書籍・雑誌

2022年11月27日 (日)

「コミュニケーションはスキル」か?

(全体の目次はこちら



「コミュニケーションはスキル」か?

- 「英語はツール」か? -

 

日本の英語教育について
積極的に発信を続けている
鳥飼玖美子さん。

同時通訳の草分け的な存在として、
若い頃から
アポロ11号の月面着陸の中継や、
大阪万博といった大舞台でも
活躍していたとのことだが、

以前、Eテレの英語番組
「世界へ発信!SNS英語術」
で、1969年の月面着陸の中継を
通訳した話を突っ込まれると、
「あの時は中学生が同時通訳した・・」
と即答していた。
とっさにユーモアで返す機転もさすがだ。

そんな鳥飼さんのこの本

鳥飼玖美子 (著)
国際共通語としての英語
講談社現代新書

(以下水色部本からの引用)

にはコミュニケーションの本質を
考えるうえでの、
大事な言葉が溢れていた。
新しい指摘、というわけではないが
ノウハウや成果ばかりにつられて
ついつい忘れがちになる視点でもあるので、
ここで改めて一部紹介しておきたい。

 

「コミュニケーション」とは、
つまるところ
「他者との関係性」です。
自分と、自分とは異なる存在とが、
共に関係を構築するのが、
「コミュニケーション」です。

単なる伝達の手段ではないし、
日常会話の域にとどまるものでも
ありません

コミュニケーションの一部を支える言葉。
そこには「沈黙」さえも含まれている。

いずれにせよ、
「他者はすべて異質な存在」なのだから
コミュニケーションを成立させるためには
言葉だけではない努力や配慮や工夫が
必要となってくる。
それでも、もちろん失敗する場合もある。

「異文化コミュニケーション」
というのは、
異なる文化で生きてきた者同士が
関係を構築しようとすることを指します。

異文化コミュニケーションとは
英会話のことだと勘違いしている人

日本に多いのは誠に残念です。

「異文化コミュニケーション」とは
言語を問わず、異質な文化が邂逅し
接触する際に必然的に起こる事象です。

「異なる文化」は、
外国ばかりとは限りません

世代の違い、ジェンダーの違い、
障碍のある人とない人の違い、
人間と動物、人間と自然、
どれも「異文化」です。

 

外国に限らず「異文化」との
コミュニケーションには、
背景の文化を理解しようという
姿勢が不可欠だ。

どの言語にもそれぞれの文化があり、
コミュニケーション・スタイルがあり、
言語使用の習慣
があります。

外国語を使うとは、
異質な他者を相手に
異質な言語を精一杯使って
果敢に関係構築を試みるのだから、
簡単なわけがない、と
腹をくくるべきでしょう。

そして何度も繰り返すように
次の言葉を送り出している。

コミュニケーションは
単なるスキルではありません。
英語は単なる道具ではありません


国際コミュニケーションの共通語として
英語を使う場合でも、
これは同じだと思います。

英語をツールとして、
コミュニケーションをスキルとして、
軽く考えるから、
こんなに勉強しているのに上手くならない、
と腹が立つのです。

コミュニケーションは
単なるスキルではない。
英語は
単なる道具ではない。

そもそも
「単なる道具」だと言っている人は
道具以上に使えるようにはならない。

たとえ世界中の人々が
使用するようになったとしても、
英語には英語の歴史と文化があり、
独自の世界を有した
一つの言語であることは
間違いないのです。

そこを何とか折り合いをつけ、
世界の誰もが使えるように、
使い勝手の良いようにしよう、
とあれこれ工夫をし始めているのが現状で、
本書もそれを提言しているわけですが、
一つの生きた言語である
という事実も認識するべきでしょう。

 

鳥飼さんは本書で主張したかったことを
2つに集約して最後にこう書いている。

一つは、「英語はツール」
「コミュニケーションはスキル」
という言説を疑って欲しい

ということ。

コミュニケーションは
人間が特定の状況で起こす
多層的な行動であるわけですから、
それを私たちにとっては
外国語である英語で行う、
ということの重みを
忘れてはならないと思うからです。

英語はたかが道具だ、
と軽視する人ほど、
日本語は微妙なニュアンスがあって
特別に難しい、などと言います


しかし、特殊に難しい言語など
存在しません
。これは現在では
当然として認められている
言語相対主義の知見です。

そしてふたつ目の主張はこれ。

日本人にとって
外国語である英語を学ぶのは
容易ではないのですが、
だからと言ってあきらめることは
ないのです。

国際共通語として習得する
という方向を見定め、
英語学習の目的と内容を
見直したらどうか

というのが第二の主張です。

異なる文化で生きてきた者同士が
関係を構築しようとすることは
まさに多層的なアクションだ。
言葉ができれば成功する
というものでもない。

国際共通語としての英語を
どう考えるかの詳細は本書に譲るが、
歴史と文化に対する配慮と敬意を
忘れることさえなければ、みちは拓け、
関係はさらに深まっていくことだろう。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

 

2022年11月13日 (日)

舌はノドの奥にはえた腕!?

