歴史

2020年1月26日 (日)

「四十にして惑わず」か? (3)

(全体の目次はこちら



「四十にして惑わず」か? (3)

- 「心」の誕生・文字から広がる精神世界 -

 

前回
論語の中の有名な一節
「四十にして惑わず」に使われている
一番肝心な漢字「惑」が
なんと孔子の時代にはなかった、
という話を書いた。

参照していたのはこの本。

安田登(著)
身体感覚で『論語』を読みなおす。
―古代中国の文字から―
(新潮文庫)

(以下水色部本からの引用)

約500年以上にも渡って
文字ではなく
口誦によって伝承された論語は、
書物として編まれる際、
当然のことながら
編纂時の漢字が使われた。
なのでその中には、
孔子の時代にはなかった漢字も
含まれている。

なんという事実だろう。

代表例として「惑」をあげたが、
ほかにもある。

そしてそこからは、
単なる漢字一文字に留まらない
もっと大きな世界が見えてくる。

 さて、こんな風に
『論語』を読んでいくと、
現行『論語』にはあるが、
孔子の時代にはなかった、
あるグループに属する
文字群を見つけることができます。

 それは「心」のグループです。

「心」のグループに属する文字が
孔子の時代には、
ごっそりと抜けている
のです。

 

「心」のグループに属する文字とは・・・

「心」のグループに属する文字には、

たとえば
「思」や「恋」などの
「心」がつく漢字

「性」や「悔」などの
「(りっしんべん)」がつく漢字

そして「恭」や「慕」などの
「(したごころ)」がつく漢字

などがあります。
先述の「惑」もそのひとつです。

むろん「心」グループの漢字が
まったくないというわけでは
ありません。

しかし、「惑」のような
「え、こんな漢字が」と思うような
「心」グループの漢字が
孔子時代にはないのです

では、いつごろ出現したのだろう?

甲骨文字の中にも、
殷の時代の金文の中にも
「心」は見つけることができない。

殷が終わり、周になると
金文の中に「心」グループの文字が
突如出現してくる。

殷を滅ぼし、周王朝になったのは
紀元前1046年ごろ。
今から3000年くらい前。

つまり、「心」は
約3000年前に生まれたようだ。
孔子が活躍する、たった500年前。

その後、「心」グループの漢字が
順次生み出されていくことになるが・・・

 周の時代の間、すなわち
戦国時代晩期までに生み出された
「心」の子どもたちは
たったの87字です。かなり少ない。

『論語』の中の「惑」も「志」も、
孔子が生きていた時代には
誕生していなかった

 

「心」という字がなかったということは、
当時、人間に「心」という認識が
なかったからではないか?
そういう疑問は当然浮かんでくる。

ジュリアン・ジェインズの
「神々の沈黙」(紀伊國屋書店)
では、
「心が生まれたのは3000年前だ」と
主張しているという。

 

これは漢字の「心」の起源と
偶然にも時期を一にします


くり返しになりますが、
漢字の「心」も
ちょうど3000年前に生まれたのです。

 

漢字の発生とは関係のない
別な分野の研究の成果が、
同じような数字に到達しているなんて。

 心理学教授だったジェインズは、
統合失調症の人々の心の状態から、
どうも古代人は「神」の声に
従っていたのではないか、
という仮説を出します。

 こういう人間の心を彼は
<二分心(にぶんしん)>
(正しくは<二院制の心>)

と名づけました。

なぜ「二分」心というかというと、
古代人の心の中は、
そして現代でも統合失調症の
患者さんたちの心は、
次のように二つに分かれていると
考えられるからです。

(1) 命令を下す「神」と呼ばれる部分
(2) それに従う「人間」と呼ばれる部分

ここでの「神」とは、
特定の宗教の神ではなく、
「天の声」のようなものを指すのだろう。

 

ジェインズ<二分心>とは少し違うのですが、
『論語』の中にも二つの世界があるからです。

ただしそれはジェインズのいう
(1) 命令を下す「神」と呼ばれる部分
(2) それに従う「人間」と呼ばれる部分
という区分とは少し違います。

孔子の時代にはすでに
「心」が登場しているからです。
命令を聞く「人間」の部分には、
すでに「心」が生まれているのです。

ですからジェインズの図式に当てはめると
『論語』の中の二つの世界は、
(1)「神」の部分と、
(2)「心」の部分に分かれます。

『論語』 の用語を使えば
「命(めい)」の世界と
「心(しん)」の世界です。

「命」の世界・・・運命、天命
「心」の世界・・・心、意思

 

「命」とは

「命」とは運命の命です。
ジェインズの説でいえば
「神」の部分に近いでしょう。
自分のカではどうすることもできない、
大きな力によって動かされている世界、
それが「命」の世界
です。

 

そして「心」とは

それに対して「心」の世界は、
自分の意思の世界、自由意思の世界です。
与えられた状況を、自分の力で
切り開いていこうとする世界、
それが「心」の世界
です。

 

この「命」と「心」という世界が、
論語とどんな関わりがあるのか、
その視点で、本文は展開されていく。

古代中国文字に注目するだけでも
これだけの世界観に繋がっていくのだ。

内容の濃いすばらしい本なので
ご興味があれば、ぜひ
書店で手にとって見てほしい。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

 

2020年1月19日 (日)

「四十にして惑わず」か? (2)

(全体の目次はこちら


「四十にして惑わず」か? (2)

- 口誦(音)で伝わったがゆえに -

 

安田登(著)
身体感覚で『論語』を読みなおす。
―古代中国の文字から―
(新潮文庫)

(以下水色部本からの引用)

を読んで、論語の
「四十にして惑わず」
(「四十而不惑」)


を考えてみる2回目。

前回は、
*孔子が生きたのは2500年前。

*『論語』がまとめられたのは
 孔子が活躍した時代から
 500年から700年ほど経った後漢の時代。

*500年の間は文字ではなく、
 弟子の口から口へ、口誦で伝えられた。

*この500年間に漢字も増えていった。

*孔子の時代の漢字はわかっている。
 その視点で「四十而不惑」を見ると
 「四十而不惑」の中の
 最も重要な漢字「惑」は
 孔子の時代には存在していなかった。


という衝撃の事実までをお伝えした。

「惑」という字が、
孔子が生きていた時代には
まだなかったなんて!!

だったら、孔子は
何を言おうとしていたのだろう。
そしてそれは、どんな漢字で
表現されるものなのだろう?

