歴史

2024年8月18日 (日)

接続はそれと直交する方向に切断を生む

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接続はそれと直交する方向に切断を生む

- 『Barbed Wire(有刺鉄線)』から -

 

「パリ五輪の開会式が行われる予定の
 2024年7月26日、
 フランスで高速鉄道TGVを狙った
 同時多発的な放火事件が発生した」
なるニュースを聞いて、
思い出した話があるので
今日はそれについて書きたいと思う。

森田真生 (著)
数学の贈り物

ミシマ社

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

の中で紹介されていた、
スタンフォード大学の
リヴィエル・ネッツ(Reviel Netz, 1968-)
さんの著書『有刺鉄線』からの話。
鉄道への攻撃、が印象的に語られている。

この本、原題は"Barbed Wire"
未邦訳らしく日本語で読むことは
現時点ではできないようだ。

話は、
金鉱目当ての大英帝国とボーア人の間で、
南アフリカの植民地化をめぐって争われた
第二次ボーア戦争から始まる。

1899年10月12日の宣戦布告以降、
はじめこそはボーア人の攻撃に
苦しめられた英国軍だったが、
年明けから攻勢に転じ、
1900年6月にはボーア側の二つの首都が
占領された。

ところが、英国側の予想に反して、
戦争はここで終わらなかった。

ボーア軍が、
英国の鉄道、電信網を寸断する
ゲリラ戦を開始したからである。

ボーア人の主な移動手段は馬。

対する英国側にとっては、
鉄道が移動と物資輸送の命綱だ。

広大な草原に散らばる
馬の動きを阻止することは難しいが、
鉄道の機能を麻痺させることは簡単だ
線路を局所的に爆破するだけで
こと足りるからだ。

英国軍は鉄道をゲリラ攻撃から守り、
馬の動きをせき止める方法を
早急に考案する必要があった。

そこで目をつけられたのが
「有刺鉄線」である。

1870年代にアメリカで発明されて、
主に牛を中心とする家畜の動きを
制御するために利用された有刺鉄線を
英国軍はボーア人と
彼らの馬の動きを食い止めるために
使うことにした。

線路と電信のネットワークに
寄りそうように
有刺鉄線が張り巡らされ、
その破壊を試みるボーア人を
監視するために、
急ごしらえで
「ブロックハウス」と呼ばれる
簡易な要塞が、線路に沿って
等間隔に打ち立てられた。

この「ブロックハウスシステム」には、
予期せぬ効能があった。
南アフリカの大草原が
有刺鉄線の網の目で覆われることにより、
広大な土地が、境界の制御された
いくつもの小規模な領域に
分割されたのである。

接続」するための鉄道や電信が
有刺鉄線で守られることで、
領域を「分断」する機能を
帯びるようになったのだ。

分割された小領域ごとにボーア人を追い詰め、
英国側は勝利をおさめる。

「接続は、
 それと直交する方向に
 切断を生む」

これが、ネッツが
この事例から読み解く教訓だ。

その後、第一次世界大戦では
有刺鉄線が戦術として
本格的に用いられるようになる。

物資と情報が
高速で飛び交う方向と
直交するように、
塹壕(ざんごう)と有刺鉄線によって
人の移動がせき止められた。

接続はそれと直交する方向に切断を生む。

新しい接続が実現すると、
接続の価値ばかりが注目されがちだが、
同時に生まれる切断、分断にも
着目を促す、まさにいい教訓だ。

「直交する方向に」が印象的で
忘れられない。

 

 

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2024年7月 7日 (日)

二ヶ領用水(6) 溝の口で寄り道

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二ヶ領用水(6) 溝の口で寄り道

- 大山街道と元本流 -

 

二ヶ領用水歩き
* 二ヶ領用水(1) 三沢川との立体交差まで
* 二ヶ領用水(2) 向ヶ丘遊園駅付近まで
* 二ヶ領用水(3) 久地の合流地点まで
* 二ヶ領用水(4) 久地円筒分水をメインに
* 二ヶ領用水(5) 橋の上のバス停
で、
上河原堰取水口からのルートと
宿河原堰取水口からのルートの両方を
JR武蔵中原駅付近まで歩いたことになるが
その先を歩く前に、
JR溝の口駅付近で寄り道をしてみよう、
ということになった。

いつもの川歩き仲間と
実際に歩いたのは2024年5月の日曜日。

Nikaryomizonokuchis
上記地図(Google Map)、
左上から右下への青い線が
二ヶ領用水(3) にて既に歩いたルート。

今回の寄り道は、
緑色のルート(大山街道)①から④ と
黄色のルート(元本流)⑤から⑥


【庚申塔】:大山街道①
P5123379s

横に立つ説明文には
 「見ざる・聞かざる・言わざる」
 で知られた庚申信仰
は、
 平安時代に始まる。
 特に盛んになった江戸期、
 この地に作られた庚申塔は、
 大山街道をゆく旅人の
 道標をかねていた。
とある。
P6153508s
二ヶ領用水(2) でも
庚申信仰についての
詳しい説明を目にしたが、
60日ごとに巡ってくる庚申の夜の話と
庚申塔でよく目にする
「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿は
どうして結びつくのだろう?
庚申の申がさるだから?
この庚申塔では、
おそらく以前あったであろう
「見ざる・聞かざる・言わざる」が
風化してほとんど見えなくなっている。

JR溝の口駅すぐ横には
昭和の飲み屋街が残っている。
P6153507s
上の写真、右上奥は
JR溝の口駅のホーム。

P6153506s
夜は独特な雰囲気になりそうだ。

【さかえ橋の親柱石】:大山街道②
P6153512s
平瀬川と二ヶ領用水の根方堀が交差する
この地にあった「さかえ橋」の
親柱石だけが説明文とともに
残されている。

今は大山街道の一交差点となっており、
川の面影はない。
P6153513s
ここには、「大山街道」の
丁寧な説明板もある。
江戸赤坂御門を起点として
 雨乞いで有名な
 大山阿夫利神社
 (神奈川県伊勢原市)までの道

P6153514s
<江戸時代中期には
 庶民のブームとなった
 「大山詣」の道として
 盛んに利用されるようになり、
 この頃から「大山道」「大山街道」
 として有名になった>

