文化・芸術

2023年12月17日 (日)

名盤 CANTATE DOMINO

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名盤 CANTATE DOMINO

- 美しいエコーに包まれて -

 

今年(2023年)は、
クラシックCDの専門誌「レコード芸術」が
6月20日発行の7月号を最後に休刊となった。

創刊1952年、70年以上も続いていた雑誌も
音楽媒体を含めた環境の変化に
ついていけなかったようだ。

新譜CD店もレンタルCD店も
驚くほど閉店してしまい、
いまや音楽は、
スマホから小さなイヤホンで聴く、が
主流になってしまった。

CDで聴かない、
ステレオのスピーカで聴かない、
そういった時代となった今、
「お薦めCD」だの
「超優秀録音」だのと言った言葉も
事実上死語なのかもしれない。

と、そこまでわかっていながらも
今日は
「超優秀録音」の「お薦めCD」
について書きたいと思う。

紹介したいのは、
毎年12月になるとかけたくなる

CANTATE DOMINO
 Oscar's Motet 合唱団
 Torsten Nilsson, 指揮
 Alf Linder, オルガン
 Marianne Melläs, ソプラノ

スウェーデンのPROPRIUSというレーベル。
ストックホルムのOscar教会で、
1976年に録音されたもの。

オルガンと合唱による
クリスマス音楽をメインにした選曲ゆえ
この時期に聴くのにピッタリだ。

どんなCDか? まずは2曲、どうぞ。

Cantate Domino


White Christmas


パイプオルガンの響き、
合唱の透明感、
ホールエコーの美しさ、
そしてなによりも、
左右のスピーカから広がる
立体的な音場感がすばらしい。

revoxのA77という
民生用のオープンリールデッキと
たった2本のマイクだけで
録音したというのだから、
録音エンジニアは
まさにプロ中のプロなのだろう。

「弘法は筆を選ばず」だ。

Stille Nacht


Lullaby


今回、ブログを書くにあたって
公開されているものもあるかな?と
YouTubeをのぞいてみたのだが、
なんと全曲版まであった。

「超優秀録音」の「お薦めCD」ゆえ
可能ならCDで、かつ
できるだけいいステレオセットの
スピーカから、大きめな音量で
少し離れて聴くことを強くお薦めしたいが、
もしそれが叶わなかったとしても
その録音と音楽のすばらしさは
間違いなく伝わることだろう。

私が輸入盤CDとして購入したのは
もう30年近くも前。
いまだにSACD-HYBRID版が流通しており
簡単に購入できるというのも
より多くの人に
知ってもらえることに繋がるので
ファンとしては嬉しい限りだ。

CANTATE DOMINO 全曲版


12月には、なぜか人の声による
「うたもの」がよく似合う。

 

 

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2023年12月 3日 (日)

KAN+秦基博 『カサナルキセキ』

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KAN+秦基博 『カサナルキセキ』

- 2曲同時演奏による合体 -

 

シンガーソングライターのKANさんが、
2023年11月12日に
61歳という若さで亡くなった。
KANさんと言うと、

♪信じることさ 必ず最後に愛は勝つ

というストレートな歌詞で
1991年 第33回日本レコード大賞 を
受賞した大ヒット曲「愛は勝つ」の印象が
あまりにも大きいが、
コロナ禍で萎縮していた空気の中
リリースしてくれたあの曲も忘れられない。

「いろいろな意味で」すばらしい曲なのに
残念ながら広く知られておらず
なんともさみしいので、
ひとりでも多くの方に知っていただきたく
今日はその曲について紹介したい。

ただ、その曲の紹介には
次の4ステップが必須となる。
「いろいろな意味で」の背景も
この4ステップにある。

(1) KAN 『キセキ』
(2) 秦基博 『カサナル』
(3) KAN+秦基博 謝罪会見
(4) KAN+秦基博 『カサナルキセキ』

 

2020年11月、KANさんが「キセキ」
という曲を発表。続いて
2021年1月、秦基博さんが「カサナル」
という曲を発表した。
ますはこれら2曲をYouTubeで聴いてみよう。

(1) KAN 『キセキ』
  2020年11月
  アルバム「23歳」の中の一曲

 

(2) 秦基博 『カサナル』
  2021年1月
  CDシングル「泣き笑いのエピソード」
  の中の一曲

 

初めて聴いた方、これら2曲を聴いて
気づいたことがあるだろうか?

