言葉

2020年7月12日 (日)

音符は『おたまじゃくし』?

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音符は『おたまじゃくし』?

- 他国の別称を探して -

 

前回
ヨコ書き、タテ書きの話を取り上げた際、
日本語学者の屋名池(やないけ)誠さんの
指摘、
「タテ書きが未来も生き残るかどうか、
 カギを選っているのは、
 漫画なのかもしれません」
を紹介した。

いまや日本の輸出文化を代表する漫画。
セリフは翻訳するにしても
構図と流れの関係から
右から左へ読んでいくスタイルは
変えようがないらしい。
ページ構成も右から左。

左から右への本しか目にしていない人たちに
そのあたり、違和感はないのだろうか?
機会があれば、ぜひ現地の人に
感想を聞いてみたい


と締めくくった。

今日は、「機会があれば、
ぜひ現地の人に聞いてみたい」に
実際にトライした例をひとつ紹介したい。

 

以前、友人と街を歩いている際、
「tadpole(タッドポール)」という名前の
音楽スタジオの看板が目に留まった。

「音楽スタジオだから
 『おたまじゃくし』でtadpoleか」

と何気なく流したつもりだったが
「音符のことを『おたまじゃくし』って
 外国の人も言うのだろうか?」
という素朴な疑問を友人がぶつけてきた。

「形からおたまじゃくしを連想するので
 日本では音符のことを
 『おたまじゃくし』って言うんだよ」
と説明すれば、どこの国の人にも
理解はしてもらえる気はする。

ただ、そのことと実際に『おたまじゃくし』と
現地の言葉で言うことがある、は別の話だ。

おもしろい。聞いてみよう。

 

実はそのことがあった直後、
仕事ではあるが、
世界各国の人が集まる会議に
出席することになっていた。

会議は3日間の予定。
初日の夜、receptionとして
立食のパーティが企画されている。

立食ならば聞いて回りやすいし
いいチャンスだ。

私のカタコト英語を通しての
コミュニケーションゆえ
細かい部分まで正確に
伝えられていなかったであろうことは
ご容赦いただくとして、
簡単にその内容を紹介したい。

最初に話をしたのは
米国、カナダ、オーストラリア
からの3人。

日本では「おたまじゃくし」と呼ぶ、
という話にたいそう興味を持ってくれて
協力的に話を聞いてくれたが、結果として
いわゆる音符を示す単語
[note]または[music note]
以外での呼び方は聞き出せなかった。

続いて話をしたのは、
スウェーデン、オランダ、英国
からの3人。
こちらもnoteだけ。

収穫がなく
ちょっと残念な気持ちになっていたころ、

「『あそこでおもしろいことを
  聞いて回っている人がいるから、
  おまえも協力してやれよ』
 って言われたので来たよ」

とこちらから声をかける前に
向こうから逆に声をかけてくれる
うれしい動きが始まっていた。

聞くと、
すでに話をした米国人やオランダ人が、
各国の人に声をかけてくれていたようだ。

いい歳をしたオッサンが
小さなネタに申し訳ない。

というわけで、
一気に聞きやすくなったのだが
次に聞いたスイスも
「残念ながらnoteだけ」だと言う。

フランスも基本はnoteだけ、
とのことだったが、話をしているうちに
ようやくそれ以外の単語が出てきた。

8分音符に関しては[crochet]と
呼ぶことがあるらしい。
意味は「かぎ針」
とか。
なるほど、かぎ針の先端によく似ている。

いずれせよ、すでに8カ国の人に聞いたのに
意外に音符の「別称」は出てこない。

ところが、アジア圏の人と話を始めたら
一気に動いた。
シンガポール、マレーシア、中国では、
日本語での「もやし」
で呼ぶことがある
ようだ。

こちらも形からよくわかる。

というわけで、ヒアリングの結果だけを
整理するとこんな感じ。

 

「音符」の
「音符(英語:note)」以外の呼び方。

(1) 別称なし:[英語での(music) note]のみ
  米国
  カナダ
  オーストラリア
  スウェーデン
  オランダ
  英国
  スイス

(2) 8分音符を「現地語:crochet」
  「日本語:かぎ針」で呼ぶことがある。
  フランス

(3) 「日本語:もやし」で呼ぶ。
  シンガポール 「現地語:Tauge」
  マレーシア  「現地語:Tauge」
  中国     「現地語:豆芽」

結局、
「おたまじゃくし」と呼んでいる国は
見つからなかった。

アジア圏に形からの別称があるのは
象形文字の要素も含む漢字の影響が
多少はあるのだろうか?

