次はこちら


オーストリア旅行記 (23) ウィーン リンク通り

- 道幅の広い環状線はむかし -

 

ウィーン観光を始めるにあたって、
一番最初に
「リンク通り」に触れておきたい。

ドイツ語で
リンクシュトラーセ(Ringstraße)と
呼ばれるこの通りは、その名の通り
一周約5kmの環状線となっており、
ウィーン旧市街を取り囲んでいる。

Google mapを借りて
黄色の線で書き込んでみた。

Rings1

この環状線、道幅が
たいへん広いことも特徴のひとつ。

P7179523s

自動車用の車線数が多いだけでなく、
トラムの線路や
広い歩道なども確保されている。

P7179630s

さらにこの道、
道沿いに並ぶ建築物がすごい!

P7179662s

何が並んでいて、どうすごいのかは、
この旅行記の中で
順次紹介して行きたいと思うが、
今お伝えしたいのは、
幅の広い広い道路が
旧市街をリング状に取り囲んでおり
その道路沿いに、見事な建築物が
数多く並んでいるという事実


どうしてそんな道路があるのか?
なぜ環状なのか?

ちょっと時代を遡(さかのぼ)って
話をスタートしたい。

参考図書は、

広瀬佳一、今井顕 編著
 ウィーン・オーストリアを
 知るための57章【第2版】
明石書店

(以下水色部、本からの引用)

 

【堅固な市壁で守られていたウィーン】

中世の市壁はここで本格的な
稜堡(バスタイ)として整備され、
さらにその周囲には、
外部からの砲撃に備えて、
斜堤(グラシ)と呼ばれる
広大な空閑地が巡らされたのである。

 周囲を強固な防壁で固めた
このウィーンの都市形態は、
ハプスブルク帝国の
特殊な政治的・軍事的事情によって、
異民族侵入の危機が去った18世紀から、
さらに19世紀に入っても、
ほとんど変化をみなかった。

中世、
堅固な市壁に守られていたウィーン。

突き出した角(稜堡)を持つ市壁と、
その先に広がる広大な空閑地(斜堤)は、
この古い図を見るとよくわかる。

Ringsor

古い都市構造のままのウィーン。
近代化に向けて動き出した他の首都に
19世紀初頭、完全に遅れを取っていた。

【遅れていた都市改革】

ロンドンやパリなど、
他のヨーロッパ列強国の首都が、
19世紀初頭にはすでに都市近代化の
第一段階を通過していたのに対し、
ウィーンではいまだに
中世以来の都市構造が
保持されたのである。

外敵防備のための堅固な市壁は、
重火器の発達によって防壁としては
もはや役に立たなくなっていた。
なので、残ってはいたものの
18世紀には
すでに姿を変えていたようだ。

【公園となっていた市壁】

もはや
実際的な機能を果たさなくなっていた
稜堡(バスタイ)や斜堤(グラシ)は、
18世紀、ヨーゼフ2世によって
植樹が施され、
遊歩道や公園施設として開放された


こうして、
北イタリアからポーランドに至る
広大な領土を誇った帝国の首都は、
(中略)
19世紀前半には、緑地に囲まれた
のどかな田園牧歌的雰囲気で
人々を魅了していた。

しかし、この田園都市の
アナクロニズム(時代錯誤)は、
多くの弊害を生み出していた。

【都市の成長を妨害する市壁】

18世紀には市内の人口が25万から
30万人に達していたのに対し、
市壁と斜堤がこの人口増大に
見合った都市の面積拡大を妨げていた。

市壁内では
建蔽(けんぺい)率が90%を超え、
住環境が次第に悪化するなかで、
政府の指導で商工業者などを
防御施設の外側に移住させる施策が
とられたため、
都市は、幅約500メートルの斜堤を
ドーナツ状に残したまま
その外側に拡大する
という、
きわめて不自然な形態を
とるようになった。

たった8つの門のみで
外の世界と繋がっている
分厚い市壁に囲まれた
都市ウィーンは、しばしば、
石の衣をまとった女神の姿に
たとえられていた。

 

その女神が、
重く古めかしい装束を
一挙に脱ぎ捨てる時が
19世紀半ば、ようやく到来する。

【石の衣を脱ぎ捨てる女神】

1848年、3月革命を抑えて即位した皇帝、
フランツ・ヨーゼフは、
自由主義的な方向を打ち出す
若手官僚グループが取り上げた
都市拡張計画に対して、
深い理解と関心を示していた。

