文化・芸術

2018年11月 4日 (日)

オーストリア旅行記 (63) リンク通りに沿って

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オーストリア旅行記 (63) リンク通りに沿って

- 印象的な建造物の数々 -

 

ここ で書いた通り
ウィーン市街を囲むリンク通りは
ウィーンを取り囲んでいた市壁を
取り壊したあとに造られたもの。

1857年に宣言された
市の拡張計画で本格的に動き出している。

リンク通り回りの建造物については
これまで
「自然史博物館」
「美術史博物館」
「国立歌劇場」
「楽友協会」
などを採りあげてきた。

旅行記の最後に、
これまでの記事で紹介できなかった
特徴あるリンク通り回りの建造物を
まとめて紹介したい。

 

【ヴォティーフ教会】

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1853年2月18日、
この場所でフランツ・ヨーゼフ皇帝の
暗殺未遂事件が起こった。
皇帝の上着の金属ボタンが凶器を防ぎ、
無傷で生還。

神の加護に感謝を込めて、
皇帝の弟マクシミリアン3世の呼びかけで
1856-1879年に建設。
塔の高さは99m

フランスの大聖堂を手本にした、
ネオ・ゴシック様式の美しい姿は、
ウィーン大学を設計した
フェルステルが手がけた。

夕暮時の写真も一枚。

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【ウィーン大学】

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1365年にルドルフ4世によって創立された
ドイツ語圏最古の大学

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リンクに面した本館は、
人文科学が花開いた時代の様式である
ルネッサンス様式で、
19世紀後半に建てられた。

9人のノーベル賞受賞者を輩出した名門で、
約9万1000人の学生を抱えている。

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【ブルク劇場】

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ドイツ語圏はもちろん、
ヨーロッパの演劇界でも
最高レベル権威を誇る劇場。

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ハーゼナウアーがゼンパーと共に建てた
ネオ・バロック様式の装飾的な建物は、
1888年に完成。

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正面が弧を描いてリングヘ迫り出し、
左右に広がる翼は大階投となって
2階ロビーへ通じている。

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内部の華麗な階段の間には、
グスタフ・クリムトが
若い頃1888年に描いた天井画
『タオルミナの劇場』と
『ディオニソスの祭壇』があり、
後年の作風とはかなり異なる
擬古典派の作風が見られるようだが、
今回は残念ながら
中に入って見ることはできなかった。

劇場内部の
ガイドツアーもあるらしい。

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【市庁舎】

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ネオ・ゴシック建築の名手
フリードリヒ・フォン・シュミットの
傑作で、その後ドイツの市庁舎建築に
多くの影響を与えた。
1883年に完成。

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中央の塔の高さは98m。

近くのヴォティーフ教会の塔が
99mであることから、
この高さを超える建物は
皇帝の命で許されなかった。

そこで建築家シュミットは
市庁舎の塔の上に
高さ約5mの
市庁舎の男Rathausmannという
騎士像を載せて、
こっそり反抗したという逸話が残る。

 

広い前庭の市庁舎広場Rathausplatzでは、
夏には フィルムコンサート・フェスティバル、
11月中旬~12月には クリスマスマーケット、
1月下旬~3月上旬には 広いアイスリンクが登場する
ウィーン・アイストラウムなどが 開催される。

今回7月の訪問時には、
まさに映画関連のイベントが
開催されていた。

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【国会議事堂】

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ギリシャ風の壮大な建物に注目!

建物をも含めたリングの建設は
1860年代から70年代へと進むにつれ、
ますます装飾的になってくる。

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19世紀後半、折衷主義の代表者である
アテネ育ちの
テオフィル・フォン・ハンセンの代表作。

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民主主義発祥の地である
ギリシャの古典様式が
国会議事堂にふさわしいと採用され、
1883年に完成。

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8本の大列柱が並ぶ入り口の上には
ギリシャ・ローマの学者と
政治家たちの彫像が、
屋根の上にはギリシャの戦車が
飾られている。

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奥には市庁舎の塔も見える。

神殿のような列柱の前に立つのは、
英知をつかさどるアテナ女神像。

その足元の4人の像は、
当時ハブスブルク家の領土を流れていた
ドナウ、イン、エルベ、
モルダウの川を象徴している。

議会開催中以外は、内部をガイドツアーで
見学できるらしい。

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今日紹介した5つの大きな建造物は、
事実上リンク通りに沿って
「並んで」建っている。

なので、ひとつひとつは大きいものの、
順番に迷わず歩いてみることができる。

それぞれの様式があり、このエリア、
まさに生きた建造物の博物館のようだ。

 

あちこちに寄り道しながら、
63回にもわたって
気ままに書き続けてきた
オーストリア旅行記だったが
あともう一回書いて一区切りとしたい。

というわけで(?)、次回はいよいよ
オーストリア旅行記の最終回。

もう一回だけお付き合い下さい。

 

 

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2018年10月28日 (日)

オーストリア旅行記 (62) ホイリゲ(新酒ワイン居酒屋)

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オーストリア旅行記 (62) ホイリゲ(新酒ワイン居酒屋)

- ベートーヴェンの散歩道もいっしょに -

 

Heurige(ホイリゲ)とは、
今年の」という意味。
今年できた新しいワインを指すと同時に
ホイリゲを飲ませる酒場
ホイリゲと呼ばれているようだ。

ウィーン郊外の
Grinzing(グリツィング)
Heiligenstadt(ハイリゲンシュタット)
とよばれるエリアに
ホイリゲが多いというので
路面電車でグリツィングに行ってみた。

ウィーン市街から30分弱。
バスのように細かく停車しながら行くので
決して速くはないし、
移動距離自体もたいしたことはないと
思うのだが、それでも車窓の景色は、
どんどん変化していく。

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終点となっているグリツィングは
落ち着いた静かな街だった。