今日はそこから始めたい。

『論語』の中で、
孔子時代にはなかった漢字から
当時の文字を想像するときには、
さまざまな方法を使います。
一番簡単なのは、
部首を取ってみるという方法です。

部首を取ってみて、
しかも音(おん)に
大きな変化がない場合、
それでいけることが多い。

「惑」の漢字の部首、
すなわち「心」を取ってみる。

「惑」から「心」を取ると
「或」になります。

古代の音韻がわかる辞書を引くと、
古代音では「惑」と「或」は
同音らしい

となると問題ありません。

そして「或」ならば
孔子の活躍する前の時代の
西周(せいしゅう)期の
青銅器の銘文にもありますから、
孔子も使っていた可能性が高い。

 孔子は
「或」のつもりで話していたのが、
いつの間にか「惑」に
変わっていったのだろう、
と想像してみるのです。

口誦伝承で、
「音」は伝わっていた。

孔子時代に「或」のつもりだったものが
500年以上にも渡って口承されるうちに
孔子時代にはなかった漢字の「惑」に
置き換わってしまった。

もしそうだとしたら、
元の意味はどうだったのだろう。

 さて、では「或」とは
どんな意味なのでしょうか。
その古い形を見てみましょう。

「或」この右側は、
「戈(ほこ)」であると
漢字学者の白川静氏はいいます。

あるいは、
これは「弋(よく・矢)」で、
「境界」を表すという説もあります。
同じく漢字学の泰斗である
加藤常賢(じょうけん)氏や
赤塚忠(きよし)氏の説です。

白川静氏も、この字が
「境界」を表すというのには賛成で、
左側の「口」の上下にある「一」が
境界を表すといいます。

 ここでは両説の優越を
云々(うんぬん)することは
措(お)いて、
どちらにしろこの文字が
「境界」に関する文字である
ことは
確かなようです。

「戈」や「弋(矢)」で
地面に線を引いて境界を示す。

子供のころ、
地面に棒切れで線を引いて
「ここから奥は俺の陣地」
なんていうのと同じです。

「或」を
「口」で囲むと「国(國)」になるし、
「土」をつけると「域」になります。

ともに
「区切られた区域」をあらわします。
「或」とはすなわち、境界によって、
ある区間を区切ることを意味します。


「或」は分けること、
すなわち境界を引くこと、
限定することです。

藤堂明保(あきやす)氏は
不惑の「惑」の漢字も、
その原意は
「心が狭いわくに囲まれること」
であるといいます
(『学研漢和大字典』学習研究社)。

さあ、ここまでくると、
「四十而不
ではなく、
「四十而不
の意味が見えてきた。

 四十、五十くらいになると、
どうも人は
「自分はこんな人間だ」
と限定しがちになる。

「自分ができるのはこのくらいだ」
とか
「自分はこんな性格だから仕方ない」
とか
「自分の人生はこんなもんだ」
とか、
狭い枠で囲って
限定しがちになります。

「不惑」が「不或」、
つまり「区切らず」だとすると、
これは、

そんな風に自分を
 限定しちゃあいけない。
 もっと自分の可能性を
 広げなきゃいけない


という意味になります。
そうなると
「四十は惑わない年齢だ」
というのとは
全然違う意味になるのです。

いやぁ、
「或」でもいい意味ではないか。
惑よりもよりフィットしている。

安田さんは、
こういった古代文字発掘の成果を
今までの解釈の否定とは
捉えていない。

 むろん、だからといってこれは
今までの読み方を否定するものでは
ありません。

なんといっても
『論語』が2000年以上も
読まれ続けてきたのは、
古典的な読み方によってなのです。

それは、
一冊の古典を2000年以上も
伝え続ける力を
持っていた読み方です。

 その古典的な読み方に加えて
近年の古代文字発掘の成果を
加味した読み方をもってすれば
『論語』はさらに
すごい古典になると思うのです。

たまたま「惑」の一文字について
話を進めてきたが、
この古代文字の発掘は
「惑」も含めて、
さらなる大きなテーマを
我々に突きつけてくる。

長くなってしまったので、
その話は次回に。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2020年1月12日 (日)

「四十にして惑わず」か? (1)

(全体の目次はこちら



「四十にして惑わず」か? (1)

- 孔子の時代に漢字「惑」はなかった! -

 

新年、知的な驚きをお届けしたい。

新刊ではないので
既にご存知の方も多いとは思うが、
ネタを提供してくれるのはこの本。

安田登(著)
身体感覚で『論語』を読みなおす。
―古代中国の文字から―
(新潮文庫)

(以下水色部本からの引用)

題名が硬いので
手が出しにくいかもしれないが、
一旦読み始めれば
知的興奮の世界に引き込まれること
間違いなし。
実におもしろい本だった。

今日はこの本の中から、
有名な論語の一節
「四十にして惑わず」
の話を紹介したい。

 

最初に、「論語」が
どんな成り立ちによるものなのかを
簡単に復習しておこう。

『論語』は、孔子の言行録です。

孔子は今から2500年ほど前の人
紀元でいえば前500年くらい
(紀元前551年-紀元前479年)
春秋時代後期で、
キリスト誕生の500年ほど前です。

同じ言行録の仲間ながら
「新約聖書」とは
大きく違っていることがある。

 イエスの言行録である
『新約聖書』中の福音書は、
現存するものは古代ギリシャ語で
書かれているものがもっとも古い。

しかしながら、古代ギリシャ語は
イエスが実際に語っていた言葉とは
違います


それに対して『論語』は
孔子の語っていた言葉
すなわち古代中国語、漢文で
書かれています


 しかもラッキーなことに
孔子時代の文字も、
どんなものが使われていたのかが
わかっています。

そんなおいしい資料が
残っているならば、
孔子時代の文字に直して
読んでみたい

そう思いました。

「孔子時代の文字に直して読む」
安田さんの姿勢そのものが
なんとも魅力的で
かつ何が始まるのかと
ワクワクする。

『論語』は編纂の経緯も重要だ。

『論語』が
現在の形にまとめられたのは、
孔子が活躍した時代から、
さらに500年から700年ほど経た
後漢(ごかん)の時代といわれています
(最初に書物になったのは
 戦国末から前漢の頃だと
 いわれていますが、

 現代に残る最古の写本は
 定州漢墓のもので
 紀元前55年以前のものと
 されています)。

500年の間、
弟子の口から弟子のロヘと伝えられた

孔子や門人たちの言行の記憶が、
あるときに書物として
まとめられたのが『論語』です。

 

文字化される以前の『論語』は
口伝えで伝承されてきた。

この部分は、
能楽師である著者安田さんの本職
「能」とも深く共通する部分がある。

能もその稽古は
口誦(こうしょう)によるものが
中心でした

ですから詞章に
流儀による違いが生じました。

また、
琵琶法師によって語り継がれた
『平家物語』などには、
多くの異本が存在しています。
それが口誦伝承の宿命です。

特に能では、
ある語句にどんな漢字を当てるかは
流儀によってまったく違います。
能の大成者である
世阿弥の自筆の台本を見ると、
すべてがカタカナで
書かれていたりします。

口誦伝承では、
「音」による伝承が大切で、
どんな文字を使うかは
割合どうでもよいことなのです


そして後世、時代の要求に従って
流儀の定本(ていほん)を
作ろうというときに、
伝承されてきた「音」に、
その時代に
「これが正しい漢字だ」
と思う漢字を当てました。

