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2024年5月12日 (日)

二ヶ領用水(3) 久地の合流地点まで

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二ヶ領用水(3) 久地の合流地点まで

- 五ヶ村堀との再会 -

 

二ヶ領用水歩き、
多摩川の上河原堰取水口から歩き始め、
* 二ヶ領用水(1) 三沢川との立体交差まで
* 二ヶ領用水(2) 向ヶ丘遊園駅付近まで
と、
下の地図、左上からの青い線のルートで
小田急線向ヶ丘遊園駅付近
五反田川との合流地点(赤丸)まで来た。
Nikaryogmap12muko
その先も、二ヶ領用水は
地図上の黄色い線のように続いているが
五反田川との合流地点を見たあとは、
二ヶ領用水のもう一つの取水口、
宿河原堰取水口を目指すことにした。
(地図上の赤い点線矢印)

宿河原堰取水口に到着した。
上河原堰取水口の約3.5km下流に
位置することになる。

堰は、元は上流のここで見た
蛇籠(じゃかご)による築造だったらしいが、
1949年にコンクリート製に。現在の堰は、
1974年に堤防が決壊した狛江水害を機に
1999年に改築されたもの。
P3313125s
堤防が決壊した狛江水害時には、
宅地が濁流にえぐり取られ、
建っていた住宅19戸が流された。

そのときに家を失った被害者の声が、
昨年(2023年)11月に亡くなった
脚本家山田太一さんのTVドラマ
「岸辺のアルバム」(1977年)
構想の元となっている。
山田さんが43歳のときの作品だ。
ドラマでは実際の
堤防決壊の報道映像が使われていた。

写真左方向に二ヶ領用水が始まっている。
P3313124s

こちらも親水歩道が整備されており
P3313127s
我々同様、歩いている人も多い。
P3313129s
すぐにJR南武線の
登戸駅-宿河原駅間の下を
くぐることになるが、ここは、
腰をかがめないと通れないほど
高さがなく、
見上げたときの線路の近さに驚く。
こんな角度で、こんなに近くで、
線路を見ることはない。
P3313135s


一部桜も咲き始めているので、
花見気分で
遊歩道で飲食を楽しんでいる人も。
P3313136s

P3313137s


宿河原駅付近の北村橋の手前では
他の用水(左)との合流もある。
P3313141s


整備された散策路が続いており、
多くの人が水辺を楽しんでいる。
P3313145s


八幡下圦樋(はちまんした いりひ)付近
P3313146s

八幡下圦樋については
多摩区観光協会のページ
こんな解説がある。
P3313150s

八幡下圦樋(記念碑)
二ヶ領用水宿河原取水口からの
水量を調整し、
下流の洪水を防ぐための排水路として
明治43年(1910年)に設置された。

その排水は圦樋をつくって堰止め、
余った水を「堰の長池」に流し、
多摩川に放流した。

近年になって、
圦樋が逆に洪水発生要因となり、
昭和63年(1988年)に撤去、
記念碑建立。

【圦樋 (いりひ)】とは
 川の水を引き入れ、
 または川へ水を吐き出すための、
 水門に設けられた樋(とい)。

下流の洪水を防ぐために造ったものが、
逆に洪水発生要因になってしまったとは。
設置から撤去までの78年間に
どんな変化があったのだろう?

八幡下圦樋のすぐ下流、
五ヶ村(ごかそん)堀と二ヶ領用水、
つまり水路と水路の立体交差
P3313152s
上を流れるのが五ヶ村堀。
この五ヶ村堀、
小田急線向ヶ丘遊園駅の近くに
二ヶ領用水からの取水口があった
あの五ヶ村堀だ。
P3313153s

取水口から2km強流れて
ここまで来ている。
こんな形で再会(?)することになるとは。

その下流にも整備された親水遊歩道が続く。
P3313155s


と、ここまでの写真で気づいた方も
いらっしゃるかもしれないが、
宿河原堰取水口から八幡下圦樋の
すこし下流までは桜の名所でもある。

二ヶ領用水歩きをした日とは別の日
桜を見るためだけに歩いてみた。
満開の桜の時期はこんな感じになる。
P4073238s
P4073234s
P4073232s

上3枚の桜の写真だけ
撮影日は2024年4月7日

二ヶ領用水歩きに戻ろう。

大人がギリギリ通れるほど低い
小さな鳥居のある稲荷神社を抜けると
P3313160s

東名高速道路の高架が迫ってくる。

高速道路高架下に
【徒然草 第百十五段 石碑】
がある。
P3313163s

第百十五段が
宿河原(しゅくがはら)といふ
 ところにて、
 ぼろぼろ多く集まりて・・・」
と始まっているので、
宿河原と呼ばれる
この地に建っているようだが、
一説にはここの宿河原のこと」と
言われるレベルのものらしい。

その内容は、
宿河原のぼろぼろ(遁世者)が
自分の師の敵討ちをする話。
河原へ出て決闘し、
差し違えて死んだ話を伝え聞いた
兼好法師が、いさぎよく思えたので
「徒然草」に書き留めた、とのこと。

東名高速道路の下に、
鹿島田菅線と呼ばれる道路、
その下に二ヶ領用水という
3重構造を抜けて先に流れる。
P3313165s


JR南武線久地駅のそば、
下の地図の赤丸地点まで来た。
Nikaryogmap123kuji
向ヶ丘遊園の方から流れてきた
二ヶ領用水(上図黄色線:下写真左)と
歩いてきた二ヶ領用水(青線:下写真右)が
合流する。
P3313168s

合流した二ヶ領用水は
こんな大きな流れとなって
JR南武線久地駅から先、流れていく。
P3313169s
二ヶ領用水歩きの見所のひとつ
久地円筒分水まではもうすぐだ。

