映画・テレビ

2019年2月10日 (日)

勝手にシンドバッド

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勝手にシンドバッド

- 『今何時?』の意味 -

 

もう2月も半ばになってしまったけれど、
今日は紅白歌合戦について少し書きたい。
(歌手名は敬称略で失礼します)

昨年の大晦日は
いろいろな条件が重なったこともあって、
ウン十年ぶりに
NHK紅白歌合戦を最初から最後まで観た。

世代や性別ごちゃまぜで
複数の人がテレビの前に集まって
あれやこれや
好き勝手なことを言いながら観る、
というのが、やはりあの番組の
一番の楽しみ方なんだなぁ、を
改めて再認識した夜だった。

最後、
「勝手にシンドバッド」で
桑田佳祐やユーミンが
北島三郎までを巻き込んで
大暴れしたのは、
昭和世代の私にとっては
おおいにお祭り気分に浸れた瞬間だったが、
考えてみると(好き嫌いはともかく)

 浜崎あゆみ  も
 安室奈美恵  も
 倖田來未   も
 Kinkikids   も
 SMAP      も
 モーニング娘。も

そこにはいなかった。

椎名林檎も米津玄師もよかったが、
平成最後の大晦日に
盛り上がって目立っていたのは
昭和の歌手ばかりだったのは、
なんとも感慨深い。

さて、
「勝手にシンドバッド」で
まさに勝手に思い出したものが
いくつかあるので、
今日はそれを紹介したい。

 

(AA) ドラマ
  「歌謡曲の王様伝説  阿久悠を殺す」

一色伸幸さん脚本の
「歌謡曲の王様伝説  阿久悠を殺す」
という刺激的なタイトルのドラマのことは
ここに少し書いた。
ドラマの中にこんなセリフがある。

青年:
  『勝手にしやがれ』と
  『渚のシンドバッド』、
  阿久悠の代表作だ。

  ふたつまとめて蹴飛ばしてる。
  『勝手にシンドバッド』!

なぜか忘れられないセリフのひとつだ。
リンク先にある通り
オリコンチャートの1位獲得曲
108曲目と109曲目には
沢田研二の『勝手にしやがれ』
ピンク・レディーの『渚のシンドバッド』
並んでいる。

 

(BB) 嘉門達夫「勝手にシンドバッド」
替え唄の名作が多い嘉門達夫にあって、
その中でもピカイチだと思っているのだが、
残念ながらこの曲の知名度は低いようだ。

カラオケにも
「替え唄メドレー」などは必ずあるのに、
この曲はないことが多い。

♪今何時? そうね ダイアン・レイン

♪今何時? 僧はボンサンね
と歌っているのを聞いて
思わず引き込まれてしまった。

♪胸さわぎの腰つき

♪このお鍋はフタつき

♪部屋探しの風呂つき
と歌うセンス。

1990年、シングルとして発表されたあと

アルバム
(1) リゾート計画
(2) THE BEST OF KAMON TATSUO


(3) ゴールデン☆ベスト
  ~BEST OF 替え唄&ヒットソングス
   1989-1996 ~
(4) 嘉門達夫BOX 
  怒濤のビクター・シングルス

にも収録されている。

ちょっとだけ聞いてみよう。

♪胸さわぎの腰つき
♪バカ騒ぎのモチつき
♪部屋探しのフロつき

 

(CC) 『今何時?』の意味
ツイッターのTL(タイムライン)には、
この曲を「初めて聞いた」という若い方の
「なんで何度も『今何時?』って聞くの?」
「時計がないってこと?」
なる疑問が流れていた。

それに対して、実にスマートに
解説しているつぶやきがあった。

リツイートの繰り返しゆえ
出処がわからないのだが、
内容に敬意を表して
ここに記載させていただきたい。

「今何時?」は
デート中に女性が男性に
問いかける言葉で、

 [1] 門限なので帰る。
 [2] 退屈ですよ。
 [3] 何で誘わないの?

の3つの意味があります。

男性側は、
 ♪だいたいね
 ♪ちょっと待ってて
 ♪まだ早い
などと返事をしながら
どの意味なのか探っている、
というわけか。

うまいことを言うものだ。

 

40年経っても古さを感じさせない名曲は
喚起させるものも多い。

 

 

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2019年1月27日 (日)

エレキギターが担うもの

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エレキギターが担うもの

- 椎名林檎さんの言葉 -

 

おくればせながら
映画「ボヘミアン・ラプソディ」を
観てきた。

映画自体は、
ロックバンド「クイーン」のメンバ、
フレディ・マーキュリー
個人に焦点をあてた物語だったが、
後半にたっぷり流れた
「アフリカ難民救済」を目的とした
大規模なチャリティーコンサート
「ライブ・エイド」での
演奏シーンを観ていたら
ロックやライブについて
いろいろな思いが喚起された。

 

「ライブ・エイド」が
実際に開催されたのは1985年。
いまから34年も前だ。

CDプレーヤが世に出たのが
そのわずか3年前の1982年。
レコードからCDへの移行期の
大イベントだったことになる。

その後、隆盛を極めたCDだったが、
そのCDも
いまや殲滅の危機に瀕している。

ロック音楽そのものも、
ロックを取り巻く環境も
この34年で大きく変化した。

 

そう言えば、昨年(2018年)は、
米の老舗ギターブランドだった
「ギブソン」が経営破綻したことも
音楽雑誌では大きな話題になっていた。
若者のロック離れが、
その背景にあるのだろうか?

ニュースを受けて
多くのミュージシャンや音楽関係者が、
ギターへの思いを熱く語っていたが、
そんな中、椎名林檎さんの言葉
抜群によかった。

すてきな言葉が溢れていたので、
今日はそれを紹介したい。
(2018年5月15日の朝日新聞の記事
 以下、水色部記事からの引用)

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椎名さんがエレキギターに
最初に触れたのは中学3年生のとき。
高校では同時に8つほどのバンドを
掛け持ちしていたという。

私がエレキギターに
担ってほしい役割というのは、
当時からはっきりしていました。

「いらだち」とか「怒り」「憎しみ」…。
「やり場のない悲しみ」とか、
そんな「負の感情」の表現をするときに
登場するのがエレキギター。
ひずんだ音色、ノイズが必須です


