映画・テレビ

2023年3月12日 (日)

目に見えるものだけが多様性ではない

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目に見えるものだけが多様性ではない

- 生物の3つのグループ -

 

以前録音したNHKラジオの番組

 カルチャーラジオ
「過去と未来を知る進化生物学」(4)
「生物とは何か(3)
 ミドリムシは動物か植物か」
 古生物学者・更科功
        2022年1月28日放送

を聞いていたら、「多様性」について
たいへん興味深い話ができてきたので、
今日はその部分を記録として
残しておきたい。

更科さんのお話はたいへんわかりやすく、
耳からの情報だけでも全くストレスがない。

 

今回は「アーキア」と呼ばれる
生物のグループについて。

現在の生物学では
生物は次の3つのグループに
分けられるらしい。

(1)細菌(英語でバクテリア)
(2)アーキア
(3)真核生物


(1)の例は大腸菌、乳酸菌など。
(2)の例はメタン菌、高度好塩菌など。
(3)の例は哺乳類、植物、きのこなど。

目に見える、つまり肉眼で確認できる生物は
ほとんどが(3)の真核生物のグループに
分類される。

(2)のアーキアは、
以前は細菌のグループだったが、
米国の生物学者カール・ウーズが
塩基配列を調べた結果
別グループを提唱。
1977年以降は細菌とは別のグループに
分けられている。

さて、アーキアが提唱されたころ
エルンスト・マイヤーという学者は
「アーキアを認めない」と主張した。

マイヤーが指摘したのは次の2点。
「多様性」と「種の数」

「多様性」
 真核生物:多様性が実に豊か。
      飛んだり泳いだり、歩いたり、
      光合成をしたり、
      単細胞も多細胞もある。
 アーキア:多様性がほとんど見られない。
      形はだいたい丸いか細長いか。
      大きさもだいたい 
      1マイクロメートル程度。

「種の数」
 真核生物:学名のあるものだけでも
      200万種。
 細菌  :8000-9000種
 アーキア:たった200種のみ。

種の数だけを見ても、200万種と200種を
対等のグループとして扱うことに
抵抗があることは自然な気もする。

それに対して、更科さんは、
こう投げかけている。

「見た目が似ていれば、
 種の数が少なければ
 多様性がないと
 言っていいのだろうか」


生物が生きて行くのに必要な
有機物を作る方法を見てみたい。

我々動物は
植物や他の動物を食べることによって
有機物を取り込み体を作っている。
根本となる有機物を生物が作るには、
次の2つの方法がある。

生物が有機物を作る方法
A 光合成 :太陽の光のエネルギー
       を使って有機物を作る。
B 化学合成:物質を分解して
       分子のエネルギーを使って
       有機物を作る。
       光のない深海などでは
       化学合成

Aの光合成には
よく知られた植物の光合成のように
「酸素発生型」もあるが、
「非酸素発生型」(PS1, PS2, その他)
もある。

おもしろいのは
真核生物が有機物を作る方法は
「酸素発生型の光合成のみ」

なのに、細菌やアーキアには
「酸素発生型」「非酸素発生型」の光合成も
化学合成もある。

つまり、
真核生物は「基本的な特徴は共通で
その範囲の中でいろいろな種類がいる」

一方
細菌やアーキアには、
「根本的な違いのあるもの」

が含まれている。

さぁ、どちらが多様なのだろう。

種の数についても、
上に書いた通り、細菌やアーキアは
目に見えないほど小さい。
しかも形が似ているため、
培養したりDNAを調べたりしないと
新種の発見には至らない。

つまり、もともと「ない」わけではなく
発見が難しいがゆえに現時点では
数が少ない可能性も高いのだ。

多様性というのは
目に見えるものだけではないのですね。

目に見えないところにも、
たとえば有機物の作り方とかにも
根本的な多様性がある。

それを考えれば、
アーキアには多様性もあるし
種数も多い可能性が高い。
 
ですから
細菌、アーキア、真核生物という
3つのグループを作ること、
細菌、アーキア、真核生物を
対等に並べることは
適切であると考えられます。

 

