社会

2023年11月19日 (日)

読書を支える5つの健常性

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読書を支える5つの健常性

- 「本好き」たちの無知な傲慢さ -

 

みずからも重度障害者である
市川沙央さんが書いた
重度障害者(井沢釈華)を主人公にした
小説「ハンチバック」は2023年
第169回芥川賞を受賞している。

市川 沙央 (著)
ハンチバック
文藝春秋

(以下水色部、本からの引用)

この小説から引用するなら
やはり本文27ページにある
この衝撃的な一節だろう。

私は紙の本を憎んでいた。

目が見えること、
本が持てること、
ページがめくれること、
読書姿勢が保てること、
書店へ自由に買いに行けること、
5つの健常性を満たすことを
要求する読書文化のマチズモを
憎んでいた。

その特権性に気づかない
「本好き」たちの無知な傲慢さ

憎んでいた。

まさに、その特権性に
まったく気づいていなかった
「本好き」のひとりである私は
ほんとうにドキリとさせられた。

ちなみに、マチズモとは、
デジタル大辞泉(小学館)によると

マチスモ【machismo】
《「マチズモ」とも。
ラテンアメリカで賛美される
「男らしい男」を意味する
スペイン語のmachoから》
男っぽさ。誇示された力。
男性優位主義。

を意味する言葉らしい。

このあたりの言葉の選び方と
出版後の反響について、
著者の市川さんが、
障害者文化論の学者である荒井裕樹さんと
往復書簡でやりとりしているようすが
雑誌「文學界」に載っている。

市川沙央⇔荒井裕樹 往復書簡
「世界にとっての異物になってやりたい」
雑誌 文學界 2023年8月号
文藝春秋

(以下緑色部、本からの引用)

まずは、市川さんの言葉。

ところで、健常者優位主義のルビは
本来ならエイブリズム
とするべきところを、
わざとマチズモとした私の底意は
想定以上の効果を発揮しながら
読者の皆様に
刺さりにいっているみたいで、
実のところ私は今うろたえています。
(「言葉が強い」
 とのご感想に触れるたび、
 そこまで刺すつもりはなかった、
 良心ある人々の心を
 脅かすつもりはなかったと、
 ひたすら申し訳ない気持ちに
 なっています。) 

うろたえつつも、
至らぬばかりの拙作において
唯一会心の出来と言える箇所
やはりそこなのだろうと思います。

エイブリズムではなく
マチズモというルビを振った時点で
私は小説家になったのかもしれません。

それに対して、
「本好き」のひとりであろう荒井さんも、
私が感じた「ドキリ」を
うまく言葉にしてくれている。

それにしても、<健常者優位主義>に
<マチズモ>とルビを振られたのには
驚きました。

紙の本に慣れ親しんでいること。
紙の本に愛着があること。

そんな素朴な感覚に
この言葉を投げつけられ、
私自身胸がしくしくと痛みました

自分は誰のことも傷つけていない。
問題なくスマートに振る舞えている。
そう信じて疑っていない感覚を
鋭く刺されたような思いです


<エイブリズム>より
<マチズモ>の方が
ダメージが大きいのは、
「良心的市民」を装う
私を含めた少なくない人が、
普段この言葉で他人のことを
責めることには慣れていても
(この言葉で誰かを責めることで
「良心的市民である自分」を
演じることには慣れていでも)、

自分自身が責められるなど
夢にも思ってないからでしょう

往復書簡は、荒井さんが

「生きる」ための
福祉制度が整えられる反面、
「生きる」という営みが 
「福祉」という枠の中に、
小さく、狭く、
閉じ込められている
のではないか。

と書き、市川さんが

障害者の読書権の問題をあくまでも
福祉領域のものごととして捉え
押しやろうとする考え方があった

本を読むという普遍的な行為すら、
努力して「獲得」しなければ
ならないこと


何気ない
日常のしぐさであるべき営みが、
「障害等級」や「算定単位数」や
「加算」という用語と時間の
制約に括られ、
福祉サービスとして評価されることで、
失われていく何か

と返信して続いていく。

読書権のことだけでなく
*「生きる」ことが
 「福祉サービス化」してしまった
 ことへの違和感や危機感
*そこで失われていくものへの言及
などなど、自分自身の
「無知な傲慢さ」に気付かされ
内容が続いており、
「ドキリ」だけでは言葉が足りない。

 

 

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2023年4月 2日 (日)

迷子が知性を駆動する

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迷子が知性を駆動する

- 「危機」か「新たな地図」の契機か -

 

