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2023年1月22日 (日)

「祈り・藤原新也」写真展

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「祈り・藤原新也」写真展

- 既に答えが書かれている今? -

 

東京の世田谷美術館で開催されている
「祈り・藤原新也」
という藤原新也さんの写真展を観てきた。

2301inori

藤原新也さんは、
1944年門司市(現北九州市)生まれ。
東京藝術大学在学中に
インドを皮切りにアジア各地を放浪。

その後、アメリカ、日本国内、
震災後の東北、コロナで無人となった街、
などを次々に撮影。

写真に自身の短いコメントを添えて
これまでの50年を振り返っている。

もちろん写真もいいのだが、
コメントがまたいい。

(以下水色部は、
 写真展の藤原さんのコメントを
 そのまま引用)

藤原さんは、写真展のタイトルを
「祈り」にした理由を
次のように書いている。

わたしが世界放浪の旅に出た
今から半世紀前 
世界はまだのどかだった。
自然と共生した
人間生活の息吹が残っていた


(中略)

ときには死の危険を冒してさえ
その世界に分け入ったのは
ひょっとすると目の前の世界が
やがて失われるのではないかという
危機感と予感が
あったからかもしれない。

その意味において
わたしにとって
目の前の世界を写真に撮り
言葉を表すことは
”祈り”に近いものでは
なかったかと思う。

世界は広く、生はもちろん
死をもまた豊かであることを
感じさせる写真が並ぶ。

たとえばインド。

死を想え(メメント・モリ)

インドの聖地パラナシ。
諸国行脚を終えたひとりの僧が、
自らの死を悟って、
河原に横たわる。

夕刻のある一瞬、
彼は両手を上げた。

そして両手指で陰陽合体の印を結び、
天に突き出す。

その直後、彼は逝った。
死が人を捉えるのではなく、
人が死を捉えた

そう思った。

 

人骨が散らばる写真にも
こんなコメントが付いていて
いろいろ考えさせられる。

2301inori_a

あの人骨を見たとき、
病院では死にたくないと思った。
なぜなら、
死は病ではないのですから。

 

台湾での

そんな町の安宿に泊まり、
自分が無名であることの
安堵感を味わう

には、
「無名」のもつ味わいがあふれているし、

アメリカでの

ポップコーンのように軽い
カリフォルニア

には、
的を射たコメントに笑えるし。

観光ガイドにはない写真ばかりだが、
現地に飛び込ンでいっての写真には
生が溢れ、死が溢れ、
土埃が舞っていても声が溢れ、
色が溢れている。
なので

大地と風は荒々しかった。
花と蝶は美しかった。

たくさんの生の視線は
わたしのエネルギーへと変る。

が強い説得力をもって迫ってくる。

藤原さんは、最後

頭上の月でさえ
着々と人類の足跡が
刻まれようとしている。

この自己拡張と欲望の果てに
何が待っているのか、
その回答用紙に
既に答えが書かれている今

いま一度沖ノ島の禁足の森の想念を
心に刻みたい。

と書いているが、

「その回答用紙に
 既に答えが書かれている今」
あなたはどうするの?
と強い投げかけをしているように
読める。

重い問いだが、
「世界がまだのどか」で、
「自然と共生した
人間生活の息吹が残っていた時代」の
写真の数々は
新たな解を見せてくれているようでもある。

 

 

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2022年11月27日 (日)

「コミュニケーションはスキル」か?

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「コミュニケーションはスキル」か?

- 「英語はツール」か? -

 

日本の英語教育について
積極的に発信を続けている
鳥飼玖美子さん。

同時通訳の草分け的な存在として、
若い頃から
アポロ11号の月面着陸の中継や、
大阪万博といった大舞台でも
活躍していたとのことだが、

以前、Eテレの英語番組
「世界へ発信!SNS英語術」
で、1969年の月面着陸の中継を
通訳した話を突っ込まれると、
「あの時は中学生が同時通訳した・・」
と即答していた。
とっさにユーモアで返す機転もさすがだ。

そんな鳥飼さんのこの本

鳥飼玖美子 (著)
国際共通語としての英語
講談社現代新書

(以下水色部本からの引用)

にはコミュニケーションの本質を
考えるうえでの、
大事な言葉が溢れていた。
新しい指摘、というわけではないが
ノウハウや成果ばかりにつられて
ついつい忘れがちになる視点でもあるので、
ここで改めて一部紹介しておきたい。

 

「コミュニケーション」とは、
つまるところ
「他者との関係性」です。
自分と、自分とは異なる存在とが、
共に関係を構築するのが、
「コミュニケーション」です。

単なる伝達の手段ではないし、
日常会話の域にとどまるものでも
ありません

コミュニケーションの一部を支える言葉。
そこには「沈黙」さえも含まれている。

いずれにせよ、
「他者はすべて異質な存在」なのだから
コミュニケーションを成立させるためには
言葉だけではない努力や配慮や工夫が
必要となってくる。
それでも、もちろん失敗する場合もある。

