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2017年6月25日 (日)

大岡川遡行 (4)

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大岡川遡行 (4)

- 大岡川源流域 -

 

横浜市の大岡川、河口から
(1) 中区日ノ出町まで
(2) 南区弘明寺町まで
(3) 磯子区栗木まで
と進んできた遡行も
今回で4回目。いよいよゴールだ。

 

途中、大岡川に
沿うように延びていた古道
「かねさわ道」に関する案内もあった。

「かねさわ」と書くと
どうもピンと来ないが、
漢字で書くなら「金沢八景」の
「金沢」なのだろう。

P5147439s

一部引用したい。

・・・東海道から別れ
横浜南部の丘や
大岡川、笹下川流域経由で
氷取沢・能見台・六浦に通じている
古道「かねさわ道」

・・・(中略)

江戸時代には峰護念寺のお灸、
杉田妙法寺一体の梅林、
富岡のほうそう(天然痘)に
霊験あらたかとされた芋神さまや、
鎌倉・江ノ島の名所を遊覧する人々で
この道が賑いました。

また黒船来航で騒然としたころは
江戸と三浦半島との間で
飛脚や沿岸防備の武士が
頻繁に往来
しました。

江戸と三浦半島を結ぶ幹線だったようだ。

 

それにしても、
今回ブログを書くにあたって、
各所で撮影した
案内板や石碑等の文章を
改めて読み返してみたのだが、
大いに気になることがひとつある。

上大岡の「青木神社」、
大岡川水門の所にあった「かわじまの碑」、
そして今回の「かねさわ道」、
この3箇所の説明書きには、
歴史的な事実はともかく、
日本語の文章として
明らかにおかしな部分がある。

「関東、奥州一帯に大水害」が
「関東、奥州一体に大水害」と
漢字が間違っているものもある。

原案作成時点でヘンな文章だったり、
漢字を間違えてしまったりは
ウッカリも含めてあるかもしれない。
しかし、最終的に碑になるまでには、
ナン人もの人がチェックしたのでは
ないのだろうか?

どうしてそれらすべてをスリ抜けて、
ヘンな日本語が石や鉄板に
刻まれてしまったのだろう。

発行はどれも「横浜市」。
難しいことが書いてあるわけでない。
簡単な記述だからこそ、
もう少し気を遣ってもらいたかったと思う。

 

根岸線を越えたあたりからは
さらに川沿いを歩けなくなる。

P5147443s

県立氷取沢(ひとりざわ)高校の
付近まで来た。

P5147451s

氷取沢(ひとりざわ)
難読地名のひとつとして
取り上げられることもよくあるが、
なんとも味のある地名だ。

「氷取沢神社」という神社もある。

P5147456s

源流のある円海山方面に
向きを変えたあたりから
一気に景色が変わってきた。

P5147458s

「ここは横浜?」
と言いたくなるような豊かな緑。

P5147464s

市民農園としても
開放されているようだが、

P5147468s

丁寧な農作業のあとが
あちこちに見られる。

P5147466s

横浜横須賀道路の高架の先には
「氷取沢市民の森」が広がっている。
いよいよ源流が近づいてきた。

P5147472s

大岡川はもうこんな感じだ。

P5147480s

森の奥へ入っていく。

P5147494s

途中、「マムシに注意」も。

P5147499s

流れとして追うのはそろそろ限界か、
と思ったころ

P5147502s

突然、こんなものが目の前に。
大岡川源流域

P5147504s

極私的イベントのゴールを
明示してくれているのもうれしいが、
それにしても、「源流域」の
「域」という文字がやさしい

実際に行って目を凝らすと、
地面から水がしみだしている箇所が
ところどころにあり、
小さな流れを作っている。

P5147511s

「最初の一滴はここだ!」という
「一点」があるわけではない。

「このあたりですよ」の「域」。
気分的には大満足。

しみだしている水を目に焼きつけた後は、
最後、森林の中を歩いて、
「いっしんどう広場」を目指した。

P5147522s

 

目的地にまで到達できたので、
今回の遡行全行程を
大きく地図で振り返ってみたい。
青い点線。
実際に歩いたのは15km程度だろうか。
北から南方向に歩いて来たことになる。
(地図はGoogle Mapから)

Map2s

 

終点にあたる円海山は名の通り
山になっているうえ、
三浦半島の背にあたるので、
横浜市方面と、鎌倉市方面を
同じ場所から見下ろすことができる。

Map1


西に相模湾・鎌倉(黄色矢印)方面

P5147527s

東に東京湾・横浜(青色矢印)方面

P5147531s

遠く横浜ランドマークタワーを見ると
「あそこから歩いて来たンだなぁ」と
感慨もひとしお。

夜は一緒に歩いた仲間と
居酒屋で乾杯。
まる一日体を動かしたあとの
ビールがうまかったことは、
言うまでもない。

 

 

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2017年6月18日 (日)

大岡川遡行 (3)

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大岡川遡行 (3)

- 大岡川分水路の驚き -

 

ここから始めて
ここまで来た
横浜市の大岡川遡行の3回目。

南太田駅の手前で別れた
京急本線と上大岡駅手前で再会。
今回は交差している。

P5147369s

ちょうどいい時間となっていたので
上大岡駅前で昼食をとることにした。

歩き通しだったので、
「食事+休憩」ですっかりリフレッシュ。
体力の方は回復して元気になったのだが、
このころからカメラの調子が
怪しくなる。

写真は撮れるが露出がヘン。
強制的に露出補正しながら
騙し騙し使っていく。

 

【青木神社】

P5147375s

社殿前には、掲示があり

かつて
"九十九曲り"の異名をとったように
激しく蛇行する大岡川は、
しばしば洪水氾濫を繰り返した

とある。

内容を読むと、

* 宝永4年(1707年)
  富士山噴火による降灰は、
  大岡川流域でも60cmにも達し、
  それが雨で押し流され
  川筋を埋めて
  甚大な被害をもたらした、

* 享保16年(1731年)
  蛇行の修正や河道の拡幅、

* 天明6年(1786年)
  大洪水により大岡川の流れが変り
  社地が川の両側に分断、

* 昭和30年以降もしばしば洪水に、

などなど、
洪水関連の記録が並んでいる。

小さいながらも、
ずいぶん暴れん坊の川だったようだ。

 

【大岡川と日野川の合流点】

P5147387s

左側から大岡川、右側から日野川
手前に向かって流れ合流している。

これまで通り大岡川の方を追うが、
この先、だんだん川幅も狭くなり、
同時に川沿いが歩きにくくなってくる。

P5147394s

川沿いの道がない部分は、
できるだけ川から離れないルートで。

突然ですが、ここで【問題】です。
下の写真、左手の長い長い高い塀
さてナンでしょう?

