言葉

2025年1月 5日 (日)

どんな読み方も黙って受け入れる

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どんな読み方も黙って受け入れる

- 読み手を否定しない -

 

いまや貴重な存在になってしまった
「大きな書店」のカウンタ横にあった
小冊子
100demeichotekefrees
の中から、最後にもうひとつ、

小川洋子(小説家)
人生の豊かさを示す秤


にある言葉を紹介したい。
(以下、水色部は小冊子からの引用)

本の再読に関して、
小川さんはこう書いている。

本そのものは一字も変わっていない
同じ姿でそこにあり続ける。
にもかかわらず、
読み手の心持ちの違いによって、
いかようにも変化してゆく。

見えなかった風景が浮かび上がり、
記憶から消えていた登場人物に
親愛の情がわき、
小さなシーンが持つ特別な意味に
気づかされる。

本当に同じ本だろうか、
と信じられない思いにとらわれる。
神秘的な体験ですらある。

ほんとうに神秘的で不思議な体験だ。
中身はよくわかっているつもりだし、
相手(本)は何一つ変わっていないのに
好きな本を読み返すと
いつも新しい発見があり、
新鮮な気持ちになる。  

読み方の変化は、自分自身の
人間性の変化につながっている。

自分の人生がどういう場所に
向かおうとしているのか、
本が教えてくれる。

そして本は決して、
読み手を否定しない。

どんな読み方をされても、
黙って受けとめる


移り変わってゆく読み手に、
辛抱強く寄り添ってくれる。

「一文字も変わっていない」
「決して否定しない」
「黙って受け止める」
うまい表現だし、本が人なら
これこそがまさに圧倒的な性格と
言えると思うが、
いい本に出会うと、なぜかその本と
対話できるような気がするのはなぜだろう。

こちらの問いかけに、実際には
本は何も返してくれてはいないのに。

 

 

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2024年12月29日 (日)

付箋を貼りながらの読書

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付箋を貼りながらの読書

- どうして貼ったの? -

 

いまや貴重な存在になってしまった
「大きな書店」のカウンタ横にあった
小冊子
100demeichotekefrees
を読んでいたら、

武田砂鉄(ライター)
名著化するかもしれない


で、思わず手が止まった。
(以下、水色部は小冊子からの引用)

どんな本でも付箋を用意して
あちこちに貼りながら読んでいる。

とあったからだ。

私もまさに同じ方法で読んでいる。
線を引いたり、ページを折ったり、
後で気になった箇所を読み返す方法は
ほんとうにいろいろ試してみたが、
最終的に今はこの方法に落ち着いている。

百均で買った付箋をさらに細く切って
ちょっとでも引っかかった行があれば
あまり考えずにサクサクと貼っていく。

なので、並べるとこんな感じだ。

S__2875406s 

「こんなに貼ったら探せないでしょ」
と友人は半ば呆れ顔で笑っているが
本人はぜんぜん気にしていない。
栞の紙に、小付箋をまとめて貼ってあるので
読みながらそこから剥がして貼ると、
読むペースを大きく乱さないですむ。

