科学

2021年6月13日 (日)

22歳と63歳の出会い

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22歳と63歳の出会い

- ひとりの読者を喜ばしえたならば -

 

森田真生 (著)
計算する生命

(以下水色部、本からの引用)

を読んで

 * 「状況」に参加できる「身体」
 * 世界自身が、世界の一番よいモデル
 * 「responsibility(責任)」とは
 * 「過去が未来を食べている」

などの問いかけについて書いてきた。

最後に、本の中から
ふたりの人物の出会いと交流について
紹介しておきたい。

ふたりとは、
ウィトゲンシュタインと
フレーゲ。

それぞれがどんな業績を残した人物か、
についてはここでは省略させていただくが、
交流の様子はたいへん興味深い。

ウィトゲンシュタインは
1889年ウィーンの生まれ。

彼は人間の「言語」に、生涯にわたって
深く関心を寄せ続けていた。

虚飾を取り去った、無駄のない、
誠実に語られる言葉の可能性を
見極めたいと考えていた彼の心を、
フレーゲの論理学がとらえた。

そこはまさに、無駄がなく整然とした、
美しい統制の効いた言葉と
論理の世界があったからだ。

そして、いよいよ
ふたりは対面することになる。

ウィトゲンシュタインが
はじめてフレーゲのもとを訪ねたのは、
おそらく1911年の
夏の終わり頃だとされる。

ウィトゲンシュタインは
このときまだ22歳、
フレーゲは63歳になる年だった

40歳の年の差。
でもウィトゲンシュタインは
長老に果敢に論争をしかけたようだ。

ウィトゲンシュタインはこの日、
勢い勇んでフレーゲに論争を挑んだ。

ところが、老練の論理学者に、
そう簡単には太刀打ちできない。

結局、ウィトゲンシュタインは
こてんぱんに打ち負かされたという。

それでも最後に、
「ぜひまたいらっしゃい」と
温かな声をかけてもらった

敬愛する先達からの
この何気ない一言は、
きっと青年の心に
深く染み込んだに違いない。

面会の翌年、ケンブリッジ大学
トリニティカレッジに入学した
ウィトゲンシュタインだったが、
第一次大戦が勃発すると
彼は志願兵となる。

第一次大戦が勃発すると彼は、
志願兵として最前線に立ち、
命がけで租国のために戦った。

同時に、要塞で、
野砲(やほう)の傍らで、
あるいは騎兵隊の側で

後に『論理哲学論考』
-以後、『論考』と略す-
としてまとめられることになる
最初の著作の執筆に
精力的に取り組み続けた


その進捗を彼は、
フレーゲに事あるごとに
報告している。

戦場であの本を書き続けていたなんて。

フレーゲもまた、
ウィトゲンシュタインを深く敬愛し、
彼の学問に期待を寄せていた。

フレーゲから
ウィトゲンシュタインに送られた
一連の書簡を読むと、

フレーゲが、前線で学問に励む
青年の安否を気遣い、
草稿の完成を心待ちにしていた様子が
伝わってくる。

双方向の信頼関係。

ウィトゲンシュタインは
「論考」の序文にこう書いているという。

「理解してくれたひとりの読者を
 喜ばしえたならば

 目的は果たされたことになる」

ウィトゲンシュタインの頭に
「ひとりの読者」としてフレーゲが
浮かんでいたことは間違いないだろう。

1918年、ウィトゲンシュタインは
捕虜となりイタリアの収容所に入るが、
彼の姉の協力もあり、
完成した「論考」の原稿はフレーゲに
届けられることになる。

ところがところが、
フレーゲからの応答は
ウィトゲンシュタインを
「ひどく落胆させるものだった」

という。

その後もフレーゲが『論考』を
最後まで読み進めたという
形跡はない。

なんということだろう。

深い絶望を味わった
ウィトゲンシュタインは
その後、哲学研究の現場を離れ、
僻村の学校で教師として
活動を始めるようになる。

 

本では
1848年生まれのフレーゲが
24歳も若い
1872年生まれのラッセルの指摘

(ラッセルのパラドックス)により
長年の研究の基礎を揺るがされる
というエピソードも
丁寧に紹介されている。

 

どちらも外から見ると
ハッピーエンドと言えるような
協力関係ではなかった。

それでも、
ウィトゲンシュタインの
『論理哲学論考』
といい、
フレーゲの
『算術の基本法則』
といい、
これらが後の世に大きな影響を与える
著作となりえたのは
世代を越えた厳しい「ひとりの読者」が
そこにいたからこそなのだろう。

 

 

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2021年6月 6日 (日)

「過去が未来を食べている」

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「過去が未来を食べている」

- 仮説に支配されていないか -

 

森田真生 (著)
計算する生命
新潮社

(以下水色部、本からの引用)