そうすると声も共鳴して、
「エレキ声」になる。
そこに気づいていたので、
曲づくりでも「負の感情」を書くんだと
認識していました。

いまでもエレキギターはそういう役割、
もしくは「軋轢(あつれき)」役でしか
登場させていません。

もちろん近年の音楽シーンにおける
ギターそのものの存在感の変容も
椎名さんの目には入っているが、
それを認めつつも、こう言葉を繋いでいる。

でも私は、
時代が移り変わろうと廃れない、
エレキギターそのものの本来の美点を
いつも第一に考えています


それは音符に書けない表現、
あるいは楽譜に記す理屈以前の、
初期衝動」です。

エレキのプレーは
音符に表した途端に面白みを失います

音色一発の魅力ありきだから。
実際にはあらゆるタイミングが合致して、
授かりもののような音が生まれます


録音で珍しいテイクがとれて、
写譜屋さんに預けると、
肝心の箇所が「XX」と記されて
返ってきたりします。

口でいうと「ヴヲア!」みたいな
感じ
かもしれないけど、
カタカナで書くわけにもいかない。

そこにこそエレキの本質が
宿る
と思います。

であるからこそ、

生々しいボーカル
エレキギターのプレーだけは、
今後もコンピュータでは
再現できないでしょう。

 

「型」と「型破り」についても、
簡潔にポイントを突いて触れている。

幼いころからピアノや
クラシックバレエを習っており、
「型」に背中を押されてきました。
時に縛られたりしながらも、
やっていてよかった。

一方、エレキギターには、
それ以前のただの情動がある。

型を学べば学ぶほど、
「型破り」の尊さ、難しさを
思い知ります


そのはざまが面白いからこそ、
私としてのエレキギターの「型」を
提示し続ける
のかも知れません。

 

日本のバンド「SEKAI NO OWARI」の
ボーカル深瀬さんが
今時、まだギター使ってんの?
と言い放って話題になっていたのは
もう数年前だが、私個人としては、
「ロックはギターだ」と思っている。

椎名さんはその真髄を
うまく言葉にしてくれていたと思う。

打ち込みの隆盛は止めようがないし、
いわゆるヒット曲においては
ギターよりもキーボードが
活躍しているものが多い、
という現実は確かにあるが、まさに
「楽譜に書けぬ情動」の表現には
ギターがなければ・・・。

そして
「あらゆるタイミングが合致して、
 授かりもののような音が生まれ」る。

ロックに限らず、生演奏つまりライブの
再現できない魅力はまさにこの点にある。

 

 

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2018年11月25日 (日)

川端康成の小説『雪国』の冒頭

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川端康成の小説『雪国』の冒頭

- 日本語での視点、英語での視点 -

 

2018年11月16日の朝日新聞に
多和田葉子さんが「全米図書賞」を
受賞したという記事があった。

その記事のなかに、
「日本の現代文学では、
 71年に翻訳部門(当時)で
 ノーベル文学賞受賞者の
 川端康成「山の音」が
 サイデンステッカー訳で選ばれて以来」
との記述が。

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「サイデンステッカー」で
思い出したエピソードがあるので
今日はその話を書きたいと思う。

サイデンステッカーさん、ご存知だろうか?
Wikipediaにはこんな記述まである。

『雪国』の英訳では、川端康成の
ノーベル文学賞受賞に貢献した。

実際、川端康成自身、
ノーベル賞の半分は、
 サイデンステッカー教授のもの
だ」
と言い、賞金も半分渡している

つまり、非常に信頼の篤い翻訳者だ。

そのうえで、この本を覗いてみよう。

金谷武洋(著)
英語にも主語はなかった
-日本語文法から言語千年史へ-
講談社選書メチエ

(以下水色部は本からの引用)

 

まず、川端康成の小説『雪国』の冒頭と、
それを訳した
サイデンステッカーの訳とを並べてみよう。

(1)
 国境の長いトンネルを抜けると
 雪国であった。

(2)
 The train came out of the log tunnel
 into the snow country.

 

小説を読んだことがない人でも知っている
有名なフレーズだ。

「国境の長いトンネルを抜けると
 雪国であった」

では、この情景を絵に描いてみよう
もちろんどんな絵になるかは
人によって様々だろうし、
「正解」があるわけでもない。

でも私にはこんな情景が浮かぶ。

主人公と自分が同化するかのように、
汽車に乗っている情景
トンネルは暗く、長く、続いている。
やがてすこし明るくなってくる。
トンネルの出口まであとわずかか。
そう思った次の瞬間、
真っ暗だった車窓が一変。
一面の銀世界が広がっている。

そんな感じだ。

 

続いて英語の方を見てみよう。

The train came out of the log tunnel
  into the snow country.

直訳すると
「汽車は長いトンネルを抜けて
 雪国へと出てきた」
これで絵を描こうとすると、
視点は山の上、トンネルの出口あたり
見下ろしながら、雪景色の中に
汽車がでてくる絵になってしまう。
少なくとも「私」は
汽車には乗っていない。

 

このお絵描き、本によると、
「シリーズ日本語」というNHKの番組内で、
実際にやっていたらしい。

数人の英語話者をスタジオに招いて,
この文から思い浮かぶ情景を
絵に描かせていた。

さて、どんな絵が描かれただろう。

全員が上方から見下ろしたアングルで
トンネルを描いている


明らかに話者の視点は
「汽車の外」にある。
トンネルからは列車が頭を出しており,
列車内に主人公らしい人物を
配した者もいた。

私は英語話者ではないが、
思い描いた絵は
まさに同じだったことになる。

金谷さんは、この違いをとらえて、

英語(欧米語)
  不動の「神の視点」で物事をとらえ、

日本語
  常に移動する「虫の視点」
  物事をとらえる、

と解説しているが、
私自身はこの解説にあまり興味はない。
(もし、ご興味があるようであれば、
 上記本を参照下さい)

 

私が興味をもったのは、この対比を通して
「国境の長いトンネルを抜けると
 雪国であった」
を読んだ瞬間に、
自分の視点が「汽車に乗っている」ことに
改めて気がついた点だ。

「乗っている」を決定付ける記述は
どこにもない。
なのにどうしてそう思うのだろう?

