歴史

2017年7月16日 (日)

「生命誕生」

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「生命誕生」

- 「海は生命の母」とは言えない? -

 

本棚にあるこの本

中沢弘基(著)
生命誕生
地球史から読み解く新しい生命像
講談社現代新書

(以下水色部、本からの引用)

私が購入したときの本の帯には、
池谷裕二・東京大学教授の
こんなコメントが載っている

脳髄を金槌(かなづち)で
 殴られるほどの衝撃を受けた!


帯は広告・宣伝なので、
たいていの場合は大袈裟で
ミエミエの褒め言葉に
かえって冷めてしまう場合もあるが、
殊この本については
「金槌で殴られるほどの衝撃」
はまさに言葉通りだった。

ほんとうに衝撃がある。

生命はいつどこで発生したのか?

だれもが抱く疑問に、
独自の説を丁寧に展開していくのだが、
とにかく話の運び方がうまい。

最初の方のこんな書き方だけで
おもわず引き込まれてしまう。

生命の起源は海の中、
「太古の海は生命の母」と考えるのは
広く世界の常識になっています。

 確かに水がないと
生物の体は成り立ちませんし、
生きてもいられません。

化石に残る原始的な生物は
すべて海棲(かいせい)生物で、
約5・4億年前のカンブリア紀の海で
爆発的に増殖したことも確かです。

しかし、だからといって、
生物の誕生にいたる有機分子の発生と
進化の過程もすべて水の中、
海の中であったとする根拠は
何もありません

化石で見つかった古い生物が
すべて海棲生物だからと言って、
その起源となる最初の生命の誕生
「海の中」の証拠にはならない。

なるほど。

でも、いつのころからか
「アミノ酸が多く浮かぶ
 スープのような海」
が生命誕生の舞台だと
思い込んでしまっている
どうしてなのだろう?

事実、こんな記述もある。

アミノ酸に富む
”チキンスープ”のような太古の海で
生命が発生
したと、
ほとんどの人は考えて、
海を模した水溶液中の
化学反応の研究を中心にしてきました。

 

では、なぜ、
海での生命誕生が疑わしいのか?
詳しい説明の前に、
サクッとこう提示している。

 後で述べますが、化学的には
海の中でアミノ酸などの
生物有機分子どうしが結合して
大きくなると考えるのは不自然
なのです。

多量の水の中では一般に、
結合よりも大きな分子の
分解反応が卓越します。

比熱の大きな
多量の水の中はつねに温暖で、
分子が相互に反応しなければならない
環境圧力もありません


「太古の海は生命の母」と考えるのは、
世界の常識とはいえ、
化学的にはおかしな仮定なのです。

生命を構成する原子や分子が、
アミノ酸やタンパク質を構成する配列で
分子となるためには、
構成原子や分子が
そこにあるだけではもちろんダメで、
化学反応を起こし、結合させるための
ある種の「圧力」が必要になる。

その「圧力」が温暖な海にはない。
むしろ逆で、海には、
分子を分解させる方向の力がある。

との指摘も直感的にreasonable。

 

こんな導入で始まった話は、
この後、地球の歴史を大きく観ながら
本論に入っていく。

そこで提示される
生命誕生に関わる大胆な仮説については、
簡単には要約できなので
説明は本に譲りたいが、
仮説の詳細に入る前にも、
興味深いエピソードが
いくつも紹介されている。

というわけで、
この本の話、もう少し続けたい。

 

 

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2017年7月 9日 (日)

駅馬車の御者の一生

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駅馬車の御者の一生

- 埋葬しようとして -

 

新聞を整理していたら、
ある本にあったエピソードを思い出した。

新聞記事の前に、
エピソードの方から紹介したい。

本は、
アイザック アシモフ (著)
星 新一 (訳)
「アシモフの雑学コレクション」 
    新潮文庫

(以下水色部本からの引用)

(アシモフが書いて
 星新一が訳している。
 もうそれだけでなにかありそうな
 予感がするが、残念ながら
 今日の話はそれとは関係ない)

さて、この本、
今で言うトリビアネタ満載。
出版は今から30年以上も前なので
今読むと、
更新の確認が必要なネタも
あったりするけれど・・・

その中の一節。

カリフォルニアの
ゴールドラッシュのころ、
チャーリー・パークハーストという
駅馬車の御者がいた。

危険のひそむ道を、
乗客や金をのせて運んだ。

葉巻を吸い、かみタバコも好み、
トランプも強く、酒も飲む。
馬車を襲った強盗を二人うち殺した。

やがて引退し、
サンタクルーズで牧場を持った。

まぁ、ここまでは
ゴールドラッシュ時代の
ひとりの成功者の話と読めば
特に驚くようなことはなにもない。

ところが最後はこう結ばれている。

1879年の大みそか、チャーリーが
自宅で死んでいるのが発見された。

埋葬しようとして、
女性だったことを、
人びとははじめて知った。

 

話は最初に戻るが、
このエピソードを思い出したのは、
この記事を目にしたから。

2017年6月19日朝日新聞一面

A170619_joshidai

「性同一性障害」の方の
女子大への入学について
議論されるところまで来た、とのこと。

「性同一性障害」や
LGBT(性的マイノリティ)への
社会的な理解は、ここ20年ほどで
ずいぶん大きく進んだ。

それでも
まだまだ不十分な点は多いのだろうが、
各国のニュースを見ていると
理解に対する追い風が吹いていることは
間違いない。

数のうえでは少数派であっても、
各人のあり方が、
そのままの形で受容される社会、
そういった多様性を認める社会が、
ほんとうの意味での
豊かさと強さを持つことになる。

金子みすゞさんの詩ではないが、
「みんなちがって、みんないい」
のだし。

ただ、社会的な認知度と
実際の存在数は、独立した事象だ。

もちろん、
「認知度」が高まれば
「カミングアウトしやすくなる」
といった点はあると思うが、
認知されたからと言って、
急に対象者が増えるような性質の
事象ではない。

同様に
社会的には全く認知されていなくても
その時代、その時代で
おそらくある一定数はいたはずだ

今から140年前。
チャーリーは、
どんな思いで一生を過ごしたのだろう?

