書籍・雑誌

2019年11月10日 (日)

「病気平癒」ではなく「文運長久」

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「病気平癒」ではなく「文運長久」

- 眉村卓さんご夫妻の物語 -

 

先週の八千草薫さんネタに続いて、
訃報関連で、になってしまうが、

2019年11月3日
こんどは作家の眉村卓さんが
85歳で亡くなった。

今日は眉村さんの本について
少し紹介したい。

そうそう、本の前にひとつ。

「眉村卓」というお名前、
私はなぜかその字面(じづら)を見るだけで
SFチックなものを感じてしまう。

NHK『少年ドラマシリーズ』の
「なぞの転校生」を
リアルタイムで見た世代のせいだろうか。

「小松左京」という名前を見ても
特に感じるようなものは何もないのに。
不思議だ。

閑話休題。

「ねらわれた学園」など
ドラマや映画で何度も映像化された
有名な作品もある眉村さんだが、
近年、眉村さんの名前を一番目にしたのは
この本に関してだったかもしれない。

眉村卓(著)
妻に捧げた1778話
新潮新書
(以下水色部、本からの引用)

眉村さんは、
末期がんを宣告された妻のために、
妻のためだけに、
1日1話ショートショートを
書き続ける決意をする。

SF世界の話でもなければ、
小説の世界の話でもない。
正真正銘、眉村さん自身の実話だ。

あれは、始めてから
3か月位経ったときだろうか。
「しんどかったら、やめてもいいよ」
と妻が言った。
お百度みたいなもんやからな
と私は答えた。中断したら
病状が悪化する気がしたのだ。

お百度を踏む思いで
ショートショートを書き続けた眉村さん。

その創作は、奥さんが亡くなるまで
4年10ヶ月にもおよび、
1778話もの作品群となった。

本書には、
その中の19篇が収められているが、

この本に載せた作品は、
当然ながらそのごく一部で、
選んだ基準にしても、
出来の良し悪しより、
書きつづけている間の
こちらの気持ち・手法の変化と
その傾斜
-ということを優先させた。
そのあたりを読み取って頂きたいのが、
私の願いである。

とあるように、この本の魅力は
ショートショートの作品そのものよりも
「最期」という厳しい現実に直面しながらも
それに真摯に向き合ってきたご夫婦の
ある意味での「発見」と
気持ちの「変化」の物語だ。

創作そのものについても
追い詰められた状況を
冷静に見つめている。

だが、それとは別に、
無意識のうちに陥って行き、
自分でも肯定していたのは、
自己投影の度合いや
妻とのかかわりの反映の色が、
しだいに濃くなってゆく
ことであった。

かつて私は
多作で知られたある老大家から、

「きみ、作った話というものは、
 いずれは種が尽きるものだよ。
 そうなるとだんだん
 自分を投入するしかなくなるんだ


と聞かされたことがある。

あまり才のない私は、
SFなどというものを書きながら
比較的早くから
自分の体験を作品の中に
織り込むようになったが……
それがこんな状況で顕著になってきた
-ということではあるまいか。

 

もともと奥さんの読書傾向自体、
眉村さんとは違っていた。

しかしながら、
妻がSFの良き読者だったかといえば、
どうもそうではなかったらしいと
答えざるを得ない。

そう振り返りながらも、
支え続けてくれた奥さんへの感謝の思いは
ショートショートに昇華されていく。

ある日、自身の葬儀について
奥さんは眉村さんにこう告げる。

「お葬式の名前は、
 作家眉村卓夫人、村上悦子
 にしてほしい」
と。

そのとき私の脳裏には、前年の三月に
二人で松尾寺に詣(まい)ったさい、
祈願の札に、病気平癒と書けと
私が二度も言ったのに、
妻は聞かず、文運長久とだけ
しるしたことが、よぎっていた。

私の協力者であることに、
妻は自負心と誇りを持っていた
のだ。

奥さんの17年後に後を追った眉村さん。
眉村夫妻のご冥福をお祈りいたします。

 

 

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2019年11月 3日 (日)

徐々に、毎年ひとつずつ

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徐々に、毎年ひとつずつ

- 八千草薫さんの言葉 -

 

2019年10月24日、
八千草薫さんが88歳で亡くなった。

語り継がれるテレビドラマ
「岸辺のアルバム」をはじめ
忘れられない出演作品は多々あるが、
訃報を聞いて最初に思い出したのは
この1ページの小さな記事だった。

週刊誌 週刊朝日 2012年4月6日号。
(以下水色部は記事からの引用)

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「明日に架ける愛」という映画
公開直前のインタービューだが、
この時点ですでに81歳。

今回は、中国残留孤児という
重い過去を背負った役柄だが、
八千草さんが演じると、
独特の軽快さやユーモア、
可愛らしさが加わる

まさにそう。

訃報のあと、八千草さんについては、
「柔らかさに秘めた芯」
「ずっと初々しくて花のよう」
といった言葉と共に
追悼文が寄せられたりしているが、
個人的にはこのユーモア、
「オチャメ」なところが
ほんとうに魅力的だったと思う。

それでいて、

「できあがったものを観ても、
『ああ、もうちょっとできたのにな』
っていつも思うんです。

"後悔"なんて言ったら
監督に対して失礼だから、
"反省"ですかね。

いつまでも、
『私はまだまだだわ』って(笑い)」

と向上心を失うことなく
仕事を続けていたことが、
人を惹きつけ続けていたのだろう。

そしてこの、たった1ページの記事が
忘れられなかったのは
最後の言葉が印象的だったから。

「人間って、いっぺんに
 年を取るわけじゃないでしょ?
 徐々に、毎年ひとつずつ。
 それがいいな、と思います

毎年ひとつずつ。

効率や結果ばかりに
焦点があたりがちな昨今、
資質や努力や経験などと一切関係なく
まさに全員、平等に
かつ、ひとつずつ。

どんな力をもってしても
遅くすることも、
はやくすることも、
一度にふたつ重ねることもできない。

毎年ひとつずつ。

「それがいいな」

を心から感じさせてくれる
そんな女優さんだった。

ご冥福をお祈りします。

 

