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2023年10月22日 (日)

「歓待」と「寛容」

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「歓待」と「寛容」

- 哲学者の対談から -

 

哲学者の國分功一郎さんが

國分功一郎 x 星野太
『食客論』刊行記念対談
「寄生の哲学」をいかに語るか
雑誌新潮 2023年8月号

(以下水色部、本からの引用)

の中で、
「歓待」という言葉について
こんな説明をしてくれている。

フランス語では歓待する者のことを
hôte/hôtesse

-英語で言えばホスト/ホステスです-
と言いますが、驚くべきことに、
辞書を引くと分かる通り、
この語には「主人」と「客」の
両方の意味がある


これは本当に
ビックリするようなことですが、
この語そのものが、
何か歓待を巡る太古からの記憶を
留めているのでしょう。

「主人」と「客」、
対照的な語ながら、
いろいろ思い浮かぶシーンを思うと
不思議と違和感がない。

つまり、
歓待が実践されているときは、
迎える側と迎えられる側が混じり合い、
どちらが主でどちらが客か
分からなくなってしまうようなことが
起こる。

それこそが歓待であり、
歓待においては、
もともと主であった者と、
もともと客であった者とが、
動的に混じり合うわけです。

そうそう、「歓待」を
心から感じることができたときは、
まさに「主人」と「客」の関係が
消えている。

この「歓待」と明確に区別すべき語
としてあげているのが「寛容」。

寛容(tolérance)は、

あなたがそこにいることに
私は耐えます、我慢します、
という意味ですね。

宗教戦争後、17世紀に
出てきた概念
です。

宗教戦争を始めとする、
歴史に深く結びついた概念
ということなのだろう。

寛容というと
聞こえはいいかもしれないけれども、
これは要するに、
相手のことを理解する気なんて
サラサラないが
殺しもしない
ということです。

お前のことは放っておくから、
俺にも近寄るな、と。

だから寛容は排外性と切り離せない

(中略)

寛容は相手の存在に
我慢するということですから、
個と個が維持されていて、
そこには何の交流もない。

そこにいるのはいいけれども、
私たちには触れないでね、
というのが寛容です。

「移民」と「その受け入れ国の住民」
という言葉も登場しているが、
少なくともフランス語では
「広い心で他人を受け入れる」
という意味で軽々しく使うことは
できない言葉のようだ。

國分さんの「歓待」と「寛容」の
丁寧な説明を聞いたあと
『食客論』の著者星野さんは、
こうコメントしている。

歓待論は一見いいことを
言っているんだけれど、
何か違うなという感覚が
ずっとありました。

それは國分さんが
言ってくださったように、
hôteが最終的に
仲間になっていくという、
言ってみれば
正のベクトルにのみ
貫かれているからです


その点がどこかすっきりしない。

いかにも哲学者らしい違和感だ。

國分さんの言葉によれば、
『食客論』はそういう歓待の概念が
決定的に取り逃がしてしまうものに
注目しているらしい。

『食客論』読んでみようかな、
と思わせる対談となっている。



 

 

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2023年7月 2日 (日)

野川遡行(2) 人工地盤の上の公園

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野川遡行(2) 人工地盤の上の公園

- 2日かけて野川制覇 -

 

前回に引き続き、
多摩川との合流点から、
調布市の「御塔坂(おとざか)橋」までを
ぶらぶらと歩きながら目指す
(下記Google Map上の赤矢印)
「野川」遡行記を続けたい。

Nogawaa2


前回の最後、
次大夫(じだゆう)堀公園の寄り道は、
係の方の説明も丁寧でわかりやすく
収穫の多い楽しい時間だった。
さて、川沿いに戻って先に進もう。

次太夫堀公演から1kmほど上流に進むと
小田急線が見えてきた。
喜多見駅と成城学園前駅の間。
下から見上げて、成城学園方面を見ると、
少し先で線路が崖に突き刺さっている感じ。
まさに国分寺崖線。

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川で遊ぶ子どもたちもいる。

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「きたみふれあい広場」にちょっと寄る。

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川沿いの道から階段をあがると、
緑豊かな公園が広がっている。

なにも知らずに見れば、
ごくごく普通の公園だが、
上の地図を見ると分かる通り
実はこの公園、
小田急線の電車車庫の上にある。

P4162536s

つまり人工地盤の上に
これらの植物が生えているわけだ。

階段を降りて、なんとか「電車車庫」が
見られないものかと思ったが、
残念ながらコンクリートの箱、
にまでしか到達できなかった。

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それにしても、大きな木々を始め
あの緑が人工地盤の上なんて
再度説明を読んでも信じられない。

しばらく緑豊かな川沿いを進む。

P4162540s
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調布市神代団地のあたりに来ると
河床整備工事が行われていた。

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川は堰き止められ、
水は工事期間中、迂回ホースによって
流されているようだった。

近くにあった工事の説明を読むと
河床への「不透水層」の設置
法面の侵食を防ぐための
「自然石固着金網」の設置など、
耳慣れない単語が並んでいる。

近くには、入間川分水路工事による
合流地点もある。

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河原に降りて歩ける部分もある。
緑が目にも足にもやさしい。

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「潺湲亭」なる表札のある
不思議な小さな建物に遭遇。
全く読めない。
調べると「せんかんてい」と読むようだ。
これは一体なに?

