書籍・雑誌

2024年2月18日 (日)

小澤征爾さんのリズム感

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小澤征爾さんのリズム感

- 文章のリズムと音楽のリズム -

 

指揮者の小澤征爾さんが、
2024年2月6日、88歳で亡くなった。

恩師の斎藤秀雄の名を冠する
サイトウ・キネン・オーケストラ(SKO)を
創設した指揮者の秋山和慶さん
「本当の兄のように」慕った
小澤さんとの日々を

2024年2月11日の朝日新聞

240211
の記事で語っているが、
その中に、こんな言葉がある。

小澤さんの音楽の特徴を一言でいえば、
やはりあのリズム感

そして瞬発力です。

どこをちょっと緩めようとか、
ぐっと持ち上げようとか、
そうしたペース配分が
すごく上手だった。

「小澤さんの音楽の特徴はリズム感」
この記事を読んで思い出した本がある。

小澤征爾, 村上春樹 (著)
小澤征爾さんと、音楽について話をする

新潮社

(書名たは表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

村上春樹さんとの対談を記録した
単行本で370ページを越える
ちょっと厚めの本だ。

その中に
リズムに関してこんなやりとりがある。

村上春樹さんが、文章を書く方法を
音楽から学んだ、と言うシーン。

で、
何から書き方を学んだかというと、
音楽から学んだんです。
それで、
いちばん何が大事かっていうと、
リズムですよね


リズムがないと、
そんなもの誰も読まないんです。

前に前にと読み手を送っていく
内在的な律動感というか……。

機械のマニュアルブックが
リズムのない文章の典型だ、
と例を挙げなら、
文章のリズムについて、
村上さんは丁寧に説明を続ける。

言葉の組み合わせ、
センテンスの組み合わせ、
パラグラフの組み合わせ、
硬軟・軽重の組み合わせ、
均衡と不均衡の組み合わせ、
句読点の組み合わせ、
トーンの組み合わせによって
リズムが出てきます。

ポリリズムと言って
いいかもしれない


音楽と同じです。
耳が良くないと、
これができないんです。

文章のリズムについての
一連の説明を聞いたあとの
小澤さんの言葉がコレ。

文章にリズムがあるというのは、
僕は知らなかったな。

どういうことなのか
まだよくわからない。

2度見、どころか3度見するくらい
びっくりしてしまった。

あれほど音楽のリズムに敏感な人が
文章にはそれを感じていないなんて。

逆に、小澤さんほどの人が
感じていないのだとすると、
私が文章に感じているものは単なる幻!?
と疑ってしまうほど。

村上さんの言う
「文章で大事なのはリズム」
にはいたく賛同できるものの、
小澤さんの言葉を聞いて以来、
音楽に感じるリズムとは
実は別なものなのかも、
とも思うようになっている。

 

 

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2024年2月11日 (日)

「空席日誌」という散文集

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「空席日誌」という散文集

- 詩人が見せてくれるパラレルワールド -

 

駅で、立ったまま、
ちくわを食べている女の人
がいた。

というちょっとびっくりするような
ホームでの描写で始まる
「つかのまのちくわ」
巻頭に持つ

蜂飼 耳 (著)
空席日誌
毎日新聞社

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 水色部は本からの引用)

は、蜂飼耳(はちかい・みみ)さんという
詩人の著作だ。
詩人のものではあるが、
見開き2ページの散文がメインで、
詩は含まれていない。

チョコレートなら構わず、
ちくわならば違和感が生じるのは、
なぜだろう。

と思いながら、
ホームで2本のちくわを食べきった
女性と一緒に少し遅れてきた電車に乗る。

紙を出して、
ちくわを食べた口元をぬぐう。
それから、蝶のかたちの
手鏡と口紅を取り出して、
塗りはじめた。

みるみるうちに、
ちくわとは無関係に見える
明るい唇が完成
した。

で掌篇を閉じている。

なんなのだろう。この不思議な読後感。

詩人ゆえの視点、感性、
言葉選びのせいなのか、
目の前の現実世界の記述を通して、
パラレルワールドというか、
並行した別世界が見えてくるような
ある種の独特な浮遊感がある。

 

