大学が学生に与えるべきもの
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大学が学生に与えるべきもの
- 知的興奮とは体験だ -
57万人が受験するという
大学入試センター試験が、
昨日(2019年1月19日)から始まった。
蓄えた力が十分発揮できるよう
受験生の健闘を祈るばかりだ。
というわけで、その週末には
「大学入試センター試験」の文字が
一面に載ることは確実だった
2019年1月16日水曜日
朝日新聞はなぜかこんな特集記事を
掲載していた。
もうバカバカしくて
本文を読む気にすらならないが、
見出しを見て、
人文学を大学から追放しようという
一部の動きに対する強い反論を、
田中克彦 (著)
ことばと国家
岩波新書
(書名または表紙画像をクリックすると
別タブでAmazon該当ページに)。
を始め、言語に関する名著の多い
田中克彦さんが、
書評欄に寄せていたことを思い出した。
印象的ないい言葉が含まれていたので、
今日はそれを紹介したい。
田中克彦「大学と人文学の伝統」
朝日新聞書評欄(2015年5月5日)
(以下、水色部記事からの引用)
【鳥居龍蔵(とりいりゅうぞう)】
呼ばれていた頃の、黎明期日本の
近代学問の開拓者となった鳥居龍蔵は、
小学校に1年学んだだけで
退学させられた。
学校の授業が気に入らず
欠席がちになったからである。
しかし家では多方面にわたって
早熟な読書をし、英、独、仏など
外国語の学習にも励んだ。
やがて地元徳島の
考古学的遺跡の調査を行い、
明治19年に
東京人類学会が創立されると、
ただちにその会員になった。
16歳のときである。
のちに人類学者、考古学者、民族学者、
民俗学者として活躍する
鳥居龍蔵(1870-1953)のことだ。
坪井正五郎教授の手引きで
東京帝国大学の研究室の
資料整理にかかわるようになり、
生涯にわたって、樺太、シベリア、
モンゴル、旧満洲など、
ひろく極東の調査を行った。
東京帝大助教授の職を得て
勤務しながらも、
意に沿わないことがあって辞職した。
このような生涯の足どりを記したのが
『ある老学徒の手記』である。
鳥居龍蔵 (著)
ある老学徒の手記
岩波文庫
「私は学問のために学問し、
生活のために学問せず」
「学校卒業証書や肩書で生活しない。
私は私自身を作り出したので、
私一個人は私のみである」と。
学問の自立への
このような強い信念が形成されたのは、
その素質を見込んで、
これを読んでみろと
次々に書物を提供する市井の人たちや、
徳島の自宅まで訪れて助言を与えた
坪井教授のような大学人が、
当時の日本にはいたからである。
続いて、鳥居とは対照的に、
生涯ほとんど学校から離れず、
独自にアラブ学の道を開いた
前場信次をあげている。
田中さんは、
自身が東京外国語大学の学生であった頃、
前場さんから直接
フランス語の手ほどきを受けたらしい。
シャトーブリアンの描く女たちを、
先生は飄々とした調子で
論じているうちに、いつの間にか
アラビアンナイトの女との比較に
話が流れていくという具合であった。
先生の本業が
アラブ学であると知ったのは、
ずっと後のことであった。
先生は東京外語で
フランス語を修めた後、
東京大学の東洋史に進まれ、
ヨーロッパと東洋を結ぷ研究に
沈潜された。
十字軍とレコンキスタを扱った
『イスラムとヨーロッパ』は、
いまのような時代になって
突然浮かび上がったかに見える問題には
深い背景があることを
思い知らせてくれる。
東西にわたる
深く広い学識にささえられた洞察は、
目前の実利に追われる
総ビジネス化大学からは
急速に失われつつある。
前嶋信次著作選
イスラムとヨーロッパ
平凡社 東洋文庫
勤め人養成の下請け機関になりさがり、
他方で研究をますます狭い
こまぎれの専門領域へと分断する結果、
技術はあるが、全体を見渡し
考えることを放棄した人間を
製造する場となる。
その危険を、もう150年も前に
警告しているのがJ・S・ミルの講演
『大学教育について』である。
J.S.ミル(著), 竹内一誠(翻訳)
大学教育について
岩波文庫
「自分自身と自分の家族が
裕福になること
あるいは出世すること」を
「人生最高の目的」とする人たちに
大学が占領されないよう、
絶えざる警戒が
必要であると訴えている。
田中さんは
鳥居龍蔵、前場信次、J.S.ミル、をあげ
現代の社会と大学から
急速に失われつつあるものを
痛烈に指摘している。
かつて大学生であったとしても、
大学が学生に与えるべき
最も大切な経験
-真実という鏡の前で
自らの精神のくもりに気づくという
知的・心的経験を
一度として味わわなかったのであろう。
だからこそ、もうからない人文学を
大学から追放しようという、
先人の築いた日本の伝統を
破壊へと導きかねない発想が
表れるのであろう。
「大学が学生に与えるべき
最も大切な経験」
私は、理工学部で電気工学を
専攻していた学生だったためか、
個人的な経験を振り返るとき
「真実という鏡の前で
自らの精神のくもりに気づく」
という言葉がピッタリと
当てはまるわけではないが、
少なくとも
高校までの「勉強」とは全く次元の違う
「学問」の大海原が見えてきたときの
知的興奮は忘れられない。
先人の驚くべき発想と努力によって
切り拓かれ、
大きく深く広がっていった学問の世界。
それは人間の精神世界の豊かさを
驚嘆と共に痛感させるものでもあったが、
一方で、その果てしもない大きな世界が、
自然を解明するという点では、
おそろしいほどにわずかな部分しか
カバーできていないという現実を
挑戦状のように
突きつけてくるものでもあった。
そういった興奮や世界観を
大学や大学で出会った仲間たちが
与えてくれたことには
いまでも感謝している。
それは
「知識を獲得する」といったものとは違う、
まさに自らの「体験」であった。
知的興奮に文系も理系もない。
あの「興奮」を、あの「快楽」を
若い人にはぜひ体験してもらいたい。
もちろんそれは
「大学で」に限ったことではないけれど、
少なくとも私が
初めてそれを「体験」できたのは
「大学で」であった。
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