 

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2019年10月27日 (日)

家畜はわずか14種、の謎 (2)

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家畜はわずか14種、の謎 (2)

- 飼育状態では発情しない!? -

 

ジャレド・ダイアモンド(著)
倉骨彰(翻訳)
銃・病原菌・鉄
1万3000年にわたる人類史の謎
草思社文庫

(以下水色部、本からの引用)

を読んで、
家畜となっている大型哺乳類が
世界にわずか14種しかいない謎を
考えていく2回目。

家畜の種類が少ない6つの理由、
つまり、家畜となるために
クリアしなければならない
6つの問題のうち前回

(1) 【餌の問題】
(2) 【成長速度の問題】

までを書いた。
今日は残りの4つについて
引き続き考えていきたい。

 

(3) 【繁殖上の問題】

われわれ人間は、
衆人環視下でのセックスは好まない。
家畜化すれば
価値がありそうな動物のなかにも、
人間の目の前でセックスするのを
好まないものもいる

動物に羞恥心がないとは思わないが、
これだけ読むと「なんのこっちゃ?」
という気がする。
実はコレ、
飼育状態では発情しない種もいる
という意味だ。

チータとビクーニャの例を挙げている。

古代においてはエジプト人やアッシリア人、
近代になってからはインド人が、
野生のチータを飼いならし、
猟犬より優れた狩猟用動物として
珍重していた。

なのに、常時1000頭のチータを飼っていた
ムガール帝国の王族でも
チータの繁殖には成功していない。

現代の生物学者たちでさえ、
動物園でチータの赤ん坊を
誕生させることには、
なんと1960年になるまで
成功していなかったらしい。

野生のチータは、何頭かの雄が
一頭の雌を何日間も追い回す

そういった壮大かつ荒っぽい
求愛行動があってはじめて雌は排卵し、
発情する
ことになるようだ。

つまり、檻の中で飼われていては
求愛行動自体も発情も難しい、
ということのようだ。

 

動物のなかでもっとも上質で軽い
贅沢な毛を提供してくれる
アンデスの野生のラクダ、ビクーニャも

うまく成功すれば
金と名誉の両方が手に入るという
強烈な動機があるにもかかわらず、

捕獲状態で繁殖させる試みは、
これまでのところ
すべて失敗に終わっている、という。

「檻の中」が発情や繁殖に
こんなに大きな影響を与える種も
存在することを知ると、
檻の中でもちゃんと繁殖できる種が
むしろ特別なものなのかも、
とさえ思えてくる。

 

(4) 【気性の問題】

当然ながら、
ある程度以上の大きさの哺乳類は
人を殺す
ことができる。

豚に殺された人もいる。
牛や馬、ラクダに殺された人もいる。
大型動物のなかには、
豚、牛、馬、ラクダよりも気性が荒く、
もっと危険なものもいる。

家畜として理想的と思える動物でも、
たとえば
グリズリー(アメリカヒグマ)のように、
気性が荒く、人間を殺しかねないので
家畜化されなかったものも多い。

これはイメージしやすい理由だ。
クマ、アフリカ水牛、カバなどを
攻撃的で危険な動物の例に挙げている。

(1)餌の問題のところで、
肉食大型哺乳類が家畜にならない理由を
餌の観点から書いたが、
そもそも、気性の荒い肉食獣では、
飼育している人間の方が
食べられてしまう可能性すらあって、
安心して育てられない。

 

(5) 【パニックになりやすい性格の問題】

大型の草食性哺乳類は、
捕食者や人間に対して
それぞれに異なる反応を示す。

動きは素早いのだが、
神経質でびくびくしていて、
危険を感じるや
一目散に駆けはじめるものもいれば、

さほど神経質でなく、
動きものんびりしていて、
危険を感じたら群れを作り、
それが去るまでじっとしていて、
最後の最後になるまで息せき切って
逃げだすようなことを
しない
ものもいる。

<神経質な前者のタイプ>
 シカやレイヨウの仲間の
 草食性哺乳類の大半
 (例外:トナカイ)

<さほど神経質ではない後者のタイプ>
 羊や山羊

と例を挙げている。

神経質なタイプの動物の飼育は、
当然のことながらむずかしい。

彼らは囲いの中に入れられると
パニック状態におちいり、
ショック死してしまうか、
逃げたい一心で死ぬまで柵に
体当たりを繰り返すような
ところがある。

「囲いや檻のなかでも
 平穏に過ごせる性格」も
どの種にも備わっているわけではない。

 

そして最後の6つめ、社会性。
実際に家畜化された大型哺乳類には、
つぎのような社会性がある。

(6) 【序列性のある集団を形成しない問題】

群れをつくって集団で暮らす。

集団内の個体の序列が
はっきりしている。

群れごとのなわばりを持たず、
複数の群れが生活環境を
一部重複しながら共有している
(この種の群れは、
たんなる個体の寄せ集めではなく、
社会組織として機能する)。

そういった集団としての社会性を持つと
人間にとって、
どんなメリットがあるのだろうか?

