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2018年9月30日 (日)

オーストリア旅行記 (58) 皇妃エリーザベト(愛称シシィ)

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オーストリア旅行記 (58) 皇妃エリーザベト(愛称シシィ)

- 吊り輪や鉄棒のある化粧室 -

 

前回は、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世
について書いた。
今日は続けて、
その妻エリーザベト(愛称シシィ)
(生没:1837-1898)

について
そのエピソードを紹介したい。

ただ、前回にも書いた通り、王宮内の
「シシィ博物館」と
「皇帝の部屋」&「皇妃シシィの住居」
は残念ながら写真撮影禁止。
肝心な彼女の部屋の様子を
写真でお見せすることができない。

皇妃とは直接関係ないものの
ウィーン市内で撮った写真を
挿絵代わりに貼って話を進めていきたい。

P7179525s

 

【シシィの誕生:1837年】
エリーザベトは
ドイツ、バイエルンの
ヴィッテルスバッハ公爵家の
次女として生まれ、
幼い頃からシシィの愛称で呼ばれて
多くの兄弟姉妹とともに
自由奔放に育った。

P7169440s

 

【15歳のときの出会い:1853年】
15歳のとき、
姉ヘレーナの見合いに同行し、
バート・イシュルを訪問する。

皇帝フランツ・ヨーゼフの母、
オーストリア大公妃ゾフィーが、
若くして皇帝になった
息子の花嫁を探しており、
姉ヘレーナが
その候補にあがっていたのだ。

これは、オーストリアと同じく
厳格なカトリック教国で、
ドイツ連邦の忠実な同盟国である
「バイエルン王国」から皇后を迎え、
関係強化を図るという
政略目的にもかなっていた。

ところが、その時、
若きオーストリア皇帝は
ヘレーナに同行していた
エリーザベトのほうに一目惚れ
姉のヘレーナではなく、
妹のエリーザベトを妃に選んでしまう。

P7179633s

 

選ばれてはみたものの
まだあどけなさの残るエリーザベトには、
ハブスブルク大帝国の首都、
ウィーン王宮での
堅苦しい宮廷儀式の数々は
精神的に大きな負担だった。

フランツ・ヨーゼフの
求婚の申し出に対して
エリーザベトはこう語ったという。

「どうしてあの方を
 愛せないはずがありましょう」

とひと泣きした後、

皇帝のことはとても好きです。
 あの人が皇帝でさえなければ


皇帝に愛されてうれしい反面、
宮廷生活への
不安のほうが大きかった。

P7179529s

 

【16歳で結婚:1854年】
1854年4月24日、16歳のとき、
ウィーンのアウグスティーナー教会で
結婚式が行われた。

直後から、皇妃として
義母ゾフィーに鍛えられる日々が続く。

P7159148s

 

【なじまないウィーンでの宮廷生活】
皇妃として、結婚後の4年間に
王位継承者である息子ルドルフを含む
3人の子どもを産んだ
エリーザベトだったが、

自由奔放に育った彼女は
窮屈なウィーンの宮廷生活に
なかなかなじむことができず、
次第に精神を患って
転地療養生活
を送るようになる。

長い旅に出かけることもしばしばだった。
夫フランツ・ヨーゼフは、
旅路の妻に宛てて、
頻繁に手紙を書いていたという。

P7169464s

 

【美への執着】
エリーザベトと言えば「美」。

夫フランツ・ヨーゼフが
一目惚れしたその美貌は
最初からよく知られていたが、
エリーザベト自身、「美」、
特に健康なほっそりとした体、
透明な肌、美しい髪には、
思い入れが深く、
手入れを怠ることは決してなかった。

成人してからは
身長172cm、ウエスト50cm、
体重50kg(踵まで届いた髪の重さ5kgを含む)
が常に維持されていたという。

エリーザベトは、
このプロポーションを保つために、
生涯にわたって毎日、
運動とダイエットに励んだ

P7169352s

 

それでも50代ともなると、
過度の運動と
極端なダイエットが逆効果となり、
くるぶしの腫れや
栄養失調に悩まされるようになる。

いつしか、
外出の際はパラソルと扇を
片時も手放すことなく、
顔を隠して歩くようになっていった。

彼女の美貌は自信であり、
宮廷での権力でもあった
が、
皇妃といえども
寄る年波には勝てなかった。

P7169353s

 

【息子ルドルフ、情死:1889年】
王位継承者である皇帝の唯一の息子
ルドルフ皇太子が、ウィーン南郊外の
マイヤーリンクで愛人と情死

ハプスブルク家の跡継ぎだった
ひとり息子のルドルフが自殺して以来、
エリーザベトは
喪服を脱ぐことはなかった。

P7169439s

 

【スイスで暗殺される:1898年】
スイス、レマン湖で
遊覧船に乗ろうとしていたところを
無政府主義者に襲われ、
やすりで心臓を一突きされて死亡。
このときも黒い服を着ていた。

P7158945s

 

「シシィ博物館」も
「皇妃シシィの住居」も
こういった人生を知って見ると、
印象的な部屋や遺品がいくつもある。

特にシシィに関しては、
やはり「美への執着」を感じさせるものが
印象的だ。

旅の多かった彼女が携帯していた
美容関係グッズも実に大量でかつ多彩。

吊り輪や肋木、鉄棒がある化粧室は、
まさにトレーニングルーム。

博物館で買った日本語版のガイドブック

Ginnki1

にはその化粧室の写真もある。

王宮内の化粧室と
トレーニング機器の組合せは
ちょっと珍しいので
上記ガイドブックから2枚だけ
写真を引用し貼っておきたい。

Sissi1

中央部、釣り輪が見えるだろうか。

Sissi2

 

劇的な人生と終始貫かれている美への執着、
映画化にはピッタリの題材だ。

オーストリアの人気女優
ロミー・シュナイダーが主演した
映画『シシィ』の一部が
「シシィ博物館」の入口付近のモニタに
映し出されていた。
オーストリアでは
きっとよく知られた映画なのだろう。

懐かしそうに見ている顔が
いくつもあった。

日本では1959年、
当時の「皇太子御成婚記念映画として
封切られた」とWikipediaにはある。

「プリンセス・シシー」として
DVDも出ているようなので
ぜひ一度観てみたいと思っている。

 

 

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2018年9月23日 (日)

オーストリア旅行記 (57) フランツ・ヨーゼフ1世

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オーストリア旅行記 (57) フランツ・ヨーゼフ1世

- 愛するものを次々と失いながらも -

 

