書籍・雑誌

2018年8月12日 (日)

オーストリア旅行記 (51) フェリペ2世<スペイン王>(2)

(全体の目次はこちら


オーストリア旅行記 (51) フェリペ2世<スペイン王>(2)

- 的中!ノストラダムスの大予言 -

 

世継ぎを生むことが叶わなかった
2人目の妻メアリの待つイングランドに
1年3ヶ月ぶりに帰ってきたフェリペ2世。

このころから
彼のヒール(悪役)的特徴が
鮮明になってゆく。

これが前回の最後。
この続きから始めたい。

これまで同様、参考図書は
この2冊。

[1] 岩崎周一 (著)
  ハプスブルク帝国
  講談社現代新書


(以下水色部、本からの引用)

 

[2] 中野京子 (著)
  名画で読み解く
  ハプスブルク家12の物語
  光文社新書


(以下薄緑部、本からの引用)

 

今日も美術史博物館で撮った写真を
挿絵代わりに挿入しながら、
話を進めていきたい。

P7169415s

 

フェリペ2世が1年3ヶ月ぶりに
イングランドに戻った理由は?

彼がもどったのは
何も妻に会いたいからではなく、
彼女の自分への愛情を利用して、
対フランス戦での
資金援助をあおぐため
にすぎない。

その後、前回書いた腫瘍が原因で
メアリは息を引き取ることになるのだが、
フェリペ2世は
メアリの葬儀にさえ出席しなかった。
しかも、内々に打診していた
イギリス女王との結婚が
失敗に終わると、
今度は変わり身早く
仇敵フランスに近づいていったのだ。

P7169432s

 

そして3度目の結婚を迎える。

【3度目の結婚】

アンリ二世と講和を結び、ついでに
彼の娘エリザベートとの婚姻も決める
という、みごとな離れ業で、
イングランドの鼻をあかす。

だが、ここでもまた流血沙汰が
ついてまわった。

彼は、当時のしきたりに従い、
スペイン側としては
フェリペの代理人をたて、
フランスでエリザベートとの挙式
を行なった。

P7169427s

 

【的中!ノストラダムスの大予言】

その席上、
フェリペの舅となるアンリ二世が、
自ら馬上槍試合に参加した。

 あまりに有名な
ノストラダムスの予言
的中例としてあげられる
のが、
この寿ぎの場で起こった
恐ろしい事故である。

 ノストラダムスの詩文に曰く、

若き獅子は人に打ち勝たん
 戦のにて一騎打ちのすえ
 黄を抉(えぐ)りぬかん
 傷はふたつ、
 さらに酷き死を死なん」。

 馬上試合の「庭」で
「一騎打ち」の最中、
「若い」対戦相手の槍が折れ、
「老」アンリの「金」の
「兜」(=檻)を貫いて 
「眼」に突き刺さったのだ。

王は九日聞苦しみぬいたあげく、
「酷き死」を迎えた。

 これがフェリペ三度日の結婚の、
縁起でもないスタートであった。

200万部以上が売れた大ベストセラー、
五島勉さんの著書
『ノストラダムスの大予言』が
日本で出版されたのは1973年なので、
日本での最初のブームを知っているのは、
50代も後半以上の方ということに
なるだろうか。

ただ、その中では、
「人類滅亡」にまで触れられており
「1999年 7の月に恐怖の大王が来るだろう」
との記述になっていたので、
実際の1999年の記憶がある
30代以上の方であれば
聞いたことがあるのではないだろうか、
「ノストラダムスの大予言」

P7169428s

 

閑話休題。
縁起でもないスタートとなった
32歳の花婿と14歳の花嫁のカップルは
はたして幸せになれたのだろうか?

実はエリザベートは
生まれてまもなく、
フェリペの息子
カルロス(彼女と同年齢)と
婚約していた。

国家間の政略上
よくあることとはいえ、
フェリペは息子の婚約者を
奪った
ことになる。

しかも
カルロスとエリザベートは
この9年後、23歳で、
相次ぎ間をおかず死去してしまう。

P7169429s

 

【オペラ「ドン・カルロ」】

ヴェルディのオペラ
『ドン・カルロ』も、
この黒い伝説をもとにしている


相思相愛だった
エリザベートとカルロスが、
「老王」フェリペに
仲を引き裂かれた悲恋を縦糸に、
横糸には、
当時独立運動が盛んだった
ネーデルランドを支持したカルロスが、
けっきょくはフェリペに邪魔されて
死に至るというストーリーだ。

実際のカルロスも
父に反逆して
ネーデルランドヘ行こうとし、
逮捕監禁され、自殺未遂のあげく、
半年後、牢内で病死している。

そしてそのたった2ヶ月後、
エリザベートが男児を早産。
まるでカルロスの呪いのように、
そのまま母子ともに死去してしまう。

結局、娘ふたりを残しただけだった

話は続く。

フェリペは
彼らを亡くした同年のうちに、
四人目の妻を迎える。

P7169431s

 

【4度目の結婚】

今度の相手は
健康で多産でなければならない。
多産というなら、
十人も子を産んだ自分の妹だ、
というわけで、
現代人には受け入れがたい
叔父姪結婚、
正確には、従兄と実妹との間にできた
娘アナを妻にした。

大変な血の濃さ。

おそらくそのせいと思われるが、
アナは多産ではあったが、
生まれた子は次々夭逝し、
けっきょく
息子ひとり(フェリペ三世となる)を
残して
12年後に、
やはり産褥で亡くなった。

フェリペ53歳。またも独り身
ようやく息子を得て
もう結婚は考えていなかったのだろうか。


P7169430s

 

それとも噂どおり、
スコットランド女王
メアリ・スチュアート

次の視野に入れていたのだろうか? 


幽閉中のメアリにフェリペが密かに
コンタクトを取ったせいで、
彼女は謀反人として
エリザベスから首を
刎(は)ねられてしまう

「スペインが動けば世界は震える」
と言われていたが、
間違いなく
フェリペが動けば血が流れた
のだった。

1500年代後半、
日本では戦国時代のころのことだ。

 

 

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2018年8月 5日 (日)

オーストリア旅行記 (50) フェリペ2世<スペイン王>(1)

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オーストリア旅行記 (50) フェリペ2世<スペイン王>(1)

- カクテル名「ブラッディ・メアリー」の由来 -

 

ハプスブルク帝国の歴史を

(1) ルドルフ1世
  (生没:1218年-1291年)

(2) マクシミリアン1世
  (生没:1459年-1519年)

(3) カール5世
  (生没:1500年-1558年)

で振り返ってきたが、
今日取り上げたいのは、
フェリペ2世(スペイン王)
(生没:1527年-1598年)


スペイン帝国の絶頂期、
ヨーロッパ、中南米、
アジアもフィリピンにまで及ぶ
大帝国を支配。
さらにポルトガル国王も兼ね、
ポルトガルが有していた植民地も継承。

「太陽の沈まない帝国」と言われた
スペイン黄金期に君臨した
偉大なる王だ。

これまで同様この2冊を参考図書に
見ていきたい。

[1] 岩崎周一 (著)
  ハプスブルク帝国
  講談社現代新書


(以下水色部、本からの引用)

 

[2] 中野京子 (著)
  名画で読み解く
  ハプスブルク家12の物語
  光文社新書


(以下薄緑部、本からの引用)

 

挿絵代わりに挿入する写真は、
美術史博物館で撮ったもの。

P7169423s

 

【流血のイメージ、フェリペ2世】

フェリペ2世が君臨したのは
スペイン黄金時代である。

だがその黄金は、
インカ帝国などでの略奪
ネーデルランドの
弾圧によって得た富であり、
血の匂い
たっぷり沁(し)みこんでいた。

おまけに絶えざる陰謀、
反乱、宗教戦争、
異端審問、ペストと、
この絶対君主の生涯は

(中略)

