書籍・雑誌

2018年5月13日 (日)

オーストリア旅行記 (38) カフェ文化

(全体の目次はこちら


オーストリア旅行記 (38) カフェ文化

- ひとりでいたい、でも仲間が必要だ -

 

ウィーンの文化と言えば、
やはりこれに触れないわけには
いかないだろう。

カフェ文化。

【カフェ フラウエンフーバー】

P7148790s

Café Frauenhuber
ウィーン最古のカフェ

P7148793s

夕日を背に外のテラスで食事をしたが、
食事のあと、
店内の写真を撮らせてもらった。

P7148795s

女帝マリア・テレジアの料理人
フランツ・ヤーン(Franz Jahn)が
1788年に開業。

1788年にはモーツァルト
「ヘンデルのパストラーレ」を

1797年にはベートーヴェン
「4本の金管楽器とピアノのための5重奏」

をここで演奏。

特に、モーツァルトが公衆の面前で
ピアノ演奏を行ったのは、
ここが最後になったらしい。

P7148801s

モーツァルトとベートーヴェンが
演奏したことのあるカフェ
というだけで、
もう寄らずにはいられない。

P7148802s

落ち着いた店内の雰囲気に
まさにピッタリといった感じの正装で、
丁寧な接客をする
ケルナー(ウェイター)さんが
ほんとうに印象的。

かなりなご高齢と思われるが、
所作と言うか身のこなしが美しく、
まさにプロフェッショナル。

ワイワイと
各国からの観光客が多くても、
店の独特な空気感が
キッチリ守られていることが、
なんとも気持ちがいい。

 

【カフェ ブロイナーホーフ】

P7158948s

カフェ「Café Bräunerhof」

ここにも、多くの芸術家が
集(つど)っていたと言う。

ところで、
「ウィーンといえばカフェ」
と言われるほどにウィーン文化を
代表しているもののひとつがカフェ。

「文化」と呼ばれるまでの
その独特な存在意義を
下記の本を参照しながら
覗いてみたい。

広瀬佳一、今井顕 編著
 ウィーン・オーストリアを
 知るための57章【第2版】
明石書店

(以下水色部、本からの引用)

 

まずは起源から。

 ウィーンといえば、
即座にコーヒーやカフェを
思い浮かべる人も少なくないだろう。

確かに、ウィーンは、
東方に起源をもつ
この「黒いスープ」を、
ヨーロッパで最も早く
普及させた都市
であった。

P7158947s

 

ウィーン風コーヒーや
カフェの起源については、
数多くの伝説が
まことしやかに語り伝えられている。

たとえば-

1683年、
トルコ軍によるウィーン包囲の際、
トルコ語の才能を買われて伝令となり、
敵陣に潜入して
皇帝軍を勝利に導いた
コルチスキーが、戦後、
トルコの野営地に放置された
コーヒー豆を得て、
ウィーン初のカフェ・ハウスを
開店したというエピソードは、
あまりにも有名である。

しかし実際には、
このコルチスキーより以前に、
都市在住の東方商人らを相手に
コーヒーを出す店が、
すでに存在していたようだ。

P7158950s

すでに18世紀には、
カフェはウィーンの名物、
見どころのひとつに
数えられていた。

1720年に開業し、
国内はもちろん、全ヨーロッパの
主要な新聞・雑誌を常備していた

「クラーマー・カフェハウス」は、
やがて首都の知識人の結集地となった。

P7158954s

こんな感じで、どこのカフェでも
新聞や雑誌が読み放題になっている。
特に新聞のフォルダが印象的。

P7169197s

ただ、

 薄暗く狭い店の中、
大テーブルに相席で押し込まれた
大勢の客が、
騒がしくひしめき合う。

多くの風刺画や銅版画が
今日に伝えるように、
これが、18世紀前半までの
カフェの日常風景であった。

それが大きく変化を始めるきっかけが
18世紀、後半に起こる。

 こうした状況が
変化を見せはじめたのは、
1780年代のことである。

P7158952s

 

皇帝ヨーゼフ2世による
飲食店営業規制穏和の結果、
カフェの数がさらに増大すると、
多くの店主たちは、
生き残りを賭けて大改装に着手
した。

内装は上流階級のサロンに擬せられ、
採光が不具合な立地でも、
クリスタル製の
豪華なシャンデリアが
明るく照らすようになった。

目抜き通りに面した店では、
軒先に植木鉢を並べた
「シャニ・ガルテン」、
今でいう
オープン・エアが創案された

オープン・エアのテラス席は
このころの発明だったわけだ。

P7158953s

 

公共の場において追求される
個人の孤独


これこそ、その後、
19世紀から現在まで
人々を魅了し続けた、
ウィーンのカフェの
最大の特色にほかならない。

たとえば、20世紀前半に
活躍した文筆家で、
「カフェ・ツェントラール」をはじめ、
名だたる文学カフェの
常連としても知られる
アルフレート・ポルガーは、
カフェの魅力についてこう語った。

「一人でいたい、
 けれど、
 同時に仲間が必要だ。
 こういう人々が、
 カフェに通うのである」

P7158955s

 

ちなみに、上の引用に出てきた文学カフェ
【カフェ ツェントラール】
は、こんな感じ。

P7179684s

P7179686s

興味深いのは、歴史ある
「ツェントラール」のすぐそばに
これを発見したこと。

P7179688s

ウィーンの人には
どんな風に見えているのだろう?

2001年末、ケルントナー通りに
第一号店をオープンさせたとき、
多くのウィーンっ子から、

コーヒーを
 紙コップで飲むなんて、
 あり得ない
」と、

猛反発を受けた
スターバックス・コーヒーが、
その後、若い世代を中心に
広く受け入れられ、現在、
市内に9店舗を展開している事実もまた、
ウィーンにおけるカフェ文化の変遷の、
その一面を象徴しているのかもしれない。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2018年4月22日 (日)

オーストリア旅行記 (35) カール教会と分離派

(全体の目次はこちら


オーストリア旅行記 (35) カール教会と分離派

- 「土地の雰囲気」がもつ許容力 -

 

今日は、リンク通り周辺の
2つの建物をきっかけに
「ウィーン分離派」と
その運動について少し紹介したい。

【カール教会 Karlskirche】

P7158836s

建築家エルラッハの
バロック的理念が具現化された
彼の代表作「カール教会」。

大きなドームをいただく
楕円形の空間と
精緻な装飾が刻まれた二本の円柱が特徴。

岩崎周一 著
ハプスブルク帝国
講談社現代新書

(以下薄緑部、本からの引用)

にはこんな記述がある。

バロック文化は、
第二次ウィーン包囲以降に
ハプスブルク諸邦にあまねく行き渡り、
カール6世の時代に全盛期を迎えた。

とくに大きな成果が上がったのは
建築の分野で、
ヨハン・ベルンハルト・
フィッシャー・フォン・エルラッハ、
ルーカス・ヒルデブラント、
ヤーコプ・プランタウアーといった
優れた建築家たちが腕を振るい、
宮廷図書館、ベルヴェデーレ宮殿、
メルク修道院など、
「皇帝様式」の傑作を
あまた世に送り出した。

なかでも、
カールの発案に応えた
諸身分の献金により建立された
カール教会(1737年落成)は、
王権・カトリック教会・諸身分の
「三位一体」により成立していた
近世のハプスブルク君主国を
象徴とする
意味でも、
意義深い建造物である。

 

【カールスプラッツ駅】

P7179511s

オットー・ワーグナー設計による駅舎。
路線のカラーである薄緑色を基調とし、
金装飾に特徴のある2つの駅舎が
向かい合って建っている。
黄金のヒマワリや緑の骨組みが印象的だ。
完成は1899年。

 

このオットー・ワーグナーこそ
「ウィーン分離派」と呼ばれる
芸術革新運動の中心人物のひとりだった。

「ウィーン分離派」とはいったい何?

