経済・政治・国際

2021年10月 3日 (日)

絶えず欠乏を生み出している

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絶えず欠乏を生み出している

- あらゆるものを「商品」にするために -

 

雑誌「中央公論」2021年9月号 に、
 豊かな未来のための
 「脱成長」戦略

とのタイトルで
独立研究者 森田真生さんと
大阪市立大学准教授 斎藤幸平さん
との対談が載っていた。
(以下水色部、本からの引用)

おふたりの主な研究分野と生年を書くと、
森田さんが  数学で1985年生まれ、
斎藤さんが経済思想で1987年生まれ、
と、研究分野が大きく違う
若き二人の対談だ。

その中にこんなやりとりがあった。

森田:
斎藤さんのご著書を読み、
読み、僕自身、自分がいかに
「商品」という発想に
縛られてきたかを痛感しました。

特に印象的だったのが、
カール・マルクスが若いころ、
地元紙に木材盗伐についての記事
何度も書いていたという話です。

木材盗伐の記事とは・・・

斎藤:
マルクスが1842年に
『ライン新聞』主筆になったころの話
ですね。

当時は資本主義という
新しいメカニズムが、
ドイツの人々の暮らしを
激変させていました。

その象徴が、
森で枝を拾い集める行為を
「窃盗」と断じる法律が
できた
ことです。

貧しい人々が煮炊きをしたり、
暖をとったりする
薪の材料だった枝は、
マルクスが「富」と呼ぶ、
みんなの共有財産=コモンでした。

それを地主が私有財産として
囲い込んだ。

マルクスはこの法律を
何度も新聞で取り上げ、
資本家が「富」を
「商品」におきかえて
利益を独占する資本主義システムを、
痛烈に批判しました。

元来、土地も森林も河川も、
人々の間で共有・管理される「公」
だったはずだ。
それが、資本主義の勃興期、
私有地として囲い込まれ、
その後、無償だった自然の恵みも
次々と「商品化」されていくことになる。

斎藤:
私たちは資本主義が豊かさを
もたらしてくれると
思い込んでいますが、
実際のところ、
資本家が追求するのは利益であり、
そのために商品の「希少性」が
人工的に生み出されます


土地や物を囲い込み、
あらゆるモノに希少価値をつけて
利益を得ようとする結果として、
豊かさどころか、
絶えず欠乏を生み出している

作られた希少性から導き出された
「商品」の「価値」は
たとえそれが高価であったとして
「豊かさ」ではない。

あらゆるものを「商品」とみなす考え方に
あまりにも慣らされてしまっているが、
改めて「価値」や「豊かさ」について
考えてみたくなる象徴的なエピソードだ。

 

 

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2021年1月 3日 (日)

「クーデター本部に顔パス」の外交官

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「クーデター本部に顔パス」の外交官

- プロがプロを取材して -

 

明けましておめでとうございます。

備忘録を兼ねた
まさに気ままなブログではありますが、
今年もボチボチ続けていこうと
思っていますので
今後ともどうぞよろしくお願いします。

 

昨年末2020年12月27日の朝日新聞
「Reライフ 輝く人」に
作家 佐藤優(さとうまさる)さん
記事が出ていた。

佐藤さんが、自らの逮捕、勾留の体験を
感情的にならず冷静に記述している
(おそらく最初の著書)

はたいへんおもしろい本だったが、
あれから15年、
記事には
「これまでに出版した著書は
 900冊を超える」

とある。
 900 / 15 = 60
共著でお名前を拝見することも
多いとはいえ、年間60冊で15年、
900冊はなにかの間違いではないだろうか?

ともあれ精力的な活動の一方、
「心からつきあえる人は、
 5人もいれば十分」

先が見えてくる50代以降は
「消極主義」で生きるべきだ
と話している。

 

佐藤優さんというと
忘れられない新聞記事がある。

産経新聞
2002年3月1日第一面

020301sankeisato

彼の力量 誰が認めたか
前主任分析官「佐藤優」を考える

との見出しの記事。
(以下水色部、
 産経新聞の記事からの引用)

記事はこう始まっている。

ソ連の要人の家に連日、
 夜討ち・朝駆けを続けている
 日本大使館員がいる
」。

モスクワでこんなうわさを
耳にしたのは、
ゴルバチョフ政権下の
ペレストロイカ(再編)が
軌道に乗り始めた
1987年秋のことだった。

この外交官が当時まだ27歳で
いわゆる「ノン・キャリア」の
三等書記官「佐藤優」

なる人物であることはすぐに知れた。

ソ連の要人に夜討ち・朝駆けという
古典的手法でアプローチを試みる
若き外交官。

その対象は驚くべき広範囲に渡っていた。

佐藤に会い、度肝を抜かれた。

夜討ち・朝駆けの対象は
ソ連の政界、経済界、学会、
マスメディア、ロシア正教会、
国家保安委員会(KGB)関係者、
果てはマフィアの親分
・・・と、
表と裏世界の隅々にまでおよび、
しかもその手法は
新聞記者の私も全く顔負けだった。

早朝、出勤前に平均二人、
真冬の凍てついた夜でも
ウオツカを手に深更まで
昼間仕込んだ住所を探しあて、
二人、三人、四人と
相手のアパートの扉をたたき続けた。

佐藤のこの粉骨砕身の
地道な努力が培った
幅広い人脈は数年後、
赫々たる成果を生んでいく

たとえば、どんな成果か?
ちょっと見てみよう。

1991年1月、
リトアニアのテレビ塔を死守する
独立派民衆に
ソ連軍の戦車が襲いかかり、
13人の犠牲者を出す
「血の日曜日事件」が発生。

戦車は「独立運動の砦」
・リトアニア最高会議に
次の攻撃の照準を定めていた。

現地入りした佐藤は人脈をフル利用し
攻撃側の
リトアニア共産党・ソ連派幹部と
独立派幹部の間を
何度も行き来して説得工作を繰り返し、
ついに戦車の進軍を阻止したのである。

最高会議には数百人の民衆が立てこもり、
武力衝突は大流血を意味していた。

「バルト三国の民族衝突拡大は
 ソ連全体の行方を一段と不透明にし、
 これを阻止することは
 日本の国益に合致すると必死でした」。
佐藤はのちに記者にこう述懐した。

ソ連派幹部と独立派幹部の間を
何度も行き来して、
戦車の進軍を阻止したなんて。

 

同年8月、当時のソ連大統領、
ゴルバチョフを
クリミア半島に一時軟禁した
ソ連共産党守旧派(左翼強硬派)による
クーデター未遂事件が起きるや、
佐藤はモスクワ・スターラヤ広場の
ソ連共産党中央委員会に陣取る
「クーデター本部」に
顔パスで潜入した


ゴルバチョフの生死が
世界中の関心を呼んでいたときに、
佐藤は
「ゴルバチョフは生きて
 クリミアにいる。
 表向きの病名はぎっくり腰だ」
との情報を世界に先駆けてキャッチ、
至急報の公電を東京に送った。

クーデター本部に顔パス!とは。
いったい、どんな人脈を
築いていたのであろう。

スパイ小説のようなことが
ほんとうにあるのだ。

 

佐藤さんの異国での驚くべき行動力には
ほんとうに頭が下がるが
この記事は別な意味でも
強く印象に残っている。

最後に(モスクワ 斎藤勉)とある通り、
斎藤記者の署名記事となっているが、
斎藤さんが佐藤さんのことを
実に丁寧に取材していることがよくわかる
記事だったからだ。

記者が取材して書くなんて当たり前、
と言いたいところだが、
最近の(と言っても
この記事自体20年近くも前のものだが)
新聞記事で
「ちゃんと取材して書いているなぁ」
と思えるものは
残念ながら驚くほど少ない。

プロの記者さん、
まさにプロの仕事をお願いします。

今年はそんな記事が
一本でも多く読めますように。

 

 

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2020年5月24日 (日)

ニュースや数字を通して考えると

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ニュースや数字を通して考えると

- 普段は見えていなかったものが、 -

 

4月7日に発出された緊急事態宣言。
すでに7週間近くが経過しているが、
本日5月24日
「政府は北海道、埼玉、千葉、東京、
 神奈川の5都道県で続く
 新型コロナウイルスの
 緊急事態宣言について、
 今月末の期限を待たず、
 25日に全面解除する方針を固めた」
なるニュースが流れてきた。

世界に目を遣ると5月23日時点で
 累計感染者数  520万人超
 累計死者数   33万人超
 1日あたりの新規感染者数 10万人超
 1日あたりの死者数     5千人超
と感染拡大自体は
依然として衰えていないが。

 

日本の外出自粛の影響は、
今後いろいろな角度から
分析・検証されることになるであろうが、
今日はふたつのデータを見てみたい。

ひとつ目は消費動向の一部、
「消費財の販売金額(前年比)」
について。

市場調査会社のインテージが
前年より「売れた」商品
消費財の販売金額(前年比)上位30品目

前年より「売れなくなった」商品
消費財の販売金額(前年比)下位30品目
を2020年4月分について発表している。

リンクをクリックする前に、
どんな商品がそれぞれの上位に来るのか、
まずは考えてみてほしい。

対象は、
[ 食品、飲料、アルコール、
 雑貨、化粧品、医薬品 ]

まさに生活につながる身近なものだ。

外出自粛の生活で
「売れたもの」と
「売れなくなったもの」には、
何があるだろう?

