AIには「後悔」がない

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AIには「後悔」がない

- 最適な予測はかつての模倣 -

 

雑誌「新潮」に寄せた文章において
下西風澄さんが、
 私たちは
 変容していくがゆえに生き延びている、
 傷つき得るがゆえに生きている。
と書いていたことを
前回紹介した。
その先を読んでみたい。

下西風澄
生まれ消える心
― 傷・データ・過去
雑誌新潮 2023年5月号

(以下水色部、本からの引用)

今日は、人間の心とAI(人工知能)との
違いについて語っている部分から。

将棋の棋士たちは、
AIが登場して人間の強さを
凌駕しはじめたとき
人間は指し手を(線)で考えるが、
 AIは(点)で考える
」ことに
衝撃を受けていた。

人間は線、AIは点とは
どういうことだろう。

人間は
「さっきこう指したのに、
 次にこう指すと、
 前の手が間違いで損だった
 ということになる」
という観点に縛られて、
指し手を限定してしまう。

しかし、
たしかに重要なことは
過去に何を指したかではなく、
現在の局面の評価値と未来の勝利
で、
AIはそれをフラットにして
その瞬間だけの優劣の判断ができる
というのである
AIには「後悔」がない)。

過去がどうであったかには触れず、
あくまでも現在を出発点に、
将来の最適解を目指す。

そこに「手の流れ」は存在しない。
確かにそこに後悔はないわけだ。

 

ChatGPTの登場により、
自然言語を習得したかに見える
コンピュータの出力に、
我々はほんとうに驚かされた。

でも、もっと驚いたのは

機械に言語を繰らせるという
壁を突破したのは、

言語の文法や構文への理解ではなく
大量の言葉のデータから
次の単語を予測するという
確率的なモデル
であったことだ。

言語を「理解」しているのではなく、
言葉の組み合わせの
統計的なデータを吐き出すことで
もっともらしい文章を作り上げている。

すなわち
この新たなる知性を携えた機械は、
なんらかの構文モデルなどによって
ゼロから自分で思考したり
話したりしているのではなく、

人間たちがかつて話した/書いた言葉を
模倣している
ということだ。

ChatGPTの話すそれらしさは、
人間の過去の言葉のそれらしさ
である。

 

そう言えば、
イーロン・マスクが率いるテスラの
完全自動運転向けソフトウェア
「FSD(Full Self Drive)」の
デモを見た
ソフトウェアエンジニアの
Satoshi Nakajima @NounsDAO さんは、
2023年8月26日にX(旧twitter)に
次のようにポストしていた。

アーキテクチャの解説が
とても勉強になる。

「赤信号では止まる」
「左に曲がるときは
 左のレーンに移動する」
「自転車は避ける」などの行動は、
一切人間が書いたプログラムでは
指定しておらず
、大量の映像を
教育データとして与えられた
ニューラルネットが
「学んで実行している」だけ。

ある意味、
「単に次に来るだろう言葉を
 予測するのが上手」なLLMと
似ている。

単に
「次にすべき
 ハンドル・アクセル操作を
 予想して実行」しているだけ。

LLMとは大規模言語モデル
(Large Language Models)、
ChatGPTなどがまさにその応用例だ。

「赤信号では止まる」が
明示的にプログラムされていないなんて。
それでも自動運転の車は走れる。

 

あくまでも現在を出発点に、
将来の最適解を目指し、
驚くような出力を出し始めたAI。

でもそれは、
膨大な過去のデータから導かれる
 目的達成のためには、
 * 次はこの言葉が来るだろう、
 * 次はアクセルを踏むだろう、
という最適な「予測」を
しているにすぎない。

次回も続きを読んでいきたい。

 

 

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2023年9月17日 (日)

苦しめるのは自らを守ろうとするシステム

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苦しめるのは自らを守ろうとするシステム

- 傷つき得るがゆえに生きている -

 

2023年ももう9月の半ばなので、いまごろ、
昨年(2022年)読んだ本の私的ベスト1は、
なんて書くのはタイミング的には
ほんとうにヘンなのだが、
あえて書かせていただいくと
22年年末に上梓された

下西 風澄(著)
生成と消滅の精神史
終わらない心を生きる
文藝春秋

であった。

とにかくすばらしい本で、
すぐにでもこのブログで
紹介したいと思っていたのだが、
濃い内容のどこをどう書いたらいいのか
迷っているうちに、書き始められないまま
9月になってしまった。

「紹介したい本」のリストが
どんどん成長していて、(自分自身への
読書メモ・備忘録も兼ねている)
ブログのほうがまったく追いついていない。

 

というわけで(?)
上の本の話は後回しになってしまうが、
今日はその著者下西風澄さんが
雑誌「新潮」に寄せた文章について
紹介したい。

下西風澄
生まれ消える心
― 傷・データ・過去
雑誌新潮 2023年5月号

(以下水色部、本からの引用)

