「ぼくはウンコだ」
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「ぼくはウンコだ」
- たった一音に反応してしまう耳 -
以前、
「はじめて考えるときのように」(1)
の記事の中で、
耳を澄ますこと、研ぎ澄ますこと。
という野矢茂樹さんの言葉を紹介した。
考えるとは、
じぃ~っと集中することではない。
なので、「考えていない」人と
同じように行動していい。
「あ、これだ!」という声に
その人は耳を澄ましている。
この
「耳を澄ましている」
「あ、これだ!」
で思い出した話があるので、
今日はそれを軽く紹介したい。
高島俊男 (著)
「最後の」お言葉ですが・・・
ちくま文庫
(書名または表紙画像をクリックすると
別タブでAmazon該当ページに。
以下、水色部は本からの引用)
にある、「ぼくはウンコだ」という題の
一篇。
「おれのところへかかってくる電話の
半分くらいは小便してる最中に
かかってくるんで弱る」
とボヤいたら、ロベルトは即座に、
「ぼくはウンコだ」
と言った。
これには小生、いたく感服した。
さすが高島さん、
この「は」を聞き逃さないとは。
まさに「耳を澄ましている」の好例だ。
「ぼくはウナギだ」の「は」である。
「限定・強調のは(ワ)」と言うらしい。
森田良行『基礎日本語辞典』には
「僕は教室だ」
「あしたは引っ越しだ」
「日曜日は休養だ」
「彼は釈放だ」
などの例文をあげてある。
もっともさすがの森田先生も、
説明には難渋していらっしゃる
模様である。
どう難渋していらっしゃるのか?
森田良行『基礎日本語辞典』を
覗いてみよう。
(以下薄紫部、
『基礎日本語辞典』からの引用)
話し手が聞き手に対して
まず主題を提示し、
これを発想の出発点として
疑問の場(または課題の揚)を
設定することである。
「何ハ」で示した題目について、
次にどのような判断を下し
解説を施すかは話し手の自由である。
その題目事物を
行為や属性の主体として扱おうと、
行為の目的や対象として扱おうと、
自由である。
そのため述語が動詞または
動詞的意図を持つ名詞のときは、
「何ハ」の「何」は
行為の対象物としても扱われ、
「〜ハ」は必ずしも主語になるとは
かぎらない。対象語ともなる。
うーん、たしかに難渋していらっしゃる。
辞典の説明なのに、一度読んだだけでは
全く理解できない。
高島先生ですら
理解に難渋するのかもしれんが、
とにかくむづかしいのだ。
とおっしゃっているので
まぁ素人の私が理解できないことも
許して(?)もらおう。
かつ自然に言える西洋人が
日本にそう何人もいるとは思えない。
凡庸な西洋人なら
「ぼくのばあいはちょうどワンコが
出始めた時に電話が鳴ります」
とか何とか冗長に言いそうである。
あらためてロベルトの日本語能力を
見なおしたことでありました。
もちろんロベルトさんの日本語能力には
感服しかないが、
たった一音を聞き逃さずに反応し、
印象的な題のエッセイに仕上げる
高島さんの耳も
言葉について「考えている人」の
まさに好例と言っていいだろう。
「あ、これだ!」という声が聞こえるのは
考えている人だけだ。
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