参考図書
広瀬佳一、今井顕 編著
 ウィーン・オーストリアを
 知るための57章【第2版】
明石書店

の「分離派」についての章は、
山之内克子さん
書いている。
(以下水色部、本からの引用)

まずは分離派の簡単な説明から。

【ウィーン分離派】

1897年、
画家グスタフ・クリムトを中心とする
19人の芸術家たちは、
保守的・正統的画壇に反発し、
新しい芸術グループを結成した。

腐敗政治に抗議する若者たちが
都市を離れて山に籠もったという、
古代ローマの「民衆離反」
の故事に因んで
「分離派(ゼツェッシオン)」
と称した新グループは、
過去の様式を模倣することが
芸術の目的であった時代が過ぎ去った今、
芸術は自分自身のスタイルを
もたなければならない

宣言したのである。

「時代にはその芸術を、
 芸術にはその自由を」

の標語が掲げられていたという。


【画家クリムトと建築家ワーグナー】

クリムトが
「裸の真理」で描いたものは、
時代の真実を反映するという、
社会における芸術の
本質的な課題にほかならない。

そして、これこそ、
分離派の芸術家たちが
生涯保ち続けた制作目標であった。

画家クリムトが、
理想化された人体ではなく、
時には醜悪な姿を晒す裸体を通じて、
近代人の潜在意識を
呼び覚まそうとしたように、

建築の分野では、
オットー・ワーグナーが、
実用性と結びついた
美の形を追求した


建物における「真実」とは
「使いやすさ」であり、
芸術の使命は、
人間の実利的な要求を
満たすことである。

過去の歴史様式から「分離」して
新しい創造に向かおうとする
芸術革新運動。
当時、どんな勢いがあったことだろう。


【でも、実りの秋は・・・】

だが、分離流がウィーンにもたらした
芸術の「春」は、決して実りの秋を
迎えることはなかった


クリムトをはじめとする
多くの芸術家が、
表現主義や抽象絵画への一歩を
決して踏み出そうとは
しなかったからである。

歴史主義の装飾性を批判しつつ
彼ら自身、
ここから完全に離れることはなかった


(中略)

後にアメリカの現代建築にも
多大な影響を与えたワーグナーですら、
晩年に至るまで、
バロック建築のアプリケを連想させる、
花綵模様(ギルランデ)や
天使の装飾モチーフに固執し続けた。

ワーグナーは機能主義の見地から
「芸術は必要にのみ従う」
と主張していたが、
駅舎の写真を見ればわかる通り、
装飾そのものを
否定しているわけではない。

 

【土地の精神(ゲニウス・ロチ)】

だが、こうした装飾へのこだわりと、
純粋に抽象的なものに対する
関心の欠如は、
あるいは、
ウィーンの精神風土に関わる
特質
なのかもしれない。

ウィーン分離派の作品が、
フランスのアール・ヌーヴオ、
ドイツのユーゲント・シュティールとは
一線を画した、独特の魅力でわれわれを
惹きつけてやまない理由のひとつは、
土地の精神(ゲニウス・ロチ)」との、
この強固な結びつきのように思われる。

ワーグナーの代表作、
カールスプラッツ駅舎が、
18世紀初頭のバロック建築の傑作、
カール教会をバックに、
何の違和感もなくたたずむさま
は、
分離派芸術のこうした特質を、
ひときわ鮮やかに印象づける景観と
いえるだろう。

駅舎とカール教会、
実際の位置関係を見てみよう。
山之内さんが書く通り、
こんな位置関係でたたずんでいる。

P7158838s

ちなみに、そのまま左に目を遣ると、
駅舎左奥には、
ウィーンフィルの本拠地
楽友協会も見える。

P7158835s

ゲニウス・ロキ(genius loci)は
ローマ神話における
「土地の守護精霊」が原義だが、
「土地の雰囲気」「土地柄」といった
意味で使うことが多いようだ。

多彩な様式の建物が並ぶ
リンク通り周辺では、
どんな組合せをも許容してしまう
まさに「土地の雰囲気」がある。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2018年3月11日 (日)

オーストリア旅行記 (29) ウィーン国立歌劇場(4)

(全体の目次はこちら


オーストリア旅行記 (29) ウィーン国立歌劇場(4)

- 国が支え続けているオペラ -

 

国立歌劇場のガイドツアー報告の4回目。

【ロイヤルボックスと応接間】

P7158924s

皇帝も使っていた
ロイヤルボックスの応接間。

「今は記者会見の会場として
 使われたりもしています」
とガイドさん。

「この部屋は豪華ですが、
 時間貸しもしているんです」

「夜の二時間で約15万円」

「今度のお誕生会を
 ここでやってはいかがでしょう?」

 

部屋はドアの取手も象牙。

P7158925s

 

ロイヤルボックスのほうに移ってみよう。
さすがに眺めはいい。

P7158931s

P7158929s

P7158930s

 

【マーラーの間】

P7158933s

グスタフ・マーラーは
1897年から1907年まで
歌劇場の総監督を務めた作曲家。

個人的には作曲家としてしか知らないが、
指揮者としても活躍していたようだ。

この広間は、音響もいいので、
演奏会やリハーサルに使われることも
あるとのこと。

ここで、こんな写真を目にした。
年に一度開催されるという大舞踏会の様子。

P7158935s

舞台裏を案内された時、
舞台裏が50mもあるということに
驚いたが、この舞踏会では、
この50mをフル活用。

舞台と客席側を同じ高さにして
一体化

舞台裏、舞台、客席を繋げて
縦長の大きな一枚の床にし、
これだけの床面積を確保している。

夜10時からオープンニングセレモニー。
5500人が参加、朝5時まで続く
大イベントらしい。

 

【歌劇場正面2階のロビー】

P7158936s

ここには、
ヘルベルト・フォン・カラヤン

P7158939s

カール・ベーム

P7158942s

といった、
歴代総監督の像も置かれている。

日本語でのガイドさんは、
小澤征爾さんが2002年から2010年まで
音楽監督を務めていたことも
忘れずにちゃんと添えてくれていた。

P7158941s

ここで、歌劇場の総監督
音楽監督の代表的な方々と
劇場の大イベントを並べて
棒年表を作ってみよう。
(数字は生年と享年。
 色は60歳までは20年区切り)

