育児

2022年11月13日 (日)

舌はノドの奥にはえた腕!?

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舌はノドの奥にはえた腕!?

- 音色、音の色に違和感はなく -

 

実際の講演は
今から40年以上も前の話になるが、
解剖学者の三木成夫さんが、
保育園で講演した内容をまとめた

三木成夫 (著)
内臓とこころ

河出文庫

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

は、たいへんユニークな視点で語られた
「こころ」の本だ。

独特な口調で
幼児の発育過程を語りながら、
内臓とこころを結びつけ、
話は、宇宙のリズムや
4億年の進化の過程にまで
広がっていく。

一方で、

ただ、舌の筋肉だけは、
さすがに鰓(えら)の筋肉、
すなわち内臓系ではなくて、
体壁系の筋肉です。
(中略)

舌の筋肉だけは
手足と相同の筋肉
です。

われわれはよく
「ノドから手が出る」
というでしょう。

舌といえば、ノドの奥にはえた腕
だと思えばいい。

のような、
ユーモアあふれる大胆な表現もあって
あっと言う間に「三木ワールド」に
とりこまれてしまう。

舌はノドの奥にはえた腕!?
強烈すぎるフレーズだ。

講演を原稿化したものゆえ、
読みやすくはあるものの、
論理的には話が飛ぶ部分もあり、
「えっ?」と思うところもあるが、
それも含めてひとつの味だ。

簡単にはまとめられない、
三木さんの「こころ」論は本に譲るとして、
印象的なフレーズを2つ紹介したい。

(1) 原初の姿 (指差しこそ人類!)

ルートヴィヒ・クラーゲスという、
ドイツの哲学者は、
幼児が「アー」と声を出しながら、
遠くのものを指差す---この動作こそ
人間を動物から区別する、
最初の標識
だといっています。

どんなに馴れた猫でも、ソレそこだ!と
指差すのがわからない。
鼻づらをその指の先に持ってきて、
ペロペロなめる……

指差しが認識できず、
指先を舐める猫か、なるほど。

赤ちゃんも、
「なめ廻し」の時期を過ぎたころから
「指差し」を始めるようになる。

クラーゲスは、
この呼称音を伴う指差し動作のなかに、
じつは、原初の人類の”思考”の姿
あるのだといっています。
スゴい眼力ですね

この感じは、
しかし現代でも充分にわかります。

たとえば私たち、ビルの屋上から
真っ赤な夕焼け雲を見たりした時、
思わず「アー」と声を出しながら、
指差しの
少なくとも促迫は覚えるでしょう。

この瞬間、私たちはもう
好むと好まざるとにかかわらず、
原初の姿に立ち還っているのです。

圧倒的な大自然を前にした、
その時の思考状態ですね・・・。

頭の中はけっして空っぽではない

圧倒的な大自然を前にしたとき、
言葉にできない根源的な幸福感に
包まれることは確かにある。

あれは原始の姿に立ち還った
そのリラックス感から
来るものなのだろうか?

ミケランジェロ作の
システィーナ礼拝堂の天井画の
アダムの人差し指に対して

アダムの人差し指に
魂が注入される瞬間。
人類誕生の曙が
指差しの未然形として描かれている

こんな表現ができる人は
他にいないだろう。

私どもの”あたま”は
”こころ”で感じたものを、
いわば切り取って固定する

作用を持っている。

あの印象と把握の関係です。

そしてやがて、この切り取りと固定が、
あの一点の「照準」という
高度の機能に発展してゆくのですが、
「指差し」は、この照準の”ハシリ”
ということでしょう。

つまり、この段階で
もう”あたま”の働きの
微かな萌(きざ)しが
出ているのです。

 

(2) 「音色」(音の色?)

