日記・コラム・つぶやき

2021年8月 1日 (日)

クイズ「赤ワインと白ワイン」

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クイズ「赤ワインと白ワイン」

- 10mlの往復が引き起こす「なんでぇ!?」 -

 

友人から教えてもらったクイズに
忘れられないものがある。

すごくシンプルな問題なのに
出題してみると
「えっ、なんでぇ!?」
と返される率が異様に高い。

ご興味があれば読者の方も
ぜひ考えてみて下さい。

【問題】

ここに
赤ワインの入ったグラスと
白ワインの入ったグラスがある。

今、赤ワインのグラスから
10mlの赤ワインを
白ワインのグラスに移す。

白ワインのグラスをかき混ぜたあと、
白ワインのグラスから10mlをすくって
赤ワインのグラスに移す(戻す)。

「10mlのワインが一往復しただけ」
なので、それぞれのグラスには
最初と同量のワインが
入っていることになる。

さて、問題。
上記ワインの一往復の後、
(a) 白ワインのグラスに入っている
  赤ワインの量

(b) 赤ワインのグラスに入っている
  白ワインの量

は、どちらが多いか?

 

この問題、

最初に白ワイングラスに入る赤ワインは
薄まっていない、言ってみれば
「純粋な赤ワイン」だけれど、

赤ワイングラスに戻される白ワインは
「赤の混じった白ワイン」
ゆえ、

純粋な赤ワインが注がれた方、つまり

(a) 白ワインのグラスに入っている
  赤ワインの量
の方が多い、

と答えてしまう人が多い。
しかし残念ながらそれは間違いだ。

「えっ、なんでぇ!?」と思った方、
簡単に図を書きながら考えてみたい。

Rwwine1

左が赤ワイングラス、右が白ワイングラス


Rwwine2

1ブロック=1mlとして図に書くと、
赤ワイングラスから白への10mlの移動は
緑の枠に相当する。


Rwwine3

10mlを移した直後はこんな感じだが、
もちろん赤ワインはすぐに混ざっていく。


Rwwine4

混ざった後、赤ワイングラスに
10mlを戻すとは、こんな感じ。


Rwwine5

これで10mlがグラス間で
一往復したことになる。
この図の場合で言うと、
1ブロック=1mlを表しているので
赤ワイングラスに含まれる白ワインは8ml
白ワイングラスに含まれる赤ワインは8ml
つまり両者は同じだ。


Rwwine6

最終的な形態を図で見ればわかる通り、
どんな場合(比率)で一往復しても
左グラスに含まれる青ブロックの数と
右グラスに含まれる赤ブロックの数は
必ず一致する。

最終的には、元の量に戻り、
(左に青が1入れば、
 その時は必ずその入れ替わりに
 右に赤が1入る、わけで)
左右で赤と青が
入れ替わっているだけ
なのだから、
当然といえば当然なのだが、
問題文で考えると
「最初の移動は10個全部赤」
「次の移動は10個以下の白」

という事実につられてしまって
多くの場合、
最終的な形態を冷静に考えることが
できなくなってしまうようだ。

シンプルだけれど、
いや、シンプルだからこそ
よくできた問題だ。

 

 

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2021年3月28日 (日)

「若さ」は発明?

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「若さ」は発明?

- 「老い」は負い目ではない -

 

前回、前々回と
(1) 最初にまず交換したかった
(2) 「言葉づかい」と「身体づかい」
なるタイトルで、

三浦雅士 (著)
考える身体
NTT出版

(以下水色部、本からの引用)

の本の一節を紹介したが、
もうひとつ紹介したい節がある。

それは「若さ」について。

若さとは
ヨーロッパの発明である

と述べたのは吉田健一だが、
そのとおりだろう。

いまやあまりにも常識化していて
なかなか発明とは思いづらいが
なるほど、実体がない
どこかの時点で発明された概念と
捉えることもできるということか。

 

