言葉

2024年4月14日 (日)

映画 ARRIVAL 邦題『メッセージ』

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映画 ARRIVAL 邦題『メッセージ』

- ハンマーしか持っていなければ -

 

2016年の米国映画
ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督
ARRIVAL 邦題『メッセージ』

Amazon Prime Video

は、「言葉」と「時間」に関する
深い問題が、重なるエピソードの中に
丁寧に織り込まれている
観るたびに新たな発見のある映画だ。

地球外生命体と人間との
ファーストコンタクトを描いた映画、
とストーリーを中心に語ると
肝心な部分が伝えられない。

たとえば、「過去を思い出す」
といった時間感覚の固定概念が
気がつくと揺さぶられている。
「未来を思い出す」ことになったら…。

いずれにせよ、作品全体の魅力を語るのは
難しい映画なのだが、
「言葉」についてのシーンに
たいへん印象的なセリフがあったので、
今日はその部分を紹介したい。

 

地球にやってきた
地球外生命体の巨大宇宙船。
(上記パッケージ写真の
 中央の黒い物体)

彼らはなんのためにやってきたのか?
飛来の目的を探るコンタクトチームが
結成され、女性言語学者ルイーズが
そのメンバとして選出される。

 

(1) 「顔を見せるの」

宇宙船に乗り込み、
地球外生命体となんとか
コミュニケーションをとろうとする
コンタクトチーム。

彼らに言葉あるのか?
それは音なのか文字なのか、
あるいはそれ以外なのか?

文字があるならそれはどんなものなのか?
地球人が持つような
平面的な2次元の文字なのか?
立体的な3次元、
あるいはもっと高次元のものなのか?

言葉はもちろん、
彼らについて何もかもわからない状態から
「会話」に向けての試行錯誤が始まる。

巨大宇宙船に乗り込むルイーズらは、
当初、感染や被爆を恐れ
写真のような分厚い防護服を来て
コンタクトを開始する。

語りかけ、英語の文字を見せ、
なんとか相手とのコミュニケーションを
スタートさせようとするルイーズ。
Bougofuku1s

しかし、なかなか糸口がつかめない。

行き詰まっていたルイーズは、
毒ガス検知のために連れて行った
籠に入ったカナリアが元気な様子を見て
ある決心をする。

突然、防護服を脱ぎ始めたのだ

驚く同行の仲間たち。
リモート監視のスタッフは
「危険だ」と叫ぶ。

彼らに対し、彼女はこう言う。

「顔を見せるの」

防護服を脱ぎ始めた瞬間
ほんとうにハッとさせられた。
そう、コミュニケーションとは
つまりはこういうことじゃないだろうか。
相手とわかり合いたければ
まずは自分の顔を見せることからだ。
防護服越しに真のコミュニケーションが
成立するはずはない。
Bougofuku2s

防護服を脱いで
地球外生命体に近づくルイーズ。

同行した物理学者イアンも防護服を脱ぎ、
顔を出して相手に向き合う。
Bougofuku3s

防護服を着ていないルイーズの
「私はルイーズ」という自己紹介に
未知の生命体がついに反応を始める。

彼女の勇気ある行動がきっかけとなり、
たどたどしいながらも、
コミュニケーションが加速していく。

「顔を見せる」
相互理解はここから始まるのだ。

 

(2) ハンマーしか持っていなければ

実は宇宙船、
世界各地12箇所に同時に飛来しており、
それぞれの国で、未知の生命体との
コミュニケーションが試みられている。
言葉を教えることも含めて。

でも、なにも知らない人に
対戦型のゲームを教えたら
会話の基盤が[対立・勝利・敗北]に
なるように、習得した言葉や知識は
まさに思考に影響する。

これらのことを象徴して
次のようなセリフが登場する。

「ハンマーしか持っていなければ、
 すべてクギに見える」


なんと痛烈で、かつ意味の深い言葉だろう。

考えてみると言語習得だけでなく、
勉強も遊びも、人生でのあらゆる経験は
「クギだと思っていたものが実は…」に
気づかせてくれるもの
なのかもしれない。
すでにこんなにおもしろいものに
囲まれているよ、と。

「クギだと思っていたものが実は…」に
より多く遭遇できる人生でありたいものだ。

 

 

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2024年4月 7日 (日)

脳内麻薬がでてこそ

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脳内麻薬がでてこそ

- 音楽は音だけで出来ていない -

 

