歴史

2019年10月27日 (日)

家畜はわずか14種、の謎 (2)

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家畜はわずか14種、の謎 (2)

- 飼育状態では発情しない!? -

 

ジャレド・ダイアモンド(著)
倉骨彰(翻訳)
銃・病原菌・鉄
1万3000年にわたる人類史の謎
草思社文庫

(以下水色部、本からの引用)

を読んで、
家畜となっている大型哺乳類が
世界にわずか14種しかいない謎を
考えていく2回目。

家畜の種類が少ない6つの理由、
つまり、家畜となるために
クリアしなければならない
6つの問題のうち前回

(1) 【餌の問題】
(2) 【成長速度の問題】

までを書いた。
今日は残りの4つについて
引き続き考えていきたい。

 

(3) 【繁殖上の問題】

われわれ人間は、
衆人環視下でのセックスは好まない。
家畜化すれば
価値がありそうな動物のなかにも、
人間の目の前でセックスするのを
好まないものもいる

動物に羞恥心がないとは思わないが、
これだけ読むと「なんのこっちゃ?」
という気がする。
実はコレ、
飼育状態では発情しない種もいる
という意味だ。

チータとビクーニャの例を挙げている。

古代においてはエジプト人やアッシリア人、
近代になってからはインド人が、
野生のチータを飼いならし、
猟犬より優れた狩猟用動物として
珍重していた。

なのに、常時1000頭のチータを飼っていた
ムガール帝国の王族でも
チータの繁殖には成功していない。

現代の生物学者たちでさえ、
動物園でチータの赤ん坊を
誕生させることには、
なんと1960年になるまで
成功していなかったらしい。

野生のチータは、何頭かの雄が
一頭の雌を何日間も追い回す

そういった壮大かつ荒っぽい
求愛行動があってはじめて雌は排卵し、
発情する
ことになるようだ。

つまり、檻の中で飼われていては
求愛行動自体も発情も難しい、
ということのようだ。

 

動物のなかでもっとも上質で軽い
贅沢な毛を提供してくれる
アンデスの野生のラクダ、ビクーニャも

うまく成功すれば
金と名誉の両方が手に入るという
強烈な動機があるにもかかわらず、

捕獲状態で繁殖させる試みは、
これまでのところ
すべて失敗に終わっている、という。

「檻の中」が発情や繁殖に
こんなに大きな影響を与える種も
存在することを知ると、
檻の中でもちゃんと繁殖できる種が
むしろ特別なものなのかも、
とさえ思えてくる。

 

(4) 【気性の問題】

当然ながら、
ある程度以上の大きさの哺乳類は
人を殺す
ことができる。

豚に殺された人もいる。
牛や馬、ラクダに殺された人もいる。
大型動物のなかには、
豚、牛、馬、ラクダよりも気性が荒く、
もっと危険なものもいる。

家畜として理想的と思える動物でも、
たとえば
グリズリー(アメリカヒグマ)のように、
気性が荒く、人間を殺しかねないので
家畜化されなかったものも多い。

これはイメージしやすい理由だ。
クマ、アフリカ水牛、カバなどを
攻撃的で危険な動物の例に挙げている。

(1)餌の問題のところで、
肉食大型哺乳類が家畜にならない理由を
餌の観点から書いたが、
そもそも、気性の荒い肉食獣では、
飼育している人間の方が
食べられてしまう可能性すらあって、
安心して育てられない。

 

(5) 【パニックになりやすい性格の問題】

大型の草食性哺乳類は、
捕食者や人間に対して
それぞれに異なる反応を示す。

動きは素早いのだが、
神経質でびくびくしていて、
危険を感じるや
一目散に駆けはじめるものもいれば、

さほど神経質でなく、
動きものんびりしていて、
危険を感じたら群れを作り、
それが去るまでじっとしていて、
最後の最後になるまで息せき切って
逃げだすようなことを
しない
ものもいる。

<神経質な前者のタイプ>
 シカやレイヨウの仲間の
 草食性哺乳類の大半
 (例外:トナカイ)

<さほど神経質ではない後者のタイプ>
 羊や山羊

と例を挙げている。

神経質なタイプの動物の飼育は、
当然のことながらむずかしい。

彼らは囲いの中に入れられると
パニック状態におちいり、
ショック死してしまうか、
逃げたい一心で死ぬまで柵に
体当たりを繰り返すような
ところがある。

「囲いや檻のなかでも
 平穏に過ごせる性格」も
どの種にも備わっているわけではない。

 

そして最後の6つめ、社会性。
実際に家畜化された大型哺乳類には、
つぎのような社会性がある。

(6) 【序列性のある集団を形成しない問題】

群れをつくって集団で暮らす。

集団内の個体の序列が
はっきりしている。

群れごとのなわばりを持たず、
複数の群れが生活環境を
一部重複しながら共有している
(この種の群れは、
たんなる個体の寄せ集めではなく、
社会組織として機能する)。

そういった集団としての社会性を持つと
人間にとって、
どんなメリットがあるのだろうか?

このように、馬の集団は、
集団内の個体がお互いの序列を
わきまえて行動するので、
同一集団内に複数の成馬が
存在していても、
いざこざを起こさず共存できる。

序列性のある集団を形成する動物は、
人間が頂点に立つことで
集団の序列を引き継ぎ、
動物たちを効率よく支配できるので、
家畜化にはうってつけの動物である 
(こういう動物は、人間が群れに
所属してしまうことで家畜化できる)。

たとえば
家畜として飼われている馬の集団は、
群れを先導する
牝馬に従うのと同じように
人間のあとについて移動する

集団内に存在する序列の上位に
人間が立てるのであれば
それは確かに人間にとって都合がいい。

しかも、
集団間で、なわばり意識が緩ければ
特定サイズの飼育野で、より多くの集団を
飼うことができる。

そういう動物が家畜化され、
人間によって育てられると、
人間を群れの構成員として
記憶するので、
人間が群れの頂点に立つ
ことができるのである。

このような群れをつくって
集団で暮らす動物は
互いの存在に寛容なので、
まとめて飼うことができる。

本能的に集団のリーダーに従って行動し、
人間をリーダーとして記憶するので、
羊飼い(Shepherd:シェパード)や
牧羊犬が御すことも容易である。

また、身を寄せあった
野生での暮らしに慣れているので、
混み合った状態で飼育しても
うまくやっていける。

集団内で、集団間で、
家畜に求める社会性への要求を
家畜になった動物たちはよく満たしている。
単に「群れを作ればいい」といった
単純なものではない。

 

家畜の種類が少ない6つの理由、
つまり、家畜となるために
クリアしなければならない
6つの問題を再度復習してみよう。

 (1) 【餌の問題】
 (2) 【成長速度の問題】
 (3) 【繁殖上の問題】
 (4) 【気性の問題】
 (5) 【パニックになりやすい性格の問題】
 (6) 【序列性のある集団を形成しない問題】

動物を家畜化するためのハードルは
けっこう高いことがよくわかる。

選ばれし14種は、
確かに(1)-(6)をクリアしている。

 

 

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2019年10月20日 (日)

家畜はわずか14種、の謎 (1)

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家畜はわずか14種、の謎 (1)

- 餌の量と成長速度 -

 

世界の富や権力は、
なぜ現在あるような形で
分配されてしまったのか?


