歴史

2022年7月 3日 (日)

高橋是清の少年時代 (3)

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高橋是清の少年時代 (3)

- 詐欺被害から放蕩生活へ -

 

前回に引き続き
高橋是清の少年期を追ってみたい。

前回までの分を簡単に振り返ると、

 11歳のとき横浜で英語を学び、
 14歳で渡米。米国にて
 奴隷契約書にサインさせられるものの
 日本における
 江戸から明治への大転換を知り、
 帰国を決意。
 奴隷契約破棄をなんとか実現して
 帰国の途に。

 朝敵の汚名をきせられた
 仙台藩士だったゆえ
 外国人をよそおって日本に帰国。

 その後、森有礼らの助けをえて
 大学南校に入学するも
 英語が堪能だったためすぐに教官に。
 まだ16歳。

高橋少年はその後・・・


参考図書は、

大島清 (著)
高橋是清 - 財政家の数奇な生涯
中公新書

(以下水色部、本からの引用)


大学南校の教官になったものの、
これまで学校でちゃんとした教育を
受けた経験がない高橋は、
大学南校に教頭として招かれた
フルベッキ博士の役宅に同居しながら
歴史書を回読、
聖書の講義を聞き、
勉強に身を打ち込んだ。

ところが、ここにまた
とんでもないつまずきの原因が
あらわれた。

そして、彼は放蕩生活の
どん底へ転落していった

詳しくは本に譲るが、
大学南校の生徒のために、
250両を都合してほしい、
との依頼が高橋にくる。

もちろん本人にそんな金はないので
遠い親類の商人に頼み
なんとか都合してもらうのだが、
金を受け取った依頼人は、
「お礼の一席」を設けたいと
両国の立派な日本料理屋に
高橋を主賓として招待する。

普通なら、
ここで一ぱい食わされたと感づき、
金の回収をするところであろう。

・・(中略)・・

しかしこのばあい、
やはり数えで十六歳という
幼さを見るべきではなかろうか

金をだまし取った犯人たちが設けた
芸妓たちにちやほやされる
一席をきっかけに、
遊びをおぼえた高橋は
フルベッキ邸を出て、
放蕩生活にのめり込んでいく


あるとき芸妓をつれて
浅草の芝居をみにゆき、
芸妓の長襦袢を着て
さかんに痛飲しているところを、

大学教官に見られて辞表提出。

収入もなくなり、蓄えも使い果たし、
書物も衣類も一切売り払ってしまう。

高橋は、そのたびに
現在の自分を悔いるのだが、
溶けこんだ放蕩は
どうしても止められなかったようだ。

家主からも疎んじられるようになった高橋は
とうとう、馴染みの芸妓に
引き取ってもらうこととなる。

自分で自分に愛想がつきて

いたころ、ついにあの話がやってくる。

知り合いの世話で、
「唐津藩が英語学校をつくるので、
 その教師となって赴任する」
という話が舞い込んできたのだ。

高橋は、月給の前借りをして
*洋服を整え
*借財の始末をし
そして
*(借りた)250両の元利を
 月給から返していく証文を整えた。

かくて、
唐津藩の英学校耐恒寮の教師となって、
唐津へいったのは明治四年、
かれが十八歳ときであったから、
その意気あたるべからず、
英学を白眼視する保守派を向うにまわして、
大酒をあおりながらも、
寮の施設を
しだいにゆるぎないものにした。

駆け足ながらようやく耐恒寮赴任までを
書くことができた。

教師としての赴任とは言え、
それでもまだ18歳。

ここで、彼らに出会うことになる。

彼ら、の話は次回に。

 

 

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2022年6月26日 (日)

高橋是清の少年時代 (2)

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高橋是清の少年時代 (2)

- 奴隷契約にサインさせられ -

 

唐津観光でみかけた案内板から始まった
高橋是清と
辰野金吾、曽禰達蔵らへの興味。

前回に引き続き
高橋是清の少年期を追ってみたい。

参考図書は、

大島清 (著)
高橋是清 - 財政家の数奇な生涯
中公新書

(以下水色部、本からの引用)

11歳のとき横浜で英語を学び、
14歳で米国に送り出された高橋是清。

渡米した高橋は、
サンフランシスコの
ヴァンリード家に住み込むが、

学校へもやってくれないだけでなく、
料理番から部屋掃除、
使い走りまでやらされる。
お昼ごろになると、細君が
「パンにパターをつけ、
 それにプドーか何かを
 一房くらいくれて、
 それを部屋の外の
 飼犬が食っている場所で
 食べたがよいという」

