社会

2022年6月12日 (日)

大島小太郎と竹内明太郎

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大島小太郎と竹内明太郎

- 唐津への関心を一気に高めた一文 -

 

佐賀県・唐津市観光。
旧高取邸に続いて立ち寄ったのが
大島小太郎の旧宅、旧大島邸

P5011770s

案内板に次のような説明がある。

大島小太郎の旧宅

大島小太郎は、
唐津藩士、大島興義(おきよし)の
長男として唐津城内に生まれました。

唐津藩の英語学校、
耐恒寮(たいこうりょう)において、
東京駅を設計した
辰野金吾(たつのきんご)
同じく著名な建築家である
曽禰達蔵(そねたつぞう)らとともに、
後の蔵相、首相を務めた
高橋是清の薫陶を受け、
明治18年(1885)には
佐賀銀行の前進となる
唐津銀行を創立しました。

この一文を読んでから
私の唐津への関心は一気に高まった。
まさに知らなかった歴史との出会い。
これは調べねば。整理せねば。
というわけで、本件については
のちほど改めて書きたいと思う。

まずは大島邸をゆっくり見て回ろう。
建物は純和風で、
畳と襖(ふすま)が美しい。

P5011775s


華美ではないが、
さすが実業家の邸宅。
廊下にはこんな説明が。
「床は一本松で出来ています」
一枚板の長さに驚く。

P5011774s

大島小太郎は、
* 唐津銀行を創立したが、
その後も、
* 鉄道(現在のJR筑肥線)の敷設
* 道路の敷設
* 市街地の電化
* 唐津湾の整備
など、唐津の近代化に大きく貢献した。

P5011778s

 

この邸宅、実は移築されたもので、
現在、旧大島邸の建っている場所には 
(1886年-1922年の36年間)竹内明太郎
住んでいた。
つまり現旧大島邸は、
竹内明太郎邸跡とも言える。

この竹内明太郎も多くの業績を残している。
明太郎の父 綱(つな)は、前回書いた
高取伊好(これよし)とも関係が深い。

1885年:明太郎の父 綱(つな)は
    高取伊好とともに
    芳ノ谷炭鉱の経営権を取得。

1886年:経営を任された明太郎が
    (土佐藩宿毛領から)唐津に赴任。
    最新鋭の鉱山建設に着手。

1909年:唐津市妙見に
    「芳ノ谷炭鉱唐津鉄工所
     (現唐津プレシジョン)」新設
    我が国を代表する
    精密機械工場のひとつに。

P5011779s

他にも
* 早稲田大学理工学部 設立
* 私立高知工業高校(現高知県立工業高校)
  設立

* 小松鉄工所(現小松製作所)設立

* 田健治郎(九州炭鉱汽船社長)
  青山禄郎とともに、
  国産第一号自動車DAT自動車を開発した
  快進社(のちのダットサン、
  日産自動車の前進のひとつ)を支援。
  ダットサンのDATは
  田(でん)、青山、竹内のイニシャルから。

などなど唐津に留まらない広い範囲で
大きな足跡を残している。

 

次回からは、最初の案内文にあった
高橋是清、辰野金吾、曽禰達蔵の
3人について書いていきたいと思う。

 

 

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2022年5月15日 (日)

『違和感ワンダーランド』の読後感

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『違和感ワンダーランド』の読後感

- 意外なところに歴史書が -

 

毎日新聞「日曜くらぶ」に連載されていた
松尾貴史さんのコラムは、
2020年7月19日から2021年11月7日までの
掲載分が纏められて

 松尾貴史 (著)
 違和感ワンダーランド
 毎日新聞出版
(以下水色部、本からの引用)

という一冊の本になっている。

この本、松尾さんが日々のニュースに触れて

「何かおかしい」と感じたことを、
表明したり、可視化したり

した本だが、
単なる疑問点やグチやツッコミを
並べただけの本ではない。

かと言って、
専門的な知識や特別なウラ情報が
公開されている、というわけでもない。

そんな本が独特な読後感を生み出している。
それはいったいどこから来るのだろう?

 

例として東京五輪開催の件を
扱った記事を見てみたい。

下記、箇条書き(*)の項目の選択は
私の編集だが、(*)に続く各一文は、
松尾さんのセンテンスのままなので
引用の水色を使って書くと、

*東京オリンピック・パラリンピックの
 開会式で楽曲を担当することに
 なっていたミュージシャンが、
 小学生から高校生にかけての時代に
 障害を持つ同級生たちを
 虐待していたことが
 広く大きな反発を呼ぶことになり、
 7月19日に辞任した。