を読んで

 * 「状況」に参加できる「身体」
 * 世界自身が、世界の一番よいモデル
 * 「responsibility(責任)」とは

について紹介してきた。

本から、もういくつか
印象深い言葉をピックアップしたい。

人工知能研究のアメリカの非営利団体
オープンAIが2020年6月に公開した
「GPT-3」は、
人間が書いたものと
ほとんど見分けがつかない水準の
エッセイや詩を自動生成するという。

GPT-3は、
ウェブや電子書籍から収集した
一兆語近い単語の
統計的なパターンを学習して
文章を作成していて、人間のように
言葉を「理解」しながら
作文をするわけではない。

肝心なのは、
意味よりもデータであり、
理解よりも結果
なのだ。

こうした技術が
目覚しく進歩していくなかで、
意味や仕組みを問わずとも、
計算の結果さえ役に立つなら、
それでいいではないか
という風潮も
広がってきている。

「結果さえ役に立つならそれでいい」
の声を聞くシーンは
いまやあちらこちらにあるが、
そんな時、
我々は他律化している、
と森田さんは言う。

何しろコンピュータに
意志や意図はない。

膨大なデータを処理する機械の作動に
振り回されるとき、
私たちは
「人間を超えた」機械に
支配されているのではなく、

人間が過去に設定した
「隠された仮説」に、
支配されているだけ
なのだ。

 

哲学者ティモシー・モートンは

深く計算が浸透し、
自動化が進んでいく
現代の社会が抱える問題は、
「過去が未来を食べている」
ことであると、

2020年に開催された
オンライン講演『Geotrauma』
のなかで語ったという。

学習に基づいて
プログラムを更新できる人工知能でも
更新の仕方そのものは、
厳密にあらかじめ設計者によって
規定されている以上、
過去に決められた規則を
遵守するだけの機械に、
無自覚に身を委ねていくことは、
未来を過去に食わせている、
とも言えるわけだ。


本の前半で丁寧に述べられている、
先人たちが計算の意味を問うことで
新しい世界を切り開いてきた

その過程を思うと
今はまさに別な方向に
歩み出してしまっているようにさえ見える。

肝心なことは、
計算と生命を対立させ、
その間隙を
埋めようとすることではない。

これまでも、そしてこれからも
ますます計算と雑(まざ)り合いながら
拡張していく人間の認識の可能性を、
何に向け、どのように育んでいくかが
問われているのだ。

改めて現実の世界に目を遣ると
前回書いた通り、悲しいかな
人間が計算機に
近づいていってしまっている面は
確かにある。

人はみな、計算の結果を
生み出すだけの機械ではない。
かといって、
与えられた意味に安住するだけの
生き物でもない。

計算し、
計算の帰結に柔軟に応答しながら、
現実を新たに編み直し続けてきた
計算する生命である。

意味を問うことで見えてくる新しい世界。
数学は長い歴史の中で、
様々な新しい世界を見せてくれた。
マイナスという数字に、虚数に、
多様体に、集合に、論理や認識の世界に。

計算だけして、
結果だけ見てそれを知性と呼べるのか。
未来を過去に食べさせるだけでは
新しい世界は見えてこない。

 

 

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2021年5月30日 (日)

responsibility(責任)とは

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responsibility(責任)とは

- 結論がでるまで動こうとしていない -

 

森田真生 (著)
計算する生命
新潮社

(以下水色部、本からの引用)

を読んで

 * 「状況」に参加できる「身体」
 * 世界自身が、世界の一番よいモデル

について紹介した。

本から、もういくつか
印象深い言葉をピックアップしたい。

現代の認知科学者は、
生物の認知を
特徴づける重要な性質として、
 身体性(Embodiment)
 状況性(Situatedness)
脳内だけでなく環境の情報を生かして
判断や行為を生成していく
 拡張性(Extendedness)
などを指摘している。

スポーツ選手に求められるのは、
まさにこうした生命らしい知性だ。

一度開始の笛が鳴れば、
試合は待ったなしで進行していく。
選手にとって大切なことは、
試合を描写することでも
理解することでもなく、
進行し続ける試合の流れに
参加すること
である。

我々が生きていくということは
まさに参加していることだ。

その参加している世界で今、
我々は何をしているであろう?

地球温暖化についても、
生物多様性の喪失についても、
計算ばかりしていて、まさに

結論がでるまで
動こうとしていない

なんとも耳の痛い指摘だ。

 

子どもが危険な道路に
飛び出そうとしているとき、
果たして本当に轢かれるのか、
あるいは、
轢かれる確率がどれくらいなのか、
それを計算していては
間に合わないのだ。

