心と体

2023年11月26日 (日)

全体をぼんやりと見る

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全体をぼんやりと見る

- 集中すると体を痛める -

 

参加者が実際に体を動かしてみる講習会を
各地で数多く開催している
身体技法研究者の甲野陽紀さんが書いた

甲野 陽紀 (著)
身体は「わたし」を映す間鏡である
和器出版

(以下水色部、本からの引用)

は、
「言葉」と「体の動き」の関係について
いろいろ気づかせてくれる、
ちょっとユニークな視点の本だ。
陽紀(はるのり)さんのお父様は
古武術研究家として知られる
甲野善紀さん。
おふたりとも「体の動き」の
スペシャリストだ。


たとえば、
ここに立っていて下さい
と言われた場合と
ここにいて下さい
と言われた場合、
同じ「立」っていても
体の安定感はずいぶん違うらしい。

「いて下さい」のほうが
安定している。
そんなこと考えたこともなかった。

ある動作をめざして体を動かすとき
それは、運動でも、楽器の演奏でも
なんでも同じだが、
「ほんとうにうまく動けた時」の感覚を

うまく動けたときに限って、
"できた感じ" "やった感じ" が
しない

などと言われると、
自分の実体験に思い当たることもあり
「そうそう、どうして?」
と思わず先を読んでしまう。

そんな中、特に印象的だったのは
理容・美容師さんから聞いたという
次の話だ。

高い技術を持つ人でも
「目を使いすぎる」
やり方をしている方は首や肩、
腰などに負担をかけやすく、
身体を痛めているケースが多い

らしい。

たとえば、ハサミを使うとき、
髪を切っているハサミの動きを
追い続けるようなやり方をしていると、
身体が固まる感じが出てきます

これは
「目を使いすぎている」状態です。

「見る」がかえって体の動きを
固くしている。

では、どうすればいいのか?

話を聞くと、
逆に身体を壊さない人は
ハサミを使っている手元を見ない、
目をやったとしても
パッと見るぐらいで、
ヘアスタイルという全体に
「目線を向けている」

ということなどもわかり、
「目の使い方」について、
私も勉強になった経験でした。

「見る」ではなく、
「目線を向ける」にすると
体が安定して力が抜け
動きのパフォーマンスは
かえって上がる。

そう言えば、以前
舞台の役者さんからも
同じような話を聞いた記憶がある。

一点に集中するのではなく
「全体をぼんやりと見る」

柔軟に体を動かすためにも、
また、緊急時に素早く反応するためにも
そして、体に負担をかけないためにも
ほんとうに重要なキーワードなのだろう。

「いいパフォーマンスのために集中!」
は、疑ってもいいのかもしれない。

 

<おまけ>
本には講習会での体験メニューが
いくつか紹介されているが、
実際にやってみて
特に驚いたメニューがあるので
それだけ紹介したい。

<「ついていく」と「くっつく」>
Aさんは手のひらを上にして手を伸ばす。
Bさんは自分の手のひらを下にして
Aさんの手のひらに重ねる。

その後、Aさんは、
Bさんの手が重なった手のひらを
前後左右、かってに動かすのだが、

その時、Bさんに対して
(1)「Aさんの手についていって下さい」
というか
(2)「Aさんの手にくっついて下さい」
というかで、
Bさんの手の追随性が全く違ってくる。

「ついていく」では
追えずに手が離れるときも
しばしばあるのに、
「くっつく」では不思議なほど
くっついた状態を維持できる。

協力者の得られる方
ぜひお試しあれ。

 

 

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2023年9月17日 (日)

苦しめるのは自らを守ろうとするシステム

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苦しめるのは自らを守ろうとするシステム

- 傷つき得るがゆえに生きている -

 

2023年ももう9月の半ばなので、いまごろ、
昨年(2022年)読んだ本の私的ベスト1は、
なんて書くのはタイミング的には
ほんとうにヘンなのだが、
あえて書かせていただいくと
22年年末に上梓された