2度にわたるナポレオン軍の侵攻や
3月革命における都市騒乱の体験から
市壁撤去に猛反対する軍幹部を、
最後には減俸をもって脅しつけ、
皇帝は、1857年のクリスマスの朝、
新聞の官報欄に、
都市計画導入を命じる
親書の全文を掲載
させた。

25日付の「ウィーン新聞」の
一面に掲載された皇帝の言葉。
外壁を取り壊してそこを道路とし、
壁の内と外を融合していく
という
ウィーン市の拡張計画が公になった瞬間だ。

【1857年のクリスマス・プレセント】

都心部の住環境悪化に
悩んだ住民たちは、
これを、皇帝からの
「素晴らしい
 クリスマス・プレゼント」として、
狂喜したという。

 ここに開始された
都市拡張計画の概要は、
かつての斜堤の中央部に、
都市をぐるりと囲む形で
全長約4キロメートルの現状道路
(リンクシュトラーセ)を敷設
し、
その両側に構築される
新市街区によって、
旧市街と郊外部を
効果的に連結するというものであった。

18歳の若さで即位した皇帝が、
27歳の時にした決断。
今から約160年前のこと。

日本史で言うと明治維新の約10年前。
まさに幕末。

 

この日から、約半世紀にわたる
リンク通りの整備が本格的に開始される。

と言うわけで
道路が環状なのは市壁の跡地だから

その跡地に建設された道路と建築物は、
都市計画の観点からも、
見逃せない成果を生み出していく。

ルネッサンス様式、バロック様式、
ギリシャ様式、ネオゴシック様式
などの建築物が次々と登場。

市壁で分断されていた
旧市街部と郊外部が
道路と魅力的な新しい建築物によって
統合
されていく。

今のウィーンを見るときに、
ぜひ知っておきたい歴史のひとつだ。

 

 

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2018年1月21日 (日)

オーストリア旅行記 (22) 鉄道を通しての深い関係

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オーストリア旅行記 (22) 鉄道を通しての深い関係

- 日本の鉄道の守護神? -

 

ウィーンへの電車の乗り換え時、
アットナング・プッハイム
(Attnang-Puchheim)駅で
特急列車railjetの車両を見ると、
妙にいろいろな数字が書かれている。

P7148715s

意味を表すと思われる
簡単なアイコンや文字も添えてあるので、
こういう意味なのかなぁ、と
想像できるものもあるが
正確なところはわからない。

文字と数字の部分だけを切り取って
並べてみた。
ある「一両」に、これらの文字列が
ズラーっと一列に並んでいる。

P7148716_5all_s

帰ってから検索すれば記述内容を
解説してくれているページくらいは
簡単に見つかるだろう、と
気軽に考えていたのだが、
そもそも鉄道マニアでもなんでもない
ズブの素人が、いざ探そうとすると
どういう言葉で検索すればいいのか、が
さっぱりわからない。

エイヤ、のいいかげんな検索では
全くヒットしない。

ドイツ語かつ
適切な単語で検索すれば、きっと
いいページはあると思うのだけれど。

R150mというのは最小曲線半径だろうか?
重量(t)であったり、長さ(m)であったり、
車両の仕様に関連する数字であることは
間違いないと思うのだが。

日本でも車両に
文字や数字を見かけることはある。
でも、「クハ」や「モハ」などの
短い文字列と数桁の数字、
重量(t:トン)や定員など、
簡単な記述しか見た覚えがない。
情報量がぜんぜん違う気がする。

 

上記数字の意味の回答ではないが、
そう言えば、
オーストリアの鉄道関連で
下記の本に、
ちょっと興味深いことが書いてあった。

あまり知られていない
オーストリアと日本の関係。

少し紹介したい。

広瀬佳一、今井顕 編著
 ウィーン・オーストリアを
 知るための57章【第2版】
明石書店

(以下水色部、本からの引用)

 