2021年に亡くなった
フランスの哲学者
ジャン=リュック・ナンシー
のエピソードがたいへん興味深い。

ナンシーは50歳を過ぎて
心臓移植の手術を受けた。

彼は闘病しながら、
侵されていく自らの身体を通じて
生きることを書き綴った。

病床に横たわる身体は
たくさんの医療機器に繋がれ、
知らない機械たちが自らの命を
繋ぎとめている。

移植された見知らぬ人間の心臓を、
自らの免疫システムが攻撃し、
心身は不調をきたしている。

毎日服用する様々な薬剤は、
副作用でどんどん私を
滅ぼしていくように思える。

自分を助けてくれるのは、
自分の外部に存在していたはずの
機械や他者の臓器であり、
自らを苦しめるのは
自らを守ろうとするシステム
である
という矛盾に、
ナンシーは困惑していた。

他者が助けようとしてくれている一方、
本来は自分を守る機能が
逆に自分を苦しめている矛盾。

一個の私は、
侵入する無数の他者たちによって
生かされるとともに傷ついていく、
他者たちとの共生者なのだ。

下西さんはこう書いている。

もしかすると、
西洋の精神史が望んできた
「強い心」というのは、
私たちが若く健康で、そして
豊かな場所に生まれついた状況が
たまたま可能にしていた、
例外にすぎなかったものを、
理想的に理念化したもの
だった
のかもしれない。

西洋の精神史において、強い心は
他者から切り離された自律的なもの、
を前提に語られてきた。
でもそれが実現できる状況自体、
実は例外にすぎなかったのかもしれない。

ナンシーは

「われわれは、
 しだいに数が多くなる
 わたしの同類たちとともに、
 実際ある
 ひとつの変容の端緒なのだ」

と語ったという。

自己の同一性を
いかにして確立するか
という使命を担ってきた
西洋哲学において、

変容とは
同一性をかき乱すエラー
である。

しかし、
死の側で弱く傷つきながら
生き延びようとしたナンシーは、
私とはひとつの変容なのだ
と語った。

他者を切り離すのではなく、
他者との共生者として変容していく
不滅を実現するものは「強固」ではない。

私たちは、不滅であるがゆえに
生きているのではなく、
小さな生成と消滅を繰り返しながら
変容していくがゆえに生き延びている

私たちは無傷であるがゆえに
生きているのではなく、
傷つき得るがゆえに生きている

変容していくがゆえに生き延びている、
傷つき得るがゆえに生きている。

「傷」をキーワードに、
話は近年急成長している
AI(人工知能)との対比へと広がっていく。
次回に続けたい。

 

 

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2023年9月10日 (日)

対照的な2つの免疫作用

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対照的な2つの免疫作用

- いったいどうやって連携を? -

 

椛島(かばしま)健治さんが
皮膚について広く書いている

椛島 健治 (著)
人体最強の臓器
皮膚のふしぎ
最新科学でわかった万能性
講談社 ブルーバックス

(以下水色部、本からの引用)

の中から、
食物アレルギーの原因が
「食べること」ではなく
「皮膚から」だったという
興味深い話を
前回紹介した。

その最後に

 経皮と経口、皮膚と腸内、
 意外なものを並べて考えてみたくなる。

 体の外と内の話、
 と考えてしまいがちだが、
 よく考えてみると実はコレ・・・

と書いたので、
今日はそこから始めたい。

そう、トポロジー的に考えてみると
人間の体は「一本の管」とも言える。
口から肛門に穴が抜けているわけで、
 管の外側が皮膚、
 管の内側が腸管、
ということになる。
どちらも外界との境界を構成しており
一見内部に思える腸管も
実際には外部と接している、
体の表面、一番外側だ。

そう思うと、
「意外なものを比べている」
というわけではないことがよくわかる。

というわけで、
まずは皮膚から見てみよう。

皮膚免疫では
デフォルト(標準)の免疫反応は
「アレルギー反応」
です。

皮膚は、細菌やウイルス、寄生虫、
有害な化学物質やホコリなどに
常時さらされています。

そのため皮膚のバリア機能を突破され、
体内にこうした異物が侵入すると
ゆゆしき事態になるため、
これを直ちに除去する免疫反応が
発動されるように
プログラムされています。