ヨーロッパ近代においては、
老いはまさに負の要素であり、
負い目そのものだった。

若さを美徳とするこの考え方の背後に、
生産第一義が潜んでいることは
疑いない。
効率よく生産するには
青年のほうが適している。

生産性や勝ち負けに目がいくと
やはり若さにはかなわない。

でも、ものを見る視点は
そういったものだけではもちろんない。

事実、かつての日本においては、
若く見られることのほうが
恥ずかしいこと
だったのだ。
 (中略)
たとえば能狂言においては、
若さは必ずしも美徳ではない。
日本舞踊においてもそうだ。

いや、剣道や柔道といった
武術においてさえ、
老いは決して負の要素ではなかった

剣道だって柔道だって
そもそもは勝ち負けを決める
「スポーツ」ではない。 

数年前、井上八千代の舞いを見て
その呼吸に驚嘆したことがある。
時を経るにしたがって印象がかえって
鮮明になってくるのが不思議だが、
まるで幼子のようだった。
実際は、米寿を越えていたのである。

こういうことは
バレエにおいてはまずありえない。
ヨーロッパと日本では、
身体についての考え方が
根本的に違うと言うべきだろう。
身体観、
さらに言えば自然観が違うのである。

三浦さんはその違いを
こんな言葉で表現している。 

老いは身体の自然である。
自然を操作し支配しようとする姿勢と、
逆に、おのずから生成消滅する
自然の声に謙虚に耳を傾ける姿勢
との違いが、
老いをめぐる考え方にも
そのまま反映しているように思われる。

最初に書いた通り、
生産性や勝ち負けばかりに目がいくと
ものの見方が狭くなってしまう。

以前、紹介した小林秀雄さんの
こんな言葉を再度載せておきたい。

じゃぁ、
歳をとった甲斐がないじゃないか。

いつまでたっても
青年らいしいヤツなんていうのは。

甲斐がない。
何のために歳をとっているんですか。

小林さんの声のトーンで
直接聞いてみたいという方は、
こちら「歳をとった甲斐がないじゃないか」
をどうぞ。

若さには、
生産性や勝ち負けを超越した
美しさや魅力があることは確かだけれど、
時間の経過は
誰でも等しく受け入れるしかない以上
「歳をとった甲斐のある」
日々を過ごしていきたいものだ。

 

 

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2021年2月21日 (日)

「こだわる」にこだわりたくはないけれど

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「こだわる」にこだわりたくはないけれど

- 「つまらないこと」だけに使いたい -

 

ずいぶん前からとはいえ、
最近ますます気になっている言葉に
「こだわる」がある。

この言葉、もともとは
「気にしなくてもいいような
 些細なことにとらわれる」
といったような
かなりnegativeな意味だったはずだ。

それが近年は、別な意味で使われることが
圧倒的に多くなってしまった。

昭和のオヤジとしては
それが気持ち悪くてしかたがない。

そういえば同じ昭和のオヤジ
タレントの松尾貴史さんも
本件に同じ不快感を示していたなぁ、
とスクラップブックをめくってみたら
あった、あった。

2007年1月18日の
朝日新聞夕刊。

A070118ekodawari

松尾貴史さんが
  「こだわり」にこだわる理由
というコラム
を掲載している。
(以下水色部、記事からの引用)

私は、
「こだわり」と言う言葉が嫌いだ。
「こだわりの料理店」
「職人のこだわり」
「こだわりの逸品」などなど、
言葉自体というより、
その使われ方がみっともない。

松尾さんは「みっともない」
という言葉を使っている。

丁寧に辞書を追ってくれているので
まずは見てみよう。

広辞苑第四版(1991年改訂)には、
「さわる。さしさわる。
 さまたげとなる」

「気にしなくてもよいような
 些細なことにとらわれる。
 拘泥する」


「故障を言い立てる。
 なんくせをつける」
など、
およそいい意味の言葉ではない
解説が並んでいる。

そぉ、まさに私のイメージもこれ。

「つまらないことにこだわるなぁ」
みたいな使い方が一番しっくりくる。

 

それがどうだろう、
第五版(1998年改訂)では、
「些細な点にまで気を配る。
 思い入れする」という、
時流に媚びた表現
が加わっている。

「媚びた」と感じるのは
私の主観だけれども、この言葉が
褒め言葉として跋扈している風潮が、
どうにも不快なのだ。

私自身は言葉の専門家ではないので
ほんとうのところはわからないが、

「つまらない、どーでもいいこと」に対して
細かく気にしてあれやこれや言う
「つまらないことにこだわる」
の対象が、
「つまらない、どーでもいいこと」から
「それ以外のもの」
さらには正反対の「重要なもの」にまで
拡大してきた、ということなのだろうか?