ここで、オーストリアから
日本が輸入している商品および
将来的に期待される
品目の具体例を述べる。

意外と知られていないが、
日本が長年輸入している
鉄道用保線車”がある。

日本の新幹線は、
1964(昭和39)年運転開始以来、
技術的欠陥による人身事故を
一度も引き起こさずに
走り続けているが、

その軌道や架線を監視する
保線車のほとんどが
オーストリア製である


JRのみならず、
日本の多くの私鉄にも
この保線車が納入されている。

この保線車は、
ドイツ・インターシティ、
フランス・TGV、
スペイン・AVEなど
世界的に有名な高速鉄道の
補修を引き受けているのである。

納入実績からみると、
ドイツ、アメリカ、イギリスに次いで
日本は4番目であるが、
数億円もする保線車が
すでに約600台以上納入されている。


このオーストリアの保線車こそ、
乗客がいなくなった
真夜中にこっそりと、
翌日の来客の安全を守るために
線路をみてまわる、
まさに日本の鉄道の
守護神ともいえる存在

(略)

日本の鉄道を守る保線車が、
600台以上もオーストリアから
輸入されていたとは。

保線車を目にする機会はあまりないが、
車両を見れば
オーストリアから来たことは
簡単にわかるのだろうか?
今度目にする機会があれば、
ちょっと注意して見てみよう。

 

アットナング・プッハイム駅から
特急列車railjetに乗換えて一本、
ついにウィーン中央駅に到着した。

P7148717s

正確には、旅行の初日、
空港からザルツブルクに行くときに
通過しているので、
4泊して戻ってきた、とも言える。

ここも、近代的できれいな駅だ。

軽くお昼を食べようと、
様々な種類のパンが並んでいる
ANKERというチェーン店のパン屋さんで
こんなサンドを食べてみた。

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パンもハムも野菜もチーズも
どれもおいしくて大満足。

ここでは、
「Detox Wasser」という
未経験の飲み物を目にしたので、
それにトライしてみることにした。
写真中央にあるボトル。
Detox水?「解毒水」ってこと?

「新鮮なキュウリとレモンと共に」
と書いてある。

味のほうは、見た目通り、
キュウリとレモンの入ったただの水。
甘くはない。
キュウリとレモンの香りがあるので、
さわやかで飲みやすいが、
それでDetoxとはちょっと大袈裟かも?

食後、
中央駅のインフォメーションセンタで
ウィーンの情報を得て、
その後、地下鉄に二駅だけ乗って、
予約していたホテルを目指した。

地下鉄にあった優先席表示はこんな感じ。

P7148727s

妊婦、子連れ、体の不自由な人、老人
やはり絵はわかりやすい。
ドイツ語が読めなくても理解できる。

ホテルにチェックイン。
荷物を置いて身軽になって、
さぁて、
いよいよウィーン観光のスタートだ。

 

 

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2018年1月14日 (日)

オーストリア旅行記 (21) 森林先進国オーストリア

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オーストリア旅行記 (21) 森林先進国オーストリア

- 林業を「かっこいい仕事」にした秘密 -

 

ウィーン行の電車を待っていた
アットナング・プッハイム
(Attnang-Puchheim)駅。

P7148713s

ホームからはこんな列車が見える。
日本では見ることが少なくなった、
貨物列車かつ裸の材木。

P7148714s

そう言えば、旅行の初日、
ウィーンからザルツブルクに
向かう電車の窓からも
こんな景色を見ていた。

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ハルシュタットのハイキングで
偶然目にしたのも、住宅街の中に
大量にストックされた薪(まき)だった。

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生の材木や薪を見て
思い出した本はコレ。

藻谷浩介、NHK広島取材班(著)
里山資本主義
角川oneテーマ21新書

(以下水色部は本からの引用)

 

オーストリアの林業について
興味深い記述があったのだ。

引用が長くなってしまいそうだが
文字ばかりではつまらないので
花の写真を挿入しながら書いていきたい。

写真はすべて、ハルシュタットで
ハイキングをしながら撮ったもの。

P7138533s


マネーの嵐が吹きすさぶ
ヨーロッパのど真ん中に、その影響を
最小限に食い止めている国がある。

それがオーストリアだ。

オーストリアと言われて
何を思い浮かべるだろうか。

モーツァルトやシューベルを生んだ
音楽の国?
ザッハトルテに代表される
チョコレートの国?