「列から外れる」は、

どんな種類の木であっても、
並木はどこか学校に似ている。
整列しているからだ

と始まっている。そして、桜並木の中の
枯れてしまった一本の桜を中心に
話が進んでいく。

花が咲かない枯れてしまった木は、
しばらくして、
根元から伐(き)られてしまう。

やはり、枯れ木は
列から外されるのだ。
外れたくて咲くのを
やめたのかもしれない
木だった。

外されたくて、の思いもありうることを
さらりと提示する一方で、

なくなってみれば、それはそれで、
はじめからなかったかのように、
馴染んでいく。

そばの電柱は何食わぬ顔で
烏をとまらせる。

こんなに速やかに、と
心ぼそくなるほどの速度で
馴染んでいく
のだった。

とそれに馴染んでいくことの
速さを寂しがっている。

ついこないだまでそこに在った木。
伐られたのではなく
遠くへ飛び去ったのだ
と、
思いたくなる。

かたちをなくしながら、
どこか遠くへ。

桜並木の枯れてしまった一本から、
広がる想像の世界。

「こんなことがありました」
ただそれだけなのに、丁寧な描写からは
様々な世界を感じることができる。

主張があるわけではない。
発見があるわけでもない。
それでも、詩人の文章には
不思議な力が宿っている。

 

 

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2024年2月 4日 (日)

小惑星「仮面ライダー」

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小惑星「仮面ライダー」

- 星に名前がつけられたら -

 

野矢茂樹 (著)
言語哲学がはじまる

岩波新書

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

は、フレーゲ、ラッセル、
そしてウィトゲンシュタインという
3人の天才哲学者が、
言葉についてどう考えてきたのか、
その過程を丁寧にたどりながら、
ふだん何気なく使っている
言葉の根本に迫ろうという
言語哲学の本だが、
183ページにこんな一行がある。

1995年、中村彰正さんによって
小惑星が発見され、
「仮面ライダー」と命名された

現実世界で起こった事実の一例として
あがっているだけで、
もちろん言語哲学とは全く関係がない。

にしても、「仮面ライダー」という名の
小惑星があるなんてぜんぜん知らなかった。

で、中村彰正さんってどんな方?と
ちょっと調べてみてさらに驚いた。

詳しくはWikipediaの「中村彰正」
を御覧いただきたいが、
中村さんは、
愛媛県久万高原町にある
久万高原天体観測館の職員らしく、
1994年に「久万」を発見したのに始まり
2002年に通算100個目の小惑星を発見
とある。

国立天文台のこのページに、

新発見の小惑星の場合には、
新しく発見されてから
軌道何周分かの観測がされ、
軌道がはっきりすると、
まず番号がつけられます。

そして同時に、発見者に対して、
その小惑星に名前を提案する権利が
与えられます


名前は、
「16文字以内であること」や
「発音可能であること」
「主に軍事活動や政治活動で
 知られている人や事件の名前を
 つける場合には、
 本人が亡くなったり
 事件が起こってから
 100年が経過していること」
など、いくつかの制約はありますが、
その範囲内で
好きな名前をつけることができます

とある通り、小惑星に対しては
発見者に命名権がある。
つまり中村さんは、100個以上の小惑星の
名付け親というわけだ。

上記Wikipediaのページから
「仮面ライダー」以外も見てみたい。
一部引用すると・・・

名前 番号 由来
伊丹十三 7905 Juzoitami 高校時代に愛媛県に住んでいた
映画監督・伊丹十三
聖子 8306 Shoko 歌手・沢田聖子
しまなみ海道 9235
Shimanamikaido
しまなみ海道
デンソー 10850 Denso かつて勤務していたデンソー
仮面ライダー 12796 Kamenrider 仮面ライダー
カンチ 15370 Kanchi 『東京ラブストーリー』の登場人物
リカ 15415 Rika 『東京ラブストーリー』の登場人物
錦帯橋 15921 Kintaikyo 山口県の錦帯橋
紀洋 29737 Norihiro 野球選手・中村紀洋
俊輔 29986 Shunsuke サッカー選手・中村俊輔
カープ 44711 Carp プロ野球チーム・広島東洋カープ
やなせ 46643 Yanase 漫画家・やなせたかし
アンパンマン 46737 Anpanman アンパンマン
丹下健三 49440
Kenzotange
愛媛で少年期を過ごした
建築家・丹下健三
真鍋博 54237
Hiroshimanabe
愛媛県出身の
イラストレーター・真鍋博
山頭火 58466 Santoka 山口県出身の俳人・種田山頭火
虚子 58707 Kyoshi 愛媛県出身の俳人・高浜虚子
優作 79333 Yusaku 山口県出身の俳優・松田優作
坊っちゃん 91213 Botchan 夏目漱石の小説『坊っちゃん』
坂の上の雲 91395
Sakanouenokumo
司馬遼太郎の
小説『坂の上の雲』
金子みすゞ 100309
Misuzukaneko
山口県出身の童謡詩人
金子みすゞ
じゃこ天 202909 Jakoten 愛媛県南予地方の
特産品・じゃこ天
松下村塾 208499
Shokasonjuku
松下村塾

小惑星とは言え、「星の命名」と聞くと
やはり独特のロマンがある。

もし、自分にその権利が与えられたら
どんな名前をつけるだろう。

でも、それが嬉しいのは
一個、二個の時の話なのかもしれない。
100個以上となったらどうなるだろう。
一覧表からは苦労のあとが偲ばれる。

もちろん私個人の勝手な思い込みで、
100個以上もの星の名前を
どんなふうに考えて決めたのか、
ほんとうのところは
ご本人に聞いてみないとわからないが。

ちなみに
AstroArtsのこのページによると

太陽系天体のうち
惑星や衛星、彗星などを除くものは
「小惑星」と呼ばれます。

2023年3月14日現在で
1,264,630個の小惑星が
見つかっています。

発見された小惑星は126万個!?

