経済・政治・国際

2017年4月 9日 (日)

深谷の煉瓦(レンガ)

(全体の目次はこちら


深谷の煉瓦(レンガ)

- 東京駅から迎賓館まで -

 

埼玉県深谷市というと、
深谷ネギというネギが有名だが、
ここは明治の大実業家
「渋沢栄一」の出身地でもある。

第一国立銀行(現みずほ銀行)や地方銀行、
東京瓦斯(ガス)や王子製紙、
帝国ホテルやキリンビール、
一橋大学、同志社大学、日本女子大学校
東京海上火災保険や東京証券取引所、
などなど
渋沢栄一が設立に関わった企業や学校は
多種多様でその数、実に500以上。

まさに「日本資本主義の父」
と呼ばれるにふさわしい輝かしい実績。

どの会社も組織も、その後の発展と
日本社会への影響度、貢献度を思うと、
一生の間にこれほど多様な仕事が
できるものだろうかと、
にわかには信じられないほどだ。

そんな渋沢が
設立に関わった会社のひとつに
日本煉瓦製造株式会社」がある。
1887年(明治20年)に設立。

明治になって、急速に増え始めた
欧米に倣った近代建造物のための
赤レンガを製造、販売していた。

会社は2006年に廃業してしまうが、
レンガを焼いていた窯(かま)は、
重要文化財として今でも深谷に残っている。

実際に窯を見に行ってみた。

【ホフマン輪窯(わがま)】
ドイツ人ホフマンが考案した
煉瓦の連続焼成が可能な輪窯(わがま)。

Fukaya2_2

明治40年の建造で、
長さ56.5m、幅20m、高さ3.3mの
煉瓦造り。
陸上のトラックのような形状の
輪になっており、一周約120メートル。

見学は無料だが、
丁寧にも説明員がついてくれる。

Fukaya1

ヘルメットを被り、
窯の中に入って説明を聞くことができる。

Fukaya3

今は仕切りはないが、
内部を18の部屋に分け、
窯詰め・予熱・焼成・冷却・窯出しの
工程を順次行いながら移動し、
およそ半月かけて窯を一周したとのこと。

燃料の石炭は、粉にして上の穴から
15分おきに投入していたらしいが、
実際に窯に入ると、
その穴を下から見上げることができる。

Fukaya4

生産能力は月産65万個。
1968年(昭和43年)まで
約60年間煉瓦を焼き続けた。

木造平屋の会社の旧事務所も
輪窯と一緒に
国の重要文化財となっているが、
内部は今は史料館となっている。

Fukaya5

あんな大きな窯が、
最盛期には6基もあったらしい。

Fukaya6

各窯建屋の内部はこんな感じ。
一番下に窯。
煙突の途中にあるハの字にご注目。
窯の上にあった建屋の屋根の跡。

Fukaya7

この屋根の跡は今も煙突に残る。
あの高さにまで建屋があったわけだ。

Fukaya8

さて、この大規模な工場で作られた煉瓦は、
いったいどこに使われていたのか。

史料館で100円で購入した
「深谷の煉瓦物語」という小冊子から
代表的な建造物を紹介したい。

(1) 東京駅 丸ノ内本屋
明治41年に着工し、大正3年に完成。
辰野金吾の設計による
国内最大級の煉瓦建築。
深谷の煉瓦が約833万個使われた。

(2) 旧信越本線碓氷第三橋梁
  (碓氷峠鉄道施設〉
横川~軽井沢間の碓氷峠鉄道敷設工事は
明治24年に開始。
けわしい峠を縫う11.2km余りの区間には
26ものトンネルと18の橋が必要で
そのほとんどが煉瓦で作られた。
使った煉瓦1800万個
500人以上の尊い犠牲を出しながら
明治26年初めに開通。

(3) 法務省旧本館 明治28年完成
(4) 日本銀行本店本館 明治23-29年
(5) 表慶館 明治41年完成
(6) 旧横浜正金銀行本店本館
  明治37年完成
  (現・神奈川県立歴史博物館)
(7) 旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)
  明治41年

(1)-(6)はすべて重要文化財、
(7)は国宝。

(4)-(7)は、外見だけを見ると
石造建築のように見えるが、
実はいすれも深谷の煉瓦を使って建設され、
表面に石材を張って仕上げたものらしい。

鉄筋コンクリート建築に
とって代わられるまで、
本格的な西洋建築の多くは
煉瓦造だったとのこと。

建築・建造物に限らないが、
開国後、短期間でよくここまで
新技術・新文化を取り込んだものだ。

欧米列強に追いつこうとしていた
日本の勢いを、強く強く実感できる。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2016年12月25日 (日)

渤海からのカレンダー

(全体の目次はこちら


渤海からのカレンダー

- 宣明暦(せんみょうれき)の渡来 -

 

前回、「日本海」について
この本を紹介させていただいた。

 蒲生俊敬著
 「日本海 その深層で起こっていること」
 講談社ブルーバックス

この本、ブルーバックスなので、
海水の「熱塩循環」を始め
科学的な視点での解説が多いのだが、
日本海に関する歴史的なエピソードも
数多く盛り込まれている。

その中からひとつご紹介。
(以下水色部、本からの引用)

 8世紀から10世紀にかけては、
高句麗の後継として698年に建国された
渤海(ぼっかい)
(当初の国名は振で、926年に滅亡)
とのあいだで実施された国際交流
(遺渤海使)がよく知られています。

今から1300年も前の話だ。

 

727年に渤海からの使節が
蝦夷(えぞ)地に来着したのをきっかけに、
翌728年には、わが国から初めての
遣渤海使が日本海を渡ります。

遣渤海使は811年の15回めで終了しますが、
渤海はその後も熱心に使節を派遣し続け、
929年の34回めまで継続されました。

727年-929年この間だけで約200年。

渤海使の推定交易ルートが下図。
なお、参考にしているのは、
 高瀬重雄(1984)
 「日本海文化の形成」名著出版

Nihonkai

秋田県能代から島根県松江(千酌)、
そして平城京まで、
なんと多くのところと繋がりがあったことか。

 

渤海からの使節は、
秋から冬にかけての北西季節風を利用して
日本海を横断し、対馬暖流に乗って
日本海沿岸の港に到着しました。

一方、帰路は4~8月に日本海を北上し、
リマン寒流を利用して渤海沿岸に
到着していたと思われます。

彼らは航海術に長(た)けていたようで、
海路図からは日本海の海流を経験的に
うまく利用していた
ようすが見てとれます。

古い話とはいえ、
航海術はこの時点ですでに長い歴史があり、
風や海流をうまく利用していたようだ。

 

 交流が始まった当初の渤海は
新羅と対立しており、同国を牽制するために、
やはり新羅と敵対していた
わが国との連係を求めました。

しかし、まもなく
新羅との緊張状態が緩和したことによって
軍事同盟的な色彩は薄れ、渤海との関係は
交易を中心とする文化的なものへ
変わっていきます。

軍事目的から文化交流へ。

では、実際にはどんなものが
やりとりされていたのだろう?

