書籍・雑誌

2022年7月 3日 (日)

高橋是清の少年時代 (3)

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高橋是清の少年時代 (3)

- 詐欺被害から放蕩生活へ -

 

前回に引き続き
高橋是清の少年期を追ってみたい。

前回までの分を簡単に振り返ると、

 11歳のとき横浜で英語を学び、
 14歳で渡米。米国にて
 奴隷契約書にサインさせられるものの
 日本における
 江戸から明治への大転換を知り、
 帰国を決意。
 奴隷契約破棄をなんとか実現して
 帰国の途に。

 朝敵の汚名をきせられた
 仙台藩士だったゆえ
 外国人をよそおって日本に帰国。

 その後、森有礼らの助けをえて
 大学南校に入学するも
 英語が堪能だったためすぐに教官に。
 まだ16歳。

高橋少年はその後・・・


参考図書は、

大島清 (著)
高橋是清 - 財政家の数奇な生涯
中公新書

(以下水色部、本からの引用)


大学南校の教官になったものの、
これまで学校でちゃんとした教育を
受けた経験がない高橋は、
大学南校に教頭として招かれた
フルベッキ博士の役宅に同居しながら
歴史書を回読、
聖書の講義を聞き、
勉強に身を打ち込んだ。

ところが、ここにまた
とんでもないつまずきの原因が
あらわれた。

そして、彼は放蕩生活の
どん底へ転落していった

詳しくは本に譲るが、
大学南校の生徒のために、
250両を都合してほしい、
との依頼が高橋にくる。

もちろん本人にそんな金はないので
遠い親類の商人に頼み
なんとか都合してもらうのだが、
金を受け取った依頼人は、
「お礼の一席」を設けたいと
両国の立派な日本料理屋に
高橋を主賓として招待する。

普通なら、
ここで一ぱい食わされたと感づき、
金の回収をするところであろう。

・・(中略)・・

しかしこのばあい、
やはり数えで十六歳という
幼さを見るべきではなかろうか

金をだまし取った犯人たちが設けた
芸妓たちにちやほやされる
一席をきっかけに、
遊びをおぼえた高橋は
フルベッキ邸を出て、
放蕩生活にのめり込んでいく


あるとき芸妓をつれて
浅草の芝居をみにゆき、
芸妓の長襦袢を着て
さかんに痛飲しているところを、

大学教官に見られて辞表提出。

収入もなくなり、蓄えも使い果たし、
書物も衣類も一切売り払ってしまう。

高橋は、そのたびに
現在の自分を悔いるのだが、
溶けこんだ放蕩は
どうしても止められなかったようだ。

家主からも疎んじられるようになった高橋は
とうとう、馴染みの芸妓に
引き取ってもらうこととなる。

自分で自分に愛想がつきて

いたころ、ついにあの話がやってくる。

知り合いの世話で、
「唐津藩が英語学校をつくるので、
 その教師となって赴任する」
という話が舞い込んできたのだ。

高橋は、月給の前借りをして
*洋服を整え
*借財の始末をし
そして
*(借りた)250両の元利を
 月給から返していく証文を整えた。

かくて、
唐津藩の英学校耐恒寮の教師となって、
唐津へいったのは明治四年、
かれが十八歳ときであったから、
その意気あたるべからず、
英学を白眼視する保守派を向うにまわして、
大酒をあおりながらも、
寮の施設を
しだいにゆるぎないものにした。

駆け足ながらようやく耐恒寮赴任までを
書くことができた。

教師としての赴任とは言え、
それでもまだ18歳。

ここで、彼らに出会うことになる。

彼ら、の話は次回に。

 

 

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2022年6月26日 (日)

高橋是清の少年時代 (2)

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高橋是清の少年時代 (2)

- 奴隷契約にサインさせられ -

 

唐津観光でみかけた案内板から始まった
高橋是清と
辰野金吾、曽禰達蔵らへの興味。

前回に引き続き
高橋是清の少年期を追ってみたい。

参考図書は、

大島清 (著)
高橋是清 - 財政家の数奇な生涯
中公新書

(以下水色部、本からの引用)

11歳のとき横浜で英語を学び、
14歳で米国に送り出された高橋是清。

渡米した高橋は、
サンフランシスコの
ヴァンリード家に住み込むが、

学校へもやってくれないだけでなく、
料理番から部屋掃除、
使い走りまでやらされる。
お昼ごろになると、細君が
「パンにパターをつけ、
 それにプドーか何かを
 一房くらいくれて、
 それを部屋の外の
 飼犬が食っている場所で
 食べたがよいという」

その後、老ヴァンリードの紹介で
オークランドのブラウン家に
移ることになる。
その際、公証人役場で
内容の理解できない書類に
14歳の少年はサインさせられる


ブラウン家では、当初
元気に働きながら、
夫人から英習字を習ったり、
読本を教わったりしていたが、
途中で中国人のコックと衝突。
暇を申し出た高橋に主人は言った。

