「コミュニケーションはスキル」か?

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「コミュニケーションはスキル」か?

- 「英語はツール」か? -

 

日本の英語教育について
積極的に発信を続けている
鳥飼玖美子さん。

同時通訳の草分け的な存在として、
若い頃から
アポロ11号の月面着陸の中継や、
大阪万博といった大舞台でも
活躍していたとのことだが、

以前、Eテレの英語番組
「世界へ発信!SNS英語術」
で、1969年の月面着陸の中継を
通訳した話を突っ込まれると、
「あの時は中学生が同時通訳した・・」
と即答していた。
とっさにユーモアで返す機転もさすがだ。

そんな鳥飼さんのこの本

鳥飼玖美子 (著)
国際共通語としての英語
講談社現代新書

(以下水色部本からの引用)

にはコミュニケーションの本質を
考えるうえでの、
大事な言葉が溢れていた。
新しい指摘、というわけではないが
ノウハウや成果ばかりにつられて
ついつい忘れがちになる視点でもあるので、
ここで改めて一部紹介しておきたい。

 

「コミュニケーション」とは、
つまるところ
「他者との関係性」です。
自分と、自分とは異なる存在とが、
共に関係を構築するのが、
「コミュニケーション」です。

単なる伝達の手段ではないし、
日常会話の域にとどまるものでも
ありません

コミュニケーションの一部を支える言葉。
そこには「沈黙」さえも含まれている。

いずれにせよ、
「他者はすべて異質な存在」なのだから
コミュニケーションを成立させるためには
言葉だけではない努力や配慮や工夫が
必要となってくる。
それでも、もちろん失敗する場合もある。

「異文化コミュニケーション」
というのは、
異なる文化で生きてきた者同士が
関係を構築しようとすることを指します。

異文化コミュニケーションとは
英会話のことだと勘違いしている人

日本に多いのは誠に残念です。

「異文化コミュニケーション」とは
言語を問わず、異質な文化が邂逅し
接触する際に必然的に起こる事象です。

「異なる文化」は、
外国ばかりとは限りません

世代の違い、ジェンダーの違い、
障碍のある人とない人の違い、
人間と動物、人間と自然、
どれも「異文化」です。

 

外国に限らず「異文化」との
コミュニケーションには、
背景の文化を理解しようという
姿勢が不可欠だ。

どの言語にもそれぞれの文化があり、
コミュニケーション・スタイルがあり、
言語使用の習慣
があります。

外国語を使うとは、
異質な他者を相手に
異質な言語を精一杯使って
果敢に関係構築を試みるのだから、
簡単なわけがない、と
腹をくくるべきでしょう。

そして何度も繰り返すように
次の言葉を送り出している。

コミュニケーションは
単なるスキルではありません。
英語は単なる道具ではありません


国際コミュニケーションの共通語として
英語を使う場合でも、
これは同じだと思います。

英語をツールとして、
コミュニケーションをスキルとして、
軽く考えるから、
こんなに勉強しているのに上手くならない、
と腹が立つのです。

コミュニケーションは
単なるスキルではない。
英語は
単なる道具ではない。

そもそも
「単なる道具」だと言っている人は
道具以上に使えるようにはならない。

たとえ世界中の人々が
使用するようになったとしても、
英語には英語の歴史と文化があり、
独自の世界を有した
一つの言語であることは
間違いないのです。

そこを何とか折り合いをつけ、
世界の誰もが使えるように、
使い勝手の良いようにしよう、
とあれこれ工夫をし始めているのが現状で、
本書もそれを提言しているわけですが、
一つの生きた言語である
という事実も認識するべきでしょう。

 

鳥飼さんは本書で主張したかったことを
2つに集約して最後にこう書いている。

一つは、「英語はツール」
「コミュニケーションはスキル」
という言説を疑って欲しい

ということ。

コミュニケーションは
人間が特定の状況で起こす
多層的な行動であるわけですから、
それを私たちにとっては
外国語である英語で行う、
ということの重みを
忘れてはならないと思うからです。

英語はたかが道具だ、
と軽視する人ほど、
日本語は微妙なニュアンスがあって
特別に難しい、などと言います


しかし、特殊に難しい言語など
存在しません
。これは現在では
当然として認められている
言語相対主義の知見です。

そしてふたつ目の主張はこれ。

日本人にとって
外国語である英語を学ぶのは
容易ではないのですが、
だからと言ってあきらめることは
ないのです。

国際共通語として習得する
という方向を見定め、
英語学習の目的と内容を
見直したらどうか

というのが第二の主張です。

異なる文化で生きてきた者同士が
関係を構築しようとすることは
まさに多層的なアクションだ。
言葉ができれば成功する
というものでもない。

国際共通語としての英語を
どう考えるかの詳細は本書に譲るが、
歴史と文化に対する配慮と敬意を
忘れることさえなければ、みちは拓け、
関係はさらに深まっていくことだろう。