<参詣の際には
 納太刀(おさめだち)をする習慣があり、
 自分の背丈よりも長い木太刀を担いでいる
 参詣者の姿が
 多くの浮世絵などに描かれている>

などの記述がある。

【溝口神社】:大山街道③
P5123386s

赤城社と呼ばれた溝口の総鎮守

P5123387s

このあたりは飲み水に不自由し、
親井戸から簡易水道を引いていたらしい。
「参道わきの水神社や水道組合碑が
 当時の苦労を物語る」
との説明文が近くにあるが、
どんな苦労かまではわからない。
P6153516s
上の写真、左側が水道組合碑

碑の前を塞ぐように別な碑が立っている。
いったいどうしたことか?
P5123390s

【大山小径】:大山街道④
P5123394s
100メートルにも満たない
公園までの短い道に、
大山街道の様子が描かれた
十数枚の絵タイルが埋め込まれている。

大山街道の起点から終点までの
主な町を網羅しているので、
数十メートルを歩くだけで、
全行程を歩いた気分になれる。
P6153519s

起点「赤坂御門」がこんな感じ。
P5123395s

長津田や厚木のタイルもある。
埋め込まれたタイルとしては
「大山不動へ二里」と書かれた
粕谷まで。

終点には全景を描いた大きなコレが。
右上3枚、補修されるといいのだが。
P6153522s

大山街道全体の超縮小版ではあるが、
富士塚のように講と関係した小径
というわけではないようだ。

P6153524s
「溝口村、二子村が大いに発展したのは、
 江戸時代に大山街道の
 宿駅となってからである」
の説明もある。

それにしても全景図の右隣
大きな石の台座だけが残っているが、
さてその上には何が立っていたのだろう?
P6153523s

 

大山小径の次は、
二ヶ領用水の「元本流」を
見に行ってみよう。

二ヶ領用水(4)

「石橋供養塔」という
小さな供養塔のそばには、
この緑道が、
 かつて二ヶ領用水の本流だった

 昭和16年、用水は今の流路に
 つけ替えられた」
なる説明が。

と書いたが、その説明を読んで以来、
川歩きのメンバ間には、
「元の本流」部分も歩いてみたいね、の声が。
その思いを果たすべく⑤へ移動した。
Nikaryomizonokuchis

【元の本流】:元本流⑤
P5123401s
橋だけ残っているものの、
今は水は全く流れていない。
P5123403s
水は流れていないが、
緑の草の道が続いていて
P5123405s
元用水だったところはよくわかる。
P5123409s
⑥に向かってくねくねと
曲がりくねっており、
一部は細く舗装されて遊歩道になっている。
P5123413s
P5123415s

現在の二ヶ領用水の流路との
合流地点⑥まで来た。

そういえばそこには
片面に  「南無阿弥陀仏」
もう片面に「南無妙法蓮華経」
と書かれた【石橋供養塔】があった。
P5123416s
P5123417s

寄り道はここでおしまい。

次回は二ヶ領用水に戻り、
残っている部分を一気に歩いてしまおう。

 

 

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2024年5月19日 (日)

二ヶ領用水(4) 久地円筒分水をメインに

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二ヶ領用水(4) 久地円筒分水をメインに

- 円弧の比率で分水 -

 

二ヶ領用水歩き、
* 二ヶ領用水(1) 三沢川との立体交差まで
* 二ヶ領用水(2) 向ヶ丘遊園駅付近まで
* 二ヶ領用水(3) 久地の合流地点まで
と、
JR南武線久地駅のそば、
下の地図の赤丸地点まで来た。
Nikaryogmap123kuji
向ヶ丘遊園の方から流れてきた
二ヶ領用水(上図黄色線:下写真左)と
歩いてきた二ヶ領用水(青線:下写真右)が
合流している。
P3313168s
今日は、この合流地点から
スタートしたい。
Nikaryogmap4a
合流した二ヶ領用水は
こんな大きな流れとなって
JR南武線久地駅から先、流れていく。
P3313169s

久地(くじ)の横土手
P3313172s
「多摩川に対し直角につくられた横土手。
 江戸時代、洪水の水勢を弱める目的で
 つくられた。
 この土手を挟んで利害の対立が激しく
 工事は約300m進んだところで中断した」
との説明が添えてあるが、はて? 
水勢を弱める目的で多摩川に直角、は
いいとしても、300mで中断、の
300mがどこの長さなのか、
図がないと全くイメージできない。

そのすぐ先には、
久地分量樋(ぶんりょうひ)】跡の碑が。
P3313175s
「久地で合流した二ヶ領用水の水を
 4つの幅に分け、
 各堀ごとの水量比率を保つための施設で、
 江戸時代中期に田中休愚(丘隅)によって
 作られました。そして、
 昭和16(1941)年、久地円筒分水
 完成により役目を終えました」
と説明がある。
円筒分水までは、歩いてもう数分だ。

この碑の横には、
高層マンションが二ヶ領用水(右下)に
覆いかぶさるように建っている。
P3313174s

平瀬川(左側)と二ヶ領用水(右側)の
との合流地点。
P3313179s
そのすぐ横に
久地円筒分水】がある。
P3313183s
中央の円筒部だけでも直径8m。
外側の円は直径16m。
送水されてくる流量が変わっても、
分水比が変わらない
定比分水装置の一種で
昭和16(1941)年に造られた。
完成から80年を越えている。

近くの案内板にある構造図を
拡大して載せておこう。
P3313181s
左側の二ヶ領用水から流れて来た水は
平瀬川の下を通って、
円筒から吹き上げる。

円筒は完全な水平に施工されており、
放射状にあふれ出た水は、
円弧にそって配置された
 * 川崎堀
 * 根方堀
 * 六ヶ村堀
 * 久地堀
の4つの堀に分水されることになる。
P3313185s
そのとき、各堀に流れる水は
上の写真にあるように、
垂直に造られた壁がなす
円弧の長さによって、
その比率が決まってくることになる。

