歴史

2019年5月19日 (日)

サイデンステッカーさんに関するふたつの記事

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サイデンステッカーさんに関するふたつの記事

- 異文化への興味と理解 -

 

以前、川端康成の小説「雪国」の
英語への翻訳について
ここに書いたが、
そこに登場した
サイデンステッカーさんについて
雑誌「文藝春秋」から
ふたつの記事を紹介したい。

ひとつ目は、
昭和25年、東大の
麻生磯次教授『おくのほそ道』の講義で
彼に出会って以来
50年以上に渡って交流を続けていた
作家の髙橋治さんが寄せたもの。

高橋さんは、
エドワード・ジョージ・
サイデンステッカーの名前から
彼を「エド」と呼んでいた。

昭和20年代、出会ったころのこと。
(2007年11月号 雑誌「文藝春秋」
 「エドと吉原」
 以降、水色部記事からの引用)

私がシナリオ集をテキストにして
エドから英語を習い、
エドが私から落語を教材にして
江戸時代以降の口語を
勉強し始めたからである。

エドは落語を教材にして
日本語を学んでいった。

落語を通じて「日本語」だけでなく
「吉原」を知ったエド。
「人間への興味」はどんどん広がっていく。

なん時頃に吉原名物の馬肉の鍋、
いわゆる蹴飛ばし屋に行って
お銚子を四、五本並べれば、
町は盛りにさしかかって、
女性たちの気分も盛り上がっているか。

(中略)

 だから、エドにとって
吉原が盛りになる時間は、
やり手婆が多弁になる時間であり、
女どもが陽気さを
隠さなくなる時間だったのだ。

エドはそんな時間の吉原が
来るまで待っていて、
人間と人間の触れ合いを求める。

落語に、吉原に、日本文化に
積極的に飛び込んでいったエドは
2007年8月、
永住を決意して移り住んだ東京の地で、
86歳の生涯を終えている。

没後、
コロンビア大学教授のハルオ・シラネさんが
「サイデンステッカーと
 『源氏物語』の自然観」

なる題で、同じ「文藝春秋」に
記事を寄せている。
(2008年5月号 雑誌「文藝春秋」
 以降、緑色部記事からの引用)
これが今日、ふたつ目の記事。

 サイデンステッカーといえば
『源氏物語』の優れた英訳で
その名を知らない人はいない。

一歳のとき日本人の両親と
アメリカに移住した私は、
コロンビア大学の大学院生として
氏に師事して以来、
親交を深めてきた。

現在はその後任として教鞭をとっているが、
源氏の世界をあれほど深く理解し、
英語の世界に蘇らせた
サイヂンステッカーの翻訳には
感動を覚えざるを得ない。

氏の翻訳は、
日米間の文化的および言語的な相違への、
興味深い洞察に満ちている

サイデンステッカーさんは、
『源氏物語』における
自然や季節の果たす役割に
深く心を配りながら翻訳を進めたようだ。

光源氏に愛される
薄幸の女性「夕顔」の名を訳す際には、
white-flowered gourdまたは
moonflowerという
植物学的翻訳をあてはめず、
Evening Facesと
字義を活かした名前を付けた。

夕顔が夕方(evening)に
息絶えることとの
関連性を示唆したのである。

他にも、
神道の儀式に使われる榊を
sacred tree(神聖な木)と
訳すことによって、
漢字が示す宗教的含意を伝えることに
成功した例もある。

(中略)

たとえば、
日本語では春に「霞」とよばれる現象が、
秋には「霧」とよばれる。

だが、英語にはmist, haze, fogといった、
特定の季節とは無関係の単語しかない。

また日本語には、雨を表すのに、
春雨、五月雨、時雨など、
季節によって複数の言葉があり、
それぞれが静寂、憂鬱、無常など、
特定の文化的含意を持つ
のに対して、
英語にはrainやshowerなど、
季節的、文化的な
意味のない言葉しかないのである。

『源氏物語』における時間は、
早朝、夕暮れ、黄昏に
焦点が置かれるところに特徴があり、
そして、
季節の焦点も、
春の訪れ、春の終わり、
夏の訪れなど
過渡的な時節に置かれる傾向がある。

天象と深く関わるなかで
言葉が意味を持つ。

そのうえ

季節の移り変わりへの興味は、
日本人の生と死のサイクルへの注視と
密接な関係があるだろう。

という面もある。

そういった背景を理解したうえで
英語に訳せるなんて。

ここに書いたことの
繰り返しになってしまうが、
Wikipediaにこんな記述まであることも
ふたつの記事を読むと妙に納得できる。

『雪国』の英訳では、川端康成の
ノーベル文学賞受賞に貢献した。

実際、川端康成自身、
ノーベル賞の半分は、
 サイデンステッカー教授のものだ」
と言い、賞金も半分渡している

 

 

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2019年5月12日 (日)

算術から崩れた身分制度

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算術から崩れた身分制度

- 数学的能力がもつ力 -

 

幕末から明治にかけての
金沢藩猪山家の家計簿を読み解く、
この本

磯田道史(著)
武士の家計簿 ―
「加賀藩御算用者」の幕末維新
新潮新書

(以後、水色部は本からの引用)

は、映画の原作にもなった
おもしろい本だが、
家計の詳細に入る前に
「算術」と「身分制度」の関係について
たいへん興味深い話を
提供してくれている。

今日は、その部分を紹介したい。

 

 猪山家に転機が訪れたのは、
五代目の猪山市進のときである。

享保16(1731)年に、はじめて
前田家の直参に加わったのである。

「御算用者」
としての採用
であった。
栄転といってよい。
御算用者になるには
「筆算」の才が要る。

つまり、筆とソロバン
優れていなければならない。

猪山家は菊池家の家政を担うなかで、
ソロバンをはじき帳簿をつける
「およそ武士らしからぬ技術」
を磨いており、
これが栄転につながったのである。

猪山家は「算術」ができたために
「栄転」できた。

ところが江戸時代、
武士社会で「算術」は
次のように考えられていたらしい。

武士とくに上級武士は、
算術を賤しいものと
考える傾向があり

算術に熱心ではなかった。

熱心でないどころか
「学ばないほうがよい」
とさえ考えていた。

上級武士の子弟には
藩校で算術を学ばせないように
していた藩がかなりある。

鳥取藩などは、その例であり、
下級武士にだけ算術が教えられた

ソロバン勘定などは
「徳」を失わせる小人の技
であると
考えられていたからである。

「徳」を失わせる小人の技、か。
それでは熱も入らなかったであろう。

また、必要な技能ながら、
当時の世襲制度になじまない面もあった。

加賀藩は数学の盛んな藩であったが、
それでも算術の人材は不足していた。

近世武士の世界は世襲の世界である。

算術は世襲に向かない
個人の出来・不出来が如実に
あらわれるからである。

親は算術が得意でも、
その子が得意とは限らない。

したがって、藩の行政機関は、
どこもかしこも厳しい身分制と
世襲制であったが、
ソロバンがかかわる職種だけは
例外になっており、
御算用者は比較的身分にとらわれない
人材登用がなされていた