雑誌 新潮 2021年7月号に
対談 藤原辰史+森田真生
「危機」の時代の新しい地図

(以下水色部、本からの引用)

が載っている。

農業史に詳しい藤原さんと
数学に詳しい森田さんという
めずらしい組合せによる対談だ。

その中で、題名にも含まれている
「地図」について
ちょっとおもしろいやり取りがあったので、
今日はその部分を紹介したい。

 

「ESP Cultural Magazine」という
日本で発行されていながら
全文英語のカルチャーマガジンに
アーティストの
オラファー・エリアソン
(Olafur Eliasson)

詩人で認知科学者の
プリーニ・サンダラリガム
(Pireeni Sundaralingam)
の対話が掲載されていて

その中で次のような
興味深い指摘がされていました。

すなわち、現代は誰もが
スマートフォンを
携帯するようになったことで、
「自分の現在地を見失う
 (ロストになる)」感覚を
忘れてしまった
のではないかと。

グーグルマップをはじめ
それらマップアプリを起動することで、
私たちはいつでも自分の現在位置を
正確に知ることができるようになった。

それが革命的な便利さを
もたらしてくれていることは認めつつも、
森田さんはこうコメントしている。

しかしその一方で、
「ロストになる可能性」が
無くなったことは、
人間の知性に大きなインパクトを
与える可能性があると
僕は考えています。

なぜならば、
生き物の知性は基本的に、
「自分の居場所がわからない」
状況でこそ働いてきた
からです。

古代の人類が
サバンナを彷律っていたときは、
感覚のセンサーをすべて開いて、
星々などの
自然現象を手がかりとしながら
「地図のなかの現在地」が
わからないまま旅をしていたでしょう。

「迷子の状態」であることは、
生き物にとっては知性が駆動する
条件ですらあるのではないか。

迷子が知性を駆動する、か。

ここでおもしろいのは、
「地図は確定したひとつのものではない」
ということ。 

先程藤原さんが例に挙げてくれた
「虚数」に関して言えば、
虚数と出会ったときの数学者は、
これを位置付ける「地図」を
持ち合せていませんでした。

虚数というものが何を意味し、
どういう広がりを持つ可能性があるか、
まったくわからなかった。

実は「数学が好き」と思う人と、
「苦手」と思う人の大きな分かれ目は、
「地図がないこと」を
ポジティブに捉えられるかどうか

にあるかもしれないと思うんです。

地図そのものを探す旅、
それを楽しむことだってできる。

よく「分数の割り算から
算数が嫌いになりました」という話を
聞くのですが、これも、
それまで数を理解するために
使っていた地図の上では、
分数を割ることの意味を
位置付けられないからかもしれません。

今回のようなパンデミックにおいても、
地図上で現在地がわからないことを
「危機」と考えるのか、
それとも「新たな地図」を
手に入れる契機
と思うかで、
捉え方が
まったく異なってくると感じます。

迷子になったとき、
「危機」と捉えるか、
「新たな地図」を手に入れる契機
と捉えるか。

このあと対談は、藤原さんの
地図というのは「支配者の道具」
という話に繋がっていくのだが、
本欄での紹介は
「迷子」と「新たな地図」の話までに
とどめておきたい。

ご興味があるようであれば、
本を手にとってみて下さい。

 

 

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2023年1月22日 (日)

「祈り・藤原新也」写真展

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「祈り・藤原新也」写真展

- 既に答えが書かれている今? -

 

東京の世田谷美術館で開催されている
「祈り・藤原新也」
という藤原新也さんの写真展を観てきた。

2301inori

藤原新也さんは、
1944年門司市(現北九州市)生まれ。
東京藝術大学在学中に
インドを皮切りにアジア各地を放浪。

その後、アメリカ、日本国内、
震災後の東北、コロナで無人となった街、
などを次々に撮影。

写真に自身の短いコメントを添えて
これまでの50年を振り返っている。

もちろん写真もいいのだが、
コメントがまたいい。

(以下水色部は、
 写真展の藤原さんのコメントを
 そのまま引用)

藤原さんは、写真展のタイトルを
「祈り」にした理由を
次のように書いている。

わたしが世界放浪の旅に出た
今から半世紀前 
世界はまだのどかだった。
自然と共生した
人間生活の息吹が残っていた


(中略)

ときには死の危険を冒してさえ
その世界に分け入ったのは
ひょっとすると目の前の世界が
やがて失われるのではないかという
危機感と予感が
あったからかもしれない。

その意味において
わたしにとって
目の前の世界を写真に撮り
言葉を表すことは
”祈り”に近いものでは
なかったかと思う。

世界は広く、生はもちろん
死をもまた豊かであることを
感じさせる写真が並ぶ。

たとえばインド。

死を想え(メメント・モリ)

