言葉

2019年11月10日 (日)

「病気平癒」ではなく「文運長久」

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「病気平癒」ではなく「文運長久」

- 眉村卓さんご夫妻の物語 -

 

先週の八千草薫さんネタに続いて、
訃報関連で、になってしまうが、

2019年11月3日
こんどは作家の眉村卓さんが
85歳で亡くなった。

今日は眉村さんの本について
少し紹介したい。

そうそう、本の前にひとつ。

「眉村卓」というお名前、
私はなぜかその字面(じづら)を見るだけで
SFチックなものを感じてしまう。

NHK『少年ドラマシリーズ』の
「なぞの転校生」を
リアルタイムで見た世代のせいだろうか。

「小松左京」という名前を見ても
特に感じるようなものは何もないのに。
不思議だ。

閑話休題。

「ねらわれた学園」など
ドラマや映画で何度も映像化された
有名な作品もある眉村さんだが、
近年、眉村さんの名前を一番目にしたのは
この本に関してだったかもしれない。

眉村卓(著)
妻に捧げた1778話
新潮新書
(以下水色部、本からの引用)

眉村さんは、
末期がんを宣告された妻のために、
妻のためだけに、
1日1話ショートショートを
書き続ける決意をする。

SF世界の話でもなければ、
小説の世界の話でもない。
正真正銘、眉村さん自身の実話だ。

あれは、始めてから
3か月位経ったときだろうか。
「しんどかったら、やめてもいいよ」
と妻が言った。
お百度みたいなもんやからな
と私は答えた。中断したら
病状が悪化する気がしたのだ。

お百度を踏む思いで
ショートショートを書き続けた眉村さん。

その創作は、奥さんが亡くなるまで
4年10ヶ月にもおよび、
1778話もの作品群となった。

本書には、
その中の19篇が収められているが、

この本に載せた作品は、
当然ながらそのごく一部で、
選んだ基準にしても、
出来の良し悪しより、
書きつづけている間の
こちらの気持ち・手法の変化と
その傾斜
-ということを優先させた。
そのあたりを読み取って頂きたいのが、
私の願いである。

とあるように、この本の魅力は
ショートショートの作品そのものよりも
「最期」という厳しい現実に直面しながらも
それに真摯に向き合ってきたご夫婦の
ある意味での「発見」と
気持ちの「変化」の物語だ。

創作そのものについても
追い詰められた状況を
冷静に見つめている。

だが、それとは別に、
無意識のうちに陥って行き、
自分でも肯定していたのは、
自己投影の度合いや
妻とのかかわりの反映の色が、
しだいに濃くなってゆく
ことであった。

かつて私は
多作で知られたある老大家から、

「きみ、作った話というものは、
 いずれは種が尽きるものだよ。
 そうなるとだんだん
 自分を投入するしかなくなるんだ


と聞かされたことがある。

あまり才のない私は、
SFなどというものを書きながら
比較的早くから
自分の体験を作品の中に
織り込むようになったが……
それがこんな状況で顕著になってきた
-ということではあるまいか。

 

もともと奥さんの読書傾向自体、
眉村さんとは違っていた。

しかしながら、
妻がSFの良き読者だったかといえば、
どうもそうではなかったらしいと
答えざるを得ない。

そう振り返りながらも、
支え続けてくれた奥さんへの感謝の思いは
ショートショートに昇華されていく。

ある日、自身の葬儀について
奥さんは眉村さんにこう告げる。

「お葬式の名前は、
 作家眉村卓夫人、村上悦子
 にしてほしい」
と。

そのとき私の脳裏には、前年の三月に
二人で松尾寺に詣(まい)ったさい、
祈願の札に、病気平癒と書けと
私が二度も言ったのに、
妻は聞かず、文運長久とだけ
しるしたことが、よぎっていた。

私の協力者であることに、
妻は自負心と誇りを持っていた
のだ。

奥さんの17年後に後を追った眉村さん。
眉村夫妻のご冥福をお祈りいたします。

 

 

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2019年11月 3日 (日)

徐々に、毎年ひとつずつ

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徐々に、毎年ひとつずつ

- 八千草薫さんの言葉 -

 

2019年10月24日、
八千草薫さんが88歳で亡くなった。

語り継がれるテレビドラマ
「岸辺のアルバム」をはじめ
忘れられない出演作品は多々あるが、
訃報を聞いて最初に思い出したのは
この1ページの小さな記事だった。

週刊誌 週刊朝日 2012年4月6日号。
(以下水色部は記事からの引用)

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「明日に架ける愛」という映画
公開直前のインタービューだが、
この時点ですでに81歳。

今回は、中国残留孤児という
重い過去を背負った役柄だが、
八千草さんが演じると、
独特の軽快さやユーモア、
可愛らしさが加わる

まさにそう。

訃報のあと、八千草さんについては、
「柔らかさに秘めた芯」
「ずっと初々しくて花のよう」
といった言葉と共に
追悼文が寄せられたりしているが、
個人的にはこのユーモア、
「オチャメ」なところが
ほんとうに魅力的だったと思う。

