言葉

2023年11月26日 (日)

全体をぼんやりと見る

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全体をぼんやりと見る

- 集中すると体を痛める -

 

参加者が実際に体を動かしてみる講習会を
各地で数多く開催している
身体技法研究者の甲野陽紀さんが書いた

甲野 陽紀 (著)
身体は「わたし」を映す間鏡である
和器出版

(以下水色部、本からの引用)

は、
「言葉」と「体の動き」の関係について
いろいろ気づかせてくれる、
ちょっとユニークな視点の本だ。
陽紀(はるのり)さんのお父様は
古武術研究家として知られる
甲野善紀さん。
おふたりとも「体の動き」の
スペシャリストだ。


たとえば、
ここに立っていて下さい
と言われた場合と
ここにいて下さい
と言われた場合、
同じ「立」っていても
体の安定感はずいぶん違うらしい。

「いて下さい」のほうが
安定している。
そんなこと考えたこともなかった。

ある動作をめざして体を動かすとき
それは、運動でも、楽器の演奏でも
なんでも同じだが、
「ほんとうにうまく動けた時」の感覚を

うまく動けたときに限って、
"できた感じ" "やった感じ" が
しない

などと言われると、
自分の実体験に思い当たることもあり
「そうそう、どうして?」
と思わず先を読んでしまう。

そんな中、特に印象的だったのは
理容・美容師さんから聞いたという
次の話だ。

高い技術を持つ人でも
「目を使いすぎる」
やり方をしている方は首や肩、
腰などに負担をかけやすく、
身体を痛めているケースが多い

らしい。

たとえば、ハサミを使うとき、
髪を切っているハサミの動きを
追い続けるようなやり方をしていると、
身体が固まる感じが出てきます

これは
「目を使いすぎている」状態です。

「見る」がかえって体の動きを
固くしている。

では、どうすればいいのか?

話を聞くと、
逆に身体を壊さない人は
ハサミを使っている手元を見ない、
目をやったとしても
パッと見るぐらいで、
ヘアスタイルという全体に
「目線を向けている」

ということなどもわかり、
「目の使い方」について、
私も勉強になった経験でした。

「見る」ではなく、
「目線を向ける」にすると
体が安定して力が抜け
動きのパフォーマンスは
かえって上がる。

そう言えば、以前
舞台の役者さんからも
同じような話を聞いた記憶がある。

一点に集中するのではなく
「全体をぼんやりと見る」

柔軟に体を動かすためにも、
また、緊急時に素早く反応するためにも
そして、体に負担をかけないためにも
ほんとうに重要なキーワードなのだろう。

「いいパフォーマンスのために集中!」
は、疑ってもいいのかもしれない。

 

<おまけ>
本には講習会での体験メニューが
いくつか紹介されているが、
実際にやってみて
特に驚いたメニューがあるので
それだけ紹介したい。

<「ついていく」と「くっつく」>
Aさんは手のひらを上にして手を伸ばす。
Bさんは自分の手のひらを下にして
Aさんの手のひらに重ねる。

その後、Aさんは、
Bさんの手が重なった手のひらを
前後左右、かってに動かすのだが、

その時、Bさんに対して
(1)「Aさんの手についていって下さい」
というか
(2)「Aさんの手にくっついて下さい」
というかで、
Bさんの手の追随性が全く違ってくる。

「ついていく」では
追えずに手が離れるときも
しばしばあるのに、
「くっつく」では不思議なほど
くっついた状態を維持できる。

協力者の得られる方
ぜひお試しあれ。

 

 

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2023年11月19日 (日)

読書を支える5つの健常性

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読書を支える5つの健常性

- 「本好き」たちの無知な傲慢さ -

 

みずからも重度障害者である
市川沙央さんが書いた
重度障害者(井沢釈華)を主人公にした
小説「ハンチバック」は2023年
第169回芥川賞を受賞している。

市川 沙央 (著)
ハンチバック
文藝春秋

(以下水色部、本からの引用)

この小説から引用するなら
やはり本文27ページにある
この衝撃的な一節だろう。

私は紙の本を憎んでいた。

目が見えること、
本が持てること、
ページがめくれること、
読書姿勢が保てること、
書店へ自由に買いに行けること、
5つの健常性を満たすことを
要求する読書文化のマチズモを
憎んでいた。