インドの聖地パラナシ。
諸国行脚を終えたひとりの僧が、
自らの死を悟って、
河原に横たわる。

夕刻のある一瞬、
彼は両手を上げた。

そして両手指で陰陽合体の印を結び、
天に突き出す。

その直後、彼は逝った。
死が人を捉えるのではなく、
人が死を捉えた

そう思った。

 

人骨が散らばる写真にも
こんなコメントが付いていて
いろいろ考えさせられる。

2301inori_a

あの人骨を見たとき、
病院では死にたくないと思った。
なぜなら、
死は病ではないのですから。

 

台湾での

そんな町の安宿に泊まり、
自分が無名であることの
安堵感を味わう

には、
「無名」のもつ味わいがあふれているし、

アメリカでの

ポップコーンのように軽い
カリフォルニア

には、
的を射たコメントに笑えるし。

観光ガイドにはない写真ばかりだが、
現地に飛び込ンでいっての写真には
生が溢れ、死が溢れ、
土埃が舞っていても声が溢れ、
色が溢れている。
なので

大地と風は荒々しかった。
花と蝶は美しかった。

たくさんの生の視線は
わたしのエネルギーへと変る。

が強い説得力をもって迫ってくる。

藤原さんは、最後

頭上の月でさえ
着々と人類の足跡が
刻まれようとしている。

この自己拡張と欲望の果てに
何が待っているのか、
その回答用紙に
既に答えが書かれている今

いま一度沖ノ島の禁足の森の想念を
心に刻みたい。

と書いているが、

「その回答用紙に
 既に答えが書かれている今」
あなたはどうするの?
と強い投げかけをしているように
読める。

重い問いだが、
「世界がまだのどか」で、
「自然と共生した
人間生活の息吹が残っていた時代」の
写真の数々は
新たな解を見せてくれているようでもある。

 

 

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2022年12月25日 (日)

クリスマス、24日がメインのわけ

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クリスマス、24日がメインのわけ

- 「24日の晩」は「25日当日」 -

 

今年は12月24日,25日が
ちょうど土曜、日曜に重なったこともあり
クリスマスイブ、クリスマスを
思い思いの形で
楽しんだ方も多かったことであろう。

それにしてもクリスマスって
そもそもは25日なのに
クリスマスイブを含む24日が
メインのようになっているのは
なぜなのだろう?

これについては
2020年12月19日朝日新聞
「ことばサプリ」

校閲センターの町田和洋さんが
明確に答えてくれている。
(以下水色部記事からの引用)

キリスト教が生まれた地域で
使われていたユダヤ暦では、
日没が一日の区切りとする
考え方があります。

24日の日が沈んだら
25日が始まっているわけだ。

旧約聖書の創世記、
出エジプト記などに
一日を夕暮れから起算する表現があり、
紀元前5-6世紀ごろには
こうした習慣があったと考えられ、
キリスト教もこの考え方を
受け継いでいるそうです。

24日の日没から25日の日没までが
「クリスマス当日」

クリスマスの夜とは
24日のイブ(晩)しかない。

ヒジュラ暦も
日没で一日が終わり、
夜からは次の一日です。

月の満ち欠けを元にした
太陰暦をベースに月の形を見て
暮らしの指針にした習慣から
自然な流れだったと思います。

ラマダン(断食月)明けが
夜になるのも日没で一日が終わり、
新月を視認して
翌月に移る節目だからです。

なので、イスラム圏で
「○日の夜」という約束をすると
一日ずれてしまうことがあるので
注意が必要、という
中牧弘允国立民族学博物館名誉教授の
言葉も紹介している。

考えてみると
「これまでの慣習を一切無視して、
 『一日の始まり』を好きに決めて下さい」
と問われたら、どこを選ぶだろうか?
少なくとも
今の午前零時を選ぶ気はしない。

最後にひとつオマケ。
こども電話相談室でだったと思うが、
以前こんな詩的な質問が寄せられていた。

「世界は夜から始まったのですか、
 昼から始まったのですか?」

 

気ままに続けているブログですが、
ことしも訪問いただき
ありがとうございました。

皆さま、どうぞよいお年をお迎え下さい。

 

 

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2022年6月12日 (日)

大島小太郎と竹内明太郎

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大島小太郎と竹内明太郎

- 唐津への関心を一気に高めた一文 -

 