P5147396s

正解は「横浜刑務所」。

 

橋から見下ろすと
鯉をよく目にするようになる。
住宅街の中を行く。

P5147401s

河口から歩きだして初めて、
水門が見えてきた。
【大岡川水門】だ。

P5147402s

水門の向こうには取水庭が見える。

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「大きいのは大きいけれど
 この程度の大きさで、
 洪水が迫っているとき、
 どの程度役に立つものかねぇ」

などと言いながら、
取水庭側に回ってみて驚いた。

 

「おぉ、これは!」

P5147406s


なんと直径10mにもなる
大きな穴が見える。

近くにあった
「大岡川分水路建設之碑」を見ると

P5147412

そこで、
神奈川県と横浜市は、
このような災害を防止するため、
日野川と大岡川の洪水を
直接根岸湾に放流する
大岡川分水路計画
を樹立し、
昭和44年に着工いたしました。

以来、
家屋の移転、用地の提供など
多くの市民の方々の
絶大なるご協力のもとに、
12年の歳月と
166億円余の事業費
を投じ
昭和56年3月
ここに完成したものであります。

大きな穴はトンネルとして、
そのまま根岸湾、つまり
海にまで通じているという。

これはすごい。

P5147414s

日野川の水も
大岡川の水も
大トンネルを通って、
海に注ぎ込む仕組みがあるなんて。

「大岡川分水路建設之碑」は
立派なものだったが、近くにある
地図の方は劣化がひどく
ちょっと悲しい。

P5147415s

横に走る赤いラインが分水路。

トンネルなので
詳しいルートはよくわからないが、
地図上の直線距離で見てみると、
日野川から大岡川まで約1.4km
大岡川から海まで約2.1km
合計約3.5kmの分水路ルート
(上の地図の赤いラインの総延長)のうち
約2.7km程度は
トンネルになっているようだ。

取水庭を振り返りながら先に進む。
奥に水門。大きなトンネルは
この写真の右手になる。

P5147410s

左手には、このあたりの土地が
室町時代から代々続く
北見家の居住地「川嶋」(かわじま)
であったこと、などが書かれている
石碑(かわじまの碑)もある。

 

屏風浦バイパスをくぐったあたりから
川に寄ったり離れたりの道になる。
基本的には
「笹下釜利谷道路」に沿う方向。

橋も時代を感じさせる短いものが多い。

P5147426s

橋には、
「事故や安全を考慮して、
 あとから追加でつけました」
といった感じの
まさにとってつけたような
補強された柵や手すりが
目立っている。

P5147429s_3

 

河口から10.2kmの表示があった。
もう10km以上は
歩いてきたということになる。

P5147434s

川幅がいよいよ狭くなってきた。

P5147435s

次回は、いよいよ最終回。
源流はいったいどんなところに?


 

 

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2017年6月11日 (日)

大岡川遡行 (2)

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大岡川遡行 (2)

- 建物に面影だけを残して -

 

ここから始めた
横浜市の大岡川遡行。

今日は2回目、続きを書きたい。

日ノ出町あたりまで来ると、
湧き水が。

P5147263s

簡単な説明書きもある。
要点のみ書くと・・・

野毛山の裾野に位置する日ノ出町周辺は、
自然の湧き水に恵まれた地域で、
明治の初めごろから、
横浜港に寄港する船舶に
飲用水を提供していた
と言われています。

近年は飲むことはできない。

船舶への飲料水の提供か。
燃料、食料、飲料水、などなど
港で補給されるものは
どれほど多岐にわたっていたことだろう。

ちょっと気をつけて見てみると、
川に沿って走る
京浜急行線の高架の向こうには、
山が迫っているのがよくわかる。

P5147293s

川のほうは、ほんとうに静かで、
流れを感じさせない。

P5147269s_2

 

黄金町まで来て、
ふと交番を見上げると、
なぜか屋根の上に猛禽類が。

イセタカ君」という
マスコットキャラクターらしい。
モデルは「ハイタカ」という鷹の一種とか。

P5147274s

付近は、
現在は風俗店ではなくなっているものの、
その間取りから
かつての「ちょんの間」の面影を
強く残している。

P5147275s

ネットで検索すると、
「最盛期には250軒もあった」
という記述もある。

それこそカメラを持って、
というわけにはいかないだろうが、
その頃の夜、
このあたりはいったい
どんな雰囲気だったのだろう。

P5147278s

「バイバイ作戦」と呼ばれる
かなり過激な
風俗店一掃作戦が開始されたのは
2005年のこと。

JR福知山線の脱線事故があり、
つくばエクスプレス線が開通し、
愛知県で「愛・地球博」が開催され、
「ごくせん」「電車男」「女王の教室」
といったテレビドラマが
ヒットしていたのが2005年だ。
そのころまで、このあたりは
一大風俗街だったということになる。
ついこの間の話だ。

今は、桜の名所
「大岡川プロムナード」の一部として
整備され、
誰でもが歩きやすくなっている。

P5147281s

交番の「イセタカ君」も
地域の治安に目を光らせている、
ということか。

「大岡川プロムナード」の整備の一部か
このあたりから橋名の案内表示も
よく目にするようになる。
ここは「太田橋」。

P5147279s

相変わらず水面は静かだ。

P5147284s

道慶(どうけい)橋まで来ると、
りっぱな道慶地蔵尊が。

P5147287s

川向うに見える材木店には、
こんな看板がでていた。

さて、これらの漢字、
いくつ読めるだろうか? 
全問正解は・・・難しい。

P5147290s_2

楢(なら)、椛(もみじ)
栓(せん)、椈(ひのき)
朴(ほお)、楠(くすのき)
杉(すぎ)

一番左は、木偏に仏?
木偏に佛で「しきみ(樒)」という
植物名が出てくるので
おそらくそれを指しているのだろう。

 

京急・南太田駅の手前、
並行して走っていた
赤が印象的な京急本線とも
このあたりで一旦離れてしまう。

P5147295s

後方のランドマークタワーとも
お別れだ。

P5147300s

振り返って見ると、湧き水を提供する
野毛山方面の土地(写真左手)が
高くなっていることがよくわかる。

 

京急本線から離れると、川は
首都高速神奈川3号狩場線の下に
もぐりこむような、と言うか、
首都高が覆いかぶさるように迫ってくる。

P5147307s_2

蒔田公園の横、首都高の下が
支流中村川との分岐点になる。

P5147312s

上に大きく覆いかぶさっている
ゴッツイ構造物が、
首都高速神奈川3号狩場線。

写真左手が本流で、
右手が支流中村川
写真奥に向かって流れている。

中村川は、この先、横浜の大繁華街
元町と中華街の間を流れる堀川となって
横浜港に注ぐ。

 

高速出口は川に沿った
緩やかな曲線になっていた。

P5147313s

 

通称Y校、横浜商業高校脇には、
なぞの構造が。

明らかに川へのアクセスを
意識したものだが、
これはいったいナンなのだろう。

ボートの出し入れでもするのだろうか?

