抜き打ちテストのパラドックス

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抜き打ちテストのパラドックス

- どこが間違っているの? -

 

「抜き打ちテストのパラドックス」
とか
「死刑囚のパラドックス」
とか
「プレゼントの箱のパラドックス」
とか、問題文によって
その呼び名は異なるようだが、
内容的には全く同じ、
ある問題をご存知だろうか。

1940年代にはすでに知られていた
かなり古い歴史のあるものらしい。

初めて聞く、という方のために
代表選手として
「抜き打ちテストのパラドックス」
を紹介させていただきたい。

問題は実にシンプル。

教師が学生に言った。

1.来週の月曜日から金曜日のどこかで
 抜き打ちテストを実施する。
2.抜き打ちテストとは、実施日を
 前日に予測することができない
 テストのこと。


それを聞いた学生Aは
「先生の言う1と2を満たす形で
 抜き打ちテストを実施することは
 不可能である

と結論づけた。

という話だ。

どうしてそういう結論になるのか。
学生の推論のロジックはこうだ。

「金曜日にテストを
 実施することはできない。
 なぜなら、
 木曜日までに実施されなかった時点で、
 テストは金曜日ということが
 確定してしまい、2.を満たす
 抜き打ちテストにならないからだ。

 金曜日に実施できないのだから、
 同様の論理で
 木曜日にも実施できない。

 水曜日までに実施されなかった時点で、
 「金曜日はありえない、
  だったら木曜日」と予測できてしまい
 抜き打ちテストにならないからだ。

 同様に繰り返すと、
 水曜日も火曜日も月曜日も
 実施できないことになる」



「死刑囚のパラドックス」
では死刑執行日を、
「プレゼントの箱のパラドックス」
ではプレゼントの入っている箱の番号を、
抜き打ちテストの曜日の代わりに
使っているだけで、
どれも全く同じロジックで
「執行日に期限があるなら」
「期限までには執行できない」し、
「プレゼントの箱が有限個なら」
「どの箱にも入れられない」
という結論になる。


でも、最初の抜き打ちテストの例で
考えればすぐにわかる通り、
「来週中に、
 (前日に予測することができない)
 抜き打ちテストを実施すること」は、
実際には明らかに可能だ。

「実施できない」と
結論づけた学生のロジックは
いったいどこが間違っているのだろう?

シンプルなことなのに
いまだにうまく説明できない、
長く抱えたままになっている
宿題のひとつだ。

うまい説明をお持ちの方、
ぜひ教えて下さい。

 

 

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2022年1月 9日 (日)

新たな3つの音楽メディア

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新たな3つの音楽メディア

- 増えているのはネット配信だけではない -

 

前回

 烏賀陽弘道 (著)
 「Jポップ」は死んだ
 扶桑社新書

(以下水色部および表とグラフの
 元となる数値・用語は本からの引用)

から「著作権使用料徴収額」の総額を
1998年と2016年の比較で見てみた。

  <表A 著作権使用料徴収額>

Jpop2a
Jpop2ga

CDを中心とした
オーディオレコードの著作権使用料は
ほぼ1/3に減っているが
成長している分野もある。

表Aにおいて増えている
「通信カラオケ」と「ビデオグラム」
にはどんな背景があるのだろう?

 

そこに詳しく触れる前に、
著作権使用料を稼ぎ出している曲、
上位には具体的にどんな曲があるのか
見てみよう。

JASRACは毎年度、
著作権使用料の分配金額ベスト3
JASRAC賞の金・銀・銅賞として
発表・表彰している。

著作権使用料の多寡を元にした
「ヒットチャート」だともいえる。

そのランキングを見て
「ほんと!?」と目を疑ってしまった。
2015年-2017年の上位3曲は・・・

2015年
①「恋するフォーチュンクッキー」(AKB48)
②「進撃の巨人BGM」(アニメ映画の背景音楽)
③「ルパン三世のテーマ'78」(アニメのテーマ曲)

2016年
①「R.Y.U.S.E.I.」(三代目J Soul Brothers)
②「恋するフォーチュンクッキー」(AKB48)
③「糸」(中島みゆき)

2017年
①「糸」(中島みゆき)
②「名探偵コナンBGM」
③「ドラゴンクエスト序曲」

この記事を書くきっかけになった前回
大野雄二作曲「ルパン三世のテーマ」は
ここに登場している。

「ルパン三世のテーマ」は1977年、
「糸」は1992年に発表された曲。
どちらも名曲とはいえ、
38年前、24年前の曲が
ベスト3に入っているということは
いったいどういうことだろう?

