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2022年7月 3日 (日)

高橋是清の少年時代 (3)

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高橋是清の少年時代 (3)

- 詐欺被害から放蕩生活へ -

 

前回に引き続き
高橋是清の少年期を追ってみたい。

前回までの分を簡単に振り返ると、

 11歳のとき横浜で英語を学び、
 14歳で渡米。米国にて
 奴隷契約書にサインさせられるものの
 日本における
 江戸から明治への大転換を知り、
 帰国を決意。
 奴隷契約破棄をなんとか実現して
 帰国の途に。

 朝敵の汚名をきせられた
 仙台藩士だったゆえ
 外国人をよそおって日本に帰国。

 その後、森有礼らの助けをえて
 大学南校に入学するも
 英語が堪能だったためすぐに教官に。
 まだ16歳。

高橋少年はその後・・・


参考図書は、

大島清 (著)
高橋是清 - 財政家の数奇な生涯
中公新書

(以下水色部、本からの引用)


大学南校の教官になったものの、
これまで学校でちゃんとした教育を
受けた経験がない高橋は、
大学南校に教頭として招かれた
フルベッキ博士の役宅に同居しながら
歴史書を回読、
聖書の講義を聞き、
勉強に身を打ち込んだ。

ところが、ここにまた
とんでもないつまずきの原因が
あらわれた。

そして、彼は放蕩生活の
どん底へ転落していった

詳しくは本に譲るが、
大学南校の生徒のために、
250両を都合してほしい、
との依頼が高橋にくる。

もちろん本人にそんな金はないので
遠い親類の商人に頼み
なんとか都合してもらうのだが、
金を受け取った依頼人は、
「お礼の一席」を設けたいと
両国の立派な日本料理屋に
高橋を主賓として招待する。

普通なら、
ここで一ぱい食わされたと感づき、
金の回収をするところであろう。

・・(中略)・・

しかしこのばあい、
やはり数えで十六歳という
幼さを見るべきではなかろうか

金をだまし取った犯人たちが設けた
芸妓たちにちやほやされる
一席をきっかけに、
遊びをおぼえた高橋は
フルベッキ邸を出て、
放蕩生活にのめり込んでいく


あるとき芸妓をつれて
浅草の芝居をみにゆき、
芸妓の長襦袢を着て
さかんに痛飲しているところを、

大学教官に見られて辞表提出。

収入もなくなり、蓄えも使い果たし、
書物も衣類も一切売り払ってしまう。

高橋は、そのたびに
現在の自分を悔いるのだが、
溶けこんだ放蕩は
どうしても止められなかったようだ。

家主からも疎んじられるようになった高橋は
とうとう、馴染みの芸妓に
引き取ってもらうこととなる。

自分で自分に愛想がつきて

いたころ、ついにあの話がやってくる。

知り合いの世話で、
「唐津藩が英語学校をつくるので、
 その教師となって赴任する」
という話が舞い込んできたのだ。

高橋は、月給の前借りをして
*洋服を整え
*借財の始末をし
そして
*(借りた)250両の元利を
 月給から返していく証文を整えた。

かくて、
唐津藩の英学校耐恒寮の教師となって、
唐津へいったのは明治四年、
かれが十八歳ときであったから、
その意気あたるべからず、
英学を白眼視する保守派を向うにまわして、
大酒をあおりながらも、
寮の施設を
しだいにゆるぎないものにした。

駆け足ながらようやく耐恒寮赴任までを
書くことができた。

教師としての赴任とは言え、
それでもまだ18歳。

ここで、彼らに出会うことになる。

彼ら、の話は次回に。

 

 

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2022年6月26日 (日)

高橋是清の少年時代 (2)

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高橋是清の少年時代 (2)

- 奴隷契約にサインさせられ -

 

唐津観光でみかけた案内板から始まった
高橋是清と
辰野金吾、曽禰達蔵らへの興味。

前回に引き続き
高橋是清の少年期を追ってみたい。

参考図書は、

大島清 (著)
高橋是清 - 財政家の数奇な生涯
中公新書

(以下水色部、本からの引用)

11歳のとき横浜で英語を学び、
14歳で米国に送り出された高橋是清。

渡米した高橋は、
サンフランシスコの
ヴァンリード家に住み込むが、

学校へもやってくれないだけでなく、
料理番から部屋掃除、
使い走りまでやらされる。
お昼ごろになると、細君が
「パンにパターをつけ、
 それにプドーか何かを
 一房くらいくれて、
 それを部屋の外の
 飼犬が食っている場所で
 食べたがよいという」