「お前は勝手に
 暇を取って帰るわけにはゆかぬ。
 お前の体は、三年間は
 金を出して買ってあるのだ

このとき初めて役場でサインした書類が、
身売りの契約書であったことを知る。

そのころ、日本では
孝明天皇が36歳で崩御、
明治天皇が即位、
そしてその年(1968年)の10月には
倒幕の密詔が薩長の二藩に下りと、
政治的な大転換が進んでいた。

友人の世話で
日本人の店を手伝っていた高橋は、
その店でそういった日本の情勢を
知ることになる。

そんな中
津、仙台、庄内などの諸藩が
 朝敵の汚名をきせられ・・・

の報が入ってくる。

幕府からもらった渡航免状には
「仙台藩の百姓」
となっていた高橋。
じっとしていられなくなる。

他の留学生とも相談。
4人の留学生が帰国する決心をする。

しかし高橋の場合、
先の奴隷契約書破棄が必要だ。
その難題も留学生の協力をえながら
領事らに働きかけてみごとに達成。

1968年、サンフランシスコから
横浜を目指して帰国の途につく。

とは言え、

朝敵の汚名をきた藩士であるから、
いきなり日本へ帰ることは、
どんなとがめをうけるか判らない。

安心して帰れる状況ではなかった。
横浜では

外国人をよそおって
英語をペラペラしゃべりながら、
運上所(税関)を突破

その後、森有礼の世話で
東京大学の源流となる大学南校に入学する。

もちろん生徒としての入学であったが、
英語ができることを理由に
わずか数ヶ月後には
「教官三等手伝い」を
命ぜられることとなる。

高橋はこうして数え年16歳で
大学南校の教官として
英語を教えることになった
が、
しかし過去においてかれは
正規に学校へ入ったこともなく、
精神生活においては、横浜で
ヘボン夫人から英語をならったとき、
少しばかりの宗教的な話を
きいただけであった。

ここまで来てもまだ16歳。

高橋少年の唐津赴任までの話。
次回も続けたい。

 

 

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2022年6月19日 (日)

高橋是清の少年時代 (1)

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高橋是清の少年時代 (1)

- 私生児から14歳で米国へ -

 

前回
旧大島邸の案内板にあった
この文言を紹介した。

唐津藩の英語学校、
耐恒寮(たいこうりょう)において、
東京駅を設計した
辰野金吾(たつのきんご)
同じく著名な建築家である
曽禰達蔵(そねたつぞう)らとともに、
後の蔵相、首相を務めた
高橋是清の薫陶を受け、
・・・・

この一文は、
私の唐津への関心を一気に高めてくれた。

唐津藩の藩校では、
高橋是清が教壇に立ち、
生徒には辰野金吾と曽禰達蔵がいた、
と言っているわけだ。

知らなかった歴史との出会いがあるから
旅は楽しい。

そもそも高橋是清についても
「二・二六事件で暗殺された元首相」
程度のことしか知らないレベルなので、
「藩校の先生」、しかも教え子には
のちに名建築を残す建築家の名が並んでいる、
というのがどうもイメージできない。

というわけで、まずは高橋是清から、と
下記の本を手にしたわけだが、
その一生はまさに数奇なものだった。

大島清 (著)
高橋是清 - 財政家の数奇な生涯
中公新書

(以下水色部、本からの引用)

唐津と繋がりができるまでの
エピソードだけでも少し紹介したい。

といっても、実は
高橋が唐津に先生として赴任したのは
わずか18歳のとき。

耐恒寮(たいこうりょう)で出会ったとき、
教師 高橋是清 18歳
生徒 辰野金吾 18歳
生徒 曽禰達蔵 19歳
この年令構成を見ただけでも
興味は深まるばかりだ。

 

高橋是清は安政元年(1854年)、
幕府の絵師川村庄右衛門の家に
奉公していた侍女
北原きん(このとき16歳)の
私生児として生まれた

このとき庄右衛門47歳。

庄右衛門は和喜次(わきじ)と名付け
自分の子としても認めたが、
家には6人の子があったため、
生後3,4日のうちに、
仙台藩の足軽
高橋覚治是忠(これただ)の家に
里子に出された

その後菓子屋への養子の話もあがるが、
是忠の養母喜代子が強く反対し、
実子是清として届け出る

ともかく、
高橋は私生児として生まれ、
里子に出され、
養子にやられるという、
こみいった事情に育ちながら、
私生児にありがちな劣等感や
性格の暗さなど全然ない。

逆にあけっぱなしで、思ったことは
歯に衣をきせることなくいい、
いつもにこにこしているので、
人に憎まれることのない
楽天家として一生をおわった


(中略)