十分な理由を見つけるまで
動かないことはこの場合、
それ自体が倫理に背く行いになる。

そんなとき、どうしてきたのか。

目の前で子どもが道路に
飛び出そうとしているのを目撃したら、
思わず手を差し伸べるだろう。

考える前にパスを出す
スポーツ選手のように、
気づいたときには
子を助けようとするだろう。

これこそが、
字義通りの「responsibility」
である。

「responsibility」は
「責任」とも訳されるが、
文字通りには、
「応答(respond)」する
「能力(ability)」

のことだ。

これまで、さまざまな場面で
生物としての応答能力を発揮してきた
我々は今、どうなっているだろう。

溶解していく氷床や、
失われていく生物多様性、
崩壊していく海洋生態系などの
環境の異変に対して、
私たちは幼子に対するのと同じように
速やかに応答することができていない。

まるで、
道路に飛び出す子を前にしながら、
轢かれる証拠が揃うまで
動こうとしない機械のように、
計算ばかりしていて動かない

機械が人間に近づくのではなく、
人間がまるで機械のように、
目前の状況に
応答する力を発揮しないまま、
計算に耽溺している
のだ。

 

米国の哲学者
ヒューバート・ドレイファスは
すでに半世紀前に

計算機が人間に近づいていくより、
むしろ、
人間が計算機に近づいていく
未来の危険性
を説いた。

人間を超える知能を持つ
機械の出現ではなく、
人間の知性が機械のようにしか
作動しなくなることをこそ
恐れるべきだと語った

と言う。

近年
シンギュラリティなる言葉とともに
人間を超える知能を持つ機械の出現が
話題になることが多いが、
ほんとうの危険性は「機械が」ではなく
むしろ「人間が」のほうにあるのだ。

 

 

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2021年5月23日 (日)

世界自身が、世界の一番よいモデル

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世界自身が、世界の一番よいモデル

- 頭だけでは知能になれない -

 

森田真生 (著)
計算する生命
新潮社

(以下水色部、本からの引用)

を読んで興味深いエピソードを
紹介する2回目。

前回
掃除ロボット「ルンバ」の
生みの親として知られる
ロドニー・ブルックスが
ロボットを制御するための
新しい設計について、
原理的な考察を始め、当時の問題が

ロボットが動くためには、
 外界のモデルを
 あらかじめ構築する必要がある


というそれまでの科学者の
思い込みにあるという結論に達した。

というところまで書いた。

外界の情報を「知覚」して
内部モデルを構築し、
計画を立ててから「動く」と
あまりにも時間がかかりすぎる。

そこで、ブルックスは
一連の長々しい過程を、
2つのステップに庄縮してしまうことを
思いつく。

すなわち、複雑な認知過程の全体を、
知覚」と「行為」の二つのステップに
まとめてしまうのである。

間に挟まるすべてを丸ごと抜き取る
大胆不敵なアイディアだ。

ブルックス自身の言葉でいえば、
「これまで人工知能の
 『知能』と思われてきたものを、
 すべて省く

ことにしたのだ。

 

着想の源は昆虫だったという。
「なぜ、少数の神経細胞しかない
 昆虫にできることが
 ロボットにはできないのか?」

この問いを掘り下げていくなかで、
ブルックスは「表象を捨てる」という
アイディアにたどり着いたのだ。

ブルックスは、三層の制御系からなる
ロボットAllenを作成する。

*物体との衝突を避けるための
 単純な運動制御を担う最下層

*ロボットを
 ただあてもなく逍遥させる中間層

*目標となる行き先を探し、
 これに向かって進む
 動作の指令を出す最上層

この三層が互いを包摂しながら
並行して動き続ける。

ブルックスのロボットは
外界のモデルを構築しないまま、
速やかに実世界を
動き回ることができた


彼はこれを
「包摂アーキテクチャ
 (subsumption architecture)」
と名づけた。

三層の説明を読んでいると、
掃除ロボット「ルンバ」の動きが
まさにそのままではないか。

 

実世界で起きていることを
感じるためのセンサと、
動作を速やかに遂行するための
モータがあれば、
外界のことを
いちいち記述する必要はない。

外界の三次元モデルを詳細に構築しなくても、
世界の詳細なデータは、
世界そのものが保持していてくれる
からだ。

このことを、ブルックスは
次のような言葉で表現しているという。

ブルックスの巧みな表現を借りれば、
「世界自身が、世界の一番よいモデル
 (the world is its own best model)」

なのである。

「世界自身が、世界の一番よいモデル」
なんともうまい表現ではないか。

技術者たちが別なモデルで
表現しなおそうとしてしまう理由も
エンジニアのひとりとして
痛いほどわかるので、
モデル化自体を簡単に否定はできないが、
こういう「発想の転換」には
ロボット自体の発明以上に
ワクワクさせられる。

ブルックスはかくして、
生命らしい知能を実現するためには
「身体」が不可欠であること
そして、

知能は環境や文脈から
切り離して考えるべきものではなく、
「状況に埋め込まれた(situated)」
ものとして理解されるべき
であると
看破した。

そうして彼は、
既存の人工知能研究の流れに、
「身体性(embodiment)」と
「状況性(situatedness)」と
いう二つの大きな洞察を
もたらしたのである。