 

BEST30とその詳細については
リンク先を参照いただきたいが、
TOP10だけ見てみよう。

前年比で売れたものBEST10
1. うがい薬
2. エッセンス類
3. プレミックス
4. ビデオテープ
5. 殺菌消毒剤
6. 小麦粉
7. ホイップクリーム
8. 石鹸
9. 家庭用手袋
10. 住宅用クリーナー

* うがい薬 / 殺菌消毒剤 /
 石鹸 / 家庭用手袋
などは、予想通り、といった感じだろう。
衛生に関連するもの群

* エッセンス類 / プレミックス /
 小麦粉 / ホイップクリーム
などはいわゆるお菓子作り関連群
お子さんの学校が休み、ということもあろう。
「家でお菓子でも作ろう」
の機運が高まったのだろう。

* 家庭用手袋 / 住宅用クリーナー
などのお掃除用品関連群
も在宅時間が長くなっていることを考えると
納得できる。

 

全く意味がわからないのが
* ビデオテープ
リンク先を見ると、
順位を決める4月第3週の値のみ
値が突出したため
たまたまベスト10に入ってしまった、
という感じだが、
仮に第3週だけだったとしても
2020年の4月、
何があれば「ビデオテープ」が
売れるのであろう?

 

前年比で売れなくなったものBEST10
1. 鎮暈剤(ちんうんざい)
2. 口紅
3. 日焼け・日焼け止め
4. 強心剤
5. テーピング
6. 写真用フィルム
7. ほほべに
8. ファンデーション
9. コールド&マッサージ
10. おしろい

* 鎮暈剤(ちんうんざい)
酔い止めの薬は、長距離の外出、計画が
減っているので当然だろう。
通常4月はゴールデンウィークに向けて
子供向けの薬も
売れていた時期ではないだろうか。

* 口紅 / 日焼け・日焼け止め /
 ほほべに / ファンデーション /
 コールド&マッサージ / おしろい
このあたり購買層は圧倒的に女性だろう。
Stay Homeとマスクは
化粧品関連にダイレクトに
響いてくるようだ。

* テーピング
スポーツ大会の休止、運動部の休部、
スポーツジムの閉鎖等の影響か。

* 強心剤
これはどうも外国人観光客による
購買が減ったことが響いているもよう。
処方箋なしで買える市販薬は、
訪日中国人観光客が爆買いしていく
製品の1つなのだとか。

* 写真用フィルム
チェキのような
その場で写真となるフィルムは
今でもライブ会場では大人気らしい。
アイドルや出演者と一緒に撮って・・・。
ことごとく休止となってしまったライブは
こんな商品にも影響を与えているようだ。

もちろんどれも想像だが、自分の消費動向と
すべてが直結しているわけではないので、
理由を考えてみるのはおもしろい。

 

対照的なもうひとつのデータは、
「4月の自殺者の数」

TBSなどが報じたという
exciteニュースの記事がここにある。
4月の自殺者数、前年比約20%減

厚労省などによると、
4月の全国の自殺者数は
前の年の同じ月に比べ
359人少ない1455人で19.8%減った、
とのこと。
少なくとも最近5年間では
最も大きな減少幅らしい。

ちなみにコロナによる死者の数は
2020年4月
日本において偶然にも359人。

いずれにせよ、コロナ死者数の
4倍もの人が自ら命を絶っている。

一方で、20%も減った自殺者が、
今回の自粛要請と関係があるとするなら、
「学校に行くくらいなら死んだほうがいい」
「仕事に行くくらいなら死んだほうがいい」
そう考えている人が相当数いた、
ということになるのだろうか?

 

他にも

「大型連休中(4月24日~5月6日)に
 成田空港(千葉県成田市)から
 出国した日本人は850人(速報値)と、
 前年同期比99・8%減の
 記録的な落ち込みとなった。
 (前年同期34万8630人)」

「出入国在留管理庁は5月14日、
 4月の外国人新規入国者数(速報値)が
 1256人だったと発表。
 (前年同月約268万人)」

 35万人が850人に、
 268万人が1256人に、

など、驚くべき数字を伴ったニュースが
次々と入ってきている。

どんなニュースであれ
単にニュースを読んだだけで
なにかを断定することは
もちろんできない。

しかし、なんとなく意識はしつつも
普段は見えていなかった、
あるいは見ようとしていなかったものが
緊急事態という特殊な条件と
合わせて考えることで、
別な角度から光が当てられたようになって
自分の意識の中に
浮かび上がってくることは確かにある。

 

 

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2020年4月12日 (日)

不要不急、お前だったのか

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不要不急、お前だったのか

- 信濃毎日新聞の名言 -

 

新型コロナウイルスの感染が
都市部で急速に拡大している事態を受けて、
東京、神奈川、埼玉、千葉、
大阪、兵庫、福岡の7都府県に対して、
2020年4月7日「緊急事態宣言」が発出された。

中国中部の武漢市で61歳の男性患者が
新型コロナウイルスによる初の死者として
報道されたのは、
日本では2020年1月12日の新聞だった。

あれからわずか3ヶ月。
2020年4月11日時点で
感染は世界183カ国・地域に広がっている。
累計感染者は世界全体で162万人を超え、
死者は10万人を上回る。

半年前、こんな事態になることを
誰が想像し得たであろうか?

日経新聞が公開している
感染の世界マップを見ると、
まさに「全世界」を痛感する。

 

私自身は仕事が在宅となったため、
通勤時間は減り、
家にいる時間は長くなった。
それでも、
読むつもりで積んでいた本の山は
いっこうに低くなっていかない。

時間があるから本が読める、
というわけではないのだ。

東日本大震災のときもそうであったが、
時間があっても、心が不安定というか
不安感が強いと読書は進まない。

本が読めるということは
ほんとうに贅沢な時間だったのだなぁ、を
改めて思い知らされる。

 

ハーバード病院の医師および
医学部の教員によってレビューされた
信頼できる資料のみが日本語を含めて
なんと35言語で公開されている
COVID-19 Fact Sheets
が立ち上がったり、

全世界で、日々発表が続いている
COVID-19関連の3000以上の論文を
最新のNLPアルゴリズムを使って整理し、
リアルタイムで
注目論文がわかるようにした
COVID-19 Primer
が立ち上がったり、

まさにネットインフラをフル活用した
全世界レベルでの情報公開は
画期的に進んでいる面もあるが、

大正8年(1919年)つまり100年前の
内務省衛生局の「流行性感冒予防心得」
を見ると

Taisyo8nen

1.病人または病人らしい者、
 咳をする者には近寄ってはならぬ。

2.たくさん人の集まっているところに
 立ち入るな。

3.人の集まっているところ、
 電車、汽車などの内では
 必ず呼吸保護器(ガーゼマスク)をかけ、
 それでなくば鼻、口、を
 「ハンケチ」手ぬぐいなどで
 軽く被いなさい。

4.塩水かお湯にて、たびたびうがいせよ、
 うがい薬なればなおよし。

とあり、個々人のできる防衛法は
100年経っても、
なにひとつ進歩していない。

 

イタリアはじめ世界各国からは、
経済活動が抑えられたことで
空気が澄み、水がきれいになって、
景色はもちろんのこと、
鳥や魚が昔のように戻ってきている、
というニュースも聞く。

こうなると、自然環境において
人間とコロナ、どちらがウイルスなのか

という問いをも
投げつけられているのかもしれない。

 

直接のワクチンではないが
新型コロナ肺炎の死亡率とBCGワクチン接種政策の関連
を見ると、日本での死亡率が低いのは
日本で行われているBCG接種
なんらかの相関がありそうだ。
このあたりも今後
精緻な調査が進むことであろう。
(ページ中央の
 新型コロナ肺炎の死亡率(対数表示)と
 BCGワクチン接種政策の関連/OECD加盟国
 のグラフ(動画)だけでもぜひご覧下さい)

 

いずれにせよ、たいへんな状況の中、
エッセンシャルサービスとして
医療、物流、食品、交通などに
携わっている方々に対しては
感謝の念を禁じ得ない。
ほんとうにありがとうございます。

 

新型コロナ感染に関し、
明るい気持ちになれないニュースが続く中、
思わず頬が緩んでしまった
トピックスがあったので、
今日はふたつだけ紹介したい。

まずはこの写真。

2004clothed

右上にA Gentlemen's Clubとあるが
つまりはス○リップ劇場らしい。
米国のこの劇場も
4月30日までは閉まるようだ。

ただ閉館の掲示がシャレている。
[closed] ではなく [clothed]
4月30日までは「服を着ている」と。


もうひとつは、
信濃毎日新聞 2020年4月8日の記事。
コラム斜面の冒頭

不要不急、お前だったのか。
いつも経済を回してくれていたのは。

うまい! 最高の名言だ!