一方、腸のほうはと言うと・・・

「腸管免疫」では「免疫寛容」が
デフォルト
になります。
(中略)
腸管で体外と体内を隔てているのが
腸粘膜です。

その点では、腸粘膜は
体外と体内を隔てる皮膚と
何ら変わりません。

皮膚と腸管の最大の違いは、
異物への許容度です。

腸管には、
経口摂取した飲食物が流れ込み、
小腸の徴絨毛(びじゅうもう)で
栄養分が取り込まれます。

皮膚のように異物だからといって
すべてを排除するような杓子定規な
アレルギー反応を起こしていたら、
必要な栄養分が摂取できずに
栄養失調になってしまいます。

異物であっても、
栄養分を含む食物については、
免疫応答を和らげて体内に
取り込まなければならないのです。

これを可能にするのが
「免疫寛容」です。

皮膚と腸管、
その働きを見る限りにおいては
同じ外界との境界ながら、
大きく違っている面があるわけだ。

皮膚免疫と腸内免疫の
基本的性格は対照的
です。

外部からの侵入を許さないように、
外来抗原の侵入を
極力排除する皮膚免疫に対して、

腸内免疫は、外来異物に対しては
比較的寛容です。

両者の性格は大きく異なり、
一見するとなんの接点もないように
見えます。

おもしろいのは、
この対照的で大きく違っているものが
なんらかの方法で連携することで
アレルギー反応が起こっている点。
ほんとうに不思議だ。

しかしアレルギー反応は、
皮膚の表面から侵入した異物で
感作が起きて、
それがきっかけで食物摂取を通じて、
食物アレルギーが起きます。

皮膚感作によって、
通常なら寛容だった腸内免疫が
外来抗原に
厳しく反応するようになったのが、
アレルギー反応の本質です。

両者の間には目に見えない
ミッシングリンクが存在するのです。

ミッシングリンクとは
連続性が欠けていることを指している。
鎖をつなぐ輪(リンク)は
見つかるのだろうか?

著者椛島さんは、
皮膚常在菌と腸内細菌との
相互関係を探る研究に期待している。

皮膚常在菌は、
1cm2あたり数十万〜数百万個棲息。

腸内細菌数は
体内におよそ40兆個もあり、
その重さは約1~1.5kgにもなるという。

つまり我々は数十兆個の
微生物と一緒に生きているわけだ。

皮膚感作がどのようにして、
腸内免疫に影響を与えているのかは、
まだまだ未解明な部分が多いようだが、
これらの菌が関係している可能性もある。

もしかすると、皮膚常在菌
あるいはその代謝産物が
腸内にデリバリーされて、
それが腸内細菌の活動に
影響を与えているのかもしれません。

皮膚常在菌の代謝産物といえば、
以前、
便は便りで、かつ・・・
という記事の中で、
 「しっとりつやつやの肌」は、
 皮膚上にある常在菌のおかげ。
 常在菌の「オシッコやウンチ」が
 さらに汗や皮脂と混ざって、
 皮膚はしっとりするのだ

なる、話を

青木 皐 (著)
人体常在菌のはなし
―美人は菌でつくられる
集英社新書

から紹介した。

「しっとり肌」をめざして
「きれいな」肌ケアをしている人は
読みたくない事実かもしれないが。

いずれにせよ。常在菌の働きからは
目が離せない。

 

本を読んでいると、
「全体のバランスを維持することが重要」
という表現が繰り返しでてくる。
 全体とは?
 バランスとは何と何の?
ここを固定観念に囚われずに
柔軟に考えていく視点が特に重要だし、
そこにこそ新しい大発見が
あるような気がする。

 

 

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2023年9月 3日 (日)

口からではなく皮膚からだった

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口からではなく皮膚からだった

- 免疫寛容は食べることで -

 

椛島(かばしま)健治さんが
皮膚について広く書いている

椛島 健治 (著)
人体最強の臓器
皮膚のふしぎ
最新科学でわかった万能性
講談社 ブルーバックス

(以下水色部、本からの引用)

の中から、アレルギー疾患について
ぜひメモっておきたいトピックスを
紹介したい。

まず、免疫関連の用語について、
簡単に復習しておこう。

抗原
体内で免疫反応を引き起こすもの。

アレルゲン(外来抗原)
アレルギーの原因となる物質。

抗体
特定の抗原に反応して
産生されるタンパク質。
抗体は、
異物(抗原)と結合することによって
抗原の毒性を減弱し生体の防御にあたる。

感作
アレルギー反応が起きるには、
特定の抗原を取り込んで、
その抗原に対し過敏に反応する
「感作」が起きる必要がある。

免疫寛容
抗原を投与しても
免疫反応が起こらないこと。

さて、今日
紹介したいのは次の一節。

すべてのアレルギー疾患の起点に、
皮膚経由で体内に異物が入ってくる
「経皮感作」
があるという
重大な事実です。

長らく、食物アレルギーは、
アレルゲンが含まれる食品を
食べること(経口感作)により
もっぱら生じる
と考えられてきましたが、
近年、むしろ経皮感作がきっかけで
起きることがわかってきました。

食物アレルギーのきっかけは、
口からではなく皮膚から
!?