下西風澄 (著)
生成と消滅の精神史

終わらない心を生きる
文藝春秋

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

であった。

とにかくすばらしい本で、
すぐにでもこのブログで
紹介したいと思っていたのだが、
濃い内容のどこをどう書いたらいいのか
迷っているうちに、書き始められないまま
9月になってしまった。

「紹介したい本」のリストが
どんどん成長していて、(自分自身への
読書メモ・備忘録も兼ねている)
ブログのほうがまったく追いついていない。

 

というわけで(?)
上の本の話は後回しになってしまうが、
今日はその著者下西風澄さんが
雑誌「新潮」に寄せた文章について
紹介したい。

下西風澄
生まれ消える心
― 傷・データ・過去
雑誌新潮 2023年5月号

新潮社

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

2021年に亡くなった
フランスの哲学者
ジャン=リュック・ナンシー
のエピソードがたいへん興味深い。

ナンシーは50歳を過ぎて
心臓移植の手術を受けた。

彼は闘病しながら、
侵されていく自らの身体を通じて
生きることを書き綴った。

病床に横たわる身体は
たくさんの医療機器に繋がれ、
知らない機械たちが自らの命を
繋ぎとめている。

移植された見知らぬ人間の心臓を、
自らの免疫システムが攻撃し、
心身は不調をきたしている。

毎日服用する様々な薬剤は、
副作用でどんどん私を
滅ぼしていくように思える。

自分を助けてくれるのは、
自分の外部に存在していたはずの
機械や他者の臓器であり、
自らを苦しめるのは
自らを守ろうとするシステム
である
という矛盾に、
ナンシーは困惑していた。

他者が助けようとしてくれている一方、
本来は自分を守る機能が
逆に自分を苦しめている矛盾。

一個の私は、
侵入する無数の他者たちによって
生かされるとともに傷ついていく、
他者たちとの共生者なのだ。

下西さんはこう書いている。

もしかすると、
西洋の精神史が望んできた
「強い心」というのは、
私たちが若く健康で、そして
豊かな場所に生まれついた状況が
たまたま可能にしていた、
例外にすぎなかったものを、
理想的に理念化したもの
だった
のかもしれない。

西洋の精神史において、強い心は
他者から切り離された自律的なもの、
を前提に語られてきた。
でもそれが実現できる状況自体、
実は例外にすぎなかったのかもしれない。

ナンシーは

「われわれは、
 しだいに数が多くなる
 わたしの同類たちとともに、
 実際ある
 ひとつの変容の端緒なのだ」

と語ったという。

自己の同一性を
いかにして確立するか
という使命を担ってきた
西洋哲学において、

変容とは
同一性をかき乱すエラー
である。

しかし、
死の側で弱く傷つきながら
生き延びようとしたナンシーは、
私とはひとつの変容なのだ
と語った。

他者を切り離すのではなく、
他者との共生者として変容していく
不滅を実現するものは「強固」ではない。

私たちは、不滅であるがゆえに
生きているのではなく、
小さな生成と消滅を繰り返しながら
変容していくがゆえに生き延びている

私たちは無傷であるがゆえに
生きているのではなく、
傷つき得るがゆえに生きている

変容していくがゆえに生き延びている、
傷つき得るがゆえに生きている。

「傷」をキーワードに、
話は近年急成長している
AI(人工知能)との対比へと広がっていく。
次回に続けたい。

 

 

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2022年11月13日 (日)

舌はノドの奥にはえた腕!?

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舌はノドの奥にはえた腕!?

- 音色、音の色に違和感はなく -

 

実際の講演は
今から40年以上も前の話になるが、
解剖学者の三木成夫さんが、
保育園で講演した内容をまとめた

三木成夫 (著)
内臓とこころ

河出文庫

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

は、たいへんユニークな視点で語られた
「こころ」の本だ。

独特な口調で
幼児の発育過程を語りながら、
内臓とこころを結びつけ、
話は、宇宙のリズムや
4億年の進化の過程にまで
広がっていく。

一方で、

ただ、舌の筋肉だけは、
さすがに鰓(えら)の筋肉、
すなわち内臓系ではなくて、
体壁系の筋肉です。
(中略)