「異文化コミュニケーション」
というのは、
異なる文化で生きてきた者同士が
関係を構築しようとすることを指します。

異文化コミュニケーションとは
英会話のことだと勘違いしている人

日本に多いのは誠に残念です。

「異文化コミュニケーション」とは
言語を問わず、異質な文化が邂逅し
接触する際に必然的に起こる事象です。

「異なる文化」は、
外国ばかりとは限りません

世代の違い、ジェンダーの違い、
障碍のある人とない人の違い、
人間と動物、人間と自然、
どれも「異文化」です。

 

外国に限らず「異文化」との
コミュニケーションには、
背景の文化を理解しようという
姿勢が不可欠だ。

どの言語にもそれぞれの文化があり、
コミュニケーション・スタイルがあり、
言語使用の習慣
があります。

外国語を使うとは、
異質な他者を相手に
異質な言語を精一杯使って
果敢に関係構築を試みるのだから、
簡単なわけがない、と
腹をくくるべきでしょう。

そして何度も繰り返すように
次の言葉を送り出している。

コミュニケーションは
単なるスキルではありません。
英語は単なる道具ではありません


国際コミュニケーションの共通語として
英語を使う場合でも、
これは同じだと思います。

英語をツールとして、
コミュニケーションをスキルとして、
軽く考えるから、
こんなに勉強しているのに上手くならない、
と腹が立つのです。

コミュニケーションは
単なるスキルではない。
英語は
単なる道具ではない。

そもそも
「単なる道具」だと言っている人は
道具以上に使えるようにはならない。

たとえ世界中の人々が
使用するようになったとしても、
英語には英語の歴史と文化があり、
独自の世界を有した
一つの言語であることは
間違いないのです。

そこを何とか折り合いをつけ、
世界の誰もが使えるように、
使い勝手の良いようにしよう、
とあれこれ工夫をし始めているのが現状で、
本書もそれを提言しているわけですが、
一つの生きた言語である
という事実も認識するべきでしょう。

 

鳥飼さんは本書で主張したかったことを
2つに集約して最後にこう書いている。

一つは、「英語はツール」
「コミュニケーションはスキル」
という言説を疑って欲しい

ということ。

コミュニケーションは
人間が特定の状況で起こす
多層的な行動であるわけですから、
それを私たちにとっては
外国語である英語で行う、
ということの重みを
忘れてはならないと思うからです。

英語はたかが道具だ、
と軽視する人ほど、
日本語は微妙なニュアンスがあって
特別に難しい、などと言います


しかし、特殊に難しい言語など
存在しません
。これは現在では
当然として認められている
言語相対主義の知見です。

そしてふたつ目の主張はこれ。

日本人にとって
外国語である英語を学ぶのは
容易ではないのですが、
だからと言ってあきらめることは
ないのです。

国際共通語として習得する
という方向を見定め、
英語学習の目的と内容を
見直したらどうか

というのが第二の主張です。

異なる文化で生きてきた者同士が
関係を構築しようとすることは
まさに多層的なアクションだ。
言葉ができれば成功する
というものでもない。

国際共通語としての英語を
どう考えるかの詳細は本書に譲るが、
歴史と文化に対する配慮と敬意を
忘れることさえなければ、みちは拓け、
関係はさらに深まっていくことだろう。

 

 

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2022年11月 6日 (日)

アルジェリアのイヘーレン岩壁画

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アルジェリアのイヘーレン岩壁画

- 信じられないタッチと空間把握 -

 

前回
前々回に引き続き

「サハラに眠る先史岩壁画」
 英隆行写真展

 目黒区美術館 区民ギャラリー
 2022年10月5日-10日

の内容を紹介したい。

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展示の最後、圧巻は

*アルジェリア タッシリ・ナジェールの
 イヘーレン岩壁画
 実写 w824cm x h270cm
 模写 w840cm x h248cm

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「サハラ砂漠で発見された壁画で
 最も優れた作品。
 新石器時代写実派の代表作」
(フランスの考古学者アンリ・ロート)
と賞賛された美しい壁画。

ロートは、
発見翌年の1970年に調査隊を組織し、
実物大の模写を制作した。

実際の壁画は、長い歳月を経て
退色や挨の堆積などで
肉眼では見えにくくなっている部分が
多くあるためである。
たとえば、実物はこんな感じ。

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これが模写により

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ずいぶんわかりやすくなっており、
細部まで読み取ることができる。

ロート隊は、本模写より10年以上も前、
1956-57年の
タッシリ・ナジェール岩壁画の模写時、
次のような手順で模写を作成した。

(1) 水を含ませたスポンジで壁面を拭い、
  絵を浮かび上がらせる。
(2) トレーシングペーパーを壁面に当てて
  写し取る。
(3) 別の画用紙に写して彩色する。

これに対して
* 見えなくなっている部分を
  想像で補筆したものが多い。
* 模写作成時に壁面を傷つけた。
などの批判が寄せられた。

本複写、1970年のイヘーレン岩壁画
調査隊メンバーのイヴ・マルタンは
そういった批判があったことを知った上で、

「模写制作にあたっては、
 スポンジで壁面を拭うことはせず、
 見えなくなっている部分のみを
 わずかに湿らせるにとどめた」
「見える部分と
 見えなくなっている部分を
 厳格に判断して模写を制作した」