その後、老ヴァンリードの紹介で
オークランドのブラウン家に
移ることになる。
その際、公証人役場で
内容の理解できない書類に
14歳の少年はサインさせられる


ブラウン家では、当初
元気に働きながら、
夫人から英習字を習ったり、
読本を教わったりしていたが、
途中で中国人のコックと衝突。
暇を申し出た高橋に主人は言った。

「お前は勝手に
 暇を取って帰るわけにはゆかぬ。
 お前の体は、三年間は
 金を出して買ってあるのだ

このとき初めて役場でサインした書類が、
身売りの契約書であったことを知る。

そのころ、日本では
孝明天皇が36歳で崩御、
明治天皇が即位、
そしてその年(1968年)の10月には
倒幕の密詔が薩長の二藩に下りと、
政治的な大転換が進んでいた。

友人の世話で
日本人の店を手伝っていた高橋は、
その店でそういった日本の情勢を
知ることになる。

そんな中
津、仙台、庄内などの諸藩が
 朝敵の汚名をきせられ・・・

の報が入ってくる。

幕府からもらった渡航免状には
「仙台藩の百姓」
となっていた高橋。
じっとしていられなくなる。

他の留学生とも相談。
4人の留学生が帰国する決心をする。

しかし高橋の場合、
先の奴隷契約書破棄が必要だ。
その難題も留学生の協力をえながら
領事らに働きかけてみごとに達成。

1968年、サンフランシスコから
横浜を目指して帰国の途につく。

とは言え、

朝敵の汚名をきた藩士であるから、
いきなり日本へ帰ることは、
どんなとがめをうけるか判らない。

安心して帰れる状況ではなかった。
横浜では

外国人をよそおって
英語をペラペラしゃべりながら、
運上所(税関)を突破

その後、森有礼の世話で
東京大学の源流となる大学南校に入学する。

もちろん生徒としての入学であったが、
英語ができることを理由に
わずか数ヶ月後には
「教官三等手伝い」を
命ぜられることとなる。

高橋はこうして数え年16歳で
大学南校の教官として
英語を教えることになった
が、
しかし過去においてかれは
正規に学校へ入ったこともなく、
精神生活においては、横浜で
ヘボン夫人から英語をならったとき、
少しばかりの宗教的な話を
きいただけであった。

ここまで来てもまだ16歳。

高橋少年の唐津赴任までの話。
次回も続けたい。

 

 

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2022年6月19日 (日)

高橋是清の少年時代 (1)

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高橋是清の少年時代 (1)

- 私生児から14歳で米国へ -

 

前回
旧大島邸の案内板にあった
この文言を紹介した。

唐津藩の英語学校、
耐恒寮(たいこうりょう)において、
東京駅を設計した
辰野金吾(たつのきんご)
同じく著名な建築家である
曽禰達蔵(そねたつぞう)らとともに、
後の蔵相、首相を務めた
高橋是清の薫陶を受け、
・・・・

この一文は、
私の唐津への関心を一気に高めてくれた。

唐津藩の藩校では、
高橋是清が教壇に立ち、
生徒には辰野金吾と曽禰達蔵がいた、
と言っているわけだ。

知らなかった歴史との出会いがあるから
旅は楽しい。

そもそも高橋是清についても
「二・二六事件で暗殺された元首相」
程度のことしか知らないレベルなので、
「藩校の先生」、しかも教え子には
のちに名建築を残す建築家の名が並んでいる、
というのがどうもイメージできない。

というわけで、まずは高橋是清から、と
下記の本を手にしたわけだが、
その一生はまさに数奇なものだった。

大島清 (著)
高橋是清 - 財政家の数奇な生涯
中公新書

(以下水色部、本からの引用)

唐津と繋がりができるまでの
エピソードだけでも少し紹介したい。

といっても、実は
高橋が唐津に先生として赴任したのは
わずか18歳のとき。

耐恒寮(たいこうりょう)で出会ったとき、
教師 高橋是清 18歳
生徒 辰野金吾 18歳
生徒 曽禰達蔵 19歳
この年令構成を見ただけでも
興味は深まるばかりだ。