本棚を眺め、
久しぶりに引っこ抜いた本にも
付箋がついている。

フレーズが刺さったのかもしれないし、
論理展開に領いたのかもしれない。

付箋をつけた箇所を開いてみると、
その半数近くで、
つけた意味が読み取れない


このフレーズ、そんなに響かないし、
論理展開だって平凡だ。
でも、その時は、
間違いなくその箇所に心が動いた
のだ。

まったくそう。
読んだ直後はともかく、時間が経つと
「どうして貼ったのか」が
思い出せない行がほんとうに多い。

でも、まさに
「その時は、間違いなくその箇所に
 心が動いたのだ」

人間の考えは変わる。
ならば、
名著が名著じゃなくなるかも
しれないし、
逆に名著になって
戻ってくるかもしれない。

時代がその本を
名著にするかもしれないし、
むしろ、この時代にこれはどうかな、と
遠ざけるかもしれない。

本、音楽、映画、全てに共通するが、
名作には流動性がある
だって、こっちが変わるから。

変わったこっちが読めば、
味わい方だって変わるはずなのだ。

確かに自分にとっての本の価値は
「その時の自分」との組合せにおいて
決まっていくし、
それは流動的ではあるけれど、
自分が貼ったのに
自分で理解できない付箋を見ていると、
「読んだ時の自分」が
そこに貼り付いているようで、
理解できないながらも
「不思議な過去との再会」を
果たしたような気分になる。

 

2024年もいよいよ年の瀬。
気ままに続けているブログですが、
来年もマイペースでぼちぼち書いていこうと
思っています。
引き続きどうぞよろしくお願いします。

よいお年をお迎え下さい。

 

 

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2024年12月22日 (日)

後日に書き換えられたかも?

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後日に書き換えられたかも?

- 記憶が鮮明なればこそ -

 

いまや貴重な存在になってしまった
「大きな書店」のカウンタ横にあった
小冊子
100demeichotekefrees
から、印象的な言葉を
前回に引き続き紹介したい。
(以下、水色部は小冊子からの引用)

今日は、

安田登(能楽師)
古典の不思議に出会った瞬間


から。

安田さんは、中学時代の思い出を書いている。
読書家で物知りな彼女がいた安田さん。
彼女の話を理解するために本を読み始めた。

彼女との書店デートで見つけたのが
本書、『詩経』だった。

何気なく手にした本書の中に
一日見ざれは三月の如し
という句を見つけて驚いた。

思春期の男子である。

毎日でも彼女に会いたい。触れていたい。
一緒にいたい。
そんな自分と同じことを
数千年前の人間が思い、
しかもそれを書き、
さらにそれをいま読むことができる。

中国の古典、五経のひとつ『詩経』に載る
恋人とたった一日会わないだけで、
三か月も会っていないような気持ちになる、
という意味の詩句のその内容と
千年単位という時間スケール
圧倒される安田少年。


その日の書店の景色は
いまでも覚えている。
天気も覚えている。
匂いも覚えている。
隣にいた彼女のことも覚えている。

むろん、それは後日に
書き換えられた部分もあるだろうが

それでもその場の情景が、
そっくりそのまま、
自分の脳裏に
焼き付いたほどの衝撃だった。

「それは後日に書き換えられた部分も
 あるだろうが」
が読んでいて妙に印象に残った。
そう、そこまで鮮明な記憶であっても、
というか鮮明な記憶であるからこそ
後日書き換えられることは
確かにあるような気がする。

記憶って過去のことではあるが、
思い出すのはいつでも今なのだから、
今の気持ちがどうしても影響してしまう。

なので鮮明なればこそ
その強い印象によって書き換えられる機会が
多いのかもしれない。
個人の記憶ってその程度のものだ。
そこに正しい、間違っているを持ち出しても
あまり意味はないだろう。

書き換えられたかも?
そう思う心の余裕があれば十分だ


あの読書家の安田さんに

さまざまな名著に出会えたのは
ひとえに彼女のおかげである。

とまで言われた彼女さん。
今、どこでどうして
いらっしゃることだろう。

 

 

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2024年12月15日 (日)

内発性を引き出してこそ

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内発性を引き出してこそ

- 感動的なものができるとき -

 

いわゆる街の本屋さんはまさに減る一方だが
けっこう大きな書店でも
縮小したり閉店したりするところが多く
いまや「大きな書店」は
貴重な存在になってしまった。

そんな書店のひとつに立ち寄ったところ
カウンタのそばに
Take Free (ご自由にどうぞ) と
こんな小冊子が置いてあった。
さすがにこれはAmazonでは入手できない。
100demeichotekefrees
NHK Eテレの番組「100分de名著」に
指南役で登場した各専門家による
名著にまつわるエッセイをまとめたもの。