1月は行ってしまう、
2月は逃げてしまう、
3月は去ってしまう、
4月は寄ってくる、
と言われるように、
今年も気がつくともう4月だ。

と、4月なのに(?)
今日は、昨年末の小さなネタから
思いがけない展開をみせた話を
書き留めておきたい。


昨年のクリスマスのころ、
「大手デパートのクリスマスケーキが
 崩れた状態で購入者に配達された」
というニュースがあった。

(1) カタログにあった美しいケーキの写真

(2) 実際に配達された崩れたケーキの写真
を並べて、
Masaruさんが
こんなコメントをXに投稿していた。

2312348

(1) に対して
楽器を弾いている時の脳内イメージ
(2) に対して
録音を聴き返した時の脳内イメージ

2枚の写真を見て、
こんな言葉が浮かぶなんて
なんて素晴らしいセンスの持ち主だろう。

私も学生時代のサークルを含め、
素人ながら長く楽器を楽しんでいるので、
奏者の体験として痛いほど同意できる。

自分で楽器を演奏している時の気持ちと
自分の演奏を録音で聞いた時の落ち込み、
奏者にしかわからないそのギャップを、
こんなに簡潔にかつ的確に
表現してもらったことがあるだろうか。

感激した私は、
高校時代、大学時代の音楽仲間に
早速URLを転送し、見てもらった。

皆、それぞれに身に覚えがあるようで、
反応は大きかった。
いくつかコメントを並べておきたい。

* しかし、なんで実際の演奏中は、
 (1)のように聴こえるんだろうねぇ。
 脳内麻薬でも出てるのかなぁ…。

* ド素人でも演奏が楽しいのは、
 脳内に(1)のイメージが
 広がるからなんだよね。

* スキーも同じです。
 滑っている時の脳内イメージと
 ビデオで見る現実。
 滑っているときは脳内麻薬がでています。

* これって、音楽に限らないよね。

そう、音楽に限らないのだ
趣味だろうと仕事だろうと
自らが心から楽しんでコトをなしているとき
客観的な事実のレベルとは関係なく
本人には(1)が見えるような
脳内麻薬(?)がでているのだ、きっと。

藤井さんのように将棋が強くなくても、
大谷さんのように野球ができなくても、
将棋や野球に夢中になれる人がいるのは
まさにそのおかげではないだろうか。

(1)を経験できた人は、
そのレベルとは関係なく、
ほんとうにソレが楽しくてしかたがないし、
その思いを励みに成長もしていける。
(1)はほんとうに貴重な経験だ。
(形だけはうまくいっても、
 脳内麻薬がでていなかった経験は
 むなしさだけが残っていたりするし)

 

最後に、
音楽仲間の言葉を残しておきたい。
「後で録音を聴くと
 たいしたことなかったりするのは、
 音楽が
 音だけで出来ているのではない
 証拠だと思います


これはこれで音楽に対する名言だ。

 

 

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2024年3月17日 (日)

「科学的介護」の落とし穴 (4)

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「科学的介護」の落とし穴 (4)

- 今ここの幸せをつかみとれたら -

 

前回に引き続き、
介護施設長 村瀬孝生(たかお)さんへの
インタビュー記事から
印象的な言葉を紹介したい。

話しているのはもちろん介護についてだが、
介護に留まらない
考えさせられる鋭い指摘満載だ。

2023年2月7日 朝日新聞
オピニオン&フォーラム
「科学的介護」の落とし穴
介護施設長 村瀬孝生(たかお)さん
へのインタビュー記事
だ。
(以下水色部、記事からの引用)

230207


だれしも避けて通れない老い。
老いへの不安には
どう向き合えばいいのだろう。

「介護現場でレクリエーションや
 リハビリのための運動をします。

 その時、健康寿命を保ち、
 自立した生活をする
 『未来への投資』という
 発想に立つとしたら、
 楽しくなりません」

「今苦しいのは、
 未来をもっと楽にしたいと
 思っているからです。

 未来にある納期に
 間に合わせる計画のため
 今を差し出す

 それよりも、
 今ここの幸せをつかみとれたら
 どれだけ楽になるか。

 今を謳歌できる人生や社会に
 作り直せるかどうかですね」

未来をもっと楽にしたいと今を差し出す、
に考えの転換を促す村瀬さん。
楽になりたい、と思いながら
その気持ち自体が、
必要以上に自分を苦しめている場合も
あるのかもしれない。

「年をとれば老眼になるとか、
 足腰が弱くなるとか機能が衰える。
 たとえ医療や技術で補完しても
 やがて限界を迎えます


「自分の体をねぎらいながら、
 その変容に応じて
 老いを堪能できる生活に変えていく

 そして生身の限界を踏まえ、
 合意を積み重ねる
 共同体になっていく。

 それが持続可能な社会の
 ありようではないでしょうか」

計4回に渡って村瀬さんの言葉を
紹介してきた。

介護の世界もテクノロジーやデータを
駆使することで改善できる、
と単純に考えてしまうことの危険性を、
タイトル通り
 「科学的介護」の落とし穴
として語ってくれた。