発表後、(1)(2)の2曲が、
同じ収録時間 かつ 同じコード進行
であることに気づいたファンがいたらしい。

で、3か月後の謝罪会見(?)に繋がっていく。
2021年4月23日、「謝罪会見」と称して
2人がこの件について釈明する
パロディ風記者会見動画が
YouTubeで公開された。

(3) KAN+秦基博 謝罪会見

この会見の中で、
*「キセキ」と「カサナル」は、
 のちに合体され「カサナルキセキ」という
 曲になるよう念入りに計画され
 作られた2曲であること、
そして、
*完成版とも言える
 「カサナルキセキ」の配信が
 開始されること、
が明かされた。

この動画、謝罪会見のパロディとしても
よくできていて、
伝えたいことはしっかりと伝えながらも
笑える遊びの要素満載だ。

ここまで入念に準備された(1)(2)(3)を
通して完成し発表された「カサナルキセキ」

2曲同時演奏による合体は
いったいどんな世界を作り出しているのか。
できればヘッドホンでお楽しみあれ。

(4) KAN+秦基博 『カサナルキセキ』

頭韻で始まりながらも
歌詞が重なる部分は最小限、なのに
言葉の拡散と収束の感じが絶妙で
日本語によるポップスの
他にはない世界を見せてくれている。

おおいなる挑戦だったと思うが、
ここまでハイレベルな作品に仕上げる
KANさんと秦さんの
プロの技には敬服しかない。

聴き込めば聴き込むほどに
メロディにもハーモニーにも
歌詞にも声色にも新発見がある、
まさにキセキのような名曲だ。

 

『カサナルキセキ』は、
重なった状態のまま、分解せずに
全体をまるごと味わってこそ
その魅力を最大限に楽しめる楽曲
だが、
それを成立させている緻密な仕組みを
詳細に見てみたい、ということであれば、
双方の歌詞がリアルタイムで表示される
こんな動画もある。

(歌詞が読めるよう表示サイズを
 すこし大きくしています)

カサナルキセキ (KAN+秦 基博)
Covered by YOSHIKANE & Mecori

キセキ(KAN+)
Covered by Mecori+ フル・歌詞付き

 

KANさんのご冥福をお祈りします。

 

 

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2023年10月29日 (日)

「音語りx舞語り」が見せてくれた世界

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「音語りx舞語り」が見せてくれた世界

- 全体を味わう、分解しない -

 

もうひと月ほど前のことになるが、
主催している本郷幸子さんにお誘いいただき

2023年9月30日
音語りx舞語り (おとがたりxまいがたり)
Vol.2 オリエンタルダンス編


というミニコンサートに行ってきた。

230930otogatari

演奏曲目のひとつは、有名な
ヴィヴァルディ作曲/「四季」より「夏」

この曲、
ヴァイオリン協奏曲「四季」
の名の通り主役はヴァイオリンだが、
今回はそれにヴィオラとチェロが加わる
弦楽三重奏のスタイルで
演奏される予定になっていた。

本来の編成に比べれば
ずいぶん小編成にはなるが、
それはそれでどんな響きになるか楽しみだ。

と、これだけなら
よくあるミニコンサートのひとつだが、
今回のこのコンサート、
単なる弦楽合奏にとどまらない、
驚くべき企画をブチ込んでいた。
そう、まさに
「ブチ込む」と表現したくなるような
大胆な企画だった。

それはどんな企画か。

(1) ヴィヴァルディ作曲/「夏」
(2) 能 土蜘蛛
(3) オリエンタルダンス

この3つを同時に重ねて
公演しようというのだ


能とは日本の伝統芸能であるあの「能」。
オリエンタルダンスとは、
おへそを出した衣装で踊る
ベリーダンスで知られるあれだ。

「えっ!?ちょっと頭が混乱して
 何を言っているのだか?」
と思った方、
ハイ、私も最初にこの企画を聞いたとき、
まさにそんな感じでした。

このコンサート
音語りx舞語り (おとがたりxまいがたり)
というタイトルにある通り、
多くのクラシックコンサートとは違い、
演奏曲目についての丁寧な語りがある。

特に今回は上記(1)(2)(3)について
それぞれ演奏者の方から
個別に詳しい解説があった。
要点のみを書くと・・・

(1) ヴィヴァルディ作曲/「夏」
ソネット(14行詩)に基づいて
作曲されたもの。

曲の中から様々なフレーズを抜き出して
その部分を演奏しながら、
メロディーであったり、
奏法であったり、
和音であったりが
どんな情景を描いているのか、
クイズ形式で解説。

