歴史

2017年9月17日 (日)

オーストリア旅行記 (4) ザルツブルクの発祥

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オーストリア旅行記 (4) ザルツブルクの発祥

- ザルツは塩、ブルクは城 -

 

最初の夜から時差ボケと無縁の
熟睡ができたおかげで、
目覚めもさわやか。

ホテルの朝食はバッフェスタイル。

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チーズ、ハム・ソーセージ、
パン、シリアルなどなど
種類が豊富で
全部味見してみたくなる。

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はちみつは、
トルコのホテルで見たものと同様
巣から直接取るスタイル。
味というよりも
見た目にインパクトがある。

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レストランの入り口には、
ややピンク色を帯びた
きれいな色の大きな岩塩が。

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そう、ここはザルツブルクなのだ。

ザルツブルク(Salzburg)

salzが「塩」
burgが「城、要塞、砦」
つまり、「塩の城」という
意味の名を持つこの町は、
周囲の岩塩鉱から産出される
塩の取引で繁栄を続けてきた。

ザルツブルクの旅行記を始めるにあたって、
まずは、その起源に関わる
古い歴史的な施設・建造物から
話を始めたいと思う。

どれもその起源は8世紀。

現在の建物は当時のものではないが、
その名は、創立時より絶えることなく
ザルツブルクの歴史を支えている。

 

【ザンクト・ペーター教会】
696年に聖ルペルトが
この地方の布教活動の拠点として
僧院を創設した。
今日、ドイツ語圏に現存する
最古の修道院のひとつとなっている。

付属のザンクト・ペーター教会は、
現在はこんな感じ。

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12世紀半ばにゴシック様式で改築された。

この教会には、
岸壁をくり抜いて作った共同墓地、
祈祷のための
洞窟「カタコンベ(Katakomben)」がある。

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岩山に張り付くような構造が印象的だ。

隣接するザンクト・ペーター墓地は、
鉄細工の墓碑と花が美しい。

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鉄柵で区切られた墓地も特徴のひとつ。
鉄柵の文様も区画ごとに違っている。
鉄細工の墓碑といい、
いい鉄工の職人がいたのだろう。

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映画
「サウンド・オブ・ミュージック」の最後、
墓地に逃げ込むシーンの
モデルになっているのもこの墓地だ。

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左上後方には
ホーエンザルツブルク城塞が見える。

 

訪問時、タイミングよく
独特な形状の鐘塔からは
町中に鐘の音が鳴り響いていた。

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今回は、カメラの他にコンパクトな
ICレコーダ

も携帯していたので
その時の鐘の音を思わず録音。

「カセットデンスケ」や「生録」
なんていう言葉が躍るカタログを
ある種の夢とともに集めていた、
そんな時代の思い出もある
オジサン世代の私からすると、
この手軽さでこの音はないだろう、
というのが正直な感想だ。

30秒ほど貼っておきたい。
小さな町の過去へと誘(いざな)う
音の雰囲気が少しでも伝わるだろうか。

 

そのまま教会にも立ち寄ってみた。
静かに扉をあけた瞬間、
その空気感に足が止まった。

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あの外見から
この身廊が想像できるだろうか。
思っていたよりもずっと大きく、
美しいだけでなく
荘厳な雰囲気に包まれている。

しかも、運がいいことに
オルガンの演奏が始まった。

この空間で聞く、この音楽。
やさしく包み込まれるような幸福感。

神聖な響きは、宗教を越えて
心にやすらぎを運んできてくれるようだ。

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696年のザンクト・ペーター教会に続いて、
714年にはノンベルク尼僧院が創設される。
映画「サウンド・オブ・ミュージック」で
最初に主人公マリアがいた尼僧院だ。

 

【大聖堂】
起源の古いもののもうひとつは大聖堂。
創建は774年。
12世紀に後期ロマネスク様式で改築後、
17世紀にバロック様式で建て直された。

訪問時は、ザルツブルク音楽祭のための
大掛かりな準備が進行中で、

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正面のドーム広場には入れなかったため
横からの写真になってしまうが

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こちらの方は、上に書いた
ザンクト・ペーター教会と違って、
その高さ、大きさから
ある程度内部を見る覚悟(!?)ができる。

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さぁ、内部に入ってみよう。

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身廊は長さ101m。

主祭壇のまわりに配置された
パイプオルガンに目にゆく。

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柱部に分散された配置。

モーツァルトはここで洗礼を受け、
1779年からは
オルガン奏者も務めていたという。

最後部にはオルガンの
大きなパイプが並んでいる。

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数々の壁画や

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華麗な漆喰装飾の天井も見逃せない。

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第二次世界大戦で大きく痛み
その後、修復されたものだが、
主祭壇上の丸天井も美しい。

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大理石で覆われた大ホールには、
約1万人を収容できるという。

ザルツブルク生まれの
指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤン
葬儀もここで執り行われた。

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* ザンクト・ペーター教会
* ノンベルク尼僧院
* 大聖堂
起源はすべて8世紀。

その8世紀、当時の司教が、
バイエルン公から献上された
「塩泉からの収入」を財源にしていたことが
「塩の城」
ザルツブルクの名前の由来という。

755年
「ボニファティウスの生涯」の中に
ザルツブルクという名前が初めて登場する

その後も、塩との縁は深く、
15km南にあるバート・デュルンベルクで
採れる岩塩は「白い金」と呼ばれ、
外地に送る際の通行税が、
継続的に富をもたらし
町の繁栄を支えてきた。

ザルツブルクは長い間、
大司教を領主と仰ぐ
神聖ローマ帝国内の一独立国だった。
編入前に短期間バイエルン王国に
併合されていた歴史はあるものの、
ハプスブルクの
オーストリア支配下に入るのは、
1816年のウィーン会議のあと、
つまり19世紀に入ってから
だ。