論語も同じだったと考えられる。

 孔子たちの言行を「音」として
口誦で伝えていた弟子たちが、
『論語』を書物として
編もうとしたときに、
その音に、時代の漢字を当てた


そういう意味では
弟子たちに責任はないのですが、
しかし、現代、振り返って
漢字から意味を考えるとき、
少なくとも
孔子の語った言葉の中に、
孔子が生きていた時代には
なかったものが入っている
というのは
気持ちが悪い。

 

孔子時代にはなかった漢字が含まれる
『論語』の例を見てみよう。

 孔子時代にはなかった漢字が
含まれる『論語』の文の代表例は
「四十にして惑わず」
です。

(中略)

「四十にして惑わず」、
漢字のみで書けば「四十而不惑」。

字数にして五文字。
この五文字の中で孔子時代には
存在していなかった文字があります。

「惑」です。

 五文字の中で
最も重要な文字
です。

この重要な文字が
孔子時代になかった。

 これは驚きです。
なぜなら「惑」が
本当は違う文字だったとなると、
この文はまったく違った
意味になる可能性だって
あるからです。

「これは驚きです」と安田さんは
かなり冷静に書いているが、
読んでいる私の方は、
まさにひっくり返るほど
驚いてしまった


「惑」という字が、
孔子が生きていた時代には
まだなかったなんて!!

だったら、孔子は
何を言おうとしていたのだろう。
そしてそれは、どんな漢字で
表現されるものなのだろう。

 

すこし長くなってきたので、
この話、次回に続けたい。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

 

2020年1月 5日 (日)

初詣はどこに行こうか?

(全体の目次はこちら



初詣はどこに行こうか?

- 秀吉と家康との交差点 -

 

あけましておめでとうございます。

新年、「初詣はどこに行こうか?」
そう迷っているようであれば、
下記の磯田さんの本をお薦めしたい。

磯田道史 (著)
日本史の内幕
- 戦国女性の素顔から幕末・
 近代の謎まで
中公新書

(以下水色部、本からの引用)

本は雑誌への連載をまとめたものだが、
その中の一篇
「浜松に史上最強の霊地」に
こんな話がある。

 

浜松市内の
今は小さな神社となっている地に、
460年前、
「サキ」という少女が住んでいた。

キサは浜松城の前身
引間(ひくま)城の城主
飯尾豊前守(いのおぶぜんのかみ)の娘。

ある日、配下の「松下」が
浜松の町はずれ
「曳馬(ひくま)ノ川辺」で
拾ったという少年を連れてきた。

白い木綿の着物は垢だらけ。
異形な者で
「猿かと思えば人。人かと思えば猿」
といった感じ。

「国はどこ。何者か」と訊くと
「尾張から来た」と猿はいい、

「幼少の者が遠路なにしに来た」
と問うと
「奉公望み(武家に就職希望)」
と答えたという。

松下はこの猿顔の少年を
宴会の見世物にしようと考え、
飯尾家の一同に披露した。

「皮の付いた栗を取り出して与え、
 ロで皮をむき喰う口元が
 猿にそっくり
」と、
みな大笑いしたと
『太閤素生記』 にはある。

 

父親の遺産
永楽銭一貫文(1000枚)の一部を貰い、
尾張清洲で木綿着を作り針を仕入れて、
それを売りながら浜松まで来たという
16歳の少年
は、それから愛され、
草履取となる。それどころか

側近に抜擢(ばってき)してみると
「なに一つ
 主人の心にかなわぬことがない」
完璧な勤めぷり。

それで納戸の出納管理を命じた。

ところが他の小姓が妬(ねた)んだ。

たびたび物が無くなり
「猥が盗んだ」といってイジメた。

松下は慈悲ある人で
「おまえはよそ者だから
 無実の罪を言いかけられるのだ。
 不憫(ふびん)だが本国に帰れ」
と路銀に永楽銭30疋(300枚)を与えて
暇を出した。

この猿がすなわち秀吉で
16歳から18歳まで3年間、
浜松にいたことになる

キサは80歳近くまで長生きして
豊臣滅亡後まで生き延び、
秀吉の真実を遠慮なく語り、孫が
『太閤素生記(たいこうすじょうき)』
という記録に残した


これで闇に消えるはずであった
秀吉の無名時代の様子が
後世に伝わった。

秀吉の、のちの出世の第一歩は
引間城本丸だったわけだ。

 

それからしばらくして
引間城は落城する。
キサはかろうじて逃げおおせた。

かわってこの50メートル四方の
引間城本丸に入ってきたのは、
徳川家康であった。

家康はこの狭苦しい空間に
一年ほど寝起きして城を拡張。
城の名前を変え、浜松城とした。

家康はこの城を根城にして
遠江(とおとうみ)一帯を侵略した。

天正10(1582)年に武田氏が滅亡、
同じ年に、信長が京都本能寺で殺されると、
ここから出陣して
一挙に甲斐・信濃と領土を拡大。

天下を狙えるポジションに躍り出て、
秀吉の天下を奪った

秀吉が引間城に居たのが
1553年~1555年頃。
家康の入城は1570年。
わずか50メートル四方の地で
そんな偶然があったなんて。

秀吉と家康。
二人の天下人の人生の転機となった
交差地点の所番地は
浜松市中区元城(もとしろ)町111の2
である。
今の浜松東照宮

全く流行(はや)っておらず
初詣客は少ない。
しかし、ここに
こっそり参って成功した
浜松の社長を私は何人も知っている。

これは確かに
かなり強力なパワースポットかも。

初詣で迷っているようであれば、
参考にしてみてはいかがでしょう?
「浜松東照宮」です。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2019年12月22日 (日)

目黒川遡行 (3)

(全体の目次はこちら



目黒川遡行 (3)

- 鍵のかかったベンチの中は -

 

目黒川に沿って
ぶらぶらと歩きながら遡行する3回目。
前回からの続き。

目黒川をGoogle Map上に描いてみると
下の太い青い線になる。、
河口から歩き始めて中目黒まで来た。

Meguror1_64

 

2回目までの行程を終えたあたりでちょうどお昼。
東横線中目黒駅付近で昼食をとり、
リフレッシュして元気になって歩きだす。

歩き始めるとすぐ「現耀寺」という文字が
目に飛び込んできた。
お地蔵様の横には「目黒川地蔵尊」とも。
「えっ! ここって、お寺?」

P6023330s

完全に集合住宅の入り口。
入り口横の郵便受けを覗くと
301のところに「現耀寺」とある。

どんな事情があって
こうなってしまったのかはわからないが、
集合住宅の一室がお寺になっているようだ。
他に同じようなお寺をひとつも知らないが、
大都会のお寺の一形式なのだろうか?