 

 

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2024年5月 5日 (日)

二ヶ領用水(2) 向ヶ丘遊園駅付近まで

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二ヶ領用水(2) 向ヶ丘遊園駅付近まで

- 庚申塔:報告されると困る罪過? -

 

多摩川の上河原堰取水口から
二ヶ領用水を歩き始めた前回の続き。

まだ、入口。
取水口から数百メートルしか来ていない。

三沢川との立体交差、
三沢川の下をくぐった二ヶ領用水は
その先、下の写真のような
整備された親水護岸となっており、
流れを見ながらのんびり歩くことができる。
P3313053s

【草堰(くさぜき)】と呼ばれる小さな堰。
流れに杭を打って、石、土、草などで
築いた堰をそう呼ぶらしい。
P3313056s
堰の横には取水口がある。
P3313058s

JR南武線が二ヶ領用水の上を走る。
P3313065s

少し下流にも似たような草堰が。
P3313066s
ここにも同じように取水口がある。
P3313064s

取水された水はどこに行くのか?
1本の流れを追ってみたところ、
さらに細い水路となって
住宅街の中に消えていった。
P3313069s

水はきれいで、鯉をよく見かけるが、
コサギも。白が美しい。
P3313067s

旧三沢川が合流する中野島中学校横では、
「この場所は石積護岸工です」
の表示のすぐ右側に
P3313821so
「この場所は蛇籠護岸工です」
の表示部分が並んでおり
P3313075s
石積護岸工」と「蛇籠護岸工」を
並べて見比べられるようになっている。

石積はまぁ見ての通りだが、
蛇籠(じゃかご)とはなんだろう?

【蛇籠(じゃかご)】とは、
竹材や鉄線で編んだ長い籠に
砕石を詰め込んだもので、
河川の護岸や斜面の補強などに
使用されてきたらしい。

確かによく見ると、鉄線の網の中に
砕石が詰め込まれている。
斜面の補強などでもよく目にするが
あれを蛇籠(じゃかご)と言うことは
初めて知った。


用水沿いはよく整備されていて歩きやすい。
P3313086s
歩いた日の水量は多くはなかったが、
堀自体はかなり大きい(深い)。
増水することもあるのだろう。
P3313089s

子どもたちの遊び場にもなっている。
P3313095s

堰による取水だけでなく、
二ヶ領用水への排水溝も目にする。
P3313087s
P3313094s

山下川(左)との合流地点まできた。
P3313100s
橋には、
「川崎の育ての親 二ヶ領用水
 二ヶ領用水は『次大夫堀』とも呼ばれ
 慶長16年(1611年)に完成しました」
との説明と一緒に、
小泉次大夫のレリーフが埋め込まれている。
P3313099s
(小泉次大夫の功績については、
 前回記事を参照下さい)

鯉が集まって
子どもたちを楽しませている。
P3313104s

向ヶ丘遊園駅の近く、
世田谷町田道路の下をくぐる少し手前で
親水遊歩道がなくなり、
流れの幅が広くなる。
P3313106s
まもなく、府中街道の下に潜り込むように
見えなくなってしまう。
P3313108s
(上の写真の左端)
二ヶ領用水が府中街道の下に
潜り込んだすぐ横に、
榎戸の庚申塔」がある。
高さ2.5m。見上げるほど大きなものだ。
P3313113s
「この庚申塔は
 明治3年に富士講の人たちが
 道中の安全や村の外から
 邪悪な物が入りこまないように、
 また五穀豊穣を祈念して
 小泉橋の袂に建立」
との説明がある。

富士信仰と中国の庚申信仰の
2つの信仰を併せ持つ複合的なもの
らしい。

塔にあった
庚申塔の謂われ」が興味深ったので、
そのままここに書き写したい。

中国に道教という思想があり
庚申信仰もその一つとして、
平安時代に我が国に伝わり、
江戸時代になると
庶民の間にも広まりました。

庚申信仰とは、
60日ごとに巡ってくる
庚申の夜
に眠ってしまうと、
人間の体内にいるという
「三尸(さんし)の虫」が
体内から抜け出だして天に昇り、
天帝にその人の罪過を報告するので、
庚申の夜は眠らずに、
「庚申待」といって、
健康長寿を祈願した事に
由来しています。

そこで庚申塔が、礼拝の本尊として
建てられるようになりました。

報告されると困る罪過が
だれにでもある
、が
前提になっている、ということか。

府中街道の下を流れる二ヶ領用水。
奥を横切るのは小田急線。
ちょうど電車が通過している。
向ヶ丘遊園駅のすぐそばだ。
P3313114s
小田急線の線路を越えたところに
五ヶ村堀の取水口がある。
ここから始まる五ヶ村堀とは、
このあと意外な形で再会することになる。
P3313116s
五ヶ村堀取水口のすぐ下流で
五反田川と合流。
下の写真、
 左が    五反田川、
 右が    二ヶ領用水、
 右上高架が 府中街道。
P3313118s
ここまで、
多摩川の上河原堰取水口から
二ヶ領用水に沿って歩いてきて
下の地図の赤丸まで来た。
Nikaryogmap12muko
その先も、二ヶ領用水は
地図上の黄色い線のように続いているが
五反田川との合流地点を見たあとは、
二ヶ領用水のもう一つの取水口、
宿河原堰取水口を目指すことにした。
(地図上の赤い点線矢印)

一旦、二ヶ領用水を離れ、
宿河原堰取水口へと移動する。

 

 

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2024年4月28日 (日)

二ヶ領用水(1) 三沢川との立体交差まで

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二ヶ領用水(1) 三沢川との立体交差まで

- 江戸時代初期の大用水 -

 