いやいや、実は
それだけではないのである。

経済の世界でも、オーストリアは
実に安定した健康優良国
なのだ。

それは数々の指標が物語っている。

ジェトロが公表している
データ(2011)によれば、

失業率は、EU加盟国中最低の4.2%、
一人当たりの名目GDP(国内総生産)は
4万9688米ドルで世界11位(日本は17位)

対内直接投資額は、2011年に
前年比3.2倍の101億6300万ユーロ、
対外直接投資額も
3.8倍の219億500万ユーロと、

対内・対外ともに
リーマンショック直前の水準まで回復した。

では、なぜ人口1000万に満たない
小さな国・オーストリアの経済が
これほどまでに安定しているのか?

その秘密こそ、里山資本主義なのだ。

オーストリアは、
前章にみた岡山県真庭市のように、
木を徹底活用して
経済の自立を目指す取り組みを、
国をあげて行っているのである

ひとりあたりの名目GDPは
オーストリアが世界11位で、
日本は17位。
日本の方が下位なのだ。

P7138535s


国土はちょうど北海道と
同じくらいの大きさで、
森林面積でいうと、
日本の約15%
にすぎないが、
日本全国で一年間に生産する量よりも
多少多いぐらいの丸太を生産している


知られざる森林先進国
オーストリアの秘密を探っていこう。

 オーストリアの人々は、
最も身近な資源である木を
大切にして暮らしている。

 

まずは、森林先進国の基盤をなす、
山林所有者への教育を見てみてよう。

P7138536s<


【山林所有者への教育】

山の中で行われる授業に同行した。

授業中、
先生たちが口を酸っぱくするのが、
林業は短期の利益を追求するのではなく、
持続可能な豊かさを
追求しなければならないという理念
だ。

この研修所では、
50年間手入れせず放置し続けた区画と、
そのすぐ隣に間伐などによって
人の手を入れ続けた区画を用意。

生徒たちに見比べさせ、
健康な森林がいかに美しく、
木もまっすぐ立派に育つのかを
実感させる。

そして、どの木を切っていいのか、
どの木はまだ切るべきでないのか、
先生と生徒が議論しながら学んでいく。

「森を持つなら、手入れを
 しっかり行わなければならない。
 手入れされることによって、
 森は健康であり続ける。

 それによって、
 これからもずっと守られるんだ。
 これがオーストリアの
 林業の哲学なんだ」

 日本では、
お金にならない多くの山林が、
間伐されることもなく
放置されている。

これに対し、オーストリアでは、
山林所有者に森を
すみずみまで管理することを
義務づけている。

P7138537s


【林業従事者は3K?】

 それにしても、
日本では林業従事者というと、
危険、きつい、汚いといった、
いわゆる3Kのイメージがあるが、
オーストリアではどうなのだろうか


 実はオーストリアでも、
20~30年前くらいまでは、
林業はきついのにお金にならないと
認識されていたらしい。

しかし今は、
この認識は大きく改善された
という。

その理由を、森林研修所の所長、
ヨハン・ツェッシャーさんは三点
挙げている。

P7138541s


【3K改善の理由 その1】

第一に、なにより林業従事者の
作業環境が安全になった。

林業に従事する者は
みんな教育を受けることが
義務づけられたため、
学ぶ機会が増え、安全に対する意識が
飛躍的に高まった

P7138544s


【3K改善の理由 その2】

二点目は、
山を所有する森林農家が、
森林および林業というものが、
ちゃんとお金になる産業である
認識するようになった。

そして、それは、
きちんとした林業教育を
受ければ受けるほど、
経済的に成功できるということも。

そうした状況を
後押ししているのが
バイオマス利用の爆発的な発展だ。

これによって、
森林に新たな経済的な
付加価値ができたのだ。

逆に言えば、森林所有者が
森林に関わる動機付けが、
大きくなった。

P7138546s


【3K改善の理由 その3】

三点目として、
「これはとても重要なことだが」と
前置きして所長が強調したのは、
林業という仕事の中身が
大きく変わった
ことだという。

”高度で専門的な知識が求められる
 かっこいい仕事”
になった。

今のご時世、
ただ山の木を切っていればいいという
時代ではない。
林業に従事する以上、
経済に関することも
知っていなければいけないし、
生態系に関する知識も
なければいけない。