Opera2

空襲で大破した歌劇場の
修復完成記念演奏会の指揮をしたのは
カール・ベーム。
この表を見ると、その時彼は
60歳くらいだったことがわかる。

マーラー、ワルター、
ベーム、カラヤン、マゼールと
10数年から20数年程度の差で並んでおり、
世代間の引継ぎが
順調に続いていることもわかる。

マゼール、アバド、小澤征爾は
ほぼ同世代で、
カラヤンと約20歳違いの
グループだということも。

それにしても、読者の皆様は
これをご覧になって
なにを思うだろう。

私が一番眼を奪われたのは
年齢差よりもなによりも
よく言われる
「指揮者は長生き」はほんとうだ
ということ。

棒を振る、というのは
よっぽど体にいいのだろう。

 

公演にはアーティストの他、
いわゆる裏方が約380人いて、
合計約1000人の人が関わっている。

ちなみに、年300回の公演をこなす
この歌劇場の年間予算は130億円。

チケットの売上でカバーできるのは
その約半分。

約半分は国家の税金から補助されている

なお、現在
ジェネラルスポンサーは、
トヨタのレクサス。
こんなりっぱなスポンサー表示が
劇場内通路にあった。

P7158943s

国家からの補助については、

広瀬佳一、今井顕 編著
 ウィーン・オーストリアを
 知るための57章【第2版】
明石書店

にもこんな記述があった。
(以下水色部、本からの引用)

長年にわたる浪費の末に
国庫が潤渇し、
帝国の周囲は敵ばかり、
という状態にあった
マリア・テレジア女帝の時代でさえ
「オペラなしでは
 このような街に住めはしない」と、
年間15万グールデンという
多額な補助金が
国庫より支給されていた。

音楽芸術を手厚く庇護する伝統は
今日に至るまで続き、
1930年代の世界大恐慌の際でさえ、
オペラに対する
国庫補助金がとだえることはなかった

日本企業がスポンサーとして
一部を支えていることは嬉しい事実だが、
伝統的に国家がオペラを
 しっかりと支えているんです

という話には感嘆の声があがっていた。

 

以上で
ウィーン国立歌劇場ガイドツアーは終了。

実際のツアーは
トータルで40分ほどのものだったが
盛りだくさんで
おおいに楽しむことができた。

「次に来る時は、
 オペラを観に来なければ」
との強い思いと共に
ガイドさんに礼を言い、
劇場をあとにした。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2018年3月 4日 (日)

オーストリア旅行記 (28) ウィーン国立歌劇場(3)

(全体の目次はこちら


オーストリア旅行記 (28) ウィーン国立歌劇場(3)

- 驚きの奥行きと建築家の悲しい運命 -

 

ウィーン国立歌劇場の
ガイドツアーの3回目。

いよいよ舞台裏だ。

P7158902s

今は公演がないので、
ガランとしている。

P7158903s

ここで一番驚いたが、
奥行きの説明。

幅が25mに対して
奥行きは、
本舞台と奥舞台合わせて
なんと50m!


客席の奥行きよりも、
舞台の奥行きの方が大きい。

そのうえ脇舞台まであるという。
上下動とスライドを組合せて
舞台が入れ替わる様子を
ぜひ見てみたいものだ。

P7158907s

しかも、最初の説明にあった通り、
ここの公演プログラムは日替わり。
つまり舞台装置も毎日変わる。

リハーサルと本番と入替えを考えると、
スタッフの皆さんの忙しさは
相当なものだろう。

 

舞台裏の次に案内されたのは正面階段。
空襲による破壊を免れた貴重なエリアだ。

P7158911s

劇場の階段とは思えない贅沢な空間。

P7158932s

階段の左右の壁には
二枚の顔のレリーフがある。

この劇場を設計した二名の建築家、
ファン・デア・ニュルと
アウグスト・シカート・
フォン・ジカルツブルク。

P7158914s

P7158915s

いやま世界を代表する歌劇場なので、
建築家のふたりもレリーフとなって
自らの作品を
さぞや誇り高く眺めていることだろう、と
思いがちだが、
現実は正反対だったようだ。

なんとも悲しい物語。

ガイドツアーでも簡単に触れていたが、
下記の本を参考に
少し詳しくみてみたい。

参考図書は、

広瀬佳一、今井顕 編著
 ウィーン・オーストリアを
 知るための57章【第2版】
明石書店

(以下水色部、本からの引用)

コンペを勝ち抜いたこの壮大な建築物が
ウィーン市民の前に
初めてその姿を現したころ・・・

当初は
「ギリシャとゴシックと
 ルネッサンスの様式が入り乱れた、
 節操に欠けたデザイン」
と酷評されたのである


それに加え、
建築工事開始後になってから
劇場正面の大通りの地表面が
1メートルもかさ上げされることになり、
その結果この劇場は

「沈没した箱」
「建築文化の敗北」
「食べ過ぎて横たわっている
 象のように重い」

などとこきおろされた。

道路工事の不運があったにせよ、
その評判は散々だったようだ。

「沈没した箱」と評したのは
ときの皇帝フランツ・ヨーゼフ1世。

多くの酷評に
ふたりは最悪の事態を迎えてしまう。

これらフランツ・ヨーゼフ1世
(1830~1916年)はじめ、
建設省、新聞、建築家や
一般市民の非難の声に耐えきれず、
ファン・デア・ニュルは
1868年4月3日に56歳で自殺


同年6月11日には
ジカルツブルクも54歳にして
失意のどん底に力尽き、
両人とも建物の完成を待たずして
世を去ってしまった。

なんということだろう。

建築家のふたりは自殺と憤死。
建物の完成も、こけら落としの公演も
見ていない
のだ。

ふたりの死は、
皇帝フランツ・ヨーゼフ1世にも
影響を与えた。

この事件以来、
国王は何事に対しても
個人的な見解を発言するのは
控えるようになった
という。

外観の意匠が市民に理解され、
受け入れられるには長い時間が
必要だったようだ。

 

次に案内されたのは、

【大理石の間】

P7158916s

名前の通り
床もテーブルも壁の一部も大理石。

P7158921s

この空間に重厚な雰囲気はなく、
モダンで明るい。

幕間をシャンパン片手に寛ぐのに
ピッタリ。

P7158919s

壁には色違いの石を上手に組合せて
舞台裏やら楽器やら
歌劇場の日常が
じつにオシャレに描かれている。

P7158918s

今はがらんとした空間だが、
オペラの幕間で人が溢れている時、
ここはいったいどんな空気で
満たされていることだろう。

 

舞台の奥行きに驚き、
建築家の悲しい運命にしんみりし、
と感情の起伏が思いのほか大きい
歌劇場のガイドツアーだが、
ガイドさんの案内はまだまだ続く。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2018年2月25日 (日)

オーストリア旅行記 (27) ウィーン国立歌劇場(2)

(全体の目次はこちら


オーストリア旅行記 (27) ウィーン国立歌劇場(2)

- オリジナル棒年表の登場! -

 

ウィーン国立歌劇場の
ガイドツアーの2回目。

舞台の幕、緞帳(どんちょう)は
グルックのオペラ
「オルフェオとエウリディーチェ」
をモチーフにしている。

P7158899s

このグルックという作曲家
ご存知だろうか?

