高橋是清の少年時代 (3)

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高橋是清の少年時代 (3)

- 詐欺被害から放蕩生活へ -

 

前回に引き続き
高橋是清の少年期を追ってみたい。

前回までの分を簡単に振り返ると、

 11歳のとき横浜で英語を学び、
 14歳で渡米。米国にて
 奴隷契約書にサインさせられるものの
 日本における
 江戸から明治への大転換を知り、
 帰国を決意。
 奴隷契約破棄をなんとか実現して
 帰国の途に。

 朝敵の汚名をきせられた
 仙台藩士だったゆえ
 外国人をよそおって日本に帰国。

 その後、森有礼らの助けをえて
 大学南校に入学するも
 英語が堪能だったためすぐに教官に。
 まだ16歳。

高橋少年はその後・・・


参考図書は、

大島清 (著)
高橋是清 - 財政家の数奇な生涯
中公新書

(以下水色部、本からの引用)


大学南校の教官になったものの、
これまで学校でちゃんとした教育を
受けた経験がない高橋は、
大学南校に教頭として招かれた
フルベッキ博士の役宅に同居しながら
歴史書を回読、
聖書の講義を聞き、
勉強に身を打ち込んだ。

ところが、ここにまた
とんでもないつまずきの原因が
あらわれた。

そして、彼は放蕩生活の
どん底へ転落していった

詳しくは本に譲るが、
大学南校の生徒のために、
250両を都合してほしい、
との依頼が高橋にくる。

もちろん本人にそんな金はないので
遠い親類の商人に頼み
なんとか都合してもらうのだが、
金を受け取った依頼人は、
「お礼の一席」を設けたいと
両国の立派な日本料理屋に
高橋を主賓として招待する。

普通なら、
ここで一ぱい食わされたと感づき、
金の回収をするところであろう。

・・(中略)・・

しかしこのばあい、
やはり数えで十六歳という
幼さを見るべきではなかろうか

金をだまし取った犯人たちが設けた
芸妓たちにちやほやされる
一席をきっかけに、
遊びをおぼえた高橋は
フルベッキ邸を出て、
放蕩生活にのめり込んでいく


あるとき芸妓をつれて
浅草の芝居をみにゆき、
芸妓の長襦袢を着て
さかんに痛飲しているところを、

大学教官に見られて辞表提出。

収入もなくなり、蓄えも使い果たし、
書物も衣類も一切売り払ってしまう。

高橋は、そのたびに
現在の自分を悔いるのだが、
溶けこんだ放蕩は
どうしても止められなかったようだ。

家主からも疎んじられるようになった高橋は
とうとう、馴染みの芸妓に
引き取ってもらうこととなる。

自分で自分に愛想がつきて

いたころ、ついにあの話がやってくる。

知り合いの世話で、
「唐津藩が英語学校をつくるので、
 その教師となって赴任する」
という話が舞い込んできたのだ。

高橋は、月給の前借りをして
*洋服を整え
*借財の始末をし
そして
*(借りた)250両の元利を
 月給から返していく証文を整えた。

かくて、
唐津藩の英学校耐恒寮の教師となって、
唐津へいったのは明治四年、
かれが十八歳ときであったから、
その意気あたるべからず、
英学を白眼視する保守派を向うにまわして、
大酒をあおりながらも、
寮の施設を
しだいにゆるぎないものにした。

駆け足ながらようやく耐恒寮赴任までを
書くことができた。

教師としての赴任とは言え、
それでもまだ18歳。

ここで、彼らに出会うことになる。

彼ら、の話は次回に。

 

 

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2022年6月26日 (日)

高橋是清の少年時代 (2)

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高橋是清の少年時代 (2)

- 奴隷契約にサインさせられ -

 

唐津観光でみかけた案内板から始まった
高橋是清と
辰野金吾、曽禰達蔵らへの興味。

前回に引き続き
高橋是清の少年期を追ってみたい。

参考図書は、

大島清 (著)
高橋是清 - 財政家の数奇な生涯
中公新書

(以下水色部、本からの引用)

11歳のとき横浜で英語を学び、
14歳で米国に送り出された高橋是清。

渡米した高橋は、
サンフランシスコの
ヴァンリード家に住み込むが、

学校へもやってくれないだけでなく、
料理番から部屋掃除、
使い走りまでやらされる。
お昼ごろになると、細君が
「パンにパターをつけ、
 それにプドーか何かを
 一房くらいくれて、
 それを部屋の外の
 飼犬が食っている場所で
 食べたがよいという」