それでいて、

「できあがったものを観ても、
『ああ、もうちょっとできたのにな』
っていつも思うんです。

"後悔"なんて言ったら
監督に対して失礼だから、
"反省"ですかね。

いつまでも、
『私はまだまだだわ』って(笑い)」

と向上心を失うことなく
仕事を続けていたことが、
人を惹きつけ続けていたのだろう。

そしてこの、たった1ページの記事が
忘れられなかったのは
最後の言葉が印象的だったから。

「人間って、いっぺんに
 年を取るわけじゃないでしょ?
 徐々に、毎年ひとつずつ。
 それがいいな、と思います

毎年ひとつずつ。

効率や結果ばかりに
焦点があたりがちな昨今、
資質や努力や経験などと一切関係なく
まさに全員、平等に
かつ、ひとつずつ。

どんな力をもってしても
遅くすることも、
はやくすることも、
一度にふたつ重ねることもできない。

毎年ひとつずつ。

「それがいいな」

を心から感じさせてくれる
そんな女優さんだった。

ご冥福をお祈りします。

 

 

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2019年10月 6日 (日)

145失点からの24年

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145失点からの24年

- 「奇跡は起きるから奇跡といいます」 -

 

開催中のラグビー
第9回ワールドカップ(W杯)日本大会、
日本は
昨日(2019年10月5日)のサモア戦にも勝ち、
1次リーグ3連勝となった。

初のベスト8へまさに大きく前進。

1次リーグ3戦の翌朝の朝日新聞の記事、
見出しだけでも並べてみたい。
どれも一面トップの扱い。
左から、
2019年9月21日、29日、10月6日。

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3戦を振り返った時、
優勝候補のアイルランドを破った
先週の勝利はその感激も特に大きかった。

南アフリカに勝った4年前といい、
世界で戦えるレベルになっていることに
うれしいと同時に改めて驚く。

下の記事を当時、リアルタイムで読んだ世代だからだ。

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1995年6月5日朝日新聞の記事。
第3回ワールドカップ(W杯)南アフリカ大会。

日本は、ニュージーランド(NZ)に
大会史上最多失点となる[17 - 145]
記録的大差で惨敗した。
与えたトライは実に21。

それまでのW杯での
最多失点は89点だったので
一挙に56点も残念な方向に
記録を伸ばしてしまったことになる。

1987年のテストマッチでも
NZ戦では[4 - 106]

それを上回る失点となってしまった。

記事にはこうある。

NZは前半開始直後に、
さっそく先制トライを奪うと、
その後も日本の防御を
軽々と突き破って
数分おきにトライを重ね、
カルハインが21本中はずしたのは
1本だけという完ぺきなゴールキック。

日本は後半、梶原が
2トライを奪うのがやっとだった。

 

前半35分、PGを狙ったことに関しても

すでに0-70。
勝負の行方にからむ
3点では決してない。

まるで「花園」で、
初出場の高校チームが
零点負けをまぬがれるために
狙うようなPGのようだった。

次がなく「青春の思い出」が
必要な高校生と違い、
日本代表には次のW杯という
大きな目標がある。

(中略)

ラグビー王国のプレーから、
「パワー、体格の違い」と
簡単に片づけられない違いを
学んでほしい。

この屈辱をいつかはらすためにも

 

あれから24年。
アイルランドに勝った翌日
2019年9月29日の記事では

南アフリカを破った4年前は
「奇跡」と言われた

「(今回は)地力の部分で勝った。
 サプライズじゃない
 なるべくしてなった」
と中村は成長を語る。

組織が結束すれば
強豪に勝てることを再び証明した。
緻密な準備を経て、
日本はまた一つ、世界の階段を上った。

と、中村亮土選手の言葉を紹介している。

南アフリカの時といい、
今回のアイルランドの時といい、
「奇跡」で思い出すのは、
遊川和彦さんのオリジナル脚本で
高視聴率をマークしたドラマ
「家政婦のミタ」のこの名セリフだ。

奇跡とは、
普通に考えれば絶対に起きない出来事が
そうなって欲しいと願う人間の
強い意志で起きる出来事です。

奇跡は起きるから奇跡といいます

自分には絶対無理だと
諦めている人には絶対に起きません。

まさに、そう。
起きるから「奇跡」なのだ。

 

早稲田大学ラグビー部監督として活躍した
大西鐵之祐さんが亡くなったのが
NZに惨敗した年、1995年の9月。

そして67年にもわたって
明治大学ラグビー部監督を務めた
北島忠治さんが亡くなったのが
翌1996年の5月。

今の日本代表の活躍を
おふたりは
どこからか眺めているであろうか?

この24年間の成長は、おふたりには
どんなふうに映っていることだろう。

 

 

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2019年8月11日 (日)

出雲大社

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出雲大社

- ぜんざいは神在(じんざい)? -

 

島根・鳥取方面への旅行、
最終日は、出雲大社にお参りした。

勢溜(せいだまり)の大鳥居から
松の参道と呼ばれる参道を
ゆるやかに上っていく。

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(写真はすべてiPadにて撮影)

ふと前方の鳥居を見ると、
そこから先、参道から人が消えている。
どうして?

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ここまで真ん中を歩いて来た人たちは
この鳥居から先、鳥居の両脇の道に
進路を変えているのだ。

神様の集まる出雲大社のこと、
「真ん中は神様の通る道で
 人はその両脇を歩く」
なる話も聞いたことがあったので、
「もしかしたら、このこと?」
と思いながら近づいていった。

鳥居の下まで来ると、
何か書いてある。
いったい、何が書いてあるのだろう?