なぜほかの形で分配されなかったのか?

たとえば、南北アメリカ大陸の先住民、
アフリカ大陸の人びと、そして
オーストラリア大陸のアポリジニが、
ヨーロッパ系やアジア系の人びとを
殺戮したり、征服したり、
絶滅させるようなことが、
なぜ起こらなかったのだろうか。

こんな壮大なテーマに
真正面からかつ
多角的に取り組んでいる

ジャレド・ダイアモンド(著)
倉骨彰(翻訳)
銃・病原菌・鉄
1万3000年にわたる人類史の謎
草思社文庫

(記事中、水色部は本からの引用)

から、
ここでは
考察の対象となる「1万3000年」について
考えてみたし、
ここでは
年代測定の基礎となる
炭素14による年代測定法について
その問題点とその背景を紹介した。

今日は、人間社会において
欠くべからざるものになっている家畜を、
「野生種の家畜化」の視点から
眺めてみたい。

 

最初に、家畜の有用性を再確認しておこう。

【家畜の有用性】

家畜は、肉や乳製品といった
食料を提供してくれるし、

農業に必要な肥料や、
陸上での輸送運搬手段
物作りに使える皮類
軍事的な動力なども提供してくれる。

また、農耕動物として働き、
鋤をひいてくれるし、
織物のための毛も提供してくれる。

ほかにも、細菌に対する免疫
人びとに植え付けるなど、
本の題名にもなっている
人間社会における「病原菌」の
地域格差を生む背景にもなっており、
その役割と影響力はたいへん大きい。

まさに人間は、さまざまな面で
助けてもらっているわけだが、
この家畜、全世界レベルで眺めてみても
その種類は驚くほど少ない。

詳しくは本に譲るが、
体重45kg以上の大型哺乳類で見てみると
わずか14種しかいないと言う。
種類のみを書くと、

「メジャーな5種」
   1.羊
   2.山羊
   3.牛
   4.豚
   5.馬

「マイナーなな9種」
   6.ヒトコブラクダ
   7.フタコブラクダ
   8.ラマおよびアルパカ
   9.ロバ
  10.トナカイ
  11.水牛
  12.ヤク
  13.パリ牛
  14.ガヤル

全世界で見ても、たったこれだけ。

家畜化の候補となりうる
陸生の大型草食動物は
全世界に147種もいるのに、
どうしてわずか14種だけなのだろう?

たとえば、シマウマについて見ると、
これまでどの民族も
家畜化には成功していない。
どうしてシマウマは
家畜にならないのだろうか?

本では、
「少なくともつぎの6つの理由
 認められる」
と書かれているが、
この理由というのがなかなか興味深い。

「野生種を家畜化する」ためには
どんな問題をクリアする必要があるのか?

家畜化にむけてのキーワードを通して
動物やその生態について考えてみたい。

 

まずは、この問題から。

(1) 【餌の問題】

動物は餌として食べる動植物を
100パーセント
消化吸収するわけではない。

動物の血となり肉となるのは、
通常、動物が消費する餌の
10パーセント
である。
つまり
体重1000ポンド(450キロ)の牛を
育てるには
1万ポンド(4.5トン)の
トウモロコシが必要である。

体重1000ポンドの
肉食動物を育てるには、
10万ポンド(45トン)の
トウモロコシで育てた草食動物が
1万ポンド必要になる
(したがって、大型肉食獣は
 家畜化に向いていない
)。

また、
草食動物や雑食動物であっても、
コアラのように
餌の好き嫌いが偏りすぎていて
牧場での飼育に不向きなものも多い。

 このように肉食哺乳類は、
餌の経済効率が悪いので、
食用目的で家畜化されたものは
皆無である。

これは実にわかりやすい。
草食獣の肉1kgを得るためには、
10kgの草が必要
というわけだ。

肉食獣の肉1kgを得るためには、
10kgの草食獣が必要になり、
10kgの草食獣を育てるためには
100kgの草が必要になる。
つまり
肉食獣の肉1Kgを得るためには、
100kgの草が必要
になってしまう。

このことだけでも、大型肉食獣が
家畜化に向いていない理由はよくわかる。

 

(2) 【成長速度の問題】

成長に時間がかかりすぎる動物は、
家畜化し、育てる意味があまりない。
家畜は速く成長しなければ価値がない

草食性で、
比較的何でも食べ、
肉をたくさんとれるのに、
ゴリラやゾウが家畜化されないのは、
まさに
成長に時間がかかりすぎるから
である。

一人前の大きさになるまで
15年も待たなくてはならない動物を
飼育しようと考える牧場主が
いるだろうか。

アジアには
ゾウを力仕事に使っている人びとが
いるが、彼らは成長した
野生のゾウを捕まえてきて
飼いならして使っている、
ということらしい。

 

家畜の種類が少ない6つの理由、
つまり、家畜化するために
クリアしなければならない6つの問題。
今日は2つ

(1) 【餌の問題】
(2) 【成長速度の問題】

までを挙げた。
残りの4つについては次回、
引き続き考えていきたい。

 

 

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2019年9月29日 (日)

炭素14年代測定法の信頼性

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炭素14年代測定法の信頼性

- 「科学的分析」の儚(はかな)さ -

 

世界の富や権力は、
なぜ現在あるような形で
分配されてしまったのか?


なぜほかの形で分配されなかったのか?