結婚にさえ、どこかしら
流血のイメージが
纏(まと)わりついている


四度の結婚で、それぞれ
ポルトガル、イングランド、
フランス、オーストリアから
妻を迎え、全員に先立たれた
というだけではない。

加えて
プロテスタント虐殺、事故死、
息子殺し
、などなど
まさに激動の人生を送っている。

P7169408s

 

最初の結婚から順に見ていこう。

【最初の結婚】

 最初の結婚は16歳
相手は同じ年齢のポルトガル王女で、
父方からも母方からも従妹にあたる。

ハプスブルクの
少し垂れ下がった下唇を持つ
ほがらかな彼女は、
口数の少ない社交下手の
フェリペ皇太子に
若々しい喜びを与えたようだ。

ただし幸せは二年に満たず、
難産の数日後には
あっけなく世を去ってしまった。

18歳でやもめとなった
フェリペの手には、
ひ弱な息子が残された。

祖父の名にちなみ、
カルロスと名づけられたこの子が、
後世、ヴェルディの傑作オペラ
『ドン・カルロ』のモデル
となる。

たった二年で終わった一度目の結婚。
ひとり残されたひ弱な息子。

二度目の結婚は父の命令だった。

P7169412s

 

【2度目の結婚】

 二度目は27歳のとき。
相手は11歳も年上の
イングランド女王メアリー1世
で、
これは父カール5世の命令だから
皇太子に否も応もない。

カトリック対プロテスタントの抗争が
再燃し始めたイングランドを、
しっかりカトリック化する
使命
を担ったのだ。

P7169414s

契約でイングランドに渡った
フェリペだったが、メアリーは
フェリペの意を汲み、
プロテスタントの反乱者
数百人をすでに血祭りにあげていた


後世、カクテルの名前になる
ブラッディ・メアリー
 (血まみれメアリー)

はこのエピソードに由来する。

よくこんな恐ろしい名前を
カクテルの名前につけたものだ。
単なる見た目だけによる命名ではなく
史実に繋がる背景があったかと思うと
トマトジュースベースとは言え、
もう冷静には味わえない気がする。

両親の離婚、幽閉、栄養失調、など、
多くの苦労を経験していたメアリーは、
病弱で痩せこけていたが、
世継ぎを産みたいとの執念だけは
強かった。

なので、訪れた「懐妊か?」の兆候には
大喜びしたようだが、
実際には残念なことに想像妊娠だった。
しかも、腹部の膨張は腫瘍
これがのちの命取りにまで
なってしまう。

 フェリペは
一見変わらぬ態度を示したが、
四十近いメアリーに
子を成すのはもう不可能と
見切り
をつけたらしい。

父の退位宣言を口実に、
滞在一年半足らずで
イングランドを去る。

メアリーは心のこもった手紙を
送り続け、帰国を待ち続けたが、
スペイン王フェリペ2世として
改めて彼がその姿を現したのは、
1年3カ月も後のことだった。

世継ぎを生むことが叶わなかった
2人目の妻メアリーの待つイングランドに
1年3ヶ月ぶりに帰ってきたフェリペ2世。

このころから
彼のヒール(悪役)的特徴が
鮮明になってゆく。

 

少し長くなってきたので、
激動という言葉がふさわしい
彼の人生の後半の話は、
次回にしたい。

 

 

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2018年7月29日 (日)

オーストリア旅行記 (49) カール5世

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オーストリア旅行記 (49) カール5世

- 70の肩書の意味 -

 

というわけで(?)、今日は
マクシミリアン1世の孫
カール5世
(生没:1500年-1558年)

について書きたいと思う。

日本では室町時代後半、
と言うかちょうど戦国時代。
 1534年 織田信長 誕生
 1536年 豊臣秀吉 誕生
 1542年 徳川家康 誕生
 1553-64年 川中島の戦い
といったころ。

参考図書は
これまで通り以下の2冊。

[1] 岩崎周一 (著)
  ハプスブルク帝国
  講談社現代新書


(以下水色部、本からの引用)

 

[2] 中野京子 (著)
  名画で読み解く
  ハプスブルク家12の物語
  光文社新書


(以下薄緑部、本からの引用)

 

今日も美術史博物館で撮った写真を
挿絵代わりに挿入しながら、
話を進めていきたい。

P7169398s

 

さぁ、始めよう。

カール5世こそ、
ハプスブルク家絶頂期の皇帝だ。

その支配領域を
上記の本[1]にあった図で見てみよう。

Karl5

フィリピン、オーストリア、
ネーデルラント、スペイン、
メキシコ、キューバ、ペルーと
まさに「日の沈まない帝国」は
誇張ではない。

まず最初、ややこしい名前について。

 日本人にとって
他国の王侯貴族の称号や名前は、
発音も絡み、非常にわかりにくい。

カール5世の場合、特にそうだ。
カールとカルロスが同源だろうとは
想像できても、
カール5世とカルロス1世が
同一人物
と聞いただけで、
世界史が嫌になった人も
多いのではないだろうか。

どうして
こういうことになるかと言えば、
ひとえに領土が広大
(欧州の3分の2と中南米を支配)
だからだ。

再度、最初に貼った地図を見ると
「領土が広大」の意味がよくわかる。

 

 彼は父フイリップ美公を継いだので
ブルゴーニュ公であり、

母方の祖父を継いで
スペイン王でもあり、

父方の祖父マクシミリアン1世を継いで
ドイツ王でもあり、

ローマ王でもあり、
ハンガリー王でもあり・・・と、
ヨーロッパ史上最多の
70もの肩書きを持った


そこで、
神聖ローマ帝国皇帝としては
カール5世、
スペイン王としては
カルロス1世

(後に玄孫がカルロス2世を名のる)
という次第。

P7169399s

 

70もの肩書。それは
単なる仰々(ぎょうぎょう)しさや
権威の誇張のためではなく、
多民族国家の統治に関する
大事な点を示していることを
[1]はわかりやすく説明してくれている。

 このような称号・肩書の羅列に
どのような意味があるのかは、
にわかには判じがたい。

しかし、こうした
冗長で仰々しい名乗り
- 中には実際には
  支配していない地域、
  また肩書だけで
  実体のないものもある -
が持つ意味を、
当時の人々は十分に認識していた

P7169400s

 

【同君連合国家】

それは、カールの息子
フェリーペ(2世)の時代に著された
『アラゴン王国要覧』(1588年)の
次の一節がよく物語っている。

「今日では
 すべての諸王国が結びつき、
 すべての諸王国が不敗を誇る
 我らのフェリーペ王
 お一人の意思によって
 治められているとはいえ、
 各王国は数世紀前に得た
 それぞれの古き法を維持しており、

 その法は
 他の諸王国の法とは
 何ら共通するものではないのである


 私たちの考えでは、
 何世紀も前から我らの君主による
 王令に示された
 おびただしい数の称号の起源は
 このようなことである


 これは、一見すると
 ひけらかしや虚栄心の故のように
 見えるかもしれないが、
 すべての諸王国を同じものとして
 考えてはならないということを
 はっきり理解させるための
 ものであった
」(内村俊太訳)。

つまりカール5世の下に誕生した
ハプスブルク君主国とは、
独自の法・制度・伝統を持つ
何十もの諸国・諸邦が、
同じ君主を戴くことによって成立する、
同君連合国家であったのだ

「独自の法・制度・伝統を持つ
 何十もの国が、
 同じ君主を戴く同君連合国家

P7169401s

独自の国制の尊重は、
決して形だけのものでは
なかったようだ。

この国家の統治において、
諸国・諸邦の諸身分と交わした
統治契約を守り、
その国制を尊重することは
絶対のルールであり、

それらの大小強弱にかかわらず、
決して侵害したり
粗雑に扱ってはならなかった


この禁を破ることは、
支配の正当性を失うことを
意味したのである。

いかに強大とはいえ、
カールもまた事情は同じであった。

彼がそれをよくわきまえていたことは、
退位の際に後継者フェリーペに対し、

自国の法を神聖不可侵と考え、
 臣民の権利や特権を
 侵害しないようにしなさい


と諭したことがよく物語っている。

今日の近世史家は、
このような近世ヨーロッパの諸国家を
複合(君主政)国家」と呼ぶらしい。

P7169406s

 

