歴史

2018年2月18日 (日)

オーストリア旅行記 (26) ウィーン国立歌劇場(1)

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オーストリア旅行記 (26) ウィーン国立歌劇場(1)

- 2280席中「1/4」は立ち見席 -

 

次の場所を訪問する前に、
ウィーン自然史博物館ネタから
ひとつだけ、読者の皆様の協力を
仰ぎたいと思っていることがある。

ウィーン自然史博物館の
ミュージアムショップで買った絵葉書に、
これがある。

Natur4s

絵葉書には、独語・英語で一行説明があり
英語部分は
Darwin ape -
 Detail from the frieze in the dome

となっている。
「ダーウィン(の)猿
 ドームの帯状彫刻から」

中央ドームの彫刻の一部と思われるが
実物を見た記憶はない。

それなのにわざわざ写真を買った
ということは、
なにか手にしたきっかけがあったはずだ。
ショップ内で
なんらかの説明文を目にし、
それを「おもしろい」と
思ったからとか。

ところが、旅行から
半年以上も経ってしまったせいか
そのきっかけを全く思い出せない。

旅行中のメモにも何も残っていない。

ただ単に
「おもしろい構図だから買った」
ということだってもちろんあるが
どうもスッキリせず気持ち悪い。

「Darwin ape」などの言葉で
検索もしてみたのだが、
きっかけに結びつくような
解説も見つからない。
そもそもこの彫刻は
何を表したものなのだろう?
Googleの類似画像検索でも収穫なし。

ダーウィンの進化論と
どんな関係があるのだろう?

というわけで、
この彫刻や、Darwin apeについて
なにかご存知の方がいらっしゃいましたら
コメントやメール等で
ぜひ教えて下さい。
よろしくお願いします。

 

さて、話を戻して
ウィーン観光を続けることにしよう。

次は、これまたウィーンを代表する
建築物のひとつ。
ここで書いた
リンク通りの整備と共に建てられた
建築物のひとつでもある。

【ウィーン国立歌劇場】

P7158842s

訪問が7月で
オペラの季節ではなかったため、
残念ながらオペラを見ることは
できなかったのだが、
その劇場は圧倒的な存在感を放っていた。

P7158844s

公演はないものの、
バックステージを案内してくれる
ガイドツアーがあるという。
それに参加してみることにした。

P7158849s

ガイドツアーは、ドイツ語以外にも
時間を選べば、
英語、イタリア語、日本語など
各言語で案内してもらうことができる。
日本語があるのはほんとうにうれしい。

集合場所に行くと
言語の書かれたプラカードが立っており、
言語別の集団ができていた。

今回、
日本語ガイドを担当してくれたのは、
流暢な日本語を操る現地の女性。

「ガイドツアー中の写真撮影は、
 フラッシュも含めてOKです」
とのうれしいコメントからスタート。

メモと写真を取りながらの
楽しい劇場内ツアーが始まった。

 

まずは、観客席側。
通常通り劇場に入り、
舞台を正面に見ながら
その歴史と概要を聞く。

舞台には豪華な緞帳がおりている。

P7158897s

この劇場は、
1869年に6年の歳月をかけて完成。
当初は宮廷歌劇場だった。

こけら落としの演目は
モーツァルトの「ドン・ジョバンニ」。
日本では
ちょうど明治が始まったころ
のことだ。

観客席側はこんな感じ。
5層のボックス席が美しい。
真ん中に見えるのが、
かつては皇帝も使っていたロイヤルボックス。

P7158889s

完成から76年後の1945年、
第二次世界大戦の空襲は
この劇場にも大きな被害をもたらす。
ごく一部を残すだけ、という大破。
3月12日のこと。

東京大空襲の日付を思うと
東京もここウィーンもまさに同じ頃、
空からの襲撃により
大きな被害を受けていたことになる。

その後、
外観はオリジナル通りに復元
内装のほうは50年代の好みを反映し
作り直された。

修復完成は1955年11月、
カール・ベームの指揮による
ベートーヴェンの「フィデリオ」が
修復完成記念の演目。

天井と照明はこんな感じ。
ワイングラスで有名な
ロブマイヤー製のシャンデリアらしい。

P7158896s

座席数は「1709」、
立ち見席は「567」、
合わせて約2280名が
オペラ/バレエを楽しむことができる。

立ち見席の比率にビックリ!
全体の1/4が立ち見席とは!

「シーズン中、
 高い席は日本円で2~3万円程度です」

この雰囲気の中、
ハイレベルな演奏が保証されて
「高い席で2~3万円」の説明に
話を聞いていた人たちが、
ちょっとどよめく。
「えっ、それなら安いじゃない」
のつぶやきがきこえる。

日本で有名オペラの来日公演を
聴くことと比較しているのであろう。
試しに、2017年バイエルン国立歌劇場の
来日公演の値段を見てみると
NHKホールのS席で6万5千円になっていた。

「立ち見席であれば 
 3ユーロから4ユーロ、
 つまり500円、600円程度で
 観ることができます。
 
 ただし、
 立ち見席は前売りがないため、
 公演80分前の売出しに
 並ぶ必要があります」

「立ち見席の数百円」にも
驚きの声がもれる。

P7158898s

「7月の今はオーケストラメンバは
 ザルツブルク音楽祭に忙しく、
 多くはウィーンにいないのです」

シーズンは9月から翌年6月末まで。
年間約300回の
オペラまたはバレエの公演がある。
基本的に毎日演目が変わる

「毎日!?」
そりゃ、裏方も忙しいことだろう。
裏方は2チームで
18時間体制でサポートしているとのこと。

この劇場では、
オペラまたはバレエの公演しかやらない
ミュージカルや演劇の公演はなし。
唯一の例外が、
ヨハン・シュトラウスの
オペレッタ「こうもり」。

 

劇場ツアーはまだまだ続く。

 

 

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2018年2月11日 (日)

オーストリア旅行記 (25) ヴィレンドルフのヴィーナス

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オーストリア旅行記 (25) ヴィレンドルフのヴィーナス

- 高校世界史の授業の思い出 -

 

【ウィーン自然史博物館】

P7148731s

で、見たかったもののひとつが、
ヴィレンドルフのヴィーナス」。

写真は撮れなかったので、
ミュージアムショップで買った
絵葉書の写真を添えておきたい。

Venus_s

名前は知らなくても、
教科書等どこかで目にしたことが
あるのではないだろうか。

なんと2万4千年も前のものと
推定されているらしいが、
実物は11cm程度しかなく、
目の当たりにすると
その小ささに驚いてしまう。
片手に収まってしまうサイズだ。

