映画・テレビ

2017年9月24日 (日)

オーストリア旅行記 (5) サウンド・オブ・ミュージック(その1)

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オーストリア旅行記 (5) サウンド・オブ・ミュージック(その1)

- 50年後の集客力 -

 

映画「サウンド・オブ・ミュージック」は
1965年に公開された
ロバート・ワイズ監督、
ジュリー・アンドリュース主演の
ミュージカル映画だ。

第38回アカデミー賞で、
作品賞、監督賞、編集賞、編曲賞、録音賞の
5部門を獲得している。

映画を見たことがなくても、
「ドレミの歌」
「エーデルワイス」
「私のお気に入り」

などの曲は、一度は耳にしたことが
あるのではないだろうか。

これらの曲はすべて、
「サウンド・オブ・ミュージック」
からだ。

ブロードウェイに一時代を築いた
作曲:リチャード・ロジャース
作詞:オスカー・ハマースタイン2世
ロジャース&ハマースタインの最後の作品。

ブロードウェイ・ミュージカルと映画で
知られるようになった
これらの名曲の数々は、
いまやスタンダードになっている。

 

今日は、ザルツブルクで参加した
「サウンド・オブ・ミュージック・ツアー」
の様子を書きたいと思う。

「あぁ、あの映画ね。
 確かに観たことあるし、
 『ドレミの歌』も知っているけれど
 ストーリやシーンなんて
 大昔のことですっかり忘れているよ」

という方も多いと思うので、
思い出せる程度の簡単な説明は
できるだけ添えたいと思っているが、
いずれにせよ、
ゼロからの解説は難しいので
「観たことがある」という方を前提に
書き進めてしまう失礼はご容赦願いたい。

 

ここ で事前予約をした
「サウンド・オブ・ミュージック・ツアー」
は、簡単に言うと
映画のロケ地を巡るツアーだ。

ロケ地を巡ると言えば
最近は、アニメや漫画などの
舞台となった場所を訪問することを
「聖地巡礼」
などと言ったりしているようで、
マスコミの報道でも耳にすることが
めずらしくなくなったが、
本件、名付けるにしても、もう少し
言葉を選ぶべきではないだろうか。

さてさて、
「サウンド・オブ・ミュージック」、
ロケ地を巡る、と言っても
現在ヒット中の映画の、ではなく、
50年以上も前の映画の、だ。

いったい、どの程度の人が集まるのだろう?

少人数でのグループツアーをイメージして
集合場所に向かった我々夫婦は、
まず最初に、
集合場所に集まっている人の数に
驚いてしまった。

皆、時間にも正確で、
定刻よりちょっと早め揃っている。
ガイドさんの案内で、
映画のシーンがペイントしてある
大型バスの横に並んだ。

P7117743s

ガイドさんは
乗車時、チケットの確認とともに、
「何人のグループ?
 どこから来たの?」
を聞いている。

結局、60人近くが乗り込んだ。
大型バスがほぼ満席。
夏休みの季節とはいえ、
平日火曜日の朝に、だ。

P7117744s

 

いよいよ出発!

マイクを握ったガイドさんは
「私は英国出身で・・・」
と自己紹介を始めたが、
そのこと自体を疑いたくなるような
明るい空気を第一声から振りまいている。

イギリス的というよりも
アメリカ的なノリ。
世界中から集まってきた
映画のファンを
ジョークを交えながら
早口の英語でグイグイ引っ張っていく。

ただ、こちらの英語力では、
説明の英語が正確に
聞き取れなかった部分も多々あるので、

『サウンド・オブ・ミュージック』の秘密
瀬川裕司 (著)
平凡社新書
(以降水色部は本からの引用)

と 映画のDVD/Blu-ray

で補足・確認しながら、
振り返ってみたい。

 

そもそもこの映画のストーリが
「実話」に基づくものであることは
よく知られているが、

トラップ一家の物語は、
まずマリア・アウグスタが
1949年に自伝として書き下ろし
(大佐は47年に死去していた)、

それを原作とするドイツ映画
『菩提樹』(1956)
『統・菩提樹』(1958)が撮られた。

そして、『菩提樹』に感銘を受けた
メアリー・マーティンと夫の
リチャード・ハリデイが
新たな脚本と音楽を書かせ、
ブロードウェイ・ミュージカル
『サウンド・オプ・ミュージック』
が誕生した。

公演は59年から63年まで続けられ、
その終了を待って、
映画化権を買っていた
20世紀フォックスが
64年に撮影をおこない、
翌年に公開した。

その後、義母の自伝の内容に
不満を抱いていた長女アガーテも
回想記を世に送っており
- そもそもマリアの自伝には
事実と異なる記述がかなりあったのだ -
世にはさまざまなヴァージョンの
<トラップ一家の物語>が
存在するわけである。

とあるように、

「トラップ一家の実話」
「書籍 マリアの自伝」
「ドイツ映画 菩提樹」
「舞台 ブロードウェイ・ミュージカル」
「米国映画 ミュージカル
    サウンド・オブ・ミュージック」
「長女の回想記」


と大きく分けて6つの
<トラップ一家の物語>がある


特にミュージカル映画は、

物価変動を考慮に入れて
2012年に集計された
歴代興行収入ランキングでは
『風と共に去りぬ』(1939)
『スター・ウォーズ』(1977)
に次いで第三位とされ、
VHS、DVD等の販売数やレンタル回数も
計算に含めると、
視聴した人の数だけでいえば
第一位であると考えられている。

と世界的に大ヒットしたわけだが、
地元オーストリアやドイツでは
日本や米国ほど
親しまれた映画ではないようだ。

そのあたりの説明からツアーは始まった。
地元では人気がないンだ。

その理由には、
オーストリアとナチの関係の描き方、
「エーデルワイス」の曲の扱い方、
実話やドイツ映画との相違点、などなど
いろいろあるようだが、
日本人の私には、
細かいニュアンスまではよくわからない。

ガイドさんは、
「英語のツアーには
 こんなにたくさんの人が集まるのに
 ドイツ語のツアーには
 人が集まらないのを見ても
 それはすぐにわかるでしょ」
と笑いを取ってまとめていた。

 

【レオポルツクローン宮殿】
「地元での不人気」という
ちょっと意外な話を聞いているうちに、
最初の訪問地、
レオポルツクローン宮殿付近に到着した。

バスを降りると、
60人でも驚いていたのに、
別のツアー会社のツアー客とも遭遇した。
いったいどれだけの集客力があるのだ、
この映画は!