(全体の目次はこちら



舌はノドの奥にはえた腕!?

- 音色、音の色に違和感はなく -

 

実際の講演は
今から40年以上も前の話になるが、
解剖学者の三木成夫さんが、
保育園で講演した内容をまとめた

三木成夫 (著)
内臓とこころ
河出文庫

(以下水色部、本からの引用)

は、たいへんユニークな視点で語られた
「こころ」の本だ。

独特な口調で
幼児の発育過程を語りながら、
内臓とこころを結びつけ、
話は、宇宙のリズムや
4億年の進化の過程にまで
広がっていく。

一方で、

ただ、舌の筋肉だけは、
さすがに鰓(えら)の筋肉、
すなわち内臓系ではなくて、
体壁系の筋肉です。
(中略)

舌の筋肉だけは
手足と相同の筋肉
です。

われわれはよく
「ノドから手が出る」
というでしょう。

舌といえば、ノドの奥にはえた腕
だと思えばいい。

のような、
ユーモアあふれる大胆な表現もあって
あっと言う間に「三木ワールド」に
とりこまれてしまう。

舌はノドの奥にはえた腕!?
強烈すぎるフレーズだ。

講演を原稿化したものゆえ、
読みやすくはあるものの、
論理的には話が飛ぶ部分もあり、
「えっ?」と思うところもあるが、
それも含めてひとつの味だ。

簡単にはまとめられない、
三木さんの「こころ」論は本に譲るとして、
印象的なフレーズを2つ紹介したい。

(1) 原初の姿 (指差しこそ人類!)

ルートヴィヒ・クラーゲスという、
ドイツの哲学者は、
幼児が「アー」と声を出しながら、
遠くのものを指差す---この動作こそ
人間を動物から区別する、
最初の標識
だといっています。

どんなに馴れた猫でも、ソレそこだ!と
指差すのがわからない。
鼻づらをその指の先に持ってきて、
ペロペロなめる……

指差しが認識できず、
指先を舐める猫か、なるほど。

赤ちゃんも、
「なめ廻し」の時期を過ぎたころから
「指差し」を始めるようになる。

クラーゲスは、
この呼称音を伴う指差し動作のなかに、
じつは、原初の人類の”思考”の姿
あるのだといっています。
スゴい眼力ですね

この感じは、
しかし現代でも充分にわかります。

たとえば私たち、ビルの屋上から
真っ赤な夕焼け雲を見たりした時、
思わず「アー」と声を出しながら、
指差しの
少なくとも促迫は覚えるでしょう。

この瞬間、私たちはもう
好むと好まざるとにかかわらず、
原初の姿に立ち還っているのです。

圧倒的な大自然を前にした、
その時の思考状態ですね・・・。

頭の中はけっして空っぽではない

圧倒的な大自然を前にしたとき、
言葉にできない根源的な幸福感に
包まれることは確かにある。

あれは原始の姿に立ち還った
そのリラックス感から
来るものなのだろうか?

ミケランジェロ作の
システィーナ礼拝堂の天井画の
アダムの人差し指に対して

アダムの人差し指に
魂が注入される瞬間。
人類誕生の曙が
指差しの未然形として描かれている

こんな表現ができる人は
他にいないだろう。

私どもの”あたま”は
”こころ”で感じたものを、
いわば切り取って固定する

作用を持っている。

あの印象と把握の関係です。

そしてやがて、この切り取りと固定が、
あの一点の「照準」という
高度の機能に発展してゆくのですが、
「指差し」は、この照準の”ハシリ”
ということでしょう。

つまり、この段階で
もう”あたま”の働きの
微かな萌(きざ)しが
出ているのです。

 

(2) 「音色」(音の色?)

