歴史

2023年2月 5日 (日)

「大好きだよ」で名前を間違えると・・・

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「大好きだよ」で名前を間違えると・・・

- 一夫一妻が人類になった? -

 

以前録音したNHKラジオの番組

 カルチャーラジオ
「過去と未来を知る進化生物学」(12)
「人類の進化(3)牙のない平和な生物」
 古生物学者・更科功
        2022年3月25日放送

から、「人類に牙(きば)がない」ことの
理由について学ぶ2回目。

前回紹介した
新しい説を簡単に復習してから始めよう。

(b) 新しい説
チンパンジーは植物食なのに牙がある。
肉食獣のように
獲物を襲うための牙ではない。

チンパンジーは同種同士で殺し合いをする。
メスを巡るオスの戦いが多い。

人類は、
牙を使わなくなったから小さくなった。
つまり「仲間を殺さなくなった」のだ。

どうして殺さなくなったのか?
なぜ穏やかになったのか?

ライオンや狼の牙は獲物を捕まえるため。
チンパンジーの牙はオス同士で争うため。

仲間同士の争いが激しいかどうかは
婚姻形態が影響している


一夫多妻(たとえばゾウアザラシ)、
多夫多妻の婚姻形態の動物は
オス同士の争いが
激しくなることが知られている。

一夫一妻の場合オス同士の争いが
おだやかになることが
多くの動物の観察からわかっている。

類人猿についてみると、
(はっきりとは決まっていないが)
ゴリラは一夫一妻、
チンパンジーは多夫多妻、
が多い。

現在の人類は一夫一妻が多い。

一夫一妻の傾向を持つグループが
人類になっていったのではないか、
と考えられている


その結果、牙がなくなっていった。

えっ!、順番はそっち?
婚姻形態って単なる制度の問題であって
本質的なものではないでしょ?

驚きながら聞いていたら、
そんな疑問に対して、
こんな例を添えてくれていた。
エピソードとしてはよく聞く話だが、
まさに先入観を捨てて考えてみてほしい。

若い男女の会話。
男「愛しているのはこれから先も
  ずっと君だけだよ」
女「うれしい」
男「大好きだよ、みか子」

女「みか子ってだれ!!」

男は女の名前を間違えた。
でも間違えたのはそれだけ。
なのに、なぜ女は怒るのか。
そして、
怒る女に読者はなぜ共感できるのか?

更科さんは、
もし言葉が理解できたとしても
チンパンジーなら女の怒る理由が
理解できないはずだ、と言っている。

「怒る理由が理解できる」
それは「本質的な」一夫一妻の血が
人類には流れているからかもしれない

にしても、そのことと
牙が関連しているなんて。

世界は不思議と驚きに溢れている。

 

 

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2023年1月29日 (日)

牙(きば)は生物最強の武器

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牙(きば)は生物最強の武器

- 刑事ドラマではなぜ凶器を探すのか? -

 

以前録音したNHKラジオの番組

 カルチャーラジオ
「過去と未来を知る進化生物学」(12)
「人類の進化(3)牙のない平和な生物」
 古生物学者・更科功
        2022年3月25日放送

を聞いていたら、
「人類に牙(きば)がない」ことの説明が
たいへんおもしろかったので、
今日はその部分について紹介したい。

 

人類と類人猿(ゴリラやチンパンジーなど)を
分けている特徴はニ点。
人類は、
(1) 直立二足歩行をする。
(2) 牙(きば)がない(犬歯が小さい)。

この大きな特徴のひとつ、
「牙」が衰えたのは
どうしてなのだろうか?

これには古い説と新しい説がある。
古い説は、学術的にはすでに
否定されているものだが、
本や映画の影響で、社会的に広く
認知されるようになった説ゆえ、
更科さんはそれについても
丁寧に紹介してくれている。

(a) 古い説
レイモンド・ダートという
人類学者の発言から始まる。
ダートは、アウストラロピテクスの化石を
発見したことで知られている。

彼は、ヒヒやアウストラロピテクスの
頭の骨が凹んでいるのを見つけた。

それは、アウストラロピテクスが
(武器として)骨で殴ったからだろう、と
考えた。

が、一学者のこの考えは、
簡単には社会に広まらなかった。

その後、このダートの説に基づいて、
劇作家ロバート・アードレイが本を書く。
書名は
アフリカ創世記 - 殺戮と闘争の人類史
1962年に出版。

牙がない人類は、
獲物を取るための武器を
仲間への攻撃にも使うようになった。
武器を持たなければ草原で
生き延びることができなかったのだ、
とアードレイは書いた。

