音楽

2024年4月21日 (日)

音語りx舞語り「春」日本舞踊編

(全体の目次はこちら


音語りx舞語り「春」日本舞踊編

- 芸は人を大きく見せる? -

 

(2024年5月6日 更新版)

(a) ヴィヴァルディ作曲/「四季」より「夏」
の音楽に
(b) 能 土蜘蛛
(c) オリエンタルダンス

を合わせるという大胆な企画を
2023年9月に実現した「音語りx舞語り」。

「こんな異質なものが合うの?」の
当初の疑念というか戸惑いを払拭した
驚きのパフォーマンスについては
こちらに記事として書いたが
今度は、

(c1) コラボ1
 ヴィヴァルディ x 日本舞踊

(c1-a) ヴィヴァルディ作曲/
    「四季」より「春」
(c1-b) 日本舞踊

(c2) コラボ2
 バッハ x 謡「吉野天人」x 日本舞踊

(c2-a) バッハ作曲/
    無伴奏ヴァイオリンのための
    パルティータ
(c2-b) 謡:吉野天人
(c2-c) 日本舞踊

に挑戦するという。
企画の本郷幸子さんの挑戦心、
イマジネーションには驚かされるばかりだ。

というわけで、
さっそく聴きに(観に)行ってきた。
印象的だったことを
忘れないうちに書いておきたい。
2404s

開催は、2024年4月13日。

(1) 会場
会場は東京・上野の
東京藝術大学のすぐ横にある
市田邸。

この市田邸、
築100年を越える木造建築で、
明治時代の日本橋・布問屋
市田善兵衛の私邸だったらしく
国登録有形文化財建造物になっている。

今回はここの
1階の和室8畳間を公演用ステージに、
隣接する和室6畳間を観客席にと、
まさに演者と観客の間に隔たりのない
アットホームなセッティング。

座布団または小さな丸椅子に座って
観覧する。

床の間の前の畳の間、
会場選択からして日本舞踊を活かすための
配慮が行き届いている。

 

(2) 計14畳の和室の空間
主宰の本郷幸子さんは企画のほか、
当日もヴァイオリン、お話と大活躍。

小学校5年生の時から教えているという
教え子の森永かんなさんとの共演
 ルクレール作曲
 2つのヴァイオリンのためのソナタ
で演奏会が幕を開けた。

上に書いた通り、観客含め全員が
(外廊下部分もあるとはいえ)
計14畳の和室の空間の中にいるので、
2台のヴァイオリンが、
お互い聞き合って合わせようとする
視線や息遣いまで細かく伝わってくる。

絶妙な2台のバランス、
先生にとっても、教え子にとっても
感無量の時間だろう。


さてさて、コラボ企画に関しては
前回同様、それぞれの分野の演者から
曲だけではなく各分野についての
初心者向けの解説があった。

解説して下さったのは演者でもある
 ヴァイオリン:本郷幸子さん
 日本舞踊:坂東三奈慧(みなえい)さん
 謡:大金智さん


(3) 語りから音楽へ
清元、長唄の披露のあと、
 (s1) 義太夫
 (s2) 常磐津 (ときわづ)
 (s3) 清元 (きよもと)
 (s4) 長唄
の違いについて、
三奈慧さんはこんな説明をしてくれた。

語りの要素が一番強いのが義太夫。
(s2),(s3)と語りが洗練されていき、
音楽の要素が強くなってくる。
聞く音楽として発展したのが長唄。

厳密な定義や分類はわからなくても
「語り」と「音楽」のある種の比重で
分類や推移があることを知るだけでも
三味線音楽への関心の度合いが
ぐっと深くなる。


(4) 型の存在
「型の存在」についても
たいへん興味深い話があった。

クラシックバレエには
1番、2番と番号がついている
足のポジジョンを始めとして、
最初に学ぶべき基本的な型がある。

能にも、
「サシ込開(さしこみひらき)」の
組合せのように型はあります、と
大金さん。

一方、日本舞踊のほうは、
型だけをくり返しお稽古したり、
型をマスターしてから
作品に入ったりはしない。

作品をお稽古しながら
型を自然に覚えていく、
という世界らしい。

とは言え、時代とともに、
お稽古の回数が少なくなってきたり、
畳がない暮らしなど
生活環境も変わってきている。
なので
日本舞踊にも型をお稽古するような
お稽古の仕方があってもよいのではないか

という意見も
昨今聞かれるようになってきた、とのこと。

芸の伝承とはどうあるべきなのだろう?

当日の内容と
のちに三奈慧さんから補足していただいた
「型」の説明とを合わせて考えると、
素人の私にもそんな疑問が浮かんでくる。

作品や技術の伝承のみが
その本質ではないとはいえ、
伝えるための工夫は
時代に合わせて必要なのかもしれない。


(5) 鏡の存在
理論ではなく、体が覚えるまで繰り返し
身につけるのが日本舞踊。

近年、稽古の環境が変わり、
鏡やビデオを使うこともあるけれど、
基本はご法度。

客観視しないで自分の身体感覚だけで
脳内の像を表現できるようにするのが
日本舞踊という芸。

能でも (「鏡の間」はあるけれど)、
稽古で鏡は使わない。

鏡を使う  :クラシックバレエ
鏡を使わない:日本舞踊、能


鏡を使うと鏡がないと稽古ができなくなる、
という言葉はいろいろ考えさせられる。
何も見なくても表現できる、が大事と。


(6) 扇とおもり
日本舞踊で使う「扇」と
能で使う「扇」との違いについても
実物を並べて丁寧に説明してくれた。
初めて知ったのは、
日本舞踊で使う扇には
要(かなめ)の部分に
「おもり」が埋め込まれている

