歴史

2017年1月15日 (日)

日本海、浅い海峡と小さな遭遇

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日本海、浅い海峡と小さな遭遇

- 230年前のスケッチ -

 

以前、ちょっと回転しただけなのに
日本列島が見慣れない形で現れるこの地図

Easia

(地図の購入はこちら
と、日本海について
この本を紹介した。

蒲生俊敬著
「日本海 その深層で起こっていること」
講談社ブルーバックス


(日本海についての過去の記事は
 こちらこちら

この本から、もう2点
興味深い話を紹介したい。
(以下水色部と図は本からの引用)

まずは1点目。
本では、日本海の特徴を
下記3点にまとめている。

① 外部の海とつながる海峡が浅く、
  地形的な閉鎖性が強い
こと。

② 対馬暖流がつねに流れ込んでいること。
③ 冬季に北西季節風が吹き抜けること。

この①について、
ちょっと驚く数字がある。

地図で見れば明らかなように、
日本海は、間宮、宗谷、津軽、対馬の
4つの海峡で外部の海と繋がっている。
この4つの海峡は、幅が狭いだけでなく、
とにかく浅い


どれほど浅いか。
本文から数字を集めて並べてみた。
(「約10メートル」の「約」は省略して引用)

  日本海の深さ
  平均水深 1,667メートル
  最大水深 3,800メートル

  4つの海峡の深さ
  間宮海峡   10メートル
  宗谷海峡   50メートル
  津軽海峡  130メートル
  対馬海峡  130メートル

もう少しイメージしやすくするため
日本海を
平均深さ50cmのバスタブとしてみよう。
海峡は、外部の海と繋がる
「縁の窪み」ということになる。

  間宮海峡   0.3cm
  宗谷海峡   1.5cm
  津軽海峡   3.9cm
  対馬海峡   3.9cm

一番深い対馬海峡でもわずか4cm
いかに「閉鎖性が強い」かがよくわかる。

このことが、②③との組合せで
海水の対流(熱塩対流)や付近の天候に
大きな特徴をもたらすのだが、
その詳細は本のほうにゆずりたい。

いずれにせよ、この閉鎖性が、

ある大潮の時期に、
同じ青森県でも
太平洋に面した八戸では干満の差が
130センチメートルもあるのに、
日本海に面した深浦では、
わずか20センチメートル程度しか
海面が変化しません。

の原因。

若狭湾に面する京都府与謝郡伊根町
 「舟屋」のような、
 1階が船のガレージ、
 2階が居間となった
海辺ぎりぎりの独特な建物が成立するのも、
日本海だからこそと言える。

 

日本海についての話、2点目は
歴史的エピソード。

フランスのJ・F・ラペルーズが、
1787年に日本海を探検したときのこと。

 ラペルーズ率いるフリゲート艦2隻は、
1787年5月25日に
対馬海峡から日本海に入ります。

1797年に出版された
「ラペルーズ世界周航記」の付図には、
日本海を東へ進んだあと、
能登半島沖で北西に向きを変えて、
ロシア沿岸を北上した航跡が
記されています。
Nihonkai1

 

このラペルーズ率いる2隻のフリゲート艦が、
日本海でふしぎな和船と遭遇しています。

遭遇場所は、

Nihonkai2

の、"MER DU JAPON"と表記されている
"MER"と"DU"の中間あたり。

1787年6月2日のこと。

対馬海峡から日本海に入った
ラペルーズ隊の前方から、
2隻の日本船(北前船)が近づいてきた。

 2隻のうち1隻は、通常の弁才船

Nihonkai3

だったが、もう1隻は
いっぷう変わった形状をしていた。

230年近くも前、フランスの軍艦が
日本海で偶然見かけた日本の船の形状、
なぜそんなことがわかるのか。

まだ写真のない時代でしたが、
ラペルーズ隊のブロンドラ海軍中尉が
これらの和船を巧みにスケッチしました。

その絵が現存しており、
『ラペルーズ世界周航記・日本近海編』
(小林忠雄編訳)に添付されています。

なんとその船のスケッチが残っているのだ!
しかも精緻で美しい。

Nihonkai4

 

 和船研究の権威である
石井謙治や安達裕之によれば、
この船は「三国丸(さんごくまる)」といい、
江戸幕府が1786年10月に
就航させたばかりの1500石積み廻船でした。

「三国」という名称は、
この船が
 和船、
 中国船、および
 西洋船(オランダ船)
の3種の船の長所を
組み合わせた折衷(せっちゅう)船
であることに由来しています。

 唐船づくりの船体に
和式の総矢倉を設け、
船体の中央には和式の本帆、
船首と船尾には洋式の補助帆(三角帆など)
を備え・・・、といったぐあいです。

しかも、三国丸のような和洋折衷船は、
当時の日本でこの一隻だけだったという。
なんという偶然。

『世界周航記』(小林忠雄編訳)には、
そのときのようすが
興味深く記載されています。

「我々は日本人の顔が
 観察できるほど近くを通過したが、
 その表情には恐怖も、驚きも
 表われていなかった」

「すれ違いながら呼びかけたが、
 我々の問いは彼らの理解をえられず、
 彼らの答弁も我々にはわからなかった。
 日本船は南方に航海をつづけた」

コミュニケーションは
取れなかったかもしれないが、
そこまで近づいてきた
異国の船(しかも軍艦)に
三国丸の人々は、
どれほど驚いたことだろう。

三国丸はその一年後、
1788年9月、暴風に見舞われ
出羽国赤石浜に漂着。
そこで破船。

 実働わずか2年たらず。
同型船が再建されることは
なかったという。

 

日本にわずか一隻、しかも
たった2年しか存在していなかった船が、
はるかフランスからやってきた軍艦と
230年前の日本海上でたまたま遭遇。
その時のフランス人の正確なスケッチが
ちゃんと残っているなんて。

貴重なスケッチは、
たった一枚でも物語を運んでくれる。

 

 

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2016年12月25日 (日)

渤海からのカレンダー

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渤海からのカレンダー

- 宣明暦(せんみょうれき)の渡来 -

 

前回、「日本海」について
この本を紹介させていただいた。

 蒲生俊敬著
 「日本海 その深層で起こっていること」
 講談社ブルーバックス

この本、ブルーバックスなので、
海水の「熱塩循環」を始め
科学的な視点での解説が多いのだが、
日本海に関する歴史的なエピソードも
数多く盛り込まれている。

その中からひとつご紹介。
(以下水色部、本からの引用)

 8世紀から10世紀にかけては、
高句麗の後継として698年に建国された
渤海(ぼっかい)
(当初の国名は振で、926年に滅亡)
とのあいだで実施された国際交流
(遺渤海使)がよく知られています。

今から1300年も前の話だ。

 