きっかけは、2003年、
英国の小児科医ラックによる
ピーナッツアレルギーに関する発見。

ラックは二重抗原曝露仮説を
提唱します。

これは、外来抗原の曝露には、
「経皮」と「経口」の2種類があり、
食物アレルギー反応は
経皮感作を通じて発症する
もので、

むしろ経口摂取される抗原は
人体に有用な食品などには
過剰な免疫応答をしない
「免疫寛容」を促すものだと
主張したのです。

小児医学の世界では、
長らく経口摂取による食物が
アレルギーの発症原因と
信じられてきたので、
この仮説は大論争を引き起こしたらしい。

ところが、その後も、
二重抗原曝露仮説を裏付けるデータが
次々に報告される。

その中には、2011年に日本で起きた
「茶のしずく石鹸事件」も。

これまで小麦を食べても
大丈夫だった人でも、
小麦を含んだ食品をとると、
激しい下痢を起こしたり、
皮膚炎を発症したり、
呼吸困難が起きるようになりました。

被害が報告された当初は、
経皮感作の知見が十分でなく、
石鹸で顔を洗うだけで、
なぜ小麦アレルギー反応が起きるのか、
原因がよくわかりませんでした。

アレルギー疾患の起点に
「経皮感作」があることを
裏付ける報告が集積したことで、
論争にはほぼ決着がつき、
いまでは「二重抗原曝露仮説」は
科学的に正しいものと
考えられているらしい。

とは言え、ここ10年、20年での
新しい成果だ。

残念ながら、こうした考え方は
一般の方にはまだ広まっておらず

いまだにアレルゲンの摂取を控える
食事制限療法が盛んに行われています。

しかし、こうした食事制限療法は、
アレルギー疾患を防ぐ「免疫寛容」を
引き起こせなくなってしまうので、
症状がよけいに長く続いてしまう
可能性があります。

食物アレルギーの原因が
「食べること」ではなく
「皮膚から」だったなんて。

しかも、食べることは
逆に免疫寛容をもたらす
ことに
繋がるなんて。

経皮と経口、皮膚と腸内、
意外なものを並べて考えてみたくなる。

皮膚と腸内、と聞くと体の外と内の話、
と考えてしまいがちだが、
よく考えてみると実はコレ・・・
次回に続けたい。

 

 

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2023年8月27日 (日)

あそこに戻れば大丈夫

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あそこに戻れば大丈夫

- 財産とはまさにこういうもの -

 

二回続けて、2003年に放送された
テレビドラマ「すいか」について
書いてきたが、もう一回だけ書いて
一区切りとしたいと思う。

冒頭部、DVDと
書籍化された脚本の紹介部分は
前回と同じ。
繰り返しの掲載、ご容赦あれ。
(前記事との重複部分は読み飛ばしたい
 ということであれば
 ここをクリック下さい)

=+=+=+=+=+=+=+=+=

夏になると
木皿泉さんの脚本で放送された
テレビドラマ「すいか」を
見返したくなる。
主演は小林聡美さん。

放送は2003年の夏だったので
もう20年も前のドラマということになるが、
今でもブルーレイやDVD-BOXが
On Sale状態なのは、
ファンとして嬉しい限りだ。

三軒茶屋にある
賄いつきの下宿「ハピネス三茶」を舞台に
そこに住む四人の女性を中心に描かれる
小さな物語。

小林聡美さん、ともさかりえさん、
市川実日子さん、浅丘ルリ子さん
が四人をみごとに演じている。

当初シナリオブックも出たが、
たった3千部だったらしく、
手に入れるのが難しかった。
ところがその後、
河出書房新社からの文庫で再発売となり
今は入手可能。2巻構成。

木皿 泉 (著)
すいか
河出文庫

(以下水色部、本からの引用)

Kindleでは「合本版」もある。

=+=+=+=+=+=+=+=+=

今日は、上の脚本本「すいか2」にある
「文庫版あとがき」を紹介したい。

前回も書いた通り、
「木皿泉」というのは実際にはご夫婦で、
共同執筆。
「二人」「私たち」
という言葉を使っているのは、
そのせいだ。

執筆時をこんな風に振り返っている。

けっして若くなく、
書く仕事だけでは食べてゆけず、
魚を売ったり
コーヒー豆を売ったりする
パートに出ていた。

いつもお金はなく、
名前も知られず、野望もなく、
二人でしょーむない話をしては
ゲラゲラ笑い
お金にならない話を考えては
二人で褒めあい
本をよく読み、ビデオを観て、
食べたい時に食べたい物を食べ、
眠りたい時に眠っていた。

経済的にはともかく
精神的に豊かな時間を
過ごしていたことはよくわかる。
だからこそ
あんな脚本が書けたのであろう。


私たちは、とっくに、
こうあらねばならない、
というものを捨てていた


フツーでないことに、
少し焦りもしていた。
でも、自分たちが
おもしろいと思うものは、
けっして手ばなさなかった。

「すいか」を読み返すと、
その時の私たちの生活や
考えていたことが立ち上ってくる。

こんな台本、もう書けないと思う

いまだに人に会うごとに
「『すいか』観ましたよ」と
声をかけてもらえるらしいが、
そういったヒットは
これまでにない制約を
課してくる面もある。

ケンカっぱやくて、
書くのが遅いのは昔のままだが、
今は木皿泉という名前が少し売れて、
売れればその期待を背負わねばならず、
「すいか」を書いていた時のように
全てのものから
解放されることはもうないだろう

それでも木皿さんは、
次のような素敵な言葉で
この作品を位置づけている。

52歳と46歳の私たちに、
コワイものなど何ひとつなかった。
これは私たちの財産だ。
何があっても、あそこに戻れば
大丈夫と今も思っている。

そう、創作に限らず、
人生における財産とは
つまりはこういうものなのでは
ないだろうか。

「あそこに戻れば大丈夫」
と思えるものがあることの
なんと心強いことよ。

 