ということ。

当日の舞踏の中でも
風であったり、花びらであったり、
さまざまな表現に使われていた扇。
その自然でなめらかな動きは、
単に手首の動きだけではなく、
おもりの重力をうまく活かして
作り出されたものだったようだ。


(7) 芸は人を大きく見せる
他にも、
西洋のものは舞踏と言われるように
大地を蹴って跳躍、が基本。
日本のものは下に下に、で田植えの感覚、
といった比較もおもしろい。

跳躍の気分あふれる今回の音楽「春」の
上にひっぱられないように
踊るのがむつかしいところ、と三奈慧さん。

上にの西洋音楽、下にの日本舞踊、能。

「対極のものをぶつけるのがおもしろい」
と企画の本郷さん。

各分野における基本事項や関連事項、
考え方の背景を教えていただいたうえで、
いよいよコラボを体験することとなった。

(c1) コラボ1
 ヴィヴァルディ x 日本舞踊

(c1-a) ヴィヴァルディ作曲/
    「四季」より「春」
(c1-b) 日本舞踊

(c2) コラボ2
 バッハ x 謡「吉野天人」x 日本舞踊

(c2-a) バッハ作曲/
    無伴奏ヴァイオリンのための
    パルティータ
(c2-b) 謡:吉野天人
(c2-c) 日本舞踊


音語り事務局が、(c1)を14秒だけ
ここで公開してくれている。

個人的に印象的だったのは、
(c1)の日本舞踊における
「春」のユニークな解釈と、
(c2)におけるバッハの選曲。

選曲のセンスには敬服しかないが、
バッハの偉大さも改めて痛感。
音楽と謡の融合により
今自分がどこにいるのか
わからなくなるような
独特なトリップ感を味わえる。


もうひとつ、今回の大きな発見は
踊っているときの坂東三奈慧さんが
すごく大きく見えたこと。

小さな空間で集中して観たから
よけいそう感じたのかもしれないが、
踊っているときと、
語りで解説してくれているときの
体格というか、纏う空気の大きさが
あまりにも違っていてびっくりした。

芸は人を大きく見せる、ということか。

もちろん私個人の感触で
物理的にはなにも変わってはいないけれど。

 

くつろいだ空気の中、
今回もほんとうに楽しい演奏会だった。
その場でのパフォーマンスはもちろん、
型の話だって、鏡の話だって、
おもりを活かした表現だって、
上にの西洋音楽、
下にの日本舞踊、能 の話だって、
その先に大きな世界が広がっている
その入口を示してもらえただけでも
大きな価値がある。

「夏」と「春」を経験できた。
本郷さんは
「四季をcompleteしたい」と
おっしゃっていたので、
ぜひまた次回にも期待したい。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2024年4月 7日 (日)

脳内麻薬がでてこそ

(全体の目次はこちら


脳内麻薬がでてこそ

- 音楽は音だけで出来ていない -

 

1月は行ってしまう、
2月は逃げてしまう、
3月は去ってしまう、
4月は寄ってくる、
と言われるように、
今年も気がつくともう4月だ。

と、4月なのに(?)
今日は、昨年末の小さなネタから
思いがけない展開をみせた話を
書き留めておきたい。


昨年のクリスマスのころ、
「大手デパートのクリスマスケーキが
 崩れた状態で購入者に配達された」
というニュースがあった。

(1) カタログにあった美しいケーキの写真

(2) 実際に配達された崩れたケーキの写真
を並べて、
Masaruさんが
こんなコメントをXに投稿していた。

2312348

(1) に対して
楽器を弾いている時の脳内イメージ
(2) に対して
録音を聴き返した時の脳内イメージ

2枚の写真を見て、
こんな言葉が浮かぶなんて
なんて素晴らしいセンスの持ち主だろう。

私も学生時代のサークルを含め、
素人ながら長く楽器を楽しんでいるので、
奏者の体験として痛いほど同意できる。

自分で楽器を演奏している時の気持ちと
自分の演奏を録音で聞いた時の落ち込み、
奏者にしかわからないそのギャップを、
こんなに簡潔にかつ的確に
表現してもらったことがあるだろうか。

感激した私は、
高校時代、大学時代の音楽仲間に
早速URLを転送し、見てもらった。

皆、それぞれに身に覚えがあるようで、
反応は大きかった。
いくつかコメントを並べておきたい。

* しかし、なんで実際の演奏中は、
 (1)のように聴こえるんだろうねぇ。
 脳内麻薬でも出てるのかなぁ…。

* ド素人でも演奏が楽しいのは、
 脳内に(1)のイメージが
 広がるからなんだよね。

* スキーも同じです。
 滑っている時の脳内イメージと
 ビデオで見る現実。
 滑っているときは脳内麻薬がでています。

* これって、音楽に限らないよね。

そう、音楽に限らないのだ
趣味だろうと仕事だろうと
自らが心から楽しんでコトをなしているとき
客観的な事実のレベルとは関係なく
本人には(1)が見えるような
脳内麻薬(?)がでているのだ、きっと。

藤井さんのように将棋が強くなくても、
大谷さんのように野球ができなくても、
将棋や野球に夢中になれる人がいるのは
まさにそのおかげではないだろうか。

(1)を経験できた人は、
そのレベルとは関係なく、
ほんとうにソレが楽しくてしかたがないし、
その思いを励みに成長もしていける。
(1)はほんとうに貴重な経験だ。
(形だけはうまくいっても、
 脳内麻薬がでていなかった経験は
 むなしさだけが残っていたりするし)