このような性格は
もちろん天成のものと
いえるのであろうが、
しかし祖母喜代子の厳しいしつけと
暖かい思いやり
に負うところが
大きかったことは
見逃せないところである。

 

そのころ、
藩の江戸屋敷に
大童信大夫(だいどうしんだゆう)という
居留守役がいた。
大童は福沢諭吉とも親しかった男だが

これからの人間は外国の事情を
勉強しなければならない
という
考えをもっていて、
洋学の勉強をする若い武士などに
とくに目をかけた。

(中略)

足軽小者の子供のなかから、
英語の勉強に
まず横浜へ派遣することをかんがえ、
結局高橋と
鈴木六之助
(のち日本銀行出納局長鈴木和雄)
を選んだのである。

1864年、同年の二人は11歳で
横浜居留地のヘボン博士のもとへ
英語を習いに通うようになる。

このときも祖母喜代子は、藩に頼んで
横浜に急造の一戸を建ててもらい、
二人の炊事から身のまわりの
世話をやいたという。

そのころの社会情勢をちょっと見てみよう。

文久2年(1862年)
 1月 坂下門の変
 4月 伏見寺田屋事件
文久3年(1863年)
 5月 長州藩攘夷実行
 7月 薩英戦争
 8月 尊攘激派が京を追われる
元治元年(1864年)
 7月 蛤御門の変
 8月 四ヵ国連合艦隊の長州攻撃

このような社会体制の変革期に、
少年時代をすごしている高橋にとって、
積極的に
海外へ眼を向けさせてくれた人たち、
大童や祖母があったことは、
幸運というほかない。

高橋は、横浜で英語をみっちり学び
慶応3年(1967年)7月、
正式に藩からアメリカへ
派遣されることになった。
このときまだ14歳。

高橋は祖母の手製の洋服と
古道具屋で見つけた
婦人靴をはいて出かけた。

ところが渡米後、高橋には
「奴隷として売られてしまう」
という運命が待っていた。

長くなってきたので、
続きは次回にしたい。

 

 

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2022年5月15日 (日)

『違和感ワンダーランド』の読後感

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『違和感ワンダーランド』の読後感

- 意外なところに歴史書が -

 

毎日新聞「日曜くらぶ」に連載されていた
松尾貴史さんのコラムは、
2020年7月19日から2021年11月7日までの
掲載分が纏められて

 松尾貴史 (著)
 違和感ワンダーランド
 毎日新聞出版
(以下水色部、本からの引用)

という一冊の本になっている。

この本、松尾さんが日々のニュースに触れて

「何かおかしい」と感じたことを、
表明したり、可視化したり

した本だが、
単なる疑問点やグチやツッコミを
並べただけの本ではない。

かと言って、
専門的な知識や特別なウラ情報が
公開されている、というわけでもない。

そんな本が独特な読後感を生み出している。
それはいったいどこから来るのだろう?

 

例として東京五輪開催の件を
扱った記事を見てみたい。

下記、箇条書き(*)の項目の選択は
私の編集だが、(*)に続く各一文は、
松尾さんのセンテンスのままなので
引用の水色を使って書くと、

*東京オリンピック・パラリンピックの
 開会式で楽曲を担当することに
 なっていたミュージシャンが、
 小学生から高校生にかけての時代に
 障害を持つ同級生たちを
 虐待していたことが
 広く大きな反発を呼ぶことになり、
 7月19日に辞任した。