なるほど。

親が得意でも子が得意とは限らない。
身分にとらわれない登用を
せざるを得なくなっていくわけだ。

このことは、もちろん
藩だけではなく幕府においても
同じ状況だったようだ。

幕府の勘定方も同様であったことは、
笠谷和比古氏
(国際日本文化研究センター教授) 
の指摘するところである。

御算用者も世襲ではあったが、
家中の内外から
たえず人材をリクルートしていたし、
算術に優れた者が
「養子」のかたちで入ってきていた。

そうしなければ
役所が機能しない
からである。

ちょうどソロバン関係職が
「身分制の風穴」になっており、
猪山家はうまく
その風穴に入りこんだといえる。

ソロバン関係職が「身分制の風穴」に
なっていたとは。

 

この流れ、日本だけでなく、
18世紀における
世界的な流れでもあったようだ。

実は
「算術から身分制度がくずれる」
という現象は、
18世紀における
世界史的な流れであった。

それまで、ヨーロッパでも日本でも、
国家や軍隊をつくる原理は
「身分による世襲」であった。

ところが、
近世社会が成熟するにつれて、
この身分制はくずれはじめ、
国家や軍隊に新しいシステムが
導入されてくる。

近代官僚制というものである。

官吏や軍人は
「生まれによる世襲」ではなく
「個人能力による試験選抜」によって
任用
されるようになる。

とは言え、いきなり
すべてを変えられるわけではない。

 最初に、この変化がおきたのは、
ヨーロッパ・日本ともに
「算術」がかかわる職種であった


18世紀には、数学が、
国家と軍隊を
管理統御するための技術として、
かつてなく重要な意味をもつように
なっており、まずそこから
「貴族の世襲」がくずれた
軍隊でいえば、
「大砲と地図」がかかわる部署である。

フランスでもドイツでも、
軍の将校といえば
貴族出身と相場がきまっていたが、
砲兵将校や工兵、
地図作成の幕僚に関しては、
そうではなかったという。

弾道計算や測量で
数学的能力が必要なこれらの部署は
身分にかかわらず、
平民出身者も登用
されたのである。

このあたりは『文明の衝突』で有名な
S・ハンチントンの著作
『軍人と国家』や

中村好寿
『二十一世紀への軍隊と社会』
に詳しい。

「大砲と地図」がかかわる部署には
平民出身者も登用
か。

確かに、武力における数学的能力の価値が
近代になって
飛躍的に高くなっていたことは間違いない。

 

 日本でも、同じことがいえる。
十八世紀後半以降、幕府や藩は、
もともと百姓町人であった人々を登用し、
彼らの実務手腕に依存して
行政をすすめるようになる


百姓や町人の出身者に
扶持・苗字帯刀・袴着用などの
特権をあたえて、
武士の格好をさせ、
行政をゆだねる傾向が強まった。

武士と百姓町人の中間身分の存在が
政治に大きな影響を
あたえるようになったのである。

 京都大学名誉教授朝尾直弘氏
によって提唱されたこの学説を、
歴史学界では「身分的中間層論
とよんでいる。

江戸時代は士農工商の
厳しい身分制社会のように言われるが、
文字通りそうであったら、
社会はまわっていかない。

近世も終わりに近づくにつれ、
元来、百姓であったはずの庄屋は
幕府や藩の役人のようになっていく


彼らはソロバンも帳簿付けも
得意であり実務にたけていた。

猪山家のような陪臣身分や
上層農民が実務能力を武器にして
藩の行政機構に入り込み、
間接的ながら、
次第に政策決定にまで
影響をおよぼすようになるのである。

猪山家は、
その典型例であったといってよい。

さらにいえば、
明治国家になってからも、
このような実務系の下士が、
官僚・軍人として重要な
役割を果たすことになるのである。

算術から崩れた身分制度。

そう言えば、
近年インドで技術者熱が高まって、
優秀な技術者が多く輩出されているのも、
背景に
技術には身分制度を超える力があったから、
と聞いたことがある。
コンピュータエンジニアなんて
ちょっと前までなかった職業なのだから。

「数学的能力」が歴史や社会制度の中で、
どんな力を持っていたのか。
単なる計算や解法のノウハウに留まらない
「社会的側面における価値」
が見えてきておもしろい。

 

 

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2019年4月21日 (日)

言霊思想と大山古墳

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言霊思想と大山古墳

- 文字で記録することの意味 -

 

先日、同僚と話をしている際、
我々中年世代が学生時代、
「仁徳天皇陵」として覚えたその名前が
今や教科書から消えている、
ということが話題になった。

今は、
「大山/大仙(だいせん)古墳」
と呼ばれているようだ。
大阪府堺市堺区大仙町という
地名からの呼称のようだが、
それは、被葬者が不明であることの
証でもある。

そう言えば、昨年(2018年)
宮内庁が地元自治体と
初の共同調査を始めることが
ニュースになっていた。
ついに発掘が許されるのであろうか。

「あんなに巨大な墓なのに、
 誰の墓かわからないなんてね」
の言葉を聞いて、以前読んだ
この本のことを思い出した。

加藤徹 (著)
漢文の素養
誰が日本文化をつくったのか?
光文社新書

(以下、水色部本からの引用)

 

この本、
新書ながら内容の濃い本で、
「なぜ被葬者がわからないのか」
に関する話は、導入部の
エピソードのひとつに過ぎないのだが
今日は、その部分にのみ
焦点をあてて話を進めたい。

 

「被葬者がわからない」ということは
「被葬者の名前がどこにも書かれていない」
または
「名前が書かれたものが見つからない」
という意味だ。

それには「言霊(ことだま)思想」が
深く関係しているのではないか、
というのが加藤さんの見解だ。

 そもそも、和語では、
「言(こと)」と「事(こと)」を
区別せず、ともにコトと言った。

すべての言葉には霊力があり、
ある言葉を口にすると、
実際にそういう事件が起きる、と
古代人は信じた。

例えば
「死ぬ」という言葉を口にすると
本当に「死」という事実が起きるし、
自分の本名を他人に知られると
霊的に支配されてしまう、
と恐れられていた。

こういった言葉の霊力を信じる気持ちが
言霊思想だ。

 そんな言霊思想をもつ
古代ヤマト民族にとって、
異国から伝来した文字は、
まるで、言霊を封じ込める
魔法のように見えたにちがいない。

幕末に
西洋から写真技術が入ってきたときも、
「写真に撮られると魂を抜かれる」
という迷信を信じた日本人は、
多かった。

何千里も遠く離れた人や、
数百年も前に死んだ人のメッセージも
正確に伝える文字
というものに対して、
古代ヤマト民族が
警戒心を懐(いだ)いたとしても、
不思議はない。

文字に対する警戒心は、
ほかの民族にもあったようだ。

 文字記録に対する抑制、
という現象は、どの民族にもあった。

 例えば、古代インドでも、
崇高(すうこう)な教えは
文字として記録してはいけない、という
社会的習慣があった。

釈迦の教えも、
弟子たちはこれを文字に記録せず、
口から口へと伝えた。

釈迦の教えを文字にした
成文経典ができあがるのは、
釈迦の入滅後、
数百年もたってからのことである。

現存する仏教の経典の多くが、
梵語(ぼんご)で
「エーヴァム・マヤー・シュルタム」
(このように私は聞いた。
 漢訳仏典では
 「如是我聞(にょぜがもん)」
という言葉で始まるのは、
こういうわけである。