円弧の長さに比例して
一定の比率で4つの堀に
分水するしくみ、というわけだ。

当時の最先端をいく装置で、
平成10(1998)年に、
国登録有形文化財となっている。

2枚上の写真の平面図を見ればわかる通り、
平瀬川の下をくぐって
円筒分水に流れ込む水は、
二ヶ領用水のごく一部だ。

二ヶ領用水の円筒分水への取水口は
こんな感じ。写真右の水門部。
P3313188s

今でも円筒の縁の水平度は美しく、
まさに均一に流れ落ちている。
P3313191s

ここから先は、
円筒分水で一番多くの水をわけてもらえた
「川崎堀」に沿って歩く。
P3313193s

国道246号との交差部は
二ヶ領用水は国道の下、
人間は歩道橋で国道の上を通る。
P3314000s
JR武蔵溝ノ口駅に近くなると、
民藝運動で知られる
第1回人間国宝の陶芸家、濱田庄司が
溝の口で生まれ、
溝の口の宗隆寺に眠っていることから
それを顕彰しての「浜田橋」という
小さな橋もかかっている。
P3313197s

少し先、「石橋供養塔」という
小さな供養塔のそばには、
この緑道が、
 かつて二ヶ領用水の本流
だった。
 昭和16年、用水は今の流路に
 つけ替えられた」
なる説明が。
その緑道がこれ。
P3313207s

ちょっとわかりにくいが
緑道が左、
今の二ヶ領用水が右、
真ん中は用水沿いの道。
P3313210s
かつての本流、今緑道、も時間があれば
追ってみたいものだが・・・

その後も静かな流れが続く。
P3313213s
農業用水として使っていたころは、
こういった簡単に流れの制御ができる
小さな堰が活躍したことだろう。
P3313214s

数は多くないが、水門もある。
P3313219s

JR武蔵中原駅の近くまで来ると、
武蔵小杉の超高層ビル群が
大きな塊で見えてきた。
P3313222s
と、この地点まででは、
二ヶ領用水歩きとしては
かなり中途半端なのだが、
日もかなり傾いてきたため
日没タイムアウト、ということになった。

JR武蔵中原駅前の居酒屋で
一緒に歩いた仲間と乾杯。
中途半端な地点での切り上げでも
丸一日歩いた後のビールはうまい。

 

 

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2024年5月12日 (日)

二ヶ領用水(3) 久地の合流地点まで

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二ヶ領用水(3) 久地の合流地点まで

- 五ヶ村堀との再会 -

 

二ヶ領用水歩き、
多摩川の上河原堰取水口から歩き始め、
* 二ヶ領用水(1) 三沢川との立体交差まで
* 二ヶ領用水(2) 向ヶ丘遊園駅付近まで
と、
下の地図、左上からの青い線のルートで
小田急線向ヶ丘遊園駅付近
五反田川との合流地点(赤丸)まで来た。
Nikaryogmap12muko
その先も、二ヶ領用水は
地図上の黄色い線のように続いているが
五反田川との合流地点を見たあとは、
二ヶ領用水のもう一つの取水口、
宿河原堰取水口を目指すことにした。
(地図上の赤い点線矢印)

宿河原堰取水口に到着した。
上河原堰取水口の約3.5km下流に
位置することになる。

堰は、元は上流のここで見た
蛇籠(じゃかご)による築造だったらしいが、
1949年にコンクリート製に。現在の堰は、
1974年に堤防が決壊した狛江水害を機に
1999年に改築されたもの。
P3313125s
堤防が決壊した狛江水害時には、
宅地が濁流にえぐり取られ、
建っていた住宅19戸が流された。

そのときに家を失った被害者の声が、
昨年(2023年)11月に亡くなった
脚本家山田太一さんのTVドラマ
「岸辺のアルバム」(1977年)
構想の元となっている。
山田さんが43歳のときの作品だ。
ドラマでは実際の
堤防決壊の報道映像が使われていた。

写真左方向に二ヶ領用水が始まっている。
P3313124s

こちらも親水歩道が整備されており
P3313127s
我々同様、歩いている人も多い。
P3313129s
すぐにJR南武線の
登戸駅-宿河原駅間の下を
くぐることになるが、ここは、
腰をかがめないと通れないほど
高さがなく、
見上げたときの線路の近さに驚く。
こんな角度で、こんなに近くで、
線路を見ることはない。
P3313135s


一部桜も咲き始めているので、
花見気分で
遊歩道で飲食を楽しんでいる人も。
P3313136s

P3313137s


宿河原駅付近の北村橋の手前では
他の用水(左)との合流もある。
P3313141s


整備された散策路が続いており、
多くの人が水辺を楽しんでいる。
P3313145s


八幡下圦樋(はちまんした いりひ)付近
P3313146s

八幡下圦樋については
多摩区観光協会のページ
こんな解説がある。
P3313150s

八幡下圦樋(記念碑)
二ヶ領用水宿河原取水口からの
水量を調整し、
下流の洪水を防ぐための排水路として
明治43年(1910年)に設置された。

その排水は圦樋をつくって堰止め、
余った水を「堰の長池」に流し、
多摩川に放流した。

近年になって、
圦樋が逆に洪水発生要因となり、
昭和63年(1988年)に撤去、
記念碑建立。

【圦樋 (いりひ)】とは
 川の水を引き入れ、
 または川へ水を吐き出すための、
 水門に設けられた樋(とい)。

下流の洪水を防ぐために造ったものが、
逆に洪水発生要因になってしまったとは。
設置から撤去までの78年間に
どんな変化があったのだろう?

八幡下圦樋のすぐ下流、
五ヶ村(ごかそん)堀と二ヶ領用水、
つまり水路と水路の立体交差
P3313152s
上を流れるのが五ヶ村堀。
この五ヶ村堀、
小田急線向ヶ丘遊園駅の近くに
二ヶ領用水からの取水口があった
あの五ヶ村堀だ。
P3313153s