短い一文で、その情緒的な気分が
まだ登場さえしていない人物と
一瞬で共有できるなんて。

そして、ご存知の通り
日本語のほうは
「夜の底が白くなった」と続く。

もはや英文がどうなっているか
覗いてみよう、という気にすらならない。

 

 

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2018年9月 9日 (日)

オーストリア旅行記 (55) マリア・テレジア(4)

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オーストリア旅行記 (55) マリア・テレジア(4)

- 義務教育と多文化の混在 -

 

シェーンブルン宮殿の庭園の一番奥、
丘の上のグロリエッテまで来たので、
ゆっくり丘を降りながら、
もう少し庭を散策したい。

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庭は、200haにもおよぶ
イギリス式とフランス式が
混在した美しいものだが、

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木々の刈り込みに
思わずシャッターを切ってしまった。

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平面すぎるでしょ。

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宮殿の
「マリア・テレジア・イエロー」が美しい。

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庭の一角には、
植物園と動物園がある。

植物園のこの建物は1882年に完成した
ヨーロッパ大陸で最大の温室。

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こちらの刈り込みも特徴がある。

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植物園の方は静かだったが、
動物園の方は、多くの人で賑わっていた。
この動物園、1754年に作られた
世界最古の動物園
だ。

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創ったのは、マリア・テレジアの夫、
フランツ・シュテファン。

シマウマやフラミンゴなど、
当時のウィーンの人々が
見たことがなかったような動物を
インド、アフリカ、南アメリカからも
集めていたという。

そういえば、ウィーン自然史博物館
のところでも書いた通り、
自然史博物館もベースは
フランツ・シュテファンの
コレクションだった。

改めて自身の鉱物コレクションを見る
フランツ・シュテファンの絵を
貼っておきたい。(絵葉書で購入したもの)
壁一面コレクションで埋め尽くされている。

Natur3s

 

マリア・テレジアが君主として残したものは
これまでの記事に書いたような、
* 強い軍隊を作るための士官学校 や
* 民族や身分にとらわれず
  有能な人材を重用する制度
 や、
* 壮大な大改造を施した
  シェーンブルン宮殿
だけではない。

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* 教育と書籍の検閲を
  教会(イエズス会)から解き放し、
  自然科学が急成長していた
  イギリスやフランスからの本が、
  ウィーンに多く
  入ってくるようにしたり、

【ウィーン イエズス会教会】

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* 君主の権限が及ばない
  貴族の力を削いで、
  安定した税制を導入したり、

その改革の範囲は多岐にわたる。

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その中でも、ぜひ書いておきたいのは、
イギリスよりも早く実現した
義務教育制度の確立だ。

「すべての地方、
 すべての階級の子どもたちに教育を」

と全土に均一の小学校を新設。
金持ちの子どもだけでなく、
すべての子どもたちが教育を受ける
ことができるようになった。

さらに注目すべきは教科書。

軍隊とは違って、
こちらはドイツ語を強制はしなかった。

10以上の言語で教科書を用意
商人の子どもも農民の子どもも
皆、自分たちの言葉で
教育を受けることができた。
その上で、
外国語教育も視野に入れていた。

若者たちの教育は
 国の幸福の源(みなもと)です


とも語っていたという。

 

ここに書いた通り、
シェーンブルン宮殿の中を歩くと
内装の豪華さ以上に
文化の多彩さに驚く。

欧州各地方の風俗に限らず、
中国ありインドあり・・・。

一番大きなメインの広間
「大ギャラリー」の天井画には、
中央のフランツ・シュテファン、
マリア・テレジア夫妻を囲むように
フランドル地方の海上貿易、
ボヘミア貴族の狩猟、
ハンガリーの牧畜、
オーストリア・
ザルツカンマーグートの岩塩、
イタリア・トスカーナ地方のワイン造り、
ミラノの絹織物
などの様子が描かれている。
民族の多様性を尊重していたことの
証とも言えるだろう。

同君連合国家の形態を
伝統的にとってきたとはいえ、

ウィーンで食べる料理が、
ハンガリだったり、
ルーマニアだったり、
バルカン地方だったり、
セリビアだったり、
スペインだったり、
ボヘミアだったりと
その起源が多岐に渡ることも
様々な文化を受け入れてきた
歴史を物語っている。

音楽だけではなく
多様な文化を受け入れる器として
ウィーンを「豊かな」都に
発展させていったマリア・テレジア。

これら君主としての活躍が
16人もの子どもを生みながら
成し遂げられていったことも
最後に記しておきたい。

 

 

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2018年9月 2日 (日)

オーストリア旅行記 (54) マリア・テレジア(3)

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オーストリア旅行記 (54) マリア・テレジア(3)

- シェーンブルン宮殿 -

 

軍隊を強化する一方で、
「スペクタクルが必要だ」と言っていた
マリア・テレジアは、
一大事業、シェーンブルン宮殿の
大改造に着手する。

ウィーン観光の目玉のひとつ、
今日はシェーンブルン宮殿を訪ねたい。

【シェーンブルン宮殿】

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門を入ると、真正面に
壮大な黄色い建物が広がっている。

シェーンブルンとは
「美しい泉」という意味
で、
17世紀初頭、マティアス皇帝が
当時この地にあった狩りの城の森で
美しい泉を発見したことに由来している。

狩りの城はのちに
トルコ軍に破壊されてしまったため、
レオポルト1世の時代、1696年に
「フランスの
 ヴェルサイユ宮殿をしのぐものを」
と新しい城の建設工事が始まった。

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宮殿前広場も広々としている。

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宮殿の設計は
オーストリア・バロック最大の建築家
フィッシャー・フォン・エルラッハ。

婚礼のお祝いにこの城をもらった
マリア・テレジアは、
さらなる本格的な大改造に着手する。

工事はエルラッハ亡き後も続き、
18世紀半ば
マリア・テレジアの時代にその完成をみる


彼女の大改造の結果、完成したときは
1,441室の大宮殿になっていた。

中心から左右に翼を広げた宮殿は180m、
外壁の色は
マリア・テレジアの黄色とよばれる
高貴な色に塗られている。

のちに庭園側から撮った写真を
先行して一枚貼ってしまおう。

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1,441室ある宮殿内部も、
その一部は一般に公開されているので、
音声ガイドを聞きながら
一部屋づつ丁寧に回ることができるのだが、
残念ながらここも部屋は写真撮影禁止。

印象に残った部屋のメモを
並べただけでも・・・

フランツ・ヨーゼフが人々と会っていた
高価なクルミ木材を使用した
「クルミの間」

フランツ・∃-ゼフが息を引き取った
質素な「寝室」

長い髪が濡れるのを防ぐ
ヘアーハンガーと呼ばれる輪が
壁に取り付けられている
「エリーザベトの浴室」

幼いモーツァルトが
マリア・テレジアの前で
ピアノを弾いた「鏡の間」

演奏会は大成功だったという。

幅10m、長さ40mの大ホールで、
マリア・テレジア時代に
祝典行事用広間になった
「大ギャラリー」

小さな宴会が催された部屋だが、
豪華さでは光っている
「小ギャラリー」

燭台用の青い陶器が美しい
「中国の丸い小部屋

19世紀、宮廷将軍たちの食堂だった
「馬の間

中国趣味で青の色彩が美しい
「青の中国サロン」

寄木張りの床と
漆の板張り壁が豪華で
未亡人となったマリア・テレジアが
おもに住んでいた「漆の間」

ナポレオンが
ウィーンを征服したときに使っていた
「ナポレオンの部屋」
時の皇帝フランツ1世は、
娘のマリー・ルイーズを
ナポレオンと結婚させた。
その息子ライヒシュタット公爵は
ナポレオン失脚後、
幽閉されるようにこの部屋で暮らし、
21歳で病死した。