その後、老ヴァンリードの紹介で
オークランドのブラウン家に
移ることになる。
その際、公証人役場で
内容の理解できない書類に
14歳の少年はサインさせられる


ブラウン家では、当初
元気に働きながら、
夫人から英習字を習ったり、
読本を教わったりしていたが、
途中で中国人のコックと衝突。
暇を申し出た高橋に主人は言った。

「お前は勝手に
 暇を取って帰るわけにはゆかぬ。
 お前の体は、三年間は
 金を出して買ってあるのだ

このとき初めて役場でサインした書類が、
身売りの契約書であったことを知る。

そのころ、日本では
孝明天皇が36歳で崩御、
明治天皇が即位、
そしてその年(1968年)の10月には
倒幕の密詔が薩長の二藩に下りと、
政治的な大転換が進んでいた。

友人の世話で
日本人の店を手伝っていた高橋は、
その店でそういった日本の情勢を
知ることになる。

そんな中
津、仙台、庄内などの諸藩が
 朝敵の汚名をきせられ・・・

の報が入ってくる。

幕府からもらった渡航免状には
「仙台藩の百姓」
となっていた高橋。
じっとしていられなくなる。

他の留学生とも相談。
4人の留学生が帰国する決心をする。

しかし高橋の場合、
先の奴隷契約書破棄が必要だ。
その難題も留学生の協力をえながら
領事らに働きかけてみごとに達成。

1968年、サンフランシスコから
横浜を目指して帰国の途につく。

とは言え、

朝敵の汚名をきた藩士であるから、
いきなり日本へ帰ることは、
どんなとがめをうけるか判らない。

安心して帰れる状況ではなかった。
横浜では

外国人をよそおって
英語をペラペラしゃべりながら、
運上所(税関)を突破

その後、森有礼の世話で
東京大学の源流となる大学南校に入学する。

もちろん生徒としての入学であったが、
英語ができることを理由に
わずか数ヶ月後には
「教官三等手伝い」を
命ぜられることとなる。

高橋はこうして数え年16歳で
大学南校の教官として
英語を教えることになった
が、
しかし過去においてかれは
正規に学校へ入ったこともなく、
精神生活においては、横浜で
ヘボン夫人から英語をならったとき、
少しばかりの宗教的な話を
きいただけであった。

ここまで来てもまだ16歳。

高橋少年の唐津赴任までの話。
次回も続けたい。

 

 

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2022年6月19日 (日)

高橋是清の少年時代 (1)

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高橋是清の少年時代 (1)

- 私生児から14歳で米国へ -

 

前回
旧大島邸の案内板にあった
この文言を紹介した。

唐津藩の英語学校、
耐恒寮(たいこうりょう)において、
東京駅を設計した
辰野金吾(たつのきんご)
同じく著名な建築家である
曽禰達蔵(そねたつぞう)らとともに、
後の蔵相、首相を務めた
高橋是清の薫陶を受け、
・・・・

この一文は、
私の唐津への関心を一気に高めてくれた。

唐津藩の藩校では、
高橋是清が教壇に立ち、
生徒には辰野金吾と曽禰達蔵がいた、
と言っているわけだ。

知らなかった歴史との出会いがあるから
旅は楽しい。

そもそも高橋是清についても
「二・二六事件で暗殺された元首相」
程度のことしか知らないレベルなので、
「藩校の先生」、しかも教え子には
のちに名建築を残す建築家の名が並んでいる、
というのがどうもイメージできない。

というわけで、まずは高橋是清から、と
下記の本を手にしたわけだが、
その一生はまさに数奇なものだった。

大島清 (著)
高橋是清 - 財政家の数奇な生涯
中公新書

(以下水色部、本からの引用)

唐津と繋がりができるまでの
エピソードだけでも少し紹介したい。

といっても、実は
高橋が唐津に先生として赴任したのは
わずか18歳のとき。

耐恒寮(たいこうりょう)で出会ったとき、
教師 高橋是清 18歳
生徒 辰野金吾 18歳
生徒 曽禰達蔵 19歳
この年令構成を見ただけでも
興味は深まるばかりだ。

 