 

高橋是清は安政元年(1854年)、
幕府の絵師川村庄右衛門の家に
奉公していた侍女
北原きん(このとき16歳)の
私生児として生まれた

このとき庄右衛門47歳。

庄右衛門は和喜次(わきじ)と名付け
自分の子としても認めたが、
家には6人の子があったため、
生後3,4日のうちに、
仙台藩の足軽
高橋覚治是忠(これただ)の家に
里子に出された

その後菓子屋への養子の話もあがるが、
是忠の養母喜代子が強く反対し、
実子是清として届け出る

ともかく、
高橋は私生児として生まれ、
里子に出され、
養子にやられるという、
こみいった事情に育ちながら、
私生児にありがちな劣等感や
性格の暗さなど全然ない。

逆にあけっぱなしで、思ったことは
歯に衣をきせることなくいい、
いつもにこにこしているので、
人に憎まれることのない
楽天家として一生をおわった


(中略)

このような性格は
もちろん天成のものと
いえるのであろうが、
しかし祖母喜代子の厳しいしつけと
暖かい思いやり
に負うところが
大きかったことは
見逃せないところである。

 

そのころ、
藩の江戸屋敷に
大童信大夫(だいどうしんだゆう)という
居留守役がいた。
大童は福沢諭吉とも親しかった男だが

これからの人間は外国の事情を
勉強しなければならない
という
考えをもっていて、
洋学の勉強をする若い武士などに
とくに目をかけた。

(中略)

足軽小者の子供のなかから、
英語の勉強に
まず横浜へ派遣することをかんがえ、
結局高橋と
鈴木六之助
(のち日本銀行出納局長鈴木和雄)
を選んだのである。

1864年、同年の二人は11歳で
横浜居留地のヘボン博士のもとへ
英語を習いに通うようになる。

このときも祖母喜代子は、藩に頼んで
横浜に急造の一戸を建ててもらい、
二人の炊事から身のまわりの
世話をやいたという。

そのころの社会情勢をちょっと見てみよう。

文久2年(1862年)
 1月 坂下門の変
 4月 伏見寺田屋事件
文久3年(1863年)
 5月 長州藩攘夷実行
 7月 薩英戦争
 8月 尊攘激派が京を追われる
元治元年(1864年)
 7月 蛤御門の変
 8月 四ヵ国連合艦隊の長州攻撃

このような社会体制の変革期に、
少年時代をすごしている高橋にとって、
積極的に
海外へ眼を向けさせてくれた人たち、
大童や祖母があったことは、
幸運というほかない。

高橋は、横浜で英語をみっちり学び
慶応3年(1967年)7月、
正式に藩からアメリカへ
派遣されることになった。
このときまだ14歳。

高橋は祖母の手製の洋服と
古道具屋で見つけた
婦人靴をはいて出かけた。

ところが渡米後、高橋には
「奴隷として売られてしまう」
という運命が待っていた。

長くなってきたので、
続きは次回にしたい。

 

 

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2022年6月12日 (日)

大島小太郎と竹内明太郎

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大島小太郎と竹内明太郎

- 唐津への関心を一気に高めた一文 -

 

佐賀県・唐津市観光。
旧高取邸に続いて立ち寄ったのが
大島小太郎の旧宅、旧大島邸

P5011770s

案内板に次のような説明がある。

大島小太郎の旧宅

大島小太郎は、
唐津藩士、大島興義(おきよし)の
長男として唐津城内に生まれました。

唐津藩の英語学校、
耐恒寮(たいこうりょう)において、
東京駅を設計した
辰野金吾(たつのきんご)
同じく著名な建築家である
曽禰達蔵(そねたつぞう)らとともに、
後の蔵相、首相を務めた
高橋是清の薫陶を受け、
明治18年(1885)には
佐賀銀行の前進となる
唐津銀行を創立しました。

この一文を読んでから
私の唐津への関心は一気に高まった。
まさに知らなかった歴史との出会い。
これは調べねば。整理せねば。
というわけで、本件については
のちほど改めて書きたいと思う。