 

 

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2017年5月 7日 (日)

どちらがウラか

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どちらがウラか

- 紙が貴重品だったから -

 

前回に引続き、

 大隅和雄 著
 中世の声と文字
 親鸞の手紙と『平家物語』
 シリーズ <本と日本史> 3
   集英社新書

から、もうふたつ興味深い
エピソードを紹介したい。

 

【仮名文字の始めの頃】

平安時代中期以降、文字に親しむ人々は、
心に思うことを伝えるために、
手紙を書くようになった

『源氏物語』の中に、
京に上った明石の君が母の尼とともに、
明石に残った父の入道に
近況を知らせる手紙を送る場面がある。

入道は明石の君への返事の中に、

 仮字文(かなぶみ)見たまふるは
 日の暇(いとま)いりて、
 念仏も懈怠(けだい)するやうに
 益(やく)なうてなん、
 御消息(せうそこ)も奉らぬを。
          (若菜 上)

(仮名の手紙を拝見するのは、
 時間がかかって、そのために
 念仏も怠るようになるので、
 御消息もさし上げませんよ)

と記したとある。
女性の手紙は
仮名文字で綴られているので、
読むのに時間がかかり、
念仏の行の妨げになる
という。

漢字で書かれていれば、
一見すれば何が書かれているかわかるが、
当時は仮名文字だけの文章には
句読点も濁点もなく、
音便の表記もまちまちだったので、
日々仏典に接している入道にとっては、
仮名文を読むのは大変だったに違いない。

仮名文字は読むのに時間がかかる。
漢文の方が
読みやすかった時代があった
わけだ。

 

【紙が貴重品だったから】

 平安・鎌倉時代、
公的な文書は漢文で書かれた。

太政官や摂関家から出される
さまざまな文書、
寺院の経営に関する文書、
田畑の譲渡や売買の書類など、
権利の証文として必要なものは
大切に保管され、代々受け継がれたが、
私的なこと、
日常生活のことを書いた手紙が
永く保存されることはなかった


貴族の女性は仮名文字で、
数多くの手紙を書いたと思われるが、
公的なことに関わりのない女性の手紙が
後世に伝えられることはなかった

ところが、藤原為房の妻の手紙は
43通も残っている。

それは、なぜか。

紙をめぐる時代的背景が
大きく関わっている。

ただ、当時は紙が貴重であったから、
保存の必要のない手紙を集めて、
裏に本を写すことがしばしば行われた


そのため、藤原為房の妻の手紙43通も、
比叡山の僧房で、
仏典を書写する料紙として用いられ、
青蓮院に残ったのである。

紙が貴重だったので、
手紙のウラが
仏典を書写するために使われた。

その仏典が残ったために、
偶然、
ウラの手紙が一緒に残ることになり
仏典と一緒に発見された。

こうなるとどちらがウラか
わからなくなってしまうが、
何が幸い(?)するかわからない。

紙というブツ(物)があればこその
エピソードだ。
デジタルデータではこうはいかない。

オモテがウラになり、
ウラがオモテになる。
ブツの価値はその瞬間には定まらない。

いろいろな面に光を当てて見せてくれたのは、
ブツが残った、その長い長い時間だ。

 

 

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2017年4月30日 (日)

「中世の声と文字」

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「中世の声と文字」

- 学問から宗教へ -

 

遺跡や書物は、歴史を考えるときの
大事な資料や証拠となるが、
残念ながらそこに「音」は残っていない。

文字や楽譜は残っていても音はない。

 吉松隆 著
 調性で読み解くクラシック
   ヤマハミュージックメディア

にもこんな記述があった。

世界中のあらゆる時代あらゆる地域で、
「音楽」はそれぞれの形で
豊饒な文化を築いている。

ただし、残念ながら音楽は
化石や古文書のように
発掘されることはない
ので、
音そのものは想像するしかない。

それはもちろん
「声」についても同じこと。

 

その、当時の「声」を
親鸞の手紙と
琵琶法師によって語り継がれた
「平家物語」を題材に
考えてみようという

 大隅和雄 著
 中世の声と文字
 親鸞の手紙と『平家物語』
 シリーズ <本と日本史> 3
   集英社新書

を読んだ。
(以下水色部本からの引用)

もともと親鸞についても
平家物語についても、
中高の教科書以上の知識がないので
知らないこと満載で、その内容は
興味深い話の連続だったのだが、
途中から

なお、『平家物語』の引用には、
注をつけることにして、
敢(あ)えて現代語訳は省いた
中世の人々が
琵琶法師の声で聞いた文章の律動を、
そのままのかたちで味わって頂きたい。

という著者の意図のもと、
現代語訳がなくなってしまったのは、
古文オンチの私にとっては辛かった。

「文章の律動」を味わう余裕がない。

そういう意味では、読み終えても
本の趣旨というか、
肝心な部分が味わえていない
後(うしろ)めたさが残る。

とはいえ、浅い読者は浅いなりに
発見や考えさせられることもあったので、
きょうは、その一部を紹介したい。

 