このように、馬の集団は、
集団内の個体がお互いの序列を
わきまえて行動するので、
同一集団内に複数の成馬が
存在していても、
いざこざを起こさず共存できる。

序列性のある集団を形成する動物は、
人間が頂点に立つことで
集団の序列を引き継ぎ、
動物たちを効率よく支配できるので、
家畜化にはうってつけの動物である 
(こういう動物は、人間が群れに
所属してしまうことで家畜化できる)。

たとえば
家畜として飼われている馬の集団は、
群れを先導する
牝馬に従うのと同じように
人間のあとについて移動する

集団内に存在する序列の上位に
人間が立てるのであれば
それは確かに人間にとって都合がいい。

しかも、
集団間で、なわばり意識が緩ければ
特定サイズの飼育野で、より多くの集団を
飼うことができる。

そういう動物が家畜化され、
人間によって育てられると、
人間を群れの構成員として
記憶するので、
人間が群れの頂点に立つ
ことができるのである。

このような群れをつくって
集団で暮らす動物は
互いの存在に寛容なので、
まとめて飼うことができる。

本能的に集団のリーダーに従って行動し、
人間をリーダーとして記憶するので、
羊飼い(Shepherd:シェパード)や
牧羊犬が御すことも容易である。

また、身を寄せあった
野生での暮らしに慣れているので、
混み合った状態で飼育しても
うまくやっていける。

集団内で、集団間で、
家畜に求める社会性への要求を
家畜になった動物たちはよく満たしている。
単に「群れを作ればいい」といった
単純なものではない。

 

家畜の種類が少ない6つの理由、
つまり、家畜となるために
クリアしなければならない
6つの問題を再度復習してみよう。

 (1) 【餌の問題】
 (2) 【成長速度の問題】
 (3) 【繁殖上の問題】
 (4) 【気性の問題】
 (5) 【パニックになりやすい性格の問題】
 (6) 【序列性のある集団を形成しない問題】

動物を家畜化するためのハードルは
けっこう高いことがよくわかる。

選ばれし14種は、
確かに(1)-(6)をクリアしている。

 

 

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2019年10月20日 (日)

家畜はわずか14種、の謎 (1)

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家畜はわずか14種、の謎 (1)

- 餌の量と成長速度 -

 

世界の富や権力は、
なぜ現在あるような形で
分配されてしまったのか?


なぜほかの形で分配されなかったのか?

たとえば、南北アメリカ大陸の先住民、
アフリカ大陸の人びと、そして
オーストラリア大陸のアポリジニが、
ヨーロッパ系やアジア系の人びとを
殺戮したり、征服したり、
絶滅させるようなことが、
なぜ起こらなかったのだろうか。

こんな壮大なテーマに
真正面からかつ
多角的に取り組んでいる

ジャレド・ダイアモンド(著)
倉骨彰(翻訳)
銃・病原菌・鉄
1万3000年にわたる人類史の謎
草思社文庫

(記事中、水色部は本からの引用)

から、
ここでは
考察の対象となる「1万3000年」について
考えてみたし、
ここでは
年代測定の基礎となる
炭素14による年代測定法について
その問題点とその背景を紹介した。

今日は、人間社会において
欠くべからざるものになっている家畜を、
「野生種の家畜化」の視点から
眺めてみたい。

 

最初に、家畜の有用性を再確認しておこう。

【家畜の有用性】

家畜は、肉や乳製品といった
食料を提供してくれるし、

農業に必要な肥料や、
陸上での輸送運搬手段
物作りに使える皮類
軍事的な動力なども提供してくれる。

また、農耕動物として働き、
鋤をひいてくれるし、
織物のための毛も提供してくれる。

ほかにも、細菌に対する免疫
人びとに植え付けるなど、
本の題名にもなっている
人間社会における「病原菌」の
地域格差を生む背景にもなっており、
その役割と影響力はたいへん大きい。

まさに人間は、さまざまな面で
助けてもらっているわけだが、
この家畜、全世界レベルで眺めてみても
その種類は驚くほど少ない。

詳しくは本に譲るが、
体重45kg以上の大型哺乳類で見てみると
わずか14種しかいないと言う。
種類のみを書くと、

「メジャーな5種」
   1.羊
   2.山羊
   3.牛
   4.豚
   5.馬

「マイナーなな9種」
   6.ヒトコブラクダ
   7.フタコブラクダ
   8.ラマおよびアルパカ
   9.ロバ
  10.トナカイ
  11.水牛
  12.ヤク
  13.パリ牛
  14.ガヤル

全世界で見ても、たったこれだけ。

家畜化の候補となりうる
陸生の大型草食動物は
全世界に147種もいるのに、
どうしてわずか14種だけなのだろう?

たとえば、シマウマについて見ると、
これまでどの民族も
家畜化には成功していない。
どうしてシマウマは
家畜にならないのだろうか?

本では、
「少なくともつぎの6つの理由
 認められる」
と書かれているが、
この理由というのがなかなか興味深い。

「野生種を家畜化する」ためには
どんな問題をクリアする必要があるのか?

家畜化にむけてのキーワードを通して
動物やその生態について考えてみたい。

 

まずは、この問題から。

(1) 【餌の問題】

動物は餌として食べる動植物を
100パーセント
消化吸収するわけではない。

動物の血となり肉となるのは、
通常、動物が消費する餌の
10パーセント
である。
つまり
体重1000ポンド(450キロ)の牛を
育てるには
1万ポンド(4.5トン)の
トウモロコシが必要である。

体重1000ポンドの
肉食動物を育てるには、
10万ポンド(45トン)の
トウモロコシで育てた草食動物が
1万ポンド必要になる
(したがって、大型肉食獣は
 家畜化に向いていない
)。

また、
草食動物や雑食動物であっても、
コアラのように
餌の好き嫌いが偏りすぎていて
牧場での飼育に不向きなものも多い。

 このように肉食哺乳類は、
餌の経済効率が悪いので、
食用目的で家畜化されたものは
皆無である。

これは実にわかりやすい。
草食獣の肉1kgを得るためには、
10kgの草が必要
というわけだ。

肉食獣の肉1kgを得るためには、
10kgの草食獣が必要になり、
10kgの草食獣を育てるためには
100kgの草が必要になる。
つまり
肉食獣の肉1Kgを得るためには、
100kgの草が必要
になってしまう。

このことだけでも、大型肉食獣が
家畜化に向いていない理由はよくわかる。

 