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「松の根の保護のため
 参道左右をお進み下さい」

なんだ、松の養生のためか。
なぜかガッカリ。

脇の参道を歩くことになったが、
参道からちょっと右に目を遣ると
山の緑がほんとうに美しい。

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「ムスビの御神像」と呼ばれる像。

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立派な像ではあるが、
なぜか「気恥ずかしい」。

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「御自愛の御神像」

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因幡の白ウサギの話って、
子どものころ絵本で読んだ記憶しかない。

絵本で語られる物語というのは、
多くの子どもに知ってもらえるという
大きなメリットがある反面、
それだけで知った気になってしまう
そういう子どもを大量に生産してしまう
ある種の不幸を背負っている気がする。

「大人になってからちゃんと知ろう」
をサボっている自分の怠惰を棚に上げての
勝手な思い込みではあるが、
小学生のころ読んだ
「こども**全集」に入っていた話を
大人になってから「原作」で読んでみると、
その印象のあまりの落差に
驚くことはよくある。

絵本で知った、ならなおさらだ。

 

「拝殿」まで来た。

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出雲大社独特の
「2礼4拍手1礼」でお参りする。

左奥に本殿、右に拝殿

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境内を右回りに、大きく歩く。

左に八足門、右に観祭楼

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八足門

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右下の足元、赤い丸については
のちほど見学する歴史博物館で
驚きの事実を知ることになる。

 

御本殿西側

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西側から臨む御本殿

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素鵞社(そがのやしろ)
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境内の一番うしろ、
もっとも奥まったところにある。
大国主大神の父神とされる
素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀る社
御本殿を背後から見守るかのような
位置にある。

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真後ろから見る御本殿

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物理的な距離という意味では、
この真後ろが一番近いかもしれない。

東側から臨む、右が御本殿

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左から御本殿、御向社、天前社

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東十九社

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旧暦10月の神在月(かみありづき)の際
全国から訪れる神々の宿舎
西十九社として西側にもある。

御本殿を一周、拝殿に戻ってきた。

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お参りした後は、名物のコレを。

出雲割子そば

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蕎麦の実を皮つきのまま製粉するため
色は黒っぽくいが、香りもよく、
お参りで歩いて
ちょっとすいたお腹にピッタリ。

食事のあとはデザート代わりに
別なお店で「ぜんざい」を。

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このぜんざい、「縁結び」にからめて
なんと結んだ「蕎麦」が入っている。

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そもそも
「ぜんざい」の発祥はこの地だとか。

出雲では神在祭の時に
神在餅(じんざいもち)をふるまっていた。
「祇園物語」には
「赤豆を煮て汁を多くし、
 少し餅を入れ」とある。

この「じんざい」が
出雲弁でなまって「ぜんざい」となり、
京都に伝わったとのこと。

元は、神在(じんざい)か。

旅行最後に立ち寄った
島根県立古代出雲歴史博物館
の話は次回に。

 

 

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2019年6月23日 (日)

鳥取県の民藝めぐり(2)

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鳥取県の民藝めぐり(2)

- 陶芸家・山本教行さんの言葉 -

 

前回、山陰の民芸における
吉田璋也の貢献について書いたが、
彼の影響を受けた人の作品も含めて
鳥取県内でもう二箇所、
民芸関連の場所を訪問したので
今日はそこを紹介したい。

 

【岩井窯】
鳥取市内から車で30分ほど離れた
緑豊かな山の中にある。

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(写真はすべてiPadで撮影)

作品展示室のほか、
岩井窯の器や土鍋で
お茶や食事ができる喫茶室、
創作資料のために自ら蒐集した
国内外の手工芸品を展示する
参考館も併設されている。

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作品展示室のものは
購入もできる。

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気に入ったものがあったので
「サイズ」や「枚数」等、
在庫についていくつか聞いてみたが、
残念ながら連休の前半で
ずいぶん売れてしまったようだ。

象嵌(ぞうがん)技法の結び模様や、
人気の高い掻き落としの牡丹柄等、
特徴のある作品が並ぶ。

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この窯の当主、山本教行さんと
吉田璋也との出会いについては
この本から一部引用したい。

 私の好きな民藝
 鞍田崇 他著
 NHK出版

(以下水色部は本からの引用)

クラフト館岩井窯と名づけられた
この工房の当主、山本教行さんも、
吉田璋也の薫陶を受けた一人。

16歳のときに璋也に出会い、
よく自宅に遊びに行ったり、
美術館の展示替えを
手伝ったりしたそうです。

「そこでもの作りに対する以上に、
 吉田先生の
 生活スタイルに憧れました

と山本さん。

璋也自身のデザインによる
家具や器に囲まれた
美しい暮らしに感動、

陶芸家になりたいというより前に、
 こういう暮らしがしたいと
 強く思わされました
」。

そのときの思いの延長線上にあるのが、
こちらの工房です。

 

工房が紹介された多くの本や雑誌、
作品展のちらし等も並んでいたが、
窯紹介のパンフレットを見ていたら
山本教行さんが、
こんな素敵な言葉を載せていた。

日常生活の中であたりまえすぎて
それほど気にならないのに
それでいて
常に大切に思えるものがある。
そういう物が焼けないかと思う。

私が作ったというより
生まれてきたと思えるものが
焼けないか
と念じてやまない。

「生まれてきたと思えるもの」か。

そんな精神が反映されたような
素敵な皿に出会えたので
2枚購入。

お手洗いの
「手洗い器」にも作品を使っている
気の遣いよう。おしゃれだ。

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外には大量の薪が積んである。
その前で眠っている犬も
じつに気持ちよさそうで
なんとも穏やかな空気感がいい。

