科学

2022年1月16日 (日)

抜き打ちテストのパラドックス

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抜き打ちテストのパラドックス

- どこが間違っているの? -

 

「抜き打ちテストのパラドックス」
とか
「死刑囚のパラドックス」
とか
「プレゼントの箱のパラドックス」
とか、問題文によって
その呼び名は異なるようだが、
内容的には全く同じ、
ある問題をご存知だろうか。

1940年代にはすでに知られていた
かなり古い歴史のあるものらしい。

初めて聞く、という方のために
代表選手として
「抜き打ちテストのパラドックス」
を紹介させていただきたい。

問題は実にシンプル。

教師が学生に言った。

1.来週の月曜日から金曜日のどこかで
 抜き打ちテストを実施する。
2.抜き打ちテストとは、実施日を
 前日に予測することができない
 テストのこと。


それを聞いた学生Aは
「先生の言う1と2を満たす形で
 抜き打ちテストを実施することは
 不可能である

と結論づけた。

という話だ。

どうしてそういう結論になるのか。
学生の推論のロジックはこうだ。

「金曜日にテストを
 実施することはできない。
 なぜなら、
 木曜日までに実施されなかった時点で、
 テストは金曜日ということが
 確定してしまい、2.を満たす
 抜き打ちテストにならないからだ。

 金曜日に実施できないのだから、
 同様の論理で
 木曜日にも実施できない。

 水曜日までに実施されなかった時点で、
 「金曜日はありえない、
  だったら木曜日」と予測できてしまい
 抜き打ちテストにならないからだ。

 同様に繰り返すと、
 水曜日も火曜日も月曜日も
 実施できないことになる」



「死刑囚のパラドックス」
では死刑執行日を、
「プレゼントの箱のパラドックス」
ではプレゼントの入っている箱の番号を、
抜き打ちテストの曜日の代わりに
使っているだけで、
どれも全く同じロジックで
「執行日に期限があるなら」
「期限までには執行できない」し、
「プレゼントの箱が有限個なら」
「どの箱にも入れられない」
という結論になる。


でも、最初の抜き打ちテストの例で
考えればすぐにわかる通り、
「来週中に、
 (前日に予測することができない)
 抜き打ちテストを実施すること」は、
実際には明らかに可能だ。

「実施できない」と
結論づけた学生のロジックは
いったいどこが間違っているのだろう?

シンプルなことなのに
いまだにうまく説明できない、
長く抱えたままになっている
宿題のひとつだ。

うまい説明をお持ちの方、
ぜひ教えて下さい。

 

 

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2021年11月 7日 (日)

『新しい料理の教科書』

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『新しい料理の教科書』

- 食材は変化しているのに調理方法は同じ? -

 

料理のレシピを見ていると、
今となっては理由は定かではないのに
昔からの常識として長く信じられている
調理方法がいくつもあることに気づく。

レシピが考案された当時の食材に対しては
どれもそれなりの理由があったのだろう。
しかし、
食材も流通経路も今は昔と大きく違う。
調理方法だけが「昔から同じ」
というのはおかしいのではないか、

「食材にあったベストな料理方法は
 時代によって違うのでないか」

その視点で、現在の食材を見ながら
定番となっている
調理方法の「当たり前」を
見直そうというのが、

樋口直哉 (著)
定番の“当たり前”を見直す 
新しい料理の教科書

(以下水色部、本からの引用)