(2) 【成長速度の問題】

成長に時間がかかりすぎる動物は、
家畜化し、育てる意味があまりない。
家畜は速く成長しなければ価値がない

草食性で、
比較的何でも食べ、
肉をたくさんとれるのに、
ゴリラやゾウが家畜化されないのは、
まさに
成長に時間がかかりすぎるから
である。

一人前の大きさになるまで
15年も待たなくてはならない動物を
飼育しようと考える牧場主が
いるだろうか。

アジアには
ゾウを力仕事に使っている人びとが
いるが、彼らは成長した
野生のゾウを捕まえてきて
飼いならして使っている、
ということらしい。

 

家畜の種類が少ない6つの理由、
つまり、家畜化するために
クリアしなければならない6つの問題。
今日は2つ

(1) 【餌の問題】
(2) 【成長速度の問題】

までを挙げた。
残りの4つについては次回、
引き続き考えていきたい。

 

 

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2019年9月29日 (日)

炭素14年代測定法の信頼性

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炭素14年代測定法の信頼性

- 「科学的分析」の儚(はかな)さ -

 

世界の富や権力は、
なぜ現在あるような形で
分配されてしまったのか?


なぜほかの形で分配されなかったのか?

たとえば、南北アメリカ大陸の先住民、
アフリカ大陸の人びと、そして
オーストラリア大陸のアポリジニが、
ヨーロッパ系やアジア系の人びとを
殺戮したり、征服したり、
絶滅させるようなことが、
なぜ起こらなかったのだろうか。

こんな壮大なテーマに
真正面からかつ
多角的に取り組んでいる

ジャレド・ダイアモンド(著)
倉骨彰(翻訳)
銃・病原菌・鉄
1万3000年にわたる人類史の謎
草思社文庫

(記事中、水色部は本からの引用)

 

前回
考察の対象となる「1万3000年」について
考えてみたが、
今日は、
歴史研究のまさにベースとなる
年代測定法のひとつ
「炭素14年代測定法」についての部分を
紹介したい。

本書で言及している
過去1万5000年にわたる期間は、
これまでの炭素14年代測定法ではなく、
新たに採用された
炭素14年代測定法
による
誤差を修正した数値を使用している。

と本文にも何度も出てくる通り、
従来のよく知られた炭素14年代測定法には
いろいろ問題があったようだ。

それはどんなもので、
どこに問題があったのか?
よく聞く年代測定法でもあるうえ、
そこで得られた数字は
歴史を考えるときの
根拠としてもよく使われるので
改めてその信頼性について学んでみたい。

まずは、測定法の原理から。

【炭素14年代測定法】

考古学では、
食料生産がおこなわれていた年代を
推定するのに炭素14年代測定法を
もちいている。

この測走法は、
あらゆる生命体を構成する
普遍的な原子のひとつである
炭素原子のなかの、
ほんの一部の放射性炭素14が、
生命体が死ぬと
一定の曲線を描いて減少し、
非放射性同位元素の窒素14に
変化することを利用して、
遺物に残存している
放射性炭素14の量を計算することで
年代を求める
というものである。

大気中には、
宇宙線の照射によって発生した
炭素14が常に存在している。

植物は大気中の炭素を取り入れるが、
そこには炭素12と炭素14が
一定の割合でふくまれている
(この割合は、炭素12が100万個に対して
 炭素14が1個である)。

植物の体内に取り込まれた炭素は、
その植物を食べる草食動物の
体内に取り込まれる。

さらに、その草食動物を食べる
肉食動物の体内に取り込まれる。

動植物が死ぬと、体内の炭素14は
5700年の半減期を経て炭素12に変化し、
死後4万年で大気中の濃度と
ほぼ同じレベルにまで減少して
測定不能になるか、
あるいは人工物の中にふくまれる
微量の炭素14との区別がむずかしくなる。

このように、遺跡の出土物は、
それに残っている
炭素14と炭素12の量を測定し、
その割合を算出することで、
年代を求めることができる

上記文章で理解できたであろうか?

簡単に言うと、
植物も動物も生きているときは
大気中と同じ比率で
体内に炭素14を含んでいるが、
死んでしまうと
大気からの炭素14の取り込みが
なくなるため
炭素14の半減期に従って
体内から炭素14が消えていく。

なので炭素14の比率を測れば
死んでから何年経ったのかがわかる、
そういう原理だ。

さて、長く使われていたこの方法の
どこに問題があったのだろうか。

本では2点、指摘されている。

【炭素14年代測定法の問題点1】

そのひとつは、
1980年代まで利用されていた技術が、
比較的多量(数グラム単位)の試料を
必要としていた
ことである。

数グラムという量は、
小さな種子や骨から
取りだせる量ではないので、
科学者たちは、
それらの遺物を直接測定するかわりに、
それらと
「かかわりがありそうなもの」
つまりそれらが出土した場所の
近くで出土し、
同時代のものと推定される遺物を
測定することが多かった。

「かかわりがありそうなもの」
として利用された典型的なものは、
炭化した燃えカス
である。

 しかし遺跡というものは、
そこから出土するすべてが
同時期に封印された
タイムカプセルであるとはかぎらない。

別々の時代に残されたものが、
たとえばミミズ、ネズミ、
その他の動物によってほじくり返されて、
混ざりあってしまうこともある。

したがって、ある時代の燃えカスが、
その時代より1000年も離れた時代に
死んだり食べられたりした動植物の
すぐそばから出土することも
ありうるのだ。

そこで、今日では、
試料に含まれる極微量の同位体
正確に数えて同位体比を測定する
「加速器質量分析法」
という方法を使って、
この問題を回避するようになりつつある。

 