取水口から2km強流れて
ここまで来ている。
こんな形で再会(?)することになるとは。

その下流にも整備された親水遊歩道が続く。
P3313155s


と、ここまでの写真で気づいた方も
いらっしゃるかもしれないが、
宿河原堰取水口から八幡下圦樋の
すこし下流までは桜の名所でもある。

二ヶ領用水歩きをした日とは別の日
桜を見るためだけに歩いてみた。
満開の桜の時期はこんな感じになる。
P4073238s
P4073234s
P4073232s

上3枚の桜の写真だけ
撮影日は2024年4月7日

二ヶ領用水歩きに戻ろう。

大人がギリギリ通れるほど低い
小さな鳥居のある稲荷神社を抜けると
P3313160s

東名高速道路の高架が迫ってくる。

高速道路高架下に
【徒然草 第百十五段 石碑】
がある。
P3313163s

第百十五段が
宿河原(しゅくがはら)といふ
 ところにて、
 ぼろぼろ多く集まりて・・・」
と始まっているので、
宿河原と呼ばれる
この地に建っているようだが、
一説にはここの宿河原のこと」と
言われるレベルのものらしい。

その内容は、
宿河原のぼろぼろ(遁世者)が
自分の師の敵討ちをする話。
河原へ出て決闘し、
差し違えて死んだ話を伝え聞いた
兼好法師が、いさぎよく思えたので
「徒然草」に書き留めた、とのこと。

東名高速道路の下に、
鹿島田菅線と呼ばれる道路、
その下に二ヶ領用水という
3重構造を抜けて先に流れる。
P3313165s


JR南武線久地駅のそば、
下の地図の赤丸地点まで来た。
Nikaryogmap123kuji
向ヶ丘遊園の方から流れてきた
二ヶ領用水(上図黄色線:下写真左)と
歩いてきた二ヶ領用水(青線:下写真右)が
合流する。
P3313168s

合流した二ヶ領用水は
こんな大きな流れとなって
JR南武線久地駅から先、流れていく。
P3313169s
二ヶ領用水歩きの見所のひとつ
久地円筒分水まではもうすぐだ。

 

 

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2024年5月 5日 (日)

二ヶ領用水(2) 向ヶ丘遊園駅付近まで

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二ヶ領用水(2) 向ヶ丘遊園駅付近まで

- 庚申塔:報告されると困る罪過? -

 

多摩川の上河原堰取水口から
二ヶ領用水を歩き始めた前回の続き。

まだ、入口。
取水口から数百メートルしか来ていない。

三沢川との立体交差、
三沢川の下をくぐった二ヶ領用水は
その先、下の写真のような
整備された親水護岸となっており、
流れを見ながらのんびり歩くことができる。
P3313053s

【草堰(くさぜき)】と呼ばれる小さな堰。
流れに杭を打って、石、土、草などで
築いた堰をそう呼ぶらしい。
P3313056s
堰の横には取水口がある。
P3313058s

JR南武線が二ヶ領用水の上を走る。
P3313065s

少し下流にも似たような草堰が。
P3313066s
ここにも同じように取水口がある。
P3313064s

取水された水はどこに行くのか?
1本の流れを追ってみたところ、
さらに細い水路となって
住宅街の中に消えていった。
P3313069s

水はきれいで、鯉をよく見かけるが、
コサギも。白が美しい。
P3313067s

旧三沢川が合流する中野島中学校横では、
「この場所は石積護岸工です」
の表示のすぐ右側に
P3313821so
「この場所は蛇籠護岸工です」
の表示部分が並んでおり
P3313075s
石積護岸工」と「蛇籠護岸工」を
並べて見比べられるようになっている。

石積はまぁ見ての通りだが、
蛇籠(じゃかご)とはなんだろう?

【蛇籠(じゃかご)】とは、
竹材や鉄線で編んだ長い籠に
砕石を詰め込んだもので、
河川の護岸や斜面の補強などに
使用されてきたらしい。

確かによく見ると、鉄線の網の中に
砕石が詰め込まれている。
斜面の補強などでもよく目にするが
あれを蛇籠(じゃかご)と言うことは
初めて知った。


用水沿いはよく整備されていて歩きやすい。
P3313086s
歩いた日の水量は多くはなかったが、
堀自体はかなり大きい(深い)。
増水することもあるのだろう。
P3313089s

子どもたちの遊び場にもなっている。
P3313095s

堰による取水だけでなく、
二ヶ領用水への排水溝も目にする。
P3313087s
P3313094s

山下川(左)との合流地点まできた。
P3313100s
橋には、
「川崎の育ての親 二ヶ領用水
 二ヶ領用水は『次大夫堀』とも呼ばれ
 慶長16年(1611年)に完成しました」
との説明と一緒に、
小泉次大夫のレリーフが埋め込まれている。
P3313099s
(小泉次大夫の功績については、
 前回記事を参照下さい)

鯉が集まって
子どもたちを楽しませている。
P3313104s

向ヶ丘遊園駅の近く、
世田谷町田道路の下をくぐる少し手前で
親水遊歩道がなくなり、
流れの幅が広くなる。
P3313106s
まもなく、府中街道の下に潜り込むように
見えなくなってしまう。
P3313108s
(上の写真の左端)
二ヶ領用水が府中街道の下に
潜り込んだすぐ横に、
榎戸の庚申塔」がある。
高さ2.5m。見上げるほど大きなものだ。
P3313113s
「この庚申塔は
 明治3年に富士講の人たちが
 道中の安全や村の外から
 邪悪な物が入りこまないように、
 また五穀豊穣を祈念して
 小泉橋の袂に建立」
との説明がある。

富士信仰と中国の庚申信仰の
2つの信仰を併せ持つ複合的なもの
らしい。

塔にあった
庚申塔の謂われ」が興味深ったので、
そのままここに書き写したい。

中国に道教という思想があり
庚申信仰もその一つとして、
平安時代に我が国に伝わり、
江戸時代になると
庶民の間にも広まりました。

庚申信仰とは、
60日ごとに巡ってくる
庚申の夜
に眠ってしまうと、
人間の体内にいるという
「三尸(さんし)の虫」が
体内から抜け出だして天に昇り、
天帝にその人の罪過を報告するので、
庚申の夜は眠らずに、
「庚申待」といって、
健康長寿を祈願した事に
由来しています。