 

いつまで続くかわからない緊急事態宣言。
「戦う」「撲滅」という言葉を
目にすることが多いが、個人的には
探す道はそこではないと思っている。

そんな思いも込めて
朝日新聞 2020年4月3日の記事にあった
福岡伸一さんの言葉を
最後に添えておきたい。

かくしてウイルスは私たち生命の
不可避的な一部であるがゆえに、
それを根絶したり
撲滅したりすることはできない。

私たちはこれまでも、
これからもウイルスを受け入れ、
共に動的平衡を生きていくしかない。

 

2020年4月7日夜、
スーパームーン。

「あの日は月がきれいだったなぁ」

かつてないニュースに覆われた夜を
いつかそう思い出すことだろう。

 

 

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2017年4月 9日 (日)

深谷の煉瓦(レンガ)

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深谷の煉瓦(レンガ)

- 東京駅から迎賓館まで -

 

埼玉県深谷市というと、
深谷ネギというネギが有名だが、
ここは明治の大実業家
「渋沢栄一」の出身地でもある。

第一国立銀行(現みずほ銀行)や地方銀行、
東京瓦斯(ガス)や王子製紙、
帝国ホテルやキリンビール、
一橋大学、同志社大学、日本女子大学校
東京海上火災保険や東京証券取引所、
などなど
渋沢栄一が設立に関わった企業や学校は
多種多様でその数、実に500以上。

まさに「日本資本主義の父」
と呼ばれるにふさわしい輝かしい実績。

どの会社も組織も、その後の発展と
日本社会への影響度、貢献度を思うと、
一生の間にこれほど多様な仕事が
できるものだろうかと、
にわかには信じられないほどだ。

そんな渋沢が
設立に関わった会社のひとつに
日本煉瓦製造株式会社」がある。
1887年(明治20年)に設立。

明治になって、急速に増え始めた
欧米に倣った近代建造物のための
赤レンガを製造、販売していた。

会社は2006年に廃業してしまうが、
レンガを焼いていた窯(かま)は、
重要文化財として今でも深谷に残っている。

実際に窯を見に行ってみた。

【ホフマン輪窯(わがま)】
ドイツ人ホフマンが考案した
煉瓦の連続焼成が可能な輪窯(わがま)。

Fukaya2_2

明治40年の建造で、
長さ56.5m、幅20m、高さ3.3mの
煉瓦造り。
陸上のトラックのような形状の
輪になっており、一周約120メートル。

見学は無料だが、
丁寧にも説明員がついてくれる。

Fukaya1

ヘルメットを被り、
窯の中に入って説明を聞くことができる。

Fukaya3

今は仕切りはないが、
内部を18の部屋に分け、
窯詰め・予熱・焼成・冷却・窯出しの
工程を順次行いながら移動し、
およそ半月かけて窯を一周したとのこと。

燃料の石炭は、粉にして上の穴から
15分おきに投入していたらしいが、
実際に窯に入ると、
その穴を下から見上げることができる。

Fukaya4

生産能力は月産65万個。
1968年(昭和43年)まで
約60年間煉瓦を焼き続けた。

木造平屋の会社の旧事務所も
輪窯と一緒に
国の重要文化財となっているが、
内部は今は史料館となっている。

Fukaya5

あんな大きな窯が、
最盛期には6基もあったらしい。

Fukaya6

各窯建屋の内部はこんな感じ。
一番下に窯。
煙突の途中にあるハの字にご注目。
窯の上にあった建屋の屋根の跡。

Fukaya7

この屋根の跡は今も煙突に残る。
あの高さにまで建屋があったわけだ。

Fukaya8

さて、この大規模な工場で作られた煉瓦は、
いったいどこに使われていたのか。

史料館で100円で購入した
「深谷の煉瓦物語」という小冊子から
代表的な建造物を紹介したい。

(1) 東京駅 丸ノ内本屋
明治41年に着工し、大正3年に完成。
辰野金吾の設計による
国内最大級の煉瓦建築。
深谷の煉瓦が約833万個使われた。

(2) 旧信越本線碓氷第三橋梁
  (碓氷峠鉄道施設〉
横川~軽井沢間の碓氷峠鉄道敷設工事は
明治24年に開始。
けわしい峠を縫う11.2km余りの区間には
26ものトンネルと18の橋が必要で
そのほとんどが煉瓦で作られた。
使った煉瓦1800万個
500人以上の尊い犠牲を出しながら
明治26年初めに開通。

(3) 法務省旧本館 明治28年完成
(4) 日本銀行本店本館 明治23-29年
(5) 表慶館 明治41年完成
(6) 旧横浜正金銀行本店本館
  明治37年完成
  (現・神奈川県立歴史博物館)
(7) 旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)
  明治41年

(1)-(6)はすべて重要文化財、
(7)は国宝。

(4)-(7)は、外見だけを見ると
石造建築のように見えるが、
実はいすれも深谷の煉瓦を使って建設され、
表面に石材を張って仕上げたものらしい。

鉄筋コンクリート建築に
とって代わられるまで、
本格的な西洋建築の多くは
煉瓦造だったとのこと。

建築・建造物に限らないが、
開国後、短期間でよくここまで
新技術・新文化を取り込んだものだ。

欧米列強に追いつこうとしていた
日本の勢いを、強く強く実感できる。

 

 

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2016年12月25日 (日)

渤海からのカレンダー

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渤海からのカレンダー

- 宣明暦(せんみょうれき)の渡来 -

 

前回、「日本海」について
この本を紹介させていただいた。

蒲生俊敬 (著)
日本海 その深層で起こっていること

講談社ブルーバックス

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

この本、ブルーバックスなので、
海水の「熱塩循環」を始め
科学的な視点での解説が多いのだが、
日本海に関する歴史的なエピソードも
数多く盛り込まれている。

その中からひとつご紹介。

8世紀から10世紀にかけては、
高句麗の後継として698年に建国された
渤海(ぼっかい)
(当初の国名は振で、926年に滅亡)
とのあいだで実施された国際交流
(遺渤海使)がよく知られています。

今から1300年も前の話だ。


727年に渤海からの使節が
蝦夷(えぞ)地に来着したのをきっかけに、
翌728年には、わが国から初めての
遣渤海使が日本海を渡ります。

遣渤海使は811年の15回めで終了しますが、
渤海はその後も熱心に使節を派遣し続け、
929年の34回めまで継続されました。

727年-929年この間だけで約200年。

渤海使の推定交易ルートが下図。
なお、参考にしているのは、
 高瀬重雄(1984)
 「日本海文化の形成」名著出版

Nihonkai

秋田県能代から島根県松江(千酌)、
そして平城京まで、
なんと多くのところと繋がりがあったことか。


渤海からの使節は、
秋から冬にかけての北西季節風を利用して
日本海を横断し、対馬暖流に乗って
日本海沿岸の港に到着しました。

一方、帰路は4~8月に日本海を北上し、
リマン寒流を利用して渤海沿岸に
到着していたと思われます。

彼らは航海術に長(た)けていたようで、
海路図からは日本海の海流を経験的に
うまく利用していた
ようすが見てとれます。

古い話とはいえ、
航海術はこの時点ですでに長い歴史があり、
風や海流をうまく利用していたようだ。


交流が始まった当初の渤海は
新羅と対立しており、同国を牽制するために、
やはり新羅と敵対していた
わが国との連係を求めました。

しかし、まもなく
新羅との緊張状態が緩和したことによって
軍事同盟的な色彩は薄れ、渤海との関係は
交易を中心とする文化的なものへ
変わっていきます。

軍事目的から文化交流へ。

では、実際にはどんなものが
やりとりされていたのだろう?