「如是我聞」つまり
「このように私は聞いた」と
始まっているわけだ。

 西洋でも、
崇高なものは文字に写してはいけない、
という発想があった。

例えば、『旧約聖書』の神の名前も、
その正確な発音を
文字に写すことを禁じられたため、

YHWHという「聖四文字」
(ラテン語でテトラグラマトン)の
子音しか伝わらず、
どう母音をつけて読むか、
不明になってしまった。

13世紀以降、キリスト教では
「エホバ」と読む習慣ができたが、
現在ではヤハウェと読む学説が
有力である。

加藤さんは、
中島敦の短編小説『文字禍』を引用し、
古代ヤマト民族も、
「文字の精霊にこき使われる
 下僕(しもべ)」になる危険性

本能的に嗅ぎとり、
漢字文化の摂取を
躊躇したのかもしれない、
と言っている。

この思想は墓誌銘の扱いにも
影響を与えていたはずだ。

古代ヤマト民族は、墓誌銘を嫌った。
弥生時代の甕棺から
漢字を鋳込んだ鏡は出土しても、
被葬者の名前を漢字で書いた甕棺は
出てこない。

3世紀半ばから
古墳が造営されるようになったが、
古墳の墓室内に被葬者の名前や事跡を
文字で書き記すことはなかった

 

文字そのものが全く入ってきていなかった、
というわけではない。

 5世紀の日本
(当時はまだ「倭国」と呼ばれていた)
には、すでに
高度な漢文を書く能力をもつ書記官が
存在していた。

例えば、いわゆる「倭の五王」が
中国の南朝に派遣した使者は、
中国の皇帝に、堂々たる純正漢文の
上奏文を渡している


5世紀当時の倭国の大王は、
その気になれば、
古墳の被葬者の名前を、
墓誌銘なり石碑なりで
明示することは簡単だった
はずだ。

古代の天皇陵の大半は
過去に盗掘に遭い、
副葬品がもち出されたが、
墓誌銘が見つかったという記録は
残っていない。

 日本では、
たった1500年前の古墳でさえ、
その被葬者を確定できない

 

日本の古墳よりもさらに2000年以上も古い
エジプトのピラミッドはどうだろう。

対照的に、エジプトでは、
4000年前の陵でも、
ちゃんと被葬者の名前がわかる


墓のなかにびっしりと、
ヒエログリフ(エジプトの象形文字)で
文字が書いてあるからである。

 

もちろんその影響は、
墓誌銘に留まらない。
加藤さんはこうまで言い切っている。

 3世紀の邪馬台国の所在が
今日も不明なのも、
その場所が示されていないからだ。

すでにその候補地となる遺跡は
いくつも発見されているのだが、
「ここが邪馬台国です」とか
「ここが卑弥呼の墓です」と
文字で書いた遺物なり碑文が
出土する可能性は、
今後も期待できない

 

漢字が日本に入ってきて、受容され、
そして一般的に使われるようになるまで
時間がかかっているのには、
背景にこういった言霊思想が
あったこともひとつの理由なのだろう。

 もし、単に漢字の字形を
まねることをもって漢字の受容と
見なすのであれば、日本人は、
弥生時代から文字時代に入った、
と言うことができる。

ただ、日本人自身が、
自分たちの事跡を
漢字で記録することはなかった。

その意味で、真の漢字文化は、
4世紀ごろまでの日本には
存在しなかった。

文字がまだ威信材だったころ
「事跡(ことと)を文字で記録する」
ことの意味は、
今とは全く違っていた。

言霊や文字の力を
改めて想像してみるのはおもしろい。

 

 

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2019年2月 3日 (日)

幕末の志士たちの年齢

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幕末の志士たちの年齢

- 30代が新しい時代を -

 

以前、オーストリア旅行記を書く際、
同時代を生きた歴史上の人物の年齢関係を
少しでもイメージしやすくするために、
オリジナル棒年表を作ってみた。
たとえば、 こんな感じ

エクセルの表に
氏名と生没年月日を入力すると、
VBAの簡単なプログラムが走って
年表用のバーを書いてくれる。

すると、記事を読んだ方から
「幕末の人物で同じような棒年表を
 作ってみてもらえないか」
なるリクエストをいただいた。

では、作ってみよう。

 

最初に、オリジナル棒年表の見方について
簡単に説明したい。

* 棒の左端の数字は生年
* 棒の右端の数字は享年
  (死んだときの満年齢)
* 棒右欄外は氏名
* 棒の色
  60歳までは20年区切り
    0 -20歳  緑
    20-40歳  青
    40-60歳  黄
    60歳以上 紫

* 今回だけ特別に[#数字]にて、
  明治維新時の満年齢
を示す。
  なお、日にちで指定することに
  あまり意味はないが、
  年齢計算のために必要ゆえ
  今回は「1868年10月23日」を
  明治維新の日として計算した。

この仕様にて幕末の人物に関する
棒年表を作成すると次のようになる。

通常は、生年順で作成するのだが、
作って眺めてみると
かえって時代の流れが
わかりにくくなってしまったので、
今回は、没年順に並べてみた。

Bakumatsu1


読者の皆様は、この年表の
どの部分に目がいくことだろう?

1853年の黒船来航から
1868年の明治維新までわずか15年。
その短さもよくわかる。

でも、なんと言っても
一番印象的なのは、
明治維新時の年齢「#数字」。
勝海舟の45歳が最高齢で、
木戸孝允は35歳、大久保利通は38歳。

ひとり、ふたりが若かったのではない。
明治政府設立に関与したほとんどの要人は
棒年表の青い領域、つまり40歳以下だ。

こんなに若い人が中心となって
「中央官制・法制・宮廷・身分制・
 地方行政・金融・流通・産業・経済・
 文化・教育・外交・宗教・
 思想政策など」(Wikipediaから)
明治時代、
まさに信じられないほど多岐に及ぶ
改革が進んだのだ。

 

一方、明治維新を迎えられなかった
上段に目を遣ると、
30歳前後という若さで亡くなりながらも
多大なる影響を残した
吉田松陰、高杉晋作、坂本龍馬らが並ぶ。
それぞれが思い描く「新しい世」にむけて
まさに志士としての無念さが偲ばれる。

 

ちなみに
(本音では比較さえしたくはないが)
現(2019年2月)第4次安倍改造内閣の
平均年齢は64歳だ。

 

 

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2019年1月 6日 (日)

初めての中国・上海 (6)

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初めての中国・上海 (6)

- 見下ろす景色と豫園と -

 