727年に渤海からの使節が
蝦夷(えぞ)地に来着したのをきっかけに、
翌728年には、わが国から初めての
遣渤海使が日本海を渡ります。

遣渤海使は811年の15回めで終了しますが、
渤海はその後も熱心に使節を派遣し続け、
929年の34回めまで継続されました。

727年-929年この間だけで約200年。

渤海使の推定交易ルートが下図。
なお、参考にしているのは、
 高瀬重雄(1984)
 「日本海文化の形成」名著出版

Nihonkai

秋田県能代から島根県松江(千酌)、
そして平城京まで、
なんと多くのところと繋がりがあったことか。

 

渤海からの使節は、
秋から冬にかけての北西季節風を利用して
日本海を横断し、対馬暖流に乗って
日本海沿岸の港に到着しました。

一方、帰路は4~8月に日本海を北上し、
リマン寒流を利用して渤海沿岸に
到着していたと思われます。

彼らは航海術に長(た)けていたようで、
海路図からは日本海の海流を経験的に
うまく利用していた
ようすが見てとれます。

古い話とはいえ、
航海術はこの時点ですでに長い歴史があり、
風や海流をうまく利用していたようだ。

 

 交流が始まった当初の渤海は
新羅と対立しており、同国を牽制するために、
やはり新羅と敵対していた
わが国との連係を求めました。

しかし、まもなく
新羅との緊張状態が緩和したことによって
軍事同盟的な色彩は薄れ、渤海との関係は
交易を中心とする文化的なものへ
変わっていきます。

軍事目的から文化交流へ。

では、実際にはどんなものが
やりとりされていたのだろう?

 渤海からは、
貂(てん)・熊・豹・虎などの毛皮や、
人参、蜂蜜、陶器類、仏具、経典などが
わが国にもたらされました。

一方わが国からは、
絹などの高級な繊維加工品、黄金や水銀、
工芸品、つばき油、金漆(こしあぶら)などが
輸出されました。

養蚕のあまりできない渤海で、
絹製品はとりわけ珍重されたといいます。

そして、このルートで輸入された
もっと大きなもの。

それは、その後800年以上に渡って
日本で使われることになる「カレンダー」だ。

 この時代に、渤海を経由して
唐から伝えられた貴重な文物があります。

859年の渤海使によってもたらされた
宣明暦(せんみょうれき)」です。

当時の唐で使用されていた
高精度の太陰太陽暦であるこの暦は、
862年から
江戸時代中期にあたる1684年まで、
実に822年間もの長きにわたって使用され、
年月日に基づく人々の
日常的生活の拠りどころとなりました。

800年間も使われた宣明歴。
その入国のルートとなったのが、
日本海だったようだ。

宣明歴も1685年には、
輸入物ではなく、日本人
渋川春海の手によって編纂された和暦、
貞享暦(じょうきょうれき)
改暦される。

渋川春海については、
冲方丁著『天地明察(てんちめいさつ)』
で広く知られるようになった。

貞享暦のほうは、
70年の寿命だったようだが。

 

2016年も年の瀬。
さてさて、来年は
どんなカレンダーになることでしょう。

今年もご訪問ありがとうございました。
どうぞ、よいお年をお迎え下さい。

 

 

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2016年10月 2日 (日)

文字の博覧会 (4)

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文字の博覧会 (4)

- 布教のために文字考案 -

 

「文字の博覧会」
からの報告の4回目。

(1):ビルマ文字が丸くなったのは
(2):上下左右なし、鏡文字もOK
(3):現役の象形文字
と書いてきたが、文字の話は
今日で一旦一区切りとしたい。

前回に引き続き、
ちょっと形の変わった文字を見てみよう。

参照するのは、これまで同様、当日のメモと
パンフレットとして売られていた

(以下、水色部と文字の写真は
 上記の本からの引用)

 

(4-1) 中国:規範彝(い)文字

Roro

彝(イ)族が奇怪な文字を用いていることは、
18世紀、フランス人ドローヌの
報告書によって明らかになった。

象形文字を音節文字にした文字で、
7~8世紀頃に作られた。
四川のみならず、貴州省、雲南省でも
同様の文字を用いており、
さん文、ロロ文字とも呼ばれる。

時を経て、1980年、
四川省は旧来の文字をまとめ、
規範彝(イ)文として公布した。

文字は819字あり、
字形は相互に関連性を持たない

写真は、1991年の凉山日報という新聞の一部。
この文字で、
ちゃんと日刊の新聞が発行されている。

 

(4-2) エスキモー文字

Esukimo2

この写真は、中西コレクションデータベースから

イギリス人宣教師の
ジェームズ・エヴァンスが1840年頃、
布教のためにカナダ先住民の言語を
表記するために考案した。

クリー語、
イヌクティトゥット語、
チペワイヤン語、
などでも使用されていた。

一瞬、数式の一部かと思ってしまうような文字列。

それにしても「布教のために」
文字まで作ってしまうなんて。

展示会では、ほかにも
モルモン教布教のために考案された
デザレットアルファベットなども展示されていた。

 

(4-3) アフリカ:マンドンベ文字

Mandombe1s

この写真は、アフリカ固有の文字から

ブログを書くために
いろいろ調べているうちに出遭った文字。
文字の博覧会で見かけたわけではないのだが、
どうしても紹介しておきたかったのでお許しあれ。

詳しい説明は引用した
アフリカ固有の文字
ご覧いただきたいが、
この形、インパクトが強すぎる。

 

4回にわたって
主に「文字の博覧会」から
特徴ある世界の文字を紹介させていただいた。

第一回目に書いた通り、
これらの文字を集めたのは中西亮さん。
実は、中西さんの、まさに唯一無二の
文字収集活動については、
ずいぶん前から知っていた。

なのでいくつか関連記事もスクラップしてある。
そんな中から、亡くなった後の
新聞記事を添えておきたい。
今から22年も前の古い記事だが。

朝日新聞 1994年6月4日の記事

A940604_s

以下 緑色部はこの記事からの引用。

文字の美しさと多様性に魅せられた
京都市の元印刷会社社長が120カ国を歩き回り、
400種類といわれる世界の文字の
ほぼすべてを収集した。

 

朝日新聞 1994年6月11日の天声人語

A940611_nakanishi_s

以下 茶色部はこの記事からの引用。

漢字も面白い。
字体をみだりに変える者は斬首(ざんしゅ)せよ
と厳命した王のおかげかどうか、
と中西さんは書いているが、
とにかく漢字は二千年間その姿を変えず、
私たちは漢代の文書をそのまま読むことができる

 

6月4日の記事にはこんな記述もある。

経口の抗がん剤を持ち
アフリカのサハラ砂漠へ旅立った。
トゥアレグ族の人たちが守り続けたという
ティフナグ文字を探した。

腰や背中の痛みに耐えて、ついに念願を果たした。

最後に辿り着いた「ティフナグ文字」とは
どんな文字なのだろう。
ちょっと見てみよう。

Thifunagu

この写真は、中西印刷株式会社「世界の文字」から

 