まずは大島邸をゆっくり見て回ろう。
建物は純和風で、
畳と襖(ふすま)が美しい。

P5011775s


華美ではないが、
さすが実業家の邸宅。
廊下にはこんな説明が。
「床は一本松で出来ています」
一枚板の長さに驚く。

P5011774s

大島小太郎は、
* 唐津銀行を創立したが、
その後も、
* 鉄道(現在のJR筑肥線)の敷設
* 道路の敷設
* 市街地の電化
* 唐津湾の整備
など、唐津の近代化に大きく貢献した。

P5011778s

 

この邸宅、実は移築されたもので、
現在、旧大島邸の建っている場所には 
(1886年-1922年の36年間)竹内明太郎
住んでいた。
つまり現旧大島邸は、
竹内明太郎邸跡とも言える。

この竹内明太郎も多くの業績を残している。
明太郎の父 綱(つな)は、前回書いた
高取伊好(これよし)とも関係が深い。

1885年:明太郎の父 綱(つな)は
    高取伊好とともに
    芳ノ谷炭鉱の経営権を取得。

1886年:経営を任された明太郎が
    (土佐藩宿毛領から)唐津に赴任。
    最新鋭の鉱山建設に着手。

1909年:唐津市妙見に
    「芳ノ谷炭鉱唐津鉄工所
     (現唐津プレシジョン)」新設
    我が国を代表する
    精密機械工場のひとつに。

P5011779s

他にも
* 早稲田大学理工学部 設立
* 私立高知工業高校(現高知県立工業高校)
  設立

* 小松鉄工所(現小松製作所)設立

* 田健治郎(九州炭鉱汽船社長)
  青山禄郎とともに、
  国産第一号自動車DAT自動車を開発した
  快進社(のちのダットサン、
  日産自動車の前進のひとつ)を支援。
  ダットサンのDATは
  田(でん)、青山、竹内のイニシャルから。

などなど唐津に留まらない広い範囲で
大きな足跡を残している。

 

次回からは、最初の案内文にあった
高橋是清、辰野金吾、曽禰達蔵の
3人について書いていきたいと思う。

 

 

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2022年6月 5日 (日)

唐津城とまちに残る石垣

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唐津城とまちに残る石垣

- 歴史がそばにある -

 

初めて訪問する佐賀県唐津市。

まずは唐津城から。

P5011757s

唐津城は、
松浦川が唐津湾に注ぐ河口の左岸、
満島山に位置している。

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北面は唐津湾に面しており、
城の石垣が海にそびえる
城としては珍しい場所に位置している。
観光用案内板にもこんな城下町絵図が。

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本丸の外側、二の丸御殿跡は
今は早稲田佐賀中学校・高等学校に
なっているが、
石垣はそのまま使われているようだ。

P5011754s
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城の石垣(と思われるもの)は、
市街地化された場所でも
あちこちで目にする。

P5011747s
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最初に立ち寄ったのは旧高取邸
炭鉱主として成功した
高取伊好(たかとりこれよし:1850-1927)の
旧宅

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建物の規模が最大になった
昭和初期の状態が復元されている。

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和風を基調としながらも
居室棟に洋間があったり、
大広間棟には能舞台が設けられていたりと、
見どころは多いが、
残念ながら館内での写真撮影は
許可されていない。

P5011722s

居室棟の周りには
土蔵、食料庫、使用人湯殿、家族湯殿、
貯蔵庫(ワインセラー)などもある。

写真が許されていた庭からの一枚。

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高取邸の周りにも
石垣がそのまま残っている。

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旧高取邸の近くには、
埋門(うずめもん)と呼ばれる
城から海岸に出るための出入り口門の
跡もある。
ここにも石垣が。

P5011717s

随所に残る石垣は、
本丸、旧高取邸、といった
いわゆる観光名所にいる時だけでなく、
なにげない散策の途中ででも
「歴史がそばにある」を感じさせてくれる。
歩いてこそ楽しめる雰囲気だ。

 

 

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2022年5月29日 (日)

九州・佐世保 一日観光

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九州・佐世保 一日観光

- もう少し近くに寄らせて -

 

新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の
広がりにより
旅行できない期間が長く続いていたが、
この5月、久しぶりに出かけられたので、
メモと写真を残しておきたい。

