旅行・地域

2021年12月26日 (日)

生き物はすべて騒がしい海にいる

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生き物はすべて騒がしい海にいる

- 分身が誕生する場所 -

 

イタリアでの精神病院廃絶の物語から
精神医療だけでなく
 正常と病(やまい)、
 精神と身体、
 地域と社会、
 抑圧と自由
などについて深く考察している

松嶋 健 (著)
 プシコ ナウティカ
 ―イタリア精神医療の人類学
世界思想社

(以下水色部、本からの引用)

からキーワードをピックアップする6回目。
個人的に感銘を受けたため
6回も書いてしまったが、
今日で一区切りとしたい。

プシコ ナウティカ(魂の航海)
近づいてみれば誰一人まともな人はいない
治療ではなく「社会の保護」が第一目的
地域精神保健と「住まう家」
地域が壁のない精神病院にならないように

イタリアでもかつては、
「訓練」あるいは「作業療法」と称して
精神病院の入院患者に
単純作業をやらせることが
広く行なわれていたが、
それがいかに人間から希望を奪い、
非人開化するかが認識されてからは、
そのような「にせの労働」は禁止された。

生に向き合うとは、
「人間」に向き合うことだ。

自らの行動が物事に因果関係を
引き起こすことをはっきりと感じられ、
そのフィードバックを利用して
自らの行動を調整し制御していく。

そうしたフィードバックの環が
環境とのあいだにちゃんと
働いていることが<主体性>にとって
不可欠
なのである。

逆に言えば、そうした「効力感」を
得られるような活動や環境から
切り離されたときには、
人は<主体>であることも、
「人間」であることも難しくなる。

精神病院に隔離されるというのは、
まさにそうしたフィードバックの環を
切断されるという経験
である。

たとえ地域で暮らしていたとしても、
効力感を得られるような活動から
切り離されているなら同じことである。

そうした試行錯誤を経て、
精神病院の廃絶は、
「生きること」を支援する地域の活動に
つながっていった。

イタリアで、
精神医療から精神保健への
転回がなされたとき、
問題はもはや「心」や「精神」を
治療することではなく

「生きること」に定位し、
「生きること」をどう支援していくか
に変わった。

「精神」の健康は、
「生きること」のなかに、
人々のあいだで
生きていく過程において
得られるものだ
ということである。

そこで忘れてはならない言葉に
「集合性」がある。

集合性の次元とは、
見えない大気や風のようなものである。

潜在的な行為は、
集合性の次元があるおかげで
現働化することができる。

その海は、凪いだり、波打ったり、
渦を巻いたりしている。

人間を含んだ生きものは、
「すべて騒がしい海にいるのである」

騒がしい海こそ、生きるために必要なのだ。

重要なのは、
凧を揚げ、音楽を演奏するには、
大気がある
具体的な場所が必要であるように、
人が<主体性>を行使するためにも、
具体的で現実的な<集合性>の場所が
必要だということである。

<地域>とは、そうした
<集合的主体化>の現働化の場所
なのである。

医者と患者との
一対一のインタラクションではなく、
もっと色々な人やモノを巻き込んだ
集合的な作業、
音楽の合奏のような共同作業。
定型的なマニュアルはないけれど
地域の果たす役割は大きい。

他者は私のなかに棲み込み、
私も他者の中に生きる。
そのときそこに分身が誕生するのである。

 

精神病院の話だったことを
忘れてしまうような読後感に
しばし浸ることができる一冊だ。

 

気ままに続けているブログですが、
ことしも訪問いただき
ありがとうございました。

皆さま、どうぞよいお年をお迎え下さい。

 

 

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2021年12月19日 (日)

地域が壁のない精神病院にならないように

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地域が壁のない精神病院にならないように

- 受け入れる側も変わらなければ -

 

イタリアでの精神病院廃絶の物語から
精神医療だけでなく
 正常と病(やまい)、
 精神と身体、
 地域と社会、
 抑圧と自由
などについて深く考察している

松嶋 健 (著)
 プシコ ナウティカ
 ―イタリア精神医療の人類学
世界思想社

(以下水色部、本からの引用)

から

プシコ ナウティカ(魂の航海)
近づいてみれば誰一人まともな人はいない
治療ではなく「社会の保護」が第一目的
地域精神保健と「住まう家」

などについて見てきた。

精神病院廃絶に尽力した
ヴェネツィア生まれの精神科医
フランコ・バザーリア
(Franco Basaglia)の発想には
学ぶところが多いのだが、
私が特に感銘を受けたのは
病院の「内」と「外」の考え方に潜む
根本的な問題点を
なんとかしようとしていた点だ。