 

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2023年2月12日 (日)

平野啓一郎さんの言葉

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平野啓一郎さんの言葉

- 小説の映画化について -

 

録画したTV番組を見ていたら
印象的な言葉に出会ったので
今日はそれを残しておきたい。

番組は、毎週3人のゲストが
司会を介さずにトークを展開する
「ボクらの時代」

「ボクらの時代」フジテレビ
2022年11月6日放送
平野啓一郎:妻夫木聡:窪田正孝

(以下水色部は放送からの文字起こし)

「映画の原作者」としての思いを
妻夫木さんが平野さんに質問する。

原作のものが映像化するということは
多々あると思うンですよ。

平野さんの立場から見て、
自分が生み出した
子どもみたいなものが
映像化する
っていうのは
どういう思いがあるンですか?

このあたり原作者によって
きっと感じていることは様々だろう。

僕はね、やっぱり同時代の
映画とか音楽とか
いろいろなジャンルのものから
影響を受けているンですけど、

自分の小説もそれと同じように
同時代のミュージシャンとか
映画監督とか
ものを作っている人が
僕の作品に反応してくれるってことは
やっぱりすごく嬉しいンですよね


だから
監督さんとかキャスティングとか
いろんなことには
口出しをしないことに
してるンですよね

映像化にあたっては、基本的に
「口出しをしない」タイプのようだ。

クリエイターに任せる。
そこには次のような思いが
ベースにあるようだ。

平野さん自身の声で聞いてみたい。

映画は
映画の作る人たちの作品なんで

僕はこうだと思って
映画もその通りなってたら
原作者としては
満足かもしれないけれど


ちょっとやっぱりなんか
映画としてはそれはうまくいってない
ってことなんじゃないかな、
って気もするンですよね。

関わった人たちの
クリエイティブなものが
反映される余地が
あんまりないってことなんで。

「原作者としては満足かもしれないけれど、
 映画としてはうまくいっていないのでは」
こう言える原作者って
どのくらいいるのだろう?

映画による新たな表現を、
クリエイターを信じて期待している原作者、
それは、映画を観る側にも要求される
ひとつの価値観だ。

クリエイティブなものに接するとき
ちょっと思い返したい言葉だ。

 

 

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2023年2月 5日 (日)

「大好きだよ」で名前を間違えると・・・

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「大好きだよ」で名前を間違えると・・・

- 一夫一妻が人類になった? -

 

以前録音したNHKラジオの番組

 カルチャーラジオ
「過去と未来を知る進化生物学」(12)
「人類の進化(3)牙のない平和な生物」
 古生物学者・更科功
        2022年3月25日放送

から、「人類に牙(きば)がない」ことの
理由について学ぶ2回目。

前回紹介した
新しい説を簡単に復習してから始めよう。

(b) 新しい説
チンパンジーは植物食なのに牙がある。
肉食獣のように
獲物を襲うための牙ではない。

チンパンジーは同種同士で殺し合いをする。
メスを巡るオスの戦いが多い。

人類は、
牙を使わなくなったから小さくなった。
つまり「仲間を殺さなくなった」のだ。

どうして殺さなくなったのか?
なぜ穏やかになったのか?

ライオンや狼の牙は獲物を捕まえるため。
チンパンジーの牙はオス同士で争うため。

仲間同士の争いが激しいかどうかは
婚姻形態が影響している


一夫多妻(たとえばゾウアザラシ)、
多夫多妻の婚姻形態の動物は
オス同士の争いが
激しくなることが知られている。

一夫一妻の場合オス同士の争いが
おだやかになることが
多くの動物の観察からわかっている。

類人猿についてみると、
(はっきりとは決まっていないが)
ゴリラは一夫一妻、
チンパンジーは多夫多妻、
が多い。

現在の人類は一夫一妻が多い。

一夫一妻の傾向を持つグループが
人類になっていったのではないか、
と考えられている


その結果、牙がなくなっていった。

えっ!、順番はそっち?
婚姻形態って単なる制度の問題であって
本質的なものではないでしょ?