佐賀県・唐津市観光。
旧高取邸に続いて立ち寄ったのが
大島小太郎の旧宅、旧大島邸

P5011770s

案内板に次のような説明がある。

大島小太郎の旧宅

大島小太郎は、
唐津藩士、大島興義(おきよし)の
長男として唐津城内に生まれました。

唐津藩の英語学校、
耐恒寮(たいこうりょう)において、
東京駅を設計した
辰野金吾(たつのきんご)
同じく著名な建築家である
曽禰達蔵(そねたつぞう)らとともに、
後の蔵相、首相を務めた
高橋是清の薫陶を受け、
明治18年(1885)には
佐賀銀行の前進となる
唐津銀行を創立しました。

この一文を読んでから
私の唐津への関心は一気に高まった。
まさに知らなかった歴史との出会い。
これは調べねば。整理せねば。
というわけで、本件については
のちほど改めて書きたいと思う。

まずは大島邸をゆっくり見て回ろう。
建物は純和風で、
畳と襖(ふすま)が美しい。

P5011775s


華美ではないが、
さすが実業家の邸宅。
廊下にはこんな説明が。
「床は一本松で出来ています」
一枚板の長さに驚く。

P5011774s

大島小太郎は、
* 唐津銀行を創立したが、
その後も、
* 鉄道(現在のJR筑肥線)の敷設
* 道路の敷設
* 市街地の電化
* 唐津湾の整備
など、唐津の近代化に大きく貢献した。

P5011778s

 

この邸宅、実は移築されたもので、
現在、旧大島邸の建っている場所には 
(1886年-1922年の36年間)竹内明太郎
住んでいた。
つまり現旧大島邸は、
竹内明太郎邸跡とも言える。

この竹内明太郎も多くの業績を残している。
明太郎の父 綱(つな)は、前回書いた
高取伊好(これよし)とも関係が深い。

1885年:明太郎の父 綱(つな)は
    高取伊好とともに
    芳ノ谷炭鉱の経営権を取得。

1886年:経営を任された明太郎が
    (土佐藩宿毛領から)唐津に赴任。
    最新鋭の鉱山建設に着手。

1909年:唐津市妙見に
    「芳ノ谷炭鉱唐津鉄工所
     (現唐津プレシジョン)」新設
    我が国を代表する
    精密機械工場のひとつに。

P5011779s

他にも
* 早稲田大学理工学部 設立
* 私立高知工業高校(現高知県立工業高校)
  設立

* 小松鉄工所(現小松製作所)設立

* 田健治郎(九州炭鉱汽船社長)
  青山禄郎とともに、
  国産第一号自動車DAT自動車を開発した
  快進社(のちのダットサン、
  日産自動車の前進のひとつ)を支援。
  ダットサンのDATは
  田(でん)、青山、竹内のイニシャルから。

などなど唐津に留まらない広い範囲で
大きな足跡を残している。

 

次回からは、最初の案内文にあった
高橋是清、辰野金吾、曽禰達蔵の
3人について書いていきたいと思う。

 

 

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2022年5月15日 (日)

『違和感ワンダーランド』の読後感

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『違和感ワンダーランド』の読後感

- 意外なところに歴史書が -

 

毎日新聞「日曜くらぶ」に連載されていた
松尾貴史さんのコラムは、
2020年7月19日から2021年11月7日までの
掲載分が纏められて

 松尾貴史 (著)
 違和感ワンダーランド
 毎日新聞出版
(以下水色部、本からの引用)

という一冊の本になっている。

この本、松尾さんが日々のニュースに触れて

「何かおかしい」と感じたことを、
表明したり、可視化したり

した本だが、
単なる疑問点やグチやツッコミを
並べただけの本ではない。

かと言って、
専門的な知識や特別なウラ情報が
公開されている、というわけでもない。

そんな本が独特な読後感を生み出している。
それはいったいどこから来るのだろう?

 

例として東京五輪開催の件を
扱った記事を見てみたい。

下記、箇条書き(*)の項目の選択は
私の編集だが、(*)に続く各一文は、
松尾さんのセンテンスのままなので
引用の水色を使って書くと、

*東京オリンピック・パラリンピックの
 開会式で楽曲を担当することに
 なっていたミュージシャンが、
 小学生から高校生にかけての時代に
 障害を持つ同級生たちを
 虐待していたことが
 広く大きな反発を呼ぶことになり、
 7月19日に辞任した。