舌の筋肉だけは
手足と相同の筋肉
です。

われわれはよく
「ノドから手が出る」
というでしょう。

舌といえば、ノドの奥にはえた腕
だと思えばいい。

のような、
ユーモアあふれる大胆な表現もあって
あっと言う間に「三木ワールド」に
とりこまれてしまう。

舌はノドの奥にはえた腕!?
強烈すぎるフレーズだ。

講演を原稿化したものゆえ、
読みやすくはあるものの、
論理的には話が飛ぶ部分もあり、
「えっ?」と思うところもあるが、
それも含めてひとつの味だ。

簡単にはまとめられない、
三木さんの「こころ」論は本に譲るとして、
印象的なフレーズを2つ紹介したい。

(1) 原初の姿 (指差しこそ人類!)

ルートヴィヒ・クラーゲスという、
ドイツの哲学者は、
幼児が「アー」と声を出しながら、
遠くのものを指差す---この動作こそ
人間を動物から区別する、
最初の標識
だといっています。

どんなに馴れた猫でも、ソレそこだ!と
指差すのがわからない。
鼻づらをその指の先に持ってきて、
ペロペロなめる……

指差しが認識できず、
指先を舐める猫か、なるほど。

赤ちゃんも、
「なめ廻し」の時期を過ぎたころから
「指差し」を始めるようになる。

クラーゲスは、
この呼称音を伴う指差し動作のなかに、
じつは、原初の人類の”思考”の姿
あるのだといっています。
スゴい眼力ですね

この感じは、
しかし現代でも充分にわかります。

たとえば私たち、ビルの屋上から
真っ赤な夕焼け雲を見たりした時、
思わず「アー」と声を出しながら、
指差しの
少なくとも促迫は覚えるでしょう。

この瞬間、私たちはもう
好むと好まざるとにかかわらず、
原初の姿に立ち還っているのです。

圧倒的な大自然を前にした、
その時の思考状態ですね・・・。

頭の中はけっして空っぽではない

圧倒的な大自然を前にしたとき、
言葉にできない根源的な幸福感に
包まれることは確かにある。

あれは原始の姿に立ち還った
そのリラックス感から
来るものなのだろうか?

ミケランジェロ作の
システィーナ礼拝堂の天井画の
アダムの人差し指に対して

アダムの人差し指に
魂が注入される瞬間。
人類誕生の曙が
指差しの未然形として描かれている

こんな表現ができる人は
他にいないだろう。

私どもの”あたま”は
”こころ”で感じたものを、
いわば切り取って固定する

作用を持っている。

あの印象と把握の関係です。

そしてやがて、この切り取りと固定が、
あの一点の「照準」という
高度の機能に発展してゆくのですが、
「指差し」は、この照準の”ハシリ”
ということでしょう。

つまり、この段階で
もう”あたま”の働きの
微かな萌(きざ)しが
出ているのです。

 

(2) 「音色」(音の色?)

私たちの目で見るものも、
耳で聞くものも、
すべて大脳皮質の段階では
融通無礙に交流し合っております

フォルマリンで固定した人間の
大脳皮質下の「髄質」を見ますと、
ここでは、
ちょうどキノコの柄を割ぐ感じで、
無数の線維の集団を
割いでゆくことができる。

視覚領と聴覚領の間でも、
この両者の橋わたしは豊富です


連合線維と呼ばれる。

視覚と聴覚の交流?
以下の言葉の例で考えると
わかりやすい。

「香りを聞く」「味を見る」
「感触を味わう」
などなど、

皆さん、
あとでゆっくり数えてください。

どんな感覚も四通八達で、
たがいに自由自在に
結び付くことができる。

大脳皮質は
こうした連合線維の巨大な固まりです。

<中略>

私ども人間は、
こうした、感覚のいわば「互換」が、
とくに視覚と聴覚の間、
それも視覚から聴覚に向かって
発達しているのでしょう。

「音」は聴覚、「色」は視覚、
でも「音色」という言葉は
違和感なく溶け込んでいる。

解剖学の知識が全くない遠い昔から
私たちはその交流に
気づいていたに違いない。

 

 

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2022年9月25日 (日)

私のなかの何かが健康になった

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私のなかの何かが健康になった

- ミヒャエル・エンデの言葉 -

 

「モモ」「はてしない物語」
などの作品で知られる作家
ミヒャエル・エンデに
子安美知子・子安文の母娘が
インタビューをしている

子安 美知子 (著)
エンデと語る ― 作品・半生・世界観

朝日選書 朝日新聞出版

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

で、エンデはこんな話をしている。

私が音楽を聴いて、
理解すべきことがありますか?