「現地の人に聞いてみた」の
ひとつの報告まで。

 

 

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2020年7月 5日 (日)

タテ書きは雨、ヨコ書きは川

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タテ書きは雨、ヨコ書きは川

- タテ書きに関する2題 -

 

世界には数千の言語があるが、
使われている文字の種類は
わずか40種類ほどしかない
と言う話を
以前ここに書いた。

文字の中には、
上下左右に決まった向きもなく、
左利きは左右反転した文字を書く
マンヤン文字
のような特殊なものもあって、
文字そのものへの興味も尽きないが、
それらの文字をタテ書きにするのか、
あるいはヨコ書きにするのか、という
いわゆる「書字方向」もおもしろい。

タテにもヨコにも書ける言語というのは
いったいどれくらいあるのだろうか?

 

言うまでもなく日本語はそのひとつだが、
タテ書きの新聞記事

「タテ書き絶滅危惧?」

というテーマに3名の方が寄稿していた。

その中に、2箇所、
たいへん興味深い記述があったので、
記録を兼ねて紹介したい。
(以下水色部は
 朝日新聞
 2020年7月2日の耕論
 「タテ書き絶滅危惧?」

 からの引用)

 

ひとつ目は、
歌人 井上法子さんの言葉。

井上さんは、
タテ書きとヨコ書きのイメージを
実に味わい深い言葉で表現している。

私は、言葉を水のように
感じることが多いのですか、
タテ書きを例えるなら、
それは「雨」のイメージです


雨が空から降り注ぐように、
タテ書きの言葉は
重力に吸い込まれてゆきます。

その後、身体の内側からじっとりと
濡れていく感じに近い
のです。

タテ書きは「雨」。

ではヨコ書きは?

これに対し、ヨコ書きの言葉は
「川」のように感じます

言葉に浮力があり、
目に飛び込んでくる。
そこで意味を放ち、
すぐ横に流れ去っていく感じです。

同じように自分の身体を水
でひたす行為ではあっても、
ヨコ書きは疾走感があって、
濡れるというより浴びるような
感覚に近い
と感じます。

だからきっと、ヨコ書きのほうが
相性がいい作品というのも
あるのではと思います。

さすが歌人。
その感性には頭が下がる。

ヨコ書きを
「そこで意味を放ち、
 すぐ横に流れ去っていく感じ」とは。

ツイッター(Twitter)のタイムライン(TL)を
見ているとまさにそんな表現がピッタリだ。

ヨコ書きを浴びるような感覚といい、
タテ書きを身体の内側から
じっとりと濡れていく感じ、と
表現できるなんて。

記録しておきたい名言だと思う。

 

もうひとつは
日本語学者 屋名池(やないけ)誠さん
の言葉。

日本の新聞はまだタテ書きのままだが
韓国では90年代に
新聞も全てヨコ書きに変わったという。
そのうえで、

タテ書きが根強く残りそうなのが、
漫画です。

日本の漫画は右から左へ読み進め、
時間もそう流れます。
ひとコマ内に2人が描かれていたら、
先に話す人物は
右側にいる必要がある。

書字方向が構図と深く
かかわっている
ため、
海外の翻訳版も日本と同じ
右から左へ読んでいくスタイルで
発刊されている
のです。

タテ書きが未来も生き残るかどうか、
カギを選っているのは、
漫画なのかもしれません。

いまや日本の輸出文化を代表する漫画。
セリフは翻訳するにしても
構図と流れの関係から
右から左へ読んでいくスタイルは
変えようがないわけか。
ページ構成も右から左。

左から右への本しか目にしていない人たちに
そのあたり、違和感はないのだろうか?
機会があれば、ぜひ現地の人に
感想を聞いてみたい。

「内容がおもしろければ、
 右から左だろうが、
 左から右だろうが、
 関係ないよ」
という感じなのだろうか?

 

 

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2020年6月28日 (日)

読んでいるのは自分の心だ

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読んでいるのは自分の心だ

- 雨の日、本を読み返してみて -

 

東京都で60人。
今日、2020年6月28日、
都の一日あたりの
新型コロナウイルスの感染者数は
緊急事態宣言が解除された以降で
最多となった。

まだまだ先の見えない日々が続いている。

朝から本格的な雨だった日曜日、
この本

養老 孟司 (著)
遺言。
新潮新書

(水色部は本からの引用)

を軽い気分で読み返してみた。

養老さん節全開の読みやすい本だが、
今日は、最初に読んだときは
ちょっと違う部分が
妙に心に残った。

本の紹介としては、
全く役に立たないが
雨の日の自分への読書の記録(?)として
三箇所だけメモしておきたい。

 

