歴史

2022年11月 6日 (日)

アルジェリアのイヘーレン岩壁画

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アルジェリアのイヘーレン岩壁画

- 信じられないタッチと空間把握 -

 

前回
前々回に引き続き

「サハラに眠る先史岩壁画」
 英隆行写真展

 目黒区美術館 区民ギャラリー
 2022年10月5日-10日

の内容を紹介したい。

2210_131s

 

展示の最後、圧巻は

*アルジェリア タッシリ・ナジェールの
 イヘーレン岩壁画
 実写 w824cm x h270cm
 模写 w840cm x h248cm

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「サハラ砂漠で発見された壁画で
 最も優れた作品。
 新石器時代写実派の代表作」
(フランスの考古学者アンリ・ロート)
と賞賛された美しい壁画。

ロートは、
発見翌年の1970年に調査隊を組織し、
実物大の模写を制作した。

実際の壁画は、長い歳月を経て
退色や挨の堆積などで
肉眼では見えにくくなっている部分が
多くあるためである。
たとえば、実物はこんな感じ。

Pa082321s

これが模写により

Pa082284s 

ずいぶんわかりやすくなっており、
細部まで読み取ることができる。

ロート隊は、本模写より10年以上も前、
1956-57年の
タッシリ・ナジェール岩壁画の模写時、
次のような手順で模写を作成した。

(1) 水を含ませたスポンジで壁面を拭い、
  絵を浮かび上がらせる。
(2) トレーシングペーパーを壁面に当てて
  写し取る。
(3) 別の画用紙に写して彩色する。

これに対して
* 見えなくなっている部分を
  想像で補筆したものが多い。
* 模写作成時に壁面を傷つけた。
などの批判が寄せられた。

本複写、1970年のイヘーレン岩壁画
調査隊メンバーのイヴ・マルタンは
そういった批判があったことを知った上で、

「模写制作にあたっては、
 スポンジで壁面を拭うことはせず、
 見えなくなっている部分のみを
 わずかに湿らせるにとどめた」
「見える部分と
 見えなくなっている部分を
 厳格に判断して模写を制作した」

と証言している。

ちなみに、ロート隊の模写手法は、
現在では禁止されている。

壁面にふれることも、
水を含ませることも許されていない。

 

さて、そのような経緯で写し取られた壁画、
詳しく見てみよう。

まず全体。
日本の絵巻や屏風絵のように、
遊牧民の生活の一部始終が語られる
物語になっている。
物語は右から左に向かって進む。

男性は子供を抱いて歩き、
女性は牛の背に乗って移動。
男女ともにペインティングを
しているように見える。

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牛に乗る女性はここにも。

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新しい土地に到着すると
男性は荷を解き、
女性はテントの設営。
弓のような棒はテントの支柱。
最近までツアレグ族も
同じようなテントを持ち、
女性が管理していたらしい。

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キリン、ガゼル、オリックス、ダチョウなど
草原の動物も多く描かれている。

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岩の割れ目を水場に見立てて、
牛が水を飲んでいる。
牛は横からの姿だが、
角は正面に近い。
ラスコーなど
旧石器時代の岩壁画にも見られる
疑似遠近法。

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さまざまな動物の群れの向こうに
ストローで飲み物を飲む女性が
描かれている。
いったい何を飲んでいるのだろう?

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手前では、
女性と子供が家畜の世話。
中央ではここでもストローで
なにか飲んでいるようだ。
順番待ちで並んでいるようにも見える。

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中央左には赤ん坊をあやす男性。
奥では、テントの中から身を乗り出して
頬杖をついている女性。
背中に手を当てているのか、
その前にいる男性との関係は?

とにかく、信じられないタッチの絵が
信じられないような空間把握の中に
展開されている。

しかもその後の解析により、
壁画はごく一部のエリアを除いて
ひとりの人が描いたものとわかったらしい。

前回書いたような理由で
正確な年代はわからないものの、
5000年以上も前の作品だ。
ほんとうにびっくりする。

 

「また、来週から
 現地に行けることになったのです」
とガイドさんはおっしゃっていたが、
発掘エリアには紛争地域もあるため
訪問には軍の許可が必要
であったりと
自然環境の過酷さだけでなく
行くだけでもそうとう大変なようだ。

個人的に、
これまで全く知らなかった分野だが
また新しい発見があることを
期待したい。

 

 

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2022年10月30日 (日)

サハラ岩壁画の年代は測定できない

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サハラ岩壁画の年代は測定できない

- 「愛の館」から線刻画まで -

 

前回に引き続き

「サハラに眠る先史岩壁画」
 英隆行写真展

 目黒区美術館 区民ギャラリー
 2022年10月5日-10日

の内容を紹介したい。

2210_131s

本展、壁画はどれも興味深いのだが、
各画に対する年代の説明がほとんどない。

前回書いた通り、
5000年から1万年ほど前のもの、
というざっくりとした幅だけはあるが、
正確にはわからないらしい。
それはどうしてか?