根本的な問題点とは・・・

バザーリアとレインの
施設をめぐるやりとりに
みられるように、バザーリアには
そのことがよくわかっていた。

施設になんか構わず、
施設から出て行けばいいと考える
レインに対して、
バザーリアは、そうした考え方には
落し穴があると言う。

出られたら迷惑だ、といった
単純な「落とし穴」ではない。

なぜなら、出て行くことのできる
「外」があるうちはいいが、
もはやそうした
「外」がなくなったとき、
すべてが施設化してしまう
という問題が手つかずのまま
残されてしまうから。

なんという指摘だろう。
「外」を変えることなく
そのまま「内」を開放してしまえば
いずれは、全部が「内」のように、
つまり、
社会全体が施設の「内」のように
なってしまう可能性があると
言っているのだ。

開放者を受け入れる「地域」、
そこも変わる、変える必要があるのだ。

<地域>精神保健とは、
単に病院の外で
精神保健サービスを提供することを
意味しているのではない。

<地域>とは
単に病院の外の空間を
指しているわけではない
のだ。

「内」だけではなく「外」も変わる。
それは、「受け入れる」といった
消極的なものではなく
<主体性>や<自由>を
双方が感じられるような
積極的なものだったのだ。
つまり

それは、
人々の生と関係性が縫い込まれ
耕されることで生み出される、
生態学的なテリトリーである。

そこはくつろぎがあり
遊びのある<agio>の場所であり、
利用者たちの生が
そこに編み込まれていくことで
<主体性>を具体的に
行使できるようになっていく
集合的な環境である。

だからこそ精神保健サービスの
オペラトーレたちは、
利用者と<地域>の両方に
関わりながら仕事をする。

重要なイタリア語<agio>については、
ここを参照いただければと思う。

そうした営みがないなら、
地域は単に壁のない精神病院
なってしまうだろう。

フランコ・バザーリアが
危惧していたように、
「古い状況が一見新しい状況に
 変容したように見える。
 だがそこには常に、
 福祉的な管理の形式を再び持ち出す
 危険性が伴っているのである」

地域を単に壁のない精神病院にしない。
今の我々が生きている
現代社会を見渡したとき、
ドキリと思い当たることはないだろうか。

 

精神医療の改革は
様々な国で起こったが、その批判を
精神病院の廃絶というかたちで
国の法律のレベルにまで
もたらしたのはイタリアだけである。

その差には様々な要因が絡んでいるが、
少なくとも<主体性>と<自由>を
実現するためには
集合的かつ制度的な次元でのデザインが
絶対に不可欠であるということが
イタリアでは深く認識されていた
のは
間違いない。

Aを変革をするときは、Aだけでなく、
Aの変革を受け入れるBの変革も
一緒に考えないと
Aの変革後、
Bも含めて全部がAのようになってしまう
危険性がある。

AとBの間の壁が、単にBの外側に移っただけ、
になってしまう危険性がある。

なんとも重い、示唆に富む指摘だ。

 

 

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2021年12月12日 (日)

地域精神保健と「住まう家」

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地域精神保健と「住まう家」

- 「くつろぎ」をどう取り戻すのか -

 

イタリアでの精神病院廃絶の物語から
精神医療だけでなく
 正常と病(やまい)、
 精神と身体、
 地域と社会、
 抑圧と自由
などについて深く考察している

松嶋 健 (著)
 プシコ ナウティカ
 ―イタリア精神医療の人類学
世界思想社

(以下水色部、本からの引用)

から

プシコ ナウティカ(魂の航海)
近づいてみれば誰一人まともな人はいない
治療ではなく「社会の保護」が第一目的

などについて見てきたが、
今日は、イタリア語の<agio>
という言葉をきっかけに
イタリアの精神保健の基盤を学んでみたい。

イタリア語の<agio>のニュアンスを
日本語にするのはなかなか難しいが、
「くつろぎ」であり「ゆとり」であり
「安心」であり、
機械やハンドルの「遊び」のような
意味でも用いられる。

(中略)

それゆえ、<agio>が欠けている
<disagio>の状態から
関わっていくことが
予防的な観点からしても重要になる。

イタリアの精神保健では、
社会的なレベルでの介入が必要な
「居心地の悪さ」や「生きづらさ」を
抱えた人に適切な対処がなされないと、
より医療的な介入を必要とする
「精神的な不調」へと移行すると
考えているようだ。

