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2018年10月14日 (日)

オーストリア旅行記 (60) ウィーン美術史博物館(2)

(全体の目次はこちら


オーストリア旅行記 (60) ウィーン美術史博物館(2)

- ブリューゲル「雪中の狩人」 -

 

前回はこの本

中野孝次 著
ブリューゲルへの旅
文春文庫

(以下水色部、本からの引用)

を紹介したところで終わってしまったので、
続きを書きたい。

ウィーンで
「憂鬱をもてあましていた」中野さんは、
こんな言葉でこの街を描写していた。

思い出すために一部繰り返すと・・・

だが、威圧すべき異民族を失って、
1918年以来
空しく過去の壮麗さのなかに
まどろんでいる
このあまりに伝説的な都市の外観は、

わたしには
若い日の栄華のままに正装し
厚化粧した老婆を白昼に見るような
印象を与えた


それは途方もなく空しく、
無用な装飾にみちすぎていた。

死ぬ日のくるのを着飾って待っている
老人の都市
だった。

「厚化粧した老婆」
「死ぬ日のくるのを着飾って待っている
老人の都市」とは。

そんな中野さんが、
ウィーン美術史博物館で、
ブリューゲルに出会う。

 そんなときに
なぜフリューゲルが
あのように親しく語りかけてきたのか
わからない。

わたしは痛む足をかばうためもあり、
毎日のように
近くの美術史美術館に通い、
その一室にいると幸福だった


どの絵も
いくら見ていてもあきなかった。
ふしぎにしんと静謐な世界へ
誘うものがそこにはあって

静かな声で、
ここがお前の帰っていくべき場所だと
語りかけてくるようであった。

なかでも「雪中の狩人」
深い色合いの世界がとくにわたしを
ひきつけた。

ブリューゲルの「雪中の狩人」
美術の教科書にも出ているコレだ。
(美術史博物館で私が撮影したもの)

P7169420s

製作年1565年。
450年も前の作品だ。
ちなみにブリューゲルは
1525年-1530年頃生
1569年没。

音楽の父とも言われるバッハが
1685年生まれだから、
バッハよりもさらに100年以上も前の人
ということになる。

日本では戦国時代、
種子島に鉄砲が伝わり(1543年)
桶狭間の戦い(1560年)が
あったころの人だ。

 

この絵に、中野さんは
どんなふうに魅了されたのか。

Bruegelv1

 そこにあるのは
きびしい冬の自然のなかの
生の営みである。

重い鉛色の雲に覆われた地上は
一面に深い雪に埋れている。

池も河も重い空を映して、
かすかな緑青色をおびた
鉛色に氷結し、そこに
着ぶくれした子供たちが遊び、
人びとが背をまるめて道を急ぐ。

だがすべては遠く小さく、
かれらの叫びも歓声もきこえず、
世界はしんと寒気のなかに
静まりかえっている

遠景にはまさに様々な人達が
描かれている。でも、確かに
遠いこともあり音は聞こえてこない。

 

Bruegelv2

その世界へいま
三人の屈強な猟師
乏しい建物を背に、
疲れ切った犬を連れ、
とぼとぼと帰っていく。

絵の前面には、
ほとんど画面全体を切るように、
左から右へ対角線がつづき
近景の高い斜面を形作っている。

猟師はいま深い雪のなかの
空しい労働を終え、
ようやく村を俯瞰する
この丘まで辿りついた。

見る者は、
全体のなかで図抜けて大きく描かれた
かれらの、疲労で重い後姿と、
左から右へ一列に黙りこくって
歩を運ぶ存在感にひきつけられ、
まだこれから三人が
歩かねばならぬ距離を一緒に感じる


くろぐろと直立する裸の木々が、
この一団を囲み、
まるで世界から孤立したように
自分の力だけで歩む姿を強調する。

 

Bruegelv3

左手の丘の端に立つ宿屋の
冬仕度にいそがしい人びとさえ
かれらには目をくれないのだ。

宿の人びとは、かれらはかれらで
自分の営みで手一杯で、
なにかを焼く焚火の火は、
寒気のきびしさを伝えるように、
一直線に炎をあげているのである。

 

静寂さ、人々の営み、
風の強さまでを感じたあと
中野さんはこう書いている。

 これが人間の生だ、と
絵は語りかけているように見える。

 

もう一度全体を眺めてみよう。

Bruegelv5

 そこにいるのは、
例えばミケランジェロの
悩ましいまで異常に拡大された
人間性でも、
超自然的な理性の勝利でも、
英雄でも賢者でも、
レンブラントの優れて個性的な
市民でもなかった。

ただのどこにでもいる人であり、
狩人は後向きで
顔さえ見えないのである。

にもかかわらず、
このきびしく支配する
白と緑青と濃褐色の自然のなかで、
かれらの一人ひとりは
なんというずっしりした存在感を
もっている
ことだろう。

かれらはその後姿や
遠い小さな輪郭だけで
たしかにそこにかけがえなく
存在していると感じられるのである。

 わたしはそれまで
こんな絵を見たことがなかった

中野さん、ずいぶん気に入ったようだ。
フェルメールやラファエロの絵も並ぶ
この美術館にあって、
私自身には、そこまで特別な絵として
響いたわけではなかったが、
中野さんのおかげで
ずいぶん細部にまで
注意を払って見ることができた。

 

で、その際気づいたこと。

この部分

Bruegelv4

よく見ると、
近年、冬季オリンピックでよく話題となる
「カーリング」をやっているように
見えるのだが、あの競技
450年も前からあったのだろうか?

 

 

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2018年10月 7日 (日)

オーストリア旅行記 (59) ウィーン美術史博物館(1)

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オーストリア旅行記 (59) ウィーン美術史博物館(1)

- ウィーンは厚化粧した老婆? -

 

ここに書いた通り、
マリア・テレジア広場を挟んで
向かい合って建っている双子博物館。

自然史博物館 と
美術史博物館。

ウィーン自然史博物館がこれで

P7169438s

P7148748s

 

ウィーン美術史博物館がこれ。

P7148747s

外観では区別がつかない。

 

【ウィーン美術史博物館】
美術品のコレクションも
もちろんすばらしいが、
自然史博物館と同様、
建物自体も見応え充分。

P7169360s

館内で撮った美術品の写真は、
旅行記 (47)(48)(49)(50)(51)
でも、すでに挿絵代わりに使っているが、
自然史博物館では禁止されていた写真撮影が
なぜか(?)こちらでは許可されていた。
撮影OK/NGの基準は
いったいどんなところにあるのだろう?