ガイドツアーのときの説明によると
サハラ岩壁画の
壁画自体の年代を直接測る技術は
現時点ではまだ存在しない
らしい。

理由は、
絵具に木炭や接着剤などの
有機物が含まれていないため
放射性炭素年代測定ができないから。

また、洞窟壁画のように
水が滲みだして絵の上に
炭酸カルシウムの被膜が
形成されることがないため
ウラン系列年代測定もできない。

直接的な測定ができないため、
描かれた動物との関係、
発見された古墳との関係、
などから相対的、間接的に
制作年代を区分しているようだ。

というわけで、細かいことは気にせず
気持ちのほうもざっくりのまま
ほかも見てみよう。

 

*アルジェリア タッシリ・ナジェールの
 「食肉解体」

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ブーメラン状の道具(ナイフ?)を使って
食肉を解体している。
男性は腰みのだけだが、
女性は長いスカートに肩掛けのようなものを
羽織っている。
右には野ウサギやキリンなども見える。

 

*チャド ティベスティの
 「愛の館」
館の外には牛がいる。右は乳搾りの様子。

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「愛の館」の中はこんな感じ。
入口の縄暖簾をくぐると、
部屋の中には裸の男女が集っている。
女性は足を白く塗っているようだ。

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右端の男は
楽器を奏でているように見える。
部屋には大きな壷があるが、
中には酒が入っているのだろうか。
重なり合っている男女もいる。
女や男を奪い合っているようにも見える
場面もある。

 

*チャド エネディの
 「整列する戦士たち」

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繊細な筆遣いで細かく描写された岩壁画。
戦士たちは槍を手に持ち、
頭には羽飾りを付けている。
戦士の隊列から外れた場所には
長いスカートをはいた女性もいる。

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槍の穂先が石で加工するには
難しい長さであることから、
鉄製の穂先と推測されている。
だとするとこれは他と比べると
ずいぶん新しいものかもしれない。

 

*スーダン ウェイナットの
 「行進する人々」

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川岸で垂直に削られた砂岩の表面に
10メートル以上にわたって夥しい数の絵が
描かれている。
別の場面では、狩りをする人々、
牛の群れなども。

この地域では、牛の牧畜は
7000年前頃に始まったが、
5000年前には乾燥化によって
牛が飼えない気候になった。

制作年代を直接調べられないため
描かれたものから
間接的に絞り込んでいくのも
ひとつの手法。

 

*モロッコ ハイ・アトラスの
 太陽の円盤  青銅器時代

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古代ベルベル人が信じたアニミズムでは、
太陽、土地、水」が
人間に不可欠なものとされていた。
太陽の内側には、
山並みに囲まれた大地と川。
下の小さな円盤は月のようにも見える。

 

*チャド エネディの
 「牛飼い」
サハラ岩壁画ではあまり多くない
線刻画

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彩画にはほとんど見られない
幾何学模様が多いのが特徴。

寄って見ると

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杖を肩に担ぐポーズは牧童特有のもので、
現代でもよく見かける。
お尻の大きな体形は、
現在この地に暮らすほっそりとした
トゥブー族とは異なるらしい。

体形といえば、以前アメリカ人に
「日本人でお相撲さんのような
 体形の人はほとんど見かけないのに
 どうしてあれが国技なの?」
と質問されて答えに窮したことがある。
1万年後、日本で相撲絵が発見されると
対トゥブー族と同じようなコメントを
されるかもしれない。

 

 

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2022年10月23日 (日)

サハラ砂漠が緑に覆われていたころ

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サハラ砂漠が緑に覆われていたころ

- 先史岩壁画、実物大の写真展 -

 

「サハラに眠る先史岩壁画」
 英隆行写真展

 目黒区美術館 区民ギャラリー
 2022年10月5日-10日

を観てきたのだが、
その内容がたいへんおもしろかったので
記録を兼ねて紹介したい。

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本展、岸壁画の写真展ではあるが、
展示作品はすべて実物大。
3mを越える写真もあり、
岩壁を前にした臨場感をたっぷり味わえる。
展示の写真撮影もOK。

会場にあったパンフレットと
30分の予定が、説明がノリノリで
結果50分になってしまった
会場でのガイドツアー時のメモを見ながら
振り返ってみたい。

 