クラシック音楽初心者向きのこの本、

三枝成彰著
驚天動地のクラシック
キノブックス


に、こんな記述があったので紹介したい。
(以下水色部、本からの引用)

 グルックは、オペラの改革者です。
彼がいなければ、
後の作曲家たちの傑作も
生まれなかったかもしれません。

 この頃、オペラの世界は様変わりし、
カストラートたち
(少年時代に去勢して 
 ″天使の歌声″を保った歌手)が
聴衆の人気を得て、
歌を披露する場になっていました。

 グルックは、台本(物語)を重視し、
歌手たちが勝手に曲を改変したり、
他の作曲家の曲を
挿入したりすることを禁じました。

また他にも
レチタティーヴォ(語り)を
オーケストラの伴奏付きで
歌わせたりと、
彼の功績はいくつもあります。

彼によってオペラは、
音楽と演劇が融合した
新しい時代の総合芸術に
生まれ変わった
のです。

オペラを「新しい時代の総合芸術」に
変革した改革者。
彼がいなかったら、その後
モーツァルトのオペラも
生まれなかったかもしれない。

また、彼は、
あの女性の音楽教師でもあった。

グルックは
八プスブルク家お召し抱えの
宮廷楽長であり、
幼い王女マリア・アントーニア
(マリー・アントワネット)の
音楽教師も務めていた


後に彼女が
フランスのルイ16世に嫁ぐ時、
付き従って
フランスに渡っている。

 

ウィーンの歴史を見ていくと、
ハプスブルク家だけでなく、
音楽家であったり、芸術家であったり、
実に多くの人たちが登場する。

本を読んでいて気になるのは、
たとえば上記に登場した
マリー・アントワネットと
音楽教師のグルックは
年齢的にどんな関係だったのか?
というような点。

もちろん個別に生没年を
調べることはできるが、
数字だけを見てもどうもピンとこない。

そこで、エクセルのVBAを使って
生没年月日を入れると、
年表用のバーを書いてくれる
簡単なプログラムを作ってみた。

「登場人物」の年齢関係を
想像しやすくするための補助グラフだ。

ただ、よく見る一本の棒にしてしまうと
活躍年代のイメージがつかみにくい。
そこで、
20年ごとに色を分けてみることにした。
ほかにも生年と享年も書き加えて
独自の棒年表としてみた。

つまりこんな感じ。

棒年表の情報

* 棒左端の数字は生年
* 棒の色
    0 -20歳 緑
    20-40歳 青
    40-60歳 黄
    60歳以上 紫
* 棒右端の数字は享年
    (死んだときの満年齢)
* 棒右欄外は氏名

 

実際に書いてみよう。
上記に登場した人物を中心に、

 *グルック
 *マリア・テレジア
  (マリー・アントワネットの母親)
 *ルイ16世
 *マリア・アントーニア
  (マリー・アントワネット)
 *モーツァルト

の5人で棒年表を作ってみた。

Opera2b

繰り返しになるが、色は20歳区切り。
読者の皆様は、この年表の
どの部分に目がいくことだろう?

グルックとマリア・テレジアはほぼ同年齢。

マリア・テレジアが
マリー・アントワネットを生んだのは
もう40歳近いころだということも、
マリア・テレジアの
青が終わるころ(40歳)ということで、
すぐにわかる。
(15番目の子ども、
 第15子だったということは
 ここからではわからないが)

ルイ16世、マリー・アントワネットと
モーツァルトの三人はそれぞれ1歳違い、
ほぼ同年齢。
亡くなったのも
ルイ16世とマリー・アントワネットは
もちろんのこと、モーツァルトも偶然にも
ほぼ同じころ。

オペラの改革者グルックの
約40年後にモーツァルトが生まれている。

マリア・アントーニアが
フランスに嫁いだのは、
14歳の時なので、
まさに親世代のグルックが
一緒にフランスに渡ったのは、
音楽教師以上の意味も
あったのかもしれない。

マリア・テレジアは、
娘の悲劇の死を
知らなかったこともわかる。

 

このオリジナル棒年表。
今後もいろいろな組合せで使って、
いろいろ想像を膨らませてみたい。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2018年1月28日 (日)

オーストリア旅行記 (23) ウィーン リンク通り

(全体の目次はこちら


オーストリア旅行記 (23) ウィーン リンク通り

- 道幅の広い環状線はむかし -

 

ウィーン観光を始めるにあたって、
一番最初に
「リンク通り」に触れておきたい。

ドイツ語で
リンクシュトラーセ(Ringstraße)と
呼ばれるこの通りは、その名の通り
一周約5kmの環状線となっており、
ウィーン旧市街を取り囲んでいる。

Google mapを借りて
黄色の線で書き込んでみた。

Rings1

この環状線、道幅が
たいへん広いことも特徴のひとつ。

P7179523s

自動車用の車線数が多いだけでなく、
トラムの線路や
広い歩道なども確保されている。

P7179630s

さらにこの道、
道沿いに並ぶ建築物がすごい!

P7179662s

何が並んでいて、どうすごいのかは、
この旅行記の中で
順次紹介して行きたいと思うが、
今お伝えしたいのは、
幅の広い広い道路が
旧市街をリング状に取り囲んでおり
その道路沿いに、見事な建築物が
数多く並んでいるという事実


どうしてそんな道路があるのか?
なぜ環状なのか?

ちょっと時代を遡(さかのぼ)って
話をスタートしたい。

参考図書は、

広瀬佳一、今井顕 編著
 ウィーン・オーストリアを
 知るための57章【第2版】
明石書店

(以下水色部、本からの引用)

 

【堅固な市壁で守られていたウィーン】

中世の市壁はここで本格的な
稜堡(バスタイ)として整備され、
さらにその周囲には、
外部からの砲撃に備えて、
斜堤(グラシ)と呼ばれる
広大な空閑地が巡らされたのである。

 周囲を強固な防壁で固めた
このウィーンの都市形態は、
ハプスブルク帝国の
特殊な政治的・軍事的事情によって、
異民族侵入の危機が去った18世紀から、
さらに19世紀に入っても、
ほとんど変化をみなかった。

中世、
堅固な市壁に守られていたウィーン。

突き出した角(稜堡)を持つ市壁と、
その先に広がる広大な空閑地(斜堤)は、
この古い図を見るとよくわかる。

Ringsor

古い都市構造のままのウィーン。
近代化に向けて動き出した他の首都に
19世紀初頭、完全に遅れを取っていた。

【遅れていた都市改革】

ロンドンやパリなど、
他のヨーロッパ列強国の首都が、
19世紀初頭にはすでに都市近代化の
第一段階を通過していたのに対し、
ウィーンではいまだに
中世以来の都市構造が
保持されたのである。