(中略)

音楽に理解はいらない。
そこには体験しかない
私がコンサートに出かける、
そこですばらしい音楽を聴く。

帰り道、私は、
ああ今夜はある体験をした、という
思いにみたされている。

でも、私は、コンサートに行く前と
あととを比べて、
自分がいくらかりこうなった、
なんて思うことはありませんよ

そうでしょう?

りこうになったわけでもないのに
体験によって満たされるもの。

それはもちろん音楽に限らない。

シェークスピアの芝居
見にいったとする、そのときもです。

私はけっして、りこうになって
帰るわけではありません


なにごとかを体験したんです。

すべての芸術において言えることです

本物の芸術では、
人は教訓など受けないものです。

前よりりこうになったわけではない、
よりゆたかになったのです。

心がゆたかに - 
そう、もっといえば、
私のなかの何かが健康になったのだ、
秩序をもたらされたのだ。

およそ現代文学で
まったく見おとされてしまったのは、
芸術が何よりも治癒の課題を負っている
というこの点です。

前回書いた「芸術と医療は同じ?」
とまさに同じ視点だ。

「心が豊かになった」はよく使う表現だが
「何かが健康になった」
という表現はおもしろい。

でも、心満たされたとき
「元気になった」とはよく言う。
たしかに「健康」になっている。

薬でもないのに
免疫力を高め、元気にする。
芸術にはそういう力がある。

なのでエンデは、文学作品は、啓蒙や
何かを教えるために書くわけではない、と
はっきり言い切っている。

啓蒙ではなくて-啓蒙は、
最も非本質的な課題です。

啓蒙をねらうのだったら、
私はエッセイや、評論を書きます

あるいは
こうしたインタビューの形式とか。
人に何かを教える意図があったら、
小説や物語のオブラートに包んで
お渡しするより、
そのほうが適しています。

正しい知識を与えたいなら
エッセイや評論を書くよ、か。

一冊の本は、何かの思想の
お説教であってはならない、
と私はいいましたが、
それは著者がかかわった
思想の成果ではあるはずなのです。

一篇の詩は、知恵を
しのばせておく必要はないのですが、
知恵から生まれた
結果ではなければなりません。
が、
知恵そのもの、思想そのものが
顔出しするようであってはならない。

絵画でもおなじではありませんか。

あるいは音楽でも、彫刻でも-。

それらはすべて、
なにかの世界観に根ざした産物で
なければならない

作者の世界観が
文学や絵画や音楽や彫刻といった
形になり、そしてそれは
触れた人を広く「健康にする」作用がある。

芸術は、生物が本来持つべき「調和」を
取り戻すのに大きく貢献する
不思議な力を持っている。

 

 

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2022年9月18日 (日)

芸術と医療は同じ?

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芸術と医療は同じ?

- 体は戦場ではなく調和の場 -

 

現役のお医者さんとして活躍する
稲葉俊郎さんが書いた

稲葉俊郎 (著)
いのちを呼びさますもの

—ひとのこころとからだ—
アノニマ・スタジオ

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

から
「元気になったから病気が治る」
「生を養う」養生所
などについて紹介してきたが、
もう一節だけ書き残しておきたい。

 