そこで庚申塔が、礼拝の本尊として
建てられるようになりました。

報告されると困る罪過が
だれにでもある
、が
前提になっている、ということか。

府中街道の下を流れる二ヶ領用水。
奥を横切るのは小田急線。
ちょうど電車が通過している。
向ヶ丘遊園駅のすぐそばだ。
P3313114s
小田急線の線路を越えたところに
五ヶ村堀の取水口がある。
ここから始まる五ヶ村堀とは、
このあと意外な形で再会することになる。
P3313116s
五ヶ村堀取水口のすぐ下流で
五反田川と合流。
下の写真、
 左が    五反田川、
 右が    二ヶ領用水、
 右上高架が 府中街道。
P3313118s
ここまで、
多摩川の上河原堰取水口から
二ヶ領用水に沿って歩いてきて
下の地図の赤丸まで来た。
Nikaryogmap12muko
その先も、二ヶ領用水は
地図上の黄色い線のように続いているが
五反田川との合流地点を見たあとは、
二ヶ領用水のもう一つの取水口、
宿河原堰取水口を目指すことにした。
(地図上の赤い点線矢印)

一旦、二ヶ領用水を離れ、
宿河原堰取水口へと移動する。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2024年4月28日 (日)

二ヶ領用水(1) 三沢川との立体交差まで

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二ヶ領用水(1) 三沢川との立体交差まで

- 江戸時代初期の大用水 -

 

東京都の野川を歩いたときに立ち寄った
「世田谷区立次大夫堀(じだゆうぼり)公園

そのときの記事に

次大夫堀とは、六郷用水の別名で、
江戸時代に
多摩川から引水した農業用水路
徳川家康の命により、
小泉次大夫の指揮によって開削された。

公園内のパンフレットによると、
今の東京都側だけでなく、
神奈川県側も合わせた
稲毛・川崎、世田谷・六郷 計四ヶ領で
開削された用水は、
1597年から作業が始まり、
測量から小堀の開削終了まで
実に15年の歳月がかけられたという。

驚くのは、
指揮をした小泉次大夫の年齢。
「58歳から73歳までの晩年の大工事」

とのこと。

と書いたが、
一緒に歩いた川歩き仲間と今度は、
「次大夫堀の神奈川県側を歩いてみよう」
ということになった。
実際に歩いたのは、
2024年3月の天気がいい日曜日。

神奈川県側は、
稲毛領・川崎領(現在の川崎市)の
ふたつの領地にまたがって開削されたため、
二ヶ領用水』と呼ばれている。

ちなみに東京都側は
世田谷・六郷領(現在の世田谷・大田区)で
『六郷用水』。

約400年前に
小泉次大夫が成し遂げたものは
二ヶ領用水 全長32km、
六郷用水  全長23km、
多摩川両岸の大用水路網
だ。

二ヶ領用水の多摩川からの取水口は
(A)上河原堰取水口 と (B)宿河原堰取水口の
二ケ所あるが、まずは上流の
上河原堰取水口からスタートすることにした。
Nikaryogmapab
JR中野島駅から多摩川にでて、
上流に向かって土手を歩き始めると
上河原堰堤が見えてきた。
P3313017s
写真
左側が川崎市側、
右側が東京都調布市側。

P3313024s
上河原堰堤は
昭和46年(1971)に大きな改築が行われ

* 川崎市側に
 洪水吐(こうずいばき)ゲート3門
 管理橋(163m)と魚道
* 固定堰と洪水吐ゲートの間に
 流量調整ゲート(14m)
* 調布市側に魚道つきの固定堰(248m)

が整備された。
その後、平成24年(2012)に
固定堰を切り下げて起伏ゲートを設置し、
現在の堰堤になっている。
P3313028s

堰はまさに二ヶ領用水への取水が目的だが、
堰となっているため、魚道もあって
魚も多く集まることになるのだろう。

釣りをしている人のほかに、
大きな望遠レンズをつけたカメラを
しっかりした三脚に乗せている
こんな方々が何組もいた。
P3313019s
聞くと「ハヤブサ」が飛来するという。
残念ながらその時点では、
見ることができなかったが。

取水口まで来た。
P3313027s
案内板にある
まさに「現在地」からの写真がこれ。
P3313029s
左側に流れ込んでいるのが
二ヶ領用水の上河原堰取水口だ。
取水設備をゴミや流木から防護する
ネットフェンスが設置されている。

ここからは二ヶ領用水に沿って歩く。
P3313036s
取水口付近のせいか、
ゴミと水量調節のためと思われるゲートが
3連発。
P3313039s
特に、この3基目(下の写真)は、
実際にどう動くのかを見てみたい。
P3313044s
P3313046s

カメラ片手にキョロキョロ歩く我々を
見返してくる亀もいる。
P3313040s

先に掲載した案内板にある
2本の水路のX字交点まで来た。
左上から右下の水色が二ヶ領用水。
左下から右上の水色が三沢川。
P3313027s
さて、2本の水路がどうやって
交差しているのか。
地上からでは
それがわかるような写真が撮れないので
GoogleMapの航空写真に
助けてもらおう。
Nikaryomisawa
そう、立体交差なのだ。
三沢川が上を流れ、
二ヶ領用水が下をくぐっている。

「上」を流れる三沢川がこれ。
上なのに深い堀、
川面は見下ろしたかなり低い位置に。
P3313047s
これのさらに下をくぐるわけだから
二ヶ領用水、
一旦はかなり深い位置まで
潜っていることになる。

で、三沢川をくぐって出てきたところが
ここ。
P3313052s
この付近、避難用掲示板には
 洪水   3階以上
 内水氾濫 1階以上

と記載されている。
P3313050s

内水氾濫
国立防災科学技術研究所のページには

平坦な土地に強い雨が降ると,
雨水がはけきらずに地面に溜まります
低いところには
周囲から水が流れ込んできて
浸水の規模が大きくなります.

排水用の水路や小河川は
水位を増して真っ先に溢れ出します


このようにして起きる洪水を
内水氾濫と呼び,
本川の堤防が切れたり溢れたりして
生じる外水氾濫とは区別しています.

