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2024年8月

2024年8月25日 (日)

贈り物に囲まれている

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贈り物に囲まれている

- 「おくり」と「おくれ」は同根 -

 

前回
パリ五輪でのニュースをきっかけに
思い出した

森田真生 (著)
数学の贈り物

ミシマ社

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

からのエピソードについて書いた。

この本は、森田真生さんが
2014年-2019年に発表したエッセイ19篇を
加筆・修正して
一冊の本に再構成したものだが、
最後も森田さんらしい
優しい言葉で締めくくられている。

今日はその部分を紹介したい。

『岩波古語辞典』によると、
「おくり」と「おくれ」は、
同根のことば
だそうだ。

たしかに、
「贈り物」を贈るときには、
いつも「遅ればせながら」の
実感がある。

心に抱きながら、
伝えられずにいた思いを、
おくれの自覚とともに
おくる
のである。


実際どのような記述になっているのか
大野晋、佐竹昭広、前田金五郎 (編)
『岩波古語辞典』を覗いてみよう。
(以下、薄茶色部
 『岩波古語辞典』からの引用)

おくり【送り・贈り】
オクレ(後・遅)と同根
オクリは
意志的に後からついて行くのが原義。
転じて、後から心をこめて
人に物をとどけるの意

実はこれを機会に他社の古語辞典も
数冊見てみたのだが、
この同根説にまで言及しているものは、
他に見当たらなかった。
一方で、
岩波の編者のひとり大野さんによる

大野晋 (編)
『古典基礎語辞典』 角川学芸出版


には同じ意味の記述があったので、
大野さんの影響が大きいのかもしれない。

閑話休題

「贈り物」と「遅ればせながら」の
「おくり」「おくれ」が
同根だったなんて。

でも、考えてみると
生まれてきたこと自体、
まさに「おくれ」ての登場だ。

人は誰もが、
この世に遅れてきた存在
である。

だから、生きることは、
学び続けることになる。

自分に先立つ人たちが考え、
気づき、感じてきたことを、
あらためて自分のことばと思考で、
摑み直していくことになる。

こうして学び、
発見していく喜びもまた、
いつも「遅ればせながら」の
実感を伴う。

学ぶことは、前に進むだけでなく、
自分の遅れに目覚めていくことである。
自分の果てしない遅れに戦慄するとき、
現在(いま)は、
ただいまのままで贈り物になる。

「いま」のままで贈り物、
19篇のエッセイに貫かれた、
ベースとなっているものの見方だ。

そのことを森田さんは、
こんな言葉でも表現していた。

手許にない何かを
得ようとするのではなく、
はじめから手許にあるものを摑む

本を読むと、我々は
手許にすでにあるものを
まだまだ摑めていないことに
改めて気付かされる。

身近なエピソードを交えながら
語られる丁寧な言葉。
「ことば」の「こと」の「端(は)」、
端(は)を
端(いとぐち)、端(はし)、端(きざし)と
読みながらこう綴っている。

「ことば」とは本来、
「こと」の「端(は)」だという。

ことばは、事実に比べて
いつも不完全である。

肉声によろうが、文字によろうが、
ことばは、事実に遅れる宿命にある。

だが、ことばにはまた、
「こと」を引き起こす力がある


ことばはこのとき、
未来への「端(いとぐち)」となる。

人は、はじめからあった世界の
端(はし)くれとして生まれ、
いまだかつてない世界の
端(きざし)を示して、
滅びていくことができる。

おくれ、おくられる人間のことばは、
この矛盾をそのまま内包している。

事実に遅れる宿命のことばには、
未来への「端(いとぐち)」となり、
「こと」を引き起こす力もある。

我々はすでに
贈り物に囲まれているのだ。

 

 

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2024年8月18日 (日)

接続はそれと直交する方向に切断を生む

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接続はそれと直交する方向に切断を生む

- 『Barbed Wire(有刺鉄線)』から -

 

「パリ五輪の開会式が行われる予定の
 2024年7月26日、
 フランスで高速鉄道TGVを狙った
 同時多発的な放火事件が発生した」
なるニュースを聞いて、
思い出した話があるので
今日はそれについて書きたいと思う。