*安倍晋三前首相による
 「アンダーコントロール」という
 虚偽の招致演説。

*「復興五輪」という
 虚飾によるミスリード。

*「世界一カネのかからない五輪」
 (当時の猪瀬直樹・東京都知事)と
 言いながら一時は3兆円の声も
 上がったインチキな予算。

*故ザハ・ハディド氏による
 新国立競技場の
 設計変更に至るもめ事。
 設計者の変更もさらに予算が
 かかる結果に。

*長時間労働による作業員の過労自殺。
 その方も含め五輪の建設現場で
 作業員が4人死亡。

*エンブレムのデザイン盗作疑惑問題。

*招致活動での買収疑惑と
 フランス当局からの事情聴取。

*不正はないと言いながらの
 日本オリンピック委員会(JOC)会長
 退任表明。

*マラソンなどのコース変更

*トライアスロン会場の水質汚染問題。

*開幕まで半年を切ったタイミングでの
 大会組織委員会の森喜朗会長の
 女性蔑視発言とそれによる辞任。

*その不透明な後継者選びでの
 川淵三郎氏の辞退。

*野村萬斎氏ら7人の
 開会式・閉会式の演出チーム解散。

*募集した大会ボランティアの
 待遇の劣悪さ。

*開閉会式の総合統括を務める
 クリエーティブディレクターの
 女性タレントの容姿を侮辱するような
 演出案問題。

*一般人と分けるはずの
 動線が交わっているなど、
 ずさんなバブル方式の数々の問題点。

*自殺とみられるJOC経理部長の
 電車事故死。

*新型コロナウイルス感染拡大で
 開催地東京での4回もの
 緊急事態宣言発出。

*行動制限されていたはずの
 ウガンダの選手の失踪事件。

*緊急事態言下での迎賓館を使っての
 国際オリンピック委員会(IOC)
 バッハ会長をもてなす
 非公開パーティーの開催。

*コロナ禍で交通量が減っていて、
 さらに無観客なのに
 首都高速道路が料金上乗せで
 一般道大渋滞。

*茨城県の子供たちを
 サッカースタジアムに動員して
 観戦させようとする
 意味不明な対応に、
 「持ち込む飲み物は
 スポンサー企業のものにせよ」と
 通知する忖度。

*で挙げたものだけでも20項目以上。
どれも記憶に新しい今(2022年5月)時点で
読めば
「そうそう、そんなことあったよね」
というよく知られた案件ばかりだ。

でも、もし、数年後、または数十年後、
「東京五輪開催にあたって
 どんな問題があったのか?」
を調べたようとしたとき、
これらの問題をこうした簡潔な羅列で
知る方法がなにかあるだろうか?


もちろん、数年分の新聞を読み返せば、
または検索をかければ、
各項目自体をピックアップすることは
可能だろう。
しかし
「東京五輪」や「オリンピック」といった
検索ワードで見つかる記事の数は
膨大なはずで、その整理と全体像の把握は
容易ではないはずだ。

松尾さんの記事は、
ニュースとしての事実部分と
「何かおかしい」と思う松尾さんの
感情部分とを
ちゃんと分けて記述している。

そして、事実部分については、
簡潔にかつ正確に記そうという
松尾さんの気遣いがよく伝わってくる。

上はオリンピックに関する部分だが
たとえば、政治家が口にした言葉なども
印象ではなく、実際の発言にもとづいて
正確に記述、引用している。

ちょっと大げさに言えばニュースに関しては
2020年7月から2021年11月までの
歴史書的要素があるのだ。

独特な読後感は
どうもこのあたりに起因する気がする。

期せずして現代史のテキストを
発見したような不思議な気分だ。

 

 

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2022年5月 1日 (日)

SNSの写真が表現するもの

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SNSの写真が表現するもの

- 事実よりも情動を引き出すことを -

 

食べ物の色が
どのように作り出されてきたのかを、
*着色料や農産物の生産過程の調整など、
 実際の食べ物の色を作り出す
 技術や方法といった物理的な側面
と、
*料理本や宣伝広告の影響を受けながら、
 その色をどのようにして「当たり前」と
 思うようになったかという認識的側面
の、ふたつの面から探っている

 久野 愛 (著)
 視覚化する味覚-食を彩る資本主義
 岩波新書

(以下水色部、本からの引用)

だが、
最後の章では現代社会における
食べ物の色や見た目について
SNS上での写真を通して考えている。

他の本も参照しながらの
写真の考察がおもしろい。

写真を撮ったり
料理を作る主体のみならず、
写真撮影と鑑賞に関わる行為も
大きく変わった


大山顕が、
写真は「見る」ものから
「処理」するものになった
と述べているように、
写真は、
撮る・見るものであるだけでなく、
SNSの写真においては
「加工」「シェア(共有)」「いいね」
することが重要
となったのだ。

ここで参照されている
大山顕さんの本はこれ。

 大山顕 (著)
 新写真論 スマホと顔
 ゲンロン叢書

「シェア(共有)」や「いいね」はもちろん、
簡単な「加工」であれば、
ワンクリックまたは数秒で可能だ。
それでもかなり多彩な加工ができる。
確かに
「見る」だけでなくなっている。

 

SNSの写真には、
日常の記録や思い出の保存
というだけではなく、
むしろそれ以上に、
ユニークな見た目であること
求められる。

よって映える被写体というのは、
単に綺麗な色をしているとか、
撮影者が
おいしそうと思うものというよりは、
多くの人の目にとって
「面白い」ものということになる。

それはSNS写真独特の美学である。
佐藤卓己が論じるように、
こうした写真は、
見栄えを優先させる一方、
被写体・素材の事実性は
軽視されがち
である。

つまり、
「データ素材として
 どのような加工もできる
 デジタル写真は、
 記録のメディアというより
 表現のメディア

となったのである。

ここで参照されている
佐藤卓己さんの本はこれ。

 佐藤 卓己 (著)
 現代メディア史 新版
 岩波テキストブックス:岩波書店

「素材の事実性は軽視されがち」
「記録のメディアというより表現のメディア」
色も含めて、
事実を伝える、事実を記録する、
という写真の役目は今、
大きく変わってきている。

