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2024年12月

2024年12月29日 (日)

付箋を貼りながらの読書

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付箋を貼りながらの読書

- どうして貼ったの? -

 

いまや貴重な存在になってしまった
「大きな書店」のカウンタ横にあった
小冊子
100demeichotekefrees
を読んでいたら、

武田砂鉄(ライター)
名著化するかもしれない


で、思わず手が止まった。
(以下、水色部は小冊子からの引用)

どんな本でも付箋を用意して
あちこちに貼りながら読んでいる。

とあったからだ。

私もまさに同じ方法で読んでいる。
線を引いたり、ページを折ったり、
後で気になった箇所を読み返す方法は
ほんとうにいろいろ試してみたが、
最終的に今はこの方法に落ち着いている。

百均で買った付箋をさらに細く切って
ちょっとでも引っかかった行があれば
あまり考えずにサクサクと貼っていく。

なので、並べるとこんな感じだ。

S__2875406s 

「こんなに貼ったら探せないでしょ」
と友人は半ば呆れ顔で笑っているが
本人はぜんぜん気にしていない。
栞の紙に、小付箋をまとめて貼ってあるので
読みながらそこから剥がして貼ると、
読むペースを大きく乱さないですむ。

本棚を眺め、
久しぶりに引っこ抜いた本にも
付箋がついている。

フレーズが刺さったのかもしれないし、
論理展開に領いたのかもしれない。

付箋をつけた箇所を開いてみると、
その半数近くで、
つけた意味が読み取れない


このフレーズ、そんなに響かないし、
論理展開だって平凡だ。
でも、その時は、
間違いなくその箇所に心が動いた
のだ。

まったくそう。
読んだ直後はともかく、時間が経つと
「どうして貼ったのか」が
思い出せない行がほんとうに多い。

でも、まさに
「その時は、間違いなくその箇所に
 心が動いたのだ」

人間の考えは変わる。
ならば、
名著が名著じゃなくなるかも
しれないし、
逆に名著になって
戻ってくるかもしれない。

時代がその本を
名著にするかもしれないし、
むしろ、この時代にこれはどうかな、と
遠ざけるかもしれない。

本、音楽、映画、全てに共通するが、
名作には流動性がある
だって、こっちが変わるから。

変わったこっちが読めば、
味わい方だって変わるはずなのだ。

確かに自分にとっての本の価値は
「その時の自分」との組合せにおいて
決まっていくし、
それは流動的ではあるけれど、
自分が貼ったのに
自分で理解できない付箋を見ていると、
「読んだ時の自分」が
そこに貼り付いているようで、
理解できないながらも
「不思議な過去との再会」を
果たしたような気分になる。

 

2024年もいよいよ年の瀬。
気ままに続けているブログですが、
来年もマイペースでぼちぼち書いていこうと
思っています。
引き続きどうぞよろしくお願いします。

よいお年をお迎え下さい。

 

 

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2024年12月22日 (日)

後日に書き換えられたかも?

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後日に書き換えられたかも?

- 記憶が鮮明なればこそ -

 

いまや貴重な存在になってしまった
「大きな書店」のカウンタ横にあった
小冊子
100demeichotekefrees
から、印象的な言葉を
前回に引き続き紹介したい。
(以下、水色部は小冊子からの引用)

今日は、

安田登(能楽師)
古典の不思議に出会った瞬間


から。

安田さんは、中学時代の思い出を書いている。
読書家で物知りな彼女がいた安田さん。
彼女の話を理解するために本を読み始めた。

彼女との書店デートで見つけたのが
本書、『詩経』だった。

何気なく手にした本書の中に
一日見ざれは三月の如し
という句を見つけて驚いた。

思春期の男子である。

毎日でも彼女に会いたい。触れていたい。
一緒にいたい。
そんな自分と同じことを
数千年前の人間が思い、
しかもそれを書き、
さらにそれをいま読むことができる。

中国の古典、五経のひとつ『詩経』に載る
恋人とたった一日会わないだけで、
三か月も会っていないような気持ちになる、
という意味の詩句のその内容と
千年単位という時間スケール
圧倒される安田少年。


その日の書店の景色は
いまでも覚えている。
天気も覚えている。
匂いも覚えている。
隣にいた彼女のことも覚えている。

むろん、それは後日に
書き換えられた部分もあるだろうが

それでもその場の情景が、
そっくりそのまま、
自分の脳裏に
焼き付いたほどの衝撃だった。

「それは後日に書き換えられた部分も
 あるだろうが」
が読んでいて妙に印象に残った。
そう、そこまで鮮明な記憶であっても、
というか鮮明な記憶であるからこそ
後日書き換えられることは
確かにあるような気がする。

記憶って過去のことではあるが、
思い出すのはいつでも今なのだから、
今の気持ちがどうしても影響してしまう。

なので鮮明なればこそ
その強い印象によって書き換えられる機会が
多いのかもしれない。
個人の記憶ってその程度のものだ。
そこに正しい、間違っているを持ち出しても
あまり意味はないだろう。