 

まずは「ルパン三世のテーマ」。
これがまさに「ビデオグラム」の代表選手で、
「ビデオグラム」とは、
「大半がパチンコ・スロットマシン」

のことらしい。
アニメや歌手の動画や音楽を
再生する機能をもったパチンコ機
(スロット機を含む)を、パチンコ業界では
「版権もの」「タイアップもの」と呼ぶが、
これらが著作権使用料をもたらしている。

いまやパチンコ機は
「音楽再生機」
として、
日本人にとって重要なマスメディアに
なったということだ。

長引く不況に苦しんでいるとはいえ
パチンコ業界(貸玉料基準売上)
1995年 30.5兆円
2015年 23.2兆円

パチンコ産業はコンサート産業の
75倍という巨大な国民的娯楽
なのだ。

そして著作権使用料額でいえば、
パチンコは通信カラオケの約2倍の金額を
著作権者にもたらしている。

「なんだ、パチンコか」と
軽視してはならない。

「巨大な音楽マスメディア」。
それが現在のパチンコの姿である

 

「糸」のほうはどうだろう。

結婚式での音楽の使用から発生する
著作権使用料を専門に扱う
「ISUM」(アイサム)
という団体がある

ロシア人のアブラモフさんが
2013年に立ち上げた一般社団法人だ。

「新郎新婦が安心して人生の
 スタートの記録を残せるよう、
 権利処理の代行をする。
 それがISUMです」

結婚式で使われる音楽についても
記録として残されるビデオも含めて
著作権使用料が回収される仕組みが
今はしっかり機能している。

ちなみにどの程度の費用がかかるかと言うと

披露宴のBGMやプロフィールスライドに
5分未満の曲を使うと、
一曲あたり著作権料200円+
著作隣接権料(複製、演奏・歌唱など)2000円
=2200円である。
ISUMは手数料として
その10%=220円を取る。

最終的には一曲2420円を払う計算

 

もうひとつカラオケ関連で
見逃せないトピックスがある。

カラオケボックス等の施設は
2005年 22万施設
2015年 17万施設
と減っているが、

「老人ホーム」「高齢者住宅」
「デイケア施設」などの
「高齢者介護施設」は増えているのだ。

カラオケは、
誤嚥の改善にも効果があると
「娯楽産業」から「医療・福祉分野」に
進出しているとも言える。

 

上記見てきた通り

新たな音楽メディアとして
姿を現したのが
 「パチンコ」
 「結婚式」
 「高齢者用カラオケ」

だった

増えているのはネット配信だけではない。
著作権料から見ていくと
音楽メディアの変化が
意外な角度から見えてきて
新たな発見、驚きがある。

 

 

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2022年1月 2日 (日)

CD売上げ1/3でも著作権料総額は増加

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CD売上げ1/3でも著作権料総額は増加

- 音楽需要の変化はどこに -

 

明けましておめでとうございます。

備忘録を兼ねた
まさに気ままなブログではありますが、
今年もボチボチ続けていこうと
思っていますので
今後ともどうぞよろしくお願いします。

 

昨年末2021年12月18日の朝日新聞beに
「進化続けるルパンサウンド」
の見出しで、
アニメ「ルパン三世」の音楽を
作曲、編曲している大野雄二さんの
話が出ていた。

記事ではその件には触れられていないが
大野さんの名前を見て
あるトピックスを思い出したので
今年はその話から始めたい。

驚きのトピックスが載っていたのは

 烏賀陽弘道 (著)
 「Jポップ」は死んだ
 扶桑社新書

(以下水色部、本からの引用)

この本の中に、
日本音楽著作権協会(JASRAC)が
毎年度発表している
著作権使用料の分配金額ベスト3
の話が出てくる。

著作権使用料を稼ぎ出している曲
というわけだ。

実は大野さんが作曲した
「ルパン三世のテーマ'78」は
2015年のなんと3位に位置している

77年に作曲された曲が
38年後の2015年に
著作権使用料で第3位とは!