SNSに投稿される写真は、
見る者の情動を
引き出すため(affective)のもの

ではないだろうか。

大盛りの料理や
見た目が派手な食べ物などは、
いわゆる「映える」ための写真として、
色・見た目が作り出されている。

自作料理の写真はどちらかというと
「エモさ」を追求したものが
多いといえるかもしれない。

手作りのケーキや
食卓に並べられた数々の料理は、
派手さや斬新さというよりも、
「おいしそう」とか
「こんな料理を作れるなんてすごい」、
「自分も作ってみたい」といった、
賞賛や羨望・憧れ、共感といった感情を
見る者に与える


少なくとも、
そうした感情を与えることを
意図して投稿されることが多い。

つまり

情動を引き出すことが
主目的になったことで、
SNSでは写真に写った食べ物の色を
「自然な」色に寄せる必要がなくなった

本の主題であった
食べ物の「自然な」色、の話からは
ずいぶん離れてしまったが、
食の写真が溢れているSNSを考えるとき
「SNS上の写真」論は
人々の別な欲望も見えてきておもしろい。

 

 

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2022年4月24日 (日)

和菓子の色が表現するもの

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和菓子の色が表現するもの

- 物だけでなく四季や自然も -

 

前回
食べ物の色について深く語っている

久野 愛 (著)
視覚化する味覚-食を彩る資本主義
岩波新書

(以下水色部、本からの引用)

を紹介したが、
本文中のコラム「和菓子の美学」に
印象的な言葉があったので
ここで紹介したい。

 

和菓子の意匠・菓銘では、
季節感を抽象化したものとともに、
自然を摸したものが多い。
動植物の姿形を真似たり、
自然現象(春霞など)や
風景を表現したもので、
カラフルな色づけがなされたものも
多くみられる。

例えば、
透明感のある水色は涼しさを伝え、
朱色の紅葉に似せた菓子からは
秋を感じる
ことができる。

つまりここでの色は、
同じ「自然の色」と言っても
完熟のオレンジの色、といったものとは
違う「自然の色」だ。

和菓子が表す自然の中には、
実際には食べられない自然
(例えば川の流れや金魚など)も
含まれており、
必ずしも「おいしそうな」色として
作られているわけではない


この意味で和菓子は、
自然のミニチュア化
だといえる。

菓子そのものを花や動物、
自然現象などの自然に見立て、
見る人・食べる人に四季や自然を
感じてもらう
ためのものである。

菓子で、
草花や動物といった物だけでなく、
季節や自然現象をも
表現しているところが
まさに和菓子の奥深い魅力だ。

和菓子に込められた自然の美学は、
その色・形に留まらず、
菓銘や、見る・食べる人の
教養や感性をも含めたものだといえる。

例えば茶席では、
菓子の意匠・菓銘の意味や趣向について
会話を交わすことも
重要な茶の湯の楽しみの一つである。

教養、感性といった
素養に支えられて
色と自然を感じ、愛でる美学は
さらに深まっていく。

以前、
和菓子のおいしさを表わす言葉
の中で、
和菓子の魅力を「水」「季節」「名前」
などの観点から語っていたコラムを
紹介したが、
あの小さな和菓子には
「見た目の美しい美味しい菓子」
を越える大きな魅力が詰まっている。

 

 

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2022年4月17日 (日)

「自然な」色って何?

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「自然な」色って何?

- 「自然」と「人工」の線引きは難しい -

 

五感を通して人々の生活や
社会の変化を理解しようという
「感覚史」という研究分野があることを

久野 愛 (著)
視覚化する味覚-食を彩る資本主義
岩波新書
(以下水色部、本からの引用)

を読んで初めて知った。

この本では題名通り、
食べ物を味覚ではなく視覚、
特に「色」から考えている。

「まえがき」には

農業生産者や食品加工業者らは、
その食べ物の「自然な」色を再現し、
時には「自然よりも自然らしく」
見せるための技術やマーケティングに
多大な資金と労力をかけてきた。