 

 

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2022年11月20日 (日)

柴咲コウさんの言葉

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柴咲コウさんの言葉

- 真の豊かさとはなんぞや -

 

録画したTV番組を見ていたら
いい言葉に出会ったので
今日はそれを残しておきたい。

番組は、毎週3人のゲストが
司会を介さずにトークを展開する
「ボクらの時代」

「ボクらの時代」フジテレビ
2022年9月11日放送
柴咲コウ:福山雅治:北村一輝

(以下水色部は放送からの文字起こし)

柴咲さんは、俳優業を続けながら
東京と北海道での2拠点生活を
続けているらしい。

北海道に家を構えた理由を聞かれて
柴咲さんは以下のように答えている。

真の豊かさとはなんぞや、
となったときに
やっぱりなんかその
もともとあるものだったりとか、

自分では作りだせないものが、
自然だったりとか 
そういう
木々、森だったりとか 
ほかの動植物たちだったりで、

それを感じられる機会が少ない人生って
豊かなのかな
、って思って

できることならやっぱりそういうのに
触れられる時間を持ちたいし
それが自分の豊かさに繋がるな、
と思ったンで・・・

「もともとあるもの」
「自分では作り出せないもの」
そういうものを感じられる人生。

表現が実にいい。

都会での暮らしは、たしかに
「もともとはないもの」と
「人間が作り出したもの」ばかりに
囲まれている。

 

自分がやること全部、
なんかしら役に立って循環すればいいな
みたいな、
ただ自分の満足度だけで
終える人生じゃなくて

それが巡り巡ればいいなぁ、
みたいな感じ。

自らの事業やアクションについても
一方的な流れではなく
「自分の満足度だけで
 終える人生じゃなくて」
と「循環」の中で考えようとしているのも
自然を愛すればこその言葉として
素敵だ。

 

 

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2022年11月13日 (日)

舌はノドの奥にはえた腕!?

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舌はノドの奥にはえた腕!?

- 音色、音の色に違和感はなく -

 

実際の講演は
今から40年以上も前の話になるが、
解剖学者の三木成夫さんが、
保育園で講演した内容をまとめた

三木成夫 (著)
内臓とこころ
河出文庫

(以下水色部、本からの引用)

は、たいへんユニークな視点で語られた
「こころ」の本だ。

独特な口調で
幼児の発育過程を語りながら、
内臓とこころを結びつけ、
話は、宇宙のリズムや
4億年の進化の過程にまで
広がっていく。

一方で、

ただ、舌の筋肉だけは、
さすがに鰓(えら)の筋肉、
すなわち内臓系ではなくて、
体壁系の筋肉です。
(中略)

舌の筋肉だけは
手足と相同の筋肉
です。

われわれはよく
「ノドから手が出る」
というでしょう。

舌といえば、ノドの奥にはえた腕
だと思えばいい。

のような、
ユーモアあふれる大胆な表現もあって
あっと言う間に「三木ワールド」に
とりこまれてしまう。

舌はノドの奥にはえた腕!?
強烈すぎるフレーズだ。

講演を原稿化したものゆえ、
読みやすくはあるものの、
論理的には話が飛ぶ部分もあり、
「えっ?」と思うところもあるが、
それも含めてひとつの味だ。

簡単にはまとめられない、
三木さんの「こころ」論は本に譲るとして、
印象的なフレーズを2つ紹介したい。

(1) 原初の姿 (指差しこそ人類!)

ルートヴィヒ・クラーゲスという、
ドイツの哲学者は、
幼児が「アー」と声を出しながら、
遠くのものを指差す---この動作こそ
人間を動物から区別する、
最初の標識
だといっています。

どんなに馴れた猫でも、ソレそこだ!と
指差すのがわからない。
鼻づらをその指の先に持ってきて、
ペロペロなめる……

指差しが認識できず、
指先を舐める猫か、なるほど。

赤ちゃんも、
「なめ廻し」の時期を過ぎたころから
「指差し」を始めるようになる。

クラーゲスは、
この呼称音を伴う指差し動作のなかに、
じつは、原初の人類の”思考”の姿
あるのだといっています。
スゴい眼力ですね

この感じは、
しかし現代でも充分にわかります。

たとえば私たち、ビルの屋上から
真っ赤な夕焼け雲を見たりした時、
思わず「アー」と声を出しながら、
指差しの
少なくとも促迫は覚えるでしょう。

この瞬間、私たちはもう
好むと好まざるとにかかわらず、
原初の姿に立ち還っているのです。

圧倒的な大自然を前にした、
その時の思考状態ですね・・・。

頭の中はけっして空っぽではない

圧倒的な大自然を前にしたとき、
言葉にできない根源的な幸福感に
包まれることは確かにある。

あれは原始の姿に立ち還った
そのリラックス感から
来るものなのだろうか?