私たちの目で見るものも、
耳で聞くものも、
すべて大脳皮質の段階では
融通無礙に交流し合っております

フォルマリンで固定した人間の
大脳皮質下の「髄質」を見ますと、
ここでは、
ちょうどキノコの柄を割ぐ感じで、
無数の線維の集団を
割いでゆくことができる。

視覚領と聴覚領の間でも、
この両者の橋わたしは豊富です


連合線維と呼ばれる。

視覚と聴覚の交流?
以下の言葉の例で考えると
わかりやすい。

「香りを聞く」「味を見る」
「感触を味わう」
などなど、

皆さん、
あとでゆっくり数えてください。

どんな感覚も四通八達で、
たがいに自由自在に
結び付くことができる。

大脳皮質は
こうした連合線維の巨大な固まりです。

<中略>

私ども人間は、
こうした、感覚のいわば「互換」が、
とくに視覚と聴覚の間、
それも視覚から聴覚に向かって
発達しているのでしょう。

「音」は聴覚、「色」は視覚、
でも「音色」という言葉は
違和感なく溶け込んでいる。

解剖学の知識が全くない遠い昔から
私たちはその交流に
気づいていたに違いない。

 

 

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2020年9月13日 (日)

「主因」「素因」「誘因」

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「主因」「素因」「誘因」

- 「全体的に見る目」を失っていないか -

 

久松農園代表の久松達央さんが
「スーパーで売っている
 きゅうりの皮はなぜ硬い?」
という記事の中で、
現在の農作物の流通とその栽培について
語ってくれている内容は、
農業という範囲を超えて
いろいろ考えさせられるものがあった。
記事全文はこちら
(下記水色部は記事からの引用)
忘れないうちに重要なキーワードを
メモっておきたい。

市場流通向け栽培のゴールは
「値が付きやすい規格のものを、
 いかにたくさん安定して採るか」
に尽きるわけです。

具体的には「耐病性」とか
「曲がりの少なさ」といった要素が
大切になります。

と、具体的に
優先順位の指標を示してくれている。

久松さん自身は「おいしい」きゅうりを
目指しているわけだが、
安定供給をミッションとする農家を
まったく責めたりはしていない。
「その目的のために
 最適な行動をとっている」と。

実際にうちだって、
おいしさの一点だけを
追求しているわけではなく、
「おいしさ」と
「栽培のしやすさ」の間で
ウロウロとしているんです。

「安定供給」であれ
「おいしさ」であれ
優先順位や目的を決めたからといって
農作物を相手にすると
簡単にはいかないことが
よく伝わってくる。

そんな中、有機栽培について語った
次の部分は特に印象深かった。

まずは農作物の病害について学ぼう。

病害発生のメカニズムには
「主因」「素因」「誘因」
3つがあるとされています。

例えば「べと病」という病気が
あるんですが、

主因としてはカビがそれにあたります。

素因は品種だったり、
その植物自体の話です。

そして誘因
土壌や風通しなどの環境です。

寡聞にして
「主因」「素因」「誘因」
という見方を初めて知った。
なるほど、これらの組合せによって
はじめて病気になるわけだ。

病気を避けるには、その3つ
すべてに目を向ける必要があります


けれども、
農薬を使うことを前提にすると、
どうしてもその主因のカビを
取り除くことばかりに
目が向いてしまって

その個体はどうなのかという素因や、
土作りは適切なのかという誘因への
意識がおろそかになりがちです。

カビなんてどこにでもいるものなので、
それを取り除くことに意識が集中すると、
他が見えなくなってしまいます。

逆に有機栽培は
それらを全体的に見る目が
強く鍛えられる
わけです。

「主因のカビを
 取り除くことばかりに
 目が向いてしまって」
は示唆に富む指摘だ。

「全体的に見る目が
 強く鍛えられるわけです」
有機栽培実践によるメリットを
こんな角度から耳にしたのは初めてだ。
実践者自身の言葉ゆえ説得力がある。

 

振り返って、現在のコロナ禍。
手当り次第の無差別な消毒は
「主因のウイルスを
 取り除くことばかりに
 目が向いてしまって」
いるからだろう。

病気には「主因」のほかに
「素因」も「誘因」もある。

盲目的な「マスク絶対」が
世間的には大手を振っている中
「息子が通う幼稚園では、
 園の中では先生たちも
 マスクをはずすことになった」
というつぶやきを目にした。