【炭素14年代測定法の問題点2】

炭素14年代測定法の
もうひとつの問題は、
過去の大気中の
炭素14と炭素12の割合が一定でなく

年代とともにゆらいでいるため、
測定誤差が生じるということである。

しかしこの誤差の大きさは、
樹齢の長い木の年齢を数える
年齢年代測定法で求めることができる。

これによって木の年齢の
絶対的な年表(カレンダー)ができると、
その木の炭素の試料から、
ある年代の炭素14と炭素12の割合が
求められるので、
炭素14年代測走法で求められた年代は、
大気中の炭素14の割合のゆらぎを
考慮した正確な年代に
修正できるのである。

誤差無修正で、
ほぼ紀元前6000年から紀元前1000年の
あいだと測定された遺物に対して
誤差を修正してみると、
じつはそれより数世紀から数千年も前に
さかのぼるものだったりすることもある。

もうひとつは、なんと
炭素14の比率が
 年代とともにゆらいでいる

という事実。

年齢年代測定法によって
誤差の修正はできるようであるが
その範囲は限定的であろう。

 

【表記でわかる修正の有無】

最近では、いくぶん古い時代だと
思われる遺物に対しては、
炭素14年代測定法とは別の
放射性年代測定法
もちいられるようになった。

その結果、
これまで紀元前9000年頃のものと
されていた遺物が、
紀元前1万1000年頃のものであったと
結論づけられたことがある。

 考古学者は、

誤差を修正した年代を
「3000BC」というように
大文字で表記し、

修正されていない年代は
「3000bc」と
小文字で表記する


ことで、
両者を区別する傾向にある。

しかし、考古学の文献のなかには、
誤差を修正していない年代を
BCというように大文字で記述しながら、
その旨を明記しないものが多く、
混乱をまねくことがしばしばある。

この本では、過去1万5000年のあいだに
起こった出来事については
誤差を修正した年代をもちいている。

こうしてみると
「対象試料そのものの正確性」
「対象時代の大気の状態(炭素14比率)」
どちらもかなり
頼りない指標だということがわかる。

 

最近、過去の事件に関して、
最新のDNA判定結果が、
過去のDNA判定結果を覆えした例が、
ニュースになっていた。

当時としては「科学的に分析して」
同一人物のものと判断されたものが
最新の分析結果では別人のものであると。

「科学的な分析」は
絶対的な正しさではなく、
実際にはかなり「儚(はかな)い」ものだ。

「当時の知識や技術では
 それが正しかった」
という説明が通ってしまうという意味で。

客観的な証拠や分析は重要なものだが
「科学的な分析」という言葉には
常にそういった危うさが
含まれていることを
忘れてはならないと思う。

 

 

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2019年9月22日 (日)

未知の700万年

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未知の700万年

- 700万年と1万3000年 -

 

ジャレド・ダイアモンド(著)
倉骨彰(翻訳)
銃・病原菌・鉄
1万3000年にわたる人類史の謎
草思社文庫

(以下水色部、本からの引用)

は、上下巻で合計800ページを超える
大作だが、とにかく
取り組んでいるテーマがすごい!

世界の富や権力は、
なぜ現在あるような形で
分配されてしまったのか?


なぜほかの形で分配されなかったのか?

たとえば、南北アメリカ大陸の先住民、
アフリカ大陸の人びと、そして
オーストラリア大陸のアポリジニが、
ヨーロッパ系やアジア系の人びとを
殺戮したり、征服したり、
絶滅させるようなことが、
なぜ起こらなかったのだろうか。

こんな壮大なテーマに
真正面から多角的に取り組んでいる。

なので内容としては
紹介したいトピックス満載なのだが、
読み始めて早々、
本の題名にもなっている
「1万3000年にわたる人類史の謎」
の「1万3000年」が
妙に気になってしまった。

もちろんそれは「1万3000年」が
正しいとか間違っているとか
そういう意味での「気になる」ではない。
そもそも、そこにコメントできるほどの
知識を持ち合わせてはいない。

あえて言えば、
scaleとscopeについて考えさせられた
というべきだろうか。

今日はそのことについて書いてみたい。

 

人類の歴史を、
それぞれの大陸ごとのちがいに
目を向けて考察するには、
紀元前1万1000年頃、すなわち
現在よりおよそ1万3000年前を
出発点とするのが適切
だろう。

1万3000年前とは、地質学的には
更新世の最終氷河期が終わり、
現在に至る完新世が
はじまった時期にあたる。

これは、世界のいくつかの地域で
村落生活がはじまり、
アメリカ大陸に人が住みはじめた
時期にも相当する。

少なくとも一部の地域では、
それから数千年以内には
植物の栽培化や動物の家畜化が
はじまっている。

とあるように、この本では、
「紀元前1万1000年から現代まで」の
1万3000年間を考察の対象としている。

もちろんその前には
人類の歴史を大きく振り返ることも
忘れていない。

人類の歴史はいまから約700万年前
(いまから
 900万年前から500万年前のあいだ
 と推定されている)
にはじまった

(中略)

発見された化石類を見ると、
人類は約400万年前に
直立姿勢
をとりはじめている。

700万年前に誕生し、
400万年前に直立姿勢をとるようになった
人類。

ただその時点ではまだ
世界中に住んでいたわけではない。

アフリカを発祥とする人類は
はじめの数百万年を
アフリカ大陸内で過ごしている。

700万年前に誕生した人類は、
はじめの500万~600万年を
アフリカ大陸ですごしている


(中略)

現在のところ、ヨーロッパ大陸に
人類が存在したことを示す
確固たる証拠で最古のものは
約50万年前のもの
であるが、
それより以前に存在していた
とする説も複数ある。

のように、アフリカから
世界中に拡散していく。

その概要は、
「人類の拡散」
という次の図で示されている。

700mfigmap

何万年というオーダーゆえ
地形そのものが今とは違っていたことも
考慮が必要だが、
気象条件であったり、
海を渡る手段であったり、
移動先での食料の確保であったり、
様々な条件のもと、
人類は世界に広がっていく。