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【倉吉】
鳥取市内から車で約1時間。
国の重要伝統的建造物群保存地区
に選定された
玉川周辺の白壁土蔵群が有名な倉吉。

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多くの観光客が訪れている。

江戸後期から昭和初期の建物が多い街並みも

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歩いていて楽しいが、
地図好きの私は、
街のど真ん中でこんなものを見つけて
ちょっと興奮してしまった。

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一等水準点。
一等水準点自体が珍しいわけではないが
街中でここまで大きく明示してあるものは
見た記憶がない。水準点は
国土地理院の地図には明記してあるので
場所はすぐにわかるのだが、行ってみると
忘れ去られたような標石が
寂しくしていることが多い。
ここの標石は幸せ者(?)だ。

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さて、この街並みの中にある
【COCOROSTORE】
民芸品を集めた素敵な店だ。

福光(ふくみつ)焼
国造(こくぞう)焼
上神(かづわ)焼といった
地元・倉吉の陶器のほか、
大塚刃物鍛冶(かじ)の包丁など
鳥取の手仕事を揃えている。

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古い建物をリノベーション

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目立つ看板は出ていないが
立ち寄る人は絶えない。

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自然栽培のごまや、
無農薬大豆で作るみそなど、
地元産の食材も扱っている。

ここでは、無地茶色の
国造(こくぞう)焼の皿を1枚購入した。

今回、時間的に町の散策は
ほとんどできなかったのだが、
ちょっと時間をとってぶらぶらしてみたい
そう思わせる小さな、素敵な町だった。

 

 

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2019年5月19日 (日)

サイデンステッカーさんに関するふたつの記事

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サイデンステッカーさんに関するふたつの記事

- 異文化への興味と理解 -

 

以前、川端康成の小説「雪国」の
英語への翻訳について
ここに書いたが、
そこに登場した
サイデンステッカーさんについて
雑誌「文藝春秋」から
ふたつの記事を紹介したい。

ひとつ目は、
昭和25年、東大の
麻生磯次教授『おくのほそ道』の講義で
彼に出会って以来
50年以上に渡って交流を続けていた
作家の髙橋治さんが寄せたもの。

高橋さんは、
エドワード・ジョージ・
サイデンステッカーの名前から
彼を「エド」と呼んでいた。

昭和20年代、出会ったころのこと。
(2007年11月号 雑誌「文藝春秋」
 「エドと吉原」
 以降、水色部記事からの引用)

私がシナリオ集をテキストにして
エドから英語を習い、
エドが私から落語を教材にして
江戸時代以降の口語を
勉強し始めたからである。

エドは落語を教材にして
日本語を学んでいった。

落語を通じて「日本語」だけでなく
「吉原」を知ったエド。
「人間への興味」はどんどん広がっていく。

なん時頃に吉原名物の馬肉の鍋、
いわゆる蹴飛ばし屋に行って
お銚子を四、五本並べれば、
町は盛りにさしかかって、
女性たちの気分も盛り上がっているか。

(中略)

 だから、エドにとって
吉原が盛りになる時間は、
やり手婆が多弁になる時間であり、
女どもが陽気さを
隠さなくなる時間だったのだ。

エドはそんな時間の吉原が
来るまで待っていて、
人間と人間の触れ合いを求める。

落語に、吉原に、日本文化に
積極的に飛び込んでいったエドは
2007年8月、
永住を決意して移り住んだ東京の地で、
86歳の生涯を終えている。

没後、
コロンビア大学教授のハルオ・シラネさんが
「サイデンステッカーと
 『源氏物語』の自然観」

なる題で、同じ「文藝春秋」に
記事を寄せている。
(2008年5月号 雑誌「文藝春秋」
 以降、緑色部記事からの引用)
これが今日、ふたつ目の記事。

 サイデンステッカーといえば
『源氏物語』の優れた英訳で
その名を知らない人はいない。

一歳のとき日本人の両親と
アメリカに移住した私は、
コロンビア大学の大学院生として
氏に師事して以来、
親交を深めてきた。

現在はその後任として教鞭をとっているが、
源氏の世界をあれほど深く理解し、
英語の世界に蘇らせた
サイヂンステッカーの翻訳には
感動を覚えざるを得ない。

氏の翻訳は、
日米間の文化的および言語的な相違への、
興味深い洞察に満ちている

サイデンステッカーさんは、
『源氏物語』における
自然や季節の果たす役割に
深く心を配りながら翻訳を進めたようだ。

光源氏に愛される
薄幸の女性「夕顔」の名を訳す際には、
white-flowered gourdまたは
moonflowerという
植物学的翻訳をあてはめず、
Evening Facesと
字義を活かした名前を付けた。

夕顔が夕方(evening)に
息絶えることとの
関連性を示唆したのである。

他にも、
神道の儀式に使われる榊を
sacred tree(神聖な木)と
訳すことによって、
漢字が示す宗教的含意を伝えることに
成功した例もある。

(中略)