世界最大の砂漠、
アフリカ北部のサハラ砂漠には
緑のサハラ」と呼ばれる時代がある。

今から約11,500年前から5,000年前頃まで、
なんとこのエリアは
緑に覆われていたというのだ。

旧石器時代末期から新石器時代のころ、
この緑豊かな土地を求めて
様々な民族が去来した。

彼らは自然の岩肌をカンバスとして
彩画や線刻画など独自のアートを遺した。

その岩壁画が今回の写真展の被写体。

今はまさに降水量の少ない広大な砂漠だが、
絵が描かれた当時は緑の大地だったのだ。

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上の地図の赤丸が収集した岩壁画の位置。
アフリカ大陸北部、広範囲からの
収集となっていることがわかる。

 

まずは写真展のポスターにも使われている
 アルジェリア
 タッシリ・ナジェールの
 「白い巨人と祈る人々」
  w515cm x h308cm

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頭に角のような突起を持ち、
大きな力こぶと巨大な陰嚢を持った
3mを超える巨人。

その左右には
お腹の大きな妊婦が横たわり、
左側には祈るような仕草の
女性たちが並んでいる。

と解説されているが
コントラストが弱く
正直わかりにくい。

こんな図が横に添えられていた。
組合せてみるとずいぶん助けられる。

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同じ
 アルジェリア
 タッシリ・ナジェールの
 「瘢痕文身のある人物」
  w103cm x h180cm

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瘢痕文身は「はんこんぶんしん」と読む。
 皮膚に切込みを入れたり,
 焼灼(しょうじゃく)して,その傷跡が
 ケロイド状に盛り上がることを利用して
 身体に文様を描く慣習
のことらしいが、首飾りといい腕輪といい
仮面のようなものといい
かなり着飾っている。

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「泳ぐ人」という絵では
頭に突起のある人が泳いでいる。
飾りか? いったいナンだろう?

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「弓矢で戦う人々」では集団の戦い、
つまり戦争が描かれている。
激しい戦いのシーンはあっても
倒れている人物は描かれていない、
という特徴があるらしい。

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下の絵で弓を引いているのは女性と
思われる。よく見ると乳房がある。
女性も兵として戦っていたのだろうか。
当時は砂漠ではないので牛もいる。

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1万年近くも前の
着飾った女性たちや弓を持った兵士たち。
いろいろ想像するのは楽しいものだが、
岩壁画はさらに多くのものを
今に伝えてくれている。

本写真展の話、次回に続けたい。

 

 

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2022年9月11日 (日)

「生を養う」養生所

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「生を養う」養生所

- 「病」と闘うだけでなく -

 

現役のお医者さんとして活躍する
稲葉俊郎さんが書いた

稲葉俊郎 (著)
いのちを呼びさますもの
—ひとのこころとからだ—
アノニマ・スタジオ

(以下水色部、本からの引用)


から 前回は
「元気になったから病気が治る」
という言葉を紹介したが、
もう少し本を読み進めてみたい。


英語で
「Health」(健康)という言葉があるが、
その語源は
古英語「Hal」から来ている。

「Hal」は「完全である」

という意味であり、そこから

「Holism」(全体性)や
「Holy」 (神聖な)や
「Heal」 (癒す)、
「Health」(健康)という言葉に

分化していった。

つまり、
「健康」 (Health)という言葉には、
そもそも
「完全」 (Hal)、
「全体性」(Holism)、
「神聖」 (Holy)
といった意味合いが
含まれているのだ。

稲葉さんは、
古代ギリシャ時代の劇場が残る
世界遺産「エピダウロスの考古遺跡」を
訪問した際、あることに気づく。

古代円形劇場という建築物が
おもに注目されている場所だが、
実際に足を運でわかったことは、
場全体が
総合的な医療施設であった

ということだ。

劇場を含む古代遺跡が
「医療施設」とはどういうことだろう。

エピダウロスの地には温泉があり、
演劇や音楽を観る劇場があり、
身体技能を競い合い
魅せ合う競技場があり、

さらに眠りによって
神託を受けるための神殿
(アスクレピオス神殿)もあった。

そこは人間が全体性を
回復する場所
であり、
ギリシャ神話の医療の神である
「アスクレピオス」信仰の
聖地でもあった。

温泉、演劇、音楽、競技場、神殿・・・。

この神殿には「眠りの場」があり、
訪れた人はそこで夢を見る。

夢にはアスクレピオスが出てきて、
夢を見ることで
自分自身の未知の深い場所との
イメージを介した交流が起きる。

聖なる場での
そうした夢の体験そのものが、
生きるための指針や
方向性を得るための
重要な儀式的行為でもあったのだ。

夢までをも対象としたその空間を
稲葉さんは、
芸術のための空間でありながら、
同時に医療のための空間でもあると
確信したようだ。

こういう空間、
全く同じではないものの
考えてみると日本にも古くからある

明治期にドイツから
日本にやって来た医師ベルツも、
日本では草津温泉などの湯治場が
体や心を癒すための医療の場として
機能している
ことを、驚きとともに
医学専門誌で発表している。