複合的な「日の沈まない帝国」を
支えていたのは、
まさに「各国家尊重の精神」で
強制的な「統一」ではなかった

 

 

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2018年7月22日 (日)

オーストリア旅行記 (48) ハプスブルク家の鼻と顎(あご)

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オーストリア旅行記 (48) ハプスブルク家の鼻と顎(あご)

- 顔の特徴、血縁あればこそ -

 

前回
マクシミリアン1世を取り上げた。

ウィーンの美術史博物館にある
アルブレヒト・デューラー作の
油彩肖像画(74cmx62cm)の
写真を再度添えたい。
この肖像画から、どんなことが
読み取れるだろうか。

P7169411s

(自然史博物館の方は撮影禁止だったが、
 美術史博物館の方は写真OKだった)

中野京子 (著)
  名画で読み解く
  ハプスブルク家12の物語
  光文社新書


(以下薄緑部、本からの引用)

にいろいろ教えてもらおう。

 マクシミリアン1世は
黒いビロードの大きなパレット
(ベレー帽の一種)をかぶり、
深みを帯びた緑色をバックに立つ。

右手の指の形からして、
おそらくテーブルか地球儀に
軽く手を添えているのであろう。

左手には石榴(ざくろ)を持っている。

この果物は、
果肉にびっしり種子がつまっているため
「豊穣」のシンボルとなってきたが、
一方でまた、そうした無数の種が
丈夫な皮におおわれているところから、
君主の下における
人々の結束の象徴ともされた。

P7169411s1

石榴(ざくろ)にそんな意味があったとは。


 着ている赤いコートは
なかなか豪華で、裏地は毛皮。
襟と袖口を折り返してある。

襟の折り返しが
肩と上腕をすっぽり覆うほどなのは、
じゅうぶんな防寒が
必要だったから
であろう。

P7169411s2

 

グレーの髪、目の下の隈、
たるんだ頬や顔中の皺から
北国の寒さがこたえる年齢だ
ということが察せられる。

P7169411s

 

 画面上部左に、
ハプスブルク家の紋章である
双頭の鷲が、皇帝の冠を戴いた
ワッペン型の中に描かれており、
その横には、皇帝を讃える
ラテン語の銘文が読める。

内容はざっと次のようなものだ。

「史上最大のマクシミリアン帝は、
 正義と知恵と寛容において、
 また特にその高邁さにおいて、
 他のあらゆる王たちに優っていた。

 皇帝は1459年3月9日に生まれ、
 1519年1月12日、
 59歳9カ月と25日で崩御した。

 この偉大なる王に栄光あれ」。

P7169411s3

つまりこれは、
マクシミリアン1世逝去後の作品
ということがわかる。

 

同じ美術史博物館には、
マクシミリアン1世の
こんな肖像画もある。

P7169381s

ちょっと前置きというか寄り道が
長くなってしまったが、
今日の本題に移りたい。

上に貼った2枚の肖像画を見て、
なにか気づくような
顔の特徴があるだろうか?

 

婚姻をひとつの柱として発展してきた
ハプスブルク家の歴史を考えるとき、
血が繋がっているからこそ、の
顔の特徴はかなり重要で、
ちょっと気をつけてみるだけでも、
「これ、ハプスブルク家の人かも?」と
絵画をみる際の楽しみ、想像力が
大きく変わってくる。

もう一枚、同じ美術史博物館にある
無名画家による
『マクシミリアン一世と家族』
の絵をご覧あれ。

P7169410s

後列左の赤いパレットをかぶった王が、
マクシミリアン1世だ。
横顔なので鷲鼻と受け口がはっきりわかり、
デューラーの肖像とは別人のようだ。

その隣の黒いパレット姿が、
フアナの恋してやまなかった
フイリップ美公、

右端が1世の妃マリア。

前列へ行くと、
左がマクシミリアンの孫で、
オーストリア・ハプスブルクを継いだ
フェルディナント1世。

右端の人物に関しては諸説あり、
男女どちらかも意見がわれている
(「カール五世の妻」説、
「マクシミリアンの孫娘の夫」説など)。

注目は、ひときわ顎(あご)の大きな
中央の黒パレットで、
これがカール5世の若き日の姿だ

ちょっと寄って見てみよう。

P7169410ss

ティツィアーノの肖像画では
どれも髭をたくわえているので
さほど目立たないが、
同時代人の証言によると、
カールは極端な受け口のせいで
歯の噛み合わせがひどく悪く、
常時口を開けていた
とまで言われる。

おそらく絵よりもっと下唇が垂れ、
顎は突き出ていたに違いない。

そしてこの優性遺伝が、
血族結婚をくり返すことで
子々孫々に伝えられ、とりわけ
スペイン・ハプスブルクにおいて、
極端に歪んだ形で出現する
ことになる。

鷲(わし)鼻、
出張った下顎
という
ハプスブルク家の特徴。
これを意識するだけでも
絵画への興味がずいぶん変わる。

ぜひ心の片隅に
留めておいていただければ。

 

さてさて、顔の説明に登場した
マクシミリアン1世の孫、
カール5世

彼こそが
ハプスブルク家絶頂期の皇帝だ。

次回は彼の話から続けたい。

 

 

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2018年7月15日 (日)

オーストリア旅行記 (47) マクシミリアン1世(2)

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オーストリア旅行記 (47) マクシミリアン1世(2)

- 政略結婚の闇 -

 

記事を書こうと日付をみると7月15日。
ちょうど一年前はウィーンに居た。
オーストリア旅行記も気が付くと47回目。
つらつらと旅行時のメモをたよりに
あれやこれや調べながら書いていたら
もう一年も経ってしまったことになる。

まぁ、マイペースで
のんびり更新しておりますので
興味のありそうなところだけでも
ときどき遊びに来ていただければ、と
思っています。

 

さて、
ハプスブルク帝国の歴史を
人物から振り返る2人目。

マクシミリアン1世
(生没:1459年-1519年)
の続きから始めたい。

思い出すために、
ウィーンの美術史博物館で撮った
アルブレヒト・デューラー作の
油彩肖像画を再度貼っておこう。

P7169411s

なお、参考図書は、
引き続きこの2冊。

[1] 岩崎周一 (著)
  ハプスブルク帝国
  講談社現代新書

(以下水色部、[1]からの引用)

 

[2] 中野京子 (著)
  名画で読み解く
  ハプスブルク家12の物語
  光文社新書

(以下薄緑部、[2]からの引用)

 

今日の挿絵代わりの写真は、
美術史博物館で撮ったもの。

P7169380s

 

【スペインとの二重結婚】

マクシミリアン1世は
結婚による
果実の大きさに気を良くし、
父のやり方に倣って、
子どもたちにも
早い段階から手を打っておいた。

息子フィリップ美公を
スペイン王女フアナと、

娘マルガレーテを
スペイン王子ファンと

結びつけたのだ。

ハプスブルク家とスペイン王家の
この二重結婚には
とうぜん条件があり、
どちらかの家系が断絶した場合は
残された方が領地を相続する
と決められた。

名前も関係も
一読しただけではわかりにくいので、
ハプスブルク家側を青色、
スペイン側を[SP]の省略符と黄色の箱で
図にしてみよう。

M121

という二重結婚となる。


P7169385s

 

その結果、どうなったかといえば・・・

 

【(a)息子側にのみ、子授かる】

フィリップとフアナの間には
二男四女が授かったのに、

ファンとマルガレーテには
子どもは生まれなかった

というよりこのスペイン王子は、
結婚式の半年後に突然死してしまう。

M122

もう一度書くが、
ハプスブルク家側が青色だ。


P7169389s

 

【ハプスブルク家男系への継承】

どう考えても、ハプスブルク家に
都合よすぎる展開といえるだろう。

なぜなら契約によれば、
これでスペインは
いずれフィリップとフアナの子ども、
つまりハプスブルクの男系へ
渡ることが決定的となった
からだ。

すると今度は
(スペイン王子ファンの死から
 九年後だが)、
息子フイリップが突然死する。

M123

結果的に夫はふたりとも突然死!