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この日は一時的に雨に降られたが、
おかげでぼんやりと、ではあるものの、
久しぶりに虹を見ることができた。

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三鷹通りの橋には

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「NOGAWA 14 GRIDGES」の文字が。

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歩きながらも、また帰ってきてからも
ネットで検索してみたのだが、
この「NOGAWA 14 GRIDGES」については
正確なところはわからなかった。

一緒に歩いた友人からは
「野川にかかる調布市内の橋を数えたら、
 だいたい14でした」との情報も。
おそらくこのことで間違いないだろう。

京王線をくぐり、
中央自動車道をくぐると、
ゴール地点となる御塔坂(おとざか)橋は
もうすぐだ。

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無事、御塔坂(おとざか)橋に到着。

ここからの行程と合わせて
2日かけて野川を制覇したことになる。
距離も長すぎず、
川沿いの道も整備されているので
実に歩きやすい。

景色を楽しみながらのんびり歩いて、
肺の中の空気がすっかり入れ替わる、
そんなリフレッシュのできるコースだった。

 

 

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2023年6月25日 (日)

野川遡行(1) 次大夫堀公園まで

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野川遡行(1) 次大夫堀公園まで

- 58歳から73歳までの大工事 -

 

東京都国分寺市に水源があり、
東京都世田谷区の二子玉川で
多摩川に合流する
全長約20kmの「野川」を、
水源近くの西国分寺あたりから、
調布市の「御塔坂(おとざか)橋」まで、
友人たちとのんびりと歩いた様子を、
ここから5回に分けて書いたが、
出発地と御塔坂橋を
Google Map上、直線で結ぶと
下記地図の青い矢印になる。

野川全体で見ると半分弱、
上流側のみを歩いたことになる。

Nogawaa2

というわけで(?)、
歩けなかった残り半分を
今度は合流地点の多摩川側から
遡行してみようということになった。

野川・多摩川合流地点(二子玉川)から
御塔坂橋までを直線で結ぶと
上記地図の赤い矢印になる。

2日分の行程を合わせて
野川制覇(!?)ということになる。

 

歩いたのは2023年4月。東急田園都市線
二子玉川駅で友人と待ち合わせて出発。

川に出ようと歩き始めると、
さっそくコレが。

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ちょっと見にくいが左側、
「玉川西陸閘」とある。

陸閘(りっこう)とは
通常時は生活のために通行出来るよう
途切れているが、増水時には塞いで
住宅地への水の侵入を防ごうというもの。

多摩川の河口近くでも
古く小さなものを目にしたが、
ここのものは高さも大人の身長以上あり
かなり大きい。

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河原に出た。
東急田園都市線の鉄橋が見える。
さぁ、合流地点をさがそう。

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と歩き始めたのだが、
野川、多摩川の合流地点では
ちょうど大規模な工事が行われていた。

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工事の看板の中には
「週休2日実施中」の文字が。
工事作業者の労働環境が
改善されるのはいいことだが、
それをあえて看板で
アピールしなければならない事情には
複雑なものがある気がする。

工事の作業現場に「野川」を探すと
ここ。

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パイプの中を通った水が、
右から左に流れ出ており、
多摩川に合流している。

パイプに流れ込むところはこんな感じ。
手前から奥に向かって流れている。

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上に見えるのは、
田園都市線「二子玉川駅」。
橋の上にホームがはみ出している。

 

多摩川と野川に囲まれた
ハの字(左を上にしてのハ)の部分は
「兵庫島公園」と呼ばれている。

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兵庫とは?と思うが、
公園内にあった説明によると
新田義貞の子義興(よしおき)の従者
由良兵庫助に由来するらしい。

1358年 多摩川稲城矢口の渡しでの戦いで、
と紹介されているから
660年以上も前のこと。
当時はこの付近、
どんな様子だったのだろう?

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上に貼った公演案内図にもある通り、
兵庫島公園内には池や水路(川)もある。

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「多摩川の河原の中に、わざわざ
 人工の川が作られている」感じで
どうも落ち着かない。

少し歩くと、多摩川から離れ、野川が
川らしい姿を見せてくれるようになった。

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4月のみどりが美しい。

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多摩川の河原には、
天然芝のサッカー場が何面も広がっている。

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日曜日だったこともあり、
子どもたちの元気な声が響いている。

野川の河原には
「セイヨウアブラナ」と思われる
黄色い花が沢山咲いている。

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途中、ちょっと寄り道をして、
「砧本村」のバス停留所に寄ってみた。

P4162465s

ここは玉川電気鉄道(通称「玉電」)
東急砧(きぬた)線
「砧本村(きぬたほんむら)」駅の跡地で、
1969年の東急砧線廃止後に
東急バスのバス折り返し所および
「砧本村」バス停になった。

バスが折り返せるよう
ちょっと広場になっており、
赤い「ON DEMAND BUS」も停まっていた。

P4162467s

予約によって運行が決まる
オンデマンドバスは、
公共交通不便地域の解消を目的に、
地方だけでなく
都市部でも導入が進んでいるようだ。

 