もともとは、旧王宮内の観光スポット

 「シシィ博物館」
 「皇帝の部屋」&「皇妃シシィの住居」

を歩く際、
長い王朝の歴史の最後に登場する
皇妃シシィや、
その夫フランツ・ヨーゼフ1世
の部屋に入る前に、
ハプスブルク帝国全体の歴史を
振り返ってみよう、と
ここで、つまり6月から始めた
寄り道だったが、飛び飛びながら

* ルドルフ1世
 (生没:1218年-1291年)

* マクシミリアン1世
 (生没:1459年-1519年)

* カール5世
 (生没:1500年-1558年)

* フェリペ2世(スペイン王)
 (生没:1527年-1598年)

* マリア・テレジア
 (生没:1717年-1780年)

を見てきたので、このあたりで
ようやく元のところに合流、
事実上
最後の皇帝夫妻となった
ふたりを見ていきたいと思う。

ただ、残念ながら、ここも見学エリアの
写真撮影は許可されていなかった。
なので、ウィーンの街角で撮った写真を
挿絵代わりに挿入しながら
話を進めていきたい。

P7158991s

 

見学している旧王宮は、
歴代の皇帝が住んでいたもので、
当然のことながら、
フランツ・ヨーゼフ1世&皇妃シシィ
この「ふたりのためだけ」
に造られたものではない。

しかし展示では、
「皇妃シシィ」の名が
前面に押し出された展示になっているので、
どんな夫と妻だったのかは
断片的であれ知っておきたい。

まずは夫
皇帝フランツ・ヨーゼフ1世
 (生没:1830年-1916年)
から。

P7179625s

 

「事実上最後の皇帝
 フランツ・ヨーゼフ1世」


その一生を簡単に追ってみたい。

【18歳で即位】1848年
ウィーンで起こった革命の直後に
オーストリア皇帝に即位。
18歳で即位した皇帝は、
以後68年の長きにわたって
ひたすらオーストリアのために
生涯を捧げた。

P7179637s

【エリーザベトに一目惚れ】1853年
見合いのためバート・イシュルを訪問。
ところが、皇帝は
見合い相手ヘレーナに同行していた
15歳の妹エリーザベトのほうに
一目惚れしてしまう。

P7159160s

【結婚】1854年
アウグスティーナ教会で
エリーザベトと結婚。
1736年、マリア・テレジアと
フランツ・シュテファンが結婚式を挙げた
意外に地味なこの教会だ。

P7179538s

【ウィーン市拡張計画】1857年
ウィーンの外壁を取り壊す
ウィーン市拡張計画を発表。
ここに書いた通り、城壁を取り壊し
リンク通りを作って町を広げる
壮大な町づくりがスタートする。

P7179682s

【弟(メキシコ皇帝)、処刑される】1867年
弟のメキシコ皇帝
マクシミリアン1世が反乱軍に
捕らえられて処刑された。

P7179710s

【息子ルドルフ、情死】1889年
王位継承者である皇帝の唯一の息子
ルドルフ皇太子が、ウィーン南郊外の
マイヤーリンクで愛人と情死。

P7179624s

【妻エリーザベト、暗殺される】1898年
最愛の妻エリーザベトが
ジュネーヴで無政府主義者に暗殺される。

P7179609s

【甥(王位継承者)、暗殺される】1914年
王位継承者に指名した
甥のフェルディナント大公
サライェヴォで暗殺される。

P7179676s

【死去】1916年
第一次世界大戦の最中に死去。享年86。

P7179612s

【君主国崩壊】1918年
ヨーゼフ1世の死の2年後、
650年続いた「ハプスブルク君主国」
は崩壊する。

P7179627s

「皇帝の部屋」を巡ると
「護衛官の部屋」、
「謁見の控室」、「謁見の間」、
「会議室」、「執務室」、
「寝室」、「サロン」などを
見ることができる。

P7179680s

オーディオガイドによると
彼は毎日早起きをして
多くの書類に目を通し、
週2回、午前中に人々と謁見したらしい。
その数およそ100人。
ひとり2~3分というのが原則だったとか。

皇帝は立ったまま謁見に臨んだので、
その際使われていた「高い」書見台も
見ることができる。

P7179689s

最初に書いた通り、
写真は撮れなかったので
文字での説明ばかりになってしまったが、
愛するものを次々と失いながら
皇帝を全うせざるを得なかった
フランツ・ヨーゼフ1世の姿が見えてくる。

常に軍服を身につけて
執務にあたっていたせいか、
肖像画は軍服姿のものが多い。

棒年表を書いてみると
「愛するものを次々と失いながら」が
より鮮明になる。

Joseph1

* 棒左端の数字は生年
* 棒の色
    0 -20歳 緑
    20-40歳 青
    40-60歳 黄
    60歳以上 紫
* 棒右端の数字は享年
    (死んだときの満年齢)

 

 

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2018年9月16日 (日)

オーストリア旅行記 (56) ウィーン会議とフランス料理

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オーストリア旅行記 (56) ウィーン会議とフランス料理

- 胃袋を掴め -

 

マリア・テレジアの 初回
スペイン乗馬学校を紹介した。

王宮内にある室内馬場は、
「馬場」とはいえ
2層のバルコニー席で囲まれた
シャンデリアの下がる
優雅な空間だ。

P7179571s

ここを「馬場」ではなく、
別な用途に使っていた時期がある。

フランス革命とナポレオン戦争という
ヨーロッパ大混乱ののち、
秩序の再建と領土分割を目的として
開催されたウィーン会議(1814-1815)

この長い会議の期間中、
舞踏会場として使われたのが、
この室内馬場だ。

有名な
「会議は踊る、されど進まず」
と言われたまさに「踊る」の会場。

このウィーン会議、

青木ゆり子 (著)
日本の洋食:
洋食から紐解く日本の歴史と文化
(シリーズ・ニッポン再発見)
ミネルヴァ書房

(以下水色部、本からの引用)

を読んでいたら
フランス料理との関係
たいへん興味深い記述があった。

街歩きの際に撮ったスナップ写真を
挿絵代わりに挿入しながら、
今日は料理の話を紹介したい。

P7179711s

 

最初に簡単に、
フランスとフランス料理の関係を
見ておこう。

フランス料理と呼ばれる今の料理は
フランスの伝統的な料理
というわけではない。

【イタリアからやってきた
 フランス料理】

フランス料理は現在、
ヨーロッパをはじめ、
日本を含む世界中の多くの国で
外交儀礼の際の正餐
として
採用されています。

しかし、
16世紀までのフランスは
貴族でさえ手づかみで
がつがつと食事するような
野暮なマナーしかない国でした。

ナイフ・フォークを使った食事など
洗練された食事作法が
取り入れられたのは、
国王アンリ2世のもとに
イタリアから嫁いだ
カトリーヌ・ド・メディシスと
その専属料理人が
フランス王室に
やってきてからの
ことです。