「食材にこだわるシェフ」
などと聞くと、食材は
「つまらない、どーでもいいこと」なのか
とツッコミたくなってしまい
逆にいいシェフに思えないのだ。

まぁ、私個人の私的な認識との
ギャップに文句を言ったところで
もはやこの風潮というか使い方を
変えることはできないだろう。

でも少なくとも私自身は、
「つまらない、どーでもいいこと」に対して
「こだわる」ときにしか
使わないようにしようと思っている。

食材もそうだが、対象を詳細に理解し、
ほんとうに細かい点にまで気を配れる人は、
拘泥とはむしろ逆、
そこから自由にはばたける発想を
持っている気がする
からだ。

 

 

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2021年2月 7日 (日)

卵を抱きながら

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卵を抱きながら

- 雛は作者が行ったこともない国に -

 

ドイツ文学の翻訳を手掛けている
翻訳家の松永美穂さんが
2006年の「図書」1月号に
「卵を抱きながら。
 もしくは、くせになる翻訳」

というエッセイを寄せていた。
(以下水色部、エッセイからの引用)

 

そもそも、
日本語に翻訳された外国の小説は、
もとはみな英語だったと
思い込んでいる人がときどきいる


わたしが
ドイツ文学の翻訳者です」と言うと、
「え、あの本、
 もとはドイツ語なんですか?」
とびっくりされたことがあった。

翻訳を出版してくれる出版社を
見つけることがたいへんであったり、
映画化の機会が少なかったり、と
英文学の翻訳と比べての
独文学の翻訳のマイナー具合を
ユーモアを交えながら
ちょっとシニカルに語っている。

でも、
もちろん卑屈になっているわけではなく、
たとえば、作者と実際に会っての会話を

訳者
「ここ、『手をポケットに入れて』
 という箇所、手は単数なのに
 ポケットが複数形なんだけど、
 一本の手を二つのポケットに
 入れていたの?」

作者
「そ、それはミスプリよ!
 編集者が見落としたのね。
 それにしてもあなたたち翻訳者って、
 ほんとに細かいところまで
 読んでるのね…(嘆息)」

と書いていたりして、
翻訳者としての緻密な仕事に
誇りをもって取り組んでいる様子が
よく伝わってくる。

その中で、
「翻訳」の瞬間を
実に上手に表現している部分があったので
今日はその部分を紹介したい。

去年のいまごろは、ベルリンにいて、
ベルリンが舞台になっている短編集を
翻訳していた。

朝ごほんを食べて、シャワーを浴びて、
コンピュータを立ち上げ、
窓際にある机に向かって腰を下ろす。

わたしが暮らしていたアパートは
建物の二階にあって、
通りに面した窓からは
道行く人がよく観察できた。

11時ごろになると、向かいの建物の
一階にある託児所の子ともたちが、
保育士さんに手を引かれて
散歩に出かける。

ベルリンの晩秋はもう寒いけれど、
子どもたちは嬉しそうに外に出てきて、
お昼ごろまた戻ってくる。

そのころになるとわたしも昼食をとり、
昼のニュース番組を見て、
ときにはスーパーに買い物に出かけ、
そのあとまた机に向かい、
日がとっぷり暮れて
託児所のシャッターが降り、
同じアパートの住人たちが帰宅する足音が
階段から聞こえてくるころまで、
翻訳を続けるのだった。

一日中誰とも口をきかないことも
あったけれど、
翻訳をしていると、
作者とずっと話しているみたいな
気分になれるので、寂しくはなかった。

卵を抱いて温めているような気持ちになり、
翻訳が進むにつれて
卵がいまにも孵化しそうになってくる、
そういうときにはあまり大勢の人と
話をしない方がいいんだと、
妙に納得したりしていた。