「砧本村」駅跡地のすぐ横には、
東京都水道局砧下浄水所がある。
多摩川で取水した水を浄化し、
東京に送り込むために1923年に竣工。

そこから渋谷方面への水道管が、
野川の上を跨いでいた時期がある。
1960年から2006年までの46年間。

水道管を支えていた「野川水道橋」は
今はレリーフで残されている。

P4162473s

現在の橋には水道管は通っていない。
2006年以降、
水道本管は川底を通るようになったようだ。

 

途中、「仙川」が「野川」に流れ込む
合流地点も通る。
仙川遡行も魅力的だが、誘惑を振り払って
今日は野川沿いを進む。

東名高速道路の下を流れるところまで来た。

工事用の大きな柵で覆われていて
中や地下までは見えないが、このあたり、
かなり大規模な工事が行われている。

P4162480s

地下工事が原因で調布市の住宅街が陥没、
で話題になった東京外郭環状道路(外環)を、
将来的にはここで
東名高速につなげる計画になっている。

2023年現在、
関越道の大泉JCTまでが開通している外環。
大泉JCTからここまで約16km、
地下がメインとはいえ、
工事は着々と進んでいるようだ。

 

外環合流地点の少し上流、
川沿いからそのまま緑道を歩いて、
世田谷区立次大夫堀公園」に
寄ってみることにした。
「じだゆうぼり」とふりがながある。

P4162496s

次大夫堀とは、六郷用水の別名で、
江戸時代に多摩川から引水した農業用水路
徳川家康の命により、
小泉次大夫の指揮によって開削された。

公園内のパンフレットによると、
今の東京都側だけでなく、
神奈川県側も合わせた
稲毛・川崎、世田谷・六郷 計四ヶ領で
開削された用水は、
1597年から作業が始まり、
測量から小堀の開削終了まで
実に15年の歳月がかけられたという。

驚くのは、指揮をした小泉次大夫の年齢。
「58歳から73歳までの晩年の大工事」

とのこと。

伊能忠敬が
「大日本沿海輿地全図」製作のために
歩き出したのが1800年、55歳のときで、
それから17年かけて全国を歩いた。
の話を知ったときの驚きを思い出す。

どちらも「平均寿命が40歳以下」
と言われている時代の話だ。

園内には、
昭和4年の地図が掲示されていた。
多摩川とその周辺の川と用水。
なんだか川が、のびのびというか
いきいきしている。
窮屈な感じがしないのはなぜだろう。

P4162499s

公園全体としては、
名主屋敷、民家2棟などが移築されており、
次大夫堀や水田とあわせて、
江戸時代後期から明治時代初期にかけての
農村風景に触れることが
できるようになっている。

P4162510s


野川の遡行、
調布市の「御塔坂(おとざか)橋」を目指して
次回も続けたい。

 

 

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2023年6月11日 (日)

多摩川 河口部10km散歩

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多摩川 河口部10km散歩

- レンガ堤防と川沿いの道の区境 -

 

前回、「旧穴守稲荷神社大鳥居」
(下のGoogle Map上の赤い星印)
について書いたが、そのすぐ東側
(下の地図の青い楕円部)には
赤レンガの堤防が残っている。

Ootoriimap1


2023年5月の撮影でこんな感じ。

P5212653s

レンガ堤防は、洪水対策として
大正から昭和初期にかけて行なわれた
多摩川改修工事で建設された。

自然堤防上、道路面から
腰高ほどのレンガ堤防を建設したのは、
堤内外を日常的に往来する
羽田漁師町の
土地柄への配慮であったという。

P5212655s

よく見ると、
通常時は生活のために通行出来るよう
途切れているが、増水時には塞ぐ
陸閘(りっこう)のような構造も見られる。

P5212656s

さて、このあたり、
地図をみれば明らかなように
多摩川のほぼ河口に位置している。

そこからぶらぶらと
少し川を上ってみることにした。
東京都側(左岸)の川岸を歩く。

少し行くと、
「たまリバー50キロ」と呼ばれる
ウォーキング、ランニング、自転車のための
川岸の道の起点にでた。

P5212659s


地面をよく見るとこんな数字が。
手前左「0.0」は
まさに起点の意味だろうが、
右上反対側から読んでの「10.5」は
さてさて?

P5212660s


起点から1kmほど歩くと
川崎駅方面のビル群が
よく見えるようになってくる。

P5212662s


数字がやってきた。
手前左「2.2」は起点からの距離(km)で
間違いなさそうだ。
右上反対側から読んでの「8.3」は
最初の10.5からちょうど2.2減っているので
こちらもどこかを始点とする距離で
そこから8.3kmということだろう。

P5212664s


対岸、
川崎市側(右岸)のリヴァリエと呼ばれる
3棟からなる高層マンションの
存在感がすごい。
3棟合計で1394戸にもなるという。

P5212666s


風景の変化を楽しみながら、
河口の起点から9.0kmのところまで来た。
舗装されていて走りやすいので
自転車も多く走っているが、
専用のサイクリングロード
というわけではないので
ランナーや歩行者含めて、
双方注意が必要だ。

P5212668s

「右上数字の始点」までもあと1.5km。
さてさて1.5km先は何?