たとえば、南北アメリカ大陸の先住民、
アフリカ大陸の人びと、そして
オーストラリア大陸のアポリジニが、
ヨーロッパ系やアジア系の人びとを
殺戮したり、征服したり、
絶滅させるようなことが、
なぜ起こらなかったのだろうか。

こんな壮大なテーマに
真正面からかつ
多角的に取り組んでいる

ジャレド・ダイアモンド(著)
倉骨彰(翻訳)
銃・病原菌・鉄
1万3000年にわたる人類史の謎
草思社文庫

(記事中、水色部は本からの引用)

 

前回
考察の対象となる「1万3000年」について
考えてみたが、
今日は、
歴史研究のまさにベースとなる
年代測定法のひとつ
「炭素14年代測定法」についての部分を
紹介したい。

本書で言及している
過去1万5000年にわたる期間は、
これまでの炭素14年代測定法ではなく、
新たに採用された
炭素14年代測定法
による
誤差を修正した数値を使用している。

と本文にも何度も出てくる通り、
従来のよく知られた炭素14年代測定法には
いろいろ問題があったようだ。

それはどんなもので、
どこに問題があったのか?
よく聞く年代測定法でもあるうえ、
そこで得られた数字は
歴史を考えるときの
根拠としてもよく使われるので
改めてその信頼性について学んでみたい。

まずは、測定法の原理から。

【炭素14年代測定法】

考古学では、
食料生産がおこなわれていた年代を
推定するのに炭素14年代測定法を
もちいている。

この測走法は、
あらゆる生命体を構成する
普遍的な原子のひとつである
炭素原子のなかの、
ほんの一部の放射性炭素14が、
生命体が死ぬと
一定の曲線を描いて減少し、
非放射性同位元素の窒素14に
変化することを利用して、
遺物に残存している
放射性炭素14の量を計算することで
年代を求める
というものである。

大気中には、
宇宙線の照射によって発生した
炭素14が常に存在している。

植物は大気中の炭素を取り入れるが、
そこには炭素12と炭素14が
一定の割合でふくまれている
(この割合は、炭素12が100万個に対して
 炭素14が1個である)。

植物の体内に取り込まれた炭素は、
その植物を食べる草食動物の
体内に取り込まれる。

さらに、その草食動物を食べる
肉食動物の体内に取り込まれる。

動植物が死ぬと、体内の炭素14は
5700年の半減期を経て炭素12に変化し、
死後4万年で大気中の濃度と
ほぼ同じレベルにまで減少して
測定不能になるか、
あるいは人工物の中にふくまれる
微量の炭素14との区別がむずかしくなる。

このように、遺跡の出土物は、
それに残っている
炭素14と炭素12の量を測定し、
その割合を算出することで、
年代を求めることができる

上記文章で理解できたであろうか?

簡単に言うと、
植物も動物も生きているときは
大気中と同じ比率で
体内に炭素14を含んでいるが、
死んでしまうと
大気からの炭素14の取り込みが
なくなるため
炭素14の半減期に従って
体内から炭素14が消えていく。

なので炭素14の比率を測れば
死んでから何年経ったのかがわかる、
そういう原理だ。

さて、長く使われていたこの方法の
どこに問題があったのだろうか。

本では2点、指摘されている。

【炭素14年代測定法の問題点1】

そのひとつは、
1980年代まで利用されていた技術が、
比較的多量(数グラム単位)の試料を
必要としていた
ことである。

数グラムという量は、
小さな種子や骨から
取りだせる量ではないので、
科学者たちは、
それらの遺物を直接測定するかわりに、
それらと
「かかわりがありそうなもの」
つまりそれらが出土した場所の
近くで出土し、
同時代のものと推定される遺物を
測定することが多かった。

「かかわりがありそうなもの」
として利用された典型的なものは、
炭化した燃えカス
である。

 しかし遺跡というものは、
そこから出土するすべてが
同時期に封印された
タイムカプセルであるとはかぎらない。

別々の時代に残されたものが、
たとえばミミズ、ネズミ、
その他の動物によってほじくり返されて、
混ざりあってしまうこともある。

したがって、ある時代の燃えカスが、
その時代より1000年も離れた時代に
死んだり食べられたりした動植物の
すぐそばから出土することも
ありうるのだ。

そこで、今日では、
試料に含まれる極微量の同位体
正確に数えて同位体比を測定する
「加速器質量分析法」
という方法を使って、
この問題を回避するようになりつつある。

 

【炭素14年代測定法の問題点2】

炭素14年代測定法の
もうひとつの問題は、
過去の大気中の
炭素14と炭素12の割合が一定でなく

年代とともにゆらいでいるため、
測定誤差が生じるということである。

しかしこの誤差の大きさは、
樹齢の長い木の年齢を数える
年齢年代測定法で求めることができる。

これによって木の年齢の
絶対的な年表(カレンダー)ができると、
その木の炭素の試料から、
ある年代の炭素14と炭素12の割合が
求められるので、
炭素14年代測走法で求められた年代は、
大気中の炭素14の割合のゆらぎを
考慮した正確な年代に
修正できるのである。

誤差無修正で、
ほぼ紀元前6000年から紀元前1000年の
あいだと測定された遺物に対して
誤差を修正してみると、
じつはそれより数世紀から数千年も前に
さかのぼるものだったりすることもある。

もうひとつは、なんと
炭素14の比率が
 年代とともにゆらいでいる

という事実。

年齢年代測定法によって
誤差の修正はできるようであるが
その範囲は限定的であろう。

 

【表記でわかる修正の有無】

最近では、いくぶん古い時代だと
思われる遺物に対しては、
炭素14年代測定法とは別の
放射性年代測定法
もちいられるようになった。

その結果、
これまで紀元前9000年頃のものと
されていた遺物が、
紀元前1万1000年頃のものであったと
結論づけられたことがある。

 考古学者は、

誤差を修正した年代を
「3000BC」というように
大文字で表記し、

修正されていない年代は
「3000bc」と
小文字で表記する


ことで、
両者を区別する傾向にある。

しかし、考古学の文献のなかには、
誤差を修正していない年代を
BCというように大文字で記述しながら、
その旨を明記しないものが多く、
混乱をまねくことがしばしばある。

この本では、過去1万5000年のあいだに
起こった出来事については
誤差を修正した年代をもちいている。

こうしてみると
「対象試料そのものの正確性」
「対象時代の大気の状態(炭素14比率)」
どちらもかなり
頼りない指標だということがわかる。

 

最近、過去の事件に関して、
最新のDNA判定結果が、
過去のDNA判定結果を覆えした例が、
ニュースになっていた。

当時としては「科学的に分析して」
同一人物のものと判断されたものが
最新の分析結果では別人のものであると。

「科学的な分析」は
絶対的な正しさではなく、
実際にはかなり「儚(はかな)い」ものだ。

「当時の知識や技術では
 それが正しかった」
という説明が通ってしまうという意味で。

客観的な証拠や分析は重要なものだが
「科学的な分析」という言葉には
常にそういった危うさが
含まれていることを
忘れてはならないと思う。

 

 

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2019年9月22日 (日)

未知の700万年

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未知の700万年

- 700万年と1万3000年 -

 

ジャレド・ダイアモンド(著)
倉骨彰(翻訳)
銃・病原菌・鉄
1万3000年にわたる人類史の謎
草思社文庫

(以下水色部、本からの引用)

は、上下巻で合計800ページを超える
大作だが、とにかく
取り組んでいるテーマがすごい!