まずは親鸞との語り合いと手紙の話から。

親鸞が東国にいて、門前たちと語り合い、
念仏道場でともに
念仏を唱えていたときには、
親鸞の信心と数えは、
親鸞の立ち居振る舞いを通じても、
自然に伝わっていった


しかし、その親鸞が東国を去った後、
残された人々は、
念仏を唱えて語り合うだけでは心もとなく、
心に浮かんでくる疑問に、
決着を付けることが
できないと思うようになった。

 そこで、門弟たちは、
手紙を書いて教えを乞う
ようになった。

距離が手紙を生んだわけだが、
手紙には距離を埋める以外の
大きな作用があった。

親鸞の返信を受け取った門弟は、
その手紙を道場の人々に見せ、
声を上げて読み聞かせ、
字のかける門弟の中には、
書写して
信心の拠り所とする
者も少なくなかった。

親鸞の手紙は現在43通が知られていて、
その中で11通は、真蹟とされている。

750年前の手紙が、
もとのまま11通も残っている
というのは
驚くべきことであるが、
それらの手紙は、親鸞の最晩年のもので、
京都に帰った60代前半にも
文通はあったに違いないが、
手紙は残っていない。

750年も前の手紙が11通も残っている、
という事実には確かに驚くが、
ここでの印象的なシーンは、
「声を上げて読み聞かせ」と
「書写して信心の拠り所」の部分。

手紙が、
個人対個人のやり取りに留まっていない。

東国の門弟たちは、
親鸞の手紙を大切にして、
写本を作って回読し、道場で
読み上げることもあったと思われる。

そうした中で、
手紙を集めた本が教典として
用いられることになった。

信心に関する質問に対して、
親しみ深く語りかけるような親鸞の返事は、
質問を的確に、深く理解した上で、
易しいことばで綴(つづ)られていたから、
消息集は門弟たちにとって、
かけがえのない教典となった


門弟たちは消息集を読んで、
師の面影を偲(しの)び、
師の声を聞くかのようなことばを
反芻するようになったのである。

親鸞との手紙が、
親鸞の教えの広がりに
独特な力をもっていく。

手紙を中心にした変化、だ。

 消息集が教典になったことは、
先進的な外来文化として伝来した仏教が
「漢訳仏典の学問」から、
信心を中核とする「宗教」に変じた
ことを、
何よりも的確に表わしていると思われる。

 突飛な比較と考えられるかも知れないが、
『新約聖書』は
27の資料からなっているが、
四部の福音書と
「使徒行伝」「ヨハネの黙示録」
の六篇の他は、
21通の手紙が収められており、
資料の数からいえば、
全体の4分の3は手紙である

キリスト教の教義の中核もまた、
手紙で述べられている
ということになる。

なるほど。
教典における「手紙」は
単なる表現の一形式として
採用されたものではなく、
「実績」に基づく
採用だったのかもしれない。

人々の心に届く、実手段として
大きな影響力を持ったという「実績」に。

特に識字率が高くなかった時代には、
「声を上げて読み聞かせ」るという
共有方法がその背景にあったことも
見逃せない。

「学問」から「宗教」に。

具体的な音は聞こえないけれど
確実に存在した「声」の存在が
「教典」に命を吹き込んでいるような
そんな気さえしてくる。

この本の話、もう少し続けたい。

 

 

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2017年4月 9日 (日)

深谷の煉瓦(レンガ)

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深谷の煉瓦(レンガ)

- 東京駅から迎賓館まで -

 

埼玉県深谷市というと、
深谷ネギというネギが有名だが、
ここは明治の大実業家
「渋沢栄一」の出身地でもある。

第一国立銀行(現みずほ銀行)や地方銀行、
東京瓦斯(ガス)や王子製紙、
帝国ホテルやキリンビール、
一橋大学、同志社大学、日本女子大学校
東京海上火災保険や東京証券取引所、
などなど
渋沢栄一が設立に関わった企業や学校は
多種多様でその数、実に500以上。