森田真生 (著)
数学の贈り物

ミシマ社

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

の中で紹介されていた、
スタンフォード大学の
リヴィエル・ネッツ(Reviel Netz, 1968-)
さんの著書『有刺鉄線』からの話。
鉄道への攻撃、が印象的に語られている。

この本、原題は"Barbed Wire"
未邦訳らしく日本語で読むことは
現時点ではできないようだ。

話は、
金鉱目当ての大英帝国とボーア人の間で、
南アフリカの植民地化をめぐって争われた
第二次ボーア戦争から始まる。

1899年10月12日の宣戦布告以降、
はじめこそはボーア人の攻撃に
苦しめられた英国軍だったが、
年明けから攻勢に転じ、
1900年6月にはボーア側の二つの首都が
占領された。

ところが、英国側の予想に反して、
戦争はここで終わらなかった。

ボーア軍が、
英国の鉄道、電信網を寸断する
ゲリラ戦を開始したからである。

ボーア人の主な移動手段は馬。

対する英国側にとっては、
鉄道が移動と物資輸送の命綱だ。

広大な草原に散らばる
馬の動きを阻止することは難しいが、
鉄道の機能を麻痺させることは簡単だ
線路を局所的に爆破するだけで
こと足りるからだ。

英国軍は鉄道をゲリラ攻撃から守り、
馬の動きをせき止める方法を
早急に考案する必要があった。

そこで目をつけられたのが
「有刺鉄線」である。

1870年代にアメリカで発明されて、
主に牛を中心とする家畜の動きを
制御するために利用された有刺鉄線を
英国軍はボーア人と
彼らの馬の動きを食い止めるために
使うことにした。

線路と電信のネットワークに
寄りそうように
有刺鉄線が張り巡らされ、
その破壊を試みるボーア人を
監視するために、
急ごしらえで
「ブロックハウス」と呼ばれる
簡易な要塞が、線路に沿って
等間隔に打ち立てられた。

この「ブロックハウスシステム」には、
予期せぬ効能があった。
南アフリカの大草原が
有刺鉄線の網の目で覆われることにより、
広大な土地が、境界の制御された
いくつもの小規模な領域に
分割されたのである。

接続」するための鉄道や電信が
有刺鉄線で守られることで、
領域を「分断」する機能を
帯びるようになったのだ。

分割された小領域ごとにボーア人を追い詰め、
英国側は勝利をおさめる。

「接続は、
 それと直交する方向に
 切断を生む」

これが、ネッツが
この事例から読み解く教訓だ。

その後、第一次世界大戦では
有刺鉄線が戦術として
本格的に用いられるようになる。

物資と情報が
高速で飛び交う方向と
直交するように、
塹壕(ざんごう)と有刺鉄線によって
人の移動がせき止められた。

接続はそれと直交する方向に切断を生む。

新しい接続が実現すると、
接続の価値ばかりが注目されがちだが、
同時に生まれる切断、分断にも
着目を促す、まさにいい教訓だ。

「直交する方向に」が印象的で
忘れられない。

 

 

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2024年8月11日 (日)

「はじめて考えるときのように」(2)

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「はじめて考えるときのように」(2)

- 手を動かして、人と出会って -

 

前回に続いて、

野矢茂樹 (文) 植田真 (絵)
はじめて考えるときのように

「わかる」ための哲学的道案内
PHP文庫 PHP研究所

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

から、メモしておきたい
印象的な言葉を紹介したい。

(抜き書きで紹介しようとすると
 どうしても断片的になってしまうので、
 もしご興味があるようであれば
 ぜひ本を手に取ってみて下さい)