P5147318s

P5147319s

 

川沿いの桜はかなり大きく茂っている。
桜の季節は
それはそれはみごとなことだろう。

P5147327s

環状1号線の鶴巻橋あたりまで来ると、
川に鯉をみかけるようになる。

P5147332s

となりの大井橋、
親柱横のお地蔵様に
地域の方々の心遣いを感じながら、

P5147333s

さらに遡って行くと、
だんだん川の様子が変わってきた。

P5147336s

弘明寺駅付近では、
「水辺の遊歩道」ということで、
川まで下りて歩くことができる。

P5147349s

川辺を歩くので
弘明寺商店街のアーケード、
観音橋も同時にくぐる。

P5147354s

遊歩道も整備されており、
釣りを楽しんでいる人もいる。
聞くと釣れるのは
「ハゼ」や「ボラ」とか。

汽水域というべきなのか、
まだこのあたりでも海の魚が
釣れるらしい。

P5147359s

「出世魚でね、
 成長に合わせて名前がね・・・」と
ごっつい指を折りながら
丁寧に名前の変化を教えてくれたのだが、
今、書こうとしても
ひとつも思い出せない。

そのうえ、
まだまだ詳しい話をしたそうだったのに、
「友人が先に行ってしまったので」と
半ば強引に、親切な説明を
途中で振り払ってしまった。

知識豊富で柔和な太公望には
ずいぶん失礼してしまった。

 

京急・上大岡駅の手前、
離れていた京急本線との
再会も近い。

 

 

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2017年6月 4日 (日)

大岡川遡行 (1)

(全体の目次はこちら


大岡川遡行 (1)

- 新田は江戸時代前期から -

 

2年前、
ここで、妙正寺川歩きをしたメンバで、
今回は、横浜市の
「大岡川」を歩こうということになった。

河口(かこう)から歩きはじめて
源流、できることなら
最初の一滴に辿り着くまで。

まさに大岡川遡行。

全行程でも、15km程度のルートなので、
カメラ片手に、
のんびり一日かけて歩くのには
ぴったりのうれしいコースだ。
いいコースを選んでくれた友人に感謝。

今回も写真の整理を兼ねて
再度行程を思い返してみたい。

 

5月の日曜日の朝、
「河口から」と言うなら
やっぱり海からでしょ」ということで
「みなとみらい」の海にメンバが集まった。

P5147198s

雲は多いが、
長距離歩くことを考えると、
これくらい曇ってくれているほうが
かえって助かる。
強い日差しは、日焼け対策だけでも
面倒なことが多いので。

休日の、朝の風が気持ちいい。

P5147199s_2

時間も早いので、まだ観光客は少ないが、
ジョギングしているランナーには
数多くすれ違った。
海沿いのいいコースだ。

ちょっと歩き始めたところで、
こんなものが目に留まった。

P5147209s

「ドック用排水ポンプ・カバー」

横浜船渠(せんきょ)株式会社
第一号、第二号
ドック用排水ポンプ・カバー

1896年アレン社製(イギリス)。
修理を重ねながら
約85年間にわたってドックの
排水機能を担ってきた

2000年に国の重要文化財に指定。

との説明書きが添えてある。

船渠(せんきょ)とは
 船舶を建造または修繕するために
 入れる構造物、ドック。
のこと。

「渠」という字は、「暗渠(あんきょ)」
での利用くらいしか思い浮かばないが、
改めて調べてみると、
「人工の水路。掘り割り。みぞ」を
意味する漢字らしい。そのままだ。

それにしても修理を重ねながらとはいえ
85年も使われていたとは。

ポンプに限らず、
昔のものはほんとうに長生きだ。

以前、80年以上も使われている
電車車両の話も聞いたことがある。
あれほど消耗の激しそうなものでも、だ。
最近見る、あのいかにも軽そうな
アルミの車両はいったい何年くらい
使えるのだろう。

 

ポンプカバーの近くには、
大きなスクリューのようなものが
横たわっていた。

これはいったい何だろう?

P5147212s

螺旋杭(らせんぐい:スクリューパイル)
というらしい。

近くの説明書きから要点のみを
ピックアップすると・・・。

現在の大桟橋の前身である鉄桟橋は
横浜港の第一期築港工事で
1894年に完成

鉄桟橋は海底にねじり込まれた
505本の鋳鉄製の杭で支えられていた。

イギリス製で直径は約30cm、
長さは約16-20m
耐荷力を増すために
先端にスクリュー(螺旋沓(くつ))
がつけられていた


1899年から始まった第二期工事では、
鋼製194本(直径17cm,長さ20m)が、
関東大震災後、復旧工事のなかでは
鋼製579本(直径18cm,長さ20m)が
新たに使われている。

説明書きにあった図の一部も
添えよう。下図の黄色い部分、
桟橋の杭として
使われていたもので、
先端が螺旋(らせん)状になっている。

P5147211bsss

鉄桟橋は
1923年、関東大震災で大きな被害。
螺旋杭は
1994年に海中から掘り出された

23年も前に
海中から掘り出されたものらしい。

 

ここ30年ほどで
大きく変わった「みなとみらい地区」。

旧施設の再利用も
新施設の内容も
人の動線を考慮した全体の配置も
どれもよく考えられており、
特徴ある景観を作り出している。

P5147222s

 

北仲橋に到着。
ここが事実上大岡川の河口。

P5147220s

親柱部には「大岡川」と
大きく刻まれている。

P5147224s

すぐ横には、
「二級河川大岡川」の
詳しい周辺地図もある。

P5147227s

いよいよ川に沿っての遡行開始だ。

ふと見ると川沿いではなく
川のど真ん中を立ったままの姿勢で
気持ちよさそうに遡っていく
小集団があった。

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スタンドアップパドル(SUP)と呼ばれる
立ち漕ぎボート。

P5147232s

静かな川面を行くのにはいいが、
波のような起伏には、いったいどの程度
耐えられるものなのだろう?

 

振り返って見るとみなとみらい地区の
全景が見える。
このあたりからこの景色ともお別れだ。

P5147231s

前方には、国道16号の大江橋と、
JR根岸線の鉄橋が重なって見える。

P5147235s

JRの鉄橋をくぐると、上流に向かって
右手に野毛、左手に吉田町
夜は賑やかな
繁華街の中を抜けて流れている。

P5147240s

それにしても野毛側の川沿い、
小さなスナックの密集度がすごい。

P5147241s_2

夜、カメラを持ってもう一度来たい感じ。
お店のサインに灯がともると
それなりに雰囲気はありそうだけれど。

P5147246s

 

もう少し進むと
左手は、福富町、長者町
呼ばれるあたりになるが、
こちらのほうは、
風俗店の密集度が高い。

P5147247s

歩いていて驚いたのは、日曜日の朝、
まだ9時頃なのに営業しているお店が
結構あること。
開店のサインもキラキラと光っているし、
店の前を掃除したり、
水を撒いたりしている人もいる。

日曜日の朝、
いったいどんな客を狙っての開店なのだろう?