さらには、
最新のテクノロジーも
知る必要がある。

その一方で、林業という仕事が
体系化されるにつれて、
同僚や会社と協力しながら
仕事をする必要も高まってきた。

社会的能力も
必要とされるようにもなったのだ。

そういう風に、高度な専門性を持つ
職業に対する金銭的な対価が、
昔に比べて上昇するのは当然だろう。

林業という職業は
とてもエキサイティングな
ものになった。

P7138551s


誤解を恐れずにまとめてしまうと
林業を
(1) 安全な作業環境に
(2) 経済的に成功できる産業に
(3) 社会的に「かっこいい仕事」に
変化させることを
教育で実現しているわけだ。

税金を投入し、経済的に援助することが
産業を「保護」することではない。
我が国の林業再生に向けても
学ぶところは多い。

P7148688s


完全に話が横道に逸れてしまった。
次回はまた、
旅行記の方に戻って続けていきたい。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2018年1月 7日 (日)

オーストリア旅行記 (20) さようならハルシュタット

(全体の目次はこちら


オーストリア旅行記 (20) さようならハルシュタット

- 観光地は独英中韓の四言語 -

 

2018年も明けてもう一週間。
今年最初のアップです。
本年もよろしくお願いします。

前回の続きから始めたいと思います。

 

ハルシュタット、最後の朝。
気持ち良い朝日が
朝食のレストランに降り注いでいる。

P7148622s

湖の向こう岸には
赤い車両の電車が走っている。

渡し船も小さく見えるが、
湖面が静かで反射が美しい。

P7148635s

朝食を食べてチェックアウト。

いよいよ
ハルシュタットともお別れだ。

P7148653s

名残惜しさゆえ、最後に
世界遺産「ハルシュタット」で
撮った写真から二枚だけ選んで
もう一度貼っておきたい。
(次の2枚のみ、
 クリックすると通常よりも
 大きなサイズで表示されます)

P7128218as

PCからの方は、ぜひクリックしてご覧あれ。

P7148639as

 

ところでここに2泊する間、
出遭った日本人は
遊覧船での母娘ふたりだけだった。

ザルツブルクでも、
見かけるには見かけたが、
気がついた範囲では数人レベル。

サウンド・オブ・ミュージックツアーの
約60人のバスの中にも、
我々夫婦以外にはひとりもいなかった。

個人旅行で気ままに動いているせいか、
ツアーの団体さんとは出遭っていないし、
もちろん実数もわからないが、
それにしたって
ハルシュタットもザルツブルクも
どちらも世界遺産になっている
大観光地だ。

バブリーなころ
「どこに行っても必ずいる日本人」と
やや揶揄されるように言われていたことは
「今は昔」なのだろうか。

そう言えば、
ハルシュタットの町中にある掲示板も
ドイツ語、英語、中国語、韓国語
の4言語で書いてあり
そこに日本語はなかった。

P7148629s

今回、
「あっ、東洋系の人だ」と思っても
家族連れなら中国人、
若いカップルなら韓国人、
ということが圧倒的に多い。

観光地の掲示板は、
そのあたりの訪問者数を
敏感に反映しているのかもしれない。
(ごみ捨てに関する注意よりも前、
 一番最初に
 ドローンに関する注意書きがあるのも、
 反映の感度を表している気がする)

 

もうひとつ、
町で目にして気になったものを。

一般車両を規制しているほどの
狭い町中、
清掃車も実にコンパクトで、
小回りのきくものだった。

P7148640s

 

閑話休題。

そう、ハルシュタットとのお別れだ。

来たときと同様、渡し船に乗って

P7148658s

美しい景色との別れを惜しみながら

P7148671s

対岸の駅下を目指した。

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船を下りてから、駅まではすぐ。
まさに直結

P7148689s

本数が多いわけではないせいか、
無人駅にわりと多くの人が待つ。

P7148693s

ほぼ定刻に電車がやってきた。

P7148695s

乗車した直後、幸か不幸か天気が急転。
一気に雨になってしまった。

来る時には、帰りの途中下車も考えていた
バート・イシュルやトラウン湖は、
雨のためそのまま通過。
残念だが、次回のお楽しみとしよう。

ザルツブルクから来た時に乗換えた、
アットナング・プッハイム
(Attnang-Puchheim)駅に到着。

今度はウィーン方面に向けて乗換えだ。

P7148710s

ウィーン行の電車を待っている際、
アットナング・プッハイム駅には
こんな列車が停まっていた。

P7148713s

日本では見かけることが少なくなった
貨物列車かつ裸の材木。

それを見ていたら
急に前に読んだ本のことが蘇ってきた。

次回は、その話から始めたい。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

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