それは、同時に、昨今、
あらゆる分野で幅を利かせている
データ偏重、効率主義、計画管理などへの
痛烈な問題提起でもあった。

そこには、

* 『見たいもの』しか見ない現場になる

* 生活は偶然性や
 いいかげんなものに満ちていて、
 データやエビデンスで裏付けられた
 正しさがベースにあるのではない

* 介護する側の目的を遂行するために
 集められたデータで
 効率が上がるほど、
 唯一無二の人生を生きた老体は
 単純ではありません

* 人間の不完全さや弱さを排除せず、
 許容する力が失われている

* 老いを堪能できる生活に変えていく

などなど、
何度も思い返したい言葉が溢れていた。

 

 

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2024年3月10日 (日)

「科学的介護」の落とし穴 (3)

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「科学的介護」の落とし穴 (3)

- 将来のため今を犠牲にする? -

 

前回に引き続き、
介護施設長 村瀬孝生(たかお)さんへの
インタビュー記事から
印象的な言葉を紹介したい。

話しているのはもちろん介護についてだが、
介護に留まらない
考えさせられる鋭い指摘満載だ。

2023年2月7日 朝日新聞
オピニオン&フォーラム
「科学的介護」の落とし穴
介護施設長 村瀬孝生(たかお)さん
へのインタビュー記事
だ。
(以下水色部、記事からの引用)

230207


前回の記事の最後、
「集められたデータで
 効率が上がるほど、
 唯一無二の人生を生きた老体は
 単純ではありません」
と言っていた村瀬さん。
では、介護担当者はどうすべきなのだろう。

「生身の体が
 今ここで求めることに
 応じられる仕組みに
 シフトする必要
を感じます。

 今、食べたい。
 今、うんこしたい。
 今、眠りたい・・・。
 そうした求めには今、対応しないと、
 取り返しのつかない傷を
 心身に残しかねない」

「そうした事態を避けるなら、
 今の生活を計画で縛るのではなく
 今ここで必要なことに対応するため
 計画を手放すことができる
 現場の裁量
が大切になります」

計画に縛られない現場の裁量で、
「今」に対応する。

「一方で経済社会は、
 将来の目標を達成するために逆算し、
 いつ何をべきか
 計画することで成り立っています


 正月のおせち料理を初秋に
 予約販売するのが一例で、
 未来を先取りするほどに
 もうけが出る。

 将来のため今を犠牲にすることを
 いとわない


 今ここの対応から出発するケアとは、
 成り立つロジックが正反対なんです」

理想はあっても、施設長としては
実際に直面している問題への対応も
もちろん必要だ。

「入居者に対して
 職員数が少ないと、
 働く側の生身の限界を
 超えてしまう。

 職員が疲弊するのを
 避けるためには、
 センサーなどの最先端技術で
 人の限界を補完せざるを得ない

 現実はあります」

「ただ、人間の能力の限界を
 文明の利器で補完し
 拡張し続けることで、
 本当に幸せが得られたのか

 立ち止まって
 考える時ではないでしょうか。

 人間の不完全さや弱さを排除せず、
 許容する力が
 失われている
と思います」

これに対して
インタビュアーの浜田陽太郎さんは
「社会を維持し、経済を回すためには
 仕方がないのでは」
と投げかけている。

「この社会は経済発展と引き換えに、
 生産性がないとみなされた
 お年寄りを効率よく介護するために
 施設を用意しているように見えます。

 『認知症』であれば、
 抑制し隔離されても仕方ないという
 暗黙の了解がある」

全体の利益のために、
 一人の人間の存在を犠牲にしても
 仕方ないという考えが、
 私たちの骨の髄まで
 染みてはいないでしょうか


「足手まといな者のリストの
 1番目にいる人を犠牲にすれば、
 2番目の人が繰り上がって
 次の犠牲となります。

 それを繰り返すだけの社会は、
 ほどなく弱体化する。

 日本社会は
 その状態にあると思います。
 それが私たちの望む経済でしょうか」

* 今ここで必要なことに対応するため
 計画を手放すことができる現場の裁量

* 将来のため今を犠牲にすることを
 いとわない、ではなく
 今ここの対応から出発する

* 人間の不完全さや弱さを排除せず、
 許容する力が失われている

* 1番目にいる人を犠牲にすれば、
 2番目の人が繰り上がって
 次の犠牲となります

村瀬さんの言葉は介護の世界を越えて
深く響いてくる。

 

 

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2024年3月 3日 (日)

「科学的介護」の落とし穴 (2)