実にreasonableな発想だ。

ハンバーグを例に具体的に見てみよう。

肉に塩を加えて練ると
ミオシンというタンパク質
溶け出します。
ミオシンは綱目構造をつくり、
肉汁を中に閉じ込めてくれます。

つまり、肉を練る目的は
ハンバーグをジューシーな
仕上がりにするためです。

と、練る必要性の説明から始まるが、
練りすぎを避けたほうがいいことも
後に理由を添えて説明している。

で、定番の見直し、という点では以下。

戦後に発表された
ハンバーグのレシピには、
ほぼすべて卵が入っています


これは昔、流通していた挽き肉が、
鮮度の悪いものばかりだったので
不足した結着力を補うために
入れていたのでしょう。

結着力のある今の挽き肉を使うのであれば、
「卵を使わない方が肉の味がしっかり出る
と卵を使わないレシピを推奨。

また、パン粉についても

既存のレシピの多くには
「パン粉は牛乳に浸す」
とありますが、
それはパン粉が乾燥しすぎて
固かった時代の話


最近のパン粉であれば
そのまま加えたほうがいいでしょう。
牛乳に浸してしまうと
肉汁を吸う効果が
なくなってしまいますからね。

また、よく聞く
「中心を凹ます」についても

昔のレシピには
「ハンバーグを成形するときは
 中心を凹ます」と書かれていますが、
その必要もありません。

凹ます理由は
「焼いている最中に
 中心が膨らんで
 火が通りにくくなるから」
とありますが、実際には
そんな事態は起きないからです。

中心が膨らむ理由は
外側の肉が縮むからで
主に肉種の練りすぎによるもの

今回のレシピ通りにつくれていれば、
中心が膨らんで困るようなことは
ありません


それよりも成形するときには
表面を滑らかにしておくことが重要です。

表面を滑らかにしておくと、
さきほど説明したミオシンが膜になって
肉汁をとどめてくれます。

合い挽き肉についても
実用的なコメントが添えられている。

豚肉は脂の融点が低いため、
少し混ぜると冷めても味が落ちない
というメリット
もあります。

お弁当に入れる場合には
特に豚肉の割合を増やすといいですが、
出来たてを食べる場合であれば、
豚肉の量は25%くらいまでに
抑えたほうがいいでしょう。

豚肉の割合が増えすぎると牛肉
香りが弱くなってしまいます。

こんな感じで、
定番の家庭料理の調理方法を
今の食材をベースに見直している。

 

昔からの調理法が
食材に合わせて変化しないのは
家庭料理の世界に限らないようだ。

2021年10月3日の朝日新聞GLOBEでは
三ツ星レストランのシェフ
岸田周三さんがこんなことを言っていた。

「100年も200年も前に
 フランスで作られたシステムを
 いまだに『これが本物だ』と
 言い張っていること自体が思考停止だ」

この100年の間に
 調理技術も機材も進化した


 今まで1週間かかって届いていた食材が
 半日で届くようになったのに、
 なぜ昔と同じ香辛料をかけて
 臭み抜きをするのか

 

理由もよくわからないまま
昔からの方法が盲目的に信じられている、

状況に合わせて
方法も変化させたほうが
いい結果に結びつくはずなのに
確立された「方法」に固執し
変化した状況との「組み合わせ」で
方法を見直そうとはしない、

それは、
それこそ料理の世界に限った話ではない。

 

 

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2021年6月13日 (日)

22歳と63歳の出会い

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22歳と63歳の出会い

- ひとりの読者を喜ばしえたならば -

 

森田真生 (著)
計算する生命

(以下水色部、本からの引用)

