付箋を貼りながらの読書
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付箋を貼りながらの読書
- どうして貼ったの? -
いまや貴重な存在になってしまった
「大きな書店」のカウンタ横にあった
小冊子
を読んでいたら、
武田砂鉄(ライター)
名著化するかもしれない
で、思わず手が止まった。
(以下、水色部は小冊子からの引用)
あちこちに貼りながら読んでいる。
とあったからだ。
私もまさに同じ方法で読んでいる。
線を引いたり、ページを折ったり、
後で気になった箇所を読み返す方法は
ほんとうにいろいろ試してみたが、
最終的に今はこの方法に落ち着いている。
百均で買った付箋をさらに細く切って
ちょっとでも引っかかった行があれば
あまり考えずにサクサクと貼っていく。
なので、並べるとこんな感じだ。
「こんなに貼ったら探せないでしょ」
と友人は半ば呆れ顔で笑っているが
本人はぜんぜん気にしていない。
栞の紙に、小付箋をまとめて貼ってあるので
読みながらそこから剥がして貼ると、
読むペースを大きく乱さないですむ。
久しぶりに引っこ抜いた本にも
付箋がついている。
フレーズが刺さったのかもしれないし、
論理展開に領いたのかもしれない。
付箋をつけた箇所を開いてみると、
その半数近くで、
つけた意味が読み取れない。
このフレーズ、そんなに響かないし、
論理展開だって平凡だ。
でも、その時は、
間違いなくその箇所に心が動いたのだ。
まったくそう。
読んだ直後はともかく、時間が経つと
「どうして貼ったのか」が
思い出せない行がほんとうに多い。
でも、まさに
「その時は、間違いなくその箇所に
心が動いたのだ」
ならば、
名著が名著じゃなくなるかも
しれないし、
逆に名著になって
戻ってくるかもしれない。
時代がその本を
名著にするかもしれないし、
むしろ、この時代にこれはどうかな、と
遠ざけるかもしれない。
本、音楽、映画、全てに共通するが、
名作には流動性がある。
だって、こっちが変わるから。
変わったこっちが読めば、
味わい方だって変わるはずなのだ。
確かに自分にとっての本の価値は
「その時の自分」との組合せにおいて
決まっていくし、
それは流動的ではあるけれど、
自分が貼ったのに
自分で理解できない付箋を見ていると、
「読んだ時の自分」が
そこに貼り付いているようで、
理解できないながらも
「不思議な過去との再会」を
果たしたような気分になる。
2024年もいよいよ年の瀬。
気ままに続けているブログですが、
来年もマイペースでぼちぼち書いていこうと
思っています。
引き続きどうぞよろしくお願いします。
よいお年をお迎え下さい。
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