もちろん曲は
アニメを見ないような人でも知っている
よく知られた名曲だが、
それにしても数ある曲の中で第3位とは。
ちなみに2015年の第1位はAKB48の
「恋するフォーチュンクッキー」だ。

著作権使用料、
どうも単なるヒットチャートだけでは
説明できないようだ。

というわけで、
まずは、前提となる音楽市場の動向から
見ていきたい。

 

CDを中心としたディスク市場は
ここ20年で大きく変化した。

日本のオーディオレコード
(CDなど音楽を記録したディスク、
 テープなどの総称)市場の縮小は
深刻である。

過去最高を記録した
1998年には6075億円あった。

それがほほ毎年減り続け、
2016年には3分の1を切る1777億円である
(日本レコード協会)。

20年足らずで
市場の3分の2が消えてしまった

上記引用を含め、
本には数字がいくつも出てくるので、
本の数字を元に簡単な表とグラフを作成、
それらを挟みながら話を進めたい。
(元となる数字も用語も本からの引用)

  <表1 オーディオレコード市場>

Jpop1a

グラフにすると

Jpop1ga

1/3以下になってしまった
CD関連の減り具合はたしかに凄まじいが、
ネット配信等は増えているので
当然ながらこの数字の変化が、
直接音楽産業の衰退を
意味しているわけではない。

こういうとき、私が調べるのは
日本音楽著作権協会(JASRAC)の
統計
である。

同協会はテレビやCM、コンサート、
カラオケ、細かいところでは、
カフェや美容室のBGMで音楽を流せば、
その著作権使用料を徴収する。

そしてそのお金を著作権保持者
(作詞・作曲家だけではなく企業が
 著作権を持っていることもある)
に支払う。

そのための組織である。
その執行が厳格なことで知られる。

その「著作権使用料徴収額」の総額を
同じ1998年と2016年の比較で見てみよう。

  <表2 著作権使用料徴収額>

Jpop2a
Jpop2ga

グラフを見るとわかる通り
オーディオレコード市場に連動して
オーディオレコードの著作権使用料も
ほぼ1/3に減っている。

ところが、総額はむしろ増えているのだ。

何が増えているのだろう?

1998年当時はなかった
インタラクティブ配信、
つまりインターネット配信による
著作権使用料の約100億円は
もちろん今後も伸びるであろうが、
全体の伸びはこれだけでは説明できない。

JASRACの統計から、
1998年-2016年の期間に
2~3倍の伸びを示している項目を
書き出してみた。

テレビ、ラジオなど「放送等」やCATV、
「有線放送」あるいは「映画上映」などは
2.5~2.9倍の増加を示しているが、
これは需要が伸びたからというより
「料率を値上げしたから」というのが
同協会の説明である。

需要の伸び、で気になるのは
表2にある
「通信カラオケ」と「ビデオグラム」
である。

カラオケって増えているの?
ビデオグラムって何?

どちらについても
私の全く知らない事実が背景にあった。

到達できなかった大野さんの
「ルパン三世のテーマ'78」の話も含めて
次回、そのあたりについて紹介したい。

 

 

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2021年12月26日 (日)

生き物はすべて騒がしい海にいる

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生き物はすべて騒がしい海にいる

- 分身が誕生する場所 -

 

イタリアでの精神病院廃絶の物語から
精神医療だけでなく
 正常と病(やまい)、
 精神と身体、
 地域と社会、
 抑圧と自由
などについて深く考察している

松嶋 健 (著)
 プシコ ナウティカ
 ―イタリア精神医療の人類学
世界思想社

(以下水色部、本からの引用)

からキーワードをピックアップする6回目。
個人的に感銘を受けたため
6回も書いてしまったが、
今日で一区切りとしたい。

プシコ ナウティカ(魂の航海)
近づいてみれば誰一人まともな人はいない
治療ではなく「社会の保護」が第一目的
地域精神保健と「住まう家」
地域が壁のない精神病院にならないように

イタリアでもかつては、
「訓練」あるいは「作業療法」と称して
精神病院の入院患者に
単純作業をやらせることが
広く行なわれていたが、
それがいかに人間から希望を奪い、
非人開化するかが認識されてからは、
そのような「にせの労働」は禁止された。