 

ちなみに
イタリア語の<agio>にあたる言葉を
英語で探すとすると、
それはおそらく<ease>が
最も近いと思われる。

<ease>もまさに、
「くつろぎ」や「ゆとり」「安心」や
「安楽」を意味する語であるが、
そうした<ease>が欠如した
状態としての<disease>は
普通「病気」を意味し、
特に医療人類学の文脈においては、
生物医学的に捉えられた変化としての
「疾患」を指すものとされてきた。

「くつろぎ」の欠如は疾患なのか?
「くつろげない」のは疾患だからなのか?
英語には<illness>という単語もあるが
言語による言葉の比較はおもしろい。

 

だが、イタリア語の<disagio>が
指し示している意味/方向性(senso)は、
ある意味で全く逆のものである


それは生物医学的に捉えられた
「疾患」ではなく、
ある人が生きていく上で
「くつろぎ」や
「ゆとり」が欠けることで、
居心地が悪かったり、
生きづらかったりするような
状態を指している

「くつろげる」環境の提供の意味は大きい。

このような理解に立てば、
精神保健の仕事は
より明快になるだろう。

それは、欠如している<agio>を
感じられるような環境を
いかにして作るか、
ということであり、
そうした環境こそが、
主体性を行使するための
ベースとしての居場所になるのである。

 

病院を前提に
考えなければならなかった人たちが
病院廃絶ののち
どこにどうやって住むのか。

イタリアの
地域精神保健の活動において、
最も重視されたことの一つが、
「住まう家」があることであった


家が必要なのは、
普通の正常な生活を送るため、
というよりも、
行為の可能性を広げていくための
物理的かつ情緒的な
ベースとなる居場所としてである。

もちろんそこには、場合によっては
精神保健的サポートが必要な場合もあるが
「住まう家」があり
そこで「くつろげる」ことの価値

大きく認識されていたことは、
地域の体制づくりにおける
重要な基盤のひとつだったと言えるだろう。

 

 

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2021年12月 5日 (日)

治療ではなく「社会の保護」が第一目的

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治療ではなく「社会の保護」が第一目的

- 攻撃性と暴力は病気由来ではない -

 

イタリアでの精神病院廃絶の物語から
精神医療だけでなく
 正常と病(やまい)、
 精神と身体、
 地域と社会、
 抑圧と自由
などについて深く考察している

松嶋 健 (著)
 プシコ ナウティカ
 ―イタリア精神医療の人類学
世界思想社

(以下水色部、本からの引用)

からキーワードをピックアップする3回目。

本全体の前提となる

プシコ ナウティカ(魂の航海)
近づいてみれば誰一人まともな人はいない

について簡単に紹介したが、
今日は、具体的に
精神病院まわりのことについて
学んでみたい。

まずは、
イタリアの精神病院の歴史を
簡単に見てみよう。

入院患者は、
治療らしい治療を受けることもなく、
裸のまま手足を鉄鎖でつながれ

というような、病院のひどい状況が
日刊紙で報じられたのは1902年。

その後、1904年
「精神病院および精神病者に関する規定。
 精神病者の保護と治療」
という通称「ジョリッティ法」が
公布される。

名称だけでは
その内容を想像することはできないが
そこには強制入院の規定だけがあった

強制入院の申し立ては、
親族と後見人のほか、
精神病者と社会についての
利害に関わる者であれば
誰でもが可能であった。

なぜなら強制入院の条件は、
本人にとっての
治療の必要性からではなく、
社会的な危険性と
公序良俗の紊乱(びんらん)
(パブリック・スキャンダル)に
あったからである。

つまり、名称に反して、
そもそもの目的が
患者の治療ではなかったわけだ。

つまり、
「精神病者」の保護と治療が
目的とされているにもかかわらず、
実際には、
社会的に危険な存在からの
「社会」の保護が第一の目的だった
ということである。

そして、精神病者の治療は
あくまでも
「社会」の保護という目的の下位に
位置づけられているのであり、
この二つの役割を
同時に遂行するための
特権的な場所として
精神病院は要請されている。

その結果、精神病者の
「モノ化」「施設化」が
進んでしまうことになる。

精神病院という施設が
他の諸々の施設と異なっているのは、
そこが「医学」の名のもとに
正当化された場所だという点である。

それゆえそこで
「治療」の名のもとに行なわれていた
様々を実践もまた、
人間をモノ化するための
技術の一つとして
据えられなければならない。

治療とは呼べないような施術の実態も
本には詳しい。

施設化とは、「もとの病気」の上に
さらに病気が重ね合わされ、
どこまでが本当の病気で
どこからが
施設にいることに由来する効果なのか

区別かつかなくなった
状態のことである。

そんな時代に、精神病院の院長となった
ヴェネツィア生まれの精神科医
フランコ・バザーリア
(Franco Basaglia)は、
拘束衣の使用の禁止や閉鎖病棟の開放等、
さまざまな改革を行っていく。