 渤海からは、
貂(てん)・熊・豹・虎などの毛皮や、
人参、蜂蜜、陶器類、仏具、経典などが
わが国にもたらされました。

一方わが国からは、
絹などの高級な繊維加工品、黄金や水銀、
工芸品、つばき油、金漆(こしあぶら)などが
輸出されました。

養蚕のあまりできない渤海で、
絹製品はとりわけ珍重されたといいます。

そして、このルートで輸入された
もっと大きなもの。

それは、その後800年以上に渡って
日本で使われることになる「カレンダー」だ。

 この時代に、渤海を経由して
唐から伝えられた貴重な文物があります。

859年の渤海使によってもたらされた
宣明暦(せんみょうれき)」です。

当時の唐で使用されていた
高精度の太陰太陽暦であるこの暦は、
862年から
江戸時代中期にあたる1684年まで、
実に822年間もの長きにわたって使用され、
年月日に基づく人々の
日常的生活の拠りどころとなりました。

800年間も使われた宣明歴。
その入国のルートとなったのが、
日本海だったようだ。

宣明歴も1685年には、
輸入物ではなく、日本人
渋川春海の手によって編纂された和暦、
貞享暦(じょうきょうれき)
改暦される。

渋川春海については、
冲方丁著『天地明察(てんちめいさつ)』
で広く知られるようになった。

貞享暦のほうは、
70年の寿命だったようだが。

 

2016年も年の瀬。
さてさて、来年は
どんなカレンダーになることでしょう。

今年もご訪問ありがとうございました。
どうぞ、よいお年をお迎え下さい。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2016年3月13日 (日)

壁が次々と倒れていく時代にあって

(全体の目次はこちら


壁が次々と倒れていく時代にあって

- 米国のゲーテッド・コミュニティ -

 

相変わらず目の離せないアメリカ大統領選。
過激な発言を続けている共和党のトランプ氏の、

「隣国のメキシコからの不法移民を防ぐために
 国境に壁を築くべきだ」


というコメントで思い出した
メキシコ国境近くの標識のことをここに書いたが、

米国の「壁」と言うと、
この本にも印象的な一節がある。

渡辺靖 著
「アメリカン・コミュニティ」
- 国家と個人が交差する場所 - 新潮社

(以下水色部 本からの引用)

 

この本、米国の中でも特徴のあるコミュニティを
いくつか選んで訪問し、そのコミュニティを通して
アメリカ社会を語っている。

例えば、
「刑務所の町、テキサス州ハンツビル」の章では

アメリカ全体では約220万人が収監されている

(中略)

刑務所関連の仕事に
携わっているアメリカ人は約230万人


アメリカ国内の三大民間雇用主である
ウォールマート、
フォード、
ゼネラルモーターズ
といった大企業の従業員数の合計を上回っている。

(中略)

アメリカ社会の影を映し出す刑務所であるが、
公共事業としての経済効果は大きく、
産業の空洞化に直面した地域にとっては
魅力的な存在だ。

「刑務所産業」という言葉があるぐらいである。

農業と違い季節や天候に左右されることもなく、
工業による環境汚染の心配も少なく、
住民の目に触れることもほとんどない。

景気に左右されることも少なく、
地域に安定した雇用と収入をもたらしてくれる。

といった、驚くべき数字も出てくる。
収監者総数220万人とは!
ちなみに日本は7万5千人(2010年)程度だ。

 

今回、「壁」で思い出したのは、
「ゲーテッド・コミュニティ
 カリフォルニア州 コト・デ・カザ」
という章。

今回の取材の目的地は、
ロサンゼルスから南へ約百キロ、
裕福で保守的なことで知られるオレンジ郡に位置する、
コト・デ・カザ(Coto de Caza)。

アメリカで最大規模の
ゲーテッド・コミュニティ(gated community)だ。

ゲーテッド・コミュニティとはつまり、
外壁やフェンスで周囲を囲い、
入口にゲートを設置することで、
外部からの自由な出入りを制限している
コミュニティのことである。


コト・デ・カザには2000年、
都市開発分野の世界最大のシンクタンクである
アーバン・ランド・インスティチュート(ULI)から
「卓越した新しいコミュニティ賞
(Award for Excellence for a New Community)」
が授与されている。

この、ゲーテッド・コミュニティ、
米国の富裕層住宅街には確かに増えている。

 ゲート付きのコミュニティそのものは、
超富裕層のための屋敷町という形で、
19世紀半ばにも存在していたが、
その増加がより顕著になっていったのは、
退職者向けヴィレッジが出現する
1960年代後半からだ。

その後、
リゾートやカントリークラブ近くの住宅地に、
そして郊外分譲地へと広がっていった。

特に、
1980年代後半からは、
高級不動産への投機や派手な消費主義を通じて
地位や威信を誇示する風潮が強まった。

1995年には400万人だった
ゲーテッド・コミュニティの居住人口は、
1997年には800万人、
2001年には1600万人
(全米の世帯数の5.9パーセントに相当)と
1990年代に飛躍的な伸びを遂げた。

わずか6年で、4倍にも広がっていたのだ。

もちろん、
「ゲートがあるからそれで安全」
と簡単にはいかない。

 しかし、近年の調査結果が伝えるところによると、
ゲート内部の現実は必ずしも思惑通りではないようだ。

都市政策学者エドワード・ブレークリーと
メーリー・ゲイル・スナイダーは、1997年に著わした
『ゲーテッド・コミュニティー米国の要塞都市』
(邦訳2004年)のなかで、

少なくとも統計的には、
窃盗や破壊行為がそれほど減っていない
ことを示し、

安易な警備設備への依存が防犯に関する責任感を
かえって減退させると結論づけている。

住民たちも、
ゲートによる心理的な安堵感は享受しているものの、
それは決して万能ではなく、その気になれば幾つもの
「抜け道」があることを悟っている。

 

ともあれ、米国で壁は増えている。
以下のデイヴィスの言葉は印象的だ。

著述家マイク・デイヴィスは1990年に出した
『要塞都市LA』(邦訳2001年)の中で、
次のように述べている。

 「東ヨーロッパでは壁が
  次々と倒れていく時代にあって、
  ロサンゼルスのあちらこちらで
  壁が作られているのだ」

 

最後に、トクヴィルの言葉を
添えておきたい。

ゲートの中に生きる人にとって、
ゲートの外の政治や社会のシステムが、
さして貢献する必要のない世界だとすれば、
「アメリカ」というより大きなコミュニティは
どうなるのだろうか。

今から150年以上も前、
アメリカを訪れたアレクシ・ド・トクヴィルは、
その古典的名著『アメリカの民主政治』のなかで
こう述べている。

 「各人は永遠にただ自分自身のみに依存し、
  そして自らの心の孤独の中に
  閉じ込められる危険がある」

 