武蔵小杉の超高層ビル群がよく見える。

P5212669s


同じ超高層ビル群も
少し上流に移動して見るとこんな感じに。
見る角度が変わるだけで
ずいぶん印象が変わるものだ。

P5212670s


「右上数字の始点」はこのあたりに
なるはずだが・・・
奥に見えている水色の橋は丸子橋。

P5212671s


明確に書いてあったわけではないが
「右上数字の始点」は
どうもこれのようだ。
「大田区占用境界」
ここから奥は「世田谷区」となる。

P5212672s

河口からここまでの約10km、
自動車やバイクが禁止されている
自転車、ランナー、歩行者のための
舗装された道が整備されていたわけだが、
そこは全部大田区。
その道の両端からの距離が
双方向から書かれていたわけだ。

世田谷区に入った途端、砂利道となる。

P5212675s


しかも道幅も急に狭くなる。
丸子橋から見下ろすとよくわかる。
中央の狭い道だ。

P5212676s


丸子橋やひとつ下流のガス橋で、
川崎側に渡る自転車が多いのは、
きっと世田谷区区間の道が舗装道として
整備されていないからなのだろう。

川崎側に渡れば、
大田区区間と同様にランナーも自転車も
快適に走ることができる。

「たまリバー50キロ」と言っても
一本の同じ道ではなく、市区によって、
ずいぶん整備状況は違うようだ。
区境で、突然ここまでくっきり
路面の状況が変化するなんて。

そういえば以前、
目黒川沿いを歩いたときの写真に、
「注意してみると、さすが(!?)区境。
 手すりからコンクリート、
 緑道の舗装材まで違う。
 左側が世田谷区で右側が目黒区」
なるコメントを書いたこともあった。
行政区分が目に見える
ある意味不思議な空間だ。

世田谷区になった途端、
急に寂しくなる川沿いの道。
大田区の数字が「どうだ!」と
自慢しているように見えてくる。

 

 

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2023年6月 4日 (日)

旧穴守稲荷神社大鳥居

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旧穴守稲荷神社大鳥居

- 浄化海水プールと強制立ち退き -

 

下流は、
東京都と神奈川県の都県境を流れる
多摩川。

その河口部北側には、現在、東京国際空港
通称「羽田空港」が広がっているが、
位置的にその東隅にあたる
下記地図の赤い星印のところに行ってみると、
大きな鳥居を目にすることになる。
(地図はGoogle Mapから。
 以下、写真はすべて2023年5月に撮影)

Ootoriimap


旧穴守稲荷神社大鳥居

P5212632s


元あった場所から移設されて
今は川のすぐ横にある。

P5212648s


そばには小さな掲示板があり
鳥居とその近辺の歴史について
知ることができる。

P5212630s

この掲示板、
読んでみたら知らなかったことばかりで
たいへん面白かった。

特に2つのトピックスについて
掲示板情報を要約しながら紹介したい。
(資料写真も掲示板にあったものから)

(1) 海水浴場と浄化海水プール

1902年 京浜電鉄が京浜蒲田駅から
    穴守稲荷神社へ向けて
    支線を延ばす。穴守線開業。

1909年 干潟を埋め立てて羽田運動場を開設

1911年 羽田海水浴場開設

大桟橋に海の家をもつ海水浴場の賑わいは
こんなにすごかったようだ。

P5212634s

その後、

1913年 干潮満潮に関係なく泳げる遊泳池を
    羽田運動場の中につくる。

この羽田運動場に隣接して
社団法人日本運動倶楽部が、
野球場のほか、テニスコートや遊園地、
自転車競技場なども開場。

穴守稲荷神社一帯は、
明治時代後半から大正時代にかけて
一大行楽地となる


1932年 東洋一の浄化海水プール開設

その大きさといい、人の数といい、
プールの写真には驚かされる。

P5212633s


(2) 住民の立ち退きと鳥居の移設

第二次世界大戦終戦後

1945(昭和20)年9月13日付「朝日新聞」
 マッカーサー司令部が
 羽田飛行場の引き渡しと同時に、
 滑走路拡張のため
 海岸線埋立ての設備の提供と、
 飛行場付近の一部の住民に対して
 立ち退きが
 命ぜられることになった

 と伝えている。

1945(昭和20)年9月21日
 海老取川から東側に居住する
 全住民(羽田鈴木町、羽田穴守町、
 羽田江戸見町)に対し、
 12時間以内に立ち退くようにとの
 緊急命令が出された


「12時間以内」とは!
対象は約1200世帯3000人超

その後、GHQとの交渉により
48時間以内という譲歩をとりつけたが、
それ以降、立ち入ったものに対しては
生命の保障はしないという、
厳しい条件もつけられた 。

住民たちは近隣の親戚・知人を頼りに、
リヤカー、車力、または多摩川からの船で、
身の回りのものを運び出した。

空港の拡張工事にあたっては、
穴守稲荷神社の社殿も壊された。

その際、鳥居を倒そうとしたところ、
ロープが切れ
作業員が怪我をするという事故が発生。
いったん作業は中止された。

ところが、再開すると、
今度は工事責任者が病死。

「これは、穴守さまのたたりだ」
という噂を
稲荷信仰などあるはずもないGHQは、
どう聞いていたことだろう。

結局、何回やっても撤去できないため、
そのままそこに残すことになった。

以降、50年近く、羽田空港の駐車場内に
ぼつりと取り残された大鳥居。

P5212636s


1999年2月、空港の拡張工事に合わせて
2日かけて移転工事が行われた。

赤い鳥居は、
いま弁天橋のたもとに移設され、
羽田空港(元の穴守稲荷神社)を
見守っている。

P5212621s

 