高橋是清は安政元年(1854年)、
幕府の絵師川村庄右衛門の家に
奉公していた侍女
北原きん(このとき16歳)の
私生児として生まれた

このとき庄右衛門47歳。

庄右衛門は和喜次(わきじ)と名付け
自分の子としても認めたが、
家には6人の子があったため、
生後3,4日のうちに、
仙台藩の足軽
高橋覚治是忠(これただ)の家に
里子に出された

その後菓子屋への養子の話もあがるが、
是忠の養母喜代子が強く反対し、
実子是清として届け出る

ともかく、
高橋は私生児として生まれ、
里子に出され、
養子にやられるという、
こみいった事情に育ちながら、
私生児にありがちな劣等感や
性格の暗さなど全然ない。

逆にあけっぱなしで、思ったことは
歯に衣をきせることなくいい、
いつもにこにこしているので、
人に憎まれることのない
楽天家として一生をおわった


(中略)

このような性格は
もちろん天成のものと
いえるのであろうが、
しかし祖母喜代子の厳しいしつけと
暖かい思いやり
に負うところが
大きかったことは
見逃せないところである。

 

そのころ、
藩の江戸屋敷に
大童信大夫(だいどうしんだゆう)という
居留守役がいた。
大童は福沢諭吉とも親しかった男だが

これからの人間は外国の事情を
勉強しなければならない
という
考えをもっていて、
洋学の勉強をする若い武士などに
とくに目をかけた。

(中略)

足軽小者の子供のなかから、
英語の勉強に
まず横浜へ派遣することをかんがえ、
結局高橋と
鈴木六之助
(のち日本銀行出納局長鈴木和雄)
を選んだのである。

1864年、同年の二人は11歳で
横浜居留地のヘボン博士のもとへ
英語を習いに通うようになる。

このときも祖母喜代子は、藩に頼んで
横浜に急造の一戸を建ててもらい、
二人の炊事から身のまわりの
世話をやいたという。

そのころの社会情勢をちょっと見てみよう。

文久2年(1862年)
 1月 坂下門の変
 4月 伏見寺田屋事件
文久3年(1863年)
 5月 長州藩攘夷実行
 7月 薩英戦争
 8月 尊攘激派が京を追われる
元治元年(1864年)
 7月 蛤御門の変
 8月 四ヵ国連合艦隊の長州攻撃

このような社会体制の変革期に、
少年時代をすごしている高橋にとって、
積極的に
海外へ眼を向けさせてくれた人たち、
大童や祖母があったことは、
幸運というほかない。

高橋は、横浜で英語をみっちり学び
慶応3年(1967年)7月、
正式に藩からアメリカへ
派遣されることになった。
このときまだ14歳。

高橋は祖母の手製の洋服と
古道具屋で見つけた
婦人靴をはいて出かけた。

ところが渡米後、高橋には
「奴隷として売られてしまう」
という運命が待っていた。

長くなってきたので、
続きは次回にしたい。

 

 

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2022年6月12日 (日)

大島小太郎と竹内明太郎

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大島小太郎と竹内明太郎

- 唐津への関心を一気に高めた一文 -

 

佐賀県・唐津市観光。
旧高取邸に続いて立ち寄ったのが
大島小太郎の旧宅、旧大島邸

P5011770s

案内板に次のような説明がある。

大島小太郎の旧宅

大島小太郎は、
唐津藩士、大島興義(おきよし)の
長男として唐津城内に生まれました。

唐津藩の英語学校、
耐恒寮(たいこうりょう)において、
東京駅を設計した
辰野金吾(たつのきんご)
同じく著名な建築家である
曽禰達蔵(そねたつぞう)らとともに、
後の蔵相、首相を務めた
高橋是清の薫陶を受け、
明治18年(1885)には
佐賀銀行の前進となる
唐津銀行を創立しました。

この一文を読んでから
私の唐津への関心は一気に高まった。
まさに知らなかった歴史との出会い。
これは調べねば。整理せねば。
というわけで、本件については
のちほど改めて書きたいと思う。

まずは大島邸をゆっくり見て回ろう。
建物は純和風で、
畳と襖(ふすま)が美しい。

P5011775s


華美ではないが、
さすが実業家の邸宅。
廊下にはこんな説明が。
「床は一本松で出来ています」
一枚板の長さに驚く。

P5011774s

大島小太郎は、
* 唐津銀行を創立したが、
その後も、
* 鉄道(現在のJR筑肥線)の敷設
* 道路の敷設
* 市街地の電化
* 唐津湾の整備
など、唐津の近代化に大きく貢献した。