30年以上も前、
「アッタマ(頭)ばっかりでも、
 カッラダ(体)ばっかりでも
 ダメよね」
というコピーのCFがあったが、
まさに頭だけでは知能になれないのだ。

 

 

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2021年5月16日 (日)

「状況」に参加できる「身体」

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「状況」に参加できる「身体」

- 外界モデルを作らずに動く、へ -

 

小林秀雄賞を受賞した
「数学する身体」から5年、
独立研究者として地道な活動を続けている
森田真生さんが、2021年4月
「計算する生命」を上梓した。

デカルト、リーマン、
フレーゲ、ウィトゲンシュタインらを核に
計算だけでなく、
数学・哲学・認知科学の歴史を
心や言語についての認識も絡めながら
丁寧にかつ多面的に描き出すその内容は、
抑制された文章で綴られているものの、
「数学する身体」同様
まさに知的興奮に溢れている。

特に、大きく計算の歴史を振り返ったあと
「計算」と「生命」の繋がりに言及し、
「計算する生命」である我々は
今のこの時代をどう生きていくべきか、に
問いを投げかけていく最終章は
同じ本とは思えない急展開で
その変化を楽しむこともできる。

いずれにせよ要約や
簡単な解説は不可能なので
興味を持った方にはぜひ本を手に取り、
じっくりその世界を
味わっていただきたいが、
そんな本の中から、
いくつかエピソードを紹介したい。

森田真生 (著)
計算する生命
新潮社
(以下水色部、本からの引用)

最初は、人工知能の発展に関する
エピソードから。

1960年代に未来を楽観していた
人工知能研究は、
1980年代、袋小路に入り込んでいた。

規則を列挙するやり方では、
機械はあらかじめ想定された
規則の枠に縛られ、
その外に出ることができない。

規則をいくら集積しても
規則通りの動きはできるものの、
自律的な知性は生まれてこない。

壁を乗り越えるためには、
形式的な規則の存在を
あらかじめ措定するのとは
別のアプローチで、
人間の知能を語る試みが必要である。

このとき鍵となるのは、
刻々と変化する「状況」に
参加できる「身体」
ではないか。

目的と意図を持った、
身体的な行為こそが
知能の基盤にあことを、
もっと重く見るべきだ

と米国の哲学者ドレイファスは
1972年の著書
『コンピュータには何ができないか』
で説いている、という。
今から見れば50年も前の本で、だ。

当時、障害物を避けながら
部屋の中を自由に動き回れる
ロボットの研究が進んでいたが、

このロボットは、
映像をカメラから読み込んでは
部屋の三次元モデルを構築し、
モデルに基づいて運動計画を立てた後、
やっと動き出す仕組みになっていた。

15分ほど計算しては1メートル進み
さらに計算してはまた動く。

物を避けながら部屋を横切るだけで
何時間もかかってしまう機械。
それが、当時最先端の
ロボットの現実だったのだ。

もちろん、計算機の処理能力を高め
計算時間を短縮する、
という道もあっただろうが、それでは
たとえば15分が5分になる、
といったレベルの進歩しか望めない。

この問題に

突破口を開いた先駆者の一人が、
オーストラリア出身の
若きロボット工学者、
ロドニー・ブルックス(1954-)である。

日本でもおなじみの
掃除ロボット「ルンバ」の
生みの親として知られ、
ロボット界を牽引するカリスマとして
活躍しているのあのブルックスだ。

1984年、MITで自分の研究チームを
発足させたブルックスは
ロボットを制御するための
新しい設計について、
原理的な考察を始めた。

そして、問題は

ロボットが動くためには、
 外界のモデルを
 あらかじめ構築する必要がある


というそれまでの科学者の
思い込みにあるという結論に達した。

あらかじめ外界モデルを構築しない、
つまり
外界モデルのない世界で
ロボットはどう動くのか。
そしてそれは、
先の「状況」に参加できる「身体」
どう結びつくのか。

ブルックスの導き出した発想の転換、
次回に続けたい。

 

 

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2021年5月 2日 (日)

称賛されるペットの特徴は、

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称賛されるペットの特徴は、

- 「殺処分」だけがペット問題ではない -

 

動物と人間の関係を
200冊以上の引用文献を駆使し、
 *ペット
 *動物虐待
 *屠畜と肉食
 *動物実験
 *動物の福祉・解放
などの視点から見つめ直している

生田武志 (著)
いのちへの礼儀
筑摩書房

(以下水色部、本からの引用)

から、
 * 人類が他の動物に食べられていたころ
 * トキの「復活」?
 * 侵略的外来種「ネコ」
について紹介したが、今日は
もう少し身近なペットについて
考えてみたい。