 

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2023年4月16日 (日)

学術論文に「人種」は使えない

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学術論文に「人種」は使えない

- 定義も境界もない -

 

篠田 謙一 (著)
人類の起源 - 古代DNAが語る
ホモ・サピエンスの「大いなる旅」
中公新書

(以下水色部、本からの引用)

は、近年のDNA分析でわかってきた
人類の進化や地域集団成立のシナリオを
丁寧に解説している本だが、
そういった遺伝学研究の見地から
「人種」について
非常にクリアな発信をしている。

今日はその部分を紹介したい。

19世紀前半には、
ヨーロッパ人が認識する世界は
地球規模に広がりました。
そして自分たちと異なる
人類集団の存在が明らかとなると、
人間の持つ生物学的な側面に注目して
集団を区分する研究が
始まることになりました。

そこから「人種」という概念が
提唱されたのです。

ところが、
20世紀後半の遺伝学研究の進展は、
この「人種」に対する概念を
大きく変えることになる。

ホモ・サピエンスは
実際には生物学的にひとつの種であり、
集団による違いは認められるものの、
全体としては連続しており、
区分することができない
ということが明確になったのです。

そもそも種という概念自体も、
それほど生物学的に厳密な定義が
できるわけではないようだ。

よく用いられる種の定義として、
「自由に交配し、
 生殖能力のある子孫を残す集団」
という考え方
があります。

これにしたがえば、
人類学者が別種と考えている
ホモ・サピエンスとネアンデルタール人、
デニソワ人のいずれも、自由に交配して
子孫を残している
ことから
同じ種の生物ということになり、
別種として扱うことはできなくなります。

おそらく他の原人も
すべて私たちと同じ種として
考えなければならなくなるでしょう。

種の定義というのは、
現生の生物に当てはめているものなので、
時間軸を入れると定義があやふやに
なってしまうようだ。

「種」という概念さえ
厳密に定義できないのですから、
その下位の分類である「人種」は、
さらに生物学的な
実体のないものになるのは当然です。

前回の用語解説にあった
SNP解析の結果においても、
ヨーロッパから東アジアにかけて
現代人の地域集団は
連続していてどこにも境界がない

人種を区分する形質として
よく用いられる肌の色にしても
連続的に変化しており、
どこかに人為的な基準を設けないかぎり
区分することはできません。

人種区分は、
科学的・客観的なものではなく、
恣意的なものだということを
知っておく必要があります。

「恣意的」という言葉を
篠田さんは使っている。
確かにそれでは科学的な議論はできない。

もともとは
ヒトの生物学的な研究から
導かれた区分である「人種」ですが、
現在では
自然科学の学術論文で
用いられることはありません


もし使っている研究があるとすれば、
それは科学的な価値の低いもの
判断できます。

「人種」という言葉を使った
自然科学の学術論文があれば
それは科学的な価値の低いものだ、
とまで言い切っている。

ゲノムデータから
集団同士の違いを見ていく際には、

同じ集団の中に見られる
遺伝子の変異のほうが
他の集団との
あいだの違いよりも大きい


ということも
知っておく必要があります。

同じもの、つまり共通性を調べるのか、
違いを調べるのか。

人の優劣を決める要因が
「違っている」ものの中にある、
と考えることは妥当なのか。

単なる研究成果の解説ではなく、
多くの視点・問題点を提供してくれる
終章となっている。

 

 

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2023年1月22日 (日)

「祈り・藤原新也」写真展

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「祈り・藤原新也」写真展

- 既に答えが書かれている今? -

 

東京の世田谷美術館で開催されている
「祈り・藤原新也」
という藤原新也さんの写真展を観てきた。

2301inori

藤原新也さんは、
1944年門司市(現北九州市)生まれ。
東京藝術大学在学中に
インドを皮切りにアジア各地を放浪。

その後、アメリカ、日本国内、
震災後の東北、コロナで無人となった街、
などを次々に撮影。

写真に自身の短いコメントを添えて
これまでの50年を振り返っている。

もちろん写真もいいのだが、
コメントがまたいい。

(以下水色部は、
 写真展の藤原さんのコメントを
 そのまま引用)

藤原さんは、写真展のタイトルを
「祈り」にした理由を
次のように書いている。

わたしが世界放浪の旅に出た
今から半世紀前 
世界はまだのどかだった。
自然と共生した
人間生活の息吹が残っていた


(中略)

ときには死の危険を冒してさえ
その世界に分け入ったのは
ひょっとすると目の前の世界が
やがて失われるのではないかという
危機感と予感が
あったからかもしれない。

その意味において
わたしにとって
目の前の世界を写真に撮り
言葉を表すことは
”祈り”に近いものでは
なかったかと思う。

世界は広く、生はもちろん
死をもまた豊かであることを
感じさせる写真が並ぶ。

たとえばインド。

死を想え(メメント・モリ)