東京都の野川を歩いたときに立ち寄った
「世田谷区立次大夫堀(じだゆうぼり)公園

そのときの記事に

次大夫堀とは、六郷用水の別名で、
江戸時代に
多摩川から引水した農業用水路
徳川家康の命により、
小泉次大夫の指揮によって開削された。

公園内のパンフレットによると、
今の東京都側だけでなく、
神奈川県側も合わせた
稲毛・川崎、世田谷・六郷 計四ヶ領で
開削された用水は、
1597年から作業が始まり、
測量から小堀の開削終了まで
実に15年の歳月がかけられたという。

驚くのは、
指揮をした小泉次大夫の年齢。
「58歳から73歳までの晩年の大工事」

とのこと。

と書いたが、
一緒に歩いた川歩き仲間と今度は、
「次大夫堀の神奈川県側を歩いてみよう」
ということになった。
実際に歩いたのは、
2024年3月の天気がいい日曜日。

神奈川県側は、
稲毛領・川崎領(現在の川崎市)の
ふたつの領地にまたがって開削されたため、
二ヶ領用水』と呼ばれている。

ちなみに東京都側は
世田谷・六郷領(現在の世田谷・大田区)で
『六郷用水』。

約400年前に
小泉次大夫が成し遂げたものは
二ヶ領用水 全長32km、
六郷用水  全長23km、
多摩川両岸の大用水路網
だ。

二ヶ領用水の多摩川からの取水口は
(A)上河原堰取水口 と (B)宿河原堰取水口の
二ケ所あるが、まずは上流の
上河原堰取水口からスタートすることにした。
Nikaryogmapab
JR中野島駅から多摩川にでて、
上流に向かって土手を歩き始めると
上河原堰堤が見えてきた。
P3313017s
写真
左側が川崎市側、
右側が東京都調布市側。

P3313024s
上河原堰堤は
昭和46年(1971)に大きな改築が行われ

* 川崎市側に
 洪水吐(こうずいばき)ゲート3門
 管理橋(163m)と魚道
* 固定堰と洪水吐ゲートの間に
 流量調整ゲート(14m)
* 調布市側に魚道つきの固定堰(248m)

が整備された。
その後、平成24年(2012)に
固定堰を切り下げて起伏ゲートを設置し、
現在の堰堤になっている。
P3313028s

堰はまさに二ヶ領用水への取水が目的だが、
堰となっているため、魚道もあって
魚も多く集まることになるのだろう。

釣りをしている人のほかに、
大きな望遠レンズをつけたカメラを
しっかりした三脚に乗せている
こんな方々が何組もいた。
P3313019s
聞くと「ハヤブサ」が飛来するという。
残念ながらその時点では、
見ることができなかったが。

取水口まで来た。
P3313027s
案内板にある
まさに「現在地」からの写真がこれ。
P3313029s
左側に流れ込んでいるのが
二ヶ領用水の上河原堰取水口だ。
取水設備をゴミや流木から防護する
ネットフェンスが設置されている。

ここからは二ヶ領用水に沿って歩く。
P3313036s
取水口付近のせいか、
ゴミと水量調節のためと思われるゲートが
3連発。
P3313039s
特に、この3基目(下の写真)は、
実際にどう動くのかを見てみたい。
P3313044s
P3313046s

カメラ片手にキョロキョロ歩く我々を
見返してくる亀もいる。
P3313040s

先に掲載した案内板にある
2本の水路のX字交点まで来た。
左上から右下の水色が二ヶ領用水。
左下から右上の水色が三沢川。
P3313027s
さて、2本の水路がどうやって
交差しているのか。
地上からでは
それがわかるような写真が撮れないので
GoogleMapの航空写真に
助けてもらおう。
Nikaryomisawa
そう、立体交差なのだ。
三沢川が上を流れ、
二ヶ領用水が下をくぐっている。

「上」を流れる三沢川がこれ。
上なのに深い堀、
川面は見下ろしたかなり低い位置に。
P3313047s
これのさらに下をくぐるわけだから
二ヶ領用水、
一旦はかなり深い位置まで
潜っていることになる。

で、三沢川をくぐって出てきたところが
ここ。
P3313052s
この付近、避難用掲示板には
 洪水   3階以上
 内水氾濫 1階以上

と記載されている。
P3313050s

内水氾濫
国立防災科学技術研究所のページには

平坦な土地に強い雨が降ると,
雨水がはけきらずに地面に溜まります
低いところには
周囲から水が流れ込んできて
浸水の規模が大きくなります.

排水用の水路や小河川は
水位を増して真っ先に溢れ出します


このようにして起きる洪水を
内水氾濫と呼び,
本川の堤防が切れたり溢れたりして
生じる外水氾濫とは区別しています.

とある。
つまり洪水ではなく、
排水が追いつかない事態のこと
雨が多いときには、
たとえ洪水の危険がなくても
このあたりでは注意が必要だ。

さて、ここから先は
整備された親水護岸。
P3313053s
流れのそばをのんびり歩いて行きたい。

 

 

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2023年12月24日 (日)

山頂はひとつだけ?

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山頂はひとつだけ?

- ヒマラヤ登山における大きな変化 -

 

標高8000mを超える山14座のうち
12座に登頂した写真家石川直樹さんが
雑誌新潮に書いていた

石川直樹
地上に星座をつくる
第121回 山頂はひとつだけ
雑誌新潮 2023年10月号

(以下水色部、本からの引用)

を読んで、2点メモを残しておきたい。

(1) 山頂はひとつだけ?

ヒマラヤ登山には近年、
ある変化が起きている。

空撮技術の発展や登山者が
SNSに頻繁に写真をアップすることで、
8000メートル峰の
頂上付近の様子が詳らかになり、
その山の最高点、
すなわち真の頂上というものが
ビジュアルとして
はっきりわかるようになった

えっ!? それまでは
頂上がよくわからなかったの?