無数のインド細密画が壁にはめ込まれた
ローズウッドの重厚な壁が印象的な
総工費が当時の通貨で
100万グルデンかかったという
「百万の間」

1830年にフランツ・ヨーゼフが生まれた
「寝室」
マリア・テレジアも使用した
天蓋付きベッドがある。

細かいことはともかく、
特定の地域や文化ばかりに偏っていない
「多彩さ」が特に強く印象に残る

 

宮殿内の写真は撮れなかったが、
外はもちろんOK。
まずは美しい庭を少し散策してみよう。

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中央正面の噴水を目指す。

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振り返ると宮殿が正面に。

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花々も手入れが行き届いていて美しい。

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噴水を越えて、
シェーンブルンの丘の上に建つ
「グロリエッテ」を目指す。

緩やかに丘を登る。

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だんだん角度が変わってくる。

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途中には大きな池も。

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芝生に寝転がって、
のんびりしている人も多い。

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少し高い位置に来たので、
前方右側遠方にはウィーン市街地、
シュテファン大聖堂の塔も小さく見える。

丘の一番上、
「グロリエッテ」に到着。

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全体の長さ135m、高さ26m、幅15m。
1757年に、プロイセン勝利と
戦没者慰霊のために建てられた
ギリシャ建築の記念碑。

距離感を伝えることは難しいが、
このグロリエッテを
宮殿から見るとこんな感じ。

P7169339s

真正面、丘の上に
小さく見えるのがグロリエッテ。

庭の広さが多少は伝わるだろうか?
距離感、規模感が麻痺してしまう
広くて美しい庭だ。

 

 

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2018年8月26日 (日)

オーストリア旅行記 (53) マリア・テレジア(2)

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オーストリア旅行記 (53) マリア・テレジア(2)

- 「民族」寄せ集めの軍隊 -

 

前回
「スペイン乗馬学校」を紹介したが、
男性ばかりの騎手の中、
女帝と言われた
マリア・テレジアが、
実は馬も乗りこなしていた、
という話までを書いた。

そのことが大きな意味を持つ、
そのエピソードを始める前に、
時代を少し前に戻してみたい。

【アウグスティーナ教会】

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ハプスブルク家の洗礼を担う
王宮内にあるこの教会。
華美な装飾がなく、
「意外に地味」が入った時の第一印象。

 

この教会で、1736年、
カール6世の長女マリア・テレジア
ロートリンゲン、ロレーヌ公の次男
フランツ1世と結婚式を挙げた。

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マリア・テレジア 18歳
フランツ1世シュテファン 27歳

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マリア・テレジアは、
6歳でシュテファンに出会い、
婚約が決まっていたとはいうものの、
当時の王室としては異例の
恋愛結婚
だった。

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マリア・テレジアの父カール6世は、
早くから後継者問題に悩んでいた。
男子に恵まれていなかったからだ。

そこで、ある決断を下す。
ハプスブルク家領の
女子の相続を認める詔書を
発布することにしたのだ。
そして、
マリア・テレジアが結婚する時点では、
その内容を欧州主要国に認めさせていた。

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そんな父カールが
マリア・テレジア結婚のわずか4年後、
1740年に死去してしまう。

詔書に基づき
女性ながら、かつ23歳で
君主とならざるを得なくなった
マリア・テレジア

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(アウグスティーナ教会内には
 ピラミッド型の大理石彫刻が見事な
 マリア・テレジアの娘
 【マリー・クリスティーナの墓碑】
 もある)

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君主とはなったものの、
マリア・テレジアは
帝王学も学んでおらず、
欧州各国の嘲笑の的となってしまう。

そしてこれをハプスブルク勢力弱体化の
絶好の機会とみた対立国が動きだす。

「もはやハプスブルクは存在しない」

先の詔書を無視し、
オーストリア周辺国は、
オーストリア継承戦争へと
突入
していったのだ。

 

そのころ、
マリア・テレジアは
ハンガリのブラチスラバに向かっていた。

ハンガリはまだ、
継承戦争に参戦していなかったのだ。

伝統的に
馬を鍛えた強い軍隊を持つハンガリ


当時、ハンガリ君主は
ハプスブルク君主が兼任していたため、
マリア・テレジアは
ハンガリの聖マルティン教会で
戴冠式を執り行う

 

そしてそのあと、
彼女は驚くべき行動に出る。

皆が集まった街の広場に
なんと馬に乗って再登場したのだ。

そこで、後ろ足で馬を立たす技を披露。
サーベルを四方にかかげ
「ハンガリを守る」をアピールした。

続けて議会では
「今こそ戦わねば」と声をあげた。

彼女の馬術に心を掴まれたハンガリ市民は、
「われらの女王、マリア・テレジア」
と叫んだと言う。

これらのパフォーマンスが功を奏し、
ついにハンガリの参戦が決まる。

馬への思いが強いハンガリの民の心を
馬を乗りこなすことによって
しっかりと掴んだマリア・テレジア

 

ハンガリの参戦を得て、
ボヘミアの奪還に成功した彼女は、
今度は、ウィーンの街を
馬に乗ってパレードした。

名馬リピッツァナーに乗って、
パレードの先頭を行くマリア・テレジア。

それでも、最終的に
どうしても奪還したかった
シュレージェンを
取り返すことはできなかった。

 

軍隊を強くする必要性
痛感したマリア・テレジア。

なぜ、強くなれなかったのか?