 

最後に、
音楽仲間の言葉を残しておきたい。
「後で録音を聴くと
 たいしたことなかったりするのは、
 音楽が
 音だけで出来ているのではない
 証拠だと思います


これはこれで音楽に対する名言だ。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2024年3月31日 (日)

交響曲「悲愴」の第4楽章、再び(2)

(全体の目次はこちら


交響曲「悲愴」の第4楽章、再び(2)

- 聴衆ではなく、演奏者を楽しませる目的で -

 

前回に引き続き
チャイコフスキー作曲
交響曲第6番「悲愴」第4楽章

の冒頭に見られる「特異な書法」
(本記事内でのみ
 便宜的に「交叉奏法」と呼ぶことにする)
をきっかけに広がった世界について
書きたい。

再び(1)では、
(1) スコアの解説欄に
  何らかの詳細説明はないのか?

(2) 交叉奏法採用の理由・効果
について書いた。
今日は演奏者の視点から生まれた
興味深いコメントを紹介したい。

(3) 聴衆よりも演奏者
「ホルン吹き」の知人が、同じ
交響曲第6番「悲愴」の第2楽章に、
こんな部分があることを教えてくれた。

まずは譜面を見てみよう。
(音楽之友社のスコア
 クリックすると拡大)
Sym62hra80

注目すべきはホルンパート(黄色矩形枠)。

Aの音でオクターブの跳躍が有るのだが、
これが1st/3rdと2nd/4thで
交互に入れ替わっている。

この部分、
実際の演奏をちょっと聞いてみよう。
クルレンツィス指揮 ムジカエテルナの演奏。


わかりにくい?
では、ホルンパートだけ取り出してみよう。
譜面はこんな感じ。
(クリックすると拡大)

Sym62hr80

1st/3rd の演奏


2nd/4th の演奏

ホルンパート全体演奏

当然だが合わせて聞くと
高いAの音と低いAの音が
8分音符で刻まれているだけ。
なのに演奏者には
オクターブの跳躍を要求している。

これに対して教えてくれたホルン吹きは、
「私は、遊び心が出たのだと
 思っています。
 そもそも、
 ワルツを5/4拍子で書くのも
 変わっていますよね」
と、チャイコフスキーの「遊び心」を指摘。

そのうえで、先の第4楽章を
「2つの声部に旋律を分けて書いた」ことも
今回の第2楽章のホルンの跳躍も、
聴衆よりも、むしろ
 演奏者を楽しませる目的で
 書いたのではないかと思っています

とコメントしている。

経験豊かな上級者ならではの
まさに味のあるコメントだ。

技量不足ゆえに
譜面にかじりついて
四苦八苦していた私には、
ともて思い至らない発想だが、
ちょっと冷静に考えてみると
これは「いい曲」の
大事な要件のひとつなのかもしれない。

演奏者が楽しめる曲だからこそ
いい演奏が生まれるのだから。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2024年3月24日 (日)

交響曲「悲愴」の第4楽章、再び(1)

(全体の目次はこちら


交響曲「悲愴」の第4楽章、再び(1)

- 記事から広がっていった世界 -

 

チャイコフスキー作曲
交響曲第6番「悲愴」第4楽章

の冒頭の旋律についてとりあげた、
Eテレのクラシック音楽の番組
「クラシックTV」での内容を
ここに書いたところ、
この記事をきっかけに、

* 同じような例ってほかにもあるの?
* 複数の旋律が重なって演奏されたとき
 何をメロディとして捉えるのか、
 理論的に説明できるの?
* 昔からよく知られていたことなの?
* チャイコフスキーは
 なぜそのような仕組みを採用したの?

などの疑問が、読んだ方や音楽仲間との間に
飛び交うようになり、
さらなる情報交換の輪が広がっていった。

広がったからといって
それぞれの疑問に明確な回答が得られた、
というわけではないが、ブログをきっかけに
話題が次々と展開されていくワクワク感は
ひとりでは得られないものなので、
読者や音楽仲間への感謝の思いも込めて
記録としてその内容を残しておきたい。

まずは先の記事を簡単に復習しておこう。

1stバイオリンと2ndバイオリンは
こう弾いているのに

Sym64as

聴衆は、なぜか(?)

Sym64bs

の黄色丸の音を繋げて
メロディとして認識してしまう。
まさにチャイコフスキーに
魔法をかけられたような第4楽章冒頭。
先の記事では
 演奏(音)付きで紹介している
ので、
 詳しくはそちらを参照いただきたい。
 なお、本記事の中ではこの部分を
 便宜的に「交叉奏法」と呼ぶことにする)

この記事の投稿後に得られた追加情報を
整理してみるとこんな感じ。

(1) スコアの解説欄に
  何らかの詳細説明はないのか?