ミケランジェロ作の
システィーナ礼拝堂の天井画の
アダムの人差し指に対して

アダムの人差し指に
魂が注入される瞬間。
人類誕生の曙が
指差しの未然形として描かれている

こんな表現ができる人は
他にいないだろう。

私どもの”あたま”は
”こころ”で感じたものを、
いわば切り取って固定する

作用を持っている。

あの印象と把握の関係です。

そしてやがて、この切り取りと固定が、
あの一点の「照準」という
高度の機能に発展してゆくのですが、
「指差し」は、この照準の”ハシリ”
ということでしょう。

つまり、この段階で
もう”あたま”の働きの
微かな萌(きざ)しが
出ているのです。

 

(2) 「音色」(音の色?)

私たちの目で見るものも、
耳で聞くものも、
すべて大脳皮質の段階では
融通無礙に交流し合っております

フォルマリンで固定した人間の
大脳皮質下の「髄質」を見ますと、
ここでは、
ちょうどキノコの柄を割ぐ感じで、
無数の線維の集団を
割いでゆくことができる。

視覚領と聴覚領の間でも、
この両者の橋わたしは豊富です


連合線維と呼ばれる。

視覚と聴覚の交流?
以下の言葉の例で考えると
わかりやすい。

「香りを聞く」「味を見る」
「感触を味わう」
などなど、

皆さん、
あとでゆっくり数えてください。

どんな感覚も四通八達で、
たがいに自由自在に
結び付くことができる。

大脳皮質は
こうした連合線維の巨大な固まりです。

<中略>

私ども人間は、
こうした、感覚のいわば「互換」が、
とくに視覚と聴覚の間、
それも視覚から聴覚に向かって
発達しているのでしょう。

「音」は聴覚、「色」は視覚、
でも「音色」という言葉は
違和感なく溶け込んでいる。

解剖学の知識が全くない遠い昔から
私たちはその交流に
気づいていたに違いない。

 

 

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2022年11月 6日 (日)

アルジェリアのイヘーレン岩壁画

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アルジェリアのイヘーレン岩壁画

- 信じられないタッチと空間把握 -

 

前回
前々回に引き続き

「サハラに眠る先史岩壁画」
 英隆行写真展

 目黒区美術館 区民ギャラリー
 2022年10月5日-10日

の内容を紹介したい。

2210_131s

 

展示の最後、圧巻は

*アルジェリア タッシリ・ナジェールの
 イヘーレン岩壁画
 実写 w824cm x h270cm
 模写 w840cm x h248cm

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「サハラ砂漠で発見された壁画で
 最も優れた作品。
 新石器時代写実派の代表作」
(フランスの考古学者アンリ・ロート)
と賞賛された美しい壁画。

ロートは、
発見翌年の1970年に調査隊を組織し、
実物大の模写を制作した。

実際の壁画は、長い歳月を経て
退色や挨の堆積などで
肉眼では見えにくくなっている部分が
多くあるためである。
たとえば、実物はこんな感じ。

Pa082321s

これが模写により

Pa082284s 

ずいぶんわかりやすくなっており、
細部まで読み取ることができる。

ロート隊は、本模写より10年以上も前、
1956-57年の
タッシリ・ナジェール岩壁画の模写時、
次のような手順で模写を作成した。

(1) 水を含ませたスポンジで壁面を拭い、
  絵を浮かび上がらせる。
(2) トレーシングペーパーを壁面に当てて
  写し取る。
(3) 別の画用紙に写して彩色する。

これに対して
* 見えなくなっている部分を
  想像で補筆したものが多い。
* 模写作成時に壁面を傷つけた。
などの批判が寄せられた。

本複写、1970年のイヘーレン岩壁画
調査隊メンバーのイヴ・マルタンは
そういった批判があったことを知った上で、

「模写制作にあたっては、
 スポンジで壁面を拭うことはせず、
 見えなくなっている部分のみを
 わずかに湿らせるにとどめた」
「見える部分と
 見えなくなっている部分を
 厳格に判断して模写を制作した」

と証言している。

ちなみに、ロート隊の模写手法は、
現在では禁止されている。

壁面にふれることも、
水を含ませることも許されていない。

 