(2-1)【疑いは局地的】

疑いは局地的なものでしか
ありえないってこと

ニセ札かもしれないって疑うためには
本物のお札がなくちゃだめだし、
夢かもしれないって疑うには
めざめているときがなければいけない。

疑うためには、
疑いの足場が必要になる。

何かを疑うためには、疑いを
まぬかれているところがなくちゃ、
だめ
なんだ。

疑うこともまた、
なんらかの枠組に導かれている。
すべての枠組をとっぱらって、
ぜんぶをいっぺんに懐疑の淵に
沈めようったって、
そんなことできはしない。

前回の(1-3)で
「否定」の印象がかなり変わったが、
ここでの「疑い」もおもしろい。

疑うことも含めて、
何かをしようと思ったら、
きちんと足をおろして、
足場を確保しなくちゃいけない。

常識はそのために
いちばんふつうに使われる足場になる。

だけど、ときには自分の立っている
そこを
疑わなくちゃいけないこともある。

でも、それは何もない真空地帯に
飛び上がることじゃない。
右足で立って左足のところを点検する。
そして左足で立って右足のところを
点検する

両足いっぺんに上げたら、
ころぶのがおちだ。

つねに足場を確かめながら
踊るようにステップを変えていく。
そもそも
「疑いをまぬかれているところがなくちゃ」
疑えない、というのも
言われてみるとおもしろい。
いっぺんにすべてを投げ捨てない
考えることを、軽やかに語っている。

(2-2)【自分の頭で考える?】

どうも気になるのは、
「自分の頭で考える」という言い方だ。
よくそんな言い方を聞く。

それがだいじだとか、
いまの若いひとは自分の頭で
考えようとしないとかも言われる。

だけど、ぼくの考えでは、
これはふたつの点で正しくない

正しくない2つの点とは何だろう?

考えるということは、
実は頭とか脳でやることじゃない

手で考えたり、紙の上で考えたり、
冷蔵庫の中身を手にもって考えたりする。
これがひとつ。

それから、
自分ひとりで考えるのでもない。
たとえ自分ひとりでなんとか
やっているときでも、
そこには多くのひとたちの声や、
声にならないことばや、
ことばにならない力が働いているし、
じっさい考えることにとって
ものすごくだいじなことが、
ひととの出会いにある

これが、もうひとつ。

「手を動かすこと」
「ひとと出会うこと」

考えるとは、頭の中だけで繰り広げられる
静的な世界ではないのだ。

(2-3)【思いつかなくても考えている】

ぼくらが考えるのは、
なによりも問題を
かかえこんでいるときだ。

何も思いつかないときだって、
問題の答えに耳を澄ましているかぎり、
その緊張が失われていないかぎり、
そのひとは考えている


だから、
「何も思いつかない」
ということと
「考えられない」ということは違う。

何も思いつかないという
つらい状態でも、
あきらめずに目をこらし、
耳を澄ます。

そしていろんな作業をしてみる
その緊張がつづかなくなったとき、
それが、「考えられない」
ということだ。

それは「頭の中が空っぽ」
ということじゃない。

前回の(1-1)で
述べられていたように、
「考える」っていうのは、
耳を澄ますこと、研ぎ澄ますこと。
その状態そのものに
大きな価値があるのだから
output、成果を急がないほうがいい。

(2-4)【「意見がある」と「考えている」】

「自分で考える」っていう言い方も、
いかがわしい


よくそれは「他人に左右されない
自分の意見をもつ」というくらいの
意味で使われる。

だけど、
「意見をもっている」ことと
「考える」っていうことは
ぜんぜん違う


他人に左右されない
頑固な自分の意見の持ち主って、
実はあまり
考えないひとなんじゃないだろうか


対抗してちょっと極端なことを言えば
考えるひとというのは、
ひとの意見を聞いて敏感に反応して、
すぐに「なーるほど」とか
「あっそうか」とか言って、
むしろ自分の意見には
こだわらないんじゃないだろうか

「頑固な自分の意見の持ち主って、
 実はあまり
 考えないひとなんじゃないだろうか」
とは厳しいながらも、思い当たることが
いくつもある。
一方、よく考えている人には
「意見とともに、独特な柔軟性がある」

 

2回にわたって
本からの言葉を紹介してきた。

本は最後に「考える技術」として
① 問題そのものを問う
② 論理を有効に使う
③ ことばを鍛える
④ 頭の外へ
⑤ 話し合う
の5項目を考えるためのヒントとして
まとめてくれている。

が、私個人の読後メモとしては
* 耳を澄ますこと
* 手を動かすこと
* 人と出会うこと
* 柔軟に対応できること
を考えるためのキーワードとして
再度挙げておきたい。

