歴史

2019年1月 6日 (日)

初めての中国・上海 (6)

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初めての中国・上海 (6)

- 見下ろす景色と豫園と -

 

すでに6日も経ってしまいましたが、
あけましておめでとうございます。

=========
安倍首相、
新元号は「4月1日公表」と正式発表
=========
なる見出しが「産経ニュース」で流れ、
それに対して
「えっ! 新元号って
 『4月1日公表』っていう名前に
 なったっていうこと?」
と白々しい誤解のコメントで
ツイッターが盛り上がるのは
そんなにきらいじゃぁないのですが
その中に、
「読み方は、
 『わたぬききみひら』でしょ」
なるコメントがあって
さらに気に入りました。

四月一日になると
綿の入っている着物を脱いで
あわせの着物になる事から
四月一日(四月朔日)を
『わたぬき』と読むのだとか。

世界はいろいろなところから
広がるものです。

とまぁ、
自分自身への備忘録を兼ねた
ブログではありますが、
気ままに続けていきたいと
思っていますので、
今後ともどうぞよろしくお願いします。

皆様にとって素敵な一年となりますよう。

***************

というわけで(?)
前回に引き続き、
2018年11月、出張で行った
中国・上海で印象に残ったことを
写真を添えて紹介したい。
今日はその最終回。

 

仕事が終わって日本に帰る土曜日。
飛行機の出発時間までの半日、
上海観光をしようと思っていた。

すると、私が「上海は初めて」、
と言っていたせいか、
訪問先の会社の方のおひとりが
気を遣って下さり、
休日にもかかわらず、
「案内しますよ」
と言って来て下さった。

初めての国であっても、
自分であれやこれや悩みながら
観光することはちっとも苦ではなかったし、
自分ペースで回れるほうが
気が楽だと思っていたし、
なにより相手のお休みの日を
私のために使わせてしまうのは
申し訳なかったので、
一旦は丁寧にお断りした。

ところが、金曜日
私の固辞を忘れたかのように
「明日はどこに行きたい?」
とかなり積極的。
熱意におされて
今回は厚意に甘えることにした。

現地中国人による英語のガイド付き
半日ツアー、贅沢な時間だ。
こうなれば、逆に任せてしまおう。

土曜日の朝、
ホテルまで来てくれた彼が
最初に「行こう!」と
連れて行ってくれたのは、
黄浦江という川の東側「浦東エリア」。

高層ビルが多い地域の中でも、
特に目立っているビルのひとつ。
ここに上って、まずは上から眺めよう、
ということになった。

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展望台があるような高い塔やビルは
他にいくつもあるのに、
「ここは日本の森ビルが作ったンですよ。
 エレベータも東芝のもので
 すごく静かで速いンです」
と日本人が少しでも喜びそうな
日本に関連の深いビルを選んでくれる
その心遣いがうれしい。

91階のレストランを目指す。

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「上海環球金融中心」
2008年に日本の森ビルが
15年の歳月をかけて完成させた。
高さは494mもある。
日本一の「あべのハルカス」でも300mだ。

91階からの眺め。
正面の赤い玉を持つ塔は、
上海のシンボルタワー
「東方明珠塔」高さ462m。

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下の写真右側の高層ビルは
「金茂大厦88層観光庁」
高さ420.5m、88階建ての高層ビル

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前夜、金曜日の夜
こんなふうにライトアップされていた

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対岸のバンドエリアも
全景がよく見渡せる。

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川沿いのビルをライトアップすることは、
regulationで決まっているらしい。
照明の電気代も
税金で払われているのだとか。

79階から94階には5つ星のホテル
「パークハイアット上海」が入っている。
なんて高いところにあるホテルなんだ。
(値段も高いらしいけれど)

ここは、ホテルの朝食にも
使われているレストランゆえ
景色だけでなく雰囲気もいい。

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降りてくると、すぐとなりには
2016年に完成したばかりの
「上海中心(上海タワー)」。
高さはなんと632m!!
もう一度書く、
日本一の「あべのハルカス」でも300mだ。

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91階から頭部が見えていた
金茂大厦88層観光庁も
下から見るとこんな感じ。
竹をモチーフにした外観らしいが、
言われてみるとわからなくもない。

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近代的な超高層ビル群を
見たあとは、
川の対岸、
「豫園(よえん)」に向かった。

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豫園は
江南古典庭園の名園と称されるところだが、
まわりは豫園商城と呼ばれる
土産物屋が並ぶ
一大観光スポットとなっている。

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まずはチケットを買って
豫園(よえん)見学。

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入り口の門は小さいが、
見上げると石の彫刻がすごい。

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漸入佳境と呼ばれる遊廊。

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仰山堂からの庭の眺め。

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仰山堂は1866年に創建された。

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足元を見ると、
敷き詰められた石の模様が
エリアによって違っていておもしろい。

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くり抜き門が随所に見られる。

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石の配置に特徴のある庭園

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瓦にも細部まで手の込んだ施しが。

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屋根も独特な形状をしている。

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「龍壁」と呼ばれる塀。

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思わず写真を撮りたくなるが、
同行の中国人によると
再建時に観光用に作られたもので
もともと古くからあったものではない、
とのこと。


ガジュマルで作られた家具や彫刻のある
建物もある。

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池や遊廊との組合せも絶妙。

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内園と呼ばれる
7m四方の舞台を囲む空間。

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窓の格子も細かくて美しい。

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豫園を出ると、
同じトーンで作られた
巨大な土産物屋が目の前に迫ってくる。

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豫園の外ながら、隣接して建つ
「上海緑波廊酒楼」。
中国十大レストランの1つに名を連ねる
上海料理の名店だ。

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ちょうど季節ということもあり、
ここで有名な「上海蟹」を
食べることにした。

昼食時は予約ができないらしく、
受付で名前を登録して順番を待つ。
もちろんお知らせはスマホに来る。
なので、入り口付近でじっと待たずに
近くの土産物店をウロウロしながら
待つことができるのだが、
土曜日の昼時、園周辺は観光客で大混雑。
呼ばれてもサクサクと移動できないので、
ついつい入口付近で待つ人が多くなる。

ここで待っているとき、同行の中国人が
おもしろいことを言った。

「このお店は、
 観光地のベストロケーションにあるので
 観光客でいつも溢れかえっている。

 レストランの名店としても
 よく知られていて、
 大統領や王様級のお客様も来る。

 つまり商売としては大繁盛なのだが、
 お店はgovernmentがやっている。
 なので、お客様で大賑わいなのに、
 店員にはお客への笑顔がないンだ。
 見ててみて。
 笑わないから」

思わずその視点で店員を見てしまう。
なるほど、キビキビと動き、
事務的に忙しそうに働いてはいるが、
愛想笑いも含めて笑顔がない。

忙しくて機嫌が悪い、
というわけではないようだ。

笑顔がなくても、
対応自体が悪いわけではない。

上海蟹を頼むと、調理前の
数杯の蟹をザルに入れて持ってきて
「選べ」と言う。

もちろん私には選べないので、
同行の中国人に頼んでしまった。

「どこを見て選ぶの?」

会話が弾む。
2杯決定!