世界の富や権力は、
なぜ現在あるような形で
分配されてしまったのか?


なぜほかの形で分配されなかったのか?

たとえば、南北アメリカ大陸の先住民、
アフリカ大陸の人びと、そして
オーストラリア大陸のアポリジニが、
ヨーロッパ系やアジア系の人びとを
殺戮したり、征服したり、
絶滅させるようなことが、
なぜ起こらなかったのだろうか。

こんな壮大なテーマに
真正面から多角的に取り組んでいる。

なので内容としては
紹介したいトピックス満載なのだが、
読み始めて早々、
本の題名にもなっている
「1万3000年にわたる人類史の謎」
の「1万3000年」が
妙に気になってしまった。

もちろんそれは「1万3000年」が
正しいとか間違っているとか
そういう意味での「気になる」ではない。
そもそも、そこにコメントできるほどの
知識を持ち合わせてはいない。

あえて言えば、
scaleとscopeについて考えさせられた
というべきだろうか。

今日はそのことについて書いてみたい。

 

人類の歴史を、
それぞれの大陸ごとのちがいに
目を向けて考察するには、
紀元前1万1000年頃、すなわち
現在よりおよそ1万3000年前を
出発点とするのが適切
だろう。

1万3000年前とは、地質学的には
更新世の最終氷河期が終わり、
現在に至る完新世が
はじまった時期にあたる。

これは、世界のいくつかの地域で
村落生活がはじまり、
アメリカ大陸に人が住みはじめた
時期にも相当する。

少なくとも一部の地域では、
それから数千年以内には
植物の栽培化や動物の家畜化が
はじまっている。

とあるように、この本では、
「紀元前1万1000年から現代まで」の
1万3000年間を考察の対象としている。

もちろんその前には
人類の歴史を大きく振り返ることも
忘れていない。

人類の歴史はいまから約700万年前
(いまから
 900万年前から500万年前のあいだ
 と推定されている)
にはじまった

(中略)

発見された化石類を見ると、
人類は約400万年前に
直立姿勢
をとりはじめている。

700万年前に誕生し、
400万年前に直立姿勢をとるようになった
人類。

ただその時点ではまだ
世界中に住んでいたわけではない。

アフリカを発祥とする人類は
はじめの数百万年を
アフリカ大陸内で過ごしている。

700万年前に誕生した人類は、
はじめの500万~600万年を
アフリカ大陸ですごしている


(中略)

現在のところ、ヨーロッパ大陸に
人類が存在したことを示す
確固たる証拠で最古のものは
約50万年前のもの
であるが、
それより以前に存在していた
とする説も複数ある。

のように、アフリカから
世界中に拡散していく。

その概要は、
「人類の拡散」
という次の図で示されている。

700mfigmap

何万年というオーダーゆえ
地形そのものが今とは違っていたことも
考慮が必要だが、
気象条件であったり、
海を渡る手段であったり、
移動先での食料の確保であったり、
様々な条件のもと、
人類は世界に広がっていく。

図を見ると、その様子を
ざっくりと把握することができる。

ただ、この図を見ていると、
「気になる」ことがある。

700万年前から始まっているのに
実際は妙に最近のことしか
書かれていないではないか。

どういう意味か。

それをはっきりさせるため、
図にある拡散時期を
年表形式で書き直してみたい。
(図はクリックすると拡大されます)

700mfig_1k

ご覧いただけばわかる通り、
「紀元前700万年から西暦2000年」
までを全対象期間として描くと
本が対象としている考察期間である
「1万3000年前から現在まで」は、
右端の黄色い線の「幅」程度にしか
ならない。
まさに線の「太さ」でしか
表現できないほどのわずかな「幅」。

このわずかな黄色い線の幅が表す
1万3000年前の間に、
人類はまさに急成長したわけだ。
800ページの本書に書かれているのも、
この幅の中で起こった物語。

でも図を見ればわかる通り、
その左側にはまさに「未知の700万年」
が大きく大きく横たわっている。

黄色い線の幅が数百個も入るほどの期間が
未知の期間として横たわっている。

この間、
緩やかに直立姿勢になり、
緩やかに石器を使い始め、
緩やかに住む地域を広げ、
緩やかに農耕を始めた、
それだけなのだろうか?

そんなに単純に考えていいのだろうか?

ここ1万年に起こったことが、
[ 発生 - 隆盛 - 全滅 ]の形で
繰り返されたとしても
それを数百回も繰り返せるほど
時間があるのに。

もちろん何か証拠があるわけではない。
単なる素人の空想、お遊びだ。

でも、年表に基づく図を見ていると
「700万年」はあまりにも長く、
「1万3000年」はあまりにも短い。

空想で遊んでみたくなる「700万年」だ。

 

 

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2019年9月15日 (日)

伊勢神宮 外宮と内宮

(全体の目次はこちら



伊勢神宮 外宮と内宮

- なにごとのおはしますかは知らねども -

 

以前
2019年5月にお参りした
出雲大社のことをブログに書いたが、
それからわずか2ヶ月半後の7月、
縁あって伊勢神宮のほうにも
お参りに行ってきた。

同じ年に、出雲大社と伊勢神宮。

今年は最強の年(!?)になるかもしれない。

 

2013年、
60年に一度の大遷宮を迎えた出雲大社。
同じ2013年に
20年に一度の式年遷宮を迎えた伊勢神宮。

伊勢神宮の20年毎の式年遷宮は
62回、1300年も続いているという。

宮地(みやどころ)を改め、
社殿や神宝をはじめ全てを新しくして、
大御神に新宮(にいみや)へ
お遷(うつ)りいただく
式年遷宮を6年前に終えた外宮と内宮、
その両方に参拝してきた。

なお、通称「伊勢神宮」と呼ばれる
「神宮」は、正確に言うと
外宮、内宮を中心とした
14所の別宮(べつぐう)
43所の摂社(せっしゃ)
24所の末社(まっしゃ)
42所の所管社(しょかんしゃ)
これら125の宮社の総称らしい。

今回お参りしたのは外宮と内宮。
様子を少しお伝えしたい。

まずは外宮から。

【外宮(げくう)】

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豊受大神宮(とようけだいじんぐう)

天照大神(あまてらすおおみかみ)の
食事を司る神
豊受大神(とようけのおおかみ)を
祀っている。

内宮創建から500年後に
山田原(やまだのはら)に迎えられた。
衣食住をはじめ
あらゆる産業の守り神

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これからお参りに行く人も、
お参りして出てくる人も、
多くの人が各鳥居で立ち止まり
丁寧に頭を下げて通過していく。