P7169390s

 

スペイン側の復讐だったかどうか
証拠なしとはいえ、
相次ぐ王子たちの死が
自然死とはとうてい信じがたく、
政略結婚の闇の探さ
垣間見る思いがする。

P7169392s

マクシミリアン1世は
息子を亡くして痛手を負ったが、
ふたりの男子を孫として得られ
世継ぎは確保
された。

こうして老皇帝は、孫カールが
16歳でスペイン王の座につくのを
しっかりその目で見届けたし、

自分の死後、
神聖ローマ皇帝位を
継がせることも確認できた。

スペインは
すでに中南米を支配していたから、
ハプスブルク家の領土拡大ぶりは
まさに爆発的。

諸侯たちは、
老いたマクシミリアン1世に
まんまと出し抜かれた。


P7169393s

 

【さらに続く婚姻作戦】

しかも婚姻作戦は
これで終わりではない。

マクシミリアン1世は死の間際に、
孫たちの結婚まで決めておいた。

カールはポルトガルの王女とで、
こちらは新たな領土取得とは
結びつかなかったが、

カールの弟は
ボヘミア・ハンガリー国の王女と、

カールの妹は
同じボヘミア・ハンガリー国の王子と

二重結婚
それもスペインと同じ契約結婚をさせた。

同じくハプスブルク家側を青色、
ボヘミア・ハンガリー側を
[BH]の省略符と黄色の箱で書くと、

M124

の二重結婚。


P7169394s

 

そしてその結果は・・・

 

【(c)孫側にのみ、子授かる】

不思議なことに
スペインとの場合と
全く同じことが起こった


男系である息子の方には
三男十女も生まれたのに、

娘と結婚した
ボヘミア・ハンガリー王子は、
世継ぎのないまま早々
と戦死したのだ!

M125

なんということだろう。
上に貼ったスペインとの図を
もう一度ここに貼って並べてみると、
まさにスペインのときと同じ!

M122

ハプスブルク家は
自分たちの強運を寿(ことほ)いだが、
ほんとうに「運」だけ
だったのだろうか?

それはともかく、
こうしてハプスブルク家は
ボヘミア・ハンガリーまで手に入れた。

そののちも続く、

「戦争は他の者にまかせておくがいい、
 幸いなるかなオーストリアよ、
 汝(なんじ)は結婚すべし!」

の外交。

P7169396s

 

突然死に限らず、不運や不幸が
すべて相手国の
計略によるものだったのかどうかは
もちろんわからないが、政略結婚とは、
男にとっても、女にとっても、
まさに命がけの「外交」だったのだ。

 

 

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2018年7月 8日 (日)

オーストリア旅行記 (46) マクシミリアン1世(1)

(全体の目次はこちら


オーストリア旅行記 (46) マクシミリアン1世(1)

- 汝(なんじ)は結婚すべし、か? -

 

ハプスブルク帝国の歴史を
人物から振り返る2人目。

今日取り上げたいのは、
マクシミリアン1世
(生没:1459年-1519年)

彼に関しては、
アルブレヒト・デューラー作の
油彩肖像画が、
ウィーンの美術史博物館にある。
74cmx62cmの大きさのものだが、
美術史博物館で撮った写真を添えたい。

(自然史博物館の方は撮影禁止だったが、
 美術史博物館の方は写真OKだった)

P7169411s

日本では室町時代。
応仁の乱があり、
銀閣寺ができて
東山文化が花開いたころの
人物だ。

参考図書は、
ここで選んだこの2冊。

[1] 岩崎周一 (著)
  ハプスブルク帝国
  講談社現代新書


(以下水色部、[1]からの引用)

 

[2] 中野京子 (著)
  名画で読み解く
  ハプスブルク家12の物語
  光文社新書


(以下薄緑部、[2]からの引用)

 

今日も「宝物館」での写真を
挿絵代わりに挿入しながら、
話を進めていきたい。

P7159021s

 

【中世最後の騎士】

・・・15世紀末、ドイツ王兼
神聖ローマ皇帝の座についた
マクシミリアン1世こそ、
久々にハプスブルク家が輩出した
英雄であった。

「中世最後の騎士」
- マクシミリアン1世が
こう讃えられたのは、
治世26年のうち25回も遠征をおこない
しかもその戦の際にはご先祖のように
奇襲作戦を取るのではなく、
常に自ら最前線へ立ち、正々堂々と
騎士らしく戦ったためである。

(中略)

領土をブルゴーニュ、スペイン、
ハンガリーへと拡げ

国号も
「(ドイツ国民の)神聖ローマ帝国」
と改称して、
古代ローマ帝国再建より
ドイツ語圏における
ハプスブルク王朝強化を
鮮明にするとともに、実際、
ヨーロッパ有数の名家に押し上げた

治世26年のうち25回も遠征した
勇猛な騎士だっただけでなく
文化人でもあったようだ。

【ウィーン少年合唱団へ】

さらにこの勇猛果敢な騎士は
「ドイツ最初のルネサンス人」でもあり、
人文主義者や芸術家たちを庇護し、
自分でも詩作した
ことで知られる。

現在の
ウィーン少年合唱団の基礎となる、
宮廷礼拝堂少年聖歌隊を
創設した
のも彼だった。

P7159019s


晩年の皇帝は、
「昔日の面影なし」と言われても
仕方ないほど生彩を欠いていたが、
実際には、戦(いくさ)ではなく、
「婚姻外交」で
大きな成果を生んでいた。

この「婚姻外交」こそ、
ハプスブルク家を語るうえで
欠くことのできないキーワードだ。

【汝(なんじ)は結婚すべし!】

 もともとは
優柔不断なフリードリヒ3世が、
戦争厭(いや)さに
ぬらりくらり難事をかわすうち
引き当てたラッキーカードだった。

息子のマクシミリアン1世を
ブルグント公国 
(現フランスのブルゴーニュ、
 ベルギー、ルクセンブルク、
 オランダにまたがる、当時
 ヨーロッパ一繁栄を誇っていた国)
のマリアと結婚させることで、
労せずしてハプスブルク家に
莫大な富と領土をもたらした
のだ。

 ここから有名な 

「戦争は他の者にまかせておくがいい、
 幸いなるかなオーストリアよ、
 汝(なんじ)は結婚すべし!」 

 (誰の言葉かは不明) 

という家訓が生まれたと言われる。

「戦争は他の者にまかせておくがいい、
 幸いなるかなオーストリアよ、
 汝(なんじ)は結婚すべし!」

は、まさにどの本にも必ず登場する
ハプスブルク家のモットーだが、
書いてある通り
「誰の言葉かは不明」なうえ、
参考図書[1]では
「誤解も多い」、
「誤りである」とまで書いてある。

P7159005s

 

ちょっと立ち止まって考えてみよう。

 ここで、有名だが誤解も多い
ハプスブルク家の結婚政策について
触れておこう。

これに関しては、
「戦争は他国にさせておけ、
 なんじ幸いなるオーストリアよ、
 結婚せよ」
というモットーの下、
ハブスブルク家は政略結婚による
領土拡大を図ったという説

広まっている。

しかし、
これは端的に言って誤りである

先述の言葉も
詠み人知らずの揶揄に過ぎず、
モットーや家訓などではない。

ブルゴーニュ、スペイン、
チェコ、ハンガリーで
ハブスブルク家に
継承の可能性が生じたのは、
相手方の系統断絶という
偶然によるものだった。

ずいぶんバッサリだ。
ただ、「通説」を冷静な目で
見直してみることも時には必要だろう。

P7159009s

 