 

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2023年8月20日 (日)

食べるものを恵んでもらおう、という決め事

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食べるものを恵んでもらおう、という決め事

- 木皿泉さんの脚本裏話 -

 

今回も、2003年に放送された
テレビドラマ「すいか」について
書きたいと思う。

冒頭部、DVDと
書籍化された脚本の紹介部分は
前回と同じ。
繰り返しの掲載、ご容赦あれ。
(前記事との重複部分は読み飛ばしたい
 ということであれば
 ここをクリック下さい)

=+=+=+=+=+=+=+=+=

夏になると
木皿泉さんの脚本で放送された
テレビドラマ「すいか」を
見返したくなる。
主演は小林聡美さん。

放送は2003年の夏だったので
もう20年も前のドラマということになるが、
今でもブルーレイやDVD-BOXが
On Sale状態なのは、
ファンとして嬉しい限りだ。

三軒茶屋にある
賄いつきの下宿「ハピネス三茶」を舞台に
そこに住む四人の女性を中心に描かれる
小さな物語。

小林聡美さん、ともさかりえさん、
市川実日子さん、浅丘ルリ子さん
が四人をみごとに演じている。

当初シナリオブックも出たが、
たった3千部だったらしく、
手に入れるのが難しかった。
ところがその後、
河出書房新社からの文庫で再発売となり
今は入手可能。2巻構成。

木皿 泉 (著)
すいか
河出文庫

(以下水色部、本からの引用)

Kindleでは「合本版」もある。

=+=+=+=+=+=+=+=+=

今日は、上の脚本「すいか2」にある
「あとがき」を紹介したい。

ドラマのセリフにはなかった
脚本家「木皿泉」さんの声だ。

そうそう、「木皿泉」というのは
実際にはご夫婦で、共同執筆。
「私たち」という
一人称を使っているのは、そのせいだ。

「すいか」を書くにあたって、
私たちだけの密かな決め事があった。

それは、毎回、誰かに食べるものを
恵んでもらおう
という事である。

刺し身のトロに始まって、ケーキ、
豆腐、桃、メロン、米、松阪牛、
饅頭、松茸。

ハピネス三茶の住人は、
かくも様々な食べ物を
人様(ひとさま)から
分けていただいてきた。

 昔は、到来物があると、
近所に配ったり
配られたりしたものである。が、
いつの間にか、見ず知らずの人に
食べ物を分けてもらうのは、
どこか気の重い事に
なってしまったようだ。

なんておもしろい「決め事」だろう。
「食べ物を恵んでもらう」なんて。
改めて気をつけて見てみると
確かに、いろいろな食べ物が
うまく組み込まれている。

「すいか」は、ハピネス三茶という
下宿の中だけで繰り広げられる、
それこそ閉じられた世界のドラマだが、
だからこそ、
どこかで世間とつながっている事を
描いておきたかった。

ある時は、拾い物であったり、
おすそ分けであったり、
押しつけられたものであったり、
失敬してきたものであったり、と
様々な形ではあるが、
外から食べ物がやってきて、
それを住人たちは何のためらいもなく
口にする


そういうふうに、
世間とちゃんと
つながっている人たちを描こう。
これが二人で決めた約束事だった。

そもそも賄い付きの下宿を
舞台にしているため、ドラマでは
一緒に食べるシーンや料理、
大きなテーブルが
効果的に使われている。

それに加えて、到来物を
自己ルールとして設定していたなんて。

「もらう」、「皆で分ける」、
そこには金銭による交換や分配にはない
特別な人の繋がりがある。

ゴリラの生態を通して
「円くなって向き合いながら
一緒に同じものを食べる」ことの意味を
人類学者の山極壽一さんが
語っていたことを、以前
「円くなって穏やかに同じものを食べる」
に書いた。

その記事の最後の部分を引用したい。

そう言えば、
故郷の「」という字は、
ふたりが食物をはさんで
向かい合っている様子
」を
表している、と聞いたことがある。
確かによく見るとそんな形、
構成になっている。

そこにある「音」が「響」であり、
そういった
飲食のもてなしが「饗」であると。

「円くなって向き合いながら
 一緒に同じものを
 穏やかに食べられる場所」
それがまさに、ふるさと(故郷)。

食べるものを通じて
「ハピネス三茶」は
住人にとっての
まさに故郷になっていった。

 

 

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2023年8月13日 (日)

ドラマ「すいか」のセリフから

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ドラマ「すいか」のセリフから

- そんな大事なものをたった三億円で -

 

夏になると
木皿泉さんの脚本で放送された
テレビドラマ「すいか」を
見返したくなる。
主演は小林聡美さん。

放送は2003年の夏だったので
もう20年も前のドラマということになるが、
今でもブルーレイやDVD-BOXが
On Sale状態なのは、
ファンとして嬉しい限りだ。

