書籍・雑誌

2025年1月 5日 (日)

どんな読み方も黙って受け入れる

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どんな読み方も黙って受け入れる

- 読み手を否定しない -

 

いまや貴重な存在になってしまった
「大きな書店」のカウンタ横にあった
小冊子
100demeichotekefrees
の中から、最後にもうひとつ、

小川洋子(小説家)
人生の豊かさを示す秤


にある言葉を紹介したい。
(以下、水色部は小冊子からの引用)

本の再読に関して、
小川さんはこう書いている。

本そのものは一字も変わっていない
同じ姿でそこにあり続ける。
にもかかわらず、
読み手の心持ちの違いによって、
いかようにも変化してゆく。

見えなかった風景が浮かび上がり、
記憶から消えていた登場人物に
親愛の情がわき、
小さなシーンが持つ特別な意味に
気づかされる。

本当に同じ本だろうか、
と信じられない思いにとらわれる。
神秘的な体験ですらある。

ほんとうに神秘的で不思議な体験だ。
中身はよくわかっているつもりだし、
相手(本)は何一つ変わっていないのに
好きな本を読み返すと
いつも新しい発見があり、
新鮮な気持ちになる。  

読み方の変化は、自分自身の
人間性の変化につながっている。

自分の人生がどういう場所に
向かおうとしているのか、
本が教えてくれる。

そして本は決して、
読み手を否定しない。

どんな読み方をされても、
黙って受けとめる


移り変わってゆく読み手に、
辛抱強く寄り添ってくれる。

「一文字も変わっていない」
「決して否定しない」
「黙って受け止める」
うまい表現だし、本が人なら
これこそがまさに圧倒的な性格と
言えると思うが、
いい本に出会うと、なぜかその本と
対話できるような気がするのはなぜだろう。

こちらの問いかけに、実際には
本は何も返してくれてはいないのに。

 

 

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2024年12月29日 (日)

付箋を貼りながらの読書

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付箋を貼りながらの読書

- どうして貼ったの? -

 

いまや貴重な存在になってしまった
「大きな書店」のカウンタ横にあった
小冊子
100demeichotekefrees
を読んでいたら、

武田砂鉄(ライター)
名著化するかもしれない


で、思わず手が止まった。
(以下、水色部は小冊子からの引用)

どんな本でも付箋を用意して
あちこちに貼りながら読んでいる。

とあったからだ。

私もまさに同じ方法で読んでいる。
線を引いたり、ページを折ったり、
後で気になった箇所を読み返す方法は
ほんとうにいろいろ試してみたが、
最終的に今はこの方法に落ち着いている。

百均で買った付箋をさらに細く切って
ちょっとでも引っかかった行があれば
あまり考えずにサクサクと貼っていく。

なので、並べるとこんな感じだ。

S__2875406s 

「こんなに貼ったら探せないでしょ」
と友人は半ば呆れ顔で笑っているが
本人はぜんぜん気にしていない。
栞の紙に、小付箋をまとめて貼ってあるので
読みながらそこから剥がして貼ると、
読むペースを大きく乱さないですむ。

本棚を眺め、
久しぶりに引っこ抜いた本にも
付箋がついている。

フレーズが刺さったのかもしれないし、
論理展開に領いたのかもしれない。

付箋をつけた箇所を開いてみると、
その半数近くで、
つけた意味が読み取れない


このフレーズ、そんなに響かないし、
論理展開だって平凡だ。
でも、その時は、
間違いなくその箇所に心が動いた
のだ。

まったくそう。
読んだ直後はともかく、時間が経つと
「どうして貼ったのか」が
思い出せない行がほんとうに多い。

でも、まさに
「その時は、間違いなくその箇所に
 心が動いたのだ」

人間の考えは変わる。
ならば、
名著が名著じゃなくなるかも
しれないし、
逆に名著になって
戻ってくるかもしれない。

時代がその本を
名著にするかもしれないし、
むしろ、この時代にこれはどうかな、と
遠ざけるかもしれない。

本、音楽、映画、全てに共通するが、
名作には流動性がある
だって、こっちが変わるから。

変わったこっちが読めば、
味わい方だって変わるはずなのだ。

確かに自分にとっての本の価値は
「その時の自分」との組合せにおいて
決まっていくし、
それは流動的ではあるけれど、
自分が貼ったのに
自分で理解できない付箋を見ていると、
「読んだ時の自分」が
そこに貼り付いているようで、
理解できないながらも
「不思議な過去との再会」を
果たしたような気分になる。

 

2024年もいよいよ年の瀬。
気ままに続けているブログですが、
来年もマイペースでぼちぼち書いていこうと
思っています。
引き続きどうぞよろしくお願いします。

よいお年をお迎え下さい。

 

 

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2024年12月22日 (日)

後日に書き換えられたかも?