すでに6日も経ってしまいましたが、
あけましておめでとうございます。

=========
安倍首相、
新元号は「4月1日公表」と正式発表
=========
なる見出しが「産経ニュース」で流れ、
それに対して
「えっ! 新元号って
 『4月1日公表』っていう名前に
 なったっていうこと?」
と白々しい誤解のコメントで
ツイッターが盛り上がるのは
そんなにきらいじゃぁないのですが
その中に、
「読み方は、
 『わたぬききみひら』でしょ」
なるコメントがあって
さらに気に入りました。

四月一日になると
綿の入っている着物を脱いで
あわせの着物になる事から
四月一日(四月朔日)を
『わたぬき』と読むのだとか。

世界はいろいろなところから
広がるものです。

とまぁ、
自分自身への備忘録を兼ねた
ブログではありますが、
気ままに続けていきたいと
思っていますので、
今後ともどうぞよろしくお願いします。

皆様にとって素敵な一年となりますよう。

***************

というわけで(?)
前回に引き続き、
2018年11月、出張で行った
中国・上海で印象に残ったことを
写真を添えて紹介したい。
今日はその最終回。

 

仕事が終わって日本に帰る土曜日。
飛行機の出発時間までの半日、
上海観光をしようと思っていた。

すると、私が「上海は初めて」、
と言っていたせいか、
訪問先の会社の方のおひとりが
気を遣って下さり、
休日にもかかわらず、
「案内しますよ」
と言って来て下さった。

初めての国であっても、
自分であれやこれや悩みながら
観光することはちっとも苦ではなかったし、
自分ペースで回れるほうが
気が楽だと思っていたし、
なにより相手のお休みの日を
私のために使わせてしまうのは
申し訳なかったので、
一旦は丁寧にお断りした。

ところが、金曜日
私の固辞を忘れたかのように
「明日はどこに行きたい?」
とかなり積極的。
熱意におされて
今回は厚意に甘えることにした。

現地中国人による英語のガイド付き
半日ツアー、贅沢な時間だ。
こうなれば、逆に任せてしまおう。

土曜日の朝、
ホテルまで来てくれた彼が
最初に「行こう!」と
連れて行ってくれたのは、
黄浦江という川の東側「浦東エリア」。

高層ビルが多い地域の中でも、
特に目立っているビルのひとつ。
ここに上って、まずは上から眺めよう、
ということになった。

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展望台があるような高い塔やビルは
他にいくつもあるのに、
「ここは日本の森ビルが作ったンですよ。
 エレベータも東芝のもので
 すごく静かで速いンです」
と日本人が少しでも喜びそうな
日本に関連の深いビルを選んでくれる
その心遣いがうれしい。

91階のレストランを目指す。

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「上海環球金融中心」
2008年に日本の森ビルが
15年の歳月をかけて完成させた。
高さは494mもある。
日本一の「あべのハルカス」でも300mだ。

91階からの眺め。
正面の赤い玉を持つ塔は、
上海のシンボルタワー
「東方明珠塔」高さ462m。

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下の写真右側の高層ビルは
「金茂大厦88層観光庁」
高さ420.5m、88階建ての高層ビル

Pb032348s

前夜、金曜日の夜
こんなふうにライトアップされていた

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対岸のバンドエリアも
全景がよく見渡せる。

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川沿いのビルをライトアップすることは、
regulationで決まっているらしい。
照明の電気代も
税金で払われているのだとか。

79階から94階には5つ星のホテル
「パークハイアット上海」が入っている。
なんて高いところにあるホテルなんだ。
(値段も高いらしいけれど)

ここは、ホテルの朝食にも
使われているレストランゆえ
景色だけでなく雰囲気もいい。

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降りてくると、すぐとなりには
2016年に完成したばかりの
「上海中心(上海タワー)」。
高さはなんと632m!!
もう一度書く、
日本一の「あべのハルカス」でも300mだ。

Pb032367s

 

91階から頭部が見えていた
金茂大厦88層観光庁も
下から見るとこんな感じ。
竹をモチーフにした外観らしいが、
言われてみるとわからなくもない。

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近代的な超高層ビル群を
見たあとは、
川の対岸、
「豫園(よえん)」に向かった。

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豫園は
江南古典庭園の名園と称されるところだが、
まわりは豫園商城と呼ばれる
土産物屋が並ぶ
一大観光スポットとなっている。

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まずはチケットを買って
豫園(よえん)見学。

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入り口の門は小さいが、
見上げると石の彫刻がすごい。

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漸入佳境と呼ばれる遊廊。

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仰山堂からの庭の眺め。

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仰山堂は1866年に創建された。

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足元を見ると、
敷き詰められた石の模様が
エリアによって違っていておもしろい。

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くり抜き門が随所に見られる。

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石の配置に特徴のある庭園

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瓦にも細部まで手の込んだ施しが。

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屋根も独特な形状をしている。

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「龍壁」と呼ばれる塀。

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思わず写真を撮りたくなるが、
同行の中国人によると
再建時に観光用に作られたもので
もともと古くからあったものではない、
とのこと。


ガジュマルで作られた家具や彫刻のある
建物もある。

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池や遊廊との組合せも絶妙。

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内園と呼ばれる
7m四方の舞台を囲む空間。

Pb032486s

 

窓の格子も細かくて美しい。

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豫園を出ると、
同じトーンで作られた
巨大な土産物屋が目の前に迫ってくる。

Pb032491s

 

豫園の外ながら、隣接して建つ
「上海緑波廊酒楼」。
中国十大レストランの1つに名を連ねる
上海料理の名店だ。

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ちょうど季節ということもあり、
ここで有名な「上海蟹」を
食べることにした。

昼食時は予約ができないらしく、
受付で名前を登録して順番を待つ。
もちろんお知らせはスマホに来る。
なので、入り口付近でじっと待たずに
近くの土産物店をウロウロしながら
待つことができるのだが、
土曜日の昼時、園周辺は観光客で大混雑。
呼ばれてもサクサクと移動できないので、
ついつい入口付近で待つ人が多くなる。

ここで待っているとき、同行の中国人が
おもしろいことを言った。

「このお店は、
 観光地のベストロケーションにあるので
 観光客でいつも溢れかえっている。

 レストランの名店としても
 よく知られていて、
 大統領や王様級のお客様も来る。

 つまり商売としては大繁盛なのだが、
 お店はgovernmentがやっている。
 なので、お客様で大賑わいなのに、
 店員にはお客への笑顔がないンだ。
 見ててみて。
 笑わないから」

思わずその視点で店員を見てしまう。
なるほど、キビキビと動き、
事務的に忙しそうに働いてはいるが、
愛想笑いも含めて笑顔がない。

忙しくて機嫌が悪い、
というわけではないようだ。

笑顔がなくても、
対応自体が悪いわけではない。

上海蟹を頼むと、調理前の
数杯の蟹をザルに入れて持ってきて
「選べ」と言う。

もちろん私には選べないので、
同行の中国人に頼んでしまった。

「どこを見て選ぶの?」

会話が弾む。
2杯決定!