そういえば本にはこんな記述もあった。

ザルツブルクのロケ地を訪ねる
バスツアーは、
世界各地から訪れたファンで
連日にぎわっている。

主催者の話では、
一日二回挙行されるツアーには
連日200人以上が参加し、
3分の2は製作当時に
生まれていなかった
年齢層の人々だという。

我々夫婦が参加したPANORAMA社の
ツアーだけで午前午後の毎日二回。
一度参加しただけなので
統計的なことは何も言えないが、
本の数字、大袈裟なものではない気がする。

バスを下りると、
一部雲がかかってしまっているものの
静かな湖の向こうに
ウンタースベルク(Untersberg)山が
こんなふうに見える。
緑も美しいが、山の形にご注目あれ。

P7117745s

ここは、トラップ一家の屋敷から
「湖方向の絵」を撮るときに使われた
ロケ地。

(以降、映画からのシーンは黄色枠で)

Sm10157

マリアと子どもたち全員が、ボートから
落ちてずぶ濡れになるこのシーンでも。

Sm10837


ウンタースベルク山を背にするように
湖畔を大きく回って歩くと
対岸にこの屋敷が見えてくる。
これがレオポルツクローン宮殿。

P7117752s

左後方には、ザルツブルクの
ホーエンザルツブルク城塞も
小さく見えている。

宮殿は現在ホテルとして使われているため、
ツアーが案内するのは、
「対岸からの眺め」のみ。

対岸から宮殿を眺めながら、
こんな感じでガイドさんの説明を聞く。

P7117756s

「宮殿を眺めながら」と書いたが、
実はこの宮殿、映画には登場していない。

映画に詳しい方は、
「トラップ一家の屋敷って、
 あんなに白かったかなぁ、
 黄色の印象があるのだけれど」
と思ったはずだ。

「屋敷の庭から湖方向の絵」は
上の映画のシーンからもわかる通り
確かにあの位置から撮影されたのだが、
逆向き、つまり屋敷が背景に映る
「湖から屋敷方向の絵」は
全く別のところで撮影され、
後から繋げて
会話が成立するようにしたらしい。

なんて面倒なことをしたのだろう。

帰ってきてから上の参考図書を読むと、
正確にはあの宮殿の庭そのものではなく、
そのすぐ横に作られたセットからの
撮影だったようだが、
いずれにせよ、
「湖方向の絵」は
あの宮殿の「あたり」から
撮影された、ということのようだ。

「屋敷方向の絵」は別なところで。

ガイドさんは、
A方向とB方向で会話になっているシーンを
撮影を真似て
A方向だけ、B方向だけに分けて演技し、
おおいに皆を笑わせていた。

初対面で、
最初はどことなくぎこちない感じだった
60人が、少しずつガイドさんのペースに
慣れていく、というか巻き込まれていく。

それを感じてか
さらに饒舌になるガイドさん。

ロケ地巡りは始まったばかりだ。

 

 

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2017年4月16日 (日)

宮ザワザワ賢治

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宮ザワザワ賢治

- 擬態語の音とイメージ -

 

ロジャー・パルバース著
「英語で読み解く賢治の世界」
岩波ジュニア新書

を読んでいたら、
宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」の一節
「オロオロアルキ」の英訳の解説に
こんな部分があった。
(以下、水色部、本からの引用)

オロオロアルキ(he plods about)

オロオロ,ドシドシ,
ザワザワというように,
日本の「擬音語・擬態語」(オノマトピア)は,
音を繰り返すものが多い
です.

「オロオロ」のようなオノマトピアを使って
この詩を見事に書き上げた賢治を,
ぼくは「宮ザワザワ賢治」と名づけたいです.

 もちろん英語にも,
ticktock
   ([時計などの]カチカチという音])
hanky-panky
   (いんちき,ごまかし,
    いかがわしいこと)
namby-pamby
   (男らしくない,なよなよした)
dilly-dally
   ([決心がつかず]ぐずぐずする,
    心がぐらぐらする)
といった音を繰り返すオノマトピアが
少なからずあります.

しかし,英語においては,
ラテン語源の多音節の単語ではなく,
アングロサクソン語源の1音節の単語が
オノマトピアとして使われることが
はるかに多い
のです.

 plodはまさにそんな単語の1つです.

この語は,
「慎重に.苦労して,ゆっくり前に進む」
(to go forward slowly
 with effort or difficulty)
という意味があります.

plodderは,
「こつこつ働く人 地味な努力家」

(someone who persists, little by little,
 through effort and will power)です.
「がんばり屋」がいちばん近いと思います

「オロオロ」を直訳すれば,
to be flustered
  (このflusterもオノマトピアです)か,
to be at a loss for what to do
  (ぼうっとする,茫然自失する)
ぐらいになるかもしれません.

ここでは,to plodにaboutを付けて.
「目的もなく(aimlessly),オロオロ歩く」
という感じを出しました。

plod、
意味を知ったうえで
イメージしようと思っても、
音だけで「オロオロ」をイメージするのは
やはり私の英語力のレベルではむずかしい。

そういえば、パルバースさんご自身が
ラジオで宮沢賢治の詩と擬態語について
話をしていた記憶がある。
ちょっとPCの中を探してみよう。

発見! 2009年の録音だ。

関連するところをちょっと聞いてみたい。

(以下、薄緑色部
 2009年5月17日
 NHK「ラジオ深夜便」
の録音から。
 文字は要点のみ)

(擬態語は)
むしろ英語の方が多いのではないかと。

ただね、その同じような形をとらない。
つまり、ザワザワとかね、
音が繰り返されるような単語って
たくさんありますけれど英語にも、
もちろん日本語ほどの、百分の一くらいです。

ただ、
ひとつの単語の中に入っているのが多いンです。
それが全く擬態語だということです
ね。

たとえば

「とぼとぼと」 hobble
「よろよろと」 wobble

hobble,
wobble,
plodよりも擬態語っぽいが、
それでもまだまだむずかしい。

 

もう少し見てみよう。

賢治の「注文の多い料理店」の一節、
一文に擬態語が四つも出てくる箇所がある。

日本語はこれ。
風がどうと吹いてきて、草はざわざわ、
 木の葉はかさかさ、
 木はごとんごとんと鳴りました


パルバースさんは以下のように訳している。
どれも一単語による擬態語とのこと。

「どうと」「ざわざわ」「かさかさ」
「ごとんごとんと」に注目して、
ご本人の英語による朗読を聞いてみてほしい。

The wind bellowed
The grass swished
The leaves rustled
And the trees rumbled low.

繰り返し聞くと、少し見えてきた...かな?