*安倍晋三前首相による
 「アンダーコントロール」という
 虚偽の招致演説。

*「復興五輪」という
 虚飾によるミスリード。

*「世界一カネのかからない五輪」
 (当時の猪瀬直樹・東京都知事)と
 言いながら一時は3兆円の声も
 上がったインチキな予算。

*故ザハ・ハディド氏による
 新国立競技場の
 設計変更に至るもめ事。
 設計者の変更もさらに予算が
 かかる結果に。

*長時間労働による作業員の過労自殺。
 その方も含め五輪の建設現場で
 作業員が4人死亡。

*エンブレムのデザイン盗作疑惑問題。

*招致活動での買収疑惑と
 フランス当局からの事情聴取。

*不正はないと言いながらの
 日本オリンピック委員会(JOC)会長
 退任表明。

*マラソンなどのコース変更

*トライアスロン会場の水質汚染問題。

*開幕まで半年を切ったタイミングでの
 大会組織委員会の森喜朗会長の
 女性蔑視発言とそれによる辞任。

*その不透明な後継者選びでの
 川淵三郎氏の辞退。

*野村萬斎氏ら7人の
 開会式・閉会式の演出チーム解散。

*募集した大会ボランティアの
 待遇の劣悪さ。

*開閉会式の総合統括を務める
 クリエーティブディレクターの
 女性タレントの容姿を侮辱するような
 演出案問題。

*一般人と分けるはずの
 動線が交わっているなど、
 ずさんなバブル方式の数々の問題点。

*自殺とみられるJOC経理部長の
 電車事故死。

*新型コロナウイルス感染拡大で
 開催地東京での4回もの
 緊急事態宣言発出。

*行動制限されていたはずの
 ウガンダの選手の失踪事件。

*緊急事態言下での迎賓館を使っての
 国際オリンピック委員会(IOC)
 バッハ会長をもてなす
 非公開パーティーの開催。

*コロナ禍で交通量が減っていて、
 さらに無観客なのに
 首都高速道路が料金上乗せで
 一般道大渋滞。

*茨城県の子供たちを
 サッカースタジアムに動員して
 観戦させようとする
 意味不明な対応に、
 「持ち込む飲み物は
 スポンサー企業のものにせよ」と
 通知する忖度。

*で挙げたものだけでも20項目以上。
どれも記憶に新しい今(2022年5月)時点で
読めば
「そうそう、そんなことあったよね」
というよく知られた案件ばかりだ。

でも、もし、数年後、または数十年後、
「東京五輪開催にあたって
 どんな問題があったのか?」
を調べたようとしたとき、
これらの問題をこうした簡潔な羅列で
知る方法がなにかあるだろうか?


もちろん、数年分の新聞を読み返せば、
または検索をかければ、
各項目自体をピックアップすることは
可能だろう。
しかし
「東京五輪」や「オリンピック」といった
検索ワードで見つかる記事の数は
膨大なはずで、その整理と全体像の把握は
容易ではないはずだ。

松尾さんの記事は、
ニュースとしての事実部分と
「何かおかしい」と思う松尾さんの
感情部分とを
ちゃんと分けて記述している。

そして、事実部分については、
簡潔にかつ正確に記そうという
松尾さんの気遣いがよく伝わってくる。

上はオリンピックに関する部分だが
たとえば、政治家が口にした言葉なども
印象ではなく、実際の発言にもとづいて
正確に記述、引用している。

ちょっと大げさに言えばニュースに関しては
2020年7月から2021年11月までの
歴史書的要素があるのだ。

独特な読後感は
どうもこのあたりに起因する気がする。

期せずして現代史のテキストを
発見したような不思議な気分だ。

 

 

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2022年5月 8日 (日)

「私はきれいなゴミを作っている」

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「私はきれいなゴミを作っている」

- 生産者も消費者も双方が変わることで -

 

スクラップブックをめくっていたら

朝日新聞の2021年12月3日「ひと」欄
で紹介されていた
エチオピアで人と環境にやさしい
 バッグをつくる起業家
 鮫島弘子さん

の記事が目に留まった。
(以下水色部、記事からの引用)

鮫島さんは、
羊の革を使ったバッグブランド
「anduamet(アンドゥ・アメット)」
を設立し、
代表兼デザイナーとして
活躍しているという。

使うのは食肉の副産物で、
環境対策をした工場でなめされた皮だけ。

元ストリートチルドレンや
読み書きできない人を雇い、
忍耐強く20人の職人を育ててきた。

原点は、
デザイナーとして働いた
化粧品会社で感じた疑問だという。

美術専門学校を出たばかりで
仕事は面白かったが、
新製品を出すたびに
大量の商品が廃棄された。

私はきれいなゴミを作っている

そう思った鮫島さんは、
化粧品会社を3年で辞め、
青年海外協力隊に応募。
派遣先のエチオピアで羊革と
出会い、その後、エチオピアに渡って
起業することになったという。