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後日に書き換えられたかも?

- 記憶が鮮明なればこそ -

 

いまや貴重な存在になってしまった
「大きな書店」のカウンタ横にあった
小冊子
100demeichotekefrees
から、印象的な言葉を
前回に引き続き紹介したい。
(以下、水色部は小冊子からの引用)

今日は、

安田登(能楽師)
古典の不思議に出会った瞬間


から。

安田さんは、中学時代の思い出を書いている。
読書家で物知りな彼女がいた安田さん。
彼女の話を理解するために本を読み始めた。

彼女との書店デートで見つけたのが
本書、『詩経』だった。

何気なく手にした本書の中に
一日見ざれは三月の如し
という句を見つけて驚いた。

思春期の男子である。

毎日でも彼女に会いたい。触れていたい。
一緒にいたい。
そんな自分と同じことを
数千年前の人間が思い、
しかもそれを書き、
さらにそれをいま読むことができる。

中国の古典、五経のひとつ『詩経』に載る
恋人とたった一日会わないだけで、
三か月も会っていないような気持ちになる、
という意味の詩句のその内容と
千年単位という時間スケール
圧倒される安田少年。


その日の書店の景色は
いまでも覚えている。
天気も覚えている。
匂いも覚えている。
隣にいた彼女のことも覚えている。

むろん、それは後日に
書き換えられた部分もあるだろうが

それでもその場の情景が、
そっくりそのまま、
自分の脳裏に
焼き付いたほどの衝撃だった。

「それは後日に書き換えられた部分も
 あるだろうが」
が読んでいて妙に印象に残った。
そう、そこまで鮮明な記憶であっても、
というか鮮明な記憶であるからこそ
後日書き換えられることは
確かにあるような気がする。

記憶って過去のことではあるが、
思い出すのはいつでも今なのだから、
今の気持ちがどうしても影響してしまう。

なので鮮明なればこそ
その強い印象によって書き換えられる機会が
多いのかもしれない。
個人の記憶ってその程度のものだ。
そこに正しい、間違っているを持ち出しても
あまり意味はないだろう。

書き換えられたかも?
そう思う心の余裕があれば十分だ


あの読書家の安田さんに

さまざまな名著に出会えたのは
ひとえに彼女のおかげである。

とまで言われた彼女さん。
今、どこでどうして
いらっしゃることだろう。

 

 

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2024年12月15日 (日)

内発性を引き出してこそ

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内発性を引き出してこそ

- 感動的なものができるとき -

 

いわゆる街の本屋さんはまさに減る一方だが
けっこう大きな書店でも
縮小したり閉店したりするところが多く
いまや「大きな書店」は
貴重な存在になってしまった。

そんな書店のひとつに立ち寄ったところ
カウンタのそばに
Take Free (ご自由にどうぞ) と
こんな小冊子が置いてあった。
さすがにこれはAmazonでは入手できない。
100demeichotekefrees
NHK Eテレの番組「100分de名著」に
指南役で登場した各専門家による
名著にまつわるエッセイをまとめたもの。

その中から、いくつか印象的な言葉を
紹介したい。
(以下、水色部は小冊子からの引用)

最初は、

秋満吉彦
 (NHK100分de名著プロデューサー)
いつも原点を思い出させてくれる名著


から。

考えもしなかった
感動的なものができるのは、
メンバーそれぞれの内発的なものが
引き出されたとき
ではないか……
ということに深く気づかされた本が、
レヴィ=ストロース
『構造・神話・労働』
だ。

「人間にとって労働とは何なのか」を
研究していたレヴィ=ストロースは、
世界中をフィールドワーク。
日本も訪問し、
日本の職人の働き方を
徹底的に観察した、という。