驚きながら聞いていたら、
そんな疑問に対して、
こんな例を添えてくれていた。
エピソードとしてはよく聞く話だが、
まさに先入観を捨てて考えてみてほしい。

若い男女の会話。
男「愛しているのはこれから先も
  ずっと君だけだよ」
女「うれしい」
男「大好きだよ、みか子」

女「みか子ってだれ!!」

男は女の名前を間違えた。
でも間違えたのはそれだけ。
なのに、なぜ女は怒るのか。
そして、
怒る女に読者はなぜ共感できるのか?

更科さんは、
もし言葉が理解できたとしても
チンパンジーなら女の怒る理由が
理解できないはずだ、と言っている。

「怒る理由が理解できる」
それは「本質的な」一夫一妻の血が
人類には流れているからかもしれない

にしても、そのことと
牙が関連しているなんて。

世界は不思議と驚きに溢れている。

 

 

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2023年1月29日 (日)

牙(きば)は生物最強の武器

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牙(きば)は生物最強の武器

- 刑事ドラマではなぜ凶器を探すのか? -

 

以前録音したNHKラジオの番組

 カルチャーラジオ
「過去と未来を知る進化生物学」(12)
「人類の進化(3)牙のない平和な生物」
 古生物学者・更科功
        2022年3月25日放送

を聞いていたら、
「人類に牙(きば)がない」ことの説明が
たいへんおもしろかったので、
今日はその部分について紹介したい。

 

人類と類人猿(ゴリラやチンパンジーなど)を
分けている特徴はニ点。
人類は、
(1) 直立二足歩行をする。
(2) 牙(きば)がない(犬歯が小さい)。

この大きな特徴のひとつ、
「牙」が衰えたのは
どうしてなのだろうか?

これには古い説と新しい説がある。
古い説は、学術的にはすでに
否定されているものだが、
本や映画の影響で、社会的に広く
認知されるようになった説ゆえ、
更科さんはそれについても
丁寧に紹介してくれている。

(a) 古い説
レイモンド・ダートという
人類学者の発言から始まる。
ダートは、アウストラロピテクスの化石を
発見したことで知られている。

彼は、ヒヒやアウストラロピテクスの
頭の骨が凹んでいるのを見つけた。

それは、アウストラロピテクスが
(武器として)骨で殴ったからだろう、と
考えた。

が、一学者のこの考えは、
簡単には社会に広まらなかった。

その後、このダートの説に基づいて、
劇作家ロバート・アードレイが本を書く。
書名は
アフリカ創世記 - 殺戮と闘争の人類史
1962年に出版。

牙がない人類は、
獲物を取るための武器を
仲間への攻撃にも使うようになった。
武器を持たなければ草原で
生き延びることができなかったのだ、
とアードレイは書いた。

「アフリカ創世記」はベストセラーとなり、
映画「2001年宇宙への旅」の冒頭でも
この説が利用されたため
社会的に広く認知されるようになる。

ところが、レイモンド・ダートの説は
事実としては間違っていた。

その後の調査で、頭の骨が凹んでいたのは
* ヒョウの歯型
* 洞窟が崩れたから
であることがわかってきたのだ。
さらに
アウストラロピテクスは植物食で
狩りをする必要がなかったことも判明。

よって学会では
ダートの説は完全に否定された
ところが社会には
この否定情報は広まらなかった。
なので、
武器を使うようになった人類は
残酷な生物、の印象がそのまま残った。

いずれにせよ、牙の衰えに伴って
獲物だけでなく仲間に対してさえ
武器を使うようになったので
牙の必要性がさらに落ちてきた、
というのが古い説の要のようだ。

(b) 新しい説
チンパンジーには牙がある
チンパンジーは植物食なので、
肉食獣のように
獲物を襲うための牙ではない。

チンパンジーは同種同士で殺し合いをする。
メスを巡るオスの戦いが多い。
(少ない見積もりでも
 1割のチンパンジーが
 仲間の殺害に関与している)

トラに会っても、サメに会っても
怖いのは「噛まれる」こと。
牙は生物最強の武器なのだ。
牙がないとなかなか他の動物を殺せない。

殺人事件があると警察は凶器を探す。
なぜ凶器を探すのか?