もちろん日本語の擬態語だって、
「かさかさ」のように
繰り返すものばかりではない。

「ぽっかり」とか
「ふんわり」とか
「こっそり」とか
「きょとんと」とか。

でも、どれも聞いた瞬間
「ふわっと」イメージが浮かぶ。

いったい、いつ、
どうやって身につけた感覚なのだろう。

どう考えても
「rustle」よりも「かさかさ」のほうが
木の葉の音をうまく表現しているように
思えてしまうのだが。

言葉が身につく、というのは
不思議なことだ。

逆に言うと、英語の音による感覚が
いかに身についていないか、を痛感する
エピソードのひとつでもあるけれど。

 

 

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2017年2月 5日 (日)

オランダ政府からのメッセージ

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オランダ政府からのメッセージ

- America Firstなら -

 

すでに1700万回も再生されているから、
ご存知の方も多いと思うが、
オランダが作った
「歓迎、米トランプ大統領」のビデオが
あまりにもよくできているので、
記録も兼ねて、ここに紹介しておきたい。

オランダ語の最初のコメントも含めて
全編英語字幕付き。
<再生>したらそのまま読めるよう
サイズをちょっと大きめに。

字幕があっても英語はちょっと、
という方も心配ご無用。
映像だけでもぜひ一度ご覧あれ。
作りがいいので、日本語訳はなくても
メッセージは伝わるはず。

 

このビデオ、タイトルにも

 The Netherlands welcomes Trump
 in his own words

とあるように、まさに「自分の言葉」で
歓迎の意を表している3分半の作品だが、
自慢あり、皮肉あり、批判あり、で
ほんとうに楽しめる。

まずはともあれ作品をどうぞ。

最初から大袈裟かつ大まじめ。

 This is a message from
 the government of the Netherlands.

 これはオランダ政府からのメッセージです。

でもそのまじめさが、
すでにおかしさを予感させる。
いきなりトランプ口調だし。

(1) William of Orange
オランダ建国の歴史から話が始まるのは
いかにも欧州の国らしい。
80年も争った戦争相手のスペイン人のことを
さんざんひどく言っておきながら、

 They're all dead now by the way.

 今は全員死んでいるけれどね。

とサラリとかわしている。

(2) オランダ語
「オランダ語は欧州で最高の言語だ」を
オランダ自身が言うのはいいとしても、
total disaster(大失敗)だとか、
fake(偽物)だとか、
トランプ氏が使った言葉を、
デンマーク語やドイツ語に向けて
もう言いたい放題。

欧州内では互いの言語を
この程度のジョークでなら
言い合うことがあるのだろうか。

(3) Pony Park
最後の部分

 you can grab 'em by the pony

で笑い声が入っているのは、
この文そのものの意味ではなく、
大統領選挙期間中に暴露された
トランプ氏の超下品な会話

 Grab them by the p***y

をイメージさせるからだろう。

(4) Afsluitdijk(アフシュライトダイク)
  締め切り大堤防

オランダが世界に誇る世界最大の堤防を
メキシコとの壁にたとえてのこの話。

「月からも見える」大西洋を挟みながらも、

 from all the water from Mexico.

 メキシコからの
 すべての水から我々を守るために、

と、奔放なセリフのスケール感に
頭がついていかない。
実際、長さ32km、幅90m、もある
堤防としては本当に巨大なもののようだが。

(5) Lee Towers
「トランプ・タワー」と「リー・タワー」
Leeさんのほうは
1946年生まれのオランダの歌手。
YouTubeでちょっと聞いてみよう。

確かにいい声だ。

(6) ミニチュア・タウン
Madurodamという
ミニチュアタウンを紹介しておいて、

 The squares are so small

 広場はとっても狭いので

それを埋めるのに
たくさんの人は必要ないよ、と。

(7) Black Pete
12月、聖二コラウスの日に行われる
伝統行事らしい。

伝統行事ながら、
英語版のWikipediaによると、
ニコラウスの仲間Black Peteについての
黒い顔に赤い口紅といった化粧は、
近年オランダでも人種差別的な側面から
論争の対象にもなっているようだ。

(8) 足が不自由な政治家
これまた、
大統領選挙期間中に問題となった
トランプ氏の障碍者の真似を
皮肉ったもの。

選挙期間中に報道されていた
見るに堪えない
トランプ氏の真似映像を思い出すと、
Klijnsma氏の、穏やかな笑顔と
議場での毅然とした姿が、
対照的に気高く、美しく見える。

(9) 脱税システム
脱税の仕組みがあるよ、と言ったうえで、

 You should tell your sons
 to put all your...
 sorry, their businesses here.

 あなたの息子さんたちにあなたの
 失礼、彼らのビジネスをここに

とのわざとらしい言い間違いで、
「あなたの」を強く印象付けている。

(10) そして最後はコレ!
America Firstなら

 The Netherlands second?

やられた!という決め台詞。
噴出さずにはいられない。

 

それにしても、全編
It's great. It's true.
を繰り返しながら
トランプ氏の口調自体を
完全におちょくっている。

オランダのことを
ちゃんと紹介しながらも
笑いあり、批判ありで
メッセージ性もバッチリ。

しかも、
全体が安っぽい作りになっておらず、
仕上がりは極めて上質。


くやしいけれど、残念だけれど、
日本がほんとうに不得意な分野だと思う。

 

 

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2016年12月 4日 (日)

ただあなたにGood-Bye

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ただあなたにGood-Bye

- ラジオは言葉を探す間(ま)も -

 

前回に引き続き、

2016年11月23日放送の
井上陽水の歌の世界を読み解く特別番組

『ミュージック ドキュメント 
 井上陽水×ロバート キャンベル
 「言の葉の海に漕ぎ出して」』


というTOKYO FMのラジオ番組から
陽水さんの言葉を紹介したい。

 

まずは、テレビのニュース番組の
エンディングでも使われていた
「最後のニュース」を。

最後の、
 ♪ただあなたにGood-Bye
の歌詞を意識してお聞きあれ。

最後のニュース
   作詞・作曲 井上陽水


闇に沈む月の裏の顔をあばき
青い砂や石をどこへ運び去ったの
忘れられぬ人が銃で撃たれ倒れ
みんな泣いたあとで誰を忘れ去ったの

飛行船が赤く空に燃え上がって
のどかだった空はあれが最後だったの
地球上に人があふれだして
海の先の先へこぼれ落ちてしまうの

今 あなたにGood-Night
ただあなたにGood-Bye

ある映画の最後にこの曲が使われ、
その部分の英語字幕を頼まれたキャンベルさん。
一度訳して、陽水さんに送るのだが、
最後の♪ただあなたにGood-Bye
の部分で、ダメ出しを食らってしまう。


キャンベル:
 ぼくはね、無意識にですね
 ただあなたにgood-bye
 というのは、
 あなたに向けてgood-bye
 というふうに思って、
 just for you good-bye
 just for you だと。

陽水:
 あなた、そうか
 あなただけに。

キャンベル:
 あなたに向けて。

陽水:
 じゃないんじゃない
 ていうこと言ったのかな。

キャンベル:
 うん、そういうふうに言われて
 ハッとしたんですね。
 ぜんぜんそのことに気がつかなかった。

陽水:
 ただ、あなたに、
 ちょっと違うかもね。

さて、陽水さん、
「just for you」が、
どう違うと言いたかったのだろう?

