贈り物に囲まれている
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贈り物に囲まれている
- 「おくり」と「おくれ」は同根 -
前回、
パリ五輪でのニュースをきっかけに
思い出した
森田真生 (著)
数学の贈り物
ミシマ社
(書名または表紙画像をクリックすると
別タブでAmazon該当ページに。
以下、水色部は本からの引用)
からのエピソードについて書いた。
この本は、森田真生さんが
2014年-2019年に発表したエッセイ19篇を
加筆・修正して
一冊の本に再構成したものだが、
最後も森田さんらしい
優しい言葉で締めくくられている。
今日はその部分を紹介したい。
「おくり」と「おくれ」は、
同根のことばだそうだ。
たしかに、
「贈り物」を贈るときには、
いつも「遅ればせながら」の
実感がある。
心に抱きながら、
伝えられずにいた思いを、
おくれの自覚とともに
おくるのである。
実際どのような記述になっているのか
大野晋、佐竹昭広、前田金五郎 (編)
『岩波古語辞典』を覗いてみよう。
(以下、薄茶色部
『岩波古語辞典』からの引用)
オクレ(後・遅)と同根。
オクリは
意志的に後からついて行くのが原義。
転じて、後から心をこめて
人に物をとどけるの意
実はこれを機会に他社の古語辞典も
数冊見てみたのだが、
この同根説にまで言及しているものは、
他に見当たらなかった。
一方で、
岩波の編者のひとり大野さんによる
大野晋 (編)
『古典基礎語辞典』 角川学芸出版
には同じ意味の記述があったので、
大野さんの影響が大きいのかもしれない。
閑話休題
「贈り物」と「遅ればせながら」の
「おくり」「おくれ」が
同根だったなんて。
でも、考えてみると
生まれてきたこと自体、
まさに「おくれ」ての登場だ。
この世に遅れてきた存在である。
だから、生きることは、
学び続けることになる。
自分に先立つ人たちが考え、
気づき、感じてきたことを、
あらためて自分のことばと思考で、
摑み直していくことになる。
こうして学び、
発見していく喜びもまた、
いつも「遅ればせながら」の
実感を伴う。
学ぶことは、前に進むだけでなく、
自分の遅れに目覚めていくことである。
自分の果てしない遅れに戦慄するとき、
現在(いま)は、
ただいまのままで贈り物になる。
「いま」のままで贈り物、
19篇のエッセイに貫かれた、
ベースとなっているものの見方だ。
そのことを森田さんは、
こんな言葉でも表現していた。
得ようとするのではなく、
はじめから手許にあるものを摑む。
本を読むと、我々は
手許にすでにあるものを
まだまだ摑めていないことに
改めて気付かされる。
身近なエピソードを交えながら
語られる丁寧な言葉。
「ことば」の「こと」の「端(は)」、
端(は)を
端(いとぐち)、端(はし)、端(きざし)と
読みながらこう綴っている。
「こと」の「端(は)」だという。
ことばは、事実に比べて
いつも不完全である。
肉声によろうが、文字によろうが、
ことばは、事実に遅れる宿命にある。
だが、ことばにはまた、
「こと」を引き起こす力がある。
ことばはこのとき、
未来への「端(いとぐち)」となる。
人は、はじめからあった世界の
端(はし)くれとして生まれ、
いまだかつてない世界の
端(きざし)を示して、
滅びていくことができる。
おくれ、おくられる人間のことばは、
この矛盾をそのまま内包している。
事実に遅れる宿命のことばには、
未来への「端(いとぐち)」となり、
「こと」を引き起こす力もある。
我々はすでに
贈り物に囲まれているのだ。
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