その特権性に気づかない
「本好き」たちの無知な傲慢さ

憎んでいた。

まさに、その特権性に
まったく気づいていなかった
「本好き」のひとりである私は
ほんとうにドキリとさせられた。

ちなみに、マチズモとは、
デジタル大辞泉(小学館)によると

マチスモ【machismo】
《「マチズモ」とも。
ラテンアメリカで賛美される
「男らしい男」を意味する
スペイン語のmachoから》
男っぽさ。誇示された力。
男性優位主義。

を意味する言葉らしい。

このあたりの言葉の選び方と
出版後の反響について、
著者の市川さんが、
障害者文化論の学者である荒井裕樹さんと
往復書簡でやりとりしているようすが
雑誌「文學界」に載っている。

市川沙央⇔荒井裕樹 往復書簡
「世界にとっての異物になってやりたい」
雑誌 文學界 2023年8月号
文藝春秋

(以下緑色部、本からの引用)

まずは、市川さんの言葉。

ところで、健常者優位主義のルビは
本来ならエイブリズム
とするべきところを、
わざとマチズモとした私の底意は
想定以上の効果を発揮しながら
読者の皆様に
刺さりにいっているみたいで、
実のところ私は今うろたえています。
(「言葉が強い」
 とのご感想に触れるたび、
 そこまで刺すつもりはなかった、
 良心ある人々の心を
 脅かすつもりはなかったと、
 ひたすら申し訳ない気持ちに
 なっています。) 

うろたえつつも、
至らぬばかりの拙作において
唯一会心の出来と言える箇所
やはりそこなのだろうと思います。

エイブリズムではなく
マチズモというルビを振った時点で
私は小説家になったのかもしれません。

それに対して、
「本好き」のひとりであろう荒井さんも、
私が感じた「ドキリ」を
うまく言葉にしてくれている。

それにしても、<健常者優位主義>に
<マチズモ>とルビを振られたのには
驚きました。

紙の本に慣れ親しんでいること。
紙の本に愛着があること。

そんな素朴な感覚に
この言葉を投げつけられ、
私自身胸がしくしくと痛みました

自分は誰のことも傷つけていない。
問題なくスマートに振る舞えている。
そう信じて疑っていない感覚を
鋭く刺されたような思いです


<エイブリズム>より
<マチズモ>の方が
ダメージが大きいのは、
「良心的市民」を装う
私を含めた少なくない人が、
普段この言葉で他人のことを
責めることには慣れていても
(この言葉で誰かを責めることで
「良心的市民である自分」を
演じることには慣れていでも)、

自分自身が責められるなど
夢にも思ってないからでしょう

往復書簡は、荒井さんが

「生きる」ための
福祉制度が整えられる反面、
「生きる」という営みが 
「福祉」という枠の中に、
小さく、狭く、
閉じ込められている
のではないか。

と書き、市川さんが

障害者の読書権の問題をあくまでも
福祉領域のものごととして捉え
押しやろうとする考え方があった

本を読むという普遍的な行為すら、
努力して「獲得」しなければ
ならないこと


何気ない
日常のしぐさであるべき営みが、
「障害等級」や「算定単位数」や
「加算」という用語と時間の
制約に括られ、
福祉サービスとして評価されることで、
失われていく何か

と返信して続いていく。

読書権のことだけでなく
*「生きる」ことが
 「福祉サービス化」してしまった
 ことへの違和感や危機感
*そこで失われていくものへの言及
などなど、自分自身の
「無知な傲慢さ」に気付かされ
内容が続いており、
「ドキリ」だけでは言葉が足りない。

 

 

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2023年11月12日 (日)

バコーンってビッグになる

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バコーンってビッグになる

- 菅原小春さんの言葉 -

 

録画したTV番組を見ていたら
印象的な言葉に出会ったので
今日はそれを残しておきたい。

番組は、毎週3人のゲストが
司会を介さずにトークを展開する
「ボクらの時代」

「ボクらの時代」フジテレビ
2023年10月29日放送
菅原小春×森山未來×関口メンディー

(以下水色部は放送からの文字起こし)