階段回りもこの雰囲気。

P7169361s

休憩時に軽食のとれるカフェテリアも。

P7169366s

大理石の床と柱の模様が美しい。

P7169362s

大天蓋もこの迫力。

P7169363s

大きいだけでなく、
細部まで美しい。

P7169373s

 

そのうえ、展示室ではなく
階段の壁面上部に
世紀末の画家「グスタフ・クリムト」の
作品を観ることができる。

P7169376s

『エジプト』
『古代ギリシャ』
『16世紀のフィレンツェ』など、
芸術の発展過程をテーマに描いている。

P7169375s

 

この博物館、
「美術史」とついているが、
美術史全体を系統的に網羅したような
そんな展示にはなっていない。

そもそものコレクションに、
ハブスブルク家支配領域の変遷や、
一族の伝統となった
芸術的嗜好などによる偏りが、
明らかに存在している。

P7169379s

 

長らく対抗関係にあった
フランスの作品はほとんどないし、
また16世紀ヴェネツィア絵画の
充実ぶりと比較すると、
それ以前のイタリアの作品は乏しい。

それでも、そういった偏りを
事前に知って観たとしても、
壮大なコレクションは
圧倒的なパワーをもって
観るものに迫ってくる。

P7169416s

 

そもそも偏りのない美術館なんて
どこにもないのだから、
「美術史」という名前につられて
網羅性を期待すること自体
間違っているのかもしれない。

 

工芸品も多いが絵画だけを見ても、
フェルメール、ラファエロ、クラーナハ、
ルーベンス
などの傑作がめじろ押し。

P7169418s

 

特に有名なのは世界最多の点数を誇る
ブリューゲルのコレクション。

ブリューゲルと言えば、
この本が思い出される。

中野孝次 著
ブリューゲルへの旅
文春文庫

(以下水色部、本からの引用)

ブリューゲル絵画の解説本ではなく、
あくまでも中野さんの体験にもとづく
エッセーなのだが、独特な文体は
不思議な空気感を運んでくる。

そもそも、これまで
美しいだの、すばらしいだの、
旅行記の中で
さんざん褒めまくってきた
ウィーンの街を、
中野さんは、こんな言葉で
描写している。

1966年春、わたしはウィーンにいて
憂鬱をもてあましていた


パリの軽快な放射線的構成とも、
ベルリンの雄大な
幾何学的直線とも違う、
宮殿や教会や国立オペラ劇場や
公園を中心に
それぞれ魅惑的な閉鎖空間を
つくっている、

活気のない、古く壮麗な
このバロック都市
にきて以来、
なぜ憂鬱にとりつかれたのか
自分でもわからなかった。

ともかく憂鬱はつねに胸にあり、
それは胸を噛んだ。

それはまるで、
この町を歩けば必ず目に入る
装飾過剰の建築物、
曲線や渦状線や
人柱像で構成された柱列や、
複雑な円や方形の
組合せからなるファッサード
が、
かれら自身の憂鬱を
わたしのなかに注入して、
ここに留まるかぎりその毒から
逃れられないかのようだった。

その壮麗を
否定することはできない。

だが、威圧すべき異民族を失って、
1918年以来
空しく過去の壮麗さのなかに
まどろんでいる
このあまりに伝説的な都市の外観は、
わたしには
若い日の栄華のままに正装し
厚化粧した老婆を白昼に見るような
印象を与えた


それは途方もなく空しく、
無用な装飾にみちすぎていた。

死ぬ日のくるのを着飾って待っている
老人の都市だった。

いくら自分の気分が憂鬱だからと言って、
「若い日の栄華のままに正装し
 厚化粧した老婆を白昼に見るような
 印象を与えた」って
この記述はないンじゃないか、と
個人的には思うが、
街の印象とは、
もちろん見る人の気分との組合せで
存在するものだから、
自分とは違ったウィーンが
見えている人がいると思えば
かえって興味深い。

そんな中野さんに、美術史博物館の
ブリューゲルの絵画は
どんなふうに映ったのだろうか?

 

ちょっと長くなってきたので、
続きは次回に。

 

 

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2018年9月30日 (日)

オーストリア旅行記 (58) 皇妃エリーザベト(愛称シシィ)

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オーストリア旅行記 (58) 皇妃エリーザベト(愛称シシィ)

- 吊り輪や鉄棒のある化粧室 -

 

前回は、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世
について書いた。
今日は続けて、
その妻エリーザベト(愛称シシィ)
(生没:1837-1898)

について
そのエピソードを紹介したい。

ただ、前回にも書いた通り、王宮内の
「シシィ博物館」と
「皇帝の部屋」&「皇妃シシィの住居」
は残念ながら写真撮影禁止。
肝心な彼女の部屋の様子を
写真でお見せすることができない。

皇妃とは直接関係ないものの
ウィーン市内で撮った写真を
挿絵代わりに貼って話を進めていきたい。

P7179525s

 

【シシィの誕生:1837年】
エリーザベトは
ドイツ、バイエルンの
ヴィッテルスバッハ公爵家の
次女として生まれ、
幼い頃からシシィの愛称で呼ばれて
多くの兄弟姉妹とともに
自由奔放に育った。

P7169440s

 

【15歳のときの出会い:1853年】
15歳のとき、
姉ヘレーナの見合いに同行し、
バート・イシュルを訪問する。

皇帝フランツ・ヨーゼフの母、
オーストリア大公妃ゾフィーが、
若くして皇帝になった
息子の花嫁を探しており、
姉ヘレーナが
その候補にあがっていたのだ。

これは、オーストリアと同じく
厳格なカトリック教国で、
ドイツ連邦の忠実な同盟国である
「バイエルン王国」から皇后を迎え、
関係強化を図るという
政略目的にもかなっていた。

ところが、その時、
若きオーストリア皇帝は
ヘレーナに同行していた
エリーザベトのほうに一目惚れ
姉のヘレーナではなく、
妹のエリーザベトを妃に選んでしまう。

P7179633s

 

選ばれてはみたものの
まだあどけなさの残るエリーザベトには、
ハブスブルク大帝国の首都、
ウィーン王宮での
堅苦しい宮廷儀式の数々は
精神的に大きな負担だった。

フランツ・ヨーゼフの
求婚の申し出に対して
エリーザベトはこう語ったという。

「どうしてあの方を
 愛せないはずがありましょう」

とひと泣きした後、

皇帝のことはとても好きです。
 あの人が皇帝でさえなければ


皇帝に愛されてうれしい反面、
宮廷生活への
不安のほうが大きかった。

P7179529s

 

【16歳で結婚:1854年】
1854年4月24日、16歳のとき、
ウィーンのアウグスティーナー教会で
結婚式が行われた。

直後から、皇妃として
義母ゾフィーに鍛えられる日々が続く。

P7159148s

 

【なじまないウィーンでの宮廷生活】
皇妃として、結婚後の4年間に
王位継承者である息子ルドルフを含む
3人の子どもを産んだ
エリーザベトだったが、

自由奔放に育った彼女は
窮屈なウィーンの宮廷生活に
なかなかなじむことができず、
次第に精神を患って
転地療養生活
を送るようになる。

長い旅に出かけることもしばしばだった。
夫フランツ・ヨーゼフは、
旅路の妻に宛てて、
頻繁に手紙を書いていたという。

P7169464s

 