「私はきれいなゴミを作っている」
なんとも悲しい、虚しい言葉ではないか。

化粧品に限らない。
衣料品も食料品も
大量廃棄の問題はほんとうによく耳にする。

もちろん、たとえば
新商品ブランドの確立と
拡販を目的にした旧商品の廃棄と
食料品の廃棄は
そもそもその理由が全く違うものだが
結果として
「きれいなゴミ」を
大量に発生させていることは同じだ。

どんな理由であれ
「私はきれいなゴミを作っている」では
働く側のモチベーションが
上がるはずはない。

以前「売り切れ」程度は我慢しようなる副題で
食料品廃棄の話を書いたが、
ゴミを出さないためには
生産者側もそして消費者側も
大きく意識を変えていく必要がある。

価値観の変換と同時に
双方ちょっとの「我慢」が
キーワードだろう。

誰だって、あるときは生産者であり、
またあるときは消費者なのだから。

作る人も使う人も
みんなが幸せになるブランド目指す。

ことは可能なはずだ。

 

 

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2022年4月10日 (日)

AI・ビッグデータの罠 (3)

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AI・ビッグデータの罠 (3)

- 「規模拡大が格差拡大を助長」 -

 

キャシー・オニール (著)
 久保尚子 (翻訳)
あなたを支配し、社会を破壊する、
AI・ビッグデータの罠
インターシフト

(以下水色部、本からの引用)

を読んで、
現在社会で使われている
AI・ビッグデータを利用した
システムが持つ問題点を学ぶ3回目。

 * 「エラーフィードバックがない」
 * 「類は友を呼ぶ、のか」

に続くキーワードは、

keyword_3「規模拡大が格差拡大を助長」

 

これまでの記事でも書いた通り、本には
数学破壊兵器による破壊の状況が
いくつも並べられている。

効率性と公平性を謳いながら、
その陰で、高等教育を歪め、
人々を借金に駆り立て、
大量投獄に拍車をかけ、
人生の節目ごとに貧しい人々を苦しめ、
民主主義の土台を蝕んでいる

この現状を変えるには、
数学破壊兵器の一つひとつに対処し、
順に武装解除していくしかないように
思われる。

仮に各システムに問題があったとしても、
なぜ「民主主義の土台を蝕んでいる」
とまで表現されるほど、絶望的な状況に
なってしまうのであろう。


一般に、
特権階級の人ほど対面で評価され、
庶民は機械的に評価される

という面があることも関係している。

この「機械的に」に
数学破壊兵器が利用されることが
多くなっているからだ。

そのうえ、デジタルであったり
ネットワーク環境であったりという
システムの基盤自体が
より問題を大きくしている。

問題は、これらの数学破壊兵器が
互いに絡み合い、
補強し合っていること
だ。

貧しい人々ほど、
クレジットの状況は悪く、
犯罪の多い区域で
自分と同じように貧しい人々に
囲まれて暮していることが多い。

その事実を示すデータが
数学破壊兵器の暗黒世界に
一度でも流れれば

低所得層向けサブプライムローンや
営利大学の略奪型広告に
追い回されるようになる。

システム間の補強が、つまり
システム間でのデータの流用や共用が
どうしてそんなに簡単に
許されてしまっているのか、の疑問は
本文を読んでも解決されないのだが、
元データがデジタル化されている以上
どんな理由であれ
管理面での制限がはずれてしまえば
システム間での流用や共用は
技術的には簡単だ。

警官による警備が強化され、
すきあらば逮捕されるようになる。

有罪判決を受けることになれば、
刑期は通常より長くなる。

これらの情報は、さらに
別の数学破壊兵器へと引き渡される。

1つ目の数学破壊兵器で
不利な状況に追いやられた人々は、
別の数学破壊兵器でも
高リスクと評価され、
標的にされやすくなり、
就職の機会を奪われるようになる


こうなると、
住宅ローンや自動車ローンなど、
あらゆる種類の保険で
金利が跳ね上がる。

すると、
クレジットの格付けは一層低下し、
モデリングによる
死のスパイラルから抜け出せなくなる。

つまり、数学破壊兵器の世界では、
人々は貧困であるがゆえに、
ますます危険で
お金のかかる生活に
追いやられていくようになる。

システムの「規模拡大」が
格差をさらに拡大する
「死のスパイラル」を生み出してしまう。

 

ビッグデータは過去を成文化する。
ビッグデータから未来は生まれない。
未来を創るには、
モラルのある想像力が必要であり、
そのような力をもつのは
人間だけだ


私たちはアルゴリズムに、
より良い価値観を明確に組み込み、
私たちの倫理的な導きに従う
ビッグデータモデルを
作り上げなければならない。

それは、場合によっては
利益よりも公平性を優先させる
ということでもある。

* データを使って
  何をしようとしているのか?
* 使おうとしているデータは
  対象を正しく表現したものなのか?
* システムのアウトプットは
  間違っていなかったのか?
* 安易に他のシステムのデータを
  使おうとはしていないか?