国立民族学博物館顧問の梅棹忠夫さんの話 

中西さんの研究は極めて有意義なものです。
これほどの研究は外国にもないのではないか。
言語学的にきちんと調べて
資料を集められている。

この資料が散逸するのを心配しています
ご遺族のご了解があれば、
整理したうえで永久保存し、
研究に役立てられるような方法
を探したい。

その後、資料は梅棹さんの希望通り、
国立民族学博物館に寄贈され、
中西コレクションとして保管、公開されている。

まさに、

ひとりの人間の情熱が、
何とすばらしい文化的財産を残したことか。

 

 

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2016年9月25日 (日)

文字の博覧会 (3)

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文字の博覧会 (3)

- 現役の象形文字 -

 

「文字の博覧会」
からの報告の3回目。

前回までで
特に文字種の多い、
東南アジアとインドから
特徴的な文字を紹介した。

今日は違う視点で文字を選んでみたい。

参照するのは、これまで同様、当日のメモと
パンフレットとして売られていた

(以下、水色部と文字の写真は
 上記の本からの引用)

まずは、「歴史」観点でこの文字から。

 

(3-1) ヘブライ文字

Heburai

漢字は漢の時代に
漢字として成立してから今までほとんど
その姿を変えていない。
その古さは2100年といえる。

しかし、
現在のイスラエルの国語であるヘブライ語を記す
ヘブライ文字は、
紀元前5世紀に聖者エズラが形を定めてから、
すでに2400年以上経っている


その間、国は滅び、
民族は世界中に離散したにもかかわらず、
紀元前の「死海文書」と現在の新聞の文字が
ほとんど変わっていないのはまさに驚異である。

古代ヘブライ語とヘブライ文字は国と共に滅びたのに、
1948年にイスラエル共和国が成立すると
公用語として復活


その文字が、
紀元前1世紀に書かれた手写本「死海文書」の文字と
ほとんど変わっていないというのだから、確かに驚く。

アラム系文字は子音字のみなので、
読むときは文脈に応じて母音を補う。

ヘブライ文字には漢字のように書道がある
手写本はいずれも美しく書かれ、
一字一句の書き誤りもない。

この文字もまた第一回のラオ文字同様
子音字のみで、
読むときに母音を補うパターン。

それにしても書道があるなんて。

以前、米国人に英語で書道を説明しようとして
たいへん苦労したことを思い出した。

もちろん私自身の貧弱な英語力のせいだが、
英文書体を美しく書く
「calligraphyとどう違うのか?」の質問に
うまく答えられなかった。

まだ、スマホやタブレットもなかった時代で
書道の例さえ見せられなかったつらさはあるが、
仮に見せられたとしても、
どう表現すればよかったのだろう?

今でもすっきりした説明が思いつかないままだ。

 

イスラエルのエルサレム
聖書が今に生きている町で、
ユダヤ人街、イスラーム教街、
キリスト教街、アルメニア人街に4分され、
それぞれが宗教の最高の聖地となっているが、
互いに無干渉に暮らしている。

イスラーム教街ではヘブライ文字は
ほとんど見られず、
全てアラビア文字なのも面白い。

では、そのアラビア文字を見てみよう。

 

(3-2) アラビア文字

Arabia1

アラム文字系の文字で母音がなく、
大文字、小文字の区別のない28文字を
右から左へ、英語の筆記体のように連続して綴る。

文字は
独立形、語頭形、語中形、語未形と
4つの形があり、
同じ文字でも位置によって形は変わる


イスラーム教の文字で
『コーラン』は常に
アラビア語で書かれる

IS関連のニュースが多い昨今、
イスラム教の聖典「コーラン」を
よく耳にするようになったが、
「コーラン」は「アラビア語」のみ、
というのが大きな特徴。

キリスト教が、
聖書の各「言語」訳どころか、
文字のない民族には新しい文字まで作って
布教しようとしていた歴史とは対照的だ。

私にはもちろん読めないが、
見ているだけで一種のリズムを感じる。

 

見ているだけで、と言えば、
アラビア文字を基にしたペルシャ文字も外せない。

(3-3) ペルシャ文字

Perusya

ナスタアリーク体で書かれた、
ペルシャの詩人の自筆書。

ペルシャ文字は32文字の文字体系から成る。
アラビア文字を受け入れたぺルシャ人は、
これに若干の改良を加えた上、
ナスタアリーク体という優雅な書体を作り出した。

「炎がたなびくような書体で、
 美しいリズムが紙面から伝わってくるが、
 優雅すぎて活字にはならない」 

と中西さんは指摘する。
新聞は他のアラビア文字と同じ
ナスヒー体で印刷されている。

「炎がたなびくよう」とはうまい表現だ。

 

ここからは
ちょっと形の変わった文字を見てみよう。

(3-4) ナシ象形文字

Tompa

中国のチベットや雲南省に住む
少数民族のナシ(納西)族の司祭である
トンパの間のみで継承されてきた文字で、
トンパ文字ともいう。

口語ではなく、解読は難しいとされている。
2003年ユネスコの世界の記憶遺産に登録された。

象形文字というと古代エジプトで使われていた
ヒエログリフがすぐに浮かぶが、
これは利用が限定的とはいえ、
まさに「現役」の象形文字だ。

 

こういった絵のような象形文字は、
なんと沖縄県にもあったらしい。

(3-5) カイダー文字

Kaida

沖縄県八重山列島で用いられた文字。
税金や米の収穫量などを記録するための文字で、
一部で昭和前期まで用いられた

現役とは言えないまでも、
「昭和前期まで」使われていたとは。
全く知らなかった。

 

(3-6) ベルベル文字

Beruberu

アラビア語が主流の
北西アフリカで生き続ける文字で、
貴族階級の女性たちが守り伝えたとされる。

国民の3割がベルベル人のモロッコでは
2011年にこのベルベル語も公用語になったらしい。

 

世界の文字の話、もう少し続けたい。

 

 

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2016年9月18日 (日)

文字の博覧会 (2)

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文字の博覧会 (2)

- 上下左右なし、鏡文字もOK -

 

「文字の博覧会」
からの報告の2回目。

前回、多彩な文字を持つ
東南アジアの文字から紹介を始めたら、
実際にタイに住んでいた方から、
近隣諸国訪問時の印象も含めて、
丁寧なコメントをいただいた。

実感を伴ったコメントは、
ほんとうにうれしい。

というわけで、
もう少し東南アジアの文字を見てみたい。

参照するのは、当日のメモと前回に引き続き
パンフレットとして売られていた

(以下、水色部と文字の写真は
 上記の本からの引用)

今日は、タイ文字から見てみよう。

 

