スポーツ

2019年10月13日 (日)

ポケベルのサービス終了

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ポケベルのサービス終了

- 携帯電話の普及と比較して -

 

前回
1995年のラグビーワールドカップ
南アフリカ大会での
日本対ニュージーランドの試合について
古い新聞記事を参照したが、
その日の新聞を見てみると、
ポケットベル(ポケベル)の
大きな広告が目につく。

たとえば、NZ戦を報じた
1995年6月5日の朝日新聞にある広告。

A9506051s

 

ちょっと大きくしてみると
機能をかなり無理やり拡張して
差別化を図っていることがよくわかる。

A9506052s

数字だけではなく、文字だったり
イラストメッセージだったり、
カタカナ定型伝言分だったり、
バイオリズムが見られる、
なんていうのまである。

 

実は、この1995年
(正確には1995年度)は
ポケベルの契約件数が
ピークを迎えた年だった。
ちょっと確認してみよう。

無線呼出し(ポケットベル)の
 加入契約数の推移


のタイトルで、総務省のここから
データを簡単にダウンロードできる。

ただ数値だけではわかりにくいので
グラフにしてみた。
1995年度の棒には目印のため
黄色い線を入れている。

   ポケベルの加入契約数の推移

Pbell1

ご覧の通り統計値のある1988年から
グングン契約台数は伸びており、
1995年度末の契約台数1061万台で
ピークを迎えている。

興味深いのはそのあと。

急速に契約数は減っていき、
2006年度末には
なんと16万台にまで減ってしまう。
1995年度末のわずか1.5%、
たった11年で98.5%減ということになる。

理由はもちろん携帯電話の普及だろう。

同じ総務省のページ

携帯・PHSの加入契約数の推移

のデータも公開されている。

 

年度末 ポケベル 携帯・PHS
1994年 935万台 433万台
1995年  1,061万台  1,171万台
1996年 1,007万台 2,691万台

 

1995年は、ものすごい勢いで
「携帯・PHS」の契約台数が
「ポケベル」の契約台数を抜き去る
時期でもあったわけだ。

1988年から2000年までで
ポケベル=青、携帯・PHS=茶
両方の動きを
一枚のグラフにしてみよう。

   「ポケベル」と「携帯・PHS」の加入契約数の推移

Pbell2

 

携帯の契約数の伸びが
いかに早いかがよくわかる。

期間を2018年まで拡張するとこんな感じ。

「ポケベル」と「携帯・PHS」の加入契約数の推移 2018年度末まで

Pbell3

契約数が1億8千万台にまで伸びた
携帯と並べると、
最高でも1000万台程度のポケベルは、
グラフの左下に小さく、
の存在になってしまう。

それにしても、契約数が1億8千万台とは。
利用年齢層を考慮すると
ざっくり平均してすでにひとり2台!

実際には「1台しか持っていない」
という人がかなりいることを考えると、
(会社携帯等も含むとはいえ)
3台以上持っているひとも、
珍しくないということになる。

 

今回、ポケベルの広告に目がいったのは、
日本がアイルランドに勝った翌々日
2019年9月30日、
「ポケベルのサービス停止」のニュースが
流れたからだ。

「ポケットベル」の愛称で親しまれ、
1990年代にブームとなった
無線呼び出しサービスを、
全国で唯一展開していた
東京テレメッセージ(東京)が
9月30日にサービスを終了する

半世紀にわたり続いたが、
携帯電話に取って代わられ、
通信手段としての役目を終えた

東京テレメッセージは
9月30日深夜から10月1日にかけて
ポケベル用の電波を順次止める。

 

折り返しのための電話番号を伝える
「数字表示エリア」を
無理やりとも言える語呂合わせや創意工夫で
「メッセージエリア」として使い、
コミュニケーションツールとして
ブームを作り出していたのは
主に当時の女子高生たちだった。

4649  よろしく
889  はやく
8181  バイバイ
3470  さよなら

くらいならなんとか意味が伝わりそうだが、

0906  おくれる
14106  あいしてる
5731  ごめんなさい
1871  会えない

にいたっては、おじさんはほぼギブアップ。
当時、無理やりの数字メッセージを
牽引していた女子高生の柔軟な発想には
感心するばかりだ。
でももう、それらも完全に役目を終えた。

 