という記述があるが、
考えてみると「自然な」というのが
何を指しているのか、と問われると
的確に答えることは難しい。

多くの人が共有する
「自然な」色という認識が、
翻って食品生産者らによる
色作りを規定してきた側面もある。

ここで「自然な」色という時、
それは、
人々がイメージする食品の
「あるべき」色という意味で、
本書では「当たり前の」色と
ほぼ同義に用いている。

よって、
自然に(人工的な操作なく)出現した色
という意味ではない。

ここで注意してほしいのは、
この自然な色やあるべき色という概念は、
ある時代や場所において、
人々が自然・あるべきだと
考えるようになった色
である。

私たちは一般に
トマトの赤やバナナの黄色を
「あるべき」色として認識しているが、
それはそう「考えるように」なった
今の時代の色でもあるわけだ。

本書では

 *フロリダのオレンジと
  カリフォルニアのオレンジ

 *バターとマーガリン

などを具体例として取り上げ
詳細に論じているが、
それらの色を巡る争いを通して

「天然着色料」と「人工(合成)着色料」、
「自然」と「人工」
の対比をまさに「色」から
深く考えさせられる。

たとえば、
「合成着色料」を使って、と聞くと
反応してしまう人も、

例えば牛の餌にニンジンなど
黄色(またはオレンジ色)の
色素を含む植物を混ぜて
食べさせることで、
牛乳およびバターに
黄色っぽい色味をつけることを
推奨した。

着色料は「人工的」な色の操作だが、
餌の材料を調整することは
あくまで「自然な」生産方法
だと
考えたのである。

などには、どうコメントするのだろう?

バターの色素が餌の一部に
由来するものであったとしても、
故意(人工的)にバターの色を
作り出していることに変わりはなく、
「自然」と「人工」の線引きは難しい。

トマトの色素を用いて表現された、
より「自然な」イチゴ色は、
どの程度「自然」であり、
また「人工的」なのだろうか。

 

加えて近年では、着色料の世界において
化学合成によって「天然」着色料を
生成する
方法まで開発されているという。
生成されたものは
合成着色料なのか天然着色料なのか。

 

 *「自然」と「人工」
 *「おいしそうに見える」ことと
  「実際においしい」こと

そういうものの関係を
「色」から考えてみる、
そんな視点を提供してくれる本だ。

 

 

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2022年4月10日 (日)

AI・ビッグデータの罠 (3)

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AI・ビッグデータの罠 (3)

- 「規模拡大が格差拡大を助長」 -

 

キャシー・オニール (著)
 久保尚子 (翻訳)
あなたを支配し、社会を破壊する、
AI・ビッグデータの罠
インターシフト

(以下水色部、本からの引用)

を読んで、
現在社会で使われている
AI・ビッグデータを利用した
システムが持つ問題点を学ぶ3回目。

 * 「エラーフィードバックがない」
 * 「類は友を呼ぶ、のか」

に続くキーワードは、

keyword_3「規模拡大が格差拡大を助長」

 

これまでの記事でも書いた通り、本には
数学破壊兵器による破壊の状況が
いくつも並べられている。

効率性と公平性を謳いながら、
その陰で、高等教育を歪め、
人々を借金に駆り立て、
大量投獄に拍車をかけ、
人生の節目ごとに貧しい人々を苦しめ、
民主主義の土台を蝕んでいる

この現状を変えるには、
数学破壊兵器の一つひとつに対処し、
順に武装解除していくしかないように
思われる。

仮に各システムに問題があったとしても、
なぜ「民主主義の土台を蝕んでいる」
とまで表現されるほど、絶望的な状況に
なってしまうのであろう。


一般に、
特権階級の人ほど対面で評価され、
庶民は機械的に評価される

という面があることも関係している。

この「機械的に」に
数学破壊兵器が利用されることが
多くなっているからだ。

そのうえ、デジタルであったり
ネットワーク環境であったりという
システムの基盤自体が
より問題を大きくしている。

問題は、これらの数学破壊兵器が
互いに絡み合い、
補強し合っていること
だ。

貧しい人々ほど、
クレジットの状況は悪く、
犯罪の多い区域で
自分と同じように貧しい人々に
囲まれて暮していることが多い。

その事実を示すデータが
数学破壊兵器の暗黒世界に
一度でも流れれば

低所得層向けサブプライムローンや
営利大学の略奪型広告に
追い回されるようになる。

システム間の補強が、つまり
システム間でのデータの流用や共用が
どうしてそんなに簡単に
許されてしまっているのか、の疑問は
本文を読んでも解決されないのだが、
元データがデジタル化されている以上
どんな理由であれ
管理面での制限がはずれてしまえば
システム間での流用や共用は
技術的には簡単だ。

警官による警備が強化され、
すきあらば逮捕されるようになる。

有罪判決を受けることになれば、
刑期は通常より長くなる。

これらの情報は、さらに
別の数学破壊兵器へと引き渡される。

1つ目の数学破壊兵器で
不利な状況に追いやられた人々は、
別の数学破壊兵器でも
高リスクと評価され、
標的にされやすくなり、
就職の機会を奪われるようになる


こうなると、
住宅ローンや自動車ローンなど、
あらゆる種類の保険で
金利が跳ね上がる。

すると、
クレジットの格付けは一層低下し、
モデリングによる
死のスパイラルから抜け出せなくなる。

つまり、数学破壊兵器の世界では、
人々は貧困であるがゆえに、
ますます危険で
お金のかかる生活に
追いやられていくようになる。

システムの「規模拡大」が
格差をさらに拡大する
「死のスパイラル」を生み出してしまう。

 