卵を抱いて温めているような気持ち、か。
孵化しそうになってくる、か。

私は翻訳家ではないが気持ちはよくわかる。

それほど大事にされたところから
生まれ出た訳文かと思うと
読む方も嬉しくなってしまうではないか。

 

自分の書いた作品が
自分の読めない言語に翻訳された、
ということを
すごく喜んでくれる作者もいる。

作者の自分が
まだ行ったこともない日本という国へ、
本だけが先に行ってしまった


作者が卵を産み、翻訳者がそれを孵し、
雛があちこちに散っていって、
想像もつかないような場所で
誰かに飼われている


ふとそんな光景を思い浮かべてみる。

「どうぞこれからもたくさんの雛を
 ドイツ文学の世界から
 日本に届けて下さい」
読みながら思わずそうつぶやいてしまった。

 

 

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2021年1月31日 (日)

匂いは言葉を介さない

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匂いは言葉を介さない

- 戦後の銀座だったり、キーホルダーだったり -

 

「銀座百点」という小冊子に
以前、久世光彦さんが
「風の子供」という短編を寄せていた。

今は、

に収められた一篇として
読むことができる。

戦争が終わって9年、
1954年の銀座を舞台にした
予備校生の「ぼく」と
3つ年上のムツコとの物語。

「ぼくは19歳になったばかりだった」
と冒頭にある通り、実年齢もピッタリゆえ
ぼくは久世さんご自身なのかもしれないが、
フィクションかノンフィクションかは
まぁどちらでもいい。

戦後の銀座の小さな公園で
ムツコとすごす夜のひととき。

古いブランコで遊ぶシーンを
こんな言葉で書いている。
(以下水色部、「風の子供」からの引用)

ムツコはぼくより度胸があって、
プランコを思い切り大きく漕いだ。

灰色の長いスカートが
ぼくの頭をかすめて舞い上がり、
目を見開いて笑ったムツコの
蒼白い顔の向こうに、
春のカシオペアが光って見えた。

小さな記述ながらなんとも素敵なシーンだ。

若いふたりの恋(?)のゆくえはともかく
今日、この短編を紹介したいと思ったのは
ある匂いの記述に、
思わず立ち止まってしまったからだ。

風向きがどんな風に変わっても、
戦争の匂いは
ぼくたちの公園に流れてきた。
それは獣の脂と、鉄と、瓦とが
混じり合って焼けた重い匂いで、
その中には、どうしてか、
注射液のような新しい薬品の匂いが
漂っているようだった。

一つの都市が丸ごと焼けた匂いは、
なんて執念深いのだろう。

戦争は9年前の1945年に
終わったというのに、
銀座の舗道には
若い柳が植えられたというのに 

- 焼け跡の匂いだけは、
どこからか湧いて出て、
ひとしきりそこらを這い回っては、
夜の貧しいネオンが点くころになると、
残念そうに振り返りながら消えていく。

戦争に敗けた国の街は、
どこだってそうなのだろうか。

私自身は、
戦後の銀座の匂いはもちろん知らない。
でもなぜだろう、
この文章を読んでいると
嗅いだことがあるような、
懐かしいような気さえしてくるから
不思議だ。

 

米国で盗難にあって、現金はもちろん
パスポートから帰りの航空券まで
すべてを盗まれたことがある。
ことの顛末はここに詳しく書いたが、
実は
盗まれたものの中で、
一番ショックだったのは、
イタリアのミラノで買った
お気に入りのキーホルダーだった。

イタリア出張時、私にしては珍しく
ちょっと高かったのに気に入って
衝動買いしてしまったものだった。

実はこのキーホルダー、
デザインや革の質感だけでなく
革の匂いがすごくよかった。

買ってすでに10年以上は経っていたので、
盗んだ犯人にとっては
ナンの価値もないものだろうが、
匂いはちゃんと残っていて、
嗅ぐたびに
イタリア出張時の
いろいろな思い出が蘇ってきた。

瞬間的に初心に帰ることができる、
まさに私にとってのみ価値があるもの。
そんな存在だった。

においってほんとうに不思議だ。

一切の言葉を挟まずに
ある記憶にトリップできる。

この「言葉を介さない」感があるがゆえに
ものすごく記憶が
生々しく迫ってくることがある。

冬の日曜日、
短編を読みながら
匂いについていろいろ思い返していた。

 

 

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2021年1月17日 (日)

お酒は二十歳になってから?