P5011778s

 

この邸宅、実は移築されたもので、
現在、旧大島邸の建っている場所には 
(1886年-1922年の36年間)竹内明太郎
住んでいた。
つまり現旧大島邸は、
竹内明太郎邸跡とも言える。

この竹内明太郎も多くの業績を残している。
明太郎の父 綱(つな)は、前回書いた
高取伊好(これよし)とも関係が深い。

1885年:明太郎の父 綱(つな)は
    高取伊好とともに
    芳ノ谷炭鉱の経営権を取得。

1886年:経営を任された明太郎が
    (土佐藩宿毛領から)唐津に赴任。
    最新鋭の鉱山建設に着手。

1909年:唐津市妙見に
    「芳ノ谷炭鉱唐津鉄工所
     (現唐津プレシジョン)」新設
    我が国を代表する
    精密機械工場のひとつに。

P5011779s

他にも
* 早稲田大学理工学部 設立
* 私立高知工業高校(現高知県立工業高校)
  設立

* 小松鉄工所(現小松製作所)設立

* 田健治郎(九州炭鉱汽船社長)
  青山禄郎とともに、
  国産第一号自動車DAT自動車を開発した
  快進社(のちのダットサン、
  日産自動車の前進のひとつ)を支援。
  ダットサンのDATは
  田(でん)、青山、竹内のイニシャルから。

などなど唐津に留まらない広い範囲で
大きな足跡を残している。

 

次回からは、最初の案内文にあった
高橋是清、辰野金吾、曽禰達蔵の
3人について書いていきたいと思う。

 

 

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2022年6月 5日 (日)

唐津城とまちに残る石垣

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唐津城とまちに残る石垣

- 歴史がそばにある -

 

初めて訪問する佐賀県唐津市。

まずは唐津城から。

P5011757s

唐津城は、
松浦川が唐津湾に注ぐ河口の左岸、
満島山に位置している。

P5011759s

北面は唐津湾に面しており、
城の石垣が海にそびえる
城としては珍しい場所に位置している。
観光用案内板にもこんな城下町絵図が。

P5011756s


本丸の外側、二の丸御殿跡は
今は早稲田佐賀中学校・高等学校に
なっているが、
石垣はそのまま使われているようだ。

P5011754s
P5011752s

城の石垣(と思われるもの)は、
市街地化された場所でも
あちこちで目にする。

P5011747s
P5011749s

 

最初に立ち寄ったのは旧高取邸
炭鉱主として成功した
高取伊好(たかとりこれよし:1850-1927)の
旧宅

P5011723s

建物の規模が最大になった
昭和初期の状態が復元されている。

P5011721s

和風を基調としながらも
居室棟に洋間があったり、
大広間棟には能舞台が設けられていたりと、
見どころは多いが、
残念ながら館内での写真撮影は
許可されていない。

P5011722s

居室棟の周りには
土蔵、食料庫、使用人湯殿、家族湯殿、
貯蔵庫(ワインセラー)などもある。

写真が許されていた庭からの一枚。

P5011737ss

高取邸の周りにも
石垣がそのまま残っている。

P5011743s

旧高取邸の近くには、
埋門(うずめもん)と呼ばれる
城から海岸に出るための出入り口門の
跡もある。
ここにも石垣が。

P5011717s

随所に残る石垣は、
本丸、旧高取邸、といった
いわゆる観光名所にいる時だけでなく、
なにげない散策の途中ででも
「歴史がそばにある」を感じさせてくれる。
歩いてこそ楽しめる雰囲気だ。

 

 

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2021年7月18日 (日)

ラ行で始まる単語がない。ロシアはオロシアに。

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ラ行で始まる単語がない。ロシアはオロシアに。

- キャンベルさんの言語感覚 -

 

田中克彦 (著)
ことばは国家を超える
―日本語、ウラル・アルタイ語、
 ツラン主義

(以下水色部、本からの引用)

から

 * フロマージは元フォルマージ
 * ロシア語には「熊」がない
 * 女帝エカテリーナの偉業

を紹介したが、
目に留まったトピックスの紹介
もう少し続けたい。

 