ひとつ目は、心理学での
「心を読む(mind-reading)」について。

自分が相手の立場だったら、
どうするか。

それはあくまでも
自分についての思考であって、
相手の心を読んでいるのではない。

心理学者が
「心を読みたがる」のはよくわかるが、
「読んでいるのは自分だ」
というチェックは常に必要であろう。

この視点、このチェック、
ほんとうに常に忘れずにいたい。
相手の心なんて「読めない」のだから。

 

ふたつ目は、事実の複雑さ、について。

科学上の理論は、
しばしば美しいとされる。

「真理は単純で、
 単純なものは美しい」

よくそう言われる。

ただし私はたえず反論する。
真理は単純で
美しいかもしれないけれど、
事実は複雑ですよ、と。

感覚所与は多様だけれど、
頭の中ではその違いを
「同じにする」ことができるから、
結果が単純になるんでしょ、と。

事実は複雑で、
だからこそおもしろい。
その複雑さを、複雑なまま感じ取る感性、
そういうものを大事にしたい。

感じたあと、
単純化して理解しようとするのは
「頭」だが
感じるのはまずは「身体」だ。

 

3つ目は、まさにその
感じること、感覚について。

現代人はひたすら
「同じ」を追求してきた。

最初に生じたのは、身の回りに
恒常的な環境を作ることである。

部屋の中にいれば、
いまでは終日明るさは変化しない。
風は吹かない。温度は同じである。
屋外に出れば、それが都市環境となる。

都内の小学校の校庭は
ひたすら舗装される。
同じ堅さの、同じ平坦な地面、
それを子どもに与える。

べつに感覚を無視することを
教えているつもりはないであろう。

安全だとか、便利だとか、清潔だとか、
その時々で適当な理由付けをする


でも一歩引いて見てみれば、
やっていることは明らかである。
感覚所与を限定し、
意味と直結させ、あとは遮断する


世界を同じにしているのである。

養老さんは
「感覚所与を限定し」
という表現を使っているが、
せっかく持っている感覚を
現代人はなぜ限定しようとしてしまうのか?

しかもそれに対してなぜ
安全だとか、便利だとか、清潔だとか、
いわゆる「快適」と結びつく説明が
できてしまうのか?

「遮断」によって失われたものを
改めて考えてみる必要があると思う。

 

 

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2020年6月21日 (日)

祈ることと願うこと

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祈ることと願うこと

- 心を傾けてじっくり聞こう -

 

想いを書くのではない。

むしろ人は、書くことで
自分が何を思っているのかを
発見するのではないか。

書くとは、単に自らの想いを
文字に移し替える
行為であるというよりも、
書かなければ知り得ない
人生の意味に出会うこと
なのでは
ないだろうか。

そんな著者の言葉通り、
まさに書かれたことで
新たに出会ったような
そんな言葉が並ぶこの本

若松 英輔 (著)
悲しみの秘義
文春文庫

(水色部は本からの引用)

を読んでいたら、
中にこんな一節があった。

祈ることと、願うことは違う。

願うとは、自らが欲することを
何者かに訴えることだが、
祈るとは、むしろ、
その何者かの声を
聞くこと
のように思われる。

 

そう言えば、
香りを楽しむ聞香(もんこう)は
「香りを聞く」
と書く。
単に嗅ぐのではなく、
心を傾けてゆっくり味わう。

酒をじっくり味わうことも
「きく」という。
漢字で書くときは
別な字を使うことも多いが。

いずれにせよ、心おだやかに
精神を集中させて何かを感じる、
そういう行為がもつ豊かさを
改めて考えさせてくれる。

 

近年、自己からの「発信」の価値が
妙にひとり歩きしている気がする。

でも、仮に自分からは何も発信しなくても、
私たちの回りには
すでにさまざまな声が満ちている。
それらを謙虚に「受信」し味わうことなく、
何が「発信」できるというのだろう。

心を深く静かに傾ければ、
「声」も「香り」も「味」も
「きこえて」くる。

「きいて」何を感じ、どうするのか。
そこにはもうそれだけで
豊かな世界が広がっている。

人生とは何かを問うことではなく、
人生からの問いに応えることだと
『夜と霧』の著者
ヴィクトール・フランクルは言った。

人生は、答えを出すことを求めない。
だが、いつも真摯な応えを求めてくる


まずは、じっくり「聞く」ことから
始めたい。

 

 

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2020年5月31日 (日)