日本では多くの温泉が療養地として
自然なかたちで愛好されているため、
政府は温泉治療を
進めていくべきであると
力説している。

「温泉」という人々が集う場が
心の全体性を取り戻す場となり、
健康を目指す医療の場となる。

「病院」はあくまでも
「病」を扱う場所であるが、

江戸時代にあった「養生所」は
まさに「生を養う」ための
場所であった。

稲葉さんは、病院を補う場所として、
「健康」「生」を養う場所
必要だと感じている。

「養生」
改めて見直してみるといい言葉だ。

 

 

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2022年8月14日 (日)

お鷹の道・真姿の池湧水群

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お鷹の道・真姿の池湧水群

- ようやく野川に合流 -

 

前回まで、
1200年前の道、
東山道武蔵路に寄り道してきたが、
野川を目指しての
西国分寺駅からのぶらぶら歩きに戻りたい。

東山道武蔵路跡のすぐそばに、
旧国鉄の「中央鉄道学園」、
郵政省の戸建て宿舎などの
跡地を整備して作られた
武蔵国分寺公園がある。

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ここから、
国分寺薬師堂は歩いてすぐだ。

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国分寺薬師堂は、
建武2年(1335)に新田義貞の
寄進により建立されたと伝えられるもので、
宝暦年間(1751-1763)に現在地に再建。

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緑が深くて美しい。

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天平13年(741)の聖武天皇の命により、
鎮護国家を祈願して創建された
武蔵国分寺

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諸国国分寺中有数の規模だった寺地・寺域は
数回の変遷があったようだが、
僧寺の金堂、講堂、七重塔、鐘楼、
   東僧坊、中門、塀、北方建物、
尼寺の金堂、尼坊、などが調査されている。

国分寺楼門

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この門は、米津寺(東久留米市)の楼門を
明治28年に移築したもの。
板金葺で江戸時代の建築様式を
よくとどめているものらしい。

武蔵国の文化興隆の中心施設であった
国分寺の終末は不明だが、
元弘3年(1333)の分倍河原の合戦で
焼失したと伝えられている。

国分寺すぐ横から、
「お鷹の道・真姿の池湧水群」の
水路脇を歩けるようになっている。

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江戸時代に尾張徳川家の
御鷹場だったことに由来して、
お鷹の道」と名付けられた散策路。

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真姿の池

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「嘉祥元年(848)
 不治の病に苦しんだ玉造小町が、
 病気平癒祈願のため
 国分寺を訪れて21日間参詣すると、
 ひとりの童子が現れ、
 小町をこの池に案内。

 この池の水で身を清めたところ、
 たちどころに病は癒え、
 元の美しい姿に戻った」
との言い伝えのある
真姿の池」には
小さな祠と鳥居がある。

 

国分寺崖線

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国分寺から
小金井・三鷹・調布・狛江を経て
世田谷の等々力渓谷に至る
標高差約15mほどの崖線で
ハケ」と呼ばれている。

この崖線が
「日本名水百選」にも選ばれている
ここの湧水群を生み出している。

東京地区の崖線の2大スター(?)と言えば
この国分寺崖線と
上野から赤羽までの日暮里崖線
ということになるだろうか。

ただ、国分寺崖線は、
多摩川がつくった河岸段丘だが、
日暮里崖線は、
波の侵食を受けてできた侵食崖
その成立は大きく異なる。

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湧水が流れる「元町用水」を
追うように歩くと、
ついにここに到達する。

野川との合流点。

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ちなみに、合流点から
野川上流方向を見ると
こんな感じ。

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ようやく野川に合流することができた。

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ここから先は、できる限り
野川に沿って歩いてゆこう。

 

 

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2022年8月 7日 (日)

西国分寺 東山道武蔵路

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西国分寺 東山道武蔵路

- 武蔵国は東山道から東海道へ -

 

前回
今から1200年以上も前に整備された
五畿七道について触れたが、

 七道は古代官道の名であると同時に
 諸国はいずれかの道に属すため、
 地方の行政区画ともなっている。

と書いた。

さて今回立ち寄った「姿見の池」がある
西国分寺付近は武蔵国となるが、
武蔵国は七道のうち東山道に配属された

ところが、
上野国(こうずけのくに)と
下野国(しもつけのくに)を通る
東山道の本道からは
南へ大きく外れた位置にあるため、
上野国の新田駅(にったのえき)付近から
武蔵国府に南下する支路が存在したことが、
奈良時代の歴史書
「続日本紀」に記されている。

この道を現在では
東山道武蔵路と称している。

現地の案内板には
こんなわかりやすい地図があった。

P6111994ss

地図を見れば明らかなように、
東山道武蔵路を往復することは
交通上かなり不便だ。
そこで武蔵国は宝亀2年(771)に
東山道から東海道へ所属替えとなる。

つまり771年には、東山道および武蔵路、
そして東海道が
すでに整備されていた
わけだ。

これにより駅路としての東山道武蔵路は
使命を終えることになるが、
発掘調査の成果から、
その後も武蔵国内の南北交通路として
平安時代の終わりごろまで
使用されていたことがわかっている。

