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2024年5月

2024年5月26日 (日)

「言語の本質」(1)

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「言語の本質」(1)

- オノマトペも母語依存? -

 

「げらげら」とか「もぐもぐ」といった
言語学の中では周辺的なテーマと
考えられてきたオノマトペをキーに
「言語の本質」を考えていこうという

今井むつみ, 秋田喜美 (著)
言語の本質

-ことばはどう生まれ、進化したか
中公新書

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

は、二人の筆者によるものだ。

複数の著者が共同執筆する本では、
章を分担して別々に書くことが多いが、
本書は、二人の筆者が
思考のキャッチボールをしながら、
言語という高い山に挑戦すべく、
すべての章をいっしょに執筆した

というスタイルで書かれたものらしい。

まずは具体的なイメージがわきやすいよう、
日本語のオノマトペの例を見てみよう。
本文に出てきた例を並べてみると

擬音語:
 「ニャー」「パリーン」「カチャカチャ」
 聴覚情報

擬態語:
 「ザラザラ」「ヌルッ」「チクリ」
 触覚借報

擬態語:
 「スラリ」「ウネウネ」「ピョン」
 視覚情報

擬情話:
 「ゾクッ」「ドキドキ」「ガッカリ」
 第六感とでもいうべき身体感覚や心的経験

どれも馴染みはあるが、何がオノマトペか、
を定義しようとすると難しい。

オランダの言語学者
マーク・ディンゲマンセは
オノマトペを

感覚イメージを写し取る
特徴的な形式を持ち、
新たに作り出せる語

と定義しており、これが広く
受け入れられているらしい。

「ニャー」「ザラザラ」「スラリ」など

一般に、オノマトペはその言語の
母語話者にはしっくりくる
まさに感覚経験を
写し取っているように感じられる。

 

ところが、本文には
中央アフリカのパヤ語
ゲンゲレンゲ」は何を表しているか?
といった外国語の例も挙げられており、

非母語話者には
必ずしもわかりやすいとは限らない。

ことが実感できる。ちなみに
「ゲンゲレンゲ」は「痩せこけた様子」
だとか。
確かに日本語を母語とする私には
イメージしにくい。

感覚を写し取っているはずなのに、
なぜ非母語話者には理解が難しいのか

この疑問に

音声で写すことができるのは、
基本的に物事の一部分

で、一度に複数の要素を
写し取ることができないため、
と解説し、

オノマトペは基本的に
物事の一部分を
「アイコン的」に写し取り、
残りの部分を換喩的な連想
補う点が、絵や絵文字などとは
根本的に異なる

と冒頭の第一章をまとめている。

換喩(メトニミー)とは、ある概念を、
それと近い関係にある
別の概念で捉えることで、
「鍋が食べたい」といえば、
料理を作るための器である鍋でもって、
その中味の料理を指す、を
例として挙げている。

アイコンと違うことも、
物事の一部分しか音声化できないことも
まさにその通りだと思うが、
そのことと
非母語話者には理解が難しいこととは
どう結びつくのだろうか。

疑問を抱えたまま
先のページに進むことになる。
この本の話、次回も続けたい。

 

 

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2024年5月19日 (日)

二ヶ領用水(4) 久地円筒分水をメインに

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二ヶ領用水(4) 久地円筒分水をメインに

- 円弧の比率で分水 -

 

二ヶ領用水歩き、
* 二ヶ領用水(1) 三沢川との立体交差まで
* 二ヶ領用水(2) 向ヶ丘遊園駅付近まで
* 二ヶ領用水(3) 久地の合流地点まで
と、
JR南武線久地駅のそば、
下の地図の赤丸地点まで来た。
Nikaryogmap123kuji
向ヶ丘遊園の方から流れてきた
二ヶ領用水(上図黄色線:下写真左)と
歩いてきた二ヶ領用水(青線:下写真右)が
合流している。
P3313168s
今日は、この合流地点から
スタートしたい。
Nikaryogmap4a
合流した二ヶ領用水は
こんな大きな流れとなって
JR南武線久地駅から先、流れていく。
P3313169s

久地(くじ)の横土手
P3313172s
「多摩川に対し直角につくられた横土手。
 江戸時代、洪水の水勢を弱める目的で
 つくられた。
 この土手を挟んで利害の対立が激しく
 工事は約300m進んだところで中断した」
との説明が添えてあるが、はて? 
水勢を弱める目的で多摩川に直角、は
いいとしても、300mで中断、の
300mがどこの長さなのか、
図がないと全くイメージできない。

そのすぐ先には、
久地分量樋(ぶんりょうひ)】跡の碑が。
P3313175s
「久地で合流した二ヶ領用水の水を
 4つの幅に分け、
 各堀ごとの水量比率を保つための施設で、
 江戸時代中期に田中休愚(丘隅)によって
 作られました。そして、
 昭和16(1941)年、久地円筒分水
 完成により役目を終えました」
と説明がある。
円筒分水までは、歩いてもう数分だ。