今このブログをiPhoneで
ご覧になっているとすれば、
そのiPhoneよりも小さい。

発見は1908年。
こんな小さなものを壊さずに
よく見つけ出したものだ。

 

では、どうして
実物を見てみたかったのか。

それは、
高校の世界史の授業の
小さな記憶と繋がっているから。

寄り道が多くて
ちっとも前に進まない旅行記だが、
今回も観光を離れて
しばし私の高校時代の
世界史の授業の思い出話に
お付き合い願いたい。

 

工学部をめざしていた私は
世界史の授業がある高校3年時、
いわゆる理系クラスにいた。

主力の理系科目でもないうえに、
私も含めクラスメイトの多くは、
当時の共通一次試験、
今のセンター試験の社会に
「世界史」を選んでおらず、
まさに受験に関係ない、
ということもあって
世界史の授業には
全く熱が入っていなかった。
と言うか
サボることばかり考えていた。

そんなクラスの世界史を任されていたのは
大ベテランのK先生。

やりにくかったであろう空気の中、
じつに淡々と授業を進めていた。

私は、と言えば、そういうわけで
数学や物理の内職(?)を
コソコソしながら聞いていた
不誠実な生徒だったのだが、
あれからウン十年、
「ながら」で聞いていたK先生の言葉が
自分でも意外なほど記憶に残っている。

 

「ヴィレンドルフのヴィーナス」の
写真が教科書に出てきたとき、
先生はこうおっしゃった。

「君たちはこの写真をみてどう思う?
 君たちが期待している女性の体型とは
 全然違っているだろう」

男子校での授業、
「女性の体型」という言葉に
内職をしていた生徒も皆
おもわず顔をあげた。

「大きな乳房とお尻、
 太ったからだは、
 子孫繁栄と豊かさの象徴。

 人々の願いが込められた像は、
 そういった部分が強調され、
 女性の体型がデフォルメされている、
 そう説明されることが多い」

ここで一呼吸おいて、
先生はこう続けた。

でもね、それは違うンだ

 どう違うかって?

 今の、私の妻を見てみなさい。

 まさにこのままの体型だ。
 デフォルメもなにもない。

 若い時は細くて美しくても
 女性はみんな歳をとると
 こういう体型になるンだぞ、という
 覚悟をも教えてくれているンだ」

軽い冗談に笑いながらも、
「覚悟」という言葉が妙に印象に残った。

男子高校生に
「女性」への「覚悟」を
初めて意識させてくれたヴィーナス。
今回、ようやくその実物に
会うことができた。

こんな目で見ている人は
他にいないだろうけれど。

 

この世界史のK先生、
他にもいくつもの印象的な言葉を
私に残している。

「為政者を動かす力は4つある。
 権力、暴力、金(かね)、それに女だ。
 
 歴史はこれらの力で動いていく。
 この史実にはどの力が働いたのか?
 そう思いながら歴史を見ると面白い」

こんな乱暴な説を、
聞いた方の生徒は
一生忘れないのだから、
先生という職業は恐ろしい。

 

そんな中、
最も強く残っているのはコレ。

当時はまだ「世界遺産」という言葉は
たぶんなかったと思うが、ずいぶん昔、
NHKがかなり力を入れて
世界各国の遺産を紹介する
「未来への遺産」という番組を
放送していたことがあった。

その番組に言及したあと、
先生はこう投げかけた。

「数年前『未来への遺産』という
 NHKの番組があったけれど、
 あそこで紹介されていた遺産は、
 ピラミッドだって
 万里の長城だって
 すべて
 『過去から未来への遺産』だ。
 
 じゃぁ、
 『今から未来への遺産』は何だ?

 君たちは未来に何を残せるンだ?

強烈な問いだ。

先生の熱いメッセージとは裏腹に
悲しいかな最近は
「未来への負の遺産」という言葉さえ
耳にするようになってしまった。

高校の時に一度聞いたきりなのに
それから数十年消えることのない
『今から未来への遺産』は何だ?
の問い。

それを私に残してくれたK先生には
今でも感謝している。

 

 

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2018年2月 4日 (日)

オーストリア旅行記 (24) ウィーン自然史博物館

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オーストリア旅行記 (24) ウィーン自然史博物館

- 向かい合って建つ双子博物館のひとつ -

 

前回書いた
リンク通りの整備と共に建てられた
建築物のひとつが「ウィーン自然史博物館」
完成は1889年8月。
日本でいえば明治22年。

右下を歩く人の大きさから
その規模が想像できるだろうか。

P7148731s

博物館まで行くと、
マリア・テレジア広場と呼ばれる
マリア・テレジアの像のある広場を挟んで、
ほぼ同じ外観の大きな大きな建物が
向かい合って建っている

まさに双子博物館。

【マリア・テレジア広場】

P7148750s

こちらが
【ウィーン自然史博物館】

P7148748s

そしてこちらが
【ウィーン美術史博物館】

P7148747s

ちょっと見では区別がつかない。

マリア・テレジアの像は
この2つの建物の真ん中にあって
こんな感じ。
奥に見えているのは美術史博物館。

P7148746s

どちらの博物館も
オーストリアはもちろん、
世界的に見ても主要な博物館の
ひとつと言われている。

美術史の方は後日改めて訪問、と
計画していたので、
今日は自然史博物館のみ。

ここの蒐集品は、
マリア・テレジアの夫
フランツ・ヨーゼフ1世のコレクションが
その起源になっているが、
その数は現在
3千万点にもなっているという。

ちなみに、
このフランツ・ヨーゼフ1世と
マリア・テレジアとの間に生まれた
16人の子どものひとりが
マリー・アントワネットだ。

 

この博物館、
内部のコレクションもすごいが
入るとまず建物自体に圧倒される。

P7148737s

ミュージアムショップの絵葉書には
中央階段からホールを見上げた写真も。

Natur2s

中央階段回りも宮殿のよう。

P7148743s_2

カフェテリアも

P7148735s

カフェテリアから見上げる丸天井も

P7148740s

どこを見ても風格があり美しい。

以前は宮殿だったものを転用、
というわけではない。
リンク通りの整備の一環で
博物館のために、
博物館用に建てられたもの、
というのだからもっと驚く。

 

館内は写真撮影が禁止されていたので、
写真で紹介することはできないが、
生物、地学関連の蒐集品を中心に、
さまざまな展示が続く。

重さ117kgもあるトパーズやら、
マリア・テレジアが夫に贈ったという
2800個もの宝石がちりばめられている
高さ50cm、重さ2.8kgの
「宝石のブーケ」
などもある。