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しばらく待つと、
この状態で目の前に再登場。

Pb032514s

食べ方(解体の仕方)を
教わりながら初上海蟹。

Pb032516s

蟹を食べると皆静かになってしまうのは
洋の東西、というか国を問わないようだ。
手も汚れてしまったので
以降写真なし。
独特な甘みもあって
ほんとうにおいしい蟹だった。

 

Pb032519s

半日ではあったが、
ガイド付きの贅沢な観光終了。

丁寧に礼を言い、空港に向かった。

もし、彼が日本に来た時は、
ぜひともこの御礼をしたいと思うのだが、
さて、半日あったとして、
東京ならどこに案内しよう?

 

 

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2018年11月11日 (日)

オーストリア旅行記 (64) 同じ時代を生きて

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オーストリア旅行記 (64) 同じ時代を生きて

- 棒年表と6言語 -

 

2017年8月27日から1年3か月にわたって
続けてきた「オーストリア旅行記」も
今日で64回目。

ソフトウェアエンジニアとしても
区切りのいい数字(!?)となったので
前回の予告通り、旅行記としては
本記事にて最終回としたい。

ザルツブルクでの
サウンド・オブ・ミュージック・ツアーの
ことを書いた日々が妙に懐かしい。

 

(1) 同じ時代を生きた人々
言うまでもなくウィーンは音楽の都。
これまでこの旅行記本文に登場した
ウィーンゆかりの音楽家を
棒年表で並べてみた。
(数字は生年と享年。
 色は60歳までは20年区切り)

Musician_a

音楽家の名前は赤で。
音楽家以外でウィーンにゆかりのある人々も
黒字で一緒に並べている。
各人の棒の重なり具合を見てみると
どのくらい同時代を生きたのかが
よくわかる。

ちなみに生年の差、
つまり[何歳違い]かを入れて
並べてみると

   ハイドン
[24]
   モーツァルト
[24]
   ベートーヴェン
[27]
   シューベルト
[14]
   リスト
[14]
   ヨハン・シュトラウス2世
[ 8]
   ブラームス
[27]
   マーラー
[14]
   シェーンベルク

みごとに30年以下の間隔で
大作曲家が繋がっている。

 

(2) エミレーツ航空の
  お手洗いに貼ってあったステッカー


第1回の記事の中で、
エミレーツ航空のお手洗いに貼ってあった
赤いステッカーに触れた。

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このステッカーだ。

P7107599sas

6言語が並んでいながら
その中に英語がない。
なので、
いったいどんなことが書いてあるのか
さっぱりわからない。

英語がないということは
英語が読める人に対しては
「必要ないメッセージ」
ということなのだろうか?

だとしたら、
どんなことが考えられるだろう?

たとえば、イスラム教の人たちに
「ここではお祈りをしないで下さい」
とか。

 

本旅行記、
個人の小さなブログながら
書いたものを制限なく一般公開しているので
いろいろな方を
読者として迎えることになる。

そんな中、
このステッカーに興味を持ち
「何が書いてあるの?」と
ご自身のFacebookで問いかけて下さった
ありがたい方が現れた。

なんとうれしいことだろう。

すると、わずか数日の間に
70を越えるコメントがついた。

「インドの諸言語の文字かとおもいます。
 お力になれずごめんなさい」

というものももちろんあるが、

「一番上は5回くらい習得に失敗して諦めた
 アラビア語だと思います。
 語頭に定冠詞のalがついてるので」
などから始まり

「Alがあればあきらかにアラビア語ですね!」
と、どんどん展開。

「テキストデータに変換で一苦労。
‎يرحى الصعط علبى الزر لعسل داحل المرحاص بالماء
 」
と言いながら変換してくれる人まで登場。

「でもってGoogle翻訳」に。

 

結果はコレ!

Etrans_s

英語に翻訳された文の
ハニー(honey)が笑えるが、
意味のほうは、大きな(!?)期待に反して
「ボタンを押して水を流して下さい」
という超シンプルなものだった。

それでも、コメントは続いてゆく。

「ボタンを押して
 (トイレを)流してください。
 クラスメートのシリア人に聞きました」

スリランカ語で下記の意味
 『トイレ終わった後に
  以下のボタン押してください』」

「パキスタンからも返事がきました
 ウルドゥー(語)は、
 『(トイレを)使用後は
  ボタンを押してください、
  ありがとうございます』
 だそうです」

ヒンディー(語)
 「ほぼ同じ」だそうです」

ヒンディー語を英訳すると
「Press button for cleaning toilet」

結局まとめると、

 1 アラビア語
 2 ヒンディー語
 3 タミル語
 4 ベンガル語
 5 スィンハラ語(スリランカの言葉)
 6 ウルドゥー語

での記述と思われ、
こまかいニュアンスの違いまでは
もちろんわからないが、
大意はどれも同じようだ。

その後、コメント欄は
各国のお手洗い事情で盛り上がる。

「各国トイレ事情はけっこう面白いです。
 10年くらい前に都内で勤めていた
 日本語教育機関では、
 大量の使用済みトイレットペーパーが
 汚物カンから
 溢れ出ていたことがありました。

 また、洋式便器の使い方がわからずに
 便座の上に立って用を足してしまう女性
 珍しくなかったようです
 (よく靴の跡がついていたのでw)」

「15年前に勤めていた某国某大学では、
 旧校舎のトイレは
 一日一回まとめて流されていましたw


 日中うっかり下を見てしまうと、
 それはそれは
 色々なものが落ちていました(^_^;」

「ロンドンの学生寮(トイレ共同)では、
 インドパキスタン系の学生が使った後は
 便座がびしょびしょだったり
 トイレの床が水浸しになっていたりで
 (彼らはペットボトルを持ち込んで
  お尻を水で洗わないといけないので)、
 その問題で寮会議にまでなった事もw」

「マレーシアでちょくちょく見かけたのは、
 おそらく用を足してビデで洗ったときに
 ズボンがびしょびしょになり、
 そのまま歩いている人
です。
 いかにも、という部分が
 びしょびしょなのですw

 でも30分もすれば日光で乾くので、
 周りも特に凝視している人は
 いませんでした。」

「ドイツは硬水のため
 ウォッシュレットが
 普及していないそうです
 (壊れてしまうそうです)。

 日本も日本食も恋しくならないけれど
 ウォッシュレットはほしい
 今日この頃です」

 

これだけ実のあるコメントが
わずか数日で集まってくる
Facebookで問いかけて下さった方の
「人脈」に
感謝とともに驚きを禁じ得ない。

賢明なる読者に助けられ、
旅行記での宿題のひとつが
意外な形で片付いてスッキリ!
結果自体はシンプルなものだったが、
その過程は実にエキサイティングで
ワクワク感をおおいに楽しむことができた。
まさに同時代に、今この世界のどこかで
共に生きている人々の声は
ネットを通しても「生きている」。

 

そう言えば、コメントの中に
こんな言葉があった。

赤いステッカーについての
活気あるやりとりを
眺めていた人からのコメントだったが、
オーストリア個人旅行という
たったひとつのネタで
64回も書いてしまったこの旅行記
全体へのコメントのようにも
思えてしまったので、
「最後の言葉」として
そのまま引用させていただきたい。
(下記緑色部が引用)

長い間、
お付き合いありがとうございました。
旅行記は一旦終わりにしますが、
ブログの方は「はまめも」から
再開したいと思っています。

 