 

さて、この東山道武蔵路の発掘調査は、
JR中央線の北側、恋ヶ窪地区だけでなく、
JR中央線の南側、西国分寺地区
でも行われている。

そちらにも回ってみよう。

国分寺市泉町二丁目
(旧国鉄中央鉄道学園跡地)で行われた
平成7年(1995年)の調査では、
東西に側溝を持つ
幅12mの直線道路が南北340mにわたって
発見された。

今は、遺構が一部展示施設となっている。

P6111997s

柵の中はこんな感じ。
当時の道路造成面を型取りして
復元したレプリカが展示されている。

P6111998s

道の側溝は主に平地を通る
古代道路の両端に設けられている。
路面の排水を目的としているほか、
溝によって
官道である道路の幅(範囲)を示したもの
考えられているとの説明がある。

展示施設を含めた泉町二丁目には、
幅15m、長さ400mの範囲で、
舗装した路面に当時の道路幅と
側溝の位置を表示したエリアがあり
展示施設から武蔵路の一部を
まっすぐに見通すことができる。

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武蔵路発掘の話を知らないと、
単に「広い直線上の空き地」にしか
見えないが。

P6112000s

と言ってもわかりにくいので、
Googleの航空写真を借りて、
上空から眺めてみよう。
これを見ると
発掘による保存エリアが明らかだ。

Gmap1s

赤い星印が、遺構の展示施設。
そこからまっすぐに南方向、
赤い点線が囲まれたエリアが
発見・発掘されたエリア。

北側の泉町二丁目(西国分寺地区)、
そのすぐ南、短い
西元町二丁目(旧第四小学校跡地区)
どちらも今は
国史跡(くにしせき)に指定されている。

 

「野川に沿って歩こう」と
始めた「ぶらぶら散歩」だが、
今回はまだ野川にまで合流できていない。

五畿七道から見えてくる
1200年前の律令国家のパワーと
技術に驚かされて
すでに3回も書いてしまった。

さて、次回は野川に合流できるだろうか。

 

 

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2022年7月31日 (日)

西国分寺 駅制と五畿七道

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西国分寺 駅制と五畿七道

- 1200年前の道、東山道 -

 

前回
「姿見の池」について書いたが、
そこにあった案内板に
「国指定史跡 東山道武蔵路跡」
についての説明があった。

これ、たいへん興味深い内容だったので
少し紹介したい。

まず、基礎知識としての
「五畿七道」から。

 天皇を中心とする古代日本の律令国家は、
 7世紀後半から8世紀前半にかけて
 国の支配体制を全国に及ぼすために、
 都のある五畿(畿内5ヵ国)と、
 諸国の国府を結ぶ
 放射線状に伸びる

 七道(しちどう:東海道、東山道、山陽道、
 山陰道、北陸道、南海道、西海道)


 整備した。

案内板には
延喜式(えんぎしき:平安時代)を
もとに復元した駅路として
下記の地図がある。

P6111991sa

そしてそこには、

 総延長は実に6300kmにも及び、
 駅路の整備は
 国家の威信をかけた
 壮大なプロジェクトだった。

との説明が添えられている。
地図の赤い線。
今見ても実にreasonableなルートだ。

 七道は古代官道の名であると同時に
 諸国はいずれかの道に属すため、
 地方の行政区画ともなっている。

しかも単に道路を通しただけではない。

「駅制」

 七道には原則として
 30里(16km)ごとに
 駅家(うまや)が設けられ

 緊急の官用通信のために
 駅馬が飼育された。

 各駅には国司の補助要員として
 駅務を行う駅長が任命された。

 このような古代における
 公使・官人による
 中央と地方との交通・情報伝違の制度を
 駅制と呼び

 このことから七道は
 駅路(えきろ)とも言う。

駅路は目的地を最短距離で結ぶために、
必要に応じて山を切リ通したリ、
湿地を埋め立てるなど、
可能な限り直線的に設定されていたようだ。

 

さて、この東山道の一部として整備された
東山道武蔵路。

姿見の池のあるこの周辺では
恋ヶ窪谷の東山道武蔵路として
平成9年度(1997年)に、
発掘調査が行われた。

 ここの道跡は、
 丸太で枠をつくり木抗でおさえ、
 粗朶(そだ:アシや木の枝)を敷き、
 10-20cmの礫(れき)を敷き詰め、
 さらにローム主体土と
 黒色土を交互に積み重ねる
 「敷粗朶(しきそだ)工法」と呼ばれる
 版築(はんちく)道路の構造だった。