アルタイ諸語、アルタイ語族についての
詳しい説明はここでは省略するが、これらは
トルコ、中央アジア、モンゴル、
そしてロシアの一部と、
まさにユーラシア大陸を広く横断し、
そこには日本語や朝鮮語も含まれることが
提案されてきた重要な言語群だ。

田中さんも日本語について

単純にアルタイ諸語だとは言いきれない

と慎重に書く一方で

私などは、日本語の中には
いつくものアルタイ的特徴が
濃厚に認められるから
基本的にアルタイ語だと考えている。

とも書いており、基本的に
アルタイ諸語にグルーピングされて
話は進んでいる。

そんなアルタイ諸語の特徴について
こんな特徴の記述があった。

たとえばアルタイ語には
「ラ」行(r-)ではじまる単語がない

子どものころ、しりとりをすると
いつもラ行で苦戦していたことが
急にありありと思い出される。

そうか、もともと単語がなかったのか。

ラ行ではじまる単語は、
日本人は自分では作れず、
ほとんどが外国語からの借用である。

なので

ラ行ではじまるオトを
無理して発音すれば、
その前にどうしても母音が入って、
たとえばロシアはオロシアとなる。

幕末から明治を舞台にしたドラマに
よく登場するあの国の名前が
いつもオロシアとなっているのは
こんな理由があってのことのようだ。

ハンガリー語では
いまでもロシアをオロス(Orosz)と言い、
これはモンゴル語も同様
である。

「ラ」行(r-)ではじまる単語がない
こんな共通点があるなんて。

この件に関して、
こんなエピソードまで添えている。

「令和」という
新しい元号が発表されたとき、
私は、こんなラ音ではじまる
本来の日本語にはなかった発音様式は、
「国粋的」ではない、
困った名づけだと思った。

するとあるとき、深夜のラジオで
ロバート・キャンベルという
アメリカ人の日本文学の研究者が、
レイワは、外国人が
発音するには問題がないけれど、
日本人にはどうでしょうか

話していた。

(中略)

キャンベルさんは明らかに、
古代日本語の音韻体系を
念頭に入れて話していた
のだ。

こういった日本語の
歴史を含めた言語感覚までをも
身につけてしまう才能、
表面的ではない深い学習内容。

以前、本ブログでも
キャンベルさんと井上陽水さんとの
対談を
ただあなたにGood-Bye
と題した記事で取り上げたりもしたが
キャンペルさんの日本語の知識と
その言語感覚には驚かされるばかりだ。

 

 

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2021年7月11日 (日)

女帝エカテリーナの偉業

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女帝エカテリーナの偉業

- 200言語の比較語彙集を -

 

田中克彦 (著)
ことばは国家を超える
―日本語、ウラル・アルタイ語、
 ツラン主義

(以下水色部、本からの引用)

から

 * フロマージは元フォルマージ
 * ロシア語には「熊」がない

を紹介したが、今日はそれに続く3回目。
スケールの大きな話を紹介したい。

 

現実にある言語の多様性に、
つきることのない好奇心を抱き、
それをロシアの所有になった
シベリアの諸民族のもとに、
実際に調査させようと企てた

のは、
ドイツの数学者、
ライプニッツ(1646-1716)

だった。

ライプニッツは

ことばにはさまざまなものがある
(リクツから言えば、
 いくつものことばがあるのは
 人類にとってムダなことなのに)
ことに深い関心を寄せ、

(中略)

ロシアのピョートル大帝(1672-1725)に、
征服したシベリア一帯の言語を
調べるよう促していた

が、それは、ロシアを治めた女帝
エカテリーナ二世の時代に
実現する
ことになる。

シベリアの諸言語の
調査をひきうけたのは、
ベルリン生まれの
P・S・パラスというドイツ人であった。

1787年と1789年に刊行された
全世界言語比較語彙
(Linguarum ToriusOrbis
 Vocabularia comparativa)

200の言語だの方言だの
単語の比較語彙集であった。

ロシアの女帝になったドイツの女が、
言語学に全く新しいページを開く、
歴史的な大事業を達成したのである。

200の言語の調査!

女帝エカテリーナとは、
どんな人物だったのだろう?