極めて初歩的な内容への
フィードバックでさえ
暴走を始めたシステムでは、
「効率・利益」という名のもとに
どれも機能しなくなっているようだ。

それを修正できるのは技術ではない。

 

おまけ:
本書は米国社会をベースに書かれているが、
本文に何度も登場する「営利大学」の話、
妙に気になってしまった。
「教育の機会」という大義名分を隠れ蓑に
(AI・ビッグデータを使った
 「システムの問題」とは別に)
「学資ローン」と「大学」の間には
大きな大きな問題があるようだ。

 

 

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2022年4月 3日 (日)

AI・ビッグデータの罠 (2)

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AI・ビッグデータの罠 (2)

- 「類は友を呼ぶ、のか」 -

 

キャシー・オニール (著)
 久保尚子 (翻訳)
あなたを支配し、社会を破壊する、
AI・ビッグデータの罠
インターシフト

(以下水色部、本からの引用)

を読みながら、
今、社会で使われている
AI・ビッグデータを利用した
システムが持つ問題点を学ぶ2回目。

前回書いた、
 * 「エラーフィードバックがない」
に続くキーワードは、

keyword_2「類は友を呼ぶ、のか」

 

システムが導入される前から、
たとえば銀行家は、
借金を申し込みにきた人物を評価する際に、
住宅ローンを背負う能力とほとんど、
あるいはまったく関係のない
さまざまなデータポイントを検討していた。

人種による有利・不利の他、
父親に犯罪歴があれば不利になり、
毎週日曜日に教会に行く習慣があれば
有利になった。

このようなデータポイントは、
すべて代理データである。

財務責任能力を調べようと思ったら、
数字を冷静に検討すればいい
(まともな銀行家は
 必ずそうしていた)。

それなのにそうせず、
人種、信仰、家族関係と
財務責任能力とのあいだにある
相関を見ていた


そうすることで、銀行家は相手を
「個人」として精査するのを避け、
「集団」の一員として見ていた 
- 統計学用語では
  これを「バケット」と呼ぶ。

「あなたとよく似た人々」が
どんな人たちなのかを考えたうえで、
その人々が信用できるかどうかを
判断した。

このバケットの考え方は
システム作成時にも導入された。

つまり、eスコアのモデル作成者は、
「あなたは、過去に
 どのような行動を取りましたか?」 

と質問すべき時に、質問をすり替えて、

「あなたと似た人々は、過去に
 どのような行動を取りましたか?」

という質問の答えを探し出して
ごまかそうとしていたのだ。

この質問の差はどんな問題を
生むことになるだろう?

この2つの質問の違いは大きい。

たとえば、
移住してきたばかりで
質素な生活をしているが
非常に意欲的で責任感の強い人物が、
起業準備をしていて、
初期投資のために資金を借りようと
していたとする。

さて、
この人物に賭けてみようという人は
現れるだろうか? 

おそらく、移民という属性と
質素な生活行動をデータとして
取り込んだモデルでは、
この人物の有望さに気づけないだろう。

もちろん、代理データだから悪い
というわけではない。

念のために言っておくが、
統計学の世界では、
代理データは役に立つ存在
だ。

類は友を呼ぶもので、確かに、
似た者同士は
同じような行動を取ることが多い。

(中略)

このような統計モデルは、
見かけ上は有用であることが多く、
うまく活用すれば、効率も収益も上向く。

だからこそ投資家は、
大勢の人をそれらしい「バケット」に
分類する科学的なシステム

倍賭けする。ビッグデータの勝利だ。

問題は、起こりうる間違いに対して
前回も書いた通り
「適切なるフィードバックが
 かからない」
という点にある。

しかし、誤解され、誤ったバケットに
分類された人物はどうなるのか? 

そういうことは必ず起きる。

しかし、その間違いを正す
フィードバックは存在しない。

統計データを
高速処理するエンジンには、
学習する術がない

選ばれた代理データは正しいのか?
「類は友を呼ぶ」と言えるものなのか?
他に適切なデータはないのか?
そして
バケットへの分類は
適正に行われているのか?

そういったフィードバックや
学習ステップがなくても
システムは数字を吐き出しながら
正常(!!)に動き続け、
正しさの確認すらできないような結果を
出し続けている


恐ろしい話ながらも
思い当たる事例はいくつもある。
大きな問題の背景が
かなりはっきりしてきた。

(次回に続く)

 

 

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2022年3月27日 (日)

AI・ビッグデータの罠 (1)

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AI・ビッグデータの罠 (1)

- 「エラーフィードバックがない」 -

 

最近頓(とみ)に目にすることが多い
「AI」と「ビッグデータ」
技術面からではなく、
運用面からその問題を考えてみたい。

参考図書はこれ。

キャシー・オニール (著)
 久保尚子 (翻訳)
あなたを支配し、社会を破壊する、
AI・ビッグデータの罠
インターシフト

(以下水色部、本からの引用)