1995年:
ポケベル全盛、1000万台超の契約。
NZに惨敗。

24年後、

2019年:
ポケベルのサービス終了。
強豪アイルランドに勝利。
台風19号による甚大な被害が
次々と明らかになっていく10月13日、
スコットランドにも勝って
ラグビーW杯で初のベスト8進出。

並べることにナンの意味もないけれど、
ごちゃごちゃとすべてを乗せて
時代は流れている。

 

 

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2019年10月 6日 (日)

145失点からの24年

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145失点からの24年

- 「奇跡は起きるから奇跡といいます」 -

 

開催中のラグビー
第9回ワールドカップ(W杯)日本大会、
日本は
昨日(2019年10月5日)のサモア戦にも勝ち、
1次リーグ3連勝となった。

初のベスト8へまさに大きく前進。

1次リーグ3戦の翌朝の朝日新聞の記事、
見出しだけでも並べてみたい。
どれも一面トップの扱い。
左から、
2019年9月21日、29日、10月6日。

A190921291006rwc3s

3戦を振り返った時、
優勝候補のアイルランドを破った
先週の勝利はその感激も特に大きかった。

南アフリカに勝った4年前といい、
世界で戦えるレベルになっていることに
うれしいと同時に改めて驚く。

下の記事を当時、リアルタイムで読んだ世代だからだ。

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1995年6月5日朝日新聞の記事。
第3回ワールドカップ(W杯)南アフリカ大会。

日本は、ニュージーランド(NZ)に
大会史上最多失点となる[17 - 145]
記録的大差で惨敗した。
与えたトライは実に21。

それまでのW杯での
最多失点は89点だったので
一挙に56点も残念な方向に
記録を伸ばしてしまったことになる。

1987年のテストマッチでも
NZ戦では[4 - 106]

それを上回る失点となってしまった。

記事にはこうある。

NZは前半開始直後に、
さっそく先制トライを奪うと、
その後も日本の防御を
軽々と突き破って
数分おきにトライを重ね、
カルハインが21本中はずしたのは
1本だけという完ぺきなゴールキック。

日本は後半、梶原が
2トライを奪うのがやっとだった。

 

前半35分、PGを狙ったことに関しても

すでに0-70。
勝負の行方にからむ
3点では決してない。

まるで「花園」で、
初出場の高校チームが
零点負けをまぬがれるために
狙うようなPGのようだった。

次がなく「青春の思い出」が
必要な高校生と違い、
日本代表には次のW杯という
大きな目標がある。

(中略)

ラグビー王国のプレーから、
「パワー、体格の違い」と
簡単に片づけられない違いを
学んでほしい。

この屈辱をいつかはらすためにも

 

あれから24年。
アイルランドに勝った翌日
2019年9月29日の記事では

南アフリカを破った4年前は
「奇跡」と言われた

「(今回は)地力の部分で勝った。
 サプライズじゃない
 なるべくしてなった」
と中村は成長を語る。

組織が結束すれば
強豪に勝てることを再び証明した。
緻密な準備を経て、
日本はまた一つ、世界の階段を上った。

と、中村亮土選手の言葉を紹介している。

南アフリカの時といい、
今回のアイルランドの時といい、
「奇跡」で思い出すのは、
遊川和彦さんのオリジナル脚本で
高視聴率をマークしたドラマ
「家政婦のミタ」のこの名セリフだ。

奇跡とは、
普通に考えれば絶対に起きない出来事が
そうなって欲しいと願う人間の
強い意志で起きる出来事です。

奇跡は起きるから奇跡といいます

自分には絶対無理だと
諦めている人には絶対に起きません。

まさに、そう。
起きるから「奇跡」なのだ。

 

早稲田大学ラグビー部監督として活躍した
大西鐵之祐さんが亡くなったのが
NZに惨敗した年、1995年の9月。

そして67年にもわたって
明治大学ラグビー部監督を務めた
北島忠治さんが亡くなったのが
翌1996年の5月。

今の日本代表の活躍を
おふたりは
どこからか眺めているであろうか?