 

旧陸軍省の建物を訪問してみた。

P7159165s

壁面には、
多くの兵士の頭部が
彫刻で並んでいる。

P7159149s

ちょっと気をつけて
各頭部を見比べてみてほしい。

P7159150s

よく見ると、
服装も帽子もヒゲもすべてバラバラ。

P7159151s

比較しやすいように、
頭部だけを4枚集めてみた。

Hei1s

まったく統一感がない。
「民族の寄せ集め」の軍隊だったことが
よくわかる


もちろん言語もバラバラ、
双頭の鷲のもととはいえ、
全体としてひとつにまとまることは
きわめて難しかった。

P7159157s

 2007年放送 NHKハイビジョン特集
 シリーズ ハプスブルク帝国 
 第2回「女帝マリア・テレジア」


の中では、
ドイツ語、ハンガリ語、
イタリア語、チェコ語、
ポーランド語、スロバキア語
などが同じ軍隊の中で使われていた、と
現在の軍事学校の教官が
インタビューに答えていた。

P7159153s

そこで、マリア・テレジアは、
軍隊を強くするために
士官学校を設立
する。

そこでは、・・・

(1) 命令はドイツ語に統一
  命令に合わせてドラムを打つなど、
  指示系統を統一。

(2) 体罰を禁止し、
  高潔な兵士の育成を目指す。

(3) マリア・テレジア勲章を授与。
  指揮官を明示し、
  民族や身分にとらわれず
  有能な人材を重用

  勲章を授与されると
  貴族として宮廷に出入りすることもできた。

(4) 「乗馬」を必須科目に。
  馬術の習得はもちろん
  ボディランゲージによる
  馬とのコミュニケーション

  異民族間での人同士の
  コミュニケーションにも役立った。

などの姿勢を明確にし、
着実に成果をあげていった。

君主として次第に民衆の支持を
集めるようになるマリア・テレジア。

そして彼女は、
ついにあの大改造に着手する。

続きは次回に。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2018年8月19日 (日)

オーストリア旅行記 (52) マリア・テレジア(1)

(全体の目次はこちら


オーストリア旅行記 (52) マリア・テレジア(1)

- スペイン乗馬学校 -

 

本記事で52回目となる
オーストリア旅行記。

ここ数回は、
ハプスブルク家の人々から、

* ルドルフ1世
 (生没:1218年-1291年)

* マクシミリアン1世
 (生没:1459年-1519年)

* カール5世
 (生没:1500年-1558年)

* フェリペ2世(スペイン王)
 (生没:1527年-1598年)

らを採りあげ、
大きく歴史を振り返ってきたが、
旅行中に撮った写真を挿絵代わりに
使ってきたものの、
本文が写真の説明にはなっておらず、
「旅行記」というタイトルからは
少し離れた記事が続いてしまっていた。

今日からは

* マリア・テレジア
 (生没:1717年-1780年)

について書きたいと思っているのだが、
彼女については、うれしいことに
訪問先と直接関連している
トピックスが多い。

関連する訪問先の写真を
積極的に使いながら、
「女帝」と呼ばれた君主の
足跡を追ってみたい。

 

まず、彼女が生きた時代、18世紀。
日本では江戸時代中期。
享保の大飢饉があり、
8代将軍吉宗、田沼意次らが
活躍したころ、ということになる。

エピソードには事欠かない人物ゆえ、
これまで参照してきた参考図書をはじめ、
多くの本に様々なエピソードが
紹介されているが、
いろいろ調べた中では、

2007年放送 NHKハイビジョン特集
シリーズ ハプスブルク帝国 
第2回「女帝マリア・テレジア」


がたいへんよくまとまっていた。
この番組を参考に、
訪問先の写真を交えながら、
話を進めていきたいと思う。

「今日からは」と書いた通り、
とても一回では終わらないボリュームだが、
興味のある部分だけでも、
のんびりお付き合いいただければと
思っている。

 

さて、マリア・テレジアに関して
最初に採りあげたいのは、
この乗馬学校。

【スペイン乗馬学校】
乗馬学校だが、
場所はなんと王宮の中!

P7159104s

厩舎もすぐお隣。

なにも知らないと
馬がそこまで丁寧に、というか
大事にされていること自体に
ちょっと驚いてしまうが、
もちろんそれには
それなりの背景がある。

この乗馬学校は、1572年の創設。
世界で最も古い乗馬学校
だ。

当時、スペイン種の強靭な馬を
導入したことから
「スペイン」の名があるが、
その後、
スペイン、イタリアの名馬を
トリエステ近郊のリピッツァで交配、
古典馬術に最も適した気高い白馬
「リピッツァナー(Lipizzaner)種」

を誕生させた。

この馬を使った古典馬術は、
伝統と共に今もしっかり引継がれており、
ユネスコ無形文化遺産にも
登録されている。

調教された馬の高度なテクニックは、
本公演や調教見学として公開されており、
だれでも見ることができるようなのだが、
今回は残念ながら公開プログラムと
我々の旅程が合わなかったため、
乗馬学校の見学ツアーにのみ
参加することにした。

「学校」を見学するだけで、
馬の演技が見られるわけでもないのに、
観光客には大人気で
チケット売り場はかなり混んでいた。
(チケットを買う際、
「今日のこのコースでは馬の演技は
 見られないけれどOKですか」
 と何度も何度も確認された。
 演技を期待して、のトラブルが
 きっとあるのだろう)

チケットを買うと、
15人程度がひとグループとなり、
ガイドさんに付いて
学校内を歩くことになる。

日本語のガイドさんはいなかったので、
英語のガイドさんのグループに合流した。

「学校内の写真は基本的にOKだが、
 厩舎内(馬のそば)は撮影禁止」
との注意事項の説明からスタート。

最初に見たのは、
王宮内にある周回コース。

何頭かが、
ゆっくり周回コースを歩いている。

P7179554s

古典馬術に適した馬が誕生した由来
馬術における、
馬と騎手との信頼関係の重要性
毎年開かれる馬術コンテストで競われる
高度な演技のポイント
コンテストにかける騎手たちの思い
などなど、
ひとつひとつ丁寧に説明してくれる。

後ろ足立ちなど、
コンテスト上位入賞者の
写真が並ぶエリアもある。

P7179555s

 

ひととおりの説明が終わると
歩いて厩舎のほうに向かった。
幅の狭い道を渡るものの
まさに王宮に隣接した位置にある。

外から見るとこんな感じの厩舎だ。

P7179560s

ずらりと並ぶ白い煙突にご注目あれ。

冬は寒いウィーン。
馬用の暖をとるための煙突だ。

P7179561s

厩舎内での馬の撮影は禁止されていたので
写真を撮ることはできなかったが、
一頭一頭大事にされていることは、
厩舎内をちょっと歩いてみただけでも
よくわかる。

馬具が管理されている部屋もある。
馬具だけなのに妙に美しい。

P7179565s

そういえば、
「エルメス」だって「グッチ」だって
もともとは馬具メーカだ。

 

外から撮った厩舎の馬。
白い背中が
少し見えるだろうか?

P7179568s

 

その後再度、
王宮内の乗馬学校部分に移動。

最初に書いた通り、
今回の内部ツアーでは
馬の演技を見ることはできなかったのだが、
この乗馬学校の見どころは
なんと言ってもこの「室内馬場」。

P7179571s

王宮の中にあり、
本公演ではシャンデリアの明かりのもと、
ワルツにのった
名馬の優雅なステップが披露される。

P7179576s

 

話を最初に戻そう。
このスペイン乗馬学校と
マリア・テレジアには
いったいどんな関係があるのか?