その中から、いくつか印象的な言葉を
紹介したい。
(以下、水色部は小冊子からの引用)

最初は、

秋満吉彦
 (NHK100分de名著プロデューサー)
いつも原点を思い出させてくれる名著


から。

考えもしなかった
感動的なものができるのは、
メンバーそれぞれの内発的なものが
引き出されたとき
ではないか……
ということに深く気づかされた本が、
レヴィ=ストロース
『構造・神話・労働』
だ。

「人間にとって労働とは何なのか」を
研究していたレヴィ=ストロースは、
世界中をフィールドワーク。
日本も訪問し、
日本の職人の働き方を
徹底的に観察した、という。

その時、彼が気づいたのは、
西洋人の「鋤く」と日本人の「働く」は
違うということ。
さて、どう違うというのだろう。

西洋人の労鋤というのは、
自分の頭にあるブランを
対象とか自然にあてはめる


たとえばコンクリートで
何かをつくるとしたら、
材料をペースト状にして、
自分が想像した設計図に
完璧にあてはめてつくる。

一方、日本人はどう映ったのか。

たとえば石垣。
自然の石をどう組み合わせたら
石垣になるかを考える。

陶器をつくる人は
「この土がなりたがっている形を
 引き出す」と言ったりもする。

日本の職人は何かを
支配しようとするのではなくで、
素材そのものが持っている素晴らしさ、
潜在力を引き出そうとする

そういえば、以前
編集者松岡正剛さんも花伝書を引いて
「才能とか能力とは、アタマやカラダや
 知能にそなわっているものではなく、
 素材や道具にそなわっているものを
 引き出せる仕業
のこと」
と言っていた。

あらゆるものを開発して
消費しつくしてしまう
先がないような
文明の作り方ではなくて、
日本人の、受動的に何かを
引き出そうさする働き方こそが、
労勘に豊かさを取り戻す方法だ
というのだ。

この本に出合って、秋満さん、
プロデューサーとしての
仕事のやり方が激変したという。

支配せずに受け身になり、
一緒に働いている人の豊かな能力、
内発性を引き出すやり方

「土がなりたがっている形を引き出す」は、
土や石といった素材だけでなく、
それは働いている「人」に対してだって
あてはまる考え方だ。

 

 

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2024年12月 8日 (日)

「生きてみると、とっても大きい」

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「生きてみると、とっても大きい」

- 4歳の言葉から -

 

先日、5歳から7歳くらいの
年齢の子どもたちと遊んでいたら、
公園や木々の間を走り回りながら発せられる
子どもならではの世界観に
おおいに笑い、驚かされた。
と同時に、以前読んだ
この新聞記事のことを思い出した。

2009年2月14日 朝日新聞
090214_okinawas

明治政府が琉球国を併合した「琉球処分」や
沖縄戦、基地問題等を考えてきた
知念(ちにん)ウシ(うしぃ)さんが、
沖縄での自身の子育てを書いたもの。

「歴史の積み重ね伝えたい」
との見出しがついている。
(以下水色部、記事からの引用)

 