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そんな
フランスの王宮でのみ供されていた
特別な料理が
フランスの街の中に広がっていくのには
歴史的な「あのできごと」が
大きなきっかけになった。

【料理が広がるきっかけ】

その後、1789年に勃発した
フランス革命によって
王宮を追われた料理人たちが
街に出てレストランを開き

フランス料理は
18世紀から19世紀にかけて
彼らの活躍で
その質がめざましく向上しました。

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フランス革命による
「王宮を追われた料理人たち」によって
フランスの街に広がり始めた
「フランス料理」。

そして1815年、
ウィーン会議が開催される。

【ウィーン会議】

フランス料理が∃-ロッパで一躍、
脚光を浴びる出来事が起こりました


1815年から1816年にかけて
オーストリア帝国の首都
ウィーンで開催された
「ウィーン会議」です。

 フランス革命後に
軍事独裁政権を樹立した
ナポレオン・ボナパルトは、
ナポレオン戦争によって
一時期∃-ロッパ大陸の
ほとんどを征服しましたが、
結局、失敗して失脚。

その結果
ヨーロッパの国境はスタズタになり、
戦後処理を話し合うために

フランスと、
∃-ロッパ列強国だったイギリスや
ロシア、プロイセン、
オーストリアらの代表が
集ったのが
この国際会議の目的でした。

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約1年におよぶ会議の期間中、
フランスの外交官の
お抱え料理人が大活躍する。

【敗戦国の宴会戦術】

フランスからは外交官
シャルル・モーリス・ド・
タレーラン・べリゴールが出席し、
会議期間中にしばしばお抱え料理人の
アントナン・カレームの手による
夕食会を開催
して各国の有力者を
もてなしました。

カレームは貧民街で育ち、
パリの菓子店で働いているところを
美食家のタレーランに
腕を見込まれた人で、
その卓越した料理は客人を魅了。

「会議は踊る、されど進まず」
といわれ、
各国の思惑が飛び交いながら
1年にもわたって続いた
ウィーン会議ですが、
この宴会戦術を使った
タレーランの巧みな外交によって、
フランスは
敗戦国の立場だったにもかかわらず、
戦勝国に要求を呑ませることができた

というエピソードが残っています。

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具体的に、料理の力が
単独でどれほどのものであったのかは
もちろん明確にしようがないが、
たいへん興味深いエピソードだ。

まさに胃袋を掴まれた、ということだろう。

いずにせよ、
主要国の代表が集まっている以上
その影響力は計り知れない。

実際、料理人カレームは、その後

ロシア帝国のアレクサンドル1世や
イギリス王室のジョージ4世らの
依頼を受けて料理人を務め、
フランス料理が西洋料理を
代表する存在
に導いたのです。

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フランス料理が世界に広がり、
そして、世界中の多くの国で
外交儀礼の際の正餐になっていく背景には
こんなきっかけがあったのだ。

 

 

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2018年9月 9日 (日)

オーストリア旅行記 (55) マリア・テレジア(4)

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オーストリア旅行記 (55) マリア・テレジア(4)

- 義務教育と多文化の混在 -

 

シェーンブルン宮殿の庭園の一番奥、
丘の上のグロリエッテまで来たので、
ゆっくり丘を降りながら、
もう少し庭を散策したい。

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庭は、200haにもおよぶ
イギリス式とフランス式が
混在した美しいものだが、

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木々の刈り込みに
思わずシャッターを切ってしまった。

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平面すぎるでしょ。

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宮殿の
「マリア・テレジア・イエロー」が美しい。

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庭の一角には、
植物園と動物園がある。

植物園のこの建物は1882年に完成した
ヨーロッパ大陸で最大の温室。

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こちらの刈り込みも特徴がある。

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植物園の方は静かだったが、
動物園の方は、多くの人で賑わっていた。
この動物園、1754年に作られた
世界最古の動物園
だ。

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創ったのは、マリア・テレジアの夫、
フランツ・シュテファン。

シマウマやフラミンゴなど、
当時のウィーンの人々が
見たことがなかったような動物を
インド、アフリカ、南アメリカからも
集めていたという。

そういえば、ウィーン自然史博物館
のところでも書いた通り、
自然史博物館もベースは
フランツ・シュテファンの
コレクションだった。

改めて自身の鉱物コレクションを見る
フランツ・シュテファンの絵を
貼っておきたい。(絵葉書で購入したもの)
壁一面コレクションで埋め尽くされている。

Natur3s

 

マリア・テレジアが君主として残したものは
これまでの記事に書いたような、
* 強い軍隊を作るための士官学校 や
* 民族や身分にとらわれず
  有能な人材を重用する制度
 や、
* 壮大な大改造を施した
  シェーンブルン宮殿
だけではない。

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* 教育と書籍の検閲を
  教会(イエズス会)から解き放し、
  自然科学が急成長していた
  イギリスやフランスからの本が、
  ウィーンに多く
  入ってくるようにしたり、

【ウィーン イエズス会教会】

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* 君主の権限が及ばない
  貴族の力を削いで、
  安定した税制を導入したり、

その改革の範囲は多岐にわたる。

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その中でも、ぜひ書いておきたいのは、
イギリスよりも早く実現した
義務教育制度の確立だ。

「すべての地方、
 すべての階級の子どもたちに教育を」

と全土に均一の小学校を新設。
金持ちの子どもだけでなく、
すべての子どもたちが教育を受ける
ことができるようになった。

さらに注目すべきは教科書。

軍隊とは違って、
こちらはドイツ語を強制はしなかった。

10以上の言語で教科書を用意
商人の子どもも農民の子どもも
皆、自分たちの言葉で
教育を受けることができた。
その上で、
外国語教育も視野に入れていた。

若者たちの教育は
 国の幸福の源(みなもと)です


とも語っていたという。

 

ここに書いた通り、
シェーンブルン宮殿の中を歩くと
内装の豪華さ以上に
文化の多彩さに驚く。

欧州各地方の風俗に限らず、
中国ありインドあり・・・。

一番大きなメインの広間
「大ギャラリー」の天井画には、
中央のフランツ・シュテファン、
マリア・テレジア夫妻を囲むように
フランドル地方の海上貿易、
ボヘミア貴族の狩猟、
ハンガリーの牧畜、
オーストリア・
ザルツカンマーグートの岩塩、
イタリア・トスカーナ地方のワイン造り、
ミラノの絹織物
などの様子が描かれている。
民族の多様性を尊重していたことの
証とも言えるだろう。