ICU学長からの問いかけ

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ICU学長からの問いかけ

- 改めて「不公平」について考えてみよう -

 

noteでこんな記事を目にした。

あべまおこさんという方が書いていた
「話してもわからん」をひっくり返したある日の学長からのメール

記事へのリンクは
筆者の承諾をいただいているので、
詳しくは
リンク先の記事を読んでいただきたいが
簡単にその内容をまとめると

(1) 新型コロナウイルスの感染拡大により
  国際基督教大学(ICU)は
  春学期における全ての授業を
  オンラインで行うこと等
  緊急の対応を決定した。

(2) すると、ある学生が、
  期待される従来の教育環境で
  授業が受けられないのであれば
  学費の一部である
  施設費を減額してほしい
  との内容を含む署名運動を開始した。

(3) 最終的に集まった署名が
  提出されたかどうかは不明だが
  学生の要求・疑問に答える形で
  岩切学長が学生にメールを発信した。

という一連の流れの報告になっている。

全体に、たいへんに知的でかつ冷静な文章で
さすがICU生、と思わせるいい記事なのだが、
ご本人も書いている通り、
ICUつまり岩切学長の返答が
紋切り型のYes/Noではなく
実にいい内容だったので、きょうは改めて
そのことについて紹介し、考えてみたい。

 

学生の要求の詳細、および
大学側の回答の日本語版の全文は
上のリンク先にあるので、
ご興味があれば参照いただきたいが、
私が特に感銘を受けたのは
学長からのメールの以下の部分だ。
(以下、水色部は
 学長からのメールの引用)

図書館は、論文執筆中の学部6卒生と
大学院生には、送料大学負担で
図書の貸し出しを行っています
(学期中、1回、1人5冊まで)。

これは、このサービスを
受けられない学生からすると、
不公平な対応に見えるかも知れません。

ある意味では確かにそうです。

皆さんにはぜひ、
この「不公平」について考えて
みることをお願いしたいと思います。

改めて「不公平」について
考えてみてほしい、と投げかけている。

 

学生全員に同じ対応をするのは
財政的にも人手の面からも不可能です。

大学として採った措置は、
それをしないと
極めて大きな不利益を蒙る人

(ここでは、論文が書けなくて
 卒業できなくなってしまう人)
にたいして特別な手当てをする
というものです。

今あなたがその対象者ではなくても、
ある日、あなたが、
図書の貸し出しとは別のことで、
そのような類の不利益を
蒙りそうになったときには、
大学は適切なサポート体制を整える、
ということを覚えていてください


大学も市民社会と同じで、
全体で支え合うという精神で
運営されています。

限られたリソースしかないとき、
それをどこに投入するのか、
どう配分するのか。
リーダーとして決断を迫られる
厳しい場面だ。

岩切学長は、
それが一般的には不公平と呼ばれることを
承知のうえで
「最も困っている人に投入する」
という決断をした。

広く薄く全員に、ではなく
困っている人にだけしっかり


そして、ここがすばらしいところだが、
学長は
「あなたは、今は(助けられる)
 対象者ではないかもしれないけれど、
 もし今後、
 あなたが困る状況になったときは
 大学側は今度はあなたを助けます
と添えている。

単純な「機会の公平」のみの視点で
公平・不公平を考えていないか、と
厳しい問いを投げかける一方、
同時に
「あなたが安心して学べる環境を
 大学側はいつでも
 最大限提供しようとしていますよ」
とのメッセージまで伝わってきて
ICUの学生でもないのに
なぜか胸が熱くなる。

2020年5月24日の朝日新聞EduAには
岩切学長へのインタビュー記事があった。
それによると
昨年秋の香港での大学閉鎖の経験を踏まえ
授業のオンライン化は3月12日には
決定していたという。

『The education must go on』の考えのもと
学内に「コロナ対策室」をつくり、
教職員が協働してオンライン授業の
サポート体制を整えたらしい。

教員向けの研修会を開き、
経済的な理由から
自宅にWiFi環境が整っていない学生には
大学が費用を負担し、機器を提供した。
非常勤講師にも機器を貸し出したという。

「極めて大きな不利益を蒙る人にたいして
 特別な手当てをする」
「もし今後、
 あなたが困る状況になったときは
 大学側は今度はあなたを助けます」

こういったブレない考え方が
基本指針として明確にあったからこそ
各々の問題に
いち早く対応できたのであろう。

 