 そもそも政略結婚は、
日本にもあまた例があるように、
洋の東西を問わず、
家門勢力を存続・発展させるための
常套手段であった。

ハブスブルク家の結婚政策も、
結果としてきわめて大きな意味
持つことになったとはいえ、
他家のそれと特に変わらなかった

常套手段を
他家と同じように使っていただけなのに
特に強い印象を残しているのは、
やはり
「結果としてきわめて大きな意味」
を持つことが多かったという
「結果」から来ているのだろう。


P7159012s

もうひとつ、[1]は
政略結婚における大事な点も
指摘している。
その部分も引用しておきたい。

 最後に、君主間の約定がどうあれ、
また姻戚関係がどれほど密接であっても、
臣民の代表たる
諸身分の支持がなければ、
君主となることも、
その座を維持することも
不可能だった
ことを忘れてはならない。

* ハプスブルク家は
 アルブレヒト1世と同2世の時代に
 ボヘミアの王位を手にしたが、
 いずれの場合も長く保持することは
 できなかった
こと、

* 16世紀には
 繰り返しポーランドの王位を狙い、
 歴代の国王との
 密接な姻戚関係を生かして
 積極的に運動したが、
 実現することはできなかったこと、

など、同地の諸身分と
良い関係を築けなかったことによる、
失敗例を挙げている。

 こうした出来事が示すように、
支配の成立と安定には、
被治者の同意が不可欠だった


そしてそれは、
その地の政治的伝統の尊重を約し、
諸身分の参政権を認めることで、
はじめて認められるものだった。

このため中近世のヨーロッパでは、
王族の婚姻の際に諸身分が立会人となり

継承問題に関しても
あらかじめ同意をとりつけておくことが
しばしばであった。

なるほど、
安定した支配のための
「被治者の同意」か。

P7159010s

 

いずれにせよ、
家訓かどうか、
モットーかどうかとはともかく
婚姻による外交が
富と領土に大きく影響していたことは
間違いない。

ちょっと長くなってしまったので
マクシミリアン1世が具体的に
どんな婚姻を考え
どんな成果をあげたのか、は
次回に書きたいと思う。

 

 

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2018年7月 1日 (日)

オーストリア旅行記 (45) ルドルフ1世

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オーストリア旅行記 (45) ルドルフ1世

- 650年の歴史の始まり -

 

650年にもおよぶ
ハプスブルク帝国の歴史。

全部を丁寧に見ていくことは
とてもできないので、
何人かの主要人物を選び
その人を中心に
歴史を振り返ってみたい。

参考図書は、
前回選んだこの2冊。

[1] 岩崎周一 (著)
  ハプスブルク帝国
  講談社現代新書


(以下水色部、[1]からの引用)

 

[2] 中野京子 (著)
  名画で読み解く
  ハプスブルク家12の物語
  光文社新書


(以下薄緑部、[2]からの引用)

 

なお、
文章だけの記事にならないよう
前回同様、旧王宮の中にある
「宝物館」
で撮った写真を挟みながら
話を進めて行きたい。

P7158996s


まずは、ハプスブルク家が
歴史に登場するころ、
欧州はどんな様子だったのか?
そのあたりの時代背景から見てみよう。

【神聖ローマ帝国とは】

それにしてもまず
「神聖ローマ帝国」とは何か、
説明する必要があるだろう。

「帝国」とは
複数の民族と国家を統合した
君主国のことで、

「神聖」とは
要するにローマ教皇から
加冠してもらい、
カトリックの盟主たるお墨付きを得た

ということだ。

962年にオットー1世が
戴冠して始まったこの帝国は、
ドイツ国(北部イタリアを含む)の王が
自動的にローマ教皇から皇帝位を受け、
いつの日か全イタリアを領有して
古代ローマ帝国を再現しよう、との
見果てぬ夢の名称
言い換えていいかもしれない。

 

そんな神聖ローマ帝国の実態が、
13世紀、
どんな様子だったかと言うと・・・

【13世紀の欧州】

 13世紀へ話をもどすと、
ドイツは依然として建前上は
神聖ローマ帝国の支配下にあることに
なっていた。

ところが実態は
戦国時代の日本と同じ群雄割拠状態、
諸侯が足の引っ張りあいを
し続けているため、
なかなか中央集権国家が築けない

それどころか、
力で国をまとめる
英雄的皇帝が出現しないものだから、
ドイツ王、即ち神聖ローマ皇帝の座は、
世襲ではなく
有力諸侯七人(選帝侯)による選挙

で決められることになった。

 後世のヴォルテールが、
「神聖でもなくローマ的でもなく、
 そもそも帝国ですらない」
 
と皮肉ったように、
神聖ローマ帝国は
とっくに名目上の呼び名でしかなく、
皇帝になったからといって
領土が増えるわけでも
集中的な権力を
得られるわけでもなかった。

 

なので、20年もの間、
帝位が空白となる
「大空位時代」を迎えてしまう。

その後、ようやく皇帝が
選ばれることになるのだが、
選ばれたのはなんと「無能」を理由に
選ばれた男だった。

P7158999s

【「無能」で選ばれた
 ハプスブルク伯ルドルフ】

選帝侯たちは
誰かひとりが傑出するのを望まず、
なんのかのと理由をつけ、
ドイツ王の選定を先送りし続けた。

ローマ教皇が
たびたび催促したにもかかわらず、
呆れたことに20年間も
帝位を空白のまま放置
(「大空位時代」)


ついに痺れをきらした教皇が、
それなら自分が指名しよう、
と乗り出すに及んで、
仕方なく人選を始め、
できる限り無能で、
こちらの言いなりになる男、
という基準で選んだのが・・・
ハプスブルク伯ルドルフ、
という次第

 

なぜ、彼が選ばれたのか?

【他の諸侯の脅威にならない男!?】

選帝侯たちにとってルドルフは、
うってつけの人間に思えた。

アルプスの痩せた領土しかない
成り上がり者で、
おまけに55歳と高齢、
大した財産もないから
戦争能力に乏しく


皇帝の名を投げ与えてやれば、
無給の名誉職でも
きゃんきゃん尻尾を振って
忠義を尽くし、どう間違っても
他の諸侯の脅威にはならないだろう。

知らないということは恐ろしい。
この時点では誰ひとり
ルドルフの野心と底力に気づいた者は
いなかった

P7159000s

 

そしてついに、歴史上初めて
ハプスブルク家における
最初の神聖ローマ帝国君主が誕生する。

【棚ボタ式僥倖】

当時、急速に勢力を伸ばしてきていた
ボヘミア王オットカル二世が
- この有能なオットカルこそ、
  選帝侯たちが
  絶対に皇帝にさせたくない
  相手だった -
ルドルフの戴冠に異議を唱え、
ローマ教皇に直訴して曰く、
ハプスブルク家など、
どこの馬の骨ともしれぬ一族は、
帝位にふさわしくありません!