(2-1) タイ文字

Tai

タイ語はシナ・チベット語族に属し、
一語が一音節から成り、
声調(中国の四声のような上下アクセント)を
持っている。

古いクメール文字を基にした
インドのブラーフミー系の文字。

声調記号なども導入して工夫されている。

「これは読みません」
「この後は余りに長いので略します」

といった記号もある

なんという記号だろう。
「読みません」をわざわざ書くなんて。

文字のページではなく、
タイ語のページで調べてみると、
これは、タイ語にインド系の語が多いことと
深く関係があるようだ。

インド由来の単語が
 「発音」はタイ語っぽく変化、
 とろこが「綴り」はもとのまま。
その結果、音と綴りに乖離が生じ、
英語knife(ナイフ)のkのようなサイレント文字や
「読みません」をわざわざ書く「黙示符号」が
登場してきたらしい。

他にも、Wikipediaで「タイ文字」を見ると、
「詩の節のはじまり」を表す文字、
「詩の節や章の終わり」を表す文字、
「文書や物語の終わり」を表す文字、
なども「文字」として存在している。

「音」以外の視点の違いは新鮮だ。

 

(2-2) マンヤン文字

Manyan

フィリピンの公用語であるタガログ語は
ラテン文字で記すが、
ミンドロ島のハヌノオ・マンヤンは、
独自の言葉と文字を守り続け、
竹片に小刀で文字を刻んでいる。

上下左右に決まった向きはなく、
左利きは左右反転した文字を書く

上下左右の向きもなく、
左利きの鏡文字もOKとは。

本を上下左右4人ではさんで、
四人同時に読めるということだろうか?

そういえば、
フィリピンについては、
こんなエピソードも添えてある。

 マゼランは
1521年にフィリピンに上陸し
まもなく殺されるが、
彼に随行した宣教師はフィリピンでは
各島それぞれに文字があると
驚きを持って書き記している


その後のスペイン支配下で
このことは全く忘れ去られたが、
19世紀に、独特の文字を持つ
山岳少数民族が発見された。

その文字がなんと
マゼラン一行が記録した文字と似ているという。

私は、古代文字を
守り続ける人たちに会いたくなった。

しかし、
フィリピン平地人からは
尻尾があると信じられているくらい、
隔絶された山岳民であった。

 

(2-3) シャン文字

Syan

ミャンマー東部のシャン族の文字。
仏教説話の一部。
この資料、ご覧の通りとにかく筆跡が美しい。

 

インド方面に目を移してみよう。
まずは公用語のこの文字から。

(2-4) デーヴァナーガリー文字

Deva

「都会の文字」を意味するナーガリーに
デーヴァ(神)を冠して呼ばれるようになり、
サンスクリット語の写本に用いられて
広域に伝播した。

現在、インド連邦の公用語は
デーヴァナーガリー文字で表記された
ヒンディー語
と定められている。

デーヴァ・ナーガリー文字と読むと読みやすい。

ヒンディー語だけでなく、
ネパール語もこの文字を使っている。

 

(2-5) グルムキー文字

Gurumuki

16世紀、インド北西部の
パンジャーブ地方にシク教が興り、
第2代グル・アンガドは、
初代グル・ナーナクの教えを正確に
民に伝えるためにグルムキー文字を創製した


グルムキーは
「グル(最高指導者)の口」の意である。

それまでこの地方のパンジャーブ語を
表記していたランダー文字は

「書いた人以外には絶対読めないのが唯一の欠点」

といわれた不完全な文字
で、
グル・アンガドはランダー文字や
デーヴァナーガリー文字を改変して
文字を作ったとされる。

前身のランダー文字とはどんな文字だったのだろう。
「書いた人以外には絶対読めない」って
そもそも文字と言えるのだろうか?

「唯一の欠点」という表現が笑える。

 

(2-6) オリヤ文字

Oriya

インド東部のオリッサ州で話される
オリヤ語を表すオリヤ文字は、
北方系のデーヴァナーガリー文字と
同系列に属する。

しかしその形状は中西さんが

「坊主頭が並んだようで一度見たら忘れられない」
 
と言う通り、上部がすべて丸く、
文字に水平の直線は一つも現れない。

「坊主頭が並んだよう」の表現はぴったりだ。

そしてその理由として、
この地域が熱帯雨林地帯でヤシが多く、
貝葉(ヤシの葉)に鉄筆で刻み、
墨を入れて文字を記したため、
横線を引くと葉が裂けたのであろう、
と推測している。

前回のビルマ文字同様、
葉に書くことが、文字の形に影響しているようだ。

 

世界の文字の話、もう少し続けたい。

 

 

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2016年9月11日 (日)

文字の博覧会 (1)

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文字の博覧会 (1)

- ビルマ文字が丸くなったのは -

 

文字の博覧会
- 旅して集めた
 “みんぱく”
 中西コレクション - 展

P8275602s

を8月下旬、
東京京橋のLIXILギャラリーで観てきた。
(ちなみに、"みんぱく"とは
 国立民族学博物館のこと)

まさに世界の文字だけを並べた博覧会。
「中西コレクション」とあるように
文字を集めたのは
中西亮(あきら)<1928-94>さん。

中西さんは、
25年の間に100を超える国々を自らの足で回って
95種類の文字を集めた
世界でも稀有な文字ハンター。

その収集資料は、現在
「中西コレクション」として、
国立民族学博物館に収められている。

今回の博覧会は、
3,000点近くのコレクションから
約80点が選ばれて展示されていた。
規模は小さかったが、見応えは十分!

見る方も、集中力が持続できるので、
このくらいの規模のほうがかえって見やすい。

 

世界中には数千の言語があると言われているが、
使われている文字の種類は驚くほど少ない。

パンフレットとして売られていたこの本

によると、わずか「約40種」

中西さんが社長をつとめていた
中西印刷のページでは、

ひとくちに現用といっても、
「実際に使われている」かどうかを判別するのは
なかなか困難です。

文字というのは案外簡単に創作できてしまいますし、
民族的な理由や宗教的な理由から
特殊な文字がわざと使われる場合もあります。

ここでいう現用とは
「日刊の新聞が発行されている」

という基準をとりました。

と述べて、現用文字は28種と言っている。

現用文字だけでなく、
歴史的に滅びてしまった、
使われなくなってしまった文字を入れても
300種程度しかないと言う。

そのうち95種を集めたというのだから、
中西さんのコレクションがいかにすごいものかは
それだけでもよくわかる。

今日は、この博覧会から、
目に留まったものを幾つか紹介したい。

(以下水色部と文字の写真は上記の本
 「文字の博覧会」からの引用。
 展示の説明書きにも同じ文章が
 使われたりもしていた)

現在、地球上で使われている
ほぼ全ての文字が
アジアに集まっている。

と書かれているほど、アジアの文字は多彩だ。
まずは、これをご覧あれ。

 