P6023332s

 

桜の名所としてその季節には
多くの人でごった返すエリア。

P6023334s

 

川沿いを歩いていると、ところどころに
休憩用のベンチが用意されている。
このベンチ、
よく見ると、座面の下に錠があり
しかもどれも施錠されている。

P6023337s

川沿いの椅子の下に、
いったい何が隠されているのだろう?

非常用の「食料」ってことはないだろうから
非常用の「救命用具」あたりだろうか?
でも、だとしたら
鍵がかかっていたのでは
肝心な時に使えないではないか。

あれやこれや、考えながら歩き続ける。

と同時に、
中が覗けるようなベンチはないか、
鍵のかかっていないベンチはないか、を
ついつい探してしまっている。

P6023339s

 

しばらく歩いたところで、
ついに見つけてしまった。
鍵のかかっていないベンチを。

おそるおそる開けてみると
中身はコレ!

P6023343s

いったい何に使うための
ホースなのだろうか?

何が入っているかはわかったものの、
どうもすっきりしない。

鍵のかかるベンチに、
(しかも川沿いに多数)
ホースが確保してある理由
ご存知の方がいらっしゃれば
ぜひ教えて下さい。

 

屋根の上の [★/R] のマークが
目立っている建物は
2019年2月にオープンしたばかりの
「スターバックス
 リザーブ ロースタリー 東京」
STARBUCKS RESERVE ROASTERY TOKYO

P6023340s

全世界で見ても5店目の開業となる
スタバでも特別な店舗らしい。
地下1階から地上4階にまで展開されている
プレミアムなコーヒー体験とは
いったいどんなものなのだろう?

 

池尻大橋が近くなってきた。

P6023344s

 

玉川通り近くには「水車跡」として、
こんな掲示があった。

 『水車跡』
 この地域は、
 近くを大山道(現在の玉川通り)が通り、
 物資の輸送に便利であり、
 また、三田用水、目黒川の水力にも
 恵まれていたので、
 江戸時代から明治にかけて
 水車が多くつくられました。

 これらの水車は、
 精米・製粉・脱穀加工から、
 薬種の精製やガラス磨き、
 煙草のきざみ
など、
 水車動力をりようした小工場へと
 変わっていきました。
 しかし、これらの水車も、
 現在はどこにも残っていません

 目黒区教育委員会

事実とは言え、さらりと書いている
「現在はどこにも残っていません」が
あまりにも冷めていてなんとも味気ない。

 

玉川通りまで来た。
実はこの川幅で目黒川が見られるのも
ここが最後。

P6023348s_20191126233901

川下から見ると上の写真のように
単に玉川通りが川の上を通っているだけ
のように見えるが、
通りを渡って、
道の反対側で川を探すと
あの大きな流れはどこへやら。

突然
こんな小さな流れと整備された緑道に
出会うことになる。

P6023352s_20191126233901

この変化、主たる流れは
暗渠になっているということか?

 

そう言えば、
玉川通りを渡る信号の近くには、
こんな注意書が。

P6023350s_20191126233901

 『強風に注意』

 信号待ちの皆様へ
 風の強い日は車道の近くに
 立たないでください。

 強風により
 車道へ押し出される可能性があります。
 ご注意をお願いいたします。

 東京都再開発事務所

「強風により車道へ押し出される」!?
どうしてここだけ?
ビル風の類なのだろうか?

 

玉川通りを渡って、
人工的な小川に沿った
緑道を歩く。

P6023359s

 

緑道になってすぐ、行政区分としては
目黒区から世田谷区に変わる。
(地図上、右端赤丸)

P6023355ss_20191126233901

注意してみると、さすが(!?)区境。
手すりからコンクリート、
緑道の舗装材まで違う。
左側が世田谷区で右側が目黒区。

P6023354s_20191126233901

 

緑道は、草花の種類が豊富なだけでなく、
世話をする人がいるのか
手入れが行き届いていて美しい。

P6023357s

 

水も細く流れている。
暗渠の上に人工的に作られたせせらぎ、
といったところだろうか。

P6023358s

 

玉川通りから650mほど歩くと、
この合流地点に到着。
烏山川と北沢川の合流地点。
暗渠化されているので、
直接水を見ることはできないが
ここが事実上「目黒川の起点」となる。

P6023366s

上の写真は下流から上流方向に
撮っているが
右方向が北沢川(緑道)
左方向が烏山川(緑道)
ということになる。

P6023363s

 

北沢川も烏山川もここで合流して
目黒川になるわけだから、
流れで見ると最も川下になるが、
案内には、

 烏山川緑道
 北沢川緑道
 起点

と「起点」の表示になっている。

P6023364s

天王洲の河口から
ここ目黒川の起点まで約8km。

合流が見られないのは
なんとも残念だがしかたがない。
ともあれ、これにて目黒川は制覇。

このあと、烏山川緑道と
北沢川緑道をアレコレ迷いながら
1.5日かけて歩くことになるのだが、
その報告はまた日を改めてしたい。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2019年12月15日 (日)

目黒川遡行 (2)

(全体の目次はこちら



目黒川遡行 (2)

- 伝説のホテルの今は -

 

目黒川に沿って
ぶらぶらと歩きながら遡行する2回目。
前回の続きから始めたい。

目黒川をGoogle Map上に描いてみると
下の太い青い線になるが、
河口から歩き始めて
まだ山手線のところまでしか来ていない。

Meguror1_64



山手線をくぐる直前、
対岸(西岸)を見るとこんなものが。

P6023265s

(フタはされているものの)
おおきなパイプが
スパッと切り取られている。
「もしや」と思って反対側、つまり
こちら岸を見ると、
思った通りこちら側にもこんなものが。

P6023267s

おそらく以前は大きな太いパイプが
両岸を繋いでいたのであろう。
それにしても太い!
何のパイプなのだろうか?

 

大崎駅付近のオフィスビル群。

P6023268s

 

桜の枝のアーチが
桜の季節の絶景を彷彿させる。

P6023269s

 

五反田駅付近では、
オフィスビルだけでなく
高層マンションも目につく。

P6023271s

 

五反田駅近く、ちょっと見慣れない形で
構造的に補強された橋があった。

P6023273s

「ふれあいK字橋」とある。
なるほど、
上から眺めればKに見えなくはない。

P6023275s

 

五反田を過ぎて
川沿いの整備された道を歩く。

P6023278s

 

途中、
清流の復活」と題した
こんな地図があった。

P6023280s

目黒川に流れている清流は
 新宿区上落合にある
 落合水再生センターで
 高度処理した再生水を利用しています。
      東京都環境局」

遠く(?)山手線、高田馬場駅近くの
落合水再生センターで再生された水が
目黒川の清流を作っている
ようだ。
まさに大都会の川だ。

 

ゆるやかなカーブがいい。

P6023281s

 

マンション脇、
進入禁止」と
侵入禁止」が
並んでいる。
気持ちはわかる。

P6023283s

 

目黒駅手前、再び桜のアーチが美しい。

P6023288s

 

ふと見ると、対岸にお城のような建物が。
もしやあれは・・・

「おぉ、あれがあの目黒エンペラーか!」

P6023292s

名前だけはそれこそ
40年以上も前から知っているのに
実物を見たのは初めてだ。
「伝説のラ ブ ホテル」
と言っていいだろう。

40年以上も経ってしまっているせいか
今見ると、
とても魅力ある建物には見えないが
建てられた当時は
「怪しい魅力あるお城」のオーラを
放っていたのだろうか?