私は大学入学以来
10年余りを過ごした東京から
9年前に、生まれ育った場所に戻り、
世帯を構え、
8歳と6歳の子を育てている。

そこで、知念さんが気づいたのは

地域という空間には、
今、目に見える一時だけでなく、
人々の思いをのせたさまざまな時間が
折り重なって同時に流れている

ということだ。

知念さんは、
そのことを子どもたちに教えたいと
強く思いながら子育てしている。

自分のいる場所には歴史があること。
過去は今とつながり、
その中で人は自分の今を生き、
未来ができること。

この地で連綿と生きてきた人々の
喜びや悲しみや怒りが、
自分を守り育むのだと

そんな知念さんに育てられた子どもたち。
こんなエピソードが最後に紹介されている。

夫の故郷のアメリカを訪ねた、
ある夏のこと。

親類と出かけたレストランに
世界地図がかかっていた。
私は子どもたちに、
これがアメリカだよ、と教えた。

6歳だった息子が聞く。
「沖縄はどこ?」。
私が指さしたのは、
印刷ミスにも見える小さな黒い点。

息子が叫ぶ。
「えー、こんなに小さいの、
 沖縄って。あんなに大きいのに」。

すると4歳の娘がすまして言った。

沖縄はね、地図で見ると小さいけど、
 生きてみると、とっても大きい

以前であれば、
「そうそう、子どもにとっては
 あの小さい沖縄がとっても大きく
 感じられるンだよね」
と読み飛ばしてしまっていたかもしれない。


しかし、今は少し違った感覚で捉えている。
沖縄以外も知っている大人は
「沖縄は小さい」と言う。
「世界は広い」と言う。

でも、沖縄だけをとっても
「歴史の積み重ね」を感じ、
「この地で連綿と生きてきた人々の
 喜びや悲しみや怒りが、
 自分を守り育むのだ」と
丁寧に感じながら生活すれば、
大人にとっても沖縄は広いはずだ。

雑に世界を捉えると
物理的な広さを求めて
「世界は広い」と言ってしまうけれど、
細かいことに気づき、
詳細に世界を感じる感性をもっていれば、
沖縄の中にだけでも
無限の世界が広がっている。

大人は雑だから広さを求めるが
子どもは繊細だから「とっても大きい」と
感じられる。

大人になってからだって
「とっても大きい」と感じられる感性を
持つことは可能なはずだし、
そこから見えてくる
無限の世界もあるはずだ。

 

 

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2024年11月17日 (日)

「こんにちは」と声をかけずに相手がわかるか

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「こんにちは」と声をかけずに相手がわかるか

- 「ダンゴムシに心はあるのか」から -

 

森山 徹 (著)
ダンゴムシに心はあるのか

新しい心の科学
PHPサイエンス・ワールド新書
PHP研究所
Dangomushinis

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

は、題名の通り、
ダンゴムシに心があるか?
の研究に挑んだ記録だが、

研究成果そのものよりも、
「心」という捉えどころのないものを
どうやってダンゴムシから
観測しようというのか、
そのアプローチ自体に興味があって
手にしてみた。

まずは、「はじめに」にある
たとえ話について考えてみよう。

皆さんの住む街に、ある日、
見知らぬ人物が現れたとします。

皆が、彼の正体を知りたいと思います。

さて、どうすれば彼のことがわかるか?

まず思いつくのは観察だ。

ある人はあらゆる角度から写真を撮り、
またある人は生活を分析します。

写真機の性能と撮影技術、
生活の分析手法は
日増しに向上するでしょう。

こうして膨大な、そして正確な
彼の記録が集まります


しかし、肝心の彼の「正体」は、
なかなか明らかになりません。

記録の方法は適切で、
その技術は進化し続けました。

しかし、技術の進化とは裏腹に、
皆さんは、その先に彼の正体を
つかめる未来がなさそう
なことを、
薄々感じ始めるでしょう。

「正体」とは何か?といった
硬い定義はともかく、
「彼ってどんな人?」の
軽い質問に答えようとしても
観察記録だけでは、
質問者の期待に応える回答が
できるような気は確かにしない。

そして、こう考えるでしょう。

彼の正体を知るには、今や、
だれかが彼の肩を直接叩き、
「こんにちは」と
声をかけることが必要
だと。

彼に気づかれないよう、
彼を記録することは、
観察者の影響を受けない
手つかずの彼
を知る最善の手段です。

しかし一方で、
最も知りたい彼の正体や本質を
知ることはできません。

観測対象に影響を与えずに
観測対象を知ることはできるのか?