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お酒は二十歳になってから?

- 13歳が酒6合! 問題は無銭飲食 -

 

五年前の2016年も1月17日は
日曜日だったようだ。

ちょうど5年前の
その日のブログに書いたのだが、
この季節になると必ず見返すドラマに
「その街のこども」
がある。
ご興味があればリンク先の記事を読んで、
というかDVDにもなっているので
ドラマ自体をぜひご覧になってみて下さい。

11年も前のドラマなのに、
今年は17日(16日深夜)に
NHK BSプレミアムで再放送してくれていた。

ドラマの設定と同じような年齢で
阪神淡路大震災を実体験している
森山未來さん、佐藤江梨子さんの
自然な演技にも引き込まれるが
なんと言っても渡辺あやさんの脚本が
すばらしい。

しつこいようだが名作ゆえ
再度お薦めしておきたい。

 

閑話休題(!?)
私は、「成人の日」と聞くと
いまだに1月15日が浮かんでしまう
昭和のおじさんだが、
朝日新聞が
明治・大正期紙面データベースを
整えていた10年ほど前、
未成年の酒とタバコに関して
こんな古い記事を紹介していた。
(以下水色部、2009年4月3日の
 朝日新聞の記事から引用)

 

1922(大正11)年4月1日付けの夕刊は
「明日からお酒を飲むな
 警視庁は不良少年退治」
という見出しで
未成年者飲酒禁止法のスタート
を伝える。

1922年、
ほぼ100年前ということになるが、
つまり、それまでは
子供でもお酒を飲んで
よかったわけだ。

実際

1889(明治22)年に
13歳の少年が
 浅草公園のそば屋で
 そば7杯、酒を6合飲食したが、
 金がないので警察に突き出された」
という記事がある。

問題になったのは
飲酒のほうではなく、
無銭飲食のほう。

それにしても
そば7杯と酒6合とはすごい量だ。

 

では、タバコのほうは
どうだったのだろう?

未成年者の喫煙禁止法ができたのは
飲酒禁止法より20年以上早い
1900(明治33)年だ。

タバコの規制のほうが
ずいぶん早かったようだ。

いずれによ、どちらも
最初から決まっていたわけではない。

わずか100年ほど前のことでさえそう。

歴史を読むときは、
当時のルールは?と
今のルールを当然と思わないで読む視点を
いつも忘れてはならない、と思っている。

 

 

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2020年11月15日 (日)

「ぞろ目」コレクター

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「ぞろ目」コレクター

- 190円の後悔 -

11月11日、
中国では「独身の日」と呼ばれ、
ネット通販各社による
大規模な値引きセールがあって
毎年記録的な売上を記録しているらしい。

ニュースによると今年のこの時期
最大手アリババの取扱額は
7.9兆円に上ったというのだから凄まじい。
(日本のイオンの年間の売上高規模)

なぜ「独身の日」なのかは
1111を見ればまぁ容易に想像はつく。

日本でも「11月11日」を
日本記念日協会のページで見みてみると
49件もの記念日が並んでいた。

「ポッキー&プリッツの日」

「チンアナゴの日」
などは形のままでいいとしても

「たくあんの日」
については

  たくあん用の大根を
  並べてほしてある様子に
  似ていることと、
  たくさんの
  「1=わん=あん」
  があることから


なる説明がありツッコミどころ満載だ。

ちなみに、
日本記念日協会認定の記念日が
一番多いのは何月何日か
ご存知だろうか?