図を見ると、その様子を
ざっくりと把握することができる。

ただ、この図を見ていると、
「気になる」ことがある。

700万年前から始まっているのに
実際は妙に最近のことしか
書かれていないではないか。

どういう意味か。

それをはっきりさせるため、
図にある拡散時期を
年表形式で書き直してみたい。
(図はクリックすると拡大されます)

700mfig_1k

ご覧いただけばわかる通り、
「紀元前700万年から西暦2000年」
までを全対象期間として描くと
本が対象としている考察期間である
「1万3000年前から現在まで」は、
右端の黄色い線の「幅」程度にしか
ならない。
まさに線の「太さ」でしか
表現できないほどのわずかな「幅」。

このわずかな黄色い線の幅が表す
1万3000年前の間に、
人類はまさに急成長したわけだ。
800ページの本書に書かれているのも、
この幅の中で起こった物語。

でも図を見ればわかる通り、
その左側にはまさに「未知の700万年」
が大きく大きく横たわっている。

黄色い線の幅が数百個も入るほどの期間が
未知の期間として横たわっている。

この間、
緩やかに直立姿勢になり、
緩やかに石器を使い始め、
緩やかに住む地域を広げ、
緩やかに農耕を始めた、
それだけなのだろうか?

そんなに単純に考えていいのだろうか?

ここ1万年に起こったことが、
[ 発生 - 隆盛 - 全滅 ]の形で
繰り返されたとしても
それを数百回も繰り返せるほど
時間があるのに。

もちろん何か証拠があるわけではない。
単なる素人の空想、お遊びだ。

でも、年表に基づく図を見ていると
「700万年」はあまりにも長く、
「1万3000年」はあまりにも短い。

空想で遊んでみたくなる「700万年」だ。

 

 

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2019年7月14日 (日)

足立美術館(1)

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足立美術館(1)

- 16年連続日本一の庭園 -

 

足立美術館は、実業家の
足立全康(ぜんこう1899-1990)さんが
生まれ故郷の島根県安来市
1970年、71歳のときに開館した美術館だ。

島根県松江市から車で約30分。

横山大観をはじめ近代日本画を
メインに蒐集している美術館だが、
この美術館の名を
内外に轟(とどろ)かせているのは、
なんといってもその庭だ。

枯山水庭、苔(こけ)庭、池庭など
複数の「庭」を目当てに
訪問する観光客が多い。

丁寧に手入れされた庭は、
米国の日本庭園専門誌
『The Journal of Japanese Gardening』の、
「2018年日本庭園ランキング」で
第一位に選ばれている。

しかも、
全国の日本庭園900か所以上を対象にした
同誌のランキングにおいて
今回の選出により
「16年連続日本一」をも達成しているのだ。

ちなみに
2018年日本庭園ランキング
ベスト5は

 1位 足立美術館(島根県)
 2位 桂離宮  (京都府)
 3位 皆美館  (島根県)
 4位 山本亭  (東京都)
 5位 京都平安ホテル(京都府)

となっている。

日々変化し続ける庭において
16年連続日本一とは。

 

いったいどんな庭なのだろう?
我々夫婦も期待いっぱいで
入館の列に並んだ。

おもしろいのは
美術館なのに入館した人は皆、
まずは庭の眺めを探して
キョロキョロしていること。

実は慌てずとも、入り口から
巡回コースが作られており、
館内を順に歩くだけで、
各所から庭を眺められる構造に
なっている。

Img_4145s

(写真はすべてiPadで撮影)

私が訪問したのは
改元に伴う連休中だったため
バスでやってくるような団体客も含めて
まさに多くの訪問者で賑わっており、
「ゆっくり愛でる」
という雰囲気ではなかったが
それでも庭の美しさには
たちまち目を奪われた。

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「ゆき届いている」
この言葉が最初に浮かんだ。

 

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全体のレイアウトだけでなく、
ゴミはもちろん、枯れ枝や落ち葉さえ
一本一枚も落ちていないほど、
手入れが行き届いている。


Img_4159s

そのうえ、
借景も含めた遠近感の設定が絶妙で、
空間がどこまでも広がっていくような
不思議な開放感がある。

Img_4172s

この美しさ、どう表現すればいいのだろう。

 

歩くに従い少しずつ角度を変えて
違った顔を見せてくれる。

Img_4174s

 

パノラマ写真を使って
広角的に池の周りを写すとこんな感じ。

Img_4176s

 

館内には窓枠を額縁に見立て、
庭園を絵画のように
眺められる仕掛けもある。

Img_4177s

 

縦長に切り取ればまさに掛け軸だ。

Img_4178s

この「生の掛け軸」となる
「壁の穴」は、
足立さんが師と仰ぐ、
「米子商工会議所の名誉会頭だった
 故坂口平兵衛さんの発想を
 頂戴したもの」
と足立さん自身が自伝
庭園日本一
 足立美術館をつくった男
』に
書いている。

本によると
「床の間に穴を開けるなんて」と
猛反対する職員や大工を前に、
足立さん自らがカナヅチを持って
壁をぶち抜いてしまったらしい。

 

それにしても、これほど完璧な庭、
いったいどんな人が、どんな思いで
日々の世話をしているのであろうか?