鉛筆の先のように尖った頂は
間違えようがない一方、
ノコギリの刃のように
いくつか小さなピークがある頂は、
最高点がわかりにくい


8000メートル峰のなかでは、
特にダウラギリ(8161メートル)と
マナスル(8163メートル)という
二つの山で
「だいたいこのあたりを
 頂上としていいだろう」
いう地点があり、
そこで登山者が引き返してきた
歴史がある

「だいたいこのあたりを
 頂上としていいだろう」
で下山していたとは。

ものすごい困難に立ち向かっていながら、
肝心なゴールが「このあたり」というのが
なんだか不思議な感じだ。
だって、違っていたら
たとえすぐ近くまで行っていたとしても
登頂した山として
カウントできないのだろうから。

今では本当の頂に
立っていない登山者は
写真などによって検証されて、
登頂者のリストの修正が
迫られる
という事態にもなっている。

14座の登頂者はこれまで50人弱
いたことなっていたのだが、
真の頂に明確に立った人だけを
カウントしていくと、
たった8人になってしまう

登頂者リストの修正!?
なんと、50人弱が8人に!

もちろん「正確な」事実としては
そうなのかもしれないが、
今後の分について、というならともかく
過去分についての「検証」って
意味があるのだろうか?

 

(2) 登山のサポートとヘリの利用

ヒマラヤ登山、昔は準備に
*許可の取得
*ベースキャンプへのアプローチ
*高所順応
*上部のルート工作
等々、多くの苦労を伴っていた。
それが今はずいぶん
様変わりしているようだ。

14座に登る手順はシステム化され、
そうしたことに慣れた
ネパールの会社が
すべてお膳立てをしてくれる


登山者は自国の低酸素室などで
訓練を積み、人工的な環境で
(或いは別の高い山などで)
ある程度の高所順応をしてから
ヒマラヤに辿り着けば、
長い順応期間もなく、
すぐに登攀に入ることができる。

さらには
ヘリの使用が当たり前になり、
ベースキャンプまでの
長いキャラバンも
必要なくなりつつある。

昔はヘリは
費用の高い移動手段だったが、
特にネパールでは安価でヘリを
利用できるようになった。

その結果、
最短登頂記録争いなんてものまで
登場しているとのこと。

ヘリコプターを駆使した
その移動方法に賛否はあるものの、
3ヶ月ちょっとで14座全山を
登り終えてしまった、という記録まで
あるらしい。

そう言えば、11月の新聞記事でも
別な登山家が同じようなことを言っていた。

標高8000m超14座のうち
日本人女性として初めて
13座の頂に立った渡辺直子さん。

2023年11月4日
朝日新聞 be
登山家・看護師 渡辺直子さん

(以下緑色部、記事からの引用)

231104watanebesmall

の記事の中で、

19年くらいから、
登山経験がなくてもお金を積んで
手厚いサポートで
お膳立てをしてもらい、
次々と8千メートル峰を踏破する
リッチな登山者
が増えました。

それを悪いことだとは思いません。

ヒマラヤ登山も
多様性が増しているのです。

 

私は登山については
何も知らないド素人だが、
ヒマラヤ登山について
* 山頂/登頂の確認
* お膳立て業者とヘリの利用
に関する分野が、
過去とずいぶん変わってきていることは
間違いないようだ。

まさに命がけの挑戦の
何が魅力なのか、
何が苦しいのか、
何が達成感で、
何に駆り立てられているのか。

特に近年の登頂記を読む時は、その背景に
そんな変化が伴っていることを
頭のすみの置いておきたい。

 

 

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2023年10月22日 (日)

「歓待」と「寛容」

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「歓待」と「寛容」

- 哲学者の対談から -

 

哲学者の國分功一郎さんが

國分功一郎 x 星野太
『食客論』刊行記念対談
「寄生の哲学」をいかに語るか
雑誌新潮 2023年8月号

(以下水色部、本からの引用)

の中で、
「歓待」という言葉について
こんな説明をしてくれている。

フランス語では歓待する者のことを
hôte/hôtesse

-英語で言えばホスト/ホステスです-
と言いますが、驚くべきことに、
辞書を引くと分かる通り、
この語には「主人」と「客」の
両方の意味がある


これは本当に
ビックリするようなことですが、
この語そのものが、
何か歓待を巡る太古からの記憶を
留めているのでしょう。

「主人」と「客」、
対照的な語ながら、
いろいろ思い浮かぶシーンを思うと
不思議と違和感がない。

つまり、
歓待が実践されているときは、
迎える側と迎えられる側が混じり合い、
どちらが主でどちらが客か
分からなくなってしまうようなことが
起こる。

それこそが歓待であり、
歓待においては、
もともと主であった者と、
もともと客であった者とが、
動的に混じり合うわけです。

そうそう、「歓待」を
心から感じることができたときは、
まさに「主人」と「客」の関係が
消えている。

この「歓待」と明確に区別すべき語
としてあげているのが「寛容」。

寛容(tolérance)は、

あなたがそこにいることに
私は耐えます、我慢します、
という意味ですね。

宗教戦争後、17世紀に
出てきた概念
です。

宗教戦争を始めとする、
歴史に深く結びついた概念
ということなのだろう。

寛容というと
聞こえはいいかもしれないけれども、
これは要するに、
相手のことを理解する気なんて
サラサラないが
殺しもしない
ということです。

お前のことは放っておくから、
俺にも近寄るな、と。

だから寛容は排外性と切り離せない

(中略)