同君連合国家の形態を
伝統的にとってきたとはいえ、

ウィーンで食べる料理が、
ハンガリだったり、
ルーマニアだったり、
バルカン地方だったり、
セリビアだったり、
スペインだったり、
ボヘミアだったりと
その起源が多岐に渡ることも
様々な文化を受け入れてきた
歴史を物語っている。

音楽だけではなく
多様な文化を受け入れる器として
ウィーンを「豊かな」都に
発展させていったマリア・テレジア。

これら君主としての活躍が
16人もの子どもを生みながら
成し遂げられていったことも
最後に記しておきたい。

 

 

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2018年9月 2日 (日)

オーストリア旅行記 (54) マリア・テレジア(3)

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オーストリア旅行記 (54) マリア・テレジア(3)

- シェーンブルン宮殿 -

 

軍隊を強化する一方で、
「スペクタクルが必要だ」と言っていた
マリア・テレジアは、
一大事業、シェーンブルン宮殿の
大改造に着手する。

ウィーン観光の目玉のひとつ、
今日はシェーンブルン宮殿を訪ねたい。

【シェーンブルン宮殿】

P7169211s

門を入ると、真正面に
壮大な黄色い建物が広がっている。

シェーンブルンとは
「美しい泉」という意味
で、
17世紀初頭、マティアス皇帝が
当時この地にあった狩りの城の森で
美しい泉を発見したことに由来している。

狩りの城はのちに
トルコ軍に破壊されてしまったため、
レオポルト1世の時代、1696年に
「フランスの
 ヴェルサイユ宮殿をしのぐものを」
と新しい城の建設工事が始まった。

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宮殿前広場も広々としている。

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宮殿の設計は
オーストリア・バロック最大の建築家
フィッシャー・フォン・エルラッハ。

婚礼のお祝いにこの城をもらった
マリア・テレジアは、
さらなる本格的な大改造に着手する。

工事はエルラッハ亡き後も続き、
18世紀半ば
マリア・テレジアの時代にその完成をみる


彼女の大改造の結果、完成したときは
1,441室の大宮殿になっていた。

中心から左右に翼を広げた宮殿は180m、
外壁の色は
マリア・テレジアの黄色とよばれる
高貴な色に塗られている。

のちに庭園側から撮った写真を
先行して一枚貼ってしまおう。

P7169246s

 

1,441室ある宮殿内部も、
その一部は一般に公開されているので、
音声ガイドを聞きながら
一部屋づつ丁寧に回ることができるのだが、
残念ながらここも部屋は写真撮影禁止。

印象に残った部屋のメモを
並べただけでも・・・

フランツ・ヨーゼフが人々と会っていた
高価なクルミ木材を使用した
「クルミの間」

フランツ・∃-ゼフが息を引き取った
質素な「寝室」

長い髪が濡れるのを防ぐ
ヘアーハンガーと呼ばれる輪が
壁に取り付けられている
「エリーザベトの浴室」

幼いモーツァルトが
マリア・テレジアの前で
ピアノを弾いた「鏡の間」

演奏会は大成功だったという。

幅10m、長さ40mの大ホールで、
マリア・テレジア時代に
祝典行事用広間になった
「大ギャラリー」

小さな宴会が催された部屋だが、
豪華さでは光っている
「小ギャラリー」

燭台用の青い陶器が美しい
「中国の丸い小部屋

19世紀、宮廷将軍たちの食堂だった
「馬の間

中国趣味で青の色彩が美しい
「青の中国サロン」

寄木張りの床と
漆の板張り壁が豪華で
未亡人となったマリア・テレジアが
おもに住んでいた「漆の間」

ナポレオンが
ウィーンを征服したときに使っていた
「ナポレオンの部屋」
時の皇帝フランツ1世は、
娘のマリー・ルイーズを
ナポレオンと結婚させた。
その息子ライヒシュタット公爵は
ナポレオン失脚後、
幽閉されるようにこの部屋で暮らし、
21歳で病死した。

無数のインド細密画が壁にはめ込まれた
ローズウッドの重厚な壁が印象的な
総工費が当時の通貨で
100万グルデンかかったという
「百万の間」

1830年にフランツ・ヨーゼフが生まれた
「寝室」
マリア・テレジアも使用した
天蓋付きベッドがある。

細かいことはともかく、
特定の地域や文化ばかりに偏っていない
「多彩さ」が特に強く印象に残る

 

宮殿内の写真は撮れなかったが、
外はもちろんOK。
まずは美しい庭を少し散策してみよう。

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中央正面の噴水を目指す。

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振り返ると宮殿が正面に。

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花々も手入れが行き届いていて美しい。

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噴水を越えて、
シェーンブルンの丘の上に建つ
「グロリエッテ」を目指す。

緩やかに丘を登る。

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だんだん角度が変わってくる。

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途中には大きな池も。

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芝生に寝転がって、
のんびりしている人も多い。

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少し高い位置に来たので、
前方右側遠方にはウィーン市街地、
シュテファン大聖堂の塔も小さく見える。

丘の一番上、
「グロリエッテ」に到着。

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全体の長さ135m、高さ26m、幅15m。
1757年に、プロイセン勝利と
戦没者慰霊のために建てられた
ギリシャ建築の記念碑。

距離感を伝えることは難しいが、
このグロリエッテを
宮殿から見るとこんな感じ。

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真正面、丘の上に
小さく見えるのがグロリエッテ。

庭の広さが多少は伝わるだろうか?
距離感、規模感が麻痺してしまう
広くて美しい庭だ。

 

 

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2018年8月26日 (日)

オーストリア旅行記 (53) マリア・テレジア(2)

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オーストリア旅行記 (53) マリア・テレジア(2)

- 「民族」寄せ集めの軍隊 -

 

前回
「スペイン乗馬学校」を紹介したが、
男性ばかりの騎手の中、
女帝と言われた
マリア・テレジアが、
実は馬も乗りこなしていた、
という話までを書いた。

そのことが大きな意味を持つ、
そのエピソードを始める前に、
時代を少し前に戻してみたい。

【アウグスティーナ教会】

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ハプスブルク家の洗礼を担う
王宮内にあるこの教会。
華美な装飾がなく、
「意外に地味」が入った時の第一印象。

 

この教会で、1736年、
カール6世の長女マリア・テレジア
ロートリンゲン、ロレーヌ公の次男
フランツ1世と結婚式を挙げた。

P7179538s

 

マリア・テレジア 18歳
フランツ1世シュテファン 27歳

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マリア・テレジアは、
6歳でシュテファンに出会い、
婚約が決まっていたとはいうものの、
当時の王室としては異例の
恋愛結婚
だった。