とガイドブックにはあったのだが、
残念ながら我々が訪問したときには、
「宝石のブーケ」は貸出し中で、
実物を見ることはできなかった。

ミュージアムショップの絵葉書だと
こんな感じ。
夫から「もらった」ではなく、
夫に「贈った」もの。

Natur1s

上に貼った
中央階段の写真中央下にも写っているが、
フランツ・ヨーゼフ1世が、
鉱物コレクションを観察している絵もある。
これもミュージアムショップの絵葉書。

Natur3s

この時点で、彼の回りの棚は
コレクションですでに
埋め尽くされていることがわかる。

 

鉱石、化石、
動物の剥製、昆虫の標本、
巨大な恐竜の骨格、
さらには、地球や宇宙に関する展示も。
隕石だけでも相当な数がある。

多くの展示品の中、
今回実物を見たかったもののひとつが
「ヴィレンドルフのヴィーナス」

写真は撮れなかったので、またまた
ミュージアムショップで買った
絵葉書の写真を添えておきたい。

Venus_s

世界史の教科書等で目にしたことが
あるのではないだろうか。

なぜこれを見たかったのか。
高校時代の
小さな思い出と繋がっているから。

次回はその話から始めたい。

 

 

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2018年1月28日 (日)

オーストリア旅行記 (23) ウィーン リンク通り

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オーストリア旅行記 (23) ウィーン リンク通り

- 道幅の広い環状線はむかし -

 

ウィーン観光を始めるにあたって、
一番最初に
「リンク通り」に触れておきたい。

ドイツ語で
リンクシュトラーセ(Ringstraße)と
呼ばれるこの通りは、その名の通り
一周約5kmの環状線となっており、
ウィーン旧市街を取り囲んでいる。

Google mapを借りて
黄色の線で書き込んでみた。

Rings1

この環状線、道幅が
たいへん広いことも特徴のひとつ。

P7179523s

自動車用の車線数が多いだけでなく、
トラムの線路や
広い歩道なども確保されている。

P7179630s

さらにこの道、
道沿いに並ぶ建築物がすごい!

P7179662s

何が並んでいて、どうすごいのかは、
この旅行記の中で
順次紹介して行きたいと思うが、
今お伝えしたいのは、
幅の広い広い道路が
旧市街をリング状に取り囲んでおり
その道路沿いに、見事な建築物が
数多く並んでいるという事実


どうしてそんな道路があるのか?
なぜ環状なのか?

ちょっと時代を遡(さかのぼ)って
話をスタートしたい。

参考図書は、

広瀬佳一、今井顕 編著
 ウィーン・オーストリアを
 知るための57章【第2版】
明石書店

(以下水色部、本からの引用)

 

【堅固な市壁で守られていたウィーン】

中世の市壁はここで本格的な
稜堡(バスタイ)として整備され、
さらにその周囲には、
外部からの砲撃に備えて、
斜堤(グラシ)と呼ばれる
広大な空閑地が巡らされたのである。

 周囲を強固な防壁で固めた
このウィーンの都市形態は、
ハプスブルク帝国の
特殊な政治的・軍事的事情によって、
異民族侵入の危機が去った18世紀から、
さらに19世紀に入っても、
ほとんど変化をみなかった。

中世、
堅固な市壁に守られていたウィーン。

突き出した角(稜堡)を持つ市壁と、
その先に広がる広大な空閑地(斜堤)は、
この古い図を見るとよくわかる。

Ringsor

古い都市構造のままのウィーン。
近代化に向けて動き出した他の首都に
19世紀初頭、完全に遅れを取っていた。

【遅れていた都市改革】

ロンドンやパリなど、
他のヨーロッパ列強国の首都が、
19世紀初頭にはすでに都市近代化の
第一段階を通過していたのに対し、
ウィーンではいまだに
中世以来の都市構造が
保持されたのである。

外敵防備のための堅固な市壁は、
重火器の発達によって防壁としては
もはや役に立たなくなっていた。
なので、残ってはいたものの
18世紀には
すでに姿を変えていたようだ。

【公園となっていた市壁】

もはや
実際的な機能を果たさなくなっていた
稜堡(バスタイ)や斜堤(グラシ)は、
18世紀、ヨーゼフ2世によって
植樹が施され、
遊歩道や公園施設として開放された


こうして、
北イタリアからポーランドに至る
広大な領土を誇った帝国の首都は、
(中略)
19世紀前半には、緑地に囲まれた
のどかな田園牧歌的雰囲気で
人々を魅了していた。

しかし、この田園都市の
アナクロニズム(時代錯誤)は、
多くの弊害を生み出していた。

【都市の成長を妨害する市壁】

18世紀には市内の人口が25万から
30万人に達していたのに対し、
市壁と斜堤がこの人口増大に
見合った都市の面積拡大を妨げていた。

市壁内では
建蔽(けんぺい)率が90%を超え、
住環境が次第に悪化するなかで、
政府の指導で商工業者などを
防御施設の外側に移住させる施策が
とられたため、
都市は、幅約500メートルの斜堤を
ドーナツ状に残したまま
その外側に拡大する
という、
きわめて不自然な形態を
とるようになった。

たった8つの門のみで
外の世界と繋がっている
分厚い市壁に囲まれた
都市ウィーンは、しばしば、
石の衣をまとった女神の姿に
たとえられていた。

 

その女神が、
重く古めかしい装束を
一挙に脱ぎ捨てる時が
19世紀半ば、ようやく到来する。

【石の衣を脱ぎ捨てる女神】

1848年、3月革命を抑えて即位した皇帝、
フランツ・ヨーゼフは、
自由主義的な方向を打ち出す
若手官僚グループが取り上げた
都市拡張計画に対して、
深い理解と関心を示していた。

2度にわたるナポレオン軍の侵攻や
3月革命における都市騒乱の体験から
市壁撤去に猛反対する軍幹部を、
最後には減俸をもって脅しつけ、
皇帝は、1857年のクリスマスの朝、
新聞の官報欄に、
都市計画導入を命じる
親書の全文を掲載
させた。

25日付の「ウィーン新聞」の
一面に掲載された皇帝の言葉。
外壁を取り壊してそこを道路とし、
壁の内と外を融合していく
という
ウィーン市の拡張計画が公になった瞬間だ。