と証言している。

ちなみに、ロート隊の模写手法は、
現在では禁止されている。

壁面にふれることも、
水を含ませることも許されていない。

 

さて、そのような経緯で写し取られた壁画、
詳しく見てみよう。

まず全体。
日本の絵巻や屏風絵のように、
遊牧民の生活の一部始終が語られる
物語になっている。
物語は右から左に向かって進む。

男性は子供を抱いて歩き、
女性は牛の背に乗って移動。
男女ともにペインティングを
しているように見える。

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牛に乗る女性はここにも。

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新しい土地に到着すると
男性は荷を解き、
女性はテントの設営。
弓のような棒はテントの支柱。
最近までツアレグ族も
同じようなテントを持ち、
女性が管理していたらしい。

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キリン、ガゼル、オリックス、ダチョウなど
草原の動物も多く描かれている。

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岩の割れ目を水場に見立てて、
牛が水を飲んでいる。
牛は横からの姿だが、
角は正面に近い。
ラスコーなど
旧石器時代の岩壁画にも見られる
疑似遠近法。

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さまざまな動物の群れの向こうに
ストローで飲み物を飲む女性が
描かれている。
いったい何を飲んでいるのだろう?

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手前では、
女性と子供が家畜の世話。
中央ではここでもストローで
なにか飲んでいるようだ。
順番待ちで並んでいるようにも見える。

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中央左には赤ん坊をあやす男性。
奥では、テントの中から身を乗り出して
頬杖をついている女性。
背中に手を当てているのか、
その前にいる男性との関係は?

とにかく、信じられないタッチの絵が
信じられないような空間把握の中に
展開されている。

しかもその後の解析により、
壁画はごく一部のエリアを除いて
ひとりの人が描いたものとわかったらしい。

前回書いたような理由で
正確な年代はわからないものの、
5000年以上も前の作品だ。
ほんとうにびっくりする。

 

「また、来週から
 現地に行けることになったのです」
とガイドさんはおっしゃっていたが、
発掘エリアには紛争地域もあるため
訪問には軍の許可が必要
であったりと
自然環境の過酷さだけでなく
行くだけでもそうとう大変なようだ。

個人的に、
これまで全く知らなかった分野だが
また新しい発見があることを
期待したい。

 

 

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2022年10月30日 (日)

サハラ岩壁画の年代は測定できない

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サハラ岩壁画の年代は測定できない

- 「愛の館」から線刻画まで -

 

前回に引き続き

「サハラに眠る先史岩壁画」
 英隆行写真展

 目黒区美術館 区民ギャラリー
 2022年10月5日-10日

の内容を紹介したい。

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本展、壁画はどれも興味深いのだが、
各画に対する年代の説明がほとんどない。

前回書いた通り、
5000年から1万年ほど前のもの、
というざっくりとした幅だけはあるが、
正確にはわからないらしい。
それはどうしてか?

ガイドツアーのときの説明によると
サハラ岩壁画の
壁画自体の年代を直接測る技術は
現時点ではまだ存在しない
らしい。

理由は、
絵具に木炭や接着剤などの
有機物が含まれていないため
放射性炭素年代測定ができないから。

また、洞窟壁画のように
水が滲みだして絵の上に
炭酸カルシウムの被膜が
形成されることがないため
ウラン系列年代測定もできない。

直接的な測定ができないため、
描かれた動物との関係、
発見された古墳との関係、
などから相対的、間接的に
制作年代を区分しているようだ。

というわけで、細かいことは気にせず
気持ちのほうもざっくりのまま
ほかも見てみよう。

 

*アルジェリア タッシリ・ナジェールの
 「食肉解体」

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ブーメラン状の道具(ナイフ?)を使って
食肉を解体している。
男性は腰みのだけだが、
女性は長いスカートに肩掛けのようなものを
羽織っている。
右には野ウサギやキリンなども見える。

 

*チャド ティベスティの
 「愛の館」
館の外には牛がいる。右は乳搾りの様子。

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「愛の館」の中はこんな感じ。
入口の縄暖簾をくぐると、
部屋の中には裸の男女が集っている。
女性は足を白く塗っているようだ。

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右端の男は
楽器を奏でているように見える。
部屋には大きな壷があるが、
中には酒が入っているのだろうか。
重なり合っている男女もいる。
女や男を奪い合っているようにも見える
場面もある。

 

*チャド エネディの
 「整列する戦士たち」

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繊細な筆遣いで細かく描写された岩壁画。
戦士たちは槍を手に持ち、
頭には羽飾りを付けている。
戦士の隊列から外れた場所には
長いスカートをはいた女性もいる。

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槍の穂先が石で加工するには
難しい長さであることから、
鉄製の穂先と推測されている。
だとするとこれは他と比べると
ずいぶん新しいものかもしれない。