1000年以上もの間、
大司教が治めた国であり、
オーストリア支配下に入ったのは19世紀。
この点は頭に留めて町を眺めたい。

歴史ある旧市街と歴史的建造物は、
1996年、
「ザルツブルク市街の歴史地区」として
ユネスコ世界遺産に登録
されている。

 

 

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2017年7月30日 (日)

昭和初期の『小学生全集』

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昭和初期の『小学生全集』

- 児童図書を支えていた人たち -

 

前回に引続き、

中沢弘基(著)
生命誕生
地球史から読み解く新しい生命像
講談社現代新書

(以下水色部、本からの引用)

から、
もう少しエピソードを紹介したい。

当時としては画期的な
ヴェーゲナーの「大陸移動説」が
学界ではまだ認められていなかったころ
ここ、日本ではどんな動きがあったのか。

一通の手紙で貴重な証言が寄せられた。

 大陸移動説は
大学や学界で消えていましたので、
もちろん世の中一般には
知られていないものと思っていましたが、
2006年に出版した拙著の書評として
いただいた手紙の中に、
次の一文があって驚きました。

「ヴェーゲナーについては、出会いは
 小学校の時代にさかのぼるのです。

 当時
 『小学生全集』と言うシリーズものが
 あって(昭和初期の刊行)、
 その中で、ヴェーゲナーと言う
 奇矯な学者が『大陸漂移説』を唱えた、
 と絵入りの説明がありました」

と書かれていたのです。

「その後、学校の教室でも、
 地理の時間に、世界地図を前にして
 "大陸を移動させると南米と
 アフリカ大陸の凸凹がぴったり合う、
 生息していた生物も見事に一致する"
 との話をききました」 

と続いていました。

昭和初期生まれの
著名な思想家(政治家)の手紙でした。

学界の外では
大陸移動説は消えていなかったのです。

学界でも認知されていないような説を
小学生相手に紹介してしまう
「小学生全集」とは
いったいどんな本だったのだろう?

しかも、昭和の初期の話だ。

 調べたところ、『小学生全集』は
菊池寛と芥川龍之介が指導と編集をして
文藝春秋社・興文社から、
昭和2年から昭和4年にかけて
刊行された児童図書で、
「世界の少年少女文学や童話」に加えて
「電気、動植物、物理化学、
 算数、生物学、生理衛生」など、
広い範囲の「子供にわかる本」、
88巻でした。

 少年少女文学の
菊池寛や芥川龍之介に加えて、
科学や工学は
当時の東京帝国大学の教授たちや
牧野富太郎、横山桐郎、鷹司信輔ら

植物、昆虫、鳥の権威者が
みずから筆を執っています。

大正デモクラシー当時の
学界指導者たちには、
少年少女教育を
国家百年の計とする見識
があり、
当時の世相も、
学者たちが論文や特許ではない
少年少女向けの文を書いている"ゆとり"を
むしろ好しと認めていたのです。

「小学生全集」の編集にこの面々!

そして、国家百年の計は
「少年少女教育」!!

この計は、この見識は
今、いったいどこに
行ってしまったのだろう。

 昭和4年(1929年)は、
ヴェーゲナーが遭難死する1年前ですから、
刊行されたのは論争の真っ最中です。
「大陸漂移説」は

小学生全集(上級用)
 第60巻、『海の科学・陸の科学』

 東通太郎・辻村太郎著」

にありました
(手紙の主の「70年以上も前」の記憶です)。

 辻村太郎は当時
東京帝国大学理学部地理学科の助教授で
その師の、優れた地理学者の山崎直方は、
世界のおおかたが空想として否定していた
「ヴェーゲナーの大陸漂移説」を
評価して普及に努めていましたので、
同説が記述されたものでした。

大陸移動説が世の一般には
知られていないと思っていたのは、
専門家の端にいる筆者の不見識でした。

一通の手紙をきっかけに、
ていねいな調査をしたうえで
筆者は自身の不見識を認めているが、
それにしても、
菊池寛、芥川龍之介、牧野富太郎などなど
錚々たるメンバが
児童図書に関わっていたなんて。

 

 いまだ評価の定まらない
論争中のドイツの学説が翻訳されて、
小学生でも知る機会があったのですから、
当時の日本の
少年少女教育の程度の高さは驚き
です。

そして読んだ
"少年少女たち"の知力も、です。

この小学生全集を読んだであろう
まさに知力のある少年に、
こんな人物もいた。

 調べてみると、
著名な漫画家の手塚治虫
手紙の主と同世代で、
少年時代に読んだ「大陸漂移説」を
覚えていた一人でした。

まだ"戦後"を引きずっていた
1950年から1954年にかけて連載された
『ジャングル大帝』は、
ロマンと平和と正義感にあふれる名作として
今や世界中に知られていますが、
その第1話は、
アフリカ大地溝帯の説明から始まります。

アフリカ大地溝帯は、
現在アフリカ大陸が
東西に分裂しつつある地域のことです。

 そして、大陸を分裂させる力のある
「月光石」(話の中の架空の石)を
探す学者が登場して、

「これはドイツの地質学者
 アルフレッド・ヴェーゲナー博士が
 いい出したことです」といいつつ、

大陸移動の図を示します。

最終話では、
「月光石」を探す学者に、

「大陸を分裂させた大きなカは何か? 
 最近ではマントル対流の
 せいだともいう…」といわせて、

大陸移動説の復活を暗示する
一コマもあります。

『ジャングル大帝』のストーリーの背景は
ヴェーゲナーの大陸移動説
そのものだったのです


 手塚治虫は
『ジャングル大帝』を描いた動機を

「(ヴェーゲナーの壮大な大陸移動説を)
 子どものときに読んで
 夢をふくらませ
」て描いたと、

NHK文化講演会(1982年)で述懐しています。

手塚治虫の「子どものとき」は、
手紙の主と同じ昭和初期ですから、
"読んだ"のは同じ
「小学生全集(上級用)第60巻」
だったのかもしれません。

 