【美への執着】
エリーザベトと言えば「美」。

夫フランツ・ヨーゼフが
一目惚れしたその美貌は
最初からよく知られていたが、
エリーザベト自身、「美」、
特に健康なほっそりとした体、
透明な肌、美しい髪には、
思い入れが深く、
手入れを怠ることは決してなかった。

成人してからは
身長172cm、ウエスト50cm、
体重50kg(踵まで届いた髪の重さ5kgを含む)
が常に維持されていたという。

エリーザベトは、
このプロポーションを保つために、
生涯にわたって毎日、
運動とダイエットに励んだ

P7169352s

 

それでも50代ともなると、
過度の運動と
極端なダイエットが逆効果となり、
くるぶしの腫れや
栄養失調に悩まされるようになる。

いつしか、
外出の際はパラソルと扇を
片時も手放すことなく、
顔を隠して歩くようになっていった。

彼女の美貌は自信であり、
宮廷での権力でもあった
が、
皇妃といえども
寄る年波には勝てなかった。

P7169353s

 

【息子ルドルフ、情死:1889年】
王位継承者である皇帝の唯一の息子
ルドルフ皇太子が、ウィーン南郊外の
マイヤーリンクで愛人と情死

ハプスブルク家の跡継ぎだった
ひとり息子のルドルフが自殺して以来、
エリーザベトは
喪服を脱ぐことはなかった。

P7169439s

 

【スイスで暗殺される:1898年】
スイス、レマン湖で
遊覧船に乗ろうとしていたところを
無政府主義者に襲われ、
やすりで心臓を一突きされて死亡。
このときも黒い服を着ていた。

P7158945s

 

「シシィ博物館」も
「皇妃シシィの住居」も
こういった人生を知って見ると、
印象的な部屋や遺品がいくつもある。

特にシシィに関しては、
やはり「美への執着」を感じさせるものが
印象的だ。

旅の多かった彼女が携帯していた
美容関係グッズも実に大量でかつ多彩。

吊り輪や肋木、鉄棒がある化粧室は、
まさにトレーニングルーム。

博物館で買った日本語版のガイドブック

Ginnki1

にはその化粧室の写真もある。

王宮内の化粧室と
トレーニング機器の組合せは
ちょっと珍しいので
上記ガイドブックから2枚だけ
写真を引用し貼っておきたい。

Sissi1

中央部、釣り輪が見えるだろうか。

Sissi2

 

劇的な人生と終始貫かれている美への執着、
映画化にはピッタリの題材だ。

オーストリアの人気女優
ロミー・シュナイダーが主演した
映画『シシィ』の一部が
「シシィ博物館」の入口付近のモニタに
映し出されていた。
オーストリアでは
きっとよく知られた映画なのだろう。

懐かしそうに見ている顔が
いくつもあった。

日本では1959年、
当時の「皇太子御成婚記念映画として
封切られた」とWikipediaにはある。

「プリンセス・シシー」として
DVDも出ているようなので
ぜひ一度観てみたいと思っている。

 

 

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2018年9月16日 (日)

オーストリア旅行記 (56) ウィーン会議とフランス料理

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オーストリア旅行記 (56) ウィーン会議とフランス料理

- 胃袋を掴め -

 

マリア・テレジアの 初回
スペイン乗馬学校を紹介した。

王宮内にある室内馬場は、
「馬場」とはいえ
2層のバルコニー席で囲まれた
シャンデリアの下がる
優雅な空間だ。

P7179571s

ここを「馬場」ではなく、
別な用途に使っていた時期がある。

フランス革命とナポレオン戦争という
ヨーロッパ大混乱ののち、
秩序の再建と領土分割を目的として
開催されたウィーン会議(1814-1815)

この長い会議の期間中、
舞踏会場として使われたのが、
この室内馬場だ。

有名な
「会議は踊る、されど進まず」
と言われたまさに「踊る」の会場。

このウィーン会議、

青木ゆり子 (著)
日本の洋食:
洋食から紐解く日本の歴史と文化
(シリーズ・ニッポン再発見)
ミネルヴァ書房

(以下水色部、本からの引用)

を読んでいたら
フランス料理との関係
たいへん興味深い記述があった。

街歩きの際に撮ったスナップ写真を
挿絵代わりに挿入しながら、
今日は料理の話を紹介したい。

P7179711s

 

最初に簡単に、
フランスとフランス料理の関係を
見ておこう。

フランス料理と呼ばれる今の料理は
フランスの伝統的な料理
というわけではない。

【イタリアからやってきた
 フランス料理】

フランス料理は現在、
ヨーロッパをはじめ、
日本を含む世界中の多くの国で
外交儀礼の際の正餐
として
採用されています。

しかし、
16世紀までのフランスは
貴族でさえ手づかみで
がつがつと食事するような
野暮なマナーしかない国でした。

ナイフ・フォークを使った食事など
洗練された食事作法が
取り入れられたのは、
国王アンリ2世のもとに
イタリアから嫁いだ
カトリーヌ・ド・メディシスと
その専属料理人が
フランス王室に
やってきてからの
ことです。

P7159108s

 

そんな
フランスの王宮でのみ供されていた
特別な料理が
フランスの街の中に広がっていくのには
歴史的な「あのできごと」が
大きなきっかけになった。

【料理が広がるきっかけ】

その後、1789年に勃発した
フランス革命によって
王宮を追われた料理人たちが
街に出てレストランを開き

フランス料理は
18世紀から19世紀にかけて
彼らの活躍で
その質がめざましく向上しました。

P7179605s

 

フランス革命による
「王宮を追われた料理人たち」によって
フランスの街に広がり始めた
「フランス料理」。

そして1815年、
ウィーン会議が開催される。

【ウィーン会議】

フランス料理が∃-ロッパで一躍、
脚光を浴びる出来事が起こりました


1815年から1816年にかけて
オーストリア帝国の首都
ウィーンで開催された
「ウィーン会議」です。

 フランス革命後に
軍事独裁政権を樹立した
ナポレオン・ボナパルトは、
ナポレオン戦争によって
一時期∃-ロッパ大陸の
ほとんどを征服しましたが、
結局、失敗して失脚。

その結果
ヨーロッパの国境はスタズタになり、
戦後処理を話し合うために

フランスと、
∃-ロッパ列強国だったイギリスや
ロシア、プロイセン、
オーストリアらの代表が
集ったのが
この国際会議の目的でした。

P7159110s

 

約1年におよぶ会議の期間中、
フランスの外交官の
お抱え料理人が大活躍する。

【敗戦国の宴会戦術】

フランスからは外交官
シャルル・モーリス・ド・
タレーラン・べリゴールが出席し、
会議期間中にしばしばお抱え料理人の
アントナン・カレームの手による
夕食会を開催
して各国の有力者を
もてなしました。

カレームは貧民街で育ち、
パリの菓子店で働いているところを
美食家のタレーランに
腕を見込まれた人で、
その卓越した料理は客人を魅了。

「会議は踊る、されど進まず」
といわれ、
各国の思惑が飛び交いながら
1年にもわたって続いた
ウィーン会議ですが、
この宴会戦術を使った
タレーランの巧みな外交によって、
フランスは
敗戦国の立場だったにもかかわらず、
戦勝国に要求を呑ませることができた