(1-1) ビルマ文字

Birumaa

特徴的なのは文字の形。
どうしてこんなに丸いのだろう。

ビルマ文字に限らず、
文字は、書く媒体や筆記具に
かなり依存する。

つまり、何に何で書くか、にヒントがある。

多羅樹(たらじゅ)という
ヤシの葉に文字を書くため、
直線的な文字では葉が裂けやすいことから
変形していき、独特の丸い文字になったと
考えられる。

 

一文字一文字については、
こんなおもしろいエピソードもある。

ビルマ文字は
○の上下左右の切れ目で発音が変わる。

(〇の上空き)∪が「パ」、
(〇の下空き)∩が「ガ」、
(〇の右空き)Cが「ンガ」、
(〇の左空き)が数字の1。

ミャンマーからの留学生が
日本で目の検査を受けた時、
ついこれを読んでしまったという話がある。

 

ところでこのほんとうによく似た文字の列、
すらすらと読めるなんてちょっと不思議だ。

その文字を使わない外国人には、
「同じ字に見えてしまう」ことについて、
日本語でのたいへんわかりやすい例

挙げてあったので、それを添えておきたい。

ビルマ文字は活字をもってしても見極めが難しく、
日本人の目には全て同じ字に見えてしまう。

外国の人に
街頭の「ガソリン」という看板を見て、
あれがどうして読めるのだと聞かれたことがある。
彼らにしたらソリンは同じ文字に見える
というのだから、それと一緒なのだろう。

 

この文字は、仏教経典でよく使われる
パーリ語という専用言語にも使われているらしい。

 

(1-2) ラオ文字

Raoa

ラオスで使われているラオ文字。

この文字の前で思わずメモってしまったのは、

文字はすべて子音字
母音、声調は付加記号で示す。

という説明書き。

「すべて子音字ってどう読むの?」
と思ってしまうが、
ヘブライ文字のところにも、
アラム系文字は子音字のみなので、
 読むときは文脈に応じて母音を補う」
とあった。

 

(1-3) クメール文字

Kumerub

中西さんが、世界の文字の魅力にとりつかれる
きっかけとなったカンボジアの文字。

アンコール時代より
文字の上に波型の飾りを付けて
荘厳味を持たせるようになり

これが現代のクメール文字の鉤形として残り、
外見上の特徴となっている。

 

まだまだおもしろい文字はいっぱいある。
世界の文字の話、もう少し続けたい。

 

最後に、
文字の博覧会とは全く関係ない話をひとつ。

先日、こんな写真がtwitterで回ってきた。
「ニューヨークで見かけたツ」と紹介されていた。

Newyorktsu

日本人が見ると
どうしても「ツ」が先行してしまうが、
「ツ」を忘れるようにして見ると、
なるほど、コメディアンのドヤ顔というか、
顔文字の笑顔が見えてくる。

アメリカ人には「ツ」が見えない分、
笑顔が見えているのだろう。

上に書いた「ガソリン」の話で思い出した
おまけの一枚。

 

 

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2016年9月 4日 (日)

箱根関所

(全体の目次はこちら


箱根関所

- 大工の棟梁が原文を読んだ理由 -

 

今年の夏休みは「箱根」を楽しんできた。

P8115367s

小田急の箱根フリーパスを使ったので、
3日間、エリア内の乗り物が乗り放題。
車の運転ゼロでの箱根は初めてだ。

登山鉄道、バス、ケーブルカー、

P8105271s

ロープーウェイ、芦ノ湖海賊船、

P8115310s

行ったり来たり自由自在。
乗り放題なのは気軽でうれしい。

今回は中年夫婦ふたりでの小旅行だったが、
小学生くらいの男の子を連れて行ったら、
それはそれは喜ぶことだろう。
(ロープーウェイにはしゃぐ私に、
 「ここに大きな小学生がいる」
 と妻は笑っていたが)

P8115305s

火山活動により
一時運休していたロープーウェイも全線再開。

P8115303s

ただ、火山活動はまだまだ活発で
ロープーウェイから見下ろす大涌谷は、
硫黄(というか正確には硫化物)の臭いが
ものすごく、
乗客には厚手の濡れおしぼりが
「マスク代わりに使って」と配られていた。

P8125435s

 

さて、今回訪問した中で、
予想外に(?)たのしめたのは、
「箱根関所」と「資料館」。

P8115393s

思わずメモってしまったネタを
パンフレットや公式ホームページの情報で
補強しながら、
整理を兼ねて記しておきたい。

 

【入鉄砲はどこ?】
関所と言うと、
学校で習ったこの言葉が最初に浮かぶ。
「入り鉄砲と出女」

「入り鉄砲と出女」は、
どんな風に監視されていたのだろう。

正徳元年(1711)に幕府道中奉行が
箱根関所に出した5項目の取調べ内容を
見てみよう。
「御制札場」に掲げられている。

1. 関所を通る旅人は、
  笠・頭巾を取り、顔かたちを確認する。

2. 乗物に乗った旅人は、乗物の扉を開き、
  中を確認する。

3. 関より外へ出る女(江戸方面から
  関西方面へ向かう女性:出女)は
  詳細に証文と照合する検査を行う。
 
4. 傷ついた人、死人、不審者は、
  証文を持っていなければ通さない。

5. 公家の通行や、大名行列に際しては、
  事前に関所に通達があった場合は、
  通関の検査は行わない。ただし、
  一行の中に不審な者がまぎれていた場合は、
  検査を行う。

あれ? 何度読んでも
「鉄砲」についての記述が
どこにもないじゃないか


資料館の解説によると
全国にあった53の関所のすべてが
入鉄砲と出女に
目を光らせていたわけではなく、
関所によって取締まり項目が違っていたらしい。

そうだったンだ。
そんなことすらここで初めて知った次第。

 

【関所の復元】
今、関所跡に行くと、
江戸時代の関所が見事に復元されている。

P8115381s

柿渋と松木を焼いた煤(すす)を混ぜた
「渋墨(しぶずみ)」で黒く塗られた建物群は、
一見の価値がある。

この復元は、
江戸時代末期に行われた
箱根関所の解体修理の詳細な報告書である

  相州御関所 御修復出来形帳
  (慶応元年:1865) 

が、静岡県韮山町(現伊豆の国市)の江川文庫から、
1983年に発見されたことが、きっかけだったらしい。

この「出来形帳」、
とにかく記述が詳細だった。

 たとえば、材料の寸法については
「六尺三寸弐分」などと
細かく「分」の単位(1分=3mm)まで
記されているだけでなく、
金物の寸法、使用される釘の本数、
石垣の高さや長さ・位置などが
広範囲にかつ、こと細かに記されていた。

 それを、大工の棟梁は、
古文書解読に長けた研究者によって
現代の漢字に直された
「読み下し文」で読むのではなく、
常に、原文の複写を
直接読むようにしていたと言う


なぜなら、こうすると

「出来形帳」を記した
人の気持ちや時代背景が
古文書を通してよく伝わってきて、
復元工事にも力が入った


からだという。
いい話だなぁ。

こんな話を聞くと、
復元された建物を見る方も
おもわず力が入ってしまう。

 