*安倍晋三前首相による
 「アンダーコントロール」という
 虚偽の招致演説。

*「復興五輪」という
 虚飾によるミスリード。

*「世界一カネのかからない五輪」
 (当時の猪瀬直樹・東京都知事)と
 言いながら一時は3兆円の声も
 上がったインチキな予算。

*故ザハ・ハディド氏による
 新国立競技場の
 設計変更に至るもめ事。
 設計者の変更もさらに予算が
 かかる結果に。

*長時間労働による作業員の過労自殺。
 その方も含め五輪の建設現場で
 作業員が4人死亡。

*エンブレムのデザイン盗作疑惑問題。

*招致活動での買収疑惑と
 フランス当局からの事情聴取。

*不正はないと言いながらの
 日本オリンピック委員会(JOC)会長
 退任表明。

*マラソンなどのコース変更

*トライアスロン会場の水質汚染問題。

*開幕まで半年を切ったタイミングでの
 大会組織委員会の森喜朗会長の
 女性蔑視発言とそれによる辞任。

*その不透明な後継者選びでの
 川淵三郎氏の辞退。

*野村萬斎氏ら7人の
 開会式・閉会式の演出チーム解散。

*募集した大会ボランティアの
 待遇の劣悪さ。

*開閉会式の総合統括を務める
 クリエーティブディレクターの
 女性タレントの容姿を侮辱するような
 演出案問題。

*一般人と分けるはずの
 動線が交わっているなど、
 ずさんなバブル方式の数々の問題点。

*自殺とみられるJOC経理部長の
 電車事故死。

*新型コロナウイルス感染拡大で
 開催地東京での4回もの
 緊急事態宣言発出。

*行動制限されていたはずの
 ウガンダの選手の失踪事件。

*緊急事態言下での迎賓館を使っての
 国際オリンピック委員会(IOC)
 バッハ会長をもてなす
 非公開パーティーの開催。

*コロナ禍で交通量が減っていて、
 さらに無観客なのに
 首都高速道路が料金上乗せで
 一般道大渋滞。

*茨城県の子供たちを
 サッカースタジアムに動員して
 観戦させようとする
 意味不明な対応に、
 「持ち込む飲み物は
 スポンサー企業のものにせよ」と
 通知する忖度。

*で挙げたものだけでも20項目以上。
どれも記憶に新しい今(2022年5月)時点で
読めば
「そうそう、そんなことあったよね」
というよく知られた案件ばかりだ。

でも、もし、数年後、または数十年後、
「東京五輪開催にあたって
 どんな問題があったのか?」
を調べたようとしたとき、
これらの問題をこうした簡潔な羅列で
知る方法がなにかあるだろうか?


もちろん、数年分の新聞を読み返せば、
または検索をかければ、
各項目自体をピックアップすることは
可能だろう。
しかし
「東京五輪」や「オリンピック」といった
検索ワードで見つかる記事の数は
膨大なはずで、その整理と全体像の把握は
容易ではないはずだ。

松尾さんの記事は、
ニュースとしての事実部分と
「何かおかしい」と思う松尾さんの
感情部分とを
ちゃんと分けて記述している。

そして、事実部分については、
簡潔にかつ正確に記そうという
松尾さんの気遣いがよく伝わってくる。

上はオリンピックに関する部分だが
たとえば、政治家が口にした言葉なども
印象ではなく、実際の発言にもとづいて
正確に記述、引用している。

ちょっと大げさに言えばニュースに関しては
2020年7月から2021年11月までの
歴史書的要素があるのだ。

独特な読後感は
どうもこのあたりに起因する気がする。

期せずして現代史のテキストを
発見したような不思議な気分だ。

 

 

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2022年5月 8日 (日)

「私はきれいなゴミを作っている」

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「私はきれいなゴミを作っている」

- 生産者も消費者も双方が変わることで -

 

スクラップブックをめくっていたら

朝日新聞の2021年12月3日「ひと」欄
で紹介されていた
エチオピアで人と環境にやさしい
 バッグをつくる起業家
 鮫島弘子さん

の記事が目に留まった。
(以下水色部、記事からの引用)

鮫島さんは、
羊の革を使ったバッグブランド
「anduamet(アンドゥ・アメット)」
を設立し、
代表兼デザイナーとして
活躍しているという。

使うのは食肉の副産物で、
環境対策をした工場でなめされた皮だけ。

元ストリートチルドレンや
読み書きできない人を雇い、
忍耐強く20人の職人を育ててきた。

原点は、
デザイナーとして働いた
化粧品会社で感じた疑問だという。

美術専門学校を出たばかりで
仕事は面白かったが、
新製品を出すたびに
大量の商品が廃棄された。

私はきれいなゴミを作っている

そう思った鮫島さんは、
化粧品会社を3年で辞め、
青年海外協力隊に応募。
派遣先のエチオピアで羊革と
出会い、その後、エチオピアに渡って
起業することになったという。