 

*スーダン ウェイナットの
 「行進する人々」

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川岸で垂直に削られた砂岩の表面に
10メートル以上にわたって夥しい数の絵が
描かれている。
別の場面では、狩りをする人々、
牛の群れなども。

この地域では、牛の牧畜は
7000年前頃に始まったが、
5000年前には乾燥化によって
牛が飼えない気候になった。

制作年代を直接調べられないため
描かれたものから
間接的に絞り込んでいくのも
ひとつの手法。

 

*モロッコ ハイ・アトラスの
 太陽の円盤  青銅器時代

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古代ベルベル人が信じたアニミズムでは、
太陽、土地、水」が
人間に不可欠なものとされていた。
太陽の内側には、
山並みに囲まれた大地と川。
下の小さな円盤は月のようにも見える。

 

*チャド エネディの
 「牛飼い」
サハラ岩壁画ではあまり多くない
線刻画

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彩画にはほとんど見られない
幾何学模様が多いのが特徴。

寄って見ると

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杖を肩に担ぐポーズは牧童特有のもので、
現代でもよく見かける。
お尻の大きな体形は、
現在この地に暮らすほっそりとした
トゥブー族とは異なるらしい。

体形といえば、以前アメリカ人に
「日本人でお相撲さんのような
 体形の人はほとんど見かけないのに
 どうしてあれが国技なの?」
と質問されて答えに窮したことがある。
1万年後、日本で相撲絵が発見されると
対トゥブー族と同じようなコメントを
されるかもしれない。

 

 

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2022年10月23日 (日)

サハラ砂漠が緑に覆われていたころ

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サハラ砂漠が緑に覆われていたころ

- 先史岩壁画、実物大の写真展 -

 

「サハラに眠る先史岩壁画」
 英隆行写真展

 目黒区美術館 区民ギャラリー
 2022年10月5日-10日

を観てきたのだが、
その内容がたいへんおもしろかったので
記録を兼ねて紹介したい。

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本展、岸壁画の写真展ではあるが、
展示作品はすべて実物大。
3mを越える写真もあり、
岩壁を前にした臨場感をたっぷり味わえる。
展示の写真撮影もOK。

会場にあったパンフレットと
30分の予定が、説明がノリノリで
結果50分になってしまった
会場でのガイドツアー時のメモを見ながら
振り返ってみたい。

 

世界最大の砂漠、
アフリカ北部のサハラ砂漠には
緑のサハラ」と呼ばれる時代がある。

今から約11,500年前から5,000年前頃まで、
なんとこのエリアは
緑に覆われていたというのだ。

旧石器時代末期から新石器時代のころ、
この緑豊かな土地を求めて
様々な民族が去来した。

彼らは自然の岩肌をカンバスとして
彩画や線刻画など独自のアートを遺した。

その岩壁画が今回の写真展の被写体。

今はまさに降水量の少ない広大な砂漠だが、
絵が描かれた当時は緑の大地だったのだ。

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上の地図の赤丸が収集した岩壁画の位置。
アフリカ大陸北部、広範囲からの
収集となっていることがわかる。

 

まずは写真展のポスターにも使われている
 アルジェリア
 タッシリ・ナジェールの
 「白い巨人と祈る人々」
  w515cm x h308cm

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頭に角のような突起を持ち、
大きな力こぶと巨大な陰嚢を持った
3mを超える巨人。

その左右には
お腹の大きな妊婦が横たわり、
左側には祈るような仕草の
女性たちが並んでいる。

と解説されているが
コントラストが弱く
正直わかりにくい。

こんな図が横に添えられていた。
組合せてみるとずいぶん助けられる。

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同じ
 アルジェリア
 タッシリ・ナジェールの
 「瘢痕文身のある人物」
  w103cm x h180cm

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瘢痕文身は「はんこんぶんしん」と読む。
 皮膚に切込みを入れたり,
 焼灼(しょうじゃく)して,その傷跡が
 ケロイド状に盛り上がることを利用して
 身体に文様を描く慣習
のことらしいが、首飾りといい腕輪といい
仮面のようなものといい
かなり着飾っている。

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「泳ぐ人」という絵では
頭に突起のある人が泳いでいる。
飾りか? いったいナンだろう?

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「弓矢で戦う人々」では集団の戦い、
つまり戦争が描かれている。
激しい戦いのシーンはあっても
倒れている人物は描かれていない、
という特徴があるらしい。

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下の絵で弓を引いているのは女性と
思われる。よく見ると乳房がある。
女性も兵として戦っていたのだろうか。
当時は砂漠ではないので牛もいる。

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1万年近くも前の
着飾った女性たちや弓を持った兵士たち。
いろいろ想像するのは楽しいものだが、
岩壁画はさらに多くのものを
今に伝えてくれている。

本写真展の話、次回に続けたい。

 

 

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2022年8月21日 (日)

野川に沿って深大寺まで

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野川に沿って深大寺まで

- ふかふかの緑を踏みしめながら -

 