居酒屋が並ぶ賑やかな通り、
といった雰囲気は全くない。
ウィーン市街地の喧騒から
そう遠くない位置にいるのが
ウソのよう。

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石畳の小さな脇道も
ちょっと物語を感じさせる。

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ホイリゲつまり
「新酒ワイン居酒屋」の
一軒に入ってみた。
バッハヘングル(Bach-Hengl)

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外が気持ちよさそうだったので
緑の多い屋外席に。

子連れの家族もいる。

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頼んだのはいろいろ味わえる
「肉料理の組合せプレート」。
例によってすごいボリュームだ。

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酒のほうは、
ホイリゲの名前の通り
今年の(?)白ワイン。
飲んでみると
確かに味が「若い」。

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ガイドブック等には、
「ジョッキで出てくる」と
書かれていることが多いのだが、
注文の仕方が間違っていたのか、
ここのお店がそうなのか
ワイングラスで出てきた。

なお、ホイリゲでは、
Gespritzter(ゲシュプリツター)と呼ばれる
なんとワインを炭酸水で、
しかも1対1の割合で割った飲み方

あるというので頼んでみた。

すると
ワインと一緒にこんな炭酸水がでてきた。

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沸騰しているお湯でも
見たことがないほどの泡、泡、泡。
いったいどうすればこんな強烈な
炭酸水を作ることができるのだろう。

それでなくても「若い」ワインを
炭酸水で割ってしまうので、
まさにガブガブ飲めてしまう。

 

しばらくすると、
バイオリンとアコーディオンの
陽気な生演奏が始まった。

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ホイリゲで奏でられる昔ながらの曲は、
「シュランメル」と呼ばれている。
19世紀末にシュランメル兄弟が演奏して
ウィーン中に広まった大衆音楽。

民謡風であったり、
ワルツ(舞曲)風であったり、
ハンガリー風であったり、と
酒場に合う曲が多いが、
ちょっとメランコリックな部分もあって
そこに独特な味がある。

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演奏は各テーブルを回り
リクエストにも応えている。

雰囲気だけ貼っておこう。

 

大人の会話(?)で盛り上がっている
テーブルもある。
なんともいい雰囲気だ。

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なお、このお店、
有名店なのか
各国著名人が訪問した際の写真で
店内の壁一面が埋め尽くされていた。

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ブッシュやらプーチンやら
大統領級もゴロゴロいる。

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食事のあとは、
お屋敷と呼びたくなるような

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大きな家が並んでいる
高級住宅地(?)を通りを抜けて

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「ベートーヴェンがよく散歩した」
という道まで行ってみた。

道に沿って
今は小さな公園もあり
緑豊かな中、子どもたちは
バスケットボールを楽しんでいた。
「ベートーヴェンパーク」!?

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公園内には銅像もある。

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付近には、
ベートーヴェンが第九を書いたり
遺書を書いたことで知られる家まであり
ベートーヴェンゆかりの地として
小さな案内板も出ている。

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この道を散歩しながら
交響曲第6番「田園」を書いたと聞くと
後ろに手を回して、うつむき加減に
ゆっくり歩いてみたくなる。

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訪問した時間が遅かったため
暗くなってきてしまい
「日没タイムアウト」という
感じになってしまったが、
緑豊かな雰囲気だけは
十分感じ取ることができた。

楽しい居酒屋と豊かな緑、
そういう空気の中で、
「田園」が生まれ、
「合唱付き」が生まれたのだ。

 

十月革命から逃れるために
家族とともに米国に亡命した
ロシアの作曲家ラフマニノフは
その後5年以上にもわたって
作曲することができなかった。

その理由を聞かれて
こう言ったという。

「どうやって作曲するのですか?
 私はもう何年ものあいだ、
 (懐かしい故国ロシアの)
 ライ麦畑のささやきも
 白樺のざわめきも
 聞いていないのですから…」

(詳しくはここを参照下さい)
作曲には「環境」が必要なのだ。

ベートーヴェンが感じた風と緑が
そのままここにある。

 

 

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2018年10月21日 (日)

オーストリア旅行記 (61) ウィーン美術史博物館(3)

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オーストリア旅行記 (61) ウィーン美術史博物館(3)

- ブリューゲル「バベルの塔」 -

 

美術史博物館の目玉のひとつが
ブリューゲルの「バベルの塔」だ。

ただ、日本を出発する少し前、
首都圏の電車では、
この吊り広告をよく目にしていた。

Babel2017s

なので、
「バベルの塔は、今、日本にあって、
 ここウィーンにはないンだよな」と
運の悪さに残念な気持ちでいた。

ところがところが、
展示室に入ってみたら、
正面のこれが目に飛び込んできた。

P7169405s

「ない」と思っていたものが
眼の前にある!

どうして!?

その場で疑問は解決しなかったのだが、
日本に帰ってきて、
改めてポスターを観て納得。

はっきりと「ボイマンス美術館所蔵」の
と書いてあるじゃないか。

「ウィーン美術史博物館」の
「バベルの塔」ではなかったのだ。
日本に行っていたのは。

ブリューゲルの「バベルの塔」は
何作かあると聞いていたので、
そのうちの一作なのだろう。

改めて並べて見てみよう。
上がボイマンス美術館のもので
下がウィーン美術史博物館のもの。

Bruegelp2s

Bruegelb2

ただ、そう思ってみると
中学だったかの美術の教科書に
載っていたのは、
「美術史博物館」のものだった気がする。
この左下の部分、教科書で見た記憶がある。

 

この「バベルの塔」についても

中野孝次 著
ブリューゲルへの旅
文春文庫

(以下水色部、本からの引用)

で触れられている。
前回の「雪中の狩人」に続いて
中野さんにはどんなふうに見えていたのか
ちょっと覗いてみよう。

 

 ウィーンの美術館に一点だけ、
いくら見ていても納得できず、
なにかわけのわからぬ
奇怪なグロテスクなものを見たという、
ほとんど不快な印象を
残したままになっている絵
があった。