その時、彼が気づいたのは、
西洋人の「鋤く」と日本人の「働く」は
違うということ。
さて、どう違うというのだろう。

西洋人の労鋤というのは、
自分の頭にあるブランを
対象とか自然にあてはめる


たとえばコンクリートで
何かをつくるとしたら、
材料をペースト状にして、
自分が想像した設計図に
完璧にあてはめてつくる。

一方、日本人はどう映ったのか。

たとえば石垣。
自然の石をどう組み合わせたら
石垣になるかを考える。

陶器をつくる人は
「この土がなりたがっている形を
 引き出す」と言ったりもする。

日本の職人は何かを
支配しようとするのではなくで、
素材そのものが持っている素晴らしさ、
潜在力を引き出そうとする

そういえば、以前
編集者松岡正剛さんも花伝書を引いて
「才能とか能力とは、アタマやカラダや
 知能にそなわっているものではなく、
 素材や道具にそなわっているものを
 引き出せる仕業
のこと」
と言っていた。

あらゆるものを開発して
消費しつくしてしまう
先がないような
文明の作り方ではなくて、
日本人の、受動的に何かを
引き出そうさする働き方こそが、
労勘に豊かさを取り戻す方法だ
というのだ。

この本に出合って、秋満さん、
プロデューサーとしての
仕事のやり方が激変したという。

支配せずに受け身になり、
一緒に働いている人の豊かな能力、
内発性を引き出すやり方

「土がなりたがっている形を引き出す」は、
土や石といった素材だけでなく、
それは働いている「人」に対してだって
あてはまる考え方だ。

 

 

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2024年12月 1日 (日)

生物を相手にする研究

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生物を相手にする研究

- 顔色が読めるまでとことん付き合う -

 

私は、学生時代は理工学部、
就職してからは
エンジニアとして仕事をしてきたので、
主に電気回路と
ソフトウェア関連分野については
実験の経験がそこそこあるのだが、
「生物を対象とした実験」の経験はない。

森山 徹 (著)
ダンゴムシに心はあるのか

新しい心の科学
PHPサイエンス・ワールド新書
PHP研究所
Dangomushinis

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

を読むと、生物を相手にする研究の
難しさがよくわかる。

ヒキガエルの捕食行動に関する実験を例に
実験者の眼を学んでみよう。
実験対象は「空腹なヒキガエル」だ。

ヒキガエルを閉じ込めて
所定の期間空腹にし、
「はい、がんばって」と
本実験に供してもだめなのです

どうしてそれではダメなのか。

実験者が気をつけなければならない点は
多々挙げられているが、
わかりやすい例で言えば、
たとえばこんなこと。

捕食行動を
動機づけたい実験者が気にするのは、
個体の「顔色」です。

「落ち着いているかどうか」、
すなわち、
個体が食欲だけを生み出せるかどうか、
です。

落ち着きをなくした個体も
空腹なのですから、
食欲を生じているでしょう。

しかし、落ち着きのない個体は、
実験装置に置いた瞬間、
逃げようと暴れるかもしれません。

落ち着いている個体ですら、
何をするかわかりません。
もしかしたら、ある個体は
実験室の扉の丸いドアノブを
捕食者であるヘビの目玉と捉え、
逃げ出すかもしれません。