とある。
つまり洪水ではなく、
排水が追いつかない事態のこと
雨が多いときには、
たとえ洪水の危険がなくても
このあたりでは注意が必要だ。

さて、ここから先は
整備された親水護岸。
P3313053s
流れのそばをのんびり歩いて行きたい。

 

 

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2023年10月22日 (日)

「歓待」と「寛容」

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「歓待」と「寛容」

- 哲学者の対談から -

 

哲学者の國分功一郎さんが

國分功一郎 x 星野太
『食客論』刊行記念対談
「寄生の哲学」をいかに語るか
雑誌新潮 2023年8月号

(以下水色部、本からの引用)

の中で、
「歓待」という言葉について
こんな説明をしてくれている。

フランス語では歓待する者のことを
hôte/hôtesse

-英語で言えばホスト/ホステスです-
と言いますが、驚くべきことに、
辞書を引くと分かる通り、
この語には「主人」と「客」の
両方の意味がある


これは本当に
ビックリするようなことですが、
この語そのものが、
何か歓待を巡る太古からの記憶を
留めているのでしょう。

「主人」と「客」、
対照的な語ながら、
いろいろ思い浮かぶシーンを思うと
不思議と違和感がない。

つまり、
歓待が実践されているときは、
迎える側と迎えられる側が混じり合い、
どちらが主でどちらが客か
分からなくなってしまうようなことが
起こる。

それこそが歓待であり、
歓待においては、
もともと主であった者と、
もともと客であった者とが、
動的に混じり合うわけです。

そうそう、「歓待」を
心から感じることができたときは、
まさに「主人」と「客」の関係が
消えている。

この「歓待」と明確に区別すべき語
としてあげているのが「寛容」。

寛容(tolérance)は、

あなたがそこにいることに
私は耐えます、我慢します、
という意味ですね。

宗教戦争後、17世紀に
出てきた概念
です。

宗教戦争を始めとする、
歴史に深く結びついた概念
ということなのだろう。

寛容というと
聞こえはいいかもしれないけれども、
これは要するに、
相手のことを理解する気なんて
サラサラないが
殺しもしない
ということです。

お前のことは放っておくから、
俺にも近寄るな、と。

だから寛容は排外性と切り離せない

(中略)

寛容は相手の存在に
我慢するということですから、
個と個が維持されていて、
そこには何の交流もない。

そこにいるのはいいけれども、
私たちには触れないでね、
というのが寛容です。

「移民」と「その受け入れ国の住民」
という言葉も登場しているが、
少なくともフランス語では
「広い心で他人を受け入れる」
という意味で軽々しく使うことは
できない言葉のようだ。

國分さんの「歓待」と「寛容」の
丁寧な説明を聞いたあと
『食客論』の著者星野さんは、
こうコメントしている。

歓待論は一見いいことを
言っているんだけれど、
何か違うなという感覚が
ずっとありました。

それは國分さんが
言ってくださったように、
hôteが最終的に
仲間になっていくという、
言ってみれば
正のベクトルにのみ
貫かれているからです


その点がどこかすっきりしない。

いかにも哲学者らしい違和感だ。

國分さんの言葉によれば、
『食客論』はそういう歓待の概念が
決定的に取り逃がしてしまうものに
注目しているらしい。

『食客論』読んでみようかな、
と思わせる対談となっている。



 

 

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2023年6月25日 (日)

野川遡行(1) 次大夫堀公園まで

(全体の目次はこちら


野川遡行(1) 次大夫堀公園まで

- 58歳から73歳までの大工事 -

 

東京都国分寺市に水源があり、
東京都世田谷区の二子玉川で
多摩川に合流する
全長約20kmの「野川」を、
水源近くの西国分寺あたりから、
調布市の「御塔坂(おとざか)橋」まで、
友人たちとのんびりと歩いた様子を、
ここから5回に分けて書いたが、
出発地と御塔坂橋を
Google Map上、直線で結ぶと
下記地図の青い矢印になる。

野川全体で見ると半分弱、
上流側のみを歩いたことになる。

Nogawaa2

というわけで(?)、
歩けなかった残り半分を
今度は合流地点の多摩川側から
遡行してみようということになった。

野川・多摩川合流地点(二子玉川)から
御塔坂橋までを直線で結ぶと
上記地図の赤い矢印になる。

2日分の行程を合わせて
野川制覇(!?)ということになる。

 

歩いたのは2023年4月。東急田園都市線
二子玉川駅で友人と待ち合わせて出発。

川に出ようと歩き始めると、
さっそくコレが。

P4162413s

ちょっと見にくいが左側、
「玉川西陸閘」とある。

陸閘(りっこう)とは
通常時は生活のために通行出来るよう
途切れているが、増水時には塞いで
住宅地への水の侵入を防ごうというもの。

多摩川の河口近くでも
古く小さなものを目にしたが、
ここのものは高さも大人の身長以上あり
かなり大きい。

P4162415s

河原に出た。
東急田園都市線の鉄橋が見える。
さぁ、合流地点をさがそう。

P4162416s

と歩き始めたのだが、
野川、多摩川の合流地点では
ちょうど大規模な工事が行われていた。

P4162417s

工事の看板の中には
「週休2日実施中」の文字が。
工事作業者の労働環境が
改善されるのはいいことだが、
それをあえて看板で
アピールしなければならない事情には
複雑なものがある気がする。

工事の作業現場に「野川」を探すと
ここ。

P4162421s

パイプの中を通った水が、
右から左に流れ出ており、
多摩川に合流している。

パイプに流れ込むところはこんな感じ。
手前から奥に向かって流れている。

P4162429s

上に見えるのは、
田園都市線「二子玉川駅」。
橋の上にホームがはみ出している。

 

多摩川と野川に囲まれた
ハの字(左を上にしてのハ)の部分は
「兵庫島公園」と呼ばれている。

P4162428s

兵庫とは?と思うが、
公園内にあった説明によると
新田義貞の子義興(よしおき)の従者
由良兵庫助に由来するらしい。

1358年 多摩川稲城矢口の渡しでの戦いで、
と紹介されているから
660年以上も前のこと。
当時はこの付近、
どんな様子だったのだろう?