今やちょっと離れると
他のビルに溶け込んで
まったく目立たないし。

P6023293s

 

JR目黒駅近く、目黒通りの橋の上から一枚。
目黒通りがいかに高い位置を
確保しているのかが、よくわかる。
万が一、川が氾濫しても
これだけ高さに差があると
目黒通り自体は冠水しないですむ。

P6023297s

このあたり、「清流」とはほど遠く、
どういうわけか水がかなり濁っている。
というか真っ白だ。

 

大都会の真ん中を
大きくまっすぐに貫いている。

P6023300s

P6023302s

 

少し上ると、水もきれいになり
「コサギ」か、
鳥も見かけるようになる。

P6023306s

 

田楽橋付近まで来た。

P6023308s

 

そこにちょっとおもしろいものが。

P6023309s

「ここに設置しております橋名板は、
 「ふるさとの川モデル河川事業」
 の記念として、
 架替前の田楽橋、田道橋
 および太鼓橋の橋名板を
 埋め込んだもの
です。

 新橋および中里橋につきましては、
 現在の橋名板を写し撮ったものです」

の説明がある。
橋名阪を並べて見られるなんて。
字体もスタイルも全く統一感がないけれど
古いものをこうしてそのまま保存するのは
なかなかいいアイデアだ。

 

「目黒川船入場」まで来た。


P6023316s

イベントが開催されていて
多くの人が集まっていた。

P6023314s

 

右手「駒沢通り」を
川は下をくぐり、人は歩道橋で渡る。
中目黒駅までもうすぐだ。

P6023319s

 

中目黒駅直前、
蛇崩川(じゃくずれがわ)との
合流点がある。

P6023326s

合流点は小さな公園となっているが
そこからは、目黒川を跨いでいる
東横線・中目黒駅のホームが見える。

P6023324s

 

目黒川歩きの記録、
川の起点までもう一回続けたい。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2019年12月 8日 (日)

目黒川遡行 (1)

(全体の目次はこちら



目黒川遡行 (1)

- 東海道五十三次 一の宿を通って -

 

妙正寺川
大岡川を歩いた友人たちと
今度は目黒川を歩いてみよう、
ということになった。

目黒川は、全部歩いても8kmほどしかない
都会を流れる短い川だが、その起点は
妙正寺川の場合とも
大岡川の場合とも違う
「2本の川の合流点」となっている。

Google Map上に川のルートを描いてみた。
青い太い線が目黒川だ。

Meguror1_64

北沢川(左上緑の線)と
烏山川(左上赤の線)とが
合流した地点が
目黒川(左上から右下への斜めの青い線)の
起点となっている。
ただ、合流地点付近は暗渠となっているため
水が落ち合う場所を
直接見ることはできない。

また「2本の川が合流して」と書くと
「じゃぁ合流する北沢川烏山川
 上っていくとどうなっているの?」
の疑問も当然浮かぶ。

実は、日を分けたものの、
北沢川と烏山川についても
下の緑と赤のルートで歩いている。

Meguro3a_1k

どちらも暗渠が多く、いまやその流れを
正確には追いきれない部分も多いため
「川に沿って遡行した」というよりも
「川だったと思われる部分を
 できるかぎり追いながら歩いてみた」
の軌跡としてのルートではあるが。

いずれにせよ、
北沢川や烏山川については
目黒川とは分けて報告したい。

まずは、川面を見失うことなく
水を追ってのんびり歩くことができた
「目黒川歩き」から、写真の整理を兼ねて
振り返ってみたいと思う。

 

今回の出発地点、
東京都品川区の臨海部、天王洲アイル付近。
2019年6月の土曜日の朝。天気は曇り。

P6023195s

東京湾の京浜運河に流れ込む
まさに川の終着点。目黒川の河口だ。

河口を眺めながら、
ふと振り返って海側を見たら、
新幹線の車両が走っていたので
びっくりしてしまった。

品川駅よりもずっと海側で
もちろん東海道新幹線のルートではない。
どうも、東京駅から
「JR東海 新幹線大井車両基地」
に向かっている車両のようだ。

P6023198s



天王洲アイル方向は近代的なビルが並ぶ。
左側は羽田空港と浜松町を結ぶ
東京モノレール。

P6023200s

 

京浜運河に流れ込む直前の目黒川。

P6023208s

 

河口付近にはいくつかの公園がある。

P6023213s

その中には、野球場もあり、
少年野球の元気な声が響いていたが、
そのすぐ横には、屋外にもかかわらず
こんな無料WiFiの案内板が。
さすが大都会の公園だ。

P6023209s

 

天王洲南運河との間には大きな水門がある。

P6023216s

 

河口の公園のひとつ、東品川海上公園。

P6023218s

「ミッフィー公園」の愛称で
親しまれているらしく、
ミッフィーのイラストの遊具や人形、
花壇などが並んでいた。

 

さぁ、いよいよ目黒川に沿っての遡行開始。

P6023215s

P6023225s

 

歩き始めてすぐ、新品川橋の横の
赤い鳥居は「浜北三社稲荷」

P6023229s

御神木か見事な大イチョウに
まさに守られているような構図がいい。

P6023232s

 

品川橋まで来た。

 この辺りは江戸の昔、
 「東海道五十三次 一の宿」として、
 上り、下りの旅人でにぎわいました。

の説明書きがあるように、
まさに東海道品川宿があったあたり。
「品川宿場散歩」の地図がある。

P6023238s

 

旧東海道、東方向を見て一枚。

P6023236s

 

旧東海道、西方向を見て一枚。

P6023237s

もう一度言わせていただこう。
この付近、あの東海道五十三次の一の宿だ。

 

品川橋を越えて、
赤く見えてきたのは「鎮守橋」。

P6023239s

 

その東岸には「荏原神社」

P6023246s

 

第一京浜道路をくぐって
川沿いを上っていく。

P6023251s

 

途中でこんな駐輪場を見かけた。

コミュニティサイクル
「東海橋防災船着場」

P6023254s

品川区のシェアサイクルらしく、
スマホやカード、暗証番号を使うことで
人手を介することなく
簡単に借りられたり、
乗り捨てたりできるようだ。
150円/30分から。

上海で見たレンタサイクル
思い出す。

P6023256s

 

西岸には「本光寺」の三重塔が
美しく見える。

P6023259s

 