を読んで

 * 「状況」に参加できる「身体」
 * 世界自身が、世界の一番よいモデル
 * 「responsibility(責任)」とは
 * 「過去が未来を食べている」

などの問いかけについて書いてきた。

最後に、本の中から
ふたりの人物の出会いと交流について
紹介しておきたい。

ふたりとは、
ウィトゲンシュタインと
フレーゲ。

それぞれがどんな業績を残した人物か、
についてはここでは省略させていただくが、
交流の様子はたいへん興味深い。

ウィトゲンシュタインは
1889年ウィーンの生まれ。

彼は人間の「言語」に、生涯にわたって
深く関心を寄せ続けていた。

虚飾を取り去った、無駄のない、
誠実に語られる言葉の可能性を
見極めたいと考えていた彼の心を、
フレーゲの論理学がとらえた。

そこはまさに、無駄がなく整然とした、
美しい統制の効いた言葉と
論理の世界があったからだ。

そして、いよいよ
ふたりは対面することになる。

ウィトゲンシュタインが
はじめてフレーゲのもとを訪ねたのは、
おそらく1911年の
夏の終わり頃だとされる。

ウィトゲンシュタインは
このときまだ22歳、
フレーゲは63歳になる年だった

40歳の年の差。
でもウィトゲンシュタインは
長老に果敢に論争をしかけたようだ。

ウィトゲンシュタインはこの日、
勢い勇んでフレーゲに論争を挑んだ。

ところが、老練の論理学者に、
そう簡単には太刀打ちできない。

結局、ウィトゲンシュタインは
こてんぱんに打ち負かされたという。

それでも最後に、
「ぜひまたいらっしゃい」と
温かな声をかけてもらった

敬愛する先達からの
この何気ない一言は、
きっと青年の心に
深く染み込んだに違いない。

面会の翌年、ケンブリッジ大学
トリニティカレッジに入学した
ウィトゲンシュタインだったが、
第一次大戦が勃発すると
彼は志願兵となる。

第一次大戦が勃発すると彼は、
志願兵として最前線に立ち、
命がけで租国のために戦った。

同時に、要塞で、
野砲(やほう)の傍らで、
あるいは騎兵隊の側で

後に『論理哲学論考』
-以後、『論考』と略す-
としてまとめられることになる
最初の著作の執筆に
精力的に取り組み続けた


その進捗を彼は、
フレーゲに事あるごとに
報告している。

戦場であの本を書き続けていたなんて。

フレーゲもまた、
ウィトゲンシュタインを深く敬愛し、
彼の学問に期待を寄せていた。

フレーゲから
ウィトゲンシュタインに送られた
一連の書簡を読むと、

フレーゲが、前線で学問に励む
青年の安否を気遣い、
草稿の完成を心待ちにしていた様子が
伝わってくる。

双方向の信頼関係。

ウィトゲンシュタインは
「論考」の序文にこう書いているという。

「理解してくれたひとりの読者を
 喜ばしえたならば

 目的は果たされたことになる」

ウィトゲンシュタインの頭に
「ひとりの読者」としてフレーゲが
浮かんでいたことは間違いないだろう。

1918年、ウィトゲンシュタインは
捕虜となりイタリアの収容所に入るが、
彼の姉の協力もあり、
完成した「論考」の原稿はフレーゲに
届けられることになる。

ところがところが、
フレーゲからの応答は
ウィトゲンシュタインを
「ひどく落胆させるものだった」

という。

その後もフレーゲが『論考』を
最後まで読み進めたという
形跡はない。

なんということだろう。

深い絶望を味わった
ウィトゲンシュタインは
その後、哲学研究の現場を離れ、
僻村の学校で教師として
活動を始めるようになる。

 

本では
1848年生まれのフレーゲが
24歳も若い
1872年生まれのラッセルの指摘

(ラッセルのパラドックス)により
長年の研究の基礎を揺るがされる
というエピソードも
丁寧に紹介されている。

 

どちらも外から見ると
ハッピーエンドと言えるような
協力関係ではなかった。

それでも、
ウィトゲンシュタインの
『論理哲学論考』
といい、
フレーゲの
『算術の基本法則』
といい、
これらが後の世に大きな影響を与える
著作となりえたのは
世代を越えた厳しい「ひとりの読者」が
そこにいたからこそなのだろう。

 

 

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2021年6月 6日 (日)

「過去が未来を食べている」

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「過去が未来を食べている」

- 仮説に支配されていないか -

 

森田真生 (著)
計算する生命
新潮社

(以下水色部、本からの引用)

を読んで

 * 「状況」に参加できる「身体」
 * 世界自身が、世界の一番よいモデル
 * 「responsibility(責任)」とは

について紹介してきた。

本から、もういくつか
印象深い言葉をピックアップしたい。

人工知能研究のアメリカの非営利団体
オープンAIが2020年6月に公開した
「GPT-3」は、
人間が書いたものと
ほとんど見分けがつかない水準の
エッセイや詩を自動生成するという。

GPT-3は、
ウェブや電子書籍から収集した
一兆語近い単語の
統計的なパターンを学習して
文章を作成していて、人間のように
言葉を「理解」しながら
作文をするわけではない。

肝心なのは、
意味よりもデータであり、
理解よりも結果
なのだ。

こうした技術が
目覚しく進歩していくなかで、
意味や仕組みを問わずとも、
計算の結果さえ役に立つなら、
それでいいではないか
という風潮も
広がってきている。

「結果さえ役に立つならそれでいい」
の声を聞くシーンは
いまやあちらこちらにあるが、
そんな時、
我々は他律化している、
と森田さんは言う。

何しろコンピュータに
意志や意図はない。

膨大なデータを処理する機械の作動に
振り回されるとき、
私たちは
「人間を超えた」機械に
支配されているのではなく、

人間が過去に設定した
「隠された仮説」に、
支配されているだけ
なのだ。

 

哲学者ティモシー・モートンは

深く計算が浸透し、
自動化が進んでいく
現代の社会が抱える問題は、
「過去が未来を食べている」
ことであると、

2020年に開催された
オンライン講演『Geotrauma』
のなかで語ったという。

学習に基づいて
プログラムを更新できる人工知能でも
更新の仕方そのものは、
厳密にあらかじめ設計者によって
規定されている以上、
過去に決められた規則を
遵守するだけの機械に、
無自覚に身を委ねていくことは、
未来を過去に食わせている、
とも言えるわけだ。