「アフリカ創世記」はベストセラーとなり、
映画「2001年宇宙への旅」の冒頭でも
この説が利用されたため
社会的に広く認知されるようになる。

ところが、レイモンド・ダートの説は
事実としては間違っていた。

その後の調査で、頭の骨が凹んでいたのは
* ヒョウの歯型
* 洞窟が崩れたから
であることがわかってきたのだ。
さらに
アウストラロピテクスは植物食で
狩りをする必要がなかったことも判明。

よって学会では
ダートの説は完全に否定された
ところが社会には
この否定情報は広まらなかった。
なので、
武器を使うようになった人類は
残酷な生物、の印象がそのまま残った。

いずれにせよ、牙の衰えに伴って
獲物だけでなく仲間に対してさえ
武器を使うようになったので
牙の必要性がさらに落ちてきた、
というのが古い説の要のようだ。

(b) 新しい説
チンパンジーには牙がある
チンパンジーは植物食なので、
肉食獣のように
獲物を襲うための牙ではない。

チンパンジーは同種同士で殺し合いをする。
メスを巡るオスの戦いが多い。
(少ない見積もりでも
 1割のチンパンジーが
 仲間の殺害に関与している)

トラに会っても、サメに会っても
怖いのは「噛まれる」こと。
牙は生物最強の武器なのだ。
牙がないとなかなか他の動物を殺せない。

殺人事件があると警察は凶器を探す。
なぜ凶器を探すのか?

人間は凶器がないと
なかなか人を殺せない。

牙を使わなくなったから小さくなった、
とは、つまり
「仲間を殺さなくなった」のだ。

では、どうして殺さなくなったのだろう?
この話、次回に続けたい。

それにしても、
* 牙は生物最強の武器
* 殺人というと反射的に
  「凶器の捜索」を
  思い浮かべてしまうのは
  「人間は凶器がないと
   人を殺せない生き物」だから
という言葉を、古生物学者の話から
改めて考えてみるようになるなんて。

学ぶことはおもしろい。

 

 

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2022年12月25日 (日)

クリスマス、24日がメインのわけ

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クリスマス、24日がメインのわけ

- 「24日の晩」は「25日当日」 -

 

今年は12月24日,25日が
ちょうど土曜、日曜に重なったこともあり
クリスマスイブ、クリスマスを
思い思いの形で
楽しんだ方も多かったことであろう。

それにしてもクリスマスって
そもそもは25日なのに
クリスマスイブを含む24日が
メインのようになっているのは
なぜなのだろう?

これについては
2020年12月19日朝日新聞
「ことばサプリ」

校閲センターの町田和洋さんが
明確に答えてくれている。
(以下水色部記事からの引用)

キリスト教が生まれた地域で
使われていたユダヤ暦では、
日没が一日の区切りとする
考え方があります。

24日の日が沈んだら
25日が始まっているわけだ。

旧約聖書の創世記、
出エジプト記などに
一日を夕暮れから起算する表現があり、
紀元前5-6世紀ごろには
こうした習慣があったと考えられ、
キリスト教もこの考え方を
受け継いでいるそうです。

24日の日没から25日の日没までが
「クリスマス当日」

クリスマスの夜とは
24日のイブ(晩)しかない。

ヒジュラ暦も
日没で一日が終わり、
夜からは次の一日です。

月の満ち欠けを元にした
太陰暦をベースに月の形を見て
暮らしの指針にした習慣から
自然な流れだったと思います。

ラマダン(断食月)明けが
夜になるのも日没で一日が終わり、
新月を視認して
翌月に移る節目だからです。

なので、イスラム圏で
「○日の夜」という約束をすると
一日ずれてしまうことがあるので
注意が必要、という
中牧弘允国立民族学博物館名誉教授の
言葉も紹介している。

考えてみると
「これまでの慣習を一切無視して、
 『一日の始まり』を好きに決めて下さい」
と問われたら、どこを選ぶだろうか?
少なくとも
今の午前零時を選ぶ気はしない。

最後にひとつオマケ。
こども電話相談室でだったと思うが、
以前こんな詩的な質問が寄せられていた。

「世界は夜から始まったのですか、
 昼から始まったのですか?」

 