さて、そのような経緯で写し取られた壁画、
詳しく見てみよう。

まず全体。
日本の絵巻や屏風絵のように、
遊牧民の生活の一部始終が語られる
物語になっている。
物語は右から左に向かって進む。

男性は子供を抱いて歩き、
女性は牛の背に乗って移動。
男女ともにペインティングを
しているように見える。

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牛に乗る女性はここにも。

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新しい土地に到着すると
男性は荷を解き、
女性はテントの設営。
弓のような棒はテントの支柱。
最近までツアレグ族も
同じようなテントを持ち、
女性が管理していたらしい。

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キリン、ガゼル、オリックス、ダチョウなど
草原の動物も多く描かれている。

Pa082284ss

岩の割れ目を水場に見立てて、
牛が水を飲んでいる。
牛は横からの姿だが、
角は正面に近い。
ラスコーなど
旧石器時代の岩壁画にも見られる
疑似遠近法。

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さまざまな動物の群れの向こうに
ストローで飲み物を飲む女性が
描かれている。
いったい何を飲んでいるのだろう?

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手前では、
女性と子供が家畜の世話。
中央ではここでもストローで
なにか飲んでいるようだ。
順番待ちで並んでいるようにも見える。

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中央左には赤ん坊をあやす男性。
奥では、テントの中から身を乗り出して
頬杖をついている女性。
背中に手を当てているのか、
その前にいる男性との関係は?

とにかく、信じられないタッチの絵が
信じられないような空間把握の中に
展開されている。

しかもその後の解析により、
壁画はごく一部のエリアを除いて
ひとりの人が描いたものとわかったらしい。

前回書いたような理由で
正確な年代はわからないものの、
5000年以上も前の作品だ。
ほんとうにびっくりする。

 

「また、来週から
 現地に行けることになったのです」
とガイドさんはおっしゃっていたが、
発掘エリアには紛争地域もあるため
訪問には軍の許可が必要
であったりと
自然環境の過酷さだけでなく
行くだけでもそうとう大変なようだ。

個人的に、
これまで全く知らなかった分野だが
また新しい発見があることを
期待したい。

 

 

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2022年10月30日 (日)

サハラ岩壁画の年代は測定できない

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サハラ岩壁画の年代は測定できない

- 「愛の館」から線刻画まで -

 

前回に引き続き

「サハラに眠る先史岩壁画」
 英隆行写真展

 目黒区美術館 区民ギャラリー
 2022年10月5日-10日

の内容を紹介したい。

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本展、壁画はどれも興味深いのだが、
各画に対する年代の説明がほとんどない。

前回書いた通り、
5000年から1万年ほど前のもの、
というざっくりとした幅だけはあるが、
正確にはわからないらしい。
それはどうしてか?

ガイドツアーのときの説明によると
サハラ岩壁画の
壁画自体の年代を直接測る技術は
現時点ではまだ存在しない
らしい。

理由は、
絵具に木炭や接着剤などの
有機物が含まれていないため
放射性炭素年代測定ができないから。

また、洞窟壁画のように
水が滲みだして絵の上に
炭酸カルシウムの被膜が
形成されることがないため
ウラン系列年代測定もできない。

直接的な測定ができないため、
描かれた動物との関係、
発見された古墳との関係、
などから相対的、間接的に
制作年代を区分しているようだ。

というわけで、細かいことは気にせず
気持ちのほうもざっくりのまま
ほかも見てみよう。

 

*アルジェリア タッシリ・ナジェールの
 「食肉解体」

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ブーメラン状の道具(ナイフ?)を使って
食肉を解体している。
男性は腰みのだけだが、
女性は長いスカートに肩掛けのようなものを
羽織っている。
右には野ウサギやキリンなども見える。

 

*チャド ティベスティの
 「愛の館」
館の外には牛がいる。右は乳搾りの様子。

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「愛の館」の中はこんな感じ。
入口の縄暖簾をくぐると、
部屋の中には裸の男女が集っている。
女性は足を白く塗っているようだ。

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右端の男は
楽器を奏でているように見える。
部屋には大きな壷があるが、
中には酒が入っているのだろうか。
重なり合っている男女もいる。
女や男を奪い合っているようにも見える
場面もある。

 

*チャド エネディの
 「整列する戦士たち」

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繊細な筆遣いで細かく描写された岩壁画。
戦士たちは槍を手に持ち、
頭には羽飾りを付けている。
戦士の隊列から外れた場所には
長いスカートをはいた女性もいる。

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槍の穂先が石で加工するには
難しい長さであることから、
鉄製の穂先と推測されている。
だとするとこれは他と比べると
ずいぶん新しいものかもしれない。

 