量子力学の観測問題とは別次元なるも、
観測や計測を最大の拠り所として
成り立っている自然科学の
最も根本的な課題のひとつだ。

声を直接かけられることで、
彼の挙動や生活は、
観察者の影響を受け変化するでしょう。

しかし、その変化とは裏腹に、
正体は揺らぐことなく、
現前するのです。

揺らがないからこそ、現前するそれは、
正体、あるいは本質と言われるのです。

自信満々で言い切ってしまっている
この最後の段の内容はともかくも、
相手を知るために「こんにちは」と
声をかけることの価値や効用は
誰にでもイメージしやすい
わかりやすい事例と言えるだろう。

もちろん声をかけるだけで
すべてがわかるわけではないが、
仮にたったひと言の往復であったとしても
客観的な観察だけのときに比べて、
ぐっと距離が近くなるような経験は
確かにある。

どんな「こんにちは」で
ダンゴムシの心を探ろうというのか。
うまい導入だ。
次回、もう少し先を読んでみたい。

 

 

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2024年11月 3日 (日)

紙の本が持つ力

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紙の本が持つ力

- 島田潤一郎さんの言葉 -

 

全国大学生活協同組合連合会
「読書のいずみ」
通巻180号(2024年9月発行)
Dokusyonoizumi2409s
という小冊子に

夏葉社代表 島田潤一郎さん

京都大学大学院 齊藤ゆずかさん
との対談、
 座・対談
「良い作品は、豊かな時間を与えてくれる」

という記事があった。
(以下、水色部記事からの抜粋)

島田潤一郎さんは、1976年高知県生まれ。

2009年、
出版社「夏葉社」をひとりで設立
「何度も、読み返される本を。」
という理念のもと、
文学を中心とした出版活動を行う。

と紹介がある。

本への思いを熱く語る島田さんの言葉から
印象に残ったものを紹介したい。

(1) 紙という限定性

例えば「日本の歴史」という
300ページにまとまっている本が
あったら、
それはそれとして受け取るわけです。
それは本に対する信頼ですよね。

「300ページで日本の歴史なんて
 書けないよ、これは嘘だよ」とは
思わないでしょう。

300ページ読んだら、300ページ分の
日本の歴史というものがあって、
それはそれなりに完結してるわけです。

完結するのは
紙という限定性があるからこそ
だと思います。

「紙という限定性があるからこそ」
「完結する」という視点がおもしろい。

(2) 情報をただ束ねたものではない

「国」は
目に見えないひとつの概念ですが、
一冊の本として紙に残すと、
あたかも「国」というものが
実際にあるように見えますよね。

我々が作っているのは
そういうものに近いと思うんですよ。

それは何か情報を
ただ束ねたものではなくて、
ものすごく力のある、
ものすごく大切なもの

作っているような気がします。

本は、
「情報をただ束ねたものではない」は
出版社として
ぜひ言いたかったことのひとつだろう。

(3) 紙の本として残す意味

だから、
力のある人たちは印刷しますよ。
印刷して、それが多くの人に
読んでもらえるかどうかではなく、
印刷することに意味がある。

紙の本として残すことに意味がある
のです。

我々も「歴史上の誰々という人が
本当に実在したかどうか」というのは、
写真のない時代であれば、
その名前が実際にどこかに
書かれているかどうか
で、
確認していますよね。

印刷技術登場以前の時代も含めて、
残された本には意味がある。

どんな英雄であれ、
「その人が実在した」を確認する手段は
文字であること、
それは多くの場合
それが書かれた本であること
そして、それこそが
「紙の本が持つ力のひとつ」であること、は
いまやあまりにも「当然」と
思ってしまっていて意識していないせいか、
改めて言われてみると
ハッとするような不思議な驚きがある。

 

 

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2024年9月15日 (日)

「宇宙思考」の3ステップ

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「宇宙思考」の3ステップ

- 正誤も価値も視点に依存 -

 