キャンベルさんが
「どんなふうに?」と再度問う。

ラジオは、
言葉を探す、迷う間(ま)も伝わる
からいい。

キャンベル:
 えっと、どんなふうに?

陽水:
 うーん、
 たくさんいるけれど、
 ただあなたに、ではなくて、
 なんかいろいろかける言葉も
 いろいろあるかもしれないけど、
 まぁ、good-bye 
 ただこの言葉ぐらいかな

 みたいなニュアンスですかね。

キャンベル:
 そうか、そうか。

多くの人の中の「あなた」ではなく、
多くの言葉の中の「good-bye」。


キャンベル:
 just for you good-bye
 ではなくて
 ぼくはそれを書き換えて
 また送り返したのですけれども
 simply to you good-bye
 というふうにさせてもらったんですね。

 たぶんそれはそのまま映画のエンドロールの
 字幕になってたと思うんですけれど

 simplyですね。

 いろんな人がいる中でひとりじゃなくて
 いろんなことが、ここでほんとは言えるし、
 言わないといけないかもしれないンだけど、
 でも、いまそっとgood-bye
 そっちだな、という。

陽水:
 まぁ、いろいろ言葉もあるけれど

キャンベル:
 すごく、
 今日のニュースにもいろいろなことがあり、
 この歌の中に歌われている
 いろんな環境の問題であったり、
 暴力、戦争、いろんなことがあるけれど、
 あなたにGood-ByeというGood-Night

いろいろ言葉もあるけれど、
ただgood-bye。

どこをどう切っても、
陽水さんらしさが溢れている。

 

 

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2016年11月27日 (日)

44年目の「傘がない」

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44年目の「傘がない」

- 君に逢いたい切なさではなく -

 

2016年11月23日、
井上陽水の歌の世界を読み解く特別番組

『ミュージック ドキュメント 
 井上陽水×ロバート キャンベル
 「言の葉の海に漕ぎ出して」』


というラジオ番組をTOKYO FMで聴いた。

 

名曲「少年時代」の冒頭の歌詞

少年時代 
     作詞 井上陽水

夏が過ぎ 風あざみ
誰のあこがれにさまよう
青空に残された私の心は夏模様
・・・

陽水さんは

「『風あざみ』ってあるのかなぁ、と思ったけれど、
 『オニアザミ』があるから
 『風あざみ』くらいあるだろう、と。

 まぁ、でも、もし なくたっていいや

そんな自覚まではあって、
この詩を作ったことを告白。

ところが、キャンベルさんがこの詩で指摘したのは

あざみは
 秋の季語ではなく、春の季語

の部分だったとか。

そんな二人のやりとりで番組は始まった。

 

療養期間がきっかけで、キャンベルさんは、
昔から聞いていた陽水さんの詩の英訳にトライ。
その際、気になった部分を
ご本人に確認してみようという、
訳者からすると贅沢な番組だ。

とは言え、
陽水さんの曲をご存知の方はよくわかると思うが、
彼の詩は、日本語でも意味不明な部分が多い。
簡単に英語にできるとは思えない。

しかも、英語にしようとすると、
主語や人称や時制がずいぶん気になるようだ。

質問するほうも、答えるほうも
「無粋(ぶすい)」という言葉を繰り返していたし、
明言を避けていたのはさすがだと思うが、
不明な部分は不明のまま、
たとえ間違っていても勝手に味わえばいい気がする。

 

そんな中、言葉の問題ではなく、
歌う際の感情移入に関して、陽水さんが
ちょっと興味深いことを言っていたので、
その部分だけ紹介したい。

まずは、1972年、今から44年前のヒット曲
「傘がない」をちょっと聴いてみよう。

傘がない 
     作詞・作曲 井上陽水


都会では自殺する若者が増えている
今朝来た新聞の片隅に書いていた
だけども問題は今日の雨 傘がない

行かなくちゃ君に逢いにいかなくちゃ
君の町に行かなくちゃ雨にぬれ
・・・

(声が若い! はともかく)
このあと曲の中では、
「行かなくちゃ君に逢いにいかなくちゃ」が
何度も何度も繰り返される。

さて、ご本人、この曲を
どんな思いで歌っているのだろう。

「逢いたい」ことへの強烈な思い。そして
それがすぐには実現できないことのもどかしさ?

ちょっと違うようだ。

 

いちばんね、歌ってて
自分で感情移入しやすい感じっていうのは、
その「傘がない」で言えば、
君に逢いたいンだ、逢いたいンだ、っていう
切なさよりも、
もうちょっとこう、そういう具体的な
「恋い焦がれて」
とかいうようなことではなくて

もうちょっと、
「いやぁ、人間として生まれるとこうなの?」
っていう大きな感じのほうが
感情移入しやすいンですよね。

うーーん、さすが陽水さん。
そんな思いを「傘がない」で表現していたなんて。
でも、言われてみるとわかる気もする。

「何を言いたいのかはわからないけれど、
 伝えたいことは伝わってくる」

古くから繰り返し聞いている曲と共に
そんな不思議な感じに包まれた瞬間だった。

 

 

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2016年11月20日 (日)

「人生、宇宙、すべての答え」

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「人生、宇宙、すべての答え」

- 映画「銀河ヒッチハイク・ガイド」 -

 

「宇宙」という言葉関連で
音楽に関するコレと、
小説に関するコレを書いたが、
映画についてもひとつ書いておきたい。

「宇宙」と聞くと最初に浮かぶ
「2001年宇宙の旅」についても
書きたいことはいろいろあるのだが、
今日紹介するのは、

「銀河ヒッチハイク・ガイド」

ガース・ジェニングス監督による
2005年の映画だ。

とにかく奇想天外なSFコメディで、
内容を要領よく紹介すること自体むつかしいのだが、
イギリス的な笑いが好きな人には絶対にお薦めだ。

(以下水色部、DVD版 日本語字幕から)

イルカは昔から地球の破滅を知っていた
彼らは人間に警告したが-
いつも誤解された

ボールを突くのはエサのためだと・・・

で映画は始まる。

イルカが宙返りやジャンプをしていたのは、
実は芸ではなく、
人間に対してある警告を発するためだった。

おろかな人間はそれを理解できず、
芸と勘違いしてえさをやっていた、
というのだ。

その後も、宇宙を舞台に
壮大なテーマが次々と飛び出すのだが、
どれもシュールな笑いをともなっていて
目が離せない。

 