チワワ、ダックスフント、ブルドッグ、
ドーベルマンなどの「犬種」は、
生物学的には(オオカミの亜種である)
イエイヌの「変種」です。

こうした犬種は、
手近な図鑑にあるものだけでも
500種近くあります
が、
それらは自然に発生したのではなく、
近親交配など人為的方法によって
作り出されてきました。

 

もとは「牛(ブル)いじめ」という
見世物用に開発されたブルドッグも
1835年の動物虐待防止法で
「牛いじめ」が禁止されると
番犬、愛玩犬として飼われるようになり
身体的特徴が
ますます強調されるようになる。

しかし、この独特の外観は、
ブルドッグの健康に大きな問題
もたらすことになりました。

まず、ブルドッグは
あまりに頭が大きいため
母親の産道を通ることができず、
出産はふつう、
人の手による帝王切開になります。

また、鼻先が短すぎるので
うまく呼吸ができず、
生涯にわたって睡眠時無呼吸など
酸素不足に悩まされます


このため体温調節も難しく、
呼吸不全や心不全で
若死にしやすくなっています

これらに対し、
ペンシルベニア大学
「動物と社会の相互作用に関するセンター」
所長のジェームズ・サーペル氏の
こんな言葉も紹介されている。

「もしもブルドッグが
 遺伝子組み換えの産物だったなら、
 西欧世界全域で抗議デモが
 巻き起こっていたことだろう。
 まちがいない。

 ところが実際には
 人の都合に合わせた交配によって
 作られたので、
 その障害は
 見過ごされているばかりか、
 場所によっては
 称賛されてさえいる

 

こういった生体改造は、もちろん
ブルドッグだけではないし、
犬に対してだけではない。

関節疾患や外耳炎になりやすい構造を
持たせてしまったダックスフント

頭蓋骨が小さすぎて脊髄や
脳の障害に苦しむことが多い
キャバリア・キング・チャールズ・
スパニエル


猫に関しても、

短頭のため呼吸困難、眼病、
涙管奇形になりやすい上に
死産の確率が高いヒマラヤン

軟骨に奇形があり、
若い時から重い関節痛を発症しがちな
スコティッシュ・フォールド

などなどいつもの例を挙げている。

ペットの問題というと、
人間の身勝手な振舞いが原因となっている
「殺処分」が話題になることが多いが、
こうしてみると、
かわいいペットが欲しい、という
「人の都合に合わせた」生体改造が
生物としての種そのものに
様々な問題を引き起こしている
ことが
よくわかる。

しかも、
そういった強調された身体的特徴は、
まさに
「場所によっては
 称賛されてさえいる」
わけだ。

称賛されるペットの特徴には、
生物として健全に生きる権利を
奪っている側面もあるのだ。

「殺処分」だけがペットの問題ではない。

 

 

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2021年4月25日 (日)

侵略的外来種「ネコ」

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侵略的外来種「ネコ」

- 生態系にとっての悪の枢軸!? -

 

動物と人間の関係を
200冊以上の引用文献を駆使し、
 *ペット
 *動物虐待
 *屠畜と肉食
 *動物実験
 *動物の福祉・解放
などの視点から見つめ直している

生田武志 (著)
いのちへの礼儀
筑摩書房

(以下水色部、本からの引用)

から、
 * 人類が他の動物に食べられていたころ
 * トキの「復活」?
について紹介したが、今日は
「ネコ」についての
ちょっと意外な数字を紹介したい。

まずは侵略的外来種の説明から。

人間による環境破壊の一つに
「外来種問題」があります。

外来種とは、
もともとその地域にいなかったのに、
特に人間によって
他の地域から移入させられた生物で、

その中でも、
地域の自然環境や生物多様性を
脅かすおそれのあるものを
「侵略的外来種」(侵略的外来生物)
と呼んでいます。

現在の生物多様性減少の最大の原因は
生息地の減少・破壊
(特に熱帯林の破壊)ですが、

外来種問題は二番目の原因とも言われ、
過去400年間の種の絶滅の半分は
外来種によるとされています

(Courchamp, Franck.(2006)
 「世界の島嶼地域における
  侵略的外来種問題」
 『哺乳類科学』vol.46(1)85-88.)

では、侵略的外来種と言えば
具体的にはどんな生物だろう。

なんと
代表的な侵略的外来種の一つはネコ
だという。

ネコという動物の問題は、
たとえ飼い猫のように
食べ物が充分にあっても
「おやつ」や
「娯楽」のために狩りをし

多くの動物を殺すことです。
(「過剰捕食」[hyperpredation]と
 呼ばれます)。
この点、ネコはわたしたち
ホモ・サピエンスとよく似ています。

 

仮に過剰捕食があったにせよ、
ネコと「侵略的」という言葉が
どうも結びつかない。

オーストラリアを例に
少し具体的な数字で見てみよう。

オーストラリアには現在
2000万匹とされる野良猫がいますが、
このネコたちは今までに
 100種以上の鳥類、
  50種以上の哺乳類、
  50種の爬虫類、
 多くの両生類や無脊椎動物を
絶滅させました
(Courchamp, Franck.(2006)
 「世界の島嶼地域における
  侵略的外来種問題」
 『哺乳類科学』vol.46(1)85-88)。

過去だけではない。今後も...