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しばらく待つと、
この状態で目の前に再登場。

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食べ方(解体の仕方)を
教わりながら初上海蟹。

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蟹を食べると皆静かになってしまうのは
洋の東西、というか国を問わないようだ。
手も汚れてしまったので
以降写真なし。
独特な甘みもあって
ほんとうにおいしい蟹だった。

 

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半日ではあったが、
ガイド付きの贅沢な観光終了。

丁寧に礼を言い、空港に向かった。

もし、彼が日本に来た時は、
ぜひともこの御礼をしたいと思うのだが、
さて、半日あったとして、
東京ならどこに案内しよう?

 

 

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2018年11月11日 (日)

オーストリア旅行記 (64) 同じ時代を生きて

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オーストリア旅行記 (64) 同じ時代を生きて

- 棒年表と6言語 -

 

2017年8月27日から1年3か月にわたって
続けてきた「オーストリア旅行記」も
今日で64回目。

ソフトウェアエンジニアとしても
区切りのいい数字(!?)となったので
前回の予告通り、旅行記としては
本記事にて最終回としたい。

ザルツブルクでの
サウンド・オブ・ミュージック・ツアーの
ことを書いた日々が妙に懐かしい。

 

(1) 同じ時代を生きた人々
言うまでもなくウィーンは音楽の都。
これまでこの旅行記本文に登場した
ウィーンゆかりの音楽家を
棒年表で並べてみた。
(数字は生年と享年。
 色は60歳までは20年区切り)

Musician_a

音楽家の名前は赤で。
音楽家以外でウィーンにゆかりのある人々も
黒字で一緒に並べている。
各人の棒の重なり具合を見てみると
どのくらい同時代を生きたのかが
よくわかる。

ちなみに生年の差、
つまり[何歳違い]かを入れて
並べてみると

   ハイドン
[24]
   モーツァルト
[24]
   ベートーヴェン
[27]
   シューベルト
[14]
   リスト
[14]
   ヨハン・シュトラウス2世
[ 8]
   ブラームス
[27]
   マーラー
[14]
   シェーンベルク

みごとに30年以下の間隔で
大作曲家が繋がっている。

 

(2) エミレーツ航空の
  お手洗いに貼ってあったステッカー


第1回の記事の中で、
エミレーツ航空のお手洗いに貼ってあった
赤いステッカーに触れた。

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このステッカーだ。

P7107599sas

6言語が並んでいながら
その中に英語がない。
なので、
いったいどんなことが書いてあるのか
さっぱりわからない。

英語がないということは
英語が読める人に対しては
「必要ないメッセージ」
ということなのだろうか?

だとしたら、
どんなことが考えられるだろう?

たとえば、イスラム教の人たちに
「ここではお祈りをしないで下さい」
とか。

 

本旅行記、
個人の小さなブログながら
書いたものを制限なく一般公開しているので
いろいろな方を
読者として迎えることになる。

そんな中、
このステッカーに興味を持ち
「何が書いてあるの?」と
ご自身のFacebookで問いかけて下さった
ありがたい方が現れた。

なんとうれしいことだろう。

すると、わずか数日の間に
70を越えるコメントがついた。

「インドの諸言語の文字かとおもいます。
 お力になれずごめんなさい」

というものももちろんあるが、

「一番上は5回くらい習得に失敗して諦めた
 アラビア語だと思います。
 語頭に定冠詞のalがついてるので」
などから始まり

「Alがあればあきらかにアラビア語ですね!」
と、どんどん展開。

「テキストデータに変換で一苦労。
‎يرحى الصعط علبى الزر لعسل داحل المرحاص بالماء
 」
と言いながら変換してくれる人まで登場。

「でもってGoogle翻訳」に。

 

結果はコレ!

Etrans_s

英語に翻訳された文の
ハニー(honey)が笑えるが、
意味のほうは、大きな(!?)期待に反して
「ボタンを押して水を流して下さい」
という超シンプルなものだった。

それでも、コメントは続いてゆく。

「ボタンを押して
 (トイレを)流してください。
 クラスメートのシリア人に聞きました」

スリランカ語で下記の意味
 『トイレ終わった後に
  以下のボタン押してください』」

「パキスタンからも返事がきました
 ウルドゥー(語)は、
 『(トイレを)使用後は
  ボタンを押してください、
  ありがとうございます』
 だそうです」

ヒンディー(語)
 「ほぼ同じ」だそうです」

ヒンディー語を英訳すると
「Press button for cleaning toilet」

結局まとめると、

 1 アラビア語
 2 ヒンディー語
 3 タミル語
 4 ベンガル語
 5 スィンハラ語(スリランカの言葉)
 6 ウルドゥー語

での記述と思われ、
こまかいニュアンスの違いまでは
もちろんわからないが、
大意はどれも同じようだ。

その後、コメント欄は
各国のお手洗い事情で盛り上がる。

「各国トイレ事情はけっこう面白いです。
 10年くらい前に都内で勤めていた
 日本語教育機関では、
 大量の使用済みトイレットペーパーが
 汚物カンから
 溢れ出ていたことがありました。

 また、洋式便器の使い方がわからずに
 便座の上に立って用を足してしまう女性
 珍しくなかったようです
 (よく靴の跡がついていたのでw)」

「15年前に勤めていた某国某大学では、
 旧校舎のトイレは
 一日一回まとめて流されていましたw


 日中うっかり下を見てしまうと、
 それはそれは
 色々なものが落ちていました(^_^;」

「ロンドンの学生寮(トイレ共同)では、
 インドパキスタン系の学生が使った後は
 便座がびしょびしょだったり
 トイレの床が水浸しになっていたりで
 (彼らはペットボトルを持ち込んで
  お尻を水で洗わないといけないので)、
 その問題で寮会議にまでなった事もw」

「マレーシアでちょくちょく見かけたのは、
 おそらく用を足してビデで洗ったときに
 ズボンがびしょびしょになり、
 そのまま歩いている人
です。
 いかにも、という部分が
 びしょびしょなのですw

 でも30分もすれば日光で乾くので、
 周りも特に凝視している人は
 いませんでした。」

「ドイツは硬水のため
 ウォッシュレットが
 普及していないそうです
 (壊れてしまうそうです)。

 日本も日本食も恋しくならないけれど
 ウォッシュレットはほしい
 今日この頃です」

 

これだけ実のあるコメントが
わずか数日で集まってくる
Facebookで問いかけて下さった方の
「人脈」に
感謝とともに驚きを禁じ得ない。

賢明なる読者に助けられ、
旅行記での宿題のひとつが
意外な形で片付いてスッキリ!
結果自体はシンプルなものだったが、
その過程は実にエキサイティングで
ワクワク感をおおいに楽しむことができた。
まさに同時代に、今この世界のどこかで
共に生きている人々の声は
ネットを通しても「生きている」。