例えば「拷問」のシーン。

縛り付けられて、
「下手な詩の朗読を聞かされる」が
この映画での「拷問」。
イギリス人には、
日本人以上にウケていることだろう。

 

そんな中、特に有名なのが、
ある「問い」とその「答え」。

究極の問い 

”生命 宇宙 そのすべて”

答えが知りたいのです
明快な答えが

問われたスーパーコンピュータ、
ディープ・ソートは750万年かけて計算し
答えを導きだす。

究極の問いに答えます

”生命 宇宙 そのすべて”の答え

それは・・・
”42”です

この部分、原文では
 the Answer to the Ultimate Question of
 Life, the Universe, and Everything
となっている。
「生命、宇宙、そして万物についての」
 究極の疑問への解答。

それがただの42?
いったいどういう意味なのだろう。

ちなみに、Googleに
「人生、宇宙、すべての答え」と問いかけてみよう。

スーパーコンピュータで750万年かかった計算を、
Googleならあっと言う間にしてくれる(!?)。

答えはもちろん・・。

さすがGoogle。よくわかっていらっしゃる。

 

痛烈な文明批判とパロディを交えて
話はテンポよく展開していく。

なんという発想力。なんという構成力。

宇宙にバイパスを作るのに地球が邪魔だの、
地球全体のバックアップだの、
話は大きいのに、笑いは細かいし、
とにかく突っ込みどころ満載。

キャラクタの着ぐるみの暖かさも
CGとは違って味があってすごくいい。

だれにでもお薦め、というわけではないが、
個人的には、繰り返し観て
見落としていた部分をいろいろ発見したくなる
傑作だと思っている。

ドタバタコメディとは違った
笑いながら頭が疲れる快感、を楽しめる一本だ。

 

 

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2016年7月31日 (日)

ピアノの『響き』を作り出しているもの

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ピアノの『響き』を作り出しているもの

- 中村紘子さんの訃報にふれて -

 

2016年7月26日、
ピアニストの中村紘子さんが亡くなった。
享年72。

中村さんは、ピアノ演奏だけでなく、
エッセイでも素敵な作品を数多く残している。
この「はまめも」でも

ピアニストには三種類しかいない
あらゆる場所が物語の力を秘めている

などで引用させていただいた。

個人的には以下の三冊がお薦めだ。

エッセイでその記述を読んだことはないのだが、
実は、中村さんというと
ある対談番組で聞いた話が、
非常に強く印象に残っている。

その時は、まさに御専門、
ピアノの音についての話だった。

今日は、その話を紹介したい。

 

予備知識として必要なのは、
「ピアノの構造」と「共振(共鳴)と倍音」

最初に、ピアノの構造を復習しておこう。
ピアノは簡単に書くと、
下記のような構造になっている。

Pianodamper

通常は、ダンパーが弦に接触していて、
弦の振動を抑えている。
(弦が鳴らないようにしている)

音が出る仕組みは、
① 右側、鍵盤をたたくと
② 鍵の左側が上がり、
  ダンパーが弦から浮き上がる。
  (弦が鳴る状態になる。開放弦)
③ ダンパーが離れた弦をハンマーが打つ。
  (この時、弦が震えてポォーンと音がでる)
④ ハンマーは弦を打ったあとすぐに元の位置に戻る。
⑤ 鍵盤から指が離れると、ダンパーが下がって
  再び弦と接触し、音を止める。

つまり、鍵盤をたたき指を離す、の動作のうちに、
 ダンパーが上がり、
 ハンマーが弦を打ち、
 ダンパーが下がる
が繰り返されている。

ポイントは、ハンマーが弦を打って音を出したあと、
ダンパーが上がっている間は、
つまり、鍵盤が下がっている間は、
弦が振動し続けているということ。

その後、鍵盤から指を離すと
ダンパーが下がって弦を強制的に抑えてしまうので、
その瞬間、音は消えてしまう。

(ピアノには、鍵盤の状態と関係なく、
 ダンパーを一斉に弦から浮かす
 サスティンペダルというペダルもあるが
 今回の話ではそこには触れない。

 あくまでも、
 鍵盤の上下とダンパーの上下が
 連動している範囲で話を進める)

 

もうひとつの予備知識は共振(共鳴)と倍音

共振(共鳴)は、
だれもが小学校の時に
音叉の実験で経験しているはず。
一つの音叉1を鳴らし、
同じ高さの音の音叉2を近づけると、
音叉2が鳴り始める、あれ。

音叉に限らず、
同じ固有振動数を持つものは
共振して鳴り始める、
というのが理科的な説明だが、
簡単に言うと、
「ド」が鳴っているときに、
「ド」の開放弦を近づけると、
その弦も振動を始める、ということ。

倍音のほうは、
正確に話そうとすると、周波数だの、
純正律だの平均律だのに触れねばならず
かなり面倒なのだが、
こちらも思い切って簡単に言ってしまうと、
「ド」の音を鳴らしたときは、
「ド」の音だけが鳴っているわけではない
ということ。

「ド」の倍音となる
「ソ」や「ミ」や「シ♭」などが
一緒に鳴っている、というか含まれている。

なので「ド」が鳴っているときに、
倍音にあたる「高いミ」の弦を近づけても
「ミ」の弦が共振(共鳴)して鳴り始める。

 

以上で、準備OK。

ここからは、
簡単な実験をしてみたい。

グランドピアノでもアップライトピアノでも、
アコースティックのピアノが身近にあれば、
1分もかからない実験なので、ぜひお試しあれ。

(a) 右手で「ド」を強く叩き、
  音の『響き』を聞く。
その後、
(b) 左手5本指で低い「ド」を含む
  いくつかの音をジャーンと鳴らす。
(c) 左手の指は鍵盤から離さずに
  そのまま押し下げたまま、
  音が消えるのを待つ。
(d) 音が消えたら、左手はそのままで、
  (a)と同じ「ド」をもう一度強く叩き、
  (a)の響きと聞き比べる。

(a)でも(d)でも、音を出したのは
右手による「ド」の一音だけだが、
これ、だれが聞いてもすぐにわかるくらい
「ド」の響きが全然違う。

理由は簡単。
左手側の弦が共振(共鳴)するからだ。

(d)直前、
左手は鍵盤を押し下げたままのため、
ダンパーは上がったまま。
ピアノの内部には「5本の開放弦」が
存在していることになる。

その状態で、右手による「ド」が鳴ると、
開放弦の何本かが共振(共鳴)して、
鳴りだしてしまう。

つまり、(d)においては、
開放弦がなかったときの(a)の時とは、
振動している弦の数が全然違うのだ。

それが響きの違いを生み出している。

(d)の音を聞いている途中で、
左手を鍵盤から離して(ダンパーを下ろし)、
左手の弦の共振(共鳴)を止めると、
びっくりするくらい音が変わる。
(a)の響きに戻る、とも言えるけれど。