著者の中沢さんは、
こんな言葉で「小学生全集」を
紹介した節を結んでいる。

 学界では消えていたにもかかわらず、
手塚治虫は「子どものときに読んだ」
ヴェーゲナーの大陸漂移説を
理解してふくらませて、
日本が世界に誇るストーリー漫画
『ジャングル大帝』に羽化させました。

しかも1950年、同説が日本はもとより
世界中の学界で
無視されて消えていたときに、です。

素直な少年期の”直観”で
納得していたのでしょう。

”大正デモクラシー”といわれる
太平洋戦争前の高い自由主義文化に
浴した少年少女たち
が、
戦争を生き延びて、戦後の
日本の新しい文化を創出したことを、
”消えなかった”大陸漂移説が
しめしているようです。

 

 

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2017年7月23日 (日)

巨大大陸「パンゲア」

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巨大大陸「パンゲア」

- 学界から消える大陸移動説 -

 

前回に引続き、

中沢弘基(著)
生命誕生
地球史から読み解く新しい生命像
講談社現代新書

(以下水色部、本からの引用)

から、
もう少しエピソードを紹介したい。

ヴェーゲナーの「大陸移動説」
の話から始めよう。

20世紀中頃、
ナチスが台頭するまでは、
ドイツ科学の隆盛期でした。

その時代、
ドイツのマールブルク大学で
気象学を教えていた
アルフレート・ヴェーゲナー
(Alfred L. Wegener, 1880-1930)
は、

今離れている大陸は
 みんな もともと一つだった


という"おかしな"考えを、
1912年フランクフルトや
マールブルクで発表し、
1915年に
著書『大陸と海洋の起源』の第一版を
著しました。

「今、海洋で大きくへだてられている
 二つの大陸の両方に、
 同一種の生物の化石が発見される
のは、
 その生物が生きていた当時、
 両大陸は一体であって、
 その後二つに分裂したためである」 

というのです。

今からちょうど100年くらい前のこと。

ヴェーゲナー自身が
「世界地図を見て、
 大西洋の両岸の海岸線の凸凹が
 よく合致するのに気がついた」
と言うように、最初は
小学生でも気がつくような
小さな発見がスタート地点だった。

それを「気がついた」だけでなく、
ちゃんとした説として
発表できるところまで持っていくことは
誰にでもできることではない。

彼の専門は
地球物理学の中の気象学でしたが、
世界地図を見て思いついた
アイディアを証明するために、
生物学、古生物学、地質学、岩石学、
鉱物学、気象学、測地学などなど、
片端から
当時の最新の論文を読み漁って読破し、
証拠となる事実を探しました。

 そして、
南アメリカ大陸とアフリカ大陸のように、
現在は離れている両大陸間に、
海を渡ることのできない
カタツムリや淡水魚、
あるいは
植物などの同じ種がいる
ことや、
両大陸の凸凹が
ジグソーパズルのように嵌(は)まる両岸に
同じ化石や同じ岩石・鉱物が産出して、
かつて地層がつながっていたことを
見つけました。

 それらの事実を証拠として、
上記の『大陸と海洋の起源』を出版し、
現在の大陸は古生代終わりの
ペルム紀(約2.99億~2.52億年前頃)まで
みんな一つにまとまった
巨大大陸「パンゲア」であって、
中生代最初の三畳紀(約2.52億年前頃)から
徐々に分裂が進み、
白亜紀(約1.45億~0.66億年前)
に離れ離れになったと主張しました。

広い視野で研究できたものだけが
到達できた見解。
ところが、この発表は、学界では
ほとんど受け入れられなかった。

パンゲア大陸については
Wikipediaにある動画がわかりやすいので、
リンクを貼っておきたい。(こちら

ところで、「大陸は動かない」説を
支持している人たちは
離れた大陸にある共通の化石を
どう説明していたのだろう。

 しかし20世紀初頭の発表当時は、
あまりにも常識とかけ離れていたため、
学界ではほとんど理解されませんでした

「大陸が動くはずはない」とする
当時の″正当的″な考えでは、
二つの大陸に共通する化石の存在は、
かつて両大陸が細い″陸橋″で
つながっている時代があったから
であると
説明するのです。

陸橋は二つの大陸をつなぐ
細長い陸地や潮が引いて現れる
島伝いの道のことで、
それを伝って海を渡れない生物が
移動したと考えるのです。

ちなみに、この『大陸と海洋の起源』は
今読んでもおもしろい本らしい。
調べてみると、
岩波文庫にも講談社学芸文庫にもある。

まだ読んでいないが、下記を読むと
読んでみたくなる。

『大陸と海洋の起源』は
文字どおり地球科学全般にわたる
さまざまなデータを用いた、
ていねいな論理展開で、
出版から約100年も経った今読んでも
痛快な推理小説を読むようです。

もちろん、現在の知識からすれば
大陸の構造や移動の原因などの考察には
誤りもありますが、
大陸が移動したことをしめす証拠の論述は
合理的で感心するばかり
です。

専門性が進むことによって
細分化されていく学問がもつ問題点は、
彼の説に対する学界の反応を見ると、
(不幸なことではあるが)
じつにわかりやすい。

 気象学者のヴェーゲナーが
大陸移動説の根拠としたのは、
生物や化石や地質など専門の異なる
「巨大な量の文献を読破・
 渉猟(しょうりょう)した」
論文でした。

化石や生物の専門家は
個々の化石や動・植物については
通暁(つうぎょう)していても、
大陸を動かす力を論ずる
地球物理学の論文は読めません
し、
逆に、
地球物理学者は
地震・重力など全地球規模の現象を
理論的・定量的にあつかいますが、
化石や生物のしめす定性的な事実から
何億年もかかって移動する
大陸を推定する想像力に欠けていました。

 専門家は
それぞれの高い専門性のゆえに、
ヴェーゲナーの言を
どちらの側からも理解できなかったのです。

結局、彼の説は
一旦学界から消えてしまう。

常識を正面から否定したヴェーゲナーは、
米国を中心とする学者の反感を
一手に買って論争になりましたが、
むしろ
「圧倒的多数は彼の論拠を
 まじめに聞こうとしなかった」
といわれています。