工カテリーナ女帝自身は、
ドイツの田舎貴族の出身であったが、
結婚させられた夫のピョートルが
大人になっても、おもちゃの兵隊の
人形遊びをしているような
頼りない夫だったので、

こんな男に
ロシアをまかせてはおけない


自分こそが
ロシアの母にならなければならない
と考えて
ロシア語を身につけ、
ロシアの学問を統合推進するための
科学アカデミーを作ったりして、
ロシアを世界の一流国にするために
大いに尽力した
のである。

アンリ・トロワイヤの
『女帝エカテリーナ』
(上・下、工藤庸子訳、中公文庫)

が紹介されているので、
今度読んでみたい。

どこかハプスブルク家の
女帝マリア・テレジアを髣髴させる。

ちなみに生没年は
 エカテリーナ(1729-1796)
 マリア・テレジア(1717-1780)
偶然にも同時代に生きていたことになる。

大きなアウトプットは
続く時代にも
大きな影響を与えることになる。

こうしてできたパラスの
『語彙集』が刺激となって、
さまざまな未知の言語を集めた
博言集が現れることになった。

有名なものに、
ドイツ人のヨーハン・クリストフ・
アーデルンクが 
『ミトリダーテス』に、
約500の言語、方言の見本を集めて、
1806-17年にかけて
刊行した
ことが知られている。

ミトリダーテスとは
古代ギリシアの王様の名前で、
この人は征服した22の民族のことばを
話すことができた
と伝えられ、
この語彙集の名は、その多言語に通じた
人の才にたとえたものであろう。

500言語の博言集、
22の民族のことばを話す王、
寡聞ゆえとはいえ驚かされるばかりだ。

 

 

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2021年6月20日 (日)

誕生ホヤホヤ合衆国の使節団

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誕生ホヤホヤ合衆国の使節団

- ヴェネツィア大使の先見の明 -

 

前回
22歳のウィトゲンシュタインと
63歳のフレーゲとの対面について書いたが、

「年齢差のある対面」で
思い出した話があるので
今日はそれについて書きたいと思う。

参考図書はコレ。

塩野七生 (著)
イタリア遺聞
新潮文庫

の中の一篇
「ベンジャミン・フランクリンの手紙」
(以下水色部、本からの引用)

時は1783年。当時のアメリカ合衆国は、
8年も続いた独立戦争が終結し、
ヴェルサイユで調印された「パリ条約」で
独立を承認されたばかりの
まさに誕生ホヤホヤの国だった。

独立宣言もあったし、
国号をアメリカ合衆国とすることも
決まってはいたが、
議会も連邦政府もなく、
もちろん大統領も
まだ存在していなかった。

ワシントンが
初代大統領に就任するのは、
この6年後
の1789年に
なってからである。

このとき、
「パリ条約」調印のために
フランスに来ていた合衆国使節団が
パリに派遣されていた
ヴェネツィア共和国の大使に
送った文書が紹介されている。

ベンジャミン・フランクリンの筆になる
この外交文書は、
次のようにはじまっている。

大使閣下、大陸会議に参集した
アメリカの各州の代表は、
ヴェネツィア共和国と
アメリカ合衆国との間に、
平等と相互理解と友好に基づいた関係が
成り立つことは、
両国いずれにとっても
利益になるであろうとの
結論に達しました。

(中略)

閣下には、本国政府の意向を
ただされることを願うばかりです。

アメリカ合衆国使節
  ジョン・アダムス
  ベンジャミン・フランクリン
  トーマス・ジェファーソン

すごい文書だ。

合衆国の
* 第2代大統領になる
  ジョン・アダムス

* 避雷針の発明者としても有名な
  ベンジャミン・フランクリン

* 第3代大統領になる
  トーマス・ジェファーソン

の3名が名を連ねている。

さて、ここで問題。

「新興国家合衆国の使節団と
 歴史ある国家ヴェネツィアの大使、
 どんな年齢関係だったでしょう?」

新興国からは元気な若者集団、
ヴェネツィアからは風格のある老大使
をついついイメージしてしまう。

著者塩野さんもこう書いている。

新興国家アメリカ合衆国を
代表するのだから、
現代から想像すると、
なんとなく、
血気盛んな若い世代に属する
人々ばかりであったように思え、

それに反して、
歴史の舞台から去りつつあった
老国を代表する人物となると、
保守的でがんこな老人で
あったにちがいないと思うが、
実際はまったく逆なのである。

合衆国使節団
 ジョン・アダムス:48歳
 トーマス・ジェファーソン:40歳
 ベンジャミン・フランクリン:70歳代

駐仏大使
 ダニエル・ドルフィン:35歳

平均寿命が40代だった時代における
 [35歳] 対 [48,40,70代]
を正確にイメージすることはできないが、
別格のフランクリンも含めて
合衆国使節団は十分老人と呼ばれる
年齢だったようだ。