私たちの目で見るものも、
耳で聞くものも、
すべて大脳皮質の段階では
融通無礙に交流し合っております

フォルマリンで固定した人間の
大脳皮質下の「髄質」を見ますと、
ここでは、
ちょうどキノコの柄を割ぐ感じで、
無数の線維の集団を
割いでゆくことができる。

視覚領と聴覚領の間でも、
この両者の橋わたしは豊富です


連合線維と呼ばれる。

視覚と聴覚の交流?
以下の言葉の例で考えると
わかりやすい。

「香りを聞く」「味を見る」
「感触を味わう」
などなど、

皆さん、
あとでゆっくり数えてください。

どんな感覚も四通八達で、
たがいに自由自在に
結び付くことができる。

大脳皮質は
こうした連合線維の巨大な固まりです。

<中略>

私ども人間は、
こうした、感覚のいわば「互換」が、
とくに視覚と聴覚の間、
それも視覚から聴覚に向かって
発達しているのでしょう。

「音」は聴覚、「色」は視覚、
でも「音色」という言葉は
違和感なく溶け込んでいる。

解剖学の知識が全くない遠い昔から
私たちはその交流に
気づいていたに違いない。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2022年10月16日 (日)

「所有」と「存在」

(全体の目次はこちら


「所有」と「存在」

- 日本の伝統的な所有感 -

 

前回、所有格の「の」
これだけをテーマに
9人の執筆者の文章で編まれている

大庭健、鷲田清一 (編)
所有のエチカ
ナカニシヤ出版

(以下水色部、本からの引用)

を紹介した。

そしてその最後に、

最初に書いた鷲田清一さんの
 「現代の都市空間は隅々まで
  誰かのもの、誰かの所有物だ。」
なる事実が、そもそも本来は
「当たり前」ではないことを
改めていろいろ学ぶことができる。

と書いた。

今日はその
「当たり前ではない」部分について
田中久文さんが書いた
「無所有の系譜」を読んでみたい。

 

日本の伝統的所有観の
最も大きな特色の一つは、
所有と存在という二つの概念が
明確に区別されていない

という点にあると思われる。

それはまず
言語表現の上に現われている。
「所有」という言葉自体を
考えてみても、
「有」は「もつ」と同時に、
「ある」をも意味している。

「もつ」とは
「存在そのものの本来のありかたを
 損なわないで手元におく」
ことだが、
近代的な意味での所有とは
「とる」つまり
「積極的に対象に働きかけて、
 対象を自分のものにし、
 自由にする意」
かもしれない。

一方逆に「存在」という言葉に関して
和辻哲郎などは、
それが本来は所有を意味していたと
解釈する。

英語では
John has two children.
と所有を表す動詞haveを使うが、
日本語では、
「太郎には子供が二人いる」
のように存在を表す動詞「ある(いる)」を
使って所有を表現している。

存在と所有とを一体視する考え方は、
西洋近代の私的所有権の考え方とは
大きく異なっている。

貝原益軒は『養生訓』の中で
身体に関して、
人の身は父母を本とし、
 天地を初とす

 天地父母のめぐみをうけて生れ、
 又養はれたるわが身なれば、
 わが私の物にあらず」
と述べている。

自己の身体は「私の物」ではなく、
「天地父母」から与えられたものである
というのである。

そうであるからこそ、
逆にそれをみずからの手で
大切に「養生」しなければ
ならないのだと益軒は説く。

私の体は「私のもの」ではないのだ。

苦労して育てた農作物ですら

農学者の宮崎安貞は

稼(実った稲)を生ずる物は天也。
 是を養うものは地なり


 人は中にいて天の気により
 土地の宜きに順い、
 時を以て耕作をつとむ。

 もし其勤なくば天地の生養も
 遂ぐべからず」

と述べ、
あくまでも天地の働きを補足し、
完成させるものとして、
人間の農耕を捉えている。

こうした考え方は、農耕だけでなく
商品経済の場においてもみられた、と
石田梅岩の言葉も紹介されている。

以上のように日本では、
身体や人間の労働を
自立的にみることなく、

それを宇宙や天地全体の働きの中で
捉えようとする考え方が
伝統的に強くあった。

 

天地に随順するという形で
所有を捉えるという考え方は、
人間の倫理を
放棄したわけではもちろんない。

近世の思想家の多くは、
「天」や「天地」そのものが
倫理や規範をおびたものである

とみなし、
したがってそこに参与する人間もまた、
そうした倫理や規範に
従わなければならない存在だと考えた。

 

「存在」そのものが
「人間がもつ」ということを
根底に成立している?
これまで「所有」と「存在」の関係を
考えたことなんて全くなく、
まさにボーっと生きてきたが
こうして説明されると
不思議な繋がりが見えてくるから
おもしろい。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2022年10月 9日 (日)

所有権と物のエロス

(全体の目次はこちら


所有権と物のエロス

- 所有格の「の」だけで一冊の本 -

 