一時的に、視野に境界を設ける効果はあっても、
壁自体が問題を解決してくれるわけではない。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2016年2月21日 (日)

CAUTION(注意しろ!)のスペイン語訳

(全体の目次はこちら


CAUTION(注意しろ!)のスペイン語訳

- メキシコとの国境近くで -

 

今年11月のアメリカ大統領選挙に向けて、
過激な発言を続けている共和党のトランプ氏。

先日も、移民政策を巡り、

「隣国のメキシコからの不法移民を防ぐために
 国境に壁を築くべきだ」

などとコメントしてニュースになっていた。

こうした発言に対して、メキシコを訪れた
ローマ法王のフランシスコ法王は、
バチカンに帰る機内で記者団の質問に答え、

「壁を築くことを考え、
 橋を架けることを考えない人
は、
 キリスト教徒ではない」

と述べたという。
(2016年2月19日のNHKニュース)

 

「メキシコからの不法移民」
という言葉を聞いて、米国駐在時に目にした、
ある標識を思い出した。

 

米国の地図を見るとわかるが、
北はカナダとの国境から
南はメキシコとの国境まで、
まさに南北を貫いて、
米国の西海岸に沿うように、
「I-5」と呼ばれる
長い長い高速道路が走っている。

I-5の「I」は「interstate」、
州を結んで走る高速道路のことだ。
「5」は、5号線を表す数字。

interstateの数字は
2桁まではPrimaryと呼ばれて一級扱いだが、
数字そのものにも簡単な意味がある。

奇数なら南北、偶数なら東西
に走っており、5で割り切れると、
合衆国を縦断または横断する


つまり、I-5と言うだけで、
合衆国を南北に縦断する道路の一本、
ということがわかる


(ちなみに、東海岸沿いに
 南北を縦断しているのはI-95だ)

 

このI-5を、ロサンゼルスから
メキシコとの国境に位置する都市
サンディエゴに向けて、
つまり南方向に走って行くと、
サンディエゴの手前あたりから、
道路沿いに、
この標識が目につくようになる。

Cai5caution1s

父と母、それに子。
なんという絵だろう。

道路を渡ろうと飛び出してくる
家族がいるかもしれないから
CAUTION(注意しろ!)
という意味だ。

道路と言ったって、
片側だけで4車線から6車線もある高速道路で、
もちろん信号もなく、
時速75マイル(120km/h)程度で
車がひっきりなしに走っている。

しかも、
ある区域は沙漠のような荒野の中だし、
ある区域は中央分離帯にも
柵が設けられたりしている。

いったいこの道を
どうやって、しかも子連れで
渡るというのだろう。

 

おそらくは、
メキシコから米国への不法入国者たち。
家族で、ということもあるということか。

まさに命がけで入国してくる人達がいる。

標識は、場所によっては、
こうなっているところもあった。

Cai5caution2s

「PROHIBIDO」
メキシコの公用語、スペイン語だろう。
スペイン語を知らなくても、
英語のprohibit(禁止する)が連想されるので、
運転しながらでも、意味はすぐにわかった。

つまり、
高速道路を強引に渡ろうとする家族について、

英語が読める運転中の米国人には
CAUTION(注意しろ!)
と呼びかけ、

スペイン語が読めるメキシコ人には、
PROHIBIDO(禁止する)
と呼びかけている。

CAUTIONをスペイン語に翻訳しているわけではない。

 

「禁煙」の下に「No Smoking」
と書いてあるような2言語表記とは
全く違う意味を持つ2言語表記。

2言語表記の裏には、
ときによって、こんな背景もあることを、
教科書からではなく、
実体験として知った瞬間だった。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2015年9月13日 (日)

911その時カナダ、イエローナイフで

(全体の目次はこちら


911その時カナダ、イエローナイフで

- どうやったら学べる、この危機管理 -

 

アメリカ同時多発テロ事件から
今年2015年9月11日で14年が経った。

衝撃的な映像の数々、3千人以上の犠牲者、
その後のアフガニスタン紛争、イラク戦争。

昨夜食べた夕食ですら思い出せないような人でも
「911のニュースを最初に知った時、
 あなたは何をしていましたか」
の質問にはなぜか必ず答えられる。

ほんとうの「衝撃」には、
記憶を鮮明に固定化する不思議なチカラがある。

 

14年前、
マスコミとネットのニュースが、
連日この件で埋め尽くされていたころ、
米国に住む知人から一通のメールが転送されてきた。

今日はそのメールを紹介したい。

事件発生の瞬間、
米国シアトルに向って飛んでいた
一個人の体験記。

彼が乗っていた飛行機は、
米国の空港が突然封鎖されたため
着陸できなくなってしまう。

その後、どうなってしまったのか。

まわりへの感謝の気持ちを忘れることなく
事実を冷静に、かつ詳細に記述してくれた筆者、
そして(ワガママな日本人を除いた)
そこに登場するすべての方々に、
深い深い敬意を表して、
まさに「記録」として
ここに残しておきたいと思う。

ほんとうの危機管理とはどういうことか、
いろいろなことを考えさせられる。

長文ですが、最初からぜひ。

(以下、水色部は転送メールからの転載)

9月12日:事件発生

成田からアメリカのシアトルに向かうUA便の中で
最初に異変に気が付いたのは機内のモニターである。

飛行機の高度や速度、そして到着時間を示す表示が
映らなくなったのだ。
少し前までは映っていたはずなのだが、、、

「どうしたのだろう」一瞬嫌な予感がしたが
「直ぐに映るだろう」と思い直して
毛布をかぶり再び眠ろうとした。

その時、機内に機長からのアナウンスが流れた。


アメリカで非常事態が発生しました。
 現在アメリカの全ての空港が
 閉鎖されており、
 当機は着陸を拒否されています


「従いまして当機は航路を変更しカナダへ向かいます。
 詳細はまた後ほどアナウンスします」

一瞬、耳を疑った「英語の聞き間違いだろうか、、」
その後、直ぐに
日本語で同じ意味のアナウンスが聞こえてきた。

薄暗い機内の中は飛行機のエンジン音が響くだけで、
誰一人話そうとしない。

誰もがアナウンスの意味を
どのように理解して良いのか分らないのだろう。
不思議なほどの沈黙である。

私も頭の中でいろいろな考えが交錯する。

「アメリカの全ての空港が閉鎖される非常事態とは
 第三次世界大戦が始まったのか!」

「いや世界大戦ならカナダに着陸できるはずがない。
 アメリカに何が起こったのか?」

「ひょっとしてサイバーテロでアメリカの空港の機能が
 全てダウンさせられたのでは?」

「サイバーテロなら回復まで時間が掛からないから、
 ひょっとして直ぐに空港は再開するのではないか?」

まとまりのない考えが頭の中を駆け巡る。

近くの乗客がたまりかねて
パーサーに質問をぶつけていた。

「いったい何が起こったのですか?」
「私にも分らないのです。
 いまは連絡を待つしかありません」


機内は騒ぎ出す人など一人もおらず、
薄気味悪いほど沈黙である。

映画ではこのようなシーンでは大騒ぎになるのだが、
現実は違うのだなあ、と妙に感心してしまった。

機長からのアナウンスは何もなく、
何も分らないままである。

人間とは不思議なもので、非常時には
自分に良い方向に考えてしまうものである。

私は
「アナウンスがない所を見ると
 きっと空港は再開したのだろう。
 アメリカに向かっているに違いない」
と自分勝手に納得してしまった。

ようやく機長からアナウンスが入った。

当機はこれより着陸体勢に入ります。
 着陸先の空港名、場所は
 お伝えすることは出来ません

着陸することができるようにはなったものの、
そこがどこなのかは乗客に知らされないまま
飛行機は下降していく。

いったいどこに着陸するのだろう?
窓を空けて外を見ると、
朝日の中に茶色ににじんだ大地に
低い針葉樹の森が目に入った。
アメリカでないことは確かである。

いったいどこなのか?
着陸したあとどうなるのか?