「ようじんほどうきょう」と書かれた橋が。
「要人」?
「桁下2.0m」の文字があるので「用心」?
そんなはずないか。
帰って調べてみたら漢字では
「要津」と書くらしい。
漢字で書かれたらこりゃ読めん。

P6023262s



東側に東海道線と京浜東北線、
西側に山手線と横須賀線と東海道新幹線、
南側に山手通りと目黒川、
という場所に、
近代硝子工業発祥之地
の碑が立っていた。

P6023263s

1873(明治6)年、東海寺の境内に
日本初の洋式の板ガラス工場が
創設されたとのこと。
なぜ、お寺の境内に?
の疑問は残るが、その工場を
翌年、今度は政府が買い上げ
官営の「品川硝子製造所」にしたらしい。

明治のはじめ、今から150年近くも前の話だ。

 

河口から歩き始めて、
ようやく山手線を
くぐるところまで来た。

次回につづく。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

 

2019年10月27日 (日)

家畜はわずか14種、の謎 (2)

(全体の目次はこちら



家畜はわずか14種、の謎 (2)

- 飼育状態では発情しない!? -

 

ジャレド・ダイアモンド(著)
倉骨彰(翻訳)
銃・病原菌・鉄
1万3000年にわたる人類史の謎
草思社文庫

(以下水色部、本からの引用)

を読んで、
家畜となっている大型哺乳類が
世界にわずか14種しかいない謎を
考えていく2回目。

家畜の種類が少ない6つの理由、
つまり、家畜となるために
クリアしなければならない
6つの問題のうち前回

(1) 【餌の問題】
(2) 【成長速度の問題】

までを書いた。
今日は残りの4つについて
引き続き考えていきたい。

 

(3) 【繁殖上の問題】

われわれ人間は、
衆人環視下でのセックスは好まない。
家畜化すれば
価値がありそうな動物のなかにも、
人間の目の前でセックスするのを
好まないものもいる

動物に羞恥心がないとは思わないが、
これだけ読むと「なんのこっちゃ?」
という気がする。
実はコレ、
飼育状態では発情しない種もいる
という意味だ。

チータとビクーニャの例を挙げている。

古代においてはエジプト人やアッシリア人、
近代になってからはインド人が、
野生のチータを飼いならし、
猟犬より優れた狩猟用動物として
珍重していた。

なのに、常時1000頭のチータを飼っていた
ムガール帝国の王族でも
チータの繁殖には成功していない。

現代の生物学者たちでさえ、
動物園でチータの赤ん坊を
誕生させることには、
なんと1960年になるまで
成功していなかったらしい。

野生のチータは、何頭かの雄が
一頭の雌を何日間も追い回す

そういった壮大かつ荒っぽい
求愛行動があってはじめて雌は排卵し、
発情する
ことになるようだ。

つまり、檻の中で飼われていては
求愛行動自体も発情も難しい、
ということのようだ。

 

動物のなかでもっとも上質で軽い
贅沢な毛を提供してくれる
アンデスの野生のラクダ、ビクーニャも

うまく成功すれば
金と名誉の両方が手に入るという
強烈な動機があるにもかかわらず、

捕獲状態で繁殖させる試みは、
これまでのところ
すべて失敗に終わっている、という。

「檻の中」が発情や繁殖に
こんなに大きな影響を与える種も
存在することを知ると、
檻の中でもちゃんと繁殖できる種が
むしろ特別なものなのかも、
とさえ思えてくる。

 

(4) 【気性の問題】

当然ながら、
ある程度以上の大きさの哺乳類は
人を殺す
ことができる。

豚に殺された人もいる。
牛や馬、ラクダに殺された人もいる。
大型動物のなかには、
豚、牛、馬、ラクダよりも気性が荒く、
もっと危険なものもいる。

家畜として理想的と思える動物でも、
たとえば
グリズリー(アメリカヒグマ)のように、
気性が荒く、人間を殺しかねないので
家畜化されなかったものも多い。

これはイメージしやすい理由だ。
クマ、アフリカ水牛、カバなどを
攻撃的で危険な動物の例に挙げている。

(1)餌の問題のところで、
肉食大型哺乳類が家畜にならない理由を
餌の観点から書いたが、
そもそも、気性の荒い肉食獣では、
飼育している人間の方が
食べられてしまう可能性すらあって、
安心して育てられない。

 

(5) 【パニックになりやすい性格の問題】

大型の草食性哺乳類は、
捕食者や人間に対して
それぞれに異なる反応を示す。

動きは素早いのだが、
神経質でびくびくしていて、
危険を感じるや
一目散に駆けはじめるものもいれば、

さほど神経質でなく、
動きものんびりしていて、
危険を感じたら群れを作り、
それが去るまでじっとしていて、
最後の最後になるまで息せき切って
逃げだすようなことを
しない
ものもいる。

<神経質な前者のタイプ>
 シカやレイヨウの仲間の
 草食性哺乳類の大半
 (例外:トナカイ)

<さほど神経質ではない後者のタイプ>
 羊や山羊

と例を挙げている。

神経質なタイプの動物の飼育は、
当然のことながらむずかしい。

彼らは囲いの中に入れられると
パニック状態におちいり、
ショック死してしまうか、
逃げたい一心で死ぬまで柵に
体当たりを繰り返すような
ところがある。

「囲いや檻のなかでも
 平穏に過ごせる性格」も
どの種にも備わっているわけではない。

 

そして最後の6つめ、社会性。
実際に家畜化された大型哺乳類には、
つぎのような社会性がある。

(6) 【序列性のある集団を形成しない問題】

群れをつくって集団で暮らす。

集団内の個体の序列が
はっきりしている。

群れごとのなわばりを持たず、
複数の群れが生活環境を
一部重複しながら共有している
(この種の群れは、
たんなる個体の寄せ集めではなく、
社会組織として機能する)。

そういった集団としての社会性を持つと
人間にとって、
どんなメリットがあるのだろうか?

このように、馬の集団は、
集団内の個体がお互いの序列を
わきまえて行動するので、
同一集団内に複数の成馬が
存在していても、
いざこざを起こさず共存できる。

序列性のある集団を形成する動物は、
人間が頂点に立つことで
集団の序列を引き継ぎ、
動物たちを効率よく支配できるので、
家畜化にはうってつけの動物である 
(こういう動物は、人間が群れに
所属してしまうことで家畜化できる)。

たとえば
家畜として飼われている馬の集団は、
群れを先導する
牝馬に従うのと同じように
人間のあとについて移動する

集団内に存在する序列の上位に
人間が立てるのであれば
それは確かに人間にとって都合がいい。

しかも、
集団間で、なわばり意識が緩ければ
特定サイズの飼育野で、より多くの集団を
飼うことができる。

そういう動物が家畜化され、
人間によって育てられると、
人間を群れの構成員として
記憶するので、
人間が群れの頂点に立つ
ことができるのである。

このような群れをつくって
集団で暮らす動物は
互いの存在に寛容なので、
まとめて飼うことができる。

本能的に集団のリーダーに従って行動し、
人間をリーダーとして記憶するので、
羊飼い(Shepherd:シェパード)や
牧羊犬が御すことも容易である。

また、身を寄せあった
野生での暮らしに慣れているので、
混み合った状態で飼育しても
うまくやっていける。

集団内で、集団間で、
家畜に求める社会性への要求を
家畜になった動物たちはよく満たしている。
単に「群れを作ればいい」といった
単純なものではない。

 