そして、すべての個体が
落ち着きを保てなければ

私たち実験者は
彼らに食欲が生じていたかどうかを
判断することなどできません。

つまり、準備実験(段階)では
空腹にすればいいだけではなく、
実験ができるような
「落ち着いた」空腹のカエルを準備する、
ことが必要になるわけだ。

準備実験を終えるということは、
その間にヒキガエルが
「実験室という特殊な空間で、
 食欲以外の欲求を抑制できる
ようにするということなのです。

そもそもそんなことができるのだろうか?
なにを頼りにすればいいのだろう。

エサを断ちつつ、落ち着ける状況を
つくることが必要なのです。

そのような状況は、
論理的に導けるものではありません。

「とことん付き合い」、
「顔色を見ているうちに」
わかってくるもの
です。

結局、拠り所はここしかないようだ。
「とことん付き合い顔色を見る」
ヒキガエルに対しても・・・

外から見ると、実験者の仕事とは、
実験室の気温や湿度、
提示刺激の均一化などの、
実験環境の厳密な設定と
計測機器による行動などの
正確な記録のように見えます。

もちろん、
それは実験者の大事な仕事です。

しかし、それらは手続きにすぎません

実験者が自分を研究者たらしめる仕事、
それは、
実験を始めるまでの準備期間に、
動物の心を育んでおくこと
です。

準備期間に「実験対象の心を育む」。

実験者は、その環境を、
ヒキガエルと付き合っていくという
「コミュニケーション」を通して
つかんでいくしかない
のです。

実験に必要な環境を
「実験対象とのコミュニケーション」を
通じて掴んでいく。

対象の「顔色」を見る。
私が長く居た電気工学の分野にはない
実験準備期間中の仕事だ。

そのあたり、研究の苦労話としてはあっても
論文に出てくることはない。
素人ながら、そこには
研究の成果以上に大事なことが
含まれているような気がする。

「観察・観測しやすい個体を選ぶ」
そのとき含まれるものと落ちるもの。

それ自体を研究対象にすることは
できないものだろうか?

 

 

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2024年11月24日 (日)

「隠れた活動部位」こそ「心の実体」?

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「隠れた活動部位」こそ「心の実体」?

- 観測のための方法論は -

 

「心」という捉えどころのないものを
どうやって捉えようとしているのか、
そもそも捉えられるのか、

森山 徹 (著)
ダンゴムシに心はあるのか

新しい心の科学
PHPサイエンス・ワールド新書
PHP研究所
Dangomushinis

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

を読みながら、
その入口となる考え方を覗いてみよう。

科学の現場では、
心はおよそ次のように説明されます。

「私たちは通常、記憶や思考、
 判断といった認知的活動、および、
 喜怒哀楽といった感情を
 心の働きと呼んでいる。

 人間の脳には、認知的活動や
 感情を司る部位がある。
 したがって、
 脳における認知的活動、
 および、
 感情を司る特定の部位こそが
 心である
」と。

とは言うものの、
脳の特定部位の機能を失っても
通常、心を失った人とは扱わない。
「心の概念」をもう少し掘り下げみよう。

「日常的な心の概念」とは
「私の内にあるもう一人の私」 

というのはわかりやすい表現のひとつだ。
著者森山さんはこれを「内なるわたくし」と
呼んでいる。

あなたが私を目の前にしたとき、
あなたは私に心があると思うでしょう。
その理由は、
あなたは私の内に隠れている
「内なるわたくし」の気配を
感じるから
なのです。

この「内なるわたくし」を
感じさせているものは

 五感を通して推測することができない
 「隠れた活動部位」


それこそが「日常的な心の概念」の正体だ
と森山さんは述べている。

詳細に書くと長くなるので
「隠れた活動部位」の
具体的な例は本を参照いただきたいが、
あらゆる対象は、

特定の行動を発現しようとするとき、
何らかの刺激によって
さまざまな活動も
不可避的に誘発されるが、
それらに続く行動の発現を
抑制することが要求され、
それを実現している

と言っており、
この抑制、すなわち
「隠れた活動部位」こそが
「心の実体」だと。

そう考えた時、
日常生活における心の使われ方
たとえば、

*感情としての心:
  楽しかった、悲しかった
*器官としての心:
  心を鍛える、心を育む
*「裏」としての心:
  心(うら)寂しい、心悲しい

などと、かけ離れてもいないことも
本文では記述されている。

で、いよいよその働きを
現実の現象として捉えるための方法論
話は進むが、結論だけ書くと

「未知の状況」における
「予想外の行動の発現」こそが、
隠れた活動部位としての
「心の働きの現前」なのです。

と判断したようだ。
この判断に基づいて
ダンゴムシへの実験が繰り返される。

最終章にある、
まとまった記述を引用しよう。

まず、私は、
目の前の観察対象「それ」の心を、
「内なるそれ」という概念として
定義しました。

そして、その概念に合う実体として、
観察対象が、
「ある行動を発現させるとき、
 余計な行動の発現を
 自律的に抑制=潜在させる、
 隠れた活動部位」
を有することに気づきました。