人間は凶器がないと
なかなか人を殺せない。

牙を使わなくなったから小さくなった、
とは、つまり
「仲間を殺さなくなった」のだ。

では、どうして殺さなくなったのだろう?
この話、次回に続けたい。

それにしても、
* 牙は生物最強の武器
* 殺人というと反射的に
  「凶器の捜索」を
  思い浮かべてしまうのは
  「人間は凶器がないと
   人を殺せない生き物」だから
という言葉を、古生物学者の話から
改めて考えてみるようになるなんて。

学ぶことはおもしろい。

 

 

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2022年11月20日 (日)

柴咲コウさんの言葉

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柴咲コウさんの言葉

- 真の豊かさとはなんぞや -

 

録画したTV番組を見ていたら
いい言葉に出会ったので
今日はそれを残しておきたい。

番組は、毎週3人のゲストが
司会を介さずにトークを展開する
「ボクらの時代」

「ボクらの時代」フジテレビ
2022年9月11日放送
柴咲コウ:福山雅治:北村一輝

(以下水色部は放送からの文字起こし)

柴咲さんは、俳優業を続けながら
東京と北海道での2拠点生活を
続けているらしい。

北海道に家を構えた理由を聞かれて
柴咲さんは以下のように答えている。

真の豊かさとはなんぞや、
となったときに
やっぱりなんかその
もともとあるものだったりとか、

自分では作りだせないものが、
自然だったりとか 
そういう
木々、森だったりとか 
ほかの動植物たちだったりで、

それを感じられる機会が少ない人生って
豊かなのかな
、って思って

できることならやっぱりそういうのに
触れられる時間を持ちたいし
それが自分の豊かさに繋がるな、
と思ったンで・・・

「もともとあるもの」
「自分では作り出せないもの」
そういうものを感じられる人生。

表現が実にいい。

都会での暮らしは、たしかに
「もともとはないもの」と
「人間が作り出したもの」ばかりに
囲まれている。

 

自分がやること全部、
なんかしら役に立って循環すればいいな
みたいな、
ただ自分の満足度だけで
終える人生じゃなくて

それが巡り巡ればいいなぁ、
みたいな感じ。

自らの事業やアクションについても
一方的な流れではなく
「自分の満足度だけで
 終える人生じゃなくて」
と「循環」の中で考えようとしているのも
自然を愛すればこその言葉として
素敵だ。

 

 

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2021年10月24日 (日)

総計133巻142冊の大全集

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総計133巻142冊の大全集

- 100年を越えて蘇る「研究ノート」 -

 

前回、ベストセラーとなっている

 斎藤幸平 (著)
 人新世の資本論
 集英社新書

(以下水色部、本からの引用)

について、

 この本のことを
 ブログで取り上げたいと思ったのは、
 未来社会への提案の
 中身そのものではなく
 本の中で何度も説明されていた
 マルクス研究の背景が
 たいへん興味深かったからだ。

と書いた。

今日はその部分に絞って紹介したい。

 

この本、
「ここからが、いよいよ本題である」
が本のちょうど真ん中あたり
(370ページ超の本の179ページ目)
にまで来てようやく登場するのだが、
そもそも私には
資本主義の見方についての基礎知識が
ほとんど何もなかったので、
途中いくつもの?が浮かぶものの
本題の前提となる話自体も
おおいに楽しむことができた。

世間一般でマルクス主義といえば、
ソ連や中国の共産党による
一党独裁と
あらゆる生産手段の国有化
というイメージが強い。

そのため、時代遅れで、
かつ危険なものだ
と感じる読者も
多いだろう。

実際、日本では、ソ連崩壊の結果、
マルクス主義は大きく停滞している。
今では左派であっても、
マルクスを表立って擁護し、
その知恵を便おうとする人は
極めて少ない