訪問先は、初訪問となる九州・佐世保と唐津。
唐津では知らなかった歴史との出会いがあり、
旅を機会にまた世界が広がったのだが、
まずは佐世保から書き始めたい。

(1) 九十九島

佐世保観光の目玉のひとつ、
九十九島はいろいろな場所から
楽しむことができる。
全景を、ということであれば
石岳展望台からの眺めは特にお薦めだ。

P4301661s

ハリウッド映画「ラスト・サムライ」の
ロケ地になった、という案内も出ているが、
島々の景色はほんとうに美しい。

P4301672s

遊覧船に乗って海から眺めるのもいい。

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200人も乗れる規模の遊覧船ながら、
かなり狭い島の間にグングン入っていく。

P4301624s

船上では
「九十九島と言いますが、
島の数は99ではなく、208もあるのです」
とのアナウンスが流れている。

海面を眺めていると
明らかに島と呼べるものもあるが、
海中の岩山のようなものもある。
はて?
何をもって「島」と呼べるのだろう?
そう思いながら船を降りると、
観光案内所には
ちゃんと「ここでの島の定義」が出ていた。

 1年中で一番潮位が高い時に
 水面から出ていて、
 陸生の植物が生えている陸地を
 「島」と定めて数えると、
 九十九島には208の島があります。


なるほど。
陸生の植物が生えていることが
条件のひとつなンだ。

 

(2) 旧佐世保海軍工廠 修理艦船繋留場
   (立神係船池)


弓張岳(ゆみはりだけ)展望台まで登ると
九十九島方面とともに
佐世保の街を一望できる。

P4301607s

その中でも特に印象的なのは
中央右に見えている
旧佐世保海軍工廠 修理艦船繋留場
(立神係船池)。

工廠は「こうしょう」と読む。
軍需工場のことで、
武器・弾薬をはじめとする軍需品を
開発・製造・修理・貯蔵・支給するための
施設。

P4301606s

「凹字状の構造物が工廠の中核施設だった
 修理艦船繋留場(立神係船池)」
との説明案内板が設置されているが、
ご覧の通り、まさに図面のままの形の施設を
眼下に望むことができる。

凹字状の岸壁は総延長1,699m。
常時海水に触れる面に
大規模にコンクリートが用いられた
初めての岸壁だ。

驚くのはその製造年。
明治39年(1906)からの11年

今から100年以上も前に、
耐海水コンクリート技術が
確立していたわけだ。

コンクリート構造物の本格的な海洋進出の
画期となった建造物ということになる。

 

(3) 佐世保重工業(株)佐世保造船所
   (旧佐世保海軍工廠) 施設群


思わず足が止まってしまう
第七船渠(現第四ドック)。

P4301643s

昭和15年(1940)に完成。
全長343.8m、全幅51.3m。
この写真でその大きさが伝わるだろうか。
写真中央の小さな白い点が一台の自動車。

昭和16年7月には
三菱長崎造船所で建造中だった
戦艦武蔵が入渠し、
スクリューや舵、水中聴音器など
艤装の一部を行っている。

クレーンを始め、
なにもかもが巨大で興奮してしまうが、
その圧倒的な迫力は
写真や言葉ではなかなか伝えられない。
全身で体感するしかない、感じ。

P4301660s

いずれにせよ、
これら佐世保重工業の巨大施設は
観光客向けには公開されておらず、
近くを走る道路の歩道から
柵ごしに眺めるしかない。
まさに覗き見だ。

 

(4) 佐世保バーガー

市内の
一直線の長~いアーケード商店街も
シャッター商店街にはなっておらず、
人通りも多く賑わっている。

P4301684s

お昼には、
「佐世保バーガー」を選んでみた。
1950年ごろに米軍関係者から持ち込まれた
ハンバーガーらしいが
特に変わった点があるわけではない。

作り置きしていないので、
待たされるものの、できたてを
美味しくいただくことができる。

店内には
「Where Are You From?
 Plz put the Pin」
(どこから来たの?ピンをさして)
のメッセージとともに
世界地図が貼ってあった。

P4301686s

ピンひとつひとつに
ここ佐世保のハンバーガー屋さんに
立ち寄ったことの物語があるかと思うと
打った人にいろいろ話を聞いてみたくなる。

 

一日観光を楽しんだ佐世保。
九十九島の自然はほんとうに美しかったが、
欲求不満なのは佐世保重工業の巨大施設。

観光客がもっとそばで見られるような
観光資源化はしてもらえないものだろうか?
工場としての実作業を邪魔することなく
だれもが見られるようにすることは
可能だと思うのだが。
もちろんガイド付きツアーでもいい。