夏独特の空気感、木々や鳥や虫たち、
羊飼いの心情、天気の急変、
ひとつひとつの説明がわかりやすい。

(2) 能 土蜘蛛
能の謡(うたい)の方が、
「ヴィヴァルディの「夏」に合う能を」
と相談された時の戸惑いから話が始まる。
やはり「そんなのあるわけない」
と思ったようだ。

ところが(1)の曲と
ソネットの内容を見るうち、羊飼いの
「ぐったりしている、眠れない、
 暗闇で怯える」
などが印象に残り
「それなら『土蜘蛛』かも」
と思いついた経緯が明かされる。

土蜘蛛の内容説明のあと、
「謡(うたい)は、初めて聞くと
 何を言っているのか
 わからないと思いますが、
 一度、声に出して読んでおくと
 聞こえるようになります。
 なので、皆さんで冒頭部分だけ
 声に出して読んでみましょう」

中学校の英語の授業よろしく
「repeat after me」
が始まったのだが、

謡(うたい)の方のお手本のあと
会場内の全員で

「いろを盡(つく)して夜昼の。
 いろを盡(つく)して夜昼の。
 境も知らぬ有様の。
 時の移るをも。・・・」

と声に出して読んでみたのは、
特によかった。

あとで本物を聞いた時、確かに
「聞こえる、聞き取れる!」のだ。
自分で声に出して読んだところは
聞き取れるのに、なぜか他はダメ。
体感を伴ううれしい初体験だった。

(3) オリエンタルダンス
ダラブッカという
民族打楽器(太鼓)とともに
その歴史と、
オリエンタルダンスの
基本的な動き、
ベリーダンスの種類、
などが紹介された。

ここでも基本的な動きについては
会場内の人も立ち上がって
体を動かしてみることに。

ダラブッカ(太鼓)に張ってある皮と
能で使われる鼓(つづみ)との対比も
興味深いものだった。

 

と、個別の説明が終わっていよいよ公演。
もう一度書いておこう。

(1) ヴィヴァルディ作曲/「夏」
  *ヴァイオリン *ヴィオラ *チェロ
(2) 能 土蜘蛛
  *謡(うたい)
(3) オリエンタルダンス
  *オリエンタルダンス *ダラブッカ

*印6人による同時公演が始まった


その時の私の正直な気持ちは
「こんなに異質なものが、
 本当に合うのだろうか?」
という
「合う/合わない」に興味がある
「?」であった。

そもそも(1)と(2)は
テンポやリズムの観点で見れば
合いようがない。

いったいどんな演奏だったのか?
演奏のごく一部、1分弱だけだが
「音語り事務局」から
当日の様子が公開されている。
ご興味があればこちらをどうぞ。

1分の動画だけでは
よくわからないだろうな、と
ちょっともどかしくも思いつつ
現場で生の音に触れたひとりとして
感想を書き留めておきたい。

これだけ異質なものが
「ほんとうに合うのだろうか?」
というある種の疑念をもって
聞き始めたのに、
いざ演奏が始まって(1)に
(2)や(3)が重なりだすと、
当初の私の疑念は
完全に私の中から消えていた。

(1)(2)(3)が重なることで、
(1)でも(2)でも(3)でもない
「新しいなにか」が立ち上がってくる
その瞬間の緊張感と
それに立ち会えた喜びに
精神が集中して、
「合うか、合わないか」なんて
全く気にならなくなっていたのだ。

たとえて言えば、
とても合うとは思えない
 Aという食材、
 Bという食材、
 Cという食材、
3種の食材を使った料理を食べてみたら、
どの食材の味でもない
予想外の美味しい料理ができあがっていて
驚いた、みたいな感じだろうか。

混ざり合って響いてくる音は、
混ざり合って目に飛び込んでくる光景は、
それ全体がひとつになって
「新しい世界」を見せてくれていた。

特に、謡(うたい)の声量に
すべてが包みこまれるような一体感には
不思議な快感があった。
新しい料理として味わう。
全体を味わう、分解しない


もちろん、ベタに3つを重ねても
そんな世界はできあがらない。
周到な準備とその重ね方、間(ま)にみえる
芸術家としてのプロのセンスには
まさに敬服しかない。

クラシック音楽、能、オリエンタルダンス
そういう既成概念によるカテゴリーや
分類そのものが、芸術の幅を
狭めてしまっている面が
あるのかもしれない、とさえ
思えるような夜だった。

本郷幸子さんを始め、
音語りx舞語りの関係者の皆様には、
新しい世界に興奮させてもらったこと、
心から感謝している。

今後の活動にも期待しつつ、
「初めての世界に触れた」
自分自身への記録として
ここに残しておきたいと思う。



 

