心と体

2022年3月 6日 (日)

恥ずかしいから隠すのか、隠すから恥ずかしくなるのか

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恥ずかしいから隠すのか、隠すから恥ずかしくなるのか

- マスク生活があと2年続いたら -

 

東京、神奈川、埼玉、千葉、
大阪、兵庫、福岡の7都府県に対して、
最初の「緊急事態宣言」が発出されたのが、
2020年4月7日。

不要不急、お前だったのか
という記事をアップしたのが、
2020年4月12日。

まもなく、
マスク生活も2年になろうとしている。

最初のころは
「あっ、マスク」
と忘れて出かけそうになることも多かったが、
いまや
「外出時はマスクをして」が
すっかり習慣となっている。

私自身は、「在宅勤務」が多くなったため、
出社日数も大幅に少なくなっているのだが、
先日出社した際、小さな発見があった。
きょうはそのことを書いてみたい。

 

昼休み、久しぶりに同僚と2人で
会社近くのレストランに昼食に出かけた。

外食はほんとうに久しぶりだ。
お昼休みの時間帯、
ビジネス街のレストランの賑わいも
一時期に比べてずいぶん戻ってきており、
そのときも昼食の会社員で溢れていた。

当然のことながら、
食事中は男女を問わずマスクを外している。

「マスクをしていない人を
 こんなに大勢見るのは
 なんて久しぶりだろう」
そんなことを考えながら
ぼんやり店内を眺めていたら、急に、
普段マスクに隠されている
鼻と口って、なんてエロいのだろう、と
見てはいけないものを
見てしまったような、
不思議な気分に襲われた。

若い女性の口元だけではない。
女性も男性も、
会話をしたり、食べたりしているときの
裸の鼻と口ってなんてエロいのだろう

考えてみると
「恥部だから隠すのか、
 隠すから恥部になるのか」

ほんとうはどちらなのだろう?

「恥部だから隠す」に決まっている、と
漠然と思い込んでいたが
その確信が明らかに揺らいでいた。

よし、大胆にも
ここに自信をもって予測してしまおう。

「マスク生活があと2年続いたら、
 鼻と口は恥部となり、
 正視できないのはもちろんのこと
 恥ずかしくて人前で出せなくなる」


あと2年続いたら・・・

 

 

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2022年2月27日 (日)

体が、成功はイヤだと言った

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体が、成功はイヤだと言った

- 「体にとっていいこと」があるはず -

 

2022年2月20日、
北京オリンピックが終わった。
3月4日からはパラリンピックが始まる。

アスリートたちの超絶としか
言いようのない技の数々は、
もうそれだけでほんとうに魅力的だ。

一方で、
オリンピックがかかえる様々な問題や疑惑、
マスコミの報道姿勢、
そこに群がる、経済的効果にしか
興味がない人たちの姿を見ていると
オリンピックという形そのものを
根本的に見直す時期に来ていることは
間違いない。

究極をめざす競技者の姿を
「アスリートファースト」の競技会で
見られることを待ち望んでいる。

さて、大きなスポーツの大会を目にすると
いつも思うことがあるので
今日はそのことを書きたいと思う。

 

スポーツに限らないが、
「練習のときはできていたのに、
 本番では失敗した」

という言葉をよく耳にする。

その理由については
「緊張してしまって・・・」
「あがってしまって・・・」
「オリピックの悪魔が・・・」
といったお決まりの言葉で
わかったように語られることが多い。

しかし、冷静に考えると

(a) 練習のときはできていた。
(b) 本番で成功すれば報酬も大きい。
 (この場合の報酬は、
  本人の達成感といった
  精神的な喜びはもちろん、
  関係世界における名誉や
  賞金等の金品など、
  かなり広い意味で使っている)
(c) 本人も関係者も本番での成功に向けて
  万全の体制を整えている。

の条件が揃っていながら
理由はともかく結果として
 「体が成功するように動かなかった」
ということが発生したことになる。

つまり、体以外は成功を目指しているのに
最終的に
 「体が、成功はイヤだと言った」
わけだ。

本人の強い強い意志や、
成功によって得られるであろう多くの報酬を
すべて捨ててでも、
「普段はできることを
 今はできないほうがいい」
と体が判断した
ということになる。

どうしてそんな判断をしたのか? 
ふつうに考えれば
「できないほうが、
 体にとっていいことがあるから」

と考えるのが一番自然だ。

成功だって、勝敗だって、
名誉だって、報酬だって、
すべて我々が作ってきた価値感にすぎない。

そこにおける不成功は
「失敗」とか「オリピックの悪魔が」
といった言葉とともに
「負けた」のひと言で簡単に
片付けられてしまうことが多いけれど、
実はその不成功の裏には
成功で得られる価値以上の
「体にとっていいこと」

あったのではないだろうか。

自分たちが勝手に作った「成功」という
価値観に囚われすぎて、
だれもそれを見ようとしていない。

なので未だにだれも
言葉で表現できていないけれど、
「不成功」によってもたらされる
「体にとっていいこと」の価値は
実はすごく大きいのではないか
と思っている。

生物として
「体が反応したこと・判断したこと」

頭で考えたりすることよりもずっとずっと
生きることの根幹に関わることが多いから。

 

 

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2021年3月21日 (日)

「言葉づかい」と「身体づかい」

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「言葉づかい」と「身体づかい」

- 美しい立ち居振る舞い -

 

前回、
最初にまず交換したかった
なるタイトルで、

三浦雅士 (著)
考える身体
NTT出版

(以下水色部、本からの引用)

の本の一節を紹介したが、
もう少し別な言葉も紹介したい。

三浦さんは、
「言葉づかい」の教育と同様に
「身体づかい」の教育が必要だ、
と言っている。

 

表現としての言葉と、
表現としての身体
は、
まさに表裏一体なのだ。

それは、
他人に自分を伝える手段として
表裏一体であるのみならず、
自分が自分自身であることを
知る手段としても
表裏一体なのである。

対自分と対他人、
表現と同時にそれを知るという点において
言葉だけでなく身体も重要なのは
まさにその通り。

詩とか日記とかを書き始める時期と、
やたらに髪をいじったり、
ひそかに化粧し始めたりする時期は、
一致している。

少女が化粧し始めるのは
他人に向かってだけではない。

自分に向かってでもあるのだ


同じことは、少女のみならず
少年にも当てはまる。
髪を染めたり、
ピアスをしたりするのは、
昔でいえば、
詩や日記を書き始めるのと
ほとんど同じことだ。

そんな時期の「身体づかい」の教育を
三浦さんは体育に期待しているようだが、
実際にはそれはなかなか難しいだろう。

だが、現実には、体育といえば、
 (中略)
陸上競技や球技、スポーツが
うまくなることだと考えられている。

その結果、
ひたすら図体だけが大きくなって、
その図体を
自分でももてあましている
ような
中学生や高校生が
巷に溢れるということに
なってしまったのである。

いずれによせ、家庭でも学校でも
美しい立ち居振る舞いへの教育が
近年おろそかになっているのは
間違いない。

言葉がひとつの体系であるように、
身体もまたひとつの体系である

この二つの体系が文化の基軸を
形成しているものなのだ。

美しい「言葉づかい」への敬意とあこがれ、
美しい「身体づかい」への敬意とあこがれ、
それを抱かせることは大人の責任でもある。

どちらも
「いいなぁ」「かっこいいなぁ」が
根底にないと、
ほんとうには身につかないものだから。

 

 

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