*スーダン ウェイナットの
 「行進する人々」

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川岸で垂直に削られた砂岩の表面に
10メートル以上にわたって夥しい数の絵が
描かれている。
別の場面では、狩りをする人々、
牛の群れなども。

この地域では、牛の牧畜は
7000年前頃に始まったが、
5000年前には乾燥化によって
牛が飼えない気候になった。

制作年代を直接調べられないため
描かれたものから
間接的に絞り込んでいくのも
ひとつの手法。

 

*モロッコ ハイ・アトラスの
 太陽の円盤  青銅器時代

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古代ベルベル人が信じたアニミズムでは、
太陽、土地、水」が
人間に不可欠なものとされていた。
太陽の内側には、
山並みに囲まれた大地と川。
下の小さな円盤は月のようにも見える。

 

*チャド エネディの
 「牛飼い」
サハラ岩壁画ではあまり多くない
線刻画

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彩画にはほとんど見られない
幾何学模様が多いのが特徴。

寄って見ると

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杖を肩に担ぐポーズは牧童特有のもので、
現代でもよく見かける。
お尻の大きな体形は、
現在この地に暮らすほっそりとした
トゥブー族とは異なるらしい。

体形といえば、以前アメリカ人に
「日本人でお相撲さんのような
 体形の人はほとんど見かけないのに
 どうしてあれが国技なの?」
と質問されて答えに窮したことがある。
1万年後、日本で相撲絵が発見されると
対トゥブー族と同じようなコメントを
されるかもしれない。

 

 

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2022年10月23日 (日)

サハラ砂漠が緑に覆われていたころ

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サハラ砂漠が緑に覆われていたころ

- 先史岩壁画、実物大の写真展 -

 

「サハラに眠る先史岩壁画」
 英隆行写真展

 目黒区美術館 区民ギャラリー
 2022年10月5日-10日

を観てきたのだが、
その内容がたいへんおもしろかったので
記録を兼ねて紹介したい。

2210_131s

本展、岸壁画の写真展ではあるが、
展示作品はすべて実物大。
3mを越える写真もあり、
岩壁を前にした臨場感をたっぷり味わえる。
展示の写真撮影もOK。

会場にあったパンフレットと
30分の予定が、説明がノリノリで
結果50分になってしまった
会場でのガイドツアー時のメモを見ながら
振り返ってみたい。

 

世界最大の砂漠、
アフリカ北部のサハラ砂漠には
緑のサハラ」と呼ばれる時代がある。

今から約11,500年前から5,000年前頃まで、
なんとこのエリアは
緑に覆われていたというのだ。

旧石器時代末期から新石器時代のころ、
この緑豊かな土地を求めて
様々な民族が去来した。

彼らは自然の岩肌をカンバスとして
彩画や線刻画など独自のアートを遺した。

その岩壁画が今回の写真展の被写体。

今はまさに降水量の少ない広大な砂漠だが、
絵が描かれた当時は緑の大地だったのだ。

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上の地図の赤丸が収集した岩壁画の位置。
アフリカ大陸北部、広範囲からの
収集となっていることがわかる。

 

まずは写真展のポスターにも使われている
 アルジェリア
 タッシリ・ナジェールの
 「白い巨人と祈る人々」
  w515cm x h308cm

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頭に角のような突起を持ち、
大きな力こぶと巨大な陰嚢を持った
3mを超える巨人。

その左右には
お腹の大きな妊婦が横たわり、
左側には祈るような仕草の
女性たちが並んでいる。

と解説されているが
コントラストが弱く
正直わかりにくい。

こんな図が横に添えられていた。
組合せてみるとずいぶん助けられる。

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同じ
 アルジェリア
 タッシリ・ナジェールの
 「瘢痕文身のある人物」
  w103cm x h180cm

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瘢痕文身は「はんこんぶんしん」と読む。
 皮膚に切込みを入れたり,
 焼灼(しょうじゃく)して,その傷跡が
 ケロイド状に盛り上がることを利用して
 身体に文様を描く慣習
のことらしいが、首飾りといい腕輪といい
仮面のようなものといい
かなり着飾っている。

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「泳ぐ人」という絵では
頭に突起のある人が泳いでいる。
飾りか? いったいナンだろう?