外敵防備のための堅固な市壁は、
重火器の発達によって防壁としては
もはや役に立たなくなっていた。
なので、残ってはいたものの
18世紀には
すでに姿を変えていたようだ。

【公園となっていた市壁】

もはや
実際的な機能を果たさなくなっていた
稜堡(バスタイ)や斜堤(グラシ)は、
18世紀、ヨーゼフ2世によって
植樹が施され、
遊歩道や公園施設として開放された


こうして、
北イタリアからポーランドに至る
広大な領土を誇った帝国の首都は、
(中略)
19世紀前半には、緑地に囲まれた
のどかな田園牧歌的雰囲気で
人々を魅了していた。

しかし、この田園都市の
アナクロニズム(時代錯誤)は、
多くの弊害を生み出していた。

【都市の成長を妨害する市壁】

18世紀には市内の人口が25万から
30万人に達していたのに対し、
市壁と斜堤がこの人口増大に
見合った都市の面積拡大を妨げていた。

市壁内では
建蔽(けんぺい)率が90%を超え、
住環境が次第に悪化するなかで、
政府の指導で商工業者などを
防御施設の外側に移住させる施策が
とられたため、
都市は、幅約500メートルの斜堤を
ドーナツ状に残したまま
その外側に拡大する
という、
きわめて不自然な形態を
とるようになった。

たった8つの門のみで
外の世界と繋がっている
分厚い市壁に囲まれた
都市ウィーンは、しばしば、
石の衣をまとった女神の姿に
たとえられていた。

 

その女神が、
重く古めかしい装束を
一挙に脱ぎ捨てる時が
19世紀半ば、ようやく到来する。

【石の衣を脱ぎ捨てる女神】

1848年、3月革命を抑えて即位した皇帝、
フランツ・ヨーゼフは、
自由主義的な方向を打ち出す
若手官僚グループが取り上げた
都市拡張計画に対して、
深い理解と関心を示していた。

2度にわたるナポレオン軍の侵攻や
3月革命における都市騒乱の体験から
市壁撤去に猛反対する軍幹部を、
最後には減俸をもって脅しつけ、
皇帝は、1857年のクリスマスの朝、
新聞の官報欄に、
都市計画導入を命じる
親書の全文を掲載
させた。

25日付の「ウィーン新聞」の
一面に掲載された皇帝の言葉。
外壁を取り壊してそこを道路とし、
壁の内と外を融合していく
という
ウィーン市の拡張計画が公になった瞬間だ。

【1857年のクリスマス・プレセント】

都心部の住環境悪化に
悩んだ住民たちは、
これを、皇帝からの
「素晴らしい
 クリスマス・プレゼント」として、
狂喜したという。

 ここに開始された
都市拡張計画の概要は、
かつての斜堤の中央部に、
都市をぐるりと囲む形で
全長約4キロメートルの現状道路
(リンクシュトラーセ)を敷設
し、
その両側に構築される
新市街区によって、
旧市街と郊外部を
効果的に連結するというものであった。

18歳の若さで即位した皇帝が、
27歳の時にした決断。
今から約160年前のこと。

日本史で言うと明治維新の約10年前。
まさに幕末。

 

この日から、約半世紀にわたる
リンク通りの整備が本格的に開始される。

と言うわけで
道路が環状なのは市壁の跡地だから

その跡地に建設された道路と建築物は、
都市計画の観点からも、
見逃せない成果を生み出していく。

ルネッサンス様式、バロック様式、
ギリシャ様式、ネオゴシック様式
などの建築物が次々と登場。

市壁で分断されていた
旧市街部と郊外部が
道路と魅力的な新しい建築物によって
統合
されていく。

今のウィーンを見るときに、
ぜひ知っておきたい歴史のひとつだ。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2018年1月21日 (日)

オーストリア旅行記 (22) 鉄道を通しての深い関係

(全体の目次はこちら


オーストリア旅行記 (22) 鉄道を通しての深い関係

- 日本の鉄道の守護神? -

 

ウィーンへの電車の乗り換え時、
アットナング・プッハイム
(Attnang-Puchheim)駅で
特急列車railjetの車両を見ると、
妙にいろいろな数字が書かれている。

P7148715s

意味を表すと思われる
簡単なアイコンや文字も添えてあるので、
こういう意味なのかなぁ、と
想像できるものもあるが
正確なところはわからない。

文字と数字の部分だけを切り取って
並べてみた。
ある「一両」に、これらの文字列が
ズラーっと一列に並んでいる。

P7148716_5all_s

帰ってから検索すれば記述内容を
解説してくれているページくらいは
簡単に見つかるだろう、と
気軽に考えていたのだが、
そもそも鉄道マニアでもなんでもない
ズブの素人が、いざ探そうとすると
どういう言葉で検索すればいいのか、が
さっぱりわからない。

エイヤ、のいいかげんな検索では
全くヒットしない。

ドイツ語かつ
適切な単語で検索すれば、きっと
いいページはあると思うのだけれど。

R150mというのは最小曲線半径だろうか?
重量(t)であったり、長さ(m)であったり、
車両の仕様に関連する数字であることは
間違いないと思うのだが。

日本でも車両に
文字や数字を見かけることはある。
でも、「クハ」や「モハ」などの
短い文字列と数桁の数字、
重量(t:トン)や定員など、
簡単な記述しか見た覚えがない。
情報量がぜんぜん違う気がする。

 

上記数字の意味の回答ではないが、
そう言えば、
オーストリアの鉄道関連で
下記の本に、
ちょっと興味深いことが書いてあった。

あまり知られていない
オーストリアと日本の関係。

少し紹介したい。

広瀬佳一、今井顕 編著
 ウィーン・オーストリアを
 知るための57章【第2版】
明石書店

(以下水色部、本からの引用)

 

ここで、オーストリアから
日本が輸入している商品および
将来的に期待される
品目の具体例を述べる。

意外と知られていないが、
日本が長年輸入している
鉄道用保線車”がある。

日本の新幹線は、
1964(昭和39)年運転開始以来、
技術的欠陥による人身事故を
一度も引き起こさずに
走り続けているが、

その軌道や架線を監視する
保線車のほとんどが
オーストリア製である


JRのみならず、
日本の多くの私鉄にも
この保線車が納入されている。

この保線車は、
ドイツ・インターシティ、
フランス・TGV、
スペイン・AVEなど
世界的に有名な高速鉄道の
補修を引き受けているのである。

納入実績からみると、
ドイツ、アメリカ、イギリスに次いで
日本は4番目であるが、
数億円もする保線車が
すでに約600台以上納入されている。


このオーストリアの保線車こそ、
乗客がいなくなった
真夜中にこっそりと、
翌日の来客の安全を守るために
線路をみてまわる、
まさに日本の鉄道の
守護神ともいえる存在