幼い子どもたちは
大人の表情と、発する言葉から
社会性や情操を育んでいく。
その表情をマスクで覆っていてはよくない、
と園長が判断したとのこと。

先生がマスクをすることで
表情が読み取れず
戸惑っている子どもたちを目にして、
子ども自身が持つ「育つ力」や
生き生きと生活することによる免疫力を
総合的に判断しての決断らしい。

そもそも気をつけないといけない病気は
コロナだけではない。

まさに主因のみに囚われていない
好例だと思う。

「主因」「素因」「誘因」、
「全体的に見る目」を失っていないか、は
忘れてはいけない問いかけだ。

 

 

 

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2015年3月 1日 (日)

みんなで守り育てるもの

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みんなで守り育てるもの

- 人間の赤ちゃんはよく泣き、よく笑う -

 

ゴリラの社会から人間の社会を見つめる
京都大学学長の山極寿一(やまぎわ・じゅいち)さんの、
NHKカルチャーラジオでの講義。これまで

(1) 「円くなって穏やかに同じものを食べる」
(2) 言葉は新しい道具
(3) 「勝つ論理と負けない論理」

について紹介した。

今日は、「人間の子育て」について。
(以下水色部、2014年12月7日の放送から)

 

【共感力と人間の子育て】

人間はですね、
ゴリラよりよっぽど高い共感能力を持っています。

それはなぜ、ということになるんですが、
実はですね、
結論を先取りして言えば、

それは人間が熱帯雨林を離れて、サバンナに進出してから、
子どもの育て方を変えて、
みんなで一緒に子どもを育てるという方法をあみだし
そこで共食を高めながら、
つまり食物の分配を、さらに共食に高めながら、
共同意識を持った集団を
作り上げてきた結果なんだろうと思います。

「みんなで一緒に子どもを育てる」ということは
どういうことか。
なぜ、そんな方法をあみだす必要があったのか。
その理由について考えてみよう。

 

ゴリラの子育てと人間の子育てを比べてみると、
とっても面白いことがわかります。
人間てなんてこんな不思議な子育てをしてるんだろう、
ってことなんです。

ゴリラというのはですね、
小さく生んで大きく育つ、ということをやります。

ゴリラのオスの体重は200キロを越えます。
メスも100キロを越えることがあるんですね。
人間なかなか越えませんよね。

でもゴリラは生まれるときの体重は1.8Kgくらいです。
非常に小さい。だから小さく生んで大きく育つんです。

で、3年くらいお乳を吸います。
4年くらいお乳を吸うこともあります。

人間の子どもって、
すぐお乳を吸うのをやめちゃいますよね。

お母さんは1年間赤ん坊を腕の中から離しません。片時も。
赤ちゃんは泣きません。泣く必要がないからです。

 

* 赤ちゃんが大きいこと
* 赤ちゃんの離乳が早いこと
* お母さんが赤ちゃんを抱き続けないこと
人間のこれらの特徴が、
共同保育とどういう関係があるのだろうか。

 

最初に「離乳が早いこと」から。

引用した、ゴリラの子育てとの比較にもある通り
ヒト科の生物の中では、人間の離乳は早い。

オラウータンは7年、
チンパンジーは5年、
ゴリラは3年から4年もお乳を吸っている。

大きく生まれて、そのうえ離乳も早いのに、
人間の赤ちゃんは長い間「ひ弱」だ

ひとりでお母さんにつかまることすらできない。
なのでお母さんも、ゴリラのように、
片時も離さずに抱き続けることはできない。

しかも、
離乳しても大人と同じものが食べられない。

現代社会ならともかく、
自然界の中で「離乳食」に相当するものを調達するのは、
たいへんだったはずだ。

 