 

そう言えば、コメントの中に
こんな言葉があった。

赤いステッカーについての
活気あるやりとりを
眺めていた人からのコメントだったが、
オーストリア個人旅行という
たったひとつのネタで
64回も書いてしまったこの旅行記
全体へのコメントのようにも
思えてしまったので、
「最後の言葉」として
そのまま引用させていただきたい。
(下記緑色部が引用)

長い間、
お付き合いありがとうございました。
旅行記は一旦終わりにしますが、
ブログの方は「はまめも」から
再開したいと思っています。

 

「がははー!!
 このネタ一つで、
 こんなに熱くなれるとは、素晴らしい!
 日常の小さな幸せとは、
 こんなものですかねぇ 笑」

 

オーストリア旅行記 完

 

 

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2018年11月 4日 (日)

オーストリア旅行記 (63) リンク通りに沿って

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オーストリア旅行記 (63) リンク通りに沿って

- 印象的な建造物の数々 -

 

ここ で書いた通り
ウィーン市街を囲むリンク通りは
ウィーンを取り囲んでいた市壁を
取り壊したあとに造られたもの。

1857年に宣言された
市の拡張計画で本格的に動き出している。

リンク通り回りの建造物については
これまで
「自然史博物館」
「美術史博物館」
「国立歌劇場」
「楽友協会」
などを採りあげてきた。

旅行記の最後に、
これまでの記事で紹介できなかった
特徴あるリンク通り回りの建造物を
まとめて紹介したい。

 

【ヴォティーフ教会】

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1853年2月18日、
この場所でフランツ・ヨーゼフ皇帝の
暗殺未遂事件が起こった。
皇帝の上着の金属ボタンが凶器を防ぎ、
無傷で生還。

神の加護に感謝を込めて、
皇帝の弟マクシミリアン3世の呼びかけで
1856-1879年に建設。
塔の高さは99m

フランスの大聖堂を手本にした、
ネオ・ゴシック様式の美しい姿は、
ウィーン大学を設計した
フェルステルが手がけた。

夕暮時の写真も一枚。

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【ウィーン大学】

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1365年にルドルフ4世によって創立された
ドイツ語圏最古の大学

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リンクに面した本館は、
人文科学が花開いた時代の様式である
ルネッサンス様式で、
19世紀後半に建てられた。

9人のノーベル賞受賞者を輩出した名門で、
約9万1000人の学生を抱えている。

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【ブルク劇場】

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ドイツ語圏はもちろん、
ヨーロッパの演劇界でも
最高レベル権威を誇る劇場。

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ハーゼナウアーがゼンパーと共に建てた
ネオ・バロック様式の装飾的な建物は、
1888年に完成。

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正面が弧を描いてリングヘ迫り出し、
左右に広がる翼は大階投となって
2階ロビーへ通じている。

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内部の華麗な階段の間には、
グスタフ・クリムトが
若い頃1888年に描いた天井画
『タオルミナの劇場』と
『ディオニソスの祭壇』があり、
後年の作風とはかなり異なる
擬古典派の作風が見られるようだが、
今回は残念ながら
中に入って見ることはできなかった。

劇場内部の
ガイドツアーもあるらしい。

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【市庁舎】

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ネオ・ゴシック建築の名手
フリードリヒ・フォン・シュミットの
傑作で、その後ドイツの市庁舎建築に
多くの影響を与えた。
1883年に完成。

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中央の塔の高さは98m。

近くのヴォティーフ教会の塔が
99mであることから、
この高さを超える建物は
皇帝の命で許されなかった。

そこで建築家シュミットは
市庁舎の塔の上に
高さ約5mの
市庁舎の男Rathausmannという
騎士像を載せて、
こっそり反抗したという逸話が残る。

 

広い前庭の市庁舎広場Rathausplatzでは、
夏には フィルムコンサート・フェスティバル、
11月中旬~12月には クリスマスマーケット、
1月下旬~3月上旬には 広いアイスリンクが登場する
ウィーン・アイストラウムなどが 開催される。

今回7月の訪問時には、
まさに映画関連のイベントが
開催されていた。

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【国会議事堂】

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ギリシャ風の壮大な建物に注目!

建物をも含めたリングの建設は
1860年代から70年代へと進むにつれ、
ますます装飾的になってくる。

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19世紀後半、折衷主義の代表者である
アテネ育ちの
テオフィル・フォン・ハンセンの代表作。

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民主主義発祥の地である
ギリシャの古典様式が
国会議事堂にふさわしいと採用され、
1883年に完成。

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8本の大列柱が並ぶ入り口の上には
ギリシャ・ローマの学者と
政治家たちの彫像が、
屋根の上にはギリシャの戦車が
飾られている。

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奥には市庁舎の塔も見える。

神殿のような列柱の前に立つのは、
英知をつかさどるアテナ女神像。

その足元の4人の像は、
当時ハブスブルク家の領土を流れていた
ドナウ、イン、エルベ、
モルダウの川を象徴している。

議会開催中以外は、内部をガイドツアーで
見学できるらしい。

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今日紹介した5つの大きな建造物は、
事実上リンク通りに沿って
「並んで」建っている。

なので、ひとつひとつは大きいものの、
順番に迷わず歩いてみることができる。

それぞれの様式があり、このエリア、
まさに生きた建造物の博物館のようだ。

 

あちこちに寄り道しながら、
63回にもわたって
気ままに書き続けてきた
オーストリア旅行記だったが
あともう一回書いて一区切りとしたい。

というわけで(?)、次回はいよいよ
オーストリア旅行記の最終回。

もう一回だけお付き合い下さい。

 

 

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2018年10月28日 (日)

オーストリア旅行記 (62) ホイリゲ(新酒ワイン居酒屋)

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オーストリア旅行記 (62) ホイリゲ(新酒ワイン居酒屋)

- ベートーヴェンの散歩道もいっしょに -

 

Heurige(ホイリゲ)とは、
今年の」という意味。
今年できた新しいワインを指すと同時に
ホイリゲを飲ませる酒場
ホイリゲと呼ばれているようだ。

ウィーン郊外の
Grinzing(グリツィング)
Heiligenstadt(ハイリゲンシュタット)
とよばれるエリアに
ホイリゲが多いというので
路面電車でグリツィングに行ってみた。

ウィーン市街から30分弱。
バスのように細かく停車しながら行くので
決して速くはないし、
移動距離自体もたいしたことはないと
思うのだが、それでも車窓の景色は、
どんどん変化していく。

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終点となっているグリツィングは
落ち着いた静かな街だった。

居酒屋が並ぶ賑やかな通り、
といった雰囲気は全くない。
ウィーン市街地の喧騒から
そう遠くない位置にいるのが
ウソのよう。

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石畳の小さな脇道も
ちょっと物語を感じさせる。

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ホイリゲつまり
「新酒ワイン居酒屋」の
一軒に入ってみた。
バッハヘングル(Bach-Hengl)