気ままに続けているブログですが、
ことしも訪問いただき
ありがとうございました。

皆さま、どうぞよいお年をお迎え下さい。

 

 

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2022年12月18日 (日)

「ノアの大洪水説」を覆す

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「ノアの大洪水説」を覆す

- ダ・ヴィンチの豊かな発想 -

 

以前録音したNHKラジオの番組

 カルチャーラジオ
「過去と未来を知る進化生物学」(2)
「生物とは何か(1)
 昔は地球も生物だった?」
 古生物学者・更科功
        2022年1月14日放送

の回を、
次の3つのキーワードに絞って紹介したい。

<Keyword_1:地球が生きている証拠>
<Keyword_2:ノアの大洪水説を覆す>
<Keyword_3:ボウフラがわく、の意>


内容は番組のメモをまとめたものだ。

 

名画「モナ・リザ」の作者として知られる
レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)は
今から500年以上も前の
フィレンツェに生きた芸術家だ。

芸術だけでなく科学全般あらゆる分野で
多くの業績を残している。

さて、ダ・ヴィンチ。
彼は当時「地球は生物だ」と考えていた。
これは、特別な考え方ではなく、
当時のフィレンツェの知識層では
そう考えていた人は多かったという。

 

<Keyword_1:地球が生きている証拠>
ダ・ヴィンチは単に
「地球は生物だ」と考えるだけでなく
「生きている証拠」を掴もうとしていた。

「生きているとは何だろう?」

人間の体は
心臓よりも上部をケガしても血が出る。
つまり液体(血液)が下から上に行っている。
このことが、
生物の特徴のひとつなのではないか、
と考えたわけだ。

名画「モナ・リザ」は
手前に女性と背景に大地が描かれている。

「人間の血液の循環と
 地球の水の循環を対比させて
 モナ・リザを描いた」

ダ・ヴィンチ自身が、
手稿に残しているらしい。

当時、
地球の山脈は人間の骨、
地球の水は人間の血液にあたる
と考えられていた。

なので、地球の中には
血管のような水路があるのではないか、
そこでは水が下から上に
上っているのではないか、と
ダ・ヴィンチは考え探した。

ところが、残念ながら地球にそのような
水路を発見することはできなかった

それでもダ・ヴィンチはあきらめない。

当時、万物は次の4つの元素でできていると
考えられていた。
  土、  水、  空気、  火
重さもこの順
  土 > 水 > 空気 > 火

「水」が下から上に行く水路を
見つけられなかったダ・ヴィンチだが、
「水」より重い「土」が
下から上に行く例があれば、
より軽い「水」が下から上に行く
証拠になるのではないか、と考えた。

これは、すぐに見つかった。
山の上で、海に住んでいた貝の化石が
見つかったからだ。

まさに海の底にあった土が
山の上にまで上がってきた証拠だ。

ところが、周りの人は納得しなかった。

当時、貝殻の化石が
山で見つかることについては
別の説明があったからだ


それは「ノアの大洪水」
ノアの洪水によって、山の上まで
貝が流されたからだ、と。

 

<Keyword_2:ノアの大洪水説を覆す>
ダ・ヴィンチは、
この「ノアの大洪水説」を否定する
すばらしいアイデアを提示する。

注目したのは二枚貝。
貝殻は丈夫で簡単には壊れないが、
二枚貝の蝶番部は有機物でできているため
死ぬとたいへんに壊れやすい。
つまり、貝が死んだ状態で流されると
2枚の貝が離れてしまう。
貝がバラバラになってしまうわけだ。

ところが山の上で発見される
二枚貝の化石は、バラバラになっておらず
そのままの状態でみつかるものも多い。

これは、それまで貝が
そこで生きていた証拠。
洪水で流されて来たら
そういう状態では発見されない。

この説明により
「ノアの洪水説」を覆したのだ。

この考え方は、現在の古生物学でも
いまだに使われているという。

 

<Keyword_3:ボウフラがわく、の意>
現在では、
生物は次の3つの条件を満たすもの
 1.仕切りがあること。
 2.代謝を行うこと。
 3.複製すること。
と一般には言われている。

 1は細胞膜、
 2は物質とエネルギーの流れ、
 3は子孫を残す、
で具体的にイメージしやすいが、
実は昔は「子孫を残す」は
生物の要件として
あまり重要視されていなかったようだ。