まさに「日本資本主義の父」
と呼ばれるにふさわしい輝かしい実績。

どの会社も組織も、その後の発展と
日本社会への影響度、貢献度を思うと、
一生の間にこれほど多様な仕事が
できるものだろうかと、
にわかには信じられないほどだ。

そんな渋沢が
設立に関わった会社のひとつに
日本煉瓦製造株式会社」がある。
1887年(明治20年)に設立。

明治になって、急速に増え始めた
欧米に倣った近代建造物のための
赤レンガを製造、販売していた。

会社は2006年に廃業してしまうが、
レンガを焼いていた窯(かま)は、
重要文化財として今でも深谷に残っている。

実際に窯を見に行ってみた。

【ホフマン輪窯(わがま)】
ドイツ人ホフマンが考案した
煉瓦の連続焼成が可能な輪窯(わがま)。

Fukaya2_2

明治40年の建造で、
長さ56.5m、幅20m、高さ3.3mの
煉瓦造り。
陸上のトラックのような形状の
輪になっており、一周約120メートル。

見学は無料だが、
丁寧にも説明員がついてくれる。

Fukaya1

ヘルメットを被り、
窯の中に入って説明を聞くことができる。

Fukaya3

今は仕切りはないが、
内部を18の部屋に分け、
窯詰め・予熱・焼成・冷却・窯出しの
工程を順次行いながら移動し、
およそ半月かけて窯を一周したとのこと。

燃料の石炭は、粉にして上の穴から
15分おきに投入していたらしいが、
実際に窯に入ると、
その穴を下から見上げることができる。

Fukaya4

生産能力は月産65万個。
1968年(昭和43年)まで
約60年間煉瓦を焼き続けた。

木造平屋の会社の旧事務所も
輪窯と一緒に
国の重要文化財となっているが、
内部は今は史料館となっている。

Fukaya5

あんな大きな窯が、
最盛期には6基もあったらしい。

Fukaya6

各窯建屋の内部はこんな感じ。
一番下に窯。
煙突の途中にあるハの字にご注目。
窯の上にあった建屋の屋根の跡。

Fukaya7

この屋根の跡は今も煙突に残る。
あの高さにまで建屋があったわけだ。

Fukaya8

さて、この大規模な工場で作られた煉瓦は、
いったいどこに使われていたのか。

史料館で100円で購入した
「深谷の煉瓦物語」という小冊子から
代表的な建造物を紹介したい。

(1) 東京駅 丸ノ内本屋
明治41年に着工し、大正3年に完成。
辰野金吾の設計による
国内最大級の煉瓦建築。
深谷の煉瓦が約833万個使われた。

(2) 旧信越本線碓氷第三橋梁
  (碓氷峠鉄道施設〉
横川~軽井沢間の碓氷峠鉄道敷設工事は
明治24年に開始。
けわしい峠を縫う11.2km余りの区間には
26ものトンネルと18の橋が必要で
そのほとんどが煉瓦で作られた。
使った煉瓦1800万個
500人以上の尊い犠牲を出しながら
明治26年初めに開通。

(3) 法務省旧本館 明治28年完成
(4) 日本銀行本店本館 明治23-29年
(5) 表慶館 明治41年完成
(6) 旧横浜正金銀行本店本館
  明治37年完成
  (現・神奈川県立歴史博物館)
(7) 旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)
  明治41年

(1)-(6)はすべて重要文化財、
(7)は国宝。

(4)-(7)は、外見だけを見ると
石造建築のように見えるが、
実はいすれも深谷の煉瓦を使って建設され、
表面に石材を張って仕上げたものらしい。

鉄筋コンクリート建築に
とって代わられるまで、
本格的な西洋建築の多くは
煉瓦造だったとのこと。

建築・建造物に限らないが、
開国後、短期間でよくここまで
新技術・新文化を取り込んだものだ。

欧米列強に追いつこうとしていた
日本の勢いを、強く強く実感できる。

 

 

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2017年1月15日 (日)

日本海、浅い海峡と小さな遭遇

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日本海、浅い海峡と小さな遭遇

- 230年前のスケッチ -

 

以前、ちょっと回転しただけなのに
日本列島が見慣れない形で現れるこの地図

Easia

(地図の購入はこちら
と、日本海について
この本を紹介した。

蒲生俊敬著
「日本海 その深層で起こっていること」
講談社ブルーバックス


(日本海についての過去の記事は
 こちらこちら

この本から、もう2点
興味深い話を紹介したい。
(以下水色部と図は本からの引用)

まずは1点目。
本では、日本海の特徴を
下記3点にまとめている。

① 外部の海とつながる海峡が浅く、
  地形的な閉鎖性が強い
こと。

② 対馬暖流がつねに流れ込んでいること。
③ 冬季に北西季節風が吹き抜けること。

この①について、
ちょっと驚く数字がある。

地図で見れば明らかなように、
日本海は、間宮、宗谷、津軽、対馬の
4つの海峡で外部の海と繋がっている。
この4つの海峡は、幅が狭いだけでなく、
とにかく浅い


どれほど浅いか。
本文から数字を集めて並べてみた。
(「約10メートル」の「約」は省略して引用)

  日本海の深さ
  平均水深 1,667メートル
  最大水深 3,800メートル

  4つの海峡の深さ
  間宮海峡   10メートル
  宗谷海峡   50メートル
  津軽海峡  130メートル
  対馬海峡  130メートル

もう少しイメージしやすくするため
日本海を
平均深さ50cmのバスタブとしてみよう。
海峡は、外部の海と繋がる
「縁の窪み」ということになる。

  間宮海峡   0.3cm
  宗谷海峡   1.5cm
  津軽海峡   3.9cm
  対馬海峡   3.9cm

一番深い対馬海峡でもわずか4cm
いかに「閉鎖性が強い」かがよくわかる。

このことが、②③との組合せで
海水の対流(熱塩対流)や付近の天候に
大きな特徴をもたらすのだが、
その詳細は本のほうにゆずりたい。

いずれにせよ、この閉鎖性が、

ある大潮の時期に、
同じ青森県でも
太平洋に面した八戸では干満の差が
130センチメートルもあるのに、
日本海に面した深浦では、
わずか20センチメートル程度しか
海面が変化しません。

の原因。

若狭湾に面する京都府与謝郡伊根町
 「舟屋」のような、
 1階が船のガレージ、
 2階が居間となった
海辺ぎりぎりの独特な建物が成立するのも、
日本海だからこそと言える。

 

日本海についての話、2点目は
歴史的エピソード。

フランスのJ・F・ラペルーズが、
1787年に日本海を探検したときのこと。

 ラペルーズ率いるフリゲート艦2隻は、
1787年5月25日に
対馬海峡から日本海に入ります。

1797年に出版された
「ラペルーズ世界周航記」の付図には、
日本海を東へ進んだあと、
能登半島沖で北西に向きを変えて、
ロシア沿岸を北上した航跡が
記されています。
Nihonkai1