(1-a) 1968年版の音楽之友社のスコア
   (以下水色部引用)

悲痛な,哀切な,嘆くような第1主題
(1から)が弦ででる。

注意すべき点は,
第1バイオリンと第2バイオリンとが
主旋律の一音符ずつを交互にひいて
(1,3)旋律からなめらかさを
奪い去っていることである

(この主題が後に90から再びでる時は,
 主旋律が第1バイオリンに
 でているから比較されたい)。

「90から再びでる時は」とあるので、
90小節目を見てみよう。

6490s

90小節で
第1バイオリンが弾いているのは、
楽章冒頭で黄色丸の音を繋げて
メロディとして認識した、
まさにそのままだ。(黄色矩形部)

それにしても
「一音符ずつを交互にひいて」
旋律からなめらかさを奪い去っている
なんて。

いずれにせよ、50年以上前のスコアに
すでにこの記述。交叉奏法は
古くから知られていた構造のようだ、
と思わず漏らしたところ
さらに古いスコアを提供してくれた方も。

奥付がなく、発行年が不明なのだが、
1957年に購入した、とのメモがある。

(1-b) 1957年以前に発行された
   日本楽譜出版社のスコア

   (以下薄緑部引用)

先づ、アダヂオ・ラメントーソ、
ロ短調四分の三拍子で、
ヴァイオリンで奏せられる
下降的な主題は、
深い思いに沈むが如き感じである。
第一と第二ヴァイオリンが
 旋律を交叉して奏する
から、
 實際の旋律は第90小節と同じになる)

Sym64s

(70年近くも前の印刷物ゆえ
 使われている漢字も含め
 時代を感じていただきたく画像も添付)

こちらにも
「第一と第二ヴァイオリンが
 旋律を交叉して奏する」
と交叉奏法の記述がある。

しかも
「實際の旋律は第90小節と同じ」
とも。

音楽之友社版、日本楽譜出版社版、
どちらのスコアの解説にも
「一音符ずつを交互にひいて」
「旋律を交叉して奏する」
との記述はあったし、
90小節目では第1バイオリンのみが主旋律、
との認識も共通だったが、
残念ながらそれ以上の解説はなかった。


(2) 交叉奏法採用の理由・効果

(2-a) 対向配置のときのステレオ効果
交叉奏法の効果について、
「ホルン吹き」の知人からは、
「当時の私のホルンの先生は、
 対向配置のときのステレオ効果を
 狙ったのかな?
 とかコメントしていました」
なるメールをもらった。
対向配置とは、
第1バイオリンと第2バイオリンが
両サイドで向き合うような配置のこと。
第1・第2バイオリン間を
一音ごとに
パタパタとメロディが動くのだから
確かにステレオ効果は期待できそうだ。

14ページからなる江田司さんの論文
(2-b) チャイコフスキー作曲
   《悲愴》交響曲をめぐる
   鑑賞指導の研究

(薄茶部は論文(2-b)からの引用)
にも

オーケストラの第1・第2バイオリンの
「対面配置」による
ステレオ音響的効果を得るため
とする考えも,2000年代に入り,
世界の著名なオーケストラが
作曲家の生きた時代の
伝統的なこの配置を採用する頃から
多く語られるようになっている

なる記述がある。

ところが、このステレオ効果、
実際には期待できないという
研究もあるようで、同じ論文内に

たとえ2つのバイオリン・パートが
対向配置であったとしても,
聴き手にはそれぞれの音進行を
ステレオ音響的には聴き取れないことを
実験結果から裏付けられている

との紹介もある。

そのうえで、江田さんは
第1楽章の出だしのファゴットの
H-Cis-D-Cis(動機X)が
曲全体を支配していて、

断定は避けなければならないが,
第2,3楽章の主題労作等から,
第4楽章のバイオリン・パートにおける
特異な書法は,
動機Xを敢えて目に付くよう配置したと
推察される
のである。

と結論づけている。

もちろん、
ほんとうの意図はチャイコフスキーに
聞いてみないとわからないが、
多くの人を惹きつける魅力が
「特異な書法」による交叉奏法にはある。

この話、もう少し続けたいが、
今日はここまで。
最後にひとつ番外のおまけを。

(XX) 番外のおまけ
記事、読みましたよ」という
知人に会った時のこと。
「交叉奏法の記事、読んでいたら
 これを思い出しちゃいました」と
おもむろにメモ用紙を取り出し、
「おわだまさこ かわしまきこ」を
二行に分けてひらがな書きをし始めた。

意味がわからずポカンとしている私に
「こうやって交叉奏法のメロディのごとく
 一文字ごとに丸をつけると・・」
Owadamasakos

赤丸でも、黄丸でも
両名の名前が成立する偶然。

チャイコフスキーから
こんな話に繋がるなんて。
思いもかけない飛躍にこそ
人との会話の醍醐味がある。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2024年2月18日 (日)

小澤征爾さんのリズム感

(全体の目次はこちら


小澤征爾さんのリズム感

- 文章のリズムと音楽のリズム -

 

指揮者の小澤征爾さんが、
2024年2月6日、88歳で亡くなった。

恩師の斎藤秀雄の名を冠する
サイトウ・キネン・オーケストラ(SKO)を
創設した指揮者の秋山和慶さん
「本当の兄のように」慕った
小澤さんとの日々を

2024年2月11日の朝日新聞

240211
の記事で語っているが、
その中に、こんな言葉がある。

小澤さんの音楽の特徴を一言でいえば、
やはりあのリズム感

そして瞬発力です。

どこをちょっと緩めようとか、
ぐっと持ち上げようとか、
そうしたペース配分が
すごく上手だった。

「小澤さんの音楽の特徴はリズム感」
この記事を読んで思い出した本がある。

小澤征爾, 村上春樹 (著)
小澤征爾さんと、音楽について話をする

新潮社

(書名たは表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

村上春樹さんとの対談を記録した
単行本で370ページを越える
ちょっと厚めの本だ。

その中に
リズムに関してこんなやりとりがある。

村上春樹さんが、文章を書く方法を
音楽から学んだ、と言うシーン。

で、
何から書き方を学んだかというと、
音楽から学んだんです。
それで、
いちばん何が大事かっていうと、
リズムですよね


リズムがないと、
そんなもの誰も読まないんです。

前に前にと読み手を送っていく
内在的な律動感というか……。

機械のマニュアルブックが
リズムのない文章の典型だ、
と例を挙げなら、
文章のリズムについて、
村上さんは丁寧に説明を続ける。

言葉の組み合わせ、
センテンスの組み合わせ、
パラグラフの組み合わせ、
硬軟・軽重の組み合わせ、
均衡と不均衡の組み合わせ、
句読点の組み合わせ、
トーンの組み合わせによって
リズムが出てきます。