その後、老ヴァンリードの紹介で
オークランドのブラウン家に
移ることになる。
その際、公証人役場で
内容の理解できない書類に
14歳の少年はサインさせられる


ブラウン家では、当初
元気に働きながら、
夫人から英習字を習ったり、
読本を教わったりしていたが、
途中で中国人のコックと衝突。
暇を申し出た高橋に主人は言った。

「お前は勝手に
 暇を取って帰るわけにはゆかぬ。
 お前の体は、三年間は
 金を出して買ってあるのだ

このとき初めて役場でサインした書類が、
身売りの契約書であったことを知る。

そのころ、日本では
孝明天皇が36歳で崩御、
明治天皇が即位、
そしてその年(1968年)の10月には
倒幕の密詔が薩長の二藩に下りと、
政治的な大転換が進んでいた。

友人の世話で
日本人の店を手伝っていた高橋は、
その店でそういった日本の情勢を
知ることになる。

そんな中
津、仙台、庄内などの諸藩が
 朝敵の汚名をきせられ・・・

の報が入ってくる。

幕府からもらった渡航免状には
「仙台藩の百姓」
となっていた高橋。
じっとしていられなくなる。

他の留学生とも相談。
4人の留学生が帰国する決心をする。

しかし高橋の場合、
先の奴隷契約書破棄が必要だ。
その難題も留学生の協力をえながら
領事らに働きかけてみごとに達成。

1968年、サンフランシスコから
横浜を目指して帰国の途につく。

とは言え、

朝敵の汚名をきた藩士であるから、
いきなり日本へ帰ることは、
どんなとがめをうけるか判らない。

安心して帰れる状況ではなかった。
横浜では

外国人をよそおって
英語をペラペラしゃべりながら、
運上所(税関)を突破

その後、森有礼の世話で
東京大学の源流となる大学南校に入学する。

もちろん生徒としての入学であったが、
英語ができることを理由に
わずか数ヶ月後には
「教官三等手伝い」を
命ぜられることとなる。

高橋はこうして数え年16歳で
大学南校の教官として
英語を教えることになった
が、
しかし過去においてかれは
正規に学校へ入ったこともなく、
精神生活においては、横浜で
ヘボン夫人から英語をならったとき、
少しばかりの宗教的な話を
きいただけであった。

ここまで来てもまだ16歳。

高橋少年の唐津赴任までの話。
次回も続けたい。

 

 

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2022年6月19日 (日)

高橋是清の少年時代 (1)

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高橋是清の少年時代 (1)

- 私生児から14歳で米国へ -

 

前回
旧大島邸の案内板にあった
この文言を紹介した。

唐津藩の英語学校、
耐恒寮(たいこうりょう)において、
東京駅を設計した
辰野金吾(たつのきんご)
同じく著名な建築家である
曽禰達蔵(そねたつぞう)らとともに、
後の蔵相、首相を務めた
高橋是清の薫陶を受け、
・・・・

この一文は、
私の唐津への関心を一気に高めてくれた。

唐津藩の藩校では、
高橋是清が教壇に立ち、
生徒には辰野金吾と曽禰達蔵がいた、
と言っているわけだ。

知らなかった歴史との出会いがあるから
旅は楽しい。

そもそも高橋是清についても
「二・二六事件で暗殺された元首相」
程度のことしか知らないレベルなので、
「藩校の先生」、しかも教え子には
のちに名建築を残す建築家の名が並んでいる、
というのがどうもイメージできない。

というわけで、まずは高橋是清から、と
下記の本を手にしたわけだが、
その一生はまさに数奇なものだった。

大島清 (著)
高橋是清 - 財政家の数奇な生涯
中公新書

(以下水色部、本からの引用)

唐津と繋がりができるまでの
エピソードだけでも少し紹介したい。

といっても、実は
高橋が唐津に先生として赴任したのは
わずか18歳のとき。

耐恒寮(たいこうりょう)で出会ったとき、
教師 高橋是清 18歳
生徒 辰野金吾 18歳
生徒 曽禰達蔵 19歳
この年令構成を見ただけでも
興味は深まるばかりだ。

 