この24年間の成長は、おふたりには
どんなふうに映っていることだろう。

 

 

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2016年11月 6日 (日)

打席のピッチャーへ

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打席のピッチャーへ

- 球種に込められたメッセージ -

 

今年2016年のプロ野球・日本シリーズは
日本ハムの10年ぶりの日本一で終わった。

翌日の新聞には
 「41歳黒田 8球のメッセージ」
なる見出しでこんな記事があった。

A161030kuroda

(以下水色部、
 朝日新聞2016年10月30日の記事からの引用)

  投手と打者の「二刀流」を極めようとする
日本ハムの大谷翔平選手と、
現役引退を表明して臨んだ広島・黒田博樹投手。

22歳と41歳には、
言葉を交わさない野球のプレーを通しての
会話
があった。

「プレーを通しての会話」
どんな会話があったのだろう。


直接対戦したのは札幌ドームでの第3戦。

黒田が先発、大谷が3番・指名打者だった。

 3打席、計8球。二塁打2本を放った大谷には
安打よりうれしかったことがある。

ほぼ全球種、打席で見られた。
 間合いだったり、ボールの軌道だったり

 勉強になりました」。

2人だけの空間で繰り広げられた駆け引きを、
すがすがしい表情で振り返った。

黒田投手は、大谷選手に、
ほぼ全部の球種を披露していたのだ。

大リーグを目標に据える大谷選手にとって、
ドジャース、ヤンキースで
5年連続2桁勝利を挙げた黒田投手の球を
打席から見られる貴重なチャンス。

二度とない機会への期待に、大先輩は応え、
後輩はそのメッセージを受け取った。

いい話だ。

真剣勝負の中、
ピッチャー同士だからこそ伝わるメッセージ。

 

2010年5月15日の交流戦、
広島-日本ハム(マツダ)。

広島は当時22歳の前田健太(現ドジャース)、
日本ハムは同じく
23歳のダルビッシュ有(現レンジヤーズ)が
先発した。

セ・リーグの本拠で指名打者制はなく、
お互いが打席に立った。

ダルビッシュは当時、
「(前田が)どんな球を投げるのか
 興味があった。
 相手も僕の球を楽しみにしていたと思うので、
 ほとんど全部の球種を投げた
」と明かしている。

この日のことは
 「ダルからマエケンへ『10球』メッセージ」
なる見出しで、
高山通史記者が記事を書いている。
(以下薄緑色部、日刊スポーツの記事からの引用)

ダルビッシュは3歳年下、
同じ両リーグを代表する本格派右腕へ
「10球」のメッセージを送っていた。

試合後に
向こうも興味あると思うので、
 いろいろな球を投げた
」と明かした。

その試合で、打者の前田健とは3打席対戦。
通常、
右打者を攻める球種をほとんど選択したという。

日本No.1右腕と呼ばれる自分の手の内を見せ、
今後の成長へつなげてほしい-。

先輩としての粋な思いが込められていた。

もちろん打席に立つ前田選手も

「いつもは打ってやろうと思って
 打席に入るんですけれど、
 どんなボールを投げるのか
 見てみたいと思っていた
」。

とダルビッシュ投手が想像していた通り。

 

 黒田が投げた球種には、
大谷が今、投げていないものがある。

大リーグで主流の、
打者の手元でわずかに変化するツーシームや
カットボールだ。

「いつか必要になったときに、
 参考にできる軌道があるのとないのとでは違う。
 今後に生きてくれば」と大谷。

残像を頼りに、黒田の後を追う

「2人だけの空間で繰り広げられた駆け引き」が
大谷選手に確かな「残像」を残したのなら、
それらが将来生きてきたとき、一番うれしいのは、
大谷選手自身ではなく黒田選手なのかもしれない。

 

 

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2014年10月25日 (土)

「点と線」が生んだ金メダル

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「点と線」が生んだ金メダル

- 一度ジャンプした人間は、 -

 

正確にその視点で追ったことはないので、
まさに感覚的な印象だが、

「さおだけ屋はなぜ潰れないのか」

という本を目にしたころから、
長い題名の本が新刊の平積みに目立ってきた。

「食い逃げされてもバイトは雇うな」

「ご飯を大盛りにするオバチャンの店は必ず繁盛する」

「学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて
 慶應大学に現役合格した話」

「無印良品の「あれ」は決して安くないのに
 なぜ飛ぶように売れるのか?」

「もし高校野球の女子マネージャーが
 ドラッカーの『マネジメント』を読んだら」

「スターバックスはなぜ値下げもテレビCMもしないのに
 強いブランドでいられるのか?」

 

とても書名とは思えない。
今は、こういう題名の本のほうが売れるのだろうか?