生に向き合うとは、
「人間」に向き合うことだ。

自らの行動が物事に因果関係を
引き起こすことをはっきりと感じられ、
そのフィードバックを利用して
自らの行動を調整し制御していく。

そうしたフィードバックの環が
環境とのあいだにちゃんと
働いていることが<主体性>にとって
不可欠
なのである。

逆に言えば、そうした「効力感」を
得られるような活動や環境から
切り離されたときには、
人は<主体>であることも、
「人間」であることも難しくなる。

精神病院に隔離されるというのは、
まさにそうしたフィードバックの環を
切断されるという経験
である。

たとえ地域で暮らしていたとしても、
効力感を得られるような活動から
切り離されているなら同じことである。

そうした試行錯誤を経て、
精神病院の廃絶は、
「生きること」を支援する地域の活動に
つながっていった。

イタリアで、
精神医療から精神保健への
転回がなされたとき、
問題はもはや「心」や「精神」を
治療することではなく

「生きること」に定位し、
「生きること」をどう支援していくか
に変わった。

「精神」の健康は、
「生きること」のなかに、
人々のあいだで
生きていく過程において
得られるものだ
ということである。

そこで忘れてはならない言葉に
「集合性」がある。

集合性の次元とは、
見えない大気や風のようなものである。

潜在的な行為は、
集合性の次元があるおかげで
現働化することができる。

その海は、凪いだり、波打ったり、
渦を巻いたりしている。

人間を含んだ生きものは、
「すべて騒がしい海にいるのである」

騒がしい海こそ、生きるために必要なのだ。

重要なのは、
凧を揚げ、音楽を演奏するには、
大気がある
具体的な場所が必要であるように、
人が<主体性>を行使するためにも、
具体的で現実的な<集合性>の場所が
必要だということである。

<地域>とは、そうした
<集合的主体化>の現働化の場所
なのである。

医者と患者との
一対一のインタラクションではなく、
もっと色々な人やモノを巻き込んだ
集合的な作業、
音楽の合奏のような共同作業。
定型的なマニュアルはないけれど
地域の果たす役割は大きい。

他者は私のなかに棲み込み、
私も他者の中に生きる。
そのときそこに分身が誕生するのである。

 

精神病院の話だったことを
忘れてしまうような読後感に
しばし浸ることができる一冊だ。

 

気ままに続けているブログですが、
ことしも訪問いただき
ありがとうございました。

皆さま、どうぞよいお年をお迎え下さい。

 

 

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2021年12月19日 (日)

地域が壁のない精神病院にならないように

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地域が壁のない精神病院にならないように

- 受け入れる側も変わらなければ -

 

イタリアでの精神病院廃絶の物語から
精神医療だけでなく
 正常と病(やまい)、
 精神と身体、
 地域と社会、
 抑圧と自由
などについて深く考察している

松嶋 健 (著)
 プシコ ナウティカ
 ―イタリア精神医療の人類学
世界思想社

(以下水色部、本からの引用)

から

プシコ ナウティカ(魂の航海)
近づいてみれば誰一人まともな人はいない
治療ではなく「社会の保護」が第一目的
地域精神保健と「住まう家」

などについて見てきた。

精神病院廃絶に尽力した
ヴェネツィア生まれの精神科医
フランコ・バザーリア
(Franco Basaglia)の発想には
学ぶところが多いのだが、
私が特に感銘を受けたのは
病院の「内」と「外」の考え方に潜む
根本的な問題点を
なんとかしようとしていた点だ。

根本的な問題点とは・・・

バザーリアとレインの
施設をめぐるやりとりに
みられるように、バザーリアには
そのことがよくわかっていた。

施設になんか構わず、
施設から出て行けばいいと考える
レインに対して、
バザーリアは、そうした考え方には
落し穴があると言う。

出られたら迷惑だ、といった
単純な「落とし穴」ではない。

なぜなら、出て行くことのできる
「外」があるうちはいいが、
もはやそうした
「外」がなくなったとき、
すべてが施設化してしまう
という問題が手つかずのまま
残されてしまうから。

なんという指摘だろう。
「外」を変えることなく
そのまま「内」を開放してしまえば
いずれは、全部が「内」のように、
つまり、
社会全体が施設の「内」のように
なってしまう可能性があると
言っているのだ。