本書には、
教育、広告、雇用、政治など
さまざまな分野で利用された、
または今も利用されているシステムが
いくつも登場する。

そういったシステムが
どんな問題を持っているのか、
どんな問題を引き起こしているのか、
具体的な例とともに
詳しく述べられている。

オニールさんは、問題のあるシステムを
大量破壊兵器のMassに数学のMathをかけて
数学破壊兵器
(Weapons of Math Destruction:WMD)

と名付けて連呼しているが、
当然のことながら、それらのシステムも
最初から兵器になるべく
開発されたわけではない。

最初はどれも有益なシステムを目指して
作られたものだし、
有益な部分が評価されているからこそ、
実際に利用されているわけだ。

なのに、いまやそれらが
単なる一システムの問題を越えて、
様々な社会問題の
基盤になってしまっている。

どうしてそうなってしまうのか、
そこがこの本の肝となっている。

詳細はもちろん330ページ強の
本書を参照いただきたいが、
いくつかキーワードを
ピックアップしながら、
この大きな問題の側面を学んでみたい。

私の視点で選んだキーワードは3つ。

keyword_1「エラーフィードバックがない」
keyword_2「類は友を呼ぶ、のか」
keyword_3「規模拡大が格差拡大を助長」

 

今日は、
keyword_1「エラーフィードバックがない」
について。

「解雇対象者」を選別するシステムを例に。

システムは、
貢献度が低そうに見える者
「解雇対象者」として同定する。

こうして、相当な数の従業員が
不景気の最中に職を失った。

本文でも「見える」に傍点がついて、
強調されている。
「低い者」ではなく「低そうに見える者」
というのがキーだ。

業務への貢献度は
簡単な指標で定義することはできず
どう定義したところで
「低そうに見える者」としての
システム上の定義にすぎない。

ところが、
それに基づいて実際に解雇してしまう。

解雇対象者として同定され、
解雇された人が、次の職を見つけ、
いくつもの特許を生んだとしても、
通常、そのようなデータは
収集されない。

解雇すべきでない従業員を1人、
あるいは1000人解雇してしまっても、
システムはその過ちに気づけないのだ。

つまり、
「低そうに見える者」として
システムが選びだした候補者が、
 * 対象者としてふさわしかったか?
 * 解雇してはいけない人を
   選んでいなかったか?
というフィードバックがかからないまま、
使い続けられてしまう。

これは問題である。なぜなら、
エラーフィードバックがなければ、
サイエンティストはフォンレジック
(科学捜査的)解析を行うことが
できないからだ。

今回で言えば、誤った判別が
存在するという情報がなければ、
どこに間違いがあり、
どこを読み間違え、
どんなデータを見落としたのかを
解明できない。

判断に使うデータ自体も
また
判断の結果の正誤判断も
どちらもかなりあやふやなまま
運用されているシステムは多い。

システムというのは、
そういう学習を重ねながら
賢くなっていく
ものだ。

しかし、これまで見てきたとおり、
再犯予測モデルから
教師評価モデルに至るまで、
数多くの数学破壊兵器が、
実に軽率に、独りよがりな現実を
生み出している


マネジャーは、モデルによって
算出されたスコアを真に受ける。

アルゴリズムのおかげで、
難しいはずの判断が
手軽に行えるようになる。

そうやって従業員を解雇し、
経費を削減し、
その決定の責任を客観的数字の
せいにすることができる


- その数字が
  正確かどうかにかかわらず

どうして
「独りよがりな現実を生み出す」システムを
ここまで広めてきてしまったのだろう。

決定の責任を客観的数字の
せいにしながら、
運用しているのは人間だが、
そこに正しいフィードバックを
かけられなければ、
システム自体を
正しく成長させることはできない。

 

 

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2022年1月 9日 (日)

新たな3つの音楽メディア

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新たな3つの音楽メディア

- 増えているのはネット配信だけではない -

 

前回

 烏賀陽弘道 (著)
 「Jポップ」は死んだ
 扶桑社新書

(以下水色部および表とグラフの
 元となる数値・用語は本からの引用)

から「著作権使用料徴収額」の総額を
1998年と2016年の比較で見てみた。

  <表A 著作権使用料徴収額>

Jpop2a
Jpop2ga

CDを中心とした
オーディオレコードの著作権使用料は
ほぼ1/3に減っているが
成長している分野もある。

表Aにおいて増えている
「通信カラオケ」と「ビデオグラム」
にはどんな背景があるのだろう?