「内と外で分断されていく」

現代は、外向きの社会的な自分と、
「いのち」を司る内なる自分とが
分断されようとしている時代だ。

多くの人は、外の世界に向けた自分を
コントロールすることに明け暮れている


テクノロジーが情報化社会をつくり、
そうした動きを後押しした。

社会の構造も、人間関係もそうだ。

外なる世界を強固につくり上げれば
つくり上げるほど、
自分というひとりの人格が
外と内とで分断されていく
という
矛盾をはらむ。

外と内とで分断とはどういうことだろう。

なぜなら、
外へ外へと視点が向きすぎると、
自分自身の内側と
どんどん離れていくことが多く、
自分自身との繋がりを失うと、
他者との繋がりは
空疎で実体のないものになる
からだ。

見るべき世界は外側だけではなく、
自分自身の内側にもある

自分自身は、外ではなく、
常に「ここ」にいるからだ。

社会人として、家族の一員として、
まさに外の世界に対して
自分を考えている時間は多い。

でも確かに
一見繋がっているように見えながらも
他者との繋がりに空疎感を感じる時とは、
まさに外側だけで繋がっている時だ。

そこに「自分の内側」があるときは、
そういう空疎感はない。


自分自身との繋がりを失うと、
自分自身の全体性を
取り戻すことはできない。

なぜなら、
自分の外と自分の内とを繋ぐ領域が、
「繋ぐ」場所ではなく
「分断」する場所
として働いてしまう
からだ。

外と内とを「分断」する場所ではなく
「繋ぐ」場所として機能させるために、
大きく役立っているものがある。

稲葉さんに指摘されるまで、
そういう視点で考えたことは
これまでほとんどなかったのだが。

そうした自分自身の
内と外とが重なり合う
自由な地を守ってきたのは、
まさに芸術の世界だ


外側に見せる社会的な自分と、
無限に広がる
内なる自分とを繋ぐ手段として。

そして、医療も本来的に
そうした役割があるのではないか
と、
臨床医として日々働いていて、
強く思う。

言われてみると、
芸術が、外と内とを「繋ぐ」ために
機能している面は確かにある。

さらに稲葉さんらしい視点は、
医療もそうだ、と
芸術と並べている点だ。

内側に広がる
自分自身と繋がることができたら、
自分以外の人々とも
しっかり繋がることができるだろう。

自分自身の内側とは、
まさに体の世界であり、心の世界だ。

医療の本質とは、体や心、
命や魂の本質に至ること


そうした原点に、
また舞い戻ってくる。

それは芸術や文化が求めて
積み上げてきた世界と
同じ
ではないだろうか。

自分はそうした思いを、
読み手の人と分かち合いたいと思う。
「分かる」ことと
「分かち合う」ことは、
同じことだと思うのだ。

「体」を
「病」との戦いの場としてみる
西洋医学の考え方からは
出てこないものの見方だ。

「体」や「心」を
戦場としてではなく、
「調和の場」として考える発想。

調和の場として
全体性を取り戻すために
大きく役立っている芸術、
本来、医療も同じような役目を
担っているのではないか。

その調和こそが健康であり、
生きるということなのだから。

「元気になったから病気が治る」という
最初の言葉が、
改めて大きな意味で響いてくる。

 

 

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2022年9月11日 (日)

「生を養う」養生所

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「生を養う」養生所

- 「病」と闘うだけでなく -

 

現役のお医者さんとして活躍する
稲葉俊郎さんが書いた

稲葉俊郎 (著)
いのちを呼びさますもの

—ひとのこころとからだ—
アノニマ・スタジオ

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

から 前回は
「元気になったから病気が治る」
という言葉を紹介したが、
もう少し本を読み進めてみたい。


英語で
「Health」(健康)という言葉があるが、
その語源は
古英語「Hal」から来ている。

「Hal」は「完全である」

という意味であり、そこから

「Holism」(全体性)や
「Holy」 (神聖な)や
「Heal」 (癒す)、
「Health」(健康)という言葉に

分化していった。

つまり、
「健康」 (Health)という言葉には、
そもそも
「完全」 (Hal)、
「全体性」(Holism)、
「神聖」 (Holy)
といった意味合いが
含まれているのだ。