*「仮面ライダー」「アンパンマン」
 という名前の小惑星が
 ほんとうにあるということ。
*たった一人で
 100個以上もの小惑星を発見し、
 正式に命名している人が
 日本にいるということ。
*小惑星は発見されたものだけで
 100万個以上もあるということ。

言語哲学の本を読みながら、
言語哲学とは全く関係ないネタで
3連発の大きな驚き。

読書は
どこで世界を広げてくれるかわからない。

 

 

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2024年1月28日 (日)

「ある時点での適切な断面図」

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「ある時点での適切な断面図」

- 先人たちの精緻な思考 -

 

フレーゲ、ラッセル、
そしてウィトゲンシュタインという
3人の天才哲学者が、
言葉についてどう考えてきたのか。
その過程を丁寧にたどりながら、
ふだん何気なく使っている
言葉の根本に迫ろうという

野矢茂樹 (著)
言語哲学がはじまる

岩波新書

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

著者本人が、「はじめに」で

何が楽しいって、
みんなが試行錯誤していて、
これが正解ですってのが
見えてこないけれども

どうやら前に進んでいるみたいだぞ
という手ごたえがある。

読者にもこの感触を
味わってもらいたい。

と書き、「おわりに」で

正確な記述は
もちろん必要不可欠の条件ですが、
しかし、私が目指したのは、
そこではありません。

私は言語哲学入門の参考書として
この本を書いたのではない
のです。

ほら、自分が面白かった話って、
他の人に話したくなりませんか? 
私の動機はほぼそれに尽きています。

と書いている通り、
全体に文体もやわらかいし、
例文もやさしいものが選ばれていて
解説も参考書的なものには
なっていないのだが、
著者と一緒に「面白がる」には
かなりの集中力が必要だ。

そんな中、
最終段で語られた言葉は
印象的なものだった。

ウィトゲンシュタインの
『論理哲学論考』と『哲学探究』について
コメントした部分だ。

『論理哲学論考』を完成させた後、
ウィトゲンシュタインは哲学から
一旦離れる。

「語りえぬものについては、
 沈黙せねばならない」と稿を閉じて、
本当に哲学的には沈黙するのです。

それからおよそ十年後に哲学を再開し、
『論考』を自ら批判して、
新たな言語観
へと
進んでいくことになります。

そして1936年から1946年にかけて
後期ウィトゲンシュタインの主著である
『哲学探究』を執筆します。

思考可能な世界を「論理空間」とし、
その外部を思考不可能としたことで、
論理空間自体の変化を考えることが
できなかった『論考』。

『論考』は
言語を固定された体系として
捉えています

そこが根本的にまちがっていたと、
『探究』のウィトゲンシュタインは
言いたいのです。

言語変化を視野に入れた言語観へと
移っていくウィトゲンシュタイン。

「論理空間」という用語が、
まさに言語を空間的に捉えていることを
表わしています。
『論考』は言語を一望のもとに
捉えたかったのです。
しかし、言語使用は時間の内にあります。

私は、
『論考』から『探究』への
変化の核心は、
空間的な言語観から
時間的な言語観への転換
だと
考えています。

では、
「まちがっていた」と本人が言う
過去の言語観に価値はないのだろうか?

では、『論考』で為されていた議論は
捨て去られねばならないのでしょうか。

いや、そんなことはありません

動的に推移していく言語の、
いわば時間的な断面図
- ある時点における言語使用の
  あり方を捉えた議論 - 
として十分な有効性をもっています。

言語実践を理論的に捉えようとしたら、
どうしたって
ある時点での断面図を
描くしかありません。

そして
適切な断面図を描くことによって
私たちの言語実践に対する理解も
深まるのです。

フレーゲも、ラッセルも、そして
前期ウィトゲンシュタインも、
言語を理論的に捉えようと
試行錯誤の日々を過ごした。

言語哲学に限らないが、
先人たちが各時代、各時代で
精緻に考え抜いたものからは
たとえそれが、のちの時代から見れば、
間違っていたり、
不完全であったりしたとしても
いつも豊かな洞察を得ることができる。

「ある時点での適切な断面図」
とはいい言葉だ。
断面図をいくつも持つことで、
初めて全体が立体的に見えてくる。

 

 

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2024年1月21日 (日)

「て形」って何?