形やゴロ合わせの多彩さを思い浮かべて
ちょっと考えてみてほしい。

 


正解は、(2020年11月1日現在)
10月10日 で55件らしい。

二番目に多いのが
11月11日 と
8月8日 の49件とか。

どれも「ぞろ目」だ。

「ぞろ目」というと
古いこの記事のことを思い出してしまう。

040710zoro

2004年7月10日朝日新聞の記事
「こだわり会館」から
(以下水色部記事からの引用)


お茶の水女子大学名誉教授の
細矢治夫さんは

平成 1年11月11日
平成 2年 2月22日
平成 3年 3月 3日
平成 4年 4月 4日
平成 5年 5月 5日
平成 6年 6月 6日
から
平成11年11月11日
まで
「ぞろ目」の定期券を
ことごとく持っているとのこと。

細矢さんは

今日が6月6日なら、
朝早く駅に出かけて6時6分の
切符を買わずにいられない。

らしいが、
その「ぞろ目」コレクションは
600点を超えるという。


自分の車についても

この車の走行距離が
111111kmに達した日、
トリップメーターも
111.1kmにそろえて
バッチリ撮影。

 

大学の教え子も

平成7年7月7日
消費税分まで割り出して
777円のレシートを確保。

と協力を惜しまない。

そのコレクターぶりには
偏執的な熱意を感じるが、記事は
こんなエピソードにも触れていて
なんとも憎めない。

平成3年3月3日のこと。
発行番号「3333」の
330円の切符を買おうと、
準備運動のつもりで
140円の切符を買ったら
「3333」が出た。

今も
「なぜ190円をケチってしまったか」
を大いに後悔しているという。

 

ところで、
2020年11月11日を8桁で表わした
20201111
は一見素数のようなにおい(?)がするが、
7で割れてしまい素数ではない。

近い範囲では、その2日後の
20201113
が素数。

今年の年末から新年にかけては面白くて
20201231
20210101

はどちらも素数。
(双子素数ではないけれど、
 名前を付けたくなる連続(?)素数だ)

9年後の年末年始
20291231
20300101

も素数が連続となる。

 

「ぞろ目」といい
「日付8桁の素数判断」といい
興味のない人にとっては
まさに「どうでもいいこと」だろうし
実質的に社会や何かの
役に立つようなことでもない。

それでも、
つい熱くなってしまったり、
思わず書き残してしまいたくなったり
する人がいる。

ハイ、私もそのひとりです。
というわけで今夜はこのネタで
記録を兼ねて
記事とさせていただきました。

 

 

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2020年10月25日 (日)

「人を撮ること」

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「人を撮ること」

- そこに写っていてほしいのは -

 

写真家の長島有里枝さんが、
たった1ページながら
素敵なエッセイを
雑誌すばるに寄せていた。

題は
「人を撮ること」

今日はこれを紹介したい。
 
長島有里枝
「人を撮ること」
雑誌 すばる2020年7月号
集英社

(以下水色部はエッセイからの引用)

長島さんは、雑誌で見かけた
「撮りたいと思う人だけにカメラを向ける」
という言葉をきっかけに
「写真を撮る」ということについて、
改めて見つめ直している。

話は、中学生のときの
「特定の人を撮りたい」の
小さな思い出話から始まる。

林間学校で、好きな男の子が
友達と歩いているところをこっそり、
「写ルンです」で撮影した。

あの写真は、特定の「撮りたい人」が
写っていなくてはならない類の
ものだった。

でもそれも、別の欲望が叶わないから
「撮りたい」と思うだけで、
「本当に」撮りたいわけでは
ないのかもしれない。

「写ルンです」で
遠くから撮影した写真。

喋りたい、仲良くなりたい、
彼女になりたい。

そういう欲望が満たされたとき、
何十メートルも
離れたところから撮影した、
どっちが友達で
どっちが彼かもわからないほど
小さな、ジャージ姿の人間が
二人写っているだけの写真を、
それでもまだ大切に
持っていたりするものだろうか。

シンプルな記述ながら
写真の表現が実にいい。
まさに目に浮かぶようだ。

そして、
「大切に持っておくだろう」
と続けている。

なぜならそれは、

自分が初めで撮った彼の写真であり、
そのときの自分たちの関係の
暗喩ともいえる距離や、
初めて隠し撮りをする
女の子の気持ちなどが
正直に記録されているという意味で、
かなり興味深い写真だと思うからだ。