 

長者橋まで来た。

P5147250s

長者橋のすぐ横には
こんな宝くじ売り場が。

P5147253s

「長者橋」
確かにここに作らないテはない。

ただ、地名はバッチリだとしても、
この外観では、どうも
あまり当たるような気がしない。

 

近くには、
吉田新田関連案内図」があった。

P5147249s

現在の関内駅から南側にあった入海を、
江戸の材木商人吉田勘兵衛
(よしだかんべえ)<1611-1686>
中心となって埋め立て、
吉田新田と呼ばれるようになりました。

年代を見れば分かる通り、
江戸時代といっても、
明治が迫った幕末ではなく、前期だ。

勘兵衛の功績を称えて新田名を
吉田新田と改称し、
吉田に苗字帯刀を許したのは
徳川家綱だったという。
第4代将軍だ。

私の浅い歴史感では、横浜と聞くと、
すぐに「幕末・開国後」を
イメージしてしまうのだが、
言うまでもなくその前にも
長い長い歴史があるわけだ。

 

河口では水色の根岸線と交わったが、
このあたりでは、
赤色の京浜急行線と並行して流れている。

P5147254s

途中、「川の駅」があった。
「道の駅」ならよく知っているが、
「川の駅」は初めてだ。
「川の駅 大岡川桜桟橋」

P5147257s

河口で追い抜かれた立ち漕ぎボード
スタンドアップパドル(SUP)の方々は
どうもこの駅まで来たようだ。

P5147260s

 

まだ河口から2km程度しか来ていない。
次回からはもう少しスピードアップして
書いていくこととしよう。

 

 

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2017年4月 9日 (日)

深谷の煉瓦(レンガ)

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深谷の煉瓦(レンガ)

- 東京駅から迎賓館まで -

 

埼玉県深谷市というと、
深谷ネギというネギが有名だが、
ここは明治の大実業家
「渋沢栄一」の出身地でもある。

第一国立銀行(現みずほ銀行)や地方銀行、
東京瓦斯(ガス)や王子製紙、
帝国ホテルやキリンビール、
一橋大学、同志社大学、日本女子大学校
東京海上火災保険や東京証券取引所、
などなど
渋沢栄一が設立に関わった企業や学校は
多種多様でその数、実に500以上。

まさに「日本資本主義の父」
と呼ばれるにふさわしい輝かしい実績。

どの会社も組織も、その後の発展と
日本社会への影響度、貢献度を思うと、
一生の間にこれほど多様な仕事が
できるものだろうかと、
にわかには信じられないほどだ。

そんな渋沢が
設立に関わった会社のひとつに
日本煉瓦製造株式会社」がある。
1887年(明治20年)に設立。

明治になって、急速に増え始めた
欧米に倣った近代建造物のための
赤レンガを製造、販売していた。

会社は2006年に廃業してしまうが、
レンガを焼いていた窯(かま)は、
重要文化財として今でも深谷に残っている。

実際に窯を見に行ってみた。

【ホフマン輪窯(わがま)】
ドイツ人ホフマンが考案した
煉瓦の連続焼成が可能な輪窯(わがま)。

Fukaya2_2

明治40年の建造で、
長さ56.5m、幅20m、高さ3.3mの
煉瓦造り。
陸上のトラックのような形状の
輪になっており、一周約120メートル。

見学は無料だが、
丁寧にも説明員がついてくれる。

Fukaya1

ヘルメットを被り、
窯の中に入って説明を聞くことができる。

Fukaya3

今は仕切りはないが、
内部を18の部屋に分け、
窯詰め・予熱・焼成・冷却・窯出しの
工程を順次行いながら移動し、
およそ半月かけて窯を一周したとのこと。

燃料の石炭は、粉にして上の穴から
15分おきに投入していたらしいが、
実際に窯に入ると、
その穴を下から見上げることができる。

Fukaya4

生産能力は月産65万個。
1968年(昭和43年)まで
約60年間煉瓦を焼き続けた。

木造平屋の会社の旧事務所も
輪窯と一緒に
国の重要文化財となっているが、
内部は今は史料館となっている。

Fukaya5

あんな大きな窯が、
最盛期には6基もあったらしい。

Fukaya6

各窯建屋の内部はこんな感じ。
一番下に窯。
煙突の途中にあるハの字にご注目。
窯の上にあった建屋の屋根の跡。

Fukaya7

この屋根の跡は今も煙突に残る。
あの高さにまで建屋があったわけだ。

Fukaya8

さて、この大規模な工場で作られた煉瓦は、
いったいどこに使われていたのか。

史料館で100円で購入した
「深谷の煉瓦物語」という小冊子から
代表的な建造物を紹介したい。

(1) 東京駅 丸ノ内本屋
明治41年に着工し、大正3年に完成。
辰野金吾の設計による
国内最大級の煉瓦建築。
深谷の煉瓦が約833万個使われた。

(2) 旧信越本線碓氷第三橋梁
  (碓氷峠鉄道施設〉
横川~軽井沢間の碓氷峠鉄道敷設工事は
明治24年に開始。
けわしい峠を縫う11.2km余りの区間には
26ものトンネルと18の橋が必要で
そのほとんどが煉瓦で作られた。
使った煉瓦1800万個
500人以上の尊い犠牲を出しながら
明治26年初めに開通。

(3) 法務省旧本館 明治28年完成
(4) 日本銀行本店本館 明治23-29年
(5) 表慶館 明治41年完成
(6) 旧横浜正金銀行本店本館
  明治37年完成
  (現・神奈川県立歴史博物館)
(7) 旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)
  明治41年

(1)-(6)はすべて重要文化財、
(7)は国宝。

(4)-(7)は、外見だけを見ると
石造建築のように見えるが、
実はいすれも深谷の煉瓦を使って建設され、
表面に石材を張って仕上げたものらしい。

鉄筋コンクリート建築に
とって代わられるまで、
本格的な西洋建築の多くは
煉瓦造だったとのこと。

建築・建造物に限らないが、
開国後、短期間でよくここまで
新技術・新文化を取り込んだものだ。

欧米列強に追いつこうとしていた
日本の勢いを、強く強く実感できる。

 

 

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2017年2月 5日 (日)

オランダ政府からのメッセージ

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オランダ政府からのメッセージ

- America Firstなら -

 

すでに1700万回も再生されているから、
ご存知の方も多いと思うが、
オランダが作った
「歓迎、米トランプ大統領」のビデオが
あまりにもよくできているので、
記録も兼ねて、ここに紹介しておきたい。

オランダ語の最初のコメントも含めて
全編英語字幕付き。
<再生>したらそのまま読めるよう
サイズをちょっと大きめに。

字幕があっても英語はちょっと、
という方も心配ご無用。
映像だけでもぜひ一度ご覧あれ。
作りがいいので、日本語訳はなくても
メッセージは伝わるはず。

 

このビデオ、タイトルにも

 The Netherlands welcomes Trump
 in his own words

とあるように、まさに「自分の言葉」で
歓迎の意を表している3分半の作品だが、
自慢あり、皮肉あり、批判あり、で
ほんとうに楽しめる。

まずはともあれ作品をどうぞ。

最初から大袈裟かつ大まじめ。

 This is a message from
 the government of the Netherlands.

 これはオランダ政府からのメッセージです。

でもそのまじめさが、
すでにおかしさを予感させる。
いきなりトランプ口調だし。

(1) William of Orange
オランダ建国の歴史から話が始まるのは
いかにも欧州の国らしい。
80年も争った戦争相手のスペイン人のことを
さんざんひどく言っておきながら、

 They're all dead now by the way.