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「て形」って何?

- 日本語教育用語との出会い -

 

フランス語、中国語、英語、日本語と
複数言語をあやつりながら
日本語の教師として活躍している
山本冴里(さえり)さんの
言葉をめぐる旅の記録

山本冴里 (著)
世界中で言葉のかけらを
 ―日本語教師の旅と記憶

筑摩選書

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

を読んでいたら、
第二章にこんな一節があった。

たとえば、「て形」と呼ばれる、
「て」をつける動詞の活用。

これは、日本語学習の最初の山だ。

「見る」「寝る」「起きる」など
一段活用の動詞は「る」を外して
「て」をつけるだけ
(「見て」「寝て」「起きて」)だが、
五段活用の動詞はそうはいかない。

「待つ」は「待って」でも、
「読む」は「読んで」だし、
「話す」は「話して」となって複雑だ。

「て形」?

第三章には、
エトヴェシュ・ロラーンド大学で
教鞭をとっており、
ハンガリー語絵本の
日本語への翻訳出版にも携わっている
内川かずみさんの言葉として

「同じ形で日本語教育に入った人は
たぶんみんな思うことですけれども、
え? 日本語ってこういうシステムが
あったんだというのが衝撃で。

「て形」にしろ、
「と・ば・たら・なら」にしろ、
自分では使えていても
違いが説明できなかった、

あるいは
どうしてこうなるのか
気にしたこともなかった、
っていうようなことを
教えなければならなくて、
教科書を読んで
まずは「ああ、なるほど」って
自分が感心して、
それを学生に伝えるのが
楽しかったですね」

も載っている。

「て形」とか「と・ば・たら・なら」って
いったいナンなのだろう?

少なくとも日本の学校で
国語の時間に教わった記憶が全くない。
なのに「て形」は
日本語学習の最初の山だという。

日本語教育のための
専門用語ということなのだろうか?

 

「て形」についてちょっと見てみよう。
まずは「て形、日本語教育」などで
ググってみた。
すると、丁寧な解説ページが
いくつも出てくる。
ところが、それらを読み始めると
さらなる未知の
「日本語教育用語」に遭遇することになる。

「動詞の3グループ」

どうも日本語教育においては、
日本語の動詞を
次の3グループに分類して教える方法が
広く使われているようだ。

グループ1(五段活用)
  - る(ru)で終わっていない動詞
     買う・書く・急ぐ・飲む など
グループ2(上一段/下一段活用)
  - る(ru)で終わる動詞
     見る・食べる・入れる など
グループ3(カ行/サ行変格活用)
  - 「する」と「来る」の2つ

これらのグループ別に
「ます」が語尾になる「ます形」を教え、
そして「て形」を教える、のステップ。
しかも説明には順番まである。
グループ2-3-1の順。

*グループ2(上一段/下一段活用)
  見る  見ます  見
  食べる 食べます 食べ
  入れる 入れます 入れ
*グループ3(カ行/サ行変格活用)
  する  します  し
  来る  来ます  来

なるほど。グループ2と3については
カ変、サ変を含みながらも
「て形」の作り方がかなり規則的だ

「ます」がわかれば、
「ます」を「て」にするだけ。

ところがグループ1について並べ始めると
とんでもないことに気づく。

*グループ1(五段活用)
  買う  買います 買って
  書く  書きます 書いて
  急ぐ  急ぎます 急いで
  飲む  飲みます 飲んで

なんなんだこの不規則性は。
無理やり整理して書くと
下記(1)-(5)にまとめられるようだが
(3)の例外に「行く(行きます)」があって
(1)-(6)を覚える必要があるらしい。

「ます」の前の字が
(1)「い」「ち」「り」の動詞は「って」
(2)「み」「び」「に」の動詞は「んで」
(3)「き」      の動詞は「いて」
(4)「ぎ」      の動詞も「いて」
(5)「し」      の動詞は「して」
(6)「行きます」   は  「行って」

「いちりって みびにんで きいて 
 ぎいて しして いきます いって」
の内容を、歌や呪文で覚えるようだ。
英語を学び始めた中学1年のとき、
「I my me, you your you...」
と呪文のように繰り返したことを思い出す。

外国人が
「いちりって みびにんで ・・・」って
モグモグ繰り返していても
それが日本語学習のためだなんて
まったくわからない不思議な呪文だ。

それにしてもおもしろいのは、
私を含めた日本語を母語とする者は、
呪文はもちろん
動詞のグループ1-3も、(1)-(6)も
一度も意識したことはないのに
迷いなく
正しく「て形」を作れることだ。