ダンサーとして大活躍の3人。

私は普段、ダンスを積極的に
見る方ではないのだが、
ナン年か前、偶然TVで見かけた
たったひとりの踊りに、
思わず釘付けになってしまったことがある。

「えっ!いったい誰?この人」
その時、初めて知った名前が
「菅原小春」だった。

最初の衝撃が大きかったせいか、以降
自分の中ではちょっと特別な存在に。
その後も、世界的な活躍の話を聞く度に
「さすが、菅原小春さん」
と妙に嬉しい気分になっていた。

その菅原さんが、
ダンスなしにトークだけで登場。

芸能界デビューへのきっかけを
こんなふうに語っていた。

「小6の時に、
 それこそここら辺の原宿で
 スカウトとか
 いっぱいあったんですよ。
 今、どうなんですかね?」

「今もあると思う」

「そん時、当時、
 一回こうやって歩いたら
 7個くらいから・・・」

「すごい、私芸能人になれる!
 と思って。
 芸能人になれる!

 で、すっげぇ上からなんですけど、
 選ばせてもらって、
 スターダストさんに
 入ったんですよ」

「へぇ、えっ、はいったの?」

原宿でスカウトされ大手芸能事務所に。

小6で、歩いているだけで
7箇所から声をかけられるくらいだから
当時から独特なオーラがあったのだろう。

そんな菅原さん、
入った事務所の演技レッスンを
どんな気持ちで受けていたのか。
今日、書き残したかったのは
こんなかっこいい菅原さんの言葉だ。

「入って演技レッスンに行った時に、
 なんか子どもたちが頑張って
 なんか、
 これを覚えることによって、
 大人たちを喜ばせなきゃ

 っていうのが、感じちゃって。

 もし自分が
 バコーンってビッグになるなら
 この大人の人たちを
 ギャフンて言わせないと・・・

 でもそれは、私はこれを覚えて、
 じゃないんだな、って思って

 やめて・・・」

菅原さんにしか表現できない
独特な踊りの世界を切り拓き、
まさに大人たちをギャフンと言わせて、
バコーンってビッグになった菅原さん。

「私はこれを覚えてじゃないんだな」
って思えるなんて。
ビッグになる人は最初から違う。
まさに「さすが、菅原小春さん」。

 

 

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2023年10月22日 (日)

「歓待」と「寛容」

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「歓待」と「寛容」

- 哲学者の対談から -

 

哲学者の國分功一郎さんが

國分功一郎 x 星野太
『食客論』刊行記念対談
「寄生の哲学」をいかに語るか
雑誌新潮 2023年8月号

(以下水色部、本からの引用)

の中で、
「歓待」という言葉について
こんな説明をしてくれている。

フランス語では歓待する者のことを
hôte/hôtesse

-英語で言えばホスト/ホステスです-
と言いますが、驚くべきことに、
辞書を引くと分かる通り、
この語には「主人」と「客」の
両方の意味がある


これは本当に
ビックリするようなことですが、
この語そのものが、
何か歓待を巡る太古からの記憶を
留めているのでしょう。

「主人」と「客」、
対照的な語ながら、
いろいろ思い浮かぶシーンを思うと
不思議と違和感がない。

つまり、
歓待が実践されているときは、
迎える側と迎えられる側が混じり合い、
どちらが主でどちらが客か
分からなくなってしまうようなことが
起こる。

それこそが歓待であり、
歓待においては、
もともと主であった者と、
もともと客であった者とが、
動的に混じり合うわけです。

そうそう、「歓待」を
心から感じることができたときは、
まさに「主人」と「客」の関係が
消えている。

この「歓待」と明確に区別すべき語
としてあげているのが「寛容」。

寛容(tolérance)は、

あなたがそこにいることに
私は耐えます、我慢します、
という意味ですね。

宗教戦争後、17世紀に
出てきた概念
です。

宗教戦争を始めとする、
歴史に深く結びついた概念
ということなのだろう。

寛容というと
聞こえはいいかもしれないけれども、
これは要するに、
相手のことを理解する気なんて
サラサラないが
殺しもしない
ということです。

お前のことは放っておくから、
俺にも近寄るな、と。

だから寛容は排外性と切り離せない

(中略)