寛容は相手の存在に
我慢するということですから、
個と個が維持されていて、
そこには何の交流もない。

そこにいるのはいいけれども、
私たちには触れないでね、
というのが寛容です。

「移民」と「その受け入れ国の住民」
という言葉も登場しているが、
少なくともフランス語では
「広い心で他人を受け入れる」
という意味で軽々しく使うことは
できない言葉のようだ。

國分さんの「歓待」と「寛容」の
丁寧な説明を聞いたあと
『食客論』の著者星野さんは、
こうコメントしている。

歓待論は一見いいことを
言っているんだけれど、
何か違うなという感覚が
ずっとありました。

それは國分さんが
言ってくださったように、
hôteが最終的に
仲間になっていくという、
言ってみれば
正のベクトルにのみ
貫かれているからです


その点がどこかすっきりしない。

いかにも哲学者らしい違和感だ。

國分さんの言葉によれば、
『食客論』はそういう歓待の概念が
決定的に取り逃がしてしまうものに
注目しているらしい。

『食客論』読んでみようかな、
と思わせる対談となっている。



 

 

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2023年7月 2日 (日)

野川遡行(2) 人工地盤の上の公園

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野川遡行(2) 人工地盤の上の公園

- 2日かけて野川制覇 -

 

前回に引き続き、
多摩川との合流点から、
調布市の「御塔坂(おとざか)橋」までを
ぶらぶらと歩きながら目指す
(下記Google Map上の赤矢印)
「野川」遡行記を続けたい。

Nogawaa2


前回の最後、
次大夫(じだゆう)堀公園の寄り道は、
係の方の説明も丁寧でわかりやすく
収穫の多い楽しい時間だった。
さて、川沿いに戻って先に進もう。

次太夫堀公演から1kmほど上流に進むと
小田急線が見えてきた。
喜多見駅と成城学園前駅の間。
下から見上げて、成城学園方面を見ると、
少し先で線路が崖に突き刺さっている感じ。
まさに国分寺崖線。

P4162528s

川で遊ぶ子どもたちもいる。

P4162532s


「きたみふれあい広場」にちょっと寄る。

P4162534s

川沿いの道から階段をあがると、
緑豊かな公園が広がっている。

なにも知らずに見れば、
ごくごく普通の公園だが、
上の地図を見ると分かる通り
実はこの公園、
小田急線の電車車庫の上にある。

P4162536s

つまり人工地盤の上に
これらの植物が生えているわけだ。

階段を降りて、なんとか「電車車庫」が
見られないものかと思ったが、
残念ながらコンクリートの箱、
にまでしか到達できなかった。

P4162538s

それにしても、大きな木々を始め
あの緑が人工地盤の上なんて
再度説明を読んでも信じられない。

しばらく緑豊かな川沿いを進む。

P4162540s
P4162545s

調布市神代団地のあたりに来ると
河床整備工事が行われていた。

P4162556s

川は堰き止められ、
水は工事期間中、迂回ホースによって
流されているようだった。

近くにあった工事の説明を読むと
河床への「不透水層」の設置
法面の侵食を防ぐための
「自然石固着金網」の設置など、
耳慣れない単語が並んでいる。

近くには、入間川分水路工事による
合流地点もある。

P4162564s


河原に降りて歩ける部分もある。
緑が目にも足にもやさしい。

P4162567s


「潺湲亭」なる表札のある
不思議な小さな建物に遭遇。
全く読めない。
調べると「せんかんてい」と読むようだ。
これは一体なに?

P4162578s


この日は一時的に雨に降られたが、
おかげでぼんやりと、ではあるものの、
久しぶりに虹を見ることができた。

P4162580s


三鷹通りの橋には

P4162585s

「NOGAWA 14 GRIDGES」の文字が。

P4162584s

歩きながらも、また帰ってきてからも
ネットで検索してみたのだが、
この「NOGAWA 14 GRIDGES」については
正確なところはわからなかった。

一緒に歩いた友人からは
「野川にかかる調布市内の橋を数えたら、
 だいたい14でした」との情報も。
おそらくこのことで間違いないだろう。

京王線をくぐり、
中央自動車道をくぐると、
ゴール地点となる御塔坂(おとざか)橋は
もうすぐだ。

P4162592s


無事、御塔坂(おとざか)橋に到着。

ここからの行程と合わせて
2日かけて野川を制覇したことになる。
距離も長すぎず、
川沿いの道も整備されているので
実に歩きやすい。

景色を楽しみながらのんびり歩いて、
肺の中の空気がすっかり入れ替わる、
そんなリフレッシュのできるコースだった。

 

 

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2023年6月25日 (日)

野川遡行(1) 次大夫堀公園まで

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野川遡行(1) 次大夫堀公園まで

- 58歳から73歳までの大工事 -

 

東京都国分寺市に水源があり、
東京都世田谷区の二子玉川で
多摩川に合流する
全長約20kmの「野川」を、
水源近くの西国分寺あたりから、
調布市の「御塔坂(おとざか)橋」まで、
友人たちとのんびりと歩いた様子を、
ここから5回に分けて書いたが、
出発地と御塔坂橋を
Google Map上、直線で結ぶと
下記地図の青い矢印になる。

野川全体で見ると半分弱、
上流側のみを歩いたことになる。

Nogawaa2

というわけで(?)、
歩けなかった残り半分を
今度は合流地点の多摩川側から
遡行してみようということになった。

野川・多摩川合流地点(二子玉川)から
御塔坂橋までを直線で結ぶと
上記地図の赤い矢印になる。

2日分の行程を合わせて
野川制覇(!?)ということになる。

 