たとえば、
日本語では春に「霞」とよばれる現象が、
秋には「霧」とよばれる。

だが、英語にはmist, haze, fogといった、
特定の季節とは無関係の単語しかない。

また日本語には、雨を表すのに、
春雨、五月雨、時雨など、
季節によって複数の言葉があり、
それぞれが静寂、憂鬱、無常など、
特定の文化的含意を持つ
のに対して、
英語にはrainやshowerなど、
季節的、文化的な
意味のない言葉しかないのである。

『源氏物語』における時間は、
早朝、夕暮れ、黄昏に
焦点が置かれるところに特徴があり、
そして、
季節の焦点も、
春の訪れ、春の終わり、
夏の訪れなど
過渡的な時節に置かれる傾向がある。

天象と深く関わるなかで
言葉が意味を持つ。

そのうえ

季節の移り変わりへの興味は、
日本人の生と死のサイクルへの注視と
密接な関係があるだろう。

という面もある。

そういった背景を理解したうえで
英語に訳せるなんて。

ここに書いたことの
繰り返しになってしまうが、
Wikipediaにこんな記述まであることも
ふたつの記事を読むと妙に納得できる。

『雪国』の英訳では、川端康成の
ノーベル文学賞受賞に貢献した。

実際、川端康成自身、
ノーベル賞の半分は、
 サイデンステッカー教授のものだ」
と言い、賞金も半分渡している

 

 

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2019年4月28日 (日)

元号とエ列音

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元号とエ列音

- エ列音は格が低い? -

 

「平成」もいよいよあと2日。

ここ数か月の
マスコミをはじめとした
「平成最後の」の連発からも
ようやく開放されることになる。

なにせNHKは、4月19日
「平成最後の満月です」とまで言っていた。
もう救いようがない。

このままでは4月30日には
紅白歌合戦をやってしまうかもしれない。


さて、この4月1日に
次の元号「令和」の発表を聞いたとき、
最初に思い出したのは

丸谷才一さんが、
「元号そして改元」と題して
2004年5月4日の朝日新聞
に寄せていた文章
だ。

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丸谷さんは残念ながら
2012年に亡くなってしまったので
もちろん「令和」のことは
何もご存知ないわけだが、
「れいわ」という音を聞いて、
きっとどこかで苦笑いしていることだろう。

丸谷さんらしく
言いたい放題書いている文章だが、
すこし紹介したい。
(以下水色部、記事からの引用)

まず、丸谷さん、
「平成」という元号が
ずいぶん気に入らなかったようだ。

 しかしこの数十年間で
最悪の名づけは平成という年号だった。

不景気、大地震、戦争と
ろくなことがないのはこのせいかも、
と思いたくなる。

とまで書いている。
その理由を「音」から説明している。

日本語ではエ列音は格が低い

八世紀をさかのぼる
原始日本語の母音体系は、
a, i, u, öという
四つの母音から
成っていたと推定される
(大野普『日本語の形成』)。

このため後来のエ列音には、
概して、侮蔑(ぶべつ)的な、
悪意のこもった、
マイナス方向の言葉
はいることになった。

いくつか例を並べている。

アハハと笑うのは朗らかである。
イヒヒとは普通は笑わない。
ウフフは明るいし、
オホホは色っぽい。

しかしエヘヘは追従笑いだ。

エセとかケチとかセコイとか、
例はいくらでも。

なかんずくひどいのがで、
例のガスを筆頭に、
押されてくぼむのはヘコム
疲れるのはヘコタレル
言いなりになるのはヘーコラ
上手の反対はヘタ
御機嫌(ごきげん)とりはヘツラウ
力がないのはヘナヘナ
厭らしい動物はヘビ
と切りがない。

ヘビが厭(いや)らしい動物とは
いったいどういう意味か?
の疑問はさておき、
そして、いよいよ「平成」だ。

ヘイセイ(実際の発音はへエセエ)は
このエ列音が四つ並ぶ

明るく開く趣ではなく、
狭苦しくて気が晴れない。

で、「平成」の次は
「令和(れいわ)」だ。「れ(re)」、
またまたエ列(エ段)になってしまった。

存命であれば
どんなコメントをしたことだろう。

それにしても、
「エ列音は格が低い」なんて
初めて聞いた。
まじめに聞いていいのだろうか?
だからこそ、
心のどこかに引っかかっていて
「れいわ」を聞いた瞬間、
15年も前の記事なのに
ふと蘇ってきてしまったわけだが。

で、最後にひとつオマケ。

 本当のことを言えば、
これを機会に年号を廃止し、
西暦でゆくのが一番いい。

尺貫法からメートル法に
移ったと同じように、
普遍的な制度にするのだ。

たとえば
岩波書店、講談社、新潮社などの
本の奥付はみな西暦で書いてあって、
まことに機能的である。     

ほぉ、と思って
手元の本で確かめてみると、
ちょっとおもしろいことに気がついた。

挙げられたどの出版社も
単行本の奥付は確かに西暦なのだが、
文庫本については
ちょっと事情が違っていた。

岩波と講談社は西暦、
新潮社は和暦。

新潮社が単行本の奥付には西暦、
文庫本の奥付には和暦と
使い分けているのには
なにかわけがあるのだろうか?