本の前半で丁寧に述べられている、
先人たちが計算の意味を問うことで
新しい世界を切り開いてきた

その過程を思うと
今はまさに別な方向に
歩み出してしまっているようにさえ見える。

肝心なことは、
計算と生命を対立させ、
その間隙を
埋めようとすることではない。

これまでも、そしてこれからも
ますます計算と雑(まざ)り合いながら
拡張していく人間の認識の可能性を、
何に向け、どのように育んでいくかが
問われているのだ。

改めて現実の世界に目を遣ると
前回書いた通り、悲しいかな
人間が計算機に
近づいていってしまっている面は
確かにある。

人はみな、計算の結果を
生み出すだけの機械ではない。
かといって、
与えられた意味に安住するだけの
生き物でもない。

計算し、
計算の帰結に柔軟に応答しながら、
現実を新たに編み直し続けてきた
計算する生命である。

意味を問うことで見えてくる新しい世界。
数学は長い歴史の中で、
様々な新しい世界を見せてくれた。
マイナスという数字に、虚数に、
多様体に、集合に、論理や認識の世界に。

計算だけして、
結果だけ見てそれを知性と呼べるのか。
未来を過去に食べさせるだけでは
新しい世界は見えてこない。

 

 

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2021年5月30日 (日)

responsibility(責任)とは

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responsibility(責任)とは

- 結論がでるまで動こうとしていない -

 

森田真生 (著)
計算する生命
新潮社

(以下水色部、本からの引用)

を読んで

 * 「状況」に参加できる「身体」
 * 世界自身が、世界の一番よいモデル

について紹介した。

本から、もういくつか
印象深い言葉をピックアップしたい。

現代の認知科学者は、
生物の認知を
特徴づける重要な性質として、
 身体性(Embodiment)
 状況性(Situatedness)
脳内だけでなく環境の情報を生かして
判断や行為を生成していく
 拡張性(Extendedness)
などを指摘している。

スポーツ選手に求められるのは、
まさにこうした生命らしい知性だ。

一度開始の笛が鳴れば、
試合は待ったなしで進行していく。
選手にとって大切なことは、
試合を描写することでも
理解することでもなく、
進行し続ける試合の流れに
参加すること
である。

我々が生きていくということは
まさに参加していることだ。

その参加している世界で今、
我々は何をしているであろう?

地球温暖化についても、
生物多様性の喪失についても、
計算ばかりしていて、まさに

結論がでるまで
動こうとしていない

なんとも耳の痛い指摘だ。

 

子どもが危険な道路に
飛び出そうとしているとき、
果たして本当に轢かれるのか、
あるいは、
轢かれる確率がどれくらいなのか、
それを計算していては
間に合わないのだ。

十分な理由を見つけるまで
動かないことはこの場合、
それ自体が倫理に背く行いになる。

そんなとき、どうしてきたのか。

目の前で子どもが道路に
飛び出そうとしているのを目撃したら、
思わず手を差し伸べるだろう。

考える前にパスを出す
スポーツ選手のように、
気づいたときには
子を助けようとするだろう。

これこそが、
字義通りの「responsibility」
である。

「responsibility」は
「責任」とも訳されるが、
文字通りには、
「応答(respond)」する
「能力(ability)」

のことだ。

これまで、さまざまな場面で
生物としての応答能力を発揮してきた
我々は今、どうなっているだろう。

溶解していく氷床や、
失われていく生物多様性、
崩壊していく海洋生態系などの
環境の異変に対して、
私たちは幼子に対するのと同じように
速やかに応答することができていない。

まるで、
道路に飛び出す子を前にしながら、
轢かれる証拠が揃うまで
動こうとしない機械のように、
計算ばかりしていて動かない

機械が人間に近づくのではなく、
人間がまるで機械のように、
目前の状況に
応答する力を発揮しないまま、
計算に耽溺している
のだ。

 

米国の哲学者
ヒューバート・ドレイファスは
すでに半世紀前に

計算機が人間に近づいていくより、
むしろ、
人間が計算機に近づいていく
未来の危険性
を説いた。

人間を超える知能を持つ
機械の出現ではなく、
人間の知性が機械のようにしか
作動しなくなることをこそ
恐れるべきだと語った

と言う。

近年
シンギュラリティなる言葉とともに
人間を超える知能を持つ機械の出現が
話題になることが多いが、
ほんとうの危険性は「機械が」ではなく
むしろ「人間が」のほうにあるのだ。

 

 

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2021年5月23日 (日)

世界自身が、世界の一番よいモデル

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世界自身が、世界の一番よいモデル

- 頭だけでは知能になれない -

 

森田真生 (著)
計算する生命
新潮社

(以下水色部、本からの引用)