「がははー!!
 このネタ一つで、
 こんなに熱くなれるとは、素晴らしい!
 日常の小さな幸せとは、
 こんなものですかねぇ 笑」

 

オーストリア旅行記 完

 

 

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2018年11月 4日 (日)

オーストリア旅行記 (63) リンク通りに沿って

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オーストリア旅行記 (63) リンク通りに沿って

- 印象的な建造物の数々 -

 

ここ で書いた通り
ウィーン市街を囲むリンク通りは
ウィーンを取り囲んでいた市壁を
取り壊したあとに造られたもの。

1857年に宣言された
市の拡張計画で本格的に動き出している。

リンク通り回りの建造物については
これまで
「自然史博物館」
「美術史博物館」
「国立歌劇場」
「楽友協会」
などを採りあげてきた。

旅行記の最後に、
これまでの記事で紹介できなかった
特徴あるリンク通り回りの建造物を
まとめて紹介したい。

 

【ヴォティーフ教会】

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1853年2月18日、
この場所でフランツ・ヨーゼフ皇帝の
暗殺未遂事件が起こった。
皇帝の上着の金属ボタンが凶器を防ぎ、
無傷で生還。

神の加護に感謝を込めて、
皇帝の弟マクシミリアン3世の呼びかけで
1856-1879年に建設。
塔の高さは99m

フランスの大聖堂を手本にした、
ネオ・ゴシック様式の美しい姿は、
ウィーン大学を設計した
フェルステルが手がけた。

夕暮時の写真も一枚。

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【ウィーン大学】

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1365年にルドルフ4世によって創立された
ドイツ語圏最古の大学

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リンクに面した本館は、
人文科学が花開いた時代の様式である
ルネッサンス様式で、
19世紀後半に建てられた。

9人のノーベル賞受賞者を輩出した名門で、
約9万1000人の学生を抱えている。

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【ブルク劇場】

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ドイツ語圏はもちろん、
ヨーロッパの演劇界でも
最高レベル権威を誇る劇場。

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ハーゼナウアーがゼンパーと共に建てた
ネオ・バロック様式の装飾的な建物は、
1888年に完成。

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正面が弧を描いてリングヘ迫り出し、
左右に広がる翼は大階投となって
2階ロビーへ通じている。

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内部の華麗な階段の間には、
グスタフ・クリムトが
若い頃1888年に描いた天井画
『タオルミナの劇場』と
『ディオニソスの祭壇』があり、
後年の作風とはかなり異なる
擬古典派の作風が見られるようだが、
今回は残念ながら
中に入って見ることはできなかった。

劇場内部の
ガイドツアーもあるらしい。

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【市庁舎】

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ネオ・ゴシック建築の名手
フリードリヒ・フォン・シュミットの
傑作で、その後ドイツの市庁舎建築に
多くの影響を与えた。
1883年に完成。

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中央の塔の高さは98m。

近くのヴォティーフ教会の塔が
99mであることから、
この高さを超える建物は
皇帝の命で許されなかった。

そこで建築家シュミットは
市庁舎の塔の上に
高さ約5mの
市庁舎の男Rathausmannという
騎士像を載せて、
こっそり反抗したという逸話が残る。

 

広い前庭の市庁舎広場Rathausplatzでは、
夏には フィルムコンサート・フェスティバル、
11月中旬~12月には クリスマスマーケット、
1月下旬~3月上旬には 広いアイスリンクが登場する
ウィーン・アイストラウムなどが 開催される。

今回7月の訪問時には、
まさに映画関連のイベントが
開催されていた。

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【国会議事堂】

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ギリシャ風の壮大な建物に注目!

建物をも含めたリングの建設は
1860年代から70年代へと進むにつれ、
ますます装飾的になってくる。

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19世紀後半、折衷主義の代表者である
アテネ育ちの
テオフィル・フォン・ハンセンの代表作。

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民主主義発祥の地である
ギリシャの古典様式が
国会議事堂にふさわしいと採用され、
1883年に完成。

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8本の大列柱が並ぶ入り口の上には
ギリシャ・ローマの学者と
政治家たちの彫像が、
屋根の上にはギリシャの戦車が
飾られている。

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奥には市庁舎の塔も見える。

神殿のような列柱の前に立つのは、
英知をつかさどるアテナ女神像。

その足元の4人の像は、
当時ハブスブルク家の領土を流れていた
ドナウ、イン、エルベ、
モルダウの川を象徴している。

議会開催中以外は、内部をガイドツアーで
見学できるらしい。

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今日紹介した5つの大きな建造物は、
事実上リンク通りに沿って
「並んで」建っている。

なので、ひとつひとつは大きいものの、
順番に迷わず歩いてみることができる。

それぞれの様式があり、このエリア、
まさに生きた建造物の博物館のようだ。

 

あちこちに寄り道しながら、
63回にもわたって
気ままに書き続けてきた
オーストリア旅行記だったが
あともう一回書いて一区切りとしたい。

というわけで(?)、次回はいよいよ
オーストリア旅行記の最終回。

もう一回だけお付き合い下さい。

 

 

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2018年10月28日 (日)

オーストリア旅行記 (62) ホイリゲ(新酒ワイン居酒屋)

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オーストリア旅行記 (62) ホイリゲ(新酒ワイン居酒屋)

- ベートーヴェンの散歩道もいっしょに -

 

Heurige(ホイリゲ)とは、
今年の」という意味。
今年できた新しいワインを指すと同時に
ホイリゲを飲ませる酒場
ホイリゲと呼ばれているようだ。

ウィーン郊外の
Grinzing(グリツィング)
Heiligenstadt(ハイリゲンシュタット)
とよばれるエリアに
ホイリゲが多いというので
路面電車でグリツィングに行ってみた。

ウィーン市街から30分弱。
バスのように細かく停車しながら行くので
決して速くはないし、
移動距離自体もたいしたことはないと
思うのだが、それでも車窓の景色は、
どんどん変化していく。

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終点となっているグリツィングは
落ち着いた静かな街だった。

居酒屋が並ぶ賑やかな通り、
といった雰囲気は全くない。
ウィーン市街地の喧騒から
そう遠くない位置にいるのが
ウソのよう。

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石畳の小さな脇道も
ちょっと物語を感じさせる。

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ホイリゲつまり
「新酒ワイン居酒屋」の
一軒に入ってみた。
バッハヘングル(Bach-Hengl)

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外が気持ちよさそうだったので
緑の多い屋外席に。

子連れの家族もいる。

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頼んだのはいろいろ味わえる
「肉料理の組合せプレート」。
例によってすごいボリュームだ。

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酒のほうは、
ホイリゲの名前の通り
今年の(?)白ワイン。
飲んでみると
確かに味が「若い」。

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ガイドブック等には、
「ジョッキで出てくる」と
書かれていることが多いのだが、
注文の仕方が間違っていたのか、
ここのお店がそうなのか
ワイングラスで出てきた。