というエピソードが残っています。

P7158944s

 

具体的に、料理の力が
単独でどれほどのものであったのかは
もちろん明確にしようがないが、
たいへん興味深いエピソードだ。

まさに胃袋を掴まれた、ということだろう。

いずにせよ、
主要国の代表が集まっている以上
その影響力は計り知れない。

実際、料理人カレームは、その後

ロシア帝国のアレクサンドル1世や
イギリス王室のジョージ4世らの
依頼を受けて料理人を務め、
フランス料理が西洋料理を
代表する存在
に導いたのです。

P7159103s

フランス料理が世界に広がり、
そして、世界中の多くの国で
外交儀礼の際の正餐になっていく背景には
こんなきっかけがあったのだ。

 

 

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2018年8月12日 (日)

オーストリア旅行記 (51) フェリペ2世<スペイン王>(2)

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オーストリア旅行記 (51) フェリペ2世<スペイン王>(2)

- 的中!ノストラダムスの大予言 -

 

世継ぎを生むことが叶わなかった
2人目の妻メアリの待つイングランドに
1年3ヶ月ぶりに帰ってきたフェリペ2世。

このころから
彼のヒール(悪役)的特徴が
鮮明になってゆく。

これが前回の最後。
この続きから始めたい。

これまで同様、参考図書は
この2冊。

[1] 岩崎周一 (著)
  ハプスブルク帝国
  講談社現代新書


(以下水色部、本からの引用)

 

[2] 中野京子 (著)
  名画で読み解く
  ハプスブルク家12の物語
  光文社新書


(以下薄緑部、本からの引用)

 

今日も美術史博物館で撮った写真を
挿絵代わりに挿入しながら、
話を進めていきたい。

P7169415s

 

フェリペ2世が1年3ヶ月ぶりに
イングランドに戻った理由は?

彼がもどったのは
何も妻に会いたいからではなく、
彼女の自分への愛情を利用して、
対フランス戦での
資金援助をあおぐため
にすぎない。

その後、前回書いた腫瘍が原因で
メアリは息を引き取ることになるのだが、
フェリペ2世は
メアリの葬儀にさえ出席しなかった。
しかも、内々に打診していた
イギリス女王との結婚が
失敗に終わると、
今度は変わり身早く
仇敵フランスに近づいていったのだ。

P7169432s

 

そして3度目の結婚を迎える。

【3度目の結婚】

アンリ二世と講和を結び、ついでに
彼の娘エリザベートとの婚姻も決める
という、みごとな離れ業で、
イングランドの鼻をあかす。

だが、ここでもまた流血沙汰が
ついてまわった。

彼は、当時のしきたりに従い、
スペイン側としては
フェリペの代理人をたて、
フランスでエリザベートとの挙式
を行なった。

P7169427s

 

【的中!ノストラダムスの大予言】

その席上、
フェリペの舅となるアンリ二世が、
自ら馬上槍試合に参加した。

 あまりに有名な
ノストラダムスの予言
的中例としてあげられる
のが、
この寿ぎの場で起こった
恐ろしい事故である。

 ノストラダムスの詩文に曰く、

若き獅子は人に打ち勝たん
 戦のにて一騎打ちのすえ
 黄を抉(えぐ)りぬかん
 傷はふたつ、
 さらに酷き死を死なん」。

 馬上試合の「庭」で
「一騎打ち」の最中、
「若い」対戦相手の槍が折れ、
「老」アンリの「金」の
「兜」(=檻)を貫いて 
「眼」に突き刺さったのだ。

王は九日聞苦しみぬいたあげく、
「酷き死」を迎えた。

 これがフェリペ三度日の結婚の、
縁起でもないスタートであった。

200万部以上が売れた大ベストセラー、
五島勉さんの著書
『ノストラダムスの大予言』が
日本で出版されたのは1973年なので、
日本での最初のブームを知っているのは、
50代も後半以上の方ということに
なるだろうか。

ただ、その中では、
「人類滅亡」にまで触れられており
「1999年 7の月に恐怖の大王が来るだろう」
との記述になっていたので、
実際の1999年の記憶がある
30代以上の方であれば
聞いたことがあるのではないだろうか、
「ノストラダムスの大予言」

P7169428s

 

閑話休題。
縁起でもないスタートとなった
32歳の花婿と14歳の花嫁のカップルは
はたして幸せになれたのだろうか?

実はエリザベートは
生まれてまもなく、
フェリペの息子
カルロス(彼女と同年齢)と
婚約していた。

国家間の政略上
よくあることとはいえ、
フェリペは息子の婚約者を
奪った
ことになる。

しかも
カルロスとエリザベートは
この9年後、23歳で、
相次ぎ間をおかず死去してしまう。

P7169429s

 

【オペラ「ドン・カルロ」】

ヴェルディのオペラ
『ドン・カルロ』も、
この黒い伝説をもとにしている


相思相愛だった
エリザベートとカルロスが、
「老王」フェリペに
仲を引き裂かれた悲恋を縦糸に、
横糸には、
当時独立運動が盛んだった
ネーデルランドを支持したカルロスが、
けっきょくはフェリペに邪魔されて
死に至るというストーリーだ。

実際のカルロスも
父に反逆して
ネーデルランドヘ行こうとし、
逮捕監禁され、自殺未遂のあげく、
半年後、牢内で病死している。

そしてそのたった2ヶ月後、
エリザベートが男児を早産。
まるでカルロスの呪いのように、
そのまま母子ともに死去してしまう。

結局、娘ふたりを残しただけだった

話は続く。

フェリペは
彼らを亡くした同年のうちに、
四人目の妻を迎える。

P7169431s

 

【4度目の結婚】

今度の相手は
健康で多産でなければならない。
多産というなら、
十人も子を産んだ自分の妹だ、
というわけで、
現代人には受け入れがたい
叔父姪結婚、
正確には、従兄と実妹との間にできた
娘アナを妻にした。

大変な血の濃さ。

おそらくそのせいと思われるが、
アナは多産ではあったが、
生まれた子は次々夭逝し、
けっきょく
息子ひとり(フェリペ三世となる)を
残して
12年後に、
やはり産褥で亡くなった。

フェリペ53歳。またも独り身
ようやく息子を得て
もう結婚は考えていなかったのだろうか。


P7169430s

 

それとも噂どおり、
スコットランド女王
メアリ・スチュアート

次の視野に入れていたのだろうか? 