【土台の光付け(ひかりつけ)】
礎石の上に、木材の土台や柱がのるのが、
日本の建造物の基本形だが、
礎石は石ゆえ、表面はデコボコしている。
このデコボコの石に
木材をピッタリと取付ける加工技術が
光付け(ひかりつけ)


厩(うまや)の土台は、こんな感じになっていた。
礎石の凸凹具合と、土台の木材の凸凹具合が
ピッタリと一致していることにご注目あれ。

P8115398s

石の上部に石灰を撒き、
木材と石との密着具合を確認しながら
石にピッタリと合う面を削りだしていく。

型を取っての加工ではなく、
石灰の付着を見ながらの加工は
3,4日かかるとのことだが、
それだけでここまでピッタリ密着できるなんて。

資料館では、柱の例がビデオで流されていた。
ちゃんと加工が終わると、
長い柱も一切の支えなしで
デコボコの礎石の上にまっすぐに立つと言う。

P8115377s

 

【栩葺(とちぶき)屋根】
土台部分の光付け(ひかりつけ)と同様、
ぜひ見ておきたいのは
屋根の栩葺(とちぶき)。

一枚一枚、職人が丸太から
木材の繊維の方向に沿って割った板は、
杉の赤身で、
幅が4~5寸(12cm~15cm)、
長さが1尺4寸(42cm)。

2寸4分(7.3cm)ずつずらしながら
腐食に強い竹釘で打ち付けていく。

P8115391s

 

一坪(1.8m×1.8m)で使用される
屋根板は370枚ほどにもなるらしいが、
重ねにより生成される段々の形状は
ほんとうに美しい。

P8115410s

 

小さな資料館だが、
教科書的説明や復元話のほかにも、
関所破りの話やら、
享保13年(1728)に、
将軍に献上された象が通った話やら
(あんな重いものを
 どうして陸路で運んだのだろう?)
小ネタもいろいろ楽しめる。

光付け(ひかりつけ)や栩葺(とちぶき)などなど、
予備知識ありで見ると
復元建物をより細かく見られるので、
訪問時には、

「資料館」⇒「関所」の順

で見ることをお薦めする。

 

 

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2016年6月 5日 (日)

「政府」だけでは国にならない

(全体の目次はこちら


「政府」だけでは国にならない

- アフリカの国々の独立 -

 

前回に引続き、
4月から放送中のNHKカルチャーラジオ
歴史再発見「アフリカは今 カオスと希望と」

のテキストを中心にアフリカの歴史と今を
もう少し見てみたい。

講師はジャーナリスト松本仁一さん。

(以下水色部、テキストからの引用)

繰り返しになってしまうが、
前の回、最後の部分から始めたい。

【原住民の部族を無視した国境】

国境線はあるところでは
一つの部族の居住地区の真ん中を突っ切り
二つの国に分断した。

勝手な国境線はまた、
利害の相反する複数の部族を
一つの国の中
に取り込むことになった。

一部族の強制的な分断と、
複数部族の強制的な一国化。
これではひとつの国として、
まとまるはずがない。

しかも、
列強の植民地が並んでいたアフリカは、
再立国のまたとない機会
「独立」に際しても、
部族を無視した国境線を
そのまま維持してしまった。

 

【ナイジェリアの例】

 たとえばナイジェリアだ。

英国領のナイジェリアは、
北部イスラム系住民と、
南部キリスト教系住民を
囲い込んだ植民地だった。

独立に際して英国は、
その異なる文化の地域を分けることなく、
ひとつの国境のままで独立させた


分離すると、
北に接するフランス植民地に
とられてしまうかもしれないと危惧したためで、
植民地を独立させた後も
影響力を残しておきたいという計算からだった。

当然のように
内部紛争にもとづく戦争(ビアフラ戦争)が勃発。

現在も北部住民と南部住民の間には
深い溝が残り、国家的統合は進まない

もちろんナイジェリアだけではない。

 

【モノモタパ王国も】

1000年の栄華を誇った
モノモタパ王国はどうなったか


(中略)

1923年、
モノモタパのあった南部と、
別な部族の住む北部をひっくるめて
英領ローデシアとなる。

1980年にローデシアは独立し、
ジンバブエとなったが、
国境は英領時代のままだった。

モノモタパ系の住民は人口の二割。
北部住民は七割。
それが一つの国境線でくくられた


北部の代表者がつねに選挙で勝利し、
自派だけに利益を誘導した。

政治は腐敗し、産業が崩壊した。
インフレ率が数兆パーセントという
破滅的な状況に落ち込み、
国家は崩壊してしまった

「勝利が確定している」ことによる
恒常化した利益誘導。
腐敗は止められないものなのだろうか。

 

【植民地支配、そして独立】

 アフリカ各地に自然発生的に生まれた国家は、
武力を背景にした
西欧帝国主義のためにつぶされた。

それから数百年して独立は達成されたが、
植民地勢力が
勝手に引いた国境線に囲まれた国々は、
かつての王国とは似ても似つかぬものだった。

植民地支配からの独立における問題点。
もちろんそれは、国境線だけではない。

 

こんな例もある。

英国の慈善団体が「善意の行為」として
英国の奴隷を解放し、アフリカに返す、
というアクションを取った。

解放奴隷が住みついた町が、
(シエラレオネの)フリータウン。

【シエラレオネの内部差別】

 シエラレオネは1961年に独立する。
しかし近代型の国家を
作り上げることができなかった


移住した英国系黒人が
先住の現地黒人を差別支配したからだ。

黒人による黒人差別だった。
国民同士が対立し、
同じ国民としての一体感が欠けたまま、
「政府」と「国家」だけができる。

奴隷とはいえ、英国で育った人たちは、
読み書きや車の運転などの技術を身につけており、
アフリカの先住民より
かなり優位な立場にあったようだ。

しかも、アフリカに返されたとはいえ、
解放奴隷にとって、フリータウンは
生まれた町でも育った町でもない。

そのうえ、シエラレオネには、
巨大なダイヤ利権がある。

結局、権力者は、その利益を私物化し
一族で山分けすることに走ってしまった。
国造りではなく、ダイヤ利権の奪い合いが、
独立後の歴史になってしまっている。

 

* 元から住む部族を無視した国境線
  それによって引き起こされる部族間の対立
* 解放奴隷による先住民の差別
* 権力者による利権の私物化

講師松本さんの話に驚きながら、
3回に分けて見てきた
これらの問題点の他にも
よく報道されているように、
貧困、差別、飢餓、
警察をはじめとする
国家機能の正常化、などなど
アフリカには問題が山積みだ。

「独立だ!」と言って
「政府」だけを作っても、
ひとつの国にはならない。

 

 

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2016年5月29日 (日)

国境線の持つ意味

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国境線の持つ意味

- 国の境になるべきものは -

 

前回に引続き、
4月から放送中のNHKカルチャーラジオ
歴史再発見「アフリカは今 カオスと希望と」

のテキストを中心にアフリカの歴史と今を
もう少し見てみたい。

講師はジャーナリスト松本仁一さん。

(以下水色部、テキストからの引用)

前回書いた通り、
かつてアフリカで繁栄していた
ガーナ、マリ、モノモタパ、
などの王国は、どこも
治安の維持された安定した国家だった。

それが、どうして、
現在の混乱したアフリカの国々に
繋がっていくことになるのだろう?