P7179541s

マリア・テレジアの父カール6世は、
早くから後継者問題に悩んでいた。
男子に恵まれていなかったからだ。

そこで、ある決断を下す。
ハプスブルク家領の
女子の相続を認める詔書を
発布することにしたのだ。
そして、
マリア・テレジアが結婚する時点では、
その内容を欧州主要国に認めさせていた。

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そんな父カールが
マリア・テレジア結婚のわずか4年後、
1740年に死去してしまう。

詔書に基づき
女性ながら、かつ23歳で
君主とならざるを得なくなった
マリア・テレジア

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(アウグスティーナ教会内には
 ピラミッド型の大理石彫刻が見事な
 マリア・テレジアの娘
 【マリー・クリスティーナの墓碑】
 もある)

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君主とはなったものの、
マリア・テレジアは
帝王学も学んでおらず、
欧州各国の嘲笑の的となってしまう。

そしてこれをハプスブルク勢力弱体化の
絶好の機会とみた対立国が動きだす。

「もはやハプスブルクは存在しない」

先の詔書を無視し、
オーストリア周辺国は、
オーストリア継承戦争へと
突入
していったのだ。

 

そのころ、
マリア・テレジアは
ハンガリのブラチスラバに向かっていた。

ハンガリはまだ、
継承戦争に参戦していなかったのだ。

伝統的に
馬を鍛えた強い軍隊を持つハンガリ


当時、ハンガリ君主は
ハプスブルク君主が兼任していたため、
マリア・テレジアは
ハンガリの聖マルティン教会で
戴冠式を執り行う

 

そしてそのあと、
彼女は驚くべき行動に出る。

皆が集まった街の広場に
なんと馬に乗って再登場したのだ。

そこで、後ろ足で馬を立たす技を披露。
サーベルを四方にかかげ
「ハンガリを守る」をアピールした。

続けて議会では
「今こそ戦わねば」と声をあげた。

彼女の馬術に心を掴まれたハンガリ市民は、
「われらの女王、マリア・テレジア」
と叫んだと言う。

これらのパフォーマンスが功を奏し、
ついにハンガリの参戦が決まる。

馬への思いが強いハンガリの民の心を
馬を乗りこなすことによって
しっかりと掴んだマリア・テレジア

 

ハンガリの参戦を得て、
ボヘミアの奪還に成功した彼女は、
今度は、ウィーンの街を
馬に乗ってパレードした。

名馬リピッツァナーに乗って、
パレードの先頭を行くマリア・テレジア。

それでも、最終的に
どうしても奪還したかった
シュレージェンを
取り返すことはできなかった。

 

軍隊を強くする必要性
痛感したマリア・テレジア。

なぜ、強くなれなかったのか?

 

旧陸軍省の建物を訪問してみた。

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壁面には、
多くの兵士の頭部が
彫刻で並んでいる。

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ちょっと気をつけて
各頭部を見比べてみてほしい。

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よく見ると、
服装も帽子もヒゲもすべてバラバラ。

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比較しやすいように、
頭部だけを4枚集めてみた。

Hei1s

まったく統一感がない。
「民族の寄せ集め」の軍隊だったことが
よくわかる


もちろん言語もバラバラ、
双頭の鷲のもととはいえ、
全体としてひとつにまとまることは
きわめて難しかった。

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 2007年放送 NHKハイビジョン特集
 シリーズ ハプスブルク帝国 
 第2回「女帝マリア・テレジア」


の中では、
ドイツ語、ハンガリ語、
イタリア語、チェコ語、
ポーランド語、スロバキア語
などが同じ軍隊の中で使われていた、と
現在の軍事学校の教官が
インタビューに答えていた。

P7159153s

そこで、マリア・テレジアは、
軍隊を強くするために
士官学校を設立
する。

そこでは、・・・

(1) 命令はドイツ語に統一
  命令に合わせてドラムを打つなど、
  指示系統を統一。

(2) 体罰を禁止し、
  高潔な兵士の育成を目指す。

(3) マリア・テレジア勲章を授与。
  指揮官を明示し、
  民族や身分にとらわれず
  有能な人材を重用

  勲章を授与されると
  貴族として宮廷に出入りすることもできた。

(4) 「乗馬」を必須科目に。
  馬術の習得はもちろん
  ボディランゲージによる
  馬とのコミュニケーション

  異民族間での人同士の
  コミュニケーションにも役立った。

などの姿勢を明確にし、
着実に成果をあげていった。

君主として次第に民衆の支持を
集めるようになるマリア・テレジア。

そして彼女は、
ついにあの大改造に着手する。

続きは次回に。

 

 

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2018年8月19日 (日)

オーストリア旅行記 (52) マリア・テレジア(1)

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オーストリア旅行記 (52) マリア・テレジア(1)

- スペイン乗馬学校 -

 

本記事で52回目となる
オーストリア旅行記。

ここ数回は、
ハプスブルク家の人々から、

* ルドルフ1世
 (生没:1218年-1291年)

* マクシミリアン1世
 (生没:1459年-1519年)

* カール5世
 (生没:1500年-1558年)

* フェリペ2世(スペイン王)
 (生没:1527年-1598年)

らを採りあげ、
大きく歴史を振り返ってきたが、
旅行中に撮った写真を挿絵代わりに
使ってきたものの、
本文が写真の説明にはなっておらず、
「旅行記」というタイトルからは
少し離れた記事が続いてしまっていた。

今日からは

* マリア・テレジア
 (生没:1717年-1780年)

について書きたいと思っているのだが、
彼女については、うれしいことに
訪問先と直接関連している
トピックスが多い。

関連する訪問先の写真を
積極的に使いながら、
「女帝」と呼ばれた君主の
足跡を追ってみたい。

 

まず、彼女が生きた時代、18世紀。
日本では江戸時代中期。
享保の大飢饉があり、
8代将軍吉宗、田沼意次らが
活躍したころ、ということになる。

エピソードには事欠かない人物ゆえ、
これまで参照してきた参考図書をはじめ、
多くの本に様々なエピソードが
紹介されているが、
いろいろ調べた中では、

2007年放送 NHKハイビジョン特集
シリーズ ハプスブルク帝国 
第2回「女帝マリア・テレジア」


がたいへんよくまとまっていた。
この番組を参考に、
訪問先の写真を交えながら、
話を進めていきたいと思う。

「今日からは」と書いた通り、
とても一回では終わらないボリュームだが、
興味のある部分だけでも、
のんびりお付き合いいただければと
思っている。

 

さて、マリア・テレジアに関して
最初に採りあげたいのは、
この乗馬学校。

【スペイン乗馬学校】
乗馬学校だが、
場所はなんと王宮の中!