 今は全員死んでいるけれどね。

とサラリとかわしている。

(2) オランダ語
「オランダ語は欧州で最高の言語だ」を
オランダ自身が言うのはいいとしても、
total disaster(大失敗)だとか、
fake(偽物)だとか、
トランプ氏が使った言葉を、
デンマーク語やドイツ語に向けて
もう言いたい放題。

欧州内では互いの言語を
この程度のジョークでなら
言い合うことがあるのだろうか。

(3) Pony Park
最後の部分

 you can grab 'em by the pony

で笑い声が入っているのは、
この文そのものの意味ではなく、
大統領選挙期間中に暴露された
トランプ氏の超下品な会話

 Grab them by the p***y

をイメージさせるからだろう。

(4) Afsluitdijk(アフシュライトダイク)
  締め切り大堤防

オランダが世界に誇る世界最大の堤防を
メキシコとの壁にたとえてのこの話。

「月からも見える」大西洋を挟みながらも、

 from all the water from Mexico.

 メキシコからの
 すべての水から我々を守るために、

と、奔放なセリフのスケール感に
頭がついていかない。
実際、長さ32km、幅90m、もある
堤防としては本当に巨大なもののようだが。

(5) Lee Towers
「トランプ・タワー」と「リー・タワー」
Leeさんのほうは
1946年生まれのオランダの歌手。
YouTubeでちょっと聞いてみよう。

確かにいい声だ。

(6) ミニチュア・タウン
Madurodamという
ミニチュアタウンを紹介しておいて、

 The squares are so small

 広場はとっても狭いので

それを埋めるのに
たくさんの人は必要ないよ、と。

(7) Black Pete
12月、聖二コラウスの日に行われる
伝統行事らしい。

伝統行事ながら、
英語版のWikipediaによると、
ニコラウスの仲間Black Peteについての
黒い顔に赤い口紅といった化粧は、
近年オランダでも人種差別的な側面から
論争の対象にもなっているようだ。

(8) 足が不自由な政治家
これまた、
大統領選挙期間中に問題となった
トランプ氏の障碍者の真似を
皮肉ったもの。

選挙期間中に報道されていた
見るに堪えない
トランプ氏の真似映像を思い出すと、
Klijnsma氏の、穏やかな笑顔と
議場での毅然とした姿が、
対照的に気高く、美しく見える。

(9) 脱税システム
脱税の仕組みがあるよ、と言ったうえで、

 You should tell your sons
 to put all your...
 sorry, their businesses here.

 あなたの息子さんたちにあなたの
 失礼、彼らのビジネスをここに

とのわざとらしい言い間違いで、
「あなたの」を強く印象付けている。

(10) そして最後はコレ!
America Firstなら

 The Netherlands second?

やられた!という決め台詞。
噴出さずにはいられない。

 

それにしても、全編
It's great. It's true.
を繰り返しながら
トランプ氏の口調自体を
完全におちょくっている。

オランダのことを
ちゃんと紹介しながらも
笑いあり、批判ありで
メッセージ性もバッチリ。

しかも、
全体が安っぽい作りになっておらず、
仕上がりは極めて上質。


くやしいけれど、残念だけれど、
日本がほんとうに不得意な分野だと思う。

 

 

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2017年1月15日 (日)

日本海、浅い海峡と小さな遭遇

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日本海、浅い海峡と小さな遭遇

- 230年前のスケッチ -

 

以前、ちょっと回転しただけなのに
日本列島が見慣れない形で現れるこの地図

Easia

(地図の購入はこちら
と、日本海について
この本を紹介した。

蒲生俊敬著
「日本海 その深層で起こっていること」
講談社ブルーバックス


(日本海についての過去の記事は
 こちらこちら

この本から、もう2点
興味深い話を紹介したい。
(以下水色部と図は本からの引用)

まずは1点目。
本では、日本海の特徴を
下記3点にまとめている。

① 外部の海とつながる海峡が浅く、
  地形的な閉鎖性が強い
こと。

② 対馬暖流がつねに流れ込んでいること。
③ 冬季に北西季節風が吹き抜けること。

この①について、
ちょっと驚く数字がある。

地図で見れば明らかなように、
日本海は、間宮、宗谷、津軽、対馬の
4つの海峡で外部の海と繋がっている。
この4つの海峡は、幅が狭いだけでなく、
とにかく浅い


どれほど浅いか。
本文から数字を集めて並べてみた。
(「約10メートル」の「約」は省略して引用)

  日本海の深さ
  平均水深 1,667メートル
  最大水深 3,800メートル

  4つの海峡の深さ
  間宮海峡   10メートル
  宗谷海峡   50メートル
  津軽海峡  130メートル
  対馬海峡  130メートル

もう少しイメージしやすくするため
日本海を
平均深さ50cmのバスタブとしてみよう。
海峡は、外部の海と繋がる
「縁の窪み」ということになる。

  間宮海峡   0.3cm
  宗谷海峡   1.5cm
  津軽海峡   3.9cm
  対馬海峡   3.9cm

一番深い対馬海峡でもわずか4cm
いかに「閉鎖性が強い」かがよくわかる。

このことが、②③との組合せで
海水の対流(熱塩対流)や付近の天候に
大きな特徴をもたらすのだが、
その詳細は本のほうにゆずりたい。

いずれにせよ、この閉鎖性が、

ある大潮の時期に、
同じ青森県でも
太平洋に面した八戸では干満の差が
130センチメートルもあるのに、
日本海に面した深浦では、
わずか20センチメートル程度しか
海面が変化しません。

の原因。

若狭湾に面する京都府与謝郡伊根町
 「舟屋」のような、
 1階が船のガレージ、
 2階が居間となった
海辺ぎりぎりの独特な建物が成立するのも、
日本海だからこそと言える。

 

日本海についての話、2点目は
歴史的エピソード。

フランスのJ・F・ラペルーズが、
1787年に日本海を探検したときのこと。

 ラペルーズ率いるフリゲート艦2隻は、
1787年5月25日に
対馬海峡から日本海に入ります。

1797年に出版された
「ラペルーズ世界周航記」の付図には、
日本海を東へ進んだあと、
能登半島沖で北西に向きを変えて、
ロシア沿岸を北上した航跡が
記されています。
Nihonkai1

 

このラペルーズ率いる2隻のフリゲート艦が、
日本海でふしぎな和船と遭遇しています。

遭遇場所は、

Nihonkai2

の、"MER DU JAPON"と表記されている
"MER"と"DU"の中間あたり。

1787年6月2日のこと。

対馬海峡から日本海に入った
ラペルーズ隊の前方から、
2隻の日本船(北前船)が近づいてきた。

 2隻のうち1隻は、通常の弁才船

Nihonkai3

だったが、もう1隻は
いっぷう変わった形状をしていた。

230年近くも前、フランスの軍艦が
日本海で偶然見かけた日本の船の形状、
なぜそんなことがわかるのか。

まだ写真のない時代でしたが、
ラペルーズ隊のブロンドラ海軍中尉が
これらの和船を巧みにスケッチしました。

その絵が現存しており、
『ラペルーズ世界周航記・日本近海編』
(小林忠雄編訳)に添付されています。

なんとその船のスケッチが残っているのだ!
しかも精緻で美しい。

Nihonkai4

 