 

このラペルーズ率いる2隻のフリゲート艦が、
日本海でふしぎな和船と遭遇しています。

遭遇場所は、

Nihonkai2

の、"MER DU JAPON"と表記されている
"MER"と"DU"の中間あたり。

1787年6月2日のこと。

対馬海峡から日本海に入った
ラペルーズ隊の前方から、
2隻の日本船(北前船)が近づいてきた。

 2隻のうち1隻は、通常の弁才船

Nihonkai3

だったが、もう1隻は
いっぷう変わった形状をしていた。

230年近くも前、フランスの軍艦が
日本海で偶然見かけた日本の船の形状、
なぜそんなことがわかるのか。

まだ写真のない時代でしたが、
ラペルーズ隊のブロンドラ海軍中尉が
これらの和船を巧みにスケッチしました。

その絵が現存しており、
『ラペルーズ世界周航記・日本近海編』
(小林忠雄編訳)に添付されています。

なんとその船のスケッチが残っているのだ!
しかも精緻で美しい。

Nihonkai4

 

 和船研究の権威である
石井謙治や安達裕之によれば、
この船は「三国丸(さんごくまる)」といい、
江戸幕府が1786年10月に
就航させたばかりの1500石積み廻船でした。

「三国」という名称は、
この船が
 和船、
 中国船、および
 西洋船(オランダ船)
の3種の船の長所を
組み合わせた折衷(せっちゅう)船
であることに由来しています。

 唐船づくりの船体に
和式の総矢倉を設け、
船体の中央には和式の本帆、
船首と船尾には洋式の補助帆(三角帆など)
を備え・・・、といったぐあいです。

しかも、三国丸のような和洋折衷船は、
当時の日本でこの一隻だけだったという。
なんという偶然。

『世界周航記』(小林忠雄編訳)には、
そのときのようすが
興味深く記載されています。

「我々は日本人の顔が
 観察できるほど近くを通過したが、
 その表情には恐怖も、驚きも
 表われていなかった」

「すれ違いながら呼びかけたが、
 我々の問いは彼らの理解をえられず、
 彼らの答弁も我々にはわからなかった。
 日本船は南方に航海をつづけた」

コミュニケーションは
取れなかったかもしれないが、
そこまで近づいてきた
異国の船(しかも軍艦)に
三国丸の人々は、
どれほど驚いたことだろう。

三国丸はその一年後、
1788年9月、暴風に見舞われ
出羽国赤石浜に漂着。
そこで破船。

 実働わずか2年たらず。
同型船が再建されることは
なかったという。

 

日本にわずか一隻、しかも
たった2年しか存在していなかった船が、
はるかフランスからやってきた軍艦と
230年前の日本海上でたまたま遭遇。
その時のフランス人の正確なスケッチが
ちゃんと残っているなんて。

貴重なスケッチは、
たった一枚でも物語を運んでくれる。

 

 

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2016年12月25日 (日)

渤海からのカレンダー

(全体の目次はこちら


渤海からのカレンダー

- 宣明暦(せんみょうれき)の渡来 -

 

前回、「日本海」について
この本を紹介させていただいた。

 蒲生俊敬著
 「日本海 その深層で起こっていること」
 講談社ブルーバックス

この本、ブルーバックスなので、
海水の「熱塩循環」を始め
科学的な視点での解説が多いのだが、
日本海に関する歴史的なエピソードも
数多く盛り込まれている。

その中からひとつご紹介。
(以下水色部、本からの引用)

 8世紀から10世紀にかけては、
高句麗の後継として698年に建国された
渤海(ぼっかい)
(当初の国名は振で、926年に滅亡)
とのあいだで実施された国際交流
(遺渤海使)がよく知られています。

今から1300年も前の話だ。

 

727年に渤海からの使節が
蝦夷(えぞ)地に来着したのをきっかけに、
翌728年には、わが国から初めての
遣渤海使が日本海を渡ります。

遣渤海使は811年の15回めで終了しますが、
渤海はその後も熱心に使節を派遣し続け、
929年の34回めまで継続されました。

727年-929年この間だけで約200年。

渤海使の推定交易ルートが下図。
なお、参考にしているのは、
 高瀬重雄(1984)
 「日本海文化の形成」名著出版

Nihonkai

秋田県能代から島根県松江(千酌)、
そして平城京まで、
なんと多くのところと繋がりがあったことか。

 

渤海からの使節は、
秋から冬にかけての北西季節風を利用して
日本海を横断し、対馬暖流に乗って
日本海沿岸の港に到着しました。

一方、帰路は4~8月に日本海を北上し、
リマン寒流を利用して渤海沿岸に
到着していたと思われます。

彼らは航海術に長(た)けていたようで、
海路図からは日本海の海流を経験的に
うまく利用していた
ようすが見てとれます。

古い話とはいえ、
航海術はこの時点ですでに長い歴史があり、
風や海流をうまく利用していたようだ。

 

 交流が始まった当初の渤海は
新羅と対立しており、同国を牽制するために、
やはり新羅と敵対していた
わが国との連係を求めました。

しかし、まもなく
新羅との緊張状態が緩和したことによって
軍事同盟的な色彩は薄れ、渤海との関係は
交易を中心とする文化的なものへ
変わっていきます。

軍事目的から文化交流へ。

では、実際にはどんなものが
やりとりされていたのだろう?