なのになぜ、今、

マルクスならば、
「人新世」の環境危機を
どのように分析するのかを
明らかに

しようとするのだろう。
というか、
なぜそんなことが可能なのだろう。

実は、近年MEGA(メガ)と呼ばれる
新しい『マルクス・エンゲルス全集』
(Marx-Engels-Gesamtausgabe)
の刊行が進んでいるのだ。

日本人の私も含め、
世界各国の研究者たちが参加する、
国際的全集プロジェクトである。

規模も桁違いで、最終的には100巻を
超えることになる。

今年(2021年)の1月に放送された
NHK Eテレ「100分de名著」の
「資本論」の回で著者の斎藤さんは、
「すでに120冊」が刊行されていると
言っていた。

このMEGA(メガ)、
いったいどんな全集なのだろう。

はじめて公開されることになる
新資料も含めて、
マルクスとエンゲルスが
書き残したものは
どんなものでも網羅して、
すべてを出版する
ことを
目指しているのがMEGAなのだ。

私は全く知らなかったのだが、
Wikipediaには
「1975年から刊行がはじまり(中略)
 総計133巻142冊の構成が確定した」
とまである。
しかも
「すべての著作には、
 著者であることの証明や日付の証拠、
 継承された手稿と
 正当性を認められた印刷物の
 正確な記述をふくむ成立と
 継承の歴史が表されている」
と内容の厳密さも確保されているようだ。

なかでも
とりわけ注目すべき新資料が、
マルクスの「研究ノート」である。

マルクスは研究に取り組む際、
ノートに徹底した抜き書きをする
習慣をもっていた。

亡命生活でお金もなかったため、
ロンドンの大英博物館で、
毎日、本を借りては、閲覧室で
抜き書きを作成したのである。

『資本論』の研究は
これまでももちろん精緻になされてきたが、
『資本論』においてさえ、
マルクスは自身の最終的な認識を
十分に展開できていなかったようだ。

というのは、『資本論』第一巻は
本人の筆によって完成し、
1967年に刊行されたものの、
第二巻、第三巻の原稿執筆は
未完で終わってしまった
からだ。

現在読まれている
『資本論』の第二巻、第三巻は、
盟友エンゲルスが
マルクスの没後に遺稿を編集
し、
出版したものにすぎない。
そのため、
マルクスとエンゲルスの
見解の相違から、編集過程で、
晩年のマルクスの考えていたことが
歪められ、見えにくくなっている箇所も
少なくない。

なぜなら、
マルクスの資本主義批判は、
第一巻刊行後の1968年以降に、
続巻を完成させようとする苦闘のなかで、
さらに深まっていったからである。

いや、それどころか、
理論的な大転換を遂げていったのである。

つまり、著作にならなかった研究が
大量の「研究ノート」から
読み解ける
というわけだ。

そういった研究ノートをも含む
大全集の規模をもう一度書いておきたい。
完成すれば総計133巻142冊!

斎藤さんのこの著書も
そういった新資料から見えてきた
これまでにはなかったマルクス像を
提示してきている。

 

著作だけでなく「研究ノート」までもが
死後100年を越えてなお
世界中の多くの学者によって
研究され続けているという現実、
しかも、読み解くと
そこには現代にも通じる数々の
有益な示唆が含まれているという現実、
マルクスという人物の偉大さには
驚かされるばかりだ。

一方で、考えてしまうのは
現代の「研究ノート」だ。
「研究ノート」はPCの中、
つまり電子ファイルで、という学者も
今は多いのではないだろうか。

マルクスに限らず、
著作や論文にならない研究内容や
思い悩む思考の過程が、
そこにはあるはずだ。

マルクスの研究ノートは
紙で残っていたからこそ
100年後も読むことができた。

電子ファイルはどんな媒体で、
どんなフォーマットで残るにせよ、
100年後も読むことができるだろうか?