を読んで興味深いエピソードを
紹介する2回目。

前回
掃除ロボット「ルンバ」の
生みの親として知られる
ロドニー・ブルックスが
ロボットを制御するための
新しい設計について、
原理的な考察を始め、当時の問題が

ロボットが動くためには、
 外界のモデルを
 あらかじめ構築する必要がある


というそれまでの科学者の
思い込みにあるという結論に達した。

というところまで書いた。

外界の情報を「知覚」して
内部モデルを構築し、
計画を立ててから「動く」と
あまりにも時間がかかりすぎる。

そこで、ブルックスは
一連の長々しい過程を、
2つのステップに庄縮してしまうことを
思いつく。

すなわち、複雑な認知過程の全体を、
知覚」と「行為」の二つのステップに
まとめてしまうのである。

間に挟まるすべてを丸ごと抜き取る
大胆不敵なアイディアだ。

ブルックス自身の言葉でいえば、
「これまで人工知能の
 『知能』と思われてきたものを、
 すべて省く

ことにしたのだ。

 

着想の源は昆虫だったという。
「なぜ、少数の神経細胞しかない
 昆虫にできることが
 ロボットにはできないのか?」

この問いを掘り下げていくなかで、
ブルックスは「表象を捨てる」という
アイディアにたどり着いたのだ。

ブルックスは、三層の制御系からなる
ロボットAllenを作成する。

*物体との衝突を避けるための
 単純な運動制御を担う最下層

*ロボットを
 ただあてもなく逍遥させる中間層

*目標となる行き先を探し、
 これに向かって進む
 動作の指令を出す最上層

この三層が互いを包摂しながら
並行して動き続ける。

ブルックスのロボットは
外界のモデルを構築しないまま、
速やかに実世界を
動き回ることができた


彼はこれを
「包摂アーキテクチャ
 (subsumption architecture)」
と名づけた。

三層の説明を読んでいると、
掃除ロボット「ルンバ」の動きが
まさにそのままではないか。

 

実世界で起きていることを
感じるためのセンサと、
動作を速やかに遂行するための
モータがあれば、
外界のことを
いちいち記述する必要はない。

外界の三次元モデルを詳細に構築しなくても、
世界の詳細なデータは、
世界そのものが保持していてくれる
からだ。

このことを、ブルックスは
次のような言葉で表現しているという。

ブルックスの巧みな表現を借りれば、
「世界自身が、世界の一番よいモデル
 (the world is its own best model)」

なのである。

「世界自身が、世界の一番よいモデル」
なんともうまい表現ではないか。

技術者たちが別なモデルで
表現しなおそうとしてしまう理由も
エンジニアのひとりとして
痛いほどわかるので、
モデル化自体を簡単に否定はできないが、
こういう「発想の転換」には
ロボット自体の発明以上に
ワクワクさせられる。

ブルックスはかくして、
生命らしい知能を実現するためには
「身体」が不可欠であること
そして、

知能は環境や文脈から
切り離して考えるべきものではなく、
「状況に埋め込まれた(situated)」
ものとして理解されるべき
であると
看破した。

そうして彼は、
既存の人工知能研究の流れに、
「身体性(embodiment)」と
「状況性(situatedness)」と
いう二つの大きな洞察を
もたらしたのである。

30年以上も前、
「アッタマ(頭)ばっかりでも、
 カッラダ(体)ばっかりでも
 ダメよね」
というコピーのCFがあったが、
まさに頭だけでは知能になれないのだ。

 

 

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2021年5月16日 (日)

「状況」に参加できる「身体」

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「状況」に参加できる「身体」

- 外界モデルを作らずに動く、へ -

 

小林秀雄賞を受賞した
「数学する身体」から5年、
独立研究者として地道な活動を続けている
森田真生さんが、2021年4月
「計算する生命」を上梓した。

デカルト、リーマン、
フレーゲ、ウィトゲンシュタインらを核に
計算だけでなく、
数学・哲学・認知科学の歴史を
心や言語についての認識も絡めながら
丁寧にかつ多面的に描き出すその内容は、
抑制された文章で綴られているものの、
「数学する身体」同様
まさに知的興奮に溢れている。

特に、大きく計算の歴史を振り返ったあと
「計算」と「生命」の繋がりに言及し、
「計算する生命」である我々は
今のこの時代をどう生きていくべきか、に
問いを投げかけていく最終章は
同じ本とは思えない急展開で
その変化を楽しむこともできる。

いずれにせよ要約や
簡単な解説は不可能なので
興味を持った方にはぜひ本を手に取り、
じっくりその世界を
味わっていただきたいが、
そんな本の中から、
いくつかエピソードを紹介したい。