どうでもいいことなのに
またまた心のどこかに
小さく引っかかってしまった。

 

 

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2019年4月21日 (日)

言霊思想と大山古墳

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言霊思想と大山古墳

- 文字で記録することの意味 -

 

先日、同僚と話をしている際、
我々中年世代が学生時代、
「仁徳天皇陵」として覚えたその名前が
今や教科書から消えている、
ということが話題になった。

今は、
「大山/大仙(だいせん)古墳」
と呼ばれているようだ。
大阪府堺市堺区大仙町という
地名からの呼称のようだが、
それは、被葬者が不明であることの
証でもある。

そう言えば、昨年(2018年)
宮内庁が地元自治体と
初の共同調査を始めることが
ニュースになっていた。
ついに発掘が許されるのであろうか。

「あんなに巨大な墓なのに、
 誰の墓かわからないなんてね」
の言葉を聞いて、以前読んだ
この本のことを思い出した。

加藤徹 (著)
漢文の素養
誰が日本文化をつくったのか?
光文社新書

(以下、水色部本からの引用)

 

この本、
新書ながら内容の濃い本で、
「なぜ被葬者がわからないのか」
に関する話は、導入部の
エピソードのひとつに過ぎないのだが
今日は、その部分にのみ
焦点をあてて話を進めたい。

 

「被葬者がわからない」ということは
「被葬者の名前がどこにも書かれていない」
または
「名前が書かれたものが見つからない」
という意味だ。

それには「言霊(ことだま)思想」が
深く関係しているのではないか、
というのが加藤さんの見解だ。

 そもそも、和語では、
「言(こと)」と「事(こと)」を
区別せず、ともにコトと言った。

すべての言葉には霊力があり、
ある言葉を口にすると、
実際にそういう事件が起きる、と
古代人は信じた。

例えば
「死ぬ」という言葉を口にすると
本当に「死」という事実が起きるし、
自分の本名を他人に知られると
霊的に支配されてしまう、
と恐れられていた。

こういった言葉の霊力を信じる気持ちが
言霊思想だ。

 そんな言霊思想をもつ
古代ヤマト民族にとって、
異国から伝来した文字は、
まるで、言霊を封じ込める
魔法のように見えたにちがいない。

幕末に
西洋から写真技術が入ってきたときも、
「写真に撮られると魂を抜かれる」
という迷信を信じた日本人は、
多かった。

何千里も遠く離れた人や、
数百年も前に死んだ人のメッセージも
正確に伝える文字
というものに対して、
古代ヤマト民族が
警戒心を懐(いだ)いたとしても、
不思議はない。

文字に対する警戒心は、
ほかの民族にもあったようだ。

 文字記録に対する抑制、
という現象は、どの民族にもあった。

 例えば、古代インドでも、
崇高(すうこう)な教えは
文字として記録してはいけない、という
社会的習慣があった。

釈迦の教えも、
弟子たちはこれを文字に記録せず、
口から口へと伝えた。

釈迦の教えを文字にした
成文経典ができあがるのは、
釈迦の入滅後、
数百年もたってからのことである。

現存する仏教の経典の多くが、
梵語(ぼんご)で
「エーヴァム・マヤー・シュルタム」
(このように私は聞いた。
 漢訳仏典では
 「如是我聞(にょぜがもん)」
という言葉で始まるのは、
こういうわけである。

「如是我聞」つまり
「このように私は聞いた」と
始まっているわけだ。

 西洋でも、
崇高なものは文字に写してはいけない、
という発想があった。

例えば、『旧約聖書』の神の名前も、
その正確な発音を
文字に写すことを禁じられたため、

YHWHという「聖四文字」
(ラテン語でテトラグラマトン)の
子音しか伝わらず、
どう母音をつけて読むか、
不明になってしまった。

13世紀以降、キリスト教では
「エホバ」と読む習慣ができたが、
現在ではヤハウェと読む学説が
有力である。

加藤さんは、
中島敦の短編小説『文字禍』を引用し、
古代ヤマト民族も、
「文字の精霊にこき使われる
 下僕(しもべ)」になる危険性

本能的に嗅ぎとり、
漢字文化の摂取を
躊躇したのかもしれない、
と言っている。

この思想は墓誌銘の扱いにも
影響を与えていたはずだ。

古代ヤマト民族は、墓誌銘を嫌った。
弥生時代の甕棺から
漢字を鋳込んだ鏡は出土しても、
被葬者の名前を漢字で書いた甕棺は
出てこない。

3世紀半ばから
古墳が造営されるようになったが、
古墳の墓室内に被葬者の名前や事跡を
文字で書き記すことはなかった

 

文字そのものが全く入ってきていなかった、
というわけではない。

 5世紀の日本
(当時はまだ「倭国」と呼ばれていた)
には、すでに
高度な漢文を書く能力をもつ書記官が
存在していた。

例えば、いわゆる「倭の五王」が
中国の南朝に派遣した使者は、
中国の皇帝に、堂々たる純正漢文の
上奏文を渡している


5世紀当時の倭国の大王は、
その気になれば、
古墳の被葬者の名前を、
墓誌銘なり石碑なりで
明示することは簡単だった
はずだ。

古代の天皇陵の大半は
過去に盗掘に遭い、
副葬品がもち出されたが、
墓誌銘が見つかったという記録は
残っていない。

 日本では、
たった1500年前の古墳でさえ、
その被葬者を確定できない

 

日本の古墳よりもさらに2000年以上も古い
エジプトのピラミッドはどうだろう。

対照的に、エジプトでは、
4000年前の陵でも、
ちゃんと被葬者の名前がわかる


墓のなかにびっしりと、
ヒエログリフ(エジプトの象形文字)で
文字が書いてあるからである。

 