三軒茶屋にある
賄いつきの下宿「ハピネス三茶」を舞台に
そこに住む四人の女性を中心に描かれる
小さな物語。

小林聡美さん、ともさかりえさん、
市川実日子さん、浅丘ルリ子さん
が四人をみごとに演じている。

当初シナリオブックも出たが、
たった3千部だったらしく、
手に入れるのが難しかった。
ところがその後、
河出書房新社からの文庫で再発売となり
今は入手可能。2巻構成。

木皿 泉 (著)
すいか
河出文庫

(以下水色部、本からの引用)

Kindleでは「合本版」もある。

とにかくシナリオがすばらしいので
名セリフを紹介し始めると
キリがないのだが、
まさに独断と偏見で
3つのシーンだけ
特別にピックアップして紹介したい。

 

(1)
響一という22歳の男性が
モモちゃんという女性の誕生日に
大きなケーキを用意する。
ところが、あっさりフラれてしまう。

ケーキの処分に困った響一は、
女性が多い「ハピネス三茶」でなら
食べてもらえるのでは、と
ケーキを持って「ハピネス三茶」に
やってくる。

ケーキの行き先は決まったものの、
添えていたバースディカードの方は?

響一は「ハピネス三茶」の庭に
穴を掘って埋めることにする。

うずくまる響一の背中から
住人のひとり、大学教授の夏子が
そっとシャベルを差し出し
語りかける。

夏子「これ(使えば?)」
響一「あ(頭を下げて、受け取る)」
夏子「(埋めるのを見ている)
   もっと深い方がいいんじゃない」
響一「(掘る)あのー、
   こんな所に、こんなもの、
   埋めちゃっていいんでしょうか」

夏子「どうして?
   ここに住んでた人は、
   皆そうしてきたわよ」
響一「そうしてきたって?」
夏子「忘れたい物は、
   みんな埋めていいの

   伝ちゃんだって - 」

響一「伝ちゃんって、
   間々田さんですか?」
夏子「(頷く)伝ちゃんだって、
   泣きながら、土、
   掘ってた事あったわよ」

(中略)

夏子「(ニッと笑う)学生ン時から
   住んでるのよ、私。
   大人になって、皆、
   ここを出て行ったけど、
   私だけ、ずっと、ここに居るの。
   時間の止まった
   吸血鬼みたいでしょう?
   (埋めおわった所をトントン踏む)
   ハイ、終わり!
   ほら、アナタも踏んで」
響一「(も踏みつつ)
   -オレだけじゃないんだ。
    埋めたの」

夏子「みんな、
   何かしら埋めて生きてるもんです


響一「(少し笑う)」

夏子「安心して忘れなさい。
   私が覚えておいてあげるから

確かに皆、
「何かしら埋めて生きてるもん」だ。

でも、それに対して、
「安心して忘れなさい。
 私が覚えておいてあげるから」
と言ってくれる人がいることの
なんとあたたかいことよ。

 

(2)
信用金庫のOL基子 34歳 独身。
基子の同僚 馬場チャンは、
信用金庫から3億円を横領して逃亡中。

逃亡中ではあるが、基子が住む
賄いつきの下宿「ハピネス三茶」を
ちょっと覗いたあと、
川原で基子とこっそり会う。

馬場チャン
  「ハヤカワの下宿、行った時さ、
   梅干しの種見て、泣けた
基子「梅干しの種?」

馬場チャン
  「朝御飯、食べた後の食器にね、
   梅干しの種が、それぞれ、
   残ってて - 
   何か、それが、
   愛らしいって言うか
   つつましいって言うか - 
   あ、生活するって、
   こういうことなんだなって、
   そう思ったら、泣けてきた

基子「そんな、おおげさだよ」

馬場チャン
  「全然、おおげさじゃないよ」
基子「 - 」

馬楊チャン
  「掃除機の音、
   ものすごく久しぶりだった。
   お茶碗やお皿が触れ合う音とか、
   庭に水をまいたり、
   台所で何かこしらえたり、
   それ皆で食べたり -
   みんな、私にないものだよ」
基子「 - 」
馬場チャン
  「私、そんな大事なもの、
   たった三億円で
   手放しちゃったんだよね

基子「 - 」

逃亡生活を続ける馬場チャンが
目にした生活の風景、音。

なにげない日常の、
ごくこく普通の生活のその愛おしさを
こんなにうまく表現できるなんて。

そぉ、
「生活するって、こういうことなんだ」

 

(3)
馬場チャンのひと言に基子はこう返す。

馬場チャン
  「(ため息)また、
   似たような一日が始まるんだね」

  基子、振り返る。

基子「馬場チャン、
   似たような一日だけど、
   全然違う一日だよ

我々は、繰り返す日常を
どうして「似たような一日」と
思ってしまうのだろう。
同じ時間は、二度とないのに。

似ていたとしても、
実際には「全然違う一日」なのだ。

「全然違う」そう思いながら
新たな一日を、毎日を、
楽しみたいものだ。

 