ポリリズムと言って
いいかもしれない


音楽と同じです。
耳が良くないと、
これができないんです。

文章のリズムについての
一連の説明を聞いたあとの
小澤さんの言葉がコレ。

文章にリズムがあるというのは、
僕は知らなかったな。

どういうことなのか
まだよくわからない。

2度見、どころか3度見するくらい
びっくりしてしまった。

あれほど音楽のリズムに敏感な人が
文章にはそれを感じていないなんて。

逆に、小澤さんほどの人が
感じていないのだとすると、
私が文章に感じているものは単なる幻!?
と疑ってしまうほど。

村上さんの言う
「文章で大事なのはリズム」
にはいたく賛同できるものの、
小澤さんの言葉を聞いて以来、
音楽に感じるリズムとは
実は別なものなのかも、
とも思うようになっている。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2024年1月14日 (日)

チャイコフスキー:交響曲「悲愴」の第4楽章

(全体の目次はこちら


チャイコフスキー:交響曲「悲愴」の第4楽章

- 聞こえてくるメロディはどこに? -

 

Eテレのクラシック音楽の番組
「クラシックTV」
が番組初の公開収録として

クラシックTV
スペシャル 公開収録
「パワー・オブ・オーケストラ」


を昨年末に放送していた。
(初回放送日:2023年12月28日)
その中で、

チャイコフスキー作曲
交響曲第6番「悲愴」第4楽章


を取り上げていたのだが、その内容が
たいへんおもしろかったので、
今日はその部分を紹介したい。
(なお、貼ってある演奏は番組から。
 東京フィルハーモニー交響楽団
 円光寺雅彦(指揮)によるもの)

まずは、チャイコフスキー作曲
交響曲第6番「悲愴」第4楽章から
冒頭の2小節のみお聴き下さい。

(A) チャイコフスキー作曲
交響曲第6番「悲愴」第4楽章
冒頭の2小節のみ
オーケストラ全体演奏

美しいメロディだ。

この部分、
1stバイオリンと2ndバイオリンの譜面は
こうなっている。

Sym64as

それぞれパート別に弾いてもらおう。
譜面を見ながらどうぞ。

(1) 1stバイオリンのみ


(2) 2ndバイオリンのみ


(1)と(2)を何度聞いても
(A)のメロディーが聞こえてこない。

では、(1)と(2)を同時に演奏してもらおう。

(3) 1st & 2ndバイオリン

公開収録ゆえ、会場のお客さんが
驚きでどよめいているのがわかる。

Sym64bs

どうしてそうなるのかよくわからないが、
聞いているほうが勝手に
譜面の黄色丸の音を繋げて
メロディとして認識しているのだ。

総譜(スコア)を見ると同じ構造が
ビオラとチェロの間にもある。

64cs

再度、スコアを見ながら
全体演奏をどうぞ。

(A) チャイコフスキー作曲
交響曲第6番「悲愴」第4楽章
冒頭の2小節のみ
オーケストラ全体演奏


まさに、魔法をかけられたようだ。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2023年12月17日 (日)

名盤 CANTATE DOMINO

(全体の目次はこちら


名盤 CANTATE DOMINO

- 美しいエコーに包まれて -

 

今年(2023年)は、
クラシックCDの専門誌「レコード芸術」が
6月20日発行の7月号を最後に休刊となった。

創刊1952年、70年以上も続いていた雑誌も
音楽媒体を含めた環境の変化に
ついていけなかったようだ。

新譜CD店もレンタルCD店も
驚くほど閉店してしまい、
いまや音楽は、
スマホから小さなイヤホンで聴く、が
主流になってしまった。

CDで聴かない、
ステレオのスピーカで聴かない、
そういった時代となった今、
「お薦めCD」だの
「超優秀録音」だのと言った言葉も
事実上死語なのかもしれない。

と、そこまでわかっていながらも
今日は
「超優秀録音」の「お薦めCD」
について書きたいと思う。

紹介したいのは、
毎年12月になるとかけたくなる

CANTATE DOMINO
 Oscar's Motet 合唱団
 Torsten Nilsson, 指揮
 Alf Linder, オルガン
 Marianne Melläs, ソプラノ

スウェーデンのPROPRIUSというレーベル。
ストックホルムのOscar教会で、
1976年に録音されたもの。

オルガンと合唱による
クリスマス音楽をメインにした選曲ゆえ
この時期に聴くのにピッタリだ。

どんなCDか? まずは2曲、どうぞ。

Cantate Domino


White Christmas


パイプオルガンの響き、
合唱の透明感、
ホールエコーの美しさ、
そしてなによりも、
左右のスピーカから広がる
立体的な音場感がすばらしい。

revoxのA77という
民生用のオープンリールデッキと
たった2本のマイクだけで
録音したというのだから、
録音エンジニアは
まさにプロ中のプロなのだろう。

「弘法は筆を選ばず」だ。

Stille Nacht


Lullaby


今回、ブログを書くにあたって
公開されているものもあるかな?と
YouTubeをのぞいてみたのだが、
なんと全曲版まであった。

「超優秀録音」の「お薦めCD」ゆえ
可能ならCDで、かつ
できるだけいいステレオセットの
スピーカから、大きめな音量で
少し離れて聴くことを強くお薦めしたいが、
もしそれが叶わなかったとしても
その録音と音楽のすばらしさは
間違いなく伝わることだろう。