幽閉中のメアリにフェリペが密かに
コンタクトを取ったせいで、
彼女は謀反人として
エリザベスから首を
刎(は)ねられてしまう

「スペインが動けば世界は震える」
と言われていたが、
間違いなく
フェリペが動けば血が流れた
のだった。

1500年代後半、
日本では戦国時代のころのことだ。

 

 

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2018年8月 5日 (日)

オーストリア旅行記 (50) フェリペ2世<スペイン王>(1)

(全体の目次はこちら


オーストリア旅行記 (50) フェリペ2世<スペイン王>(1)

- カクテル名「ブラッディ・メアリー」の由来 -

 

ハプスブルク帝国の歴史を

(1) ルドルフ1世
  (生没:1218年-1291年)

(2) マクシミリアン1世
  (生没:1459年-1519年)

(3) カール5世
  (生没:1500年-1558年)

で振り返ってきたが、
今日取り上げたいのは、
フェリペ2世(スペイン王)
(生没:1527年-1598年)


スペイン帝国の絶頂期、
ヨーロッパ、中南米、
アジアもフィリピンにまで及ぶ
大帝国を支配。
さらにポルトガル国王も兼ね、
ポルトガルが有していた植民地も継承。

「太陽の沈まない帝国」と言われた
スペイン黄金期に君臨した
偉大なる王だ。

これまで同様この2冊を参考図書に
見ていきたい。

[1] 岩崎周一 (著)
  ハプスブルク帝国
  講談社現代新書


(以下水色部、本からの引用)

 

[2] 中野京子 (著)
  名画で読み解く
  ハプスブルク家12の物語
  光文社新書


(以下薄緑部、本からの引用)

 

挿絵代わりに挿入する写真は、
美術史博物館で撮ったもの。

P7169423s

 

【流血のイメージ、フェリペ2世】

フェリペ2世が君臨したのは
スペイン黄金時代である。

だがその黄金は、
インカ帝国などでの略奪
ネーデルランドの
弾圧によって得た富であり、
血の匂い
たっぷり沁(し)みこんでいた。

おまけに絶えざる陰謀、
反乱、宗教戦争、
異端審問、ペストと、
この絶対君主の生涯は

(中略)

結婚にさえ、どこかしら
流血のイメージが
纏(まと)わりついている


四度の結婚で、それぞれ
ポルトガル、イングランド、
フランス、オーストリアから
妻を迎え、全員に先立たれた
というだけではない。

加えて
プロテスタント虐殺、事故死、
息子殺し
、などなど
まさに激動の人生を送っている。

P7169408s

 

最初の結婚から順に見ていこう。

【最初の結婚】

 最初の結婚は16歳
相手は同じ年齢のポルトガル王女で、
父方からも母方からも従妹にあたる。

ハプスブルクの
少し垂れ下がった下唇を持つ
ほがらかな彼女は、
口数の少ない社交下手の
フェリペ皇太子に
若々しい喜びを与えたようだ。

ただし幸せは二年に満たず、
難産の数日後には
あっけなく世を去ってしまった。

18歳でやもめとなった
フェリペの手には、
ひ弱な息子が残された。

祖父の名にちなみ、
カルロスと名づけられたこの子が、
後世、ヴェルディの傑作オペラ
『ドン・カルロ』のモデル
となる。

たった二年で終わった一度目の結婚。
ひとり残されたひ弱な息子。

二度目の結婚は父の命令だった。

P7169412s

 

【2度目の結婚】

 二度目は27歳のとき。
相手は11歳も年上の
イングランド女王メアリー1世
で、
これは父カール5世の命令だから
皇太子に否も応もない。

カトリック対プロテスタントの抗争が
再燃し始めたイングランドを、
しっかりカトリック化する
使命
を担ったのだ。

P7169414s

契約でイングランドに渡った
フェリペだったが、メアリーは
フェリペの意を汲み、
プロテスタントの反乱者
数百人をすでに血祭りにあげていた


後世、カクテルの名前になる
ブラッディ・メアリー
 (血まみれメアリー)

はこのエピソードに由来する。

よくこんな恐ろしい名前を
カクテルの名前につけたものだ。
単なる見た目だけによる命名ではなく
史実に繋がる背景があったかと思うと
トマトジュースベースとは言え、
もう冷静には味わえない気がする。

両親の離婚、幽閉、栄養失調、など、
多くの苦労を経験していたメアリーは、
病弱で痩せこけていたが、
世継ぎを産みたいとの執念だけは
強かった。

なので、訪れた「懐妊か?」の兆候には
大喜びしたようだが、
実際には残念なことに想像妊娠だった。
しかも、腹部の膨張は腫瘍
これがのちの命取りにまで
なってしまう。

 フェリペは
一見変わらぬ態度を示したが、
四十近いメアリーに
子を成すのはもう不可能と
見切り
をつけたらしい。

父の退位宣言を口実に、
滞在一年半足らずで
イングランドを去る。

メアリーは心のこもった手紙を
送り続け、帰国を待ち続けたが、
スペイン王フェリペ2世として
改めて彼がその姿を現したのは、
1年3カ月も後のことだった。

世継ぎを生むことが叶わなかった
2人目の妻メアリーの待つイングランドに
1年3ヶ月ぶりに帰ってきたフェリペ2世。

このころから
彼のヒール(悪役)的特徴が
鮮明になってゆく。

 

少し長くなってきたので、
激動という言葉がふさわしい
彼の人生の後半の話は、
次回にしたい。

 

 

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2018年7月29日 (日)

オーストリア旅行記 (49) カール5世

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オーストリア旅行記 (49) カール5世

- 70の肩書の意味 -

 

というわけで(?)、今日は
マクシミリアン1世の孫
カール5世
(生没:1500年-1558年)

について書きたいと思う。

日本では室町時代後半、
と言うかちょうど戦国時代。
 1534年 織田信長 誕生
 1536年 豊臣秀吉 誕生
 1542年 徳川家康 誕生
 1553-64年 川中島の戦い
といったころ。

参考図書は
これまで通り以下の2冊。

[1] 岩崎周一 (著)
  ハプスブルク帝国
  講談社現代新書


(以下水色部、本からの引用)

 

[2] 中野京子 (著)
  名画で読み解く
  ハプスブルク家12の物語
  光文社新書


(以下薄緑部、本からの引用)

 

今日も美術史博物館で撮った写真を
挿絵代わりに挿入しながら、
話を進めていきたい。

P7169398s

 

さぁ、始めよう。

カール5世こそ、
ハプスブルク家絶頂期の皇帝だ。

その支配領域を
上記の本[1]にあった図で見てみよう。

Karl5

フィリピン、オーストリア、
ネーデルラント、スペイン、
メキシコ、キューバ、ペルーと
まさに「日の沈まない帝国」は
誇張ではない。

まず最初、ややこしい名前について。

 日本人にとって
他国の王侯貴族の称号や名前は、
発音も絡み、非常にわかりにくい。

カール5世の場合、特にそうだ。
カールとカルロスが同源だろうとは
想像できても、
カール5世とカルロス1世が
同一人物
と聞いただけで、
世界史が嫌になった人も
多いのではないだろうか。

どうして
こういうことになるかと言えば、
ひとえに領土が広大
(欧州の3分の2と中南米を支配)
だからだ。

再度、最初に貼った地図を見ると
「領土が広大」の意味がよくわかる。

 