つまり、
音を出した
右手の「ド」の『響き』を決めていたのは、
音を出さずに
ただ鍵盤を押さえていただけの左手、
ということになる


これは確認のための簡単な実験だが、
実際の演奏では、これが10本の指の間で
絶え間なく起こることになる。
ある音が鳴ったその瞬間、
どの弦が共振する状況にあるのか。

 

中村さんは、
上記のことを素人にもわかるように
要領よく説明したあと、

「『音を出すタイミング』は、
 鍵盤をいつ叩くか、で決まる。

 しかし、叩いた指をいつ鍵盤から上げるか、
 つまり、いつまで開放弦を作って
 ほかの音に共鳴させるか、で
 『響き』のほうは全然違ってくる。

 音を出していない指が『響き』を作り、
 音楽を作っている


 指を上げるタイミングの違いが
 演奏にどんな変化を与えることになるのか、
 それがわかるようになってくると、
 練習時間は何分あっても足りなくなる」

そんなコメントをしていた。

もちろん素人の私には、
そんな細かな聞き分けはできないけれど、
プロがどんな思いで演奏に向き合っているのかを
シンプルかつreasonableな実験と共に知った
忘れられない体験だった。

 

ご冥福をお祈りいたします。

 

 

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2016年6月 5日 (日)

「政府」だけでは国にならない

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「政府」だけでは国にならない

- アフリカの国々の独立 -

 

前回に引続き、
4月から放送中のNHKカルチャーラジオ
歴史再発見「アフリカは今 カオスと希望と」

のテキストを中心にアフリカの歴史と今を
もう少し見てみたい。

講師はジャーナリスト松本仁一さん。

(以下水色部、テキストからの引用)

繰り返しになってしまうが、
前の回、最後の部分から始めたい。

【原住民の部族を無視した国境】

国境線はあるところでは
一つの部族の居住地区の真ん中を突っ切り
二つの国に分断した。

勝手な国境線はまた、
利害の相反する複数の部族を
一つの国の中
に取り込むことになった。

一部族の強制的な分断と、
複数部族の強制的な一国化。
これではひとつの国として、
まとまるはずがない。

しかも、
列強の植民地が並んでいたアフリカは、
再立国のまたとない機会
「独立」に際しても、
部族を無視した国境線を
そのまま維持してしまった。

 

【ナイジェリアの例】

 たとえばナイジェリアだ。

英国領のナイジェリアは、
北部イスラム系住民と、
南部キリスト教系住民を
囲い込んだ植民地だった。

独立に際して英国は、
その異なる文化の地域を分けることなく、
ひとつの国境のままで独立させた


分離すると、
北に接するフランス植民地に
とられてしまうかもしれないと危惧したためで、
植民地を独立させた後も
影響力を残しておきたいという計算からだった。

当然のように
内部紛争にもとづく戦争(ビアフラ戦争)が勃発。

現在も北部住民と南部住民の間には
深い溝が残り、国家的統合は進まない

もちろんナイジェリアだけではない。

 

【モノモタパ王国も】

1000年の栄華を誇った
モノモタパ王国はどうなったか


(中略)

1923年、
モノモタパのあった南部と、
別な部族の住む北部をひっくるめて
英領ローデシアとなる。

1980年にローデシアは独立し、
ジンバブエとなったが、
国境は英領時代のままだった。

モノモタパ系の住民は人口の二割。
北部住民は七割。
それが一つの国境線でくくられた


北部の代表者がつねに選挙で勝利し、
自派だけに利益を誘導した。

政治は腐敗し、産業が崩壊した。
インフレ率が数兆パーセントという
破滅的な状況に落ち込み、
国家は崩壊してしまった

「勝利が確定している」ことによる
恒常化した利益誘導。
腐敗は止められないものなのだろうか。

 

【植民地支配、そして独立】

 アフリカ各地に自然発生的に生まれた国家は、
武力を背景にした
西欧帝国主義のためにつぶされた。

それから数百年して独立は達成されたが、
植民地勢力が
勝手に引いた国境線に囲まれた国々は、
かつての王国とは似ても似つかぬものだった。

植民地支配からの独立における問題点。
もちろんそれは、国境線だけではない。

 

こんな例もある。

英国の慈善団体が「善意の行為」として
英国の奴隷を解放し、アフリカに返す、
というアクションを取った。

解放奴隷が住みついた町が、
(シエラレオネの)フリータウン。

【シエラレオネの内部差別】

 シエラレオネは1961年に独立する。
しかし近代型の国家を
作り上げることができなかった


移住した英国系黒人が
先住の現地黒人を差別支配したからだ。

黒人による黒人差別だった。
国民同士が対立し、
同じ国民としての一体感が欠けたまま、
「政府」と「国家」だけができる。

奴隷とはいえ、英国で育った人たちは、
読み書きや車の運転などの技術を身につけており、
アフリカの先住民より
かなり優位な立場にあったようだ。

しかも、アフリカに返されたとはいえ、
解放奴隷にとって、フリータウンは
生まれた町でも育った町でもない。

そのうえ、シエラレオネには、
巨大なダイヤ利権がある。

結局、権力者は、その利益を私物化し
一族で山分けすることに走ってしまった。
国造りではなく、ダイヤ利権の奪い合いが、
独立後の歴史になってしまっている。

 

* 元から住む部族を無視した国境線
  それによって引き起こされる部族間の対立
* 解放奴隷による先住民の差別
* 権力者による利権の私物化

講師松本さんの話に驚きながら、
3回に分けて見てきた
これらの問題点の他にも
よく報道されているように、
貧困、差別、飢餓、
警察をはじめとする
国家機能の正常化、などなど
アフリカには問題が山積みだ。

「独立だ!」と言って
「政府」だけを作っても、
ひとつの国にはならない。

 

 

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2016年5月29日 (日)

国境線の持つ意味

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国境線の持つ意味

- 国の境になるべきものは -

 

前回に引続き、
4月から放送中のNHKカルチャーラジオ
歴史再発見「アフリカは今 カオスと希望と」

のテキストを中心にアフリカの歴史と今を
もう少し見てみたい。

講師はジャーナリスト松本仁一さん。

(以下水色部、テキストからの引用)

前回書いた通り、
かつてアフリカで繁栄していた
ガーナ、マリ、モノモタパ、
などの王国は、どこも
治安の維持された安定した国家だった。

それが、どうして、
現在の混乱したアフリカの国々に
繋がっていくことになるのだろう?