【1857年のクリスマス・プレセント】

都心部の住環境悪化に
悩んだ住民たちは、
これを、皇帝からの
「素晴らしい
 クリスマス・プレゼント」として、
狂喜したという。

 ここに開始された
都市拡張計画の概要は、
かつての斜堤の中央部に、
都市をぐるりと囲む形で
全長約4キロメートルの現状道路
(リンクシュトラーセ)を敷設
し、
その両側に構築される
新市街区によって、
旧市街と郊外部を
効果的に連結するというものであった。

18歳の若さで即位した皇帝が、
27歳の時にした決断。
今から約160年前のこと。

日本史で言うと明治維新の約10年前。
まさに幕末。

 

この日から、約半世紀にわたる
リンク通りの整備が本格的に開始される。

と言うわけで
道路が環状なのは市壁の跡地だから

その跡地に建設された道路と建築物は、
都市計画の観点からも、
見逃せない成果を生み出していく。

ルネッサンス様式、バロック様式、
ギリシャ様式、ネオゴシック様式
などの建築物が次々と登場。

市壁で分断されていた
旧市街部と郊外部が
道路と魅力的な新しい建築物によって
統合
されていく。

今のウィーンを見るときに、
ぜひ知っておきたい歴史のひとつだ。

 

 

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2017年12月24日 (日)

オーストリア旅行記 (18) 頭蓋骨の教会と遊覧船

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オーストリア旅行記 (18) 頭蓋骨の教会と遊覧船

- 遊覧船のデッキで -

 

少し高いところに登って
ハルシュタットの小さな町を
見下ろしてみるとこんな感じ。

P7138335s

下の写真左側、鍾塔の見える
カトリック教会に行ってみた。

P7138383s

ここの墓碑は、
木製のものが多い。

P7138354s

鉄細工の墓碑が印象的だった
ザルツブルクの
ザンクト・ペーター教会の墓地とは対照的。

P7138352s

墓地に植えられた草木が
ちょうど花をつけており
墓碑との組合せが美しい。

P7138340s

教会そのものは
大きくはないが、中に入ると
信者でなくても神聖な気持ちになる。

P7138349s

墓地の奥には、バインハウスと呼ばれる
建物が建っている。

P7138353s

ここは入場料が必要だが
中に入ってビックリ!

P7138356s

すべてほんものの頭蓋骨。
しかも、生没年や花や葉などなど、
様々なものが丁寧に描き込まれている。


P7138358s

頭蓋骨の下には、大腿骨か(?)
大きな棒状の骨が
薪のように積み重ねられている。


P7138361s

土地が狭く、
墓地が十分確保できなかった
ハルシュタットでは、
埋葬後10-20年を経たら、遺骨を取り出し、
そこに次の遺体を埋めるという風習が
あったらしい。
その、掘り出した遺骨を納めたのが
バインハウスだ。

それぞれの絵には
どんな思いが込められているのだろう。

 

教会から湖畔に戻ってきた。

湖側から町や山を見てみたくなり、
1時間程度で一周する
遊覧船に乗ってみることにした。

出発直後の景色がコレ。

P7138385s

近くの黄色い建物は
ゼーホテル グリューナー バウム
(Seehotel Grüner Baum)というホテル。
皇妃エリザベートも
滞在したことがあるという。

P7138384s

家並みのかわいらしさと対照的な
迫るような山の迫力が、
湖からだとよくわかる。

P7138388s

湖畔沿いの道には人が小さく見える。

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振り返ると教会の塔も小さくなっている。

P7138392s

町から少しはずれると
建物の雰囲気も少し変わってくる。

P7138396s

世界最古の塩抗
「ハルシュタット塩抗」
に向かうための
ケーブルカーもよく見える。

P7138402s

風が気持ちいい外のテーブル席、
たまたま相席となったのは、
新婚旅行中のカップルだった。

P7138407s

オマーンから来たと言う。
「オマーン」を知っているか?
と聞かれたので、
「yes」と答えたが、
知っているのはサウジアラビアの近く
アラビア半島の先の方、という
だいたいの国の位置くらい。

そう言えばサッカーの
ワールドカップのとき、
日本と深く関わるエピソードが
あったような、とぼんやり浮かんだのだが、
記憶があやふやで
話題にできるほどはっきりしない。

P7138410s

一週間、
ヨーロッパを新婚旅行で回るという。

新婦、奥様の手の甲には、
紺色の細い線で、
細かく美しいレース模様が
丁寧に描かれている。
ヘナタトゥーと呼ばれる
「消える」入れ墨の話を聞いたことがあるが
このことだろうか?

単なるおしゃれのひとつなのか、
宗教的な意味があるのか、
そのあたりのことが
全くわからなかったので、
「きれいだな」とは思いつつ、
「写真を撮ってもいいですか」
とはとても聞けなかった。

雰囲気のいい、おふたり。
どうぞ末永くお幸せに。


P7138452s

写真と言えば、この遊覧船上に、
我々夫婦以外に日本人がふたりいた。

30代の娘さんとお母さんの二人組み。
カメラを持ってウロウロしているとき、
「写真を撮っていただけませんか?」
と日本語で声をかけられた。

母娘並んでの写真を撮りたかったようで、
もちろん喜んでシャッターを押したが、
その際、少し話をした。

P7138458s

ウィーンにツアーで来ており、
オプショナルツアーで
ハルシュタットに来たとのこと。
もちろん日帰り。
その自由時間に遊覧船を選んだのだとか。

「海外に母と来るのは
 初めてではないのですが、
 これまでもツアーばっかりで。

 今回も
 ウィーンから電車に乗って
 自力で来ることも考えたのですが、
 途中にどうしても一度乗換えがあり、
 その乗換えがうまくできるか自信がなくて、
 結局バスで連れてきてくれる
 オプショナルツアーにしちゃいました」

あちこち連れて行ってくれるツアーから
自力で動く個人旅行に
挑戦したい、踏み出したいという意欲が
会話の端々から感じられる。

あと一歩、ほんの少しの勇気。

「大丈夫。
 ぜひ挑戦してみて下さい。
 その思いさえあれば、
 きっとうまくいきますよ」

口に出しては言わなかったが、
そんな思いをたっぷり込めて
「どうぞ、よいご旅行を」
と笑顔で別れた。

 

 

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2017年12月10日 (日)

オーストリア旅行記 (16) ハルシュタット遺跡の発見

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オーストリア旅行記 (16) ハルシュタット遺跡の発見

- ヨーロッパの源流のひとつ -

 

「世界一美しい湖畔の町」と呼ばれ
世界遺産にもなっているハルシュタット。

ホテルにチェックインし、
身軽になったので
さっそく町歩きにでかけたのだが、
景色を楽しむ前に、
少し歴史を振り返っておきたい。

前回の最後にこう書いた。
繰り返しになってしまうが、
もう一度書きたい。

ザルツブルク(Salzburg)は、
salzが「塩」
burgが「城、要塞、砦」
つまり「塩の城」という意味だった。

ハルシュタット(Hallstatt)も、
ハルはケルト語で「塩」
シュタットはドイツ語で「町」
つまり「塩の町」
を意味している。

どちらも「塩の町」。

なぜケルト語なのか?
なぜ塩なのか?