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「科学的介護」の落とし穴 (2)

- 唯一無二の人生を生きた老体は -

 

前回に引き続き、
介護施設長 村瀬孝生(たかお)さんへの
インタビュー記事から
印象的な言葉を紹介したい。

話しているのはもちろん介護についてだが、
介護に留まらない
考えさせられる鋭い指摘満載だ。

2023年2月7日 朝日新聞
オピニオン&フォーラム
「科学的介護」の落とし穴
介護施設長 村瀬孝生(たかお)さん

へのインタビュー記事。
(以下水色部、記事からの引用)

230207


インタビュアーである浜田陽太郎さんの
「科学的に裏付けのあるデータで
 標準化された介護を実行させれば、
 質の良くないところも含めて
 全体の底上げを図れるのでは」
との質問に、村瀬さんはこう答えている。

現場は寛容さを
 失うのではないでしょうか


 標準化されたサービスを
 計画通りに提供したかどうかだけに
 重きを置いて評価される
と、
 現場は追い詰められる。

 評価の矢面に立つ管理者は、
 計画の遂行を現場に求める。

 役割を与えられた個々の職員は、
 まじめであるほど
 目的達成のために鬼になる」

計画通りに実行されたか、が
評価の重要項目となると
そのこと自体が目標になってしまい
本来の業務の目的を見失ってしまう
という経験は、
介護以外の現場で働いてきた私にも
確かにある。

「目的が先立つ介護は
 一方的な暴力をはらみやすい。
 それが組織化されるとなおさらです」

今の制度は、金銭の誘導による
 成果主義と懲罰主義の組み合わせ

 本質は出来高払いです。

 制度設計に込められた
 国の目的に沿って、
 プラン通りに
 ケアが行われたか否かで
 報酬が加算

 できなければ減算されますから」

もちろん、村瀬さんも
管理者として計画そのものを
否定しているわけではない。

「計画するのがダメとは言いません。
 でも、1日おきに入浴
 という計画が設けられたら、
 拒否されてお風呂に入れなかった時、

 『まあいいか』と
 計画を手放せるでしょうか?

 企業社会でも、
 計画を遂行できなければ、
 責任をとらされているでしょう。
 介護現場も例外ではありません」

インタビュアーである浜田さんは
「高齢者に拒否されたからといって、
 計画した介護をやらないのは
 楽をしたいだけでは」
と突っ込んだ質問をぶつけている。

お年寄りの『嫌』を受け止めて、
 いったん引くことは、
 その人の意思を
 尊重したこと
になりえます。

 ただ、介護職が
 引いたままだとネグレクトになる。
 だから、
 どうすれば入浴できるかを
 考えて実践する


「単なる入浴拒否ではなく、
 裸になった時のあばら骨や
 あざが見られたくないとか、
 拒否する理由は無限にある。

 その人にしか生じない理由に
 触れたとき、新しい発見がある」

「相手のサインを受け取り、
 介護の質向上につなげる。
 無駄に見えることにも、
 気づいていないだけで
 大切なことが潜んでいる


 介護する側の目的を遂行するために
 集められたデータで
 効率が上がるほど、
 唯一無二の人生を生きた老体は
 単純ではありません

「集められたデータで
 効率が上がるほど、
 唯一無二の人生を生きた老体は
 単純ではありません」
そう思って接してもらえたら
どれほど幸せなことだろう。

繰り返しになるが、
以下の言葉を読み返してみると
どれも、介護の世界に
限定されないものであることが
よく分かる。

*標準化されたサービスを
 計画通りに提供したかどうかだけに
 重きを置いて評価されると、
 現場は追い詰められる。

*今の制度は、金銭の誘導による
 成果主義と懲罰主義の組み合わせ。

*無駄に見えることにも、
 気づいていないだけで
 大切なことが潜んでいる。

評論家やコメンテーターの言葉でなく、
実際に日々現場に接している
実務担当者からの言葉だと思うと
いろいろな意味で救われる思いだ。

もちろん、理想通りには行かないことも
多いだろう。
しかし、行動を支える根本となる思想は、
どんな職業であれ、
特に正解がない仕事においては
より重要で価値が大きい。

 

 

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2024年2月25日 (日)

「科学的介護」の落とし穴 (1)

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「科学的介護」の落とし穴 (1)

- 生活のベースは正しさではない -

 

昨年の新聞記事になってしまうが、
介護施設長へのインタビュー記事が
たいへん内容の濃いものだったので、
印象的な言葉を紹介しながら、
ここに残しておきたい。

話しているのはもちろん介護についてだが、
介護に留まらない
考えさせられる鋭い指摘満載だ。

2023年2月7日 朝日新聞
オピニオン&フォーラム
「科学的介護」の落とし穴

介護施設長 村瀬孝生(たかお)さん

へのインタビュー記事。
(以下水色部、記事からの引用)

230207

 

より少ない介護職員で
サービスの質向上を目指すとして、
現場から集めたデータを使って
高齢者の自立支援に取り組む
「科学的介護」を国が進めている

テクノロジーを活用して
「より少ない人手でも回る現場」を
目指すことで、
介護の質は向上するのだろうか?