 渤海からは、
貂(てん)・熊・豹・虎などの毛皮や、
人参、蜂蜜、陶器類、仏具、経典などが
わが国にもたらされました。

一方わが国からは、
絹などの高級な繊維加工品、黄金や水銀、
工芸品、つばき油、金漆(こしあぶら)などが
輸出されました。

養蚕のあまりできない渤海で、
絹製品はとりわけ珍重されたといいます。

そして、このルートで輸入された
もっと大きなもの。

それは、その後800年以上に渡って
日本で使われることになる「カレンダー」だ。

 この時代に、渤海を経由して
唐から伝えられた貴重な文物があります。

859年の渤海使によってもたらされた
宣明暦(せんみょうれき)」です。

当時の唐で使用されていた
高精度の太陰太陽暦であるこの暦は、
862年から
江戸時代中期にあたる1684年まで、
実に822年間もの長きにわたって使用され、
年月日に基づく人々の
日常的生活の拠りどころとなりました。

800年間も使われた宣明歴。
その入国のルートとなったのが、
日本海だったようだ。

宣明歴も1685年には、
輸入物ではなく、日本人
渋川春海の手によって編纂された和暦、
貞享暦(じょうきょうれき)
改暦される。

渋川春海については、
冲方丁著『天地明察(てんちめいさつ)』
で広く知られるようになった。

貞享暦のほうは、
70年の寿命だったようだが。

 

2016年も年の瀬。
さてさて、来年は
どんなカレンダーになることでしょう。

今年もご訪問ありがとうございました。
どうぞ、よいお年をお迎え下さい。

 

 

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2016年10月 2日 (日)

文字の博覧会 (4)

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文字の博覧会 (4)

- 布教のために文字考案 -

 

「文字の博覧会」
からの報告の4回目。

(1):ビルマ文字が丸くなったのは
(2):上下左右なし、鏡文字もOK
(3):現役の象形文字
と書いてきたが、文字の話は
今日で一旦一区切りとしたい。

前回に引き続き、
ちょっと形の変わった文字を見てみよう。

参照するのは、これまで同様、当日のメモと
パンフレットとして売られていた

(以下、水色部と文字の写真は
 上記の本からの引用)

 

(4-1) 中国:規範彝(い)文字

Roro

彝(イ)族が奇怪な文字を用いていることは、
18世紀、フランス人ドローヌの
報告書によって明らかになった。

象形文字を音節文字にした文字で、
7~8世紀頃に作られた。
四川のみならず、貴州省、雲南省でも
同様の文字を用いており、
さん文、ロロ文字とも呼ばれる。

時を経て、1980年、
四川省は旧来の文字をまとめ、
規範彝(イ)文として公布した。

文字は819字あり、
字形は相互に関連性を持たない

写真は、1991年の凉山日報という新聞の一部。
この文字で、
ちゃんと日刊の新聞が発行されている。

 

(4-2) エスキモー文字

Esukimo2

この写真は、中西コレクションデータベースから

イギリス人宣教師の
ジェームズ・エヴァンスが1840年頃、
布教のためにカナダ先住民の言語を
表記するために考案した。

クリー語、
イヌクティトゥット語、
チペワイヤン語、
などでも使用されていた。

一瞬、数式の一部かと思ってしまうような文字列。

それにしても「布教のために」
文字まで作ってしまうなんて。

展示会では、ほかにも
モルモン教布教のために考案された
デザレットアルファベットなども展示されていた。

 

(4-3) アフリカ:マンドンベ文字

Mandombe1s

この写真は、アフリカ固有の文字から

ブログを書くために
いろいろ調べているうちに出遭った文字。
文字の博覧会で見かけたわけではないのだが、
どうしても紹介しておきたかったのでお許しあれ。

詳しい説明は引用した
アフリカ固有の文字
ご覧いただきたいが、
この形、インパクトが強すぎる。

 

4回にわたって
主に「文字の博覧会」から
特徴ある世界の文字を紹介させていただいた。

第一回目に書いた通り、
これらの文字を集めたのは中西亮さん。
実は、中西さんの、まさに唯一無二の
文字収集活動については、
ずいぶん前から知っていた。

なのでいくつか関連記事もスクラップしてある。
そんな中から、亡くなった後の
新聞記事を添えておきたい。
今から22年も前の古い記事だが。

朝日新聞 1994年6月4日の記事

A940604_s

以下 緑色部はこの記事からの引用。

文字の美しさと多様性に魅せられた
京都市の元印刷会社社長が120カ国を歩き回り、
400種類といわれる世界の文字の
ほぼすべてを収集した。

 

朝日新聞 1994年6月11日の天声人語

A940611_nakanishi_s

以下 茶色部はこの記事からの引用。

漢字も面白い。
字体をみだりに変える者は斬首(ざんしゅ)せよ
と厳命した王のおかげかどうか、
と中西さんは書いているが、
とにかく漢字は二千年間その姿を変えず、
私たちは漢代の文書をそのまま読むことができる

 

6月4日の記事にはこんな記述もある。

経口の抗がん剤を持ち
アフリカのサハラ砂漠へ旅立った。
トゥアレグ族の人たちが守り続けたという
ティフナグ文字を探した。

腰や背中の痛みに耐えて、ついに念願を果たした。

最後に辿り着いた「ティフナグ文字」とは
どんな文字なのだろう。
ちょっと見てみよう。

Thifunagu

この写真は、中西印刷株式会社「世界の文字」から

 