開放者を受け入れる「地域」、
そこも変わる、変える必要があるのだ。

<地域>精神保健とは、
単に病院の外で
精神保健サービスを提供することを
意味しているのではない。

<地域>とは
単に病院の外の空間を
指しているわけではない
のだ。

「内」だけではなく「外」も変わる。
それは、「受け入れる」といった
消極的なものではなく
<主体性>や<自由>を
双方が感じられるような
積極的なものだったのだ。
つまり

それは、
人々の生と関係性が縫い込まれ
耕されることで生み出される、
生態学的なテリトリーである。

そこはくつろぎがあり
遊びのある<agio>の場所であり、
利用者たちの生が
そこに編み込まれていくことで
<主体性>を具体的に
行使できるようになっていく
集合的な環境である。

だからこそ精神保健サービスの
オペラトーレたちは、
利用者と<地域>の両方に
関わりながら仕事をする。

重要なイタリア語<agio>については、
ここを参照いただければと思う。

そうした営みがないなら、
地域は単に壁のない精神病院
なってしまうだろう。

フランコ・バザーリアが
危惧していたように、
「古い状況が一見新しい状況に
 変容したように見える。
 だがそこには常に、
 福祉的な管理の形式を再び持ち出す
 危険性が伴っているのである」

地域を単に壁のない精神病院にしない。
今の我々が生きている
現代社会を見渡したとき、
ドキリと思い当たることはないだろうか。

 

精神医療の改革は
様々な国で起こったが、その批判を
精神病院の廃絶というかたちで
国の法律のレベルにまで
もたらしたのはイタリアだけである。

その差には様々な要因が絡んでいるが、
少なくとも<主体性>と<自由>を
実現するためには
集合的かつ制度的な次元でのデザインが
絶対に不可欠であるということが
イタリアでは深く認識されていた
のは
間違いない。

Aを変革をするときは、Aだけでなく、
Aの変革を受け入れるBの変革も
一緒に考えないと
Aの変革後、
Bも含めて全部がAのようになってしまう
危険性がある。

AとBの間の壁が、単にBの外側に移っただけ、
になってしまう危険性がある。

なんとも重い、示唆に富む指摘だ。

 

 

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2021年12月12日 (日)

地域精神保健と「住まう家」

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地域精神保健と「住まう家」

- 「くつろぎ」をどう取り戻すのか -

 

イタリアでの精神病院廃絶の物語から
精神医療だけでなく
 正常と病(やまい)、
 精神と身体、
 地域と社会、
 抑圧と自由
などについて深く考察している

松嶋 健 (著)
 プシコ ナウティカ
 ―イタリア精神医療の人類学
世界思想社

(以下水色部、本からの引用)

から

プシコ ナウティカ(魂の航海)
近づいてみれば誰一人まともな人はいない
治療ではなく「社会の保護」が第一目的

などについて見てきたが、
今日は、イタリア語の<agio>
という言葉をきっかけに
イタリアの精神保健の基盤を学んでみたい。

イタリア語の<agio>のニュアンスを
日本語にするのはなかなか難しいが、
「くつろぎ」であり「ゆとり」であり
「安心」であり、
機械やハンドルの「遊び」のような
意味でも用いられる。

(中略)

それゆえ、<agio>が欠けている
<disagio>の状態から
関わっていくことが
予防的な観点からしても重要になる。

イタリアの精神保健では、
社会的なレベルでの介入が必要な
「居心地の悪さ」や「生きづらさ」を
抱えた人に適切な対処がなされないと、
より医療的な介入を必要とする
「精神的な不調」へと移行すると
考えているようだ。

 

ちなみに
イタリア語の<agio>にあたる言葉を
英語で探すとすると、
それはおそらく<ease>が
最も近いと思われる。

<ease>もまさに、
「くつろぎ」や「ゆとり」「安心」や
「安楽」を意味する語であるが、
そうした<ease>が欠如した
状態としての<disease>は
普通「病気」を意味し、
特に医療人類学の文脈においては、
生物医学的に捉えられた変化としての
「疾患」を指すものとされてきた。

「くつろぎ」の欠如は疾患なのか?
「くつろげない」のは疾患だからなのか?
英語には<illness>という単語もあるが
言語による言葉の比較はおもしろい。

 