 和船研究の権威である
石井謙治や安達裕之によれば、
この船は「三国丸(さんごくまる)」といい、
江戸幕府が1786年10月に
就航させたばかりの1500石積み廻船でした。

「三国」という名称は、
この船が
 和船、
 中国船、および
 西洋船(オランダ船)
の3種の船の長所を
組み合わせた折衷(せっちゅう)船
であることに由来しています。

 唐船づくりの船体に
和式の総矢倉を設け、
船体の中央には和式の本帆、
船首と船尾には洋式の補助帆(三角帆など)
を備え・・・、といったぐあいです。

しかも、三国丸のような和洋折衷船は、
当時の日本でこの一隻だけだったという。
なんという偶然。

『世界周航記』(小林忠雄編訳)には、
そのときのようすが
興味深く記載されています。

「我々は日本人の顔が
 観察できるほど近くを通過したが、
 その表情には恐怖も、驚きも
 表われていなかった」

「すれ違いながら呼びかけたが、
 我々の問いは彼らの理解をえられず、
 彼らの答弁も我々にはわからなかった。
 日本船は南方に航海をつづけた」

コミュニケーションは
取れなかったかもしれないが、
そこまで近づいてきた
異国の船(しかも軍艦)に
三国丸の人々は、
どれほど驚いたことだろう。

三国丸はその一年後、
1788年9月、暴風に見舞われ
出羽国赤石浜に漂着。
そこで破船。

 実働わずか2年たらず。
同型船が再建されることは
なかったという。

 

日本にわずか一隻、しかも
たった2年しか存在していなかった船が、
はるかフランスからやってきた軍艦と
230年前の日本海上でたまたま遭遇。
その時のフランス人の正確なスケッチが
ちゃんと残っているなんて。

貴重なスケッチは、
たった一枚でも物語を運んでくれる。

 

 

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2016年10月23日 (日)

ソングライン

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ソングライン

- 歌は地図、大地は楽譜 -

 

2016年10月5日の朝日新聞夕刊。
池澤夏樹さんが
コラム「終わりと始まり」に
「アポリジニの芸術
 人と土地をつなぐ神話」
なる文章を書いているが、
その中に、
「ソングライン」という言葉が出てくる。
(以下緑色部、記事からの引用)

 数万年前から文明に依らずに
生きてきた人たちがいる。
オーストラリアのアポリジニ(先住民)。

 彼らは速い昔にあの大陸に渡り、
その後は地殻変動で他の地域から隔離されたまま、
延々と世代を重ねてきた。

 雨が少ない土地なので農耕はむずかしい。
狩猟採集で生きることになるけれども、
密度が薄いので移動を続けなければ
充分な食料が得られない。

オーストラリアには馬やラクダやリャマのような
駄獣がいなかったので、
人は持てるだけのものを持って旅を続けた。
都市とも文明とも無縁な歴史

 その代わりにかどうか、
彼らはとても精緻で壮大な神話体系を作り上げた。
世界解釈としての神話である。

世界は遠い過去に創造されたのではなく、
人間の動きと共に今も創造されつつあり、
それは未来へも続く


 大事なのは人間と土地との絆だ。
すべての土地に固有の神話があって、
人間はいわばそれを鋤(す)き返しながら旅をする。

そのルートは歌で記憶されるから
ソングラインと呼ばれる

「ソングライン」、歌の道、
なんとも惹きつけられる言葉だ。

この言葉を初めて知ったのは、
ブルース・チャトウィンが書いた、
「ソングライン」
という本だった。

(今は、北田絵里子訳で復刊されているようだが、
 以下水色部は、右側の芹沢真理子訳からの引用)

「ソングライン」
単語の訳は簡単だが、
そもそも歌の道とは何なのだろう?

オーストラリア全土に延びる
迷路のような目に見えない道のことを知ったのは、
アルカディが教師になってからのことだった。

ヨーロッパ人はそれを"夢の道"
あるいは"ソングライン"と呼んだ


アポリジニにとって、
それは"先祖の足跡"であり"法の道"であった。

 アポリジニの天地創造の神話には
さまざまな伝説のトーテム
(未開の部族集団が
 血縁関係が有る祖先として信仰する自然物、
 あるいは記号
。動植物が多い。)
が登場する。

彼らは旅の途中に出会ったあらゆるもの、
鳥やけものや植物や岩や温泉の名前を歌いながら

そしてそうすることで
世界の存在を歌に歌いながら、
"夢の時代"、この大陸をさまよったのである。

その「ソングライン」を探しに行っている。

 私がオーストラリアにやってきたのは、
ソングラインとはいかなるものなのかを、
そしてそれがどのように機能しているのかを、
他人の書物からではなく、
自分のカで知るためだった


明らかに、私はソングラインというものの核心に
近づいていなかったし、
またそうしようともしていなかった。

私はアデレードで、その筋の専門家を知らないかと
女友だちに声をかけた。
彼女はアルカディの電話番号を教えてくれた。

さて、見えてくるだろうか、ソングライン。
もう少し先を読んでみよう。

 つづいて彼は、
各トーテムの先祖がこの国を旅しながら、
どのようにして
その足跡に沿って歌詞と旋律の道を残し、
どのようにしてそれら"夢の道"が
遠く離れた部族との
コミュニケーションの"方法"として
大地に広がっていったのかを、説明した。

歌が地図であり、方向探知器でもあった

と彼は言った。

「歌を知っていれば、
 いつでも道を見つけ出すことができた」

「それで"放浪生活"に出た人は
 いつもそうしたソングラインの上を
 歩いていたのかい?」

「昔はそうだった」彼は同意した。

「いまはみんな汽車や車で行く」

「もし、ソングラインをはずれたら?」

「他人の土地に侵入することになる。
 そのために槍を持っていたのかもしれない」

「でもその道からはずれさえしなければ、
 いつでも自分と同じ"夢"を共有する
 仲間を見つけられたわけだね? 
 それは、つまり、兄弟かい?」

「そう」

「その人たちからは
 もてなしを期待することができたのかい?」

「その逆もね」

「ということは歌はパスポートとか
 食事券のようなものだな?」

「もう一度言うが、もっと複雑なものなんだ」

 少なくとも理論上は、オーストラリア全土を
 楽譜として読み取ることができた。

 この国では歌に歌うことのできない、
 あるいは歌われることのなかった
 岩や小川はほとんどないのだ

歌が地図であり、方向探知器。
歌うことと、
存在することの深い関係は、
考え方自体が新鮮だ。

 アポリジニは、すべての"生きもの"が
大地の皮の下でひそかにつくられた
と信じていた。

それと同様に、白人の持ち込んだ道具 
-航空機、銃、トヨタのランドクルーザー-
のすべて、
将来発明されるであろう品物のすべても、
そうだと信じていた。

それらは地面の下で眠っており、
呼び出されるのを待っている
のだ。

「ひょっとしたら」私はふと思いついた。

歌うことで、彼らは神が創造した世界に
 鉄道を呼び戻す
のかもしれないね」

「そのとおり」アルカディが言った。

地下で眠っていたものが、
歌によって呼び出され、存在することになる。

「で、取り引きルートは
 かならずソングラインに沿っている、
 そうおっしゃるのですね?」

「取り引きルートがソングラインなのです」

フリンが言った。

「というのは、物ではなく歌が、
 交換の主要媒体だからです


 物のやりとりは歌のやりとりに
 付随して起こる結果なのです」

 彼はつづけた。

白人が来る前は、
オーストラリアで土地をもたない者はいなかった。

誰もが、私有財産として一連の先祖の歌と、
その歌が通過する土地を受け継いだからだ。

歌の文句は土地の権利書だった。
それは他人に貸すこともできた。
そのお返しに歌の文句を借りることもできた。

やってはいけないことは、
それら歌の文句を売ったり捨てたりすることだった。

 