【アフリカにあの男が到着】

1497年、
ポルトガルの航海者パスコ・ダ・ガマ
インド航路開発のため
二隻の艦隊でリスボンを出発し、
喜望峰を回ってインド洋に出た。

アフリカ東海岸で最初に寄った港は、
今のモザンビークのソファラだと見られている。

ガマが寄港したソファラ。
そこで彼が見たものは。
そこで彼が受けた扱いは。

 

【みすぼらしいポルトガルの船】

当時のソファラ港はモノモタパ王国の支配下にあり、
アラブ人商人と交易して栄えていた


ガマはポルトガル国王にこう報告している。

「われわれが入港すると、回りには倍以上もある
 大型のアラブ船が何隻も停泊していた。
 われわれの船はみすぼらしいほど小さかった

 黒い人々は、
 故国ポルトガルよりはるかに洗練された街に住み、
 豊かな生活をしている

ポルトガルの船がみすぼらしく見えるほどの
活気ある港。
ポルトガルより洗練された豊かな生活。
欧州に比べて、遅れているどころか
ずっと進んだ国だったのだ。その時は。

 

【野蛮な異国人扱いのポルトガル】

ガマは港の役人に、水と食料の購入の許可を求める。
しかし港の役人はちっとも来ない。
さんざん待たされてやっと役人が乗船してきた。

「役人は青い絹の服、絹の帽子を身につけ、
 堂々とした態度だった。
 われわれが贈り物を差し出すと、
 中を改めもせず後ろの召使にやってしまった。

 われわれは野蛮な異国人として無視された

 

【平和に続いていたアラブとの交易】

 アラブとの交易は、
長年にわたって平和的に続いていた


その交易で大きな富を蓄えていたアフリカの王は、
西欧のみすぼらしい船など相手にもしなかったのだ。

アラブとの平和な交易で栄えていた港。
「みすぼらしい」船から、
それを初めて見たガマは、
その後いったいどうしたか?


なんということか...

 

【ポルトガルの二度目の訪問】

 しかしポルトガルは、
次回は20隻に上る大艦隊を送る。
艦隊には100門もの大砲が積み込まれていた

モザンビークは
その武力攻撃の前になすすべもなく屈服し、
占領支配される。

以後5世紀にわたって植民地支配を受けるのである。

 モザンビーク以外の他の王国も同じ運命をたどる。
そしてポルトガルのあと、
ドイツやフランス、イギリスが続いた

ついに始まる西欧の植民地支配。

ただ、ここで注目すべきは、
植民地における入植者の支配そのものではなく
「国境線」。

【勝手に引かれる国境線】

 植民地支配の時代、西欧列強は地勢や気候、
そこに住む人々の生活などと関係なく

自分たちの力関係でアフリカに国境線を引いた。

ひとつの例として、
東アフリカのケニアとタンザニアの国境を
見てみよう。

インド洋から北西に
まっすぐ伸びた国境線(下図紫色の線)が
キリマンジャロ山の手前で
急に北にカーブしてクランク状となっている。

Kenya1

 

【ケニアとタンザニアの国境】

 この奇妙な国境線は、
1884年11月に開かれたベルリン会議で決まった。

ベルリン会議というのは、
欧州列強によるアフリカ分割の会議で、
翌85年2月まで3か月以上も続いた長い会議である。

その長い会議期間中に、
ドイツ皇帝のウィルヘルム二世が誕生日を迎えた。

英国のビクトリア女王が
誕生祝いに何が欲しいか尋ねる。
すると皇帝は
「万年雪のある山を一つ分けてもらえないか」
と答えた。

 当時、英領ケニアには
万年雪をかぶった山が三つあった。

キリマンジャロ山 (5895メートル)、
ケニア山 (5199メートル)、
エルゴン山 (4321メートル) である。

ケニアの南隣りのタンザニアに
万年雪のある山はなかった。

 ビクトリア女王は
「そんなものでいいの?」と気軽に承諾し、
一番南にあるキリマンジャロ山を
独領タンザニアにプレゼントすることにした。

それで国境が
不自然に曲がってしまったのである。

それから130年余がたった。
ケニア、タンザニアの両国は独立したが、
国境はまだ曲がったままだ。

そこに住む部族を全く考慮しない国境線。
それは何を生むことになるのか。

【原住民の部族を無視した国境】

両国の国境は住民の生活の都合などと関係なく、
英独の力関係だけで決まった。

国境線はあるところでは
一つの部族の居住地区の真ん中を突っ切り
二つの国に分断した。

勝手な国境線はまた、
利害の相反する複数の部族を
一つの国の中に取り込むことになった

一部族の強制的な分断と、
複数部族の強制的な一国化。
これでは国として「ひとつ」に
まとまるはずがない。

部族と国境線の話、
もう少し続けたい。

 

 

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2016年5月22日 (日)

かつてのアフリカの王国

(全体の目次はこちら


かつてのアフリカの王国

- 不正を憎む規律正しい国々 -

 

以前、アフリカは大きい
アフリカがいかに巨大か、
アフリカの国の名前を
私自身がいかに知らないか、
を書いたが
その程度のことでも驚いてしまうくらいなので、
歴史となると
それこそ情けないくらいに何も知らない。

4月から放送中のNHKカルチャーラジオ
歴史再発見「アフリカは今 カオスと希望と」

は、そんなアフリカ無知の私にとって、
あまりにも強烈な内容だったので、
思わずテキストまで買ってしまった。

(以下水色部、テキストからの引用)

歴史や地理の話に限らないが、
基礎知識がない分野というのは、
固有名詞の語彙が極端に狭い。
固有名詞を知らないと、音だけは
「えっ?今の何?」と何度も躓いてしまう。

正しい固有名詞があるだけでも、
再確認や再検索の負担はかなり軽くなるので、
テキストがあるとおおいに助かる。

今も週一回のペースで放送中で、
6月末まで続く全13回にわたるシリーズだが、
これまで聴いた中から一部を紹介したい。

講師はアフリカでの取材経験が豊富な
ジャーナリスト松本仁一さん。

 

米国のシンクタンク「平和基金会」は
毎年、いくつかの指標ごとに
点数をつけて崩壊国家の順位を発表しているが、
2013年の崩壊国家ランキングでは、
ワースト20の内の15カ国が
アフリカの国
になっている。

なぜ、
崩壊国家だらけになってしまったのだろうか?