論争になったのも彼の生存中だけで、
彼が大陸移動の原因を求めて
グリーンランドの探検で
1930年に遭難死すると、
大陸移動説は学界から
完全に消えてしまいました


 あれだけ物理・化学が発展して
原子や電子の「ミクロの世界」が
明らかにされた20世紀前半でも、
地球は
「海も大陸も動かない、
 冷えて固まった地球」
の見方のまま残されたわけです。

彼の説が
学界から消え去ってしまったころ、
ここ日本ではある意外な、
ほんとうに意外な分野で動きがあった。

その話は次回に。 

 

 

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2017年7月16日 (日)

「生命誕生」

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「生命誕生」

- 「海は生命の母」とは言えない? -

 

本棚にあるこの本

中沢弘基(著)
生命誕生
地球史から読み解く新しい生命像
講談社現代新書

(以下水色部、本からの引用)

私が購入したときの本の帯には、
池谷裕二・東京大学教授の
こんなコメントが載っている

脳髄を金槌(かなづち)で
 殴られるほどの衝撃を受けた!


帯は広告・宣伝なので、
たいていの場合は大袈裟で
ミエミエの褒め言葉に
かえって冷めてしまう場合もあるが、
殊この本については
「金槌で殴られるほどの衝撃」
はまさに言葉通りだった。

ほんとうに衝撃がある。

生命はいつどこで発生したのか?

だれもが抱く疑問に、
独自の説を丁寧に展開していくのだが、
とにかく話の運び方がうまい。

最初の方のこんな書き方だけで
おもわず引き込まれてしまう。

生命の起源は海の中、
「太古の海は生命の母」と考えるのは
広く世界の常識になっています。

 確かに水がないと
生物の体は成り立ちませんし、
生きてもいられません。

化石に残る原始的な生物は
すべて海棲(かいせい)生物で、
約5・4億年前のカンブリア紀の海で
爆発的に増殖したことも確かです。

しかし、だからといって、
生物の誕生にいたる有機分子の発生と
進化の過程もすべて水の中、
海の中であったとする根拠は
何もありません

化石で見つかった古い生物が
すべて海棲生物だからと言って、
その起源となる最初の生命の誕生
「海の中」の証拠にはならない。

なるほど。

でも、いつのころからか
「アミノ酸が多く浮かぶ
 スープのような海」
が生命誕生の舞台だと
思い込んでしまっている
どうしてなのだろう?

事実、こんな記述もある。

アミノ酸に富む
”チキンスープ”のような太古の海で
生命が発生
したと、
ほとんどの人は考えて、
海を模した水溶液中の
化学反応の研究を中心にしてきました。

 

では、なぜ、
海での生命誕生が疑わしいのか?
詳しい説明の前に、
サクッとこう提示している。

 後で述べますが、化学的には
海の中でアミノ酸などの
生物有機分子どうしが結合して
大きくなると考えるのは不自然
なのです。

多量の水の中では一般に、
結合よりも大きな分子の
分解反応が卓越します。

比熱の大きな
多量の水の中はつねに温暖で、
分子が相互に反応しなければならない
環境圧力もありません


「太古の海は生命の母」と考えるのは、
世界の常識とはいえ、
化学的にはおかしな仮定なのです。

生命を構成する原子や分子が、
アミノ酸やタンパク質を構成する配列で
分子となるためには、
構成原子や分子が
そこにあるだけではもちろんダメで、
化学反応を起こし、結合させるための
ある種の「圧力」が必要になる。

その「圧力」が温暖な海にはない。
むしろ逆で、海には、
分子を分解させる方向の力がある。

との指摘も直感的にreasonable。

 

こんな導入で始まった話は、
この後、地球の歴史を大きく観ながら
本論に入っていく。

そこで提示される
生命誕生に関わる大胆な仮説については、
簡単には要約できなので
説明は本に譲りたいが、
仮説の詳細に入る前にも、
興味深いエピソードが
いくつも紹介されている。

というわけで、
この本の話、もう少し続けたい。

 

 

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2017年7月 9日 (日)

駅馬車の御者の一生

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駅馬車の御者の一生

- 埋葬しようとして -

 

新聞を整理していたら、
ある本にあったエピソードを思い出した。

新聞記事の前に、
エピソードの方から紹介したい。

本は、
アイザック アシモフ (著)
星 新一 (訳)
「アシモフの雑学コレクション」 
    新潮文庫

(以下水色部本からの引用)

(アシモフが書いて
 星新一が訳している。
 もうそれだけでなにかありそうな
 予感がするが、残念ながら
 今日の話はそれとは関係ない)

さて、この本、
今で言うトリビアネタ満載。
出版は今から30年以上も前なので
今読むと、
更新の確認が必要なネタも
あったりするけれど・・・

その中の一節。

カリフォルニアの
ゴールドラッシュのころ、
チャーリー・パークハーストという
駅馬車の御者がいた。

危険のひそむ道を、
乗客や金をのせて運んだ。

葉巻を吸い、かみタバコも好み、
トランプも強く、酒も飲む。
馬車を襲った強盗を二人うち殺した。

やがて引退し、
サンタクルーズで牧場を持った。

まぁ、ここまでは
ゴールドラッシュ時代の
ひとりの成功者の話と読めば
特に驚くようなことはなにもない。

ところが最後はこう結ばれている。

1879年の大みそか、チャーリーが
自宅で死んでいるのが発見された。

埋葬しようとして、
女性だったことを、
人びとははじめて知った。

 