P7169422s

彼は身構えて絵の前に立った。

画面中央に巨大な
赤茶けた無気味な姿を
でんと据えているバベルの塔は、
現代人の生半可な感情移入なぞ
にべもなく拒んで、
依然としてただそこに立っていた。

まったくこれは現代人の感性を
嘲笑するために
描かれたような絵である。

まるで地殻の底からふき出た
奇怪なできものだな、と
わたしは思う。

画面中央に居据った
この化物さえなければ、
これは実にすはらしい
海浜都市の描写なのに、と。

「奇怪なできもの」とは
すいぶんな言われようだ。

「できもの」以外の
都市俯瞰図とも言える部分については
「すばらしい海浜都市」の描写とまで
言っているのに。

 

Bruegelb1

われわれは純技術的に見て、
画家が当時の土木建築術の各工程、
道具、建造物の外観、材料、
労働形態、運搬器具、石工、大工、
煉瓦工、船の各態、等々に、
いかに広く正確な知識を持っていたかに、
驚嘆するほかはない。

ブリューゲルは彼がこの途方もない
建造物の総監督
ででもあるかのように、
それらの全部を
認知していたに違いないのである。

では彼はここに、ルネサンスとともに始った
近代科学の進歩のすはらしさを顕賞しようと
したのだろうか?

「まったくなんという途方もない
 巨人的な絶望的な企てだろう」
と嘆きながらも
「わたしは細部の驚くべき緻密さ正確さに
 感心するのをやめ、また退いて」
絵を全体として捉えようとする。

それでも、

わたしはこの十年間に、
さまざまな研究者の解説を読み、
知識はそれなりにあったが、
実際に絵をまた前にしてみれば、
知識は
知覚の養いになってくれなかったこと

あらためてわかるだけである。

 

そしてこの絵の不気味な感じを
こんな言葉で表現している。

悪夢。
たしかにそうだ、とわたしは思った、
あの天に聳立(ショウリツ)する
巨大な建造物が、
人間の理性と労働の勝利という
はればれしい印象よりは、
むしろ無気味な、悪魔的な企て、
あるべからざるなにかのように
印象されるのは、

すでにそれが建造の過程において
崩壊の予感を孕んでいる


感じられるからに違いない。

「すでにそれが建造の過程において
崩壊の予感を孕んでいる」とは
なんとも絶望的な言葉だ。

 

悪夢、と言いながら
丁寧に鑑賞を続ける中野さん。
最後はこんな言葉で結んでいる。
お気に入りの「雪中の狩人」に比べると
同じ画家ながら
ずいぶん対照的な印象を残したようだ。

しかし結局
本当のところはまだわからないな、と
わたしはふたたび呟くしかなかった。

赤茶けた塔のイメージが
また浮かんで、消えた。

それは「雪中の狩人」のような
幸福な印象を残さなかった

実際に絵を目の前にすると、
全体のバランス以上に、
細部の書き込みのすごさに
引き込まれてしまう。

人もモノも動いており止まっていない。

絵はある瞬間を凍らせて
焼き付けてしまうものではない。
ブリューゲルに限らず「いい絵」は、
前後の時間をちゃんと感じさせてくれる

 

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おまけ:
美術館の展示物の目玉のひとつに
コレがある。いったいこれは何か?

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なんとこれは
食卓用塩入れ(イタリア語でサリエラ)。
16世紀のイタリアの金細工師であり
彫刻家でもあった
ベンヴェヌート・チェッリーニの作品。

驚くべきことに、一枚の金板から
型なしで打ち出されたもの
らしい。
まさにルネサンス期の傑作。

これを模して美術館の外にはコレがある。

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流行りの「インスタ映え」という言葉が
ふさわしいのかどうかよくわからないが、
美術品の一部になりきって
写真を撮りたくなる気持ちが
よくわかる。

次々と順番を待つようにして、
皆、楽しそうにポーズをとっていた。

 

 

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2018年10月14日 (日)

オーストリア旅行記 (60) ウィーン美術史博物館(2)

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オーストリア旅行記 (60) ウィーン美術史博物館(2)

- ブリューゲル「雪中の狩人」 -

 

前回はこの本

中野孝次 著
ブリューゲルへの旅
文春文庫

(以下水色部、本からの引用)

を紹介したところで終わってしまったので、
続きを書きたい。

ウィーンで
「憂鬱をもてあましていた」中野さんは、
こんな言葉でこの街を描写していた。

思い出すために一部繰り返すと・・・

だが、威圧すべき異民族を失って、
1918年以来
空しく過去の壮麗さのなかに
まどろんでいる
このあまりに伝説的な都市の外観は、

わたしには
若い日の栄華のままに正装し
厚化粧した老婆を白昼に見るような
印象を与えた


それは途方もなく空しく、
無用な装飾にみちすぎていた。

死ぬ日のくるのを着飾って待っている
老人の都市
だった。

「厚化粧した老婆」
「死ぬ日のくるのを着飾って待っている
老人の都市」とは。

そんな中野さんが、
ウィーン美術史博物館で、
ブリューゲルに出会う。

 そんなときに
なぜフリューゲルが
あのように親しく語りかけてきたのか
わからない。

わたしは痛む足をかばうためもあり、
毎日のように
近くの美術史美術館に通い、
その一室にいると幸福だった


どの絵も
いくら見ていてもあきなかった。
ふしぎにしんと静謐な世界へ
誘うものがそこにはあって

静かな声で、
ここがお前の帰っていくべき場所だと
語りかけてくるようであった。

なかでも「雪中の狩人」
深い色合いの世界がとくにわたしを
ひきつけた。

ブリューゲルの「雪中の狩人」
美術の教科書にも出ているコレだ。

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製作年1565年。
450年も前の作品だ。
ちなみにブリューゲルは
1525年-1530年頃生
1569年没。

音楽の父とも言われるバッハが
1685年生まれだから、
バッハよりもさらに100年以上も前の人
ということになる。

日本では戦国時代、
種子島に鉄砲が伝わり(1543年)
桶狭間の戦い(1560年)が
あったころの人だ。

 