Twitterを眺めていたら、

 所有には
 「(実際にはそんなことは絶対に
   しないけれど)
  望めばそれを破壊することができる」
 という感覚が直感としてあり、
 そのことが、所有という権利だけでなく
 物のエロスを生んでいる。

というような意味の投稿が目に留まった。

そんなことを意識して考えたことは
なかったけれど、所有には
望めばそれを破壊することができる
という面がある、との刺激的な言葉は
妙に強く印象に残った。

昨日2022年10月8日の朝日新聞では、
鷲田清一さんが「折々のことば」で
 「現代の都市空間は隅々まで
  誰かのもの、誰かの所有物だ。」
とコメントしていた。

一方で最近は
「share」や「共有」といった言葉を
目にする機会も増えている。

というわけで、「所有」について
改めて少し考えてみたいと
こんな本を手にしてみた。

大庭健、鷲田清一 (編)
所有のエチカ
ナカニシヤ出版

(以下水色部、本からの引用)

9人の方の文章を集めたものとはいえ、
「わたしのもの」
この所有格の「の」についてだけで
一冊の本を編んでしまっている。
よくもまぁこんなにいろいろな角度から
「の」について書けるものだ。

 

まずは「折々のことば」も書いている
鷲田清一さん。
twitterで見たコメントと同じように
次のように書いている。

つまりじぶんの所有物は
じぶんで自由に
処理する権利がある
のであって、

それを他人に、
あるいは共同体や国家に、
意に反してみだりに奪われたり
処分されたりすることは
認められてはならないということは、
市民社会において
「個人の自由」の前提要件となる
ことがらでもある。

だれからも収奪されたり、
搾取されることない私的所有の制度化は
近代市民社会成立の
大事なひとつの条件だったわけだ。

それは、現代における
知的所有権やプライバシーの保護などにも
繋がっていく。

しかし同時に、厳密に規定された
その私的所有の制度が、
そしてさらにさかのぼって
<所有>という観念そのものが、
現代社会にとって
ある種の桎梏(しっこく)に
なりはじめている
という面が、
はっきりと出てきている。

桎梏(しっこく)とは、手かせ足かせ。
つまり、自由な行動を束縛する、
ということ。

できあがった映画は誰のものなのか?
出来上がったCDは誰のものなのか?
マンションは誰のものなのか?
所有者は「自由に処理」できるのか?

「個人の自由」の
前提要件だったはずの所有権が
現代社会においては逆に
様々な「手かせ足かせ」を生んでいる。

 

藤野寛さんは、「家族と所有」なる章を

「私の夫」「私の娘」というのと
「私の隣人」「私の上司」というのでは
どこかに違いがあるだろうか。

という、軽い問いから始めている。

「私の」を「私にとっての」と
言いかえられる点ではどちらも同じだ。
でも、直感的にはなにかが違う。
うまく言えないけれど。

それを藤野さんは見事に言葉にしている。

「私の夫」「私の娘」を見てみよう。

始めの二つの例に特徴的なことは、
「他の女の、ではない」
「あなたの、ではない」という
排除・独占の意味が
色濃くにじみ出てきている

という点だろう。

「私の」の「の」は、
単に関係を表わすのみでなく、
所有、さらには専有の意味まで
匂わせるものとなる。

「あなたになんか分けてやらないわ」
という気持ちが
言外に込められているのである。

「私の坊や」といった
言葉使いに典型的にあらわれてくる、
独占欲、排他性、そして
否定的な心理表現としての嫉妬心、
それらが家族間での所有格「の」には
含まれている。

そしてそれは、
自分の所有物なのだから
 自分の思いのままに処理してよい

という発想に繋がっていく。

 

所有格の「の」、
これだけをテーマに一冊の本!?
と驚きながら読み始めたが、

「自分の持ち物なのだから
 何をしてもいい」

の発想にいかに多くの面があるのか、

そしてまた、
最初に書いた鷲田清一さんの
 「現代の都市空間は隅々まで
  誰かのもの、誰かの所有物だ。」
なる事実が、そもそも本来は
「当たり前」ではないことを
改めていろいろ学ぶことができる。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

 

2022年10月 2日 (日)

鰆(さわら)を料理店で秋にだす

(全体の目次はこちら


鰆(さわら)を料理店で秋にだす

- 盛り方のしゃれたひと工夫 -

 

東京にある日本料理店で
総料理長を務める野﨑洋光さんが書いた
下記の本には、
おいしく料理を作るための
特に素材の味を活かすための
ちょっとしたヒントが
各ページにちりばめられている。

野﨑 洋光(のざきひろみつ) (著)
おいしく食べる 食材の手帖
池田書店

(以下水色部、本からの引用)