寛容は相手の存在に
我慢するということですから、
個と個が維持されていて、
そこには何の交流もない。

そこにいるのはいいけれども、
私たちには触れないでね、
というのが寛容です。

「移民」と「その受け入れ国の住民」
という言葉も登場しているが、
少なくともフランス語では
「広い心で他人を受け入れる」
という意味で軽々しく使うことは
できない言葉のようだ。

國分さんの「歓待」と「寛容」の
丁寧な説明を聞いたあと
『食客論』の著者星野さんは、
こうコメントしている。

歓待論は一見いいことを
言っているんだけれど、
何か違うなという感覚が
ずっとありました。

それは國分さんが
言ってくださったように、
hôteが最終的に
仲間になっていくという、
言ってみれば
正のベクトルにのみ
貫かれているからです


その点がどこかすっきりしない。

いかにも哲学者らしい違和感だ。

國分さんの言葉によれば、
『食客論』はそういう歓待の概念が
決定的に取り逃がしてしまうものに
注目しているらしい。

『食客論』読んでみようかな、
と思わせる対談となっている。



 

 

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2023年10月15日 (日)

作家はカタルシス

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作家はカタルシス

- 言葉あそびでお別れの言葉 -

 

雑誌新潮 2023年5月号が
【追悼】永遠の大江健三郎文学
という特集を組んでいたが、
その中で野田秀樹さんが書いていた

野田秀樹
作家はカタルシス
雑誌新潮 2023年5月号

(以下水色部、本からの引用)

から、メモを残しておきたい。
雑誌の記事って
なぜかすぐに記憶に埋もれてしまうし、
あとから探そうと思っても
難しいことが多いので。

 

野田さんは、ある時、
舞台の新作の
当日パンフレットにおける対談を
大江健三郎さんにお願いし、
快諾を得た。

そして今、敢えてその対談を
読み返さずとも思い出せる
大江さんが残してくれた
強烈な言葉が「触媒」であった。

大江さんは
「カタルシス」= catalysis
という英語の単語でしきりに
「触媒」について語った。

日本語として知っている
「カタルシス」= catharsis
(浄化作用)
とは、
別の単語だ。

野田さんのお芝居は、生の舞台にある
独特なカタルシス(浄化作用)が
最大の魅力だと思っているが、
ここで語られたのは
「触媒」の方のようだ。

(英語の音をカタカナで書くなら、
 「触媒」のほうが近い、と言えるだろう。
 「浄化作用」のほうは、あえて書くなら
 「カサーシス」だろうから)

もちろん、
通常の会話でカタルシスというと
「浄化作用」のことを指すけれど。

何か私は、それ自体が
暗号染みていて嬉しかった。

わかるな、野田、
「カタルシス」だそ。
と言われているようで。

この
「カタルシス」=「触媒」
というコトパは、
私のその作品が「海人」という
能を下敷きにした
現代の犯罪の話ゆえに
出てきたものである。

能の構造も、その私の作品も
いわゆる「依り代」
誰かが取り付くことで生まれる
世界だったからだ。

当日パンフの時点で、
大江さんは私の舞台は
まだ見ていなかったが、
すでに構造を言い当ててしまった。

依り代(よりしろ)」とは、
「神霊が依り憑く対象物のこと。
 御神木、岩石や山など」
注連縄(しめなわ)
囲まれていることも多い領域だ。

舞台の内容までは知らなかった大江さんが、
「依り代」の世界の舞台について
「触媒」をキーに語ったというのだから
偶然とはいえ、
野田さんもさぞ驚いたことだろう。

「読み返さずとも思い出せる」はずだ。

そんな大江さんに野田さんは、
実に野田さんらしい言葉あそびで
お別れの言葉を送っている。

どういうお別れの言葉を
最後にしようと考えていたら、
あ、と思いつきました。

それはきっとあの対談の時に
語っていた大江さんの言葉の
エッセンスでもあります。

作家はカタルシス、
 すなわち、語る、死す、
 そんな触媒。

 だから、作家自身は死んでも
 何も変わらないんですよ
。」

作家は触媒か。

* catalysis = 触媒
* catharsis = 浄化作用
* 依り代(よりしろ)
* 注連縄(しめなわ)