柵の外からの覗き見しか手段がないなんて
あまりにももったいない。
その巨大さにも、歴史にも
ワクワクさせる要素があるので
多くの観光客を惹きつけることができると
思うのだが。

 

 

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2022年5月22日 (日)

あの世とこの世が近くなる

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あの世とこの世が近くなる

- 都会の生活には影がない -

 

法事で佐賀県のお寺に行ってきた。

本堂でお経を聞き、
住職さんとゆっくり話をし、
墓参りをしていたら
普段宗教のことなんて
ほとんど考えていないのに、
独特な世界観というか空気感に包まれて、
不思議な気分になった。

P4291517s

佐賀の静かな田舎の景色の中、という
お寺の立地条件も
大きかったかもしれない。

私自身は宗教に浅いので、
宗教的なものとはちょっと違うと思うが、
それでも
数珠を手に何度も合掌を繰り返していると
「死んだ人とともにある」
ということを
ごく自然に感じることができる。

子のいない人はいても
先祖のいない人はいない。
「死んだ人」と無関係に存在している人は
ひとりもいないのだ。

都会での生活は、
「死んだ人を切り離してしまっている」
というか、
「生きている人だけで
 回している気になっている」。

でも、それは、
ものすごく不完全で
不安定なことなのではないか、
そんなふうに思えてきた。

死んだ人は、
今生きている人の影みたいなもので、
常に一対となって存在している。
そのことが生きている人を
まさに立体的に
してくれているのではないだろうか。

都会の生活にはその影がない。
突然感じた不完全さとは、
そういう感覚に
起因しているのかもしれない。

 

佐賀で感じたそんな思いを友人に話したら、
おもしろいコメントを返してくれた。

「田舎に行くと
 あの世がこの世とずいぶん近い感じで、
 それはいいことだと思うんだけど、
 その田舎に行くのが遠すぎて・・・」

「田舎に行くとあの世とこの世が近くなる」
名言だ。
記録を兼ねてここに残しておきたい。

 

 

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2021年12月26日 (日)

生き物はすべて騒がしい海にいる

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生き物はすべて騒がしい海にいる

- 分身が誕生する場所 -

 

イタリアでの精神病院廃絶の物語から
精神医療だけでなく
 正常と病(やまい)、
 精神と身体、
 地域と社会、
 抑圧と自由
などについて深く考察している

松嶋 健 (著)
 プシコ ナウティカ
 ―イタリア精神医療の人類学
世界思想社

(以下水色部、本からの引用)

からキーワードをピックアップする6回目。
個人的に感銘を受けたため
6回も書いてしまったが、
今日で一区切りとしたい。

プシコ ナウティカ(魂の航海)
近づいてみれば誰一人まともな人はいない
治療ではなく「社会の保護」が第一目的
地域精神保健と「住まう家」
地域が壁のない精神病院にならないように

イタリアでもかつては、
「訓練」あるいは「作業療法」と称して
精神病院の入院患者に
単純作業をやらせることが
広く行なわれていたが、
それがいかに人間から希望を奪い、
非人開化するかが認識されてからは、
そのような「にせの労働」は禁止された。

生に向き合うとは、
「人間」に向き合うことだ。

自らの行動が物事に因果関係を
引き起こすことをはっきりと感じられ、
そのフィードバックを利用して
自らの行動を調整し制御していく。

そうしたフィードバックの環が
環境とのあいだにちゃんと
働いていることが<主体性>にとって
不可欠
なのである。

逆に言えば、そうした「効力感」を
得られるような活動や環境から
切り離されたときには、
人は<主体>であることも、
「人間」であることも難しくなる。

精神病院に隔離されるというのは、
まさにそうしたフィードバックの環を
切断されるという経験
である。

たとえ地域で暮らしていたとしても、
効力感を得られるような活動から
切り離されているなら同じことである。

そうした試行錯誤を経て、
精神病院の廃絶は、
「生きること」を支援する地域の活動に
つながっていった。

イタリアで、
精神医療から精神保健への
転回がなされたとき、
問題はもはや「心」や「精神」を
治療することではなく

「生きること」に定位し、
「生きること」をどう支援していくか
に変わった。

「精神」の健康は、
「生きること」のなかに、
人々のあいだで
生きていく過程において
得られるものだ
ということである。

そこで忘れてはならない言葉に
「集合性」がある。

集合性の次元とは、
見えない大気や風のようなものである。

潜在的な行為は、
集合性の次元があるおかげで
現働化することができる。

その海は、凪いだり、波打ったり、
渦を巻いたりしている。

人間を含んだ生きものは、
「すべて騒がしい海にいるのである」

騒がしい海こそ、生きるために必要なのだ。

重要なのは、
凧を揚げ、音楽を演奏するには、
大気がある
具体的な場所が必要であるように、
人が<主体性>を行使するためにも、
具体的で現実的な<集合性>の場所が
必要だということである。