 

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2023年2月12日 (日)

平野啓一郎さんの言葉

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平野啓一郎さんの言葉

- 小説の映画化について -

 

録画したTV番組を見ていたら
印象的な言葉に出会ったので
今日はそれを残しておきたい。

番組は、毎週3人のゲストが
司会を介さずにトークを展開する
「ボクらの時代」

「ボクらの時代」フジテレビ
2022年11月6日放送
平野啓一郎:妻夫木聡:窪田正孝

(以下水色部は放送からの文字起こし)

「映画の原作者」としての思いを
妻夫木さんが平野さんに質問する。

原作のものが映像化するということは
多々あると思うンですよ。

平野さんの立場から見て、
自分が生み出した
子どもみたいなものが
映像化する
っていうのは
どういう思いがあるンですか?

このあたり原作者によって
きっと感じていることは様々だろう。

僕はね、やっぱり同時代の
映画とか音楽とか
いろいろなジャンルのものから
影響を受けているンですけど、

自分の小説もそれと同じように
同時代のミュージシャンとか
映画監督とか
ものを作っている人が
僕の作品に反応してくれるってことは
やっぱりすごく嬉しいンですよね


だから
監督さんとかキャスティングとか
いろんなことには
口出しをしないことに
してるンですよね

映像化にあたっては、基本的に
「口出しをしない」タイプのようだ。

クリエイターに任せる。
そこには次のような思いが
ベースにあるようだ。

平野さん自身の声で聞いてみたい。

映画は
映画の作る人たちの作品なんで

僕はこうだと思って
映画もその通りなってたら
原作者としては
満足かもしれないけれど


ちょっとやっぱりなんか
映画としてはそれはうまくいってない
ってことなんじゃないかな、
って気もするンですよね。

関わった人たちの
クリエイティブなものが
反映される余地が
あんまりないってことなんで。

「原作者としては満足かもしれないけれど、
 映画としてはうまくいっていないのでは」
こう言える原作者って
どのくらいいるのだろう?

映画による新たな表現を、
クリエイターを信じて期待している原作者、
それは、映画を観る側にも要求される
ひとつの価値観だ。

クリエイティブなものに接するとき
ちょっと思い返したい言葉だ。

 

 

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2023年1月15日 (日)

「作らす人」「育てる人」吉田璋也

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「作らす人」「育てる人」吉田璋也

- 民芸は事から生まれなければならない -

 

人間国宝や文化勲章に推挙されても
それに応じることなく、一陶工として
独自の陶芸美の世界を切り拓いた
河井寛次郎。

河井寛次郎 (著)
火の誓い
講談社文芸文庫

(以下水色部、本からの引用)

では、
柳宗悦、浜田庄司、棟方志功
バーナード・リーチといった人たちと
河井さんとのまさに「生きた」交流が
描かれている。

当たり前と言えば当たり前なのだが、
昭和初期、皆さんご存命だったわけだ。

もちろん民藝についても触れられている。

「吉田璋也さん」
と題された一節を読んでみたい。
昭和13年10月に書かれたものだ。

吉田璋也さんに関しては、このブログでも
「鳥取民藝美術館」の訪問記として
その業績について触れている。

日本初の民芸店「たくみ工芸店」を
昭和7年に開いた吉田さん。

吉田さんの「物の美」についての
関心の強い事は今更言うまでもなく、
これあればこそ吉田さんが立ち上って
来られたのだと思うが、

その後に頭をもたげた
「物の社会性」についての開眼は、
美についての関心の基礎の上に
更に大きな問題を建てることになり、
これが強く深く吉田さんを
動かして来たように思う。