オーストラリア環境省によれば、
ネコは一日に
 7500万の固有種の動物を殺し、
  35種の鳥類、
  36種の哺乳類、
   7種の爬虫類、
   3種の両生類を
絶滅させようとしています

にわかには信じられないような数字だが、
ネコのことを

オーストラリア環境大臣はネコを
「暴力と死の津波」

オーストラリア野生動物
管理委員会委員長は
「生態系にとっての悪の枢軸」

と呼んでいる関係者の言葉は
まさに数字を裏付けるようだ。

なのでこの現実に対して

2006年にオーストラリア政府は
1800万匹の野良猫の根絶」を宣言し、
金属製のトンネルに猫をおびき寄せて
毒ガスを噴射するわなや
毒入りのソーセージなどを開発して
駆除を進めてきました。

2015年には、環境大臣があらためて
「2020年までに200万匹の
 野良猫を殺処分する」計画を
発表しています。

 

もちろんネコの問題は
オーストラリアだけではない。

* ニュージーランドのラウル島で
  数十万羽いたセグロアジサシが絶滅、

* 亜南極のケルゲレン諸島で
  年間約125万羽の海鳥が殺される、

などなど

ネコは世界のほとんどの島に
持ち込まれており、
島の動物相を破壊するスピードでは、
 ネコの右に出るものはいない

(ソウルゼンバーグ ウィリアム.(2010)
『捕食者なき世界』野中香方子訳,
 文藝春秋)

と言われる例を並べている。

「個としての動物」たちの
命や苦しみよりも
「生態系」の保護が優先されるという
大義名分のもと、
外来種を駆除してしまっていいのか、は
簡単な問題ではないが、

ネコに対して
かわいいペットのイメージしか
なかったせいか
上記「破壊力」の数字には
ほんとうに驚いてしまった。

備忘録代わりにメモっておきたい。

 

 

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2021年4月18日 (日)

トキの「復活」?

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トキの「復活」?

- 対象だけでなく環境も含めて -

 

動物と人間の関係を
200冊以上の引用文献を駆使し、
 *ペット
 *動物虐待
 *屠畜と肉食
 *動物実験
 *動物の福祉・解放
などの視点から見つめ直している

生田武志 (著)
いのちへの礼儀
筑摩書房

(以下水色部、本からの引用)

から、その一節を紹介する2回目。

今日は、
トキの「復活」について触れたい。

日本を象徴する鳥と言われるトキ
学名ニッポニア・ニッポン)は、
明治末以降、食用や羽根を取る乱獲で
1930年代までに
数十羽にまで減りました。

1952(昭和27)年にトキは
特別天然記念物に指定され、
佐渡や石川県で
禁猟区が設定されましたが、

おそらくは農薬散布による餌の減少、
開発による水田の減少などのため、
2003(平成15)年に絶滅しました。

学名が
Nipponia nippon(ニッポニア・ニッポン)
というのは初めて知った。

すごい学名だ。
国鳥のキジの立場はどうなるのだろう?
は、よけいな心配か。

それはともかく、
日本種の絶滅に瀕して
中国からの輸入が始まっていた。

1999年以降、
中国から贈られたトキ5羽を元に
人工繁殖させる試みが始まり、
2008年から佐渡で放鳥が始まり、
2019年には350羽が生息しています

なお、中国のトキと日本のトキは
遺伝子の違いがごく僅かな同一種で、
「例えて言うなら、
 日本人と中国人の違いみたいなもの」
(石居進『早稲田ウィークリー』919号)
とされています。
いわば、日本人が絶滅したので、
「同一種」である中国人を連れてきて
「復活」させたようなものです。

これを「復活」と
言っていいかどうかはともかく、
トキが生息するようになったのは
事実だ。

トキの場合は、その絶滅が
生態系の破壊を引き起こしたというより、
「日本には美しいトキがいてほしい」
という日本人の「願望」で
計画されたと言えます。

しかし、トキは1952年に
特別天然記念物に指定されて以来、
50年間保護されたにもかかわらず
絶滅しているので、
日本ではトキが生息しにくい環境が
広がっていると考えられます

この指摘は、
すごく大事なことを含んでいると思う。

トキの保護政策や技術については
何も知らないので、
トキのことに関して
その是非を論じる力は一切ない。

ただ、

「50年も保護してきたのに
 絶滅したということは
 すでに環境のほうが
 合わなくなっているのではないか


の視点は、
トキの場合に限らず、
また生物の場合に限らず、
あるものの生存戦略を考える上で
大事な視点のひとつだろう。

特に、「願望」で無理やり
存続させようとするとき
って、
存続のために「対象への対応」ばかりに
議論が偏る傾向が強い気がする。
対象をどう保護するか、とか
対象をどう強くするか、とか。