 

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2023年8月 6日 (日)

じぷんの記憶をよく耕すこと

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じぷんの記憶をよく耕すこと

- 詩人長田弘さんの言葉 -

 

詩人 長田弘さんのこの本は、
エッセイ集と呼んでいいのだろうか?
表紙カバーには
「詩文集」と紹介されているけれど。

長田弘 (著)
記憶のつくり方
晶文社

(以下水色部、本からの引用)

詩人らしい丁寧な言葉で、
長田さんが出会ったさまざまな景色が
語られている。

記憶は、過去のものでない
それは、
すでに過ぎ去ったもののことでなく、
むしろ過ぎ去らなかったもののことだ。

とどまるのが記憶であり、
じぶんのうちに確かにとどまって、
じぶんの現在の
土壌となってきたものは、記憶だ

なるほど。
記憶は過ぎ去ったものではなく、
過ぎ去らなかったものだ。
だから残っているわけで。

そして次の言葉に続く。

記憶という土の中に種子を播いて、
季節のなかで手をかけて
そだてることができなければ、
ことばはなかなか実らない

じぷんの記憶をよく耕すこと
その記憶の庭にそだってゆくものが、
人生とよばれるものなのだと思う。

「じぶんの記憶をよく耕す」とは
どういうことだろう。

以前書いた
ギスギスせずに生きるために
を思い出した。
そこに引用した通り、
劇作家の野田秀樹さんは

観た時には完璧に理解されず、
「あれはなんだったんだろう」
ということがあっても、
それをため込んで
持っていてくれればいい

と言っていた。

それは
野田さんの芝居に限ったことではなく、
丁寧に思い返すと日々の生活にも
「あれはなんだったんだろう」
が溢れている。

でも、意味なんてわからなくて
意味なんて特になくても、
ふとした折に、
思い出してしまうような
エピソードはいろいろある。

思い出すたびに
なぜかちょっとほっこり
心休まる景色もある。

それらを、ただ「懐かしい」と言って
流してしまうのではなく、
その都度、そのときの立場と気持ちで
再度味わってみる。
そのときの視点で考え直してみる。
それこそが
「じぶんの記憶をよく耕す」
ということなのではないだろうか。

理解できなくても、わからなくても、
自分の経験を大事に
「ため込んで持って」いるということは、
「耕す」機会が多いという点でも
大きな価値がある。

「その記憶の庭に
 そだってゆくものこそが人生
」なら
より豊かな土壌にしたいものだ。

 

 

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2023年7月30日 (日)

エルピス 希望は悪か

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エルピス 希望は悪か

- 異常【アノマリー】の世界 -

 

小説を読んでいて
思わず声が出てしまったのは
何年ぶりだろう。

エルヴェ ル・テリエ (著)
加藤 かおり (翻訳)
異常【アノマリー】
早川書房

(以下水色部、本からの引用)

どこかしっくりしないまま
登場人物が次々と紹介される、
そんな導入となっている第1部の最後で、
しっくりしなかった理由とともに
明かされる事実には、
思わず声がでるほどびっくりさせられた。

なので、これから読もう、という方には、
いわゆるスジに関する事前情報なしで
読み始めることをお薦めしたい。

もちろん謎解きミステリーではないので
「それ」自体が
この小説の魅力ではないし、
「それ」から始まる第2部以降は
さらに豊かな想像力で
支えられているのだけれど、
驚き、という意味での要素は
まさに第1部の最後にある。

というわけで、
「それ」には触れないが、
第2部以降、
まさに本筋とは関係ないところで、
書き残したいような
印象的な表現が多かったので、
一部紹介したい。

 

まずは、軽くコレから。

(1) 私自身が技術者で、
理系人間が苦労させられる、に
敏感なせいかもしれないが。

「なぜって、なぜ科学者だけが
 いつも夜なべ仕事

 しなきゃならないんです?」


(2) こんな露骨な表現もでてくる。
どこぞの元大統領の顔が浮かんで
ニヤけてしまう。

大統領はあんぐりと口を開けている。
その姿は、金髪のかつらを被った
肥えたハタのようだ。


(3) 小説の中とはいえ、
あの人気キャラクタを実名(!?)で
「サタンの創造物」と
言ってしまうある種の勇気も。

しかし、あんた方の神学者、
ムハンマド・アル・ムナジッドは
ミッキーマウスを〝サタンの創造物〞と
呼んだ気がするんだが


(4) 宗教や哲学者についても
さらには
フランスでのトークショーについても
皮肉たっぷり。 

宗教が教義にもとづく
偽りの回答を人びとに授け、
哲学が抽象的で誤謬に満ちた答えを
提示する
からだ。

世界中でトークショーが
頻繁に開催されるが、
とりわけ盛況なのはフランスだ。
フランスでは
メディアに露出する哲学者の数が
ずば抜けて多い。


(5) 今後「運命」という言葉を使うときは
思わず思い出してしまいそうなひと言も。

わたしは〝運命〞という言葉が
あまり好きではありません。
それは矢が突き刺さった場所に、
あとから的を
描き足すようなもの
ですよ


言葉という意味では、
次の部分もはずせない。

(6) 古代ギリシャ神話に登場する
「パンドラの箱」について。

神ゼウスから
開けることを禁じられた
「パンドラの箱」。
ところが、パンドラは
好奇心に負けて
ゼウスの言いつけに背き
箱を開けてしまう。

すると

箱のなかから
人類にとっての悪が
一斉に飛び出してきた


老い、病気、戦争、飢餓、狂気、
貧困…。

そのなかにひとつ、
逃げ出すにはのろますぎたのか、
はたまたゼウスの意思に従ったのか、
箱のなかにとどまった悪があります
それの名前を憶えていますか?