森田真生 (著)
計算する生命
新潮社
(以下水色部、本からの引用)

最初は、人工知能の発展に関する
エピソードから。

1960年代に未来を楽観していた
人工知能研究は、
1980年代、袋小路に入り込んでいた。

規則を列挙するやり方では、
機械はあらかじめ想定された
規則の枠に縛られ、
その外に出ることができない。

規則をいくら集積しても
規則通りの動きはできるものの、
自律的な知性は生まれてこない。

壁を乗り越えるためには、
形式的な規則の存在を
あらかじめ措定するのとは
別のアプローチで、
人間の知能を語る試みが必要である。

このとき鍵となるのは、
刻々と変化する「状況」に
参加できる「身体」
ではないか。

目的と意図を持った、
身体的な行為こそが
知能の基盤にあことを、
もっと重く見るべきだ

と米国の哲学者ドレイファスは
1972年の著書
『コンピュータには何ができないか』
で説いている、という。
今から見れば50年も前の本で、だ。

当時、障害物を避けながら
部屋の中を自由に動き回れる
ロボットの研究が進んでいたが、

このロボットは、
映像をカメラから読み込んでは
部屋の三次元モデルを構築し、
モデルに基づいて運動計画を立てた後、
やっと動き出す仕組みになっていた。

15分ほど計算しては1メートル進み
さらに計算してはまた動く。

物を避けながら部屋を横切るだけで
何時間もかかってしまう機械。
それが、当時最先端の
ロボットの現実だったのだ。

もちろん、計算機の処理能力を高め
計算時間を短縮する、
という道もあっただろうが、それでは
たとえば15分が5分になる、
といったレベルの進歩しか望めない。

この問題に

突破口を開いた先駆者の一人が、
オーストラリア出身の
若きロボット工学者、
ロドニー・ブルックス(1954-)である。

日本でもおなじみの
掃除ロボット「ルンバ」の
生みの親として知られ、
ロボット界を牽引するカリスマとして
活躍しているのあのブルックスだ。

1984年、MITで自分の研究チームを
発足させたブルックスは
ロボットを制御するための
新しい設計について、
原理的な考察を始めた。

そして、問題は

ロボットが動くためには、
 外界のモデルを
 あらかじめ構築する必要がある


というそれまでの科学者の
思い込みにあるという結論に達した。

あらかじめ外界モデルを構築しない、
つまり
外界モデルのない世界で
ロボットはどう動くのか。
そしてそれは、
先の「状況」に参加できる「身体」
どう結びつくのか。

ブルックスの導き出した発想の転換、
次回に続けたい。

 

 

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2021年5月 2日 (日)

称賛されるペットの特徴は、

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称賛されるペットの特徴は、

- 「殺処分」だけがペット問題ではない -

 

動物と人間の関係を
200冊以上の引用文献を駆使し、
 *ペット
 *動物虐待
 *屠畜と肉食
 *動物実験
 *動物の福祉・解放
などの視点から見つめ直している

生田武志 (著)
いのちへの礼儀
筑摩書房

(以下水色部、本からの引用)

から、
 * 人類が他の動物に食べられていたころ
 * トキの「復活」?
 * 侵略的外来種「ネコ」
について紹介したが、今日は
もう少し身近なペットについて
考えてみたい。

チワワ、ダックスフント、ブルドッグ、
ドーベルマンなどの「犬種」は、
生物学的には(オオカミの亜種である)
イエイヌの「変種」です。

こうした犬種は、
手近な図鑑にあるものだけでも
500種近くあります
が、
それらは自然に発生したのではなく、
近親交配など人為的方法によって
作り出されてきました。

 

もとは「牛(ブル)いじめ」という
見世物用に開発されたブルドッグも
1835年の動物虐待防止法で
「牛いじめ」が禁止されると
番犬、愛玩犬として飼われるようになり
身体的特徴が
ますます強調されるようになる。

しかし、この独特の外観は、
ブルドッグの健康に大きな問題
もたらすことになりました。

まず、ブルドッグは
あまりに頭が大きいため
母親の産道を通ることができず、
出産はふつう、
人の手による帝王切開になります。

また、鼻先が短すぎるので
うまく呼吸ができず、
生涯にわたって睡眠時無呼吸など
酸素不足に悩まされます


このため体温調節も難しく、
呼吸不全や心不全で
若死にしやすくなっています

これらに対し、
ペンシルベニア大学
「動物と社会の相互作用に関するセンター」
所長のジェームズ・サーペル氏の
こんな言葉も紹介されている。

「もしもブルドッグが
 遺伝子組み換えの産物だったなら、
 西欧世界全域で抗議デモが
 巻き起こっていたことだろう。
 まちがいない。

 ところが実際には
 人の都合に合わせた交配によって
 作られたので、
 その障害は
 見過ごされているばかりか、
 場所によっては
 称賛されてさえいる

 