この社会的任務の自覚が
吉田さんをいよいよ堅め
特徴づけて来たように思う。

美と社会性、
どういうことを言っているのだろう。
もう少し読んでみたい。 

この事は民芸がややもすると
美術の穴に落ち込もうとする
危険を防ぐ大きな力になっている事に
気が附いてよいと思う。

物で吉田さんは止っていられない。
物が美しいならば
それだけその物は
吉田さんに喰い入って
何かの仕事へ推進さす
打撃に変形する。

受取った物で止っていられない。

受けたならば何かの形にして
投げ返さずにはいられない。

吉田さんは誰によりも
それを社会に投げ返そうとされる

「社会に投げ返す」
吉田さんはまさにそれを
実行できる人だったわけだ。 

これはこれからの民芸にとって
非常に仕合せな事だと思う。

美術は物から出発し、民芸は事から
生れなければならないからだ


事実民芸は物よりも事に
重きを置かなければ育たない。

だから吉田さんは作る人のように
物が最後的ではない。

流布しない、
また流布させられない物は
民芸にならないからだ。

「美術は物から、民芸は事から」か。
なるほど。おもしろい表現だ。

吉田さんは作る人のように
物を慴(おそ)れられない。

物の上での少々の間違いは
気に懸けられない。

是正は民芸の道だからだ。

作り損ったら作り直さす。

出来そうもないと思っても
作らして見る。

作って見たい物は
一刻も猶予しない。

こういう冒険家であり、
実行家であり、企画者
なのである。

これが民芸の母としての
吉田さんを体格づけている
骨組なのである。

ここに「作らす人」としての
吉田さんの面目がある

ここに書いた通り、
鳥取民藝美術館の理事は
「すごいと思うことですが、
 璋也は職人たちの生活のため、
 自分が作らせたものを
 すべて買い取ったんです


 それを売るための場所が
 必要だったんですね」
とたくみ工芸店のことを語っている。

吉田さん位堅固に
自分を仕立てていられる人は珍しい。

たくみ工芸店は
その意志を代表している。

今時利益を立前としないで
店を作るなどといったなら
笑われるであろう。

それを作って到頭今日迄
育て上げて来られたのが
吉田さんである。

これは全く生優しい事ではない。
ここに「育てる人」としての
吉田さんの面目がある

「作らす人」であり
「育てる人」であった吉田璋也。
たくみ工芸店は、
90年を越えて今も生き続けている。

 

 

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2023年1月 8日 (日)

「陶器が見たピカソの陶器」

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「陶器が見たピカソの陶器」

- 未だ招かれざる客なのか -

 

人間国宝や文化勲章に推挙されても
それに応じることなく、一陶工として
独自の陶芸美の世界を切り拓いた
河井寛次郎。

河井寛次郎 (著)
火の誓い
講談社文芸文庫

(以下水色部、本からの引用)