 これは湧水が多い谷の
 湿地に対応するため
と考えられ、
 直線道路を構築するための
 古代の土木技術を知る
 貴重な資料であるとともに
 当時の恋ヶ窪谷の自然を
 うかがい知ることができる。

敷粗朶工法による版築道路。
湿地帯での路面確保の工夫が
ちゃんと施されていたわけだ。

もう一度書く。
日本に6300kmもの幹線道路が
整備されていたのは
今から1200年以上も前
の話だ。

鎌倉時代のエピソードに由来する
「一葉松」の伝承から見ても
400年以上も前。

しかも、土木技術だけでなく
通信手段についても確立しており、
駅路に設けられた「駅家(うまや)」に
準備されている馬を乗り継いで
使者(駅使)が
中央からの命令文書である「符(ふ)」や、
地方から都への上申文書である「解(げ)」
などを迅速に運んでいた。

おそるべし、奈良時代。

 

 

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2022年7月24日 (日)

西国分寺 姿見の池

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西国分寺 姿見の池

- カワセミに会えた! -

 

これまでも、
* 妙正寺川
* 大岡川
* 目黒川
などについては、
記録を兼ねてブログに記事を残してきたが、
「気のおけない友人と
 川沿いを丸一日ぶらぶら歩く」は
休日の楽しい過ごし方のひとつだった。

ところがこの「ぶらぶら」も
ここ2,3年はコロナ禍の影響で
一時休止状態。

歩くこと自体は
もちろんいつでもできるのだが、
丸一日歩いたあとの「ビールで乾杯!」が
気持ちよくできないとなると
「よし!行こう」とならないのだ。

いったい何を楽しんでいるのだか。

 

そんな川歩きが、久々に復活した。

歩いたのは「野川」。
東京都国分寺市に水源があり、
東京都世田谷区の二子玉川で
多摩川に合流する全長約20kmの川だ。

これまでは河口から水源に向かって歩く
いわゆる遡行が多かったが、
今回は水源側から歩き始めることにした。

とはいえ、野川の水源は
「日立製作所中央研究所敷地内」という
私有地ゆえ、
さすがに立ち入ることができない。
(年に2回ほど一般公開日があるらしいが)

まぁ、水源は見られなくても、
西国分寺駅周辺は
国分寺崖線の湧水群にも触れられるので、
見どころは多い。

 

というわけで、西国分寺駅集合。
野川という川にこだわることなく
ぶらぶらと歩いていって、
適当なところで野川に合流しよう、
そんなゆるい感じで歩き始めた。

最初に立ち寄ったのは
駅からすぐ、JR中央線北側に位置する
「姿見の池」

P6111989s

その名は、鎌倉時代
恋ヶ窪が鎌倉街道の宿場町であった頃
遊女たちが朝な夕なに
自らの姿を映して見ていた、
という言い伝えに由来するらしい。

小さいが緑豊かな静かな池だ。

池に到着早々、そこにいた男性が
「あそこにカワセミがいるよ」
と指さして教えてくれた。

「どこ? どこ?」
教えられた方向に目を凝らすも、
意外に見つからない。

P6111986s


「いた! いた!」 発見!

P6110972s

思ったよりもずっと小さい。
そして思ったよりも色が本当に美しい。

「今日はカワセミに会えるといいね」
と言いながら歩き始めたのだが、
嬉しいことに、
偶然にも朝イチでそれが実現してしまった。

実はこのあとも
野川で再度見かけることになるのだが、
朝のこの出会いがなければ
カワセミが視野に入ったとしても
おそらく気づかなかったことだろう。

以前、
知っているものしか見えない、の一方で
なる記事の中で、
 誰の目にも映っていたのに
 誰もそれに気づかなかった。
 ところが、ある人が
 「ここにそれがあるよ」
 と指摘した途端、
 誰の目にもそれが見えるようになった。
という
科学史上の大発見のエピソードを紹介した。

目には映っていても、
実際には
知っているものしか見えないのだ。

カワセミの写真を見たことはあっても
自然の中で意識して見たのは初めてだった。
色だったり、大きさだったり、
飛び方だったり、動き方だったり、
教えてもらって実物を見たことで、
「知っているもの」として
自分に登録されたのだろう。

だからこそ、野川での再会時、
「あっ、カワセミだ!」と
発見できた気がする。

「知っているもの」を増やしてくれた
池の男性に感謝。

 

「一葉松(ひとはまつ) 」の伝承

この姿見の池は
「一葉松(ひとはまつ) 」の伝承にも
登場すると言う。
池の横の案内板によると

 源平争乱のころ、
 遊女夙妻太夫(あさづまたゆう)
 坂東武者 畠山重忠(しげただ)
 恋に落ちる。
 ところが、
 太夫に熱をあげる男がもうひとりいて、
 「重忠が平家との戦で討ち死にした」と
 嘘をつき、
 太夫に重忠をあきらめさせようとする。
 が、それを聞いた夙妻太夫は
 悲しみにくれて、とうとう
 姿見の池へ身を投げてしまった