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厩舎もすぐお隣。

なにも知らないと
馬がそこまで丁寧に、というか
大事にされていること自体に
ちょっと驚いてしまうが、
もちろんそれには
それなりの背景がある。

この乗馬学校は、1572年の創設。
世界で最も古い乗馬学校
だ。

当時、スペイン種の強靭な馬を
導入したことから
「スペイン」の名があるが、
その後、
スペイン、イタリアの名馬を
トリエステ近郊のリピッツァで交配、
古典馬術に最も適した気高い白馬
「リピッツァナー(Lipizzaner)種」

を誕生させた。

この馬を使った古典馬術は、
伝統と共に今もしっかり引継がれており、
ユネスコ無形文化遺産にも
登録されている。

調教された馬の高度なテクニックは、
本公演や調教見学として公開されており、
だれでも見ることができるようなのだが、
今回は残念ながら公開プログラムと
我々の旅程が合わなかったため、
乗馬学校の見学ツアーにのみ
参加することにした。

「学校」を見学するだけで、
馬の演技が見られるわけでもないのに、
観光客には大人気で
チケット売り場はかなり混んでいた。
(チケットを買う際、
「今日のこのコースでは馬の演技は
 見られないけれどOKですか」
 と何度も何度も確認された。
 演技を期待して、のトラブルが
 きっとあるのだろう)

チケットを買うと、
15人程度がひとグループとなり、
ガイドさんに付いて
学校内を歩くことになる。

日本語のガイドさんはいなかったので、
英語のガイドさんのグループに合流した。

「学校内の写真は基本的にOKだが、
 厩舎内(馬のそば)は撮影禁止」
との注意事項の説明からスタート。

最初に見たのは、
王宮内にある周回コース。

何頭かが、
ゆっくり周回コースを歩いている。

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古典馬術に適した馬が誕生した由来
馬術における、
馬と騎手との信頼関係の重要性
毎年開かれる馬術コンテストで競われる
高度な演技のポイント
コンテストにかける騎手たちの思い
などなど、
ひとつひとつ丁寧に説明してくれる。

後ろ足立ちなど、
コンテスト上位入賞者の
写真が並ぶエリアもある。

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ひととおりの説明が終わると
歩いて厩舎のほうに向かった。
幅の狭い道を渡るものの
まさに王宮に隣接した位置にある。

外から見るとこんな感じの厩舎だ。

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ずらりと並ぶ白い煙突にご注目あれ。

冬は寒いウィーン。
馬用の暖をとるための煙突だ。

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厩舎内での馬の撮影は禁止されていたので
写真を撮ることはできなかったが、
一頭一頭大事にされていることは、
厩舎内をちょっと歩いてみただけでも
よくわかる。

馬具が管理されている部屋もある。
馬具だけなのに妙に美しい。

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そういえば、
「エルメス」だって「グッチ」だって
もともとは馬具メーカだ。

 

外から撮った厩舎の馬。
白い背中が
少し見えるだろうか?

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その後再度、
王宮内の乗馬学校部分に移動。

最初に書いた通り、
今回の内部ツアーでは
馬の演技を見ることはできなかったのだが、
この乗馬学校の見どころは
なんと言ってもこの「室内馬場」。

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王宮の中にあり、
本公演ではシャンデリアの明かりのもと、
ワルツにのった
名馬の優雅なステップが披露される。

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話を最初に戻そう。
このスペイン乗馬学校と
マリア・テレジアには
いったいどんな関係があるのか?

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優雅な室内馬場は、
マリア・テレジアの父
カール6世の時代に
建てられたものだが、
単なる時代的な重なりを
言いたいわけではない。

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乗馬学校の騎手は
男性に限られている。
ところが、実は女性でただひとり、
馬を乗りこなした人がいる。

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その人こそ
ハプスブルク家唯一の女性君主
女帝と呼ばれたマリア・テレジアなのだ。

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ここで練習を重ね
馬を乗りこなしたことで、
彼女は大きな力を得ることになる。
それは誰のどんな力か?

この話、次回に続けたい。

 

 

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2018年8月12日 (日)

オーストリア旅行記 (51) フェリペ2世<スペイン王>(2)

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オーストリア旅行記 (51) フェリペ2世<スペイン王>(2)

- 的中!ノストラダムスの大予言 -

 

世継ぎを生むことが叶わなかった
2人目の妻メアリの待つイングランドに
1年3ヶ月ぶりに帰ってきたフェリペ2世。

このころから
彼のヒール(悪役)的特徴が
鮮明になってゆく。

これが前回の最後。
この続きから始めたい。

これまで同様、参考図書は
この2冊。

[1] 岩崎周一 (著)
  ハプスブルク帝国
  講談社現代新書


(以下水色部、本からの引用)

 

[2] 中野京子 (著)
  名画で読み解く
  ハプスブルク家12の物語
  光文社新書


(以下薄緑部、本からの引用)

 

今日も美術史博物館で撮った写真を
挿絵代わりに挿入しながら、
話を進めていきたい。

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フェリペ2世が1年3ヶ月ぶりに
イングランドに戻った理由は?

彼がもどったのは
何も妻に会いたいからではなく、
彼女の自分への愛情を利用して、
対フランス戦での
資金援助をあおぐため
にすぎない。

その後、前回書いた腫瘍が原因で
メアリは息を引き取ることになるのだが、
フェリペ2世は
メアリの葬儀にさえ出席しなかった。
しかも、内々に打診していた
イギリス女王との結婚が
失敗に終わると、
今度は変わり身早く
仇敵フランスに近づいていったのだ。

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そして3度目の結婚を迎える。

【3度目の結婚】

アンリ二世と講和を結び、ついでに
彼の娘エリザベートとの婚姻も決める
という、みごとな離れ業で、
イングランドの鼻をあかす。

だが、ここでもまた流血沙汰が
ついてまわった。

彼は、当時のしきたりに従い、
スペイン側としては
フェリペの代理人をたて、
フランスでエリザベートとの挙式
を行なった。

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【的中!ノストラダムスの大予言】

その席上、
フェリペの舅となるアンリ二世が、
自ら馬上槍試合に参加した。

 あまりに有名な
ノストラダムスの予言
的中例としてあげられる
のが、
この寿ぎの場で起こった
恐ろしい事故である。

 ノストラダムスの詩文に曰く、

若き獅子は人に打ち勝たん
 戦のにて一騎打ちのすえ
 黄を抉(えぐ)りぬかん
 傷はふたつ、
 さらに酷き死を死なん」。

 馬上試合の「庭」で
「一騎打ち」の最中、
「若い」対戦相手の槍が折れ、
「老」アンリの「金」の
「兜」(=檻)を貫いて 
「眼」に突き刺さったのだ。

王は九日聞苦しみぬいたあげく、
「酷き死」を迎えた。

 これがフェリペ三度日の結婚の、
縁起でもないスタートであった。

200万部以上が売れた大ベストセラー、
五島勉さんの著書
『ノストラダムスの大予言』が
日本で出版されたのは1973年なので、
日本での最初のブームを知っているのは、
50代も後半以上の方ということに
なるだろうか。

ただ、その中では、
「人類滅亡」にまで触れられており
「1999年 7の月に恐怖の大王が来るだろう」
との記述になっていたので、
実際の1999年の記憶がある
30代以上の方であれば
聞いたことがあるのではないだろうか、
「ノストラダムスの大予言」

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閑話休題。
縁起でもないスタートとなった
32歳の花婿と14歳の花嫁のカップルは
はたして幸せになれたのだろうか?