そういう些細な所作が、
境内の、つまり神宮の内と外とを
分ける空気を作り出している。

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外宮に入ると、と言うか
外宮の森に包まれると、
ちょっと不思議な
あえて言葉で言うと「気」みたいなものを
明らかに感じる。

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それは神宮のパワーというよりも
神宮によって守られた
森が持つパワーと言う方が
個人的にはぴったりする。

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とにかく森が豊かだ。

神宮の社殿は、それぞれ東と西に
同じ広さの御敷地(みしきち)を持ち
式年遷宮に備えている。

正宮(しょうぐう)は写真が撮れないので、
式年遷宮後の
となりの古殿地(こでんち)のみ。

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パワースポットとして
知られている「三ツ石」

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正式には
「川原祓所」(かわらはらいしょ)
と呼ばれる場所。

しめ縄が張られていて
直接触れることはできないが、
しめ縄の外から、
ストーブにあたるがごとく
みな手をかざしている。

「温かくなる気がする」
とか
「パワーを感じる」
とか
皆いろいろ言い合っていたが、
私自身は、最初に書いた通り
外宮全体の森の気みたいなものを
すでに強く感じていたので、
小さな石のパワーには
あまり興味が持てなかった。

 

正宮だけでなく、各社殿それぞれに、
式年遷宮のための御敷地(みしきち)が
隣に並んで確保されているのは
興味深い。

風宮(かぜのみや)と御敷地

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土宮(つちのみや)と御敷地

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多賀宮(たがのみや)と御敷地

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多賀宮(たがのみや)へ上る階段も
緑豊かだ。

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森の気(!?)に引き込まれるように
少しゆっくり奥へと歩いたが、
観光のメインコースから外れると、
人もまばらになり、
さらに深く森を楽しむことができる。

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奥の小さなお社にも、遷宮用の御敷地は
ちゃんと確保されている。
空いている側は、東西というか左右で
揃っているわけでなく、
お社によりバラバラだ。

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外宮の参拝を終え、内宮に向かった。
路線バスで20分強の移動。

 

【内宮(ないくう)】
皇大神宮(こうたいじんぐう)
皇室のご祖神
天照大神(あまてらすおおみかみ)を
おまつりしている。

五十鈴川(いすずがわ)に架かる
宇治橋(うじばし:長さ102m)を渡り
内宮に向かう。
両端の鳥居は、両正宮の旧正殿
棟持柱(むなもちばしら)を
リサイクルしているという。

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神苑(しんえん)を歩く。

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手水舎(てみずしゃ)にて
参拝前に心身を清め、
正宮(しょうぐう)に向かう。

こちらも写真が撮れるのはこの位置まで。

P7153713s

 

平安末期の歌人・西行は
伊勢神宮にお参りして、

 なにごとのおはしますかは知らねども
 かたじけなさに涙こぼるる


と詠んだという。

何度も書いた通り、外宮も内宮も
とにかくお社を包む森がすばらしい。

華美な部分はないが、
繰り返される日々の営みに支えられた
圧倒的とも言える時の流れ、歴史、
それらを静かに包み込んでいる
深い深い森の生命力、
そういうものを
「なにごと」かはわからなくても
まさに全身で感じることできるのが、
お伊勢参りの魅力なのかもしれない。

 

 

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2019年9月 8日 (日)

「ウィーン・モダン」展

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「ウィーン・モダン」展

- 作品とその時代を同時に体験 -

 

日本・オーストリア外交樹立150周年記念
ウィーン・モダン
クリムト、シーレ 世紀末への道


という企画展が、
東京六本木の国立新美術館で
開催されていた。
(2019年4月24日~8月5日)

Viennamodern1

工夫を凝らしたいい企画展だったため
本ブログで紹介できれば、
と思っていたのだが、
モタモタしているうちに気がつくと
閉幕日を過ぎてしまっていた。

ありゃ、ありゃ、これから書いても
単なる日記にしかならないか。

そう思っていたら、偶然
ラジオから
「8月末から大阪にて公開中」
なる情報が流れてきた。

慌てて調べてみると、東京に続いて

【大阪展】
2019年8月27日~12月8日 
国立国際美術館


が開催されているらしい。

だったら、日記のようなメモでも
「これから行こうか?」と
迷っている人に
多少は参考になるかもしれない。

 

本企画展、
会場を事実上一方通行にすることで
18世紀から20世紀までのウィーンを
時間順に、文化とともに歩めるような
演出になっている。

単に絵画を並べた展覧会ではなく、
作品をその時代の社会的背景とともに
体験できる点に大きな特徴がある。

なお、大阪展は、
若干出展数が減ってしまっているようで、
「東京展と全く同じ」
というわけではないようだ。
本記事は、あくまでも
東京展を観ての感想なので、
その点はご承知おき下さい。

 

まず、全体構成。
(1)「啓蒙主義時代のウィーン」
(2)「ビーダーマイアー時代のウィーン」

(3)「リンク通りとウィーン」
(4)「1900年 ― 世紀末のウィーン」
の4部構成となっており、
時代の流れに沿って
各文化を楽しめるようになっている。


18世紀の女帝マリア・テレジアの
肖像画から展示は始まっているが、
マリア・テレジアの時代に始まった
啓蒙思想が
 フランス革命 (1789-1799)
 ウィーン会議 (1814-1815)
を通して
ビーダーマイアー時代へと
繋がっていく様子が前半。

(3)「リンク通りとウィーン」
のセクションでは、
ここに書いた話を
ショートフィルムも交えて
写真と絵画で
より詳しく知ることができる。

1857年に長い間ウィーンを囲っていた
市壁の取り壊しが決定。
その跡地がリンク通りとなり
沿道には国会議事堂、歌劇場など
特徴ある建物が次々と造られていく。
一気に都市部が広がり始めるウィーン。

 ウィーン万国博覧会 (1873)
 皇帝の銀婚式祝賀パレード (1879)

といった大きなイベントを
ハンス・マカルトをはじめ
多くの画家が作品に残している。

そういった、歴史の流れを
十分実感させた上で、
最後のセクション
(4)「1900年 ― 世紀末のウィーン」へと
繋がっていく。

19世紀末から20世紀にかけて、
都市機能がさらに充実していくウィーン。

鉄道を始め、都市デザインに貢献した
建築家オットー・ヴァーグナーの業績も
いくつもの模型を交えて展示してある。
ウィーン旅行記で記事にした
カールスプラッツ駅舎も彼の作品だ。

芸術の分野では、
画家グスタフ・クリムトらが中心となって
ウィーン分離派」が結成される。

多くの絵画の展示がある中、
どういう理由かよくわからないが
クリムトが最愛の女性を描いたとされる
1902年の作品
「エミーリエ・フレーゲの肖像」
のみ写真撮影が許可されていた。