インドの聖地パラナシ。
諸国行脚を終えたひとりの僧が、
自らの死を悟って、
河原に横たわる。

夕刻のある一瞬、
彼は両手を上げた。

そして両手指で陰陽合体の印を結び、
天に突き出す。

その直後、彼は逝った。
死が人を捉えるのではなく、
人が死を捉えた

そう思った。

 

人骨が散らばる写真にも
こんなコメントが付いていて
いろいろ考えさせられる。

2301inori_a

あの人骨を見たとき、
病院では死にたくないと思った。
なぜなら、
死は病ではないのですから。

 

台湾での

そんな町の安宿に泊まり、
自分が無名であることの
安堵感を味わう

には、
「無名」のもつ味わいがあふれているし、

アメリカでの

ポップコーンのように軽い
カリフォルニア

には、
的を射たコメントに笑えるし。

観光ガイドにはない写真ばかりだが、
現地に飛び込ンでいっての写真には
生が溢れ、死が溢れ、
土埃が舞っていても声が溢れ、
色が溢れている。
なので

大地と風は荒々しかった。
花と蝶は美しかった。

たくさんの生の視線は
わたしのエネルギーへと変る。

が強い説得力をもって迫ってくる。

藤原さんは、最後

頭上の月でさえ
着々と人類の足跡が
刻まれようとしている。

この自己拡張と欲望の果てに
何が待っているのか、
その回答用紙に
既に答えが書かれている今

いま一度沖ノ島の禁足の森の想念を
心に刻みたい。

と書いているが、

「その回答用紙に
 既に答えが書かれている今」
あなたはどうするの?
と強い投げかけをしているように
読める。

重い問いだが、
「世界がまだのどか」で、
「自然と共生した
人間生活の息吹が残っていた時代」の
写真の数々は
新たな解を見せてくれているようでもある。

 

 

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2022年11月27日 (日)

「コミュニケーションはスキル」か?

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「コミュニケーションはスキル」か?

- 「英語はツール」か? -

 

日本の英語教育について
積極的に発信を続けている
鳥飼玖美子さん。

同時通訳の草分け的な存在として、
若い頃から
アポロ11号の月面着陸の中継や、
大阪万博といった大舞台でも
活躍していたとのことだが、

以前、Eテレの英語番組
「世界へ発信!SNS英語術」
で、1969年の月面着陸の中継を
通訳した話を突っ込まれると、
「あの時は中学生が同時通訳した・・」
と即答していた。
とっさにユーモアで返す機転もさすがだ。

そんな鳥飼さんのこの本

鳥飼玖美子 (著)
国際共通語としての英語
講談社現代新書

(以下水色部本からの引用)

にはコミュニケーションの本質を
考えるうえでの、
大事な言葉が溢れていた。
新しい指摘、というわけではないが
ノウハウや成果ばかりにつられて
ついつい忘れがちになる視点でもあるので、
ここで改めて一部紹介しておきたい。

 

「コミュニケーション」とは、
つまるところ
「他者との関係性」です。
自分と、自分とは異なる存在とが、
共に関係を構築するのが、
「コミュニケーション」です。

単なる伝達の手段ではないし、
日常会話の域にとどまるものでも
ありません

コミュニケーションの一部を支える言葉。
そこには「沈黙」さえも含まれている。

いずれにせよ、
「他者はすべて異質な存在」なのだから
コミュニケーションを成立させるためには
言葉だけではない努力や配慮や工夫が
必要となってくる。
それでも、もちろん失敗する場合もある。

「異文化コミュニケーション」
というのは、
異なる文化で生きてきた者同士が
関係を構築しようとすることを指します。

異文化コミュニケーションとは
英会話のことだと勘違いしている人

日本に多いのは誠に残念です。

「異文化コミュニケーション」とは
言語を問わず、異質な文化が邂逅し
接触する際に必然的に起こる事象です。

「異なる文化」は、
外国ばかりとは限りません

世代の違い、ジェンダーの違い、
障碍のある人とない人の違い、
人間と動物、人間と自然、
どれも「異文化」です。

 

外国に限らず「異文化」との
コミュニケーションには、
背景の文化を理解しようという
姿勢が不可欠だ。

どの言語にもそれぞれの文化があり、
コミュニケーション・スタイルがあり、
言語使用の習慣
があります。

外国語を使うとは、
異質な他者を相手に
異質な言語を精一杯使って
果敢に関係構築を試みるのだから、
簡単なわけがない、と
腹をくくるべきでしょう。

そして何度も繰り返すように
次の言葉を送り出している。

コミュニケーションは
単なるスキルではありません。
英語は単なる道具ではありません


国際コミュニケーションの共通語として
英語を使う場合でも、
これは同じだと思います。

英語をツールとして、
コミュニケーションをスキルとして、
軽く考えるから、
こんなに勉強しているのに上手くならない、
と腹が立つのです。

コミュニケーションは
単なるスキルではない。
英語は
単なる道具ではない。

そもそも
「単なる道具」だと言っている人は
道具以上に使えるようにはならない。

たとえ世界中の人々が
使用するようになったとしても、
英語には英語の歴史と文化があり、
独自の世界を有した
一つの言語であることは
間違いないのです。

そこを何とか折り合いをつけ、
世界の誰もが使えるように、
使い勝手の良いようにしよう、
とあれこれ工夫をし始めているのが現状で、
本書もそれを提言しているわけですが、
一つの生きた言語である
という事実も認識するべきでしょう。