<地域>とは、そうした
<集合的主体化>の現働化の場所
なのである。

医者と患者との
一対一のインタラクションではなく、
もっと色々な人やモノを巻き込んだ
集合的な作業、
音楽の合奏のような共同作業。
定型的なマニュアルはないけれど
地域の果たす役割は大きい。

他者は私のなかに棲み込み、
私も他者の中に生きる。
そのときそこに分身が誕生するのである。

 

精神病院の話だったことを
忘れてしまうような読後感に
しばし浸ることができる一冊だ。

 

気ままに続けているブログですが、
ことしも訪問いただき
ありがとうございました。

皆さま、どうぞよいお年をお迎え下さい。

 

 

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2021年12月19日 (日)

地域が壁のない精神病院にならないように

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地域が壁のない精神病院にならないように

- 受け入れる側も変わらなければ -

 

イタリアでの精神病院廃絶の物語から
精神医療だけでなく
 正常と病(やまい)、
 精神と身体、
 地域と社会、
 抑圧と自由
などについて深く考察している

松嶋 健 (著)
 プシコ ナウティカ
 ―イタリア精神医療の人類学
世界思想社

(以下水色部、本からの引用)

から

プシコ ナウティカ(魂の航海)
近づいてみれば誰一人まともな人はいない
治療ではなく「社会の保護」が第一目的
地域精神保健と「住まう家」

などについて見てきた。

精神病院廃絶に尽力した
ヴェネツィア生まれの精神科医
フランコ・バザーリア
(Franco Basaglia)の発想には
学ぶところが多いのだが、
私が特に感銘を受けたのは
病院の「内」と「外」の考え方に潜む
根本的な問題点を
なんとかしようとしていた点だ。

根本的な問題点とは・・・

バザーリアとレインの
施設をめぐるやりとりに
みられるように、バザーリアには
そのことがよくわかっていた。

施設になんか構わず、
施設から出て行けばいいと考える
レインに対して、
バザーリアは、そうした考え方には
落し穴があると言う。

出られたら迷惑だ、といった
単純な「落とし穴」ではない。

なぜなら、出て行くことのできる
「外」があるうちはいいが、
もはやそうした
「外」がなくなったとき、
すべてが施設化してしまう
という問題が手つかずのまま
残されてしまうから。

なんという指摘だろう。
「外」を変えることなく
そのまま「内」を開放してしまえば
いずれは、全部が「内」のように、
つまり、
社会全体が施設の「内」のように
なってしまう可能性があると
言っているのだ。

開放者を受け入れる「地域」、
そこも変わる、変える必要があるのだ。

<地域>精神保健とは、
単に病院の外で
精神保健サービスを提供することを
意味しているのではない。

<地域>とは
単に病院の外の空間を
指しているわけではない
のだ。

「内」だけではなく「外」も変わる。
それは、「受け入れる」といった
消極的なものではなく
<主体性>や<自由>を
双方が感じられるような
積極的なものだったのだ。
つまり

それは、
人々の生と関係性が縫い込まれ
耕されることで生み出される、
生態学的なテリトリーである。

そこはくつろぎがあり
遊びのある<agio>の場所であり、
利用者たちの生が
そこに編み込まれていくことで
<主体性>を具体的に
行使できるようになっていく
集合的な環境である。

だからこそ精神保健サービスの
オペラトーレたちは、
利用者と<地域>の両方に
関わりながら仕事をする。

重要なイタリア語<agio>については、
ここを参照いただければと思う。

そうした営みがないなら、
地域は単に壁のない精神病院
なってしまうだろう。

フランコ・バザーリアが
危惧していたように、
「古い状況が一見新しい状況に
 変容したように見える。
 だがそこには常に、
 福祉的な管理の形式を再び持ち出す
 危険性が伴っているのである」