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「弓矢で戦う人々」では集団の戦い、
つまり戦争が描かれている。
激しい戦いのシーンはあっても
倒れている人物は描かれていない、
という特徴があるらしい。

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下の絵で弓を引いているのは女性と
思われる。よく見ると乳房がある。
女性も兵として戦っていたのだろうか。
当時は砂漠ではないので牛もいる。

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1万年近くも前の
着飾った女性たちや弓を持った兵士たち。
いろいろ想像するのは楽しいものだが、
岩壁画はさらに多くのものを
今に伝えてくれている。

本写真展の話、次回に続けたい。

 

 

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2022年10月16日 (日)

「所有」と「存在」

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「所有」と「存在」

- 日本の伝統的な所有感 -

 

前回、所有格の「の」
これだけをテーマに
9人の執筆者の文章で編まれている

大庭健、鷲田清一 (編)
所有のエチカ
ナカニシヤ出版

(以下水色部、本からの引用)

を紹介した。

そしてその最後に、

最初に書いた鷲田清一さんの
 「現代の都市空間は隅々まで
  誰かのもの、誰かの所有物だ。」
なる事実が、そもそも本来は
「当たり前」ではないことを
改めていろいろ学ぶことができる。

と書いた。

今日はその
「当たり前ではない」部分について
田中久文さんが書いた
「無所有の系譜」を読んでみたい。

 

日本の伝統的所有観の
最も大きな特色の一つは、
所有と存在という二つの概念が
明確に区別されていない

という点にあると思われる。

それはまず
言語表現の上に現われている。
「所有」という言葉自体を
考えてみても、
「有」は「もつ」と同時に、
「ある」をも意味している。

「もつ」とは
「存在そのものの本来のありかたを
 損なわないで手元におく」
ことだが、
近代的な意味での所有とは
「とる」つまり
「積極的に対象に働きかけて、
 対象を自分のものにし、
 自由にする意」
かもしれない。

一方逆に「存在」という言葉に関して
和辻哲郎などは、
それが本来は所有を意味していたと
解釈する。

英語では
John has two children.
と所有を表す動詞haveを使うが、
日本語では、
「太郎には子供が二人いる」
のように存在を表す動詞「ある(いる)」を
使って所有を表現している。

存在と所有とを一体視する考え方は、
西洋近代の私的所有権の考え方とは
大きく異なっている。

貝原益軒は『養生訓』の中で
身体に関して、
人の身は父母を本とし、
 天地を初とす

 天地父母のめぐみをうけて生れ、
 又養はれたるわが身なれば、
 わが私の物にあらず」
と述べている。

自己の身体は「私の物」ではなく、
「天地父母」から与えられたものである
というのである。

そうであるからこそ、
逆にそれをみずからの手で
大切に「養生」しなければ
ならないのだと益軒は説く。

私の体は「私のもの」ではないのだ。

苦労して育てた農作物ですら

農学者の宮崎安貞は

稼(実った稲)を生ずる物は天也。
 是を養うものは地なり


 人は中にいて天の気により
 土地の宜きに順い、
 時を以て耕作をつとむ。

 もし其勤なくば天地の生養も
 遂ぐべからず」

と述べ、
あくまでも天地の働きを補足し、
完成させるものとして、
人間の農耕を捉えている。

こうした考え方は、農耕だけでなく
商品経済の場においてもみられた、と
石田梅岩の言葉も紹介されている。

以上のように日本では、
身体や人間の労働を
自立的にみることなく、

それを宇宙や天地全体の働きの中で
捉えようとする考え方が
伝統的に強くあった。

 

天地に随順するという形で
所有を捉えるという考え方は、
人間の倫理を
放棄したわけではもちろんない。

近世の思想家の多くは、
「天」や「天地」そのものが
倫理や規範をおびたものである

とみなし、
したがってそこに参与する人間もまた、
そうした倫理や規範に
従わなければならない存在だと考えた。

 

「存在」そのものが
「人間がもつ」ということを
根底に成立している?
これまで「所有」と「存在」の関係を
考えたことなんて全くなく、
まさにボーっと生きてきたが
こうして説明されると
不思議な繋がりが見えてくるから
おもしろい。

 

 

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2022年10月 9日 (日)

所有権と物のエロス

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所有権と物のエロス

- 所有格の「の」だけで一冊の本 -

 

Twitterを眺めていたら、

 所有には
 「(実際にはそんなことは絶対に
   しないけれど)
  望めばそれを破壊することができる」
 という感覚が直感としてあり、
 そのことが、所有という権利だけでなく
 物のエロスを生んでいる。

というような意味の投稿が目に留まった。

そんなことを意識して考えたことは
なかったけれど、所有には
望めばそれを破壊することができる
という面がある、との刺激的な言葉は
妙に強く印象に残った。

昨日2022年10月8日の朝日新聞では、
鷲田清一さんが「折々のことば」で
 「現代の都市空間は隅々まで
  誰かのもの、誰かの所有物だ。」
とコメントしていた。

一方で最近は
「share」や「共有」といった言葉を
目にする機会も増えている。

というわけで、「所有」について
改めて少し考えてみたいと
こんな本を手にしてみた。

大庭健、鷲田清一 (編)
所有のエチカ
ナカニシヤ出版

(以下水色部、本からの引用)