Viennamodern4

フレーゲの姉とクリムトの弟が
結婚したこと、
つまり義理の兄妹の関係になったことが
ふたりが知り合った
きっかけだったようだが、
ふたりは結婚はしなかったものの、
まさに死ぬまで生涯のパートナーとして
すごしたらしい。

とにかく色が美しく、
まさに本物を観る価値がある。

Viennamodern5

 

展覧会パンフレットの
裏表紙に使われている
エゴン・シーレ の「自画像」

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は、ほぼ等身大の
「エミーリエ・フレーゲの肖像」
とは対照的に、30cm四方程度の
思ったより小さな作品だった。
エロティックなデッサンも含め、
多くの分離派の作品を堪能できる。

 

魅力的な絵画が並ぶ中
個人的に特に強く印象に残ったのは
ウィーン分離派が
分離派の展覧会のために作った
ポスター群だった。

展覧会ごとに
作家が順番に担当したらしいが、
どれも全体のデザインはもちろん
文字、つまり字体も美しく
一枚、一枚、実にユニーク。

新しいものを生み出していこうという
ある種の勢いみたいなものが
ヒシヒシと伝わってくる。

残念ながら写真は撮れなかったので
パンフレットの中の写真を
2枚だけ貼っておきたい。

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ポスターなので
素材はもちろん紙なのだが、
どれも保存状態がよく
ほとんどシミがないのにも驚いた。
どうやって保存していたのだろう?

 

ここから42回にも渡って
旅行記を書き続けたように、
ウィーンは2年前の旅行で
個人的に満喫した都市のひとつだ。

なので、「行ったからこそ」、
「その後、詳しく調べたからこそ」、
楽しめた部分は確かにある。
一緒に行った妻も同意見だ。

しかし、仮にウィーンに
一度も行ったことがなかったとしても、
時代の流れを感じながら
作品を楽しむことは十分にできたと思う。

作品とその背景となる歴史や社会を
じょうずに結びつけた
工夫に満ちた展覧会だった。

 

 

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2019年8月18日 (日)

古代出雲 歴史博物館

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古代出雲 歴史博物館

- 高さ48mの本殿は? -

 

出雲大社にお参りしたあとは
島根県立 古代出雲 歴史博物館
に寄ってみた。

入って最初に出迎えてくれたのは、
直径1mを越える巨大なスギが
3本一組となったコレ。
宇豆柱(うずばしら)

Img_4355s

これは出雲大社の八足門前、
下記写真の右下足元、赤丸の位置から
平成12年(2000年)に発掘された
巨大な柱の一部だ。
鎌倉時代のものと推定されている。

Img_4325s

 

出雲大社の本殿の高さは、
現在8丈(24m)だが、
「古代は16丈(48m)あった」という
言い伝えが残されている。

しかし、そんな巨大な建物を
当時の技術で建てることができたのか、
疑問の声も多かった。

そんな中、こんな巨大な柱の跡が
3箇所でみつかった。
しかもそれは古い平面図に描かれていた
位置通りの場所だったのだ。

この柱の発見により、
高さ48mの本殿の現実味
が一気に高まった。
巨大柱が支えた
鎌倉時代前半(1248年造営)の神殿は
どのような姿だったのだろうか?

博物館には、6種類の
復元案に基づく模型が展示してある。

本殿 復元案1

Img_4358s_1

一番インパクトがある巨大模型。
階段を歩く二人(白い点)にご注目。

高さ16丈の言い伝えは古くからあるため、
出雲大社本殿建築の復元研究と
その高さをめぐる論争は
すでに100年にもおよぶという。

復元案2, 復元案3, 復元案4

Img_4362s

発掘成果をもとに
限られた文献や絵画史料を駆使し、
上屋(うわや)構造を推定したもの。

学者によって
ずいぶん違う案が提示されていて
おもしろい。

復元案5, 復元案6

Img_4361s

図面や文書ではなく、
こうして模型で展示してくれると
だれにでもわかりやすいうえ
あれやこれや勝手な想像も
スケール感を伴ってしやすいので
形にする意味は大きい。

6つの案の中にほんとうの姿が
あるかどうかはわからないが、
柱の跡と現存の資料から考える範囲では
どの可能性も否定はできない。

 

館内では出雲大社のほか、
「出雲国風土記の世界」と
「青銅器」
がテーマ別の常設展になっていた。

【出雲国風土記の世界】
風土記は奈良時代に
全国六十余国で作成されたが
現在残っているものは5つのみ

そのうち
「常陸国風土記」「播磨国風土記」
は一部が欠落。
「豊後国風土記」「肥前国風土記」
は元の形から文章が省略されている、と
考えられているらしい。

つまり、現存する5つの風土記の中で、
ほぼ完全な形で伝わっているのは
「出雲国風土記」だけ


その風土記に基づいて
古代の地域の様子を
「くらし」の様子を
様々な角度から展示している。

 

【青銅器と大刀】
荒神谷(こうじんだに)遺跡から
358本の銅剣、
16本の銅矛、
6個の銅鐸が出土。

加茂岩倉遺跡から
39個の銅鐸が出土。

大量に出土した弥生時代の青銅器、
古墳時代の金銀の大刀
などが見やすく展示してある。

特に銅鐸。
こんなに多くの銅鐸は初めて見た。

Img_4380s

整然と並べられた銅剣、銅矛も圧巻だ。

Img_4379s

 

他にも
島根の歴史と文化を特徴づける
「四隅突出型墳丘墓」
「出雲の玉作」
「石見銀山」
「たたら製鉄」
を中心に、古代から現代に至る
島根の人々の生活と交流の歴史を
紹介している総合展示室もある。
どの展示・説明もわかりやすく、
見やすく、見どころ満載。

出雲大社にお参りした折には、
ぜひ立ち寄ってみてほしい。
お薦めだ。

 

 

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2019年8月11日 (日)

出雲大社

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出雲大社

- ぜんざいは神在(じんざい)? -

 

島根・鳥取方面への旅行、
最終日は、出雲大社にお参りした。

勢溜(せいだまり)の大鳥居から
松の参道と呼ばれる参道を
ゆるやかに上っていく。

Img_4306s

(写真はすべてiPadにて撮影)

ふと前方の鳥居を見ると、
そこから先、参道から人が消えている。
どうして?

Img_4308s

ここまで真ん中を歩いて来た人たちは
この鳥居から先、鳥居の両脇の道に
進路を変えているのだ。

神様の集まる出雲大社のこと、
「真ん中は神様の通る道で
 人はその両脇を歩く」
なる話も聞いたことがあったので、
「もしかしたら、このこと?」
と思いながら近づいていった。

鳥居の下まで来ると、
何か書いてある。
いったい、何が書いてあるのだろう?