この本、紀行文のように読めるが、
訳者はあとがきで
「一見ノンフィクションの観を呈している」

と言っているので、ちょっと注意が必要だ。
紀行小説と言えば正しいのだろうか。

アポリジニの考え方に触れながら、
「ソングライン」をはじめ、
「遊牧民」「放浪」「定住」などについて
自由に思いを巡らしながら読むのがいい。

 次に理解しなければならない大事な点は、
あらゆる歌が、部族や境界線に関係なく、
言語の壁を飛び越えることだ。

ある"夢の道"が北西部のブルーム付近から始まり、
20以上もの言語地域を通り抜け、
アデレード近くの海に達する
ということもあるのだ。

「それでもなお」と私は言った。

「それは同じ歌なのですね」

「われわれは」フリンは言った。
「歌を"味"や"匂い"で識別する、と言います。
 もちろん、それは"旋律"という意味です。
 最初の小節から最後の小節まで、
 旋律はずっと同じなのです」

「歌詞は変わるが、メロディーはそのままなんだ」
とアルカディがふたたび口をはさんだ。

「ということは」私はたずねた。

正しい旋律を口ずさむことができれば、
 若者でも放浪生活に出て、
 オーストラリアを横切る
 自分の歌の道をたどることができた

 そういうことですか?」

「理論的には、そうです」フリンは同意した。

言葉は単純ながら、
簡単には理解しにくいソングライン。

別な本の記述も借りてしまおう。

浦久俊彦著「138億年の音楽史」
講談社現代新書

(以下薄紫部、本からの引用)

・・・
ひとつの大陸を歌によって
描こうとした民族
にふれておきたい。

オーストラリアの先住民族アポリジニである。
彼らは、自分たちの世界で出会った
あらゆるものを歌にして歌ってきた。

ひとつの岩、川のせせらぎ、森の樹木など、
ひとつひとつに歌がある。
・・・
それはまるで、
大地そのものが楽譜であるかのようだ
・・・
大地に存在するあらゆるものはランドマークとなり、
そのひとつひとつが歌として記憶され、
それを線のようにつないで歩めば、
必ず目的地にたどり着くことができたというのだ。

「ソングライン」と名付けられた、
オーストラリア大陸に
無数に張り巡らされた目にみえない歌の道。

この世界観のユニークなところは、
アポリジニの人々にとっては、
彼らによって歌われるまで世界は存在していなかった、
というところにある。

つまり、これは音楽による天地創造の物語なのだ。

命は歌によってかたちを与えられ、世界が創られる。

存在するとは知覚すること。
その知覚が、彼らにとっては歌うということだったのだ。

上記、チャトウィンの
「ソングライン」もこんな風に紹介されている。

 イギリスの作家ブルース・チャトウィンは、
語り部とともに旅をしながら、
オーストラリア全土に張り巡らされた
迷路のような歌の道の伝統が、
いまも人々に継承され、語り継がれていることを、
紀行小説『ソングライン』に描いた。

「先祖たちは歌いながら世界じゅうの道を歩いた。
 川を、山脈を、塩湖を、砂丘を歌った。
 狩り、食べ、愛を交わし、踊り、殺した。
 歩いた跡には、音楽が残された」
 (北田絵里子訳)。

 ソングラインとは? という質問を繰り返しながら、
彼は、現代に受け継がれた
この伝説と生きる人々とともに、
アポリジニの先祖たちが刻んだ詩と旋律の
道の足跡をたどり続ける。

ここまで読んでも、
すっきりと「わかった」とは言い難い。

それでも、ソングラインの記述を通して見えてくる
アポリジニの世界観は、
歌によって世界を創造するというその世界観は、
音楽好きの私にとってはなんとも魅力的だ。

 

 

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2016年10月 2日 (日)

文字の博覧会 (4)

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文字の博覧会 (4)

- 布教のために文字考案 -

 

「文字の博覧会」
からの報告の4回目。

(1):ビルマ文字が丸くなったのは
(2):上下左右なし、鏡文字もOK
(3):現役の象形文字
と書いてきたが、文字の話は
今日で一旦一区切りとしたい。

前回に引き続き、
ちょっと形の変わった文字を見てみよう。

参照するのは、これまで同様、当日のメモと
パンフレットとして売られていた

(以下、水色部と文字の写真は
 上記の本からの引用)

 

(4-1) 中国:規範彝(い)文字

Roro

彝(イ)族が奇怪な文字を用いていることは、
18世紀、フランス人ドローヌの
報告書によって明らかになった。

象形文字を音節文字にした文字で、
7~8世紀頃に作られた。
四川のみならず、貴州省、雲南省でも
同様の文字を用いており、
さん文、ロロ文字とも呼ばれる。

時を経て、1980年、
四川省は旧来の文字をまとめ、
規範彝(イ)文として公布した。

文字は819字あり、
字形は相互に関連性を持たない

写真は、1991年の凉山日報という新聞の一部。
この文字で、
ちゃんと日刊の新聞が発行されている。

 

(4-2) エスキモー文字

Esukimo2

この写真は、中西コレクションデータベースから

イギリス人宣教師の
ジェームズ・エヴァンスが1840年頃、
布教のためにカナダ先住民の言語を
表記するために考案した。

クリー語、
イヌクティトゥット語、
チペワイヤン語、
などでも使用されていた。

一瞬、数式の一部かと思ってしまうような文字列。

それにしても「布教のために」
文字まで作ってしまうなんて。

展示会では、ほかにも
モルモン教布教のために考案された
デザレットアルファベットなども展示されていた。

 

(4-3) アフリカ:マンドンベ文字

Mandombe1s

この写真は、アフリカ固有の文字から

ブログを書くために
いろいろ調べているうちに出遭った文字。
文字の博覧会で見かけたわけではないのだが、
どうしても紹介しておきたかったのでお許しあれ。

詳しい説明は引用した
アフリカ固有の文字
ご覧いただきたいが、
この形、インパクトが強すぎる。

 

4回にわたって
主に「文字の博覧会」から
特徴ある世界の文字を紹介させていただいた。

第一回目に書いた通り、
これらの文字を集めたのは中西亮さん。
実は、中西さんの、まさに唯一無二の
文字収集活動については、
ずいぶん前から知っていた。

なのでいくつか関連記事もスクラップしてある。
そんな中から、亡くなった後の
新聞記事を添えておきたい。
今から22年も前の古い記事だが。

朝日新聞 1994年6月4日の記事

A940604_s

以下 緑色部はこの記事からの引用。

文字の美しさと多様性に魅せられた
京都市の元印刷会社社長が120カ国を歩き回り、
400種類といわれる世界の文字の
ほぼすべてを収集した。

 