話は最初に戻るが、
このエピソードを思い出したのは、
この記事を目にしたから。

2017年6月19日朝日新聞一面

A170619_joshidai

「性同一性障害」の方の
女子大への入学について
議論されるところまで来た、とのこと。

「性同一性障害」や
LGBT(性的マイノリティ)への
社会的な理解は、ここ20年ほどで
ずいぶん大きく進んだ。

それでも
まだまだ不十分な点は多いのだろうが、
各国のニュースを見ていると
理解に対する追い風が吹いていることは
間違いない。

数のうえでは少数派であっても、
各人のあり方が、
そのままの形で受容される社会、
そういった多様性を認める社会が、
ほんとうの意味での
豊かさと強さを持つことになる。

金子みすゞさんの詩ではないが、
「みんなちがって、みんないい」
のだし。

ただ、社会的な認知度と
実際の存在数は、独立した事象だ。

もちろん、
「認知度」が高まれば
「カミングアウトしやすくなる」
といった点はあると思うが、
認知されたからと言って、
急に対象者が増えるような性質の
事象ではない。

同様に
社会的には全く認知されていなくても
その時代、その時代で
おそらくある一定数はいたはずだ

今から140年前。
チャーリーは、
どんな思いで一生を過ごしたのだろう?

 

 

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2017年5月 7日 (日)

どちらがウラか

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どちらがウラか

- 紙が貴重品だったから -

 

前回に引続き、

 大隅和雄 著
 中世の声と文字
 親鸞の手紙と『平家物語』
 シリーズ <本と日本史> 3
   集英社新書

から、もうふたつ興味深い
エピソードを紹介したい。

 

【仮名文字の始めの頃】

平安時代中期以降、文字に親しむ人々は、
心に思うことを伝えるために、
手紙を書くようになった

『源氏物語』の中に、
京に上った明石の君が母の尼とともに、
明石に残った父の入道に
近況を知らせる手紙を送る場面がある。

入道は明石の君への返事の中に、

 仮字文(かなぶみ)見たまふるは
 日の暇(いとま)いりて、
 念仏も懈怠(けだい)するやうに
 益(やく)なうてなん、
 御消息(せうそこ)も奉らぬを。
          (若菜 上)

(仮名の手紙を拝見するのは、
 時間がかかって、そのために
 念仏も怠るようになるので、
 御消息もさし上げませんよ)

と記したとある。
女性の手紙は
仮名文字で綴られているので、
読むのに時間がかかり、
念仏の行の妨げになる
という。

漢字で書かれていれば、
一見すれば何が書かれているかわかるが、
当時は仮名文字だけの文章には
句読点も濁点もなく、
音便の表記もまちまちだったので、
日々仏典に接している入道にとっては、
仮名文を読むのは大変だったに違いない。

仮名文字は読むのに時間がかかる。
漢文の方が
読みやすかった時代があった
わけだ。

 

【紙が貴重品だったから】

 平安・鎌倉時代、
公的な文書は漢文で書かれた。

太政官や摂関家から出される
さまざまな文書、
寺院の経営に関する文書、
田畑の譲渡や売買の書類など、
権利の証文として必要なものは
大切に保管され、代々受け継がれたが、
私的なこと、
日常生活のことを書いた手紙が
永く保存されることはなかった


貴族の女性は仮名文字で、
数多くの手紙を書いたと思われるが、
公的なことに関わりのない女性の手紙が
後世に伝えられることはなかった

ところが、藤原為房の妻の手紙は
43通も残っている。

それは、なぜか。

紙をめぐる時代的背景が
大きく関わっている。

ただ、当時は紙が貴重であったから、
保存の必要のない手紙を集めて、
裏に本を写すことがしばしば行われた


そのため、藤原為房の妻の手紙43通も、
比叡山の僧房で、
仏典を書写する料紙として用いられ、
青蓮院に残ったのである。

紙が貴重だったので、
手紙のウラが
仏典を書写するために使われた。

その仏典が残ったために、
偶然、
ウラの手紙が一緒に残ることになり
仏典と一緒に発見された。

こうなるとどちらがウラか
わからなくなってしまうが、
何が幸い(?)するかわからない。

紙というブツ(物)があればこその
エピソードだ。
デジタルデータではこうはいかない。

オモテがウラになり、
ウラがオモテになる。
ブツの価値はその瞬間には定まらない。

いろいろな面に光を当てて見せてくれたのは、
ブツが残った、その長い長い時間だ。

 

 

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2017年4月30日 (日)

「中世の声と文字」

(全体の目次はこちら


「中世の声と文字」

- 学問から宗教へ -

 

遺跡や書物は、歴史を考えるときの
大事な資料や証拠となるが、
残念ながらそこに「音」は残っていない。

文字や楽譜は残っていても音はない。

 吉松隆 著
 調性で読み解くクラシック
   ヤマハミュージックメディア

にもこんな記述があった。

世界中のあらゆる時代あらゆる地域で、
「音楽」はそれぞれの形で
豊饒な文化を築いている。

ただし、残念ながら音楽は
化石や古文書のように
発掘されることはない
ので、
音そのものは想像するしかない。

それはもちろん
「声」についても同じこと。

 

その、当時の「声」を
親鸞の手紙と
琵琶法師によって語り継がれた
「平家物語」を題材に
考えてみようという

 大隅和雄 著
 中世の声と文字
 親鸞の手紙と『平家物語』
 シリーズ <本と日本史> 3
   集英社新書

を読んだ。
(以下水色部本からの引用)

もともと親鸞についても
平家物語についても、
中高の教科書以上の知識がないので
知らないこと満載で、その内容は
興味深い話の連続だったのだが、
途中から

なお、『平家物語』の引用には、
注をつけることにして、
敢(あ)えて現代語訳は省いた
中世の人々が
琵琶法師の声で聞いた文章の律動を、
そのままのかたちで味わって頂きたい。

という著者の意図のもと、
現代語訳がなくなってしまったのは、
古文オンチの私にとっては辛かった。

「文章の律動」を味わう余裕がない。

そういう意味では、読み終えても
本の趣旨というか、
肝心な部分が味わえていない
後(うしろ)めたさが残る。

とはいえ、浅い読者は浅いなりに
発見や考えさせられることもあったので、
きょうは、その一部を紹介したい。

 