写っている人ではなく、むしろ
「人と人との関係性」や
「撮影者の心情」
が写しとられていることにこそ
興味があるようだ。

わたしにとって、
写真というのはむしろ、ある時点での
世界全体の状態を記録するメディアだ。

切り取られた画面に収まっている
部分の単純な記録ではなく、
被写体が人なら、
その人が対峙する世界と
その人との関係性が、
そこに写っていて欲しい。

自身がブロマイドに興味がなかったのも
これが理由だと気づく。

欲張りだから、
好きな人を堂々と見つめたり、
写真に収めて所有するだけでは
満足しないのだろうか。

知りたいのはいつも世界のことで、
誰かの表面にさえ、
それが見たいと思う

家族の表情を捉えた作品等、
長島さんの撮った写真が
高い評価を得てきたのは、
そういった思いが
まさに作品に反映されてきたからだろう。

誰かの表情にさえ、
世界はちゃんと写っている。

 

 

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2020年10月18日 (日)

栗の皮むき

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栗の皮むき

- 冷凍したあと熱湯に入れて -

 

毎年秋になると知人が
地元で採れた栗を送ってくれる。

ほくほくとした秋の味覚は
まさにこの時期限定で、
いつも「栗ご飯」などにして
おいしくいただいている。

というわけで味のほうは申し分ないのだが、
ご存知の通り、栗は皮を剥(む)くのが
けっこうな手間だ。

夫婦でそれぞれ包丁をもち、
黙々と鬼皮、渋皮と格闘することになる。

専用のハサミもあるようだが、
年に何回かのことなので、
なかなか購入にまでは至っていない。

すると今年は、ちょうど栗の季節に
SNSにて、こんな情報を目にした。

「栗を一晩冷凍。
 冷凍した栗を熱湯に入れて
 5分ほど放置。
 その後、剥くと、
 渋皮も含めて簡単に栗の皮が剥ける」

ほんとうだろうか?
実際にやってみることにした。

 

まずはこれをご覧あれ。
この方法、
うまくいくとこんな感じで剥ける。

2010chestnut1

すばらしい!
渋皮も一緒にまさにツルッと剥ける。

剥きにくいうえ、ある厚さで渋皮を
剥かなければならなかったことを考えると
実が100%食べられることもうれしい。

2010chestnut2

 

とまぁ、完璧のように書いてしまったが
正直に結論だけ申し上げると
打率(!?)はそれほど高くなかった。
今回、合計で21個を剥いて
「渋皮が簡単に剥けた」のは
7個だけ。

2010chestnut3

ざっくり言って成功率三割、
という感じだろうか?

ほかは、これまで同様
包丁にて渋皮を剥く必要があった。

SNSを見ると
ほかにもトライしてみた方は多く、
成功率も人によって様々なようだ。

「熱湯を二度かけて
 熱いうちに剥くほうがいい」

など経験に基づくアドバイスを
してくれている人もいたので
一部試してみたりもしたが、
どうも決定的なものはないようだ。

まぁ、三割と言えども
やってみる価値は十分ある。

とにかく、剥き始めないとわからないので
「これは成功例かな?」
と期待しながら栗を手に取れるだけでも
退屈な皮むきの気分がずいぶん変わる。

 

そうそう、もうひとつ肝心なことを。
一旦冷凍することによる
味の劣化が気になっていたのだが、
そこはあまり心配しなくてもよさそうだ。

ホクホクとおいしくいただくことができた。

栗の皮むきで苦労している方、
成功率を気にしなければ
トライしてみる価値は大だ。

 

 

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2020年10月11日 (日)

ヘンリ・ライクロフトの私記

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ヘンリ・ライクロフトの私記

- 自然、孤独、本とともに -

 

4月の緊急事態宣言以降、
急に耳にすることが多くなった「在宅」。

家で静かに過ごす、というと
ウイルスとは全く関係ないものの
この本を思い出さずにはいられない。

ギッシング (著), 平井正穂 (訳)
ヘンリ・ライクロフトの私記
岩波文庫

(以下水色部は本からの引用)