渤海からは、
貂(てん)・熊・豹・虎などの毛皮や、
人参、蜂蜜、陶器類、仏具、経典などが
わが国にもたらされました。

一方わが国からは、
絹などの高級な繊維加工品、黄金や水銀、
工芸品、つばき油、金漆(こしあぶら)などが
輸出されました。

養蚕のあまりできない渤海で、
絹製品はとりわけ珍重されたといいます。

そして、このルートで輸入された
もっと大きなもの。

それは、その後800年以上に渡って
日本で使われることになる「カレンダー」だ。

この時代に、渤海を経由して
唐から伝えられた貴重な文物があります。

859年の渤海使によってもたらされた
宣明暦(せんみょうれき)」です。

当時の唐で使用されていた
高精度の太陰太陽暦であるこの暦は、
862年から
江戸時代中期にあたる1684年まで、
実に822年間もの長きにわたって使用され、
年月日に基づく人々の
日常的生活の拠りどころとなりました。

800年間も使われた宣明歴。
その入国のルートとなったのが、
日本海だったようだ。

宣明歴も1685年には、
輸入物ではなく、日本人
渋川春海の手によって編纂された和暦、
貞享暦(じょうきょうれき)
改暦される。

渋川春海については、

冲方丁 (著)
天地明察(てんちめいさつ)

角川書店

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに)

で広く知られるようになった。
貞享暦のほうは、
70年の寿命だったようだが。

 

2016年も年の瀬。
さてさて、来年は
どんなカレンダーになることでしょう。

今年もご訪問ありがとうございました。
どうぞ、よいお年をお迎え下さい。

 

 

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2016年3月13日 (日)

壁が次々と倒れていく時代にあって

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壁が次々と倒れていく時代にあって

- 米国のゲーテッド・コミュニティ -

 

相変わらず目の離せないアメリカ大統領選。
過激な発言を続けている共和党のトランプ氏の、

「隣国のメキシコからの不法移民を防ぐために
 国境に壁を築くべきだ」


というコメントで思い出した
メキシコ国境近くの道路標識のことを
ここに書いたが、

米国の「壁」と言うと、
この本にも印象的な一節がある。

渡辺靖 (著)
アメリカン・コミュニティ

- 国家と個人が交差する場所 -
新潮社

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

この本、
米国の中でも特徴のあるコミュニティを
いくつか選んで訪問し、
そのコミュニティを通して
アメリカ社会を語っている。

例えば、
「刑務所の町、テキサス州ハンツビル」
の章では

アメリカ全体では
約220万人が収監されている


(中略)

刑務所関連の仕事に
携わっているアメリカ人は約230万人


アメリカ国内の三大民間雇用主である
ウォールマート、
フォード、
ゼネラルモーターズ
といった大企業の従業員数の合計を
上回っている。

(中略)

アメリカ社会の影を映し出す
刑務所であるが、
公共事業としての経済効果は大きく、
産業の空洞化に直面した地域にとっては
魅力的な存在だ。

「刑務所産業」
という言葉があるぐらいである。

農業と違い季節や
天候に左右されることもなく、
工業による環境汚染の心配も少なく、
住民の目に触れることもほとんどない。

景気に左右されることも少なく、
地域に安定した雇用と収入
もたらしてくれる。

収監者総数220万人とは!
ちなみに日本は7万5千人(2010年)程度だ。

 

今回、「壁」で思い出したのは、
ゲーテッド・コミュニティ
 カリフォルニア州 コト・デ・カザ

という章。

今回の取材の目的地は、
ロサンゼルスから南へ約百キロ、
裕福で保守的なことで知られる
オレンジ郡に位置する、
コト・デ・カザ(Coto de Caza)。

アメリカで最大規模の
ゲーテッド・コミュニティ
(gated community)だ。

ゲーテッド・コミュニティとはつまり、
外壁やフェンスで周囲を囲い、
入口にゲートを設置することで、
外部からの自由な出入りを制限している
コミュニティのことである。


コト・デ・カザには2000年、
都市開発分野の
世界最大のシンクタンクである
アーバン・ランド・インスティチュート
(ULI)から
「卓越した新しいコミュニティ賞
(Award for Excellence for
  a New Community)」
が授与されている。

この、ゲーテッド・コミュニティ、
米国の富裕層住宅街には確かに増えている。

ゲート付きのコミュニティそのものは、
超富裕層のための屋敷町という形で、
19世紀半ばにも存在していたが、
その増加が
より顕著になっていったのは、
退職者向けヴィレッジが出現する
1960年代後半からだ。

その後、リゾートや
カントリークラブ近くの住宅地に、
そして郊外分譲地へと広がっていった。

特に、
1980年代後半からは、
高級不動産への投機や
派手な消費主義を通じて
地位や威信を誇示する風潮が強まった。

1995年には400万人だった
ゲーテッド・コミュニティの
居住人口は、1997年には800万人、
2001年には1600万人
(全米の世帯数の
 5.9パーセントに相当)と
1990年代に飛躍的な伸びを遂げた。

わずか6年で、4倍にも広がっていたのだ。

もちろん、
「ゲートがあるからそれで安全」
と簡単にはいかない。

しかし、近年の調査結果が
伝えるところによると、
ゲート内部の現実は
必ずしも思惑通りではないようだ。

都市政策学者
エドワード・ブレークリーと
メーリー・ゲイル・スナイダーは、
1997年に著わした
『ゲーテッド・コミュニティー
 米国の要塞都市』
(邦訳2004年)のなかで、

少なくとも統計的には、
窃盗や破壊行為が
それほど減っていない
ことを示し、

安易な警備設備への依存が
防犯に関する責任感を
かえって減退させると結論づけている。

住民たちも、
ゲートによる心理的な安堵感は
享受しているものの、
それは決して万能ではなく、
その気になれば幾つもの
「抜け道」があることを悟っている。

ともあれ、米国で壁は増えている。
以下のデイヴィスの言葉は印象的だ。

著述家マイク・デイヴィスは
1990年に出した
『要塞都市LA』(邦訳2001年)の中で、
次のように述べている。

「東ヨーロッパでは壁が
 次々と倒れていく時代にあって、
 ロサンゼルスのあちらこちらで
 壁が作られているのだ」

最後に、トクヴィルの言葉を
添えておきたい。

ゲートの中に生きる人にとって、
ゲートの外の政治や社会のシステムが、
さして貢献する必要のない
世界だとすれば、
「アメリカ」という
より大きなコミュニティは
どうなるのだろうか。

今から150年以上も前、
アメリカを訪れた
アレクシ・ド・トクヴィルは、
その古典的名著
『アメリカの民主政治』のなかで
こう述べている。

「各人は永遠に
 ただ自分自身のみに依存し、
 そして自らの心の孤独の中に
 閉じ込められる危険がある」

一時的に、
視野に境界を設ける効果はあっても、
壁自体が
問題を解決してくれるわけではない。

 

 

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2016年2月21日 (日)

CAUTION(注意しろ!)のスペイン語訳

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CAUTION(注意しろ!)のスペイン語訳

- メキシコとの国境近くで -

 

今年11月のアメリカ大統領選挙に向けて、
過激な発言を続けている共和党のトランプ氏。

先日も、移民政策を巡り、

「隣国のメキシコからの不法移民を防ぐために
 国境に壁を築くべきだ」

などとコメントしてニュースになっていた。

こうした発言に対して、メキシコを訪れた
ローマ法王のフランシスコ法王は、
バチカンに帰る機内で記者団の質問に答え、

「壁を築くことを考え、
 橋を架けることを考えない人
は、
 キリスト教徒ではない」

と述べたという。
(2016年2月19日のNHKニュース)

 

「メキシコからの不法移民」
という言葉を聞いて、米国駐在時に目にした、
ある標識を思い出した。

 

米国の地図を見るとわかるが、
北はカナダとの国境から
南はメキシコとの国境まで、
まさに南北を貫いて、
米国の西海岸に沿うように、
「I-5」と呼ばれる
長い長い高速道路が走っている。

I-5の「I」は「interstate」、
州を結んで走る高速道路のことだ。
「5」は、5号線を表す数字。

interstateの数字は
2桁まではPrimaryと呼ばれて一級扱いだが、
数字そのものにも簡単な意味がある。

奇数なら南北、偶数なら東西
に走っており、5で割り切れると、
合衆国を縦断または横断する


つまり、I-5と言うだけで、
合衆国を南北に縦断する道路の一本、
ということがわかる


(ちなみに、東海岸沿いに
 南北を縦断しているのはI-95だ)

 

このI-5を、ロサンゼルスから
メキシコとの国境に位置する都市
サンディエゴに向けて、
つまり南方向に走って行くと、
サンディエゴの手前あたりから、
道路沿いに、
この標識が目につくようになる。