それは
「ウジがわく」
「ボウフラがわく」
という言葉を見てもわかる。
親がなくても発生する、
の認識だったということだ。

こんな何気ない言葉からも
当時の生命観を
読み取ることができるなんて。

 

 

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2022年11月 6日 (日)

アルジェリアのイヘーレン岩壁画

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アルジェリアのイヘーレン岩壁画

- 信じられないタッチと空間把握 -

 

前回
前々回に引き続き

「サハラに眠る先史岩壁画」
 英隆行写真展

 目黒区美術館 区民ギャラリー
 2022年10月5日-10日

の内容を紹介したい。

2210_131s

 

展示の最後、圧巻は

*アルジェリア タッシリ・ナジェールの
 イヘーレン岩壁画
 実写 w824cm x h270cm
 模写 w840cm x h248cm

Pa082294s

「サハラ砂漠で発見された壁画で
 最も優れた作品。
 新石器時代写実派の代表作」
(フランスの考古学者アンリ・ロート)
と賞賛された美しい壁画。

ロートは、
発見翌年の1970年に調査隊を組織し、
実物大の模写を制作した。

実際の壁画は、長い歳月を経て
退色や挨の堆積などで
肉眼では見えにくくなっている部分が
多くあるためである。
たとえば、実物はこんな感じ。

Pa082321s

これが模写により

Pa082284s 

ずいぶんわかりやすくなっており、
細部まで読み取ることができる。

ロート隊は、本模写より10年以上も前、
1956-57年の
タッシリ・ナジェール岩壁画の模写時、
次のような手順で模写を作成した。

(1) 水を含ませたスポンジで壁面を拭い、
  絵を浮かび上がらせる。
(2) トレーシングペーパーを壁面に当てて
  写し取る。
(3) 別の画用紙に写して彩色する。

これに対して
* 見えなくなっている部分を
  想像で補筆したものが多い。
* 模写作成時に壁面を傷つけた。
などの批判が寄せられた。

本複写、1970年のイヘーレン岩壁画
調査隊メンバーのイヴ・マルタンは
そういった批判があったことを知った上で、

「模写制作にあたっては、
 スポンジで壁面を拭うことはせず、
 見えなくなっている部分のみを
 わずかに湿らせるにとどめた」
「見える部分と
 見えなくなっている部分を
 厳格に判断して模写を制作した」

と証言している。

ちなみに、ロート隊の模写手法は、
現在では禁止されている。

壁面にふれることも、
水を含ませることも許されていない。

 

さて、そのような経緯で写し取られた壁画、
詳しく見てみよう。

まず全体。
日本の絵巻や屏風絵のように、
遊牧民の生活の一部始終が語られる
物語になっている。
物語は右から左に向かって進む。

男性は子供を抱いて歩き、
女性は牛の背に乗って移動。
男女ともにペインティングを
しているように見える。

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牛に乗る女性はここにも。

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新しい土地に到着すると
男性は荷を解き、
女性はテントの設営。
弓のような棒はテントの支柱。
最近までツアレグ族も
同じようなテントを持ち、
女性が管理していたらしい。

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キリン、ガゼル、オリックス、ダチョウなど
草原の動物も多く描かれている。

Pa082284ss

岩の割れ目を水場に見立てて、
牛が水を飲んでいる。
牛は横からの姿だが、
角は正面に近い。
ラスコーなど
旧石器時代の岩壁画にも見られる
疑似遠近法。

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さまざまな動物の群れの向こうに
ストローで飲み物を飲む女性が
描かれている。
いったい何を飲んでいるのだろう?

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手前では、
女性と子供が家畜の世話。
中央ではここでもストローで
なにか飲んでいるようだ。
順番待ちで並んでいるようにも見える。

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中央左には赤ん坊をあやす男性。
奥では、テントの中から身を乗り出して
頬杖をついている女性。
背中に手を当てているのか、
その前にいる男性との関係は?