 

そこに詳しく触れる前に、
著作権使用料を稼ぎ出している曲、
上位には具体的にどんな曲があるのか
見てみよう。

JASRACは毎年度、
著作権使用料の分配金額ベスト3
JASRAC賞の金・銀・銅賞として
発表・表彰している。

著作権使用料の多寡を元にした
「ヒットチャート」だともいえる。

そのランキングを見て
「ほんと!?」と目を疑ってしまった。
2015年-2017年の上位3曲は・・・

2015年
①「恋するフォーチュンクッキー」(AKB48)
②「進撃の巨人BGM」(アニメ映画の背景音楽)
③「ルパン三世のテーマ'78」(アニメのテーマ曲)

2016年
①「R.Y.U.S.E.I.」(三代目J Soul Brothers)
②「恋するフォーチュンクッキー」(AKB48)
③「糸」(中島みゆき)

2017年
①「糸」(中島みゆき)
②「名探偵コナンBGM」
③「ドラゴンクエスト序曲」

この記事を書くきっかけになった前回
大野雄二作曲「ルパン三世のテーマ」は
ここに登場している。

「ルパン三世のテーマ」は1977年、
「糸」は1992年に発表された曲。
どちらも名曲とはいえ、
38年前、24年前の曲が
ベスト3に入っているということは
いったいどういうことだろう?

 

まずは「ルパン三世のテーマ」。
これがまさに「ビデオグラム」の代表選手で、
「ビデオグラム」とは、
「大半がパチンコ・スロットマシン」

のことらしい。
アニメや歌手の動画や音楽を
再生する機能をもったパチンコ機
(スロット機を含む)を、パチンコ業界では
「版権もの」「タイアップもの」と呼ぶが、
これらが著作権使用料をもたらしている。

いまやパチンコ機は
「音楽再生機」
として、
日本人にとって重要なマスメディアに
なったということだ。

長引く不況に苦しんでいるとはいえ
パチンコ業界(貸玉料基準売上)
1995年 30.5兆円
2015年 23.2兆円

パチンコ産業はコンサート産業の
75倍という巨大な国民的娯楽
なのだ。

そして著作権使用料額でいえば、
パチンコは通信カラオケの約2倍の金額を
著作権者にもたらしている。

「なんだ、パチンコか」と
軽視してはならない。

「巨大な音楽マスメディア」。
それが現在のパチンコの姿である

 

「糸」のほうはどうだろう。

結婚式での音楽の使用から発生する
著作権使用料を専門に扱う
「ISUM」(アイサム)
という団体がある

ロシア人のアブラモフさんが
2013年に立ち上げた一般社団法人だ。

「新郎新婦が安心して人生の
 スタートの記録を残せるよう、
 権利処理の代行をする。
 それがISUMです」

結婚式で使われる音楽についても
記録として残されるビデオも含めて
著作権使用料が回収される仕組みが
今はしっかり機能している。

ちなみにどの程度の費用がかかるかと言うと

披露宴のBGMやプロフィールスライドに
5分未満の曲を使うと、
一曲あたり著作権料200円+
著作隣接権料(複製、演奏・歌唱など)2000円
=2200円である。
ISUMは手数料として
その10%=220円を取る。

最終的には一曲2420円を払う計算

 

もうひとつカラオケ関連で
見逃せないトピックスがある。

カラオケボックス等の施設は
2005年 22万施設
2015年 17万施設
と減っているが、

「老人ホーム」「高齢者住宅」
「デイケア施設」などの
「高齢者介護施設」は増えているのだ。

カラオケは、
誤嚥の改善にも効果があると
「娯楽産業」から「医療・福祉分野」に
進出しているとも言える。

 

上記見てきた通り

新たな音楽メディアとして
姿を現したのが
 「パチンコ」
 「結婚式」
 「高齢者用カラオケ」

だった

増えているのはネット配信だけではない。
著作権料から見ていくと
音楽メディアの変化が
意外な角度から見えてきて
新たな発見、驚きがある。

 

 

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2021年12月26日 (日)

生き物はすべて騒がしい海にいる

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生き物はすべて騒がしい海にいる

- 分身が誕生する場所 -

 

イタリアでの精神病院廃絶の物語から
精神医療だけでなく
 正常と病(やまい)、
 精神と身体、
 地域と社会、
 抑圧と自由
などについて深く考察している

松嶋 健 (著)
 プシコ ナウティカ
 ―イタリア精神医療の人類学
世界思想社

(以下水色部、本からの引用)

からキーワードをピックアップする6回目。
個人的に感銘を受けたため
6回も書いてしまったが、
今日で一区切りとしたい。

プシコ ナウティカ(魂の航海)
近づいてみれば誰一人まともな人はいない
治療ではなく「社会の保護」が第一目的
地域精神保健と「住まう家」
地域が壁のない精神病院にならないように

イタリアでもかつては、
「訓練」あるいは「作業療法」と称して
精神病院の入院患者に
単純作業をやらせることが
広く行なわれていたが、
それがいかに人間から希望を奪い、
非人開化するかが認識されてからは、
そのような「にせの労働」は禁止された。