村瀬さんは、いきなりズバリ!
こうコメントしている。

「科学が必要な場合もあるでしょう。
 でも、データやエビデンス重視の
 ロジックが浸透すると、
 『見たいもの』しか見ない現場
 になる。
 それをおそれます」

『見たいもの』しか見ない、とは
具体的にはどういうことだろう。

たとえば、
膀胱内の尿量を測る機器がある。
尿がたまったとセンサーが知らせてきた
タイミングでトイレへ誘導できれば、
オムツを使わないで
済むようになるかもしれない。

すごく有効な方法のように思えるが、
村瀬さんはこう言う。

「でも、お年寄りは、
 尿がたまっていなくても
 トイレに行きたがることが
 よくあります。

 もし正確に尿量を感知できる
 センサーが反応しなければ、
 そのお年寄りを
 トイレに連れて行くでしょうか」

センサーが反応していなければ、
おそらく連れてはいかないだろう。

でもそれは、尿は出ないのに
トイレに連れて行く、
そんなムダな労力が省けるわけだから、
現場は楽になり生産性も上がるのでは、
とも言いたくなるが・・・

「そうでしょうか。
 僕らの現場では、
 『おしっこ』という声を聞いたなら、
 それにつきあい、なぜ本人の実感が
 そうなのか考える。

 その営みが端折られ、
 『生産性を上げるために』と
 介護職員が尿量しか見なくなると、
 老体が発するサインを
 感受する力が育たない

物理的な「尿量」と
「老体が発するサイン」は一対一ではない。
「サインを感受する力」はまさに
養う必要があるということなのだろう。

生活は偶然性や
 いいかげんなものに満ちていて、
 データやエビデンスで裏付けられた
 正しさがベースにあるのではない


 制度が定める目的や価値、
 意味が先行する介護は、
 生活から乖離すると思うのです」

「生活は偶然性や
 いいかげんなものに満ちていて、
 データやエビデンスで裏付けられた
 正しさがベースにあるのではない」
は実感に裏付けられた深い言葉だ。

「生活から乖離する」理由を
こう説明してくれている。

ケアで重要なのは
 『知る』ことよりも
 『受け止める』こと
だからです。

 『これが嫌だ』という
 お年寄りの実感を
 意味がわからなくても受け止めて、
 『かわりにこうしよう』という。

 それも拒絶されたら、
 また別のやり方を考える。
 このやりとりを繰り返して、
 信頼関係が積み上がる」

最初に聞いた、
『見たいもの』しか見ない現場
への問題意識がより具体的に伝わってくる。

介護するために相手を知るという
 知識の対象として関わるのではない


 お年寄りと介護職が2人の体で
 『今、どうしたいのか』を
 リアルにつかむ。
 そのために合意を積み重ねるんです」

たったこれだけのコメントの中に、
どれだけ考えさせられる言葉が
溢れていることか。

繰り返しになるが、
「老体」や「ケア」や「介護」を
カッコ付きにして、
再度抜き出しておきたい。

カッコ内を空白にして読むと
それに換わる身近な言葉が
自然に浮かんできてドキリとさせられる。

*データやエビデンス重視の
 ロジックが浸透すると、
 『見たいもの』しか見ない現場
 になる

*(老体)が発するサインを
 感受する力が育たない

*生活は偶然性や
 いいかげんなものに満ちていて、
 データやエビデンスで裏付けられた
 正しさがベースにあるのではない。

*(ケア)で重要なのは
 『知る』ことよりも
 『受け止める』こと

*(介護)するために相手を知るという
 知識の対象として関わるのではない。

村瀬孝生さんの言葉、
次回も続けたい。

 

 

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2024年2月18日 (日)

小澤征爾さんのリズム感

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小澤征爾さんのリズム感

- 文章のリズムと音楽のリズム -

 