たとえそれが
初めて目にした動詞だとしても。
本書最後の注にも

日本語母語話者は、日本語教師としての
トレーニングを受けていなければ、
この「て形」について
明示的に学習する機会はない


そのため、
たとえば「ごばつ」という
新しい動詞があったとして、
「ごばってください」
活用はできるが、なぜ
「ごばいてください」
「ごばんでください」
などではないのか、
ということの説明ができない。

と興味深い例がある。

「日本語を学ぶ」「日本語を教える」
当然のことながら、
そこには日本語を母語とする者には
想像もできないような
多くの困難があることだろう。

知らなかった日本語教育用語からは
そんな困難さをなんとか体系的に教えよう、
学ばせようという、先人の苦労と工夫が
滲み出ている。

 

 

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2024年1月 7日 (日)

面接想定問答集にある呪文

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面接想定問答集にある呪文

- 「言葉が届く」の認識 -

 

大地震、航空機衝突・炎上、大規模火災と、
2024年は、国内だけでも
元日から大きなニュースが続いている。

被災した方々、被害にあわれた方々には
心よりお見舞い申し上げます。

 

命が危険にさらされる、とは
全く別次元の話ではあるが、
次の土曜日(2024/1/13)から始まる
大学入学共通テストに備えている受験生は
それはそれで
緊張した日々を過ごしていることだろう。
実力がうまく発揮されることを
祈るばかりだ。

受験と聞くと思い出すエッセイがあるので
今日はそれを紹介したい。
引用は、以下の本の中の
面接想定問答集にある呪文」から。

内田 樹 (著)
街場の大学論
 ウチダ式教育再生

角川文庫

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

ご存知の方も多いと思うが
大学の先生だった内田さん、
面接試験のことをこう書いている。

面接試験のときに、うっかり
「本学志望の動機は?」とか
「高校時代での印象的な出来事は?」
というような質問をすると
大変なことになる。

らしい。
どう大変になるのか。

たちまち、高校生諸君は
『大学案内』のコピーを
そのまま暗誦してきたような
ストックフレーズ

「呪文」のように唱え出すからである

(「高校時代の出来事」で、
「文化祭で、最初はばらばらだった
 クラスがやがてまとまり、
 最後はみんなと力を合わせて
 一体となったときの感動は
 忘れられません」というのも
これまで百回くらい聞かされた

たぷん、高校の進路指導室常備の
「面接想定問答集」の
一番先に出ている例文なのであろう)。

内田さん、
「恥ずかしげもなく
 できあいのストックフレーズを
 口にしておけば、世の中どうにか
 渡って行ける、というような
 世間を舐めた態度を
 私は評価することができない」
とお怒りだが、
「一体となったときの感動は・・」
と語る高校生の口調は
目に浮かぶようで妙におかしい。

私はそのストックフレーズの
「コンテンツ」に文句を
申し上げているのではない。

みなさんが、文化祭での
クラスの団結に感動したのも
本当なのだろうし、
本学の伝統ある校舎と
緑の多いキャンパスに
惹かれたのも真実なのであろう。

しかし、問題はそれが
「伝わる言葉」で
語られているかどうか

ということである。

お芝居の稽古での台詞のやりとりや、
太宰治の「如是我聞 四」を例にあげ、
「言葉は身体というフィルターを
 通過すると、
 深みと陰影と立体感を帯びる」
と語り、「伝わる言葉」について
考えるよう導いている。

まとまりのある、
つじつまのあったことを
しゃべるのが勧奨されるのは、
その方がそうでない場合より
相手に届く確率が高いからである。

ことの順逆を間違えてはいけない

よりたいせつなのは
「言葉が届く」ということであり、
「つじつまのあったことをしゃべる」
ことではない。

順逆を間違えてはいけない、か。

「つじつまのあったこと」
を言っているのだから伝わるはずだ、
と考えてしまいがちだが、
「伝わる言葉」は別物だ。

よく考えてみれば、それは確かに
誰にでも経験があることだろう。

最後、内田さんらしい言葉で
締めくくっている。

今日の初等中等教育では
「自分の意見をはっきり口にする」
ということは推奨されているし、
技術的な訓練も
なされているようだけれど、
残念ながら、「自分の意見」は
はっきりしているだけでは、
 聴き手に届かない
」という
もっとたいせつなことは
教えられていないようである。

 

 

 

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2023年12月24日 (日)

山頂はひとつだけ?

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山頂はひとつだけ?

- ヒマラヤ登山における大きな変化 -

 

標高8000mを超える山14座のうち
12座に登頂した写真家石川直樹さんが
雑誌新潮に書いていた

石川直樹
地上に星座をつくる
第121回 山頂はひとつだけ
雑誌新潮 2023年10月号

(以下水色部、本からの引用)

を読んで、2点メモを残しておきたい。

(1) 山頂はひとつだけ?