生に向き合うとは、
「人間」に向き合うことだ。

自らの行動が物事に因果関係を
引き起こすことをはっきりと感じられ、
そのフィードバックを利用して
自らの行動を調整し制御していく。

そうしたフィードバックの環が
環境とのあいだにちゃんと
働いていることが<主体性>にとって
不可欠
なのである。

逆に言えば、そうした「効力感」を
得られるような活動や環境から
切り離されたときには、
人は<主体>であることも、
「人間」であることも難しくなる。

精神病院に隔離されるというのは、
まさにそうしたフィードバックの環を
切断されるという経験
である。

たとえ地域で暮らしていたとしても、
効力感を得られるような活動から
切り離されているなら同じことである。

そうした試行錯誤を経て、
精神病院の廃絶は、
「生きること」を支援する地域の活動に
つながっていった。

イタリアで、
精神医療から精神保健への
転回がなされたとき、
問題はもはや「心」や「精神」を
治療することではなく

「生きること」に定位し、
「生きること」をどう支援していくか
に変わった。

「精神」の健康は、
「生きること」のなかに、
人々のあいだで
生きていく過程において
得られるものだ
ということである。

そこで忘れてはならない言葉に
「集合性」がある。

集合性の次元とは、
見えない大気や風のようなものである。

潜在的な行為は、
集合性の次元があるおかげで
現働化することができる。

その海は、凪いだり、波打ったり、
渦を巻いたりしている。

人間を含んだ生きものは、
「すべて騒がしい海にいるのである」

騒がしい海こそ、生きるために必要なのだ。

重要なのは、
凧を揚げ、音楽を演奏するには、
大気がある
具体的な場所が必要であるように、
人が<主体性>を行使するためにも、
具体的で現実的な<集合性>の場所が
必要だということである。

<地域>とは、そうした
<集合的主体化>の現働化の場所
なのである。

医者と患者との
一対一のインタラクションではなく、
もっと色々な人やモノを巻き込んだ
集合的な作業、
音楽の合奏のような共同作業。
定型的なマニュアルはないけれど
地域の果たす役割は大きい。

他者は私のなかに棲み込み、
私も他者の中に生きる。
そのときそこに分身が誕生するのである。

 

精神病院の話だったことを
忘れてしまうような読後感に
しばし浸ることができる一冊だ。

 

気ままに続けているブログですが、
ことしも訪問いただき
ありがとうございました。

皆さま、どうぞよいお年をお迎え下さい。

 

 

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2021年12月19日 (日)

地域が壁のない精神病院にならないように

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地域が壁のない精神病院にならないように

- 受け入れる側も変わらなければ -

 

イタリアでの精神病院廃絶の物語から
精神医療だけでなく
 正常と病(やまい)、
 精神と身体、
 地域と社会、
 抑圧と自由
などについて深く考察している

松嶋 健 (著)
 プシコ ナウティカ
 ―イタリア精神医療の人類学
世界思想社

(以下水色部、本からの引用)

から

プシコ ナウティカ(魂の航海)
近づいてみれば誰一人まともな人はいない
治療ではなく「社会の保護」が第一目的
地域精神保健と「住まう家」

などについて見てきた。

精神病院廃絶に尽力した
ヴェネツィア生まれの精神科医
フランコ・バザーリア
(Franco Basaglia)の発想には
学ぶところが多いのだが、
私が特に感銘を受けたのは
病院の「内」と「外」の考え方に潜む
根本的な問題点を
なんとかしようとしていた点だ。

根本的な問題点とは・・・

バザーリアとレインの
施設をめぐるやりとりに
みられるように、バザーリアには
そのことがよくわかっていた。

施設になんか構わず、
施設から出て行けばいいと考える
レインに対して、
バザーリアは、そうした考え方には
落し穴があると言う。

出られたら迷惑だ、といった
単純な「落とし穴」ではない。

なぜなら、出て行くことのできる
「外」があるうちはいいが、
もはやそうした
「外」がなくなったとき、
すべてが施設化してしまう
という問題が手つかずのまま
残されてしまうから。

なんという指摘だろう。
「外」を変えることなく
そのまま「内」を開放してしまえば
いずれは、全部が「内」のように、
つまり、
社会全体が施設の「内」のように
なってしまう可能性があると
言っているのだ。

開放者を受け入れる「地域」、
そこも変わる、変える必要があるのだ。

<地域>精神保健とは、
単に病院の外で
精神保健サービスを提供することを
意味しているのではない。

<地域>とは
単に病院の外の空間を
指しているわけではない
のだ。

「内」だけではなく「外」も変わる。
それは、「受け入れる」といった
消極的なものではなく
<主体性>や<自由>を
双方が感じられるような
積極的なものだったのだ。
つまり

それは、
人々の生と関係性が縫い込まれ
耕されることで生み出される、
生態学的なテリトリーである。

そこはくつろぎがあり
遊びのある<agio>の場所であり、
利用者たちの生が
そこに編み込まれていくことで
<主体性>を具体的に
行使できるようになっていく
集合的な環境である。