稲葉さんは、
古代ギリシャ時代の劇場が残る
世界遺産「エピダウロスの考古遺跡」を
訪問した際、あることに気づく。

古代円形劇場という建築物が
おもに注目されている場所だが、
実際に足を運でわかったことは、
場全体が
総合的な医療施設であった

ということだ。

劇場を含む古代遺跡が
「医療施設」とはどういうことだろう。

エピダウロスの地には温泉があり、
演劇や音楽を観る劇場があり、
身体技能を競い合い
魅せ合う競技場があり、

さらに眠りによって
神託を受けるための神殿
(アスクレピオス神殿)もあった。

そこは人間が全体性を
回復する場所
であり、
ギリシャ神話の医療の神である
「アスクレピオス」信仰の
聖地でもあった。

温泉、演劇、音楽、競技場、神殿・・・。

この神殿には「眠りの場」があり、
訪れた人はそこで夢を見る。

夢にはアスクレピオスが出てきて、
夢を見ることで
自分自身の未知の深い場所との
イメージを介した交流が起きる。

聖なる場での
そうした夢の体験そのものが、
生きるための指針や
方向性を得るための
重要な儀式的行為でもあったのだ。

夢までをも対象としたその空間を
稲葉さんは、
芸術のための空間でありながら、
同時に医療のための空間でもあると
確信したようだ。

こういう空間、
全く同じではないものの
考えてみると日本にも古くからある

明治期にドイツから
日本にやって来た医師ベルツも、
日本では草津温泉などの湯治場が
体や心を癒すための医療の場として
機能している
ことを、驚きとともに
医学専門誌で発表している。

日本では多くの温泉が療養地として
自然なかたちで愛好されているため、
政府は温泉治療を
進めていくべきであると
力説している。

「温泉」という人々が集う場が
心の全体性を取り戻す場となり、
健康を目指す医療の場となる。

「病院」はあくまでも
「病」を扱う場所であるが、

江戸時代にあった「養生所」は
まさに「生を養う」ための
場所であった。

稲葉さんは、病院を補う場所として、
「健康」「生」を養う場所
必要だと感じている。

「養生」
改めて見直してみるといい言葉だ。

 

 

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2022年9月 4日 (日)

『いのちを呼びさますもの』

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『いのちを呼びさますもの』

- 「元気になったから病気が治る」 -

 

現役のお医者さんとして活躍する
稲葉俊郎さんが書いた
下記の本には、
まさに「いのちを呼びさます」
言葉や視点が溢れている。

稲葉俊郎 (著)
いのちを呼びさますもの

—ひとのこころとからだ—
アノニマ・スタジオ

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

印象的なキーワードを拾いながら
いのちや健康について考えてみたい。

「元気になったから病気が治る」

現代医学の
「病気が治るから元気になる」
という考え方と、
「元気になったから病気が治る」
という伝統医療のような考え方は、
それぞれ善悪や優劣ではなく、
アプローチの違いなのだ。

初めて目にすると、えっ!?と
惹きつけられるフレーズだ。


西洋医学において「病」とは、
人をおびやかす侵略者であり
悪の存在であると捉える。

そのため、
「病」を倒すことが至上命題となる。
「病」とは何かをまず定義し、
「闘病」という表現があるように、
病気と闘い続け、
勝利を収める必要があるのだ。

でも稲葉さんは医療現場を通じて、
こういうアプローチだけでは、
大きな限界があることを
日々感じていたという。

病に勝利し、表面上見えなくなっても
別な形で現れてくることを
何度も経験したからだ。

西洋医学では、
体を戦いの場として見る。

病は敵であり、頭の判断で
「敵を倒せ」という命令により
強制的に排除する対象である。

それはつまり、体や心という場を
戦場として捉えることでもある

体や心は戦場なのだろうか?