私が輸入盤CDとして購入したのは
もう30年近くも前。
いまだにSACD-HYBRID版が流通しており
簡単に購入できるというのも
より多くの人に
知ってもらえることに繋がるので
ファンとしては嬉しい限りだ。

CANTATE DOMINO 全曲版


12月には、なぜか人の声による
「うたもの」がよく似合う。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2023年12月 3日 (日)

KAN+秦基博 『カサナルキセキ』

(全体の目次はこちら



KAN+秦基博 『カサナルキセキ』

- 2曲同時演奏による合体 -

 

シンガーソングライターのKANさんが、
2023年11月12日に
61歳という若さで亡くなった。
KANさんと言うと、

♪信じることさ 必ず最後に愛は勝つ

というストレートな歌詞で
1991年 第33回日本レコード大賞 を
受賞した大ヒット曲「愛は勝つ」の印象が
あまりにも大きいが、
コロナ禍で萎縮していた空気の中
リリースしてくれたあの曲も忘れられない。

「いろいろな意味で」すばらしい曲なのに
残念ながら広く知られておらず
なんともさみしいので、
ひとりでも多くの方に知っていただきたく
今日はその曲について紹介したい。

ただ、その曲の紹介には
次の4ステップが必須となる。
「いろいろな意味で」の背景も
この4ステップにある。

(1) KAN 『キセキ』
(2) 秦基博 『カサナル』
(3) KAN+秦基博 謝罪会見
(4) KAN+秦基博 『カサナルキセキ』

 

2020年11月、KANさんが「キセキ」
という曲を発表。続いて
2021年1月、秦基博さんが「カサナル」
という曲を発表した。
ますはこれら2曲をYouTubeで聴いてみよう。

(1) KAN 『キセキ』
  2020年11月
  アルバム「23歳」の中の一曲

 

(2) 秦基博 『カサナル』
  2021年1月
  CDシングル「泣き笑いのエピソード」
  の中の一曲

 

初めて聴いた方、これら2曲を聴いて
気づいたことがあるだろうか?

発表後、(1)(2)の2曲が、
同じ収録時間 かつ 同じコード進行
であることに気づいたファンがいたらしい。

で、3か月後の謝罪会見(?)に繋がっていく。
2021年4月23日、「謝罪会見」と称して
2人がこの件について釈明する
パロディ風記者会見動画が
YouTubeで公開された。

(3) KAN+秦基博 謝罪会見

この会見の中で、
*「キセキ」と「カサナル」は、
 のちに合体され「カサナルキセキ」という
 曲になるよう念入りに計画され
 作られた2曲であること、
そして、
*完成版とも言える
 「カサナルキセキ」の配信が
 開始されること、
が明かされた。

この動画、謝罪会見のパロディとしても
よくできていて、
伝えたいことはしっかりと伝えながらも
笑える遊びの要素満載だ。

ここまで入念に準備された(1)(2)(3)を
通して完成し発表された「カサナルキセキ」

2曲同時演奏による合体は
いったいどんな世界を作り出しているのか。
できればヘッドホンでお楽しみあれ。

(4) KAN+秦基博 『カサナルキセキ』

頭韻で始まりながらも
歌詞が重なる部分は最小限、なのに
言葉の拡散と収束の感じが絶妙で
日本語によるポップスの
他にはない世界を見せてくれている。

おおいなる挑戦だったと思うが、
ここまでハイレベルな作品に仕上げる
KANさんと秦さんの
プロの技には敬服しかない。

聴き込めば聴き込むほどに
メロディにもハーモニーにも
歌詞にも声色にも新発見がある、
まさにキセキのような名曲だ。

 

『カサナルキセキ』は、
重なった状態のまま、分解せずに
全体をまるごと味わってこそ
その魅力を最大限に楽しめる楽曲
だが、
それを成立させている緻密な仕組みを
詳細に見てみたい、ということであれば、
双方の歌詞がリアルタイムで表示される
こんな動画もある。

(歌詞が読めるよう表示サイズを
 すこし大きくしています)

カサナルキセキ (KAN+秦 基博)
Covered by YOSHIKANE & Mecori

キセキ(KAN+)
Covered by Mecori+ フル・歌詞付き

 

KANさんのご冥福をお祈りします。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

 

2023年10月29日 (日)

「音語りx舞語り」が見せてくれた世界

(全体の目次はこちら



「音語りx舞語り」が見せてくれた世界

- 全体を味わう、分解しない -

 

もうひと月ほど前のことになるが、
主催している本郷幸子さんにお誘いいただき

2023年9月30日
音語りx舞語り (おとがたりxまいがたり)
Vol.2 オリエンタルダンス編


というミニコンサートに行ってきた。

230930otogatari

演奏曲目のひとつは、有名な
ヴィヴァルディ作曲/「四季」より「夏」

この曲、
ヴァイオリン協奏曲「四季」
の名の通り主役はヴァイオリンだが、
今回はそれにヴィオラとチェロが加わる
弦楽三重奏のスタイルで
演奏される予定になっていた。