歩いたのは2023年4月。東急田園都市線
二子玉川駅で友人と待ち合わせて出発。

川に出ようと歩き始めると、
さっそくコレが。

P4162413s

ちょっと見にくいが左側、
「玉川西陸閘」とある。

陸閘(りっこう)とは
通常時は生活のために通行出来るよう
途切れているが、増水時には塞いで
住宅地への水の侵入を防ごうというもの。

多摩川の河口近くでも
古く小さなものを目にしたが、
ここのものは高さも大人の身長以上あり
かなり大きい。

P4162415s

河原に出た。
東急田園都市線の鉄橋が見える。
さぁ、合流地点をさがそう。

P4162416s

と歩き始めたのだが、
野川、多摩川の合流地点では
ちょうど大規模な工事が行われていた。

P4162417s

工事の看板の中には
「週休2日実施中」の文字が。
工事作業者の労働環境が
改善されるのはいいことだが、
それをあえて看板で
アピールしなければならない事情には
複雑なものがある気がする。

工事の作業現場に「野川」を探すと
ここ。

P4162421s

パイプの中を通った水が、
右から左に流れ出ており、
多摩川に合流している。

パイプに流れ込むところはこんな感じ。
手前から奥に向かって流れている。

P4162429s

上に見えるのは、
田園都市線「二子玉川駅」。
橋の上にホームがはみ出している。

 

多摩川と野川に囲まれた
ハの字(左を上にしてのハ)の部分は
「兵庫島公園」と呼ばれている。

P4162428s

兵庫とは?と思うが、
公園内にあった説明によると
新田義貞の子義興(よしおき)の従者
由良兵庫助に由来するらしい。

1358年 多摩川稲城矢口の渡しでの戦いで、
と紹介されているから
660年以上も前のこと。
当時はこの付近、
どんな様子だったのだろう?

P4162430s


上に貼った公演案内図にもある通り、
兵庫島公園内には池や水路(川)もある。

P4162437s

「多摩川の河原の中に、わざわざ
 人工の川が作られている」感じで
どうも落ち着かない。

少し歩くと、多摩川から離れ、野川が
川らしい姿を見せてくれるようになった。

P4162442s

4月のみどりが美しい。

P4162445s

多摩川の河原には、
天然芝のサッカー場が何面も広がっている。

P4162447s

日曜日だったこともあり、
子どもたちの元気な声が響いている。

野川の河原には
「セイヨウアブラナ」と思われる
黄色い花が沢山咲いている。

P4162451s


途中、ちょっと寄り道をして、
「砧本村」のバス停留所に寄ってみた。

P4162465s

ここは玉川電気鉄道(通称「玉電」)
東急砧(きぬた)線
「砧本村(きぬたほんむら)」駅の跡地で、
1969年の東急砧線廃止後に
東急バスのバス折り返し所および
「砧本村」バス停になった。

バスが折り返せるよう
ちょっと広場になっており、
赤い「ON DEMAND BUS」も停まっていた。

P4162467s

予約によって運行が決まる
オンデマンドバスは、
公共交通不便地域の解消を目的に、
地方だけでなく
都市部でも導入が進んでいるようだ。

 

「砧本村」駅跡地のすぐ横には、
東京都水道局砧下浄水所がある。
多摩川で取水した水を浄化し、
東京に送り込むために1923年に竣工。

そこから渋谷方面への水道管が、
野川の上を跨いでいた時期がある。
1960年から2006年までの46年間。

水道管を支えていた「野川水道橋」は
今はレリーフで残されている。

P4162473s

現在の橋には水道管は通っていない。
2006年以降、
水道本管は川底を通るようになったようだ。

 

途中、「仙川」が「野川」に流れ込む
合流地点も通る。
仙川遡行も魅力的だが、誘惑を振り払って
今日は野川沿いを進む。

東名高速道路の下を流れるところまで来た。

工事用の大きな柵で覆われていて
中や地下までは見えないが、このあたり、
かなり大規模な工事が行われている。

P4162480s

地下工事が原因で調布市の住宅街が陥没、
で話題になった東京外郭環状道路(外環)を、
将来的にはここで
東名高速につなげる計画になっている。

2023年現在、
関越道の大泉JCTまでが開通している外環。
大泉JCTからここまで約16km、
地下がメインとはいえ、
工事は着々と進んでいるようだ。

 

外環合流地点の少し上流、
川沿いからそのまま緑道を歩いて、
世田谷区立次大夫堀公園」に
寄ってみることにした。
「じだゆうぼり」とふりがながある。

P4162496s

次大夫堀とは、六郷用水の別名で、
江戸時代に多摩川から引水した農業用水路
徳川家康の命により、
小泉次大夫の指揮によって開削された。

公園内のパンフレットによると、
今の東京都側だけでなく、
神奈川県側も合わせた
稲毛・川崎、世田谷・六郷 計四ヶ領で
開削された用水は、
1597年から作業が始まり、
測量から小堀の開削終了まで
実に15年の歳月がかけられたという。

驚くのは、指揮をした小泉次大夫の年齢。
「58歳から73歳までの晩年の大工事」

とのこと。

伊能忠敬が
「大日本沿海輿地全図」製作のために
歩き出したのが1800年、55歳のときで、
それから17年かけて全国を歩いた。
の話を知ったときの驚きを思い出す。

どちらも「平均寿命が40歳以下」
と言われている時代の話だ。

園内には、
昭和4年の地図が掲示されていた。
多摩川とその周辺の川と用水。
なんだか川が、のびのびというか
いきいきしている。
窮屈な感じがしないのはなぜだろう。

P4162499s

公園全体としては、
名主屋敷、民家2棟などが移築されており、
次大夫堀や水田とあわせて、
江戸時代後期から明治時代初期にかけての
農村風景に触れることが
できるようになっている。

P4162510s


野川の遡行、
調布市の「御塔坂(おとざか)橋」を目指して
次回も続けたい。

 

 

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2023年6月11日 (日)