高橋是清は安政元年(1854年)、
幕府の絵師川村庄右衛門の家に
奉公していた侍女
北原きん(このとき16歳)の
私生児として生まれた

このとき庄右衛門47歳。

庄右衛門は和喜次(わきじ)と名付け
自分の子としても認めたが、
家には6人の子があったため、
生後3,4日のうちに、
仙台藩の足軽
高橋覚治是忠(これただ)の家に
里子に出された

その後菓子屋への養子の話もあがるが、
是忠の養母喜代子が強く反対し、
実子是清として届け出る

ともかく、
高橋は私生児として生まれ、
里子に出され、
養子にやられるという、
こみいった事情に育ちながら、
私生児にありがちな劣等感や
性格の暗さなど全然ない。

逆にあけっぱなしで、思ったことは
歯に衣をきせることなくいい、
いつもにこにこしているので、
人に憎まれることのない
楽天家として一生をおわった


(中略)

このような性格は
もちろん天成のものと
いえるのであろうが、
しかし祖母喜代子の厳しいしつけと
暖かい思いやり
に負うところが
大きかったことは
見逃せないところである。

 

そのころ、
藩の江戸屋敷に
大童信大夫(だいどうしんだゆう)という
居留守役がいた。
大童は福沢諭吉とも親しかった男だが

これからの人間は外国の事情を
勉強しなければならない
という
考えをもっていて、
洋学の勉強をする若い武士などに
とくに目をかけた。

(中略)

足軽小者の子供のなかから、
英語の勉強に
まず横浜へ派遣することをかんがえ、
結局高橋と
鈴木六之助
(のち日本銀行出納局長鈴木和雄)
を選んだのである。

1864年、同年の二人は11歳で
横浜居留地のヘボン博士のもとへ
英語を習いに通うようになる。

このときも祖母喜代子は、藩に頼んで
横浜に急造の一戸を建ててもらい、
二人の炊事から身のまわりの
世話をやいたという。

そのころの社会情勢をちょっと見てみよう。

文久2年(1862年)
 1月 坂下門の変
 4月 伏見寺田屋事件
文久3年(1863年)
 5月 長州藩攘夷実行
 7月 薩英戦争
 8月 尊攘激派が京を追われる
元治元年(1864年)
 7月 蛤御門の変
 8月 四ヵ国連合艦隊の長州攻撃

このような社会体制の変革期に、
少年時代をすごしている高橋にとって、
積極的に
海外へ眼を向けさせてくれた人たち、
大童や祖母があったことは、
幸運というほかない。

高橋は、横浜で英語をみっちり学び
慶応3年(1967年)7月、
正式に藩からアメリカへ
派遣されることになった。
このときまだ14歳。

高橋は祖母の手製の洋服と
古道具屋で見つけた
婦人靴をはいて出かけた。

ところが渡米後、高橋には
「奴隷として売られてしまう」
という運命が待っていた。

長くなってきたので、
続きは次回にしたい。

 

 

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2022年6月12日 (日)

大島小太郎と竹内明太郎

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大島小太郎と竹内明太郎

- 唐津への関心を一気に高めた一文 -

 

佐賀県・唐津市観光。
旧高取邸に続いて立ち寄ったのが
大島小太郎の旧宅、旧大島邸

P5011770s

案内板に次のような説明がある。

大島小太郎の旧宅

大島小太郎は、
唐津藩士、大島興義(おきよし)の
長男として唐津城内に生まれました。

唐津藩の英語学校、
耐恒寮(たいこうりょう)において、
東京駅を設計した
辰野金吾(たつのきんご)
同じく著名な建築家である
曽禰達蔵(そねたつぞう)らとともに、
後の蔵相、首相を務めた
高橋是清の薫陶を受け、
明治18年(1885)には
佐賀銀行の前進となる
唐津銀行を創立しました。

この一文を読んでから
私の唐津への関心は一気に高まった。
まさに知らなかった歴史との出会い。
これは調べねば。整理せねば。
というわけで、本件については
のちほど改めて書きたいと思う。

まずは大島邸をゆっくり見て回ろう。
建物は純和風で、
畳と襖(ふすま)が美しい。

P5011775s


華美ではないが、
さすが実業家の邸宅。
廊下にはこんな説明が。
「床は一本松で出来ています」
一枚板の長さに驚く。

P5011774s

大島小太郎は、
* 唐津銀行を創立したが、
その後も、
* 鉄道(現在のJR筑肥線)の敷設
* 道路の敷設
* 市街地の電化
* 唐津湾の整備
など、唐津の近代化に大きく貢献した。