何もない広々とした滑走路に無事着陸した。
機体が停止するとアナウンスが入った。

「アメリカの全ての空港が閉鎖されたため、
 当機はカナダのイエローナイフに着陸致しました」

「アメリカの非常事態ですがハイジャック及び
 ニューヨークとワシントンで
 爆弾テロがあった模様です。
 大統領は無事との連絡が入っております」

「これよりカナダでの入国手続きを行いますが、
 今しばらくお待ち下さい」

この時点ではハイジャック機が
ビルや国防総省に突っ込んだことを知らず
「ハイジャックで空港が閉鎖になるのか?」
と不思議な気になった。


着陸してから1時間以上が経過したが、
依然として待機しているだけ。

機内は沈黙とイライラが
募っているような雰囲気なのだが、
中国人のグループだけは
陽気に仲間とトランプで遊んでいる。

機内の不安を紛らわせようとパーサ-が
「この状況に対して何か質問はないか」
と乗客に聞いて周っている。

「いったい何が起こっているのか」
「分らない」

「我々はいつまで、ここにいるのか」
「分らない」


この二つの質問の答えを聞いた後は、
誰もパーサーに質問しなくなった。
実際、この二つの答えを聞けば十分である。

私は正直に言ってこのような非常事態に直面すると
不安より、ワクワクしてきてしまう性格である。
「面白いことになってきたな!」

再びアナウンス
「これよりカナダの警察の方が事情説明及び
 機内のセキュリティのチェックを行います。
 座席にてお待ち下さい」

警官が数人入ってきて、
そのうちの一人がマイクを取った

「みなさんカナダへようこそ。
 ここはカナダのイエローナイフという
 カナダ最北の地です」

「先ほどアメリカで重大事件が発生しました。
 詳細は私にも分りません。
 空港内でCNNのテレビを見れるように
 手配しますのでそれを見てください」

「みなさんはこれより10人づつグループづつ、
 機外に降りて頂きます。
 そして当局のセキュリティ・チェックを
 受けて頂きます。
 その後、入国手続きを行います」

「セキュリティ・チェックは厳重に行うため、
 かなりの時間が掛かることが予想されますが
 ご協力をお願いします」

皆さんにお願いですが、
 携帯電話は絶対に使用しないで下さい


ファーストクラスから順番に
10人づつのグループになって機外に降り始めた。

UAのアメリカ人スチュワーデスは
「孫がいるのでは?」と思うほどの年配の方が多い。

通常のサービス時は
「若い女性の方が良いのになあ」と思うのだが、
今回のような非常時はこの年齢がものを言う。

肝が据わっているというか全く動揺がない。
完全に乗客を仕切っており、凄く安心感がある。
スチュワーデスは年齢で判断してはいけないと思った。

ようやく機外に出られることになった。

私の番が来て機外に降りる。
周りは地平線が見えるほど何もない。
太陽光線はきついが、
かなり肌寒く緯度が高い場所だと直ぐに分る。

指定のバスに乗り込むと女性の警官が同乗する。
「ようこそカナダへ」
誰も返事をしない

「みなさんが来たくて、ここに来たのではないことは
 理解しています。
 今からセキュリティ・チェックの場所に移動します」

この女性警官からはじめてハイジャック機が突入したこと、
死傷者が一万人近くの可能性があることを聞かされた


空港の片隅にある格納庫の前でバスが止まった。
兵士の数が多く、軍用の空港であることが分かる。
折りたたみの机を並べて兵士が荷物検査を行っている。

乗客一人に付き、一人の兵士が付いて案内をしてくれる。

態度はにこやかだが、乗客の顔をビデオやカメラで
撮っている兵士もおり、ここで初めて
乗客の中にテロリストがいる可能性があると
疑われていることが分った


機内のアナウンスで情報を制限していたこと、
携帯電話使用禁止の指示もこれなら納得できる。

セキュリティ・チェックを待っている間、
カメラを取り出して
「この場面をカメラで撮って良いのかなあ」
と迷っていると兵士が近づいてきて
「記念撮影をしたいのかい?
 俺がおまえを撮ってやるからそこに立てよ」
と簡単に撮ってくれた。

荷物検査が終わると兵士が
「荷物を持ってあげるよ」
と気楽に持ってくれた。

次のステップである
パスポート・コントロールの机に向かう。
検査官である兵士にパスポートを渡すと
「名前と生年月日は」と聞かれた。
いきなり聞かれると直ぐには出てこず、
戸惑ってしまった自分自身にビックリした。
やはり緊張しているだろう。

次のステップの入管に向かう。
この机では若い女性が笑顔で迎えてくれ、
質問もほとんどなく入国のスタンプを押してくれた。
仮設の入国申請所のため税関がないのだが、
ほとんど乗客は機内で書いた
アメリカの税関申告書を渡している。
私もカナダでアメリカの申告書を出しても意味がない
と思いながら差し出した。

入国が終わると兵士が
格納庫の隅にテープで仕切られている場所に案内した。

「みなさんを宿舎に運ぶバスが来るので
 ここで待っていてくれ。
 トイレはあそこにある。水はそこで飲める」

「宿舎とはどこに行くのか」

「これだけの乗客を収容できる施設は
 この町にはないんだ。たぶん学校じゃないかな」

学校に収容されるのかよ!と思っていたら、
ほんとに黄色い通学用のボンネットバスが来た。

一緒にいたアメリカ人が
「やれやれ、カナダに来て
 小学校に入りなおすとは思わなかったよ」と
軽いジョークで周りを笑わせた。

黄色いスクールバスはどこに向かうのか。

バスに乗って街に出るのかと思ったら、
3分くらいでフェンスに囲まれた施設に入った。

長方形のプレハブのような建物である。
建物の前には大型のテントがあり、
ここで簡単な説明を受けた。

「ここはカナダの軍の施設です。
 みなさんはここに滞在してもらうことになります。
 今から名前の登録を行います。
 その後、登録票を渡しますので
 無くさないようにして下さい。
 また登録時に部屋番号を教えますので、
 その部屋を使って下さい」