多摩川 河口部10km散歩

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多摩川 河口部10km散歩

- レンガ堤防と川沿いの道の区境 -

 

前回、「旧穴守稲荷神社大鳥居」
(下のGoogle Map上の赤い星印)
について書いたが、そのすぐ東側
(下の地図の青い楕円部)には
赤レンガの堤防が残っている。

Ootoriimap1


2023年5月の撮影でこんな感じ。

P5212653s

レンガ堤防は、洪水対策として
大正から昭和初期にかけて行なわれた
多摩川改修工事で建設された。

自然堤防上、道路面から
腰高ほどのレンガ堤防を建設したのは、
堤内外を日常的に往来する
羽田漁師町の
土地柄への配慮であったという。

P5212655s

よく見ると、
通常時は生活のために通行出来るよう
途切れているが、増水時には塞ぐ
陸閘(りっこう)のような構造も見られる。

P5212656s

さて、このあたり、
地図をみれば明らかなように
多摩川のほぼ河口に位置している。

そこからぶらぶらと
少し川を上ってみることにした。
東京都側(左岸)の川岸を歩く。

少し行くと、
「たまリバー50キロ」と呼ばれる
ウォーキング、ランニング、自転車のための
川岸の道の起点にでた。

P5212659s


地面をよく見るとこんな数字が。
手前左「0.0」は
まさに起点の意味だろうが、
右上反対側から読んでの「10.5」は
さてさて?

P5212660s


起点から1kmほど歩くと
川崎駅方面のビル群が
よく見えるようになってくる。

P5212662s


数字がやってきた。
手前左「2.2」は起点からの距離(km)で
間違いなさそうだ。
右上反対側から読んでの「8.3」は
最初の10.5からちょうど2.2減っているので
こちらもどこかを始点とする距離で
そこから8.3kmということだろう。

P5212664s


対岸、
川崎市側(右岸)のリヴァリエと呼ばれる
3棟からなる高層マンションの
存在感がすごい。
3棟合計で1394戸にもなるという。

P5212666s


風景の変化を楽しみながら、
河口の起点から9.0kmのところまで来た。
舗装されていて走りやすいので
自転車も多く走っているが、
専用のサイクリングロード
というわけではないので
ランナーや歩行者含めて、
双方注意が必要だ。

P5212668s

「右上数字の始点」までもあと1.5km。
さてさて1.5km先は何?

武蔵小杉の超高層ビル群がよく見える。

P5212669s


同じ超高層ビル群も
少し上流に移動して見るとこんな感じに。
見る角度が変わるだけで
ずいぶん印象が変わるものだ。

P5212670s


「右上数字の始点」はこのあたりに
なるはずだが・・・
奥に見えている水色の橋は丸子橋。

P5212671s


明確に書いてあったわけではないが
「右上数字の始点」は
どうもこれのようだ。
「大田区占用境界」
ここから奥は「世田谷区」となる。

P5212672s

河口からここまでの約10km、
自動車やバイクが禁止されている
自転車、ランナー、歩行者のための
舗装された道が整備されていたわけだが、
そこは全部大田区。
その道の両端からの距離が
双方向から書かれていたわけだ。

世田谷区に入った途端、砂利道となる。

P5212675s


しかも道幅も急に狭くなる。
丸子橋から見下ろすとよくわかる。
中央の狭い道だ。

P5212676s


丸子橋やひとつ下流のガス橋で、
川崎側に渡る自転車が多いのは、
きっと世田谷区区間の道が舗装道として
整備されていないからなのだろう。

川崎側に渡れば、
大田区区間と同様にランナーも自転車も
快適に走ることができる。

「たまリバー50キロ」と言っても
一本の同じ道ではなく、市区によって、
ずいぶん整備状況は違うようだ。
区境で、突然ここまでくっきり
路面の状況が変化するなんて。

そういえば以前、
目黒川沿いを歩いたときの写真に、
「注意してみると、さすが(!?)区境。
 手すりからコンクリート、
 緑道の舗装材まで違う。
 左側が世田谷区で右側が目黒区」
なるコメントを書いたこともあった。
行政区分が目に見える
ある意味不思議な空間だ。

世田谷区になった途端、
急に寂しくなる川沿いの道。
大田区の数字が「どうだ!」と
自慢しているように見えてくる。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2023年6月 4日 (日)

旧穴守稲荷神社大鳥居

(全体の目次はこちら


旧穴守稲荷神社大鳥居

- 浄化海水プールと強制立ち退き -

 

下流は、
東京都と神奈川県の都県境を流れる
多摩川。

その河口部北側には、現在、東京国際空港
通称「羽田空港」が広がっているが、
位置的にその東隅にあたる
下記地図の赤い星印のところに行ってみると、
大きな鳥居を目にすることになる。
(地図はGoogle Mapから。
 以下、写真はすべて2023年5月に撮影)

Ootoriimap


旧穴守稲荷神社大鳥居

P5212632s


元あった場所から移設されて
今は川のすぐ横にある。

P5212648s


そばには小さな掲示板があり
鳥居とその近辺の歴史について
知ることができる。

P5212630s

この掲示板、
読んでみたら知らなかったことばかりで
たいへん面白かった。

特に2つのトピックスについて
掲示板情報を要約しながら紹介したい。
(資料写真も掲示板にあったものから)