そして

入院者において
新たに出てきた攻撃性と暴力は、
病気に由来するものではなく、
施設化の暴力に対する
異議申し立ての表現である

というような実態に気づいていく。

その後、バザーリアは
精神病院廃絶に向けて尽力するようになるが
そこで彼が示したものの考え方には、
精神病院廃絶という分野に限らない
たいへん示唆に富む重要な視点が
含まれている。

次回は、その点に絞って話を進めたい。

 

 

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2021年11月28日 (日)

近づいてみれば誰一人まともな人はいない

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近づいてみれば誰一人まともな人はいない

- ひとりの「生」に耳を傾ける -

 

前回
その書名プシコ ナウティカ
(psico-nautica:魂の航海)
についてのみ紹介したが、

イタリアでの精神病院廃絶の物語から
精神医療だけでなく
 正常と病(やまい)、
 精神と身体、
 地域と社会、
 抑圧と自由
などについて深く考察している

松嶋 健 (著)
 プシコ ナウティカ
 ―イタリア精神医療の人類学
世界思想社

(以下水色部、本からの引用)

から、いくつかのキーワードを
ピックアップしながら
人間の「生」や「社会」について
改めて見つめ直してみたい。

 

最初に紹介したいのは、
本文に何回も出てくる
イタリア精神保健のモットーのひとつ。

「近づいてみれば
 誰一人まともな人はいない

 (Da vicino nessuno è normale)」

思わずクスッと笑ってしまいそうになるが
なんとも味のある言葉だ。

それはどんなに
「まとも/普通/正常(normale)」
に見える人でも、
近くからよく見てみると、
「正常さ」は雲散霧消し、
その人が人生のなかで身につけてきた
一連の特異性が
その人独特の「味」になっている
ということを示している。

まさに「個性」とは
そう捉えることもできる。
「近づいてみれば」という言葉に
ある種のやさしさがある。

こういった本質的な「個性」を
ユーモアを交えて語れる
言葉があるのはいい。

 

精神病院廃絶という大きな改革を
丁寧に追っている本書だが、
その中心にはバザーリアという
精神科医がいた。

改革の運動を牽引したのは、
いろいろな町の
多彩な人々だったのだが、
なかでも中心的かつ象徴的な
役割を担ったのが、
ヴェネツィア生まれの精神科医
フランコ・バザーリア
(Franco Basaglia)
である。

バザーリアは、広い視野で
精神病院廃絶に向けて
さまざまな取組みを展開、
大きな成果を上げることになるが、
それらをすべて把握したうえで、
著者の松嶋さんは彼が成したことの根幹を
次のひと言で言い切っている。

臨床家として
バザーリアが行なったことは、
結局のところ、
「狂人」たちの話に、
彼らが生きてきた生の物語に、
ちゃんと耳を傾けた、ということに
尽きるのではないかと思う。

精神病院廃絶は、単に病院を
開放すればいいわけではない。
法律、地域社会、サポート体制などなど
大きな課題は多い。
でも、そこでの肝心要の主役は、
精神病と診断されていた人たちである。
そういった人たちの「生」に
敬意をもって「近づいてみれば」の人が
いたからこそ、
制度の改革や整備が前進したのであろう。

「近づいてみれば
 誰一人まともな人はいない
 (Da vicino nessuno è normale)」
のだ。

次回に続く。

 

 

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2021年11月21日 (日)

『プシコ ナウティカ(魂の航海)』

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『プシコ ナウティカ(魂の航海)』

- イタリアでの精神病院廃絶の物語から -

 

寡聞にして全く知らなかったのだが、
イタリアでは、1999年に
イアリア全土の公立精神病院が
すべて閉鎖されたという。

1978年に成立した
180号という法律が契機となって
精神病院を廃絶。

その過程と背景を丁寧に追いながら
単なる制度の改革だけでなく、
 正常と病(やまい)、
 精神と身体、
 地域と社会、
 抑圧と自由
などについて深く考察している

松嶋 健 (著)
 プシコ ナウティカ
 ―イタリア精神医療の人類学
世界思想社

(以下水色部、本からの引用)

は、読み応えのある良書だった。

その中から、
印象的な言葉をいくつか紹介したい。

 

まず最初に書名。
「プシコ ナウティカ」って何?