Cai5caution1s

父と母、それに子。
なんという絵だろう。

道路を渡ろうと飛び出してくる
家族がいるかもしれないから
CAUTION(注意しろ!)
という意味だ。

道路と言ったって、
片側だけで4車線から6車線もある高速道路で、
もちろん信号もなく、
時速75マイル(120km/h)程度で
車がひっきりなしに走っている。

しかも、
ある区域は沙漠のような荒野の中だし、
ある区域は中央分離帯にも
柵が設けられたりしている。

いったいこの道を
どうやって、しかも子連れで
渡るというのだろう。

 

おそらくは、
メキシコから米国への不法入国者たち。
家族で、ということもあるということか。

まさに命がけで入国してくる人達がいる。

標識は、場所によっては、
こうなっているところもあった。

Cai5caution2s

「PROHIBIDO」
メキシコの公用語、スペイン語だろう。
スペイン語を知らなくても、
英語のprohibit(禁止する)が連想されるので、
運転しながらでも、意味はすぐにわかった。

つまり、
高速道路を強引に渡ろうとする家族について、

英語が読める運転中の米国人には
CAUTION(注意しろ!)
と呼びかけ、

スペイン語が読めるメキシコ人には、
PROHIBIDO(禁止する)
と呼びかけている。

CAUTIONをスペイン語に翻訳しているわけではない。

 

「禁煙」の下に「No Smoking」
と書いてあるような2言語表記とは
全く違う意味を持つ2言語表記。

2言語表記の裏には、
ときによって、こんな背景もあることを、
教科書からではなく、
実体験として知った瞬間だった。

 

 

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2015年9月13日 (日)

911その時カナダ、イエローナイフで

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911その時カナダ、イエローナイフで

- どうやったら学べる、この危機管理 -

 

アメリカ同時多発テロ事件から
今年2015年9月11日で14年が経った。

衝撃的な映像の数々、3千人以上の犠牲者、
その後のアフガニスタン紛争、イラク戦争。

昨夜食べた夕食ですら思い出せないような人でも
「911のニュースを最初に知った時、
 あなたは何をしていましたか」
の質問にはなぜか必ず答えられる。

ほんとうの「衝撃」には、
記憶を鮮明に固定化する不思議なチカラがある。

 

14年前、
マスコミとネットのニュースが、
連日この件で埋め尽くされていたころ、
米国に住む知人から一通のメールが転送されてきた。

今日はそのメールを紹介したい。

事件発生の瞬間、
米国シアトルに向って飛んでいた
一個人の体験記。

彼が乗っていた飛行機は、
米国の空港が突然封鎖されたため
着陸できなくなってしまう。

その後、どうなってしまったのか。

まわりへの感謝の気持ちを忘れることなく
事実を冷静に、かつ詳細に記述してくれた筆者、
そして(ワガママな日本人を除いた)
そこに登場するすべての方々に、
深い深い敬意を表して、
まさに「記録」として
ここに残しておきたいと思う。

ほんとうの危機管理とはどういうことか、
いろいろなことを考えさせられる。

長文ですが、最初からぜひ。

(以下、水色部は転送メールからの転載。
 日付も原文のまま)

 

9月12日:事件発生

成田からアメリカのシアトルに向かうUA便の中で
最初に異変に気が付いたのは機内のモニターである。

飛行機の高度や速度、そして到着時間を示す表示が
映らなくなったのだ。
少し前までは映っていたはずなのだが、、、

「どうしたのだろう」一瞬嫌な予感がしたが
「直ぐに映るだろう」と思い直して
毛布をかぶり再び眠ろうとした。

その時、機内に機長からのアナウンスが流れた。


アメリカで非常事態が発生しました。
 現在アメリカの全ての空港が
 閉鎖されており、
 当機は着陸を拒否されています


「従いまして当機は航路を変更しカナダへ向かいます。
 詳細はまた後ほどアナウンスします」

一瞬、耳を疑った「英語の聞き間違いだろうか、、」
その後、直ぐに
日本語で同じ意味のアナウンスが聞こえてきた。

薄暗い機内の中は飛行機のエンジン音が響くだけで、
誰一人話そうとしない。

誰もがアナウンスの意味を
どのように理解して良いのか分らないのだろう。
不思議なほどの沈黙である。

私も頭の中でいろいろな考えが交錯する。

「アメリカの全ての空港が閉鎖される非常事態とは
 第三次世界大戦が始まったのか!」

「いや世界大戦ならカナダに着陸できるはずがない。
 アメリカに何が起こったのか?」

「ひょっとしてサイバーテロでアメリカの空港の機能が
 全てダウンさせられたのでは?」

「サイバーテロなら回復まで時間が掛からないから、
 ひょっとして直ぐに空港は再開するのではないか?」

まとまりのない考えが頭の中を駆け巡る。

近くの乗客がたまりかねて
パーサーに質問をぶつけていた。

「いったい何が起こったのですか?」
「私にも分らないのです。
 いまは連絡を待つしかありません」


機内は騒ぎ出す人など一人もおらず、
薄気味悪いほど沈黙である。

映画ではこのようなシーンでは大騒ぎになるのだが、
現実は違うのだなあ、と妙に感心してしまった。

機長からのアナウンスは何もなく、
何も分らないままである。

人間とは不思議なもので、非常時には
自分に良い方向に考えてしまうものである。

私は
「アナウンスがない所を見ると
 きっと空港は再開したのだろう。
 アメリカに向かっているに違いない」
と自分勝手に納得してしまった。

ようやく機長からアナウンスが入った。

当機はこれより着陸体勢に入ります。
 着陸先の空港名、場所は
 お伝えすることは出来ません

着陸することができるようにはなったものの、
そこがどこなのかは乗客に知らされないまま
飛行機は下降していく。

いったいどこに着陸するのだろう?
窓を空けて外を見ると、
朝日の中に茶色ににじんだ大地に
低い針葉樹の森が目に入った。
アメリカでないことは確かである。

いったいどこなのか?
着陸したあとどうなるのか?

何もない広々とした滑走路に無事着陸した。
機体が停止するとアナウンスが入った。

「アメリカの全ての空港が閉鎖されたため、
 当機はカナダのイエローナイフに着陸致しました」

「アメリカの非常事態ですがハイジャック及び
 ニューヨークとワシントンで
 爆弾テロがあった模様です。
 大統領は無事との連絡が入っております」

「これよりカナダでの入国手続きを行いますが、
 今しばらくお待ち下さい」

この時点ではハイジャック機が
ビルや国防総省に突っ込んだことを知らず
「ハイジャックで空港が閉鎖になるのか?」
と不思議な気になった。


着陸してから1時間以上が経過したが、
依然として待機しているだけ。

機内は沈黙とイライラが
募っているような雰囲気なのだが、
中国人のグループだけは
陽気に仲間とトランプで遊んでいる。

機内の不安を紛らわせようとパーサ-が
「この状況に対して何か質問はないか」
と乗客に聞いて周っている。

「いったい何が起こっているのか」
「分らない」

「我々はいつまで、ここにいるのか」
「分らない」


この二つの質問の答えを聞いた後は、
誰もパーサーに質問しなくなった。
実際、この二つの答えを聞けば十分である。

私は正直に言ってこのような非常事態に直面すると
不安より、ワクワクしてきてしまう性格である。
「面白いことになってきたな!」

再びアナウンス
「これよりカナダの警察の方が事情説明及び
 機内のセキュリティのチェックを行います。
 座席にてお待ち下さい」

警官が数人入ってきて、
そのうちの一人がマイクを取った

「みなさんカナダへようこそ。
 ここはカナダのイエローナイフという
 カナダ最北の地です」

「先ほどアメリカで重大事件が発生しました。
 詳細は私にも分りません。
 空港内でCNNのテレビを見れるように
 手配しますのでそれを見てください」

「みなさんはこれより10人づつグループづつ、
 機外に降りて頂きます。
 そして当局のセキュリティ・チェックを
 受けて頂きます。
 その後、入国手続きを行います」