西国分寺駅から歩き始めた
今回の「ぶらぶら歩き」だが、
前回お伝えした通り、
国分寺駅の南側、一里塚橋のところで
ようやく野川に合流することができた。

ここからは
できるだけ野川に沿って歩いて行きたい。

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川幅はまだまだ狭いが、
草刈り等も丁寧になされており、
整備された川が、
住宅地の中を流れて行く。

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野川に限らず、水路で時々目にする
上部のこの梁のような構造は
いったい何のためのものなのだろう?
そもそも名称がわからないので
調べようがない。

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丸山通りの長谷戸橋には
「この橋は
 溢水のおそれがある場合には
 通行止となります
のでご注意下さい」
の掲示がある。

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東京経済大学のそば
鞍尾根(くらおね)橋のところで
再びカワセミに会うことができた。

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気がついたのは
朝イチ、姿見の池
カワセミを教えてくれた
おじさんのおかげだ。

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この、鞍尾根(くらおね)橋が
河川管理境界
ここまでが
東京都北多摩北部建設事務所、
ここから下流方向が
東京都北多摩南部建設事務所
の管理となるようだ。

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ここから下流は
堤防内、高水敷の部分を
歩くことができる。

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堤防は一見、
石を組んだように見えるが
よく見るといくつかのパターンの繰り返し。

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意図的とも思える隙間もあり
水はけを考慮したコンクリートブロック、
というところだろうか。

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犬の散歩にも何度もすれ違う。
とにかく、緑豊かなうえ
ふかふかとした部分が多く、
高水敷部は、足腰にやさしい。

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小金井市立前原小学校
のところまでくると
川は校庭の下に潜り込んでしまう。

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もちろん学校内には入れないので
学校の柵に沿って歩くと
そこには細い堀がありこんな掲示が。

「ここは昔の野川です。
 雨が降ると川の水が増えて
 危険ですので、
 中に入らないで下さい」

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水は流れていないが、
こんな水路が続いている。
増水時には活躍することだろう。

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昔の野川
河川工事され今は前原小学校の
校庭の下を流れている新しい野川
一旦分かれて、
またこの先で合流するようだ。

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合流地点はこんな感じ。
左の橋下が昔の野川
右の橋下が新しい野川
増水時にはどちらからも水が
手前方向に流れてくる。

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このあたりは市としては小金井市となるが、
「小金井」の地名は、
「黄金のように価値ある水が
 湧き出る井戸」が多くあることから
黄金井 = 小金井
が起源と言われているらしい。

引き続き緑の中を歩く。
流れてはいるが、草が茂っており
川面はほとんど見えない。

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子どもたちの声が聞こえてきた。
都立武蔵野公園」に出た。

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川の横、この広い野原は、
野川第二調整池

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野川の水位が上昇した際には、
洪水は越流堤を超えて調節池へ流入し、
川の水位が低下すると排水ゲートから
自然排水される仕組み。
貯留量はここだけで2万8千m3。
25mプール50杯分以上を貯められる。
野川の治水安全度向上を目的として、
約30年前、
1989年度に整備されたものらしい。

すぐとなりにはほぼ同じ規模の
野川第一調整池」もある。

川を少し逸れた
崖線部分を登る階段には
ムジナ坂」の名がついている。

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中学校の英語の教科書に
ラフカディオ・ハーンの
「Mujina」があったなぁ、という
古い思い出話で盛り上がる。
教科書の教材、恐るべし。
ウン十年前の内容を
思い出させる力があるのだから。

都立武蔵野公園を歩いていると、
西武多摩川線の下をくぐることになる。

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そこから先は
都立野川公園

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ひろびろとしていて緑が美しい。
崖線の上には
国際基督教大学(ICU)のキャンパスが
広がっている位置になる。

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何を捕まえようとしているのだろう?
水の中を歩く網を持った親子にすれ違う。

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崖線の上の「国立天文台」と
崖線の下の「調布飛行場」に
挟まれたような位置を流れる野川。
間には「野川大沢調整池」がある。

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ここは、
野球場+サッカー場
規模の面積があり、
野川第二調整池の2.6倍もの水を
貯留できる。
ここも地下ではなく越流堤を超えて
調節池へ水が流入する「掘込式」
見渡せるので規模を実感できる。
越流堤はこんな感じ。

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堤防と堤防の間、
堤外地の幅は広くなってきたが、
水が流れている低水路の幅は
それほど広くなっていない。

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御塔坂(おとざか)橋まで歩いたところで、
時間的にもいい時間となっていたので
「今日はここまでにしよう」
ということになった。

最後、近くの深大寺にお参りをして

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吉祥寺駅前まではバスで移動。
お待ちかねの夜の部に。
一日の行程を思い出しながら
ビールで乾杯。
鞍尾根(くらおね)橋以降、
ふかふかの緑の上を歩いたせいか
足の疲労感も
どこかやさしくてここちいい。