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外が気持ちよさそうだったので
緑の多い屋外席に。

子連れの家族もいる。

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頼んだのはいろいろ味わえる
「肉料理の組合せプレート」。
例によってすごいボリュームだ。

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酒のほうは、
ホイリゲの名前の通り
今年の(?)白ワイン。
飲んでみると
確かに味が「若い」。

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ガイドブック等には、
「ジョッキで出てくる」と
書かれていることが多いのだが、
注文の仕方が間違っていたのか、
ここのお店がそうなのか
ワイングラスで出てきた。

なお、ホイリゲでは、
Gespritzter(ゲシュプリツター)と呼ばれる
なんとワインを炭酸水で、
しかも1対1の割合で割った飲み方

あるというので頼んでみた。

すると
ワインと一緒にこんな炭酸水がでてきた。

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沸騰しているお湯でも
見たことがないほどの泡、泡、泡。
いったいどうすればこんな強烈な
炭酸水を作ることができるのだろう。

それでなくても「若い」ワインを
炭酸水で割ってしまうので、
まさにガブガブ飲めてしまう。

 

しばらくすると、
バイオリンとアコーディオンの
陽気な生演奏が始まった。

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ホイリゲで奏でられる昔ながらの曲は、
「シュランメル」と呼ばれている。
19世紀末にシュランメル兄弟が演奏して
ウィーン中に広まった大衆音楽。

民謡風であったり、
ワルツ(舞曲)風であったり、
ハンガリー風であったり、と
酒場に合う曲が多いが、
ちょっとメランコリックな部分もあって
そこに独特な味がある。

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演奏は各テーブルを回り
リクエストにも応えている。

雰囲気だけ貼っておこう。

 

大人の会話(?)で盛り上がっている
テーブルもある。
なんともいい雰囲気だ。

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なお、このお店、
有名店なのか
各国著名人が訪問した際の写真で
店内の壁一面が埋め尽くされていた。

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ブッシュやらプーチンやら
大統領級もゴロゴロいる。

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食事のあとは、
お屋敷と呼びたくなるような

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大きな家が並んでいる
高級住宅地(?)を通りを抜けて

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「ベートーヴェンがよく散歩した」
という道まで行ってみた。

道に沿って
今は小さな公園もあり
緑豊かな中、子どもたちは
バスケットボールを楽しんでいた。
「ベートーヴェンパーク」!?

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公園内には銅像もある。

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付近には、
ベートーヴェンが第九を書いたり
遺書を書いたことで知られる家まであり
ベートーヴェンゆかりの地として
小さな案内板も出ている。

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この道を散歩しながら
交響曲第6番「田園」を書いたと聞くと
後ろに手を回して、うつむき加減に
ゆっくり歩いてみたくなる。

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訪問した時間が遅かったため
暗くなってきてしまい
「日没タイムアウト」という
感じになってしまったが、
緑豊かな雰囲気だけは
十分感じ取ることができた。

楽しい居酒屋と豊かな緑、
そういう空気の中で、
「田園」が生まれ、
「合唱付き」が生まれたのだ。

 

十月革命から逃れるために
家族とともに米国に亡命した
ロシアの作曲家ラフマニノフは
その後5年以上にもわたって
作曲することができなかった。

その理由を聞かれて
こう言ったという。

「どうやって作曲するのですか?
 私はもう何年ものあいだ、
 (懐かしい故国ロシアの)
 ライ麦畑のささやきも
 白樺のざわめきも
 聞いていないのですから…」

(詳しくはここを参照下さい)
作曲には「環境」が必要なのだ。

ベートーヴェンが感じた風と緑が
そのままここにある。

 

 

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2018年9月30日 (日)

オーストリア旅行記 (58) 皇妃エリーザベト(愛称シシィ)

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オーストリア旅行記 (58) 皇妃エリーザベト(愛称シシィ)

- 吊り輪や鉄棒のある化粧室 -

 

前回は、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世
について書いた。
今日は続けて、
その妻エリーザベト(愛称シシィ)
(生没:1837-1898)

について
そのエピソードを紹介したい。

ただ、前回にも書いた通り、王宮内の
「シシィ博物館」と
「皇帝の部屋」&「皇妃シシィの住居」
は残念ながら写真撮影禁止。
肝心な彼女の部屋の様子を
写真でお見せすることができない。

皇妃とは直接関係ないものの
ウィーン市内で撮った写真を
挿絵代わりに貼って話を進めていきたい。

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【シシィの誕生:1837年】
エリーザベトは
ドイツ、バイエルンの
ヴィッテルスバッハ公爵家の
次女として生まれ、
幼い頃からシシィの愛称で呼ばれて
多くの兄弟姉妹とともに
自由奔放に育った。

P7169440s

 

【15歳のときの出会い:1853年】
15歳のとき、
姉ヘレーナの見合いに同行し、
バート・イシュルを訪問する。

皇帝フランツ・ヨーゼフの母、
オーストリア大公妃ゾフィーが、
若くして皇帝になった
息子の花嫁を探しており、
姉ヘレーナが
その候補にあがっていたのだ。

これは、オーストリアと同じく
厳格なカトリック教国で、
ドイツ連邦の忠実な同盟国である
「バイエルン王国」から皇后を迎え、
関係強化を図るという
政略目的にもかなっていた。

ところが、その時、
若きオーストリア皇帝は
ヘレーナに同行していた
エリーザベトのほうに一目惚れ
姉のヘレーナではなく、
妹のエリーザベトを妃に選んでしまう。

P7179633s

 

選ばれてはみたものの
まだあどけなさの残るエリーザベトには、
ハブスブルク大帝国の首都、
ウィーン王宮での
堅苦しい宮廷儀式の数々は
精神的に大きな負担だった。

フランツ・ヨーゼフの
求婚の申し出に対して
エリーザベトはこう語ったという。

「どうしてあの方を
 愛せないはずがありましょう」

とひと泣きした後、

皇帝のことはとても好きです。
 あの人が皇帝でさえなければ


皇帝に愛されてうれしい反面、
宮廷生活への
不安のほうが大きかった。

P7179529s

 

【16歳で結婚:1854年】
1854年4月24日、16歳のとき、
ウィーンのアウグスティーナー教会で
結婚式が行われた。

直後から、皇妃として
義母ゾフィーに鍛えられる日々が続く。

P7159148s

 

【なじまないウィーンでの宮廷生活】
皇妃として、結婚後の4年間に
王位継承者である息子ルドルフを含む
3人の子どもを産んだ
エリーザベトだったが、

自由奔放に育った彼女は
窮屈なウィーンの宮廷生活に
なかなかなじむことができず、
次第に精神を患って
転地療養生活
を送るようになる。

長い旅に出かけることもしばしばだった。
夫フランツ・ヨーゼフは、
旅路の妻に宛てて、
頻繁に手紙を書いていたという。

P7169464s

 

【美への執着】
エリーザベトと言えば「美」。

夫フランツ・ヨーゼフが
一目惚れしたその美貌は
最初からよく知られていたが、
エリーザベト自身、「美」、
特に健康なほっそりとした体、
透明な肌、美しい髪には、
思い入れが深く、
手入れを怠ることは決してなかった。