その「隠れた活動部位」の存在は、
その働きを通してしか確認できません。

その働きとは、
未知の状況において、
 その観察対象が
 立ち止まってしまわないように、
 予想外の行動を発現させること」
です。

そして、心の科学とは、
この心の働きを実験的に確認する
実践的学問です。

「隠れた活動部位」
「未知の状況」
「予想外の行動」
が「心」と「心の働き」を観測するための
キーワードになっている。

以上、
心の科学のアプローチ方法のひとつとして
ここにメモを残しておきたい、と
要点のみをまとめてみた。

難しい問題に独自の方法で
取り組んでいることはよくわかったし、

ただ、未知の状況を設定するには、
その対象にとって未知でない、
日常的な状況を
先に知らなくてはなりません。

そのためには、対象と、
とことん付き合うしかありません。
その当たり前のような
流儀に従うことが、まず必要です。

とある通り、
対象への観察も丁寧に考えているようだが、
どうしても引っかかってしまうのは、
「未知」が
人間の判断に依っていることだ。

とことん付き合ったとしても
「ダンゴムシにとって未知の状況」
が人間に判断できるものだろうか?

 

 

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2024年11月17日 (日)

「こんにちは」と声をかけずに相手がわかるか

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「こんにちは」と声をかけずに相手がわかるか

- 「ダンゴムシに心はあるのか」から -

 

森山 徹 (著)
ダンゴムシに心はあるのか

新しい心の科学
PHPサイエンス・ワールド新書
PHP研究所
Dangomushinis

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

は、題名の通り、
ダンゴムシに心があるか?
の研究に挑んだ記録だが、

研究成果そのものよりも、
「心」という捉えどころのないものを
どうやってダンゴムシから
観測しようというのか、
そのアプローチ自体に興味があって
手にしてみた。

まずは、「はじめに」にある
たとえ話について考えてみよう。

皆さんの住む街に、ある日、
見知らぬ人物が現れたとします。

皆が、彼の正体を知りたいと思います。

さて、どうすれば彼のことがわかるか?

まず思いつくのは観察だ。

ある人はあらゆる角度から写真を撮り、
またある人は生活を分析します。

写真機の性能と撮影技術、
生活の分析手法は
日増しに向上するでしょう。

こうして膨大な、そして正確な
彼の記録が集まります


しかし、肝心の彼の「正体」は、
なかなか明らかになりません。

記録の方法は適切で、
その技術は進化し続けました。

しかし、技術の進化とは裏腹に、
皆さんは、その先に彼の正体を
つかめる未来がなさそう
なことを、
薄々感じ始めるでしょう。

「正体」とは何か?といった
硬い定義はともかく、
「彼ってどんな人?」の
軽い質問に答えようとしても
観察記録だけでは、
質問者の期待に応える回答が
できるような気は確かにしない。

そして、こう考えるでしょう。

彼の正体を知るには、今や、
だれかが彼の肩を直接叩き、
「こんにちは」と
声をかけることが必要
だと。

彼に気づかれないよう、
彼を記録することは、
観察者の影響を受けない
手つかずの彼
を知る最善の手段です。

しかし一方で、
最も知りたい彼の正体や本質を
知ることはできません。

観測対象に影響を与えずに
観測対象を知ることはできるのか?


量子力学の観測問題とは別次元なるも、
観測や計測を最大の拠り所として
成り立っている自然科学の
最も根本的な課題のひとつだ。

声を直接かけられることで、
彼の挙動や生活は、
観察者の影響を受け変化するでしょう。

しかし、その変化とは裏腹に、
正体は揺らぐことなく、
現前するのです。

揺らがないからこそ、現前するそれは、
正体、あるいは本質と言われるのです。

自信満々で言い切ってしまっている
この最後の段の内容はともかくも、
相手を知るために「こんにちは」と
声をかけることの価値や効用は
誰にでもイメージしやすい
わかりやすい事例と言えるだろう。

もちろん声をかけるだけで
すべてがわかるわけではないが、
仮にたったひと言の往復であったとしても
客観的な観察だけのときに比べて、
ぐっと距離が近くなるような経験は
確かにある。

どんな「こんにちは」で
ダンゴムシの心を探ろうというのか。
うまい導入だ。
次回、もう少し先を読んでみたい。

 

 

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2024年11月10日 (日)

この話、この雑誌にぴったり

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この話、この雑誌にぴったり

- 岩波書店の雑誌「図書」から -

 

岩波書店の雑誌「図書」2024年9月号
Tosho2409s

作家の原田宗典さんが
「読書ということ」
というエッセイを寄せている。
(以下水色部、エッセイからの引用)