ビッグデータは過去を成文化する。
ビッグデータから未来は生まれない。
未来を創るには、
モラルのある想像力が必要であり、
そのような力をもつのは
人間だけだ


私たちはアルゴリズムに、
より良い価値観を明確に組み込み、
私たちの倫理的な導きに従う
ビッグデータモデルを
作り上げなければならない。

それは、場合によっては
利益よりも公平性を優先させる
ということでもある。

* データを使って
  何をしようとしているのか?
* 使おうとしているデータは
  対象を正しく表現したものなのか?
* システムのアウトプットは
  間違っていなかったのか?
* 安易に他のシステムのデータを
  使おうとはしていないか?

極めて初歩的な内容への
フィードバックでさえ
暴走を始めたシステムでは、
「効率・利益」という名のもとに
どれも機能しなくなっているようだ。

それを修正できるのは技術ではない。

 

おまけ:
本書は米国社会をベースに書かれているが、
本文に何度も登場する「営利大学」の話、
妙に気になってしまった。
「教育の機会」という大義名分を隠れ蓑に
(AI・ビッグデータを使った
 「システムの問題」とは別に)
「学資ローン」と「大学」の間には
大きな大きな問題があるようだ。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2022年4月 3日 (日)

AI・ビッグデータの罠 (2)

(全体の目次はこちら


AI・ビッグデータの罠 (2)

- 「類は友を呼ぶ、のか」 -

 

キャシー・オニール (著)
 久保尚子 (翻訳)
あなたを支配し、社会を破壊する、
AI・ビッグデータの罠
インターシフト

(以下水色部、本からの引用)

を読みながら、
今、社会で使われている
AI・ビッグデータを利用した
システムが持つ問題点を学ぶ2回目。

前回書いた、
 * 「エラーフィードバックがない」
に続くキーワードは、

keyword_2「類は友を呼ぶ、のか」

 

システムが導入される前から、
たとえば銀行家は、
借金を申し込みにきた人物を評価する際に、
住宅ローンを背負う能力とほとんど、
あるいはまったく関係のない
さまざまなデータポイントを検討していた。

人種による有利・不利の他、
父親に犯罪歴があれば不利になり、
毎週日曜日に教会に行く習慣があれば
有利になった。

このようなデータポイントは、
すべて代理データである。

財務責任能力を調べようと思ったら、
数字を冷静に検討すればいい
(まともな銀行家は
 必ずそうしていた)。

それなのにそうせず、
人種、信仰、家族関係と
財務責任能力とのあいだにある
相関を見ていた


そうすることで、銀行家は相手を
「個人」として精査するのを避け、
「集団」の一員として見ていた 
- 統計学用語では
  これを「バケット」と呼ぶ。

「あなたとよく似た人々」が
どんな人たちなのかを考えたうえで、
その人々が信用できるかどうかを
判断した。

このバケットの考え方は
システム作成時にも導入された。

つまり、eスコアのモデル作成者は、
「あなたは、過去に
 どのような行動を取りましたか?」 

と質問すべき時に、質問をすり替えて、

「あなたと似た人々は、過去に
 どのような行動を取りましたか?」

という質問の答えを探し出して
ごまかそうとしていたのだ。

この質問の差はどんな問題を
生むことになるだろう?

この2つの質問の違いは大きい。

たとえば、
移住してきたばかりで
質素な生活をしているが
非常に意欲的で責任感の強い人物が、
起業準備をしていて、
初期投資のために資金を借りようと
していたとする。

さて、
この人物に賭けてみようという人は
現れるだろうか? 

おそらく、移民という属性と
質素な生活行動をデータとして
取り込んだモデルでは、
この人物の有望さに気づけないだろう。

もちろん、代理データだから悪い
というわけではない。

念のために言っておくが、
統計学の世界では、
代理データは役に立つ存在
だ。

類は友を呼ぶもので、確かに、
似た者同士は
同じような行動を取ることが多い。

(中略)

このような統計モデルは、
見かけ上は有用であることが多く、
うまく活用すれば、効率も収益も上向く。

だからこそ投資家は、
大勢の人をそれらしい「バケット」に
分類する科学的なシステム

倍賭けする。ビッグデータの勝利だ。

問題は、起こりうる間違いに対して
前回も書いた通り
「適切なるフィードバックが
 かからない」
という点にある。

しかし、誤解され、誤ったバケットに
分類された人物はどうなるのか? 

そういうことは必ず起きる。

しかし、その間違いを正す
フィードバックは存在しない。

統計データを
高速処理するエンジンには、
学習する術がない

選ばれた代理データは正しいのか?
「類は友を呼ぶ」と言えるものなのか?
他に適切なデータはないのか?
そして
バケットへの分類は
適正に行われているのか?