だからこそ精神保健サービスの
オペラトーレたちは、
利用者と<地域>の両方に
関わりながら仕事をする。

重要なイタリア語<agio>については、
ここを参照いただければと思う。

そうした営みがないなら、
地域は単に壁のない精神病院
なってしまうだろう。

フランコ・バザーリアが
危惧していたように、
「古い状況が一見新しい状況に
 変容したように見える。
 だがそこには常に、
 福祉的な管理の形式を再び持ち出す
 危険性が伴っているのである」

地域を単に壁のない精神病院にしない。
今の我々が生きている
現代社会を見渡したとき、
ドキリと思い当たることはないだろうか。

 

精神医療の改革は
様々な国で起こったが、その批判を
精神病院の廃絶というかたちで
国の法律のレベルにまで
もたらしたのはイタリアだけである。

その差には様々な要因が絡んでいるが、
少なくとも<主体性>と<自由>を
実現するためには
集合的かつ制度的な次元でのデザインが
絶対に不可欠であるということが
イタリアでは深く認識されていた
のは
間違いない。

Aを変革をするときは、Aだけでなく、
Aの変革を受け入れるBの変革も
一緒に考えないと
Aの変革後、
Bも含めて全部がAのようになってしまう
危険性がある。

AとBの間の壁が、単にBの外側に移っただけ、
になってしまう危険性がある。

なんとも重い、示唆に富む指摘だ。

 

 

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2021年12月12日 (日)

地域精神保健と「住まう家」

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地域精神保健と「住まう家」

- 「くつろぎ」をどう取り戻すのか -

 

イタリアでの精神病院廃絶の物語から
精神医療だけでなく
 正常と病(やまい)、
 精神と身体、
 地域と社会、
 抑圧と自由
などについて深く考察している

松嶋 健 (著)
 プシコ ナウティカ
 ―イタリア精神医療の人類学
世界思想社

(以下水色部、本からの引用)

から

プシコ ナウティカ(魂の航海)
近づいてみれば誰一人まともな人はいない
治療ではなく「社会の保護」が第一目的

などについて見てきたが、
今日は、イタリア語の<agio>
という言葉をきっかけに
イタリアの精神保健の基盤を学んでみたい。

イタリア語の<agio>のニュアンスを
日本語にするのはなかなか難しいが、
「くつろぎ」であり「ゆとり」であり
「安心」であり、
機械やハンドルの「遊び」のような
意味でも用いられる。

(中略)

それゆえ、<agio>が欠けている
<disagio>の状態から
関わっていくことが
予防的な観点からしても重要になる。

イタリアの精神保健では、
社会的なレベルでの介入が必要な
「居心地の悪さ」や「生きづらさ」を
抱えた人に適切な対処がなされないと、
より医療的な介入を必要とする
「精神的な不調」へと移行すると
考えているようだ。

 

ちなみに
イタリア語の<agio>にあたる言葉を
英語で探すとすると、
それはおそらく<ease>が
最も近いと思われる。

<ease>もまさに、
「くつろぎ」や「ゆとり」「安心」や
「安楽」を意味する語であるが、
そうした<ease>が欠如した
状態としての<disease>は
普通「病気」を意味し、
特に医療人類学の文脈においては、
生物医学的に捉えられた変化としての
「疾患」を指すものとされてきた。

「くつろぎ」の欠如は疾患なのか?
「くつろげない」のは疾患だからなのか?
英語には<illness>という単語もあるが
言語による言葉の比較はおもしろい。

 

だが、イタリア語の<disagio>が
指し示している意味/方向性(senso)は、
ある意味で全く逆のものである


それは生物医学的に捉えられた
「疾患」ではなく、
ある人が生きていく上で
「くつろぎ」や
「ゆとり」が欠けることで、
居心地が悪かったり、
生きづらかったりするような
状態を指している

「くつろげる」環境の提供の意味は大きい。

このような理解に立てば、
精神保健の仕事は
より明快になるだろう。

それは、欠如している<agio>を
感じられるような環境を
いかにして作るか、
ということであり、
そうした環境こそが、
主体性を行使するための
ベースとしての居場所になるのである。

 

病院を前提に
考えなければならなかった人たちが
病院廃絶ののち
どこにどうやって住むのか。

イタリアの
地域精神保健の活動において、
最も重視されたことの一つが、
「住まう家」があることであった


家が必要なのは、
普通の正常な生活を送るため、
というよりも、
行為の可能性を広げていくための
物理的かつ情緒的な
ベースとなる居場所としてである。

もちろんそこには、場合によっては
精神保健的サポートが必要な場合もあるが
「住まう家」があり
そこで「くつろげる」ことの価値

大きく認識されていたことは、
地域の体制づくりにおける
重要な基盤のひとつだったと言えるだろう。

 

 

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