説明時に驚いたことは
日本人の通訳が配置されていたこと
だ。
乗客144人のうち約40人程度が日本人なのだが
凄い段取りの良さである。

施設内には数多くのボランティアの人たちがおり、
いろいろ動き回っている。

指定された部屋に入ると
8畳くらいの大きさにロッカーが2つ、
担架に台を付けた仮設ベッドが3つ置いてあった。

他には窓しかないシンプルな部屋である。
荷物を置き、食堂に行くと
テレビでCNNが流れており、
初めて飛行機がビルに突っ込む映像を見た


しばらくすると食堂で次のような説明があった。
カナダ警察より
「街には乗客を宿泊させる施設がないこと。
 また安全上の理由からこの施設に留まってもらう」

機長より
「アメリカとカナダの全ての空港が閉鎖されており、
 いつ再開されるか不明」

宿泊所の担当者より
「仮設電話を引いたので国際電話が掛けられる。
 不便があったら遠慮なく言って欲しい。
 乗客の方が外出できるようにアレンジ中である。
 夕方には外出用のバスの手配が完了する」

最後に機長から
「アメリカの多くの犠牲者のために
 黙祷を捧げましょう」
と言われ全員で黙祷を行った。

軍の施設には驚くべきものが用意されていた。

食堂には大型の冷蔵庫にジュースや果物、
サンドイッチが入っており、
無料で自由に食べることが出来る。

机の上にはコーヒー、紅茶のポットの他、
パンやおかずが並んでおり、
これもいつでも自由に食べることが出来た。

驚いたのはおにぎりが並んでいたことである。
食べてみると中には鮭や沢庵が入ってた。
しかも味噌汁まである


さらに手際良く
イエローナイフの日本語の観光案内の
パンフレットも置いてあるので読んでみる。

「イエローナイフは
 カナダのノースウエスト準州の準州都で、
 人口は一万八千人の小さな田舎町である。
 北極に近く冬はマイナス50度にもなる。
 日本ではオーロラが見える街として
 ツアーが組まれている」

施設の入り口に貼り出してある地図を見ると
イエローナイフは北極点より
500キロ程度しかない。
アラスカよりも北極に近いのである。

ボランティアの人たちによる
毛布、石鹸、枕の配給があり、室内を整えたり、
食堂でテレビを見たりして過ごす。

夕方4時頃に街に出るバスの連絡があり、
バスの運行時間、待ち合わせ場所などが
英語と日本語で貼り出された


施設はフェンスで囲まれており、
入り口には警官が待機している。
バスは入り口の外に止まっており、
バスに乗る際には警官に登録書を見せてから乗り込む。

バスの座席に座ると、ボランティアの人が入ってきて、
イエローナイフの見所を説明してくれた。

バスは15分ほど走って市役所の前に停車した。
ここからは自由行動である。
すでに夜の7時になっており、外気はとても寒い。
イエローナイフは小さな街で
特に見るべきものもない。
店も夕方6時には閉まっており、
早々にバスに乗り施設に戻った。

街から施設に戻ってきて説明会を聞く。

夜9時より説明会が始まる。
説明会は日本人とその他の人のグループに分かれ、
日本人グループにはボランティアの通訳が付く
内容は
「アメリカ政府が空港をいつ再開するか不明である。
 従っていつまでここに滞在するかも分らない」
とのことであった。

アメリカ人は「仕方がないな」と納得するのだが、
日本人グループの年配の方はそうではない。
文句が多く通訳に怒っている人がいる。

「私は明後日
 ニューヨークに行かなければならないのだ!
 どうにかならないのか!」

私はビックリした!
アメリカを揺るがすテロが
ニューヨークで起こっている状況が
わからないのであろうか?

私たちの目的地であるシアトル空港ですら
再開していないのに、
事件が起きたニューヨークの空港など
当分閉鎖になるに決まっているではないか。


「私はここから日本に帰りたい。どうにかしてくれ」
と言い出す日本人もいた。

この発言には機長もさすがにムッと来たらしい。
「この田舎町からどうやって日本に行くつもりですか?
 カナダの空港も全て閉鎖されているのですよ。
 私はここにいる全員を
 無事にシアトルに連れて行く義務がある。
 今は非常事態ですから全員が一緒に行動するのです


「しかしどうしても帰りたいのならば、
 我々のシアトル行きの飛行機をキャンセルして
 ご自身の力で帰って頂くしかありません。
 その場合は陸路しかありませんが、
 この田舎町では列車や車の手配が大変です。

 それにイエローナイフで緊急入国したことを、
 他の場所で出国の際にどのように説明されるのですか?
 陸路で一人で帰るのには問題が多すぎます。
 空港はいずれ再開されるのですから、
 その時に全員で一緒に帰りましょう」

日本人は危機意識が薄いと良く言われるが、
このような質問を聞いて本当に驚いた。

いま世界で何が起こっており、
自分がどのような状況にいるか
全く理解できていないのだ。

台風で飛行機が飛ばなくなったのではないだ。
テロによりアメリカの空港が全て閉鎖していると言う、
最高度な非常事態が自分自身に起こっている現実を
なぜ理解できないのだろう。

欧米人はこのような危機的な状況でも
ユーモアを忘れない


機長が説明のあと
「なにか質問がありますか」
と聞いたところ、
若いアメリカ人が手を上げた。
「機長、
 私はシアトル行きのチケットを買ったのですが、
 カナダの果てまで飛行機に余分に乗ってきました。
 この余分のマイレージは
 どこへ申請すれば良いのですか?」

これには爆笑となり、機長も苦笑いで

「その件なら個人的に私に後で電話してくれ」
と切り返していた。

このように説明会の時には
アメリカ人と日本人の危機意識の感覚の差が
明らかに現れた。

「私はここにいる全員を
 無事にシアトルに連れて行く義務がある」
と言い切った機長のなんとかっこいいことか。

軍の施設で最初の夜を迎える。

夜中になっても食堂のテレビで
CNNを見ている人が多い。

寝つけない人もいるのだろう。
部屋に戻って簡易ベッドに横になる。
しばらくすると同室の日本人留学生が入ってきた。

「**さん。オーロラを見ましたか?  今外に出ていますよ」
外に出るとオーロラを見ている人が数人いる。
ボランティアの人が
「この季節にオーロラが見えるなんて、
 あなたたち運が良いわよ」と
声を掛けてきた。
大空に広がる緑色のオーロラは幻想的だ。

横に立っていた若いアメリカ人と雑談をする。
彼の口から出た次の言葉が印象的だった。
「僕はアメリカに戻ったら直ぐに海軍に志願するんだ」

二日目も手厚い対応が続く。

9月13日:事件発生2日後

朝起きて食堂でテレビを見ながら
朝10時の説明会を待つ。

説明会での機長の話では空港再開の情報がないため、
いつ飛べるか分らない、
午後3時に再度、説明会を行うとのことである。

ボランティアにより街に出たい人たちのために
施設から街への特別バスの時刻表が貼り出されている。
また
「家族の方が心配しています。
 自宅に連絡してください」
「今日の夕食はバーベキューです」
との日本語のポスターも貼り出されている