成人してからは
身長172cm、ウエスト50cm、
体重50kg(踵まで届いた髪の重さ5kgを含む)
が常に維持されていたという。

エリーザベトは、
このプロポーションを保つために、
生涯にわたって毎日、
運動とダイエットに励んだ

P7169352s

 

それでも50代ともなると、
過度の運動と
極端なダイエットが逆効果となり、
くるぶしの腫れや
栄養失調に悩まされるようになる。

いつしか、
外出の際はパラソルと扇を
片時も手放すことなく、
顔を隠して歩くようになっていった。

彼女の美貌は自信であり、
宮廷での権力でもあった
が、
皇妃といえども
寄る年波には勝てなかった。

P7169353s

 

【息子ルドルフ、情死:1889年】
王位継承者である皇帝の唯一の息子
ルドルフ皇太子が、ウィーン南郊外の
マイヤーリンクで愛人と情死

ハプスブルク家の跡継ぎだった
ひとり息子のルドルフが自殺して以来、
エリーザベトは
喪服を脱ぐことはなかった。

P7169439s

 

【スイスで暗殺される:1898年】
スイス、レマン湖で
遊覧船に乗ろうとしていたところを
無政府主義者に襲われ、
やすりで心臓を一突きされて死亡。
このときも黒い服を着ていた。

P7158945s

 

「シシィ博物館」も
「皇妃シシィの住居」も
こういった人生を知って見ると、
印象的な部屋や遺品がいくつもある。

特にシシィに関しては、
やはり「美への執着」を感じさせるものが
印象的だ。

旅の多かった彼女が携帯していた
美容関係グッズも実に大量でかつ多彩。

吊り輪や肋木、鉄棒がある化粧室は、
まさにトレーニングルーム。

博物館で買った日本語版のガイドブック

Ginnki1

にはその化粧室の写真もある。

王宮内の化粧室と
トレーニング機器の組合せは
ちょっと珍しいので
上記ガイドブックから2枚だけ
写真を引用し貼っておきたい。

Sissi1

中央部、釣り輪が見えるだろうか。

Sissi2

 

劇的な人生と終始貫かれている美への執着、
映画化にはピッタリの題材だ。

オーストリアの人気女優
ロミー・シュナイダーが主演した
映画『シシィ』の一部が
「シシィ博物館」の入口付近のモニタに
映し出されていた。
オーストリアでは
きっとよく知られた映画なのだろう。

懐かしそうに見ている顔が
いくつもあった。

日本では1959年、
当時の「皇太子御成婚記念映画として
封切られた」とWikipediaにはある。

「プリンセス・シシー」として
DVDも出ているようなので
ぜひ一度観てみたいと思っている。

 

 

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2018年9月23日 (日)

オーストリア旅行記 (57) フランツ・ヨーゼフ1世

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オーストリア旅行記 (57) フランツ・ヨーゼフ1世

- 愛するものを次々と失いながらも -

 

もともとは、旧王宮内の観光スポット

 「シシィ博物館」
 「皇帝の部屋」&「皇妃シシィの住居」

を歩く際、
長い王朝の歴史の最後に登場する
皇妃シシィや、
その夫フランツ・ヨーゼフ1世
の部屋に入る前に、
ハプスブルク帝国全体の歴史を
振り返ってみよう、と
ここで、つまり6月から始めた
寄り道だったが、飛び飛びながら

* ルドルフ1世
 (生没:1218年-1291年)

* マクシミリアン1世
 (生没:1459年-1519年)

* カール5世
 (生没:1500年-1558年)

* フェリペ2世(スペイン王)
 (生没:1527年-1598年)

* マリア・テレジア
 (生没:1717年-1780年)

を見てきたので、このあたりで
ようやく元のところに合流、
事実上
最後の皇帝夫妻となった
ふたりを見ていきたいと思う。

ただ、残念ながら、ここも見学エリアの
写真撮影は許可されていなかった。
なので、ウィーンの街角で撮った写真を
挿絵代わりに挿入しながら
話を進めていきたい。

P7158991s

 

見学している旧王宮は、
歴代の皇帝が住んでいたもので、
当然のことながら、
フランツ・ヨーゼフ1世&皇妃シシィ
この「ふたりのためだけ」
に造られたものではない。

しかし展示では、
「皇妃シシィ」の名が
前面に押し出された展示になっているので、
どんな夫と妻だったのかは
断片的であれ知っておきたい。

まずは夫
皇帝フランツ・ヨーゼフ1世
 (生没:1830年-1916年)
から。

P7179625s

 

「事実上最後の皇帝
 フランツ・ヨーゼフ1世」


その一生を簡単に追ってみたい。

【18歳で即位】1848年
ウィーンで起こった革命の直後に
オーストリア皇帝に即位。
18歳で即位した皇帝は、
以後68年の長きにわたって
ひたすらオーストリアのために
生涯を捧げた。

P7179637s

【エリーザベトに一目惚れ】1853年
見合いのためバート・イシュルを訪問。
ところが、皇帝は
見合い相手ヘレーナに同行していた
15歳の妹エリーザベトのほうに
一目惚れしてしまう。

P7159160s

【結婚】1854年
アウグスティーナ教会で
エリーザベトと結婚。
1736年、マリア・テレジアと
フランツ・シュテファンが結婚式を挙げた
意外に地味なこの教会だ。

P7179538s

【ウィーン市拡張計画】1857年
ウィーンの外壁を取り壊す
ウィーン市拡張計画を発表。
ここに書いた通り、城壁を取り壊し
リンク通りを作って町を広げる
壮大な町づくりがスタートする。

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【弟(メキシコ皇帝)、処刑される】1867年
弟のメキシコ皇帝
マクシミリアン1世が反乱軍に
捕らえられて処刑された。

P7179710s

【息子ルドルフ、情死】1889年
王位継承者である皇帝の唯一の息子
ルドルフ皇太子が、ウィーン南郊外の
マイヤーリンクで愛人と情死。

P7179624s

【妻エリーザベト、暗殺される】1898年
最愛の妻エリーザベトが
ジュネーヴで無政府主義者に暗殺される。

P7179609s

【甥(王位継承者)、暗殺される】1914年
王位継承者に指名した
甥のフェルディナント大公
サライェヴォで暗殺される。

P7179676s

【死去】1916年
第一次世界大戦の最中に死去。享年86。

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【君主国崩壊】1918年
ヨーゼフ1世の死の2年後、
650年続いた「ハプスブルク君主国」
は崩壊する。

P7179627s

「皇帝の部屋」を巡ると
「護衛官の部屋」、
「謁見の控室」、「謁見の間」、
「会議室」、「執務室」、
「寝室」、「サロン」などを
見ることができる。

P7179680s

オーディオガイドによると
彼は毎日早起きをして
多くの書類に目を通し、
週2回、午前中に人々と謁見したらしい。
その数およそ100人。
ひとり2~3分というのが原則だったとか。