9人の方の文章を集めたものとはいえ、
「わたしのもの」
この所有格の「の」についてだけで
一冊の本を編んでしまっている。
よくもまぁこんなにいろいろな角度から
「の」について書けるものだ。

 

まずは「折々のことば」も書いている
鷲田清一さん。
twitterで見たコメントと同じように
次のように書いている。

つまりじぶんの所有物は
じぶんで自由に
処理する権利がある
のであって、

それを他人に、
あるいは共同体や国家に、
意に反してみだりに奪われたり
処分されたりすることは
認められてはならないということは、
市民社会において
「個人の自由」の前提要件となる
ことがらでもある。

だれからも収奪されたり、
搾取されることない私的所有の制度化は
近代市民社会成立の
大事なひとつの条件だったわけだ。

それは、現代における
知的所有権やプライバシーの保護などにも
繋がっていく。

しかし同時に、厳密に規定された
その私的所有の制度が、
そしてさらにさかのぼって
<所有>という観念そのものが、
現代社会にとって
ある種の桎梏(しっこく)に
なりはじめている
という面が、
はっきりと出てきている。

桎梏(しっこく)とは、手かせ足かせ。
つまり、自由な行動を束縛する、
ということ。

できあがった映画は誰のものなのか?
出来上がったCDは誰のものなのか?
マンションは誰のものなのか?
所有者は「自由に処理」できるのか?

「個人の自由」の
前提要件だったはずの所有権が
現代社会においては逆に
様々な「手かせ足かせ」を生んでいる。

 

藤野寛さんは、「家族と所有」なる章を

「私の夫」「私の娘」というのと
「私の隣人」「私の上司」というのでは
どこかに違いがあるだろうか。

という、軽い問いから始めている。

「私の」を「私にとっての」と
言いかえられる点ではどちらも同じだ。
でも、直感的にはなにかが違う。
うまく言えないけれど。

それを藤野さんは見事に言葉にしている。

「私の夫」「私の娘」を見てみよう。

始めの二つの例に特徴的なことは、
「他の女の、ではない」
「あなたの、ではない」という
排除・独占の意味が
色濃くにじみ出てきている

という点だろう。

「私の」の「の」は、
単に関係を表わすのみでなく、
所有、さらには専有の意味まで
匂わせるものとなる。

「あなたになんか分けてやらないわ」
という気持ちが
言外に込められているのである。

「私の坊や」といった
言葉使いに典型的にあらわれてくる、
独占欲、排他性、そして
否定的な心理表現としての嫉妬心、
それらが家族間での所有格「の」には
含まれている。

そしてそれは、
自分の所有物なのだから
 自分の思いのままに処理してよい

という発想に繋がっていく。

 

所有格の「の」、
これだけをテーマに一冊の本!?
と驚きながら読み始めたが、

「自分の持ち物なのだから
 何をしてもいい」

の発想にいかに多くの面があるのか、

そしてまた、
最初に書いた鷲田清一さんの
 「現代の都市空間は隅々まで
  誰かのもの、誰かの所有物だ。」
なる事実が、そもそも本来は
「当たり前」ではないことを
改めていろいろ学ぶことができる。

 

 

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2022年10月 2日 (日)

鰆(さわら)を料理店で秋にだす

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鰆(さわら)を料理店で秋にだす

- 盛り方のしゃれたひと工夫 -

 

東京にある日本料理店で
総料理長を務める野﨑洋光さんが書いた
下記の本には、
おいしく料理を作るための
特に素材の味を活かすための
ちょっとしたヒントが
各ページにちりばめられている。

野﨑 洋光(のざきひろみつ) (著)
おいしく食べる 食材の手帖
池田書店

(以下水色部、本からの引用)

長年の経験に基づくコメントは
多岐にわたり、

 「ほうれん草」は
 熱湯でゆでてもいいけれど、

 アブラナ科の「小松菜」は
 80℃くらいのお湯のほうが
 本来の味が引き出せる。

 他にも、同じアブラナ科の野菜
  かぶ
  カリフラワー
  キャベツ
  大根
  菜の花
  白菜
  ブロッコリー
  水菜
 などは、
 グラグラと沸騰したものではなく
 80℃くらいのお湯のほうがいい。

といった調理法に関するものから

 かぼちゃを選ぶとき、皮の色が一部分だけ
 オレンジ色や黄色になっているものを
 見ることがあるが、
 あれは日光にあたっていなかっただけで
 品質に問題はない。
 むしろ、ここの色が濃いものほど
 甘くておいしい