とにかく、信じられないタッチの絵が
信じられないような空間把握の中に
展開されている。

しかもその後の解析により、
壁画はごく一部のエリアを除いて
ひとりの人が描いたものとわかったらしい。

前回書いたような理由で
正確な年代はわからないものの、
5000年以上も前の作品だ。
ほんとうにびっくりする。

 

「また、来週から
 現地に行けることになったのです」
とガイドさんはおっしゃっていたが、
発掘エリアには紛争地域もあるため
訪問には軍の許可が必要
であったりと
自然環境の過酷さだけでなく
行くだけでもそうとう大変なようだ。

個人的に、
これまで全く知らなかった分野だが
また新しい発見があることを
期待したい。

 

 

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2022年10月30日 (日)

サハラ岩壁画の年代は測定できない

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サハラ岩壁画の年代は測定できない

- 「愛の館」から線刻画まで -

 

前回に引き続き

「サハラに眠る先史岩壁画」
 英隆行写真展

 目黒区美術館 区民ギャラリー
 2022年10月5日-10日

の内容を紹介したい。

2210_131s

本展、壁画はどれも興味深いのだが、
各画に対する年代の説明がほとんどない。

前回書いた通り、
5000年から1万年ほど前のもの、
というざっくりとした幅だけはあるが、
正確にはわからないらしい。
それはどうしてか?

ガイドツアーのときの説明によると
サハラ岩壁画の
壁画自体の年代を直接測る技術は
現時点ではまだ存在しない
らしい。

理由は、
絵具に木炭や接着剤などの
有機物が含まれていないため
放射性炭素年代測定ができないから。

また、洞窟壁画のように
水が滲みだして絵の上に
炭酸カルシウムの被膜が
形成されることがないため
ウラン系列年代測定もできない。

直接的な測定ができないため、
描かれた動物との関係、
発見された古墳との関係、
などから相対的、間接的に
制作年代を区分しているようだ。

というわけで、細かいことは気にせず
気持ちのほうもざっくりのまま
ほかも見てみよう。

 

*アルジェリア タッシリ・ナジェールの
 「食肉解体」

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ブーメラン状の道具(ナイフ?)を使って
食肉を解体している。
男性は腰みのだけだが、
女性は長いスカートに肩掛けのようなものを
羽織っている。
右には野ウサギやキリンなども見える。

 

*チャド ティベスティの
 「愛の館」
館の外には牛がいる。右は乳搾りの様子。

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「愛の館」の中はこんな感じ。
入口の縄暖簾をくぐると、
部屋の中には裸の男女が集っている。
女性は足を白く塗っているようだ。

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右端の男は
楽器を奏でているように見える。
部屋には大きな壷があるが、
中には酒が入っているのだろうか。
重なり合っている男女もいる。
女や男を奪い合っているようにも見える
場面もある。

 

*チャド エネディの
 「整列する戦士たち」

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繊細な筆遣いで細かく描写された岩壁画。
戦士たちは槍を手に持ち、
頭には羽飾りを付けている。
戦士の隊列から外れた場所には
長いスカートをはいた女性もいる。

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槍の穂先が石で加工するには
難しい長さであることから、
鉄製の穂先と推測されている。
だとするとこれは他と比べると
ずいぶん新しいものかもしれない。

 

*スーダン ウェイナットの
 「行進する人々」

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川岸で垂直に削られた砂岩の表面に
10メートル以上にわたって夥しい数の絵が
描かれている。
別の場面では、狩りをする人々、
牛の群れなども。

この地域では、牛の牧畜は
7000年前頃に始まったが、
5000年前には乾燥化によって
牛が飼えない気候になった。

制作年代を直接調べられないため
描かれたものから
間接的に絞り込んでいくのも
ひとつの手法。

 

*モロッコ ハイ・アトラスの
 太陽の円盤  青銅器時代

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古代ベルベル人が信じたアニミズムでは、
太陽、土地、水」が
人間に不可欠なものとされていた。
太陽の内側には、
山並みに囲まれた大地と川。
下の小さな円盤は月のようにも見える。

 

*チャド エネディの
 「牛飼い」
サハラ岩壁画ではあまり多くない
線刻画

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彩画にはほとんど見られない
幾何学模様が多いのが特徴。

寄って見ると

Pa082319s

杖を肩に担ぐポーズは牧童特有のもので、
現代でもよく見かける。
お尻の大きな体形は、
現在この地に暮らすほっそりとした
トゥブー族とは異なるらしい。

体形といえば、以前アメリカ人に
「日本人でお相撲さんのような
 体形の人はほとんど見かけないのに
 どうしてあれが国技なの?」
と質問されて答えに窮したことがある。
1万年後、日本で相撲絵が発見されると
対トゥブー族と同じようなコメントを
されるかもしれない。

 

 

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2022年10月23日 (日)

サハラ砂漠が緑に覆われていたころ

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サハラ砂漠が緑に覆われていたころ

- 先史岩壁画、実物大の写真展 -

 