【アフリカにあの男が到着】

1497年、
ポルトガルの航海者パスコ・ダ・ガマ
インド航路開発のため
二隻の艦隊でリスボンを出発し、
喜望峰を回ってインド洋に出た。

アフリカ東海岸で最初に寄った港は、
今のモザンビークのソファラだと見られている。

ガマが寄港したソファラ。
そこで彼が見たものは。
そこで彼が受けた扱いは。

 

【みすぼらしいポルトガルの船】

当時のソファラ港はモノモタパ王国の支配下にあり、
アラブ人商人と交易して栄えていた


ガマはポルトガル国王にこう報告している。

「われわれが入港すると、回りには倍以上もある
 大型のアラブ船が何隻も停泊していた。
 われわれの船はみすぼらしいほど小さかった

 黒い人々は、
 故国ポルトガルよりはるかに洗練された街に住み、
 豊かな生活をしている

ポルトガルの船がみすぼらしく見えるほどの
活気ある港。
ポルトガルより洗練された豊かな生活。
欧州に比べて、遅れているどころか
ずっと進んだ国だったのだ。その時は。

 

【野蛮な異国人扱いのポルトガル】

ガマは港の役人に、水と食料の購入の許可を求める。
しかし港の役人はちっとも来ない。
さんざん待たされてやっと役人が乗船してきた。

「役人は青い絹の服、絹の帽子を身につけ、
 堂々とした態度だった。
 われわれが贈り物を差し出すと、
 中を改めもせず後ろの召使にやってしまった。

 われわれは野蛮な異国人として無視された

 

【平和に続いていたアラブとの交易】

 アラブとの交易は、
長年にわたって平和的に続いていた


その交易で大きな富を蓄えていたアフリカの王は、
西欧のみすぼらしい船など相手にもしなかったのだ。

アラブとの平和な交易で栄えていた港。
「みすぼらしい」船から、
それを初めて見たガマは、
その後いったいどうしたか?


なんということか...

 

【ポルトガルの二度目の訪問】

 しかしポルトガルは、
次回は20隻に上る大艦隊を送る。
艦隊には100門もの大砲が積み込まれていた

モザンビークは
その武力攻撃の前になすすべもなく屈服し、
占領支配される。

以後5世紀にわたって植民地支配を受けるのである。

 モザンビーク以外の他の王国も同じ運命をたどる。
そしてポルトガルのあと、
ドイツやフランス、イギリスが続いた

ついに始まる西欧の植民地支配。

ただ、ここで注目すべきは、
植民地における入植者の支配そのものではなく
「国境線」。

【勝手に引かれる国境線】

 植民地支配の時代、西欧列強は地勢や気候、
そこに住む人々の生活などと関係なく

自分たちの力関係でアフリカに国境線を引いた。

ひとつの例として、
東アフリカのケニアとタンザニアの国境を
見てみよう。

インド洋から北西に
まっすぐ伸びた国境線(下図紫色の線)が
キリマンジャロ山の手前で
急に北にカーブしてクランク状となっている。

Kenya1

 

【ケニアとタンザニアの国境】

 この奇妙な国境線は、
1884年11月に開かれたベルリン会議で決まった。

ベルリン会議というのは、
欧州列強によるアフリカ分割の会議で、
翌85年2月まで3か月以上も続いた長い会議である。

その長い会議期間中に、
ドイツ皇帝のウィルヘルム二世が誕生日を迎えた。

英国のビクトリア女王が
誕生祝いに何が欲しいか尋ねる。
すると皇帝は
「万年雪のある山を一つ分けてもらえないか」
と答えた。

 当時、英領ケニアには
万年雪をかぶった山が三つあった。

キリマンジャロ山 (5895メートル)、
ケニア山 (5199メートル)、
エルゴン山 (4321メートル) である。

ケニアの南隣りのタンザニアに
万年雪のある山はなかった。

 ビクトリア女王は
「そんなものでいいの?」と気軽に承諾し、
一番南にあるキリマンジャロ山を
独領タンザニアにプレゼントすることにした。

それで国境が
不自然に曲がってしまったのである。

それから130年余がたった。
ケニア、タンザニアの両国は独立したが、
国境はまだ曲がったままだ。

そこに住む部族を全く考慮しない国境線。
それは何を生むことになるのか。

【原住民の部族を無視した国境】

両国の国境は住民の生活の都合などと関係なく、
英独の力関係だけで決まった。

国境線はあるところでは
一つの部族の居住地区の真ん中を突っ切り
二つの国に分断した。

勝手な国境線はまた、
利害の相反する複数の部族を
一つの国の中に取り込むことになった

一部族の強制的な分断と、
複数部族の強制的な一国化。
これでは国として「ひとつ」に
まとまるはずがない。

部族と国境線の話、
もう少し続けたい。

 

 

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2016年5月22日 (日)

かつてのアフリカの王国

(全体の目次はこちら


かつてのアフリカの王国

- 不正を憎む規律正しい国々 -

 

以前、アフリカは大きい
アフリカがいかに巨大か、
アフリカの国の名前を
私自身がいかに知らないか、
を書いたが
その程度のことでも驚いてしまうくらいなので、
歴史となると
それこそ情けないくらいに何も知らない。

4月から放送中のNHKカルチャーラジオ
歴史再発見「アフリカは今 カオスと希望と」

は、そんなアフリカ無知の私にとって、
あまりにも強烈な内容だったので、
思わずテキストまで買ってしまった。

(以下水色部、テキストからの引用)

歴史や地理の話に限らないが、
基礎知識がない分野というのは、
固有名詞の語彙が極端に狭い。
固有名詞を知らないと、音だけは
「えっ?今の何?」と何度も躓いてしまう。

正しい固有名詞があるだけでも、
再確認や再検索の負担はかなり軽くなるので、
テキストがあるとおおいに助かる。

今も週一回のペースで放送中で、
6月末まで続く全13回にわたるシリーズだが、
これまで聴いた中から一部を紹介したい。

講師はアフリカでの取材経験が豊富な
ジャーナリスト松本仁一さん。

 

米国のシンクタンク「平和基金会」は
毎年、いくつかの指標ごとに
点数をつけて崩壊国家の順位を発表しているが、
2013年の崩壊国家ランキングでは、
ワースト20の内の15カ国が
アフリカの国
になっている。

なぜ、
崩壊国家だらけになってしまったのだろうか?

なぜ、治安を維持できない、
混乱した状態になってしまったのだろうか?