だが、イタリア語の<disagio>が
指し示している意味/方向性(senso)は、
ある意味で全く逆のものである


それは生物医学的に捉えられた
「疾患」ではなく、
ある人が生きていく上で
「くつろぎ」や
「ゆとり」が欠けることで、
居心地が悪かったり、
生きづらかったりするような
状態を指している

「くつろげる」環境の提供の意味は大きい。

このような理解に立てば、
精神保健の仕事は
より明快になるだろう。

それは、欠如している<agio>を
感じられるような環境を
いかにして作るか、
ということであり、
そうした環境こそが、
主体性を行使するための
ベースとしての居場所になるのである。

 

病院を前提に
考えなければならなかった人たちが
病院廃絶ののち
どこにどうやって住むのか。

イタリアの
地域精神保健の活動において、
最も重視されたことの一つが、
「住まう家」があることであった


家が必要なのは、
普通の正常な生活を送るため、
というよりも、
行為の可能性を広げていくための
物理的かつ情緒的な
ベースとなる居場所としてである。

もちろんそこには、場合によっては
精神保健的サポートが必要な場合もあるが
「住まう家」があり
そこで「くつろげる」ことの価値

大きく認識されていたことは、
地域の体制づくりにおける
重要な基盤のひとつだったと言えるだろう。

 

 

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2021年12月 5日 (日)

治療ではなく「社会の保護」が第一目的

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治療ではなく「社会の保護」が第一目的

- 攻撃性と暴力は病気由来ではない -

 

イタリアでの精神病院廃絶の物語から
精神医療だけでなく
 正常と病(やまい)、
 精神と身体、
 地域と社会、
 抑圧と自由
などについて深く考察している

松嶋 健 (著)
 プシコ ナウティカ
 ―イタリア精神医療の人類学
世界思想社

(以下水色部、本からの引用)

からキーワードをピックアップする3回目。

本全体の前提となる

プシコ ナウティカ(魂の航海)
近づいてみれば誰一人まともな人はいない

について簡単に紹介したが、
今日は、具体的に
精神病院まわりのことについて
学んでみたい。

まずは、
イタリアの精神病院の歴史を
簡単に見てみよう。

入院患者は、
治療らしい治療を受けることもなく、
裸のまま手足を鉄鎖でつながれ

というような、病院のひどい状況が
日刊紙で報じられたのは1902年。

その後、1904年
「精神病院および精神病者に関する規定。
 精神病者の保護と治療」
という通称「ジョリッティ法」が
公布される。

名称だけでは
その内容を想像することはできないが
そこには強制入院の規定だけがあった

強制入院の申し立ては、
親族と後見人のほか、
精神病者と社会についての
利害に関わる者であれば
誰でもが可能であった。

なぜなら強制入院の条件は、
本人にとっての
治療の必要性からではなく、
社会的な危険性と
公序良俗の紊乱(びんらん)
(パブリック・スキャンダル)に
あったからである。

つまり、名称に反して、
そもそもの目的が
患者の治療ではなかったわけだ。

つまり、
「精神病者」の保護と治療が
目的とされているにもかかわらず、
実際には、
社会的に危険な存在からの
「社会」の保護が第一の目的だった
ということである。

そして、精神病者の治療は
あくまでも
「社会」の保護という目的の下位に
位置づけられているのであり、
この二つの役割を
同時に遂行するための
特権的な場所として
精神病院は要請されている。

その結果、精神病者の
「モノ化」「施設化」が
進んでしまうことになる。

精神病院という施設が
他の諸々の施設と異なっているのは、
そこが「医学」の名のもとに
正当化された場所だという点である。

それゆえそこで
「治療」の名のもとに行なわれていた
様々を実践もまた、
人間をモノ化するための
技術の一つとして
据えられなければならない。

治療とは呼べないような施術の実態も
本には詳しい。

施設化とは、「もとの病気」の上に
さらに病気が重ね合わされ、
どこまでが本当の病気で
どこからが
施設にいることに由来する効果なのか

区別かつかなくなった
状態のことである。

そんな時代に、精神病院の院長となった
ヴェネツィア生まれの精神科医
フランコ・バザーリア
(Franco Basaglia)は、
拘束衣の使用の禁止や閉鎖病棟の開放等、
さまざまな改革を行っていく。