指揮者の小澤征爾さんが、
2024年2月6日、88歳で亡くなった。

恩師の斎藤秀雄の名を冠する
サイトウ・キネン・オーケストラ(SKO)を
創設した指揮者の秋山和慶さん
「本当の兄のように」慕った
小澤さんとの日々を

2024年2月11日の朝日新聞

240211
の記事で語っているが、
その中に、こんな言葉がある。

小澤さんの音楽の特徴を一言でいえば、
やはりあのリズム感

そして瞬発力です。

どこをちょっと緩めようとか、
ぐっと持ち上げようとか、
そうしたペース配分が
すごく上手だった。

「小澤さんの音楽の特徴はリズム感」
この記事を読んで思い出した本がある。

小澤征爾, 村上春樹 (著)
小澤征爾さんと、音楽について話をする

新潮社

(書名たは表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

村上春樹さんとの対談を記録した
単行本で370ページを越える
ちょっと厚めの本だ。

その中に
リズムに関してこんなやりとりがある。

村上春樹さんが、文章を書く方法を
音楽から学んだ、と言うシーン。

で、
何から書き方を学んだかというと、
音楽から学んだんです。
それで、
いちばん何が大事かっていうと、
リズムですよね


リズムがないと、
そんなもの誰も読まないんです。

前に前にと読み手を送っていく
内在的な律動感というか……。

機械のマニュアルブックが
リズムのない文章の典型だ、
と例を挙げなら、
文章のリズムについて、
村上さんは丁寧に説明を続ける。

言葉の組み合わせ、
センテンスの組み合わせ、
パラグラフの組み合わせ、
硬軟・軽重の組み合わせ、
均衡と不均衡の組み合わせ、
句読点の組み合わせ、
トーンの組み合わせによって
リズムが出てきます。

ポリリズムと言って
いいかもしれない


音楽と同じです。
耳が良くないと、
これができないんです。

文章のリズムについての
一連の説明を聞いたあとの
小澤さんの言葉がコレ。

文章にリズムがあるというのは、
僕は知らなかったな。

どういうことなのか
まだよくわからない。

2度見、どころか3度見するくらい
びっくりしてしまった。

あれほど音楽のリズムに敏感な人が
文章にはそれを感じていないなんて。

逆に、小澤さんほどの人が
感じていないのだとすると、
私が文章に感じているものは単なる幻!?
と疑ってしまうほど。

村上さんの言う
「文章で大事なのはリズム」
にはいたく賛同できるものの、
小澤さんの言葉を聞いて以来、
音楽に感じるリズムとは
実は別なものなのかも、
とも思うようになっている。

 

 

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2024年2月11日 (日)

「空席日誌」という散文集

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「空席日誌」という散文集

- 詩人が見せてくれるパラレルワールド -

 

駅で、立ったまま、
ちくわを食べている女の人
がいた。

というちょっとびっくりするような
ホームでの描写で始まる
「つかのまのちくわ」
巻頭に持つ

蜂飼 耳 (著)
空席日誌
毎日新聞社

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 水色部は本からの引用)

は、蜂飼耳(はちかい・みみ)さんという
詩人の著作だ。
詩人のものではあるが、
見開き2ページの散文がメインで、
詩は含まれていない。

チョコレートなら構わず、
ちくわならば違和感が生じるのは、
なぜだろう。

と思いながら、
ホームで2本のちくわを食べきった
女性と一緒に少し遅れてきた電車に乗る。

紙を出して、
ちくわを食べた口元をぬぐう。
それから、蝶のかたちの
手鏡と口紅を取り出して、
塗りはじめた。

みるみるうちに、
ちくわとは無関係に見える
明るい唇が完成
した。

で掌篇を閉じている。

なんなのだろう。この不思議な読後感。

詩人ゆえの視点、感性、
言葉選びのせいなのか、
目の前の現実世界の記述を通して、
パラレルワールドというか、
並行した別世界が見えてくるような
ある種の独特な浮遊感がある。

 

「列から外れる」は、

どんな種類の木であっても、
並木はどこか学校に似ている。
整列しているからだ

と始まっている。そして、桜並木の中の
枯れてしまった一本の桜を中心に
話が進んでいく。

花が咲かない枯れてしまった木は、
しばらくして、
根元から伐(き)られてしまう。

やはり、枯れ木は
列から外されるのだ。
外れたくて咲くのを
やめたのかもしれない
木だった。

外されたくて、の思いもありうることを
さらりと提示する一方で、

なくなってみれば、それはそれで、
はじめからなかったかのように、
馴染んでいく。

そばの電柱は何食わぬ顔で
烏をとまらせる。

こんなに速やかに、と
心ぼそくなるほどの速度で
馴染んでいく
のだった。

とそれに馴染んでいくことの
速さを寂しがっている。

ついこないだまでそこに在った木。
伐られたのではなく
遠くへ飛び去ったのだ
と、
思いたくなる。

かたちをなくしながら、
どこか遠くへ。

桜並木の枯れてしまった一本から、
広がる想像の世界。

「こんなことがありました」
ただそれだけなのに、丁寧な描写からは
様々な世界を感じることができる。

主張があるわけではない。
発見があるわけでもない。
それでも、詩人の文章には
不思議な力が宿っている。

 