(略)

日本の鉄道を守る保線車が、
600台以上もオーストリアから
輸入されていたとは。

保線車を目にする機会はあまりないが、
車両を見れば
オーストリアから来たことは
簡単にわかるのだろうか?
今度目にする機会があれば、
ちょっと注意して見てみよう。

 

アットナング・プッハイム駅から
特急列車railjetに乗換えて一本、
ついにウィーン中央駅に到着した。

P7148717s

正確には、旅行の初日、
空港からザルツブルクに行くときに
通過しているので、
4泊して戻ってきた、とも言える。

ここも、近代的できれいな駅だ。

軽くお昼を食べようと、
様々な種類のパンが並んでいる
ANKERというチェーン店のパン屋さんで
こんなサンドを食べてみた。

P7148719s

パンもハムも野菜もチーズも
どれもおいしくて大満足。

ここでは、
「Detox Wasser」という
未経験の飲み物を目にしたので、
それにトライしてみることにした。
写真中央にあるボトル。
Detox水?「解毒水」ってこと?

「新鮮なキュウリとレモンと共に」
と書いてある。

味のほうは、見た目通り、
キュウリとレモンの入ったただの水。
甘くはない。
キュウリとレモンの香りがあるので、
さわやかで飲みやすいが、
それでDetoxとはちょっと大袈裟かも?

食後、
中央駅のインフォメーションセンタで
ウィーンの情報を得て、
その後、地下鉄に二駅だけ乗って、
予約していたホテルを目指した。

地下鉄にあった優先席表示はこんな感じ。

P7148727s

妊婦、子連れ、体の不自由な人、老人
やはり絵はわかりやすい。
ドイツ語が読めなくても理解できる。

ホテルにチェックイン。
荷物を置いて身軽になって、
さぁて、
いよいよウィーン観光のスタートだ。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2018年1月14日 (日)

オーストリア旅行記 (21) 森林先進国オーストリア

(全体の目次はこちら


オーストリア旅行記 (21) 森林先進国オーストリア

- 林業を「かっこいい仕事」にした秘密 -

 

ウィーン行の電車を待っていた
アットナング・プッハイム
(Attnang-Puchheim)駅。

P7148713s

ホームからはこんな列車が見える。
日本では見ることが少なくなった、
貨物列車かつ裸の材木。

P7148714s

そう言えば、旅行の初日、
ウィーンからザルツブルクに
向かう電車の窓からも
こんな景色を見ていた。

P7107645s

ハルシュタットのハイキングで
偶然目にしたのも、住宅街の中に
大量にストックされた薪(まき)だった。

P7138499s

生の材木や薪を見て
思い出した本はコレ。

藻谷浩介、NHK広島取材班(著)
里山資本主義
角川oneテーマ21新書

(以下水色部は本からの引用)

 

オーストリアの林業について
興味深い記述があったのだ。

引用が長くなってしまいそうだが
文字ばかりではつまらないので
花の写真を挿入しながら書いていきたい。

写真はすべて、ハルシュタットで
ハイキングをしながら撮ったもの。

P7138533s


マネーの嵐が吹きすさぶ
ヨーロッパのど真ん中に、その影響を
最小限に食い止めている国がある。

それがオーストリアだ。

オーストリアと言われて
何を思い浮かべるだろうか。

モーツァルトやシューベルを生んだ
音楽の国?
ザッハトルテに代表される
チョコレートの国?

いやいや、実は
それだけではないのである。

経済の世界でも、オーストリアは
実に安定した健康優良国
なのだ。

それは数々の指標が物語っている。

ジェトロが公表している
データ(2011)によれば、

失業率は、EU加盟国中最低の4.2%、
一人当たりの名目GDP(国内総生産)は
4万9688米ドルで世界11位(日本は17位)

対内直接投資額は、2011年に
前年比3.2倍の101億6300万ユーロ、
対外直接投資額も
3.8倍の219億500万ユーロと、

対内・対外ともに
リーマンショック直前の水準まで回復した。

では、なぜ人口1000万に満たない
小さな国・オーストリアの経済が
これほどまでに安定しているのか?

その秘密こそ、里山資本主義なのだ。

オーストリアは、
前章にみた岡山県真庭市のように、
木を徹底活用して
経済の自立を目指す取り組みを、
国をあげて行っているのである

ひとりあたりの名目GDPは
オーストリアが世界11位で、
日本は17位。
日本の方が下位なのだ。

P7138535s


国土はちょうど北海道と
同じくらいの大きさで、
森林面積でいうと、
日本の約15%
にすぎないが、
日本全国で一年間に生産する量よりも
多少多いぐらいの丸太を生産している


知られざる森林先進国
オーストリアの秘密を探っていこう。

 オーストリアの人々は、
最も身近な資源である木を
大切にして暮らしている。

 

まずは、森林先進国の基盤をなす、
山林所有者への教育を見てみてよう。

P7138536s<


【山林所有者への教育】

山の中で行われる授業に同行した。

授業中、
先生たちが口を酸っぱくするのが、
林業は短期の利益を追求するのではなく、
持続可能な豊かさを
追求しなければならないという理念
だ。

この研修所では、
50年間手入れせず放置し続けた区画と、
そのすぐ隣に間伐などによって
人の手を入れ続けた区画を用意。

生徒たちに見比べさせ、
健康な森林がいかに美しく、
木もまっすぐ立派に育つのかを
実感させる。

そして、どの木を切っていいのか、
どの木はまだ切るべきでないのか、
先生と生徒が議論しながら学んでいく。

「森を持つなら、手入れを
 しっかり行わなければならない。
 手入れされることによって、
 森は健康であり続ける。

 それによって、
 これからもずっと守られるんだ。
 これがオーストリアの
 林業の哲学なんだ」

 日本では、
お金にならない多くの山林が、
間伐されることもなく
放置されている。

これに対し、オーストリアでは、
山林所有者に森を
すみずみまで管理することを
義務づけている。

P7138537s


【林業従事者は3K?】

 それにしても、
日本では林業従事者というと、
危険、きつい、汚いといった、
いわゆる3Kのイメージがあるが、
オーストリアではどうなのだろうか


 実はオーストリアでも、
20~30年前くらいまでは、
林業はきついのにお金にならないと
認識されていたらしい。

しかし今は、
この認識は大きく改善された
という。

その理由を、森林研修所の所長、
ヨハン・ツェッシャーさんは三点
挙げている。

P7138541s


【3K改善の理由 その1】

第一に、なにより林業従事者の
作業環境が安全になった。

林業に従事する者は
みんな教育を受けることが
義務づけられたため、
学ぶ機会が増え、安全に対する意識が
飛躍的に高まった

P7138544s


【3K改善の理由 その2】

二点目は、
山を所有する森林農家が、
森林および林業というものが、
ちゃんとお金になる産業である
認識するようになった。

そして、それは、
きちんとした林業教育を
受ければ受けるほど、
経済的に成功できるということも。

そうした状況を
後押ししているのが
バイオマス利用の爆発的な発展だ。

これによって、
森林に新たな経済的な
付加価値ができたのだ。

逆に言えば、森林所有者が
森林に関わる動機付けが、
大きくなった。

P7138546s


【3K改善の理由 その3】

三点目として、
「これはとても重要なことだが」と
前置きして所長が強調したのは、
林業という仕事の中身が
大きく変わった
ことだという。

”高度で専門的な知識が求められる
 かっこいい仕事”
になった。

今のご時世、
ただ山の木を切っていればいいという
時代ではない。
林業に従事する以上、
経済に関することも
知っていなければいけないし、
生態系に関する知識も
なければいけない。