 彼は父フイリップ美公を継いだので
ブルゴーニュ公であり、

母方の祖父を継いで
スペイン王でもあり、

父方の祖父マクシミリアン1世を継いで
ドイツ王でもあり、

ローマ王でもあり、
ハンガリー王でもあり・・・と、
ヨーロッパ史上最多の
70もの肩書きを持った


そこで、
神聖ローマ帝国皇帝としては
カール5世、
スペイン王としては
カルロス1世

(後に玄孫がカルロス2世を名のる)
という次第。

P7169399s

 

70もの肩書。それは
単なる仰々(ぎょうぎょう)しさや
権威の誇張のためではなく、
多民族国家の統治に関する
大事な点を示していることを
[1]はわかりやすく説明してくれている。

 このような称号・肩書の羅列に
どのような意味があるのかは、
にわかには判じがたい。

しかし、こうした
冗長で仰々しい名乗り
- 中には実際には
  支配していない地域、
  また肩書だけで
  実体のないものもある -
が持つ意味を、
当時の人々は十分に認識していた

P7169400s

 

【同君連合国家】

それは、カールの息子
フェリーペ(2世)の時代に著された
『アラゴン王国要覧』(1588年)の
次の一節がよく物語っている。

「今日では
 すべての諸王国が結びつき、
 すべての諸王国が不敗を誇る
 我らのフェリーペ王
 お一人の意思によって
 治められているとはいえ、
 各王国は数世紀前に得た
 それぞれの古き法を維持しており、

 その法は
 他の諸王国の法とは
 何ら共通するものではないのである


 私たちの考えでは、
 何世紀も前から我らの君主による
 王令に示された
 おびただしい数の称号の起源は
 このようなことである


 これは、一見すると
 ひけらかしや虚栄心の故のように
 見えるかもしれないが、
 すべての諸王国を同じものとして
 考えてはならないということを
 はっきり理解させるための
 ものであった
」(内村俊太訳)。

つまりカール5世の下に誕生した
ハプスブルク君主国とは、
独自の法・制度・伝統を持つ
何十もの諸国・諸邦が、
同じ君主を戴くことによって成立する、
同君連合国家であったのだ

「独自の法・制度・伝統を持つ
 何十もの国が、
 同じ君主を戴く同君連合国家

P7169401s

独自の国制の尊重は、
決して形だけのものでは
なかったようだ。

この国家の統治において、
諸国・諸邦の諸身分と交わした
統治契約を守り、
その国制を尊重することは
絶対のルールであり、

それらの大小強弱にかかわらず、
決して侵害したり
粗雑に扱ってはならなかった


この禁を破ることは、
支配の正当性を失うことを
意味したのである。

いかに強大とはいえ、
カールもまた事情は同じであった。

彼がそれをよくわきまえていたことは、
退位の際に後継者フェリーペに対し、

自国の法を神聖不可侵と考え、
 臣民の権利や特権を
 侵害しないようにしなさい


と諭したことがよく物語っている。

今日の近世史家は、
このような近世ヨーロッパの諸国家を
複合(君主政)国家」と呼ぶらしい。

P7169406s

 

複合的な「日の沈まない帝国」を
支えていたのは、
まさに「各国家尊重の精神」で
強制的な「統一」ではなかった

 

 

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2018年7月22日 (日)

オーストリア旅行記 (48) ハプスブルク家の鼻と顎(あご)

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オーストリア旅行記 (48) ハプスブルク家の鼻と顎(あご)

- 顔の特徴、血縁あればこそ -

 

前回
マクシミリアン1世を取り上げた。

ウィーンの美術史博物館にある
アルブレヒト・デューラー作の
油彩肖像画(74cmx62cm)の
写真を再度添えたい。
この肖像画から、どんなことが
読み取れるだろうか。

P7169411s

(自然史博物館の方は撮影禁止だったが、
 美術史博物館の方は写真OKだった)

中野京子 (著)
  名画で読み解く
  ハプスブルク家12の物語
  光文社新書


(以下薄緑部、本からの引用)

にいろいろ教えてもらおう。

 マクシミリアン1世は
黒いビロードの大きなパレット
(ベレー帽の一種)をかぶり、
深みを帯びた緑色をバックに立つ。

右手の指の形からして、
おそらくテーブルか地球儀に
軽く手を添えているのであろう。

左手には石榴(ざくろ)を持っている。

この果物は、
果肉にびっしり種子がつまっているため
「豊穣」のシンボルとなってきたが、
一方でまた、そうした無数の種が
丈夫な皮におおわれているところから、
君主の下における
人々の結束の象徴ともされた。

P7169411s1

石榴(ざくろ)にそんな意味があったとは。


 着ている赤いコートは
なかなか豪華で、裏地は毛皮。
襟と袖口を折り返してある。

襟の折り返しが
肩と上腕をすっぽり覆うほどなのは、
じゅうぶんな防寒が
必要だったから
であろう。

P7169411s2

 

グレーの髪、目の下の隈、
たるんだ頬や顔中の皺から
北国の寒さがこたえる年齢だ
ということが察せられる。

P7169411s

 

 画面上部左に、
ハプスブルク家の紋章である
双頭の鷲が、皇帝の冠を戴いた
ワッペン型の中に描かれており、
その横には、皇帝を讃える
ラテン語の銘文が読める。

内容はざっと次のようなものだ。

「史上最大のマクシミリアン帝は、
 正義と知恵と寛容において、
 また特にその高邁さにおいて、
 他のあらゆる王たちに優っていた。

 皇帝は1459年3月9日に生まれ、
 1519年1月12日、
 59歳9カ月と25日で崩御した。

 この偉大なる王に栄光あれ」。

P7169411s3

つまりこれは、
マクシミリアン1世逝去後の作品
ということがわかる。

 

同じ美術史博物館には、
マクシミリアン1世の
こんな肖像画もある。

P7169381s

ちょっと前置きというか寄り道が
長くなってしまったが、
今日の本題に移りたい。

上に貼った2枚の肖像画を見て、
なにか気づくような
顔の特徴があるだろうか?