まずは親鸞との語り合いと手紙の話から。

親鸞が東国にいて、門前たちと語り合い、
念仏道場でともに
念仏を唱えていたときには、
親鸞の信心と数えは、
親鸞の立ち居振る舞いを通じても、
自然に伝わっていった


しかし、その親鸞が東国を去った後、
残された人々は、
念仏を唱えて語り合うだけでは心もとなく、
心に浮かんでくる疑問に、
決着を付けることが
できないと思うようになった。

 そこで、門弟たちは、
手紙を書いて教えを乞う
ようになった。

距離が手紙を生んだわけだが、
手紙には距離を埋める以外の
大きな作用があった。

親鸞の返信を受け取った門弟は、
その手紙を道場の人々に見せ、
声を上げて読み聞かせ、
字のかける門弟の中には、
書写して
信心の拠り所とする
者も少なくなかった。

親鸞の手紙は現在43通が知られていて、
その中で11通は、真蹟とされている。

750年前の手紙が、
もとのまま11通も残っている
というのは
驚くべきことであるが、
それらの手紙は、親鸞の最晩年のもので、
京都に帰った60代前半にも
文通はあったに違いないが、
手紙は残っていない。

750年も前の手紙が11通も残っている、
という事実には確かに驚くが、
ここでの印象的なシーンは、
「声を上げて読み聞かせ」と
「書写して信心の拠り所」の部分。

手紙が、
個人対個人のやり取りに留まっていない。

東国の門弟たちは、
親鸞の手紙を大切にして、
写本を作って回読し、道場で
読み上げることもあったと思われる。

そうした中で、
手紙を集めた本が教典として
用いられることになった。

信心に関する質問に対して、
親しみ深く語りかけるような親鸞の返事は、
質問を的確に、深く理解した上で、
易しいことばで綴(つづ)られていたから、
消息集は門弟たちにとって、
かけがえのない教典となった


門弟たちは消息集を読んで、
師の面影を偲(しの)び、
師の声を聞くかのようなことばを
反芻するようになったのである。

親鸞との手紙が、
親鸞の教えの広がりに
独特な力をもっていく。

手紙を中心にした変化、だ。

 消息集が教典になったことは、
先進的な外来文化として伝来した仏教が
「漢訳仏典の学問」から、
信心を中核とする「宗教」に変じた
ことを、
何よりも的確に表わしていると思われる。

 突飛な比較と考えられるかも知れないが、
『新約聖書』は
27の資料からなっているが、
四部の福音書と
「使徒行伝」「ヨハネの黙示録」
の六篇の他は、
21通の手紙が収められており、
資料の数からいえば、
全体の4分の3は手紙である

キリスト教の教義の中核もまた、
手紙で述べられている
ということになる。

なるほど。
教典における「手紙」は
単なる表現の一形式として
採用されたものではなく、
「実績」に基づく
採用だったのかもしれない。

人々の心に届く、実手段として
大きな影響力を持ったという「実績」に。

特に識字率が高くなかった時代には、
「声を上げて読み聞かせ」るという
共有方法がその背景にあったことも
見逃せない。

「学問」から「宗教」に。

具体的な音は聞こえないけれど
確実に存在した「声」の存在が
「教典」に命を吹き込んでいるような
そんな気さえしてくる。

この本の話、もう少し続けたい。

 

 

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2017年4月 9日 (日)

深谷の煉瓦(レンガ)

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深谷の煉瓦(レンガ)

- 東京駅から迎賓館まで -

 

埼玉県深谷市というと、
深谷ネギというネギが有名だが、
ここは明治の大実業家
「渋沢栄一」の出身地でもある。

第一国立銀行(現みずほ銀行)や地方銀行、
東京瓦斯(ガス)や王子製紙、
帝国ホテルやキリンビール、
一橋大学、同志社大学、日本女子大学校
東京海上火災保険や東京証券取引所、
などなど
渋沢栄一が設立に関わった企業や学校は
多種多様でその数、実に500以上。