本来の編成に比べれば
ずいぶん小編成にはなるが、
それはそれでどんな響きになるか楽しみだ。

と、これだけなら
よくあるミニコンサートのひとつだが、
今回のこのコンサート、
単なる弦楽合奏にとどまらない、
驚くべき企画をブチ込んでいた。
そう、まさに
「ブチ込む」と表現したくなるような
大胆な企画だった。

それはどんな企画か。

(1) ヴィヴァルディ作曲/「夏」
(2) 能 土蜘蛛
(3) オリエンタルダンス

この3つを同時に重ねて
公演しようというのだ


能とは日本の伝統芸能であるあの「能」。
オリエンタルダンスとは、
おへそを出した衣装で踊る
ベリーダンスで知られるあれだ。

「えっ!?ちょっと頭が混乱して
 何を言っているのだか?」
と思った方、
ハイ、私も最初にこの企画を聞いたとき、
まさにそんな感じでした。

このコンサート
音語りx舞語り (おとがたりxまいがたり)
というタイトルにある通り、
多くのクラシックコンサートとは違い、
演奏曲目についての丁寧な語りがある。

特に今回は上記(1)(2)(3)について
それぞれ演奏者の方から
個別に詳しい解説があった。
要点のみを書くと・・・

(1) ヴィヴァルディ作曲/「夏」
ソネット(14行詩)に基づいて
作曲されたもの。

曲の中から様々なフレーズを抜き出して
その部分を演奏しながら、
メロディーであったり、
奏法であったり、
和音であったりが
どんな情景を描いているのか、
クイズ形式で解説。

夏独特の空気感、木々や鳥や虫たち、
羊飼いの心情、天気の急変、
ひとつひとつの説明がわかりやすい。

(2) 能 土蜘蛛
能の謡(うたい)の方が、
「ヴィヴァルディの「夏」に合う能を」
と相談された時の戸惑いから話が始まる。
やはり「そんなのあるわけない」
と思ったようだ。

ところが(1)の曲と
ソネットの内容を見るうち、羊飼いの
「ぐったりしている、眠れない、
 暗闇で怯える」
などが印象に残り
「それなら『土蜘蛛』かも」
と思いついた経緯が明かされる。

土蜘蛛の内容説明のあと、
「謡(うたい)は、初めて聞くと
 何を言っているのか
 わからないと思いますが、
 一度、声に出して読んでおくと
 聞こえるようになります。
 なので、皆さんで冒頭部分だけ
 声に出して読んでみましょう」

中学校の英語の授業よろしく
「repeat after me」
が始まったのだが、

謡(うたい)の方のお手本のあと
会場内の全員で

「いろを盡(つく)して夜昼の。
 いろを盡(つく)して夜昼の。
 境も知らぬ有様の。
 時の移るをも。・・・」

と声に出して読んでみたのは、
特によかった。

あとで本物を聞いた時、確かに
「聞こえる、聞き取れる!」のだ。
自分で声に出して読んだところは
聞き取れるのに、なぜか他はダメ。
体感を伴ううれしい初体験だった。

(3) オリエンタルダンス
ダラブッカという
民族打楽器(太鼓)とともに
その歴史と、
オリエンタルダンスの
基本的な動き、
ベリーダンスの種類、
などが紹介された。

ここでも基本的な動きについては
会場内の人も立ち上がって
体を動かしてみることに。

ダラブッカ(太鼓)に張ってある皮と
能で使われる鼓(つづみ)との対比も
興味深いものだった。

 

と、個別の説明が終わっていよいよ公演。
もう一度書いておこう。

(1) ヴィヴァルディ作曲/「夏」
  *ヴァイオリン *ヴィオラ *チェロ
(2) 能 土蜘蛛
  *謡(うたい)
(3) オリエンタルダンス
  *オリエンタルダンス *ダラブッカ

*印6人による同時公演が始まった


その時の私の正直な気持ちは
「こんなに異質なものが、
 本当に合うのだろうか?」
という
「合う/合わない」に興味がある
「?」であった。

そもそも(1)と(2)は
テンポやリズムの観点で見れば
合いようがない。

いったいどんな演奏だったのか?
演奏のごく一部、1分弱だけだが
「音語り事務局」から
当日の様子が公開されている。
ご興味があればこちらをどうぞ。

1分の動画だけでは
よくわからないだろうな、と
ちょっともどかしくも思いつつ
現場で生の音に触れたひとりとして
感想を書き留めておきたい。

これだけ異質なものが
「ほんとうに合うのだろうか?」
というある種の疑念をもって
聞き始めたのに、
いざ演奏が始まって(1)に
(2)や(3)が重なりだすと、
当初の私の疑念は
完全に私の中から消えていた。

(1)(2)(3)が重なることで、
(1)でも(2)でも(3)でもない
「新しいなにか」が立ち上がってくる
その瞬間の緊張感と
それに立ち会えた喜びに
精神が集中して、
「合うか、合わないか」なんて
全く気にならなくなっていたのだ。

たとえて言えば、
とても合うとは思えない
 Aという食材、
 Bという食材、
 Cという食材、
3種の食材を使った料理を食べてみたら、
どの食材の味でもない
予想外の美味しい料理ができあがっていて
驚いた、みたいな感じだろうか。

混ざり合って響いてくる音は、
混ざり合って目に飛び込んでくる光景は、
それ全体がひとつになって
「新しい世界」を見せてくれていた。

特に、謡(うたい)の声量に
すべてが包みこまれるような一体感には
不思議な快感があった。
新しい料理として味わう。
全体を味わう、分解しない


もちろん、ベタに3つを重ねても
そんな世界はできあがらない。
周到な準備とその重ね方、間(ま)にみえる
芸術家としてのプロのセンスには
まさに敬服しかない。

クラシック音楽、能、オリエンタルダンス
そういう既成概念によるカテゴリーや
分類そのものが、芸術の幅を
狭めてしまっている面が
あるのかもしれない、とさえ
思えるような夜だった。

本郷幸子さんを始め、
音語りx舞語りの関係者の皆様には、
新しい世界に興奮させてもらったこと、
心から感謝している。

今後の活動にも期待しつつ、
「初めての世界に触れた」
自分自身への記録として
ここに残しておきたいと思う。



 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2022年11月13日 (日)

舌はノドの奥にはえた腕!?