P7179577s

優雅な室内馬場は、
マリア・テレジアの父
カール6世の時代に
建てられたものだが、
単なる時代的な重なりを
言いたいわけではない。

P7179584s

 

乗馬学校の騎手は
男性に限られている。
ところが、実は女性でただひとり、
馬を乗りこなした人がいる。

P7179585s

その人こそ
ハプスブルク家唯一の女性君主
女帝と呼ばれたマリア・テレジアなのだ。

P7179592s

ここで練習を重ね
馬を乗りこなしたことで、
彼女は大きな力を得ることになる。
それは誰のどんな力か?

この話、次回に続けたい。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2017年11月 6日 (月)

オーストリア旅行記 (11) サウンド・オブ・ミュージック(その7)

(全体の目次はこちら


オーストリア旅行記 (11) サウンド・オブ・ミュージック(その7)

- どこからどこへの山越え? -

 

オーストリアのザルツブルクを、
映画「サウンド・オブ・ミュージック」を
キーに巡っていく報告も
今回で一旦、ひと区切りとしたい。

内容のほうは、これまで同様、
『サウンド・オブ・ミュージック』の秘密
瀬川裕司 (著)
平凡社新書
(以降水色部は本からの引用)

と 映画のDVD/Blu-ray

で補足・確認しながら、
進めていきたいと思う。
(以降、映画からのシーンは黄色枠で)

 

【馬の水飲み場】
祝祭劇場のすぐ隣(となり)にあるのが、
この「馬の水飲み場」。

場所といい、その装飾といい、
ちょっと唐突な感じがするが、
前回書いた通り、
お隣、祝祭劇場は、
元は大司教の厩舎だった。
ここは、そこで飼われていた
「馬のための水飲み場」として
作られたものらしい。
馬は一時、130頭もいたという。

P7117919s

現在の姿になったのは1732年。
中央に馬の調教場面の像が立ち、
壁には馬の美しいフレスコ画が並んでいる。

P7117916s

ただ、実際に行ってみると、
画よりも、そのすぐ後ろに迫った
ざっくり削られた岩山に驚く。

しかも横にはトンネルまで。

P7117920s

トンネルの通りを挟んで、
すぐ左側はもう祝祭劇場だ。

映画「サウンド・オブ・ミュージック」
の中では、マリアと子どもたちが
ピクニックに行く時に前を通っている。

Sm05024

一瞬映るだけなので、知らなければ
もちろん何かはわからないし、
映画の中で説明も一切ないが、
この美しい施設が、
まさか「馬の水飲み場」だったとは。

 

【ザンクト・ペーター教会の墓地】
ここでも少し触れたが、
ザンクト・ペーター教会の
鉄柵で区切られた墓地は、
映画「サウンド・オブ・ミュージック」
の終盤で、
トラップ一家がナチスに追われて
墓石の裏に隠れるシーンの
モデルになっている。

区画ごとに違う鉄柵の文様は、
この墓地の特徴のひとつ。

P7117996s

モデルにしただけで、
撮影はセットで行われたため、
直接ここがロケ地というわけではない。

暗い画になってしまうが、
映画のシーンも貼っておこう。

ナチスに見つかってしまうのではないか、
というヒヤヒヤ、ドキドキのシーンだ。

Sm24607

Sm24633

 

【山越え】
そして映画の最後、
ナチスの追跡をかわしたトラップ一家は、
国境線が封鎖されているため、
徒歩で山を越えて
逃亡先のスイスへと向かう。

Sm25217

山越えのロケ地は、
ロスフェルト(Rossfeld)。

雄大な山並みが美しい
このシーンについては、
ロケ地ツアーのときも
ガイドさんから説明があった。

Sm25313

この撮影現場は、
ザルツブルクのすぐ南方向の山で、
バスの中からも指差しながら、
「あの山の尾根が
 国境越えの最後のシーンのロケ地なんです」
と紹介していた。

ただ、次の言葉に
バスの中は笑いに包まれた。
「あのあたりはドイツとの国境なんです」
「スイスとの国境なんて、
 ザルツブルクからはものすごく遠くて、
 とても歩いてなんかいけないわけで」

物理的な位置関係をちょっと確認しておこう。

Amapbr1

青がオーストリア、
黄がドイツ、
緑がスイス。
★印がザルツブルクの位置で、
◎印が山越えの撮影現場。

なるほど、ザルツブルクから
歩いてスイスとの国境を越えるのは、
7人の子ども連れには厳しそうだ。

また、ナチスから逃げている一家が、
ドイツとの国境に
わざわざ向かっているというのも
笑える。

上に挙げた瀬川さんの著書でも

このあたりもドイツとオーストリアが
国境を接している地域だ。

映像を見るかぎり、
一家はドイツ側から
わざわざオーストリアに
戻ろうとしていることになる

(ケールシュタインハウスはドイツ、
 ロスフェルトは
 ほぼ国境線上に位置する)。

最後に、
はるか遠方に街のようなものが
うっすら見えるが、
それはザルツブルクだ。

この映像だけを情報源とするなら、
トラップ一家はドイツへの遠足から、
いま帰宅中であるように
思えてしまうわけである。

と書かれている。
映画のストーリとのギャップが楽しい
裏話のひとつ
だ。

ところで、先にも書いた通り、
サウンド・オブ・ミュージックは
実話に基づく話だ。

映画ではない、
実話のほうはどうなっていたのだろう?

<実話>では、
コンクールでの優勝後、
一家はヨーロッパ各地で
コンサート活動を展開する


つまり
『サウンド・オプ・ミュージック』
とは異なって、
彼らはナチによる<併合>の前から、
プロとして活動していたわけである。

そして一家は国外に逃亡する。
<実話>としては、
屋敷のすぐ裏のアイゲン駅から
鉄道に乗ってイタリアに行き、
1938年10月にロンドンから
アメリカ行きの船に乗った。

つまり、トラップ一家は
<山越え>などしていない


そして39年1月、米国で末子の
ヨハンネス・ゲオルクが生まれる。
同年3月、滞在許可の期限が切れたために
一家はいったんヨーロッパに戻り、
主に北欧諸国でコンサート活動をおこなう。

そして10月、
米国での居住許可を得た彼らは、
あらためて
「ザ・トラップ・ファミリー・シンガーズ」
として全米を股にかけての
コンサート活動を展開する。

合唱団としての活動と
ヴァーモント州ストウの
「トラップ・ファミリー・ロッジ」
の経営によって、一家の名前は
広く知れ渡るところとなった。

 