家畜の種類が少ない6つの理由、
つまり、家畜となるために
クリアしなければならない
6つの問題を再度復習してみよう。

 (1) 【餌の問題】
 (2) 【成長速度の問題】
 (3) 【繁殖上の問題】
 (4) 【気性の問題】
 (5) 【パニックになりやすい性格の問題】
 (6) 【序列性のある集団を形成しない問題】

動物を家畜化するためのハードルは
けっこう高いことがよくわかる。

選ばれし14種は、
確かに(1)-(6)をクリアしている。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

 

 

2019年10月20日 (日)

家畜はわずか14種、の謎 (1)

(全体の目次はこちら



家畜はわずか14種、の謎 (1)

- 餌の量と成長速度 -

 

世界の富や権力は、
なぜ現在あるような形で
分配されてしまったのか?


なぜほかの形で分配されなかったのか?

たとえば、南北アメリカ大陸の先住民、
アフリカ大陸の人びと、そして
オーストラリア大陸のアポリジニが、
ヨーロッパ系やアジア系の人びとを
殺戮したり、征服したり、
絶滅させるようなことが、
なぜ起こらなかったのだろうか。

こんな壮大なテーマに
真正面からかつ
多角的に取り組んでいる

ジャレド・ダイアモンド(著)
倉骨彰(翻訳)
銃・病原菌・鉄
1万3000年にわたる人類史の謎
草思社文庫

(記事中、水色部は本からの引用)

から、
ここでは
考察の対象となる「1万3000年」について
考えてみたし、
ここでは
年代測定の基礎となる
炭素14による年代測定法について
その問題点とその背景を紹介した。

今日は、人間社会において
欠くべからざるものになっている家畜を、
「野生種の家畜化」の視点から
眺めてみたい。

 

最初に、家畜の有用性を再確認しておこう。

【家畜の有用性】

家畜は、肉や乳製品といった
食料を提供してくれるし、

農業に必要な肥料や、
陸上での輸送運搬手段
物作りに使える皮類
軍事的な動力なども提供してくれる。

また、農耕動物として働き、
鋤をひいてくれるし、
織物のための毛も提供してくれる。

ほかにも、細菌に対する免疫
人びとに植え付けるなど、
本の題名にもなっている
人間社会における「病原菌」の
地域格差を生む背景にもなっており、
その役割と影響力はたいへん大きい。

まさに人間は、さまざまな面で
助けてもらっているわけだが、
この家畜、全世界レベルで眺めてみても
その種類は驚くほど少ない。

詳しくは本に譲るが、
体重45kg以上の大型哺乳類で見てみると
わずか14種しかいないと言う。
種類のみを書くと、

「メジャーな5種」
   1.羊
   2.山羊
   3.牛
   4.豚
   5.馬

「マイナーなな9種」
   6.ヒトコブラクダ
   7.フタコブラクダ
   8.ラマおよびアルパカ
   9.ロバ
  10.トナカイ
  11.水牛
  12.ヤク
  13.パリ牛
  14.ガヤル

全世界で見ても、たったこれだけ。

家畜化の候補となりうる
陸生の大型草食動物は
全世界に147種もいるのに、
どうしてわずか14種だけなのだろう?

たとえば、シマウマについて見ると、
これまでどの民族も
家畜化には成功していない。
どうしてシマウマは
家畜にならないのだろうか?

本では、
「少なくともつぎの6つの理由
 認められる」
と書かれているが、
この理由というのがなかなか興味深い。

「野生種を家畜化する」ためには
どんな問題をクリアする必要があるのか?

家畜化にむけてのキーワードを通して
動物やその生態について考えてみたい。

 

まずは、この問題から。

(1) 【餌の問題】

動物は餌として食べる動植物を
100パーセント
消化吸収するわけではない。

動物の血となり肉となるのは、
通常、動物が消費する餌の
10パーセント
である。
つまり
体重1000ポンド(450キロ)の牛を
育てるには
1万ポンド(4.5トン)の
トウモロコシが必要である。

体重1000ポンドの
肉食動物を育てるには、
10万ポンド(45トン)の
トウモロコシで育てた草食動物が
1万ポンド必要になる
(したがって、大型肉食獣は
 家畜化に向いていない
)。

また、
草食動物や雑食動物であっても、
コアラのように
餌の好き嫌いが偏りすぎていて
牧場での飼育に不向きなものも多い。

 このように肉食哺乳類は、
餌の経済効率が悪いので、
食用目的で家畜化されたものは
皆無である。

これは実にわかりやすい。
草食獣の肉1kgを得るためには、
10kgの草が必要
というわけだ。

肉食獣の肉1kgを得るためには、
10kgの草食獣が必要になり、
10kgの草食獣を育てるためには
100kgの草が必要になる。
つまり
肉食獣の肉1Kgを得るためには、
100kgの草が必要
になってしまう。

このことだけでも、大型肉食獣が
家畜化に向いていない理由はよくわかる。

 

(2) 【成長速度の問題】

成長に時間がかかりすぎる動物は、
家畜化し、育てる意味があまりない。
家畜は速く成長しなければ価値がない

草食性で、
比較的何でも食べ、
肉をたくさんとれるのに、
ゴリラやゾウが家畜化されないのは、
まさに
成長に時間がかかりすぎるから
である。

一人前の大きさになるまで
15年も待たなくてはならない動物を
飼育しようと考える牧場主が
いるだろうか。

アジアには
ゾウを力仕事に使っている人びとが
いるが、彼らは成長した
野生のゾウを捕まえてきて
飼いならして使っている、
ということらしい。

 

家畜の種類が少ない6つの理由、
つまり、家畜化するために
クリアしなければならない6つの問題。
今日は2つ

(1) 【餌の問題】
(2) 【成長速度の問題】

までを挙げた。
残りの4つについては次回、
引き続き考えていきたい。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2019年9月29日 (日)

炭素14年代測定法の信頼性

(全体の目次はこちら



炭素14年代測定法の信頼性

- 「科学的分析」の儚(はかな)さ -

 

世界の富や権力は、
なぜ現在あるような形で
分配されてしまったのか?


なぜほかの形で分配されなかったのか?