P4162430s


上に貼った公演案内図にもある通り、
兵庫島公園内には池や水路(川)もある。

P4162437s

「多摩川の河原の中に、わざわざ
 人工の川が作られている」感じで
どうも落ち着かない。

少し歩くと、多摩川から離れ、野川が
川らしい姿を見せてくれるようになった。

P4162442s

4月のみどりが美しい。

P4162445s

多摩川の河原には、
天然芝のサッカー場が何面も広がっている。

P4162447s

日曜日だったこともあり、
子どもたちの元気な声が響いている。

野川の河原には
「セイヨウアブラナ」と思われる
黄色い花が沢山咲いている。

P4162451s


途中、ちょっと寄り道をして、
「砧本村」のバス停留所に寄ってみた。

P4162465s

ここは玉川電気鉄道(通称「玉電」)
東急砧(きぬた)線
「砧本村(きぬたほんむら)」駅の跡地で、
1969年の東急砧線廃止後に
東急バスのバス折り返し所および
「砧本村」バス停になった。

バスが折り返せるよう
ちょっと広場になっており、
赤い「ON DEMAND BUS」も停まっていた。

P4162467s

予約によって運行が決まる
オンデマンドバスは、
公共交通不便地域の解消を目的に、
地方だけでなく
都市部でも導入が進んでいるようだ。

 

「砧本村」駅跡地のすぐ横には、
東京都水道局砧下浄水所がある。
多摩川で取水した水を浄化し、
東京に送り込むために1923年に竣工。

そこから渋谷方面への水道管が、
野川の上を跨いでいた時期がある。
1960年から2006年までの46年間。

水道管を支えていた「野川水道橋」は
今はレリーフで残されている。

P4162473s

現在の橋には水道管は通っていない。
2006年以降、
水道本管は川底を通るようになったようだ。

 

途中、「仙川」が「野川」に流れ込む
合流地点も通る。
仙川遡行も魅力的だが、誘惑を振り払って
今日は野川沿いを進む。

東名高速道路の下を流れるところまで来た。

工事用の大きな柵で覆われていて
中や地下までは見えないが、このあたり、
かなり大規模な工事が行われている。

P4162480s

地下工事が原因で調布市の住宅街が陥没、
で話題になった東京外郭環状道路(外環)を、
将来的にはここで
東名高速につなげる計画になっている。

2023年現在、
関越道の大泉JCTまでが開通している外環。
大泉JCTからここまで約16km、
地下がメインとはいえ、
工事は着々と進んでいるようだ。

 

外環合流地点の少し上流、
川沿いからそのまま緑道を歩いて、
世田谷区立次大夫堀公園」に
寄ってみることにした。
「じだゆうぼり」とふりがながある。

P4162496s

次大夫堀とは、六郷用水の別名で、
江戸時代に多摩川から引水した農業用水路
徳川家康の命により、
小泉次大夫の指揮によって開削された。

公園内のパンフレットによると、
今の東京都側だけでなく、
神奈川県側も合わせた
稲毛・川崎、世田谷・六郷 計四ヶ領で
開削された用水は、
1597年から作業が始まり、
測量から小堀の開削終了まで
実に15年の歳月がかけられたという。

驚くのは、指揮をした小泉次大夫の年齢。
「58歳から73歳までの晩年の大工事」

とのこと。

伊能忠敬が
「大日本沿海輿地全図」製作のために
歩き出したのが1800年、55歳のときで、
それから17年かけて全国を歩いた。
の話を知ったときの驚きを思い出す。

どちらも「平均寿命が40歳以下」
と言われている時代の話だ。

園内には、
昭和4年の地図が掲示されていた。
多摩川とその周辺の川と用水。
なんだか川が、のびのびというか
いきいきしている。
窮屈な感じがしないのはなぜだろう。

P4162499s

公園全体としては、
名主屋敷、民家2棟などが移築されており、
次大夫堀や水田とあわせて、
江戸時代後期から明治時代初期にかけての
農村風景に触れることが
できるようになっている。

P4162510s


野川の遡行、
調布市の「御塔坂(おとざか)橋」を目指して
次回も続けたい。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2023年6月 4日 (日)

旧穴守稲荷神社大鳥居

(全体の目次はこちら


旧穴守稲荷神社大鳥居

- 浄化海水プールと強制立ち退き -

 

下流は、
東京都と神奈川県の都県境を流れる
多摩川。

その河口部北側には、現在、東京国際空港
通称「羽田空港」が広がっているが、
位置的にその東隅にあたる
下記地図の赤い星印のところに行ってみると、
大きな鳥居を目にすることになる。
(地図はGoogle Mapから。
 以下、写真はすべて2023年5月に撮影)

Ootoriimap


旧穴守稲荷神社大鳥居

P5212632s


元あった場所から移設されて
今は川のすぐ横にある。

P5212648s


そばには小さな掲示板があり
鳥居とその近辺の歴史について
知ることができる。

P5212630s

この掲示板、
読んでみたら知らなかったことばかりで
たいへん面白かった。

特に2つのトピックスについて
掲示板情報を要約しながら紹介したい。
(資料写真も掲示板にあったものから)

(1) 海水浴場と浄化海水プール

1902年 京浜電鉄が京浜蒲田駅から
    穴守稲荷神社へ向けて
    支線を延ばす。穴守線開業。

1909年 干潟を埋め立てて羽田運動場を開設

1911年 羽田海水浴場開設

大桟橋に海の家をもつ海水浴場の賑わいは
こんなにすごかったようだ。

P5212634s

その後、

1913年 干潮満潮に関係なく泳げる遊泳池を
    羽田運動場の中につくる。

この羽田運動場に隣接して
社団法人日本運動倶楽部が、
野球場のほか、テニスコートや遊園地、
自転車競技場なども開場。

穴守稲荷神社一帯は、
明治時代後半から大正時代にかけて
一大行楽地となる


1932年 東洋一の浄化海水プール開設

その大きさといい、人の数といい、
プールの写真には驚かされる。

P5212633s


(2) 住民の立ち退きと鳥居の移設

第二次世界大戦終戦後

1945(昭和20)年9月13日付「朝日新聞」
 マッカーサー司令部が
 羽田飛行場の引き渡しと同時に、
 滑走路拡張のため
 海岸線埋立ての設備の提供と、
 飛行場付近の一部の住民に対して
 立ち退きが
 命ぜられることになった

 と伝えている。

1945(昭和20)年9月21日
 海老取川から東側に居住する
 全住民(羽田鈴木町、羽田穴守町、
 羽田江戸見町)に対し、
 12時間以内に立ち退くようにとの
 緊急命令が出された