などのキーワードとともに
時々、思い返したい、と
ここにメモを残すことにした。



 

 

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2023年10月 8日 (日)

消滅とは無への抹消ではない

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消滅とは無への抹消ではない

- 来歴のうねりのなかで -

 

前回に引き続き、
下西風澄さんが
雑誌「新潮」に寄せた文章を
読んでいきたい。

下西風澄
生まれ消える心
― 傷・データ・過去
雑誌新潮 2023年5月号

(以下水色部、本からの引用)

人間にとっての「過去」は
一種の「傷」であるという下西さん。
それは忘却可能な
「過去」のデータとは違う。

キーワードは、忘却と反復

ハイデガーは、過去を二つに区別した。

一つは私たちが
日常を生きているときの過去で、

もう一つは私たちが
自らの存在を自覚するときの過去だ。

彼は
日々の日常的な生活における過去を
「保持」(記憶)と呼び、
実存的な過去を
「取り返し(Wiederholung)」と呼んだ。

「取り返し」は「反復」とも
訳されるらしいが、
私たちが未来を見据えながら生きるとき、
過去は常に取り返され、反復されている

この過去は、
単に「かつてあった」という
普遍的な記憶ではなく、
私自身を伝承するという形で
取り返される出来事である。

かつてあった生の可能性に
「応答する」ということ、
その過去を引き受けるという
決意によってはじめて顕になる過去が
人間には存在する

「保持」(記憶)の過去は忘却可能だが、
「取り返し」の過去は
生きている限り忘却不可能だ。

おそらくこれは、
人間とAIの本質的な違いにも
かかわってくるだろう。

AIにおける過去は、
ハイデガー的に言えば、
保持・記憶としての過去である

(中略)

AIには、
忘却可能な過去しか存在しない。

すなわちAlには、
どうしても現在にまとわりついてくる
「傷」が存在しないのだ。

そして逆に、AIが
消去可能なデータとしての
過去しか持たないかぎり、
固有の生を持つことはなく、
人間のような意識を持つことは
ないだろう。

過去とのつながりで
人間とAIとの違いを考える視点が
新たな視界を与えてくれる。

人間にとっての時間とは、
今この瞬間も、
未来を望むときも、
絶えず忘却不可能な
過去が反響している

自己固有な来歴のうねりだ。

繰り返したい。
人間にとっての時間とは、
自己固有な来歴のうねりだ


そして、次の記述に繋がっていく。

ある出来事が生まれ、
そして消えていく。

消滅とは、無への抹消ではない

人間における心の消滅とは、
別の再生のための潜水、
巨大な来歴のうねりのなかへの回帰だ。

生成とは無からの創造ではない
人間における心の生成とは、
夥しい数の失われたものたちからの
再生である。

私的「声に出して読みたい日本語」に
登録決定の名文だ。



 

 

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2023年10月 1日 (日)

養殖の餌を食べ始めた人工知能(AI)

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養殖の餌を食べ始めた人工知能(AI)

- いったい何が「過去」なのか -

 

前回に引き続き、
下西風澄さんが
雑誌「新潮」に寄せた文章を
読んでいきたい。

下西風澄
生まれ消える心
― 傷・データ・過去
雑誌新潮 2023年5月号

(以下水色部、本からの引用)

「過去」の膨大なデータを学習し、
それらを「理解することなく」
それらしい出力を生成し続けるAI。

「過去のデータ」の
「過去」とはナンなのかを
考えながら先を読んでみよう。

あるいは最近では、
「合成データ(Synthetic Data)」と
呼ばれる手法も注目されている。

つまり、
現在のAIが学習しているデータは
主に、
実際に人間が「かつて」書いた言葉や、
「かつて」描いた絵などの
「過去の(現実の)データ」だが、

それは必ずしも
学習に「最適」だとは限らない

 

たとえば、
GPT-3の学習に用いられたデータは
英語版のWikipediaのテキストデータのみ。
まさに既存のテキストを
そのまま使っていた。
そうではなく、
「学習に最適のデータを与えたら」
の発想だ。