「セキュリティ・チェックは厳重に行うため、
 かなりの時間が掛かることが予想されますが
 ご協力をお願いします」

皆さんにお願いですが、
 携帯電話は絶対に使用しないで下さい


ファーストクラスから順番に
10人づつのグループになって機外に降り始めた。

UAのアメリカ人スチュワーデスは
「孫がいるのでは?」と思うほどの年配の方が多い。

通常のサービス時は
「若い女性の方が良いのになあ」と思うのだが、
今回のような非常時はこの年齢がものを言う。

肝が据わっているというか全く動揺がない。
完全に乗客を仕切っており、凄く安心感がある。
スチュワーデスは年齢で判断してはいけないと思った。

ようやく機外に出られることになった。

私の番が来て機外に降りる。
周りは地平線が見えるほど何もない。
太陽光線はきついが、
かなり肌寒く緯度が高い場所だと直ぐに分る。

指定のバスに乗り込むと女性の警官が同乗する。
「ようこそカナダへ」
誰も返事をしない

「みなさんが来たくて、ここに来たのではないことは
 理解しています。
 今からセキュリティ・チェックの場所に移動します」

この女性警官からはじめてハイジャック機が突入したこと、
死傷者が一万人近くの可能性があることを聞かされた


空港の片隅にある格納庫の前でバスが止まった。
兵士の数が多く、軍用の空港であることが分かる。
折りたたみの机を並べて兵士が荷物検査を行っている。

乗客一人に付き、一人の兵士が付いて案内をしてくれる。

態度はにこやかだが、乗客の顔をビデオやカメラで
撮っている兵士もおり、ここで初めて
乗客の中にテロリストがいる可能性があると
疑われていることが分った


機内のアナウンスで情報を制限していたこと、
携帯電話使用禁止の指示もこれなら納得できる。

セキュリティ・チェックを待っている間、
カメラを取り出して
「この場面をカメラで撮って良いのかなあ」
と迷っていると兵士が近づいてきて
「記念撮影をしたいのかい?
 俺がおまえを撮ってやるからそこに立てよ」
と簡単に撮ってくれた。

荷物検査が終わると兵士が
「荷物を持ってあげるよ」
と気楽に持ってくれた。

次のステップである
パスポート・コントロールの机に向かう。
検査官である兵士にパスポートを渡すと
「名前と生年月日は」と聞かれた。
いきなり聞かれると直ぐには出てこず、
戸惑ってしまった自分自身にビックリした。
やはり緊張しているだろう。

次のステップの入管に向かう。
この机では若い女性が笑顔で迎えてくれ、
質問もほとんどなく入国のスタンプを押してくれた。
仮設の入国申請所のため税関がないのだが、
ほとんど乗客は機内で書いた
アメリカの税関申告書を渡している。
私もカナダでアメリカの申告書を出しても意味がない
と思いながら差し出した。

入国が終わると兵士が
格納庫の隅にテープで仕切られている場所に案内した。

「みなさんを宿舎に運ぶバスが来るので
 ここで待っていてくれ。
 トイレはあそこにある。水はそこで飲める」

「宿舎とはどこに行くのか」

「これだけの乗客を収容できる施設は
 この町にはないんだ。たぶん学校じゃないかな」

学校に収容されるのかよ!と思っていたら、
ほんとに黄色い通学用のボンネットバスが来た。

一緒にいたアメリカ人が
「やれやれ、カナダに来て
 小学校に入りなおすとは思わなかったよ」と
軽いジョークで周りを笑わせた。

黄色いスクールバスはどこに向かうのか。

バスに乗って街に出るのかと思ったら、
3分くらいでフェンスに囲まれた施設に入った。

長方形のプレハブのような建物である。
建物の前には大型のテントがあり、
ここで簡単な説明を受けた。

「ここはカナダの軍の施設です。
 みなさんはここに滞在してもらうことになります。
 今から名前の登録を行います。
 その後、登録票を渡しますので
 無くさないようにして下さい。
 また登録時に部屋番号を教えますので、
 その部屋を使って下さい」

説明時に驚いたことは
日本人の通訳が配置されていたこと
だ。
乗客144人のうち約40人程度が日本人なのだが
凄い段取りの良さである。

施設内には数多くのボランティアの人たちがおり、
いろいろ動き回っている。

指定された部屋に入ると
8畳くらいの大きさにロッカーが2つ、
担架に台を付けた仮設ベッドが3つ置いてあった。

他には窓しかないシンプルな部屋である。
荷物を置き、食堂に行くと
テレビでCNNが流れており、
初めて飛行機がビルに突っ込む映像を見た


しばらくすると食堂で次のような説明があった。
カナダ警察より
「街には乗客を宿泊させる施設がないこと。
 また安全上の理由からこの施設に留まってもらう」

機長より
「アメリカとカナダの全ての空港が閉鎖されており、
 いつ再開されるか不明」

宿泊所の担当者より
「仮設電話を引いたので国際電話が掛けられる。
 不便があったら遠慮なく言って欲しい。
 乗客の方が外出できるようにアレンジ中である。
 夕方には外出用のバスの手配が完了する」

最後に機長から
「アメリカの多くの犠牲者のために
 黙祷を捧げましょう」
と言われ全員で黙祷を行った。

軍の施設には驚くべきものが用意されていた。

食堂には大型の冷蔵庫にジュースや果物、
サンドイッチが入っており、
無料で自由に食べることが出来る。

机の上にはコーヒー、紅茶のポットの他、
パンやおかずが並んでおり、
これもいつでも自由に食べることが出来た。

驚いたのはおにぎりが並んでいたことである。
食べてみると中には鮭や沢庵が入ってた。
しかも味噌汁まである


さらに手際良く
イエローナイフの日本語の観光案内の
パンフレットも置いてあるので読んでみる。

「イエローナイフは
 カナダのノースウエスト準州の準州都で、
 人口は一万八千人の小さな田舎町である。
 北極に近く冬はマイナス50度にもなる。
 日本ではオーロラが見える街として
 ツアーが組まれている」

施設の入り口に貼り出してある地図を見ると
イエローナイフは北極点より
500キロ程度しかない。
アラスカよりも北極に近いのである。

ボランティアの人たちによる
毛布、石鹸、枕の配給があり、室内を整えたり、
食堂でテレビを見たりして過ごす。

夕方4時頃に街に出るバスの連絡があり、
バスの運行時間、待ち合わせ場所などが
英語と日本語で貼り出された


施設はフェンスで囲まれており、
入り口には警官が待機している。
バスは入り口の外に止まっており、
バスに乗る際には警官に登録書を見せてから乗り込む。

バスの座席に座ると、ボランティアの人が入ってきて、
イエローナイフの見所を説明してくれた。

バスは15分ほど走って市役所の前に停車した。
ここからは自由行動である。
すでに夜の7時になっており、外気はとても寒い。
イエローナイフは小さな街で
特に見るべきものもない。
店も夕方6時には閉まっており、
早々にバスに乗り施設に戻った。

街から施設に戻ってきて説明会を聞く。

夜9時より説明会が始まる。
説明会は日本人とその他の人のグループに分かれ、
日本人グループにはボランティアの通訳が付く
内容は
「アメリカ政府が空港をいつ再開するか不明である。
 従っていつまでここに滞在するかも分らない」
とのことであった。

アメリカ人は「仕方がないな」と納得するのだが、
日本人グループの年配の方はそうではない。
文句が多く通訳に怒っている人がいる。

「私は明後日
 ニューヨークに行かなければならないのだ!
 どうにかならないのか!」

私はビックリした!
アメリカを揺るがすテロが
ニューヨークで起こっている状況が
わからないのであろうか?

私たちの目的地であるシアトル空港ですら
再開していないのに、
事件が起きたニューヨークの空港など
当分閉鎖になるに決まっているではないか。


「私はここから日本に帰りたい。どうにかしてくれ」
と言い出す日本人もいた。

この発言には機長もさすがにムッと来たらしい。
「この田舎町からどうやって日本に行くつもりですか?
 カナダの空港も全て閉鎖されているのですよ。
 私はここにいる全員を
 無事にシアトルに連れて行く義務がある。
 今は非常事態ですから全員が一緒に行動するのです


「しかしどうしても帰りたいのならば、
 我々のシアトル行きの飛行機をキャンセルして
 ご自身の力で帰って頂くしかありません。
 その場合は陸路しかありませんが、
 この田舎町では列車や車の手配が大変です。

 それにイエローナイフで緊急入国したことを、
 他の場所で出国の際にどのように説明されるのですか?
 陸路で一人で帰るのには問題が多すぎます。
 空港はいずれ再開されるのですから、
 その時に全員で一緒に帰りましょう」

日本人は危機意識が薄いと良く言われるが、
このような質問を聞いて本当に驚いた。

いま世界で何が起こっており、
自分がどのような状況にいるか
全く理解できていないのだ。

台風で飛行機が飛ばなくなったのではないだ。
テロによりアメリカの空港が全て閉鎖していると言う、
最高度な非常事態が自分自身に起こっている現実を
なぜ理解できないのだろう。

欧米人はこのような危機的な状況でも
ユーモアを忘れない


機長が説明のあと
「なにか質問がありますか」
と聞いたところ、
若いアメリカ人が手を上げた。
「機長、
 私はシアトル行きのチケットを買ったのですが、
 カナダの果てまで飛行機に余分に乗ってきました。
 この余分のマイレージは
 どこへ申請すれば良いのですか?」