P5011778s

 

この邸宅、実は移築されたもので、
現在、旧大島邸の建っている場所には 
(1886年-1922年の36年間)竹内明太郎
住んでいた。
つまり現旧大島邸は、
竹内明太郎邸跡とも言える。

この竹内明太郎も多くの業績を残している。
明太郎の父 綱(つな)は、前回書いた
高取伊好(これよし)とも関係が深い。

1885年:明太郎の父 綱(つな)は
    高取伊好とともに
    芳ノ谷炭鉱の経営権を取得。

1886年:経営を任された明太郎が
    (土佐藩宿毛領から)唐津に赴任。
    最新鋭の鉱山建設に着手。

1909年:唐津市妙見に
    「芳ノ谷炭鉱唐津鉄工所
     (現唐津プレシジョン)」新設
    我が国を代表する
    精密機械工場のひとつに。

P5011779s

他にも
* 早稲田大学理工学部 設立
* 私立高知工業高校(現高知県立工業高校)
  設立

* 小松鉄工所(現小松製作所)設立

* 田健治郎(九州炭鉱汽船社長)
  青山禄郎とともに、
  国産第一号自動車DAT自動車を開発した
  快進社(のちのダットサン、
  日産自動車の前進のひとつ)を支援。
  ダットサンのDATは
  田(でん)、青山、竹内のイニシャルから。

などなど唐津に留まらない広い範囲で
大きな足跡を残している。

 

次回からは、最初の案内文にあった
高橋是清、辰野金吾、曽禰達蔵の
3人について書いていきたいと思う。

 

 

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2022年6月 5日 (日)

唐津城とまちに残る石垣

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唐津城とまちに残る石垣

- 歴史がそばにある -

 

初めて訪問する佐賀県唐津市。

まずは唐津城から。

P5011757s

唐津城は、
松浦川が唐津湾に注ぐ河口の左岸、
満島山に位置している。

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北面は唐津湾に面しており、
城の石垣が海にそびえる
城としては珍しい場所に位置している。
観光用案内板にもこんな城下町絵図が。

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本丸の外側、二の丸御殿跡は
今は早稲田佐賀中学校・高等学校に
なっているが、
石垣はそのまま使われているようだ。

P5011754s
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城の石垣(と思われるもの)は、
市街地化された場所でも
あちこちで目にする。

P5011747s
P5011749s

 

最初に立ち寄ったのは旧高取邸
炭鉱主として成功した
高取伊好(たかとりこれよし:1850-1927)の
旧宅

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建物の規模が最大になった
昭和初期の状態が復元されている。

P5011721s

和風を基調としながらも
居室棟に洋間があったり、
大広間棟には能舞台が設けられていたりと、
見どころは多いが、
残念ながら館内での写真撮影は
許可されていない。

P5011722s

居室棟の周りには
土蔵、食料庫、使用人湯殿、家族湯殿、
貯蔵庫(ワインセラー)などもある。

写真が許されていた庭からの一枚。

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高取邸の周りにも
石垣がそのまま残っている。

P5011743s

旧高取邸の近くには、
埋門(うずめもん)と呼ばれる
城から海岸に出るための出入り口門の
跡もある。
ここにも石垣が。

P5011717s

随所に残る石垣は、
本丸、旧高取邸、といった
いわゆる観光名所にいる時だけでなく、
なにげない散策の途中ででも
「歴史がそばにある」を感じさせてくれる。
歩いてこそ楽しめる雰囲気だ。

 

 

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2022年5月29日 (日)

九州・佐世保 一日観光

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九州・佐世保 一日観光

- もう少し近くに寄らせて -

 

新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の
広がりにより
旅行できない期間が長く続いていたが、
この5月、久しぶりに出かけられたので、
メモと写真を残しておきたい。