「サハラに眠る先史岩壁画」
 英隆行写真展

 目黒区美術館 区民ギャラリー
 2022年10月5日-10日

を観てきたのだが、
その内容がたいへんおもしろかったので
記録を兼ねて紹介したい。

2210_131s

本展、岸壁画の写真展ではあるが、
展示作品はすべて実物大。
3mを越える写真もあり、
岩壁を前にした臨場感をたっぷり味わえる。
展示の写真撮影もOK。

会場にあったパンフレットと
30分の予定が、説明がノリノリで
結果50分になってしまった
会場でのガイドツアー時のメモを見ながら
振り返ってみたい。

 

世界最大の砂漠、
アフリカ北部のサハラ砂漠には
緑のサハラ」と呼ばれる時代がある。

今から約11,500年前から5,000年前頃まで、
なんとこのエリアは
緑に覆われていたというのだ。

旧石器時代末期から新石器時代のころ、
この緑豊かな土地を求めて
様々な民族が去来した。

彼らは自然の岩肌をカンバスとして
彩画や線刻画など独自のアートを遺した。

その岩壁画が今回の写真展の被写体。

今はまさに降水量の少ない広大な砂漠だが、
絵が描かれた当時は緑の大地だったのだ。

2210_121a

上の地図の赤丸が収集した岩壁画の位置。
アフリカ大陸北部、広範囲からの
収集となっていることがわかる。

 

まずは写真展のポスターにも使われている
 アルジェリア
 タッシリ・ナジェールの
 「白い巨人と祈る人々」
  w515cm x h308cm

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頭に角のような突起を持ち、
大きな力こぶと巨大な陰嚢を持った
3mを超える巨人。

その左右には
お腹の大きな妊婦が横たわり、
左側には祈るような仕草の
女性たちが並んでいる。

と解説されているが
コントラストが弱く
正直わかりにくい。

こんな図が横に添えられていた。
組合せてみるとずいぶん助けられる。

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同じ
 アルジェリア
 タッシリ・ナジェールの
 「瘢痕文身のある人物」
  w103cm x h180cm

Pa082272s

瘢痕文身は「はんこんぶんしん」と読む。
 皮膚に切込みを入れたり,
 焼灼(しょうじゃく)して,その傷跡が
 ケロイド状に盛り上がることを利用して
 身体に文様を描く慣習
のことらしいが、首飾りといい腕輪といい
仮面のようなものといい
かなり着飾っている。

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「泳ぐ人」という絵では
頭に突起のある人が泳いでいる。
飾りか? いったいナンだろう?

Pa082320s


「弓矢で戦う人々」では集団の戦い、
つまり戦争が描かれている。
激しい戦いのシーンはあっても
倒れている人物は描かれていない、
という特徴があるらしい。

Pa082308s


下の絵で弓を引いているのは女性と
思われる。よく見ると乳房がある。
女性も兵として戦っていたのだろうか。
当時は砂漠ではないので牛もいる。

Pa082306s


1万年近くも前の
着飾った女性たちや弓を持った兵士たち。
いろいろ想像するのは楽しいものだが、
岩壁画はさらに多くのものを
今に伝えてくれている。

本写真展の話、次回に続けたい。

 

 

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2022年9月11日 (日)

「生を養う」養生所

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「生を養う」養生所

- 「病」と闘うだけでなく -

 

現役のお医者さんとして活躍する
稲葉俊郎さんが書いた

稲葉俊郎 (著)
いのちを呼びさますもの
—ひとのこころとからだ—
アノニマ・スタジオ

(以下水色部、本からの引用)


から 前回は
「元気になったから病気が治る」
という言葉を紹介したが、
もう少し本を読み進めてみたい。


英語で
「Health」(健康)という言葉があるが、
その語源は
古英語「Hal」から来ている。

「Hal」は「完全である」

という意味であり、そこから

「Holism」(全体性)や
「Holy」 (神聖な)や
「Heal」 (癒す)、
「Health」(健康)という言葉に

分化していった。

つまり、
「健康」 (Health)という言葉には、
そもそも
「完全」 (Hal)、
「全体性」(Holism)、
「神聖」 (Holy)
といった意味合いが
含まれているのだ。