参考図書として、

鶴岡真弓, 松村一男 (著)
図説 ケルトの歴史:
歴史・美術・神話をよむ
(ふくろうの本/世界の歴史)
河出書房新社

を読みながら、
背景となる歴史を眺めてみたい。
(以下水色部、本からの引用。
 2017年11月に新版が出たばかりだが、
 引用は旧版から)

 

ハルシュタットは、

「豊かな塩山を背景に、
 ハプスブルグ家の『塩』の御料地として
 栄えてきた」

のように紹介されることも多いため、
時代的にハプスブルグ家と
同期して考えてしまいがちだが、
実はその起源は恐ろしく古い

そもそもハルシュタット文化とは、
考古学上A期からD期に別れているものの、
なんと
紀元前1200年から紀元前475年ごろ
のことを指す。

つまり今から見れば、
3200年前から2500年前!


岩塩の採掘も、
紀元前8世紀ごろには盛んだったようだ。

参考図書にもこうある。

ハルシュタット時代には、
東方にスキタイ人、
南東にイリュリア人、ギリシア人、
アルプスの真南にエトルリア人がいたが、
ケルト人は地中海と北方を結ぶ
「塩の道」の交易路を支配していた


前700-500年頃まで
ヨ-ロッパにおける岩塩採掘の
センターとして栄えていた
のである。

今も一部は現役ながら、
「世界最古の岩塩坑」として
観光客に公開されている
「ハルシュタットの岩塩坑」の歴史は、
2500年以上ということになる。

 

というわけで驚くほど古くから
塩によって栄えていたハルシュタットだが、
その名を広く世界に知らしめたのは、
「ハルシュタット遺跡の発見」だった。

ハルシュタット遺跡の発見は
1846年

塩山の管理官ゲオルグ・ラムザウアーが
ハルシュタットC期(前750-600年)
とD期(前650-450/400年)
に当たる墓を発掘、

リンツやウィーンの発掘隊が加わって、
1863年までの17年間に
980の墓、
1万9497点の出土物が発見
された。

(中略)

シュリーマンによるトロイア発掘より
四半世紀も早い、
もうひとつのヨーロッパ源流の
大発見となった
のである。

「ヨーロッパ源流のひとつ」とは。

ここからの多くの出土品、
(装身具や武具、馬具、什器など)に
チェコ、スロバキア、オーストリア、
ドイツ南西部に展開された
この時期の鉄器の特殊性が認められたため
同地の名称で呼ばれるようになった。

参考図書の言葉を借りれば

ハルシュタット文化は
この遺跡を名祖(なおや)として、
東西に広がっている

 

なお、
このハルシュタット遺跡の発掘時には、

56年に皇帝フランツ・ヨーゼフと
皇后エリザベートが
第507号墓発掘に立ち会っている。

このお二人、56年以外にも
ここハルシュタットに立ち寄っているようだ。
湖畔にはこんな記念碑

P7138565s

も建っていた。

P7138566s

 

さて、
ずいぶん前置きが長くなってしまった。

町の散歩に出かけることとしよう。

険しい山肌に張り付くように
木造の家々が並んでいる。

P7128239s

それぞれの家には、
花が工夫して飾られており

P7128223s

見上げながら歩くだけでも気持ちがいい。

P7138266s

山と湖に挟まれた町は狭いので

P7128241s

町に入る車を制限している。

つまり、一般車両は
自由に町には入ってこられない。

P7128224s

大型バスはもちろん、
通常の観光客は、
町の入り口にある
大きな駐車場に車を停めて
基本的には皆、徒歩で町に入ってくる。

湖畔に出ると、
その独特な雰囲気に
思わず足が止まってしまう。

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山と湖と
山肌に張り付く木造の建物の
バランスがなんとも言えず、
言葉にならない。

P7128218s

湖畔のレストランも
この景色の中で食事ができるなら、と
大盛況だ。

P7128221s

対岸の山々も美しい。

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家から直接船にアクセスできる
京都、伊根町の舟屋のような家々も
湖畔に並んでいる。

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まだ明るいが時間としては
もう午後7時。

P7128228s

湖畔を歩きながら、
夕食に向かうことにした。

 

 

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2017年12月 3日 (日)

オーストリア旅行記 (15) ハルシュタット到着まで

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オーストリア旅行記 (15) ハルシュタット到着まで

- ホテルは築400年! -

 

ザルツブルクから次の目的地、
ハルシュタット(Hallstatt)に向かう。

ザルツブルク駅から、
アットナング・プッハイム
(Attnang-Puchheim)駅までは
ウィーンから来たのと逆方向
同じ特急railjetで約50分。

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車内にはこんな喫茶室もある。

P7128181s

 

アットナング・プッハイム駅で
ローカル線に乗換える。
ハルシュタット駅までは、
乗換えてから約1時間15分。

乗換えもわかりやすいし、
時間も正確だし、
駅も電車も清潔でかつ安全な感じだし、
オーストリアの鉄道は
慣れない旅行者にもストレスが少ない。
ドイツ語が読めないことだけがつらいが
まぁ、路線図さえあればなんとかなる。

乗換えたローカル線も、
ローカル線とは言え車両も新しく、
車内もこんな感じできれいだった。

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まもなく、
オーストリアで愛用されている陶器、
「グムンデン焼き」の生産地で有名な
グムンデンに。

妻は、ザルツブルクのショップで見た
シンプルな絵柄の食器が気に入り
すでに小柄なボウルを購入していたが、
まさに生産地を通過するなら
直売所もある陶器工場にも寄れないものかと
最後の最後まで迷っていた。

結果的に、駅から工場まで
ちょっと距離がありそうだったこともあり、
残念ながら時間の都合でパス。
次回のお楽しみ、ということになった。

グムンデンを通過すると、
左手にトラウン湖(Traunsee)が見えてきた。

これがまた美しい!