 

婚姻をひとつの柱として発展してきた
ハプスブルク家の歴史を考えるとき、
血が繋がっているからこそ、の
顔の特徴はかなり重要で、
ちょっと気をつけてみるだけでも、
「これ、ハプスブルク家の人かも?」と
絵画をみる際の楽しみ、想像力が
大きく変わってくる。

もう一枚、同じ美術史博物館にある
無名画家による
『マクシミリアン一世と家族』
の絵をご覧あれ。

P7169410s

後列左の赤いパレットをかぶった王が、
マクシミリアン1世だ。
横顔なので鷲鼻と受け口がはっきりわかり、
デューラーの肖像とは別人のようだ。

その隣の黒いパレット姿が、
フアナの恋してやまなかった
フイリップ美公、

右端が1世の妃マリア。

前列へ行くと、
左がマクシミリアンの孫で、
オーストリア・ハプスブルクを継いだ
フェルディナント1世。

右端の人物に関しては諸説あり、
男女どちらかも意見がわれている
(「カール五世の妻」説、
「マクシミリアンの孫娘の夫」説など)。

注目は、ひときわ顎(あご)の大きな
中央の黒パレットで、
これがカール5世の若き日の姿だ

ちょっと寄って見てみよう。

P7169410ss

ティツィアーノの肖像画では
どれも髭をたくわえているので
さほど目立たないが、
同時代人の証言によると、
カールは極端な受け口のせいで
歯の噛み合わせがひどく悪く、
常時口を開けていた
とまで言われる。

おそらく絵よりもっと下唇が垂れ、
顎は突き出ていたに違いない。

そしてこの優性遺伝が、
血族結婚をくり返すことで
子々孫々に伝えられ、とりわけ
スペイン・ハプスブルクにおいて、
極端に歪んだ形で出現する
ことになる。

鷲(わし)鼻、
出張った下顎
という
ハプスブルク家の特徴。
これを意識するだけでも
絵画への興味がずいぶん変わる。

ぜひ心の片隅に
留めておいていただければ。

 

さてさて、顔の説明に登場した
マクシミリアン1世の孫、
カール5世

彼こそが
ハプスブルク家絶頂期の皇帝だ。

次回は彼の話から続けたい。

 

 

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2018年7月15日 (日)

オーストリア旅行記 (47) マクシミリアン1世(2)

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オーストリア旅行記 (47) マクシミリアン1世(2)

- 政略結婚の闇 -

 

記事を書こうと日付をみると7月15日。
ちょうど一年前はウィーンに居た。
オーストリア旅行記も気が付くと47回目。
つらつらと旅行時のメモをたよりに
あれやこれや調べながら書いていたら
もう一年も経ってしまったことになる。

まぁ、マイペースで
のんびり更新しておりますので
興味のありそうなところだけでも
ときどき遊びに来ていただければ、と
思っています。

 

さて、
ハプスブルク帝国の歴史を
人物から振り返る2人目。

マクシミリアン1世
(生没:1459年-1519年)
の続きから始めたい。

思い出すために、
ウィーンの美術史博物館で撮った
アルブレヒト・デューラー作の
油彩肖像画を再度貼っておこう。

P7169411s

なお、参考図書は、
引き続きこの2冊。

[1] 岩崎周一 (著)
  ハプスブルク帝国
  講談社現代新書

(以下水色部、[1]からの引用)

 

[2] 中野京子 (著)
  名画で読み解く
  ハプスブルク家12の物語
  光文社新書

(以下薄緑部、[2]からの引用)

 

今日の挿絵代わりの写真は、
美術史博物館で撮ったもの。

P7169380s

 

【スペインとの二重結婚】

マクシミリアン1世は
結婚による
果実の大きさに気を良くし、
父のやり方に倣って、
子どもたちにも
早い段階から手を打っておいた。

息子フィリップ美公を
スペイン王女フアナと、

娘マルガレーテを
スペイン王子ファンと

結びつけたのだ。

ハプスブルク家とスペイン王家の
この二重結婚には
とうぜん条件があり、
どちらかの家系が断絶した場合は
残された方が領地を相続する
と決められた。

名前も関係も
一読しただけではわかりにくいので、
ハプスブルク家側を青色、
スペイン側を[SP]の省略符と黄色の箱で
図にしてみよう。

M121

という二重結婚となる。


P7169385s

 

その結果、どうなったかといえば・・・

 

【(a)息子側にのみ、子授かる】

フィリップとフアナの間には
二男四女が授かったのに、

ファンとマルガレーテには
子どもは生まれなかった

というよりこのスペイン王子は、
結婚式の半年後に突然死してしまう。

M122

もう一度書くが、
ハプスブルク家側が青色だ。


P7169389s

 

【ハプスブルク家男系への継承】

どう考えても、ハプスブルク家に
都合よすぎる展開といえるだろう。

なぜなら契約によれば、
これでスペインは
いずれフィリップとフアナの子ども、
つまりハプスブルクの男系へ
渡ることが決定的となった
からだ。

すると今度は
(スペイン王子ファンの死から
 九年後だが)、
息子フイリップが突然死する。

M123

結果的に夫はふたりとも突然死!


P7169390s

 

スペイン側の復讐だったかどうか
証拠なしとはいえ、
相次ぐ王子たちの死が
自然死とはとうてい信じがたく、
政略結婚の闇の探さ
垣間見る思いがする。

P7169392s

マクシミリアン1世は
息子を亡くして痛手を負ったが、
ふたりの男子を孫として得られ
世継ぎは確保
された。

こうして老皇帝は、孫カールが
16歳でスペイン王の座につくのを
しっかりその目で見届けたし、

自分の死後、
神聖ローマ皇帝位を
継がせることも確認できた。

スペインは
すでに中南米を支配していたから、
ハプスブルク家の領土拡大ぶりは
まさに爆発的。

諸侯たちは、
老いたマクシミリアン1世に
まんまと出し抜かれた。


P7169393s

 

【さらに続く婚姻作戦】

しかも婚姻作戦は
これで終わりではない。

マクシミリアン1世は死の間際に、
孫たちの結婚まで決めておいた。

カールはポルトガルの王女とで、
こちらは新たな領土取得とは
結びつかなかったが、

カールの弟は
ボヘミア・ハンガリー国の王女と、

カールの妹は
同じボヘミア・ハンガリー国の王子と

二重結婚
それもスペインと同じ契約結婚をさせた。

同じくハプスブルク家側を青色、
ボヘミア・ハンガリー側を
[BH]の省略符と黄色の箱で書くと、

M124

の二重結婚。


P7169394s

 

そしてその結果は・・・

 

【(c)孫側にのみ、子授かる】

不思議なことに
スペインとの場合と
全く同じことが起こった


男系である息子の方には
三男十女も生まれたのに、

娘と結婚した
ボヘミア・ハンガリー王子は、
世継ぎのないまま早々
と戦死したのだ!

M125

なんということだろう。
上に貼ったスペインとの図を
もう一度ここに貼って並べてみると、
まさにスペインのときと同じ!

M122

ハプスブルク家は
自分たちの強運を寿(ことほ)いだが、
ほんとうに「運」だけ
だったのだろうか?