訪問先は、初訪問となる九州・佐世保と唐津。
唐津では知らなかった歴史との出会いがあり、
旅を機会にまた世界が広がったのだが、
まずは佐世保から書き始めたい。

(1) 九十九島

佐世保観光の目玉のひとつ、
九十九島はいろいろな場所から
楽しむことができる。
全景を、ということであれば
石岳展望台からの眺めは特にお薦めだ。

P4301661s

ハリウッド映画「ラスト・サムライ」の
ロケ地になった、という案内も出ているが、
島々の景色はほんとうに美しい。

P4301672s

遊覧船に乗って海から眺めるのもいい。

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200人も乗れる規模の遊覧船ながら、
かなり狭い島の間にグングン入っていく。

P4301624s

船上では
「九十九島と言いますが、
島の数は99ではなく、208もあるのです」
とのアナウンスが流れている。

海面を眺めていると
明らかに島と呼べるものもあるが、
海中の岩山のようなものもある。
はて?
何をもって「島」と呼べるのだろう?
そう思いながら船を降りると、
観光案内所には
ちゃんと「ここでの島の定義」が出ていた。

 1年中で一番潮位が高い時に
 水面から出ていて、
 陸生の植物が生えている陸地を
 「島」と定めて数えると、
 九十九島には208の島があります。


なるほど。
陸生の植物が生えていることが
条件のひとつなンだ。

 

(2) 旧佐世保海軍工廠 修理艦船繋留場
   (立神係船池)


弓張岳(ゆみはりだけ)展望台まで登ると
九十九島方面とともに
佐世保の街を一望できる。

P4301607s

その中でも特に印象的なのは
中央右に見えている
旧佐世保海軍工廠 修理艦船繋留場
(立神係船池)。

工廠は「こうしょう」と読む。
軍需工場のことで、
武器・弾薬をはじめとする軍需品を
開発・製造・修理・貯蔵・支給するための
施設。

P4301606s

「凹字状の構造物が工廠の中核施設だった
 修理艦船繋留場(立神係船池)」
との説明案内板が設置されているが、
ご覧の通り、まさに図面のままの形の施設を
眼下に望むことができる。

凹字状の岸壁は総延長1,699m。
常時海水に触れる面に
大規模にコンクリートが用いられた
初めての岸壁だ。

驚くのはその製造年。
明治39年(1906)からの11年

今から100年以上も前に、
耐海水コンクリート技術が
確立していたわけだ。

コンクリート構造物の本格的な海洋進出の
画期となった建造物ということになる。

 

(3) 佐世保重工業(株)佐世保造船所
   (旧佐世保海軍工廠) 施設群


思わず足が止まってしまう
第七船渠(現第四ドック)。

P4301643s

昭和15年(1940)に完成。
全長343.8m、全幅51.3m。
この写真でその大きさが伝わるだろうか。
写真中央の小さな白い点が一台の自動車。

昭和16年7月には
三菱長崎造船所で建造中だった
戦艦武蔵が入渠し、
スクリューや舵、水中聴音器など
艤装の一部を行っている。

クレーンを始め、
なにもかもが巨大で興奮してしまうが、
その圧倒的な迫力は
写真や言葉ではなかなか伝えられない。
全身で体感するしかない、感じ。

P4301660s

いずれにせよ、
これら佐世保重工業の巨大施設は
観光客向けには公開されておらず、
近くを走る道路の歩道から
柵ごしに眺めるしかない。
まさに覗き見だ。

 

(4) 佐世保バーガー

市内の
一直線の長~いアーケード商店街も
シャッター商店街にはなっておらず、
人通りも多く賑わっている。

P4301684s

お昼には、
「佐世保バーガー」を選んでみた。
1950年ごろに米軍関係者から持ち込まれた
ハンバーガーらしいが
特に変わった点があるわけではない。

作り置きしていないので、
待たされるものの、できたてを
美味しくいただくことができる。

店内には
「Where Are You From?
 Plz put the Pin」
(どこから来たの?ピンをさして)
のメッセージとともに
世界地図が貼ってあった。

P4301686s

ピンひとつひとつに
ここ佐世保のハンバーガー屋さんに
立ち寄ったことの物語があるかと思うと
打った人にいろいろ話を聞いてみたくなる。

 

一日観光を楽しんだ佐世保。
九十九島の自然はほんとうに美しかったが、
欲求不満なのは佐世保重工業の巨大施設。

観光客がもっとそばで見られるような
観光資源化はしてもらえないものだろうか?
工場としての実作業を邪魔することなく
だれもが見られるようにすることは
可能だと思うのだが。
もちろんガイド付きツアーでもいい。