もう20年も前の話だが、
早稲田のカルチャー講座で、
三カ月だけ講師をつとめたことがある。

当時、私は小林秀雄の講演を
CDで聴くことにハマっていて、
講座でも小林秀雄の話ばかりしていた。

すると何回目かに、生徒の一人が
講師である原田さんのところへ来て、
こんな話をしたという。

「今日、ここへ来る時、地下鉄の中で
小林秀雄の文庫本を読んでいたんです。

そしたら、
僕の目の前に座っていた老紳士が

『君、小林先生の本を読むなら、
 座って読みたまえ』
と言って、
席を譲ってくれたんです」

原田さんは、

この話に私は驚き、感心した。
さすが小林秀雄。
そういう真撃な読者を持つ作家は、
他にはそういないだろう。

と書いている。

いい話だなぁ、と思うと同時に、
雑誌「図書」にはこういうエピソードが
ほんとうにしっくりくるなぁ、と
ヘンなところに感心してしまった。
もちろん「図書」に対する
私個人の偏見というか思い込みによる
単なる感想だが、雑誌を読むときは
その雑誌特有のカラーを期待して読んでいる
部分がある気がする。

前回、出版社をひとりで設立した
島田潤一郎さんの言葉を紹介したが、
雑誌も含めて、まさに本は、
「情報をただ束ねたものではない」
のだ。

最近、
特に雑誌の衰退はほんとうに激しくて、
隆盛の時代を知っている
昭和のオヤジとしては寂しい限りだが、
その衰退は、
ネットの普及だけが原因ではないだろう。

雑誌でしか読めない記事や
魅力ある雑誌の特集、
雑誌のカラーを支える執筆陣、
そういったネットにはない
雑誌ならでは魅力を、
ある時期から、雑誌自らが
放棄し始めてしまったかのような
紙面づくりが広がってしまったことが、
その原因の一端ではないだろうか。

実際、今も生き残っている雑誌には
そういったネットにはない魅力が
維持されているものが多い気がする。

「こういうのって、
 ここでしか読めないンだよね」
があると、買って読もうという気になる。

媒体が何であれ、プロの編集力に支えられた
「情報をただ束ねたものではない」
特徴ある雑誌が残ることを切に願っている。

 

ちなみに、上記小林秀雄のCDについては
本ブログでも
「歳をとった甲斐がないじゃないか」
と題して記事にしたことがある。

(小林さんの肉声を聞いてみたい方は、
 上のリンクの記事の中で
 そのごく一部を聞くことができます)

書籍だけを読むと、その内容から
「じっくり座って読む作家」
のイメージなのだが、
小林さん自身の声・話っぷりを聞くと
記事にも書いた通り、
私は志ん生の落語を思い出してしまうせいか
イメージが大きく変わっておもしろい。

 

 

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2024年11月 3日 (日)

紙の本が持つ力

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紙の本が持つ力

- 島田潤一郎さんの言葉 -

 

全国大学生活協同組合連合会
「読書のいずみ」
通巻180号(2024年9月発行)
Dokusyonoizumi2409s
という小冊子に

夏葉社代表 島田潤一郎さん

京都大学大学院 齊藤ゆずかさん
との対談、
 座・対談
「良い作品は、豊かな時間を与えてくれる」

という記事があった。
(以下、水色部記事からの抜粋)

島田潤一郎さんは、1976年高知県生まれ。

2009年、
出版社「夏葉社」をひとりで設立
「何度も、読み返される本を。」
という理念のもと、
文学を中心とした出版活動を行う。

と紹介がある。

本への思いを熱く語る島田さんの言葉から
印象に残ったものを紹介したい。

(1) 紙という限定性

例えば「日本の歴史」という
300ページにまとまっている本が
あったら、
それはそれとして受け取るわけです。
それは本に対する信頼ですよね。

「300ページで日本の歴史なんて
 書けないよ、これは嘘だよ」とは
思わないでしょう。

300ページ読んだら、300ページ分の
日本の歴史というものがあって、
それはそれなりに完結してるわけです。

完結するのは
紙という限定性があるからこそ
だと思います。

「紙という限定性があるからこそ」
「完結する」という視点がおもしろい。

(2) 情報をただ束ねたものではない

「国」は
目に見えないひとつの概念ですが、
一冊の本として紙に残すと、
あたかも「国」というものが
実際にあるように見えますよね。

我々が作っているのは
そういうものに近いと思うんですよ。

それは何か情報を
ただ束ねたものではなくて、
ものすごく力のある、
ものすごく大切なもの

作っているような気がします。

本は、
「情報をただ束ねたものではない」は
出版社として
ぜひ言いたかったことのひとつだろう。

(3) 紙の本として残す意味

だから、
力のある人たちは印刷しますよ。
印刷して、それが多くの人に
読んでもらえるかどうかではなく、
印刷することに意味がある。

紙の本として残すことに意味がある
のです。

我々も「歴史上の誰々という人が
本当に実在したかどうか」というのは、
写真のない時代であれば、
その名前が実際にどこかに
書かれているかどうか
で、
確認していますよね。