 

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2024年1月28日 (日)

「ある時点での適切な断面図」

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「ある時点での適切な断面図」

- 先人たちの精緻な思考 -

 

フレーゲ、ラッセル、
そしてウィトゲンシュタインという
3人の天才哲学者が、
言葉についてどう考えてきたのか。
その過程を丁寧にたどりながら、
ふだん何気なく使っている
言葉の根本に迫ろうという

野矢茂樹 (著)
言語哲学がはじまる

岩波新書

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

著者本人が、「はじめに」で

何が楽しいって、
みんなが試行錯誤していて、
これが正解ですってのが
見えてこないけれども

どうやら前に進んでいるみたいだぞ
という手ごたえがある。

読者にもこの感触を
味わってもらいたい。

と書き、「おわりに」で

正確な記述は
もちろん必要不可欠の条件ですが、
しかし、私が目指したのは、
そこではありません。

私は言語哲学入門の参考書として
この本を書いたのではない
のです。

ほら、自分が面白かった話って、
他の人に話したくなりませんか? 
私の動機はほぼそれに尽きています。

と書いている通り、
全体に文体もやわらかいし、
例文もやさしいものが選ばれていて
解説も参考書的なものには
なっていないのだが、
著者と一緒に「面白がる」には
かなりの集中力が必要だ。

そんな中、
最終段で語られた言葉は
印象的なものだった。

ウィトゲンシュタインの
『論理哲学論考』と『哲学探究』について
コメントした部分だ。

『論理哲学論考』を完成させた後、
ウィトゲンシュタインは哲学から
一旦離れる。

「語りえぬものについては、
 沈黙せねばならない」と稿を閉じて、
本当に哲学的には沈黙するのです。

それからおよそ十年後に哲学を再開し、
『論考』を自ら批判して、
新たな言語観
へと
進んでいくことになります。

そして1936年から1946年にかけて
後期ウィトゲンシュタインの主著である
『哲学探究』を執筆します。

思考可能な世界を「論理空間」とし、
その外部を思考不可能としたことで、
論理空間自体の変化を考えることが
できなかった『論考』。

『論考』は
言語を固定された体系として
捉えています

そこが根本的にまちがっていたと、
『探究』のウィトゲンシュタインは
言いたいのです。

言語変化を視野に入れた言語観へと
移っていくウィトゲンシュタイン。

「論理空間」という用語が、
まさに言語を空間的に捉えていることを
表わしています。
『論考』は言語を一望のもとに
捉えたかったのです。
しかし、言語使用は時間の内にあります。

私は、
『論考』から『探究』への
変化の核心は、
空間的な言語観から
時間的な言語観への転換
だと
考えています。

では、
「まちがっていた」と本人が言う
過去の言語観に価値はないのだろうか?

では、『論考』で為されていた議論は
捨て去られねばならないのでしょうか。

いや、そんなことはありません

動的に推移していく言語の、
いわば時間的な断面図
- ある時点における言語使用の
  あり方を捉えた議論 - 
として十分な有効性をもっています。

言語実践を理論的に捉えようとしたら、
どうしたって
ある時点での断面図を
描くしかありません。

そして
適切な断面図を描くことによって
私たちの言語実践に対する理解も
深まるのです。

フレーゲも、ラッセルも、そして
前期ウィトゲンシュタインも、
言語を理論的に捉えようと
試行錯誤の日々を過ごした。

言語哲学に限らないが、
先人たちが各時代、各時代で
精緻に考え抜いたものからは
たとえそれが、のちの時代から見れば、
間違っていたり、
不完全であったりしたとしても
いつも豊かな洞察を得ることができる。

「ある時点での適切な断面図」
とはいい言葉だ。
断面図をいくつも持つことで、
初めて全体が立体的に見えてくる。

 

 

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2024年1月21日 (日)

「て形」って何?

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「て形」って何?

- 日本語教育用語との出会い -

 

フランス語、中国語、英語、日本語と
複数言語をあやつりながら
日本語の教師として活躍している
山本冴里(さえり)さんの
言葉をめぐる旅の記録

山本冴里 (著)
世界中で言葉のかけらを
 ―日本語教師の旅と記憶

筑摩選書

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

を読んでいたら、
第二章にこんな一節があった。

たとえば、「て形」と呼ばれる、
「て」をつける動詞の活用。

これは、日本語学習の最初の山だ。

「見る」「寝る」「起きる」など
一段活用の動詞は「る」を外して
「て」をつけるだけ
(「見て」「寝て」「起きて」)だが、
五段活用の動詞はそうはいかない。

「待つ」は「待って」でも、
「読む」は「読んで」だし、
「話す」は「話して」となって複雑だ。

「て形」?