いずれによせ、予想ははずれたものの
想像するとなぜかうれしくなる図だ。
老国の方が若いなんて。

このダニエル・ドルフィン、
友好通商条約を結びたいと申し入れてきた
この合衆国の文書を本国に送る際、
外交官としての自分の意見
書き添えているという。

その内容は以下の通り。

アメリカ合衆国は、将来、
 世界で最も怖るべき力を持つ
 国家になるでありましょう

さすが大使、若いだけではない。
もう一度書く。

ワシントンが
合衆国初代大統領に就任する
6年前のコメントだ。

 

 

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2021年5月 9日 (日)

あの政権の画期的な動物・自然保護政策

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あの政権の画期的な動物・自然保護政策

- なぜ両立するのか、という問い -

 

動物と人間の関係を
200冊以上の引用文献を駆使し、
 *ペット
 *動物虐待
 *屠畜と肉食
 *動物実験
 *動物の福祉・解放
などの視点から見つめ直している

生田武志 (著)
いのちへの礼儀
筑摩書房

(以下水色部、本からの引用)

から、
 * 人類が他の動物に食べられていたころ
 * トキの「復活」?
 * 侵略的外来種「ネコ」
 * 称賛されるペットの特徴は、
について紹介したが、今日は
寡聞にして全く知らなかった
ある驚きの事実について
紹介したい。

ナチス政権の動物保護、
自然保護についてだ。

ヒトラーは
1933年1月に政権を獲得しますが、
その年の8月、ナチスのナンバー2の
ヘルマン・ゲーリングが
ラジオでこのような演説をしています。

「現在まで動物は法律において
 生命のない物であると
 考えられてきた。
 (…) 
 このことは
 ドイツの精神に適合しないし、
 何にもまして、ナチズムの理念とは
 完全にかけ離れている
」。

ヒトラー政権は同年11月に
「動物保護法」を制定します。

そこでは、動物は人間のためではなく
「それ自体のために」保護される
とし、
「動物を不必要にさいなみ、
 または、粗暴に虐待すること」を
禁じました。

先入観がじゃまをしてか、
ナチスと動物保護の法律というのが
どうも結びつかないが、
法律では動物実験にも
厳しいい制限を課していたようだ。

さらに、動物実験も

「これまで証明されていない
 特定の結果が
 予想される場合に限られること」

「動物を事前に気絶させること」など、

現在の日本より厳しい制限を課しました

ヒトラー自身は
動物実験の全面的禁止を考えており、
動物実験と動物虐待の禁止が
「動物保護法」の重要な目的

と主張していました 

しかも単に法律を定めるだけでなく

1934年、科学・訓練・公共教育省は
すべての学生は動物保護法について
 学ばなければならない

と通達し、
1938年には
 獣医の認可に動物保護の項目が必須要件
とされます。

と、その精神の普及にも施策を打っている。

もちろんそのこと自体は
他の国からも評価されている。

こうしたナチスの動物保護法は
世界で高く評価され、
ヒトラーは
ドイツ民族に
 動物保護のために有効な法律を授けた
 人類と動物の友

と評され、アメリカの基金は
「動物保護法」の功績を称えて
ヒトラーに金メダルを贈っています。

しかも、
保護したのは動物ばかりではない。
自然保護にも実に積極的なのだ。

ナチス政権は自然保護にも積極的で、
「帝国森林荒廃防止法」
「森林の種に関する法律」
(1934年)、

そして
「景観に大きな変更を及ぼすような
 計画の許認可は、
 事前に所轄の自然保護監督機関に
 意見を求めなければならない」とし、

行政が自然保護区を指定するさいに
土地所有者が
金銭的な保障を請求することを禁ずる
「帝国自然保護法」(1935年)
などを制定し、
それらは自然保護活動家から
「革命的な法律」と絶賛されました。

画期的とも言える
動物保護運動や自然保護活動が
ナチス・ドイツにおける
人種差別や障がい者差別と
なぜ両立するのだろうか?