「逆に読む気がしなくなる」という私のようなオジさんは
他にもいると思うのだが、
「そういう人は最初から読者として想定していませんので」
ということなのだろう。

読む気もないのに、 「本の背はどうなっているんじゃ」と
背表紙の文字だけを確認するために手にとってしまう。

一度だけ「試しに読んでみよう」と上に挙げた本の中から
一冊だけ読んでみたのだが、
やはり期待通り(?)読者としては想定されていなかったようだ。

 

では逆に、題名のセンスという意味で、
「うまいなぁ」と感心したものにはどんなものがあっただろう?

もちろんいろいろあるが、最初に浮かぶのは
中学一年の時に読んだ、松本清張著「点と線」だ。
まだ、「情死」という言葉の意味さえ知らなかったころで、
読みながら辞書をひいたことをよく覚えている。

ところで、この「点と線」、
意外にも、スポーツにも大きな影響を与えている。
日本のオリンピック金メダルとも深い関係があるというのだ。

今日はその話を紹介したい。

ノンフィクション作家の長田渚左(おさだなぎさ)さんの、
「点と線」が生んだ金メダル

という文章。
以下水色部、「文藝春秋」2002年12月号からの抜粋。

「もし松本清張氏に『点と線』が生まれていなかったら、
 バレーボールにも時間差攻撃は無かったろう」


 バレーボール界の重鎮・松平康隆氏から、
そうきいたとき我が耳を疑った。

バレーと松本清張氏をつなぐ『点と線』とはいったい何なのか。

 

「点と線」では、有名な
「13番線から15番線の特急あさかぜが見通せるのは4分間だけ」の
エピソードが実に効果的に使われている。

『点と線』には、
二つの死体にまつわるトリックの切り札があった。
真冬の香椎海岸に上った男女の死体。
二人は一週間ほど前に、東京駅で目撃されていた。
慌ただしく列車や電車が絶えず行き交う東京駅13番線ホームから
15番線の《あさかぜ》が見通せる時間は、ほんのわずかだった。
その短い時間が、犯罪トリックのキーとなる。

 死体の男は、贈収賄事件の渦中にあった中央官庁の課長補佐、
女は割烹料亭の女中・お時だった。情死なのか!?

 点と線の盲点をみつけることで、
松平氏も《時間差攻撃》を生み出し、世界を制した。

 

「東洋の魔女」に代表される女子バレー全盛の頃、
なかなか勝利をあげられない
男子チームのコーチだった松平さんは考え続けていた。

一方の男子は絶望的に弱かったという。
欧州転戦で22戦全勝の女子に対し、
男子は22戦で、一つも勝てなかった。

 毎日毎日点をとられ、敗れ続けながら、
当時コーチだった松平氏は考え続けた。

 そして一つのことに気づいた。

 エンドラインの後方で、相手のコートをみつめていた。
水平なネットが目の前に広がっていたという。

「巨大で強固な一枚岩にまで思えていた敵のブロックが、
 消える瞬間を発見した
んです。
 つまりそのとき、
 ネット上に東京駅の13番ホームが浮かんだんです」

一度ジャンプした人間は、
空中に浮ぶと足の裏を地面に着けてからしか、
次の動作を行なうことは不可能だ。


「……だったら先に一度、敵をジャンプさせれば、
 ネット上には誰もいない空間と時間が作り出せる。
 そのすっからかんの間にボールを返せばいいと気づいたんです」

 このとき生まれた《時間差攻撃》が日本男子バレーを変貌させ、
東京五輪で銅、メキシコ五輪で銀、
そしてついにミュンヘンでは金メダルヘと導いたのである。

『点と線』の生んだ《時間差》は、その後、世界へ流布し、
他の競技にも絶大な影響を及ぼした。

「ブロックが消える瞬間」と「見通せる4分」が結びつくなんて。

まさに、「考え続けていた」人だけがたどり着ける
「東京駅の13番ホーム」。

それにしても、
一度ジャンプした人間は、
空中に浮ぶと着地してからでないと次の動作を行えない、
という「あたりまえ、でもどうにもならない物理的制約」の
表現がなんともいい。

 

そう言えば、オリンピック鉄棒 金メダリストの森末慎二さんは、
スポーツにおけるこの「どうにもならない物理的制約」を
こんな言葉で表現していた。
(NHKラジオ深夜便 2013年6月14日放送)
鉄棒の演技の最後の最後、金メダルのかかった着地について。

着地はわかんないよ、これ。
止まんないと「死刑」っと言われたって、
動く時は動くんだもん。

 

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