さらには、
最新のテクノロジーも
知る必要がある。

その一方で、林業という仕事が
体系化されるにつれて、
同僚や会社と協力しながら
仕事をする必要も高まってきた。

社会的能力も
必要とされるようにもなったのだ。

そういう風に、高度な専門性を持つ
職業に対する金銭的な対価が、
昔に比べて上昇するのは当然だろう。

林業という職業は
とてもエキサイティングな
ものになった。

P7138551s


誤解を恐れずにまとめてしまうと
林業を
(1) 安全な作業環境に
(2) 経済的に成功できる産業に
(3) 社会的に「かっこいい仕事」に
変化させることを
教育で実現しているわけだ。

税金を投入し、経済的に援助することが
産業を「保護」することではない。
我が国の林業再生に向けても
学ぶところは多い。

P7148688s


完全に話が横道に逸れてしまった。
次回はまた、
旅行記の方に戻って続けていきたい。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2017年12月10日 (日)

オーストリア旅行記 (16) ハルシュタット遺跡の発見

(全体の目次はこちら


オーストリア旅行記 (16) ハルシュタット遺跡の発見

- ヨーロッパの源流のひとつ -

 

「世界一美しい湖畔の町」と呼ばれ
世界遺産にもなっているハルシュタット。

ホテルにチェックインし、
身軽になったので
さっそく町歩きにでかけたのだが、
景色を楽しむ前に、
少し歴史を振り返っておきたい。

前回の最後にこう書いた。
繰り返しになってしまうが、
もう一度書きたい。

ザルツブルク(Salzburg)は、
salzが「塩」
burgが「城、要塞、砦」
つまり「塩の城」という意味だった。

ハルシュタット(Hallstatt)も、
ハルはケルト語で「塩」
シュタットはドイツ語で「町」
つまり「塩の町」
を意味している。

どちらも「塩の町」。

なぜケルト語なのか?
なぜ塩なのか?

参考図書として、

鶴岡真弓, 松村一男 (著)
図説 ケルトの歴史:
歴史・美術・神話をよむ
(ふくろうの本/世界の歴史)
河出書房新社

を読みながら、
背景となる歴史を眺めてみたい。
(以下水色部、本からの引用。
 2017年11月に新版が出たばかりだが、
 引用は旧版から)

 

ハルシュタットは、

「豊かな塩山を背景に、
 ハプスブルグ家の『塩』の御料地として
 栄えてきた」

のように紹介されることも多いため、
時代的にハプスブルグ家と
同期して考えてしまいがちだが、
実はその起源は恐ろしく古い

そもそもハルシュタット文化とは、
考古学上A期からD期に別れているものの、
なんと
紀元前1200年から紀元前475年ごろ
のことを指す。

つまり今から見れば、
3200年前から2500年前!


岩塩の採掘も、
紀元前8世紀ごろには盛んだったようだ。

参考図書にもこうある。

ハルシュタット時代には、
東方にスキタイ人、
南東にイリュリア人、ギリシア人、
アルプスの真南にエトルリア人がいたが、
ケルト人は地中海と北方を結ぶ
「塩の道」の交易路を支配していた


前700-500年頃まで
ヨ-ロッパにおける岩塩採掘の
センターとして栄えていた
のである。

今も一部は現役ながら、
「世界最古の岩塩坑」として
観光客に公開されている
「ハルシュタットの岩塩坑」の歴史は、
2500年以上ということになる。

 

というわけで驚くほど古くから
塩によって栄えていたハルシュタットだが、
その名を広く世界に知らしめたのは、
「ハルシュタット遺跡の発見」だった。

ハルシュタット遺跡の発見は
1846年

塩山の管理官ゲオルグ・ラムザウアーが
ハルシュタットC期(前750-600年)
とD期(前650-450/400年)
に当たる墓を発掘、

リンツやウィーンの発掘隊が加わって、
1863年までの17年間に
980の墓、
1万9497点の出土物が発見
された。

(中略)

シュリーマンによるトロイア発掘より
四半世紀も早い、
もうひとつのヨーロッパ源流の
大発見となった
のである。

「ヨーロッパ源流のひとつ」とは。

ここからの多くの出土品、
(装身具や武具、馬具、什器など)に
チェコ、スロバキア、オーストリア、
ドイツ南西部に展開された
この時期の鉄器の特殊性が認められたため
同地の名称で呼ばれるようになった。

参考図書の言葉を借りれば

ハルシュタット文化は
この遺跡を名祖(なおや)として、
東西に広がっている

 

なお、
このハルシュタット遺跡の発掘時には、

56年に皇帝フランツ・ヨーゼフと
皇后エリザベートが
第507号墓発掘に立ち会っている。

このお二人、56年以外にも
ここハルシュタットに立ち寄っているようだ。
湖畔にはこんな記念碑

P7138565s

も建っていた。

P7138566s

 

さて、
ずいぶん前置きが長くなってしまった。

町の散歩に出かけることとしよう。

険しい山肌に張り付くように
木造の家々が並んでいる。

P7128239s

それぞれの家には、
花が工夫して飾られており

P7128223s

見上げながら歩くだけでも気持ちがいい。

P7138266s

山と湖に挟まれた町は狭いので

P7128241s

町に入る車を制限している。

つまり、一般車両は
自由に町には入ってこられない。

P7128224s

大型バスはもちろん、
通常の観光客は、
町の入り口にある
大きな駐車場に車を停めて
基本的には皆、徒歩で町に入ってくる。

湖畔に出ると、
その独特な雰囲気に
思わず足が止まってしまう。

P7128235s

山と湖と
山肌に張り付く木造の建物の
バランスがなんとも言えず、
言葉にならない。

P7128218s

湖畔のレストランも
この景色の中で食事ができるなら、と
大盛況だ。

P7128221s

対岸の山々も美しい。

P7128229s

家から直接船にアクセスできる
京都、伊根町の舟屋のような家々も
湖畔に並んでいる。

P7128226s

まだ明るいが時間としては
もう午後7時。

P7128228s

湖畔を歩きながら、
夕食に向かうことにした。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2017年11月 6日 (月)

オーストリア旅行記 (11) サウンド・オブ・ミュージック(その7)

(全体の目次はこちら


オーストリア旅行記 (11) サウンド・オブ・ミュージック(その7)