ヒマラヤ登山には近年、
ある変化が起きている。

空撮技術の発展や登山者が
SNSに頻繁に写真をアップすることで、
8000メートル峰の
頂上付近の様子が詳らかになり、
その山の最高点、
すなわち真の頂上というものが
ビジュアルとして
はっきりわかるようになった

えっ!? それまでは
頂上がよくわからなかったの?

鉛筆の先のように尖った頂は
間違えようがない一方、
ノコギリの刃のように
いくつか小さなピークがある頂は、
最高点がわかりにくい


8000メートル峰のなかでは、
特にダウラギリ(8161メートル)と
マナスル(8163メートル)という
二つの山で
「だいたいこのあたりを
 頂上としていいだろう」
いう地点があり、
そこで登山者が引き返してきた
歴史がある

「だいたいこのあたりを
 頂上としていいだろう」
で下山していたとは。

ものすごい困難に立ち向かっていながら、
肝心なゴールが「このあたり」というのが
なんだか不思議な感じだ。
だって、違っていたら
たとえすぐ近くまで行っていたとしても
登頂した山として
カウントできないのだろうから。

今では本当の頂に
立っていない登山者は
写真などによって検証されて、
登頂者のリストの修正が
迫られる
という事態にもなっている。

14座の登頂者はこれまで50人弱
いたことなっていたのだが、
真の頂に明確に立った人だけを
カウントしていくと、
たった8人になってしまう

登頂者リストの修正!?
なんと、50人弱が8人に!

もちろん「正確な」事実としては
そうなのかもしれないが、
今後の分について、というならともかく
過去分についての「検証」って
意味があるのだろうか?

 

(2) 登山のサポートとヘリの利用

ヒマラヤ登山、昔は準備に
*許可の取得
*ベースキャンプへのアプローチ
*高所順応
*上部のルート工作
等々、多くの苦労を伴っていた。
それが今はずいぶん
様変わりしているようだ。

14座に登る手順はシステム化され、
そうしたことに慣れた
ネパールの会社が
すべてお膳立てをしてくれる


登山者は自国の低酸素室などで
訓練を積み、人工的な環境で
(或いは別の高い山などで)
ある程度の高所順応をしてから
ヒマラヤに辿り着けば、
長い順応期間もなく、
すぐに登攀に入ることができる。

さらには
ヘリの使用が当たり前になり、
ベースキャンプまでの
長いキャラバンも
必要なくなりつつある。

昔はヘリは
費用の高い移動手段だったが、
特にネパールでは安価でヘリを
利用できるようになった。

その結果、
最短登頂記録争いなんてものまで
登場しているとのこと。

ヘリコプターを駆使した
その移動方法に賛否はあるものの、
3ヶ月ちょっとで14座全山を
登り終えてしまった、という記録まで
あるらしい。

そう言えば、11月の新聞記事でも
別な登山家が同じようなことを言っていた。

標高8000m超14座のうち
日本人女性として初めて
13座の頂に立った渡辺直子さん。

2023年11月4日
朝日新聞 be
登山家・看護師 渡辺直子さん

(以下緑色部、記事からの引用)

231104watanebesmall

の記事の中で、

19年くらいから、
登山経験がなくてもお金を積んで
手厚いサポートで
お膳立てをしてもらい、
次々と8千メートル峰を踏破する
リッチな登山者
が増えました。

それを悪いことだとは思いません。

ヒマラヤ登山も
多様性が増しているのです。

 

私は登山については
何も知らないド素人だが、
ヒマラヤ登山について
* 山頂/登頂の確認
* お膳立て業者とヘリの利用
に関する分野が、
過去とずいぶん変わってきていることは
間違いないようだ。

まさに命がけの挑戦の
何が魅力なのか、
何が苦しいのか、
何が達成感で、
何に駆り立てられているのか。

特に近年の登頂記を読む時は、その背景に
そんな変化が伴っていることを
頭のすみの置いておきたい。

 

 

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2023年12月10日 (日)

「電車」を伝えるために何を保存する?

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「電車」を伝えるために何を保存する?