形だけの「公平」が
いかに期待に反する施策を生むかは、
「一住所に2枚のマスク」をみても明らかだ。

結果的に、学費の減額要求自体は
丁寧な説明のもと退けられている。

しかし、もし私が学生であったら、
結果に対して「なにぃ!」と怒る前に、
再度メールをゆっくり読み返して
みたことだろう。

そして、「公平とはなにか?」を
改めて考えさせられると同時に、
「困ったら今度はあなたを助けます」
の言葉に、ある種の「安心感」すら
抱いて驚いたに違いない。

サポートというのは、
お金だけではない。

それぞれの学生が、
自分を信じてくれる人たち、
自分を励ましてくれる人たち、
そういう人たちが
そばにいることを実感でき、
環境に関わらず
「ここなら安心して学べる」
と心から思えるなら、
それは最大のサポートであり、
公平なサポートでもある。

 

気がつくと、公平さだけでなく、
サポートの価値についても
改めてあれこれ考えている。

いい文章は、
世界をどんどん広げてくれるものだ。

 

 

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2020年4月26日 (日)

そのためだけの漢字や動詞

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そのためだけの漢字や動詞

- 「そばだてる」のは耳だけ? -

 

新型コロナウイルスの感染拡大については
先が読めない日々が続いている。

様々な自粛要請が続く中、
言葉もきしみだしている。

たとえば、この写真

2004kinshiyousei

「公園内での飲食について
 禁止を要請します」

表示前に、港湾局内には
なにか言う人はいなかったのだろうか?

 

マスコミも
「休業要請に従わない施設を・・・」
と連日繰り返している。

要請なら、応じるか応じないか
従わないと言えば
普通それは「命令に」だろう。

 

「自粛要請に違反

も、もはや気にしていたら体がもたない。

「募ってはいるが募集はしていない」
と首相が答弁するくらいだから
もちろんコロナに始まったことではないが。

そういえば、緊急事態宣言で
図書館が閉まっているため
ウラがとれなかったのだが、
産経新聞(2020年4月??日)には、
こんな内容の記事があったらしい。

英語では先頭のkを
発音しないことがある。
knifeなどがその例。
これ、実は日本にも有る。

それが kyousei

日本ではこれを「要請」と読む。

 

2020年4月7日に
緊急事態宣言が発出されたわけだが、
この「発出」という言葉も
実際に使われているのを
ほとんど耳にした覚えがない。

そもそも何に対して使える言葉なのだろう?
まさか「緊急事態宣言」のためだけ
ってことはないと思うが、実は、
この「・・のためだけかも?」
と思うと個人的には
妙に嬉しくなってしまう。

汎用性のなさ、というのは
ある意味、非効率の代表のような指標だが、
だからこそそこには魅力もあるわけで
出逢うと思わずメモってしまっている。

特に漢字と動詞。

たとえば、
「福祉」の「祉」
「洗濯」の「濯」
などの漢字って、
最初の単語以外で使ったことがない。

「福祉」のためだけの「
「洗濯」のためだけの「
この「・・のためだけ」だ。

(濯ぐ(すすぐ)
 って言う訓があるじゃないか、
 と言われそうだが、
 実際に「すすぐ」と書きたいときは
 ほとんど「ひらがな」を使っている。
 濯を使った単語が
 他にひとつも浮かばない、
 という意味で「・・のためだけ」
 に分類している)

動詞にもある。
・そばだてる
・こまねく
・かしげる
・よだつ
・やつす
・てらう

そばだてる、のは耳だけだし
こまねく、のは手だけだし
かしげる、のは首だけだし
よだつ、のは身の毛だけだし
やつす、のは身だけだし
てらう、のは奇だけだし

この汎用性のなさがなんとも興味深い。

「福祉」の「祉」
「耳をそばだてる」の「そばだてる」

こういった、「・・のためだけ」の
漢字や動詞に気がついた方、
他にもいっぱいあることでしょう。
ぜひ教えて下さい。

そうそう、
もうひとつ大事な動詞があった。

揉みしだく

失礼しました。

 

 

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2020年4月19日 (日)

清音 濁音 半濁音・・・7音探し

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清音 濁音 半濁音・・・7音探し

- 「ピッチャー権田(ごんた)」から始まって -

 

あいうえお
の五十音図にあるのは「清音」と呼ばれ、

ガギグゲゴ
などは「濁音」と呼ばれる、

ということを教わったのは
小学校のときだっただろうか?

「怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか」
という新書を
書店で思わず手にとってしまったのは
題名のインパクトに
つられてしまったからだ。


清音以外にはどんなものがあるのか、
学生時代を思い出して並べてみよう。

(1) 清音 :例 あいうえお
(2) 濁音 :例 ガギグゲゴ
(3) 半濁音:例 パピプペポ
(4) 拗音 :例 きゃ、ちゅ、しょ
(5) 促音 :例 いっか、ヨット
(6) 撥音 :例 ん、ン
(7) 長音 :例 ボール

実はこの7つの音の一覧を見て以来、

「これらを一度に全部含んでいる
 言葉(できれば単語)には
 どんなものがあるか?」

という、「妙な」問いが
頭の片隅から消えてくれない。

なので、高校野球の選手紹介で
「ピッチャー権田くん」の
「ピッチャー権田(ごんた)」
を聞いたときは、思わず
ひとりニヤニヤしてしまったし、

プロレスの技の名
「ジャンピング・ニー・バット」
を聞いたときも
「ヤッタ!」と思ってしまった。

7つの音を含むということは
(拗音には2文字必要なことを考えると)
最小は8文字ということになる。

慣れてくると
問題の条件を厳しくしたくなるもので
いつのころからか、
「最小文字数で探せ」が
条件に加わっていた。

8文字で探すと、たとえばコレ。
お年寄りがよく持っている
「ショッピングカー」(8文字)

Shoppingcar_a


ところが、つい最近になって
「じゃ」のような音を使えば
濁音+拗音となるので7文字も可能なはずだ、
ということに気がついた。

思い込みというのは恐ろしい、というか
気づくのが遅すぎる。
こんな簡単なことを見落としていたなんて。

和語に長音を使ってしまっているので
ルール違反ではあるが、
「11本(じゅーいっぽん)」
が許されればまさに7文字。

ジャンパーを着た少女の広告
「ジャンパーっ娘(こ)」
も7文字だが無理矢理感が強い。

長音を含む関係で
外来語系は避けられないと思うが、
もっと自然な(?)
「7つの音すべてを含む7文字の言葉」
を発見した方、
いらっしゃいましたらぜひ教えて下さい。

 

 

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2020年4月12日 (日)

不要不急、お前だったのか

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不要不急、お前だったのか

- 信濃毎日新聞の名言 -

 

新型コロナウイルスの感染が
都市部で急速に拡大している事態を受けて、
東京、神奈川、埼玉、千葉、
大阪、兵庫、福岡の7都府県に対して、
2020年4月7日「緊急事態宣言」が発出された。

中国中部の武漢市で61歳の男性患者が
新型コロナウイルスによる初の死者として
報道されたのは、
日本では2020年1月12日の新聞だった。

あれからわずか3ヶ月。
2020年4月11日時点で
感染は世界183カ国・地域に広がっている。
累計感染者は世界全体で162万人を超え、
死者は10万人を上回る。

半年前、こんな事態になることを
誰が想像し得たであろうか?

日経新聞が公開している
感染の世界マップを見ると、
まさに「全世界」を痛感する。

 

私自身は仕事が在宅となったため、
通勤時間は減り、
家にいる時間は長くなった。
それでも、
読むつもりで積んでいた本の山は
いっこうに低くなっていかない。

時間があるから本が読める、
というわけではないのだ。

東日本大震災のときもそうであったが、
時間があっても、心が不安定というか
不安感が強いと読書は進まない。

本が読めるということは
ほんとうに贅沢な時間だったのだなぁ、を
改めて思い知らされる。

 

ハーバード病院の医師および
医学部の教員によってレビューされた
信頼できる資料のみが日本語を含めて
なんと35言語で公開されている
COVID-19 Fact Sheets
が立ち上がったり、

全世界で、日々発表が続いている
COVID-19関連の3000以上の論文を
最新のNLPアルゴリズムを使って整理し、
リアルタイムで
注目論文がわかるようにした
COVID-19 Primer
が立ち上がったり、

まさにネットインフラをフル活用した
全世界レベルでの情報公開は
画期的に進んでいる面もあるが、

大正8年(1919年)つまり100年前の
内務省衛生局の「流行性感冒予防心得」
を見ると

Taisyo8nen

1.病人または病人らしい者、
 咳をする者には近寄ってはならぬ。

2.たくさん人の集まっているところに
 立ち入るな。

3.人の集まっているところ、
 電車、汽車などの内では
 必ず呼吸保護器(ガーゼマスク)をかけ、
 それでなくば鼻、口、を
 「ハンケチ」手ぬぐいなどで
 軽く被いなさい。

4.塩水かお湯にて、たびたびうがいせよ、
 うがい薬なればなおよし。

とあり、個々人のできる防衛法は
100年経っても、
なにひとつ進歩していない。

 