皇帝は立ったまま謁見に臨んだので、
その際使われていた「高い」書見台も
見ることができる。

P7179689s

最初に書いた通り、
写真は撮れなかったので
文字での説明ばかりになってしまったが、
愛するものを次々と失いながら
皇帝を全うせざるを得なかった
フランツ・ヨーゼフ1世の姿が見えてくる。

常に軍服を身につけて
執務にあたっていたせいか、
肖像画は軍服姿のものが多い。

棒年表を書いてみると
「愛するものを次々と失いながら」が
より鮮明になる。

Joseph1

* 棒左端の数字は生年
* 棒の色
    0 -20歳 緑
    20-40歳 青
    40-60歳 黄
    60歳以上 紫
* 棒右端の数字は享年
    (死んだときの満年齢)

 

 

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2018年9月16日 (日)

オーストリア旅行記 (56) ウィーン会議とフランス料理

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オーストリア旅行記 (56) ウィーン会議とフランス料理

- 胃袋を掴め -

 

マリア・テレジアの 初回
スペイン乗馬学校を紹介した。

王宮内にある室内馬場は、
「馬場」とはいえ
2層のバルコニー席で囲まれた
シャンデリアの下がる
優雅な空間だ。

P7179571s

ここを「馬場」ではなく、
別な用途に使っていた時期がある。

フランス革命とナポレオン戦争という
ヨーロッパ大混乱ののち、
秩序の再建と領土分割を目的として
開催されたウィーン会議(1814-1815)

この長い会議の期間中、
舞踏会場として使われたのが、
この室内馬場だ。

有名な
「会議は踊る、されど進まず」
と言われたまさに「踊る」の会場。

このウィーン会議、

青木ゆり子 (著)
日本の洋食:
洋食から紐解く日本の歴史と文化
(シリーズ・ニッポン再発見)
ミネルヴァ書房

(以下水色部、本からの引用)

を読んでいたら
フランス料理との関係
たいへん興味深い記述があった。

街歩きの際に撮ったスナップ写真を
挿絵代わりに挿入しながら、
今日は料理の話を紹介したい。

P7179711s

 

最初に簡単に、
フランスとフランス料理の関係を
見ておこう。

フランス料理と呼ばれる今の料理は
フランスの伝統的な料理
というわけではない。

【イタリアからやってきた
 フランス料理】

フランス料理は現在、
ヨーロッパをはじめ、
日本を含む世界中の多くの国で
外交儀礼の際の正餐
として
採用されています。

しかし、
16世紀までのフランスは
貴族でさえ手づかみで
がつがつと食事するような
野暮なマナーしかない国でした。

ナイフ・フォークを使った食事など
洗練された食事作法が
取り入れられたのは、
国王アンリ2世のもとに
イタリアから嫁いだ
カトリーヌ・ド・メディシスと
その専属料理人が
フランス王室に
やってきてからの
ことです。

P7159108s

 

そんな
フランスの王宮でのみ供されていた
特別な料理が
フランスの街の中に広がっていくのには
歴史的な「あのできごと」が
大きなきっかけになった。

【料理が広がるきっかけ】

その後、1789年に勃発した
フランス革命によって
王宮を追われた料理人たちが
街に出てレストランを開き

フランス料理は
18世紀から19世紀にかけて
彼らの活躍で
その質がめざましく向上しました。

P7179605s

 

フランス革命による
「王宮を追われた料理人たち」によって
フランスの街に広がり始めた
「フランス料理」。

そして1815年、
ウィーン会議が開催される。

【ウィーン会議】

フランス料理が∃-ロッパで一躍、
脚光を浴びる出来事が起こりました


1815年から1816年にかけて
オーストリア帝国の首都
ウィーンで開催された
「ウィーン会議」です。

 フランス革命後に
軍事独裁政権を樹立した
ナポレオン・ボナパルトは、
ナポレオン戦争によって
一時期∃-ロッパ大陸の
ほとんどを征服しましたが、
結局、失敗して失脚。

その結果
ヨーロッパの国境はスタズタになり、
戦後処理を話し合うために

フランスと、
∃-ロッパ列強国だったイギリスや
ロシア、プロイセン、
オーストリアらの代表が
集ったのが
この国際会議の目的でした。

P7159110s

 

約1年におよぶ会議の期間中、
フランスの外交官の
お抱え料理人が大活躍する。

【敗戦国の宴会戦術】

フランスからは外交官
シャルル・モーリス・ド・
タレーラン・べリゴールが出席し、
会議期間中にしばしばお抱え料理人の
アントナン・カレームの手による
夕食会を開催
して各国の有力者を
もてなしました。

カレームは貧民街で育ち、
パリの菓子店で働いているところを
美食家のタレーランに
腕を見込まれた人で、
その卓越した料理は客人を魅了。

「会議は踊る、されど進まず」
といわれ、
各国の思惑が飛び交いながら
1年にもわたって続いた
ウィーン会議ですが、
この宴会戦術を使った
タレーランの巧みな外交によって、
フランスは
敗戦国の立場だったにもかかわらず、
戦勝国に要求を呑ませることができた

というエピソードが残っています。

P7158944s

 

具体的に、料理の力が
単独でどれほどのものであったのかは
もちろん明確にしようがないが、
たいへん興味深いエピソードだ。

まさに胃袋を掴まれた、ということだろう。

いずにせよ、
主要国の代表が集まっている以上
その影響力は計り知れない。

実際、料理人カレームは、その後

ロシア帝国のアレクサンドル1世や
イギリス王室のジョージ4世らの
依頼を受けて料理人を務め、
フランス料理が西洋料理を
代表する存在
に導いたのです。

P7159103s

フランス料理が世界に広がり、
そして、世界中の多くの国で
外交儀礼の際の正餐になっていく背景には
こんなきっかけがあったのだ。

 

 

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2018年9月 9日 (日)

オーストリア旅行記 (55) マリア・テレジア(4)

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オーストリア旅行記 (55) マリア・テレジア(4)

- 義務教育と多文化の混在 -

 

シェーンブルン宮殿の庭園の一番奥、
丘の上のグロリエッテまで来たので、
ゆっくり丘を降りながら、
もう少し庭を散策したい。

P7169292s

庭は、200haにもおよぶ
イギリス式とフランス式が
混在した美しいものだが、

P7169309s

木々の刈り込みに
思わずシャッターを切ってしまった。

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平面すぎるでしょ。

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宮殿の
「マリア・テレジア・イエロー」が美しい。

P7169329s

 

庭の一角には、
植物園と動物園がある。

植物園のこの建物は1882年に完成した
ヨーロッパ大陸で最大の温室。

P7169322s

こちらの刈り込みも特徴がある。

P7169323s

 