- 保存されたものも生きている -

 

哲学対話で知られる永井芽衣さんが
雑誌群像に書いていた

永井芽衣
世界の適切な保存
16 適切な保存
雑誌群像 2023年8月号

(以下水色部、本からの引用)

を読んでいると、
「記憶」や「保存」について
ちょっと立ち止まって考えてみよう、
という気になる。

もし電車というものが
いつかなくなってしまうのならば、
わたしたちは何を保存するだろうか

いったい何を保存すれば
電車を知らない世界の人々に
電車を伝えられるだろうか。
電車での「体験」を伝えられるだろうか。

電車を知らないどころか
今の人でも・・・

今のかたちですら、
刻一刻と変容している。
子どものころは、
広告は動画ではなかった。
アナウンスはなめらかではなかった。
監視カメラはついてはいなかった。

あのときの電車の体験が何だったのか、
もう思い出せない

永井さんは、こんな歌を挙げている。

河川敷が朝にまみれてその朝が
電車の中の僕にまで来る
岡野大嗣

日常の中の瞬間をとらえた歌だが、
同時に電車に乗るとは
どういうことなのかについての、
貴重な保存の試みとも言える。


完全に止まったはずの地下鉄が
ちょっと動いてみんなよろける
岡野大嗣

電車や地下鉄に関する
図解や技術の説明をいくら詳細に残しても、
それを知らない人が
それに乗っていた人の
こんな共通体験を知ることは
難しそうだ。

技術資料もあるだろう、
文学的表現もあるだろう、
でも、たとえ
過去のものに対してであっても
固定した完璧なパッケージを
作ることはできない。

保存しようと試みつづけることが、
消え去っていくことに
抗うことなのだ。

最初の問いをもう一度思い出してみよう。

「もし電車というものが
 いつかなくなってしまうのならば、
 わたしたちは何を保存するだろうか」

完壁さや不変さを
急いで求めなくてもいい。
保存されたものは生きているのだから、
年を重ねながら、
誰かの中で育つだろう。

保存されたものも生きている、
の感覚。
そしてそれが誰かの中で
育っていく感覚。

保存とは凍結ではないのだ。

育ってさえいれば、
もしかするとこんな思いも
伝えられるかもしれない。

そうだとは知らずに乗った地下鉄が
外へ出てゆく瞬間がすき
岡野大嗣

 

 

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2023年11月26日 (日)

全体をぼんやりと見る

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全体をぼんやりと見る

- 集中すると体を痛める -

 

参加者が実際に体を動かしてみる講習会を
各地で数多く開催している
身体技法研究者の甲野陽紀さんが書いた

甲野 陽紀 (著)
身体は「わたし」を映す間鏡である
和器出版

(以下水色部、本からの引用)

は、
「言葉」と「体の動き」の関係について
いろいろ気づかせてくれる、
ちょっとユニークな視点の本だ。
陽紀(はるのり)さんのお父様は
古武術研究家として知られる
甲野善紀さん。
おふたりとも「体の動き」の
スペシャリストだ。


たとえば、
ここに立っていて下さい
と言われた場合と
ここにいて下さい
と言われた場合、
同じ「立」っていても
体の安定感はずいぶん違うらしい。

「いて下さい」のほうが
安定している。
そんなこと考えたこともなかった。

ある動作をめざして体を動かすとき
それは、運動でも、楽器の演奏でも
なんでも同じだが、
「ほんとうにうまく動けた時」の感覚を

うまく動けたときに限って、
"できた感じ" "やった感じ" が
しない

などと言われると、
自分の実体験に思い当たることもあり
「そうそう、どうして?」
と思わず先を読んでしまう。

そんな中、特に印象的だったのは
理容・美容師さんから聞いたという
次の話だ。

高い技術を持つ人でも
「目を使いすぎる」
やり方をしている方は首や肩、
腰などに負担をかけやすく、
身体を痛めているケースが多い

らしい。

たとえば、ハサミを使うとき、
髪を切っているハサミの動きを
追い続けるようなやり方をしていると、
身体が固まる感じが出てきます

これは
「目を使いすぎている」状態です。

「見る」がかえって体の動きを
固くしている。

では、どうすればいいのか?

話を聞くと、
逆に身体を壊さない人は
ハサミを使っている手元を見ない、
目をやったとしても
パッと見るぐらいで、
ヘアスタイルという全体に
「目線を向けている」

ということなどもわかり、
「目の使い方」について、
私も勉強になった経験でした。

「見る」ではなく、
「目線を向ける」にすると
体が安定して力が抜け
動きのパフォーマンスは
かえって上がる。

そう言えば、以前
舞台の役者さんからも
同じような話を聞いた記憶がある。

一点に集中するのではなく
「全体をぼんやりと見る」

柔軟に体を動かすためにも、
また、緊急時に素早く反応するためにも
そして、体に負担をかけないためにも
ほんとうに重要なキーワードなのだろう。

「いいパフォーマンスのために集中!」
は、疑ってもいいのかもしれない。

 

<おまけ>
本には講習会での体験メニューが
いくつか紹介されているが、
実際にやってみて
特に驚いたメニューがあるので
それだけ紹介したい。

<「ついていく」と「くっつく」>
Aさんは手のひらを上にして手を伸ばす。
Bさんは自分の手のひらを下にして
Aさんの手のひらに重ねる。

その後、Aさんは、
Bさんの手が重なった手のひらを
前後左右、かってに動かすのだが、

その時、Bさんに対して
(1)「Aさんの手についていって下さい」
というか
(2)「Aさんの手にくっついて下さい」
というかで、
Bさんの手の追随性が全く違ってくる。