稲葉さんは、
古代ギリシャ時代の劇場が残る
世界遺産「エピダウロスの考古遺跡」を
訪問した際、あることに気づく。

古代円形劇場という建築物が
おもに注目されている場所だが、
実際に足を運でわかったことは、
場全体が
総合的な医療施設であった

ということだ。

劇場を含む古代遺跡が
「医療施設」とはどういうことだろう。

エピダウロスの地には温泉があり、
演劇や音楽を観る劇場があり、
身体技能を競い合い
魅せ合う競技場があり、

さらに眠りによって
神託を受けるための神殿
(アスクレピオス神殿)もあった。

そこは人間が全体性を
回復する場所
であり、
ギリシャ神話の医療の神である
「アスクレピオス」信仰の
聖地でもあった。

温泉、演劇、音楽、競技場、神殿・・・。

この神殿には「眠りの場」があり、
訪れた人はそこで夢を見る。

夢にはアスクレピオスが出てきて、
夢を見ることで
自分自身の未知の深い場所との
イメージを介した交流が起きる。

聖なる場での
そうした夢の体験そのものが、
生きるための指針や
方向性を得るための
重要な儀式的行為でもあったのだ。

夢までをも対象としたその空間を
稲葉さんは、
芸術のための空間でありながら、
同時に医療のための空間でもあると
確信したようだ。

こういう空間、
全く同じではないものの
考えてみると日本にも古くからある

明治期にドイツから
日本にやって来た医師ベルツも、
日本では草津温泉などの湯治場が
体や心を癒すための医療の場として
機能している
ことを、驚きとともに
医学専門誌で発表している。

日本では多くの温泉が療養地として
自然なかたちで愛好されているため、
政府は温泉治療を
進めていくべきであると
力説している。

「温泉」という人々が集う場が
心の全体性を取り戻す場となり、
健康を目指す医療の場となる。

「病院」はあくまでも
「病」を扱う場所であるが、

江戸時代にあった「養生所」は
まさに「生を養う」ための
場所であった。

稲葉さんは、病院を補う場所として、
「健康」「生」を養う場所
必要だと感じている。

「養生」
改めて見直してみるといい言葉だ。

 

 

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2022年8月14日 (日)

お鷹の道・真姿の池湧水群

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お鷹の道・真姿の池湧水群

- ようやく野川に合流 -

 

前回まで、
1200年前の道、
東山道武蔵路に寄り道してきたが、
野川を目指しての
西国分寺駅からのぶらぶら歩きに戻りたい。

東山道武蔵路跡のすぐそばに、
旧国鉄の「中央鉄道学園」、
郵政省の戸建て宿舎などの
跡地を整備して作られた
武蔵国分寺公園がある。

P6112002s

ここから、
国分寺薬師堂は歩いてすぐだ。

P6112010s

国分寺薬師堂は、
建武2年(1335)に新田義貞の
寄進により建立されたと伝えられるもので、
宝暦年間(1751-1763)に現在地に再建。

P6112007s

緑が深くて美しい。

P6112003s


天平13年(741)の聖武天皇の命により、
鎮護国家を祈願して創建された
武蔵国分寺

P6112016s

諸国国分寺中有数の規模だった寺地・寺域は
数回の変遷があったようだが、
僧寺の金堂、講堂、七重塔、鐘楼、
   東僧坊、中門、塀、北方建物、
尼寺の金堂、尼坊、などが調査されている。

国分寺楼門

P6112019s

この門は、米津寺(東久留米市)の楼門を
明治28年に移築したもの。
板金葺で江戸時代の建築様式を
よくとどめているものらしい。

武蔵国の文化興隆の中心施設であった
国分寺の終末は不明だが、
元弘3年(1333)の分倍河原の合戦で
焼失したと伝えられている。

国分寺すぐ横から、
「お鷹の道・真姿の池湧水群」の
水路脇を歩けるようになっている。

P6112021s

江戸時代に尾張徳川家の
御鷹場だったことに由来して、
お鷹の道」と名付けられた散策路。

P6112032s


真姿の池

P6112027s

「嘉祥元年(848)
 不治の病に苦しんだ玉造小町が、
 病気平癒祈願のため
 国分寺を訪れて21日間参詣すると、
 ひとりの童子が現れ、
 小町をこの池に案内。

 この池の水で身を清めたところ、
 たちどころに病は癒え、
 元の美しい姿に戻った」
との言い伝えのある
真姿の池」には
小さな祠と鳥居がある。

 