今(2022年)放送中の
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」には
中川大志さん演じる畠山重忠が
登場しているので、
ついついイメージを重ねてしまうが。

遊女に絡む
いろいろな伝承に彩られた姿見の池だが、
昭和40年代には
一度埋め立てられてしまったという。
それが、今から20数年前
平成10年(1998年)度、
昔のイメージで再整備ということになって
現在の姿にいたるようだ。

詳しい経緯はわからないが
再整備が実現してほんとうによかった。

西国分寺駅から歩いて数分、
すぐ南側にはJR中央線が走っている、
そんな位置にあることが信じられない
水と緑が美しい小さな池だ。

 

 

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2022年7月10日 (日)

辰野金吾と曽禰達蔵

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辰野金吾と曽禰達蔵

- 東京・丸の内の雰囲気を作ったのは -

 

佐賀県唐津市の旧大島邸のところでみかけた
案内板のこの文言

唐津藩の英語学校、
耐恒寮(たいこうりょう)において、
東京駅を設計した
辰野金吾(たつのきんご)
同じく著名な建築家である
曽禰達蔵(そねたつぞう)らとともに、
後の蔵相、首相を務めた
高橋是清の薫陶を受け、
・・・・

をきっかけに、先生として赴任した
高橋是清のことを調べていたら
数奇な人生に魅了されてしまい
前回までに
3回も書いてしまった。

なんとか唐津赴任までを紹介できたので、
今度は生徒のほうに目を遣りたい。

前も書いた通り、
耐恒寮(たいこうりょう)で出会ったとき、
教師 高橋是清 18歳
生徒 辰野金吾 18歳
生徒 曽禰達蔵 19歳

この年令構成を見ただけでも
興味は深まるばかりだ。

 

さて、唐津観光に戻りながら
生徒ふたりについて追ってみたい。

まずは、
今は辰野金吾記念館となっている 
旧唐津銀行本店を訪問した。

P5011870s

明治45年に竣工したレンガ造りで、
設計は田中実だが、
師である辰野金吾が監修したと言われている。

この建物は元銀行だったので、
1階はこんな様子。

P5011803s

木製カウンターと
飾り格子が美しく残されているが、
もちろん今は銀行としては
機能していない。

2階には、貴賓室

P5011839s

がそのまま残っていたりするが、
それ以外のエリアは、
辰野金吾記念館としての
展示スペースになっている。

2階入り口には、
「現存する辰野金吾建築物」
の一覧があり、
現在も多くの建物が
現役で活躍していることがよくわかる。

P5011806s

最近の話題としては
「2024年に発行される
 新一万円札の裏側に描かれる
 東京駅丸の内駅舎
 大正時代を代表するこの名建築を
 設計したのが建築家の辰野金吾だ」

新一万円札の図柄
辰野設計の東京駅が採用されたことが、
大きく宣伝されている。

 

辰野金吾は1854年、唐津城下に生まれる。
1871年唐津藩の英語学校耐恒寮で
高橋是清に感化され、
1873年工部省工学寮
(現在の東京大学建築学科)に入学。
英国人建築家ジョサイア・コンドル
教えを受けて首席で卒業。

その後
1881年25歳でロンドン大学に留学。
帰国後は
工部大学校教授、
新設の工科大学の教授の後、学長。
さらに建築学会会長等を歴任し、
日本の近代建築学会の中心的存在となる。

東京駅の他、入り口にあるように
多くの建物が現存しているが、
誰もが知っているものには、
日本銀行本館もある。

P5011841s

他にも辰野作品の模型が
いくつも並んでいる。

P5011813s
P5011815s


一方、同じく耐恒寮で
高橋是清に感化された生徒に
曽禰達蔵がいた。

同郷の辰野金吾とともに
ジョサイア・コンドルに学び、
工部大学校(現東京大学工学部)を卒業後、
三菱社に入社。

ちなみに、
辰野金吾 1854年生まれ
曽禰達蔵 1853年生まれ

に対して、師の
ジョサイア・コンドル 1852年生まれ
と、これまた若い若い先生だ。

このジョサイア・コンドルと
曽禰達蔵のコンビが
「一丁ロンドン」と呼ばれる
東京丸の内のオフィスビル街
基礎を築いていく。

曽禰達蔵の代表的な作品には
他にも
慶應義塾創立50周年記念図書館
東京海上ビルディング
などがある。

 