書名に限らず、本書はその内容が
イタリアでの話ゆえ、当然ながら
すべてがイタリア語ベースになっている。

松嶋さんはその都度
丁寧に説明してくれているが
日本語、英語とは違った
言葉のグルーピングや
背景を感じることも多く、
それだけでも新しい発見がある。

もちろん医療そのものが言語、
つまりイタリア語に
依存しているわけではないが、
医療制度の整備もその変革も
イタリア語が持つ発想に支えられて
進められてきたわけで、
松嶋さんは
そういった言語が持つある種の価値観にも
細かく神経を配っている


で、最初の疑問に戻るが
プシコ ナウティカ(psico-nautica)は
イタリア語で「魂の航海」を意味する

らしい。

生きていくことそのものが、
目的地も知らないまま
人々のあいだで続いていく
航海である
といえるだろう。

そうした、
人間の「生」そのものとしての
航海のアンソロジーであり、
同時に航海術でもありうるような
ものとして本書は書かれている。

最終的に精神病院の全閉鎖に繋がる物語は、
「社会」中心から「人間」中心への
転換の物語として捉えることもできる。

「人々のあいだで続いていく」
という言葉が、全編を読み終わった後、
改めて深く響いてくる。

そう、生きていくって
目的地も知らない航海なのだ。

イタリアでの出来事を通じて、
航海とそこから見える景色に
新たな角度から光があたる驚きを、
発見を、新鮮さを、
しばし楽しんでみたい。

次回に続く。

 

 

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2021年6月20日 (日)

誕生ホヤホヤ合衆国の使節団

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誕生ホヤホヤ合衆国の使節団

- ヴェネツィア大使の先見の明 -

 

前回
22歳のウィトゲンシュタインと
63歳のフレーゲとの対面について書いたが、

「年齢差のある対面」で
思い出した話があるので
今日はそれについて書きたいと思う。

参考図書はコレ。

塩野七生 (著)
イタリア遺聞
新潮文庫

の中の一篇
「ベンジャミン・フランクリンの手紙」
(以下水色部、本からの引用)

時は1783年。当時のアメリカ合衆国は、
8年も続いた独立戦争が終結し、
ヴェルサイユで調印された「パリ条約」で
独立を承認されたばかりの
まさに誕生ホヤホヤの国だった。

独立宣言もあったし、
国号をアメリカ合衆国とすることも
決まってはいたが、
議会も連邦政府もなく、
もちろん大統領も
まだ存在していなかった。

ワシントンが
初代大統領に就任するのは、
この6年後
の1789年に
なってからである。

このとき、
「パリ条約」調印のために
フランスに来ていた合衆国使節団が
パリに派遣されていた
ヴェネツィア共和国の大使に
送った文書が紹介されている。

ベンジャミン・フランクリンの筆になる
この外交文書は、
次のようにはじまっている。

大使閣下、大陸会議に参集した
アメリカの各州の代表は、
ヴェネツィア共和国と
アメリカ合衆国との間に、
平等と相互理解と友好に基づいた関係が
成り立つことは、
両国いずれにとっても
利益になるであろうとの
結論に達しました。

(中略)

閣下には、本国政府の意向を
ただされることを願うばかりです。

アメリカ合衆国使節
  ジョン・アダムス
  ベンジャミン・フランクリン
  トーマス・ジェファーソン

すごい文書だ。

合衆国の
* 第2代大統領になる
  ジョン・アダムス

* 避雷針の発明者としても有名な
  ベンジャミン・フランクリン

* 第3代大統領になる
  トーマス・ジェファーソン

の3名が名を連ねている。

さて、ここで問題。

「新興国家合衆国の使節団と
 歴史ある国家ヴェネツィアの大使、
 どんな年齢関係だったでしょう?」

新興国からは元気な若者集団、
ヴェネツィアからは風格のある老大使
をついついイメージしてしまう。

著者塩野さんもこう書いている。

新興国家アメリカ合衆国を
代表するのだから、
現代から想像すると、
なんとなく、
血気盛んな若い世代に属する
人々ばかりであったように思え、

それに反して、
歴史の舞台から去りつつあった
老国を代表する人物となると、
保守的でがんこな老人で
あったにちがいないと思うが、
実際はまったく逆なのである。

合衆国使節団
 ジョン・アダムス:48歳
 トーマス・ジェファーソン:40歳
 ベンジャミン・フランクリン:70歳代

駐仏大使
 ダニエル・ドルフィン:35歳

平均寿命が40代だった時代における
 [35歳] 対 [48,40,70代]
を正確にイメージすることはできないが、
別格のフランクリンも含めて
合衆国使節団は十分老人と呼ばれる
年齢だったようだ。