だとすれば、
学習させるのに最適なデータそのものを
人工的に合成しようという発想だ

(かつて残飯を餌に
 牛を肥やしていたのを、
 良質な肉の生産のために
 専用の餌を作りはじめた
のと同じだ)。

実際すでに、秘匿性が高くて
現実のデータを収集することが難しい
金融や医療などのAI開発の領域では、
合成データを利用した学習が
行われている

 

1年ほど前に、
将棋の世界におけるAIについて
実戦でまだ指されていないものが定跡!?
という記事を書いた。
その中で、将棋の渡辺名人は

実戦では指されていなくても
 『AIで研究して、
  みんな知っているよね』
 というのが、今の定跡です」

と明言していた。

これまで
過去の実戦例から学ぶもの」
とされていた「定跡」は
誰もがAIを使うようになった現在においては
違うものになっているようだ。

人間もAIも
もはや、学ぶべき過去データとは
そもそも過去である必要すらない

というわけだ。

 

いわばこれまでのAIが
天然の餌(現実の過去)を
食べて生まれた天然の知能
だとしたら、

これからのAIは
養殖の餌(作られたデータ)を
食べて生まれる養殖の人工知能
である。

新たな時代のAIが
学習するであろう過去は、
人間が起こしてしまった事実でもないし、
書いてしまったテクストでもない。

それは学習のための
餌に捧げられる過去(データ)である。

過去とは単なるデータなのだろうか?

下西さんは、人間にとっての「過去」を
一種の「傷」と表現して、
AIにおける「過去」とは区別している。

そこから何が見えるのか。
次回、紹介したい。

 

 

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2023年9月24日 (日)

AIには「後悔」がない

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AIには「後悔」がない

- 最適な予測はかつての模倣 -

 

雑誌「新潮」に寄せた文章において
下西風澄さんが、
 私たちは
 変容していくがゆえに生き延びている、
 傷つき得るがゆえに生きている。
と書いていたことを
前回紹介した。
その先を読んでみたい。

下西風澄
生まれ消える心
― 傷・データ・過去
雑誌新潮 2023年5月号

(以下水色部、本からの引用)

今日は、人間の心とAI(人工知能)との
違いについて語っている部分から。

将棋の棋士たちは、
AIが登場して人間の強さを
凌駕しはじめたとき
人間は指し手を(線)で考えるが、
 AIは(点)で考える
」ことに
衝撃を受けていた。

人間は線、AIは点とは
どういうことだろう。

人間は
「さっきこう指したのに、
 次にこう指すと、
 前の手が間違いで損だった
 ということになる」
という観点に縛られて、
指し手を限定してしまう。

しかし、
たしかに重要なことは
過去に何を指したかではなく、
現在の局面の評価値と未来の勝利
で、
AIはそれをフラットにして
その瞬間だけの優劣の判断ができる
というのである
AIには「後悔」がない)。

過去がどうであったかには触れず、
あくまでも現在を出発点に、
将来の最適解を目指す。

そこに「手の流れ」は存在しない。
確かにそこに後悔はないわけだ。

 

ChatGPTの登場により、
自然言語を習得したかに見える
コンピュータの出力に、
我々はほんとうに驚かされた。

でも、もっと驚いたのは

機械に言語を繰らせるという
壁を突破したのは、

言語の文法や構文への理解ではなく
大量の言葉のデータから
次の単語を予測するという
確率的なモデル
であったことだ。

言語を「理解」しているのではなく、
言葉の組み合わせの
統計的なデータを吐き出すことで
もっともらしい文章を作り上げている。

すなわち
この新たなる知性を携えた機械は、
なんらかの構文モデルなどによって
ゼロから自分で思考したり
話したりしているのではなく、

人間たちがかつて話した/書いた言葉を
模倣している
ということだ。

ChatGPTの話すそれらしさは、
人間の過去の言葉のそれらしさ
である。

 

そう言えば、
イーロン・マスクが率いるテスラの
完全自動運転向けソフトウェア
「FSD(Full Self Drive)」の
デモを見た
ソフトウェアエンジニアの
Satoshi Nakajima @NounsDAO さんは、
2023年8月26日にX(旧twitter)に
次のようにポストしていた。

アーキテクチャの解説が
とても勉強になる。

「赤信号では止まる」
「左に曲がるときは
 左のレーンに移動する」
「自転車は避ける」などの行動は、
一切人間が書いたプログラムでは
指定しておらず
、大量の映像を
教育データとして与えられた
ニューラルネットが
「学んで実行している」だけ。