入り口での警察の監視は無くなり、外出する人たちは
受付に申請するだけで良くなった。

ボランティアの人は街に出る人には
施設とタクシーの電話番号が書いてあるメモを
配っている。
本当に細かいところまで気が付くものだと感心する


「市役所で無料でメールが送信できます」
との連絡あったので、市役所でバスを降りて中に入る。
受付のソファに腰掛けていると地元の若い女性が
横に座って話しかけてきた。

「あなたは観光できたのですか」
「ええ、そんなところです」
「ひょっとしてあの飛行機の人ですか?
 新聞で見ましたよ」
イエローナイフの街ではすっかり有名人らしい。

雑談を交わしたあと、
「大変でしょうけど頑張ってください。
 無事に帰ることを願っています」
と握手を求めてきた。

メールを送ったあと、博物館や街をぶらぶら回る。
人が少なく静かで気持ちの良い場所だ。
街を歩いていると
エスキモーのような顔をした人たちとも
数多くすれ違う。

バスで施設に戻り、午後3時の説明会を聞く。

「依然として空港再開の目処が立っていない。
 残念ながら今日もここに泊まる事になる」

夕食は軍の主催で乗客ために
屋外でバーベキューを行ってくれた


しかも街からプロのバンドを呼んで来て
サービスしてくれる。

しかし、外でバンドを聞きながら食べるのには
あまりにも寒すぎる。
ほとんどの人が食事を受け取ると
施設の中に入ってしまい、
バンドの人たちはさびしそうだった。


夜9時より説明会。

イエローナイフの市長が訪問、挨拶があった。
「イエローナイフでは
 年に一度の産業博覧会を行っており、
 ホテルが一杯であるため皆さんをこの施設に
 収容していることは残念に感じます。
 ただ市としては精一杯の対応をしているつもりです」

ここで大きな拍手が起こった
確かに本当に良く対応してくれている。
ボランティアの人たちは
食事の準備、後片付け、トイレの清掃、
乗客からの要望の対応など本当に良く動いてくれている


市も食料、水の手配を始め、ゴミの回収など
全ての面でバックアップしている。

実際カナダにはアメリカの国際線、国内線を合わせて
約250機が緊急着陸している。
そしてバンクーバーの空港にはなんと60機が着陸しており、
収容施設のセキュリティの問題により、
その多くはなんと飛行機の外に出してもらえず、
飛行機内で過ごしているのが現実なのだ。

イエローナイフは幸い私が乗ってきた飛行機が
一機だけだったため、
警察、軍、市が一体となった待遇を
受けることが出来ているのだ


機長から
「明日シアトルの空港が一部、
 稼動することになりました。
 たぶん当機は明日の夕方ここを飛び立ち
 シアトルに行くことが出来るでしょう」
との報告があった。

続いて警察から
「飛行機へ搭乗の際のセキュリティは
 かなり厳しくなります。
 わずかに危険を及ぼすものでも
 機内へ持ち込むことは 出来ません」
との注意があった。

持ち込めないものは明日、
 仮設郵便局を開きますので、
 そこで郵送してください


明日は出発できると分り、
施設の中の雰囲気がなんとなく緩やかになる。

いよいよシアトルに向けて飛び立てることになる。

9月14日:事件発生3日後

朝起きて外に出ると飛行機の爆音が聞こえた。
「飛行機が飛んでいる!」
空港が再開されたのだ。
近くにいた日本人の女性が
「音が聞こえますよね。飛行機は飛んでいますよね」
と嬉しそうに尋ねてきた。

朝9時に説明会
「これからイエローナイフの空港に向かうが、
 セキュリティの検査に時間が掛かるため、
 30人づつに分けてバスに乗ってもらう。
 全員が飛行機に乗るまでは出発しないから
 慌ててバスに乗る必要はない。

 セキュリティ・チェックの後に
 ボーディングカードを発行する。
 ボーディングカードを提示すれば
 空港内の食堂では無料になる」
との知らせがあった。

最初のバスに乗ろうと、
気の早い人は荷物を外に引っ張り出している。
仮設郵便局の横には
フェデックスの出張所も設けられて

荷物を送ろうとする人たちが並んでいる。

慌しい雰囲気の中でも安心感が漂っている。
3回目のバスに乗って空港に向かう。

空港の敷地内に止まると係員が乗ってきて
セキュリティ・チェックの段取りを説明する。
荷物の検査が終わると、
手書きのボーディングカードが渡された。

空港で長い時間、待たされていよいよ搭乗となった。
機内持ちこみの荷物の
セキュリティ・チェックを行ったが、
なにしろ小さな空港で係員が少ない上に
搭乗客が多すぎるため、
結局は通常の検査とほぼ同じ程度の検査となった。

滑走路を歩いて飛行機に向かう。
大型のジェット機が頼もしく見える。

タラップを上って機内に入ると3人のスチュワーデスが
「おめでとうございます」
と拍手をして迎えてくれた

これは乗客全員に行っている即興のサービスだが
とても嬉しい気分になる。

イエローナイフの空港の滑走路はプロペラ機用で、
大型のジェット機では滑走路の距離は十分ではあるが、
余裕がないとの事で離陸の時には少し緊張した。

飛行機が滑走路から飛び立つと
機内で一斉に拍手が起きた

まさに映画のシーン通りである。
しばらくすると機内食が出てきた。

ビスケットや果物が中心の機内食で
イエローナイフで手配したことが
良く分る機内食であった。


二時間半ほど飛んで
シアトルの国際空港に無事着陸した。

着陸後の機長のアナウンスがしゃれていた。

「当機はシアトルに夜7時半着の予定でしたが、
 2,3分遅れてしまいました」
「いや訂正します。2、3日遅れてしまったのですね」

 

受け入れ準備に、
わずか数時間しか与えられない状況の中、
ここまでの対応ができる地方都市が
日本にあるだろうか。

危機管理と援護・援助。

「おもてなし」などと言って、
無防備に歓待はできない。

最初の部分に書かれている通り、
突然やってくる受け入れるべき集団には、
テロリストが含まれているかもしれないのだ。

そんな中、
セキュリティの確保と同時に、
困っている人への援助をどう実現するのか。

プロフェッショナルな采配が必要とされる場面も
多いことだろう。
もちろん、ボランティアを含む人手の緊急手配も
並行して進めなければならない重要なことだし。

このあたり、私の知る限り
日本はほんとうに弱い気がする。

イエローナイフで実行された
ほんとうの危機管理と援護・援助。

心からの敬意を表したい。

今回の事件でカナダのイエローナイフの人々、
そしてUAの機長を始め乗務員に心から感謝したい。
私個人としては滞在中は全く不満は無かった


今回の事件で強く感じたことは
アメリカ、カナダの強烈な危機管理の体制、
そして緻密なシステム思考である


事件発生後、緊急着陸までの間に
軍用空港でのセキュリティ、入国のシステム作り上げ、
市役所が旅行代理店を始め多くの場所に電話を掛けて
日本人通訳やトラック、バスの手配、
さらには日本食のおにぎり、味噌汁まで
用意が完了していた手際の良さ