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ちょっと雲が多くなって来ていたが、
湖も山も、そして家並みも緑も、
「帰りにもう一度通るので、
 その時は降りてみようか」
と思わずにはいられない魅力がある。

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トラウン湖を過ぎると、
バート・イシュル(Bad Ischl)に到着。

ここも結果的には停車しただけだったが、
降りたかった町のひとつだ。

温泉保養地として
よく知られている町ではあるが、
ここはシシィの愛称で知られる
皇妃エリザベートの
数奇な運命が始まった町
でもある。

1853年、
皇帝フランツ・ヨーゼフは
バイエルン公女ヘレーナとの見合いのために
この町を訪れた。

ところが皇帝は、ヘレーナではなく
付き添ってきたヘレーナの妹
15歳のエリザベートのほうに
ひと目惚れ
してしまい
彼女に結婚を申し込んでしまう。

その後・・・。

エリザベートのことは、
ウィーンに移動したあと、
少しまとめて書きたいと思っている。

皇帝は、エリザベート亡き後も
思い出の地であるこの町へ、
毎年訪れていた。

ハプスブルグ家の別荘だった
カイザービラもこの町にあり、
夫妻が過ごした部屋も
公開されているという。

 

バート・イシュル通過後、
しばらくすると、ついに
ハルシュタット湖(Hallstätter See)が
見えてきた。

ただ、ハルシュタットの町は
湖の対岸にあるため、
電車からではまだまだ小さい。

ハルシュタット駅に到着。
小さな駅舎はあるものの
無人駅だ。

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ここから対岸の町ハルシュタットまでは、
小型の渡し船で約10分。

駅の周囲には何もないので、
電車から降りた乗客は
事実上全員、渡し船に向かう。

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(電車から降りた後、
 いきなり湖畔のトレッキングや
 自転車持参でのサイクリングを始める人も
 ゼロではないが、ごくごく少数)

対岸までひとり2.5ユーロ。

いよいよご対面が近いのに、
タイミング悪く
雲行きがかなり怪しくなってきている。

目指すは対岸の湖畔の町ハルシュタット。

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途中、駅の方を振り返ってみた。
中央の小さな船着き場が、
渡し船の出発点。
そのすぐ上、
右側の白い横線が鉄道。

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この位置からでは
緑の茂みの中で駅舎も見えないが、
ハルシュタット駅の回りには、
船着き場以外なにもないことがよくわかる。

流れる黒い雲が湖を覆い、
風が強くて湖面が波立っていたうえ、
雨もポツポツと始まってしまった、
という状況だったので、
ベストコンディションでの町との対面
というわけにはいかなかったが、無事
ハルシュタット側の船着き場に到着した。

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船から降りると、
天気はイマイチながら、
町のオーラをヒシヒシと感じる。

散策へのはやる気持ちを抑えて、
荷物もあるので、まずは
ホテルのチェックインに急いだ。

案内された部屋はこの建物の3階。

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ホテルの人の話によると、
400年ほど前の建物だとか。

そういえば、
2012年、トルコ旅行時
昔のシルクロードの隊商隊が宿にしていた
キャラバンサライと呼ばれる所に
港町クシャダスで泊まったが、
そこも建物は400年級の古さだった。
建物の規模は全然違うが、
やはり石造りの建造物は
長持ちするということなのだろう。

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建物自体はほんとうに古くて
もちろんエレベータもないが、
中は完全にリノベーションされており、
水回りも含めて実に快適。

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掃除も行き届いていて、気持ちいい。

心配した天気の方も、
山の天気か、変化が速く
どんどん快方に向かっている。

よし、荷物を置いて
身軽になって散策だ!

 

ところで、以前書いた通り、

ザルツブルク(Salzburg)は、
salzが「塩」
burgが「城、要塞、砦」
つまり「塩の城」という意味だった。

ハルシュタット(Hallstatt)も、
ハルはケルト語で「塩」
シュタットはドイツ語で「町」
つまり「塩の町」
を意味している。

どちらも「塩の町」。

なぜケルト語なのか?
なぜ塩なのか?

次回は、参考図書の助けも借りながら
「世界で一番美しい湖岸の町」
と呼ばれる世界遺産のこの町を、
ゆっくり散策してみたい。

 

 

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2017年11月26日 (日)

オーストリア旅行記 (14) ホーエンザルツブルク城塞

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オーストリア旅行記 (14) ホーエンザルツブルク城塞

- 「カノッサの屈辱」後の報復を恐れて -

 

ザルツブルクのシンボルのように、
この旅行記にもすでに
何度も何度も登場しているが
今日は、
市内の至るところからその姿を眺められる
ホーエンザルツブルク城塞
訪ねてみたい。

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城塞は町を見下ろす小高い山の上にある。
もちろん歩いても行けるが、
今回はケーブルカーを使ってみた。

乗り場には、ひと目でケーブルカーと分かる
鉄細工の看板がある。

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ザルツブルクカードがあると、
このケーブルカーも無料。

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【ホーエンザルツブルク城塞】
ケーブルカーなら2分もかからない。
あっと言う間に到着。
高いところに登ってきたので
とにかく景色がいい。

旧市街からザルツァッハ川、
その向こうの新市街と、
まさに一望できる。

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市街の側からは見えなかった
丘の向こう側も
もちろんよく見える。

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あまりの景色の良さに、
城塞であることを忘れてしまうほどだ。

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実際の山の高さは120mほどだが、
視界の感覚からすると
もっと高いような気がする。

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城内を見学しようとして
最初に目に飛び込んでくるのは
りっぱなこの紋章。

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「祖国の父」と呼ばれる
大司教パリス・ロドロンの紋章。
8の字型の尻尾を持つ
ライオンをかたどっている。

城塞なので、もちろん大砲も。

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ホーエンザルツブルク城塞は、
1077年、ザルツブルクの大司教
ゲープハルトにより建設が開始され、
その後、幾度も増改築が繰り返されて
17世紀に現在の姿となった。

建造のきっかけは、
神聖ローマ帝国皇帝
ローマ教皇と聖職叙任権をめぐって、
対立したことに始まる。

大司教は弱体化した皇帝を見限って
教皇側につくも、
歴史的に有名な「カノッサの屈辱」で、
形のうえでは皇帝と教皇が和解。

しかし、
大司教は皇帝派の報復を恐れ
身の安全を確保するために
強固な城塞を築く必要に迫られていた。

皇帝  対  教皇 (大司教)

そこで建設されたのがこの
ホーエンザルツブルク城塞というわけだ。

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神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世
愛称「赤髭王(バルバロッサ)」
(在位1152年 - 1190年)による
ザルツブルク焼討ちでも焼失を免れている。