のような買い物アドバイス、

調理法によって、
むく皮の厚さを変えている意味、

ゆでたり、煮たりするときの
ふたをする・しないが味や色に与える影響、

加えて

じゃがいもは、
イモ科ではなくナス科!
ちなみに、
イモ科という分類はもともとない。

といったビックリ豆知識まで
食材や料理に関する知識を
多方面から楽しむことができる。

本の内容自体は
「素材の味を最大限に活かす調理」
を基本メッセージに、
家庭料理にむけて書かれたものだが
ところどころに
プロならではコメントがあって、
そこがなかなか興味深い。
印象的なのはコレ。

漢字では鰆と書き、
春を告げる魚とされています。

これは、かつて春になると
瀬戸内海に産卵のために
集まってきたことから
あてられた字です。

しかし、脂ののった冬のものも
寒さわらとして関東では好まれ、
春に限らず楽しめる魚なのです。

けれど、春のイメージが強く、
料理屋ではほかの季節は出しにくい


そこで、秋は皮目を下にして盛る
なんてこともします。
春の裏側は秋なので、
しゃれをきかせるというわけです。

漢字で書くと違和感があるなら、
平仮名にするなんて手もありますね。

おいしいのに、漢字の影響もあって
料理店ではだしにくい秋の鰆、
それを盛り方のしゃれで克服しているなんて。

日本料理のおしゃれなところのひとつだ。

 

 

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2022年9月25日 (日)

私のなかの何かが健康になった

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私のなかの何かが健康になった

- ミヒャエル・エンデの言葉 -

 

「モモ」「はてしない物語」
などの作品で知られる作家
ミヒャエル・エンデに
子安美知子・子安文の母娘が
インタビューをしている

子安 美知子 (著)
エンデと語る―作品・半生・世界観
朝日選書 朝日新聞社

(以下水色部、本からの引用)


で、エンデはこんな話をしている。

私が音楽を聴いて、
理解すべきことがありますか?

(中略)

音楽に理解はいらない。
そこには体験しかない
私がコンサートに出かける、
そこですばらしい音楽を聴く。

帰り道、私は、
ああ今夜はある体験をした、という
思いにみたされている。

でも、私は、コンサートに行く前と
あととを比べて、
自分がいくらかりこうなった、
なんて思うことはありませんよ

そうでしょう?

りこうになったわけでもないのに
体験によって満たされるもの。

それはもちろん音楽に限らない。

シェークスピアの芝居
見にいったとする、そのときもです。

私はけっして、りこうになって
帰るわけではありません


なにごとかを体験したんです。

すべての芸術において言えることです

本物の芸術では、
人は教訓など受けないものです。

前よりりこうになったわけではない、
よりゆたかになったのです。

心がゆたかに - 
そう、もっといえば、
私のなかの何かが健康になったのだ、
秩序をもたらされたのだ。

およそ現代文学で
まったく見おとされてしまったのは、
芸術が何よりも治癒の課題を負っている
というこの点です。

前回書いた「芸術と医療は同じ?」
とまさに同じ視点だ。

「心が豊かになった」はよく使う表現だが
「何かが健康になった」
という表現はおもしろい。

でも、心満たされたとき
「元気になった」とはよく言う。
たしかに「健康」になっている。

薬でもないのに
免疫力を高め、元気にする。
芸術にはそういう力がある。

なのでエンデは、文学作品は、啓蒙や
何かを教えるために書くわけではない、と
はっきり言い切っている。

啓蒙ではなくて-啓蒙は、
最も非本質的な課題です。

啓蒙をねらうのだったら、
私はエッセイや、評論を書きます

あるいは
こうしたインタビューの形式とか。
人に何かを教える意図があったら、
小説や物語のオブラートに包んで
お渡しするより、
そのほうが適しています。

正しい知識を与えたいなら
エッセイや評論を書くよ、か。

一冊の本は、何かの思想の
お説教であってはならない、
と私はいいましたが、
それは著者がかかわった
思想の成果ではあるはずなのです。

一篇の詩は、知恵を
しのばせておく必要はないのですが、
知恵から生まれた
結果ではなければなりません。
が、
知恵そのもの、思想そのものが
顔出しするようであってはならない。

絵画でもおなじではありませんか。

あるいは音楽でも、彫刻でも-。

それらはすべて、
なにかの世界観に根ざした産物で
なければならない

作者の世界観が
文学や絵画や音楽や彫刻といった
形になり、そしてそれは
触れた人を広く「健康にする」作用がある。

芸術は、生物が本来持つべき「調和」を
取り戻すのに大きく貢献する
不思議な力を持っている。

 

 

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«芸術と医療は同じ?

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