実はエリザベートは
生まれてまもなく、
フェリペの息子
カルロス(彼女と同年齢)と
婚約していた。

国家間の政略上
よくあることとはいえ、
フェリペは息子の婚約者を
奪った
ことになる。

しかも
カルロスとエリザベートは
この9年後、23歳で、
相次ぎ間をおかず死去してしまう。

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【オペラ「ドン・カルロ」】

ヴェルディのオペラ
『ドン・カルロ』も、
この黒い伝説をもとにしている


相思相愛だった
エリザベートとカルロスが、
「老王」フェリペに
仲を引き裂かれた悲恋を縦糸に、
横糸には、
当時独立運動が盛んだった
ネーデルランドを支持したカルロスが、
けっきょくはフェリペに邪魔されて
死に至るというストーリーだ。

実際のカルロスも
父に反逆して
ネーデルランドヘ行こうとし、
逮捕監禁され、自殺未遂のあげく、
半年後、牢内で病死している。

そしてそのたった2ヶ月後、
エリザベートが男児を早産。
まるでカルロスの呪いのように、
そのまま母子ともに死去してしまう。

結局、娘ふたりを残しただけだった

話は続く。

フェリペは
彼らを亡くした同年のうちに、
四人目の妻を迎える。

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【4度目の結婚】

今度の相手は
健康で多産でなければならない。
多産というなら、
十人も子を産んだ自分の妹だ、
というわけで、
現代人には受け入れがたい
叔父姪結婚、
正確には、従兄と実妹との間にできた
娘アナを妻にした。

大変な血の濃さ。

おそらくそのせいと思われるが、
アナは多産ではあったが、
生まれた子は次々夭逝し、
けっきょく
息子ひとり(フェリペ三世となる)を
残して
12年後に、
やはり産褥で亡くなった。

フェリペ53歳。またも独り身
ようやく息子を得て
もう結婚は考えていなかったのだろうか。


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それとも噂どおり、
スコットランド女王
メアリ・スチュアート

次の視野に入れていたのだろうか? 


幽閉中のメアリにフェリペが密かに
コンタクトを取ったせいで、
彼女は謀反人として
エリザベスから首を
刎(は)ねられてしまう

「スペインが動けば世界は震える」
と言われていたが、
間違いなく
フェリペが動けば血が流れた
のだった。

1500年代後半、
日本では戦国時代のころのことだ。

 

 

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2018年8月 5日 (日)

オーストリア旅行記 (50) フェリペ2世<スペイン王>(1)

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オーストリア旅行記 (50) フェリペ2世<スペイン王>(1)

- カクテル名「ブラッディ・メアリー」の由来 -

 

ハプスブルク帝国の歴史を

(1) ルドルフ1世
  (生没:1218年-1291年)

(2) マクシミリアン1世
  (生没:1459年-1519年)

(3) カール5世
  (生没:1500年-1558年)

で振り返ってきたが、
今日取り上げたいのは、
フェリペ2世(スペイン王)
(生没:1527年-1598年)


スペイン帝国の絶頂期、
ヨーロッパ、中南米、
アジアもフィリピンにまで及ぶ
大帝国を支配。
さらにポルトガル国王も兼ね、
ポルトガルが有していた植民地も継承。

「太陽の沈まない帝国」と言われた
スペイン黄金期に君臨した
偉大なる王だ。

これまで同様この2冊を参考図書に
見ていきたい。

[1] 岩崎周一 (著)
  ハプスブルク帝国
  講談社現代新書


(以下水色部、本からの引用)

 

[2] 中野京子 (著)
  名画で読み解く
  ハプスブルク家12の物語
  光文社新書


(以下薄緑部、本からの引用)

 

挿絵代わりに挿入する写真は、
美術史博物館で撮ったもの。

P7169423s

 

【流血のイメージ、フェリペ2世】

フェリペ2世が君臨したのは
スペイン黄金時代である。

だがその黄金は、
インカ帝国などでの略奪
ネーデルランドの
弾圧によって得た富であり、
血の匂い
たっぷり沁(し)みこんでいた。

おまけに絶えざる陰謀、
反乱、宗教戦争、
異端審問、ペストと、
この絶対君主の生涯は

(中略)

結婚にさえ、どこかしら
流血のイメージが
纏(まと)わりついている


四度の結婚で、それぞれ
ポルトガル、イングランド、
フランス、オーストリアから
妻を迎え、全員に先立たれた
というだけではない。

加えて
プロテスタント虐殺、事故死、
息子殺し
、などなど
まさに激動の人生を送っている。

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最初の結婚から順に見ていこう。

【最初の結婚】

 最初の結婚は16歳
相手は同じ年齢のポルトガル王女で、
父方からも母方からも従妹にあたる。

ハプスブルクの
少し垂れ下がった下唇を持つ
ほがらかな彼女は、
口数の少ない社交下手の
フェリペ皇太子に
若々しい喜びを与えたようだ。

ただし幸せは二年に満たず、
難産の数日後には
あっけなく世を去ってしまった。

18歳でやもめとなった
フェリペの手には、
ひ弱な息子が残された。

祖父の名にちなみ、
カルロスと名づけられたこの子が、
後世、ヴェルディの傑作オペラ
『ドン・カルロ』のモデル
となる。

たった二年で終わった一度目の結婚。
ひとり残されたひ弱な息子。

二度目の結婚は父の命令だった。

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【2度目の結婚】

 二度目は27歳のとき。
相手は11歳も年上の
イングランド女王メアリー1世
で、
これは父カール5世の命令だから
皇太子に否も応もない。

カトリック対プロテスタントの抗争が
再燃し始めたイングランドを、
しっかりカトリック化する
使命
を担ったのだ。

P7169414s

契約でイングランドに渡った
フェリペだったが、メアリーは
フェリペの意を汲み、
プロテスタントの反乱者
数百人をすでに血祭りにあげていた


後世、カクテルの名前になる
ブラッディ・メアリー
 (血まみれメアリー)