には、
「陶器が見たピカソの陶器」
というたいへん興味深い文章がある。
昭和25年1月に書かれたものだ。

河井さんは、ピカソが焼いた
「楕円皿の色写真十幾枚ばかり」
を見て、その印象を語っている。

何れも見応えのあるものばかり、
そのあるものは
何という絵の生ま生ましさだ。
確かさだ。自由さだ

やはり絵の力を大きく感じている。

ある皿に対しては、

何という素晴らしい
これは新鮮な生命
なのであろう。
よくも使いこなせた
あの不自由な土や釉薬。

と賛辞を送っている。

でも、別なある皿に対しては、

だがピカソが性格を持っているように、
楕円皿もまた性格を持っていることを
誰も見逃さないであろう。

そうだ、陶器だって一つの生物なのだ

一見誰もピカソがいきなり皿の中に
踏み込んでいる素晴らしさに驚く


そうだ、ピカソ程全身をあげて
陶器へ踏み込んだ画人を
自分は知らない。

と書き出して

しかしよく見ると
皿は彼を許してはいない

ピカソは歌ってはいるが
皿は和してはいない

この協和しない性格の二重奏は
どうしたことなのであろう。
陶器の方からすればピカソは明らかに
未だ招かれざる客なのは遺憾である。

と続いている。
「彼を許してはいない」
「皿は和してはいない」
「招かれざる客」
と厳しい言葉が並ぶ。

陶器は
彼が陶器の中に待たれている自分を
はっきり見付けてくれるのを
待っている。

ピカソは権利を行使はしているが、
当然負うべき義務を
忘れている
ようである。

一見彼に征服されたように見えても、
よく見ると陶器は服従はしていない

なんとも表現がおもしろい。
どんな皿なのか。
想像してみるだけで楽しくなる。

別な皿の感想も見てみよう。

輝く釉薬の微光の中に
呼吸しているあの静物 -

知っていながら
形を無視したあの意気込。
その意気込はよく解る。-

しかしこれは
形を無視したこと自体のために
皿もまた絵をはね返すより
他に仕方がない


いって見れば皿もまた
絵を無視しているのだ。

これはこれ皿の敗北であると同時に
絵の敗北でなくて何であろう


こういう皿は
未だ他にも沢山あった。
二つが一つになりきれない
相互の失望。

「皿の敗北であると同時に絵の敗北」
こちらにもまた厳しい言葉が並ぶ。

そもそも陶器に絵を描くこと自体、
「陥し穴」とまで言っている。

大体陶器に絵を描くなどということは、
絵を殺しこそすれ
決して生かしはしない


これは陥し穴なのだ。

流石にピカソは落ち込んでも
生きている
。が、それも
紙やカンバスの上以上に
生かされてはいない。

と感想を率直に綴ってきた河井さんだが、
ピカソのこれから、にも
思いを馳せている。

ピカソはしかし今に
形を借りなくなるであろう。

それと新しく形を生み出すであろう。
少くとも陶器はそれを待っている。

具体的には
「形という性格を持たない陶板」

「彼の生命を焼き付けておくのに
 これ以上の相手はない」
と提案している。

厳しい言葉が並びながらも
陶芸に挑戦している作家への目は
ほんとうにあたたかい。 

 

 

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2023年1月 1日 (日)

美しい物はどこから生れるか

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美しい物はどこから生れるか

- 河井寛次郎の本の「序」 -

 

2023年が明けた。新年、
新たな気分で背筋を伸ばしたいときは
名文を読む、というのもいいものだ。

人間国宝や文化勲章に推挙されても
それに応じることなく、一陶工として
独自の陶芸美の世界を切り拓いた
河井寛次郎。

河井寛次郎 (著)
火の誓い
講談社文芸文庫

(以下水色部、本からの引用)

は、河井寛次郎が
昭和6年から28年くらいにかけて
書いた文章を集めたものだが、
その「序」がほんとうにカッコいい。

新年、まさに「声に出して読みたい」
日本語だ。短いので紹介したい。

昭和28年秋に書かれたもののようだが
約70年前を感じせない勢いがある。

ここに集めた一連の章句は、
色々な作物の裡に隠されている
背後のものを求めての
私の歩みの一部である。

と同時に、
美しい物はどこから生れるか
という事を見せられてきたこれらは
その内の僅かであるが
その実例でもある。

材料と技術とさえあれば、
どこでも美しい物が出来る
とでも思うならば、
それは間違い
であると思う。

焼き物を中心に、
作品に出会い、人と出会い、
各地の窯場を訪問した河井さんが
見たもの、聞いたものを
丁寧に綴った本文を読むと
河井さんが何に「美しさ」を見ているのか、
感じているのか、が
読者にじんわりと伝わってくる。 

人は物の最後の効果にだけ
熱心になりがちである


そして物からは
最後の結果に打たれるものだと
錯誤しがちである。

しかし実は、直接に物とは縁遠い
背後のものに
一番打たれているのだ
という事の
これは報告でもある。

「よい物を作りたいならば、
 それに相応する暮しに帰るのが
 近道ではないか」
という浜田庄司の言葉も
本文にでてくる。

材料と技術とさえあれば、
美しい物ができるわけではない。
美しいものを作り出す「背後のもの」とは
なんだろう。

もちろんそれは作者の暮しに
おおきく関係するものだけれど、
ひと言で表現することは難しい。

「最後の効果だけ」でなく、
「背後のもの」を感じる豊かさ。

勢いのある「序」は、たった1ページで
読者を本文に引き込んでしまう。

 

 

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2022年12月11日 (日)

経(たて)糸は理知、緯(よこ)糸は感情

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経(たて)糸は理知、緯(よこ)糸は感情

- 手を返す瞬間に見える色がある -

 

♪ たての糸はあなた
  よこの糸は私
  織りなす布は
  いつか誰かを
  暖めうるかもしれない ♪

「糸」中島みゆき作詞作曲

は、30人以上の歌手に
カバーされているだけでなく、
もはや平成時代のスタンダード
という感じだが、
たての糸、よこの糸ということでは、
染織家の築城(ついき)則子さん
印象的な言葉を残している。

ちょっと紹介したい。

 

2022年11月29日朝日新聞の「ひと」欄に

 「小倉織」を復元し
 特産工芸品に育てた染色作家
 築城則子(ついきのりこ)さん(69)

の記事があった。
(以下水色部記事からの引用)

かつて帯やはかまとして
全国で珍重された木綿布の小倉織だが、
昭和の初期、
戦争や工業化の波を受けて消失した。

骨董店で偶然に小布に出合い、
工業試験場の電子顕微鏡で
分析したデータを手がかりに

築城さんは小倉織の復元に挑戦する。

織機や模様の表現に改良を重ねて
1984年に完成。
極細の糸が幅1センチに60本も詰まり、
鮮やかなグラデーションを生み出す。

 