長年の経験に基づくコメントは
多岐にわたり、

 「ほうれん草」は
 熱湯でゆでてもいいけれど、

 アブラナ科の「小松菜」は
 80℃くらいのお湯のほうが
 本来の味が引き出せる。

 他にも、同じアブラナ科の野菜
  かぶ
  カリフラワー
  キャベツ
  大根
  菜の花
  白菜
  ブロッコリー
  水菜
 などは、
 グラグラと沸騰したものではなく
 80℃くらいのお湯のほうがいい。

といった調理法に関するものから

 かぼちゃを選ぶとき、皮の色が一部分だけ
 オレンジ色や黄色になっているものを
 見ることがあるが、
 あれは日光にあたっていなかっただけで
 品質に問題はない。
 むしろ、ここの色が濃いものほど
 甘くておいしい

のような買い物アドバイス、

調理法によって、
むく皮の厚さを変えている意味、

ゆでたり、煮たりするときの
ふたをする・しないが味や色に与える影響、

加えて

じゃがいもは、
イモ科ではなくナス科!
ちなみに、
イモ科という分類はもともとない。

といったビックリ豆知識まで
食材や料理に関する知識を
多方面から楽しむことができる。

本の内容自体は
「素材の味を最大限に活かす調理」
を基本メッセージに、
家庭料理にむけて書かれたものだが
ところどころに
プロならではコメントがあって、
そこがなかなか興味深い。
印象的なのはコレ。

漢字では鰆と書き、
春を告げる魚とされています。

これは、かつて春になると
瀬戸内海に産卵のために
集まってきたことから
あてられた字です。

しかし、脂ののった冬のものも
寒さわらとして関東では好まれ、
春に限らず楽しめる魚なのです。

けれど、春のイメージが強く、
料理屋ではほかの季節は出しにくい


そこで、秋は皮目を下にして盛る
なんてこともします。
春の裏側は秋なので、
しゃれをきかせるというわけです。

漢字で書くと違和感があるなら、
平仮名にするなんて手もありますね。

おいしいのに、漢字の影響もあって
料理店ではだしにくい秋の鰆、
それを盛り方のしゃれで克服しているなんて。

日本料理のおしゃれなところのひとつだ。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2022年9月25日 (日)

私のなかの何かが健康になった

(全体の目次はこちら


私のなかの何かが健康になった

- ミヒャエル・エンデの言葉 -

 

「モモ」「はてしない物語」
などの作品で知られる作家
ミヒャエル・エンデに
子安美知子・子安文の母娘が
インタビューをしている

子安 美知子 (著)
エンデと語る―作品・半生・世界観
朝日選書 朝日新聞社

(以下水色部、本からの引用)


で、エンデはこんな話をしている。

私が音楽を聴いて、
理解すべきことがありますか?

(中略)

音楽に理解はいらない。
そこには体験しかない
私がコンサートに出かける、
そこですばらしい音楽を聴く。

帰り道、私は、
ああ今夜はある体験をした、という
思いにみたされている。

でも、私は、コンサートに行く前と
あととを比べて、
自分がいくらかりこうなった、
なんて思うことはありませんよ

そうでしょう?

りこうになったわけでもないのに
体験によって満たされるもの。

それはもちろん音楽に限らない。

シェークスピアの芝居
見にいったとする、そのときもです。

私はけっして、りこうになって
帰るわけではありません


なにごとかを体験したんです。

すべての芸術において言えることです

本物の芸術では、
人は教訓など受けないものです。

前よりりこうになったわけではない、
よりゆたかになったのです。

心がゆたかに - 
そう、もっといえば、
私のなかの何かが健康になったのだ、
秩序をもたらされたのだ。

およそ現代文学で
まったく見おとされてしまったのは、
芸術が何よりも治癒の課題を負っている
というこの点です。

前回書いた「芸術と医療は同じ?」
とまさに同じ視点だ。

「心が豊かになった」はよく使う表現だが
「何かが健康になった」
という表現はおもしろい。

でも、心満たされたとき
「元気になった」とはよく言う。
たしかに「健康」になっている。

薬でもないのに
免疫力を高め、元気にする。
芸術にはそういう力がある。

なのでエンデは、文学作品は、啓蒙や
何かを教えるために書くわけではない、と
はっきり言い切っている。

啓蒙ではなくて-啓蒙は、
最も非本質的な課題です。

啓蒙をねらうのだったら、
私はエッセイや、評論を書きます

あるいは
こうしたインタビューの形式とか。
人に何かを教える意図があったら、
小説や物語のオブラートに包んで
お渡しするより、
そのほうが適しています。

正しい知識を与えたいなら
エッセイや評論を書くよ、か。

一冊の本は、何かの思想の
お説教であってはならない、
と私はいいましたが、
それは著者がかかわった
思想の成果ではあるはずなのです。

一篇の詩は、知恵を
しのばせておく必要はないのですが、
知恵から生まれた
結果ではなければなりません。
が、
知恵そのもの、思想そのものが
顔出しするようであってはならない。