書き換えられたかも?
そう思う心の余裕があれば十分だ


あの読書家の安田さんに

さまざまな名著に出会えたのは
ひとえに彼女のおかげである。

とまで言われた彼女さん。
今、どこでどうして
いらっしゃることだろう。

 

 

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2024年12月15日 (日)

内発性を引き出してこそ

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内発性を引き出してこそ

- 感動的なものができるとき -

 

いわゆる街の本屋さんはまさに減る一方だが
けっこう大きな書店でも
縮小したり閉店したりするところが多く
いまや「大きな書店」は
貴重な存在になってしまった。

そんな書店のひとつに立ち寄ったところ
カウンタのそばに
Take Free (ご自由にどうぞ) と
こんな小冊子が置いてあった。
さすがにこれはAmazonでは入手できない。
100demeichotekefrees
NHK Eテレの番組「100分de名著」に
指南役で登場した各専門家による
名著にまつわるエッセイをまとめたもの。

その中から、いくつか印象的な言葉を
紹介したい。
(以下、水色部は小冊子からの引用)

最初は、

秋満吉彦
 (NHK100分de名著プロデューサー)
いつも原点を思い出させてくれる名著


から。

考えもしなかった
感動的なものができるのは、
メンバーそれぞれの内発的なものが
引き出されたとき
ではないか……
ということに深く気づかされた本が、
レヴィ=ストロース
『構造・神話・労働』
だ。

「人間にとって労働とは何なのか」を
研究していたレヴィ=ストロースは、
世界中をフィールドワーク。
日本も訪問し、
日本の職人の働き方を
徹底的に観察した、という。

その時、彼が気づいたのは、
西洋人の「鋤く」と日本人の「働く」は
違うということ。
さて、どう違うというのだろう。

西洋人の労鋤というのは、
自分の頭にあるブランを
対象とか自然にあてはめる


たとえばコンクリートで
何かをつくるとしたら、
材料をペースト状にして、
自分が想像した設計図に
完璧にあてはめてつくる。

一方、日本人はどう映ったのか。

たとえば石垣。
自然の石をどう組み合わせたら
石垣になるかを考える。

陶器をつくる人は
「この土がなりたがっている形を
 引き出す」と言ったりもする。

日本の職人は何かを
支配しようとするのではなくで、
素材そのものが持っている素晴らしさ、
潜在力を引き出そうとする

そういえば、以前
編集者松岡正剛さんも花伝書を引いて
「才能とか能力とは、アタマやカラダや
 知能にそなわっているものではなく、
 素材や道具にそなわっているものを
 引き出せる仕業
のこと」
と言っていた。

あらゆるものを開発して
消費しつくしてしまう
先がないような
文明の作り方ではなくて、
日本人の、受動的に何かを
引き出そうさする働き方こそが、
労勘に豊かさを取り戻す方法だ
というのだ。

この本に出合って、秋満さん、
プロデューサーとしての
仕事のやり方が激変したという。

支配せずに受け身になり、
一緒に働いている人の豊かな能力、
内発性を引き出すやり方

「土がなりたがっている形を引き出す」は、
土や石といった素材だけでなく、
それは働いている「人」に対してだって
あてはまる考え方だ。

 

 

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2024年12月 8日 (日)

「生きてみると、とっても大きい」

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「生きてみると、とっても大きい」

- 4歳の言葉から -

 

先日、5歳から7歳くらいの
年齢の子どもたちと遊んでいたら、
公園や木々の間を走り回りながら発せられる
子どもならではの世界観に
おおいに笑い、驚かされた。
と同時に、以前読んだ
この新聞記事のことを思い出した。

2009年2月14日 朝日新聞
090214_okinawas

明治政府が琉球国を併合した「琉球処分」や
沖縄戦、基地問題等を考えてきた
知念(ちにん)ウシ(うしぃ)さんが、
沖縄での自身の子育てを書いたもの。

「歴史の積み重ね伝えたい」
との見出しがついている。
(以下水色部、記事からの引用)

 