 

 

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2024年8月 4日 (日)

「はじめて考えるときのように」(1)

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「はじめて考えるときのように」(1)

- 可能性と否定の関係 -

 

単行本が出版されたのは2001年なので、
もう20年以上も前になるが、
今も文庫で簡単に手に入る

野矢茂樹 (文) 植田真 (絵)
はじめて考えるときのように

「わかる」ための哲学的道案内
PHP文庫 PHP研究所

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

は、
「考えること」とはどういうことか
野矢さんのガイドに沿って
「一緒に考えてみる」本だ。
「道案内」という副題がまさにピッタリ。

文章が平易なうえに、
たくさん挟まれた植田さんのイラストが
どれもやさしいので、
リラックスして読み進めることができる。

そんな中、メモしておきたい言葉が
いつくもあったので
今日はそれらを紹介したい。

(抜き書きで紹介しようとすると
 どうしても断片的になってしまうので、
 もしご興味があるようであれば
 ぜひ本を手に取ってみて下さい)


(1-1) 【耳を澄ますこと】

「考える」っていうのは、
耳を澄ますこと、研ぎ澄ますこと


だから、考えている間中、
その人は考えていない人と
同じように行動してていい。

いろんなことをして、
いろんなものを見て、
いろんなことを感じて、
いろんな思いがよぎる。

ただ違うのは一点、
「あ、これだ!」という声に
その人は耳を澄ましている


その一点だけ。
あとはおんなじでいい。

じぃ~っと集中して、
他のことができなくなっている状態だけが、
「考えている」ではない。

一点の違いを除いては
「考えていない」と同じでいいと
ゆるい表現。

ゆるい表現だが、「耳を澄ます」の
ひと言が表現しているものは
クリアで鋭い。


(1-2) 【関係を見ること】

だから、コップを見るときだって、
そこに見えていない
飲み物への思いをこめて、見ている。

「それをただそれ自体で」というのは
ありえなくって、
なんだって何かと関係づけられている


そして、その関係の糸をたぐることは
考えることにつながっている。

でも、コップを飲み物と関係づけるのは
ぼくらにとってはもう習慣になっていて、
だから、
その関係の糸は考えることというよりも、
すでに見ることに含まれている。

それを「コップ」として見ることは、
コップと飲み物の関係を
見ること
でもあるわけだ。

あるものを「見る」ということは、
それだけを見る、のではなく
それに関連する何かとの
「関係」を見るということ。

「関係」を見ようとすることが
考えることに繋がる、
という表現には、思い当たることが多い。


(1-3) 【可能性と否定と考えるということ】

「この部屋にはパンダがいない」
と言える者は、ただ、
この部屋にパンダがいる可能性を
つかんでいる者だけだ。

パンダがいたっていいと
思っているひとだけが、
「パンダがいない」って言える


論理的には
自分にも金があったっていいと
思っているひとだけが、
「ぼくには金がない」と言える

「パンダがいない」
「ぼくには金がない」
否定には話者が思い描く可能性が
含まれているというわけか。

どんな形であれ、
肯定が一瞬でも浮かばないと
否定はできない。

否定というのは、
可能性と現実のギャップに生じる


だから、現実ベッタリで
可能性の世界をもたないものには
否定ということもない


すべては「あるがまま」。

そして、ことばがないならば
可能性ということもない。

だから、ことばがないなら
否定ということもない。
そう結論できる。

それで、現実べッタリで
可能性の世界がないならば、
考えるということもない

だから、
ことばがなければ考えられない。

「可能性」「否定」「考えるということ」
この三者の間にこんな関係があるなんて。
まさに考えてみることはおもしろい。

否定表現で何かを言ったとき、
「事実を言っているだけだ」
と思っても、そこには必ず
「肯定された世界」が貼り付いている。

だからこそ、
現実とのギャップを考えることができる。

「否定」がもつ
ネガティブというか、
マイナスの印象がずいぶん変わってくる。
否定自体が考える大きなきっかけを
含んでいるわけだ。

よし、言ってみよう。
「ぼくには金がない」

 

 

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