ここの庭師の方の話が
以前少し詳しく新聞に出ていたことがある。

次回、その話を紹介したい。

 

 

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2019年7月 7日 (日)

島根県の民藝めぐり(2)

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島根県の民藝めぐり(2)

- 出西窯とobjects -

 

島根県の民芸めぐりの2回目。
今日は、
島根民芸の代表選手のひとり、
出西(しゅっさい)窯から訪問したい。

参考図書は今回も

 私の好きな民藝
 鞍田崇 他著
 NHK出版

(以下水色部は本からの引用)

 

【出西(しゅっさい)窯】

Img_4270s

(写真はすべてiPadで撮影)

この大きな建物は
くらしの陶・無自性館」。
窯元に隣接している販売展示館だ。

吹き抜けを備えた2階建てで
多くの作品を一覧できる。

Img_4272s

この出西窯、
戦後間もない昭和22年(1947年)に
農家の5人が始めたものらしい。

開窯して間もなく、
河井寛次郎や濱田庄司に会い、
民芸運動に参加することを一同決心。

民芸の巨匠らの指導を受けつつ、
手仕事による、
実用的で美しい器作りを目指します。

以来70年、
郷土の土や釉薬の原料にこだわり、
土作りから一貫して工房内で生産

Img_4273s

縁に鉄砂引きを施した
呉須釉(ごすゆう)の器
は、
出西窯を代表する製品で、
深みのある青は
「出西ブルー」と呼ばれている。

Syussaiblue

焼くことで浮かび上がる
まさに焼き物ならではのブルーだ。

いくつかお目当ての作品があったのだが、
鳥取の岩井窯同様
希望するサイズのものは
残念ながら
連休前半で売れてしまっていた。

Img_4274s

 

工房では「登り窯」も公開されている。

Img_4275s

50年以上も使っているという
歴史のあるものだが、
今でも年に数回、
火を入れられるらしい。

Img_4277s

この棚いっぱいとなれば
相当な数が焼けることだろう。

Img_4278s

また開窯から現在に至るまで
共同体の形をとり、
器を共同製作しているのも
この窯の特徽です。

「分業ではなく、陶工の各人が
 決められた種類の器を、
 成形から釉掛けまで
 受け持っています

 効率的かどうかは別として、
 分業だとつまらないでしょう」

とは、出西窯代表多々納さんの言葉。

 

Img_4279s

現在は研修生を含め
13名が陶器の製造に携わっているという。

Img_4281s

 

販売展示館には
次々と客がやってきていて、
観光地並に大賑わい。

Img_4282s

 

工房と販売展示館の裏には、
出西窯の器を使ったBakery&Cafe
「ル コションドール出西」
があり
焼き立ての美味しそうなパンの匂いが
駐車場にまで流れてきていた。

Img_4285s

客の動きを見ていると、駐車場から直行、
このパン屋さんだけが目当ての客も
結構いるようだ。

 

もう一箇所、
出雲松江藩の城下町として栄えた
松江市内で寄ったのは

【objects:オブジェクツ】
ここも倉吉のCOCOROSTOREと同様
古い建物をリノベーションして
店舗にしている。

Img_4190s

もとはテーラーだったらしく
レジを兼ねたカウンタは
テーラーの時のものを
そのまま利用している。

Img_4191s

「東西に長い島根には
 窯元が点々とあって、
 各々の風土に合ったものを
 作ってきました。

 例えば石見(いわみ)は、
 採れる土がきめ細かく
 よく伸びることから、
 水甕(みずがめ)などの大物を。

 一方、出雲は
 藩主の松平不昧(ふまい)公が
 茶人だったので、
 茶陶の伝統があります。

 それぞれ特徴は異なりますが、
 全般に道具として
 しっかりしたものが多いのは、
 民芸運動が与えた影響が
 大きい
からだと思うんです」。

とは店主の佐々木さんの弁。

Img_4197s

扱っているのは
湯町窯や出西窯、森山窯、岩井窯といった
山陰の窯元をはじめとする焼き物のほか、
岡山の漆器やガラス器、
真鍮のカトラリー
など。

Img_4194s

トーンの違う様々な焼き物を
上手に展示してあり、見ていて楽しい。

Img_4192s

温泉津町の森山窯
素敵な皿との出合いがあって一枚購入。

 

objectsのあるエリア、
他にも古いレトロな建物が多い。

Img_4198s

 

ちょっと怪しい店も含めて
散策するといろいろおもしろいことが
発見できそうな味のあるエリアだ。

 

 

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2019年6月30日 (日)

島根県の民藝めぐり(1)

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島根県の民藝めぐり(1)

- 出雲民藝館 -

 

鳥取県の民藝めぐりに続いて、
お隣、島根県の民藝も見てみたい。

今日も参考図書は

 私の好きな民藝
 鞍田崇 他著
 NHK出版

(以下水色部は本からの引用)

 

【出雲民藝館】

Img_4286s

(写真はすべてiPadで撮影)

なんとも立派な門が出迎えてくれる。

昭和49年(1974年)に開館した
出雲民藝館の建物は、
出雲地方きっての豪農だった
山本家の寄付によるものだという。

民芸運動に賛同したのは
職人たちだけではなかったのだ。
民芸の趣旨に感銘を受けて、
さまざまな形で協力した人々がいた。

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民藝館入り口の長屋門は
まさに堂々たる構え。
江戸時代、延享3年(1746年)の建造で、
出雲大社造営の棟梁が手がけたという。

入場料を払うと、
正面の母屋には
 今も人が住んでいます
ので
 公開されている
 本館と西館だけを
 見学するようにして下さい」
と注意された。

Izumomingei1

まずは本館を見学。

本館は、3千俵もの米俵を収蔵していた
米蔵を改修したもの。

入ると最初にこんな額が。

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「民芸の性質」とある。

民芸の性質
 * 庶民的なもの
 * 実用的なもの
 * 数多く作られるもの
 * 安価を旨とするもの
 * 健康なもの
 * 簡素なもの
 * 協力的なもの
 * 伝統に立つもの

もちろん「民芸」に
かっちりとした定義があるわけではないが、
個人的にはこれに
 * 自分の暮しにフィットするもの
 * その土地の素材を大事にしたもの
などを勝手に足しながら
楽しんでいるかもしれない。

Img_4292s

壁にかかっているのは、
出雲地方で婚礼の際に使われた
嫁入り風呂敷
筒描染という伝統技法で、
家紋や吉祥文を染め抜いている。

風呂敷の下に並んでいる大きな壺は、
石見焼の大野壺。

「石見焼の巨大な野壺は、
 廃棄されそうになっていたものを
 協力者が見つけて、わざわざここに
 運んできてくれたそうです。
 その情熱に頭が下がります」
と事務局の方。