もちろんその影響は、
墓誌銘に留まらない。
加藤さんはこうまで言い切っている。

 3世紀の邪馬台国の所在が
今日も不明なのも、
その場所が示されていないからだ。

すでにその候補地となる遺跡は
いくつも発見されているのだが、
「ここが邪馬台国です」とか
「ここが卑弥呼の墓です」と
文字で書いた遺物なり碑文が
出土する可能性は、
今後も期待できない

 

漢字が日本に入ってきて、受容され、
そして一般的に使われるようになるまで
時間がかかっているのには、
背景にこういった言霊思想が
あったこともひとつの理由なのだろう。

 もし、単に漢字の字形を
まねることをもって漢字の受容と
見なすのであれば、日本人は、
弥生時代から文字時代に入った、
と言うことができる。

ただ、日本人自身が、
自分たちの事跡を
漢字で記録することはなかった。

その意味で、真の漢字文化は、
4世紀ごろまでの日本には
存在しなかった。

文字がまだ威信材だったころ
「事跡(ことと)を文字で記録する」
ことの意味は、
今とは全く違っていた。

言霊や文字の力を
改めて想像してみるのはおもしろい。

 

 

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2019年3月31日 (日)

仕事のほうがリクエストしてくる

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仕事のほうがリクエストしてくる

- 与えられた条件のもとで -

 

今日は3月31日。明日から、新学年、
新社会人という方も多いことだろう。

新しい環境での活躍を考えたとき、
いつも思い出すエピソードがあるので、
今日はそれを紹介したい。

参照する本はコレ。

内田樹(著)
街場のメディア論
光文社新書

(以下水色部、本からの引用)

 

内田さんはこんな
「入れ歯」の話から始めている。

これは歯科医の人に
聞いた話ですけれど、
世の中には
「入れ歯が合う人」と
「合わない人」がいる。

合う人は作った入れ歯が一発で合う。

合わない人は
いくら作り直しても合わない。
別に口蓋(こうがい)の形状に
違いがあるからではないんです。

マインドセットの問題なんです。

入れ歯が合う・合わないが
「マインドセットの問題」とは
いったいどういうことだろう。

 

自分のもともとの歯が
あったときの感覚が「自然」で、
それと違うのは全部「不自然」だから
厭だと思っている人と、

歯が抜けちゃった以上、
歯があったときのことは忘れて、
とりあえずご飯を食べられれば、
多少の違和感は許容範囲内、
という人の違いです。

自分の口に合うように
入れ歯を作り替えようとする人間は
たぶん永遠に
「ジャストフィットする入れ歯」に
会うことができないで、
歯科医を転々とする。

それに対して、
「与えられた入れ歯」を
とりあえずの与件として受け容れ、
与えられた条件のもとで
最高のパフォーマンスを発揮するように

自分の口腔中の筋肉や
関節の使い方を工夫する人は、
そこそこの入れ歯を入れてもらったら、
「ああ、これでいいです。
 あとは自分でなんとかしますから」
ということになる。

そして、ほんとうにそれで
なんとかなっちゃうんです。

示唆に富む話だが、
内田さんは、このことは
結婚でも、就職でも、
どんな場合でも同じだと言う。

 このマインドセットは
結婚でも、就職でも、どんな場合でも
同じだと僕は思います。

最高のパートナーを求めて
終わりなき「愛の狩人」になる人と、

天職を求めて
「自分探しの旅人」になる人と、

装着感ゼロの理想の入れ歯を求めて
歯科医をさまよう人は、
実は同類なんです。

能力を発揮するための
「100点の条件を探す」に走ったら
能力を開発するチャンス自体を
自ら失っていることになるのだ。

与えられた条件のもとで
最高のパフォーマンスを
発揮するように、
自分自身の潜在能力を
選択的に開花させる
こと。

それがキャリア教育のめざす目標だと
僕は考えています。

この「選択的」というところが
味噌なんです。

「あなたの中に眠っている
 これこれの能力を掘り起こして、
 開発してください」

というふうに仕事のほうが
リクエストしてくる
んです。

自分のほうから
「私にはこれこれができます」
とアピールするんじゃない。

今しなければならない仕事に合わせて、
自分の能力を選択的に開発するんです。

「仕事のほうがリクエストしてくる」とは
まさに傾聴に値する指摘だ。

与えられた環境、条件からのリクエストに
自分がどう応えながら前に進んでいくのか。
条件と自分自身との共同作業。

「仕事のほうがリクエストしてくる」ことを
聞き逃さない感性と対応力、
そこにこそ、
自分でも意識したことがなかったような
能力開花のチャンスが潜んでいる。

 

 

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2019年3月24日 (日)

卒業式式辞 鷲田清一さんの言葉

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卒業式式辞 鷲田清一さんの言葉

- 時代がみずからを表現するときの<器>として -

 

3月も終盤、
今年も全国各地の卒業式では、
さまざまな言葉が送られたことだろう。

ちょうど一年前になるが、
美術系と音楽系の卒業生、修了生を
送り出している
京都市立芸術大学の卒業式時
学長の鷲田清一さんが
卒業生に送った言葉は
興味深い指摘に富んでいる。

大学のホームページの
平成29年度卒業式式辞
に全文が公開されているが、
今年の卒業式以降、
万が一消えてしまうと
あまりにももったいないので
公開されている間に、
印象的な部分だけでも
紹介させていただきたい。
(以降水色部、式辞からの引用)