 

鳥飼さんは本書で主張したかったことを
2つに集約して最後にこう書いている。

一つは、「英語はツール」
「コミュニケーションはスキル」
という言説を疑って欲しい

ということ。

コミュニケーションは
人間が特定の状況で起こす
多層的な行動であるわけですから、
それを私たちにとっては
外国語である英語で行う、
ということの重みを
忘れてはならないと思うからです。

英語はたかが道具だ、
と軽視する人ほど、
日本語は微妙なニュアンスがあって
特別に難しい、などと言います


しかし、特殊に難しい言語など
存在しません
。これは現在では
当然として認められている
言語相対主義の知見です。

そしてふたつ目の主張はこれ。

日本人にとって
外国語である英語を学ぶのは
容易ではないのですが、
だからと言ってあきらめることは
ないのです。

国際共通語として習得する
という方向を見定め、
英語学習の目的と内容を
見直したらどうか

というのが第二の主張です。

異なる文化で生きてきた者同士が
関係を構築しようとすることは
まさに多層的なアクションだ。
言葉ができれば成功する
というものでもない。

国際共通語としての英語を
どう考えるかの詳細は本書に譲るが、
歴史と文化に対する配慮と敬意を
忘れることさえなければ、みちは拓け、
関係はさらに深まっていくことだろう。

 

 

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2022年11月 6日 (日)

アルジェリアのイヘーレン岩壁画

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アルジェリアのイヘーレン岩壁画

- 信じられないタッチと空間把握 -

 

前回
前々回に引き続き

「サハラに眠る先史岩壁画」
 英隆行写真展

 目黒区美術館 区民ギャラリー
 2022年10月5日-10日

の内容を紹介したい。

2210_131s

 

展示の最後、圧巻は

*アルジェリア タッシリ・ナジェールの
 イヘーレン岩壁画
 実写 w824cm x h270cm
 模写 w840cm x h248cm

Pa082294s

「サハラ砂漠で発見された壁画で
 最も優れた作品。
 新石器時代写実派の代表作」
(フランスの考古学者アンリ・ロート)
と賞賛された美しい壁画。

ロートは、
発見翌年の1970年に調査隊を組織し、
実物大の模写を制作した。

実際の壁画は、長い歳月を経て
退色や挨の堆積などで
肉眼では見えにくくなっている部分が
多くあるためである。
たとえば、実物はこんな感じ。

Pa082321s

これが模写により

Pa082284s 

ずいぶんわかりやすくなっており、
細部まで読み取ることができる。

ロート隊は、本模写より10年以上も前、
1956-57年の
タッシリ・ナジェール岩壁画の模写時、
次のような手順で模写を作成した。

(1) 水を含ませたスポンジで壁面を拭い、
  絵を浮かび上がらせる。
(2) トレーシングペーパーを壁面に当てて
  写し取る。
(3) 別の画用紙に写して彩色する。

これに対して
* 見えなくなっている部分を
  想像で補筆したものが多い。
* 模写作成時に壁面を傷つけた。
などの批判が寄せられた。

本複写、1970年のイヘーレン岩壁画
調査隊メンバーのイヴ・マルタンは
そういった批判があったことを知った上で、

「模写制作にあたっては、
 スポンジで壁面を拭うことはせず、
 見えなくなっている部分のみを
 わずかに湿らせるにとどめた」
「見える部分と
 見えなくなっている部分を
 厳格に判断して模写を制作した」

と証言している。

ちなみに、ロート隊の模写手法は、
現在では禁止されている。

壁面にふれることも、
水を含ませることも許されていない。

 

さて、そのような経緯で写し取られた壁画、
詳しく見てみよう。

まず全体。
日本の絵巻や屏風絵のように、
遊牧民の生活の一部始終が語られる
物語になっている。
物語は右から左に向かって進む。

男性は子供を抱いて歩き、
女性は牛の背に乗って移動。
男女ともにペインティングを
しているように見える。

Pa082286s

 

牛に乗る女性はここにも。

Pa082285s

新しい土地に到着すると
男性は荷を解き、
女性はテントの設営。
弓のような棒はテントの支柱。
最近までツアレグ族も
同じようなテントを持ち、
女性が管理していたらしい。

Pa082286ss

 

キリン、ガゼル、オリックス、ダチョウなど
草原の動物も多く描かれている。

Pa082284ss

岩の割れ目を水場に見立てて、
牛が水を飲んでいる。
牛は横からの姿だが、
角は正面に近い。
ラスコーなど
旧石器時代の岩壁画にも見られる
疑似遠近法。

Pa082288s

 

さまざまな動物の群れの向こうに
ストローで飲み物を飲む女性が
描かれている。
いったい何を飲んでいるのだろう?