この絵に、中野さんは
どんなふうに魅了されたのか。

Bruegelv1

 そこにあるのは
きびしい冬の自然のなかの
生の営みである。

重い鉛色の雲に覆われた地上は
一面に深い雪に埋れている。

池も河も重い空を映して、
かすかな緑青色をおびた
鉛色に氷結し、そこに
着ぶくれした子供たちが遊び、
人びとが背をまるめて道を急ぐ。

だがすべては遠く小さく、
かれらの叫びも歓声もきこえず、
世界はしんと寒気のなかに
静まりかえっている

遠景にはまさに様々な人達が
描かれている。でも、確かに
遠いこともあり音は聞こえてこない。

 

Bruegelv2

その世界へいま
三人の屈強な猟師
乏しい建物を背に、
疲れ切った犬を連れ、
とぼとぼと帰っていく。

絵の前面には、
ほとんど画面全体を切るように、
左から右へ対角線がつづき
近景の高い斜面を形作っている。

猟師はいま深い雪のなかの
空しい労働を終え、
ようやく村を俯瞰する
この丘まで辿りついた。

見る者は、
全体のなかで図抜けて大きく描かれた
かれらの、疲労で重い後姿と、
左から右へ一列に黙りこくって
歩を運ぶ存在感にひきつけられ、
まだこれから三人が
歩かねばならぬ距離を一緒に感じる


くろぐろと直立する裸の木々が、
この一団を囲み、
まるで世界から孤立したように
自分の力だけで歩む姿を強調する。

 

Bruegelv3

左手の丘の端に立つ宿屋の
冬仕度にいそがしい人びとさえ
かれらには目をくれないのだ。

宿の人びとは、かれらはかれらで
自分の営みで手一杯で、
なにかを焼く焚火の火は、
寒気のきびしさを伝えるように、
一直線に炎をあげているのである。

 

静寂さ、人々の営み、
風の強さまでを感じたあと
中野さんはこう書いている。

 これが人間の生だ、と
絵は語りかけているように見える。

 

もう一度全体を眺めてみよう。

Bruegelv5

 そこにいるのは、
例えばミケランジェロの
悩ましいまで異常に拡大された
人間性でも、
超自然的な理性の勝利でも、
英雄でも賢者でも、
レンブラントの優れて個性的な
市民でもなかった。

ただのどこにでもいる人であり、
狩人は後向きで
顔さえ見えないのである。

にもかかわらず、
このきびしく支配する
白と緑青と濃褐色の自然のなかで、
かれらの一人ひとりは
なんというずっしりした存在感を
もっている
ことだろう。

かれらはその後姿や
遠い小さな輪郭だけで
たしかにそこにかけがえなく
存在していると感じられるのである。

 わたしはそれまで
こんな絵を見たことがなかった

中野さん、ずいぶん気に入ったようだ。
フェルメールやラファエロの絵も並ぶ
この美術館にあって、
私自身には、そこまで特別な絵として
響いたわけではなかったが、
中野さんのおかげで
ずいぶん細部にまで
注意を払って見ることができた。

 

で、その際気づいたこと。

この部分

Bruegelv4

よく見ると、
近年、冬季オリンピックでよく話題となる
「カーリング」をやっているように
見えるのだが、あの競技
450年も前からあったのだろうか?

 

 

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2018年10月 7日 (日)

オーストリア旅行記 (59) ウィーン美術史博物館(1)

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オーストリア旅行記 (59) ウィーン美術史博物館(1)

- ウィーンは厚化粧した老婆? -

 

ここに書いた通り、
マリア・テレジア広場を挟んで
向かい合って建っている双子博物館。

自然史博物館 と
美術史博物館。

ウィーン自然史博物館がこれで

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ウィーン美術史博物館がこれ。

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外観では区別がつかない。

 

【ウィーン美術史博物館】
美術品のコレクションも
もちろんすばらしいが、
自然史博物館と同様、
建物自体も見応え充分。

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館内で撮った美術品の写真は、
旅行記 (47)(48)(49)(50)(51)
でも、すでに挿絵代わりに使っているが、
自然史博物館では禁止されていた写真撮影が
なぜか(?)こちらでは許可されていた。
撮影OK/NGの基準は
いったいどんなところにあるのだろう?

階段回りもこの雰囲気。

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休憩時に軽食のとれるカフェテリアも。

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大理石の床と柱の模様が美しい。

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大天蓋もこの迫力。

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大きいだけでなく、
細部まで美しい。

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そのうえ、展示室ではなく
階段の壁面上部に
世紀末の画家「グスタフ・クリムト」の
作品を観ることができる。

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『エジプト』
『古代ギリシャ』
『16世紀のフィレンツェ』など、
芸術の発展過程をテーマに描いている。

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この博物館、
「美術史」とついているが、
美術史全体を系統的に網羅したような
そんな展示にはなっていない。

そもそものコレクションに、
ハブスブルク家支配領域の変遷や、
一族の伝統となった
芸術的嗜好などによる偏りが、
明らかに存在している。

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長らく対抗関係にあった
フランスの作品はほとんどないし、
また16世紀ヴェネツィア絵画の
充実ぶりと比較すると、
それ以前のイタリアの作品は乏しい。

それでも、そういった偏りを
事前に知って観たとしても、
壮大なコレクションは
圧倒的なパワーをもって
観るものに迫ってくる。

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そもそも偏りのない美術館なんて
どこにもないのだから、
「美術史」という名前につられて
網羅性を期待すること自体
間違っているのかもしれない。

 

工芸品も多いが絵画だけを見ても、
フェルメール、ラファエロ、クラーナハ、
ルーベンス
などの傑作がめじろ押し。

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特に有名なのは世界最多の点数を誇る
ブリューゲルのコレクション。

ブリューゲルと言えば、
この本が思い出される。

中野孝次 著
ブリューゲルへの旅
文春文庫

(以下水色部、本からの引用)