必要な注意事項が適切なタイミングと方法で行われる
緻密なコミュニケーション能力。

徹底したシステムの詰めの鋭さ。

例えば市役所でEメールが送れるとの事で
市役所に行ったところ
「Eメールはこちら」
と矢印付きの表示が順番に沿って出ており、
それに従って歩いていったら、
迷わずパソコンを置いてある部屋まで入れてしまった。

Eメールを送れるとなったら、
その場所まで確実にたどり着けるように
考えて詰めて行く発想は凄い。

今回の事件は自分自身にとって
いろいろな意味で有意義な体験になった。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2014年1月19日 (日)

「明暦の大火」と松平信綱

(全体の目次はこちら


「明暦の大火」と松平信綱

- 場を和らげる機転と笑顔、そして具体的な施策 -

 

1月17日で阪神淡路大震災からもう19年にもなるという。
震災の2ヶ月後、1995年3月には地下鉄サリン事件が発生。
思い返してみると、95年は新聞トップに大きな見出しが続いた年だった。

 

地震があった時、以前は
「まずは火を消せ」としつこく言われていた気がするのだが、
最近聞いたラジオでは
「可能なら消して下さい。ガスは震度5以上で自動的に止まります」と言っていた。

『一刻も早く絶対にやれ』感はやや落ちている感じがする。

どういう理由でトーンが変わったのかはよくわからないが、
まずは「身を守れ」ということなのだろう。

いずれにせよ「火事はできるだけ防ぐ」が大原則であることに変わりはない。

 

地震が原因というわけではないが、今から350年以上も前、
江戸では信じられないような大火があった。

世に言う「明暦の大火」

旧暦での1月18日に出火。明暦三年(西暦で言うと1657年)のことだ。
諸説あるものの「死者は3万から10万人」と言われているとんでもない大火だ。

 

今日は、作家の童門冬二さんが日本経済新聞に書いていた

「防災担当相は″知恵伊豆″」

という記事を紹介したい。
 (以下 水色部は「日本経済新聞」1995年3月26日の記事からの引用)

 

江戸城天守閣をも焼いてしまった明暦の大火。

  防災担当相は″知恵伊豆″

                       童門冬二

”火事とケンカは江戸の花”といわれるように、江戸時代は始終火事があった。
なかでも一番大きいのが、明暦三年(1657)1月18日に起こった
いわゆる”明暦の大火”である。
火元は本郷丸山町の本妙寺だったといわれる。

ちょうど名物の西北風が吹きまくっていた。
また、ずっと日照りが続いていたので江戸の町は乾燥しきっていた。
本郷の台地はたちまち火で一なめになった。

下町に移った火は翌19日も燃え続け、ついに江戸城に及んだ。
天守閣も焼け落ちてしまった。二の丸、三の丸も焼けた。
結局、江戸の町の60パーセントが焼け、
大名の江戸屋敷も五百以上、神社仏閣が三百以上焼けた。


焼け出された江戸市民も多く、家財道具もそのままにして逃げ迷ったが、
やがては煙にまかれて堀に落ちたり川に落ちたりして死ぬ人間が多かった。
死者の総計は十万二千人といわれた。

火がおさまった1月24日ごろから、遺体を収容し、
舟で牛島と呼ばれたところに運び、穴を掘って埋めた。
やがて供養のための寺ができ、
これが現在残っている東京都墨田区東両国にある回向院だ。

 

この大災害の災害対策本部で活躍する男の名は「松平信綱」。

 徳川幕府はすぐ首脳部が現場に今でいう災害対策本部を設けて救済にあたった。
活躍したのが、老中(閣僚)の松平伊豆守信綱である。
松平信綱は当時川越城主だった。

彼は忍城(埼玉県行田市)の城主だったが、
寛永十四年に起こった島原の乱を鎮圧した功績によって、
川越六万石に増封されたのである。

しかしこれは単に島原の乱鎮圧の功績だけでなく、
前年に川越の市街が大火で焼け落ちていたからである。

時の将軍三代徳川家光が、
「信綱、川越を復興せよ」
と命じたのだ。松平信綱にはそういう防災計画の才覚があったようである。

 

信綱の川越での活躍には目を見張るものがある。

 川越に行った信網は、

    城の整備、
    商人町の指定、
    防火用水の確保、
    洪水地帯の治水、
    新田開発、
    玉川上水の完成、
    分水しての野火止用水の創設、
    新河岸川の舟運の開発など、

民政に見るべき功績を残した。

川越の町全体を耐火式都市に変える努力をし、
現在の川越市の町並みの原型は、信綱がつくったものだと伝えられている。

 

 そういう経験がかわれ、大火で60パーセント以上が焼け落ちてしまった
江戸の復興計画も信網に下命された。

その信綱についてこんな「エピソード」が紹介されている。
機転が利くだけでなく、
緊急時に最も重要な、でも最もむつかしい「場を和らげる」ことに成功している。
ほんとうに大きな人物だったのだろう。

 このとき現在の閣僚級である老中たち首脳部が、
ぞろぞろと江戸の市中に設けられた対策本部にでかけていったが、
こんな話がある。

大名のなかでも実力者が酒井忠清という人物だった。
伝統のある名門大名なので、坐る場所がうるさい。
つまり席順を気にする。この日がそうだった。

江戸城にいれば、いちばん高い場所に坐るはずなのに、
今日はどさくさまぎれで、新人大名がいつも酒井が坐る上座に坐っていた。
酒井はムッとした。そこで、「帰る」と駄々をこねた。

すると松平信綱がニッコリ笑って、
「酒井様、どうぞ空いている席にお坐りください」といった。

酒井は
「空いている席といっても、上席はすでに若いやつが坐っている。
 ここは下坐ではないか」
とつっかかった。

信綱はニコニコ笑いながら

「そんなことはありません。
 我々後輩は、あなたがお坐りになった席がたとえ下坐であろうと、
 この場所でのいちばん上席と心得ておりますので。


 まして本日は江戸の災害対策という緊急の場でございます。
 どうぞお気になさらずそのお席へ」

と告げた。
これによって険悪な空気は和らぎ、酒井も機嫌をなおした。

酒井にしても信綱のいった”緊急の場”というひとことがきいた。
(あまりゴネるとおれの評判がわるくなる)と反省したのだ。

みんなは「さすがに知恵伊豆どのだ」と感心した。
特に上席に坐った若い大名はホッとした。

 