絵画でもおなじではありませんか。

あるいは音楽でも、彫刻でも-。

それらはすべて、
なにかの世界観に根ざした産物で
なければならない

作者の世界観が
文学や絵画や音楽や彫刻といった
形になり、そしてそれは
触れた人を広く「健康にする」作用がある。

芸術は、生物が本来持つべき「調和」を
取り戻すのに大きく貢献する
不思議な力を持っている。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2022年9月18日 (日)

芸術と医療は同じ?

(全体の目次はこちら


芸術と医療は同じ?

- 体は戦場ではなく調和の場 -

 

現役のお医者さんとして活躍する
稲葉俊郎さんが書いた

稲葉俊郎 (著)
いのちを呼びさますもの
—ひとのこころとからだ—
アノニマ・スタジオ
(以下水色部、本からの引用)


から
「元気になったから病気が治る」
「生を養う」養生所
などについて紹介してきたが、
もう一節だけ書き残しておきたい。

 

「内と外で分断されていく」

現代は、外向きの社会的な自分と、
「いのち」を司る内なる自分とが
分断されようとしている時代だ。

多くの人は、外の世界に向けた自分を
コントロールすることに明け暮れている


テクノロジーが情報化社会をつくり、
そうした動きを後押しした。

社会の構造も、人間関係もそうだ。

外なる世界を強固につくり上げれば
つくり上げるほど、
自分というひとりの人格が
外と内とで分断されていく
という
矛盾をはらむ。

外と内とで分断とはどういうことだろう。

なぜなら、
外へ外へと視点が向きすぎると、
自分自身の内側と
どんどん離れていくことが多く、
自分自身との繋がりを失うと、
他者との繋がりは
空疎で実体のないものになる
からだ。

見るべき世界は外側だけではなく、
自分自身の内側にもある

自分自身は、外ではなく、
常に「ここ」にいるからだ。

社会人として、家族の一員として、
まさに外の世界に対して
自分を考えている時間は多い。

でも確かに
一見繋がっているように見えながらも
他者との繋がりに空疎感を感じる時とは、
まさに外側だけで繋がっている時だ。

そこに「自分の内側」があるときは、
そういう空疎感はない。


自分自身との繋がりを失うと、
自分自身の全体性を
取り戻すことはできない。

なぜなら、
自分の外と自分の内とを繋ぐ領域が、
「繋ぐ」場所ではなく
「分断」する場所
として働いてしまう
からだ。

外と内とを「分断」する場所ではなく
「繋ぐ」場所として機能させるために、
大きく役立っているものがある。

稲葉さんに指摘されるまで、
そういう視点で考えたことは
これまでほとんどなかったのだが。

そうした自分自身の
内と外とが重なり合う
自由な地を守ってきたのは、
まさに芸術の世界だ


外側に見せる社会的な自分と、
無限に広がる
内なる自分とを繋ぐ手段として。

そして、医療も本来的に
そうした役割があるのではないか
と、
臨床医として日々働いていて、
強く思う。

言われてみると、
芸術が、外と内とを「繋ぐ」ために
機能している面は確かにある。

さらに稲葉さんらしい視点は、
医療もそうだ、と
芸術と並べている点だ。

内側に広がる
自分自身と繋がることができたら、
自分以外の人々とも
しっかり繋がることができるだろう。

自分自身の内側とは、
まさに体の世界であり、心の世界だ。

医療の本質とは、体や心、
命や魂の本質に至ること


そうした原点に、
また舞い戻ってくる。

それは芸術や文化が求めて
積み上げてきた世界と
同じ
ではないだろうか。

自分はそうした思いを、
読み手の人と分かち合いたいと思う。
「分かる」ことと
「分かち合う」ことは、
同じことだと思うのだ。

「体」を
「病」との戦いの場としてみる
西洋医学の考え方からは
出てこないものの見方だ。

「体」や「心」を
戦場としてではなく、
「調和の場」として考える発想。

調和の場として
全体性を取り戻すために
大きく役立っている芸術、
本来、医療も同じような役目を
担っているのではないか。

その調和こそが健康であり、
生きるということなのだから。

「元気になったから病気が治る」という
最初の言葉が、
改めて大きな意味で響いてくる。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2022年9月11日 (日)