天文物理学者BossBさんを知ったのは
音楽が流れるクラブでサイエンスを体感する
ちょっと挑戦的なイベント
夜学/Naked Singularities04
で、だった。

低音が鳴り響くクラブの音楽をバックに
ワームホールやらブラックホールやら
マルチバースやら次元やら、
そんな話を専門の講師を招いて
大真面目にやる、という不思議な空間。
その中の講師のひとりがBossBさんだった。

天文物理学者BossB (著)
宇宙思考

宇宙を知れば、視点が増える
視点が増えれば、モノゴトの本質が見えてくる
かんき出版

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

という本も書いている。
その「はじめに」に

天文物理学者BossBが誕生したのは、
2020年秋、コロナ禍、
それまで継続してきた
社会活動ができなくなり、
TikTokを中心にSNSで、
宇宙と愛と平和のメッセージの発信を
始めた瞬間です。

とあるように、コロナ禍での
SNSでの発信がその誕生には
大きく関わっていたようだ。

上記イベントのトークでも
強烈な個性を放っていたが
信州大学工学部准教授という顔も持つ。

そんなBossBさんが
専門の天文物理学について語っているこの本、
ちょっとユニークなのは、
宇宙、量子、次元、光速、ブラックホール
などなど、そういった分野への質問に
学者として丁寧に答えながらも、
各節末に「宇宙思考」なるコラム欄を設け、
物理学の発展の歴史を絡めながら
質問している若い読者に向けて
ポジティブな思考につながるメッセージを
多数発信していることだ。

その発想のベースとなる
「宇宙思考」の3ステップは

(1) 視点に限られたことしか
  見ることができない
(2) 新しい視点、多視点で見え始める
(3) 視点を選び、未来を創る

どれもシンプルで、それ自体は
新しいことでも特異なことでもない。

でも、この3ステップを通して眺めることで
物理学発展の歴史を大きく俯瞰できること、
そしてそれは、物理学の世界に限らず、
人間社会における常識や価値観、
生き方そのものの見つめ方にも
大きく活かせることを、
改めて、まさに視点を変えながら
繰り返し説いている。


科学的知識(科学)
間違っている可能性を許容し、
反証を歓迎し、
動的に常に変化していくものです。

と述べた後、半ページ後ろでは、
主語の「科学」を「常識」に入れ替えて

常識も、
間違っている可能性を許容し、
反証を歓迎し、
動的に常に変化していくもので
あるべきです。

と述べている。
ひとつの視点からの正誤や価値を
絶対的なものとしない柔軟性が
「別な視点から見れば」のひと言で
軽やかに生まれてくる。

BossBさん自身

宇宙を知れば知るほど、
周りの人々の輝きも見えてきました。
表面からは見えない、
本質を見る努力をするようになりました。

と言っており

自分の当たり前ではない、
社会の普通ではない領域を
探検してみてください。

違いに出会い、対話してください

と読者に呼びかけている。

それらすべてのメッセージは、
ひと言で言えば、

それぞれの色で輝ける社会を
創っていきたい、

とのBossBさんの熱い思いと
若者への愛のまなざしに支えられている。

 

 

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2024年9月 8日 (日)

漱石の神経衰弱と狂気がもたらしたもの

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漱石の神経衰弱と狂気がもたらしたもの

- 『文学論』序 から -

 

名著なので
ぜひ詳しく紹介したいと思いながら
その内容の豊かさに圧倒されて
いまだに本ブログで記事にできていない

下西風澄 (著)
生成と消滅の精神史

終わらない心を生きる
文藝春秋

だが、
その第6章
「夏目漱石の苦悩とユートピア」
を読んで以来、
漱石の苦悩に思いを馳せながら
漱石作品を読むようになった。

下西さんが指摘している苦悩については
今日は触れないが、
その苦悩の大きな背景のひとつである
英国留学の体験については

夏目漱石 (著), 磯田光一 (編)
漱石文芸論集

岩波文庫

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

の 『文学論』序 に、
漱石自身のかなり生々しい言葉が並んでいる。

愚痴のオンパレードとも言える
赤裸々な思いの吐露は、
初めて読むとちょっと衝撃的だ。
今日はそれについてメモを残しておきたい。

イギリスに約2年間留学した漱石が
精神を病んでしまったことは
よく知られているが、
実際にどんな時間を過ごしたのか、
『文学論』序を読むと
詳しく知ることができる。