これには爆笑となり、機長も苦笑いで

「その件なら個人的に私に後で電話してくれ」
と切り返していた。

このように説明会の時には
アメリカ人と日本人の危機意識の感覚の差が
明らかに現れた。

「私はここにいる全員を
 無事にシアトルに連れて行く義務がある」
と言い切った機長のなんとかっこいいことか。

軍の施設で最初の夜を迎える。

夜中になっても食堂のテレビで
CNNを見ている人が多い。

寝つけない人もいるのだろう。
部屋に戻って簡易ベッドに横になる。
しばらくすると同室の日本人留学生が入ってきた。

「**さん。オーロラを見ましたか?  今外に出ていますよ」
外に出るとオーロラを見ている人が数人いる。
ボランティアの人が
「この季節にオーロラが見えるなんて、
 あなたたち運が良いわよ」と
声を掛けてきた。
大空に広がる緑色のオーロラは幻想的だ。

横に立っていた若いアメリカ人と雑談をする。
彼の口から出た次の言葉が印象的だった。
「僕はアメリカに戻ったら直ぐに海軍に志願するんだ」

二日目も手厚い対応が続く。

9月13日:事件発生2日後

朝起きて食堂でテレビを見ながら
朝10時の説明会を待つ。

説明会での機長の話では空港再開の情報がないため、
いつ飛べるか分らない、
午後3時に再度、説明会を行うとのことである。

ボランティアにより街に出たい人たちのために
施設から街への特別バスの時刻表が貼り出されている。
また
「家族の方が心配しています。
 自宅に連絡してください」
「今日の夕食はバーベキューです」
との日本語のポスターも貼り出されている

入り口での警察の監視は無くなり、外出する人たちは
受付に申請するだけで良くなった。

ボランティアの人は街に出る人には
施設とタクシーの電話番号が書いてあるメモを
配っている。
本当に細かいところまで気が付くものだと感心する


「市役所で無料でメールが送信できます」
との連絡あったので、市役所でバスを降りて中に入る。
受付のソファに腰掛けていると地元の若い女性が
横に座って話しかけてきた。

「あなたは観光できたのですか」
「ええ、そんなところです」
「ひょっとしてあの飛行機の人ですか?
 新聞で見ましたよ」
イエローナイフの街ではすっかり有名人らしい。

雑談を交わしたあと、
「大変でしょうけど頑張ってください。
 無事に帰ることを願っています」
と握手を求めてきた。

メールを送ったあと、博物館や街をぶらぶら回る。
人が少なく静かで気持ちの良い場所だ。
街を歩いていると
エスキモーのような顔をした人たちとも
数多くすれ違う。

バスで施設に戻り、午後3時の説明会を聞く。

「依然として空港再開の目処が立っていない。
 残念ながら今日もここに泊まる事になる」

夕食は軍の主催で乗客ために
屋外でバーベキューを行ってくれた


しかも街からプロのバンドを呼んで来て
サービスしてくれる。

しかし、外でバンドを聞きながら食べるのには
あまりにも寒すぎる。
ほとんどの人が食事を受け取ると
施設の中に入ってしまい、
バンドの人たちはさびしそうだった。


夜9時より説明会。

イエローナイフの市長が訪問、挨拶があった。
「イエローナイフでは
 年に一度の産業博覧会を行っており、
 ホテルが一杯であるため皆さんをこの施設に
 収容していることは残念に感じます。
 ただ市としては精一杯の対応をしているつもりです」

ここで大きな拍手が起こった
確かに本当に良く対応してくれている。
ボランティアの人たちは
食事の準備、後片付け、トイレの清掃、
乗客からの要望の対応など本当に良く動いてくれている


市も食料、水の手配を始め、ゴミの回収など
全ての面でバックアップしている。

実際カナダにはアメリカの国際線、国内線を合わせて
約250機が緊急着陸している。
そしてバンクーバーの空港にはなんと60機が着陸しており、
収容施設のセキュリティの問題により、
その多くはなんと飛行機の外に出してもらえず、
飛行機内で過ごしているのが現実なのだ。

イエローナイフは幸い私が乗ってきた飛行機が
一機だけだったため、
警察、軍、市が一体となった待遇を
受けることが出来ているのだ


機長から
「明日シアトルの空港が一部、
 稼動することになりました。
 たぶん当機は明日の夕方ここを飛び立ち
 シアトルに行くことが出来るでしょう」
との報告があった。

続いて警察から
「飛行機へ搭乗の際のセキュリティは
 かなり厳しくなります。
 わずかに危険を及ぼすものでも
 機内へ持ち込むことは 出来ません」
との注意があった。

持ち込めないものは明日、
 仮設郵便局を開きますので、
 そこで郵送してください


明日は出発できると分り、
施設の中の雰囲気がなんとなく緩やかになる。

いよいよシアトルに向けて飛び立てることになる。

9月14日:事件発生3日後

朝起きて外に出ると飛行機の爆音が聞こえた。
「飛行機が飛んでいる!」
空港が再開されたのだ。
近くにいた日本人の女性が
「音が聞こえますよね。飛行機は飛んでいますよね」
と嬉しそうに尋ねてきた。

朝9時に説明会
「これからイエローナイフの空港に向かうが、
 セキュリティの検査に時間が掛かるため、
 30人づつに分けてバスに乗ってもらう。
 全員が飛行機に乗るまでは出発しないから
 慌ててバスに乗る必要はない。

 セキュリティ・チェックの後に
 ボーディングカードを発行する。
 ボーディングカードを提示すれば
 空港内の食堂では無料になる」
との知らせがあった。

最初のバスに乗ろうと、
気の早い人は荷物を外に引っ張り出している。
仮設郵便局の横には
フェデックスの出張所も設けられて

荷物を送ろうとする人たちが並んでいる。

慌しい雰囲気の中でも安心感が漂っている。
3回目のバスに乗って空港に向かう。

空港の敷地内に止まると係員が乗ってきて
セキュリティ・チェックの段取りを説明する。
荷物の検査が終わると、
手書きのボーディングカードが渡された。

空港で長い時間、待たされていよいよ搭乗となった。
機内持ちこみの荷物の
セキュリティ・チェックを行ったが、
なにしろ小さな空港で係員が少ない上に
搭乗客が多すぎるため、
結局は通常の検査とほぼ同じ程度の検査となった。

滑走路を歩いて飛行機に向かう。
大型のジェット機が頼もしく見える。

タラップを上って機内に入ると3人のスチュワーデスが
「おめでとうございます」
と拍手をして迎えてくれた

これは乗客全員に行っている即興のサービスだが
とても嬉しい気分になる。

イエローナイフの空港の滑走路はプロペラ機用で、
大型のジェット機では滑走路の距離は十分ではあるが、
余裕がないとの事で離陸の時には少し緊張した。

飛行機が滑走路から飛び立つと
機内で一斉に拍手が起きた

まさに映画のシーン通りである。
しばらくすると機内食が出てきた。

ビスケットや果物が中心の機内食で
イエローナイフで手配したことが
良く分る機内食であった。


二時間半ほど飛んで
シアトルの国際空港に無事着陸した。

着陸後の機長のアナウンスがしゃれていた。

「当機はシアトルに夜7時半着の予定でしたが、
 2,3分遅れてしまいました」
「いや訂正します。2、3日遅れてしまったのですね」

 

受け入れ準備に、
わずか数時間しか与えられない状況の中、
ここまでの対応ができる地方都市が
日本にあるだろうか。

危機管理と援護・援助。

「おもてなし」などと言って、
無防備に歓待はできない。

最初の部分に書かれている通り、
突然やってくる受け入れるべき集団には、
テロリストが含まれているかもしれないのだ。

そんな中、
セキュリティの確保と同時に、
困っている人への援助をどう実現するのか。

プロフェッショナルな采配が必要とされる場面も
多いことだろう。
もちろん、ボランティアを含む人手の緊急手配も
並行して進めなければならない重要なことだし。

このあたり、私の知る限り
日本はほんとうに弱い気がする。

イエローナイフで実行された
ほんとうの危機管理と援護・援助。

心からの敬意を表したい。

今回の事件でカナダのイエローナイフの人々、
そしてUAの機長を始め乗務員に心から感謝したい。
私個人としては滞在中は全く不満は無かった


今回の事件で強く感じたことは
アメリカ、カナダの強烈な危機管理の体制、
そして緻密なシステム思考である


事件発生後、緊急着陸までの間に
軍用空港でのセキュリティ、入国のシステム作り上げ、
市役所が旅行代理店を始め多くの場所に電話を掛けて
日本人通訳やトラック、バスの手配、
さらには日本食のおにぎり、味噌汁まで
用意が完了していた手際の良さ