はこのエピソードに由来する。

よくこんな恐ろしい名前を
カクテルの名前につけたものだ。
単なる見た目だけによる命名ではなく
史実に繋がる背景があったかと思うと
トマトジュースベースとは言え、
もう冷静には味わえない気がする。

両親の離婚、幽閉、栄養失調、など、
多くの苦労を経験していたメアリーは、
病弱で痩せこけていたが、
世継ぎを産みたいとの執念だけは
強かった。

なので、訪れた「懐妊か?」の兆候には
大喜びしたようだが、
実際には残念なことに想像妊娠だった。
しかも、腹部の膨張は腫瘍
これがのちの命取りにまで
なってしまう。

 フェリペは
一見変わらぬ態度を示したが、
四十近いメアリーに
子を成すのはもう不可能と
見切り
をつけたらしい。

父の退位宣言を口実に、
滞在一年半足らずで
イングランドを去る。

メアリーは心のこもった手紙を
送り続け、帰国を待ち続けたが、
スペイン王フェリペ2世として
改めて彼がその姿を現したのは、
1年3カ月も後のことだった。

世継ぎを生むことが叶わなかった
2人目の妻メアリーの待つイングランドに
1年3ヶ月ぶりに帰ってきたフェリペ2世。

このころから
彼のヒール(悪役)的特徴が
鮮明になってゆく。

 

少し長くなってきたので、
激動という言葉がふさわしい
彼の人生の後半の話は、
次回にしたい。

 

 

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2018年7月29日 (日)

オーストリア旅行記 (49) カール5世

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オーストリア旅行記 (49) カール5世

- 70の肩書の意味 -

 

というわけで(?)、今日は
マクシミリアン1世の孫
カール5世
(生没:1500年-1558年)

について書きたいと思う。

日本では室町時代後半、
と言うかちょうど戦国時代。
 1534年 織田信長 誕生
 1536年 豊臣秀吉 誕生
 1542年 徳川家康 誕生
 1553-64年 川中島の戦い
といったころ。

参考図書は
これまで通り以下の2冊。

[1] 岩崎周一 (著)
  ハプスブルク帝国
  講談社現代新書


(以下水色部、本からの引用)

 

[2] 中野京子 (著)
  名画で読み解く
  ハプスブルク家12の物語
  光文社新書


(以下薄緑部、本からの引用)

 

今日も美術史博物館で撮った写真を
挿絵代わりに挿入しながら、
話を進めていきたい。

P7169398s

 

さぁ、始めよう。

カール5世こそ、
ハプスブルク家絶頂期の皇帝だ。

その支配領域を
上記の本[1]にあった図で見てみよう。

Karl5

フィリピン、オーストリア、
ネーデルラント、スペイン、
メキシコ、キューバ、ペルーと
まさに「日の沈まない帝国」は
誇張ではない。

まず最初、ややこしい名前について。

 日本人にとって
他国の王侯貴族の称号や名前は、
発音も絡み、非常にわかりにくい。

カール5世の場合、特にそうだ。
カールとカルロスが同源だろうとは
想像できても、
カール5世とカルロス1世が
同一人物
と聞いただけで、
世界史が嫌になった人も
多いのではないだろうか。

どうして
こういうことになるかと言えば、
ひとえに領土が広大
(欧州の3分の2と中南米を支配)
だからだ。

再度、最初に貼った地図を見ると
「領土が広大」の意味がよくわかる。

 

 彼は父フイリップ美公を継いだので
ブルゴーニュ公であり、

母方の祖父を継いで
スペイン王でもあり、

父方の祖父マクシミリアン1世を継いで
ドイツ王でもあり、

ローマ王でもあり、
ハンガリー王でもあり・・・と、
ヨーロッパ史上最多の
70もの肩書きを持った


そこで、
神聖ローマ帝国皇帝としては
カール5世、
スペイン王としては
カルロス1世

(後に玄孫がカルロス2世を名のる)
という次第。

P7169399s

 

70もの肩書。それは
単なる仰々(ぎょうぎょう)しさや
権威の誇張のためではなく、
多民族国家の統治に関する
大事な点を示していることを
[1]はわかりやすく説明してくれている。

 このような称号・肩書の羅列に
どのような意味があるのかは、
にわかには判じがたい。

しかし、こうした
冗長で仰々しい名乗り
- 中には実際には
  支配していない地域、
  また肩書だけで
  実体のないものもある -
が持つ意味を、
当時の人々は十分に認識していた

P7169400s

 

【同君連合国家】

それは、カールの息子
フェリーペ(2世)の時代に著された
『アラゴン王国要覧』(1588年)の
次の一節がよく物語っている。

「今日では
 すべての諸王国が結びつき、
 すべての諸王国が不敗を誇る
 我らのフェリーペ王
 お一人の意思によって
 治められているとはいえ、
 各王国は数世紀前に得た
 それぞれの古き法を維持しており、

 その法は
 他の諸王国の法とは
 何ら共通するものではないのである


 私たちの考えでは、
 何世紀も前から我らの君主による
 王令に示された
 おびただしい数の称号の起源は
 このようなことである


 これは、一見すると
 ひけらかしや虚栄心の故のように
 見えるかもしれないが、
 すべての諸王国を同じものとして
 考えてはならないということを
 はっきり理解させるための
 ものであった
」(内村俊太訳)。

つまりカール5世の下に誕生した
ハプスブルク君主国とは、
独自の法・制度・伝統を持つ
何十もの諸国・諸邦が、
同じ君主を戴くことによって成立する、
同君連合国家であったのだ

「独自の法・制度・伝統を持つ
 何十もの国が、
 同じ君主を戴く同君連合国家

P7169401s

独自の国制の尊重は、
決して形だけのものでは
なかったようだ。

この国家の統治において、
諸国・諸邦の諸身分と交わした
統治契約を守り、
その国制を尊重することは
絶対のルールであり、

それらの大小強弱にかかわらず、
決して侵害したり
粗雑に扱ってはならなかった


この禁を破ることは、
支配の正当性を失うことを
意味したのである。

いかに強大とはいえ、
カールもまた事情は同じであった。

彼がそれをよくわきまえていたことは、
退位の際に後継者フェリーペに対し、

自国の法を神聖不可侵と考え、
 臣民の権利や特権を
 侵害しないようにしなさい


と諭したことがよく物語っている。

今日の近世史家は、
このような近世ヨーロッパの諸国家を
複合(君主政)国家」と呼ぶらしい。

P7169406s

 

複合的な「日の沈まない帝国」を
支えていたのは、
まさに「各国家尊重の精神」で
強制的な「統一」ではなかった

 

 

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