ヘンリ・ライクロフトは、
ロンドンで文筆家として
なんとか生計を立てていたが、
「他人に借金したことがない」が
自慢話になる程度の
貧乏生活を強いられていた。

そんな彼に、50歳のとき、
思いがけず遺産が舞い込む。

経済的な悩みから開放された彼は、
南イングランドの片田舎に隠退し、
豊かな自然に囲まれながら、
本を愛し、散歩を楽しみ、
思索にふけって余生を過ごす。

その静かな日々を綴ったのがこの私記だ。

季節ごとに
ただただ淡々と平穏な日々が流れる。
事件と呼ばれるようなものは
何もおこらない。

それでも(今見ると妙に活字が小さく見える)
文庫版約300ページを
どんどん読み進められるのは、
「何もおこらない生活」にこそある
思索の世界の豊かさや魅力が
言葉の向こうに見えてくるからであろう。

と、こう紹介すると
いかにも実在した人物のような
気がしてくるかもしれないが、
ヘンリ・ライクロフトは
著者ギッシングが創作した架空の人物だ。

ギッシングが
ヘンリ・ライクロフトに
自分自身の思いを語らせているのは
間違いないと思われるが。

 

ゆったりとした散歩の記述を
ちょっと見てみよう。

いつまで散歩していようと
私は少しも構わないのである。
家に戻らなければならない用事もない。

どんなに遅くまでぶらついていても、
心配したり気をもむ人もいない。

春はいたるところの小道や
牧場の上に輝いている。

道すがら、足もとから岐(わか)れてゆく
あらゆる曲折した小道に
踏みいってゆかなければ
申し訳ないような気がする。

春は長いこと忘れていた
青春の力をほのぼのと蘇らせてくれた。
私は疲れを忘れて歩く。
子供のように歌をくちずさむ。
子供の頃覚えた歌である。

また、あるときは

リンゴの花が満開であった。
私がそれに見とれていると、
それまで一日中
あまり照らなかった太陽が
急に赫々(かくかく)と照りだした。

そのときの光景は
とても私にはいい表わせない。
あの花咲ける谷間の静かな美しさは、
ただただ私の夢の中に
幻のように浮ぶのみだ。

近くには蜜蜂がうなっており、
少し離れた所では
カッコーが鳴いていた。
下の方の農場の牧場からは
羊の鳴き声が聞こえていた。

静かで穏やかな自然の中の散歩が
なんとも心地よい。

豊かな自然の中でのひとり暮らしを
心から満喫しながらも、

文章の一節を朗読したくなるとき、
だれか側にいてそれを聞いてくれたら
どんなに楽しいだろうと
思うことがときどきある


全く、切実にそう思うのだが、
さて、しかし、
琴線の触れ合うような理解を
どんな場合にも期待できる人間が、
はたして一人でもこの世に
あるであろうか。

いや、およそのところでいい、
鑑賞の点で私とほぼ意見の一致する人が
あるであろうか。

理解力のこのような一致は
実に稀有なことだと思う。

全生涯を通じて
われわれはそれに憧れている

正直に綴られるこんな真情の吐露が
人格を立体的に浮かび上がらせる。

英国文学や
ヨーロッパ文芸の素養がないと
唐突に登場したように思える
「尊敬、愛情、服従、多くの友人」
といった言葉が、
 シェイクスピアの『マクベス』
 第5幕第3場25行
からの引用であることなどは、
巻末の9ページに渡る『訳者注』が
おおいに助けてくれる。

英国人の教養、英国人の考え方
を学ぶ蘊蓄的要素も

イギリス人は、なにはともあれ
おうように生活することを望む


だからこそ、
貧乏を恐れるばかりでなく、
貧乏を憎み、軽蔑するのである。

イギリス人の美点は、大まかな、
心の温い金持ちのそれである。

イギリス人の弱点は
金を払うことも与えることもできない
人間の心につきものの劣等感-
非常な苦痛と屈辱感にみちた
あの劣等感から生まれる。

イギリス人の背徳行為の大半は、
安定した地位を失うことから生じる
自尊心の欠除がその原因となっている。

のように随所にあるが、
それを知ることを目的にしてしまうと
この本の魅力は伝わらない気がする。

100年以上も前の
1903年に単行本となったこの私記。

自然、孤独、本、
そういったものを
心から味わう静かな生活が
どんな世界を見せてくれるのか、
読むたびに新しい発見のある古典だ。

 

 

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