必要な注意事項が適切なタイミングと方法で行われる
緻密なコミュニケーション能力。

徹底したシステムの詰めの鋭さ。

例えば市役所でEメールが送れるとの事で
市役所に行ったところ
「Eメールはこちら」
と矢印付きの表示が順番に沿って出ており、
それに従って歩いていったら、
迷わずパソコンを置いてある部屋まで入れてしまった。

Eメールを送れるとなったら、
その場所まで確実にたどり着けるように
考えて詰めて行く発想は凄い。

今回の事件は自分自身にとって
いろいろな意味で有意義な体験になった。

 

 

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2014年1月19日 (日)

「明暦の大火」と松平信綱

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「明暦の大火」と松平信綱

- 場を和らげる機転と笑顔、そして具体的な施策 -

 

1月17日で阪神淡路大震災からもう19年にもなるという。
震災の2ヶ月後、1995年3月には地下鉄サリン事件が発生。
思い返してみると、95年は新聞トップに大きな見出しが続いた年だった。

 

地震があった時、以前は
「まずは火を消せ」としつこく言われていた気がするのだが、
最近聞いたラジオでは
「可能なら消して下さい。ガスは震度5以上で自動的に止まります」と言っていた。

『一刻も早く絶対にやれ』感はやや落ちている感じがする。

どういう理由でトーンが変わったのかはよくわからないが、
まずは「身を守れ」ということなのだろう。

いずれにせよ「火事はできるだけ防ぐ」が大原則であることに変わりはない。

 

地震が原因というわけではないが、今から350年以上も前、
江戸では信じられないような大火があった。

世に言う「明暦の大火」

旧暦での1月18日に出火。明暦三年(西暦で言うと1657年)のことだ。
諸説あるものの「死者は3万から10万人」と言われているとんでもない大火だ。

 

今日は、作家の童門冬二さんが日本経済新聞に書いていた

「防災担当相は″知恵伊豆″」

という記事を紹介したい。
 (以下 水色部は「日本経済新聞」1995年3月26日の記事からの引用)

 

江戸城天守閣をも焼いてしまった明暦の大火。

  防災担当相は″知恵伊豆″

                       童門冬二

”火事とケンカは江戸の花”といわれるように、江戸時代は始終火事があった。
なかでも一番大きいのが、明暦三年(1657)1月18日に起こった
いわゆる”明暦の大火”である。
火元は本郷丸山町の本妙寺だったといわれる。

ちょうど名物の西北風が吹きまくっていた。
また、ずっと日照りが続いていたので江戸の町は乾燥しきっていた。
本郷の台地はたちまち火で一なめになった。

下町に移った火は翌19日も燃え続け、ついに江戸城に及んだ。
天守閣も焼け落ちてしまった。二の丸、三の丸も焼けた。
結局、江戸の町の60パーセントが焼け、
大名の江戸屋敷も五百以上、神社仏閣が三百以上焼けた。


焼け出された江戸市民も多く、家財道具もそのままにして逃げ迷ったが、
やがては煙にまかれて堀に落ちたり川に落ちたりして死ぬ人間が多かった。
死者の総計は十万二千人といわれた。

火がおさまった1月24日ごろから、遺体を収容し、
舟で牛島と呼ばれたところに運び、穴を掘って埋めた。
やがて供養のための寺ができ、
これが現在残っている東京都墨田区東両国にある回向院だ。

 

この大災害の災害対策本部で活躍する男の名は「松平信綱」。

 徳川幕府はすぐ首脳部が現場に今でいう災害対策本部を設けて救済にあたった。
活躍したのが、老中(閣僚)の松平伊豆守信綱である。
松平信綱は当時川越城主だった。

彼は忍城(埼玉県行田市)の城主だったが、
寛永十四年に起こった島原の乱を鎮圧した功績によって、
川越六万石に増封されたのである。

しかしこれは単に島原の乱鎮圧の功績だけでなく、
前年に川越の市街が大火で焼け落ちていたからである。

時の将軍三代徳川家光が、
「信綱、川越を復興せよ」
と命じたのだ。松平信綱にはそういう防災計画の才覚があったようである。

 

信綱の川越での活躍には目を見張るものがある。

 川越に行った信網は、

    城の整備、
    商人町の指定、
    防火用水の確保、
    洪水地帯の治水、
    新田開発、
    玉川上水の完成、
    分水しての野火止用水の創設、
    新河岸川の舟運の開発など、

民政に見るべき功績を残した。

川越の町全体を耐火式都市に変える努力をし、
現在の川越市の町並みの原型は、信綱がつくったものだと伝えられている。

 

 そういう経験がかわれ、大火で60パーセント以上が焼け落ちてしまった
江戸の復興計画も信網に下命された。

その信綱についてこんな「エピソード」が紹介されている。
機転が利くだけでなく、
緊急時に最も重要な、でも最もむつかしい「場を和らげる」ことに成功している。
ほんとうに大きな人物だったのだろう。

 このとき現在の閣僚級である老中たち首脳部が、
ぞろぞろと江戸の市中に設けられた対策本部にでかけていったが、
こんな話がある。

大名のなかでも実力者が酒井忠清という人物だった。
伝統のある名門大名なので、坐る場所がうるさい。
つまり席順を気にする。この日がそうだった。

江戸城にいれば、いちばん高い場所に坐るはずなのに、
今日はどさくさまぎれで、新人大名がいつも酒井が坐る上座に坐っていた。
酒井はムッとした。そこで、「帰る」と駄々をこねた。

すると松平信綱がニッコリ笑って、
「酒井様、どうぞ空いている席にお坐りください」といった。

酒井は
「空いている席といっても、上席はすでに若いやつが坐っている。
 ここは下坐ではないか」
とつっかかった。

信綱はニコニコ笑いながら

「そんなことはありません。
 我々後輩は、あなたがお坐りになった席がたとえ下坐であろうと、
 この場所でのいちばん上席と心得ておりますので。


 まして本日は江戸の災害対策という緊急の場でございます。
 どうぞお気になさらずそのお席へ」

と告げた。
これによって険悪な空気は和らぎ、酒井も機嫌をなおした。

酒井にしても信綱のいった”緊急の場”というひとことがきいた。
(あまりゴネるとおれの評判がわるくなる)と反省したのだ。

みんなは「さすがに知恵伊豆どのだ」と感心した。
特に上席に坐った若い大名はホッとした。

 

さて、実際の防災計画を見てみよう。

 焼け落ちた江戸の町をつぶさにみた後、
松平信網はつぎのような防災計画をたてた。

・江戸城の天守閣は、財政難の折から再建しない。

・江戸城内にあった大名の屋敷は、それぞれ城外に出す

・避難民が大量に焼死した経験から、今後は下総(千葉県)方面へも
 避難が可能なように、隅田川に橋をかける。


・寺社は近郊に疎開させる。

・罹災者のうち職を失った者の中で希望する者は
 三多摩地方その他で新田開発に従事させる

・町中の密集地帯に広小路と名付ける防火地帯を設ける
 防火地指定を受けて土地を収用された住民には、代替地や移転料を与える。

・重要な橋が架かっている周囲からは、住家を除く。
 これにも代替地や移転料を与える。

・市街地をさらに拡大する。新しく埋立地をつくる。これが築地になった

・徳川家の直参による消防組織を結成する。これは「定火消し」とよばれた。

 こういう松平信綱の新しい江戸の都市計画によって、
江戸城は完全に将軍の住居と日本における政治のセンターに変わった。

江戸城の周囲は武家中心の町になり、
町人の町は江戸から出る主要街道の沿道に発展していった。
現在でいえばスプロール現象を起こした。

なんて具体的でスッキリとした施策であろう。
まもなく東京都知事選となるが、都知事になるような人には、
施策の提示、という意味でぜひ見習ってもらいたものだ。

そうそう、あの「吉原」は...

歓楽の地であった吉原も、浅草たんぼに移転させた。
吉原という地名は、もともとは江戸の湿地帯で
ヨシやアシの密生地につくられた歓楽街なので”ヨシハラ”とよばれてきた。
そのため、新しくこの方面が発展した。

その点では、
松平信綱の都市計画はすでに投資が十分に行われた土地を幕府側が収用し、
未開発の土地に町人を移して、その発展を促したといえる。
巧妙な土地政策だ。

 

隅田川に架けた橋の名も「大橋」からいつのまにか...

隅田川に架けた橋は初めは”大橋”と呼ばれていたが、
後に武蔵国と下総国との二つの国にまたがるというので
”両国橋”と呼ばれるようになった。

 

現在の東京の市街地形成には、
350年以上も前の信綱の都市計画の影響が色濃く残っている。

広小路とは、防火地帯だったわけだ。

 

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