ある意味、
「単に次に来るだろう言葉を
 予測するのが上手」なLLMと
似ている。

単に
「次にすべき
 ハンドル・アクセル操作を
 予想して実行」しているだけ。

LLMとは大規模言語モデル
(Large Language Models)、
ChatGPTなどがまさにその応用例だ。

「赤信号では止まる」が
明示的にプログラムされていないなんて。
それでも自動運転の車は走れる。

 

あくまでも現在を出発点に、
将来の最適解を目指し、
驚くような出力を出し始めたAI。

でもそれは、
膨大な過去のデータから導かれる
 目的達成のためには、
 * 次はこの言葉が来るだろう、
 * 次はアクセルを踏むだろう、
という最適な「予測」を
しているにすぎない。

次回も続きを読んでいきたい。

 

 

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2023年9月17日 (日)

苦しめるのは自らを守ろうとするシステム

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苦しめるのは自らを守ろうとするシステム

- 傷つき得るがゆえに生きている -

 

2023年ももう9月の半ばなので、いまごろ、
昨年(2022年)読んだ本の私的ベスト1は、
なんて書くのはタイミング的には
ほんとうにヘンなのだが、
あえて書かせていただいくと
22年年末に上梓された

下西 風澄(著)
生成と消滅の精神史
終わらない心を生きる
文藝春秋

であった。

とにかくすばらしい本で、
すぐにでもこのブログで
紹介したいと思っていたのだが、
濃い内容のどこをどう書いたらいいのか
迷っているうちに、書き始められないまま
9月になってしまった。

「紹介したい本」のリストが
どんどん成長していて、(自分自身への
読書メモ・備忘録も兼ねている)
ブログのほうがまったく追いついていない。

 

というわけで(?)
上の本の話は後回しになってしまうが、
今日はその著者下西風澄さんが
雑誌「新潮」に寄せた文章について
紹介したい。

下西風澄
生まれ消える心
― 傷・データ・過去
雑誌新潮 2023年5月号

(以下水色部、本からの引用)

2021年に亡くなった
フランスの哲学者
ジャン=リュック・ナンシー
のエピソードがたいへん興味深い。

ナンシーは50歳を過ぎて
心臓移植の手術を受けた。

彼は闘病しながら、
侵されていく自らの身体を通じて
生きることを書き綴った。

病床に横たわる身体は
たくさんの医療機器に繋がれ、
知らない機械たちが自らの命を
繋ぎとめている。

移植された見知らぬ人間の心臓を、
自らの免疫システムが攻撃し、
心身は不調をきたしている。

毎日服用する様々な薬剤は、
副作用でどんどん私を
滅ぼしていくように思える。

自分を助けてくれるのは、
自分の外部に存在していたはずの
機械や他者の臓器であり、
自らを苦しめるのは
自らを守ろうとするシステム
である
という矛盾に、
ナンシーは困惑していた。

他者が助けようとしてくれている一方、
本来は自分を守る機能が
逆に自分を苦しめている矛盾。

一個の私は、
侵入する無数の他者たちによって
生かされるとともに傷ついていく、
他者たちとの共生者なのだ。

下西さんはこう書いている。

もしかすると、
西洋の精神史が望んできた
「強い心」というのは、
私たちが若く健康で、そして
豊かな場所に生まれついた状況が
たまたま可能にしていた、
例外にすぎなかったものを、
理想的に理念化したもの
だった
のかもしれない。

西洋の精神史において、強い心は
他者から切り離された自律的なもの、
を前提に語られてきた。
でもそれが実現できる状況自体、
実は例外にすぎなかったのかもしれない。