「生を養う」養生所

(全体の目次はこちら


「生を養う」養生所

- 「病」と闘うだけでなく -

 

現役のお医者さんとして活躍する
稲葉俊郎さんが書いた

稲葉俊郎 (著)
いのちを呼びさますもの
—ひとのこころとからだ—
アノニマ・スタジオ

(以下水色部、本からの引用)


から 前回は
「元気になったから病気が治る」
という言葉を紹介したが、
もう少し本を読み進めてみたい。


英語で
「Health」(健康)という言葉があるが、
その語源は
古英語「Hal」から来ている。

「Hal」は「完全である」

という意味であり、そこから

「Holism」(全体性)や
「Holy」 (神聖な)や
「Heal」 (癒す)、
「Health」(健康)という言葉に

分化していった。

つまり、
「健康」 (Health)という言葉には、
そもそも
「完全」 (Hal)、
「全体性」(Holism)、
「神聖」 (Holy)
といった意味合いが
含まれているのだ。

稲葉さんは、
古代ギリシャ時代の劇場が残る
世界遺産「エピダウロスの考古遺跡」を
訪問した際、あることに気づく。

古代円形劇場という建築物が
おもに注目されている場所だが、
実際に足を運でわかったことは、
場全体が
総合的な医療施設であった

ということだ。

劇場を含む古代遺跡が
「医療施設」とはどういうことだろう。

エピダウロスの地には温泉があり、
演劇や音楽を観る劇場があり、
身体技能を競い合い
魅せ合う競技場があり、

さらに眠りによって
神託を受けるための神殿
(アスクレピオス神殿)もあった。

そこは人間が全体性を
回復する場所
であり、
ギリシャ神話の医療の神である
「アスクレピオス」信仰の
聖地でもあった。

温泉、演劇、音楽、競技場、神殿・・・。

この神殿には「眠りの場」があり、
訪れた人はそこで夢を見る。

夢にはアスクレピオスが出てきて、
夢を見ることで
自分自身の未知の深い場所との
イメージを介した交流が起きる。

聖なる場での
そうした夢の体験そのものが、
生きるための指針や
方向性を得るための
重要な儀式的行為でもあったのだ。

夢までをも対象としたその空間を
稲葉さんは、
芸術のための空間でありながら、
同時に医療のための空間でもあると
確信したようだ。

こういう空間、
全く同じではないものの
考えてみると日本にも古くからある

明治期にドイツから
日本にやって来た医師ベルツも、
日本では草津温泉などの湯治場が
体や心を癒すための医療の場として
機能している
ことを、驚きとともに
医学専門誌で発表している。

日本では多くの温泉が療養地として
自然なかたちで愛好されているため、
政府は温泉治療を
進めていくべきであると
力説している。

「温泉」という人々が集う場が
心の全体性を取り戻す場となり、
健康を目指す医療の場となる。

「病院」はあくまでも
「病」を扱う場所であるが、

江戸時代にあった「養生所」は
まさに「生を養う」ための
場所であった。

稲葉さんは、病院を補う場所として、
「健康」「生」を養う場所
必要だと感じている。

「養生」
改めて見直してみるといい言葉だ。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2022年9月 4日 (日)

『いのちを呼びさますもの』

(全体の目次はこちら



『いのちを呼びさますもの』

- 「元気になったから病気が治る」 -

 

現役のお医者さんとして活躍する
稲葉俊郎さんが書いた
下記の本には、
まさに「いのちを呼びさます」
言葉や視点が溢れている。

稲葉俊郎 (著)
いのちを呼びさますもの
—ひとのこころとからだ—
アノニマ・スタジオ

(以下水色部、本からの引用)

印象的なキーワードを拾いながら
いのちや健康について考えてみたい。

「元気になったから病気が治る」

現代医学の
「病気が治るから元気になる」
という考え方と、
「元気になったから病気が治る」
という伝統医療のような考え方は、
それぞれ善悪や優劣ではなく、
アプローチの違いなのだ。

初めて目にすると、えっ!?と
惹きつけられるフレーズだ。

 

西洋医学において「病」とは、
人をおびやかす侵略者であり
悪の存在であると捉える。

そのため、
「病」を倒すことが至上命題となる。
「病」とは何かをまず定義し、
「闘病」という表現があるように、
病気と闘い続け、
勝利を収める必要があるのだ。

でも稲葉さんは医療現場を通じて、
こういうアプローチだけでは、
大きな限界があることを
日々感じていたという。

病に勝利し、表面上見えなくなっても
別な形で現れてくることを
何度も経験したからだ。

西洋医学では、
体を戦いの場として見る。

病は敵であり、頭の判断で
「敵を倒せ」という命令により
強制的に排除する対象である。

それはつまり、体や心という場を
戦場として捉えることでもある

体や心は戦場なのだろうか?