その後、敵の侵入に備え、
見張り塔や武器庫、穀物貯蔵庫などを
次々と増築。

永年の増築により
城塞は堅固さを増し
1525年の農民改革の際は、
反乱軍が3ヵ月にわたって
城を取り囲んだが陥落せず、
兵糧攻めにも耐え抜いたという。

築城以来、
敵に攻め落とされたことは一度もなく、
難攻不落の城として名高い。

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なお、当然のことながら
高い城塞に物資を運ぶ専用の輸送手段は、
最初からちゃんと確保されていたようだ。

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右手に見える滑り台のような軌道の上を
ケーブルのついたトロッコが
城中央の巻き取り装置に巻き取られながら
登って行ったらしい。

 

城塞から旧市街に降りてきた。
旧市街にあるひときわ塔の高い教会がこれ。

【フランティスカーナ教会】

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1223年に建造されたのち、
幾度か改築を重ねたため、
年代ごとに異なる建築様式を併せ持つ
複雑な構造となっているらしい。

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時間の都合で中までは見学できなかったが、
石の質感には特徴がある。

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【音楽祭準備】

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ザルツブルク音楽祭が
10日後に迫っていたため、
その準備のため
大聖堂の正面「ドーム広場」には
入ることができなかった。

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レジデンツ見学の際、
窓から会場を覗きこんで撮った写真。

隣接している
フランティスカーナ教会の塔が
美しく見えている。

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満員の観客を前に、
どんな舞台が繰り広げられるのだろう。

もう一度来る機会があれば、
そのときはぜひ音楽祭も楽しみたいものだ。

 

小さな町ながら、2泊でも結局のところ
駆け足になってしまったザルツブルク。
それでも
映画「サウンド・オブ・ミュージック」
ネタを含め、おおいに楽しむことができた。

旅行記もつらつらと書いていたら、
ザルツブルクだけですでに13回。

さぁて、そろそろ次の町に移ろう。
長距離高速電車ÖBBに乗って出発だ。

目指すは湖畔の町「ハルシュタット」

次はどんな景色や人に出会えることだろう。

 

 

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2017年11月12日 (日)

オーストリア旅行記 (12) ザルツブルクで聴くピアノトリオ

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オーストリア旅行記 (12) ザルツブルクで聴くピアノトリオ

- モーツァルトが演奏した部屋で -

 

【モーツァルトの生家】
観光客が多く訪れるザルツブルクの
メインストリート「ゲトライデ通り」に
黄色のよく目立つ建物がある。

1756年1月27日、
モーツァルトはここで産声をあげた


日本で言うと、
田沼意次(1719年生)や
杉田玄白(1733年生)らの時代


ザルツブルクの
一大観光スポットとなっている。

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見学をするためには、
こんな階段を登っていく。
今は、2階から4階が記念館になっている。

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当時のままの台所はこんな感じ。
と、この写真を撮ったところで
館内写真撮影禁止の表示を発見。
ゴメンナサイ、気がつきませんでした。

P7117867s

というわけで残念ながら以後写真なし。


館内の写真は禁止されていたが、
「窓からの景色はOK」
とのことだったので、
1枚だけパチリ。

260年前、
窓からは何が見えていたのだろう?

ここで生まれて、
7歳まではこの部屋で過ごしていたらしい。

窓からの景色の変化はわからないが、
子どものころのモーツァルトが
この部屋を走り回っていたことは
確かなことのようだ。

P7117870s

館内には、自筆の楽譜やら、肖像画やら
楽器やら、オペラのセットの模型やら
関連グッズの土産物やら、
いろいろ展示されているが、
生家をそのまま使っているので、
観光客がぐるぐる歩き廻っていると
かなり狭苦しい。

多くの展示品の中で
一番印象的だったのは自筆譜。
美しい音楽は譜面も美しい

 

【モーツァルト広場】
モーツァルトはザルツブルクを代表する
出身者なので、
生家から歩いて5分ほどの広場には
1842年に作られた立派な銅像がある。

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広場の名前もモーツァルト広場。
レジデンツ広場に隣接しており、
周囲にはカフェやショップが並ぶ。

観光案内所もあり、ある意味
ザルツブルク観光の起点となっている。

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近くの広場にいた
ストリートパフォーマーも
音楽の街ならでは(!?)。

片手のみを電子ピアノに軽く乗せて
宙に浮いているが、その電子ピアノは、
ありえない不安定な角度で
古本の上に立っている。

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【カラヤンの生家】
ザルツブルクの出身者と言えば、
もう一人はずせない人がいる。

こちらも音楽家。

指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤン
1908年4月5日生。

日本ではソニー創業者の井深大さん、
同じ指揮者の朝比奈隆さん
らが同じ年の生まれ


ザルツァッハ川のすぐ横に
生家がある。

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庭には、指揮をする
カラヤンの銅像があるのだが、
なぜかあまりカッコよくない。

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もっと「カッコいい」カラヤンは、
指揮をする映像や、
レコードジャケットの写真などに
数多く残っているのに・・・

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【ミラベル宮殿コンサート】
ザルツブルクに到着直後
インフォメーションセンタで
いくつか尋ねたコンサート。

結局、
ミラベル宮殿で開催される
TRIO AMIENSの
ピアノ・トリオの演奏を
聞きにいくことにした。

Mirabell1


宮殿の大理石の階段は、
「天使の階段」と呼ばれていて
小さな天使の彫刻に溢れている。
ラファエル・ドナー作。

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会場はその奥の部屋。
「大理石の間 Marmorsaal」

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100人強程度の小規模なものだが、
金の装飾に溢れた部屋は、
その雰囲気だけでも十分楽しめる。

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モーツァルトも、
この広間で演奏を披露していた
という。

曲は、ハイドン、ブラームス、
モーツァルト、ベートーベンの作品から。

プログラムの透かしが美しい。

Mirabell2

演奏は、
ピアノ、バイオリン、チェロの
3本のみ。

部屋の窓を開け、
夜風を招きながらの演奏。

P7118046s

ひんやりというほど涼しくはないが、
エアコンの風よりははるかに気持ちいい。

演奏のほうは、
バイオリンの方がほんとうに上手で、
期待していたものよりワンランク上の
演奏というより「芸術」を楽しめた気分。

行ってよかった。満足度高し。

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ところで、このミラベル宮殿、
元は、大司教ヴォルフ・ディートリヒ
1606年、愛人サロメ・アルトと
彼女との間に生まれた15人の
子どもたちのために建てた
もので、
古くはアルテナウ宮と呼ばれていたらしい。