今回の野川に沿っての川歩き、
振り返ってみると
鳥とその鳴き声が印象に残る
「鳥ととともに」の一日だった。
カワセミ、うぐいす、ムクドリ、カモ・・・
(写真に収めるのが難しかったため、
 写真ではカワセミだけの
 紹介になってしまったが)
記憶に生き物の姿や声が
貼り付いているのはいいものだ。

 

 

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2022年8月14日 (日)

お鷹の道・真姿の池湧水群

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お鷹の道・真姿の池湧水群

- ようやく野川に合流 -

 

前回まで、
1200年前の道、
東山道武蔵路に寄り道してきたが、
野川を目指しての
西国分寺駅からのぶらぶら歩きに戻りたい。

東山道武蔵路跡のすぐそばに、
旧国鉄の「中央鉄道学園」、
郵政省の戸建て宿舎などの
跡地を整備して作られた
武蔵国分寺公園がある。

P6112002s

ここから、
国分寺薬師堂は歩いてすぐだ。

P6112010s

国分寺薬師堂は、
建武2年(1335)に新田義貞の
寄進により建立されたと伝えられるもので、
宝暦年間(1751-1763)に現在地に再建。

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緑が深くて美しい。

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天平13年(741)の聖武天皇の命により、
鎮護国家を祈願して創建された
武蔵国分寺

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諸国国分寺中有数の規模だった寺地・寺域は
数回の変遷があったようだが、
僧寺の金堂、講堂、七重塔、鐘楼、
   東僧坊、中門、塀、北方建物、
尼寺の金堂、尼坊、などが調査されている。

国分寺楼門

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この門は、米津寺(東久留米市)の楼門を
明治28年に移築したもの。
板金葺で江戸時代の建築様式を
よくとどめているものらしい。

武蔵国の文化興隆の中心施設であった
国分寺の終末は不明だが、
元弘3年(1333)の分倍河原の合戦で
焼失したと伝えられている。

国分寺すぐ横から、
「お鷹の道・真姿の池湧水群」の
水路脇を歩けるようになっている。

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江戸時代に尾張徳川家の
御鷹場だったことに由来して、
お鷹の道」と名付けられた散策路。

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真姿の池

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「嘉祥元年(848)
 不治の病に苦しんだ玉造小町が、
 病気平癒祈願のため
 国分寺を訪れて21日間参詣すると、
 ひとりの童子が現れ、
 小町をこの池に案内。

 この池の水で身を清めたところ、
 たちどころに病は癒え、
 元の美しい姿に戻った」
との言い伝えのある
真姿の池」には
小さな祠と鳥居がある。

 

国分寺崖線

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国分寺から
小金井・三鷹・調布・狛江を経て
世田谷の等々力渓谷に至る
標高差約15mほどの崖線で
ハケ」と呼ばれている。

この崖線が
「日本名水百選」にも選ばれている
ここの湧水群を生み出している。

東京地区の崖線の2大スター(?)と言えば
この国分寺崖線と
上野から赤羽までの日暮里崖線
ということになるだろうか。

ただ、国分寺崖線は、
多摩川がつくった河岸段丘だが、
日暮里崖線は、
波の侵食を受けてできた侵食崖
その成立は大きく異なる。

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湧水が流れる「元町用水」を
追うように歩くと、
ついにここに到達する。

野川との合流点。

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ちなみに、合流点から
野川上流方向を見ると
こんな感じ。

P6112039s


ようやく野川に合流することができた。

P6112042s

ここから先は、できる限り
野川に沿って歩いてゆこう。

 

 

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2022年8月 7日 (日)

西国分寺 東山道武蔵路

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西国分寺 東山道武蔵路

- 武蔵国は東山道から東海道へ -

 

前回
今から1200年以上も前に整備された
五畿七道について触れたが、

 七道は古代官道の名であると同時に
 諸国はいずれかの道に属すため、
 地方の行政区画ともなっている。

と書いた。

さて今回立ち寄った「姿見の池」がある
西国分寺付近は武蔵国となるが、
武蔵国は七道のうち東山道に配属された

ところが、
上野国(こうずけのくに)と
下野国(しもつけのくに)を通る
東山道の本道からは
南へ大きく外れた位置にあるため、
上野国の新田駅(にったのえき)付近から
武蔵国府に南下する支路が存在したことが、
奈良時代の歴史書
「続日本紀」に記されている。

この道を現在では
東山道武蔵路と称している。

現地の案内板には
こんなわかりやすい地図があった。

P6111994ss

地図を見れば明らかなように、
東山道武蔵路を往復することは
交通上かなり不便だ。
そこで武蔵国は宝亀2年(771)に
東山道から東海道へ所属替えとなる。

つまり771年には、東山道および武蔵路、
そして東海道が
すでに整備されていた
わけだ。

これにより駅路としての東山道武蔵路は
使命を終えることになるが、
発掘調査の成果から、
その後も武蔵国内の南北交通路として
平安時代の終わりごろまで
使用されていたことがわかっている。

 