第三章には、
エトヴェシュ・ロラーンド大学で
教鞭をとっており、
ハンガリー語絵本の
日本語への翻訳出版にも携わっている
内川かずみさんの言葉として

「同じ形で日本語教育に入った人は
たぶんみんな思うことですけれども、
え? 日本語ってこういうシステムが
あったんだというのが衝撃で。

「て形」にしろ、
「と・ば・たら・なら」にしろ、
自分では使えていても
違いが説明できなかった、

あるいは
どうしてこうなるのか
気にしたこともなかった、
っていうようなことを
教えなければならなくて、
教科書を読んで
まずは「ああ、なるほど」って
自分が感心して、
それを学生に伝えるのが
楽しかったですね」

も載っている。

「て形」とか「と・ば・たら・なら」って
いったいナンなのだろう?

少なくとも日本の学校で
国語の時間に教わった記憶が全くない。
なのに「て形」は
日本語学習の最初の山だという。

日本語教育のための
専門用語ということなのだろうか?

 

「て形」についてちょっと見てみよう。
まずは「て形、日本語教育」などで
ググってみた。
すると、丁寧な解説ページが
いくつも出てくる。
ところが、それらを読み始めると
さらなる未知の
「日本語教育用語」に遭遇することになる。

「動詞の3グループ」

どうも日本語教育においては、
日本語の動詞を
次の3グループに分類して教える方法が
広く使われているようだ。

グループ1(五段活用)
  - る(ru)で終わっていない動詞
     買う・書く・急ぐ・飲む など
グループ2(上一段/下一段活用)
  - る(ru)で終わる動詞
     見る・食べる・入れる など
グループ3(カ行/サ行変格活用)
  - 「する」と「来る」の2つ

これらのグループ別に
「ます」が語尾になる「ます形」を教え、
そして「て形」を教える、のステップ。
しかも説明には順番まである。
グループ2-3-1の順。

*グループ2(上一段/下一段活用)
  見る  見ます  見
  食べる 食べます 食べ
  入れる 入れます 入れ
*グループ3(カ行/サ行変格活用)
  する  します  し
  来る  来ます  来

なるほど。グループ2と3については
カ変、サ変を含みながらも
「て形」の作り方がかなり規則的だ

「ます」がわかれば、
「ます」を「て」にするだけ。

ところがグループ1について並べ始めると
とんでもないことに気づく。

*グループ1(五段活用)
  買う  買います 買って
  書く  書きます 書いて
  急ぐ  急ぎます 急いで
  飲む  飲みます 飲んで

なんなんだこの不規則性は。
無理やり整理して書くと
下記(1)-(5)にまとめられるようだが
(3)の例外に「行く(行きます)」があって
(1)-(6)を覚える必要があるらしい。

「ます」の前の字が
(1)「い」「ち」「り」の動詞は「って」
(2)「み」「び」「に」の動詞は「んで」
(3)「き」      の動詞は「いて」
(4)「ぎ」      の動詞も「いて」
(5)「し」      の動詞は「して」
(6)「行きます」   は  「行って」

「いちりって みびにんで きいて 
 ぎいて しして いきます いって」
の内容を、歌や呪文で覚えるようだ。
英語を学び始めた中学1年のとき、
「I my me, you your you...」
と呪文のように繰り返したことを思い出す。

外国人が
「いちりって みびにんで ・・・」って
モグモグ繰り返していても
それが日本語学習のためだなんて
まったくわからない不思議な呪文だ。

それにしてもおもしろいのは、
私を含めた日本語を母語とする者は、
呪文はもちろん
動詞のグループ1-3も、(1)-(6)も
一度も意識したことはないのに
迷いなく
正しく「て形」を作れることだ。

たとえそれが
初めて目にした動詞だとしても。
本書最後の注にも

日本語母語話者は、日本語教師としての
トレーニングを受けていなければ、
この「て形」について
明示的に学習する機会はない


そのため、
たとえば「ごばつ」という
新しい動詞があったとして、
「ごばってください」
活用はできるが、なぜ
「ごばいてください」
「ごばんでください」
などではないのか、
ということの説明ができない。

と興味深い例がある。

「日本語を学ぶ」「日本語を教える」
当然のことながら、
そこには日本語を母語とする者には
想像もできないような
多くの困難があることだろう。

知らなかった日本語教育用語からは
そんな困難さをなんとか体系的に教えよう、
学ばせようという、先人の苦労と工夫が
滲み出ている。

 

 

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