地域を単に壁のない精神病院にしない。
今の我々が生きている
現代社会を見渡したとき、
ドキリと思い当たることはないだろうか。

 

精神医療の改革は
様々な国で起こったが、その批判を
精神病院の廃絶というかたちで
国の法律のレベルにまで
もたらしたのはイタリアだけである。

その差には様々な要因が絡んでいるが、
少なくとも<主体性>と<自由>を
実現するためには
集合的かつ制度的な次元でのデザインが
絶対に不可欠であるということが
イタリアでは深く認識されていた
のは
間違いない。

Aを変革をするときは、Aだけでなく、
Aの変革を受け入れるBの変革も
一緒に考えないと
Aの変革後、
Bも含めて全部がAのようになってしまう
危険性がある。

AとBの間の壁が、単にBの外側に移っただけ、
になってしまう危険性がある。

なんとも重い、示唆に富む指摘だ。

 

 

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2021年12月12日 (日)

地域精神保健と「住まう家」

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地域精神保健と「住まう家」

- 「くつろぎ」をどう取り戻すのか -

 

イタリアでの精神病院廃絶の物語から
精神医療だけでなく
 正常と病(やまい)、
 精神と身体、
 地域と社会、
 抑圧と自由
などについて深く考察している

松嶋 健 (著)
 プシコ ナウティカ
 ―イタリア精神医療の人類学
世界思想社

(以下水色部、本からの引用)

から

プシコ ナウティカ(魂の航海)
近づいてみれば誰一人まともな人はいない
治療ではなく「社会の保護」が第一目的

などについて見てきたが、
今日は、イタリア語の<agio>
という言葉をきっかけに
イタリアの精神保健の基盤を学んでみたい。

イタリア語の<agio>のニュアンスを
日本語にするのはなかなか難しいが、
「くつろぎ」であり「ゆとり」であり
「安心」であり、
機械やハンドルの「遊び」のような
意味でも用いられる。

(中略)

それゆえ、<agio>が欠けている
<disagio>の状態から
関わっていくことが
予防的な観点からしても重要になる。

イタリアの精神保健では、
社会的なレベルでの介入が必要な
「居心地の悪さ」や「生きづらさ」を
抱えた人に適切な対処がなされないと、
より医療的な介入を必要とする
「精神的な不調」へと移行すると
考えているようだ。

 

ちなみに
イタリア語の<agio>にあたる言葉を
英語で探すとすると、
それはおそらく<ease>が
最も近いと思われる。

<ease>もまさに、
「くつろぎ」や「ゆとり」「安心」や
「安楽」を意味する語であるが、
そうした<ease>が欠如した
状態としての<disease>は
普通「病気」を意味し、
特に医療人類学の文脈においては、
生物医学的に捉えられた変化としての
「疾患」を指すものとされてきた。

「くつろぎ」の欠如は疾患なのか?
「くつろげない」のは疾患だからなのか?
英語には<illness>という単語もあるが
言語による言葉の比較はおもしろい。

 

だが、イタリア語の<disagio>が
指し示している意味/方向性(senso)は、
ある意味で全く逆のものである


それは生物医学的に捉えられた
「疾患」ではなく、
ある人が生きていく上で
「くつろぎ」や
「ゆとり」が欠けることで、
居心地が悪かったり、
生きづらかったりするような
状態を指している

「くつろげる」環境の提供の意味は大きい。

このような理解に立てば、
精神保健の仕事は
より明快になるだろう。

それは、欠如している<agio>を
感じられるような環境を
いかにして作るか、
ということであり、
そうした環境こそが、
主体性を行使するための
ベースとしての居場所になるのである。

 

病院を前提に
考えなければならなかった人たちが
病院廃絶ののち
どこにどうやって住むのか。

イタリアの
地域精神保健の活動において、
最も重視されたことの一つが、
「住まう家」があることであった


家が必要なのは、
普通の正常な生活を送るため、
というよりも、
行為の可能性を広げていくための
物理的かつ情緒的な
ベースとなる居場所としてである。

もちろんそこには、場合によっては
精神保健的サポートが必要な場合もあるが
「住まう家」があり
そこで「くつろげる」ことの価値

大きく認識されていたことは、
地域の体制づくりにおける
重要な基盤のひとつだったと言えるだろう。

 

 

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