 

鷲田さんは
美術系の卒業制作、
音楽系の演奏への賛辞のあと
こう繋いでいる。

 ただ,その才能は,あなたがた
一人ひとりのものではありません。

才能(talent)という語には
よくgifted
(「恵まれた」とか「天賦の」)という
形容がなされるように,
それはあなたがたに
贈られたものでもある
のです。

「原石」は,それを磨いてくれる人,
磨かせてくれる環境,
さらにはそれを磨くことに
専念させてくれる人びとの支えが
あってはじめて輝きを得ます。
そういう意味で,
贈られたものなのです。

そして、「贈られた」ということには
もう一つ,別の意味も 含まれていると言う。

贈られたものは
贈り返されねばならない
という,
言ってみれば
「義務」ないしは「責任」のことです。

「義務」や「責任」というと,
日本語では
とても堅苦しい感じがしますが,
「義務」は英語ではobligation。
興味深いことにこの語には
「恩義」や「感謝」という意味も
あります。

(中略)

そして次に「責任」。
日本語では責めを負うといった
厳しい意味でありますが,
英語ではこれはresponsibilityです。

この語を分解すると
respondとability。

つまり誰かの訴えや促しに
応じることができる,

あるいは応える用意がある
ということです。

もういちど言いますが,
才能を贈られた人には,
この贈り返すということが
「義務」ないしは「責任」としてある

ということです。

 

そして、「私」とは
決して独立しているものではなく、
時代や歴史と深く繋がりながら
存在していることを
改めて指摘している。

じぶんの個人的な傷や不安も,
表現行為も,
このようにことごとく
時代のなかにあるということを,
しかと見つめてほしいのです。

 「わたし」というのは,
銘々がそう思っているほど
確固としたものではありません。

「わたし」の表現とは,じつは
「わたし」の存在が負っているもの
すべての表現でもあります。

その意味で
いかにプライベートに見える表現も,
同時に「時代」の表現
なのです。

 そう考えると,
制作する「わたし」,
演奏する「わたし」とは,
じつは時代が
みずからを表現するときの
<器>
のようなものだ
ということになります。

そういう<器>として
「わたし」に何ができるのか

みなさんにはそういう視点を,
いつも持っていてほしいと思います。

 

<器>に繋がる話として、
鷲田さんは、
歴史社会学者の山内明美さんの
エピソードを続けている。
山内さんは
『こども東北学』という本のなかに
こう書いているという。

放射能汚染の不安が
日本社会を覆いはじめたとき,
わたしがいちばんはじめに
感じた違和感
は,
いま起きている土と海の汚染が,
自分のからだの一部で
起こっている
ということを
誰も語らないことだった。

遠くの災いみたいに話をしている。

なぜなら、山内さんは、
震災をきっかけに東北の歴史を
あらためて辿り、
「衝撃をもって」
以下のことに気づいていたから。

かつて冷害や干ばつで
たえず飢饉の不安に苛まれてきた
この地方にあって,
土に雨水がしみ込むことを
じぶんの体が
「福々しく」膨らむことと感じる,

そうした土や海と人とのつながりを,
魚や野菜や穀物と人とのつらなりを,
この地の人びとがもっていた

ということです。

そういう人たちであれば,
土や海の汚染も「遠くの災い」ではなく,
わが身の痛みとして感じたはずだ
というのです。

かつてはあった、雨を、
じぶんの体が「福々しく」
膨らむことと感じる
「感受性」。

それもまた重要な<器>だ。

 ここから,
<器>という考え方の持つ,
さらにもう一つの重要な意味が
浮かび上がってきます。

<器>はつねに
何かによって充たされるのを
待っているということです。

芸術についていえば,
先ほども少しふれましたが,
絵画であれ,彫刻であれ,
デザインであれ,演奏であれ,
つねに「表現」ということが
問題にされます。

「表現」とはexpression,
この語を分解すれば,
内にある何かを「外へ」と
「押し出す」ということです。

「表現」行為に
取り組んできたみなさんは,
だから何を「表現」というかたちで
外へ押し出すかを
ずっと考えてこられた
ことと思います。

けれども<器>という考え方は,
これとは違います。
<器>は何か別のものに
充たされるのを待つからこそ,
<器>なのです

先の山内さんは

土に雨水がしみ込むことを
じぶんの体が
「福々しく」膨らむことと
感じられるような感受性を
なんとか回復したい
と言っていました。

鷲田さんは強調する。

芸術的な資質とは,
まさにそうしたものでは
ないでしょうか。

詩人がしばしば,
言葉を探すのではなく,
言葉が降りてくるのを待つ
という言い方をするのも,
きっと同じことを
さしているのだと思います。

「外へ押し出す」expressionこそが、
まさに芸術であり、表現だ、
と考えて、悩んできた学生は多いであろう。

その学生への最後のメッセージに、
「充たされるのを待つ<器>」を
説く学長。

問題提起の価値は大きいと思う。

でも,みなさんにはどうか,
芸術を人生の軸として生きるとは,
独創的な表現の
<主体>になることではなくて,
社会の<器>になることだ
ということを
心に留めておいてほしいと思い,
あえて長々しい話をしました。

繰り返しになるが、
鷲田さんの式辞全文は
大学のホームページの
平成29年度卒業式式辞
に公開されている。

詳しく読んでみたい方は、
全文を参照下さい。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

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