今、日本のオフィス街を見回したとき、
東京駅と丸の内オフィス街の
組合せが作り出す雰囲気

ほんとうに独特だ。

あの雰囲気を作り出すのに
唐津藩の小さな藩校、耐恒寮で出会った
辰野金吾と曽禰達蔵が
大きく、大きく関わっていた。

そしてその耐恒寮で、
建築家になる前の若い二人に、
東京に出て、さらに世界に羽ばたく
動機を与えた18歳の教師高橋是清。

運命とか、偶然とか、教育とか、出会いとか
歴史の面白さに改めてワクワクした
唐津訪問だった。

 

<おまけ>
最後に、唐津で出会った人々についての
棒年表を添えておきたい。

* 棒の左端の数字は生年
* 棒の右端の数字は享年
  (死んだときの満年齢)
* 棒右欄外は氏名
* 棒の色
  60歳までは20年区切り
     0-20歳  緑色
    20-40歳  青色
    40-60歳  黄色
    60歳以上 紫色

* 赤線は、耐恒寮での出会いがあった
  明治4年。

師弟関係でありながら、
師(高橋是清、ジョサイア・コンドル)と
弟子(辰野金吾、曽禰達蔵)が
まさに同年代であることが
よりよくわかる。
(図はクリックすると拡大表示されます)

Karatsubg

 

 

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2022年7月 3日 (日)

高橋是清の少年時代 (3)

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高橋是清の少年時代 (3)

- 詐欺被害から放蕩生活へ -

 

前回に引き続き
高橋是清の少年期を追ってみたい。

前回までの分を簡単に振り返ると、

 11歳のとき横浜で英語を学び、
 14歳で渡米。米国にて
 奴隷契約書にサインさせられるものの
 日本における
 江戸から明治への大転換を知り、
 帰国を決意。
 奴隷契約破棄をなんとか実現して
 帰国の途に。

 朝敵の汚名をきせられた
 仙台藩士だったゆえ
 外国人をよそおって日本に帰国。

 その後、森有礼らの助けをえて
 大学南校に入学するも
 英語が堪能だったためすぐに教官に。
 まだ16歳。

高橋少年はその後・・・


参考図書は、

大島清 (著)
高橋是清 - 財政家の数奇な生涯
中公新書

(以下水色部、本からの引用)


大学南校の教官になったものの、
これまで学校でちゃんとした教育を
受けた経験がない高橋は、
大学南校に教頭として招かれた
フルベッキ博士の役宅に同居しながら
歴史書を回読、
聖書の講義を聞き、
勉強に身を打ち込んだ。

ところが、ここにまた
とんでもないつまずきの原因が
あらわれた。

そして、彼は放蕩生活の
どん底へ転落していった

詳しくは本に譲るが、
大学南校の生徒のために、
250両を都合してほしい、
との依頼が高橋にくる。

もちろん本人にそんな金はないので
遠い親類の商人に頼み
なんとか都合してもらうのだが、
金を受け取った依頼人は、
「お礼の一席」を設けたいと
両国の立派な日本料理屋に
高橋を主賓として招待する。

普通なら、
ここで一ぱい食わされたと感づき、
金の回収をするところであろう。

・・(中略)・・

しかしこのばあい、
やはり数えで十六歳という
幼さを見るべきではなかろうか

金をだまし取った犯人たちが設けた
芸妓たちにちやほやされる
一席をきっかけに、
遊びをおぼえた高橋は
フルベッキ邸を出て、
放蕩生活にのめり込んでいく


あるとき芸妓をつれて
浅草の芝居をみにゆき、
芸妓の長襦袢を着て
さかんに痛飲しているところを、

大学教官に見られて辞表提出。

収入もなくなり、蓄えも使い果たし、
書物も衣類も一切売り払ってしまう。

高橋は、そのたびに
現在の自分を悔いるのだが、
溶けこんだ放蕩は
どうしても止められなかったようだ。

家主からも疎んじられるようになった高橋は
とうとう、馴染みの芸妓に
引き取ってもらうこととなる。

自分で自分に愛想がつきて

いたころ、ついにあの話がやってくる。

知り合いの世話で、
「唐津藩が英語学校をつくるので、
 その教師となって赴任する」
という話が舞い込んできたのだ。

高橋は、月給の前借りをして
*洋服を整え
*借財の始末をし
そして
*(借りた)250両の元利を
 月給から返していく証文を整えた。

かくて、
唐津藩の英学校耐恒寮の教師となって、
唐津へいったのは明治四年、
かれが十八歳ときであったから、
その意気あたるべからず、
英学を白眼視する保守派を向うにまわして、
大酒をあおりながらも、
寮の施設を
しだいにゆるぎないものにした。

駆け足ながらようやく耐恒寮赴任までを
書くことができた。

教師としての赴任とは言え、
それでもまだ18歳。

ここで、彼らに出会うことになる。

彼ら、の話は次回に。

 

 

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