教皇がその点を
選帝侯たちに問いただすと、
彼らはルドルフの
カトリック信仰の探さを持ち出して
弁護した。

一方ルドルフはといえば、
ちょうどこの時
バーゼル大司教と交戦の
まっ只中だったが
千載一遇のチャンスを
逃してはならじと即座に講和して、
戴冠のためかけ戻った
(本能寺の変を知って、
 ただちに兵を引きあげた
 秀吉と同じだ)。

こうして一介の田舎伯爵が
神聖ローマ皇帝ルドルフ一世へと変身

ここにハプスブルク王朝の第一歩が、
棚ボタ式僥倖(ぎょうこう)によって
(よろよろとだが)
踏み出されたのである。

「僥倖」つまり「思いがけない幸運」
があったとはいえ、
皇帝ルドルフ1世が誕生した。
(生没:1218年-1291年)
在位:1273年-1291年。

日本は鎌倉時代。
元寇がやってきていたころのことだ。
ちなみに
ハプスブルク君主国の消滅は1918年。
日本では明治の次、大正になっている。

 

P7159024s

 

そして、ルドルフはある戦争を決意する。

【貧弱な軍隊と大軍隊の衝突】

ただしオットカル二世との確執は
年々深まってゆく。

このボヘミア王は数年前、
オーストリア領主に
世継ぎのないのに乗じて
ウィーンを陥落させており、
ルドルフ一世が返還要求しても
意に介さなかった。

神聖ローマ皇帝に
堂々と反旗を翻(ひるがえ)したのだ、

もはや叩き潰すしかない 

- ルドルフの決意に
選帝侯たちも賛成してくれたが、
口で応援するだけで
手を貸そうとはせず、
高みの見物を決め込まれてしまう


彼らにとっては、
ルドルフのお手並み拝見、
むしろ共倒れして領地分割できれば、
もっとも都合がよかったであろう。

 かくして戴冠5年後の1278年、
ウィーン北東のマルヒフェルトで、
名ばかりの皇帝に率いられた
貧弱な軍隊と、
名門で財政豊かな王に率いられた
大軍隊は激突する


大方の予想は、
ルドルフに勝ち目なし

というものだった。

 

ところが結果としては
オットカルは戦死、
敵は総崩れになってしまう。

勝ったルドルフは本拠地を
スイスからオーストリアに移動


オーストリアでの歴史が始まる。

P7159023s


【本拠地をオーストリアへ】

無能な田舎の老人と
侮っていた選帝侯たちは、
さぞや焦ったことだろう。

ルドルフ一世はこの戦いで
ボヘミアを手中にし、
まもなくオーストリア一帯も
自領にすると、
スイスの山奥から
オーストリアへ本拠地を移した


その後彼は
イタリアには全く固執せず、
ただただハプスブルク王朝の
拡大維持を第一目標とし、
神聖ローマ皇帝の座を
ハプスブルクの世襲とすべく、
残り十年の余命を使って
奮戦する
のである。

と、[2]の本からの引用で
ハプスブルク君主国の
始まりを見てきたが、
[1]の本では、
「できる限り無能で、
 こちらの言いなりになる男」
なる単純な理由で
選ばれたわけではない、と
「これまでの」通説に対して
「今日の」説を提示している。

「これまで・・・とされてきた」
「今日では・・・と考えられている」
の部分を引用したい。

これまでルードルフが
国王に選出されたのは、
諸侯が勢力拡大を図る都合から
強力な王の登場を望まず、
弱小な「貧乏伯」を
良しとしたためとされてきた


(中略)

このような彼の経歴と手腕を、
国王選出を主導したライン地域の諸侯が
軽視したとは考えにくい。

そのため今日では
適当な候補が見当たらない中、
早晩衝突が予想されるフランス王や
チェコ王に
抗しうる人材と見込まれたこと


またシュタウフェン派であったため、
諸侯の中でいまだ根強い
親シュタウフェン勢力からの支持が
期待できること


などが評価されての選出であったと
考えられている

実際、彼は選出後
積極的にアクションをとっていく。

P7159022s


国王に選出されてからの
ルードルフの行動は機敏だった。

戴冠式の際、彼は
選帝侯2人に娘2人を
それぞれ嫁がせ
、絆を深めた。

さらにルードルフはこの後、
世俗選帝侯たちに加え、
バイエルンの君侯家らとも
姻戚関係を結んだ。

加えて上に書いた通り
ボヘミア王との戦いにも勝利。

などなど、55歳で王になった彼は
「無能」どころか
「有能」としか思えない
決断力と行動力で
勢力を拡大していった。

P7159027s


ちょっと意外な形で始まった
ハプスブルク王朝のスタート。
このあと
650年も続くことになることを
当時、誰が予想できただろう。

ルドルフ一世という
破格の人間がいなければ、
ハプスブルク家はアルプス地方の
一領主にとどまったまま、
歴史の表舞台に
飛び出ることはなかっただろう。

どんな王朝でも
始祖は強烈なものだが、
ルドルフの年齢や立場を考えた時、
ハプスブルク王朝成立の経過は
とりわけ奇蹟的に感じられる


これがあればこそ
650年もの王朝維持
- 徳川幕府265年、
  ロシアのロマノフ王朝300年と
  比較しただけで
  その凄さがわかる - 
という、まことの奇蹟が
生じたのではないかと思われる
のだ。

 

 

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2018年6月24日 (日)

オーストリア旅行記 (44) ハプスブルク帝国の歴史を

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オーストリア旅行記 (44) ハプスブルク帝国の歴史を

- 参考図書の選択 -

 

前回書いた通り、旧王宮の中、

* 「宮廷銀器コレクション」
* 「シシィ博物館」
* 「皇帝の部屋」&「皇妃シシィの住居」

の3つのエリアは
見学順路として繋がっている。

つまり、銀器コレクションを見た後は、
王宮外へ出ることなく、続けて
皇妃シシィ関連の展示を見ることができる。

なので、
写真撮影は禁止されていたものの、
見学メモと
ミュージアムショップで買った
日本語の

Ginnki1

を参考資料に、
皇妃シシィについて
書いてみようか、と考えていた。

ただ、ご存知の通り
ハプスブルク王朝は、
皇妃エリーザベト(愛称シシィ)の死の
20年後には、終わりを迎えている。

夫フランツ・ヨーゼフ1世は
事実上最後の皇帝だ。

つまり、このふたりは、
650年という類をみない
長い王朝の、まさに最後に登場した
主要人物ということになる。

「いきなり最終ランナーかい?」
というわけのわからない声が
どこからか聞こえてきた。

 

というわけで、これを機会に
ハプスブルク帝国全体の歴史を
何人かの主要人物を軸に
しばし振り返ってみたいと思う。

なお、記事が
文章のみになってしまうことは
避けたいので
ウィーンで撮った写真を
挿絵代わりに挿入しながら
話を進めていきたいと思う。

今日使うのは、旧王宮の中にある
「宝物館」での写真。

P7158997s

 

ここに書いた通り、
私は、世界史については
サボることしか考えていないような、
まるでやる気のない学生だった。
なので、世界史を学ぶうえでの
ベースとなるような基礎知識が
ほとんど身についていない。

今回、旅行を機に
オーストリアの歴史を
学び直してみようと
数冊の本を手にしてみたのだが、
基礎力のなさからか
「学び直した」と言うよりも、
「初めて学んだ」というのが
正直な感想だ。

ただ、「初めて学ぶ」過程には
「へぇ」と驚くようなことが
たくさんあった。

そういった
「初心者ならでは驚き」を中心に
メモを見ながら書き進めたいと思う。

P7158995s

 

まずは参考図書を紹介したい。

ハプスブルク家関連の本は
まさに山のように出版されているが、
何冊か読んだ中では、
姿勢もトーンもぜんぜん違う
次の二冊がたいへん参考になった。

[1] 岩崎周一 (著)
  ハプスブルク帝国
  講談社現代新書


(以下水色部、本からの引用)

この本、基本的には
以下のスタンスで書かれている。

本書はこうした動向を踏まえ、
近時の研究成果に基づき、
ハプスブルク君主国の勃興から消滅、
そしてその受容史までを
等身大の姿で扱うことをめざす、
俯瞰的な通史の試み
である。