人間の体は、調和と不調和の間を
行ったり来たりしながら、
常に変化している。

「健康」とは、
「調和」と言い換えることも
できるだろう。

全体のバランスを取りながら、
その根底に働く「調和の力」を信じ、
体の中の未知なる深い泉から
「いのちの力」を引き出す必要がある、
そう考えるようになる稲葉さん。

体の調和を取り戻すプロセスこそ
「いのち」が生きている
プロセスそのものなのではないか、と。

西洋医学における専門化は、
どうしても部分へ部分へと
枝分かれしていく傾向
にあり、

人間まるごとの全体性を
扱おうとする医療の根本
から
離れていくように感じてしまう。

その違和感をこそ、
私は大切にしている。

その違和感に
稲葉さんはどう向き合っているのか、
西洋医学だけではカバーできない
「調和」を取り戻すために、
われわれはどんな工夫をしてきたのか。

「いのち」を冷静に見つめる視線は
「調和」をキーワードに
歴史や芸術や文化にまでおよび
話は静かに広がっていく。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

 

2022年7月17日 (日)

ストレートのほうが変化球

(全体の目次はこちら


ストレートのほうが変化球

- 1秒間に40回転!のバックスピン -

 

道尾秀介さんの小説に
「N」という作品がある。

道尾秀介 (著)
N
集英社

(以下水色部、本からの引用)

この本、「本書の読み方」として
次のような始まり方をしている。

本書は六つの章で構成されていますが、
読む順番は自由です。
どの章から読み始めるのか。
次にどの章を読み進めるのか。
最後はどの章で終わらせるのか。

(中略)

読む人によって色が変わる物語を
つくりたいと思いました。

読者の皆様に、自分だけの物語を
体験していただければ幸いです。

なお本書は、章と章の
物理的なつながりをなくすため、
一章おきに上下逆転させた状態で
印刷されています

6章で構成されているため、
読む順番の組合せ数は
6P6 = 6! = 6x5x4x3x2x1 = 720
物理的には
720通りの物語が隠れていることになる。

「一章おきに上下逆転印刷」
というのもかなり大胆な決断で
実際にそうやって読んでみると
確かに本のどこを読んでいるのかが
全くわからなくなる。
紙の本でのみ体験できる不思議な感覚だ。

装幀も逆転して読むことを前提に
上下のない表紙デザインとなっている。

_n_s

と、他に例のない独特な企画部分の説明が
長くなってしまったが、
この本に
野球の投手が投げる球種について
こんなセリフがでてくる。

打者の前で落ちると言われている
フォークボールについて。

あれは自然落下に近いのだという。
もちろん少しは落ちているけれど、
その軌跡はごく普通の放物線に近い。

いっぽうでストレートは
強い上向きの回転がかかっているから、
なかなか落ちずに球が伸びる。

それと比べてしまうので、
逆にフォークボールのほうが、
すごく落ちてるように見えてしまう。

要するに、どちらかというと
 ストレートのほうが
 変化球らしいです!

これ、おもしろい視点だ。

自然落下となる放物線に近いのは
フォークボール


強力なバックスピンと球速により
ボールの上側と下側に気圧の差が生じ、
その結果、
ボールを上に持ち上げるような
「揚力」が発生、
ボールが浮き上がったように見えるのが
ストレート。
つまり、自然に落ちる軌道から見ると
上方向に「変化」させている


でも、まっすぐで落ちないボール、
つまりストレートを見慣れた目から見ると
フォークボールはすごく落ちている、
つまり変化しているように見える。

「変化」を考えるときは
基準が何か、を忘れてはいけないことを
改めて考えさせてくれる。

特に、何が「自然」か、は
意外と見誤りがちだ。
目にする機会が多いことが
自然とは限らない。

 

ちなみに、
「ストレートの回転数って
 実際にはどのくらい?」
と思って調べてみたら驚いた。

こちらに具体的な数字があるが、
2400rpm以上の選手が何人もいる。

つまりボールは
1秒間に40回転以上もの
バックスピンがかかった状態で
飛んでいっていることになる。
1秒間に40回転!
コマ以上に速く回転するボールを
時速150km以上で投げられるなんて。

ほんとうにプロの世界とは
想像を超えた世界だ。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

より以前の記事一覧

最近のトラックバック

2022年11月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