昨年(2022年)、カンテレの
ドラマのタイトルにもなっていた
アレだ。

〝エルピス〞- 希望ですよ。
これこそ悪のなかでも
もっとも始末の悪いもの
です。
希望がわたしたちに
行動を起こすことを禁じ、
希望が人間の不幸を
長引かせる
のです。

だってわたしたちは
反証がそろっているにもかかわらず、
〝なんとかなるさ〞と
考えてしまうのですからね。
〝あらざるべきこと、起こり得ず〞の
論法ですよ。

ある見解を採用する際に
わたしたちが真に自問すべきは、
〝この見解に立つのは
単に自分にとって
都合がいいからではないか、
これを採用すれば
自分にどんなメリットがあるのか?〞
という問いです」

ちなみに、2022年のドラマのタイトルは
「エルピス —希望、あるいは災い—」

それにしても
「希望が人間の不幸を長引かせる」とは。
でも、
「反証がそろっているにもかかわらず」
やってしまうことは確かにある。

それは「悪」の仕業なのだろうか?

 

この本、読み終わってから
Amazonへのリンクにも使われている
装画(ブックカバーの表紙の写真)を
改めて見るとちょっとドキッとする。

まさに本の内容を象徴するような
ほんとうによくできた写真だ。

 

 

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2023年7月23日 (日)

「そこにフローしているもの」

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「そこにフローしているもの」

- 話す、放す、離す -

 

加藤 典洋 (著)
言葉の降る日
岩波書店

(以下水色部、本からの引用)

に、加藤さんが、

河合隼雄 著
「こころの読書教室」
新潮文庫


に書いた「解説」が掲載されている。

タイトルは
「そこにフローしているもの」

加藤さんは
解剖学者の三木成夫(しげお)さんの
考え方を紹介したあと、
こう続けている。
(三木成夫さんについては本ブログでも
 舌はノドの奥にはえた腕!?
 にて少し触れている)

私が特に三木さんと河合さんは
似ていると思うのは、次の点だ。

三木さんは、
動物は溜め込む、ストックするが、
植物の生の基本は、
「溜め込みをおこなわない」こと、
フローだという。

人間の本質、生き物の本質、
そして心の本質は、
「ストック」ではなくて、
「フロー」にある、というのだ。

「フロー」をキーワードに
少し先を読んでみよう。 

ほんとうは、無意識というのは、
「ストック」されたものではなく
「フロー」しているものなのだ。

それが河合さんのいおうとしている
ことなのだと、私は受けとった。

「フロー」しているから、
それは、私の内部、
奥底にあると同時に、
外ともつながっている


ユングの集合的無意識というものが
そもそも、
無意識はフローだということである。
だからそれは、物語につながる
また絵本に親しむことにもつながる。

「フロー」だからこそ
外とつながり、物語につながる。

本を読む人が少なくなった、
それがとても残念、が
この本の河合さんの最初の言葉である。
そのために、
「読まな、損やでぇ」といいたくて
この本を書いた、と
河合さんはいっている。

ところどころに関西弁がまじるのは、
関西弁が河合さんにとって
ハナシ言葉、フローの言葉だからだ。

話す、放す、離す。
きっともとは同じ意味、
フローさせる、ということなのだ

その視点で「読書」を見直すと
新しい発見がある。

河合さんがいっているのは、本を
「ストック」(知識とか情報とか)を
手に入れるために
読む人がふえたけれど、

読書というのは、ほんらい、
本に流れているもの -
「フロー」にふれることなんだ

ということである。

ついついストックに目がいってしまうが、
そうそう
「良書と出会えた」と思えたときは
文系理系の本を問わず
明らかに「フロー」を楽しめたときだ。

本を読むというのは、何か。

それは、「自分の心の扉を開いて」、
自分のなかから、
「自分の心の深いところ」に
出ていくことである。

私たちは、本を読むことで、
相手の話を聞くだけではない。

じつは本を読みながら、
自分の思い、ひとりごとに、
誰かが耳を傾けてくれていたことにも、
後になって、気づくのた。

読書とは
自分のなかから出ていくこと、
誰かが自分の思いやひとりごとに
耳を傾けてくれていたことに
後になって気づくこと。

すばらしい経験じゃないか。

こりゃぁ、本、
「読まな、損やでぇ」

 

 

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