「北のローマ」をめざして、
今も残るザルツブルクの町並みに
多くの影響を与えた大司教だが、
アルテナウ宮完成後に失脚。

ホーエンザルツブルク城塞の
地下牢獄に6年も幽閉され
1617年に獄死、という
まさに劇的な一生を送っている。

宮殿は、
のちに「ミラベル」宮殿へと改名された。
ミラベルとは「美しい眺め」という意味。

コンサートが開かれる
「大理石の間」がある一方、
現在は、市役所、図書館としても
使われている。

 

ザルツブルク観光、もう少し続けたい。

 

 

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2017年9月17日 (日)

オーストリア旅行記 (4) ザルツブルクの発祥

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オーストリア旅行記 (4) ザルツブルクの発祥

- ザルツは塩、ブルクは城 -

 

最初の夜から時差ボケと無縁の
熟睡ができたおかげで、
目覚めもさわやか。

ホテルの朝食はバッフェスタイル。

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チーズ、ハム・ソーセージ、
パン、シリアルなどなど
種類が豊富で
全部味見してみたくなる。

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はちみつは、
トルコのホテルで見たものと同様
巣から直接取るスタイル。
味というよりも
見た目にインパクトがある。

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レストランの入り口には、
ややピンク色を帯びた
きれいな色の大きな岩塩が。

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そう、ここはザルツブルクなのだ。

ザルツブルク(Salzburg)

salzが「塩」
burgが「城、要塞、砦」
つまり、「塩の城」という
意味の名を持つこの町は、
周囲の岩塩鉱から産出される
塩の取引で繁栄を続けてきた。

ザルツブルクの旅行記を始めるにあたって、
まずは、その起源に関わる
古い歴史的な施設・建造物から
話を始めたいと思う。

どれもその起源は8世紀。

現在の建物は当時のものではないが、
その名は、創立時より絶えることなく
ザルツブルクの歴史を支えている。

 

【ザンクト・ペーター教会】
696年に聖ルペルトが
この地方の布教活動の拠点として
僧院を創設した。
今日、ドイツ語圏に現存する
最古の修道院のひとつとなっている。

付属のザンクト・ペーター教会は、
現在はこんな感じ。

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12世紀半ばにゴシック様式で改築された。

この教会には、
岸壁をくり抜いて作った共同墓地、
祈祷のための
洞窟「カタコンベ(Katakomben)」がある。

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岩山に張り付くような構造が印象的だ。

隣接するザンクト・ペーター墓地は、
鉄細工の墓碑と花が美しい。

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鉄柵で区切られた墓地も特徴のひとつ。
鉄柵の文様も区画ごとに違っている。
鉄細工の墓碑といい、
いい鉄工の職人がいたのだろう。

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映画
「サウンド・オブ・ミュージック」の最後、
墓地に逃げ込むシーンの
モデルになっているのもこの墓地だ。

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左上後方には
ホーエンザルツブルク城塞が見える。

 

訪問時、タイミングよく
独特な形状の鐘塔からは
町中に鐘の音が鳴り響いていた。

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今回は、カメラの他にコンパクトな
ICレコーダ

も携帯していたので
その時の鐘の音を思わず録音。

「カセットデンスケ」や「生録」
なんていう言葉が躍るカタログを
ある種の夢とともに集めていた、
そんな時代の思い出もある
オジサン世代の私からすると、
この手軽さでこの音はないだろう、
というのが正直な感想だ。

30秒ほど貼っておきたい。
小さな町の過去へと誘(いざな)う
音の雰囲気が少しでも伝わるだろうか。

 

そのまま教会にも立ち寄ってみた。
静かに扉をあけた瞬間、
その空気感に足が止まった。

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あの外見から
この身廊が想像できるだろうか。
思っていたよりもずっと大きく、
美しいだけでなく
荘厳な雰囲気に包まれている。

しかも、運がいいことに
オルガンの演奏が始まった。

この空間で聞く、この音楽。
やさしく包み込まれるような幸福感。

神聖な響きは、宗教を越えて
心にやすらぎを運んできてくれるようだ。

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696年のザンクト・ペーター教会に続いて、
714年にはノンベルク尼僧院が創設される。
映画「サウンド・オブ・ミュージック」で
最初に主人公マリアがいた尼僧院だ。

 

【大聖堂】
起源の古いもののもうひとつは大聖堂。
創建は774年。
12世紀に後期ロマネスク様式で改築後、
17世紀にバロック様式で建て直された。

訪問時は、ザルツブルク音楽祭のための
大掛かりな準備が進行中で、

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正面のドーム広場には入れなかったため
横からの写真になってしまうが

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こちらの方は、上に書いた
ザンクト・ペーター教会と違って、
その高さ、大きさから
ある程度内部を見る覚悟(!?)ができる。

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さぁ、内部に入ってみよう。

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身廊は長さ101m。

主祭壇のまわりに配置された
パイプオルガンに目にゆく。

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柱部に分散された配置。

モーツァルトはここで洗礼を受け、
1779年からは
オルガン奏者も務めていたという。

最後部にはオルガンの
大きなパイプが並んでいる。

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数々の壁画や

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華麗な漆喰装飾の天井も見逃せない。

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第二次世界大戦で大きく痛み
その後、修復されたものだが、
主祭壇上の丸天井も美しい。

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大理石で覆われた大ホールには、
約1万人を収容できるという。

ザルツブルク生まれの
指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤン
葬儀もここで執り行われた。

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* ザンクト・ペーター教会
* ノンベルク尼僧院
* 大聖堂
起源はすべて8世紀。

その8世紀、当時の司教が、
バイエルン公から献上された
「塩泉からの収入」を財源にしていたことが
「塩の城」
ザルツブルクの名前の由来という。

755年
「ボニファティウスの生涯」の中に
ザルツブルクという名前が初めて登場する

その後も、塩との縁は深く、
15km南にあるバート・デュルンベルクで
採れる岩塩は「白い金」と呼ばれ、
外地に送る際の通行税が、
継続的に富をもたらし
町の繁栄を支えてきた。

ザルツブルクは長い間、
大司教を領主と仰ぐ
神聖ローマ帝国内の一独立国だった。
編入前に短期間バイエルン王国に
併合されていた歴史はあるものの、
ハプスブルクの
オーストリア支配下に入るのは、
ウィーン会議のあとの1816年、
つまり19世紀に入ってから
だ。

1000年以上もの間、
大司教が治めた国であり、
オーストリア支配下に入ったのは19世紀。
この点は頭に留めて町を眺めたい。

歴史ある旧市街と歴史的建造物は、
1996年、
「ザルツブルク市街の歴史地区」として
ユネスコ世界遺産に登録
されている。

 

 

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