ブリューゲル絵画の解説本ではなく、
あくまでも中野さんの体験にもとづく
エッセーなのだが、独特な文体は
不思議な空気感を運んでくる。

そもそも、これまで
美しいだの、すばらしいだの、
旅行記の中で
さんざん褒めまくってきた
ウィーンの街を、
中野さんは、こんな言葉で
描写している。

1966年春、わたしはウィーンにいて
憂鬱をもてあましていた


パリの軽快な放射線的構成とも、
ベルリンの雄大な
幾何学的直線とも違う、
宮殿や教会や国立オペラ劇場や
公園を中心に
それぞれ魅惑的な閉鎖空間を
つくっている、

活気のない、古く壮麗な
このバロック都市
にきて以来、
なぜ憂鬱にとりつかれたのか
自分でもわからなかった。

ともかく憂鬱はつねに胸にあり、
それは胸を噛んだ。

それはまるで、
この町を歩けば必ず目に入る
装飾過剰の建築物、
曲線や渦状線や
人柱像で構成された柱列や、
複雑な円や方形の
組合せからなるファッサード
が、
かれら自身の憂鬱を
わたしのなかに注入して、
ここに留まるかぎりその毒から
逃れられないかのようだった。

その壮麗を
否定することはできない。

だが、威圧すべき異民族を失って、
1918年以来
空しく過去の壮麗さのなかに
まどろんでいる
このあまりに伝説的な都市の外観は、
わたしには
若い日の栄華のままに正装し
厚化粧した老婆を白昼に見るような
印象を与えた


それは途方もなく空しく、
無用な装飾にみちすぎていた。

死ぬ日のくるのを着飾って待っている
老人の都市だった。

いくら自分の気分が憂鬱だからと言って、
「若い日の栄華のままに正装し
 厚化粧した老婆を白昼に見るような
 印象を与えた」って
この記述はないンじゃないか、と
個人的には思うが、
街の印象とは、
もちろん見る人の気分との組合せで
存在するものだから、
自分とは違ったウィーンが
見えている人がいると思えば
かえって興味深い。

そんな中野さんに、美術史博物館の
ブリューゲルの絵画は
どんなふうに映ったのだろうか?

 

ちょっと長くなってきたので、
続きは次回に。

 

 

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2018年6月10日 (日)

オーストリア旅行記 (42) ベートーヴェンの家と譜面屋

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オーストリア旅行記 (42) ベートーヴェンの家と譜面屋

- 楽譜は共通語 -

 

ここに 書いた通り、
ウィーン市街を守っていた市壁は
約150年前に取り壊され、
新しい都市計画が動き出したのだが、
市内には、当時の市壁の一部が
残っているところがある。

P7169443s

このアパートの土台部分、
古い市壁がそのまま残っている。
稜堡(バスタイ)と呼ばれる、
突き出した角の部分にあたるところだ。

P7169445s

積み上げられたレンガを味わいながら
上ってみることにした。

P7169447s

実はこの上のアパートには、
ベートーヴェンが住んでいた家がある。

【ベートーヴェンの家】
今はこんなプレートが埋め込まれている。

P7169453s

ベートーヴェンは、
生涯に80回以上も引越をした

そのベートーヴェンが、
ここには約10年間(1804-1815)も
住んでいたという。

P7169454s

生涯でもっとも長く住んでいた家
このアパートの5階。

いまは記念館になっているが、
他の部屋には、普通に人が暮らしている。
なので、記念館の呼び鈴も
他の住人と同じもので特殊なものではない。
(左列、上から三番目のボタン)

P7169452s

「運命」の名で知られる交響曲第5番、
テレビドラマ「のだめカンタービレ」で
一躍知名度の上がった交響曲第7番、
大戦後の1955年、国立歌劇場の
修復完成記念の演目に選ばれた
オペラ「フィデリオ」、そのほか
ピアノソナタ「告別」、
ピアノ曲「エリーゼのために」、
など多くの曲がここの部屋で作曲された。

 

【Musikhaus DOBLINGER】
音楽の都ウィーン。
夫婦ともに多少なりとも楽器を嗜むので、
ウィーンの訪問記念に
楽譜を買って帰ることにした。

事前に楽器仲間に教えてもらっていた
「譜面屋:DOBLINGER」を訪問。
「MUSIKHAUS」の字面がなんとも誘惑的だ。

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旧市街のど真ん中。

ドイツ語はぜんぜん読めないが、
五線譜はいい。
まさに言葉の壁がない。

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品揃えといい、在庫の量といい、
さすがウィーン。
楽器を肩に掛けたお客さんも
何人かいる。
しかも店内、楽器、編成ごとに
譜面がよく整理されているので、
初めて訪問する外国人でも、
迷わずターゲットに辿り着くことができる。

そのうえ、各譜面がオープンで、
実に見やすい。
(日本で輸入譜面を買いに行くと、
 ひとつひとつが袋に入っており
 かなり選びにくいことが多い)

引き出しを開け
パラパラとページをめくり
次々に内容を見ることができる。

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ただ、楽譜としては読めても
自分が演奏できない譜面が多いのは
なんとも悲しい。

まぁ、実力の低さをこの時点で
嘆いてみてもしかたがないので、
「これならできそう」の譜面を探す。

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このお店、広い店内が
大きくふたつに分かれている。
ひとつは譜面エリアで
もう片方は音楽関連グッズエリア。

夫婦それぞれ小品の譜面と
譜面用クリップなどの小物を購入。

音楽の都ウィーンで買った音楽グッズ。
だれでもない自分自身への
いい土産になった。

 

 

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2018年5月13日 (日)

オーストリア旅行記 (38) カフェ文化

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オーストリア旅行記 (38) カフェ文化

- ひとりでいたい、でも仲間が必要だ -

 

ウィーンの文化と言えば、
やはりこれに触れないわけには
いかないだろう。

カフェ文化。

【カフェ フラウエンフーバー】

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Café Frauenhuber
ウィーン最古のカフェ

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夕日を背に外のテラスで食事をしたが、
食事のあと、
店内の写真を撮らせてもらった。