いずれによせ、予想ははずれたものの
想像するとなぜかうれしくなる図だ。
老国の方が若いなんて。

このダニエル・ドルフィン、
友好通商条約を結びたいと申し入れてきた
この合衆国の文書を本国に送る際、
外交官としての自分の意見
書き添えているという。

その内容は以下の通り。

アメリカ合衆国は、将来、
 世界で最も怖るべき力を持つ
 国家になるでありましょう

さすが大使、若いだけではない。
もう一度書く。

ワシントンが
合衆国初代大統領に就任する
6年前のコメントだ。

 

 

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2021年2月14日 (日)

リアリズムって?

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リアリズムって?

- リアルな博物画は幻想絵画? -

 

「日本資本主義の父」とも称される
渋沢栄一をモデルにした
NHKの大河ドラマ「青天を衝け」が
今日2021年2月14日から始まった。

渋沢の出身地である
埼玉県深谷市を訪問した話は
深谷の煉瓦(レンガ)なる題で
このブログでも以前簡単に書いた。

深谷に行くと、渋沢家の旧宅
通称「中の家(なかんち)」のほか
誠之堂(せいしどう)、
清風亭(せいふうてい)といった
移築した建物も
近くで見学できるのだが、
建物以上に
中の家の「血洗島(ちあらいじま)」という
なんとも恐ろしい響きの住所が
いまでも忘れられない。

さて今日は、渋沢栄一で思い出した
(と言ってもご本人ではなくお孫さん)
小さなエッセイを紹介したい。

荒俣宏さんが
雑誌「文藝春秋」の1989年8月号の
巻頭随筆として寄せていた
「新巻鮭とルナールに始まる」
というエッセイ。
(以下水色部、エッセイからの引用)

 

渋沢栄一から
孫の敬三が受け継いだ渋沢財閥は
近代日本の経済をリードしたが、
日本の魚類学をもリードした

渋沢栄一の孫敬三さんは、
「祭魚洞文庫」という名で
漁業史関係の文献を残したらしい。

荒俣さんは、この「祭魚洞文庫」を
調査するのだが、
そこですごいものを発見してしまう。

世界最初の太平洋産魚類図譜、
 ルイ・ルナール刊
 『モルッカ諸島魚類彩色図譜』
 (1718-19)

である。

発見時の衝撃をこんな言葉で書いている。

これを見た瞬間、思わず手がふるえ、
目がかすみ、口ら泡を吹き、
髪の毛が立ち、肌がニワトリになった。
そのくらい驚いても、
ぜんぜん不思議はない珍本なのだ。

なぜなら、この本は
初版以来三版を閲(けみ)しているが、
出版総数三百冊を超えないと思われ、
現存するもの二十点にすぎない、という
魚類図鑑史上
もっとも貴重な書物
だったからである。

そこには、シュールな魚類彩色図があった。

この絵を描いたサムエル・ファロアーズは、
序文で
「この絵は実につましい模写にすぎない。
 現物はこれよりもっと信じがたい
 体色と形をしている」と述べている。

ルナール図譜の最大の特徴は、
生きた魚を現地で精写したところで
魚屋に並ぶような死んだ魚を
描いていない点。

普通の魚類図鑑は
だいだいこの死んだ姿を
あたかも生時の姿のように描くのが
普通なのである。

ところがファロアーズは、
熱帯の魚の生きた姿を
突然リアルに描いて、西洋人に示した。

そこに成立した絵は、
魚屋の店頭の認識を出ない西洋人の
リアリズム感覚から大きく逸(そ)れた、
まさにシュールで
幻想的なファンタジー絵画に
ならざるをえなかった。

換言すれば、
博物画はリアルに描けば描くほど、
幻想絵画になってしまうという
皮肉な運命
をたどる。

博物学に詳しい、
まさに荒俣さんらしい指摘だ。

近代日本の油絵にリアリズムを
獲得しようとした高橋由一が、
生きた鮭でなく新巻鮭を描いたのは、
まこと、理にかなっていた。

なぜなら魚の死体画こそが、
陸上にいるわれわれに
陸上の魚(魚屋の魚)のリアリズムを
保証するからである。

そうなると、リアリズムなんて
じつにいいかげんな概念にすぎない

さてさて、実際はどんな絵なのだろう。

ここで簡単に紹介されている。
ポストカードでも購入できるようだ。

それにしても形だけでなく
色に驚く。
300年前のものだなんて。

 

 

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2020年7月12日 (日)

音符は『おたまじゃくし』?