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「松の根の保護のため
 参道左右をお進み下さい」

なんだ、松の養生のためか。
なぜかガッカリ。

脇の参道を歩くことになったが、
参道からちょっと右に目を遣ると
山の緑がほんとうに美しい。

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「ムスビの御神像」と呼ばれる像。

Img_4312s

立派な像ではあるが、
なぜか「気恥ずかしい」。

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「御自愛の御神像」

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因幡の白ウサギの話って、
子どものころ絵本で読んだ記憶しかない。

絵本で語られる物語というのは、
多くの子どもに知ってもらえるという
大きなメリットがある反面、
それだけで知った気になってしまう
そういう子どもを大量に生産してしまう
ある種の不幸を背負っている気がする。

「大人になってからちゃんと知ろう」
をサボっている自分の怠惰を棚に上げての
勝手な思い込みではあるが、
小学生のころ読んだ
「こども**全集」に入っていた話を
大人になってから「原作」で読んでみると、
その印象のあまりの落差に
驚くことはよくある。

絵本で知った、ならなおさらだ。

 

「拝殿」まで来た。

Img_4319s

出雲大社独特の
「2礼4拍手1礼」でお参りする。

左奥に本殿、右に拝殿

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境内を右回りに、大きく歩く。

左に八足門、右に観祭楼

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八足門

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右下の足元、赤い丸については
のちほど見学する歴史博物館で
驚きの事実を知ることになる。

 

御本殿西側

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西側から臨む御本殿

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素鵞社(そがのやしろ)
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境内の一番うしろ、
もっとも奥まったところにある。
大国主大神の父神とされる
素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀る社
御本殿を背後から見守るかのような
位置にある。

Img_4331s

 

真後ろから見る御本殿

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物理的な距離という意味では、
この真後ろが一番近いかもしれない。

東側から臨む、右が御本殿

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左から御本殿、御向社、天前社

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東十九社

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旧暦10月の神在月(かみありづき)の際
全国から訪れる神々の宿舎
西十九社として西側にもある。

御本殿を一周、拝殿に戻ってきた。

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お参りした後は、名物のコレを。

出雲割子そば

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蕎麦の実を皮つきのまま製粉するため
色は黒っぽくいが、香りもよく、
お参りで歩いて
ちょっとすいたお腹にピッタリ。

食事のあとはデザート代わりに
別なお店で「ぜんざい」を。

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このぜんざい、「縁結び」にからめて
なんと結んだ「蕎麦」が入っている。

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そもそも
「ぜんざい」の発祥はこの地だとか。

出雲では神在祭の時に
神在餅(じんざいもち)をふるまっていた。
「祇園物語」には
「赤豆を煮て汁を多くし、
 少し餅を入れ」とある。

この「じんざい」が
出雲弁でなまって「ぜんざい」となり、
京都に伝わったとのこと。

元は、神在(じんざい)か。

旅行最後に立ち寄った
島根県立古代出雲歴史博物館
の話は次回に。

 

 

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2019年8月 4日 (日)

国宝「松江城」

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国宝「松江城」

- 2階ごとの通し柱と包板(つつみいた) -

 

前回に引き続き、
松江旅行記を続けたい。

「カラコロ広場乗船場」から
堀川めぐりの船に乗り込んだ我々は
橋や石垣を船から楽しみながら、
「大手前広場乗船場」まで来た。

Img_4211s

(写真はすべてiPadで撮影)

ここで降りて、
松江城を見学することにする。
松江城は、現存する12天守のひとつ。
1935年に国宝に指定されたものの
1950年に重要文化財に。
2015年に国宝に再指定
というちょっとかわった経歴を持つ。

【松江城】
入るとまず、
大手門跡からの石垣に圧倒される。

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子どもではあるが
人と一緒に写真を撮ると、
石垣の高さがよく分かる。

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石垣積は、築城工事にあたって、
全体の半分以上の労力を要した大事業。

築成には遠く大津市坂本町穴太の
穴太衆(あのうしゅう)と呼ばれる
優れた技能を持った
石垣築成集団が招かれて
その任にあたったという。

Img_4221s

自然石や割石を積む「野面積」や
石切り場で切り出した石の、
平坦な面の角を加工し、
合わせやすくした「打ち込み接(はぎ)
といった様々な積み方を
実際に目にすることができる。

Img_4237s

 

訪問は5月4日、城内ではちょうど
ヒトツバタゴ(一つ葉田子)
通称ナンジャモンジャの木の花が満開で
多くの人がカメラを向けていた。

Img_4218s

ナンジャモンジャという名前には
きっとおもしろい由来があるに違いない、と
ちょっとググってみたのだが、
諸説出てくるものの
改めてここに書くようなネタは
見つからなかった。残念。

 

城の前まで来ると、
鎧を纏った武士の格好をした人が。

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城を背景に、
武士を囲んで写真撮影をする観光客、
特に外国人の方が多く、
各グループにひっぱりダコ。
忙しくても笑顔を絶やさない
にこやかな対応はさすが。

それにしても、この城、
堂々たる風格だ。

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さっそく中に入ってみることにした。

入って最初に目に飛び込んできたのは
「井戸」。
まさに城の中に井戸。
深さは24mもあるらしいが、
城から出ずに飲料水が得られたことは
籠城対策としても有効だったことだろう。

他にも、2015年の
国宝再指定を決定づけた「釘のあと」
木造では国内最大の鯱鉾(しゃちほこ)など
見どころはいろいろあるが、
一通り見学して、素人ながら
特に強く印象に残ったのは次の二点だった。

(1) 2階ごとの通し柱
松江城には、下から最上階までを貫く
「通し柱」がない。
1階と2階、2階と3階、というように、
「2階ごとの通し柱」を組合せて
天守を構成している。

iPadは暗いところに弱いので
写真ではちょっとわかりにくいが
写真を撮ったので貼っておきたい。

柱は、通常、こんなふうに
下の階から上の階に貫かれているのが
ふつうだ。(写真中央の柱)

Img_4226s


ところが、松江城では、
2階分の通し柱が使われているので
こんな部分がある。
中央の柱は、上の階にだけあって
下に伸びていない。

Img_4225s

ちょっと不思議な感じ。
全体の構造図で示すとこうなっている。

Toshihashira2

(登閣券を買ったときにもらった
 松江城のパンフレット掲載図。
 より詳細な資料は、松江市が
 通し柱配置図として公開している)