7回に分けて
「サウンド・オブ・ミュージック」関連で
繋いできたザルツブルク旅行記だが
映画関連ネタは一旦これで終了としたい。

ロケ地巡りが楽しめる町の魅力を
瀬川さんはこんな言葉でまとめている。

(ロケ地を巡る)
このような現象が起こるのは、
『サウンド・オブ・ミュージック』が
人気作品であるからだけでなく、
ザルツブルクに
<そのままの風景>が残っているから
だ。

撮影から50年近くが経っているのに、
そこへ行きさえすれば、
記憶にある風景が肉眼で見られるのである。

たとえば50年前の邦画を好きな外国人の
映画ファンがわが国に来たとしても、
めったに(そのままの風景)には会えまい。

そこには、いうまでもなく
歴史的建造物等を大切にする
ヨーロッパの伝統があるわけだが、
ザルツブルクでいえば、
狭い旧市街にロケ地が集中しているので、
二時間ぐらい歩けばほとんどのポイントは
押さえられてしまう。

まるでザルツブルクが
『サウンド・オブ・ミュージック』の
テーマパーク
であるかのようなのだ。

 

次回からは、
「サウンド・オブ・ミュージック」
からは離れて、
ザルツブルクの町の魅力を紹介したい。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2017年10月29日 (日)

オーストリア旅行記 (10) サウンド・オブ・ミュージック(その6)

(全体の目次はこちら


オーストリア旅行記 (10) サウンド・オブ・ミュージック(その6)

- 岩壁馬術学校 -

 

オーストリアのザルツブルクを、
映画「サウンド・オブ・ミュージック」を
キーに巡っていく六回目。

これまで同様、
映画のDVD/Blu-ray

で補足・確認しながら、
振り返ってみたい。
(以降、映画からのシーンは黄色枠で)

 

【祝祭劇場】
世界的な音楽祭のひとつとして
知られている「ザルツブルク音楽祭」
メイン会場となっているのが
この祝祭劇場。

P7128087s

ご覧の通り
大きなというか「長い」建物だが、
その起源はなんと
1607年に建てられた
大司教の「厩舎」だとか。
つまり馬小屋。

岩山に沿う細長い形状をしており、
その長さは225mにもなる。

現在、「祝祭劇場」には
大小2つのホールと、
岩山を削ってつくられた
「フェルゼンライトシューレ」の
合計3つの劇場がある。

訪問したときは
音楽祭のちょうど10日前だったので、
スケジュールが大きく張り出されていたが、
まさに3つの劇場フル回転のプロブラムが
組まれていた。

道を挟んだ対面に、
同じように「長く」広がっているのは
大学の図書館だ。

P7128090s


正面入口前に広がる
マックス・ラインハルト広場と呼ばれる
広場からは、
左手にフランティスカーナ教会
右手にザンクト・ペーター教会
の塔が見える。

P7117922s


ザンクト・ペーター教会の塔の後ろには、
ホーエンザルツブルク城塞が。
城塞の威容もかなり見慣れてきた。

P7128081s


さて、この祝祭劇場。
内部を案内してくれる
ガイドツアーがあるという。

ツアーの時間がわからなかったので、
ツアーオフィスを兼ねた
劇場のギフトショップに行って
事前に時間を尋ねてみた。

ザルツブルク音楽祭が
10日後に迫っていたので、
公開エリアに制限があるようだったが、
まぁ、準備の様子も含めて、
雰囲気が感じられればそれもうれしい。

妻と相談のうえ、
翌朝9時のツアーに参加することにした。

「予約はできないので、
 予定時間の15分前に来て下さい」

 

翌朝、集合場所に行くと、
12人が集まっていた。

ガイドさんは、

*ザルツブルク音楽祭が
 10日後に迫っているので、
 劇場内では様々な準備が進められており、
 いつもは案内している大ホールに
 今日は案内できないこと。

*小ホールである
 モーツァルトホールは案内できるが、
 こちらも今日はリハーサル中ゆえ、
 ホール内での写真は禁止されていること。

などなど、丁寧に音楽祭前の
特殊な状況を説明し、
理解と了解を求めていた。

 

【フェルゼンライトシューレ】
ガイドツアーで最初に案内されたのは、
最も見たかった
「フェルゼンライトシューレ」だった。

P7128091s

「サウンド・オブ・ミュージック」の終盤、
一家がコンクールで歌声を披露する、
実に印象的な劇場だ。

岩山の山肌を掘った岩むき出しの面が、
そのまま劇場の奥の壁となっている。

つまり、岩山に張り付くように
劇場が作られている。

フェルゼンライトシューレの意味は
 Felsen(岩壁)、
 Reitschule(馬術学校)


1693年、
ヨハン・エルンスト・フォン・トゥン大司教
(Johann Ernst von Thun)は、
大聖堂建築のための採石場跡に、
馬術学校を設立
した。

そこでは、乗馬のトーナメントも
行われていたという。

舞台を取り囲んでいる三層に重なった
96のアーチからなる岩盤は、
馬術学校当時の観客席
である。

P7128092s

 

ガイドツアーの説明は
「ドイツ語」と「英語」で進んでいく。
二人のガイドさんがいるわけではなく、
ひとりで二言語を担当。

ちなみに、その時の我々12人のグループは
8人がドイツ語、4人が英語、を希望。

ドイツ語での説明の後、
英語組4人が集められて英語で説明を聞く、
を繰り返す感じでツアーが続く。

ただ、ドイツ語がわからないので
これは単なる想像だが、
明らかにドイツ語の説明の方が
詳しいことまで触れている気がする。

もちろん、説明というのは
ただ詳しければいいというわけではなく、
こちらの英語力からすると
要点のみの短い説明の方が
かえって親切、とも言えなくはないが、
長いドイツ語の説明のあと、
英語の説明が妙に短かったりすると
ソフィア・コッポラ監督の映画
「ロスト・イン・トランスレーション」

を思い出してしまう。

(ソフィア・コッポラ監督の
 東京を舞台にしたこの映画、
 好き嫌いの別れる映画のひとつだが、
 私は大好きだ。踏み込むと
 話がどんどん横道に逸れそうなので
 この映画の話はまた改めて)
題名の[lost in translation]とは
あえて訳せばまさに
「翻訳で失われるもの」という感じだ。