なお、ホイリゲでは、
Gespritzter(ゲシュプリツター)と呼ばれる
なんとワインを炭酸水で、
しかも1対1の割合で割った飲み方

あるというので頼んでみた。

すると
ワインと一緒にこんな炭酸水がでてきた。

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沸騰しているお湯でも
見たことがないほどの泡、泡、泡。
いったいどうすればこんな強烈な
炭酸水を作ることができるのだろう。

それでなくても「若い」ワインを
炭酸水で割ってしまうので、
まさにガブガブ飲めてしまう。

 

しばらくすると、
バイオリンとアコーディオンの
陽気な生演奏が始まった。

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ホイリゲで奏でられる昔ながらの曲は、
「シュランメル」と呼ばれている。
19世紀末にシュランメル兄弟が演奏して
ウィーン中に広まった大衆音楽。

民謡風であったり、
ワルツ(舞曲)風であったり、
ハンガリー風であったり、と
酒場に合う曲が多いが、
ちょっとメランコリックな部分もあって
そこに独特な味がある。

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演奏は各テーブルを回り
リクエストにも応えている。

雰囲気だけ貼っておこう。

 

大人の会話(?)で盛り上がっている
テーブルもある。
なんともいい雰囲気だ。

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なお、このお店、
有名店なのか
各国著名人が訪問した際の写真で
店内の壁一面が埋め尽くされていた。

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ブッシュやらプーチンやら
大統領級もゴロゴロいる。

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食事のあとは、
お屋敷と呼びたくなるような

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大きな家が並んでいる
高級住宅地(?)を通りを抜けて

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「ベートーヴェンがよく散歩した」
という道まで行ってみた。

道に沿って
今は小さな公園もあり
緑豊かな中、子どもたちは
バスケットボールを楽しんでいた。
「ベートーヴェンパーク」!?

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公園内には銅像もある。

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付近には、
ベートーヴェンが第九を書いたり
遺書を書いたことで知られる家まであり
ベートーヴェンゆかりの地として
小さな案内板も出ている。

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この道を散歩しながら
交響曲第6番「田園」を書いたと聞くと
後ろに手を回して、うつむき加減に
ゆっくり歩いてみたくなる。

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訪問した時間が遅かったため
暗くなってきてしまい
「日没タイムアウト」という
感じになってしまったが、
緑豊かな雰囲気だけは
十分感じ取ることができた。

楽しい居酒屋と豊かな緑、
そういう空気の中で、
「田園」が生まれ、
「合唱付き」が生まれたのだ。

 

十月革命から逃れるために
家族とともに米国に亡命した
ロシアの作曲家ラフマニノフは
その後5年以上にもわたって
作曲することができなかった。

その理由を聞かれて
こう言ったという。

「どうやって作曲するのですか?
 私はもう何年ものあいだ、
 (懐かしい故国ロシアの)
 ライ麦畑のささやきも
 白樺のざわめきも
 聞いていないのですから…」

(詳しくはここを参照下さい)
作曲には「環境」が必要なのだ。

ベートーヴェンが感じた風と緑が
そのままここにある。

 

 

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2018年9月30日 (日)

オーストリア旅行記 (58) 皇妃エリーザベト(愛称シシィ)

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オーストリア旅行記 (58) 皇妃エリーザベト(愛称シシィ)

- 吊り輪や鉄棒のある化粧室 -

 

前回は、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世
について書いた。
今日は続けて、
その妻エリーザベト(愛称シシィ)
(生没:1837-1898)

について
そのエピソードを紹介したい。

ただ、前回にも書いた通り、王宮内の
「シシィ博物館」と
「皇帝の部屋」&「皇妃シシィの住居」
は残念ながら写真撮影禁止。
肝心な彼女の部屋の様子を
写真でお見せすることができない。

皇妃とは直接関係ないものの
ウィーン市内で撮った写真を
挿絵代わりに貼って話を進めていきたい。

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【シシィの誕生:1837年】
エリーザベトは
ドイツ、バイエルンの
ヴィッテルスバッハ公爵家の
次女として生まれ、
幼い頃からシシィの愛称で呼ばれて
多くの兄弟姉妹とともに
自由奔放に育った。

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【15歳のときの出会い:1853年】
15歳のとき、
姉ヘレーナの見合いに同行し、
バート・イシュルを訪問する。

皇帝フランツ・ヨーゼフの母、
オーストリア大公妃ゾフィーが、
若くして皇帝になった
息子の花嫁を探しており、
姉ヘレーナが
その候補にあがっていたのだ。

これは、オーストリアと同じく
厳格なカトリック教国で、
ドイツ連邦の忠実な同盟国である
「バイエルン王国」から皇后を迎え、
関係強化を図るという
政略目的にもかなっていた。

ところが、その時、
若きオーストリア皇帝は
ヘレーナに同行していた
エリーザベトのほうに一目惚れ
姉のヘレーナではなく、
妹のエリーザベトを妃に選んでしまう。

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選ばれてはみたものの
まだあどけなさの残るエリーザベトには、
ハブスブルク大帝国の首都、
ウィーン王宮での
堅苦しい宮廷儀式の数々は
精神的に大きな負担だった。

フランツ・ヨーゼフの
求婚の申し出に対して
エリーザベトはこう語ったという。

「どうしてあの方を
 愛せないはずがありましょう」

とひと泣きした後、

皇帝のことはとても好きです。
 あの人が皇帝でさえなければ


皇帝に愛されてうれしい反面、
宮廷生活への
不安のほうが大きかった。

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【16歳で結婚:1854年】
1854年4月24日、16歳のとき、
ウィーンのアウグスティーナー教会で
結婚式が行われた。

直後から、皇妃として
義母ゾフィーに鍛えられる日々が続く。

P7159148s

 

【なじまないウィーンでの宮廷生活】
皇妃として、結婚後の4年間に
王位継承者である息子ルドルフを含む
3人の子どもを産んだ
エリーザベトだったが、

自由奔放に育った彼女は
窮屈なウィーンの宮廷生活に
なかなかなじむことができず、
次第に精神を患って
転地療養生活
を送るようになる。

長い旅に出かけることもしばしばだった。
夫フランツ・ヨーゼフは、
旅路の妻に宛てて、
頻繁に手紙を書いていたという。

P7169464s

 

【美への執着】
エリーザベトと言えば「美」。

夫フランツ・ヨーゼフが
一目惚れしたその美貌は
最初からよく知られていたが、
エリーザベト自身、「美」、
特に健康なほっそりとした体、
透明な肌、美しい髪には、
思い入れが深く、
手入れを怠ることは決してなかった。

成人してからは
身長172cm、ウエスト50cm、
体重50kg(踵まで届いた髪の重さ5kgを含む)
が常に維持されていたという。

エリーザベトは、
このプロポーションを保つために、
生涯にわたって毎日、
運動とダイエットに励んだ

P7169352s

 

それでも50代ともなると、
過度の運動と
極端なダイエットが逆効果となり、
くるぶしの腫れや
栄養失調に悩まされるようになる。

いつしか、
外出の際はパラソルと扇を
片時も手放すことなく、
顔を隠して歩くようになっていった。

彼女の美貌は自信であり、
宮廷での権力でもあった
が、
皇妃といえども
寄る年波には勝てなかった。

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【息子ルドルフ、情死:1889年】
王位継承者である皇帝の唯一の息子
ルドルフ皇太子が、ウィーン南郊外の
マイヤーリンクで愛人と情死