そして

入院者において
新たに出てきた攻撃性と暴力は、
病気に由来するものではなく、
施設化の暴力に対する
異議申し立ての表現である

というような実態に気づいていく。

その後、バザーリアは
精神病院廃絶に向けて尽力するようになるが
そこで彼が示したものの考え方には、
精神病院廃絶という分野に限らない
たいへん示唆に富む重要な視点が
含まれている。

次回は、その点に絞って話を進めたい。

 

 

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2021年11月28日 (日)

近づいてみれば誰一人まともな人はいない

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近づいてみれば誰一人まともな人はいない

- ひとりの「生」に耳を傾ける -

 

前回
その書名プシコ ナウティカ
(psico-nautica:魂の航海)
についてのみ紹介したが、

イタリアでの精神病院廃絶の物語から
精神医療だけでなく
 正常と病(やまい)、
 精神と身体、
 地域と社会、
 抑圧と自由
などについて深く考察している

松嶋 健 (著)
 プシコ ナウティカ
 ―イタリア精神医療の人類学
世界思想社

(以下水色部、本からの引用)

から、いくつかのキーワードを
ピックアップしながら
人間の「生」や「社会」について
改めて見つめ直してみたい。

 

最初に紹介したいのは、
本文に何回も出てくる
イタリア精神保健のモットーのひとつ。

「近づいてみれば
 誰一人まともな人はいない

 (Da vicino nessuno è normale)」

思わずクスッと笑ってしまいそうになるが
なんとも味のある言葉だ。

それはどんなに
「まとも/普通/正常(normale)」
に見える人でも、
近くからよく見てみると、
「正常さ」は雲散霧消し、
その人が人生のなかで身につけてきた
一連の特異性が
その人独特の「味」になっている
ということを示している。

まさに「個性」とは
そう捉えることもできる。
「近づいてみれば」という言葉に
ある種のやさしさがある。

こういった本質的な「個性」を
ユーモアを交えて語れる
言葉があるのはいい。

 

精神病院廃絶という大きな改革を
丁寧に追っている本書だが、
その中心にはバザーリアという
精神科医がいた。

改革の運動を牽引したのは、
いろいろな町の
多彩な人々だったのだが、
なかでも中心的かつ象徴的な
役割を担ったのが、
ヴェネツィア生まれの精神科医
フランコ・バザーリア
(Franco Basaglia)
である。

バザーリアは、広い視野で
精神病院廃絶に向けて
さまざまな取組みを展開、
大きな成果を上げることになるが、
それらをすべて把握したうえで、
著者の松嶋さんは彼が成したことの根幹を
次のひと言で言い切っている。

臨床家として
バザーリアが行なったことは、
結局のところ、
「狂人」たちの話に、
彼らが生きてきた生の物語に、
ちゃんと耳を傾けた、ということに
尽きるのではないかと思う。

精神病院廃絶は、単に病院を
開放すればいいわけではない。
法律、地域社会、サポート体制などなど
大きな課題は多い。
でも、そこでの肝心要の主役は、
精神病と診断されていた人たちである。
そういった人たちの「生」に
敬意をもって「近づいてみれば」の人が
いたからこそ、
制度の改革や整備が前進したのであろう。

「近づいてみれば
 誰一人まともな人はいない
 (Da vicino nessuno è normale)」
のだ。

次回に続く。

 

 

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2021年11月21日 (日)

『プシコ ナウティカ(魂の航海)』

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『プシコ ナウティカ(魂の航海)』

- イタリアでの精神病院廃絶の物語から -

 

寡聞にして全く知らなかったのだが、
イタリアでは、1999年に
イアリア全土の公立精神病院が
すべて閉鎖されたという。

1978年に成立した
180号という法律が契機となって
精神病院を廃絶。

その過程と背景を丁寧に追いながら
単なる制度の改革だけでなく、
 正常と病(やまい)、
 精神と身体、
 地域と社会、
 抑圧と自由
などについて深く考察している

松嶋 健 (著)
 プシコ ナウティカ
 ―イタリア精神医療の人類学
世界思想社

(以下水色部、本からの引用)

は、読み応えのある良書だった。

その中から、
印象的な言葉をいくつか紹介したい。

 

まず最初に書名。
「プシコ ナウティカ」って何?