(1) 海水浴場と浄化海水プール

1902年 京浜電鉄が京浜蒲田駅から
    穴守稲荷神社へ向けて
    支線を延ばす。穴守線開業。

1909年 干潟を埋め立てて羽田運動場を開設

1911年 羽田海水浴場開設

大桟橋に海の家をもつ海水浴場の賑わいは
こんなにすごかったようだ。

P5212634s

その後、

1913年 干潮満潮に関係なく泳げる遊泳池を
    羽田運動場の中につくる。

この羽田運動場に隣接して
社団法人日本運動倶楽部が、
野球場のほか、テニスコートや遊園地、
自転車競技場なども開場。

穴守稲荷神社一帯は、
明治時代後半から大正時代にかけて
一大行楽地となる


1932年 東洋一の浄化海水プール開設

その大きさといい、人の数といい、
プールの写真には驚かされる。

P5212633s


(2) 住民の立ち退きと鳥居の移設

第二次世界大戦終戦後

1945(昭和20)年9月13日付「朝日新聞」
 マッカーサー司令部が
 羽田飛行場の引き渡しと同時に、
 滑走路拡張のため
 海岸線埋立ての設備の提供と、
 飛行場付近の一部の住民に対して
 立ち退きが
 命ぜられることになった

 と伝えている。

1945(昭和20)年9月21日
 海老取川から東側に居住する
 全住民(羽田鈴木町、羽田穴守町、
 羽田江戸見町)に対し、
 12時間以内に立ち退くようにとの
 緊急命令が出された


「12時間以内」とは!
対象は約1200世帯3000人超

その後、GHQとの交渉により
48時間以内という譲歩をとりつけたが、
それ以降、立ち入ったものに対しては
生命の保障はしないという、
厳しい条件もつけられた 。

住民たちは近隣の親戚・知人を頼りに、
リヤカー、車力、または多摩川からの船で、
身の回りのものを運び出した。

空港の拡張工事にあたっては、
穴守稲荷神社の社殿も壊された。

その際、鳥居を倒そうとしたところ、
ロープが切れ
作業員が怪我をするという事故が発生。
いったん作業は中止された。

ところが、再開すると、
今度は工事責任者が病死。

「これは、穴守さまのたたりだ」
という噂を
稲荷信仰などあるはずもないGHQは、
どう聞いていたことだろう。

結局、何回やっても撤去できないため、
そのままそこに残すことになった。

以降、50年近く、羽田空港の駐車場内に
ぼつりと取り残された大鳥居。

P5212636s


1999年2月、空港の拡張工事に合わせて
2日かけて移転工事が行われた。

赤い鳥居は、
いま弁天橋のたもとに移設され、
羽田空港(元の穴守稲荷神社)を
見守っている。

P5212621s

 

 

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2023年4月16日 (日)

学術論文に「人種」は使えない

(全体の目次はこちら


学術論文に「人種」は使えない

- 定義も境界もない -

 

篠田 謙一 (著)
人類の起源 - 古代DNAが語る
ホモ・サピエンスの「大いなる旅」
中公新書

(以下水色部、本からの引用)

は、近年のDNA分析でわかってきた
人類の進化や地域集団成立のシナリオを
丁寧に解説している本だが、
そういった遺伝学研究の見地から
「人種」について
非常にクリアな発信をしている。

今日はその部分を紹介したい。

19世紀前半には、
ヨーロッパ人が認識する世界は
地球規模に広がりました。
そして自分たちと異なる
人類集団の存在が明らかとなると、
人間の持つ生物学的な側面に注目して
集団を区分する研究が
始まることになりました。

そこから「人種」という概念が
提唱されたのです。

ところが、
20世紀後半の遺伝学研究の進展は、
この「人種」に対する概念を
大きく変えることになる。

ホモ・サピエンスは
実際には生物学的にひとつの種であり、
集団による違いは認められるものの、
全体としては連続しており、
区分することができない
ということが明確になったのです。

そもそも種という概念自体も、
それほど生物学的に厳密な定義が
できるわけではないようだ。

よく用いられる種の定義として、
「自由に交配し、
 生殖能力のある子孫を残す集団」
という考え方
があります。

これにしたがえば、
人類学者が別種と考えている
ホモ・サピエンスとネアンデルタール人、
デニソワ人のいずれも、自由に交配して
子孫を残している
ことから
同じ種の生物ということになり、
別種として扱うことはできなくなります。

おそらく他の原人も
すべて私たちと同じ種として
考えなければならなくなるでしょう。

種の定義というのは、
現生の生物に当てはめているものなので、
時間軸を入れると定義があやふやに
なってしまうようだ。

「種」という概念さえ
厳密に定義できないのですから、
その下位の分類である「人種」は、
さらに生物学的な
実体のないものになるのは当然です。

前回の用語解説にあった
SNP解析の結果においても、
ヨーロッパから東アジアにかけて
現代人の地域集団は
連続していてどこにも境界がない

人種を区分する形質として
よく用いられる肌の色にしても
連続的に変化しており、
どこかに人為的な基準を設けないかぎり
区分することはできません。

人種区分は、
科学的・客観的なものではなく、
恣意的なものだということを
知っておく必要があります。

「恣意的」という言葉を
篠田さんは使っている。
確かにそれでは科学的な議論はできない。

もともとは
ヒトの生物学的な研究から
導かれた区分である「人種」ですが、
現在では
自然科学の学術論文で
用いられることはありません


もし使っている研究があるとすれば、
それは科学的な価値の低いもの
判断できます。

「人種」という言葉を使った
自然科学の学術論文があれば
それは科学的な価値の低いものだ、
とまで言い切っている。

ゲノムデータから
集団同士の違いを見ていく際には、

同じ集団の中に見られる
遺伝子の変異のほうが
他の集団との
あいだの違いよりも大きい


ということも
知っておく必要があります。

同じもの、つまり共通性を調べるのか、
違いを調べるのか。

人の優劣を決める要因が
「違っている」ものの中にある、
と考えることは妥当なのか。

単なる研究成果の解説ではなく、
多くの視点・問題点を提供してくれる
終章となっている。

 

 

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