「私はきれいなゴミを作っている」
なんとも悲しい、虚しい言葉ではないか。

化粧品に限らない。
衣料品も食料品も
大量廃棄の問題はほんとうによく耳にする。

もちろん、たとえば
新商品ブランドの確立と
拡販を目的にした旧商品の廃棄と
食料品の廃棄は
そもそもその理由が全く違うものだが
結果として
「きれいなゴミ」を
大量に発生させていることは同じだ。

どんな理由であれ
「私はきれいなゴミを作っている」では
働く側のモチベーションが
上がるはずはない。

以前「売り切れ」程度は我慢しようなる副題で
食料品廃棄の話を書いたが、
ゴミを出さないためには
生産者側もそして消費者側も
大きく意識を変えていく必要がある。

価値観の変換と同時に
双方ちょっとの「我慢」が
キーワードだろう。

誰だって、あるときは生産者であり、
またあるときは消費者なのだから。

作る人も使う人も
みんなが幸せになるブランド目指す。

ことは可能なはずだ。

 

 

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2022年4月10日 (日)

AI・ビッグデータの罠 (3)

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AI・ビッグデータの罠 (3)

- 「規模拡大が格差拡大を助長」 -

 

キャシー・オニール (著)
 久保尚子 (翻訳)
あなたを支配し、社会を破壊する、
AI・ビッグデータの罠
インターシフト

(以下水色部、本からの引用)

を読んで、
現在社会で使われている
AI・ビッグデータを利用した
システムが持つ問題点を学ぶ3回目。

 * 「エラーフィードバックがない」
 * 「類は友を呼ぶ、のか」

に続くキーワードは、

keyword_3「規模拡大が格差拡大を助長」

 

これまでの記事でも書いた通り、本には
数学破壊兵器による破壊の状況が
いくつも並べられている。

効率性と公平性を謳いながら、
その陰で、高等教育を歪め、
人々を借金に駆り立て、
大量投獄に拍車をかけ、
人生の節目ごとに貧しい人々を苦しめ、
民主主義の土台を蝕んでいる

この現状を変えるには、
数学破壊兵器の一つひとつに対処し、
順に武装解除していくしかないように
思われる。

仮に各システムに問題があったとしても、
なぜ「民主主義の土台を蝕んでいる」
とまで表現されるほど、絶望的な状況に
なってしまうのであろう。


一般に、
特権階級の人ほど対面で評価され、
庶民は機械的に評価される

という面があることも関係している。

この「機械的に」に
数学破壊兵器が利用されることが
多くなっているからだ。

そのうえ、デジタルであったり
ネットワーク環境であったりという
システムの基盤自体が
より問題を大きくしている。

問題は、これらの数学破壊兵器が
互いに絡み合い、
補強し合っていること
だ。

貧しい人々ほど、
クレジットの状況は悪く、
犯罪の多い区域で
自分と同じように貧しい人々に
囲まれて暮していることが多い。

その事実を示すデータが
数学破壊兵器の暗黒世界に
一度でも流れれば

低所得層向けサブプライムローンや
営利大学の略奪型広告に
追い回されるようになる。

システム間の補強が、つまり
システム間でのデータの流用や共用が
どうしてそんなに簡単に
許されてしまっているのか、の疑問は
本文を読んでも解決されないのだが、
元データがデジタル化されている以上
どんな理由であれ
管理面での制限がはずれてしまえば
システム間での流用や共用は
技術的には簡単だ。

警官による警備が強化され、
すきあらば逮捕されるようになる。

有罪判決を受けることになれば、
刑期は通常より長くなる。

これらの情報は、さらに
別の数学破壊兵器へと引き渡される。

1つ目の数学破壊兵器で
不利な状況に追いやられた人々は、
別の数学破壊兵器でも
高リスクと評価され、
標的にされやすくなり、
就職の機会を奪われるようになる


こうなると、
住宅ローンや自動車ローンなど、
あらゆる種類の保険で
金利が跳ね上がる。

すると、
クレジットの格付けは一層低下し、
モデリングによる
死のスパイラルから抜け出せなくなる。

つまり、数学破壊兵器の世界では、
人々は貧困であるがゆえに、
ますます危険で
お金のかかる生活に
追いやられていくようになる。

システムの「規模拡大」が
格差をさらに拡大する
「死のスパイラル」を生み出してしまう。

 

ビッグデータは過去を成文化する。
ビッグデータから未来は生まれない。
未来を創るには、
モラルのある想像力が必要であり、
そのような力をもつのは
人間だけだ


私たちはアルゴリズムに、
より良い価値観を明確に組み込み、
私たちの倫理的な導きに従う
ビッグデータモデルを
作り上げなければならない。

それは、場合によっては
利益よりも公平性を優先させる
ということでもある。

* データを使って
  何をしようとしているのか?
* 使おうとしているデータは
  対象を正しく表現したものなのか?
* システムのアウトプットは
  間違っていなかったのか?
* 安易に他のシステムのデータを
  使おうとはしていないか?