閑話休題

音楽祭が近いので、舞台上では
人と物が慌ただしく動いており、
リハーサルというかテストが続いていた。

P7128103s


映画ではこんなふうに使われている。
全体がよく見える
コンクールに向けての昼間の練習風景から。

Sm21833

空が見えていることにご注目。

50年以上も前のロケ時点では、
このようなオープンエアの
構造だったようだが、
現在は、開閉式の屋根がついている。

映画でのコンクールの本番は「夜」で
スポットライトが当たってこんな感じ。

Sm23503

それにしても、馬術学校の観客席を
逆に舞台にしてしまおうという発想には
ほんとうに驚かされる。

ちなみに、岩山そのままが
舞台となっているため、
「舞台裏」というものがない。
なので上演にあたっては大道具を含め
いろいろな工夫が必要だ、と説明していた。

劇場としていろいろ不自由な部分が
あるにも関わらず、
フルトヴェングラーやカラヤンといった
往年の名指揮者が、今も語り継がれる
伝説的なオペラを残した舞台でもある。

 

個人的には
「ここさえちゃんと見られれば」の
フェルゼンライトシューレが見られたので
それだけで大満足だったが、
フェルゼンライトシューレを出たあとは
モーツァルトホールに案内された。

ただ、最初に言われた通り、
こちらの撮影は許可されていなかったので、
残念ながら写真はなし。

公開のオペラに向けて、大道具も含め
舞台上の準備はかなり進んでいた。

モーツァルトホールを出たところには
横板の隙間の先に、こんなオブジェも。

P7128106s

小さな白い光の列はすべてビーズ。
地元オーストリアに本社がある、
ビーズで有名な
スワロフスキー社が作成したもの。

「モーツァルトの髪型」を表現したもの、
と言われているようだが、
オブジェ前の空間が狭く、物理的に
遠くに離れて見ることができないので、
ガイドさん自身も「確認のしようがない」
と説明して笑いをとっていた。

なお、劇場は幕間を過ごすロビーも
一見の価値がある。

P7128108s

広さや床の美しさにも目を惹かれるが、
他にはない大きな特徴が2点ある。

ひとつは、岩山の山肌が岩盤むき出しで
直接奥の壁となっている点。
フェルゼンライトシューレと同様、
ロビーは岩山に直接張り付いており、
奥の壁は、岩山の岩盤そのままだ。

P7128115s

近くに寄ってみると、
粗い岩肌の感じがよくわかる。

P7128120s


もうひとつの特徴は、
『テュルケンシュテッヘン』
(Türkenstechen)
と呼ばれる
天井の巨大なフレスコ画。

P7128110s

しかもこのフレスコ画、
この大きさを活かした
トリックアートまで仕込まれている。

P7128116s

ちょうど岩盤ギリギリの
一番奥の部分。
見上げながら寄っていくと
描かれた柱がグゥーっと空に向かって
立ち上がっていく。

P7128117s


全体はまさに馬を中心に描かれた
巨大なものだが、

P7128119s

奥の一角だけ
仕掛けで遊んでいる感じ。

 

なお、入ってすぐのロビーは、
テュルケンシュテッヘンとは全く違う
こんな雰囲気の画で囲まれているが、
これは第二次世界大戦の時に焼けてしまい、
その後以前のように修復されたもので
特に古いものというわけではないようだ。

P7128129s

P7128130s


映画のほうも
「コーラスコンクール」まで来た(?)ので、
サウンド・オブ・ミュージック関連の
ネタは、
あともう一回書いて一区切りとしたい。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2017年10月22日 (日)

オーストリア旅行記 (9) サウンド・オブ・ミュージック(その5)

(全体の目次はこちら


オーストリア旅行記 (9) サウンド・オブ・ミュージック(その5)

- 大司教の宮殿レジデンツ -

 

オーストリアのザルツブルクを、
映画「サウンド・オブ・ミュージック」を
キーに巡っていく五回目。

これまで同様、
映画のDVD/Blu-ray

で補足・確認しながら、
振り返ってみたい。
(以降、映画からのシーンは黄色枠で)

 

【レジデンツ広場】
映画の後半ナチスが進軍してくるシーン

Sm21735

が撮影されたのが、レジデンツ広場。
背景の建物はレジデンツ

外見は地味だが、これこそが
ザルツブルクの領主である大司教が
居住し執務していた町の宮殿である。

16世紀末、
この町を「北のローマ」にしようと試みた
大司教ヴォルフ・ディートリヒの時代に
現在のような姿の宮殿の建築が始まった。

町の象徴のように何度も登場している、
山の上の「ホーエンザルツブルク城塞」は
戦争や動乱に備えた城で、
平時は大司教もこのレジデンツに居た。

今は内部も公開されており、
日本語もあるオーディオガイドで
説明を聞きながら
ゆっくり見学することができるのだが、
残念ながら写真撮影が許可されていない

6歳のモーツァルトが大司教の前で演奏した
「会議の間」


ゴブラン織のタペストリーが飾られ、
緻密な寄木細工の床が美しい
「謁見の間」、

若き日のモーツァルトも演奏した
250人を収容できる「騎士の間」、

謁見を立ったまま待たされた「控えの間」、
などなど部屋数は全部で
180にもなる


どの部屋も、繊細な装飾や調度品で彩られ、
権力を誇示した大司教の
贅沢な暮らしぶりがうかがえる。

各部屋の他、歴代大司教が集めた
絵画などのコレクションも、
レジデンツギャラリーとして
一緒に公開されている。

室内の写真は撮れなかったが、
レジデンツの窓から見える
レジデンツ広場は、
写真が撮れたので、一枚。

P7128156s


写真を撮るとき、偶然、すぐ下では
学生か、4人のサックスアンサンブルが
演奏を披露していたのだが、
これがかなりのハイレベルな演奏で、
思わず宮殿を抜け出して、
そばに行きたくなってしまったほど。

P7128154s


広場の真ん中には、
大理石の彫刻で飾られた
アトラス神の大噴水がある。

P7117936s

噴水の向こう側の白い建物は
「新レジデンツ」。


大噴水は、
マリアがトラップ家に向かうシーンにも

Sm01820

まさにレジデンツを背景にして
登場している。

近くに寄るとこんな感じだ。

P7117939s

 

【カピテル広場】
ホーエンザルツブルク城塞を見上げる
カピテル広場は、
大聖堂のすぐ横に広がっている。

P7117959s


映画の中、トラップ家に向かうマリアが
ギターを持って歩いているのもここ。

Sm01842

上に書いた通り、
「ホーエンザルツブルク城塞」は
戦争や動乱に備えた城だったわけだが、
旧市街のどこからでも見えるあの威容は、
やはりある種の圧力を感じる。

P7117961s

なお、広場から
ザンクト・ペーター教会の方を見ると、
こんな感じで鐘塔が見える。

P7117960s

ところで広場にあった大きな金の玉は
いったいナンだったのだろう?

 

サウンド・オブ・ミュージック関連の
場所で繋いでいくザルツブルク旅行記、
もう少し続けたい。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

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