築城さんは、11年前
2011年10月3日朝日新聞「be」でも
取材されており、小倉織と染織の魅力を
もう少し詳しく語っている。
(以下緑色部記事からの引用)

伝統あるものは、その時代において
アバンギャルドな試みをしていたはず。
同じことを繰り返していたら、
次につながらない。
今の感覚を注ぎ込むことが創造であり、
伝統
だと思うのです

そんな築城さんと染織との出合いは
能の装束。

文学部で近世演劇を勉強しようと思い、
歌舞伎や浄瑠璃、狂言、能に
のめり込みました。
能楽堂には
能装束が展示してあるんです。

静かな舞に、
装束の果たす役割はすごく大きい。

いろんな色を詰め込んであるのに
ゴチャゴチャせず、
一筋の色が見えてくる。

手を返す瞬間に見える色がある

私も、そんな色の世界を表現したい、
色を染めて織りたい、と思いました。

能の舞の中に一瞬見える色、
「手を返す瞬間」とはなんとも美しい。

普通の織物は
経糸(たていと)と緯糸(よこいと)の
ミックスした味わいがあるけれど、
小倉織は経糸だけの純粋培養というか、
明確でシャープ


色の魅力を100%引き出してくれる。
それが私の好みとピッタリ合って。
ヨコシマな気はありません(笑)。

「織りの工程」を考えると
最初に確定されるたて糸と
順に織り込まれていくよこ糸とでは
その役割も表現できるものもずいぶん違う。

「経糸は理知、緯糸は感情」って、
よく言います。

緯糸は
思うままに織り進められるけれど、
経糸は
最初からデザインを完結させ、
ねらいを定めないと織れない。

なるほど。
「たて」と「よこ」を表現する
そんな言葉もあるンだ。

♪ たての糸はあなた
  よこの糸は私 ♪

ここで歌詞を重ねることに
ナンの意味もないけれど、
一度知ってしまうと
織物の向きが妙に気になってくる。

 

 

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2022年9月25日 (日)

私のなかの何かが健康になった

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私のなかの何かが健康になった

- ミヒャエル・エンデの言葉 -

 

「モモ」「はてしない物語」
などの作品で知られる作家
ミヒャエル・エンデに
子安美知子・子安文の母娘が
インタビューをしている

子安 美知子 (著)
エンデと語る―作品・半生・世界観
朝日選書 朝日新聞社

(以下水色部、本からの引用)


で、エンデはこんな話をしている。

私が音楽を聴いて、
理解すべきことがありますか?

(中略)

音楽に理解はいらない。
そこには体験しかない
私がコンサートに出かける、
そこですばらしい音楽を聴く。

帰り道、私は、
ああ今夜はある体験をした、という
思いにみたされている。

でも、私は、コンサートに行く前と
あととを比べて、
自分がいくらかりこうなった、
なんて思うことはありませんよ

そうでしょう?

りこうになったわけでもないのに
体験によって満たされるもの。

それはもちろん音楽に限らない。

シェークスピアの芝居
見にいったとする、そのときもです。

私はけっして、りこうになって
帰るわけではありません


なにごとかを体験したんです。

すべての芸術において言えることです

本物の芸術では、
人は教訓など受けないものです。

前よりりこうになったわけではない、
よりゆたかになったのです。

心がゆたかに - 
そう、もっといえば、
私のなかの何かが健康になったのだ、
秩序をもたらされたのだ。

およそ現代文学で
まったく見おとされてしまったのは、
芸術が何よりも治癒の課題を負っている
というこの点です。

前回書いた「芸術と医療は同じ?」
とまさに同じ視点だ。

「心が豊かになった」はよく使う表現だが
「何かが健康になった」
という表現はおもしろい。

でも、心満たされたとき
「元気になった」とはよく言う。
たしかに「健康」になっている。

薬でもないのに
免疫力を高め、元気にする。
芸術にはそういう力がある。

なのでエンデは、文学作品は、啓蒙や
何かを教えるために書くわけではない、と
はっきり言い切っている。

啓蒙ではなくて-啓蒙は、
最も非本質的な課題です。

啓蒙をねらうのだったら、
私はエッセイや、評論を書きます

あるいは
こうしたインタビューの形式とか。
人に何かを教える意図があったら、
小説や物語のオブラートに包んで
お渡しするより、
そのほうが適しています。

正しい知識を与えたいなら
エッセイや評論を書くよ、か。

一冊の本は、何かの思想の
お説教であってはならない、
と私はいいましたが、
それは著者がかかわった
思想の成果ではあるはずなのです。

一篇の詩は、知恵を
しのばせておく必要はないのですが、
知恵から生まれた
結果ではなければなりません。
が、
知恵そのもの、思想そのものが
顔出しするようであってはならない。

絵画でもおなじではありませんか。

あるいは音楽でも、彫刻でも-。

それらはすべて、
なにかの世界観に根ざした産物で
なければならない

作者の世界観が
文学や絵画や音楽や彫刻といった
形になり、そしてそれは
触れた人を広く「健康にする」作用がある。

芸術は、生物が本来持つべき「調和」を
取り戻すのに大きく貢献する
不思議な力を持っている。

 

 

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2022年8月28日 (日)

実戦でまだ指されていないものが定跡!?