私は大学入学以来
10年余りを過ごした東京から
9年前に、生まれ育った場所に戻り、
世帯を構え、
8歳と6歳の子を育てている。

そこで、知念さんが気づいたのは

地域という空間には、
今、目に見える一時だけでなく、
人々の思いをのせたさまざまな時間が
折り重なって同時に流れている

ということだ。

知念さんは、
そのことを子どもたちに教えたいと
強く思いながら子育てしている。

自分のいる場所には歴史があること。
過去は今とつながり、
その中で人は自分の今を生き、
未来ができること。

この地で連綿と生きてきた人々の
喜びや悲しみや怒りが、
自分を守り育むのだと

そんな知念さんに育てられた子どもたち。
こんなエピソードが最後に紹介されている。

夫の故郷のアメリカを訪ねた、
ある夏のこと。

親類と出かけたレストランに
世界地図がかかっていた。
私は子どもたちに、
これがアメリカだよ、と教えた。

6歳だった息子が聞く。
「沖縄はどこ?」。
私が指さしたのは、
印刷ミスにも見える小さな黒い点。

息子が叫ぶ。
「えー、こんなに小さいの、
 沖縄って。あんなに大きいのに」。

すると4歳の娘がすまして言った。

沖縄はね、地図で見ると小さいけど、
 生きてみると、とっても大きい

以前であれば、
「そうそう、子どもにとっては
 あの小さい沖縄がとっても大きく
 感じられるンだよね」
と読み飛ばしてしまっていたかもしれない。


しかし、今は少し違った感覚で捉えている。
沖縄以外も知っている大人は
「沖縄は小さい」と言う。
「世界は広い」と言う。

でも、沖縄だけをとっても
「歴史の積み重ね」を感じ、
「この地で連綿と生きてきた人々の
 喜びや悲しみや怒りが、
 自分を守り育むのだ」と
丁寧に感じながら生活すれば、
大人にとっても沖縄は広いはずだ。

雑に世界を捉えると
物理的な広さを求めて
「世界は広い」と言ってしまうけれど、
細かいことに気づき、
詳細に世界を感じる感性をもっていれば、
沖縄の中にだけでも
無限の世界が広がっている。

大人は雑だから広さを求めるが
子どもは繊細だから「とっても大きい」と
感じられる。

大人になってからだって
「とっても大きい」と感じられる感性を
持つことは可能なはずだし、
そこから見えてくる
無限の世界もあるはずだ。

 

 

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2024年12月 1日 (日)

生物を相手にする研究

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生物を相手にする研究

- 顔色が読めるまでとことん付き合う -

 

私は、学生時代は理工学部、
就職してからは
エンジニアとして仕事をしてきたので、
主に電気回路と
ソフトウェア関連分野については
実験の経験がそこそこあるのだが、
「生物を対象とした実験」の経験はない。

森山 徹 (著)
ダンゴムシに心はあるのか

新しい心の科学
PHPサイエンス・ワールド新書
PHP研究所
Dangomushinis

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

を読むと、生物を相手にする研究の
難しさがよくわかる。

ヒキガエルの捕食行動に関する実験を例に
実験者の眼を学んでみよう。
実験対象は「空腹なヒキガエル」だ。

ヒキガエルを閉じ込めて
所定の期間空腹にし、
「はい、がんばって」と
本実験に供してもだめなのです

どうしてそれではダメなのか。

実験者が気をつけなければならない点は
多々挙げられているが、
わかりやすい例で言えば、
たとえばこんなこと。

捕食行動を
動機づけたい実験者が気にするのは、
個体の「顔色」です。

「落ち着いているかどうか」、
すなわち、
個体が食欲だけを生み出せるかどうか、
です。

落ち着きをなくした個体も
空腹なのですから、
食欲を生じているでしょう。

しかし、落ち着きのない個体は、
実験装置に置いた瞬間、
逃げようと暴れるかもしれません。

落ち着いている個体ですら、
何をするかわかりません。
もしかしたら、ある個体は
実験室の扉の丸いドアノブを
捕食者であるヘビの目玉と捉え、
逃げ出すかもしれません。

そして、すべての個体が
落ち着きを保てなければ

私たち実験者は
彼らに食欲が生じていたかどうかを
判断することなどできません。

つまり、準備実験(段階)では
空腹にすればいいだけではなく、
実験ができるような
「落ち着いた」空腹のカエルを準備する、
ことが必要になるわけだ。

準備実験を終えるということは、
その間にヒキガエルが
「実験室という特殊な空間で、
 食欲以外の欲求を抑制できる
ようにするということなのです。

そもそもそんなことができるのだろうか?
なにを頼りにすればいいのだろう。

エサを断ちつつ、落ち着ける状況を
つくることが必要なのです。

そのような状況は、
論理的に導けるものではありません。

「とことん付き合い」、
「顔色を見ているうちに」
わかってくるもの
です。

結局、拠り所はここしかないようだ。
「とことん付き合い顔色を見る」
ヒキガエルに対しても・・・

外から見ると、実験者の仕事とは、
実験室の気温や湿度、
提示刺激の均一化などの、
実験環境の厳密な設定と
計測機器による行動などの
正確な記録のように見えます。

もちろん、
それは実験者の大事な仕事です。

しかし、それらは手続きにすぎません

実験者が自分を研究者たらしめる仕事、
それは、
実験を始めるまでの準備期間に、
動物の心を育んでおくこと
です。

準備期間に「実験対象の心を育む」。

実験者は、その環境を、
ヒキガエルと付き合っていくという
「コミュニケーション」を通して
つかんでいくしかない
のです。

実験に必要な環境を
「実験対象とのコミュニケーション」を
通じて掴んでいく。

対象の「顔色」を見る。
私が長く居た電気工学の分野にはない
実験準備期間中の仕事だ。

そのあたり、研究の苦労話としてはあっても
論文に出てくることはない。
素人ながら、そこには
研究の成果以上に大事なことが
含まれているような気がする。

「観察・観測しやすい個体を選ぶ」
そのとき含まれるものと落ちるもの。

それ自体を研究対象にすることは
できないものだろうか?

 

 

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