イタリアはじめ世界各国からは、
経済活動が抑えられたことで
空気が澄み、水がきれいになって、
景色はもちろんのこと、
鳥や魚が昔のように戻ってきている、
というニュースも聞く。

こうなると、自然環境において
人間とコロナ、どちらがウイルスなのか

という問いをも
投げつけられているのかもしれない。

 

直接のワクチンではないが
新型コロナ肺炎の死亡率とBCGワクチン接種政策の関連
を見ると、日本での死亡率が低いのは
日本で行われているBCG接種
なんらかの相関がありそうだ。
このあたりも今後
精緻な調査が進むことであろう。
(ページ中央の
 新型コロナ肺炎の死亡率(対数表示)と
 BCGワクチン接種政策の関連/OECD加盟国
 のグラフ(動画)だけでもぜひご覧下さい)

 

いずれにせよ、たいへんな状況の中、
エッセンシャルサービスとして
医療、物流、食品、交通などに
携わっている方々に対しては
感謝の念を禁じ得ない。
ほんとうにありがとうございます。

 

新型コロナ感染に関し、
明るい気持ちになれないニュースが続く中、
思わず頬が緩んでしまった
トピックスがあったので、
今日はふたつだけ紹介したい。

まずはこの写真。

2004clothed

右上にA Gentlemen's Clubとあるが
つまりはス○リップ劇場らしい。
米国のこの劇場も
4月30日までは閉まるようだ。

ただ閉館の掲示がシャレている。
[closed] ではなく [clothed]
4月30日までは「服を着ている」と。


もうひとつは、
信濃毎日新聞 2020年4月8日の記事。
コラム斜面の冒頭

不要不急、お前だったのか。
いつも経済を回してくれていたのは。

うまい! 最高の名言だ!

 

いつまで続くかわからない緊急事態宣言。
「戦う」「撲滅」という言葉を
目にすることが多いが、個人的には
探す道はそこではないと思っている。

そんな思いも込めて
朝日新聞 2020年4月3日の記事にあった
福岡伸一さんの言葉を
最後に添えておきたい。

かくしてウイルスは私たち生命の
不可避的な一部であるがゆえに、
それを根絶したり
撲滅したりすることはできない。

私たちはこれまでも、
これからもウイルスを受け入れ、
共に動的平衡を生きていくしかない。

 

2020年4月7日夜、
スーパームーン。

「あの日は月がきれいだったなぁ」

かつてないニュースに覆われた夜を
いつかそう思い出すことだろう。

 

 

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2020年3月29日 (日)

「4月1日生まれ」はクラスで一番最後

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「4月1日生まれ」はクラスで一番最後

- なぜ学年の最初じゃないの? -

 

この時期、クイズのネタとしても
使われることが多いので
ご存知の方も多いと思うが、
ちょうど学年末、今日はこの件について。

そう、
「クラスで一番最後の誕生日の人」が
どうして「4月1日生まれ」なのか?
の件。

ふつうに考えれば、
「一番最初」でもいいはずなのに...

スクラップブックをめくっていたら
朝日新聞 2007年3月30日の記事に
4月1日生まれ なぜ「学年の一番最後」

があったので、それを読みながら
一番最後の理由を学んでみたい。
(以下水色部、記事からの引用。
 「問題解決モンジロー」の記事ゆえ、
 会話調になっているが)

まずは年齢計算の定義から。

まず
「年齢計算に関する法律」では、
「年齢は出生の日より之を起算す」
とある。
そして「期間」というものについて、
民法では
「起算日に応当する日の
 前日に満了する」としている部分を
年齢計算に準用する、と定めている。

そんなことから
「年齢は、誕生日前日の
 深夜12時の時点で加算される」

(法務省)と解釈するそうだよ。

法律通りなら、誕生日の前夜
にケーキを食べるべきかも。

まぁ、このあたりは決め事だから
どう決めるかだけの話だが、
誕生日前日に歳をとる、
ということがキーのようだ。

では、学年の方は
どうなっているのだろう?