国分寺崖線

P6112028s

国分寺から
小金井・三鷹・調布・狛江を経て
世田谷の等々力渓谷に至る
標高差約15mほどの崖線で
ハケ」と呼ばれている。

この崖線が
「日本名水百選」にも選ばれている
ここの湧水群を生み出している。

東京地区の崖線の2大スター(?)と言えば
この国分寺崖線と
上野から赤羽までの日暮里崖線
ということになるだろうか。

ただ、国分寺崖線は、
多摩川がつくった河岸段丘だが、
日暮里崖線は、
波の侵食を受けてできた侵食崖
その成立は大きく異なる。

P6112033s

湧水が流れる「元町用水」を
追うように歩くと、
ついにここに到達する。

野川との合流点。

P6112037s

ちなみに、合流点から
野川上流方向を見ると
こんな感じ。

P6112039s


ようやく野川に合流することができた。

P6112042s

ここから先は、できる限り
野川に沿って歩いてゆこう。

 

 

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2022年8月 7日 (日)

西国分寺 東山道武蔵路

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西国分寺 東山道武蔵路

- 武蔵国は東山道から東海道へ -

 

前回
今から1200年以上も前に整備された
五畿七道について触れたが、

 七道は古代官道の名であると同時に
 諸国はいずれかの道に属すため、
 地方の行政区画ともなっている。

と書いた。

さて今回立ち寄った「姿見の池」がある
西国分寺付近は武蔵国となるが、
武蔵国は七道のうち東山道に配属された

ところが、
上野国(こうずけのくに)と
下野国(しもつけのくに)を通る
東山道の本道からは
南へ大きく外れた位置にあるため、
上野国の新田駅(にったのえき)付近から
武蔵国府に南下する支路が存在したことが、
奈良時代の歴史書
「続日本紀」に記されている。

この道を現在では
東山道武蔵路と称している。

現地の案内板には
こんなわかりやすい地図があった。

P6111994ss

地図を見れば明らかなように、
東山道武蔵路を往復することは
交通上かなり不便だ。
そこで武蔵国は宝亀2年(771)に
東山道から東海道へ所属替えとなる。

つまり771年には、東山道および武蔵路、
そして東海道が
すでに整備されていた
わけだ。

これにより駅路としての東山道武蔵路は
使命を終えることになるが、
発掘調査の成果から、
その後も武蔵国内の南北交通路として
平安時代の終わりごろまで
使用されていたことがわかっている。

 

さて、この東山道武蔵路の発掘調査は、
JR中央線の北側、恋ヶ窪地区だけでなく、
JR中央線の南側、西国分寺地区
でも行われている。

そちらにも回ってみよう。

国分寺市泉町二丁目
(旧国鉄中央鉄道学園跡地)で行われた
平成7年(1995年)の調査では、
東西に側溝を持つ
幅12mの直線道路が南北340mにわたって
発見された。

今は、遺構が一部展示施設となっている。

P6111997s

柵の中はこんな感じ。
当時の道路造成面を型取りして
復元したレプリカが展示されている。

P6111998s

道の側溝は主に平地を通る
古代道路の両端に設けられている。
路面の排水を目的としているほか、
溝によって
官道である道路の幅(範囲)を示したもの
考えられているとの説明がある。

展示施設を含めた泉町二丁目には、
幅15m、長さ400mの範囲で、
舗装した路面に当時の道路幅と
側溝の位置を表示したエリアがあり
展示施設から武蔵路の一部を
まっすぐに見通すことができる。

P6111996s

武蔵路発掘の話を知らないと、
単に「広い直線上の空き地」にしか
見えないが。

P6112000s

と言ってもわかりにくいので、
Googleの航空写真を借りて、
上空から眺めてみよう。
これを見ると
発掘による保存エリアが明らかだ。

Gmap1s

赤い星印が、遺構の展示施設。
そこからまっすぐに南方向、
赤い点線が囲まれたエリアが
発見・発掘されたエリア。

北側の泉町二丁目(西国分寺地区)、
そのすぐ南、短い
西元町二丁目(旧第四小学校跡地区)
どちらも今は
国史跡(くにしせき)に指定されている。

 

「野川に沿って歩こう」と
始めた「ぶらぶら散歩」だが、
今回はまだ野川にまで合流できていない。

五畿七道から見えてくる
1200年前の律令国家のパワーと
技術に驚かされて
すでに3回も書いてしまった。

さて、次回は野川に合流できるだろうか。

 

 

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