 

地元では、かつての
トキが生息していたころの環境を
復活させる取り組みも
行われているらしいが、

そうでなければ、
そのような環境に無理やり
導入させられた中国産のトキは
「いい迷惑」かもしれません。

 

 

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2021年4月11日 (日)

人類が他の動物に食べられていたころ

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人類が他の動物に食べられていたころ

- 生得の武器がない -

 

今週は、2つの驚く記事を目にした。

(1) 人類は「肉を食べ尽くしたあと」雑食に移行したと判明
  人はもともと肉食動物だったが、
  過剰狩猟のため、その後、
  植物性の栄養源を取り入れるようになり
  次第に雑食化していったとのこと。

  詳しい内容は、
   American Journal of Physical Anthropology
  に。

(2) 素粒子物理学の根幹崩れた? 磁気の測定値に未知のずれ
  素粒子物理学の基礎である
  「標準理論」で説明できない現象
  捉えたと、
  米フェルミ国立加速器研究所が
  2021年4月7日、発表した。
  素粒子ミューオンの磁気的な性質が、
  理論で想定される値から
  大きくずれていたという。

  理論が想定していない力が働いていたり、
  未知の素粒子が影響
したりしている
  可能性がある。

  元となる発表はこちら。
   First results from Fermilab’s Muon g-2 experiment strengthen evidence of new physics

どちらもこれから精査が必要だろうが、
長く広く信じられていたことが
書き換えられるかもしれない発表には
ドキリとさせられる。

仮に100%の新発見でなかったとしても、
そこにはこれまで見落としていたような
大事な視点や事実が
含まれていることも多々あるし。

今後の検証報告等に気をつけていきたい。

 

これらのニュース、特に(1)を耳にして
思い出した本があるので、
今日はその本について触れたい。

 

動物と人間の関係を
200冊以上の引用文献を駆使し、
 *ペット
 *動物虐待
 *屠畜と肉食
 *動物実験
 *動物の福祉・解放
などの視点から見つめ直している

生田武志 (著)
いのちへの礼儀
筑摩書房

(以下水色部、本からの引用)

は、

「いのちへの礼儀」という書名が
ある意味「救い」とも言える
実に重い本だった。

特に、畜産業(本では工業畜産とか
動物工場とかの言葉を使っているが)
における動物の扱いの実態は
読むことさえ辛い。

もちろん、肉も卵も食べているのだから
その恩恵は目一杯受けているし、
逆に、本来は知らなくてはいけないこと
なのかもしれないが、
やはり「残酷」と思える現実からは
どうしても目をそむけたくなる。

ただ、この本の価値は
そういった現実を
単に読者に知らせることにはない。

動物と人間との関係を
広く、冷静に見つめ直すことで
読者に「いのちへの礼儀」を
改めて真摯に考える
きっかけを与えてくれていることにある。

なので、客観的な事実がどうか、
という情報の問題だけでなく、
新たに気付かされることも多い。

450ページほどの内容豊かな本から、
そんな点に絞って
いくつか言葉を紹介したい。

最初はやはりこれ。

肉食しなくても生きていけるのに、
なぜわたしたちは
わざわざ動物を殺すのでしょうか

明確な解があるわけではないのだが、
まさに通奏低音のように
本を読んでいる間じゅう
静かに流れ続ける問いだ。

まずは歴史を振り返ってみよう。

ジャングルに住む
初期の人類は草食でしたが、
サバンナに進出した後、
250万年ほど前から
少量の肉を食べ始め、
200万年前には
肉食が定着したようです。

そんな古い食性がどうしてわかるのか?
化石骨から読み取れるようだ。

250万年前から200万年前の
オーストラロピテクスの
化石骨の分析では、
食性の70%が植物性、
30%以下が動物性となっています。

動物性は、昆虫や
トカゲなどの小型の脊椎動物を
食べていたことに由来するらしい。

そもそも、人類の
大きく平たい切歯と臼歯という特徴は、
「肉食」動物でも「草食」動物でも
「雑食」動物でもなく
「果実食」であることを示しています
(三浦慎悟(2018)
 『動物と人間 関係史の生物学』
 東京大学出版会)

 

さて、ここで話を次の段階の
「狩猟」に発展させようとすると
あることに気づく。

一般に、体重が150キログラムより
軽い動物は捕食されやすく

それ以上の体重の動物
(スイギュウ、サイ、カバなど)は
ほとんど捕食されないことが
知られています
(タンザニアの
 セレンゲティ国立公園での
 40年間の調査による)