「ついていく」では
追えずに手が離れるときも
しばしばあるのに、
「くっつく」では不思議なほど
くっついた状態を維持できる。

協力者の得られる方
ぜひお試しあれ。

 

 

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2023年11月19日 (日)

読書を支える5つの健常性

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読書を支える5つの健常性

- 「本好き」たちの無知な傲慢さ -

 

みずからも重度障害者である
市川沙央さんが書いた
重度障害者(井沢釈華)を主人公にした
小説「ハンチバック」は2023年
第169回芥川賞を受賞している。

市川 沙央 (著)
ハンチバック
文藝春秋

(以下水色部、本からの引用)

この小説から引用するなら
やはり本文27ページにある
この衝撃的な一節だろう。

私は紙の本を憎んでいた。

目が見えること、
本が持てること、
ページがめくれること、
読書姿勢が保てること、
書店へ自由に買いに行けること、
5つの健常性を満たすことを
要求する読書文化のマチズモを
憎んでいた。

その特権性に気づかない
「本好き」たちの無知な傲慢さ

憎んでいた。

まさに、その特権性に
まったく気づいていなかった
「本好き」のひとりである私は
ほんとうにドキリとさせられた。

ちなみに、マチズモとは、
デジタル大辞泉(小学館)によると

マチスモ【machismo】
《「マチズモ」とも。
ラテンアメリカで賛美される
「男らしい男」を意味する
スペイン語のmachoから》
男っぽさ。誇示された力。
男性優位主義。

を意味する言葉らしい。

このあたりの言葉の選び方と
出版後の反響について、
著者の市川さんが、
障害者文化論の学者である荒井裕樹さんと
往復書簡でやりとりしているようすが
雑誌「文學界」に載っている。

市川沙央⇔荒井裕樹 往復書簡
「世界にとっての異物になってやりたい」
雑誌 文學界 2023年8月号
文藝春秋

(以下緑色部、本からの引用)

まずは、市川さんの言葉。

ところで、健常者優位主義のルビは
本来ならエイブリズム
とするべきところを、
わざとマチズモとした私の底意は
想定以上の効果を発揮しながら
読者の皆様に
刺さりにいっているみたいで、
実のところ私は今うろたえています。
(「言葉が強い」
 とのご感想に触れるたび、
 そこまで刺すつもりはなかった、
 良心ある人々の心を
 脅かすつもりはなかったと、
 ひたすら申し訳ない気持ちに
 なっています。) 

うろたえつつも、
至らぬばかりの拙作において
唯一会心の出来と言える箇所
やはりそこなのだろうと思います。

エイブリズムではなく
マチズモというルビを振った時点で
私は小説家になったのかもしれません。

それに対して、
「本好き」のひとりであろう荒井さんも、
私が感じた「ドキリ」を
うまく言葉にしてくれている。

それにしても、<健常者優位主義>に
<マチズモ>とルビを振られたのには
驚きました。

紙の本に慣れ親しんでいること。
紙の本に愛着があること。

そんな素朴な感覚に
この言葉を投げつけられ、
私自身胸がしくしくと痛みました

自分は誰のことも傷つけていない。
問題なくスマートに振る舞えている。
そう信じて疑っていない感覚を
鋭く刺されたような思いです


<エイブリズム>より
<マチズモ>の方が
ダメージが大きいのは、
「良心的市民」を装う
私を含めた少なくない人が、
普段この言葉で他人のことを
責めることには慣れていても
(この言葉で誰かを責めることで
「良心的市民である自分」を
演じることには慣れていでも)、

自分自身が責められるなど
夢にも思ってないからでしょう

往復書簡は、荒井さんが

「生きる」ための
福祉制度が整えられる反面、
「生きる」という営みが 
「福祉」という枠の中に、
小さく、狭く、
閉じ込められている
のではないか。

と書き、市川さんが

障害者の読書権の問題をあくまでも
福祉領域のものごととして捉え
押しやろうとする考え方があった

本を読むという普遍的な行為すら、
努力して「獲得」しなければ
ならないこと


何気ない
日常のしぐさであるべき営みが、
「障害等級」や「算定単位数」や
「加算」という用語と時間の
制約に括られ、
福祉サービスとして評価されることで、
失われていく何か

と返信して続いていく。

読書権のことだけでなく
*「生きる」ことが
 「福祉サービス化」してしまった
 ことへの違和感や危機感
*そこで失われていくものへの言及
などなど、自分自身の
「無知な傲慢さ」に気付かされ
内容が続いており、
「ドキリ」だけでは言葉が足りない。

 

 

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