なぜ、治安を維持できない、
混乱した状態になってしまったのだろうか?

混乱の原因に触れる前に、
まずは、かつてアフリカにあった
安定した国々の話から始めたい。

 

【14世紀ごろの「32」の王制国家】

アフリカでは
9世紀ごろから王国が形成されはじめ、
14世紀ごろには大きなものだけでも
32の王制国家があった


そのいずれもが
きちんとした社会ルールを持ち、
正義を基盤とした規律ある国家運営をしていた

32もの王制国家があったらしい。
歴史上のアフリカ国家、
いくつ名前が思い浮かぶだろうか?

 

【ガーナ王国】

1067年、
アラブ人地理学者エル・ベクリが著した 
『北アフリカ誌』には、
ガーナ王国は8世紀ごろから栄えたと、
次のように書かれている。

「ガーナの国王は
 20万人の兵士を動員することができ、
 そのうちの4万人は弓矢で武装している。

 国家財政は、
 ここで取引される塩や金に対する課税で
 支えられる。

 王は異教を信じているが、
 大臣や官僚にはイスラム教徒が登用されている」

「王国の版図は、
 西はセネガル川、東はニジェール川に及ぶ。
 採れた金のうち、金塊は王の所有に属したが、
 砂金は自由な処分に任されている」 
 (山川出版社 『アフリカ現代史Ⅳ』)

 日本でいえば平安後期。
藤原道長が没し、
平家と源氏の隆盛が始まるころだ。
そのころアフリカにはすでに、
活気ある王国が成立していたのだ。

20万人もの兵を動員でき、
税と官僚組織も備えていたガーナ王国。

 

【マリ王国】

 アラブ人歴史家の
イブン・ハルドゥーンが残した記録によると、
13世紀ごろから現在のトンブクトゥを中心に
マリ王国が形成され、
14世紀初期、マンサ・ムーサ国王のときに
最盛期を迎えた。

マリ王国の繁栄は
ガーナ王国をはるかにしのぐものだった。

1324年、ムーサ王はメッカに巡礼する。

王の大行列は、往路、
エジプトのカイロを通過した。
その際、
行列を見物する人々に大量の金の粒をばらまく
そのためカイロの金相場が下落して大騒ぎになった。

 この事件で、
マリの繁栄は西欧にも知られることになり、
西欧の世界地図にマリが描かれるようになった。

文化人類学者の川田順道民は、
このときムーサ王が携行した金は
13トンに及ぶと推定する 
(山川出版社『黒人アフリカの歴史世界』)。

単純に今のレートで換算すると
13トンの金は500億円をはるかに超す。
金13トンを持って旅したマリの王様!

トンブクトゥには、
2つの大学、
180のコーラン学校があり、
学生の数だけでも2万人を数えたと言う。
キャラバンサライ(隊商宿)が軒の連ね、
職人や商人が町にあふれていた。

【マリ王国の規律と治安】

当時、世界的に有名だった
アラブ人紀行家イブン・バトゥータは
1353年、マリ王国を訪れて半年も滞在した。

その体験を、
後にイブン・ジュザイイに口述筆記させた
『旅行記』でこう述べている。

「マリの王は規律正しく国を治めている。
 王国の黒人たちの資質はすぐれており、
 彼らは他のどの民族よりも不正を憎んでいる

 王はどんな小さな悪に対しても厳しい。
 旅行者も居住者も、
 泥棒や暴漢の心配をする必要はなく、
 治安の問題はまったくない

「マリの国内で外国人が死んだとき、
 その財産がいかに莫大であろうと、
 没収されるようなことはない」 
(山川出版社『アフリカ現代史Ⅳ』)。

 日本の南北朝時代、足利尊氏のころだ。
そのころ世界に覇を唱えていた
イスラム社会の紀行家が感心するほど、
整備され、安定した王国がアフリカにできていた

「他のどの民族よりも不正を憎んでいる」
「治安の問題はまったくない」

講師の松本さんは、
「国家と治安」の関係を、
このあとも何度も何度も強調する。

国家に要求される最大の使命は、
治安を守ることだ、と。
民主的な政治システムなどというのは、
そのあとの課題だ、と。

 

【東アフリカには】

一方の東アフリカ。
19世紀、インド洋岸から
奥地に探検に入った西欧の探検家たちは、
海岸から約800キロ内陸に、
石造りの遺構を見つけた。

探検家たちはずいぶん面食らったようだ。

黒人は泥と草の家しかつくれない、
黒人に石造りの建物は作れないと
思いこんでいたからだ。

そのうち一人は、大真面目に報告した。
「われわれはついに
 シバの女王の都を発見した」

旧約聖書に登場するあのシバの女王??

【ジンバブエ遺跡:モノモタパ王国】

 それがジンバブエ遺跡だ。
ジンバブエの首都ハラレから南へ約300キロ、
第二の都市マシンゴ郊外の山の中にある。

遺跡は丘と谷の起伏を利用して、
1キロ半四方に広がっている。

 建築の素材は、
レンガ大に切りだした花崗岩だ。

何百万個という石を丹念に積み上げ、
見上げるほどの高さのある石壁を
つくりあげている。

石積みには、
アラブやインドの遺跡で見られるモルタル、
粘土といった接合剤をいっさい使っていない

同じ大きさの石を積み上げただけで、
高い尖塔やカーブした壁がつくられている。
「エンクロージャー」(大囲壁)と呼ばれる建築物は
王の宮殿跡とされる。
長円形で東西約100メートル、南北で70メートル。

その石壁の中にまた石壁の囲みがあり、
間を迷路のような通が走っている。
その道はすべて石の舗装だ

建物と建物をつなぐ回廊もすべて石造りだ。

この石都市モノモタパ王国の隆盛は
9世紀から19世紀まで、1000年にわたって続いた。

石造りの技術だけでなく、
もちろん財源も確保していたようだ。

【金を目方も量らずに・・・】

モノモタパの民はインド洋岸の港町に現れ、
アラブ人商人に
「金を目方も量らずに与え、
 代わりに色つきの布を得て帰って行った」という。

その金の鉱脈はどこにあったのか、
今ではまったく分からない。

 

ガーナ、マリ、モノモタパ、
どの王国も、
治安の維持された安定した国家だった。

それがどうして、
現在の混乱したアフリカの国々に
繋がっていくことになるのか。

長くなってきたので続きは次回にしたいが、
一節のみ、予告の文章を。

1497年、
ポルトガルの航海者バスコ・ダ・ガマは
インド航路開発のため
二隻の艦隊でリスボンを出発し、
喜望峰を回ってインド洋に出た。

アフリカ東海岸で最初に寄った港は、
今のモザンビークのソファラだと見られている。

 

アフリカの歴史に登場する西欧列強。
かれらがアフリカに対して何をしたのか、
今のアフリカの問題点の原点はそこにある。

 

 

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