さて、この東山道武蔵路の発掘調査は、
JR中央線の北側、恋ヶ窪地区だけでなく、
JR中央線の南側、西国分寺地区
でも行われている。

そちらにも回ってみよう。

国分寺市泉町二丁目
(旧国鉄中央鉄道学園跡地)で行われた
平成7年(1995年)の調査では、
東西に側溝を持つ
幅12mの直線道路が南北340mにわたって
発見された。

今は、遺構が一部展示施設となっている。

P6111997s

柵の中はこんな感じ。
当時の道路造成面を型取りして
復元したレプリカが展示されている。

P6111998s

道の側溝は主に平地を通る
古代道路の両端に設けられている。
路面の排水を目的としているほか、
溝によって
官道である道路の幅(範囲)を示したもの
考えられているとの説明がある。

展示施設を含めた泉町二丁目には、
幅15m、長さ400mの範囲で、
舗装した路面に当時の道路幅と
側溝の位置を表示したエリアがあり
展示施設から武蔵路の一部を
まっすぐに見通すことができる。

P6111996s

武蔵路発掘の話を知らないと、
単に「広い直線上の空き地」にしか
見えないが。

P6112000s

と言ってもわかりにくいので、
Googleの航空写真を借りて、
上空から眺めてみよう。
これを見ると
発掘による保存エリアが明らかだ。

Gmap1s

赤い星印が、遺構の展示施設。
そこからまっすぐに南方向、
赤い点線が囲まれたエリアが
発見・発掘されたエリア。

北側の泉町二丁目(西国分寺地区)、
そのすぐ南、短い
西元町二丁目(旧第四小学校跡地区)
どちらも今は
国史跡(くにしせき)に指定されている。

 

「野川に沿って歩こう」と
始めた「ぶらぶら散歩」だが、
今回はまだ野川にまで合流できていない。

五畿七道から見えてくる
1200年前の律令国家のパワーと
技術に驚かされて
すでに3回も書いてしまった。

さて、次回は野川に合流できるだろうか。

 

 

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2022年7月31日 (日)

西国分寺 駅制と五畿七道

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西国分寺 駅制と五畿七道

- 1200年前の道、東山道 -

 

前回
「姿見の池」について書いたが、
そこにあった案内板に
「国指定史跡 東山道武蔵路跡」
についての説明があった。

これ、たいへん興味深い内容だったので
少し紹介したい。

まず、基礎知識としての
「五畿七道」から。

 天皇を中心とする古代日本の律令国家は、
 7世紀後半から8世紀前半にかけて
 国の支配体制を全国に及ぼすために、
 都のある五畿(畿内5ヵ国)と、
 諸国の国府を結ぶ
 放射線状に伸びる

 七道(しちどう:東海道、東山道、山陽道、
 山陰道、北陸道、南海道、西海道)


 整備した。

案内板には
延喜式(えんぎしき:平安時代)を
もとに復元した駅路として
下記の地図がある。

P6111991sa

そしてそこには、

 総延長は実に6300kmにも及び、
 駅路の整備は
 国家の威信をかけた
 壮大なプロジェクトだった。

との説明が添えられている。
地図の赤い線。
今見ても実にreasonableなルートだ。

 七道は古代官道の名であると同時に
 諸国はいずれかの道に属すため、
 地方の行政区画ともなっている。

しかも単に道路を通しただけではない。

「駅制」

 七道には原則として
 30里(16km)ごとに
 駅家(うまや)が設けられ

 緊急の官用通信のために
 駅馬が飼育された。

 各駅には国司の補助要員として
 駅務を行う駅長が任命された。

 このような古代における
 公使・官人による
 中央と地方との交通・情報伝違の制度を
 駅制と呼び

 このことから七道は
 駅路(えきろ)とも言う。

駅路は目的地を最短距離で結ぶために、
必要に応じて山を切リ通したリ、
湿地を埋め立てるなど、
可能な限り直線的に設定されていたようだ。

 

さて、この東山道の一部として整備された
東山道武蔵路。

姿見の池のあるこの周辺では
恋ヶ窪谷の東山道武蔵路として
平成9年度(1997年)に、
発掘調査が行われた。

 ここの道跡は、
 丸太で枠をつくり木抗でおさえ、
 粗朶(そだ:アシや木の枝)を敷き、
 10-20cmの礫(れき)を敷き詰め、
 さらにローム主体土と
 黒色土を交互に積み重ねる
 「敷粗朶(しきそだ)工法」と呼ばれる
 版築(はんちく)道路の構造だった。

 これは湧水が多い谷の
 湿地に対応するため
と考えられ、
 直線道路を構築するための
 古代の土木技術を知る
 貴重な資料であるとともに
 当時の恋ヶ窪谷の自然を
 うかがい知ることができる。

敷粗朶工法による版築道路。
湿地帯での路面確保の工夫が
ちゃんと施されていたわけだ。

もう一度書く。
日本に6300kmもの幹線道路が
整備されていたのは
今から1200年以上も前
の話だ。

鎌倉時代のエピソードに由来する
「一葉松」の伝承から見ても
400年以上も前。

しかも、土木技術だけでなく
通信手段についても確立しており、
駅路に設けられた「駅家(うまや)」に
準備されている馬を乗り継いで
使者(駅使)が
中央からの命令文書である「符(ふ)」や、
地方から都への上申文書である「解(げ)」
などを迅速に運んでいた。