国立民族学博物館顧問の梅棹忠夫さんの話 

中西さんの研究は極めて有意義なものです。
これほどの研究は外国にもないのではないか。
言語学的にきちんと調べて
資料を集められている。

この資料が散逸するのを心配しています
ご遺族のご了解があれば、
整理したうえで永久保存し、
研究に役立てられるような方法
を探したい。

その後、資料は梅棹さんの希望通り、
国立民族学博物館に寄贈され、
中西コレクションとして保管、公開されている。

まさに、

ひとりの人間の情熱が、
何とすばらしい文化的財産を残したことか。

 

 

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2016年9月25日 (日)

文字の博覧会 (3)

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文字の博覧会 (3)

- 現役の象形文字 -

 

「文字の博覧会」
からの報告の3回目。

前回までで
特に文字種の多い、
東南アジアとインドから
特徴的な文字を紹介した。

今日は違う視点で文字を選んでみたい。

参照するのは、これまで同様、当日のメモと
パンフレットとして売られていた

(以下、水色部と文字の写真は
 上記の本からの引用)

まずは、「歴史」観点でこの文字から。

 

(3-1) ヘブライ文字

Heburai

漢字は漢の時代に
漢字として成立してから今までほとんど
その姿を変えていない。
その古さは2100年といえる。

しかし、
現在のイスラエルの国語であるヘブライ語を記す
ヘブライ文字は、
紀元前5世紀に聖者エズラが形を定めてから、
すでに2400年以上経っている


その間、国は滅び、
民族は世界中に離散したにもかかわらず、
紀元前の「死海文書」と現在の新聞の文字が
ほとんど変わっていないのはまさに驚異である。

古代ヘブライ語とヘブライ文字は国と共に滅びたのに、
1948年にイスラエル共和国が成立すると
公用語として復活


その文字が、
紀元前1世紀に書かれた手写本「死海文書」の文字と
ほとんど変わっていないというのだから、確かに驚く。

アラム系文字は子音字のみなので、
読むときは文脈に応じて母音を補う。

ヘブライ文字には漢字のように書道がある
手写本はいずれも美しく書かれ、
一字一句の書き誤りもない。

この文字もまた第一回のラオ文字同様
子音字のみで、
読むときに母音を補うパターン。

それにしても書道があるなんて。

以前、米国人に英語で書道を説明しようとして
たいへん苦労したことを思い出した。

もちろん私自身の貧弱な英語力のせいだが、
英文書体を美しく書く
「calligraphyとどう違うのか?」の質問に
うまく答えられなかった。

まだ、スマホやタブレットもなかった時代で
書道の例さえ見せられなかったつらさはあるが、
仮に見せられたとしても、
どう表現すればよかったのだろう?

今でもすっきりした説明が思いつかないままだ。

 

イスラエルのエルサレム
聖書が今に生きている町で、
ユダヤ人街、イスラーム教街、
キリスト教街、アルメニア人街に4分され、
それぞれが宗教の最高の聖地となっているが、
互いに無干渉に暮らしている。

イスラーム教街ではヘブライ文字は
ほとんど見られず、
全てアラビア文字なのも面白い。

では、そのアラビア文字を見てみよう。

 

(3-2) アラビア文字

Arabia1

アラム文字系の文字で母音がなく、
大文字、小文字の区別のない28文字を
右から左へ、英語の筆記体のように連続して綴る。

文字は
独立形、語頭形、語中形、語未形と
4つの形があり、
同じ文字でも位置によって形は変わる


イスラーム教の文字で
『コーラン』は常に
アラビア語で書かれる

IS関連のニュースが多い昨今、
イスラム教の聖典「コーラン」を
よく耳にするようになったが、
「コーラン」は「アラビア語」のみ、
というのが大きな特徴。

キリスト教が、
聖書の各「言語」訳どころか、
文字のない民族には新しい文字まで作って
布教しようとしていた歴史とは対照的だ。

私にはもちろん読めないが、
見ているだけで一種のリズムを感じる。

 

見ているだけで、と言えば、
アラビア文字を基にしたペルシャ文字も外せない。

(3-3) ペルシャ文字

Perusya

ナスタアリーク体で書かれた、
ペルシャの詩人の自筆書。

ペルシャ文字は32文字の文字体系から成る。
アラビア文字を受け入れたぺルシャ人は、
これに若干の改良を加えた上、
ナスタアリーク体という優雅な書体を作り出した。

「炎がたなびくような書体で、
 美しいリズムが紙面から伝わってくるが、
 優雅すぎて活字にはならない」 

と中西さんは指摘する。
新聞は他のアラビア文字と同じ
ナスヒー体で印刷されている。

「炎がたなびくよう」とはうまい表現だ。

 

ここからは
ちょっと形の変わった文字を見てみよう。

(3-4) ナシ象形文字

Tompa

中国のチベットや雲南省に住む
少数民族のナシ(納西)族の司祭である
トンパの間のみで継承されてきた文字で、
トンパ文字ともいう。

口語ではなく、解読は難しいとされている。
2003年ユネスコの世界の記憶遺産に登録された。

象形文字というと古代エジプトで使われていた
ヒエログリフがすぐに浮かぶが、
これは利用が限定的とはいえ、
まさに「現役」の象形文字だ。

 

こういった絵のような象形文字は、
なんと沖縄県にもあったらしい。

(3-5) カイダー文字

Kaida

沖縄県八重山列島で用いられた文字。
税金や米の収穫量などを記録するための文字で、
一部で昭和前期まで用いられた

現役とは言えないまでも、
「昭和前期まで」使われていたとは。
全く知らなかった。

 

(3-6) ベルベル文字

Beruberu

アラビア語が主流の
北西アフリカで生き続ける文字で、
貴族階級の女性たちが守り伝えたとされる。

国民の3割がベルベル人のモロッコでは
2011年にこのベルベル語も公用語になったらしい。

 