柵の外からの覗き見しか手段がないなんて
あまりにももったいない。
その巨大さにも、歴史にも
ワクワクさせる要素があるので
多くの観光客を惹きつけることができると
思うのだが。

 

 

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2022年5月22日 (日)

あの世とこの世が近くなる

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あの世とこの世が近くなる

- 都会の生活には影がない -

 

法事で佐賀県のお寺に行ってきた。

本堂でお経を聞き、
住職さんとゆっくり話をし、
墓参りをしていたら
普段宗教のことなんて
ほとんど考えていないのに、
独特な世界観というか空気感に包まれて、
不思議な気分になった。

P4291517s

佐賀の静かな田舎の景色の中、という
お寺の立地条件も
大きかったかもしれない。

私自身は宗教に浅いので、
宗教的なものとはちょっと違うと思うが、
それでも
数珠を手に何度も合掌を繰り返していると
「死んだ人とともにある」
ということを
ごく自然に感じることができる。

子のいない人はいても
先祖のいない人はいない。
「死んだ人」と無関係に存在している人は
ひとりもいないのだ。

都会での生活は、
「死んだ人を切り離してしまっている」
というか、
「生きている人だけで
 回している気になっている」。

でも、それは、
ものすごく不完全で
不安定なことなのではないか、
そんなふうに思えてきた。

死んだ人は、
今生きている人の影みたいなもので、
常に一対となって存在している。
そのことが生きている人を
まさに立体的に
してくれているのではないだろうか。

都会の生活にはその影がない。
突然感じた不完全さとは、
そういう感覚に
起因しているのかもしれない。

 

佐賀で感じたそんな思いを友人に話したら、
おもしろいコメントを返してくれた。

「田舎に行くと
 あの世がこの世とずいぶん近い感じで、
 それはいいことだと思うんだけど、
 その田舎に行くのが遠すぎて・・・」

「田舎に行くとあの世とこの世が近くなる」
名言だ。
記録を兼ねてここに残しておきたい。

 

 

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2022年5月15日 (日)

『違和感ワンダーランド』の読後感

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『違和感ワンダーランド』の読後感

- 意外なところに歴史書が -

 

毎日新聞「日曜くらぶ」に連載されていた
松尾貴史さんのコラムは、
2020年7月19日から2021年11月7日までの
掲載分が纏められて

 松尾貴史 (著)
 違和感ワンダーランド
 毎日新聞出版
(以下水色部、本からの引用)

という一冊の本になっている。

この本、松尾さんが日々のニュースに触れて

「何かおかしい」と感じたことを、
表明したり、可視化したり

した本だが、
単なる疑問点やグチやツッコミを
並べただけの本ではない。

かと言って、
専門的な知識や特別なウラ情報が
公開されている、というわけでもない。

そんな本が独特な読後感を生み出している。
それはいったいどこから来るのだろう?

 

例として東京五輪開催の件を
扱った記事を見てみたい。

下記、箇条書き(*)の項目の選択は
私の編集だが、(*)に続く各一文は、
松尾さんのセンテンスのままなので
引用の水色を使って書くと、

*東京オリンピック・パラリンピックの
 開会式で楽曲を担当することに
 なっていたミュージシャンが、
 小学生から高校生にかけての時代に
 障害を持つ同級生たちを
 虐待していたことが
 広く大きな反発を呼ぶことになり、
 7月19日に辞任した。