おそるべし、奈良時代。

 

 

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2022年7月24日 (日)

西国分寺 姿見の池

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西国分寺 姿見の池

- カワセミに会えた! -

 

これまでも、
* 妙正寺川
* 大岡川
* 目黒川
などについては、
記録を兼ねてブログに記事を残してきたが、
「気のおけない友人と
 川沿いを丸一日ぶらぶら歩く」は
休日の楽しい過ごし方のひとつだった。

ところがこの「ぶらぶら」も
ここ2,3年はコロナ禍の影響で
一時休止状態。

歩くこと自体は
もちろんいつでもできるのだが、
丸一日歩いたあとの「ビールで乾杯!」が
気持ちよくできないとなると
「よし!行こう」とならないのだ。

いったい何を楽しんでいるのだか。

 

そんな川歩きが、久々に復活した。

歩いたのは「野川」。
東京都国分寺市に水源があり、
東京都世田谷区の二子玉川で
多摩川に合流する全長約20kmの川だ。

これまでは河口から水源に向かって歩く
いわゆる遡行が多かったが、
今回は水源側から歩き始めることにした。

とはいえ、野川の水源は
「日立製作所中央研究所敷地内」という
私有地ゆえ、
さすがに立ち入ることができない。
(年に2回ほど一般公開日があるらしいが)

まぁ、水源は見られなくても、
西国分寺駅周辺は
国分寺崖線の湧水群にも触れられるので、
見どころは多い。

 

というわけで、西国分寺駅集合。
野川という川にこだわることなく
ぶらぶらと歩いていって、
適当なところで野川に合流しよう、
そんなゆるい感じで歩き始めた。

最初に立ち寄ったのは
駅からすぐ、JR中央線北側に位置する
「姿見の池」

P6111989s

その名は、鎌倉時代
恋ヶ窪が鎌倉街道の宿場町であった頃
遊女たちが朝な夕なに
自らの姿を映して見ていた、
という言い伝えに由来するらしい。

小さいが緑豊かな静かな池だ。

池に到着早々、そこにいた男性が
「あそこにカワセミがいるよ」
と指さして教えてくれた。

「どこ? どこ?」
教えられた方向に目を凝らすも、
意外に見つからない。

P6111986s


「いた! いた!」 発見!

P6110972s

思ったよりもずっと小さい。
そして思ったよりも色が本当に美しい。

「今日はカワセミに会えるといいね」
と言いながら歩き始めたのだが、
嬉しいことに、
偶然にも朝イチでそれが実現してしまった。

実はこのあとも
野川で再度見かけることになるのだが、
朝のこの出会いがなければ
カワセミが視野に入ったとしても
おそらく気づかなかったことだろう。

以前、
知っているものしか見えない、の一方で
なる記事の中で、
 誰の目にも映っていたのに
 誰もそれに気づかなかった。
 ところが、ある人が
 「ここにそれがあるよ」
 と指摘した途端、
 誰の目にもそれが見えるようになった。
という
科学史上の大発見のエピソードを紹介した。

目には映っていても、
実際には
知っているものしか見えないのだ。

カワセミの写真を見たことはあっても
自然の中で意識して見たのは初めてだった。
色だったり、大きさだったり、
飛び方だったり、動き方だったり、
教えてもらって実物を見たことで、
「知っているもの」として
自分に登録されたのだろう。

だからこそ、野川での再会時、
「あっ、カワセミだ!」と
発見できた気がする。

「知っているもの」を増やしてくれた
池の男性に感謝。

 

「一葉松(ひとはまつ) 」の伝承

この姿見の池は
「一葉松(ひとはまつ) 」の伝承にも
登場すると言う。
池の横の案内板によると

 源平争乱のころ、
 遊女夙妻太夫(あさづまたゆう)
 坂東武者 畠山重忠(しげただ)
 恋に落ちる。
 ところが、
 太夫に熱をあげる男がもうひとりいて、
 「重忠が平家との戦で討ち死にした」と
 嘘をつき、
 太夫に重忠をあきらめさせようとする。
 が、それを聞いた夙妻太夫は
 悲しみにくれて、とうとう
 姿見の池へ身を投げてしまった

今(2022年)放送中の
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」には
中川大志さん演じる畠山重忠が
登場しているので、
ついついイメージを重ねてしまうが。

遊女に絡む
いろいろな伝承に彩られた姿見の池だが、
昭和40年代には
一度埋め立てられてしまったという。
それが、今から20数年前
平成10年(1998年)度、
昔のイメージで再整備ということになって
現在の姿にいたるようだ。

詳しい経緯はわからないが
再整備が実現してほんとうによかった。

西国分寺駅から歩いて数分、
すぐ南側にはJR中央線が走っている、
そんな位置にあることが信じられない
水と緑が美しい小さな池だ。

 

 

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