人間の体は、調和と不調和の間を
行ったり来たりしながら、
常に変化している。

「健康」とは、
「調和」と言い換えることも
できるだろう。

全体のバランスを取りながら、
その根底に働く「調和の力」を信じ、
体の中の未知なる深い泉から
「いのちの力」を引き出す必要がある、
そう考えるようになる稲葉さん。

体の調和を取り戻すプロセスこそ
「いのち」が生きている
プロセスそのものなのではないか、と。

西洋医学における専門化は、
どうしても部分へ部分へと
枝分かれしていく傾向
にあり、

人間まるごとの全体性を
扱おうとする医療の根本
から
離れていくように感じてしまう。

その違和感をこそ、
私は大切にしている。

その違和感に
稲葉さんはどう向き合っているのか、
西洋医学だけではカバーできない
「調和」を取り戻すために、
われわれはどんな工夫をしてきたのか。

「いのち」を冷静に見つめる視線は
「調和」をキーワードに
歴史や芸術や文化にまでおよび
話は静かに広がっていく。

 

 

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2022年3月 6日 (日)

恥ずかしいから隠すのか、隠すから恥ずかしくなるのか

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恥ずかしいから隠すのか、隠すから恥ずかしくなるのか

- マスク生活があと2年続いたら -

 

東京、神奈川、埼玉、千葉、
大阪、兵庫、福岡の7都府県に対して、
最初の「緊急事態宣言」が発出されたのが、
2020年4月7日。

不要不急、お前だったのか
という記事をアップしたのが、
2020年4月12日。

まもなく、
マスク生活も2年になろうとしている。

最初のころは
「あっ、マスク」
と忘れて出かけそうになることも多かったが、
いまや
「外出時はマスクをして」が
すっかり習慣となっている。

私自身は、「在宅勤務」が多くなったため、
出社日数も大幅に少なくなっているのだが、
先日出社した際、小さな発見があった。
きょうはそのことを書いてみたい。

 

昼休み、久しぶりに同僚と2人で
会社近くのレストランに昼食に出かけた。

外食はほんとうに久しぶりだ。
お昼休みの時間帯、
ビジネス街のレストランの賑わいも
一時期に比べてずいぶん戻ってきており、
そのときも昼食の会社員で溢れていた。

当然のことながら、
食事中は男女を問わずマスクを外している。

「マスクをしていない人を
 こんなに大勢見るのは
 なんて久しぶりだろう」
そんなことを考えながら
ぼんやり店内を眺めていたら、急に、
普段マスクに隠されている
鼻と口って、なんてエロいのだろう、と
見てはいけないものを
見てしまったような、
不思議な気分に襲われた。

若い女性の口元だけではない。
女性も男性も、
会話をしたり、食べたりしているときの
裸の鼻と口ってなんてエロいのだろう

考えてみると
「恥部だから隠すのか、
 隠すから恥部になるのか」

ほんとうはどちらなのだろう?

「恥部だから隠す」に決まっている、と
漠然と思い込んでいたが
その確信が明らかに揺らいでいた。

よし、大胆にも
ここに自信をもって予測してしまおう。

「マスク生活があと2年続いたら、
 鼻と口は恥部となり、
 正視できないのはもちろんのこと
 恥ずかしくて人前で出せなくなる」


あと2年続いたら・・・

 

 

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2022年2月27日 (日)

体が、成功はイヤだと言った

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体が、成功はイヤだと言った

- 「体にとっていいこと」があるはず -

 

2022年2月20日、
北京オリンピックが終わった。
3月4日からはパラリンピックが始まる。

アスリートたちの超絶としか
言いようのない技の数々は、
もうそれだけでほんとうに魅力的だ。

一方で、
オリンピックがかかえる様々な問題や疑惑、
マスコミの報道姿勢、
そこに群がる、経済的効果にしか
興味がない人たちの姿を見ていると
オリンピックという形そのものを
根本的に見直す時期に来ていることは
間違いない。

究極をめざす競技者の姿を
「アスリートファースト」の競技会で
見られることを待ち望んでいる。

さて、大きなスポーツの大会を目にすると
いつも思うことがあるので
今日はそのことを書きたいと思う。

 

スポーツに限らないが、
「練習のときはできていたのに、
 本番では失敗した」

という言葉をよく耳にする。

その理由については
「緊張してしまって・・・」
「あがってしまって・・・」
「オリピックの悪魔が・・・」
といったお決まりの言葉で
わかったように語られることが多い。