印刷技術登場以前の時代も含めて、
残された本には意味がある。

どんな英雄であれ、
「その人が実在した」を確認する手段は
文字であること、
それは多くの場合
それが書かれた本であること
そして、それこそが
「紙の本が持つ力のひとつ」であること、は
いまやあまりにも「当然」と
思ってしまっていて意識していないせいか、
改めて言われてみると
ハッとするような不思議な驚きがある。

 

 

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2024年9月22日 (日)

翅(はね)を食い合うGの研究者

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翅(はね)を食い合うGの研究者

- お互い一生飛べなくなる -

 

著書の中で

生きている虫を見ているのが、
この世の何より面白い。時間を忘れる。

と言い切っている大崎遥花さんは
1994年生まれの若い研究者だ。

朽木(くちき)の中に棲み、
朽木を食べて生きている

クチキゴキブリを研究対象としている。

そんな大崎さんの、初の著書

大崎 遥花 (著)
ゴキブリ・マイウェイ

この生物に秘められし謎を追う
山と渓谷社

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

を楽しく読んだ。

本書は、
世界で唯一のクチキゴキブリ研究者
の書いた、
世界で唯一のクチキゴキブリ研究本
である。

とあるが、その内容は、
研究本というよりも
駆け出し研究者の研究奮闘記
といった感じだ。

クチキゴキブリの生息地である
沖縄への調査旅行について

クチキゴキブリは朽木しか食べない
と思っていたが、金も食う

とか、

野外調査で一番怖い生き物
それはハチでもクマでもハブでもない。
人間である

とか、

私は研究が大好きだ。楽しいし、
研究している自分が好きだし、
自分の研究が世界で一番面白いと
本気で思っている。

しかし、だからといって
研究にまつわるすべての作業が
好きなわけではない

とか、
正直で軽妙な文体で、
研究分野との出会い、
クチキゴキブリの採集、飼育、資金、
実験環境の構築、研究、論文、学会、
などが次々に語られていく。

研究者や知見の少ない分野に
右往左往・試行錯誤を繰り返しながらも
貫かれているのは一途なゴキブリ愛だ。

そんな大崎さんが研究対象としている
クチキゴキブリの習性は、
ほんとうに面白い。

* クチキゴキブリは朽木を食べながら
 トンネルを作り、
 そこで家族生活を営んでいる。

* 交尾前後、オスとメスは
 互いの翅(はね)を付け根付近まで
 きっちり食べてしまう。
 「翅の食い合い」

* 交尾後約2カ月で子が生まれると、
 両親ともに口移しでエサを与えて
 子育てを行う。

* 父親と母親は生涯つがいを形成し、
 一切浮気しないと考えられている。

なんと言っても興味深いのは
「翅の食い合い」、
この「翅の食い合い」の瞬間を
初めて動画で捉えたのが大崎さんだ。

翅の食い合いは、
なんと全世界の全生物のうち、
タイワンクチキゴキブリでしか
見つかっていない。

付け根しか残っていないので、
翅を食われたあとは
当然飛べなくなる。

もちろん新たに生えてくることもない。
つまり、

食われたが最後、
一生飛べなくなるのである

なのになぜ食べてしまうのか?

オスとメスによる共同子育てや
オスが次のメスを探さないといった
昆虫にはめずらしい習性とも
おそらく深いつながりがあると思われるが
詳しいことはまだわかっていない。

本には、「翅の食い合い」の瞬間も含めて
みごとな点描画が挿絵として使われているが、
それらもすべて大崎さんの
筆によるものらしい。

絵を見ていると
「この世の何より面白い。時間を忘れる」
と言っている人の集中力と愛を感じる。

研究者の少ない領域での
ますますの活躍を期待したい。

 

 

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