(全体の目次はこちら


舌はノドの奥にはえた腕!?

- 音色、音の色に違和感はなく -

 

実際の講演は
今から40年以上も前の話になるが、
解剖学者の三木成夫さんが、
保育園で講演した内容をまとめた

三木成夫 (著)
内臓とこころ

河出文庫

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

は、たいへんユニークな視点で語られた
「こころ」の本だ。

独特な口調で
幼児の発育過程を語りながら、
内臓とこころを結びつけ、
話は、宇宙のリズムや
4億年の進化の過程にまで
広がっていく。

一方で、

ただ、舌の筋肉だけは、
さすがに鰓(えら)の筋肉、
すなわち内臓系ではなくて、
体壁系の筋肉です。
(中略)

舌の筋肉だけは
手足と相同の筋肉
です。

われわれはよく
「ノドから手が出る」
というでしょう。

舌といえば、ノドの奥にはえた腕
だと思えばいい。

のような、
ユーモアあふれる大胆な表現もあって
あっと言う間に「三木ワールド」に
とりこまれてしまう。

舌はノドの奥にはえた腕!?
強烈すぎるフレーズだ。

講演を原稿化したものゆえ、
読みやすくはあるものの、
論理的には話が飛ぶ部分もあり、
「えっ?」と思うところもあるが、
それも含めてひとつの味だ。

簡単にはまとめられない、
三木さんの「こころ」論は本に譲るとして、
印象的なフレーズを2つ紹介したい。

(1) 原初の姿 (指差しこそ人類!)

ルートヴィヒ・クラーゲスという、
ドイツの哲学者は、
幼児が「アー」と声を出しながら、
遠くのものを指差す---この動作こそ
人間を動物から区別する、
最初の標識
だといっています。

どんなに馴れた猫でも、ソレそこだ!と
指差すのがわからない。
鼻づらをその指の先に持ってきて、
ペロペロなめる……

指差しが認識できず、
指先を舐める猫か、なるほど。

赤ちゃんも、
「なめ廻し」の時期を過ぎたころから
「指差し」を始めるようになる。

クラーゲスは、
この呼称音を伴う指差し動作のなかに、
じつは、原初の人類の”思考”の姿
あるのだといっています。
スゴい眼力ですね

この感じは、
しかし現代でも充分にわかります。

たとえば私たち、ビルの屋上から
真っ赤な夕焼け雲を見たりした時、
思わず「アー」と声を出しながら、
指差しの
少なくとも促迫は覚えるでしょう。

この瞬間、私たちはもう
好むと好まざるとにかかわらず、
原初の姿に立ち還っているのです。

圧倒的な大自然を前にした、
その時の思考状態ですね・・・。

頭の中はけっして空っぽではない

圧倒的な大自然を前にしたとき、
言葉にできない根源的な幸福感に
包まれることは確かにある。

あれは原始の姿に立ち還った
そのリラックス感から
来るものなのだろうか?

ミケランジェロ作の
システィーナ礼拝堂の天井画の
アダムの人差し指に対して

アダムの人差し指に
魂が注入される瞬間。
人類誕生の曙が
指差しの未然形として描かれている

こんな表現ができる人は
他にいないだろう。

私どもの”あたま”は
”こころ”で感じたものを、
いわば切り取って固定する

作用を持っている。

あの印象と把握の関係です。

そしてやがて、この切り取りと固定が、
あの一点の「照準」という
高度の機能に発展してゆくのですが、
「指差し」は、この照準の”ハシリ”
ということでしょう。

つまり、この段階で
もう”あたま”の働きの
微かな萌(きざ)しが
出ているのです。

 

(2) 「音色」(音の色?)

私たちの目で見るものも、
耳で聞くものも、
すべて大脳皮質の段階では
融通無礙に交流し合っております

フォルマリンで固定した人間の
大脳皮質下の「髄質」を見ますと、
ここでは、
ちょうどキノコの柄を割ぐ感じで、
無数の線維の集団を
割いでゆくことができる。

視覚領と聴覚領の間でも、
この両者の橋わたしは豊富です


連合線維と呼ばれる。

視覚と聴覚の交流?
以下の言葉の例で考えると
わかりやすい。

「香りを聞く」「味を見る」
「感触を味わう」
などなど、

皆さん、
あとでゆっくり数えてください。

どんな感覚も四通八達で、
たがいに自由自在に
結び付くことができる。

大脳皮質は
こうした連合線維の巨大な固まりです。

<中略>

私ども人間は、
こうした、感覚のいわば「互換」が、
とくに視覚と聴覚の間、
それも視覚から聴覚に向かって
発達しているのでしょう。

「音」は聴覚、「色」は視覚、
でも「音色」という言葉は
違和感なく溶け込んでいる。

解剖学の知識が全くない遠い昔から
私たちはその交流に
気づいていたに違いない。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

より以前の記事一覧

最近のトラックバック

2025年1月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
無料ブログはココログ