一方、学年は、学校教育法で
4月1日に始まると決められている。

例えば小学校に通うのは
「満6歳に達した日の
 翌日以降における最初の学年の
 初めから」。

ややこしいけど、
4月1日生まれの人が
満6歳になるのは3月31日。
その翌日は4月1日だから、
ちょうどその日から始まる
学年の初めに間に合う
ということだね。

選挙権も同様で、
(記事当時20歳、現在は18歳だが)
誕生日の前日から投票できるようだ。

法律というか
ルールがわかれば簡単なこと。

「常識とかけ離れている。
 法令を改めるべきだ」
などとして、
民主党の衆院議員が02年に
質問主意書を提出。
当時の小泉内閣は
「常識と異なるものではない」
などと答弁している。

確かに常識とはちょっと違うが
「年齢は、誕生日前日の
 深夜12時の時点で加算される」

ことで、
2月29日生まれの人も
4年に一度ではなく
毎年、正々堂々とすっきり
歳を重ねられるわけだ。

 

年齢や学年とは関係ないが、
以前ここにも書いた通り、
四月一日(四月朔日)を
『わたぬき』
と読む話は好きだ。

四月一日になると
綿の入っている着物を脱いで
あわせの着物になる事かららしい。

 

今年は
新型コロナウイルス感染拡大の影響で
「桜」も
(あわせの着物になる)「暖かさ」も
心から楽しめない気分のまま、
4月1日を迎えようとしている。

 

 

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2020年3月 8日 (日)

鄭人履を買う(ていひと くつをかう)

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鄭人履を買う(ていひと くつをかう)

- 『韓非子』の寓話 -

診察と言いながら患者の方を見ず、
検査結果が表示されている
モニタばかりを眺めている医者に
「目の前にいる患者を
 診ようとしないでどうする」
とはよく言われることだが、
そんな非難の声を聞くようになって
もう四半世紀ほどは経つような気がする。

ところがそんな状況は改善されるどころか
ますますデータ偏重へと流れている。

実態が目の前にありながら
「データだけを見る」の傾向は、
医療の現場だけでなく
いまや、あらゆる領域に蔓延している
と言っていいだろう。

先日もある技術セミナの中で、
「居酒屋の仲居さんの帯の中に
 モーションセンサを仕込み、
 移動や立ったり座ったりの動きを把握、
 疲労度や負荷具合がデータとして
 分析・把握できる」というシステムを
紹介している企業があった。

遠隔地に数万人もいるというならともかく
店内の仲居さんの様子は、
直接仲居さんの動きを見たほうが
ずっと正確で早い気がするが。

そもそもモーションセンサで
把握できることなんて、
仲居さんの体調のごくごく一部だし。

とまぁ、データのみに頼ってしまって
現実を活かしきれない、
活かそうとしない例は
まさに枚挙にいとまがないが、
この件、コンピュータ活用が広がった
「最近のこと」というわけではないようだ。

なんと二千年以上も前の
中国の書物にでてきている。

以下の本に教えてもらう。

加藤徹(著)
絵でよむ漢文
朝日出版社

(以下水色部は本からの引用)

紀元前3世紀の韓非(かんぴ)の著、
『韓非子』にある寓話だ。

鄭人履を買う
(ていひと くつをかう)

で知られている。

鄭の国の人が、
靴を買おうと思った。

あらかじめ
自分の足のサイズを測って
メモを作成し、市場に行ったが、
そのメモを家に忘れた。

メモを取りに帰って市場に戻ると、
店はすでに閉まっていた。

靴を買いに行ったのに
サイズのメモを忘れたから買えなかった。
買いに行った本人の靴なのに。

なんとも象徴的で
うまい話を持ってきている。

ある人が
自分の足で実際に靴を
 履いてみればよかったのに

と聞くと
「メモ書きは信用できるけど、
 自分は信用できないよ」
と答えた。

 

著者の加藤さんは

自信がない人は何もできない
肩書き入りの名刺を忘れると、
自己紹介もできない。

事前に書いた原稿を読みながら
でないと、演説もできない。
そんな人々を諷刺する寓話である。

と書いているし、
実際最後の行は

曰「寧信度、無自信也。」

日わく
「寧(むし)ろ度を信ずるも、
 自ら信ずる無し」と。

となっているので、正しくは
「自信のない人への諷刺」
なのかもしれないが、

私は読んだ瞬間、
昨今の
データがなければなにもできない、
というデータ偏重の風潮を
強烈に風刺しているように感じた。

人曰「何不試之以足。」

人曰わく
何ぞ之を試みるに
 足を以てせざる
」と。

データばかりを見て、
目の前の実態を見ようとしない、
そんな現実を目にするたびに
「何ぞ之を試みるに
 足を以てせざる」と
言いたくなることはよくある。

もう一度書く。
『韓非子』の著者韓非(かんぴ)は
紀元前3世紀、二千年以上も前の人だ


ちなみに

『韓非子』は
君主の政治の方法を論じた書。
悪の帝王学、
東洋のマキャベリズムの書として
有名。

らしい。
私は寡聞にして
名前しか知らなかったが。

 

 

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