こういった生体改造は、もちろん
ブルドッグだけではないし、
犬に対してだけではない。

関節疾患や外耳炎になりやすい構造を
持たせてしまったダックスフント

頭蓋骨が小さすぎて脊髄や
脳の障害に苦しむことが多い
キャバリア・キング・チャールズ・
スパニエル


猫に関しても、

短頭のため呼吸困難、眼病、
涙管奇形になりやすい上に
死産の確率が高いヒマラヤン

軟骨に奇形があり、
若い時から重い関節痛を発症しがちな
スコティッシュ・フォールド

などなどいつもの例を挙げている。

ペットの問題というと、
人間の身勝手な振舞いが原因となっている
「殺処分」が話題になることが多いが、
こうしてみると、
かわいいペットが欲しい、という
「人の都合に合わせた」生体改造が
生物としての種そのものに
様々な問題を引き起こしている
ことが
よくわかる。

しかも、
そういった強調された身体的特徴は、
まさに
「場所によっては
 称賛されてさえいる」
わけだ。

称賛されるペットの特徴には、
生物として健全に生きる権利を
奪っている側面もあるのだ。

「殺処分」だけがペットの問題ではない。

 

 

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2021年4月25日 (日)

侵略的外来種「ネコ」

(全体の目次はこちら



侵略的外来種「ネコ」

- 生態系にとっての悪の枢軸!? -

 

動物と人間の関係を
200冊以上の引用文献を駆使し、
 *ペット
 *動物虐待
 *屠畜と肉食
 *動物実験
 *動物の福祉・解放
などの視点から見つめ直している

生田武志 (著)
いのちへの礼儀
筑摩書房

(以下水色部、本からの引用)

から、
 * 人類が他の動物に食べられていたころ
 * トキの「復活」?
について紹介したが、今日は
「ネコ」についての
ちょっと意外な数字を紹介したい。

まずは侵略的外来種の説明から。

人間による環境破壊の一つに
「外来種問題」があります。

外来種とは、
もともとその地域にいなかったのに、
特に人間によって
他の地域から移入させられた生物で、

その中でも、
地域の自然環境や生物多様性を
脅かすおそれのあるものを
「侵略的外来種」(侵略的外来生物)
と呼んでいます。

現在の生物多様性減少の最大の原因は
生息地の減少・破壊
(特に熱帯林の破壊)ですが、

外来種問題は二番目の原因とも言われ、
過去400年間の種の絶滅の半分は
外来種によるとされています

(Courchamp, Franck.(2006)
 「世界の島嶼地域における
  侵略的外来種問題」
 『哺乳類科学』vol.46(1)85-88.)

では、侵略的外来種と言えば
具体的にはどんな生物だろう。

なんと
代表的な侵略的外来種の一つはネコ
だという。

ネコという動物の問題は、
たとえ飼い猫のように
食べ物が充分にあっても
「おやつ」や
「娯楽」のために狩りをし

多くの動物を殺すことです。
(「過剰捕食」[hyperpredation]と
 呼ばれます)。
この点、ネコはわたしたち
ホモ・サピエンスとよく似ています。

 

仮に過剰捕食があったにせよ、
ネコと「侵略的」という言葉が
どうも結びつかない。

オーストラリアを例に
少し具体的な数字で見てみよう。

オーストラリアには現在
2000万匹とされる野良猫がいますが、
このネコたちは今までに
 100種以上の鳥類、
  50種以上の哺乳類、
  50種の爬虫類、
 多くの両生類や無脊椎動物を
絶滅させました
(Courchamp, Franck.(2006)
 「世界の島嶼地域における
  侵略的外来種問題」
 『哺乳類科学』vol.46(1)85-88)。

過去だけではない。今後も...