 

 

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2021年10月17日 (日)

SDGsは現代版「大衆のアヘン」か

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SDGsは現代版「大衆のアヘン」か

- 目を背けても危機はなくならない -

 

そもそも経済学というものに
あまり興味がないせいか
マルクスのことも、資本論のことも
共産党宣言のことも、これまで
ほとんど何も知らなかった。

ところが、
今年(2021年)の1月に放送された
NHK Eテレ「100分de名著」の
「資本論」の回を見て以来、
資本論そのものは読みこなせなくても、
関連書籍は読んでみたいものだ、
と思うようになった。

というわけで手にしたのが、
番組での講師もつとめていた
斎藤幸平さんの著書

 斎藤幸平 (著)
 人新世の資本論
 集英社新書

(以下水色部、本からの引用)

新書大賞2021を受賞したことも
関係するのか、今(2021年10月)でも
本屋で平積みになっていることを
よく目にするベストセラーだ。

 

かつて、マルクスは、
資本主義の辛(つら)い現実が
引き起こす苦悩を和らげる「宗教」を
「大衆のアヘン」だと批判した。

SDGsはまさに
現代版「大衆のアヘン」
である。

と、「SDGsと言っておけばいい」の
昨今の風潮に対して、かなり挑発的な
「はじめに」で始まっているが、

アヘンに逃げ込むことなく、
直視しなくてはならない現実
は、
私たち人間が地球のあり方を
取り返しのつかないほど
大きく変えてしまっている
ということだ。

と、対処療法的流行に流されることなく
「直視する現実」を
そして未来社会への提言を
マルクス研究者の立場から
わかりやすくまとめてくれている。

そもそも題名にも使われている
聞き慣れない「人新世」とはなんだろう?

人類の経済活動が地球に与えた影響が
あまりに大きいため、
ノーベル化学賞受賞者の
パウル・クルッツェンは、
地質学的に見て、
地球は新たな年代に突入したと言い、
それを「人新世(ひとしんせい)
(Anthropocene)と名付けた。

人間たちの活動の痕跡が、
地球の表面を覆いつくした年代

という意味である。

繁栄をめざしていた「人間たちの活動」は
皮肉なことに
自らの繁栄の基盤自体を揺るがしつつある。

そこでは

SDGsは
アリバイ作りのようなものであり、
目下の危機から
目を背けさせる効果しかない

格差が広がり、自然が破壊され、
「モノは豊かにある。でも金がなければ
 何も手に入らない」の現代社会は
このままでいいのか?
豊かな未来社会に向けて、
何をしていくべきなのか?
そもそもめざすべき「豊かさ」とは何か?

後半、斎藤さんの提案も
具体的に述べられていくが、
その内容については
ご興味があるようであれば
ぜひ本を手にとって読んでいただきたい。

私ごときが簡単にブログで
まとめられるような内容ではないので。

実は、この本のことを
ブログで取り上げたいと思ったのは、
本筋というか
「提案の中身」そのものではなく
そこで何度も説明されていた
マルクス研究の背景が
たいへん興味深かったからだ。
次回、その部分に絞って紹介したい。

 

 

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2021年9月19日 (日)

三浦綾子「続 氷点」からの一文

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三浦綾子「続 氷点」からの一文

- 残るのは「与えたもの」 -

 

朝日新聞の夕刊(2021年8月4日)
「時代の栞」というページで
1965年に刊行された
三浦綾子さんの小説「氷点」
のことが取り上げられていた。
(以下緑色部、記事からの引用)

A210804ekyouten

1963年元日、朝日新聞の一面に
「新聞小説募集 入選作に一千万円」
という見出しが躍った。
・・・
大学卒の国家公務員の初任給が
1万7千円前後だった時代の話だ。