植物園の方は静かだったが、
動物園の方は、多くの人で賑わっていた。
この動物園、1754年に作られた
世界最古の動物園
だ。

P7169315s

創ったのは、マリア・テレジアの夫、
フランツ・シュテファン。

シマウマやフラミンゴなど、
当時のウィーンの人々が
見たことがなかったような動物を
インド、アフリカ、南アメリカからも
集めていたという。

そういえば、ウィーン自然史博物館
のところでも書いた通り、
自然史博物館もベースは
フランツ・シュテファンの
コレクションだった。

改めて自身の鉱物コレクションを見る
フランツ・シュテファンの絵を
貼っておきたい。(絵葉書で購入したもの)
壁一面コレクションで埋め尽くされている。

Natur3s

 

マリア・テレジアが君主として残したものは
これまでの記事に書いたような、
* 強い軍隊を作るための士官学校 や
* 民族や身分にとらわれず
  有能な人材を重用する制度
 や、
* 壮大な大改造を施した
  シェーンブルン宮殿
だけではない。

P7169341s

* 教育と書籍の検閲を
  教会(イエズス会)から解き放し、
  自然科学が急成長していた
  イギリスやフランスからの本が、
  ウィーンに多く
  入ってくるようにしたり、

【ウィーン イエズス会教会】

P7159140s

* 君主の権限が及ばない
  貴族の力を削いで、
  安定した税制を導入したり、

その改革の範囲は多岐にわたる。

P7169336s

その中でも、ぜひ書いておきたいのは、
イギリスよりも早く実現した
義務教育制度の確立だ。

「すべての地方、
 すべての階級の子どもたちに教育を」

と全土に均一の小学校を新設。
金持ちの子どもだけでなく、
すべての子どもたちが教育を受ける
ことができるようになった。

さらに注目すべきは教科書。

軍隊とは違って、
こちらはドイツ語を強制はしなかった。

10以上の言語で教科書を用意
商人の子どもも農民の子どもも
皆、自分たちの言葉で
教育を受けることができた。
その上で、
外国語教育も視野に入れていた。

若者たちの教育は
 国の幸福の源(みなもと)です


とも語っていたという。

 

ここに書いた通り、
シェーンブルン宮殿の中を歩くと
内装の豪華さ以上に
文化の多彩さに驚く。

欧州各地方の風俗に限らず、
中国ありインドあり・・・。

一番大きなメインの広間
「大ギャラリー」の天井画には、
中央のフランツ・シュテファン、
マリア・テレジア夫妻を囲むように
フランドル地方の海上貿易、
ボヘミア貴族の狩猟、
ハンガリーの牧畜、
オーストリア・
ザルツカンマーグートの岩塩、
イタリア・トスカーナ地方のワイン造り、
ミラノの絹織物
などの様子が描かれている。
民族の多様性を尊重していたことの
証とも言えるだろう。

同君連合国家の形態を
伝統的にとってきたとはいえ、

ウィーンで食べる料理が、
ハンガリだったり、
ルーマニアだったり、
バルカン地方だったり、
セリビアだったり、
スペインだったり、
ボヘミアだったりと
その起源が多岐に渡ることも
様々な文化を受け入れてきた
歴史を物語っている。

音楽だけではなく
多様な文化を受け入れる器として
ウィーンを「豊かな」都に
発展させていったマリア・テレジア。

これら君主としての活躍が
16人もの子どもを生みながら
成し遂げられていったことも
最後に記しておきたい。

 

 

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2018年9月 2日 (日)

オーストリア旅行記 (54) マリア・テレジア(3)

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オーストリア旅行記 (54) マリア・テレジア(3)

- シェーンブルン宮殿 -

 

軍隊を強化する一方で、
「スペクタクルが必要だ」と言っていた
マリア・テレジアは、
一大事業、シェーンブルン宮殿の
大改造に着手する。

ウィーン観光の目玉のひとつ、
今日はシェーンブルン宮殿を訪ねたい。

【シェーンブルン宮殿】

P7169211s

門を入ると、真正面に
壮大な黄色い建物が広がっている。

シェーンブルンとは
「美しい泉」という意味
で、
17世紀初頭、マティアス皇帝が
当時この地にあった狩りの城の森で
美しい泉を発見したことに由来している。

狩りの城はのちに
トルコ軍に破壊されてしまったため、
レオポルト1世の時代、1696年に
「フランスの
 ヴェルサイユ宮殿をしのぐものを」
と新しい城の建設工事が始まった。

P7169214s

 

宮殿前広場も広々としている。

P7169215s

宮殿の設計は
オーストリア・バロック最大の建築家
フィッシャー・フォン・エルラッハ。

婚礼のお祝いにこの城をもらった
マリア・テレジアは、
さらなる本格的な大改造に着手する。

工事はエルラッハ亡き後も続き、
18世紀半ば
マリア・テレジアの時代にその完成をみる


彼女の大改造の結果、完成したときは
1,441室の大宮殿になっていた。

中心から左右に翼を広げた宮殿は180m、
外壁の色は
マリア・テレジアの黄色とよばれる
高貴な色に塗られている。

のちに庭園側から撮った写真を
先行して一枚貼ってしまおう。

P7169246s

 

1,441室ある宮殿内部も、
その一部は一般に公開されているので、
音声ガイドを聞きながら
一部屋づつ丁寧に回ることができるのだが、
残念ながらここも部屋は写真撮影禁止。

印象に残った部屋のメモを
並べただけでも・・・

フランツ・ヨーゼフが人々と会っていた
高価なクルミ木材を使用した
「クルミの間」

フランツ・∃-ゼフが息を引き取った
質素な「寝室」

長い髪が濡れるのを防ぐ
ヘアーハンガーと呼ばれる輪が
壁に取り付けられている
「エリーザベトの浴室」

幼いモーツァルトが
マリア・テレジアの前で
ピアノを弾いた「鏡の間」

演奏会は大成功だったという。

幅10m、長さ40mの大ホールで、
マリア・テレジア時代に
祝典行事用広間になった
「大ギャラリー」

小さな宴会が催された部屋だが、
豪華さでは光っている
「小ギャラリー」

燭台用の青い陶器が美しい
「中国の丸い小部屋

19世紀、宮廷将軍たちの食堂だった
「馬の間

中国趣味で青の色彩が美しい
「青の中国サロン」

寄木張りの床と
漆の板張り壁が豪華で
未亡人となったマリア・テレジアが
おもに住んでいた「漆の間」

ナポレオンが
ウィーンを征服したときに使っていた
「ナポレオンの部屋」
時の皇帝フランツ1世は、
娘のマリー・ルイーズを
ナポレオンと結婚させた。
その息子ライヒシュタット公爵は
ナポレオン失脚後、
幽閉されるようにこの部屋で暮らし、
21歳で病死した。

無数のインド細密画が壁にはめ込まれた
ローズウッドの重厚な壁が印象的な
総工費が当時の通貨で
100万グルデンかかったという
「百万の間」

1830年にフランツ・ヨーゼフが生まれた
「寝室」
マリア・テレジアも使用した
天蓋付きベッドがある。

細かいことはともかく、
特定の地域や文化ばかりに偏っていない
「多彩さ」が特に強く印象に残る

 