そう、人間自体が
大きな動物の獲物だったのだ。

人類はほとんど生得の
武器のない生き物です。

ライオンやヒョウのように
時速70キロメートルで走れず、
鋭い牙もかぎ爪もありません。

チンパンジーは鋭い犬歯があり、
握力も約300キログラムあり、
ゴリラも150キログラムの体重で
握力は500キログラム程度ある
とされますが、それでも
現在の野生の霊長類は
年間「4匹中1匹」が
捕食されている
のですから
人類もそれに近い程度
食べられていたと考えられます
(事実、動物に食べられた
 跡の残るホモ・サピエンスの骨格

 各地で発掘されています)

まさに

人類は「狩人」であると同時に
他の動物たちの「食べもの」

だった時期があるわけだ。

ホモ・サピエンスが
「出アフリカ」を果たすのが
約6万年前、
船、弓矢、針などを発明するのが
約7万年前から3万年前、
狩猟具を身に着け
食物連鎖の頂点に立つようになるのには
かなり時間がかかったことになる。

「食べられていた」ころの記憶が
体のどこかに残っているのであれば
他の動物に対してもう少し
優しくなれるような気がするのだが。
残念ながらそこからも時間が経ちすぎた
ということなのだろうか。

 

 

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2021年2月14日 (日)

リアリズムって?

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リアリズムって?

- リアルな博物画は幻想絵画? -

 

「日本資本主義の父」とも称される
渋沢栄一をモデルにした
NHKの大河ドラマ「青天を衝け」が
今日2021年2月14日から始まった。

渋沢の出身地である
埼玉県深谷市を訪問した話は
深谷の煉瓦(レンガ)なる題で
このブログでも以前簡単に書いた。

深谷に行くと、渋沢家の旧宅
通称「中の家(なかんち)」のほか
誠之堂(せいしどう)、
清風亭(せいふうてい)といった
移築した建物も
近くで見学できるのだが、
建物以上に
中の家の「血洗島(ちあらいじま)」という
なんとも恐ろしい響きの住所が
いまでも忘れられない。

さて今日は、渋沢栄一で思い出した
(と言ってもご本人ではなくお孫さん)
小さなエッセイを紹介したい。

荒俣宏さんが
雑誌「文藝春秋」の1989年8月号の
巻頭随筆として寄せていた
「新巻鮭とルナールに始まる」
というエッセイ。
(以下水色部、エッセイからの引用)

 

渋沢栄一から
孫の敬三が受け継いだ渋沢財閥は
近代日本の経済をリードしたが、
日本の魚類学をもリードした

渋沢栄一の孫敬三さんは、
「祭魚洞文庫」という名で
漁業史関係の文献を残したらしい。

荒俣さんは、この「祭魚洞文庫」を
調査するのだが、
そこですごいものを発見してしまう。

世界最初の太平洋産魚類図譜、
 ルイ・ルナール刊
 『モルッカ諸島魚類彩色図譜』
 (1718-19)

である。

発見時の衝撃をこんな言葉で書いている。

これを見た瞬間、思わず手がふるえ、
目がかすみ、口ら泡を吹き、
髪の毛が立ち、肌がニワトリになった。
そのくらい驚いても、
ぜんぜん不思議はない珍本なのだ。

なぜなら、この本は
初版以来三版を閲(けみ)しているが、
出版総数三百冊を超えないと思われ、
現存するもの二十点にすぎない、という
魚類図鑑史上
もっとも貴重な書物
だったからである。

そこには、シュールな魚類彩色図があった。

この絵を描いたサムエル・ファロアーズは、
序文で
「この絵は実につましい模写にすぎない。
 現物はこれよりもっと信じがたい
 体色と形をしている」と述べている。

ルナール図譜の最大の特徴は、
生きた魚を現地で精写したところで
魚屋に並ぶような死んだ魚を
描いていない点。

普通の魚類図鑑は
だいだいこの死んだ姿を
あたかも生時の姿のように描くのが
普通なのである。

ところがファロアーズは、
熱帯の魚の生きた姿を
突然リアルに描いて、西洋人に示した。

そこに成立した絵は、
魚屋の店頭の認識を出ない西洋人の
リアリズム感覚から大きく逸(そ)れた、
まさにシュールで
幻想的なファンタジー絵画に
ならざるをえなかった。

換言すれば、
博物画はリアルに描けば描くほど、
幻想絵画になってしまうという
皮肉な運命
をたどる。

博物学に詳しい、
まさに荒俣さんらしい指摘だ。

近代日本の油絵にリアリズムを
獲得しようとした高橋由一が、
生きた鮭でなく新巻鮭を描いたのは、
まこと、理にかなっていた。

なぜなら魚の死体画こそが、
陸上にいるわれわれに
陸上の魚(魚屋の魚)のリアリズムを
保証するからである。

そうなると、リアリズムなんて
じつにいいかげんな概念にすぎない

さてさて、実際はどんな絵なのだろう。

ここで簡単に紹介されている。
ポストカードでも購入できるようだ。

それにしても形だけでなく
色に驚く。
300年前のものだなんて。

 

 

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