*安倍晋三前首相による
 「アンダーコントロール」という
 虚偽の招致演説。

*「復興五輪」という
 虚飾によるミスリード。

*「世界一カネのかからない五輪」
 (当時の猪瀬直樹・東京都知事)と
 言いながら一時は3兆円の声も
 上がったインチキな予算。

*故ザハ・ハディド氏による
 新国立競技場の
 設計変更に至るもめ事。
 設計者の変更もさらに予算が
 かかる結果に。

*長時間労働による作業員の過労自殺。
 その方も含め五輪の建設現場で
 作業員が4人死亡。

*エンブレムのデザイン盗作疑惑問題。

*招致活動での買収疑惑と
 フランス当局からの事情聴取。

*不正はないと言いながらの
 日本オリンピック委員会(JOC)会長
 退任表明。

*マラソンなどのコース変更

*トライアスロン会場の水質汚染問題。

*開幕まで半年を切ったタイミングでの
 大会組織委員会の森喜朗会長の
 女性蔑視発言とそれによる辞任。

*その不透明な後継者選びでの
 川淵三郎氏の辞退。

*野村萬斎氏ら7人の
 開会式・閉会式の演出チーム解散。

*募集した大会ボランティアの
 待遇の劣悪さ。

*開閉会式の総合統括を務める
 クリエーティブディレクターの
 女性タレントの容姿を侮辱するような
 演出案問題。

*一般人と分けるはずの
 動線が交わっているなど、
 ずさんなバブル方式の数々の問題点。

*自殺とみられるJOC経理部長の
 電車事故死。

*新型コロナウイルス感染拡大で
 開催地東京での4回もの
 緊急事態宣言発出。

*行動制限されていたはずの
 ウガンダの選手の失踪事件。

*緊急事態言下での迎賓館を使っての
 国際オリンピック委員会(IOC)
 バッハ会長をもてなす
 非公開パーティーの開催。

*コロナ禍で交通量が減っていて、
 さらに無観客なのに
 首都高速道路が料金上乗せで
 一般道大渋滞。

*茨城県の子供たちを
 サッカースタジアムに動員して
 観戦させようとする
 意味不明な対応に、
 「持ち込む飲み物は
 スポンサー企業のものにせよ」と
 通知する忖度。

*で挙げたものだけでも20項目以上。
どれも記憶に新しい今(2022年5月)時点で
読めば
「そうそう、そんなことあったよね」
というよく知られた案件ばかりだ。

でも、もし、数年後、または数十年後、
「東京五輪開催にあたって
 どんな問題があったのか?」
を調べたようとしたとき、
これらの問題をこうした簡潔な羅列で
知る方法がなにかあるだろうか?


もちろん、数年分の新聞を読み返せば、
または検索をかければ、
各項目自体をピックアップすることは
可能だろう。
しかし
「東京五輪」や「オリンピック」といった
検索ワードで見つかる記事の数は
膨大なはずで、その整理と全体像の把握は
容易ではないはずだ。

松尾さんの記事は、
ニュースとしての事実部分と
「何かおかしい」と思う松尾さんの
感情部分とを
ちゃんと分けて記述している。

そして、事実部分については、
簡潔にかつ正確に記そうという
松尾さんの気遣いがよく伝わってくる。

上はオリンピックに関する部分だが
たとえば、政治家が口にした言葉なども
印象ではなく、実際の発言にもとづいて
正確に記述、引用している。

ちょっと大げさに言えばニュースに関しては
2020年7月から2021年11月までの
歴史書的要素があるのだ。

独特な読後感は
どうもこのあたりに起因する気がする。

期せずして現代史のテキストを
発見したような不思議な気分だ。

 

 

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2022年5月 8日 (日)

「私はきれいなゴミを作っている」

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「私はきれいなゴミを作っている」

- 生産者も消費者も双方が変わることで -

 

スクラップブックをめくっていたら

朝日新聞の2021年12月3日「ひと」欄
で紹介されていた
エチオピアで人と環境にやさしい
 バッグをつくる起業家
 鮫島弘子さん

の記事が目に留まった。
(以下水色部、記事からの引用)

鮫島さんは、
羊の革を使ったバッグブランド
「anduamet(アンドゥ・アメット)」
を設立し、
代表兼デザイナーとして
活躍しているという。

使うのは食肉の副産物で、
環境対策をした工場でなめされた皮だけ。

元ストリートチルドレンや
読み書きできない人を雇い、
忍耐強く20人の職人を育ててきた。

原点は、
デザイナーとして働いた
化粧品会社で感じた疑問だという。

美術専門学校を出たばかりで
仕事は面白かったが、
新製品を出すたびに
大量の商品が廃棄された。

私はきれいなゴミを作っている

そう思った鮫島さんは、
化粧品会社を3年で辞め、
青年海外協力隊に応募。
派遣先のエチオピアで羊革と
出会い、その後、エチオピアに渡って
起業することになったという。

「私はきれいなゴミを作っている」
なんとも悲しい、虚しい言葉ではないか。

化粧品に限らない。
衣料品も食料品も
大量廃棄の問題はほんとうによく耳にする。

もちろん、たとえば
新商品ブランドの確立と
拡販を目的にした旧商品の廃棄と
食料品の廃棄は
そもそもその理由が全く違うものだが
結果として
「きれいなゴミ」を
大量に発生させていることは同じだ。