宮殿内の写真は撮れなかったが、
外はもちろんOK。
まずは美しい庭を少し散策してみよう。

P7169233s

中央正面の噴水を目指す。

P7169235s

振り返ると宮殿が正面に。

P7169237s

花々も手入れが行き届いていて美しい。

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噴水を越えて、
シェーンブルンの丘の上に建つ
「グロリエッテ」を目指す。

緩やかに丘を登る。

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だんだん角度が変わってくる。

P7169275s

途中には大きな池も。

P7169284s

芝生に寝転がって、
のんびりしている人も多い。

P7169273s

少し高い位置に来たので、
前方右側遠方にはウィーン市街地、
シュテファン大聖堂の塔も小さく見える。

丘の一番上、
「グロリエッテ」に到着。

P7169268s

全体の長さ135m、高さ26m、幅15m。
1757年に、プロイセン勝利と
戦没者慰霊のために建てられた
ギリシャ建築の記念碑。

距離感を伝えることは難しいが、
このグロリエッテを
宮殿から見るとこんな感じ。

P7169339s

真正面、丘の上に
小さく見えるのがグロリエッテ。

庭の広さが多少は伝わるだろうか?
距離感、規模感が麻痺してしまう
広くて美しい庭だ。

 

 

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2018年8月26日 (日)

オーストリア旅行記 (53) マリア・テレジア(2)

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オーストリア旅行記 (53) マリア・テレジア(2)

- 「民族」寄せ集めの軍隊 -

 

前回
「スペイン乗馬学校」を紹介したが、
男性ばかりの騎手の中、
女帝と言われた
マリア・テレジアが、
実は馬も乗りこなしていた、
という話までを書いた。

そのことが大きな意味を持つ、
そのエピソードを始める前に、
時代を少し前に戻してみたい。

【アウグスティーナ教会】

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ハプスブルク家の洗礼を担う
王宮内にあるこの教会。
華美な装飾がなく、
「意外に地味」が入った時の第一印象。

 

この教会で、1736年、
カール6世の長女マリア・テレジア
ロートリンゲン、ロレーヌ公の次男
フランツ1世と結婚式を挙げた。

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マリア・テレジア 18歳
フランツ1世シュテファン 27歳

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マリア・テレジアは、
6歳でシュテファンに出会い、
婚約が決まっていたとはいうものの、
当時の王室としては異例の
恋愛結婚
だった。

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マリア・テレジアの父カール6世は、
早くから後継者問題に悩んでいた。
男子に恵まれていなかったからだ。

そこで、ある決断を下す。
ハプスブルク家領の
女子の相続を認める詔書を
発布することにしたのだ。
そして、
マリア・テレジアが結婚する時点では、
その内容を欧州主要国に認めさせていた。

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そんな父カールが
マリア・テレジア結婚のわずか4年後、
1740年に死去してしまう。

詔書に基づき
女性ながら、かつ23歳で
君主とならざるを得なくなった
マリア・テレジア

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(アウグスティーナ教会内には
 ピラミッド型の大理石彫刻が見事な
 マリア・テレジアの娘
 【マリー・クリスティーナの墓碑】
 もある)

P7179548s

君主とはなったものの、
マリア・テレジアは
帝王学も学んでおらず、
欧州各国の嘲笑の的となってしまう。

そしてこれをハプスブルク勢力弱体化の
絶好の機会とみた対立国が動きだす。

「もはやハプスブルクは存在しない」

先の詔書を無視し、
オーストリア周辺国は、
オーストリア継承戦争へと
突入
していったのだ。

 

そのころ、
マリア・テレジアは
ハンガリのブラチスラバに向かっていた。

ハンガリはまだ、
継承戦争に参戦していなかったのだ。

伝統的に
馬を鍛えた強い軍隊を持つハンガリ


当時、ハンガリ君主は
ハプスブルク君主が兼任していたため、
マリア・テレジアは
ハンガリの聖マルティン教会で
戴冠式を執り行う

 

そしてそのあと、
彼女は驚くべき行動に出る。

皆が集まった街の広場に
なんと馬に乗って再登場したのだ。

そこで、後ろ足で馬を立たす技を披露。
サーベルを四方にかかげ
「ハンガリを守る」をアピールした。

続けて議会では
「今こそ戦わねば」と声をあげた。

彼女の馬術に心を掴まれたハンガリ市民は、
「われらの女王、マリア・テレジア」
と叫んだと言う。

これらのパフォーマンスが功を奏し、
ついにハンガリの参戦が決まる。

馬への思いが強いハンガリの民の心を
馬を乗りこなすことによって
しっかりと掴んだマリア・テレジア

 

ハンガリの参戦を得て、
ボヘミアの奪還に成功した彼女は、
今度は、ウィーンの街を
馬に乗ってパレードした。

名馬リピッツァナーに乗って、
パレードの先頭を行くマリア・テレジア。

それでも、最終的に
どうしても奪還したかった
シュレージェンを
取り返すことはできなかった。

 

軍隊を強くする必要性
痛感したマリア・テレジア。

なぜ、強くなれなかったのか?

 

旧陸軍省の建物を訪問してみた。

P7159165s

壁面には、
多くの兵士の頭部が
彫刻で並んでいる。

P7159149s

ちょっと気をつけて
各頭部を見比べてみてほしい。

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よく見ると、
服装も帽子もヒゲもすべてバラバラ。

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比較しやすいように、
頭部だけを4枚集めてみた。

Hei1s

まったく統一感がない。
「民族の寄せ集め」の軍隊だったことが
よくわかる


もちろん言語もバラバラ、
双頭の鷲のもととはいえ、
全体としてひとつにまとまることは
きわめて難しかった。

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 2007年放送 NHKハイビジョン特集
 シリーズ ハプスブルク帝国 
 第2回「女帝マリア・テレジア」


の中では、
ドイツ語、ハンガリ語、
イタリア語、チェコ語、
ポーランド語、スロバキア語
などが同じ軍隊の中で使われていた、と
現在の軍事学校の教官が
インタビューに答えていた。

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そこで、マリア・テレジアは、
軍隊を強くするために
士官学校を設立
する。

そこでは、・・・

(1) 命令はドイツ語に統一
  命令に合わせてドラムを打つなど、
  指示系統を統一。

(2) 体罰を禁止し、
  高潔な兵士の育成を目指す。

(3) マリア・テレジア勲章を授与。
  指揮官を明示し、
  民族や身分にとらわれず
  有能な人材を重用

  勲章を授与されると
  貴族として宮廷に出入りすることもできた。

(4) 「乗馬」を必須科目に。
  馬術の習得はもちろん
  ボディランゲージによる
  馬とのコミュニケーション

  異民族間での人同士の
  コミュニケーションにも役立った。

などの姿勢を明確にし、
着実に成果をあげていった。

君主として次第に民衆の支持を
集めるようになるマリア・テレジア。

そして彼女は、
ついにあの大改造に着手する。

続きは次回に。

 

 

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