「12時間以内」とは!
対象は約1200世帯3000人超

その後、GHQとの交渉により
48時間以内という譲歩をとりつけたが、
それ以降、立ち入ったものに対しては
生命の保障はしないという、
厳しい条件もつけられた 。

住民たちは近隣の親戚・知人を頼りに、
リヤカー、車力、または多摩川からの船で、
身の回りのものを運び出した。

空港の拡張工事にあたっては、
穴守稲荷神社の社殿も壊された。

その際、鳥居を倒そうとしたところ、
ロープが切れ
作業員が怪我をするという事故が発生。
いったん作業は中止された。

ところが、再開すると、
今度は工事責任者が病死。

「これは、穴守さまのたたりだ」
という噂を
稲荷信仰などあるはずもないGHQは、
どう聞いていたことだろう。

結局、何回やっても撤去できないため、
そのままそこに残すことになった。

以降、50年近く、羽田空港の駐車場内に
ぼつりと取り残された大鳥居。

P5212636s


1999年2月、空港の拡張工事に合わせて
2日かけて移転工事が行われた。

赤い鳥居は、
いま弁天橋のたもとに移設され、
羽田空港(元の穴守稲荷神社)を
見守っている。

P5212621s

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2023年4月30日 (日)

研究者から見た「次世代シークエンサ」

(全体の目次はこちら


研究者から見た「次世代シークエンサ」

- 古代DNA研究の活況の背景に -

 

篠田 謙一 (著)
人類の起源 - 古代DNAが語る

ホモ・サピエンスの「大いなる旅」
中公新書

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

を読みながら
「ミトコンドリア」「Y染色体」「SNP」
学術論文に「人種」は使えない
ゲノム解析が歴史解釈に与える影響
などについて書いてきたが
最後はこんな指摘をメモしておきたい。


スペイン語の
Bonanza(ボナンザ)という単語は、
「豊富な鉱脈」や「繁栄」を
意味する言葉です。

英語では
「思いがけない幸運」、
「大当たり」という意味も
持っています。
一見なじみのないこの言葉ですが、
ここ数年、古代DNA研究の
活況を表す言葉
として
盛んに使われるようになっていることを
ご存じでしょうか。

で始まる本書。
その背景には
「次世代シークエンサの実用化」
大いに関係しているという。

今世紀の初めごろまで、
技術的な制約から古人骨は
細胞内に数多く存在する
ミトコンドリアDNAしか
分析できなかった。

しかし2006年に
次世代シークエンサが実用化
すると、
大量の情報を持つ
核のDNAの解析が可能になります。

その後、
2010年にネアンデルタール人の持つ
すべてのDNAの解読に
初めて成功する
など、
古代DNA解析にもとづいた
人類集団の成り立ちに関する研究が
非常に活発になり、
現在では世界各地の一流科学誌に
毎週のように論文が掲載されています。
古代DNA研究はまさに「ボナンザ」
の時代を迎えている
のです。

この「ボナンザ」の時代を迎えている
古代DNA研究の最新の成果を
わかりやすくまとめて
解説してくれているのが本書だ。

骨子をなす成果は、
主として次世代シークエンサの
実用化(2006年)以降に得られたデータを
もとにしているらしいので、
まさにここ15年ほどの
比較的新しい情報が満載、
活況という言葉は大げさではないようだ。

なので、肝心な成果のほうが気になる方は
書籍を手にとって、
本文をじっくりお読みいただきたい。

本欄では、強力な武器になっている
「次世代シークエンサ」についての注意点・
問題点・課題を冷静にコメントしている
「おわりに」の一部を紹介したい。

まさに研究者でないと
わからない部分
でもあるので、
単に成果だけでなく、
こういった内容の発信の価値は
たいへん大きいと思う。

(1) データの精度

人骨にわずかに残るDNAを
解析している以上、
実際にはデータの精度に
ばらつきがあることも事実
です。

当然ながら、得られる結論の信憑性は
ゲノムデータの質に
依拠することになり、
その点が危うい論文も
少なくありません


本書では、信頼性の高いデータに
照準を絞った
ため、
あえて取り上げなかった
研究もあります。

まずは基本となるデータの精度。
古いうえに量もわずかとなれば
安定しているとは言えないのだろう。

(2) 研究体制

それまでの
ミトコンドリアDNAベースの研究だと、
研究組織はせいぜい数名で、
一人でサンプリングからDNA分析、
論文の作成までのすべてのプロセスを
行うことも珍しくはありませんでした。

しかし、
次世代シークエンサを用いた研究は、
数十名、時には百名を超える
研究者による共同作業でなければ
実施できません


生化学やバイオインフォマティクスの
高度な知識も必要です。

DNA試料の調整プロセスも
従来の方法よりずっと複雑になり、
大量のゲノムデータを処理するための
大型コンピュータが欠かせません

数十名から百名規模の共同作業とは。
各人の作業内容まではわからないが
もはや、大学の一研究室で対応できる
レベルのものではなくなっているようだ。

(3) 巨額の資金

研究のためには
巨額の資金が必要になります。

実際、本書で取り上げた研究の
大部分は、
世界の十指に満たない研究施設
いわゆるビッグラボから
生み出されたものとなっています。

古代DNA研究を百名規模で、
となれば、そりゃぁ人にも設備にも
かなりの資金が必要になることだろう。
にしても、
「世界の十指に満たない研究施設」
に集中してしまっているとは。

(4) 現地の言葉

特に、自国では
古代ゲノム解析ができない国々
研究者からサンプルの提供を
受ける場合は要注意です。

報告書には人骨の持つ
考古学的なバックボーンが
現地の言葉で書かれていることも多く

それを考慮しないまま
ゲノムデータの解釈が行われたり、
考古学や形質人類学などの
他の研究で得られたデータと
照合して検証する作業が
抜け落ちてしまったりする危険性

あります。

前項「世界の十指に満たない研究施設」
と共に、
ぜひ書き残したかったのがこの項目。

ゲノム解析は
有力なひとつの手法ではあるが、
それですべてがわかるわけではない

現地の情報や
他の調査や学問からの成果を
組み合わせることで
初めてより正確な古代の姿が
見えてくる。

解析を頼む方と頼まれる方、
fairな情報交換と
双方のrespectがあってこそ
より正確な成果に結びつくのであり、
それでこその
「活況」であるべきだろう。

言葉はやさしいが、
見落としてはいけない
鋭く厳しい指摘だと思う。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

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