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女帝マリア・テレジアの料理人
フランツ・ヤーン(Franz Jahn)が
1788年に開業。

1788年にはモーツァルト
「ヘンデルのパストラーレ」を

1797年にはベートーヴェン
「4本の金管楽器とピアノのための5重奏」

をここで演奏。

特に、モーツァルトが公衆の面前で
ピアノ演奏を行ったのは、
ここが最後になったらしい。

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モーツァルトとベートーヴェンが
演奏したことのあるカフェ
というだけで、
もう寄らずにはいられない。

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落ち着いた店内の雰囲気に
まさにピッタリといった感じの正装で、
丁寧な接客をする
ケルナー(ウェイター)さんが
ほんとうに印象的。

かなりなご高齢と思われるが、
所作と言うか身のこなしが美しく、
まさにプロフェッショナル。

ワイワイと
各国からの観光客が多くても、
店の独特な空気感が
キッチリ守られていることが、
なんとも気持ちがいい。

 

【カフェ ブロイナーホーフ】

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カフェ「Café Bräunerhof」

ここにも、多くの芸術家が
集(つど)っていたと言う。

ところで、
「ウィーンといえばカフェ」
と言われるほどにウィーン文化を
代表しているもののひとつがカフェ。

「文化」と呼ばれるまでの
その独特な存在意義を
下記の本を参照しながら
覗いてみたい。

広瀬佳一、今井顕 編著
 ウィーン・オーストリアを
 知るための57章【第2版】
明石書店

(以下水色部、本からの引用)

 

まずは起源から。

 ウィーンといえば、
即座にコーヒーやカフェを
思い浮かべる人も少なくないだろう。

確かに、ウィーンは、
東方に起源をもつ
この「黒いスープ」を、
ヨーロッパで最も早く
普及させた都市
であった。

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ウィーン風コーヒーや
カフェの起源については、
数多くの伝説が
まことしやかに語り伝えられている。

たとえば-

1683年、
トルコ軍によるウィーン包囲の際、
トルコ語の才能を買われて伝令となり、
敵陣に潜入して
皇帝軍を勝利に導いた
コルチスキーが、戦後、
トルコの野営地に放置された
コーヒー豆を得て、
ウィーン初のカフェ・ハウスを
開店したというエピソードは、
あまりにも有名である。

しかし実際には、
このコルチスキーより以前に、
都市在住の東方商人らを相手に
コーヒーを出す店が、
すでに存在していたようだ。

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すでに18世紀には、
カフェはウィーンの名物、
見どころのひとつに
数えられていた。

1720年に開業し、
国内はもちろん、全ヨーロッパの
主要な新聞・雑誌を常備していた

「クラーマー・カフェハウス」は、
やがて首都の知識人の結集地となった。

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こんな感じで、どこのカフェでも
新聞や雑誌が読み放題になっている。
特に新聞のフォルダが印象的。

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ただ、

 薄暗く狭い店の中、
大テーブルに相席で押し込まれた
大勢の客が、
騒がしくひしめき合う。

多くの風刺画や銅版画が
今日に伝えるように、
これが、18世紀前半までの
カフェの日常風景であった。

それが大きく変化を始めるきっかけが
18世紀、後半に起こる。

 こうした状況が
変化を見せはじめたのは、
1780年代のことである。

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皇帝ヨーゼフ2世による
飲食店営業規制穏和の結果、
カフェの数がさらに増大すると、
多くの店主たちは、
生き残りを賭けて大改装に着手
した。

内装は上流階級のサロンに擬せられ、
採光が不具合な立地でも、
クリスタル製の
豪華なシャンデリアが
明るく照らすようになった。

目抜き通りに面した店では、
軒先に植木鉢を並べた
「シャニ・ガルテン」、
今でいう
オープン・エアが創案された

オープン・エアのテラス席は
このころの発明だったわけだ。

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公共の場において追求される
個人の孤独


これこそ、その後、
19世紀から現在まで
人々を魅了し続けた、
ウィーンのカフェの
最大の特色にほかならない。

たとえば、20世紀前半に
活躍した文筆家で、
「カフェ・ツェントラール」をはじめ、
名だたる文学カフェの
常連としても知られる
アルフレート・ポルガーは、
カフェの魅力についてこう語った。

「一人でいたい、
 けれど、
 同時に仲間が必要だ。
 こういう人々が、
 カフェに通うのである」

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ちなみに、上の引用に出てきた文学カフェ
【カフェ ツェントラール】
は、こんな感じ。

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興味深いのは、歴史ある
「ツェントラール」のすぐそばに
これを発見したこと。

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ウィーンの人には
どんな風に見えているのだろう?

2001年末、ケルントナー通りに
第一号店をオープンさせたとき、
多くのウィーンっ子から、

コーヒーを
 紙コップで飲むなんて、
 あり得ない
」と、

猛反発を受けた
スターバックス・コーヒーが、
その後、若い世代を中心に
広く受け入れられ、現在、
市内に9店舗を展開している事実もまた、
ウィーンにおけるカフェ文化の変遷の、
その一面を象徴しているのかもしれない。

 

 

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2018年5月 6日 (日)

オーストリア旅行記 (37) オーストリア国立図書館

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オーストリア旅行記 (37) オーストリア国立図書館

- 圧倒的な迫力と美しさ -

 

ハプスブルク家・旧王宮の中の
見どころのひとつが
オーストリア国立図書館だ。

 

【ヨーゼフ広場】

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ちょっとわかりにくいのだが、
国立図書館の入り口は
ヨーゼフ2世の騎馬像のある
この広場に面している。

地味な階段を上ると
いきなりこの光景が眼に飛び込んでくる。

【オーストリア国立図書館】

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世界で最も美しい図書館と
称されることもあるらしいが、
一歩足を踏み入れただけで、
その迫力と美しさには圧倒される。