 執筆にあたっては、
政治・社会・文化を
相互に関連づけながら、
バランスよく
叙述することを目標とした。

意識したのは、
学術性と読みやすさを
両立させることである

400ページ超の厚めとは言え、
新書一冊でバランスよく
通史を俯瞰できるのだからお得感大。

しかも、
最新の研究成果も反映させながら、
ちゃんと
「学術性」と「読みやすさ」の
両立に成功している。

なにより、著者が意識している読者が
さまに私そのものなのだ。

ハプスブルク帝国に関心があるが、
詳しいことは何も知らない

- そうした人たちが無理なく、
そして興味深く読めるような
本が書ければ、と考えた。

 また通史であることを意識して、
特定の時代やテーマに深入りし過ぎず、
各時代にそれぞれ十分
紙幅を割くよう心掛けた。

そのうえ、
私自身は全くの歴史ド素人なのに、
下記をハッキリ言い切ってしまう
著者の姿勢に
妙に好感を持ってしまった。

なおハプスブルクというと、
英傑たちが華やかに躍動する、
王朝ロマン調の叙述を
期待する向きも多いだろう。

しかし私の考えでは、
歴史学の役割と面白さは、
そうした小説的な面白さとは
別のところにあるように思う


創作・潤色・憶測を排し、
検証と考究を実直におこなうことを
旨とする

「学問としての歴史」

がもつ独自の魅力
が、
本書から少しでも伝わることがあれば、
望外の幸せである。

「潤色に満ちた歴史物語」は
歴史素人には読みやすいうえ、
わかりやすいので面白い。

でも、ほんとうの魅力は、
歴史そのものにあるのだ
、という
強いメッセージ。

潤色・憶測を排した歴史の魅力
この本を読んでいると
この点を伝えるための
並々ならぬ意志の強さを
いたるところで感じる。

というわけで、これがまず一冊目。


P7159006s

 

そして二冊目はこれ。

[2] 中野京子 (著)
  名画で読み解く
  ハプスブルク家12の物語
  光文社新書


(以下薄緑部、本からの引用)

「怖い絵」で知られる
中野京子さんの本。

この本、[1]とは対照的に
「小説的な面白さ」の魅力も
視野に入れている。

数多(あまた)のハプスブルク関連書が
読まれ続けているのは、

こうした歴史と人間の織りなす
華やかで血みどろの錯綜した世界が、
あるときは限りないロマンをかきたて、

あるときは身の毛もよだつ恐怖を与え


さらには現代のヨーロッパ統合とも
二重写しになるからだろう。

しかも、話の入り口に
「名画」を選んでいる点で
実にユニーク。
[1]とは違った角度から
歴史を見ることができる。

帝国はまた、
多くの芸術作品の背景ともなってきた。

オペラには
 ヴェルディ
 『ドン・カルロ』(原作はシラー)

伝記
 ツヴァイク
 『マリー・アントワネット』、

ミュージカル
 リーヴァイ『エリザベート』

といった傑作があるように、
絵画作品においても、
 デューラー、
 ティツィアーノ、
 ベラスケス、
 グレコ といった
天才たちが絵筆をふるっている。

本書は、
それらの名画を読み解きながら、
ハプスブルク帝国史の
一端をうかがう試み
である。

英国のクラシック音楽の
作曲家の少なさが
話題になることがときどきあるが、
「絵画」の視点から見ると、
ドイツ語文化圏について
次のようなことも言えるようだ。

 小さな試みだが、
大きな偏りが出るだろう。
なぜなら錚々たる画家を輩出し
引き寄せたスペイン
に対し、
あくまで
「耳の人」(=音楽の人)で
「眼の人」(=絵画の人)ではない
ドイツ語圏内
には、近・現代以前の
美術史に残る画家といえば、
 デューラー と
 クラナッハ くらいしか
いなかったからだ。

おかげで
オーストリア・ハプスブルク系統には
名画と呼べるものが少なく、
ハプスブルクを代表する
女傑マリア・テレジアでさえ、
全く残念なことに
価値ある肖像画を一枚も残していない。

 ともあれ、それはそれで
文化史的偏りと諦めるしかないだろう。

デューラーからマネに至る
12点の作品から、
画家の鋭い眼差しを通した
傑物たちの存在感を受けとめ、
画面で語られる歴史の驚きと不思議

味わっていただければ嬉しい。

[1]とはトーンが対照的な[2]。

[1]に比べると、
物語として楽しく読めるよう
人物像を描くエピソードを
厳選している感じだが、
筆者の豊富な知識に支えられているせいか、
決して「楽しいけれど薄い」
になっておらず、楽しみながらも
しっかり背景を感じとることができる。


P7159014s


いずれにせよ、
2冊のトーンが違うがゆえに、
両方に目を通すと
様々なエピソードがまさに立体的に
浮かび上がってくる。

「見方」の多彩さを楽しみながら、
ハプスブルク家の長い歴史に
しばし思いを馳せてみたい。

 

 

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2018年5月13日 (日)

オーストリア旅行記 (38) カフェ文化

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オーストリア旅行記 (38) カフェ文化

- ひとりでいたい、でも仲間が必要だ -

 

ウィーンの文化と言えば、
やはりこれに触れないわけには
いかないだろう。

カフェ文化。

【カフェ フラウエンフーバー】

P7148790s

Café Frauenhuber
ウィーン最古のカフェ

P7148793s

夕日を背に外のテラスで食事をしたが、
食事のあと、
店内の写真を撮らせてもらった。

P7148795s

女帝マリア・テレジアの料理人
フランツ・ヤーン(Franz Jahn)が
1788年に開業。

1788年にはモーツァルト
「ヘンデルのパストラーレ」を

1797年にはベートーヴェン
「4本の金管楽器とピアノのための5重奏」

をここで演奏。

特に、モーツァルトが公衆の面前で
ピアノ演奏を行ったのは、
ここが最後になったらしい。

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モーツァルトとベートーヴェンが
演奏したことのあるカフェ
というだけで、
もう寄らずにはいられない。

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落ち着いた店内の雰囲気に
まさにピッタリといった感じの正装で、
丁寧な接客をする
ケルナー(ウェイター)さんが
ほんとうに印象的。

かなりなご高齢と思われるが、
所作と言うか身のこなしが美しく、
まさにプロフェッショナル。

ワイワイと
各国からの観光客が多くても、
店の独特な空気感が
キッチリ守られていることが、
なんとも気持ちがいい。

 

【カフェ ブロイナーホーフ】

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カフェ「Café Bräunerhof」

ここにも、多くの芸術家が
集(つど)っていたと言う。

ところで、
「ウィーンといえばカフェ」
と言われるほどにウィーン文化を
代表しているもののひとつがカフェ。

「文化」と呼ばれるまでの
その独特な存在意義を
下記の本を参照しながら
覗いてみたい。

広瀬佳一、今井顕 編著
 ウィーン・オーストリアを
 知るための57章【第2版】
明石書店

(以下水色部、本からの引用)

 

まずは起源から。

 ウィーンといえば、
即座にコーヒーやカフェを
思い浮かべる人も少なくないだろう。

確かに、ウィーンは、
東方に起源をもつ
この「黒いスープ」を、
ヨーロッパで最も早く
普及させた都市
であった。

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ウィーン風コーヒーや
カフェの起源については、
数多くの伝説が
まことしやかに語り伝えられている。

たとえば-

1683年、
トルコ軍によるウィーン包囲の際、
トルコ語の才能を買われて伝令となり、
敵陣に潜入して
皇帝軍を勝利に導いた
コルチスキーが、戦後、
トルコの野営地に放置された
コーヒー豆を得て、
ウィーン初のカフェ・ハウスを
開店したというエピソードは、
あまりにも有名である。

しかし実際には、
このコルチスキーより以前に、
都市在住の東方商人らを相手に
コーヒーを出す店が、
すでに存在していたようだ。

P7158950s

すでに18世紀には、
カフェはウィーンの名物、
見どころのひとつに
数えられていた。

1720年に開業し、
国内はもちろん、全ヨーロッパの
主要な新聞・雑誌を常備していた

「クラーマー・カフェハウス」は、
やがて首都の知識人の結集地となった。

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こんな感じで、どこのカフェでも
新聞や雑誌が読み放題になっている。
特に新聞のフォルダが印象的。

P7169197s

ただ、

 薄暗く狭い店の中、
大テーブルに相席で押し込まれた
大勢の客が、
騒がしくひしめき合う。

多くの風刺画や銅版画が
今日に伝えるように、
これが、18世紀前半までの
カフェの日常風景であった。

それが大きく変化を始めるきっかけが
18世紀、後半に起こる。

 こうした状況が
変化を見せはじめたのは、
1780年代のことである。

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皇帝ヨーゼフ2世による
飲食店営業規制穏和の結果、
カフェの数がさらに増大すると、
多くの店主たちは、
生き残りを賭けて大改装に着手
した。