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音符は『おたまじゃくし』?

- 他国の別称を探して -

 

前回
ヨコ書き、タテ書きの話を取り上げた際、
日本語学者の屋名池(やないけ)誠さんの
指摘、
「タテ書きが未来も生き残るかどうか、
 カギを選っているのは、
 漫画なのかもしれません」
を紹介した。

いまや日本の輸出文化を代表する漫画。
セリフは翻訳するにしても
構図と流れの関係から
右から左へ読んでいくスタイルは
変えようがないらしい。
ページ構成も右から左。

左から右への本しか目にしていない人たちに
そのあたり、違和感はないのだろうか?
機会があれば、ぜひ現地の人に
感想を聞いてみたい


と締めくくった。

今日は、「機会があれば、
ぜひ現地の人に聞いてみたい」に
実際にトライした例をひとつ紹介したい。

 

以前、友人と街を歩いている際、
「tadpole(タッドポール)」という名前の
音楽スタジオの看板が目に留まった。

「音楽スタジオだから
 『おたまじゃくし』でtadpoleか」

と何気なく流したつもりだったが
「音符のことを『おたまじゃくし』って
 外国の人も言うのだろうか?」
という素朴な疑問を友人がぶつけてきた。

「形からおたまじゃくしを連想するので
 日本では音符のことを
 『おたまじゃくし』って言うんだよ」
と説明すれば、どこの国の人にも
理解はしてもらえる気はする。

ただ、そのことと実際に『おたまじゃくし』と
現地の言葉で言うことがある、は別の話だ。

おもしろい。聞いてみよう。

 

実はそのことがあった直後、
仕事ではあるが、
世界各国の人が集まる会議に
出席することになっていた。

会議は3日間の予定。
初日の夜、receptionとして
立食のパーティが企画されている。

立食ならば聞いて回りやすいし
いいチャンスだ。

私のカタコト英語を通しての
コミュニケーションゆえ
細かい部分まで正確に
伝えられていなかったであろうことは
ご容赦いただくとして、
簡単にその内容を紹介したい。

最初に話をしたのは
米国、カナダ、オーストラリア
からの3人。

日本では「おたまじゃくし」と呼ぶ、
という話にたいそう興味を持ってくれて
協力的に話を聞いてくれたが、結果として
いわゆる音符を示す単語
[note]または[music note]
以外での呼び方は聞き出せなかった。

続いて話をしたのは、
スウェーデン、オランダ、英国
からの3人。
こちらもnoteだけ。

収穫がなく
ちょっと残念な気持ちになっていたころ、

「『あそこでおもしろいことを
  聞いて回っている人がいるから、
  おまえも協力してやれよ』
 って言われたので来たよ」

とこちらから声をかける前に
向こうから逆に声をかけてくれる
うれしい動きが始まっていた。

聞くと、
すでに話をした米国人やオランダ人が、
各国の人に声をかけてくれていたようだ。

いい歳をしたオッサンが
小さなネタに申し訳ない。

というわけで、
一気に聞きやすくなったのだが
次に聞いたスイスも
「残念ながらnoteだけ」だと言う。

フランスも基本はnoteだけ、
とのことだったが、話をしているうちに
ようやくそれ以外の単語が出てきた。

8分音符に関しては[crochet]と
呼ぶことがあるらしい。
意味は「かぎ針」
とか。
なるほど、かぎ針の先端によく似ている。

いずれせよ、すでに8カ国の人に聞いたのに
意外に音符の「別称」は出てこない。

ところが、アジア圏の人と話を始めたら
一気に動いた。
シンガポール、マレーシア、中国では、
日本語での「もやし」
で呼ぶことがある
ようだ。

こちらも形からよくわかる。

というわけで、ヒアリングの結果だけを
整理するとこんな感じ。

 

「音符」の
「音符(英語:note)」以外の呼び方。

(1) 別称なし:[英語での(music) note]のみ
  米国
  カナダ
  オーストラリア
  スウェーデン
  オランダ
  英国
  スイス

(2) 8分音符を「現地語:crochet」
  「日本語:かぎ針」で呼ぶことがある。
  フランス

(3) 「日本語:もやし」で呼ぶ。
  シンガポール 「現地語:Tauge」
  マレーシア  「現地語:Tauge」
  中国     「現地語:豆芽」

結局、
「おたまじゃくし」と呼んでいる国は
見つからなかった。

アジア圏に形からの別称があるのは
象形文字の要素も含む漢字の影響が
多少はあるのだろうか?