そういったフィードバックや
学習ステップがなくても
システムは数字を吐き出しながら
正常(!!)に動き続け、
正しさの確認すらできないような結果を
出し続けている


恐ろしい話ながらも
思い当たる事例はいくつもある。
大きな問題の背景が
かなりはっきりしてきた。

(次回に続く)

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2022年3月27日 (日)

AI・ビッグデータの罠 (1)

(全体の目次はこちら


AI・ビッグデータの罠 (1)

- 「エラーフィードバックがない」 -

 

最近頓(とみ)に目にすることが多い
「AI」と「ビッグデータ」
技術面からではなく、
運用面からその問題を考えてみたい。

参考図書はこれ。

キャシー・オニール (著)
 久保尚子 (翻訳)
あなたを支配し、社会を破壊する、
AI・ビッグデータの罠
インターシフト

(以下水色部、本からの引用)

本書には、
教育、広告、雇用、政治など
さまざまな分野で利用された、
または今も利用されているシステムが
いくつも登場する。

そういったシステムが
どんな問題を持っているのか、
どんな問題を引き起こしているのか、
具体的な例とともに
詳しく述べられている。

オニールさんは、問題のあるシステムを
大量破壊兵器のMassに数学のMathをかけて
数学破壊兵器
(Weapons of Math Destruction:WMD)

と名付けて連呼しているが、
当然のことながら、それらのシステムも
最初から兵器になるべく
開発されたわけではない。

最初はどれも有益なシステムを目指して
作られたものだし、
有益な部分が評価されているからこそ、
実際に利用されているわけだ。

なのに、いまやそれらが
単なる一システムの問題を越えて、
様々な社会問題の
基盤になってしまっている。

どうしてそうなってしまうのか、
そこがこの本の肝となっている。

詳細はもちろん330ページ強の
本書を参照いただきたいが、
いくつかキーワードを
ピックアップしながら、
この大きな問題の側面を学んでみたい。

私の視点で選んだキーワードは3つ。

keyword_1「エラーフィードバックがない」
keyword_2「類は友を呼ぶ、のか」
keyword_3「規模拡大が格差拡大を助長」

 

今日は、
keyword_1「エラーフィードバックがない」
について。

「解雇対象者」を選別するシステムを例に。

システムは、
貢献度が低そうに見える者
「解雇対象者」として同定する。

こうして、相当な数の従業員が
不景気の最中に職を失った。

本文でも「見える」に傍点がついて、
強調されている。
「低い者」ではなく「低そうに見える者」
というのがキーだ。

業務への貢献度は
簡単な指標で定義することはできず
どう定義したところで
「低そうに見える者」としての
システム上の定義にすぎない。

ところが、
それに基づいて実際に解雇してしまう。

解雇対象者として同定され、
解雇された人が、次の職を見つけ、
いくつもの特許を生んだとしても、
通常、そのようなデータは
収集されない。

解雇すべきでない従業員を1人、
あるいは1000人解雇してしまっても、
システムはその過ちに気づけないのだ。

つまり、
「低そうに見える者」として
システムが選びだした候補者が、
 * 対象者としてふさわしかったか?
 * 解雇してはいけない人を
   選んでいなかったか?
というフィードバックがかからないまま、
使い続けられてしまう。

これは問題である。なぜなら、
エラーフィードバックがなければ、
サイエンティストはフォンレジック
(科学捜査的)解析を行うことが
できないからだ。

今回で言えば、誤った判別が
存在するという情報がなければ、
どこに間違いがあり、
どこを読み間違え、
どんなデータを見落としたのかを
解明できない。

判断に使うデータ自体も
また
判断の結果の正誤判断も
どちらもかなりあやふやなまま
運用されているシステムは多い。

システムというのは、
そういう学習を重ねながら
賢くなっていく
ものだ。

しかし、これまで見てきたとおり、
再犯予測モデルから
教師評価モデルに至るまで、
数多くの数学破壊兵器が、
実に軽率に、独りよがりな現実を
生み出している


マネジャーは、モデルによって
算出されたスコアを真に受ける。

アルゴリズムのおかげで、
難しいはずの判断が
手軽に行えるようになる。

そうやって従業員を解雇し、
経費を削減し、
その決定の責任を客観的数字の
せいにすることができる


- その数字が
  正確かどうかにかかわらず

どうして
「独りよがりな現実を生み出す」システムを
ここまで広めてきてしまったのだろう。

決定の責任を客観的数字の
せいにしながら、
運用しているのは人間だが、
そこに正しいフィードバックを
かけられなければ、
システム自体を
正しく成長させることはできない。

 

 

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