さて、実際の防災計画を見てみよう。

 焼け落ちた江戸の町をつぶさにみた後、
松平信網はつぎのような防災計画をたてた。

・江戸城の天守閣は、財政難の折から再建しない。

・江戸城内にあった大名の屋敷は、それぞれ城外に出す

・避難民が大量に焼死した経験から、今後は下総(千葉県)方面へも
 避難が可能なように、隅田川に橋をかける。


・寺社は近郊に疎開させる。

・罹災者のうち職を失った者の中で希望する者は
 三多摩地方その他で新田開発に従事させる

・町中の密集地帯に広小路と名付ける防火地帯を設ける
 防火地指定を受けて土地を収用された住民には、代替地や移転料を与える。

・重要な橋が架かっている周囲からは、住家を除く。
 これにも代替地や移転料を与える。

・市街地をさらに拡大する。新しく埋立地をつくる。これが築地になった

・徳川家の直参による消防組織を結成する。これは「定火消し」とよばれた。

 こういう松平信綱の新しい江戸の都市計画によって、
江戸城は完全に将軍の住居と日本における政治のセンターに変わった。

江戸城の周囲は武家中心の町になり、
町人の町は江戸から出る主要街道の沿道に発展していった。
現在でいえばスプロール現象を起こした。

なんて具体的でスッキリとした施策であろう。
まもなく東京都知事選となるが、都知事になるような人には、
施策の提示、という意味でぜひ見習ってもらいたものだ。

そうそう、あの「吉原」は...

歓楽の地であった吉原も、浅草たんぼに移転させた。
吉原という地名は、もともとは江戸の湿地帯で
ヨシやアシの密生地につくられた歓楽街なので”ヨシハラ”とよばれてきた。
そのため、新しくこの方面が発展した。

その点では、
松平信綱の都市計画はすでに投資が十分に行われた土地を幕府側が収用し、
未開発の土地に町人を移して、その発展を促したといえる。
巧妙な土地政策だ。

 

隅田川に架けた橋の名も「大橋」からいつのまにか...

隅田川に架けた橋は初めは”大橋”と呼ばれていたが、
後に武蔵国と下総国との二つの国にまたがるというので
”両国橋”と呼ばれるようになった。

 

現在の東京の市街地形成には、
350年以上も前の信綱の都市計画の影響が色濃く残っている。

広小路とは、防火地帯だったわけだ。

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2013年12月12日 (木)

「違う世界の人」のひと言

(全体の目次はこちら


「違う世界の人」のひと言

- 大金で買える唯一のもの -

 

前回に続いてDNAのイントロン(いらない部分)とジャンクの話を、と始めたいところだが、
先日、人気ブログ「Chikirinの日記」を読んでいたらちょっと興味深い「お題」が目に留まった。
「お題」には提出期限があったので、今日はDNAの話を一回休み、そちらに挑戦してみたいと思う。

ちきりんさんのブログ、
「Chikirinの日記」のこのエントリーに提示されていたお題は以下のものだ。

もし自分が、

・いつもは行かない初めてのスーパーに入ったら、
・価格が驚くほど高く、周りの客の服装もいつものスーパーより、かなりハイソな感じだった。そして、
・「オーガニック納豆をください」と店員に話しかける “6歳ぐらいの女の子”を目撃した
としたら、その経験から、ブログの読者にたいして「何を伝えたい」と思うか、ぜひ考えてみてください。

(中略)

みなさんも、ちょっくらやってみてください。

 

ブログには、自分自身が感じたり、学んだりしたことの中から
「これは」と思ったネタだけを書こうと心がけてきたつもりだったので、
そとから与えられたお題で何かを書いた、ということはない。

でも、こういった実験も、ときには頭の体操としておもしろい気がする。
他の方が同じお題に対して、どんなことを書くのかにも興味があるし。

というわけでお誘いにのって「ちょっくらやって」みることにした。

 

高級スーパーで「オーガニック納豆をください」と言った“6歳ぐらいの女の子”。

元ブログを書いたJazzy-Tさんは、この少女のひと言に
>この格差たるや・・・
とショックを受けている。
その気持ちは「いつもは行かないスーパーで見た格差」というタイトルにも現れている。

このお店の「オーガニック納豆」がいくらなのかはもちろんわからないが、それでも納豆だ。
非オーガニックの安いものとの差はせいぜい百円玉で何枚か、という程度だろう。
つまり、言うまでもないことだが、金額自体にショックを受けているわけではない。

ショックを受けたのは、
“6歳ぐらいの女の子”が口にした「オーガニック納豆」という単語を通して、
少女の日常(世界)と、自分自身の日常(世界)との差が、
急にリアルに浮かび上がってきたからだろう。

 

年収何千万円とか、資産何億円とか言われても何も響かないが、
こういった些細なひと言が「違う世界の人」を急にリアルにすることがある。

では、これまでの自分の体験の中で、そう思ったひと言にはどんなものがあっただろう?

「違う世界の人」が急にリアルに迫ってきたひと言を
今回は「金持ち」というテーマに限定して思い出してみたい。

 

最初に思い浮かんだのは、Jazzy-Tさんの「オーガニック納豆」と似た小さな経験だ。

小学生にグラムという単位を教えることがあった。
説明を聞いたあと、その小学生はこう口にした。

「あぁ、レストランでステーキを頼むときに使うあのグラムのことね」

 

学生時代の家庭教師先ではこんな経験もあった。

家庭教師をしていた歯科医院の息子が無事、大学二校に合格した。
どちらの学校がいいだろう、と書類をもって相談に来た。
初めて見る私立歯科大の入学書類。

二校の入学時納入金の差は、
当時私が通っていた私大理工学部の学費四年分とほぼ同額だった。
納入金が、ではない。 納入金の差が、だ。

一度で読めないゼロの多い納入金一覧表に戸惑う私の横で、

「問題は国家試験なので、どちらでもいいンですけど

 

思わずツッコミたくなるこんな言葉もあった。

テレビの対談番組に品のいい初老の女性が出ていた。
親の代からの資産家らしいが、
関係した事業が大きく失敗したこともあるらしく、
そのころの苦労話をしていた。

彼女曰く
「あのときは、貧しくて貧しくて、ほんとうにつらい時期でした。
 あまりにも生活が苦しかったので、別荘をひとつ売りました」

 

お金関連で一番強いインパクトを残したのは、やはりコレ。

リーマン・ショックの前、日々億単位の金を動かして
大きく成功しているというデイトレーダーがラジオにでていた。

「大金が手に入ったら何しますか?
 家を買う? 車を買う? ファーストクラスで世界旅行?
 最初は買うものも、やることもいっぱいあるでしょう。
 でも、ひと通り手に入れたら、次に何を買います?
 家だって何軒もいらないでしょ。

 お金ってね、ある一定額以上になると、もうお金しか買えないンですよ

 

どれも私にとっては「違う世界の人」の言葉だ。

それにしても一度は言ってみたいものだ。

「お金ってね、ある一定額以上になると、もうお金しか買えないンですよ」

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
無料ブログはココログ