それはともかく、
こうしてハプスブルク家は
ボヘミア・ハンガリーまで手に入れた。

そののちも続く、

「戦争は他の者にまかせておくがいい、
 幸いなるかなオーストリアよ、
 汝(なんじ)は結婚すべし!」

の外交。

P7169396s

 

突然死に限らず、不運や不幸が
すべて相手国の
計略によるものだったのかどうかは
もちろんわからないが、政略結婚とは、
男にとっても、女にとっても、
まさに命がけの「外交」だったのだ。

 

 

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2018年7月 8日 (日)

オーストリア旅行記 (46) マクシミリアン1世(1)

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オーストリア旅行記 (46) マクシミリアン1世(1)

- 汝(なんじ)は結婚すべし、か? -

 

ハプスブルク帝国の歴史を
人物から振り返る2人目。

今日取り上げたいのは、
マクシミリアン1世
(生没:1459年-1519年)

彼に関しては、
アルブレヒト・デューラー作の
油彩肖像画が、
ウィーンの美術史博物館にある。
74cmx62cmの大きさのものだが、
美術史博物館で撮った写真を添えたい。

(自然史博物館の方は撮影禁止だったが、
 美術史博物館の方は写真OKだった)

P7169411s

日本では室町時代。
応仁の乱があり、
銀閣寺ができて
東山文化が花開いたころの
人物だ。

参考図書は、
ここで選んだこの2冊。

[1] 岩崎周一 (著)
  ハプスブルク帝国
  講談社現代新書


(以下水色部、[1]からの引用)

 

[2] 中野京子 (著)
  名画で読み解く
  ハプスブルク家12の物語
  光文社新書


(以下薄緑部、[2]からの引用)

 

今日も「宝物館」での写真を
挿絵代わりに挿入しながら、
話を進めていきたい。

P7159021s

 

【中世最後の騎士】

・・・15世紀末、ドイツ王兼
神聖ローマ皇帝の座についた
マクシミリアン1世こそ、
久々にハプスブルク家が輩出した
英雄であった。

「中世最後の騎士」
- マクシミリアン1世が
こう讃えられたのは、
治世26年のうち25回も遠征をおこない
しかもその戦の際にはご先祖のように
奇襲作戦を取るのではなく、
常に自ら最前線へ立ち、正々堂々と
騎士らしく戦ったためである。

(中略)

領土をブルゴーニュ、スペイン、
ハンガリーへと拡げ

国号も
「(ドイツ国民の)神聖ローマ帝国」
と改称して、
古代ローマ帝国再建より
ドイツ語圏における
ハプスブルク王朝強化を
鮮明にするとともに、実際、
ヨーロッパ有数の名家に押し上げた

治世26年のうち25回も遠征した
勇猛な騎士だっただけでなく
文化人でもあったようだ。

【ウィーン少年合唱団へ】

さらにこの勇猛果敢な騎士は
「ドイツ最初のルネサンス人」でもあり、
人文主義者や芸術家たちを庇護し、
自分でも詩作した
ことで知られる。

現在の
ウィーン少年合唱団の基礎となる、
宮廷礼拝堂少年聖歌隊を
創設した
のも彼だった。

P7159019s


晩年の皇帝は、
「昔日の面影なし」と言われても
仕方ないほど生彩を欠いていたが、
実際には、戦(いくさ)ではなく、
「婚姻外交」で
大きな成果を生んでいた。

この「婚姻外交」こそ、
ハプスブルク家を語るうえで
欠くことのできないキーワードだ。

【汝(なんじ)は結婚すべし!】

 もともとは
優柔不断なフリードリヒ3世が、
戦争厭(いや)さに
ぬらりくらり難事をかわすうち
引き当てたラッキーカードだった。

息子のマクシミリアン1世を
ブルグント公国 
(現フランスのブルゴーニュ、
 ベルギー、ルクセンブルク、
 オランダにまたがる、当時
 ヨーロッパ一繁栄を誇っていた国)
のマリアと結婚させることで、
労せずしてハプスブルク家に
莫大な富と領土をもたらした
のだ。

 ここから有名な 

「戦争は他の者にまかせておくがいい、
 幸いなるかなオーストリアよ、
 汝(なんじ)は結婚すべし!」 

 (誰の言葉かは不明) 

という家訓が生まれたと言われる。

「戦争は他の者にまかせておくがいい、
 幸いなるかなオーストリアよ、
 汝(なんじ)は結婚すべし!」

は、まさにどの本にも必ず登場する
ハプスブルク家のモットーだが、
書いてある通り
「誰の言葉かは不明」なうえ、
参考図書[1]では
「誤解も多い」、
「誤りである」とまで書いてある。

P7159005s

 

ちょっと立ち止まって考えてみよう。

 ここで、有名だが誤解も多い
ハプスブルク家の結婚政策について
触れておこう。

これに関しては、
「戦争は他国にさせておけ、
 なんじ幸いなるオーストリアよ、
 結婚せよ」
というモットーの下、
ハブスブルク家は政略結婚による
領土拡大を図ったという説

広まっている。

しかし、
これは端的に言って誤りである

先述の言葉も
詠み人知らずの揶揄に過ぎず、
モットーや家訓などではない。

ブルゴーニュ、スペイン、
チェコ、ハンガリーで
ハブスブルク家に
継承の可能性が生じたのは、
相手方の系統断絶という
偶然によるものだった。

ずいぶんバッサリだ。
ただ、「通説」を冷静な目で
見直してみることも時には必要だろう。

P7159009s

 

 そもそも政略結婚は、
日本にもあまた例があるように、
洋の東西を問わず、
家門勢力を存続・発展させるための
常套手段であった。

ハブスブルク家の結婚政策も、
結果としてきわめて大きな意味
持つことになったとはいえ、
他家のそれと特に変わらなかった

常套手段を
他家と同じように使っていただけなのに
特に強い印象を残しているのは、
やはり
「結果としてきわめて大きな意味」
を持つことが多かったという
「結果」から来ているのだろう。


P7159012s

もうひとつ、[1]は
政略結婚における大事な点も
指摘している。
その部分も引用しておきたい。

 最後に、君主間の約定がどうあれ、
また姻戚関係がどれほど密接であっても、
臣民の代表たる
諸身分の支持がなければ、
君主となることも、
その座を維持することも
不可能だった
ことを忘れてはならない。

* ハプスブルク家は
 アルブレヒト1世と同2世の時代に
 ボヘミアの王位を手にしたが、
 いずれの場合も長く保持することは
 できなかった
こと、

* 16世紀には
 繰り返しポーランドの王位を狙い、
 歴代の国王との
 密接な姻戚関係を生かして
 積極的に運動したが、
 実現することはできなかったこと、

など、同地の諸身分と
良い関係を築けなかったことによる、
失敗例を挙げている。

 こうした出来事が示すように、
支配の成立と安定には、
被治者の同意が不可欠だった


そしてそれは、
その地の政治的伝統の尊重を約し、
諸身分の参政権を認めることで、
はじめて認められるものだった。

このため中近世のヨーロッパでは、
王族の婚姻の際に諸身分が立会人となり

継承問題に関しても
あらかじめ同意をとりつけておくことが
しばしばであった。

なるほど、
安定した支配のための
「被治者の同意」か。

P7159010s

 

いずれにせよ、
家訓かどうか、
モットーかどうかとはともかく
婚姻による外交が
富と領土に大きく影響していたことは
間違いない。

ちょっと長くなってしまったので
マクシミリアン1世が具体的に
どんな婚姻を考え
どんな成果をあげたのか、は
次回に書きたいと思う。

 

 

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