まず留学。

当時余は特に洋行の希望を抱かず、
かつ他に余よりも適当なる人
あるべきを信じたれば、

と、そもそも全く行く気がない。
それでもけっきょく、
推薦を断りきれず行くこととなる。
明治33年9月日本出発、11月にイギリス着。

ケンブリッジで2,3の日本人に逢う。

彼らは紳商の弟子にして
いはゆる
ゼントルマンたるの資格を作るため、
年々数千金を費やす

一方で、自分が政府から受ける学費は
年に1800円しかなく、
彼らと同様に振る舞うなんて
とてもできない、と愚痴が続く。

ちなみに、紳商(しんしょう)とは、
教養があり、品位を備えた一流の商人。
と小学館の国語辞典にある。

財力のある紳商の弟子たちは

午前に一、二時間の講義に出席し、
昼食後は戸外の運動に二、三時を消し、
茶の刻限には相互を訪問し、
夕食にはコレヂに行きて大衆と会食す

なる生活を送っており、
なので

余は費用の点において、
時間の点において、
また性格の点において
到底これら紳士の挙動を学ぶ
能はざるを知って
彼地に留まるの念を永久に断てり

と、いきなりもう投げやりだ。

結局、
「大学の聴講は三、四カ月にしてやめたり」
となるが、それでいじけて
遊び呆けていたわけではない。

「英文学に関する書籍を
 手に任せて読破せり」
の生活を通して、ある思いにたどり着く。

余が英語における知識は
無論深しといふべからざるも、
漢籍におけるそれに劣れりとは思はず。

学力は同程度として
好悪(こうお)のかくまでに
岐(わ)かるるは
両者の性質のそれほどに
異なるがためならずんばあらず、

換言すれば
漢学にいはゆる文学と
英語にいはゆる文学とは
到底同定義の下に
一括し得べからざる
異種類のものたらざるべからず。

大学を卒業して数年の後、
遠き倫敦(ろんどん)の
孤燈(ことう)の下に、
余が思想は始めてこの局所に
出会(しゅっかい)せり

そして、この決心に繋がっていく。

余はここにおいて
根本的に文学とは如何なるものぞ
といへる問題を解釈せんと
決心したり


同時に余る一年を挙げて
この問題の研究の第一期に
利用せんとの念を生じたり。

 

大きな課題が明確になり
突き進み始める漱石。

この一念を起してより六、七カ月の間は
余が生涯のうちにおいて
尤も鋭意に尤も誠実に
研究を持続せる時期なり

書いたノートの量も

留学中に余が蒐(あつ)めたるノートは
蠅頭(ようとう)の細字にて
五、六寸の高さに達したり。

一寸は約3cm。
蠅の頭ほどの小さな字で、だ。

それでも、振り返ると留学生活は

倫敦に住み暮らしたる二年は
尤も不愉快の二年なり

余は英国紳士の間にあって
狼群(ろうぐん)に伍する
一匹のむく犬の如く、
あはれなる生活を営みたり

だったようで、
「尤も不愉快の二年なり」
「あはれなる生活を営みたり」
と、つらかった思いを繰り返している。

なので外見(そとみ)には

英国人は余を目して神経衰弱といへり
ある日本人は書を本国に致して
余を狂気なりといへる由(よし)。

賢明なる人々の言ふ所には
偽りなかるペし。

それは帰国後も続き
「帰朝後の余も依然として
 神経衰弱にして兼狂人のよしなり」
でも

ただ神経衰弱にして狂人なるがため、
『猫』を草し
『漾虚集(ようきょしゅう)』を出し、
また『鶉籠(うずらかご)』を
公けにするを得たりと思へば、
余はこの神経衰弱と狂気とに対して
深く感謝の意を表するの至当なるを信ず