ちなみに、姫路城の天守には
地階から6階までを貫く柱が2本あり、
それらがまさに中心となって、
全体を支えているらしい。

なお、これら
各階の階段に「桐」の板
使っていることも、
松江城ならではの特徴のひとつ。

防火・防腐に効果があるだけでなく、
緊急時に
防衛のために階段を引き上げるとき、
軽くて引き上げやすい、
というメリットもあるのだとか。

 

(2) 包板(つつみいた)
天守を支える柱には、一面だけ、
あるいは二面、三面、四面に板を張って、
鎹(かすがい)や鉄輪(かなわ)で
留められているものがある。

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これは「包板(つつみいた)」と呼ばれ、
天守にある総数308本の柱のうち
103本に施してあるという。
割れ隠しなど不良材の体裁を
整えることを目的としながらも、
補強効果も期待したものと考えられる、
との説明が出ている。

Img_4236s

現存天守では
松江城だけに見られる技法
らしいが、
数本ならともかく100本以上、
30%以上の柱が不良材ベースとは。

権威や体裁を気にする天守において
良材が調達できなかったこと、
そしてその不良材を工夫はしたにせよ
実際に使ってしまったこと、
それらにはどんな意味があるのだろうか?

 

天守閣からの眺めは抜群。
遠く、登山した大山も見える。

Img_4231s


南側には宍道湖が広がっている。

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明治の初め、全国の城はほとんど
取り壊される運命にあった。
ところが、松江城天守は
地元の豪農 勝部本右衛門、
旧松江藩士 高城権八ら
有志の奔走によって
山陰で唯一保存され、守られた。

今後も継続的なメンテナンスが
必須であることは間違いないが、
なんとかその姿を後世に残してもらいたい、
そう思える見応え十分の天守だった。

 

 

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2019年7月28日 (日)

松江城「堀川めぐり」

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松江城「堀川めぐり」

- 堀から見る、橋、石垣、そして町並み -

 

島根県訪問時には松江市内に
宿をとった。

今日は、松江城の堀川めぐりを
楽しみたい。

【堀川めぐり】
松江城を囲む堀は、
一部築城(1611年)と同時に造られ、
今もそのままの姿を残している。

400年もの歴史がある。

その堀を小舟でめぐるのが
「堀川めぐり」。
一周「約3.7km」のコースを
約50分で一回りする。

途中3箇所、乗船場があるが、
一日券1500円を購入すると
丸一日、3箇所での乗り降りが自由。
まさに乗り放題で楽しめる。

Img_4205s

(写真はすべてiPadで撮影)

船は全長約8m、幅約2mの小さなもので
乗客は全員、靴を脱いで乗りこむ。

屋根の下に屈(かが)みながら進んで
直接床に座るスタイルだが、
全員が腰を下ろすと、船頭さんから
さらなる説明があった。

「堀川めぐりは、一周する間に
 17の橋をくぐります
 ところが、その内4つの橋は、
 橋げたが低く
 そのままでは、船の屋根が
 ぶつかってしまい通れない
のです。

 なので、そういった低い橋をくぐる時は、
 船の屋根を下げて通過します。

 ちょっとやってみましょう」

船頭さんがスイッチを入れると
屋根がゆっくり下がってきた。

「これでもまだ半分ですよ、
 もうひと息、頑張って下さい」

予行演習を和やかに進める
話術も巧みだ。

予習を済ませると、船は加速しながら
堀の真ん中に出ていった。

 

「カラコロ広場乗船場」を出発してから
ほどなくすると、
実際に低い橋が迫ってきた。

Img_4199s

「はい、屋根を下げますよぉ。
 気をつけて下さい」
の船頭さんの声のもと
まさに全員前屈体勢に。

Img_4200s

ごらんの通り、かなり屈(かが)む。

無事通過すると、
「困難を乗り越えた」というほど
大袈裟なことでもないのに、
乗客間にちょっとした一体感というか
なごやかな空気が
流れるような感じがするから
不思議なものだ。

ちなみに、屋根を上下に動かす
油圧シリンダーはこんな感じのもの。

Img_4204s

忘れがちだが、
屋根を下げて通過するということは、
「適正な水位が維持されている」
ということが前提になっている。

水位が上がりすぎると屋根がぶつかって
通り抜けられなくなるし、
逆に、水位が下がりすぎると
船底をこすってしまうことになるからだ。

この細かいコントロールは、
宍道湖のほとりにあるポンプ場
「松江堀川浄化ポンプ場」にて
実施されているらしい。

ポンプによる制御があってこそ、
安心して船を運航できるわけだ。

 

天守閣に一番近い、
「大手前広場乗船場」まで来た。

Img_4211s

城の石垣も
堀から眺められるのはいい。

このあと、松江城の見学に出かけたのが、
その話は次回、
回を分けて書きたいと思う。

城見学の後、残りのコースに乗るために
「大手前広場乗船場」から再度乗船。

城の北側
【塩見縄手(しおみなわて)】
と呼ばれるエリアの前をゆく。
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江戸の町並みが残っている。

Img_4241s

船からの眺めもいいが、
降りてちょっと歩いてみることにした。
3番目の乗船場「ふれあい広場乗船場」
で降りて塩見縄手の方へ向かう。

Img_4242s

 

小泉八雲記念館

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小泉八雲旧居

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八雲が家のたたずまいを
どんな言葉で書いたのかが、
掲示してある。

「自分の今度の家は
 或る高位のサムライの昔の住宅で、
 カチュウヤシキ(家中屋敷)である。

 城のお濠の縁にある街路、
 いなむしろ道路とは、上を瓦が蔽うて居る
 長い高い壁で仕切られている」

 

武家屋敷

Img_4248s

 

堀にかかる松も
長い時間を感じさせる。

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長い塀も絵になる。

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堀を挟んで右側が城内。
このあたりは石垣がない。

Img_4252s

 

「ふれあい広場乗船場」の前には、
観光客が自分で記念撮影ができるよう
写真撮影用のカメラスタンドがあった。

Img_4254s

「カメラを置く」
だけでなく、
「スマホを挟んで立てる」
ためのブロックが
台の左側に設置してある。

いつのまにか、
セルフタイマーによる記念撮影も
スマホが主流になっているのだろうか?

 

「ふれあい広場乗船場」から
「カラコロ広場乗船場」までは
外堀に相当するので
城からは離れることになるが、

Img_4255s

京橋川を通り、
また違った景色を楽しむことができる。
私が乗った船では
船頭さんが歌まで歌ってくれた。

冬には「こたつ船」になるらしいが
この堀川めぐり、石垣はもちろん
景色も船頭さんの話も、
そして場合によっては歌までも楽しめる。

松江観光の際はぜひ。お薦めだ。

 

 

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