そのあたりを考えると
「保護とはなにか?」
「その背景の思想とはなにか?」
にじっくり向き合わざるを得なくなる。

歴史は、
「保護の本質」に迫る重要な問いを
投げかけてくれる。

 

 

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2021年4月25日 (日)

侵略的外来種「ネコ」

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侵略的外来種「ネコ」

- 生態系にとっての悪の枢軸!? -

 

動物と人間の関係を
200冊以上の引用文献を駆使し、
 *ペット
 *動物虐待
 *屠畜と肉食
 *動物実験
 *動物の福祉・解放
などの視点から見つめ直している

生田武志 (著)
いのちへの礼儀
筑摩書房

(以下水色部、本からの引用)

から、
 * 人類が他の動物に食べられていたころ
 * トキの「復活」?
について紹介したが、今日は
「ネコ」についての
ちょっと意外な数字を紹介したい。

まずは侵略的外来種の説明から。

人間による環境破壊の一つに
「外来種問題」があります。

外来種とは、
もともとその地域にいなかったのに、
特に人間によって
他の地域から移入させられた生物で、

その中でも、
地域の自然環境や生物多様性を
脅かすおそれのあるものを
「侵略的外来種」(侵略的外来生物)
と呼んでいます。

現在の生物多様性減少の最大の原因は
生息地の減少・破壊
(特に熱帯林の破壊)ですが、

外来種問題は二番目の原因とも言われ、
過去400年間の種の絶滅の半分は
外来種によるとされています

(Courchamp, Franck.(2006)
 「世界の島嶼地域における
  侵略的外来種問題」
 『哺乳類科学』vol.46(1)85-88.)

では、侵略的外来種と言えば
具体的にはどんな生物だろう。

なんと
代表的な侵略的外来種の一つはネコ
だという。

ネコという動物の問題は、
たとえ飼い猫のように
食べ物が充分にあっても
「おやつ」や
「娯楽」のために狩りをし

多くの動物を殺すことです。
(「過剰捕食」[hyperpredation]と
 呼ばれます)。
この点、ネコはわたしたち
ホモ・サピエンスとよく似ています。

 

仮に過剰捕食があったにせよ、
ネコと「侵略的」という言葉が
どうも結びつかない。

オーストラリアを例に
少し具体的な数字で見てみよう。

オーストラリアには現在
2000万匹とされる野良猫がいますが、
このネコたちは今までに
 100種以上の鳥類、
  50種以上の哺乳類、
  50種の爬虫類、
 多くの両生類や無脊椎動物を
絶滅させました
(Courchamp, Franck.(2006)
 「世界の島嶼地域における
  侵略的外来種問題」
 『哺乳類科学』vol.46(1)85-88)。

過去だけではない。今後も...

オーストラリア環境省によれば、
ネコは一日に
 7500万の固有種の動物を殺し、
  35種の鳥類、
  36種の哺乳類、
   7種の爬虫類、
   3種の両生類を
絶滅させようとしています

にわかには信じられないような数字だが、
ネコのことを

オーストラリア環境大臣はネコを
「暴力と死の津波」

オーストラリア野生動物
管理委員会委員長は
「生態系にとっての悪の枢軸」

と呼んでいる関係者の言葉は
まさに数字を裏付けるようだ。

なのでこの現実に対して

2006年にオーストラリア政府は
1800万匹の野良猫の根絶」を宣言し、
金属製のトンネルに猫をおびき寄せて
毒ガスを噴射するわなや
毒入りのソーセージなどを開発して
駆除を進めてきました。

2015年には、環境大臣があらためて
「2020年までに200万匹の
 野良猫を殺処分する」計画を
発表しています。

 

もちろんネコの問題は
オーストラリアだけではない。

* ニュージーランドのラウル島で
  数十万羽いたセグロアジサシが絶滅、

* 亜南極のケルゲレン諸島で
  年間約125万羽の海鳥が殺される、

などなど

ネコは世界のほとんどの島に
持ち込まれており、
島の動物相を破壊するスピードでは、
 ネコの右に出るものはいない

(ソウルゼンバーグ ウィリアム.(2010)
『捕食者なき世界』野中香方子訳,
 文藝春秋)

と言われる例を並べている。

「個としての動物」たちの
命や苦しみよりも
「生態系」の保護が優先されるという
大義名分のもと、
外来種を駆除してしまっていいのか、は
簡単な問題ではないが、

ネコに対して
かわいいペットのイメージしか
なかったせいか
上記「破壊力」の数字には
ほんとうに驚いてしまった。

備忘録代わりにメモっておきたい。

 

 

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