混乱の原因に触れる前に、
まずは、かつてアフリカにあった
安定した国々の話から始めたい。

 

【14世紀ごろの「32」の王制国家】

アフリカでは
9世紀ごろから王国が形成されはじめ、
14世紀ごろには大きなものだけでも
32の王制国家があった


そのいずれもが
きちんとした社会ルールを持ち、
正義を基盤とした規律ある国家運営をしていた

32もの王制国家があったらしい。
歴史上のアフリカ国家、
いくつ名前が思い浮かぶだろうか?

 

【ガーナ王国】

1067年、
アラブ人地理学者エル・ベクリが著した 
『北アフリカ誌』には、
ガーナ王国は8世紀ごろから栄えたと、
次のように書かれている。

「ガーナの国王は
 20万人の兵士を動員することができ、
 そのうちの4万人は弓矢で武装している。

 国家財政は、
 ここで取引される塩や金に対する課税で
 支えられる。

 王は異教を信じているが、
 大臣や官僚にはイスラム教徒が登用されている」

「王国の版図は、
 西はセネガル川、東はニジェール川に及ぶ。
 採れた金のうち、金塊は王の所有に属したが、
 砂金は自由な処分に任されている」 
 (山川出版社 『アフリカ現代史Ⅳ』)

 日本でいえば平安後期。
藤原道長が没し、
平家と源氏の隆盛が始まるころだ。
そのころアフリカにはすでに、
活気ある王国が成立していたのだ。

20万人もの兵を動員でき、
税と官僚組織も備えていたガーナ王国。

 

【マリ王国】

 アラブ人歴史家の
イブン・ハルドゥーンが残した記録によると、
13世紀ごろから現在のトンブクトゥを中心に
マリ王国が形成され、
14世紀初期、マンサ・ムーサ国王のときに
最盛期を迎えた。

マリ王国の繁栄は
ガーナ王国をはるかにしのぐものだった。

1324年、ムーサ王はメッカに巡礼する。

王の大行列は、往路、
エジプトのカイロを通過した。
その際、
行列を見物する人々に大量の金の粒をばらまく
そのためカイロの金相場が下落して大騒ぎになった。

 この事件で、
マリの繁栄は西欧にも知られることになり、
西欧の世界地図にマリが描かれるようになった。

文化人類学者の川田順道民は、
このときムーサ王が携行した金は
13トンに及ぶと推定する 
(山川出版社『黒人アフリカの歴史世界』)。

単純に今のレートで換算すると
13トンの金は500億円をはるかに超す。
金13トンを持って旅したマリの王様!

トンブクトゥには、
2つの大学、
180のコーラン学校があり、
学生の数だけでも2万人を数えたと言う。
キャラバンサライ(隊商宿)が軒の連ね、
職人や商人が町にあふれていた。

【マリ王国の規律と治安】

当時、世界的に有名だった
アラブ人紀行家イブン・バトゥータは
1353年、マリ王国を訪れて半年も滞在した。

その体験を、
後にイブン・ジュザイイに口述筆記させた
『旅行記』でこう述べている。

「マリの王は規律正しく国を治めている。
 王国の黒人たちの資質はすぐれており、
 彼らは他のどの民族よりも不正を憎んでいる

 王はどんな小さな悪に対しても厳しい。
 旅行者も居住者も、
 泥棒や暴漢の心配をする必要はなく、
 治安の問題はまったくない

「マリの国内で外国人が死んだとき、
 その財産がいかに莫大であろうと、
 没収されるようなことはない」 
(山川出版社『アフリカ現代史Ⅳ』)。

 日本の南北朝時代、足利尊氏のころだ。
そのころ世界に覇を唱えていた
イスラム社会の紀行家が感心するほど、
整備され、安定した王国がアフリカにできていた

「他のどの民族よりも不正を憎んでいる」
「治安の問題はまったくない」

講師の松本さんは、
「国家と治安」の関係を、
このあとも何度も何度も強調する。

国家に要求される最大の使命は、
治安を守ることだ、と。
民主的な政治システムなどというのは、
そのあとの課題だ、と。

 

【東アフリカには】

一方の東アフリカ。
19世紀、インド洋岸から
奥地に探検に入った西欧の探検家たちは、
海岸から約800キロ内陸に、
石造りの遺構を見つけた。

探検家たちはずいぶん面食らったようだ。

黒人は泥と草の家しかつくれない、
黒人に石造りの建物は作れないと
思いこんでいたからだ。

そのうち一人は、大真面目に報告した。
「われわれはついに
 シバの女王の都を発見した」

旧約聖書に登場するあのシバの女王??

【ジンバブエ遺跡:モノモタパ王国】

 それがジンバブエ遺跡だ。
ジンバブエの首都ハラレから南へ約300キロ、
第二の都市マシンゴ郊外の山の中にある。

遺跡は丘と谷の起伏を利用して、
1キロ半四方に広がっている。

 建築の素材は、
レンガ大に切りだした花崗岩だ。

何百万個という石を丹念に積み上げ、
見上げるほどの高さのある石壁を
つくりあげている。

石積みには、
アラブやインドの遺跡で見られるモルタル、
粘土といった接合剤をいっさい使っていない

同じ大きさの石を積み上げただけで、
高い尖塔やカーブした壁がつくられている。
「エンクロージャー」(大囲壁)と呼ばれる建築物は
王の宮殿跡とされる。
長円形で東西約100メートル、南北で70メートル。

その石壁の中にまた石壁の囲みがあり、
間を迷路のような通が走っている。
その道はすべて石の舗装だ

建物と建物をつなぐ回廊もすべて石造りだ。

この石都市モノモタパ王国の隆盛は
9世紀から19世紀まで、1000年にわたって続いた。

石造りの技術だけでなく、
もちろん財源も確保していたようだ。

【金を目方も量らずに・・・】

モノモタパの民はインド洋岸の港町に現れ、
アラブ人商人に
「金を目方も量らずに与え、
 代わりに色つきの布を得て帰って行った」という。

その金の鉱脈はどこにあったのか、
今ではまったく分からない。

 

ガーナ、マリ、モノモタパ、
どの王国も、
治安の維持された安定した国家だった。

それがどうして、
現在の混乱したアフリカの国々に
繋がっていくことになるのか。

長くなってきたので続きは次回にしたいが、
一節のみ、予告の文章を。

1497年、
ポルトガルの航海者バスコ・ダ・ガマは
インド航路開発のため
二隻の艦隊でリスボンを出発し、
喜望峰を回ってインド洋に出た。

アフリカ東海岸で最初に寄った港は、
今のモザンビークのソファラだと見られている。

 

アフリカの歴史に登場する西欧列強。
かれらがアフリカに対して何をしたのか、
今のアフリカの問題点の原点はそこにある。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

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