まさに「日本資本主義の父」
と呼ばれるにふさわしい輝かしい実績。

どの会社も組織も、その後の発展と
日本社会への影響度、貢献度を思うと、
一生の間にこれほど多様な仕事が
できるものだろうかと、
にわかには信じられないほどだ。

そんな渋沢が
設立に関わった会社のひとつに
日本煉瓦製造株式会社」がある。
1887年(明治20年)に設立。

明治になって、急速に増え始めた
欧米に倣った近代建造物のための
赤レンガを製造、販売していた。

会社は2006年に廃業してしまうが、
レンガを焼いていた窯(かま)は、
重要文化財として今でも深谷に残っている。

実際に窯を見に行ってみた。

【ホフマン輪窯(わがま)】
ドイツ人ホフマンが考案した
煉瓦の連続焼成が可能な輪窯(わがま)。

Fukaya2_2

明治40年の建造で、
長さ56.5m、幅20m、高さ3.3mの
煉瓦造り。
陸上のトラックのような形状の
輪になっており、一周約120メートル。

見学は無料だが、
丁寧にも説明員がついてくれる。

Fukaya1

ヘルメットを被り、
窯の中に入って説明を聞くことができる。

Fukaya3

今は仕切りはないが、
内部を18の部屋に分け、
窯詰め・予熱・焼成・冷却・窯出しの
工程を順次行いながら移動し、
およそ半月かけて窯を一周したとのこと。

燃料の石炭は、粉にして上の穴から
15分おきに投入していたらしいが、
実際に窯に入ると、
その穴を下から見上げることができる。

Fukaya4

生産能力は月産65万個。
1968年(昭和43年)まで
約60年間煉瓦を焼き続けた。

木造平屋の会社の旧事務所も
輪窯と一緒に
国の重要文化財となっているが、
内部は今は史料館となっている。

Fukaya5

あんな大きな窯が、
最盛期には6基もあったらしい。

Fukaya6

各窯建屋の内部はこんな感じ。
一番下に窯。
煙突の途中にあるハの字にご注目。
窯の上にあった建屋の屋根の跡。

Fukaya7

この屋根の跡は今も煙突に残る。
あの高さにまで建屋があったわけだ。

Fukaya8

さて、この大規模な工場で作られた煉瓦は、
いったいどこに使われていたのか。

史料館で100円で購入した
「深谷の煉瓦物語」という小冊子から
代表的な建造物を紹介したい。

(1) 東京駅 丸ノ内本屋
明治41年に着工し、大正3年に完成。
辰野金吾の設計による
国内最大級の煉瓦建築。
深谷の煉瓦が約833万個使われた。

(2) 旧信越本線碓氷第三橋梁
  (碓氷峠鉄道施設〉
横川~軽井沢間の碓氷峠鉄道敷設工事は
明治24年に開始。
けわしい峠を縫う11.2km余りの区間には
26ものトンネルと18の橋が必要で
そのほとんどが煉瓦で作られた。
使った煉瓦1800万個
500人以上の尊い犠牲を出しながら
明治26年初めに開通。

(3) 法務省旧本館 明治28年完成
(4) 日本銀行本店本館 明治23-29年
(5) 表慶館 明治41年完成
(6) 旧横浜正金銀行本店本館
  明治37年完成
  (現・神奈川県立歴史博物館)
(7) 旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)
  明治41年

(1)-(6)はすべて重要文化財、
(7)は国宝。

(4)-(7)は、外見だけを見ると
石造建築のように見えるが、
実はいすれも深谷の煉瓦を使って建設され、
表面に石材を張って仕上げたものらしい。

鉄筋コンクリート建築に
とって代わられるまで、
本格的な西洋建築の多くは
煉瓦造だったとのこと。

建築・建造物に限らないが、
開国後、短期間でよくここまで
新技術・新文化を取り込んだものだ。

欧米列強に追いつこうとしていた
日本の勢いを、強く強く実感できる。

 

 

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2017年1月15日 (日)

日本海、浅い海峡と小さな遭遇

(全体の目次はこちら


日本海、浅い海峡と小さな遭遇

- 230年前のスケッチ -

 

以前、ちょっと回転しただけなのに
日本列島が見慣れない形で現れるこの地図

Easia

(地図の購入はこちら
と、日本海について
この本を紹介した。

蒲生俊敬著
「日本海 その深層で起こっていること」
講談社ブルーバックス


(日本海についての過去の記事は
 こちらこちら

この本から、もう2点
興味深い話を紹介したい。
(以下水色部と図は本からの引用)

まずは1点目。
本では、日本海の特徴を
下記3点にまとめている。

① 外部の海とつながる海峡が浅く、
  地形的な閉鎖性が強い
こと。

② 対馬暖流がつねに流れ込んでいること。
③ 冬季に北西季節風が吹き抜けること。

この①について、
ちょっと驚く数字がある。

地図で見れば明らかなように、
日本海は、間宮、宗谷、津軽、対馬の
4つの海峡で外部の海と繋がっている。
この4つの海峡は、幅が狭いだけでなく、
とにかく浅い


どれほど浅いか。
本文から数字を集めて並べてみた。
(「約10メートル」の「約」は省略して引用)

  日本海の深さ
  平均水深 1,667メートル
  最大水深 3,800メートル

  4つの海峡の深さ
  間宮海峡   10メートル
  宗谷海峡   50メートル
  津軽海峡  130メートル
  対馬海峡  130メートル

もう少しイメージしやすくするため
日本海を
平均深さ50cmのバスタブとしてみよう。
海峡は、外部の海と繋がる
「縁の窪み」ということになる。

  間宮海峡   0.3cm
  宗谷海峡   1.5cm
  津軽海峡   3.9cm
  対馬海峡   3.9cm

一番深い対馬海峡でもわずか4cm
いかに「閉鎖性が強い」かがよくわかる。

このことが、②③との組合せで
海水の対流(熱塩対流)や付近の天候に
大きな特徴をもたらすのだが、
その詳細は本のほうにゆずりたい。

いずれにせよ、この閉鎖性が、

ある大潮の時期に、
同じ青森県でも
太平洋に面した八戸では干満の差が
130センチメートルもあるのに、
日本海に面した深浦では、
わずか20センチメートル程度しか
海面が変化しません。

の原因。

若狭湾に面する京都府与謝郡伊根町
 「舟屋」のような、
 1階が船のガレージ、
 2階が居間となった
海辺ぎりぎりの独特な建物が成立するのも、
日本海だからこそと言える。

 

日本海についての話、2点目は
歴史的エピソード。

フランスのJ・F・ラペルーズが、
1787年に日本海を探検したときのこと。

 ラペルーズ率いるフリゲート艦2隻は、
1787年5月25日に
対馬海峡から日本海に入ります。

1797年に出版された
「ラペルーズ世界周航記」の付図には、
日本海を東へ進んだあと、
能登半島沖で北西に向きを変えて、
ロシア沿岸を北上した航跡が
記されています。
Nihonkai1

 

このラペルーズ率いる2隻のフリゲート艦が、
日本海でふしぎな和船と遭遇しています。

遭遇場所は、

Nihonkai2

の、"MER DU JAPON"と表記されている
"MER"と"DU"の中間あたり。

1787年6月2日のこと。

対馬海峡から日本海に入った
ラペルーズ隊の前方から、
2隻の日本船(北前船)が近づいてきた。

 2隻のうち1隻は、通常の弁才船

Nihonkai3

だったが、もう1隻は
いっぷう変わった形状をしていた。

230年近くも前、フランスの軍艦が
日本海で偶然見かけた日本の船の形状、
なぜそんなことがわかるのか。

まだ写真のない時代でしたが、
ラペルーズ隊のブロンドラ海軍中尉が
これらの和船を巧みにスケッチしました。

その絵が現存しており、
『ラペルーズ世界周航記・日本近海編』
(小林忠雄編訳)に添付されています。

なんとその船のスケッチが残っているのだ!
しかも精緻で美しい。

Nihonkai4

 