江戸末期から昭和初期にかけての
ものを中心に、布志名焼、石見焼
はじめとする陶磁器や、
かつてこの地方で盛んだった藍染、
木綿絣(もめんかすり)、
木工品などが展示されている。

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出雲民藝館事務局の方によると、

「展示品は、
 出雲民藝協会の会員や、
 県内外の協力者が寄付してくれた
 コレクションがもとになっています。

 すべて暮らしの中で
 使われてきたもの
で、
 その健康的な美しさとともに、
 そのような品を使う
 暮らしの美しさをも
 伝えたいというのが、
 この民藝館の趣旨です」。

 

西館は材木蔵を展示館として改修。
山陰の作り手による民芸品のほか、
農耕具なども並ぶ。

藍染の絵柄のデザインがすばらしい。

Img_4298s

昔の農工具なども
そのまま保存・展示されている。

私自身、農家が多い地域で育ったせいか、
子どものころに、近所の農家で
見た記憶のあるものもある。

Img_4300s

 

入り口となっていた長屋門の一角に
小さな売店もある。

Img_4304s

靴を脱いで上がる畳敷きの部屋で、
大きくはないが、
出西窯、湯町窯、森山窯、
袖師(そでし)窯、白磁工房

といった地元の陶磁器や、
木工品、和紙、染織など、
島根の手仕事を幅広く集めている。

Img_4305s

訪問日は2019年5月5日。
連休中の一日にもかかわらず
我々夫婦が訪問したとき、
他の訪問者はゼロ。

館内をゆっくり静かに見られたし、
売店では
他のお客様に気兼ねすることなく
事務局の方と
自由に話をすることができたが、
完全な貸し切り状態というのは
それはそれで寂しいものだ。

多くの民芸品を見た中では、
藍染の様々な絵柄が
妙に強く印象に残った民藝館だった。

 

 

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2019年6月16日 (日)

鳥取県の民藝めぐり(1)

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鳥取県の民藝めぐり(1)

- 吉田璋也(しょうや)の功績 -

 

大山登山で嬉しい達成感を味わえたうえ、
皆生(かいけ)温泉の恩恵にも浴したものの、
登山ド素人の我々夫婦は、予想通り、
足の筋肉痛を避けることはできなかった。

というわけで、登山の翌日は
「あまり歩かなくてもいいコース」
で動くことにした。

今回の旅行では、大山登山のほかに
もうひとつ、
ぜひやりたいと思っていることがあった。
それは、
「民藝の焼き物を見て回ること」。

というわけで、登山の翌日は、
「鳥取県の民藝に触れる一日」
とすることにした。

 

鳥取県の民藝を語るうえで欠かせないのが
吉田璋也(1898-1972)」だ。
まずは、彼が作った
「民藝美術館」から話を始めたい。

なお、参考図書は、
 鞍田崇 他著
 私の好きな民藝
 NHK出版

(以下、水色部は本からの引用)

 

【鳥取民藝美術館】

Tottorimingei1

吉田璋也さん、
どんな人だったのだろう?

山陰の民芸の発展に
大きく貢献した吉田璋也(しょうや)


開業医だった璋也は、
「民芸のプロデューサー」を自任。
地元の手仕事の伝統をもとに、
職人たちを指導して、
新しいデザインの民芸品を作らせ、
また職人の集団「鳥取民藝協団」も
組織しました。

こうした「新作民芸運動」を背景に、
璋也は昭和24年(1949年)、
自分が蒐集した民芸品を展示する
鳥取民藝美術館を開設した。

JR鳥取駅からすぐのところにある。

Img_4092s

(写真はすべてiPadで撮影)

 

1階には、璋也がデザイン
もしくはプロデュースした民芸品を
メインに展示してある。

Img_4080s

焼き物に限らず、家具や障子の桟や

Img_4090s

コンセントカバーのような小物まで、

Img_4082s

吉田璋也のセンスが感じられる。

2階には、蒐集した民芸品。
コレクションは鳥取地方に
限定されたものではなく、
日本はもとより中国等海外からのものもある。

Img_4086s

この美術館の目的は

来館者に民芸品の美しさを
伝えることだけでなく、
職人たちに民芸の美の基準を
示すこと
にありました。

ここにあるものを手本に、
新しい民芸品を
作ってもらおうと考えたのです。

 

民藝美術館のとなりには、
昭和7年(1932年)に吉田璋也が開いた、
日本初の民芸店「たくみ工芸店」がある。

Img_4093s

この民芸店、開店の理由が感動的だ。

「すごいと思うことですが、
 璋也は職人たちの生活のため、
 自分が作らせたものを
 すべて買い取ったんです


 それを売るための場所が
 必要だったんですね」

と美術館の理事が語っている。

さらにその隣には、
昭和37年(1962年)
民芸の器で郷土料理を提供する、
「たくみ割烹(かっぽう)店」
オープンする。

こちらは実際に
民芸品を使っている姿を見せ、
その使い勝手を知ってもらう場所、
と位置づけられている。

写真左から
「美術館」「たくみ工芸店」「たくみ割烹」
の3棟が並んで建っている。

Img_4096s

今回訪問した時には、
割烹店の前(写真右下)には
入店のための行列ができていた。

 

ちなみに美術館の人の話によると、
通りを挟んだ反対側ある
吉田歯科医院は
吉田璋也のお孫さんがやっている
歯医者さんらしい。

Img_4091s

 

美の実例・基準を提示するだけでなく、
職人に作らせたものをすべて買い取って
それを売る場、使う場を設けながら
新しい作品を作る機会を与えていく。

「民芸のプロデューサー」として
なんという実行力だろう。
エピソードと共に話を聞くと
忘れられない名前になる、吉田璋也。

最後に、人柄を偲ぶため
民藝館の入館パンフレットの写真を
添えておきたい。

Yoshidasyoya

 

 

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