しかし、冷静に考えると

(a) 練習のときはできていた。
(b) 本番で成功すれば報酬も大きい。
 (この場合の報酬は、
  本人の達成感といった
  精神的な喜びはもちろん、
  関係世界における名誉や
  賞金等の金品など、
  かなり広い意味で使っている)
(c) 本人も関係者も本番での成功に向けて
  万全の体制を整えている。

の条件が揃っていながら
理由はともかく結果として
 「体が成功するように動かなかった」
ということが発生したことになる。

つまり、体以外は成功を目指しているのに
最終的に
 「体が、成功はイヤだと言った」
わけだ。

本人の強い強い意志や、
成功によって得られるであろう多くの報酬を
すべて捨ててでも、
「普段はできることを
 今はできないほうがいい」
と体が判断した
ということになる。

どうしてそんな判断をしたのか? 
ふつうに考えれば
「できないほうが、
 体にとっていいことがあるから」

と考えるのが一番自然だ。

成功だって、勝敗だって、
名誉だって、報酬だって、
すべて我々が作ってきた価値感にすぎない。

そこにおける不成功は
「失敗」とか「オリピックの悪魔が」
といった言葉とともに
「負けた」のひと言で簡単に
片付けられてしまうことが多いけれど、
実はその不成功の裏には
成功で得られる価値以上の
「体にとっていいこと」

あったのではないだろうか。

自分たちが勝手に作った「成功」という
価値観に囚われすぎて、
だれもそれを見ようとしていない。

なので未だにだれも
言葉で表現できていないけれど、
「不成功」によってもたらされる
「体にとっていいこと」の価値は
実はすごく大きいのではないか
と思っている。

生物として
「体が反応したこと・判断したこと」

頭で考えたりすることよりもずっとずっと
生きることの根幹に関わることが多いから。

 

 

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2021年3月21日 (日)

「言葉づかい」と「身体づかい」

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「言葉づかい」と「身体づかい」

- 美しい立ち居振る舞い -

 

前回、
最初にまず交換したかった
なるタイトルで、

三浦雅士 (著)
考える身体

NTT出版

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

の本の一節を紹介したが、
もう少し別な言葉も紹介したい。

三浦さんは、
「言葉づかい」の教育と同様に
「身体づかい」の教育が必要だ、
と言っている。


表現としての言葉と、
表現としての身体
は、
まさに表裏一体なのだ。

それは、
他人に自分を伝える手段として
表裏一体であるのみならず、
自分が自分自身であることを
知る手段としても
表裏一体なのである。

対自分と対他人、
表現と同時にそれを知るという点において
言葉だけでなく身体も重要なのは
まさにその通り。

詩とか日記とかを書き始める時期と、
やたらに髪をいじったり、
ひそかに化粧し始めたりする時期は、
一致している。

少女が化粧し始めるのは
他人に向かってだけではない。

自分に向かってでもあるのだ


同じことは、少女のみならず
少年にも当てはまる。
髪を染めたり、
ピアスをしたりするのは、
昔でいえば、
詩や日記を書き始めるのと
ほとんど同じことだ。

そんな時期の「身体づかい」の教育を
三浦さんは体育に期待しているようだが、
実際にはそれはなかなか難しいだろう。

だが、現実には、体育といえば、
 (中略)
陸上競技や球技、スポーツが
うまくなることだと考えられている。

その結果、
ひたすら図体だけが大きくなって、
その図体を
自分でももてあましている
ような
中学生や高校生が
巷に溢れるということに
なってしまったのである。

いずれによせ、家庭でも学校でも
美しい立ち居振る舞いへの教育が
近年おろそかになっているのは
間違いない。

言葉がひとつの体系であるように、
身体もまたひとつの体系である

この二つの体系が文化の基軸を
形成しているものなのだ。

美しい「言葉づかい」への敬意とあこがれ、
美しい「身体づかい」への敬意とあこがれ、
それを抱かせることは大人の責任でもある。

どちらも
「いいなぁ」「かっこいいなぁ」が
根底にないと、
ほんとうには身につかないものだから。

 

 

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