ナンシーは

「われわれは、
 しだいに数が多くなる
 わたしの同類たちとともに、
 実際ある
 ひとつの変容の端緒なのだ」

と語ったという。

自己の同一性を
いかにして確立するか
という使命を担ってきた
西洋哲学において、

変容とは
同一性をかき乱すエラー
である。

しかし、
死の側で弱く傷つきながら
生き延びようとしたナンシーは、
私とはひとつの変容なのだ
と語った。

他者を切り離すのではなく、
他者との共生者として変容していく
不滅を実現するものは「強固」ではない。

私たちは、不滅であるがゆえに
生きているのではなく、
小さな生成と消滅を繰り返しながら
変容していくがゆえに生き延びている

私たちは無傷であるがゆえに
生きているのではなく、
傷つき得るがゆえに生きている

変容していくがゆえに生き延びている、
傷つき得るがゆえに生きている。

「傷」をキーワードに、
話は近年急成長している
AI(人工知能)との対比へと広がっていく。
次回に続けたい。

 

 

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2023年8月27日 (日)

あそこに戻れば大丈夫

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あそこに戻れば大丈夫

- 財産とはまさにこういうもの -

 

二回続けて、2003年に放送された
テレビドラマ「すいか」について
書いてきたが、もう一回だけ書いて
一区切りとしたいと思う。

冒頭部、DVDと
書籍化された脚本の紹介部分は
前回と同じ。
繰り返しの掲載、ご容赦あれ。
(前記事との重複部分は読み飛ばしたい
 ということであれば
 ここをクリック下さい)

=+=+=+=+=+=+=+=+=

夏になると
木皿泉さんの脚本で放送された
テレビドラマ「すいか」を
見返したくなる。
主演は小林聡美さん。

放送は2003年の夏だったので
もう20年も前のドラマということになるが、
今でもブルーレイやDVD-BOXが
On Sale状態なのは、
ファンとして嬉しい限りだ。

三軒茶屋にある
賄いつきの下宿「ハピネス三茶」を舞台に
そこに住む四人の女性を中心に描かれる
小さな物語。

小林聡美さん、ともさかりえさん、
市川実日子さん、浅丘ルリ子さん
が四人をみごとに演じている。

当初シナリオブックも出たが、
たった3千部だったらしく、
手に入れるのが難しかった。
ところがその後、
河出書房新社からの文庫で再発売となり
今は入手可能。2巻構成。

木皿 泉 (著)
すいか
河出文庫

(以下水色部、本からの引用)

Kindleでは「合本版」もある。

=+=+=+=+=+=+=+=+=

今日は、上の脚本本「すいか2」にある
「文庫版あとがき」を紹介したい。

前回も書いた通り、
「木皿泉」というのは実際にはご夫婦で、
共同執筆。
「二人」「私たち」
という言葉を使っているのは、
そのせいだ。

執筆時をこんな風に振り返っている。

けっして若くなく、
書く仕事だけでは食べてゆけず、
魚を売ったり
コーヒー豆を売ったりする
パートに出ていた。

いつもお金はなく、
名前も知られず、野望もなく、
二人でしょーむない話をしては
ゲラゲラ笑い
お金にならない話を考えては
二人で褒めあい
本をよく読み、ビデオを観て、
食べたい時に食べたい物を食べ、
眠りたい時に眠っていた。

経済的にはともかく
精神的に豊かな時間を
過ごしていたことはよくわかる。
だからこそ
あんな脚本が書けたのであろう。


私たちは、とっくに、
こうあらねばならない、
というものを捨てていた


フツーでないことに、
少し焦りもしていた。
でも、自分たちが
おもしろいと思うものは、
けっして手ばなさなかった。

「すいか」を読み返すと、
その時の私たちの生活や
考えていたことが立ち上ってくる。

こんな台本、もう書けないと思う

いまだに人に会うごとに
「『すいか』観ましたよ」と
声をかけてもらえるらしいが、
そういったヒットは
これまでにない制約を
課してくる面もある。

ケンカっぱやくて、
書くのが遅いのは昔のままだが、
今は木皿泉という名前が少し売れて、
売れればその期待を背負わねばならず、
「すいか」を書いていた時のように
全てのものから
解放されることはもうないだろう

それでも木皿さんは、
次のような素敵な言葉で
この作品を位置づけている。

52歳と46歳の私たちに、
コワイものなど何ひとつなかった。
これは私たちの財産だ。
何があっても、あそこに戻れば
大丈夫と今も思っている。

そう、創作に限らず、
人生における財産とは
つまりはこういうものなのでは
ないだろうか。

「あそこに戻れば大丈夫」
と思えるものがあることの
なんと心強いことよ。

 

 

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