どんな理由であれ
「私はきれいなゴミを作っている」では
働く側のモチベーションが
上がるはずはない。

以前「売り切れ」程度は我慢しようなる副題で
食料品廃棄の話を書いたが、
ゴミを出さないためには
生産者側もそして消費者側も
大きく意識を変えていく必要がある。

価値観の変換と同時に
双方ちょっとの「我慢」が
キーワードだろう。

誰だって、あるときは生産者であり、
またあるときは消費者なのだから。

作る人も使う人も
みんなが幸せになるブランド目指す。

ことは可能なはずだ。

 

 

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2022年5月 1日 (日)

SNSの写真が表現するもの

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SNSの写真が表現するもの

- 事実よりも情動を引き出すことを -

 

食べ物の色が
どのように作り出されてきたのかを、
*着色料や農産物の生産過程の調整など、
 実際の食べ物の色を作り出す
 技術や方法といった物理的な側面
と、
*料理本や宣伝広告の影響を受けながら、
 その色をどのようにして「当たり前」と
 思うようになったかという認識的側面
の、ふたつの面から探っている

 久野 愛 (著)
 視覚化する味覚-食を彩る資本主義
 岩波新書

(以下水色部、本からの引用)

だが、
最後の章では現代社会における
食べ物の色や見た目について
SNS上での写真を通して考えている。

他の本も参照しながらの
写真の考察がおもしろい。

写真を撮ったり
料理を作る主体のみならず、
写真撮影と鑑賞に関わる行為も
大きく変わった


大山顕が、
写真は「見る」ものから
「処理」するものになった
と述べているように、
写真は、
撮る・見るものであるだけでなく、
SNSの写真においては
「加工」「シェア(共有)」「いいね」
することが重要
となったのだ。

ここで参照されている
大山顕さんの本はこれ。

 大山顕 (著)
 新写真論 スマホと顔
 ゲンロン叢書

「シェア(共有)」や「いいね」はもちろん、
簡単な「加工」であれば、
ワンクリックまたは数秒で可能だ。
それでもかなり多彩な加工ができる。
確かに
「見る」だけでなくなっている。

 

SNSの写真には、
日常の記録や思い出の保存
というだけではなく、
むしろそれ以上に、
ユニークな見た目であること
求められる。

よって映える被写体というのは、
単に綺麗な色をしているとか、
撮影者が
おいしそうと思うものというよりは、
多くの人の目にとって
「面白い」ものということになる。

それはSNS写真独特の美学である。
佐藤卓己が論じるように、
こうした写真は、
見栄えを優先させる一方、
被写体・素材の事実性は
軽視されがち
である。

つまり、
「データ素材として
 どのような加工もできる
 デジタル写真は、
 記録のメディアというより
 表現のメディア

となったのである。

ここで参照されている
佐藤卓己さんの本はこれ。

 佐藤 卓己 (著)
 現代メディア史 新版
 岩波テキストブックス:岩波書店

「素材の事実性は軽視されがち」
「記録のメディアというより表現のメディア」
色も含めて、
事実を伝える、事実を記録する、
という写真の役目は今、
大きく変わってきている。

SNSに投稿される写真は、
見る者の情動を
引き出すため(affective)のもの

ではないだろうか。

大盛りの料理や
見た目が派手な食べ物などは、
いわゆる「映える」ための写真として、
色・見た目が作り出されている。

自作料理の写真はどちらかというと
「エモさ」を追求したものが
多いといえるかもしれない。

手作りのケーキや
食卓に並べられた数々の料理は、
派手さや斬新さというよりも、
「おいしそう」とか
「こんな料理を作れるなんてすごい」、
「自分も作ってみたい」といった、
賞賛や羨望・憧れ、共感といった感情を
見る者に与える


少なくとも、
そうした感情を与えることを
意図して投稿されることが多い。

つまり

情動を引き出すことが
主目的になったことで、
SNSでは写真に写った食べ物の色を
「自然な」色に寄せる必要がなくなった

本の主題であった
食べ物の「自然な」色、の話からは
ずいぶん離れてしまったが、
食の写真が溢れているSNSを考えるとき
「SNS上の写真」論は
人々の別な欲望も見えてきておもしろい。

 

 

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