極めて初歩的な内容への
フィードバックでさえ
暴走を始めたシステムでは、
「効率・利益」という名のもとに
どれも機能しなくなっているようだ。

それを修正できるのは技術ではない。

 

おまけ:
本書は米国社会をベースに書かれているが、
本文に何度も登場する「営利大学」の話、
妙に気になってしまった。
「教育の機会」という大義名分を隠れ蓑に
(AI・ビッグデータを使った
 「システムの問題」とは別に)
「学資ローン」と「大学」の間には
大きな大きな問題があるようだ。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2022年4月 3日 (日)

AI・ビッグデータの罠 (2)

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AI・ビッグデータの罠 (2)

- 「類は友を呼ぶ、のか」 -

 

キャシー・オニール (著)
 久保尚子 (翻訳)
あなたを支配し、社会を破壊する、
AI・ビッグデータの罠
インターシフト

(以下水色部、本からの引用)

を読みながら、
今、社会で使われている
AI・ビッグデータを利用した
システムが持つ問題点を学ぶ2回目。

前回書いた、
 * 「エラーフィードバックがない」
に続くキーワードは、

keyword_2「類は友を呼ぶ、のか」

 

システムが導入される前から、
たとえば銀行家は、
借金を申し込みにきた人物を評価する際に、
住宅ローンを背負う能力とほとんど、
あるいはまったく関係のない
さまざまなデータポイントを検討していた。

人種による有利・不利の他、
父親に犯罪歴があれば不利になり、
毎週日曜日に教会に行く習慣があれば
有利になった。

このようなデータポイントは、
すべて代理データである。

財務責任能力を調べようと思ったら、
数字を冷静に検討すればいい
(まともな銀行家は
 必ずそうしていた)。

それなのにそうせず、
人種、信仰、家族関係と
財務責任能力とのあいだにある
相関を見ていた


そうすることで、銀行家は相手を
「個人」として精査するのを避け、
「集団」の一員として見ていた 
- 統計学用語では
  これを「バケット」と呼ぶ。

「あなたとよく似た人々」が
どんな人たちなのかを考えたうえで、
その人々が信用できるかどうかを
判断した。

このバケットの考え方は
システム作成時にも導入された。

つまり、eスコアのモデル作成者は、
「あなたは、過去に
 どのような行動を取りましたか?」 

と質問すべき時に、質問をすり替えて、

「あなたと似た人々は、過去に
 どのような行動を取りましたか?」

という質問の答えを探し出して
ごまかそうとしていたのだ。

この質問の差はどんな問題を
生むことになるだろう?

この2つの質問の違いは大きい。

たとえば、
移住してきたばかりで
質素な生活をしているが
非常に意欲的で責任感の強い人物が、
起業準備をしていて、
初期投資のために資金を借りようと
していたとする。

さて、
この人物に賭けてみようという人は
現れるだろうか? 

おそらく、移民という属性と
質素な生活行動をデータとして
取り込んだモデルでは、
この人物の有望さに気づけないだろう。

もちろん、代理データだから悪い
というわけではない。

念のために言っておくが、
統計学の世界では、
代理データは役に立つ存在
だ。

類は友を呼ぶもので、確かに、
似た者同士は
同じような行動を取ることが多い。

(中略)

このような統計モデルは、
見かけ上は有用であることが多く、
うまく活用すれば、効率も収益も上向く。

だからこそ投資家は、
大勢の人をそれらしい「バケット」に
分類する科学的なシステム

倍賭けする。ビッグデータの勝利だ。

問題は、起こりうる間違いに対して
前回も書いた通り
「適切なるフィードバックが
 かからない」
という点にある。

しかし、誤解され、誤ったバケットに
分類された人物はどうなるのか? 

そういうことは必ず起きる。

しかし、その間違いを正す
フィードバックは存在しない。

統計データを
高速処理するエンジンには、
学習する術がない

選ばれた代理データは正しいのか?
「類は友を呼ぶ」と言えるものなのか?
他に適切なデータはないのか?
そして
バケットへの分類は
適正に行われているのか?