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「Prunksaal:プルンクザール」
(豪華なホール)と呼ばれる空間は、
とても図書館とは思えない雰囲気。

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古い本がビッシリと並ぶさまは
タイプスリップした映画の世界。

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ここは
マリア・テレジアの父、
カール6世が作らせたもの。
中央の像がカール6世。

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オーストリアバロックの巨匠
シェーンブルン宮殿も手がけた
フィッシャー・フォン・エルラッハの設計
その息子のヨーゼフ・エマヌエル・
フィッシャー・フォン・エルラッハが
1723~1737年にかけて建築。

「息をのむ」という表現しか浮かばない。

P7158972s

中央の丸天井のフレスコ画は、
宮廷画家ダニエル・グランによるもの。
この部分は高さが約29mもある。
8つの楕円窓からの光で
みごとに絵が浮かび上がっている。

Libdome

 

広間の大きさは、全体で
幅約14m・奥行き約80m・高さ約20m。

宗教改革者マルティン・ルターの
著作コレクション
でも知られている。

P7158979s

とにかくこの迫力と美しさは、
一見の価値がある。
ウィーン観光時の訪問先として
強くお薦めしたい。

 

旧王宮、国立図書館を出ると
「スイス宮」を通って
フランツ2世像のある広場に出るが
スイス宮と広場を結ぶ門は、
スイス門と呼ばれている。

【スイス門】

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フェルディナント1世が
ウィーンを統治した
1552年に建設された。

マリア・テレジアの時代、
スイス傭兵が警備していたことから
スイス門と名付けられたとのこと。

バチカンに残るスイス衛兵のような
派手な制服というか服装で
警備していたのであろうか?
ってそんなことはないか。

 

 

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2018年4月29日 (日)

オーストリア旅行記 (36) シュテファン大聖堂

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オーストリア旅行記 (36) シュテファン大聖堂

- 聖堂内での夜のコンサート -

 

 

【シュテファン大聖堂】

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市壁に守られていた旧市街にある
ゴシック様式の大聖堂。


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旧市街の
まさにど真ん中にあるこの聖堂は、
自然史博物館や歌劇場のような
リンク通り建設に伴った
都市拡張開発によって
建てられたものではない。

完成は古く、1356年。
136メートルにおよぶ塔の建設には
65年もかかったという。

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ハプスブルク家歴代君主の墓所でもある。

特徴あるモザイク屋根。

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北側に回って見上げると
ちょっと見えにくいものの、
こんなところにも鷲の紋章が。

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モーツァルトの結婚式、
そして葬儀
が行われた場所としても
知られている。

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旧市街の中心地ということもあって
ひっきりなしに観光客が訪れるせいか、
聖堂前には
「観光客向けコンサート」の客引き
妙に多い。

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皆、
モーツァルトを思わせる衣装を身に纏い、
次々と観光客に声をかけている。

何人かの客引きの話を
興味本位で聞いてみた。
私が聞いた範囲ではこんな特徴がある。

【曲目】
 夜のコンサートのプログラムは、
 モーツァルトやヨハン・シュトラウスを
 中心に超有名曲ばかり。
 クラシックファンでなくとも
 気軽に楽しめる選曲になっている。

【パフォーマンス】
 楽器による演奏だけでなく、バレエや
 オペラのアリアを一部組合せたりして
 エンターテイメント性に
 めいっぱい傾いた
 プログラムになっている。

【会場】
 どこも100-200名程度の
 小規模な公演ながら、
 会場はかなり魅力的。
 王宮の中の一部屋であったり、
 シェーンブルン宮殿の一室であったり、
 楽友協会内の小ホールであったり、
 ウィーン市内の魅力ある場所を
 フル活用している感じ。

【ドレスコード】
 会場は宮殿の一室であったりしても、
 ドレスコードはゆるゆる。
 ジーパン、スニーカでもOKと言っている。

【料金】
 定価(?)はあってないようなもの。
 「通常はコレだが、夫婦2枚なら」とか
 「同じ値段でワンランク上の席に」とか
 「お得感」を強調した提案を
 次々としてくる。
 本気で買う気ならかなり交渉できそう。

というわけで、
これはこれでエンターテイメントとして
十分楽しめそうではあった。
実際に行ったわけではないので、
肝心な演奏の質まではわからないが。

 

我々夫婦はと言えば、
こういった客引きとは全く関係のない
別な演奏会を聴きに行くことにした。

目の前、
シュテファン大聖堂内で開催される
室内楽。

【夜の演奏会前の大聖堂内】

P7148813s

ちょうどこちらの都合にハマった
一晩だけの演奏会だったとは言え、
メインの曲が
ヴィバルディの「四季」となっていたので
これもまた観光客向けのプログラムの
ひとつだったのだろう。

それでも、気分としては
「いい演奏を」というよりも、
大聖堂内で音楽がどう響くのか、
その響きの中に身を置いてみることを
最優先にしてみたかった。

音響的に言えば
残響がありすぎであろうことは
容易に想像できたが、
そういったことも承知のうえで、
現地ならではの空気感に
浸ってみたかったのだ。

【リラックスした気分で集まる聴衆】

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実際の演奏を聴いてみて、
その思いは充分満たされた。

残響が多いとはいえ、
頭のずーっと高いところに
響きが浮遊するように残る感じは、
天井の高い大聖堂ならでは、だ。

モーツァルトの結婚式の時は
どんな響きで満ちていたのだろう、
と考えるだけでも楽しい。

ちなみに演奏のほうは、
ビオラの方がほんとうにうまかった。

小さな合いの手的旋律を
実に丁寧に演奏していて、
彼が弾くと、音楽がそこで
キュッと引き締まると同時に
グッと深まる感じもして
なんともいえず心地よかった。

やはりプロはすごい。
そしてどんな環境であれ、
生の演奏はいい。

 

 

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2018年4月22日 (日)