すごい賞金を用意したものだ。
2021年の大卒国家公務員の初任給は
23万円強だから、
今なら「賞金 1億3千万円」
ということになる。

当選後、1964年12月に新聞で連載開始。
小説は大ヒット。
原作をもとに制作されたTVドラマは
関東でのテレビ占拠率が66.6%に
のぼったという。

1970年「続 氷点」連載開始。

57年も前のことゆえ、
さすがにリアルタイムで
連載小説を読んだわけではないが
のちに本で読んだ小説は
強く印象に残っている。

そのあらすじや宗教的な背景について
本ブログで触れるつもりはないが、
この小説に関しては、
どうしても紹介したい言葉があるので
今日はその部分のみ
ピックアップしておきたい。

言葉は「続 氷点」から。

三浦綾子 (著)
 続 氷点
角川文庫
(以下水色部、本からの引用)

紹介したいのは次の一文。

一生を終えてのちに残るのは、
われわれが集めたものではなくて、
われわれが与えたものである

なんとも深い言葉ではないか。

ついつい集めてしまいがちだ。
所有しようとしてしまいがちだ。
でも、集めたものは
その時、本人にとって価値はあっても
最終的にはどこにも残らない。

一方で、与えたものはどうだろう。
それはもちろん金品に限らない。
与えたものは、
形を変えながらも
いろいろな形で残り続ける。

以前、本ブログ、
バーンスタインの指揮
と題した記事の中で
 If you love something, give it away.
「何かを愛しているなら
 それを与えること
という言葉も紹介した。

「与える」ことで
生涯を越えて永く残り続ける。

だからこそ、愛しているものほど
「与える」ことに意味があるのだ。

何度でも振り返りたい言葉のひとつだ。

 

 

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2019年11月 3日 (日)

徐々に、毎年ひとつずつ

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徐々に、毎年ひとつずつ

- 八千草薫さんの言葉 -

 

2019年10月24日、
八千草薫さんが88歳で亡くなった。

語り継がれるテレビドラマ
「岸辺のアルバム」をはじめ
忘れられない出演作品は多々あるが、
訃報を聞いて最初に思い出したのは
この1ページの小さな記事だった。

週刊誌 週刊朝日 2012年4月6日号。
(以下水色部は記事からの引用)

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「明日に架ける愛」という映画
公開直前のインタービューだが、
この時点ですでに81歳。

今回は、中国残留孤児という
重い過去を背負った役柄だが、
八千草さんが演じると、
独特の軽快さやユーモア、
可愛らしさが加わる

まさにそう。

訃報のあと、八千草さんについては、
「柔らかさに秘めた芯」
「ずっと初々しくて花のよう」
といった言葉と共に
追悼文が寄せられたりしているが、
個人的にはこのユーモア、
「オチャメ」なところが
ほんとうに魅力的だったと思う。

それでいて、

「できあがったものを観ても、
『ああ、もうちょっとできたのにな』
っていつも思うんです。

"後悔"なんて言ったら
監督に対して失礼だから、
"反省"ですかね。

いつまでも、
『私はまだまだだわ』って(笑い)」

と向上心を失うことなく
仕事を続けていたことが、
人を惹きつけ続けていたのだろう。

そしてこの、たった1ページの記事が
忘れられなかったのは
最後の言葉が印象的だったから。

「人間って、いっぺんに
 年を取るわけじゃないでしょ?
 徐々に、毎年ひとつずつ。
 それがいいな、と思います

毎年ひとつずつ。

効率や結果ばかりに
焦点があたりがちな昨今、
資質や努力や経験などと一切関係なく
まさに全員、平等に
かつ、ひとつずつ。

どんな力をもってしても
遅くすることも、
はやくすることも、
一度にふたつ重ねることもできない。

毎年ひとつずつ。

「それがいいな」

を心から感じさせてくれる
そんな女優さんだった。

ご冥福をお祈りします。

 

 

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2019年2月10日 (日)

勝手にシンドバッド

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勝手にシンドバッド

- 『今何時?』の意味 -

 

もう2月も半ばになってしまったけれど、
今日は紅白歌合戦について少し書きたい。
(歌手名は敬称略で失礼します)