そういったフィードバックや
学習ステップがなくても
システムは数字を吐き出しながら
正常(!!)に動き続け、
正しさの確認すらできないような結果を
出し続けている


恐ろしい話ながらも
思い当たる事例はいくつもある。
大きな問題の背景が
かなりはっきりしてきた。

(次回に続く)

 

 

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2022年3月27日 (日)

AI・ビッグデータの罠 (1)

(全体の目次はこちら


AI・ビッグデータの罠 (1)

- 「エラーフィードバックがない」 -

 

最近頓(とみ)に目にすることが多い
「AI」と「ビッグデータ」
技術面からではなく、
運用面からその問題を考えてみたい。

参考図書はこれ。

キャシー・オニール (著)
 久保尚子 (翻訳)
あなたを支配し、社会を破壊する、
AI・ビッグデータの罠
インターシフト

(以下水色部、本からの引用)

本書には、
教育、広告、雇用、政治など
さまざまな分野で利用された、
または今も利用されているシステムが
いくつも登場する。

そういったシステムが
どんな問題を持っているのか、
どんな問題を引き起こしているのか、
具体的な例とともに
詳しく述べられている。

オニールさんは、問題のあるシステムを
大量破壊兵器のMassに数学のMathをかけて
数学破壊兵器
(Weapons of Math Destruction:WMD)

と名付けて連呼しているが、
当然のことながら、それらのシステムも
最初から兵器になるべく
開発されたわけではない。

最初はどれも有益なシステムを目指して
作られたものだし、
有益な部分が評価されているからこそ、
実際に利用されているわけだ。

なのに、いまやそれらが
単なる一システムの問題を越えて、
様々な社会問題の
基盤になってしまっている。

どうしてそうなってしまうのか、
そこがこの本の肝となっている。

詳細はもちろん330ページ強の
本書を参照いただきたいが、
いくつかキーワードを
ピックアップしながら、
この大きな問題の側面を学んでみたい。

私の視点で選んだキーワードは3つ。

keyword_1「エラーフィードバックがない」
keyword_2「類は友を呼ぶ、のか」
keyword_3「規模拡大が格差拡大を助長」

 

今日は、
keyword_1「エラーフィードバックがない」
について。

「解雇対象者」を選別するシステムを例に。

システムは、
貢献度が低そうに見える者
「解雇対象者」として同定する。

こうして、相当な数の従業員が
不景気の最中に職を失った。

本文でも「見える」に傍点がついて、
強調されている。
「低い者」ではなく「低そうに見える者」
というのがキーだ。

業務への貢献度は
簡単な指標で定義することはできず
どう定義したところで
「低そうに見える者」としての
システム上の定義にすぎない。

ところが、
それに基づいて実際に解雇してしまう。

解雇対象者として同定され、
解雇された人が、次の職を見つけ、
いくつもの特許を生んだとしても、
通常、そのようなデータは
収集されない。

解雇すべきでない従業員を1人、
あるいは1000人解雇してしまっても、
システムはその過ちに気づけないのだ。

つまり、
「低そうに見える者」として
システムが選びだした候補者が、
 * 対象者としてふさわしかったか?
 * 解雇してはいけない人を
   選んでいなかったか?
というフィードバックがかからないまま、
使い続けられてしまう。

これは問題である。なぜなら、
エラーフィードバックがなければ、
サイエンティストはフォンレジック
(科学捜査的)解析を行うことが
できないからだ。

今回で言えば、誤った判別が
存在するという情報がなければ、
どこに間違いがあり、
どこを読み間違え、
どんなデータを見落としたのかを
解明できない。

判断に使うデータ自体も
また
判断の結果の正誤判断も
どちらもかなりあやふやなまま
運用されているシステムは多い。

システムというのは、
そういう学習を重ねながら
賢くなっていく
ものだ。

しかし、これまで見てきたとおり、
再犯予測モデルから
教師評価モデルに至るまで、
数多くの数学破壊兵器が、
実に軽率に、独りよがりな現実を
生み出している


マネジャーは、モデルによって
算出されたスコアを真に受ける。

アルゴリズムのおかげで、
難しいはずの判断が
手軽に行えるようになる。

そうやって従業員を解雇し、
経費を削減し、
その決定の責任を客観的数字の
せいにすることができる


- その数字が
  正確かどうかにかかわらず

どうして
「独りよがりな現実を生み出す」システムを
ここまで広めてきてしまったのだろう。

決定の責任を客観的数字の
せいにしながら、
運用しているのは人間だが、
そこに正しいフィードバックを
かけられなければ、
システム自体を
正しく成長させることはできない。

 

 

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