オーストリア旅行記 (35) カール教会と分離派

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オーストリア旅行記 (35) カール教会と分離派

- 「土地の雰囲気」がもつ許容力 -

 

今日は、リンク通り周辺の
2つの建物をきっかけに
「ウィーン分離派」と
その運動について少し紹介したい。

【カール教会 Karlskirche】

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建築家エルラッハの
バロック的理念が具現化された
彼の代表作「カール教会」。

大きなドームをいただく
楕円形の空間と
精緻な装飾が刻まれた二本の円柱が特徴。

岩崎周一 著
ハプスブルク帝国
講談社現代新書

(以下薄緑部、本からの引用)

にはこんな記述がある。

バロック文化は、
第二次ウィーン包囲以降に
ハプスブルク諸邦にあまねく行き渡り、
カール6世の時代に全盛期を迎えた。

とくに大きな成果が上がったのは
建築の分野で、
ヨハン・ベルンハルト・
フィッシャー・フォン・エルラッハ、
ルーカス・ヒルデブラント、
ヤーコプ・プランタウアーといった
優れた建築家たちが腕を振るい、
宮廷図書館、ベルヴェデーレ宮殿、
メルク修道院など、
「皇帝様式」の傑作を
あまた世に送り出した。

なかでも、
カールの発案に応えた
諸身分の献金により建立された
カール教会(1737年落成)は、
王権・カトリック教会・諸身分の
「三位一体」により成立していた
近世のハプスブルク君主国を
象徴とする
意味でも、
意義深い建造物である。

 

【カールスプラッツ駅】

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オットー・ワーグナー設計による駅舎。
路線のカラーである薄緑色を基調とし、
金装飾に特徴のある2つの駅舎が
向かい合って建っている。
黄金のヒマワリや緑の骨組みが印象的だ。
完成は1899年。

 

このオットー・ワーグナーこそ
「ウィーン分離派」と呼ばれる
芸術革新運動の中心人物のひとりだった。

「ウィーン分離派」とはいったい何?

参考図書
広瀬佳一、今井顕 編著
 ウィーン・オーストリアを
 知るための57章【第2版】
明石書店

の「分離派」についての章は、
山之内克子さん
書いている。
(以下水色部、本からの引用)

まずは分離派の簡単な説明から。

【ウィーン分離派】

1897年、
画家グスタフ・クリムトを中心とする
19人の芸術家たちは、
保守的・正統的画壇に反発し、
新しい芸術グループを結成した。

腐敗政治に抗議する若者たちが
都市を離れて山に籠もったという、
古代ローマの「民衆離反」
の故事に因んで
「分離派(ゼツェッシオン)」
と称した新グループは、
過去の様式を模倣することが
芸術の目的であった時代が過ぎ去った今、
芸術は自分自身のスタイルを
もたなければならない

宣言したのである。

「時代にはその芸術を、
 芸術にはその自由を」

の標語が掲げられていたという。


【画家クリムトと建築家ワーグナー】

クリムトが
「裸の真理」で描いたものは、
時代の真実を反映するという、
社会における芸術の
本質的な課題にほかならない。

そして、これこそ、
分離派の芸術家たちが
生涯保ち続けた制作目標であった。

画家クリムトが、
理想化された人体ではなく、
時には醜悪な姿を晒す裸体を通じて、
近代人の潜在意識を
呼び覚まそうとしたように、

建築の分野では、
オットー・ワーグナーが、
実用性と結びついた
美の形を追求した


建物における「真実」とは
「使いやすさ」であり、
芸術の使命は、
人間の実利的な要求を
満たすことである。

過去の歴史様式から「分離」して
新しい創造に向かおうとする
芸術革新運動。
当時、どんな勢いがあったことだろう。


【でも、実りの秋は・・・】

だが、分離流がウィーンにもたらした
芸術の「春」は、決して実りの秋を
迎えることはなかった


クリムトをはじめとする
多くの芸術家が、
表現主義や抽象絵画への一歩を
決して踏み出そうとは
しなかったからである。

歴史主義の装飾性を批判しつつ
彼ら自身、
ここから完全に離れることはなかった


(中略)

後にアメリカの現代建築にも
多大な影響を与えたワーグナーですら、
晩年に至るまで、
バロック建築のアプリケを連想させる、
花綵模様(ギルランデ)や
天使の装飾モチーフに固執し続けた。

ワーグナーは機能主義の見地から
「芸術は必要にのみ従う」
と主張していたが、
駅舎の写真を見ればわかる通り、
装飾そのものを
否定しているわけではない。

 

【土地の精神(ゲニウス・ロチ)】

だが、こうした装飾へのこだわりと、
純粋に抽象的なものに対する
関心の欠如は、
あるいは、
ウィーンの精神風土に関わる
特質
なのかもしれない。

ウィーン分離派の作品が、
フランスのアール・ヌーヴオ、
ドイツのユーゲント・シュティールとは
一線を画した、独特の魅力でわれわれを
惹きつけてやまない理由のひとつは、
土地の精神(ゲニウス・ロチ)」との、
この強固な結びつきのように思われる。

ワーグナーの代表作、
カールスプラッツ駅舎が、
18世紀初頭のバロック建築の傑作、
カール教会をバックに、
何の違和感もなくたたずむさま
は、
分離派芸術のこうした特質を、
ひときわ鮮やかに印象づける景観と
いえるだろう。

駅舎とカール教会、
実際の位置関係を見てみよう。
山之内さんが書く通り、
こんな位置関係でたたずんでいる。

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ちなみに、そのまま左に目を遣ると、
駅舎左奥には、
ウィーンフィルの本拠地
楽友協会も見える。

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ゲニウス・ロキ(genius loci)は
ローマ神話における
「土地の守護精霊」が原義だが、
「土地の雰囲気」「土地柄」といった
意味で使うことが多いようだ。

多彩な様式の建物が並ぶ
リンク通り周辺では、
どんな組合せをも許容してしまう
まさに「土地の雰囲気」がある。

 

 

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