ハプスブルク家の跡継ぎだった
ひとり息子のルドルフが自殺して以来、
エリーザベトは
喪服を脱ぐことはなかった。

P7169439s

 

【スイスで暗殺される:1898年】
スイス、レマン湖で
遊覧船に乗ろうとしていたところを
無政府主義者に襲われ、
やすりで心臓を一突きされて死亡。
このときも黒い服を着ていた。

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「シシィ博物館」も
「皇妃シシィの住居」も
こういった人生を知って見ると、
印象的な部屋や遺品がいくつもある。

特にシシィに関しては、
やはり「美への執着」を感じさせるものが
印象的だ。

旅の多かった彼女が携帯していた
美容関係グッズも実に大量でかつ多彩。

吊り輪や肋木、鉄棒がある化粧室は、
まさにトレーニングルーム。

博物館で買った日本語版のガイドブック

Ginnki1

にはその化粧室の写真もある。

王宮内の化粧室と
トレーニング機器の組合せは
ちょっと珍しいので
上記ガイドブックから2枚だけ
写真を引用し貼っておきたい。

Sissi1

中央部、釣り輪が見えるだろうか。

Sissi2

 

劇的な人生と終始貫かれている美への執着、
映画化にはピッタリの題材だ。

オーストリアの人気女優
ロミー・シュナイダーが主演した
映画『シシィ』の一部が
「シシィ博物館」の入口付近のモニタに
映し出されていた。
オーストリアでは
きっとよく知られた映画なのだろう。

懐かしそうに見ている顔が
いくつもあった。

日本では1959年、
当時の「皇太子御成婚記念映画として
封切られた」とWikipediaにはある。

「プリンセス・シシー」として
DVDも出ているようなので
ぜひ一度観てみたいと思っている。

 

 

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2018年9月23日 (日)

オーストリア旅行記 (57) フランツ・ヨーゼフ1世

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オーストリア旅行記 (57) フランツ・ヨーゼフ1世

- 愛するものを次々と失いながらも -

 

もともとは、旧王宮内の観光スポット

 「シシィ博物館」
 「皇帝の部屋」&「皇妃シシィの住居」

を歩く際、
長い王朝の歴史の最後に登場する
皇妃シシィや、
その夫フランツ・ヨーゼフ1世
の部屋に入る前に、
ハプスブルク帝国全体の歴史を
振り返ってみよう、と
ここで、つまり6月から始めた
寄り道だったが、飛び飛びながら

* ルドルフ1世
 (生没:1218年-1291年)

* マクシミリアン1世
 (生没:1459年-1519年)

* カール5世
 (生没:1500年-1558年)

* フェリペ2世(スペイン王)
 (生没:1527年-1598年)

* マリア・テレジア
 (生没:1717年-1780年)

を見てきたので、このあたりで
ようやく元のところに合流、
事実上
最後の皇帝夫妻となった
ふたりを見ていきたいと思う。

ただ、残念ながら、ここも見学エリアの
写真撮影は許可されていなかった。
なので、ウィーンの街角で撮った写真を
挿絵代わりに挿入しながら
話を進めていきたい。

P7158991s

 

見学している旧王宮は、
歴代の皇帝が住んでいたもので、
当然のことながら、
フランツ・ヨーゼフ1世&皇妃シシィ
この「ふたりのためだけ」
に造られたものではない。

しかし展示では、
「皇妃シシィ」の名が
前面に押し出された展示になっているので、
どんな夫と妻だったのかは
断片的であれ知っておきたい。

まずは夫
皇帝フランツ・ヨーゼフ1世
 (生没:1830年-1916年)
から。

P7179625s

 

「事実上最後の皇帝
 フランツ・ヨーゼフ1世」


その一生を簡単に追ってみたい。

【18歳で即位】1848年
ウィーンで起こった革命の直後に
オーストリア皇帝に即位。
18歳で即位した皇帝は、
以後68年の長きにわたって
ひたすらオーストリアのために
生涯を捧げた。

P7179637s

【エリーザベトに一目惚れ】1853年
見合いのためバート・イシュルを訪問。
ところが、皇帝は
見合い相手ヘレーナに同行していた
15歳の妹エリーザベトのほうに
一目惚れしてしまう。

P7159160s

【結婚】1854年
アウグスティーナ教会で
エリーザベトと結婚。
1736年、マリア・テレジアと
フランツ・シュテファンが結婚式を挙げた
意外に地味なこの教会だ。

P7179538s

【ウィーン市拡張計画】1857年
ウィーンの外壁を取り壊す
ウィーン市拡張計画を発表。
ここに書いた通り、城壁を取り壊し
リンク通りを作って町を広げる
壮大な町づくりがスタートする。

P7179682s

【弟(メキシコ皇帝)、処刑される】1867年
弟のメキシコ皇帝
マクシミリアン1世が反乱軍に
捕らえられて処刑された。

P7179710s

【息子ルドルフ、情死】1889年
王位継承者である皇帝の唯一の息子
ルドルフ皇太子が、ウィーン南郊外の
マイヤーリンクで愛人と情死。

P7179624s

【妻エリーザベト、暗殺される】1898年
最愛の妻エリーザベトが
ジュネーヴで無政府主義者に暗殺される。

P7179609s

【甥(王位継承者)、暗殺される】1914年
王位継承者に指名した
甥のフェルディナント大公
サライェヴォで暗殺される。

P7179676s

【死去】1916年
第一次世界大戦の最中に死去。享年86。

P7179612s

【君主国崩壊】1918年
ヨーゼフ1世の死の2年後、
650年続いた「ハプスブルク君主国」
は崩壊する。

P7179627s

「皇帝の部屋」を巡ると
「護衛官の部屋」、
「謁見の控室」、「謁見の間」、
「会議室」、「執務室」、
「寝室」、「サロン」などを
見ることができる。

P7179680s

オーディオガイドによると
彼は毎日早起きをして
多くの書類に目を通し、
週2回、午前中に人々と謁見したらしい。
その数およそ100人。
ひとり2~3分というのが原則だったとか。

皇帝は立ったまま謁見に臨んだので、
その際使われていた「高い」書見台も
見ることができる。

P7179689s

最初に書いた通り、
写真は撮れなかったので
文字での説明ばかりになってしまったが、
愛するものを次々と失いながら
皇帝を全うせざるを得なかった
フランツ・ヨーゼフ1世の姿が見えてくる。

常に軍服を身につけて
執務にあたっていたせいか、
肖像画は軍服姿のものが多い。

棒年表を書いてみると
「愛するものを次々と失いながら」が
より鮮明になる。

Joseph1

* 棒左端の数字は生年
* 棒の色
    0 -20歳 緑
    20-40歳 青
    40-60歳 黄
    60歳以上 紫
* 棒右端の数字は享年
    (死んだときの満年齢)

 

 

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