「赤ちゃんが大きいこと」についてはどうだろう。

人間の赤ちゃんが「大きい」のは、と言うか「重い」のは
体脂肪が多いせいだ。
この体脂肪、実は脳の成長のために使われている。

成人の場合、脳の重さは体重のたった2%なのに、
驚くべきことに摂取エネルギーの20%以上は
脳の維持に使われている


成長期の赤ちゃんにおいては、
この数字がさらに大きい。

摂取エネルギーの40%から85%を
脳の成長に回している。

赤ちゃんのころはもちろん、
12歳から16歳ころまで、この脳優先が続く。
その結果、体の成長はいつも
脳をあとから追いかける、ということになる。

脳と体の成長がアンバランスなこのころが
まさに「思春期」と呼ばれる時期だ。

 

大人と同じ物が食べられない離乳期、
脳と体がアンバランスな思春期、
親だけでケアすることが難しい時期が
人間にはある。

 

そのために実は人間の社会は、
ある工夫をめぐらしたのです。

人間の子どもは「早い離乳」と「遅い成長」に
特徴付けられます。
この離乳期と思春期というふたつの大事な時期を
みんなで守り育てるために共同保育が必要になりました。

 

ところで、人間の赤ちゃんが
「ひ弱」なまま離乳してしまうのは
どうしてなのだろう。

離乳が早い理由は、子どもをたくさん生むため、
と考えられている。
二足歩行で熱帯雨林を飛び出した人間は、
肉食動物の脅威にさらされていた。

イノシシのように、
一度に多くの子どもを産めない以上、
子どもの数を増やすためには、
妊娠のサイクルを短くするしかない。

お母さんは、授乳していると
排卵が抑制されて次の妊娠をしない。
より短いサイクルで妊娠できるようにするためには、
より早く離乳させる必要があったわけだ。

 

人間の二足歩行は
脳が大きくなるよりも前に完成してしまった。
それゆえ、骨盤がお皿状になり、
産道を大きくすることはむつかしくなった。

なのに、脂肪をたっぷりもった大きな赤ちゃんを
産む必要が生じてきた。
脳の成長のために脂肪が必要だからだ。

その結果、自分では子どもが産めなくなってきた。
産婆さんが必要。

難産になり、出産に時間がかかる。
その間、肉食獣に狙われやすい。

 

このように、
出産時期から、乳児期、離乳期、思春期と
人間の出産、発育課程には、
共同保育が必要な理由がたくさん存在していた。

 

そこに人間の赤ちゃんがよく泣き笑うという
特徴が出てくるわけです。

実は人間の赤ちゃんは
こういった共同保育が
ずっと昔に起ったという証拠を
示してくれているわけですね。

 

誰にでも自己主張する「泣き」、
誰にでもケアしてもらうための「笑顔」、
一年間、片時もお母さんから離れない
ゴリラの赤ちゃんには必要のないアクションを、
皆に育ててもらうために
人間の赤ちゃんは身につけていった。

しかも、人間は肉食獣と違って、
毎日毎日食事をしなければならない。
子育てと食事のケア、
まさに広い意味での助けが親にとっては必要となる。

そこに、家族を越えた共同体が登場することになる。

人間はサルや類人猿の仲間なんです。
だからさっきも言ったように
毎日毎日食事をしなくちゃいけない。

そのケアをしなくちゃいけない。
そういうケアをしながら
夫婦で子どもを育てるということは
ありえないことなんです。

だから、人間も夫婦だけで子どもを育てていません

家族というのが複数集まって
上位の共同体を作るということをやっているわけです。

じつはコレが難しいんです。

 

共同保育のための家族と共同体。
「じつはコレが難しいんです」って、
どういう点が難しいのだろう。
この説明は次回に。

 

ともあれ、
人間の赤ちゃんは、
もともとみんなで守り育てるものなのだ。
だから、あんなに泣いて、あんなに笑う。


そもそもの姿のまま、
共同体全体で育てようではないか。

それが生物としての人間の
自然な姿なのだから。

 

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