- どこからどこへの山越え? -

 

オーストリアのザルツブルクを、
映画「サウンド・オブ・ミュージック」を
キーに巡っていく報告も
今回で一旦、ひと区切りとしたい。

内容のほうは、これまで同様、
『サウンド・オブ・ミュージック』の秘密
瀬川裕司 (著)
平凡社新書
(以降水色部は本からの引用)

と 映画のDVD/Blu-ray

で補足・確認しながら、
進めていきたいと思う。
(以降、映画からのシーンは黄色枠で)

 

【馬の水飲み場】
祝祭劇場のすぐ隣(となり)にあるのが、
この「馬の水飲み場」。

場所といい、その装飾といい、
ちょっと唐突な感じがするが、
前回書いた通り、
お隣、祝祭劇場は、
元は大司教の厩舎だった。
ここは、そこで飼われていた
「馬のための水飲み場」として
作られたものらしい。
馬は一時、130頭もいたという。

P7117919s

現在の姿になったのは1732年。
中央に馬の調教場面の像が立ち、
壁には馬の美しいフレスコ画が並んでいる。

P7117916s

ただ、実際に行ってみると、
画よりも、そのすぐ後ろに迫った
ざっくり削られた岩山に驚く。

しかも横にはトンネルまで。

P7117920s

トンネルの通りを挟んで、
すぐ左側はもう祝祭劇場だ。

映画「サウンド・オブ・ミュージック」
の中では、マリアと子どもたちが
ピクニックに行く時に前を通っている。

Sm05024

一瞬映るだけなので、知らなければ
もちろん何かはわからないし、
映画の中で説明も一切ないが、
この美しい施設が、
まさか「馬の水飲み場」だったとは。

 

【ザンクト・ペーター教会の墓地】
ここでも少し触れたが、
ザンクト・ペーター教会の
鉄柵で区切られた墓地は、
映画「サウンド・オブ・ミュージック」
の終盤で、
トラップ一家がナチスに追われて
墓石の裏に隠れるシーンの
モデルになっている。

区画ごとに違う鉄柵の文様は、
この墓地の特徴のひとつ。

P7117996s

モデルにしただけで、
撮影はセットで行われたため、
直接ここがロケ地というわけではない。

暗い画になってしまうが、
映画のシーンも貼っておこう。

ナチスに見つかってしまうのではないか、
というヒヤヒヤ、ドキドキのシーンだ。

Sm24607

Sm24633

 

【山越え】
そして映画の最後、
ナチスの追跡をかわしたトラップ一家は、
国境線が封鎖されているため、
徒歩で山を越えて
逃亡先のスイスへと向かう。

Sm25217

山越えのロケ地は、
ロスフェルト(Rossfeld)。

雄大な山並みが美しい
このシーンについては、
ロケ地ツアーのときも
ガイドさんから説明があった。

Sm25313

この撮影現場は、
ザルツブルクのすぐ南方向の山で、
バスの中からも指差しながら、
「あの山の尾根が
 国境越えの最後のシーンのロケ地なんです」
と紹介していた。

ただ、次の言葉に
バスの中は笑いに包まれた。
「あのあたりはドイツとの国境なんです」
「スイスとの国境なんて、
 ザルツブルクからはものすごく遠くて、
 とても歩いてなんかいけないわけで」

物理的な位置関係をちょっと確認しておこう。

Amapbr1

青がオーストリア、
黄がドイツ、
緑がスイス。
★印がザルツブルクの位置で、
◎印が山越えの撮影現場。

なるほど、ザルツブルクから
歩いてスイスとの国境を越えるのは、
7人の子ども連れには厳しそうだ。

また、ナチスから逃げている一家が、
ドイツとの国境に
わざわざ向かっているというのも
笑える。

上に挙げた瀬川さんの著書でも

このあたりもドイツとオーストリアが
国境を接している地域だ。

映像を見るかぎり、
一家はドイツ側から
わざわざオーストリアに
戻ろうとしていることになる

(ケールシュタインハウスはドイツ、
 ロスフェルトは
 ほぼ国境線上に位置する)。

最後に、
はるか遠方に街のようなものが
うっすら見えるが、
それはザルツブルクだ。

この映像だけを情報源とするなら、
トラップ一家はドイツへの遠足から、
いま帰宅中であるように
思えてしまうわけである。

と書かれている。
映画のストーリとのギャップが楽しい
裏話のひとつ
だ。

ところで、先にも書いた通り、
サウンド・オブ・ミュージックは
実話に基づく話だ。

映画ではない、
実話のほうはどうなっていたのだろう?

<実話>では、
コンクールでの優勝後、
一家はヨーロッパ各地で
コンサート活動を展開する


つまり
『サウンド・オプ・ミュージック』
とは異なって、
彼らはナチによる<併合>の前から、
プロとして活動していたわけである。

そして一家は国外に逃亡する。
<実話>としては、
屋敷のすぐ裏のアイゲン駅から
鉄道に乗ってイタリアに行き、
1938年10月にロンドンから
アメリカ行きの船に乗った。

つまり、トラップ一家は
<山越え>などしていない


そして39年1月、米国で末子の
ヨハンネス・ゲオルクが生まれる。
同年3月、滞在許可の期限が切れたために
一家はいったんヨーロッパに戻り、
主に北欧諸国でコンサート活動をおこなう。

そして10月、
米国での居住許可を得た彼らは、
あらためて
「ザ・トラップ・ファミリー・シンガーズ」
として全米を股にかけての
コンサート活動を展開する。

合唱団としての活動と
ヴァーモント州ストウの
「トラップ・ファミリー・ロッジ」
の経営によって、一家の名前は
広く知れ渡るところとなった。

 

7回に分けて
「サウンド・オブ・ミュージック」関連で
繋いできたザルツブルク旅行記だが
映画関連ネタは一旦これで終了としたい。

ロケ地巡りが楽しめる町の魅力を
瀬川さんはこんな言葉でまとめている。

(ロケ地を巡る)
このような現象が起こるのは、
『サウンド・オブ・ミュージック』が
人気作品であるからだけでなく、
ザルツブルクに
<そのままの風景>が残っているから
だ。

撮影から50年近くが経っているのに、
そこへ行きさえすれば、
記憶にある風景が肉眼で見られるのである。

たとえば50年前の邦画を好きな外国人の
映画ファンがわが国に来たとしても、
めったに(そのままの風景)には会えまい。

そこには、いうまでもなく
歴史的建造物等を大切にする
ヨーロッパの伝統があるわけだが、
ザルツブルクでいえば、
狭い旧市街にロケ地が集中しているので、
二時間ぐらい歩けばほとんどのポイントは
押さえられてしまう。

まるでザルツブルクが
『サウンド・オブ・ミュージック』の
テーマパーク
であるかのようなのだ。

 

次回からは、
「サウンド・オブ・ミュージック」
からは離れて、
ザルツブルクの町の魅力を紹介したい。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

より以前の記事一覧

最近のトラックバック

2018年6月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