Pa082325s

 

手前では、
女性と子供が家畜の世話。
中央ではここでもストローで
なにか飲んでいるようだ。
順番待ちで並んでいるようにも見える。

Pa082290s

中央左には赤ん坊をあやす男性。
奥では、テントの中から身を乗り出して
頬杖をついている女性。
背中に手を当てているのか、
その前にいる男性との関係は?

とにかく、信じられないタッチの絵が
信じられないような空間把握の中に
展開されている。

しかもその後の解析により、
壁画はごく一部のエリアを除いて
ひとりの人が描いたものとわかったらしい。

前回書いたような理由で
正確な年代はわからないものの、
5000年以上も前の作品だ。
ほんとうにびっくりする。

 

「また、来週から
 現地に行けることになったのです」
とガイドさんはおっしゃっていたが、
発掘エリアには紛争地域もあるため
訪問には軍の許可が必要
であったりと
自然環境の過酷さだけでなく
行くだけでもそうとう大変なようだ。

個人的に、
これまで全く知らなかった分野だが
また新しい発見があることを
期待したい。

 

 

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2022年10月30日 (日)

サハラ岩壁画の年代は測定できない

(全体の目次はこちら



サハラ岩壁画の年代は測定できない

- 「愛の館」から線刻画まで -

 

前回に引き続き

「サハラに眠る先史岩壁画」
 英隆行写真展

 目黒区美術館 区民ギャラリー
 2022年10月5日-10日

の内容を紹介したい。

2210_131s

本展、壁画はどれも興味深いのだが、
各画に対する年代の説明がほとんどない。

前回書いた通り、
5000年から1万年ほど前のもの、
というざっくりとした幅だけはあるが、
正確にはわからないらしい。
それはどうしてか?

ガイドツアーのときの説明によると
サハラ岩壁画の
壁画自体の年代を直接測る技術は
現時点ではまだ存在しない
らしい。

理由は、
絵具に木炭や接着剤などの
有機物が含まれていないため
放射性炭素年代測定ができないから。

また、洞窟壁画のように
水が滲みだして絵の上に
炭酸カルシウムの被膜が
形成されることがないため
ウラン系列年代測定もできない。

直接的な測定ができないため、
描かれた動物との関係、
発見された古墳との関係、
などから相対的、間接的に
制作年代を区分しているようだ。

というわけで、細かいことは気にせず
気持ちのほうもざっくりのまま
ほかも見てみよう。

 

*アルジェリア タッシリ・ナジェールの
 「食肉解体」

Pa082297s

ブーメラン状の道具(ナイフ?)を使って
食肉を解体している。
男性は腰みのだけだが、
女性は長いスカートに肩掛けのようなものを
羽織っている。
右には野ウサギやキリンなども見える。

 

*チャド ティベスティの
 「愛の館」
館の外には牛がいる。右は乳搾りの様子。

Pa082311s

「愛の館」の中はこんな感じ。
入口の縄暖簾をくぐると、
部屋の中には裸の男女が集っている。
女性は足を白く塗っているようだ。

Pa082312s

右端の男は
楽器を奏でているように見える。
部屋には大きな壷があるが、
中には酒が入っているのだろうか。
重なり合っている男女もいる。
女や男を奪い合っているようにも見える
場面もある。

 

*チャド エネディの
 「整列する戦士たち」

Pa082275s

繊細な筆遣いで細かく描写された岩壁画。
戦士たちは槍を手に持ち、
頭には羽飾りを付けている。
戦士の隊列から外れた場所には
長いスカートをはいた女性もいる。

Pa082314s

槍の穂先が石で加工するには
難しい長さであることから、
鉄製の穂先と推測されている。
だとするとこれは他と比べると
ずいぶん新しいものかもしれない。

 

*スーダン ウェイナットの
 「行進する人々」

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川岸で垂直に削られた砂岩の表面に
10メートル以上にわたって夥しい数の絵が
描かれている。
別の場面では、狩りをする人々、
牛の群れなども。

この地域では、牛の牧畜は
7000年前頃に始まったが、
5000年前には乾燥化によって
牛が飼えない気候になった。

制作年代を直接調べられないため
描かれたものから
間接的に絞り込んでいくのも
ひとつの手法。

 

*モロッコ ハイ・アトラスの
 太陽の円盤  青銅器時代

Pa082317s

古代ベルベル人が信じたアニミズムでは、
太陽、土地、水」が
人間に不可欠なものとされていた。
太陽の内側には、
山並みに囲まれた大地と川。
下の小さな円盤は月のようにも見える。

 

*チャド エネディの
 「牛飼い」
サハラ岩壁画ではあまり多くない
線刻画

Pa082318s

彩画にはほとんど見られない
幾何学模様が多いのが特徴。

寄って見ると

Pa082319s

杖を肩に担ぐポーズは牧童特有のもので、
現代でもよく見かける。
お尻の大きな体形は、
現在この地に暮らすほっそりとした
トゥブー族とは異なるらしい。

体形といえば、以前アメリカ人に
「日本人でお相撲さんのような
 体形の人はほとんど見かけないのに
 どうしてあれが国技なの?」
と質問されて答えに窮したことがある。
1万年後、日本で相撲絵が発見されると
対トゥブー族と同じようなコメントを
されるかもしれない。

 

 

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