オーストラリア環境省によれば、
ネコは一日に
 7500万の固有種の動物を殺し、
  35種の鳥類、
  36種の哺乳類、
   7種の爬虫類、
   3種の両生類を
絶滅させようとしています

にわかには信じられないような数字だが、
ネコのことを

オーストラリア環境大臣はネコを
「暴力と死の津波」

オーストラリア野生動物
管理委員会委員長は
「生態系にとっての悪の枢軸」

と呼んでいる関係者の言葉は
まさに数字を裏付けるようだ。

なのでこの現実に対して

2006年にオーストラリア政府は
1800万匹の野良猫の根絶」を宣言し、
金属製のトンネルに猫をおびき寄せて
毒ガスを噴射するわなや
毒入りのソーセージなどを開発して
駆除を進めてきました。

2015年には、環境大臣があらためて
「2020年までに200万匹の
 野良猫を殺処分する」計画を
発表しています。

 

もちろんネコの問題は
オーストラリアだけではない。

* ニュージーランドのラウル島で
  数十万羽いたセグロアジサシが絶滅、

* 亜南極のケルゲレン諸島で
  年間約125万羽の海鳥が殺される、

などなど

ネコは世界のほとんどの島に
持ち込まれており、
島の動物相を破壊するスピードでは、
 ネコの右に出るものはいない

(ソウルゼンバーグ ウィリアム.(2010)
『捕食者なき世界』野中香方子訳,
 文藝春秋)

と言われる例を並べている。

「個としての動物」たちの
命や苦しみよりも
「生態系」の保護が優先されるという
大義名分のもと、
外来種を駆除してしまっていいのか、は
簡単な問題ではないが、

ネコに対して
かわいいペットのイメージしか
なかったせいか
上記「破壊力」の数字には
ほんとうに驚いてしまった。

備忘録代わりにメモっておきたい。

 

 

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2021年4月18日 (日)

トキの「復活」?

(全体の目次はこちら



トキの「復活」?

- 対象だけでなく環境も含めて -

 

動物と人間の関係を
200冊以上の引用文献を駆使し、
 *ペット
 *動物虐待
 *屠畜と肉食
 *動物実験
 *動物の福祉・解放
などの視点から見つめ直している

生田武志 (著)
いのちへの礼儀
筑摩書房

(以下水色部、本からの引用)

から、その一節を紹介する2回目。

今日は、
トキの「復活」について触れたい。

日本を象徴する鳥と言われるトキ
学名ニッポニア・ニッポン)は、
明治末以降、食用や羽根を取る乱獲で
1930年代までに
数十羽にまで減りました。

1952(昭和27)年にトキは
特別天然記念物に指定され、
佐渡や石川県で
禁猟区が設定されましたが、

おそらくは農薬散布による餌の減少、
開発による水田の減少などのため、
2003(平成15)年に絶滅しました。

学名が
Nipponia nippon(ニッポニア・ニッポン)
というのは初めて知った。

すごい学名だ。
国鳥のキジの立場はどうなるのだろう?
は、よけいな心配か。

それはともかく、
日本種の絶滅に瀕して
中国からの輸入が始まっていた。

1999年以降、
中国から贈られたトキ5羽を元に
人工繁殖させる試みが始まり、
2008年から佐渡で放鳥が始まり、
2019年には350羽が生息しています

なお、中国のトキと日本のトキは
遺伝子の違いがごく僅かな同一種で、
「例えて言うなら、
 日本人と中国人の違いみたいなもの」
(石居進『早稲田ウィークリー』919号)
とされています。
いわば、日本人が絶滅したので、
「同一種」である中国人を連れてきて
「復活」させたようなものです。

これを「復活」と
言っていいかどうかはともかく、
トキが生息するようになったのは
事実だ。

トキの場合は、その絶滅が
生態系の破壊を引き起こしたというより、
「日本には美しいトキがいてほしい」
という日本人の「願望」で
計画されたと言えます。

しかし、トキは1952年に
特別天然記念物に指定されて以来、
50年間保護されたにもかかわらず
絶滅しているので、
日本ではトキが生息しにくい環境が
広がっていると考えられます

この指摘は、
すごく大事なことを含んでいると思う。

トキの保護政策や技術については
何も知らないので、
トキのことに関して
その是非を論じる力は一切ない。

ただ、

「50年も保護してきたのに
 絶滅したということは
 すでに環境のほうが
 合わなくなっているのではないか


の視点は、
トキの場合に限らず、
また生物の場合に限らず、
あるものの生存戦略を考える上で
大事な視点のひとつだろう。

特に、「願望」で無理やり
存続させようとするとき
って、
存続のために「対象への対応」ばかりに
議論が偏る傾向が強い気がする。
対象をどう保護するか、とか
対象をどう強くするか、とか。

 

地元では、かつての
トキが生息していたころの環境を
復活させる取り組みも
行われているらしいが、

そうでなければ、
そのような環境に無理やり
導入させられた中国産のトキは
「いい迷惑」かもしれません。

 

 

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