昨年の大晦日は
いろいろな条件が重なったこともあって、
ウン十年ぶりに
NHK紅白歌合戦を最初から最後まで観た。

世代や性別ごちゃまぜで
複数の人がテレビの前に集まって
あれやこれや
好き勝手なことを言いながら観る、
というのが、やはりあの番組の
一番の楽しみ方なんだなぁ、を
改めて再認識した夜だった。

最後、
「勝手にシンドバッド」で
桑田佳祐やユーミンが
北島三郎までを巻き込んで
大暴れしたのは、
昭和世代の私にとっては
おおいにお祭り気分に浸れた瞬間だったが、
考えてみると(好き嫌いはともかく)

 浜崎あゆみ  も
 安室奈美恵  も
 倖田來未   も
 Kinkikids   も
 SMAP      も
 モーニング娘。も

そこにはいなかった。

椎名林檎も米津玄師もよかったが、
平成最後の大晦日に
盛り上がって目立っていたのは
昭和の歌手ばかりだったのは、
なんとも感慨深い。

さて、
「勝手にシンドバッド」で
まさに勝手に思い出したものが
いくつかあるので、
今日はそれを紹介したい。

 

(AA) ドラマ
  「歌謡曲の王様伝説  阿久悠を殺す」

一色伸幸さん脚本の
「歌謡曲の王様伝説  阿久悠を殺す」
という刺激的なタイトルのドラマのことは
ここに少し書いた。
ドラマの中にこんなセリフがある。

青年:
  『勝手にしやがれ』と
  『渚のシンドバッド』、
  阿久悠の代表作だ。

  ふたつまとめて蹴飛ばしてる。
  『勝手にシンドバッド』!

 

なぜか忘れられないセリフのひとつだ。
リンク先にある通り
オリコンチャートの1位獲得曲
108曲目と109曲目には
沢田研二の『勝手にしやがれ』
ピンク・レディーの『渚のシンドバッド』
並んでいる。

 

 

 

(BB) 嘉門達夫「勝手にシンドバッド」
替え唄の名作が多い嘉門達夫にあって、
その中でもピカイチだと思っているのだが、
残念ながらこの曲の知名度は低いようだ。

カラオケにも
「替え唄メドレー」などは必ずあるのに、
この曲はないことが多い。

♪今何時? そうねだいたいね

♪今何時? 僧はボンサンね
と歌っているのを聞いて
思わず引き込まれてしまった。

♪胸さわぎの腰つき

♪このお鍋はフタつき

♪部屋探しの風呂つき
と歌うセンス。

1990年、シングルとして発表されたあと

アルバム
(1) リゾート計画
(2) THE BEST OF KAMON TATSUO

 

(3) ゴールデン☆ベスト
  ~BEST OF 替え唄&ヒットソングス
   1989-1996 ~
(4) 嘉門達夫BOX 
  怒濤のビクター・シングルス

にも収録されている。

ちょっとだけ聞いてみよう。

♪胸さわぎの腰つき
♪バカ騒ぎのモチつき
♪部屋探しのフロつき

 

(CC) 『今何時?』の意味
ツイッターのTL(タイムライン)には、
この曲を「初めて聞いた」という若い方の
「なんで何度も『今何時?』って聞くの?」
「時計がないってこと?」
なる疑問が流れていた。

それに対して、実にスマートに
解説しているつぶやきがあった。

リツイートの繰り返しゆえ
出処がわからないのだが、
内容に敬意を表して
ここに記載させていただきたい。

「今何時?」は
デート中に女性が男性に
問いかける言葉で、

 [1] 門限なので帰る。
 [2] 退屈ですよ。
 [3] 何で誘わないの?

の3つの意味があります。

男性側は、
 ♪だいたいね
 ♪ちょっと待ってて
 ♪まだ早い
などと返事をしながら
どの意味なのか探っている、
というわけか。

うまいことを言うものだ。

 

40年経っても古さを感じさせない名曲は
喚起させるものも多い。

 

 

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