「現地の人に聞いてみた」の
ひとつの報告まで。

 

 

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2020年1月 5日 (日)

初詣はどこに行こうか?

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初詣はどこに行こうか?

- 秀吉と家康との交差点 -

 

あけましておめでとうございます。

新年、「初詣はどこに行こうか?」
そう迷っているようであれば、
下記の磯田さんの本をお薦めしたい。

磯田道史 (著)
日本史の内幕
- 戦国女性の素顔から幕末・
 近代の謎まで
中公新書

(以下水色部、本からの引用)

本は雑誌への連載をまとめたものだが、
その中の一篇
「浜松に史上最強の霊地」に
こんな話がある。

 

浜松市内の
今は小さな神社となっている地に、
460年前、
「サキ」という少女が住んでいた。

キサは浜松城の前身
引間(ひくま)城の城主
飯尾豊前守(いのおぶぜんのかみ)の娘。

ある日、配下の「松下」が
浜松の町はずれ
「曳馬(ひくま)ノ川辺」で
拾ったという少年を連れてきた。

白い木綿の着物は垢だらけ。
異形な者で
「猿かと思えば人。人かと思えば猿」
といった感じ。

「国はどこ。何者か」と訊くと
「尾張から来た」と猿はいい、

「幼少の者が遠路なにしに来た」
と問うと
「奉公望み(武家に就職希望)」
と答えたという。

松下はこの猿顔の少年を
宴会の見世物にしようと考え、
飯尾家の一同に披露した。

「皮の付いた栗を取り出して与え、
 ロで皮をむき喰う口元が
 猿にそっくり
」と、
みな大笑いしたと
『太閤素生記』 にはある。

 

父親の遺産
永楽銭一貫文(1000枚)の一部を貰い、
尾張清洲で木綿着を作り針を仕入れて、
それを売りながら浜松まで来たという
16歳の少年
は、それから愛され、
草履取となる。それどころか

側近に抜擢(ばってき)してみると
「なに一つ
 主人の心にかなわぬことがない」
完璧な勤めぷり。

それで納戸の出納管理を命じた。

ところが他の小姓が妬(ねた)んだ。

たびたび物が無くなり
「猥が盗んだ」といってイジメた。

松下は慈悲ある人で
「おまえはよそ者だから
 無実の罪を言いかけられるのだ。
 不憫(ふびん)だが本国に帰れ」
と路銀に永楽銭30疋(300枚)を与えて
暇を出した。

この猿がすなわち秀吉で
16歳から18歳まで3年間、
浜松にいたことになる

キサは80歳近くまで長生きして
豊臣滅亡後まで生き延び、
秀吉の真実を遠慮なく語り、孫が
『太閤素生記(たいこうすじょうき)』
という記録に残した


これで闇に消えるはずであった
秀吉の無名時代の様子が
後世に伝わった。

秀吉の、のちの出世の第一歩は
引間城本丸だったわけだ。

 

それからしばらくして
引間城は落城する。
キサはかろうじて逃げおおせた。

かわってこの50メートル四方の
引間城本丸に入ってきたのは、
徳川家康であった。

家康はこの狭苦しい空間に
一年ほど寝起きして城を拡張。
城の名前を変え、浜松城とした。

家康はこの城を根城にして
遠江(とおとうみ)一帯を侵略した。

天正10(1582)年に武田氏が滅亡、
同じ年に、信長が京都本能寺で殺されると、
ここから出陣して
一挙に甲斐・信濃と領土を拡大。

天下を狙えるポジションに躍り出て、
秀吉の天下を奪った

秀吉が引間城に居たのが
1553年~1555年頃。
家康の入城は1570年。
わずか50メートル四方の地で
そんな偶然があったなんて。

秀吉と家康。
二人の天下人の人生の転機となった
交差地点の所番地は
浜松市中区元城(もとしろ)町111の2
である。
今の浜松東照宮

全く流行(はや)っておらず
初詣客は少ない。
しかし、ここに
こっそり参って成功した
浜松の社長を私は何人も知っている。

これは確かに
かなり強力なパワースポットかも。

初詣で迷っているようであれば、
参考にしてみてはいかがでしょう?
「浜松東照宮」です。

 

 

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