たとえば、南北アメリカ大陸の先住民、
アフリカ大陸の人びと、そして
オーストラリア大陸のアポリジニが、
ヨーロッパ系やアジア系の人びとを
殺戮したり、征服したり、
絶滅させるようなことが、
なぜ起こらなかったのだろうか。

こんな壮大なテーマに
真正面からかつ
多角的に取り組んでいる

ジャレド・ダイアモンド(著)
倉骨彰(翻訳)
銃・病原菌・鉄
1万3000年にわたる人類史の謎
草思社文庫

(記事中、水色部は本からの引用)

 

前回
考察の対象となる「1万3000年」について
考えてみたが、
今日は、
歴史研究のまさにベースとなる
年代測定法のひとつ
「炭素14年代測定法」についての部分を
紹介したい。

本書で言及している
過去1万5000年にわたる期間は、
これまでの炭素14年代測定法ではなく、
新たに採用された
炭素14年代測定法
による
誤差を修正した数値を使用している。

と本文にも何度も出てくる通り、
従来のよく知られた炭素14年代測定法には
いろいろ問題があったようだ。

それはどんなもので、
どこに問題があったのか?
よく聞く年代測定法でもあるうえ、
そこで得られた数字は
歴史を考えるときの
根拠としてもよく使われるので
改めてその信頼性について学んでみたい。

まずは、測定法の原理から。

【炭素14年代測定法】

考古学では、
食料生産がおこなわれていた年代を
推定するのに炭素14年代測定法を
もちいている。

この測走法は、
あらゆる生命体を構成する
普遍的な原子のひとつである
炭素原子のなかの、
ほんの一部の放射性炭素14が、
生命体が死ぬと
一定の曲線を描いて減少し、
非放射性同位元素の窒素14に
変化することを利用して、
遺物に残存している
放射性炭素14の量を計算することで
年代を求める
というものである。

大気中には、
宇宙線の照射によって発生した
炭素14が常に存在している。

植物は大気中の炭素を取り入れるが、
そこには炭素12と炭素14が
一定の割合でふくまれている
(この割合は、炭素12が100万個に対して
 炭素14が1個である)。

植物の体内に取り込まれた炭素は、
その植物を食べる草食動物の
体内に取り込まれる。

さらに、その草食動物を食べる
肉食動物の体内に取り込まれる。

動植物が死ぬと、体内の炭素14は
5700年の半減期を経て炭素12に変化し、
死後4万年で大気中の濃度と
ほぼ同じレベルにまで減少して
測定不能になるか、
あるいは人工物の中にふくまれる
微量の炭素14との区別がむずかしくなる。

このように、遺跡の出土物は、
それに残っている
炭素14と炭素12の量を測定し、
その割合を算出することで、
年代を求めることができる

上記文章で理解できたであろうか?

簡単に言うと、
植物も動物も生きているときは
大気中と同じ比率で
体内に炭素14を含んでいるが、
死んでしまうと
大気からの炭素14の取り込みが
なくなるため
炭素14の半減期に従って
体内から炭素14が消えていく。

なので炭素14の比率を測れば
死んでから何年経ったのかがわかる、
そういう原理だ。

さて、長く使われていたこの方法の
どこに問題があったのだろうか。

本では2点、指摘されている。

【炭素14年代測定法の問題点1】

そのひとつは、
1980年代まで利用されていた技術が、
比較的多量(数グラム単位)の試料を
必要としていた
ことである。

数グラムという量は、
小さな種子や骨から
取りだせる量ではないので、
科学者たちは、
それらの遺物を直接測定するかわりに、
それらと
「かかわりがありそうなもの」
つまりそれらが出土した場所の
近くで出土し、
同時代のものと推定される遺物を
測定することが多かった。

「かかわりがありそうなもの」
として利用された典型的なものは、
炭化した燃えカス
である。

 しかし遺跡というものは、
そこから出土するすべてが
同時期に封印された
タイムカプセルであるとはかぎらない。

別々の時代に残されたものが、
たとえばミミズ、ネズミ、
その他の動物によってほじくり返されて、
混ざりあってしまうこともある。

したがって、ある時代の燃えカスが、
その時代より1000年も離れた時代に
死んだり食べられたりした動植物の
すぐそばから出土することも
ありうるのだ。

そこで、今日では、
試料に含まれる極微量の同位体
正確に数えて同位体比を測定する
「加速器質量分析法」
という方法を使って、
この問題を回避するようになりつつある。

 

【炭素14年代測定法の問題点2】

炭素14年代測定法の
もうひとつの問題は、
過去の大気中の
炭素14と炭素12の割合が一定でなく

年代とともにゆらいでいるため、
測定誤差が生じるということである。

しかしこの誤差の大きさは、
樹齢の長い木の年齢を数える
年齢年代測定法で求めることができる。

これによって木の年齢の
絶対的な年表(カレンダー)ができると、
その木の炭素の試料から、
ある年代の炭素14と炭素12の割合が
求められるので、
炭素14年代測走法で求められた年代は、
大気中の炭素14の割合のゆらぎを
考慮した正確な年代に
修正できるのである。

誤差無修正で、
ほぼ紀元前6000年から紀元前1000年の
あいだと測定された遺物に対して
誤差を修正してみると、
じつはそれより数世紀から数千年も前に
さかのぼるものだったりすることもある。

もうひとつは、なんと
炭素14の比率が
 年代とともにゆらいでいる

という事実。

年齢年代測定法によって
誤差の修正はできるようであるが
その範囲は限定的であろう。

 

【表記でわかる修正の有無】

最近では、いくぶん古い時代だと
思われる遺物に対しては、
炭素14年代測定法とは別の
放射性年代測定法
もちいられるようになった。

その結果、
これまで紀元前9000年頃のものと
されていた遺物が、
紀元前1万1000年頃のものであったと
結論づけられたことがある。

 考古学者は、

誤差を修正した年代を
「3000BC」というように
大文字で表記し、

修正されていない年代は
「3000bc」と
小文字で表記する


ことで、
両者を区別する傾向にある。

しかし、考古学の文献のなかには、
誤差を修正していない年代を
BCというように大文字で記述しながら、
その旨を明記しないものが多く、
混乱をまねくことがしばしばある。

この本では、過去1万5000年のあいだに
起こった出来事については
誤差を修正した年代をもちいている。

こうしてみると
「対象試料そのものの正確性」
「対象時代の大気の状態(炭素14比率)」
どちらもかなり
頼りない指標だということがわかる。

 

最近、過去の事件に関して、
最新のDNA判定結果が、
過去のDNA判定結果を覆えした例が、
ニュースになっていた。

当時としては「科学的に分析して」
同一人物のものと判断されたものが
最新の分析結果では別人のものであると。

「科学的な分析」は
絶対的な正しさではなく、
実際にはかなり「儚(はかな)い」ものだ。

「当時の知識や技術では
 それが正しかった」
という説明が通ってしまうという意味で。

客観的な証拠や分析は重要なものだが
「科学的な分析」という言葉には
常にそういった危うさが
含まれていることを
忘れてはならないと思う。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

より以前の記事一覧

最近のトラックバック

2020年7月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
無料ブログはココログ