世界の文字の話、もう少し続けたい。

 

 

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2016年9月18日 (日)

文字の博覧会 (2)

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文字の博覧会 (2)

- 上下左右なし、鏡文字もOK -

 

「文字の博覧会」
からの報告の2回目。

前回、多彩な文字を持つ
東南アジアの文字から紹介を始めたら、
実際にタイに住んでいた方から、
近隣諸国訪問時の印象も含めて、
丁寧なコメントをいただいた。

実感を伴ったコメントは、
ほんとうにうれしい。

というわけで、
もう少し東南アジアの文字を見てみたい。

参照するのは、当日のメモと前回に引き続き
パンフレットとして売られていた

(以下、水色部と文字の写真は
 上記の本からの引用)

今日は、タイ文字から見てみよう。

 

(2-1) タイ文字

Tai

タイ語はシナ・チベット語族に属し、
一語が一音節から成り、
声調(中国の四声のような上下アクセント)を
持っている。

古いクメール文字を基にした
インドのブラーフミー系の文字。

声調記号なども導入して工夫されている。

「これは読みません」
「この後は余りに長いので略します」

といった記号もある

なんという記号だろう。
「読みません」をわざわざ書くなんて。

文字のページではなく、
タイ語のページで調べてみると、
これは、タイ語にインド系の語が多いことと
深く関係があるようだ。

インド由来の単語が
 「発音」はタイ語っぽく変化、
 とろこが「綴り」はもとのまま。
その結果、音と綴りに乖離が生じ、
英語knife(ナイフ)のkのようなサイレント文字や
「読みません」をわざわざ書く「黙示符号」が
登場してきたらしい。

他にも、Wikipediaで「タイ文字」を見ると、
「詩の節のはじまり」を表す文字、
「詩の節や章の終わり」を表す文字、
「文書や物語の終わり」を表す文字、
なども「文字」として存在している。

「音」以外の視点の違いは新鮮だ。

 

(2-2) マンヤン文字

Manyan

フィリピンの公用語であるタガログ語は
ラテン文字で記すが、
ミンドロ島のハヌノオ・マンヤンは、
独自の言葉と文字を守り続け、
竹片に小刀で文字を刻んでいる。

上下左右に決まった向きはなく、
左利きは左右反転した文字を書く

上下左右の向きもなく、
左利きの鏡文字もOKとは。

本を上下左右4人ではさんで、
四人同時に読めるということだろうか?

そういえば、
フィリピンについては、
こんなエピソードも添えてある。

 マゼランは
1521年にフィリピンに上陸し
まもなく殺されるが、
彼に随行した宣教師はフィリピンでは
各島それぞれに文字があると
驚きを持って書き記している


その後のスペイン支配下で
このことは全く忘れ去られたが、
19世紀に、独特の文字を持つ
山岳少数民族が発見された。

その文字がなんと
マゼラン一行が記録した文字と似ているという。

私は、古代文字を
守り続ける人たちに会いたくなった。

しかし、
フィリピン平地人からは
尻尾があると信じられているくらい、
隔絶された山岳民であった。

 

(2-3) シャン文字

Syan

ミャンマー東部のシャン族の文字。
仏教説話の一部。
この資料、ご覧の通りとにかく筆跡が美しい。

 

インド方面に目を移してみよう。
まずは公用語のこの文字から。

(2-4) デーヴァナーガリー文字

Deva

「都会の文字」を意味するナーガリーに
デーヴァ(神)を冠して呼ばれるようになり、
サンスクリット語の写本に用いられて
広域に伝播した。

現在、インド連邦の公用語は
デーヴァナーガリー文字で表記された
ヒンディー語
と定められている。

デーヴァ・ナーガリー文字と読むと読みやすい。

ヒンディー語だけでなく、
ネパール語もこの文字を使っている。

 

(2-5) グルムキー文字

Gurumuki

16世紀、インド北西部の
パンジャーブ地方にシク教が興り、
第2代グル・アンガドは、
初代グル・ナーナクの教えを正確に
民に伝えるためにグルムキー文字を創製した


グルムキーは
「グル(最高指導者)の口」の意である。

それまでこの地方のパンジャーブ語を
表記していたランダー文字は

「書いた人以外には絶対読めないのが唯一の欠点」

といわれた不完全な文字
で、
グル・アンガドはランダー文字や
デーヴァナーガリー文字を改変して
文字を作ったとされる。

前身のランダー文字とはどんな文字だったのだろう。
「書いた人以外には絶対読めない」って
そもそも文字と言えるのだろうか?

「唯一の欠点」という表現が笑える。

 

(2-6) オリヤ文字

Oriya

インド東部のオリッサ州で話される
オリヤ語を表すオリヤ文字は、
北方系のデーヴァナーガリー文字と
同系列に属する。

しかしその形状は中西さんが

「坊主頭が並んだようで一度見たら忘れられない」
 
と言う通り、上部がすべて丸く、
文字に水平の直線は一つも現れない。

「坊主頭が並んだよう」の表現はぴったりだ。

そしてその理由として、
この地域が熱帯雨林地帯でヤシが多く、
貝葉(ヤシの葉)に鉄筆で刻み、
墨を入れて文字を記したため、
横線を引くと葉が裂けたのであろう、
と推測している。

前回のビルマ文字同様、
葉に書くことが、文字の形に影響しているようだ。

 

世界の文字の話、もう少し続けたい。

 

 

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