書名に限らず、本書はその内容が
イタリアでの話ゆえ、当然ながら
すべてがイタリア語ベースになっている。

松嶋さんはその都度
丁寧に説明してくれているが
日本語、英語とは違った
言葉のグルーピングや
背景を感じることも多く、
それだけでも新しい発見がある。

もちろん医療そのものが言語、
つまりイタリア語に
依存しているわけではないが、
医療制度の整備もその変革も
イタリア語が持つ発想に支えられて
進められてきたわけで、
松嶋さんは
そういった言語が持つある種の価値観にも
細かく神経を配っている


で、最初の疑問に戻るが
プシコ ナウティカ(psico-nautica)は
イタリア語で「魂の航海」を意味する

らしい。

生きていくことそのものが、
目的地も知らないまま
人々のあいだで続いていく
航海である
といえるだろう。

そうした、
人間の「生」そのものとしての
航海のアンソロジーであり、
同時に航海術でもありうるような
ものとして本書は書かれている。

最終的に精神病院の全閉鎖に繋がる物語は、
「社会」中心から「人間」中心への
転換の物語として捉えることもできる。

「人々のあいだで続いていく」
という言葉が、全編を読み終わった後、
改めて深く響いてくる。

そう、生きていくって
目的地も知らない航海なのだ。

イタリアでの出来事を通じて、
航海とそこから見える景色に
新たな角度から光があたる驚きを、
発見を、新鮮さを、
しばし楽しんでみたい。

次回に続く。

 

 

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2021年11月14日 (日)

検索の落とし穴

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検索の落とし穴

- 言葉が変われば見えなくなる情報がある -

 

「検索すればなんでもすぐに見つかる時代」
そんな言葉を聞くようになって久しいが、
実際には「なんでも」と言うにはほど遠く、
広い視野から眺めれば
検索できるものはかなり限定されている。

もちろん
検索対象も広がってきてはいるが、
一方で
検索の行為自体に「落とし穴」も多い。

そんな「落とし穴」の中でも
特に気をつけないといけないのが
「言葉」だ。

本人は「正しく」検索したつもりでも
場合によっては、思ってもみない誤解に
結びついてしまう場合がある。

陥りやすい
典型的な事例が新聞にあったので
忘れないようメモっておきたい。

朝日新聞 2021年8月28日
「メディア空間考」
というコラムに
津田塾大学で非常勤講師もしている
原田朱美さんが書いていた記事。
(以下水色部、記事からの引用)


ある大学生のリポートを読んでいて、
手が止まった。
「2000年ごろ、LGBTのために
 動こうという動きは日本になかった
とあった。

原田さんは、大学で
情報リテラシーの授業を持っており、
さまざまなテーマで調べ物をするのを
課題としてだしているらしい。

人気ドラマで性同一性障害が
話題になったのが2001年だった、
ということを取り上げるまでもなく、
LGBTの支援・啓発活動は、
もちろんもっと前から日本にあった。

なのに、なぜ「なかった」という
結論になってしまったのか。

しばらく考えて合点がいった。
言葉だ。

文字通り「LGBT」で、
過去の記事をネット検索したのだ。

LGBTという言葉が
広く使われ始めたのは15年ごろのこと。
だから、それ以前については
過去記事がない=社会に動きがない
と誤解したようだ。

これは検索の落とし穴の
ほんとうにわかりやすい例だ。

LGBTが広く使われる前は
たとえば「性的マイノリティー」などの
言葉を使って活動は記事になっていた。

そういう関連付けや、
関連ワードに関する知識が
検索対象に対して絶対に必要なのだ。

でも、20歳前後の学生にとって
LGBT以前の呼び方はなじみがない。

時代が変われば言葉は変わる。
言葉が変われば、見えなくなる情報がある
両方の言葉を知り、検索しなければ、
その事実にも気づけない。

対象世界に関わる単語の
時代的な変遷と
それらがどうつながっているのかの
多層的な理解。

それらが検索する側に構築されていないと
ググっただけの結果を並べても
「へぇ」だけで、なにも見えてこない。

でも逆に、見えてきたとき、
それは多層的な理解を持ったものだけの
発見の大きな喜びになる。

 

 

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