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実戦でまだ指されていないものが定跡!?

- 人類最高峰の頭脳の戦いが、 -

 

2022年8月19日の朝日新聞に
「女性初の棋士誕生なるか」
なる見出しで女流棋士の里見香奈さんが
8月18日から棋士編入試験に挑むことが
記事になっていた。

12歳で女流棋士となり、その後、
史上最多の通算49期のタイトルを重ね、
現在8つあるタイトルのうち5つを保持する
「最強の女流棋士」の里見さんでさえも、
年齢制限の26歳までに
奨励会を突破し「棋士」になることは
できなかった。

これまで奨励会を突破した女性は
ひとりもいないという。

ちなみに、2022年8月19日時点で
棋士は169人。全員男性。

里見さんが棋士編入試験に合格すれば、
まさに
 「女性棋士第一号」
となる。

将棋の強さ、だけでみる限り
「女流棋士」と「棋士」の世界は
少なくとも現時点では
全く別次元の世界のようだ。

 

では、その先、
棋士の世界のそのまた頂点では
今いったい
どんなことが起こっているのか?

すこし覗いてみたい。

 

2022年5月22日の朝日新聞に
「あっさり駒損 AI時代の定跡」
なる見出しで
今年2022年の第80期名人戦第4局について
大きな記事があった。
(以下水色部、記事からの引用)

A220522sai

勝った渡辺名人は、
これまで
「過去の実戦例から学ぶもの」
とされていた「定跡」は
誰もがAIを使うようになった現在においては
違うのだ、と明言している。

実戦では指されていなくても
 『AIで研究して、
  みんな知っているよね』
 というのが、今の定跡です」

副立会人の小林七段が思わず「ウソやん!」
と声を上げたほどの第4局の展開は
まさにこんな研究から
生まれたものだったようだ。

「実戦でまだ指されていないものが定跡」
って、我々はいったいどの時間を
生きているのだろう?

 

加えて、ご存知の方も多いと思うが
最近の対戦では、
テレビにしろネット中継にしろ
AIによる最善手とそのときの勝率が
リアルタイムで表示されるように
なってきている。

たとえば王位戦、
藤井聡太五冠対豊島将之九段の第一局
101手目、豊島の手番。

AbemaTVのAIは、34歩の一択、
あとは全部大逆転との御見解。

こうなると、テレビの前で
豊島ファンは
 「豊島、34歩だ、間違えないでくれー」
藤井ファンは
 「間違えろ、53桂成も美味しそうだぞー」
と声援を送ることになる。

AIによる候補手表示が登場する前までは、
まさにだれも近づけない
「ある意味、人類最高峰の頭脳の戦い」
を見ていたはずなのに、いまや、
視聴者全員に正解がわかっている当て物を、
対戦者が当てられるかどうかを見るだけの
安っぽいクイズ番組を見ているような中継と
なってしまった。

誤解をおそれずに言えば、
「志村、うしろ、うしろ!」と
叫びながらドリフのコントを見ている
子どもとおんなじ気分だ。
(ザ・ドリフターズのコントを知らない方、
 意味不明の表現をお許しあれ)

「人類最高峰の頭脳」が苦しみながらも
まさにフル回転して生み出してくる
渾身の一手、
そこにある驚き敬意畏怖
そして思いもしなかった世界を
見せてくれた喜び
それらは、いったい
どこに行ってしまったのだろう。

 

もちろんAI研究の面から見れば
すばらしい進歩と言えるだろう。

でも、その成果や今の利用方法って、
将棋愛好家が望んでいたものなのだろうか?

この記事に書いたように、
哲学者の森岡正博さんは
「無痛文明論」というぶ厚い本の中で

現代文明は
欲望が生命のよろこびを奪っている


と書いていた。

欲望を満たすことに夢中になり、
本来そこにあったよろこびが
奪われているのかもしれない。

 

 

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