神経衰弱と狂気が
漱石を創作の方向に駆り立てた。
本人がそう語っている。
「深く感謝」とまで。

何が何につながるか、
ほんとうに人生はわからない。

 

 

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2024年9月 1日 (日)

「ぼくはウンコだ」

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「ぼくはウンコだ」

- たった一音に反応してしまう耳 -

 

以前、
「はじめて考えるときのように」(1)
の記事の中で、

「考える」っていうのは、
耳を澄ますこと、研ぎ澄ますこと

という野矢茂樹さんの言葉を紹介した。

考えるとは、
じぃ~っと集中することではない。
なので、「考えていない」人と
同じように行動していい。

ただ違うのは一点、
「あ、これだ!」という声に
その人は耳を澄ましている。

この
「耳を澄ましている」
「あ、これだ!」
で思い出した話があるので、
今日はそれを軽く紹介したい。

高島俊男 (著)
「最後の」お言葉ですが・・・

ちくま文庫

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

にある、「ぼくはウンコだ」という題の
一篇。

このあいだロベルトに会った時に
「おれのところへかかってくる電話の
 半分くらいは小便してる最中に
 かかってくるんで弱る」
とボヤいたら、ロベルトは即座に、
「ぼくはウンコだ」
と言った。
これには小生、いたく感服した

さすが高島さん、
この「は」を聞き逃さないとは。
まさに「耳を澄ましている」の好例だ。

この「は」は
「ぼくはウナギだ」の「は」である。

「限定・強調のは(ワ)」と言うらしい。

森田良行『基礎日本語辞典』には
「僕は教室だ」
「あしたは引っ越しだ」
「日曜日は休養だ」
「彼は釈放だ」
などの例文をあげてある。

もっともさすがの森田先生も、
説明には難渋していらっしゃる
模様である。

どう難渋していらっしゃるのか?

森田良行『基礎日本語辞典』を
覗いてみよう。
(以下薄紫部、
 『基礎日本語辞典』からの引用)

判断文における「何ハ」は、
話し手が聞き手に対して
まず主題を提示し、
これを発想の出発点として
疑問の場(または課題の揚)を
設定することである。

「何ハ」で示した題目について、
次にどのような判断を下し
解説を施すかは話し手の自由である。

その題目事物を
行為や属性の主体として扱おうと、
行為の目的や対象として扱おうと、
自由である。

そのため述語が動詞または
動詞的意図を持つ名詞のときは、
「何ハ」の「何」は
行為の対象物としても扱われ、
「〜ハ」は必ずしも主語になるとは
かぎらない
。対象語ともなる。

うーん、たしかに難渋していらっしゃる。
辞典の説明なのに、一度読んだだけでは
全く理解できない。

高島先生ですら

いやこっちのアクマが悪くて
理解に難渋するのかもしれんが、
とにかくむづかしいのだ。

とおっしゃっているので
まぁ素人の私が理解できないことも
許して(?)もらおう。


この「は」をとっさに、
かつ自然に言える西洋人が
日本にそう何人もいるとは思えない。

凡庸な西洋人なら
「ぼくのばあいはちょうどワンコが
 出始めた時に電話が鳴ります」
とか何とか冗長に言いそうである。

あらためてロベルトの日本語能力を
見なおしたことでありました。

もちろんロベルトさんの日本語能力には
感服しかないが、
たった一音を聞き逃さずに反応し、
印象的な題のエッセイに仕上げる
高島さんの耳も
言葉について「考えている人」の
まさに好例と言っていいだろう。

「あ、これだ!」という声が聞こえるのは
考えている人だけだ。

 

 

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