 和船研究の権威である
石井謙治や安達裕之によれば、
この船は「三国丸(さんごくまる)」といい、
江戸幕府が1786年10月に
就航させたばかりの1500石積み廻船でした。

「三国」という名称は、
この船が
 和船、
 中国船、および
 西洋船(オランダ船)
の3種の船の長所を
組み合わせた折衷(せっちゅう)船
であることに由来しています。

 唐船づくりの船体に
和式の総矢倉を設け、
船体の中央には和式の本帆、
船首と船尾には洋式の補助帆(三角帆など)
を備え・・・、といったぐあいです。

しかも、三国丸のような和洋折衷船は、
当時の日本でこの一隻だけだったという。
なんという偶然。

『世界周航記』(小林忠雄編訳)には、
そのときのようすが
興味深く記載されています。

「我々は日本人の顔が
 観察できるほど近くを通過したが、
 その表情には恐怖も、驚きも
 表われていなかった」

「すれ違いながら呼びかけたが、
 我々の問いは彼らの理解をえられず、
 彼らの答弁も我々にはわからなかった。
 日本船は南方に航海をつづけた」

コミュニケーションは
取れなかったかもしれないが、
そこまで近づいてきた
異国の船(しかも軍艦)に
三国丸の人々は、
どれほど驚いたことだろう。

三国丸はその一年後、
1788年9月、暴風に見舞われ
出羽国赤石浜に漂着。
そこで破船。

 実働わずか2年たらず。
同型船が再建されることは
なかったという。

 

日本にわずか一隻、しかも
たった2年しか存在していなかった船が、
はるかフランスからやってきた軍艦と
230年前の日本海上でたまたま遭遇。
その時のフランス人の正確なスケッチが
ちゃんと残っているなんて。

貴重なスケッチは、
たった一枚でも物語を運んでくれる。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2016年12月25日 (日)

渤海からのカレンダー

(全体の目次はこちら


渤海からのカレンダー

- 宣明暦(せんみょうれき)の渡来 -

 

前回、「日本海」について
この本を紹介させていただいた。

 蒲生俊敬著
 「日本海 その深層で起こっていること」
 講談社ブルーバックス

この本、ブルーバックスなので、
海水の「熱塩循環」を始め
科学的な視点での解説が多いのだが、
日本海に関する歴史的なエピソードも
数多く盛り込まれている。

その中からひとつご紹介。
(以下水色部、本からの引用)

 8世紀から10世紀にかけては、
高句麗の後継として698年に建国された
渤海(ぼっかい)
(当初の国名は振で、926年に滅亡)
とのあいだで実施された国際交流
(遺渤海使)がよく知られています。

今から1300年も前の話だ。

 

727年に渤海からの使節が
蝦夷(えぞ)地に来着したのをきっかけに、
翌728年には、わが国から初めての
遣渤海使が日本海を渡ります。

遣渤海使は811年の15回めで終了しますが、
渤海はその後も熱心に使節を派遣し続け、
929年の34回めまで継続されました。

727年-929年この間だけで約200年。

渤海使の推定交易ルートが下図。
なお、参考にしているのは、
 高瀬重雄(1984)
 「日本海文化の形成」名著出版

Nihonkai

秋田県能代から島根県松江(千酌)、
そして平城京まで、
なんと多くのところと繋がりがあったことか。

 

渤海からの使節は、
秋から冬にかけての北西季節風を利用して
日本海を横断し、対馬暖流に乗って
日本海沿岸の港に到着しました。

一方、帰路は4~8月に日本海を北上し、
リマン寒流を利用して渤海沿岸に
到着していたと思われます。

彼らは航海術に長(た)けていたようで、
海路図からは日本海の海流を経験的に
うまく利用していた
ようすが見てとれます。

古い話とはいえ、
航海術はこの時点ですでに長い歴史があり、
風や海流をうまく利用していたようだ。

 

 交流が始まった当初の渤海は
新羅と対立しており、同国を牽制するために、
やはり新羅と敵対していた
わが国との連係を求めました。

しかし、まもなく
新羅との緊張状態が緩和したことによって
軍事同盟的な色彩は薄れ、渤海との関係は
交易を中心とする文化的なものへ
変わっていきます。

軍事目的から文化交流へ。

では、実際にはどんなものが
やりとりされていたのだろう?

 渤海からは、
貂(てん)・熊・豹・虎などの毛皮や、
人参、蜂蜜、陶器類、仏具、経典などが
わが国にもたらされました。

一方わが国からは、
絹などの高級な繊維加工品、黄金や水銀、
工芸品、つばき油、金漆(こしあぶら)などが
輸出されました。

養蚕のあまりできない渤海で、
絹製品はとりわけ珍重されたといいます。

そして、このルートで輸入された
もっと大きなもの。

それは、その後800年以上に渡って
日本で使われることになる「カレンダー」だ。

 この時代に、渤海を経由して
唐から伝えられた貴重な文物があります。

859年の渤海使によってもたらされた
宣明暦(せんみょうれき)」です。

当時の唐で使用されていた
高精度の太陰太陽暦であるこの暦は、
862年から
江戸時代中期にあたる1684年まで、
実に822年間もの長きにわたって使用され、
年月日に基づく人々の
日常的生活の拠りどころとなりました。

800年間も使われた宣明歴。
その入国のルートとなったのが、
日本海だったようだ。

宣明歴も1685年には、
輸入物ではなく、日本人
渋川春海の手によって編纂された和暦、
貞享暦(じょうきょうれき)
改暦される。

渋川春海については、
冲方丁著『天地明察(てんちめいさつ)』
で広く知られるようになった。

貞享暦のほうは、
70年の寿命だったようだが。

 

2016年も年の瀬。
さてさて、来年は
どんなカレンダーになることでしょう。

今年もご訪問ありがとうございました。
どうぞ、よいお年をお迎え下さい。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

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