内装は上流階級のサロンに擬せられ、
採光が不具合な立地でも、
クリスタル製の
豪華なシャンデリアが
明るく照らすようになった。

目抜き通りに面した店では、
軒先に植木鉢を並べた
「シャニ・ガルテン」、
今でいう
オープン・エアが創案された

オープン・エアのテラス席は
このころの発明だったわけだ。

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公共の場において追求される
個人の孤独


これこそ、その後、
19世紀から現在まで
人々を魅了し続けた、
ウィーンのカフェの
最大の特色にほかならない。

たとえば、20世紀前半に
活躍した文筆家で、
「カフェ・ツェントラール」をはじめ、
名だたる文学カフェの
常連としても知られる
アルフレート・ポルガーは、
カフェの魅力についてこう語った。

「一人でいたい、
 けれど、
 同時に仲間が必要だ。
 こういう人々が、
 カフェに通うのである」

P7158955s

 

ちなみに、上の引用に出てきた文学カフェ
【カフェ ツェントラール】
は、こんな感じ。

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興味深いのは、歴史ある
「ツェントラール」のすぐそばに
これを発見したこと。

P7179688s

ウィーンの人には
どんな風に見えているのだろう?

2001年末、ケルントナー通りに
第一号店をオープンさせたとき、
多くのウィーンっ子から、

コーヒーを
 紙コップで飲むなんて、
 あり得ない
」と、

猛反発を受けた
スターバックス・コーヒーが、
その後、若い世代を中心に
広く受け入れられ、現在、
市内に9店舗を展開している事実もまた、
ウィーンにおけるカフェ文化の変遷の、
その一面を象徴しているのかもしれない。

 

 

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2018年4月22日 (日)

オーストリア旅行記 (35) カール教会と分離派

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オーストリア旅行記 (35) カール教会と分離派

- 「土地の雰囲気」がもつ許容力 -

 

今日は、リンク通り周辺の
2つの建物をきっかけに
「ウィーン分離派」と
その運動について少し紹介したい。

【カール教会 Karlskirche】

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建築家エルラッハの
バロック的理念が具現化された
彼の代表作「カール教会」。

大きなドームをいただく
楕円形の空間と
精緻な装飾が刻まれた二本の円柱が特徴。

岩崎周一 著
ハプスブルク帝国
講談社現代新書

(以下薄緑部、本からの引用)

にはこんな記述がある。

バロック文化は、
第二次ウィーン包囲以降に
ハプスブルク諸邦にあまねく行き渡り、
カール6世の時代に全盛期を迎えた。

とくに大きな成果が上がったのは
建築の分野で、
ヨハン・ベルンハルト・
フィッシャー・フォン・エルラッハ、
ルーカス・ヒルデブラント、
ヤーコプ・プランタウアーといった
優れた建築家たちが腕を振るい、
宮廷図書館、ベルヴェデーレ宮殿、
メルク修道院など、
「皇帝様式」の傑作を
あまた世に送り出した。

なかでも、
カールの発案に応えた
諸身分の献金により建立された
カール教会(1737年落成)は、
王権・カトリック教会・諸身分の
「三位一体」により成立していた
近世のハプスブルク君主国を
象徴とする
意味でも、
意義深い建造物である。

 

【カールスプラッツ駅】

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オットー・ワーグナー設計による駅舎。
路線のカラーである薄緑色を基調とし、
金装飾に特徴のある2つの駅舎が
向かい合って建っている。
黄金のヒマワリや緑の骨組みが印象的だ。
完成は1899年。

 

このオットー・ワーグナーこそ
「ウィーン分離派」と呼ばれる
芸術革新運動の中心人物のひとりだった。

「ウィーン分離派」とはいったい何?

参考図書
広瀬佳一、今井顕 編著
 ウィーン・オーストリアを
 知るための57章【第2版】
明石書店

の「分離派」についての章は、
山之内克子さん
書いている。
(以下水色部、本からの引用)

まずは分離派の簡単な説明から。

【ウィーン分離派】

1897年、
画家グスタフ・クリムトを中心とする
19人の芸術家たちは、
保守的・正統的画壇に反発し、
新しい芸術グループを結成した。

腐敗政治に抗議する若者たちが
都市を離れて山に籠もったという、
古代ローマの「民衆離反」
の故事に因んで
「分離派(ゼツェッシオン)」
と称した新グループは、
過去の様式を模倣することが
芸術の目的であった時代が過ぎ去った今、
芸術は自分自身のスタイルを
もたなければならない

宣言したのである。

「時代にはその芸術を、
 芸術にはその自由を」

の標語が掲げられていたという。


【画家クリムトと建築家ワーグナー】

クリムトが
「裸の真理」で描いたものは、
時代の真実を反映するという、
社会における芸術の
本質的な課題にほかならない。

そして、これこそ、
分離派の芸術家たちが
生涯保ち続けた制作目標であった。

画家クリムトが、
理想化された人体ではなく、
時には醜悪な姿を晒す裸体を通じて、
近代人の潜在意識を
呼び覚まそうとしたように、

建築の分野では、
オットー・ワーグナーが、
実用性と結びついた
美の形を追求した


建物における「真実」とは
「使いやすさ」であり、
芸術の使命は、
人間の実利的な要求を
満たすことである。

過去の歴史様式から「分離」して
新しい創造に向かおうとする
芸術革新運動。
当時、どんな勢いがあったことだろう。


【でも、実りの秋は・・・】

だが、分離流がウィーンにもたらした
芸術の「春」は、決して実りの秋を
迎えることはなかった


クリムトをはじめとする
多くの芸術家が、
表現主義や抽象絵画への一歩を
決して踏み出そうとは
しなかったからである。

歴史主義の装飾性を批判しつつ
彼ら自身、
ここから完全に離れることはなかった


(中略)

後にアメリカの現代建築にも
多大な影響を与えたワーグナーですら、
晩年に至るまで、
バロック建築のアプリケを連想させる、
花綵模様(ギルランデ)や
天使の装飾モチーフに固執し続けた。

ワーグナーは機能主義の見地から
「芸術は必要にのみ従う」
と主張していたが、
駅舎の写真を見ればわかる通り、
装飾そのものを
否定しているわけではない。

 

【土地の精神(ゲニウス・ロチ)】

だが、こうした装飾へのこだわりと、
純粋に抽象的なものに対する
関心の欠如は、
あるいは、
ウィーンの精神風土に関わる
特質
なのかもしれない。

ウィーン分離派の作品が、
フランスのアール・ヌーヴオ、
ドイツのユーゲント・シュティールとは
一線を画した、独特の魅力でわれわれを
惹きつけてやまない理由のひとつは、
土地の精神(ゲニウス・ロチ)」との、
この強固な結びつきのように思われる。

ワーグナーの代表作、
カールスプラッツ駅舎が、
18世紀初頭のバロック建築の傑作、
カール教会をバックに、
何の違和感もなくたたずむさま
は、
分離派芸術のこうした特質を、
ひときわ鮮やかに印象づける景観と
いえるだろう。

駅舎とカール教会、
実際の位置関係を見てみよう。
山之内さんが書く通り、
こんな位置関係でたたずんでいる。

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ちなみに、そのまま左に目を遣ると、
駅舎左奥には、
ウィーンフィルの本拠地
楽友協会も見える。

P7158835s

ゲニウス・ロキ(genius loci)は
ローマ神話における
「土地の守護精霊」が原義だが、
「土地の雰囲気」「土地柄」といった
意味で使うことが多いようだ。

多彩な様式の建物が並ぶ
リンク通り周辺では、
どんな組合せをも許容してしまう
まさに「土地の雰囲気」がある。

 

 

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