朝日新聞 1994年6月11日の天声人語

A940611_nakanishi_s

以下 茶色部はこの記事からの引用。

漢字も面白い。
字体をみだりに変える者は斬首(ざんしゅ)せよ
と厳命した王のおかげかどうか、
と中西さんは書いているが、
とにかく漢字は二千年間その姿を変えず、
私たちは漢代の文書をそのまま読むことができる

 

6月4日の記事にはこんな記述もある。

経口の抗がん剤を持ち
アフリカのサハラ砂漠へ旅立った。
トゥアレグ族の人たちが守り続けたという
ティフナグ文字を探した。

腰や背中の痛みに耐えて、ついに念願を果たした。

最後に辿り着いた「ティフナグ文字」とは
どんな文字なのだろう。
ちょっと見てみよう。

Thifunagu

この写真は、中西印刷株式会社「世界の文字」から

 

国立民族学博物館顧問の梅棹忠夫さんの話 

中西さんの研究は極めて有意義なものです。
これほどの研究は外国にもないのではないか。
言語学的にきちんと調べて
資料を集められている。

この資料が散逸するのを心配しています
ご遺族のご了解があれば、
整理したうえで永久保存し、
研究に役立てられるような方法
を探したい。

その後、資料は梅棹さんの希望通り、
国立民族学博物館に寄贈され、
中西コレクションとして保管、公開されている。

まさに、

ひとりの人間の情熱が、
何とすばらしい文化的財産を残したことか。

 

 

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2016年9月25日 (日)

文字の博覧会 (3)

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文字の博覧会 (3)

- 現役の象形文字 -

 

「文字の博覧会」
からの報告の3回目。

前回までで
特に文字種の多い、
東南アジアとインドから
特徴的な文字を紹介した。

今日は違う視点で文字を選んでみたい。

参照するのは、これまで同様、当日のメモと
パンフレットとして売られていた

(以下、水色部と文字の写真は
 上記の本からの引用)

まずは、「歴史」観点でこの文字から。

 

(3-1) ヘブライ文字

Heburai

漢字は漢の時代に
漢字として成立してから今までほとんど
その姿を変えていない。
その古さは2100年といえる。

しかし、
現在のイスラエルの国語であるヘブライ語を記す
ヘブライ文字は、
紀元前5世紀に聖者エズラが形を定めてから、
すでに2400年以上経っている


その間、国は滅び、
民族は世界中に離散したにもかかわらず、
紀元前の「死海文書」と現在の新聞の文字が
ほとんど変わっていないのはまさに驚異である。

古代ヘブライ語とヘブライ文字は国と共に滅びたのに、
1948年にイスラエル共和国が成立すると
公用語として復活


その文字が、
紀元前1世紀に書かれた手写本「死海文書」の文字と
ほとんど変わっていないというのだから、確かに驚く。

アラム系文字は子音字のみなので、
読むときは文脈に応じて母音を補う。

ヘブライ文字には漢字のように書道がある
手写本はいずれも美しく書かれ、
一字一句の書き誤りもない。

この文字もまた第一回のラオ文字同様
子音字のみで、
読むときに母音を補うパターン。

それにしても書道があるなんて。

以前、米国人に英語で書道を説明しようとして
たいへん苦労したことを思い出した。

もちろん私自身の貧弱な英語力のせいだが、
英文書体を美しく書く
「calligraphyとどう違うのか?」の質問に
うまく答えられなかった。

まだ、スマホやタブレットもなかった時代で
書道の例さえ見せられなかったつらさはあるが、
仮に見せられたとしても、
どう表現すればよかったのだろう?

今でもすっきりした説明が思いつかないままだ。

 

イスラエルのエルサレム
聖書が今に生きている町で、
ユダヤ人街、イスラーム教街、
キリスト教街、アルメニア人街に4分され、
それぞれが宗教の最高の聖地となっているが、
互いに無干渉に暮らしている。

イスラーム教街ではヘブライ文字は
ほとんど見られず、
全てアラビア文字なのも面白い。

では、そのアラビア文字を見てみよう。

 

(3-2) アラビア文字

Arabia1

アラム文字系の文字で母音がなく、
大文字、小文字の区別のない28文字を
右から左へ、英語の筆記体のように連続して綴る。

文字は
独立形、語頭形、語中形、語未形と
4つの形があり、
同じ文字でも位置によって形は変わる


イスラーム教の文字で
『コーラン』は常に
アラビア語で書かれる

IS関連のニュースが多い昨今、
イスラム教の聖典「コーラン」を
よく耳にするようになったが、
「コーラン」は「アラビア語」のみ、
というのが大きな特徴。

キリスト教が、
聖書の各「言語」訳どころか、
文字のない民族には新しい文字まで作って
布教しようとしていた歴史とは対照的だ。

私にはもちろん読めないが、
見ているだけで一種のリズムを感じる。

 

見ているだけで、と言えば、
アラビア文字を基にしたペルシャ文字も外せない。

(3-3) ペルシャ文字

Perusya

ナスタアリーク体で書かれた、
ペルシャの詩人の自筆書。

ペルシャ文字は32文字の文字体系から成る。
アラビア文字を受け入れたぺルシャ人は、
これに若干の改良を加えた上、
ナスタアリーク体という優雅な書体を作り出した。

「炎がたなびくような書体で、
 美しいリズムが紙面から伝わってくるが、
 優雅すぎて活字にはならない」 

と中西さんは指摘する。
新聞は他のアラビア文字と同じ
ナスヒー体で印刷されている。

「炎がたなびくよう」とはうまい表現だ。

 

ここからは
ちょっと形の変わった文字を見てみよう。

(3-4) ナシ象形文字

Tompa

中国のチベットや雲南省に住む
少数民族のナシ(納西)族の司祭である
トンパの間のみで継承されてきた文字で、
トンパ文字ともいう。

口語ではなく、解読は難しいとされている。
2003年ユネスコの世界の記憶遺産に登録された。

象形文字というと古代エジプトで使われていた
ヒエログリフがすぐに浮かぶが、
これは利用が限定的とはいえ、
まさに「現役」の象形文字だ。

 

こういった絵のような象形文字は、
なんと沖縄県にもあったらしい。

(3-5) カイダー文字

Kaida

沖縄県八重山列島で用いられた文字。
税金や米の収穫量などを記録するための文字で、
一部で昭和前期まで用いられた

現役とは言えないまでも、
「昭和前期まで」使われていたとは。
全く知らなかった。

 

(3-6) ベルベル文字

Beruberu

アラビア語が主流の
北西アフリカで生き続ける文字で、
貴族階級の女性たちが守り伝えたとされる。

国民の3割がベルベル人のモロッコでは
2011年にこのベルベル語も公用語になったらしい。

 

世界の文字の話、もう少し続けたい。

 

 

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