この碑の横には、
高層マンションが二ヶ領用水(右下)に
覆いかぶさるように建っている。
P3313174s

平瀬川(左側)と二ヶ領用水(右側)の
との合流地点。
P3313179s
そのすぐ横に
久地円筒分水】がある。
P3313183s
中央の円筒部だけでも直径8m。
外側の円は直径16m。
送水されてくる流量が変わっても、
分水比が変わらない
定比分水装置の一種で
昭和16(1941)年に造られた。
完成から80年を越えている。

近くの案内板にある構造図を
拡大して載せておこう。
P3313181s
左側の二ヶ領用水から流れて来た水は
平瀬川の下を通って、
円筒から吹き上げる。

円筒は完全な水平に施工されており、
放射状にあふれ出た水は、
円弧にそって配置された
 * 川崎堀
 * 根方堀
 * 六ヶ村堀
 * 久地堀
の4つの堀に分水されることになる。
P3313185s
そのとき、各堀に流れる水は
上の写真にあるように、
垂直に造られた壁がなす
円弧の長さによって、
その比率が決まってくることになる。

円弧の長さに比例して
一定の比率で4つの堀に
分水するしくみ、というわけだ。

当時の最先端をいく装置で、
平成10(1998)年に、
国登録有形文化財となっている。

2枚上の写真の平面図を見ればわかる通り、
平瀬川の下をくぐって
円筒分水に流れ込む水は、
二ヶ領用水のごく一部だ。

二ヶ領用水の円筒分水への取水口は
こんな感じ。写真右の水門部。
P3313188s

今でも円筒の縁の水平度は美しく、
まさに均一に流れ落ちている。
P3313191s

ここから先は、
円筒分水で一番多くの水をわけてもらえた
「川崎堀」に沿って歩く。
P3313193s

国道246号との交差部は
二ヶ領用水は国道の下、
人間は歩道橋で国道の上を通る。
P3314000s
JR武蔵溝ノ口駅に近くなると、
民藝運動で知られる
第1回人間国宝の陶芸家、濱田庄司が
溝の口で生まれ、
溝の口の宗隆寺に眠っていることから
それを顕彰しての「浜田橋」という
小さな橋もかかっている。
P3313197s

少し先、「石橋供養塔」という
小さな供養塔のそばには、
この緑道が、
 かつて二ヶ領用水の本流
だった。
 昭和16年、用水は今の流路に
 つけ替えられた」
なる説明が。
その緑道がこれ。
P3313207s

ちょっとわかりにくいが
緑道が左、
今の二ヶ領用水が右、
真ん中は用水沿いの道。
P3313210s
かつての本流、今緑道、も時間があれば
追ってみたいものだが・・・

その後も静かな流れが続く。
P3313213s
農業用水として使っていたころは、
こういった簡単に流れの制御ができる
小さな堰が活躍したことだろう。
P3313214s

数は多くないが、水門もある。
P3313219s

JR武蔵中原駅の近くまで来ると、
武蔵小杉の超高層ビル群が
大きな塊で見えてきた。
P3313222s
と、この地点まででは、
二ヶ領用水歩きとしては
かなり中途半端なのだが、
日もかなり傾いてきたため
日没タイムアウト、ということになった。

JR武蔵中原駅前の居酒屋で
一緒に歩いた仲間と乾杯。
中途半端な地点での切り上げでも
丸一日歩いた後のビールはうまい。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

2024年5月12日 (日)

二ヶ領用水(3) 久地の合流地点まで

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二ヶ領用水(3) 久地の合流地点まで

- 五ヶ村堀との再会 -

 

二ヶ領用水歩き、
多摩川の上河原堰取水口から歩き始め、
* 二ヶ領用水(1) 三沢川との立体交差まで
* 二ヶ領用水(2) 向ヶ丘遊園駅付近まで
と、
下の地図、左上からの青い線のルートで
小田急線向ヶ丘遊園駅付近
五反田川との合流地点(赤丸)まで来た。
Nikaryogmap12muko
その先も、二ヶ領用水は
地図上の黄色い線のように続いているが
五反田川との合流地点を見たあとは、
二ヶ領用水のもう一つの取水口、
宿河原堰取水口を目指すことにした。
(地図上の赤い点線矢印)

宿河原堰取水口に到着した。
上河原堰取水口の約3.5km下流に
位置することになる。

堰は、元は上流のここで見た
蛇籠(じゃかご)による築造だったらしいが、
1949年にコンクリート製に。現在の堰は、
1974年に堤防が決壊した狛江水害を機に
1999年に改築されたもの。
P3313125s
堤防が決壊した狛江水害時には、
宅地が濁流にえぐり取られ、
建っていた住宅19戸が流された。

そのときに家を失った被害者の声が、
昨年(2023年)11月に亡くなった
脚本家山田太一さんのTVドラマ
「岸辺のアルバム」(1977年)
構想の元となっている。
山田さんが43歳のときの作品だ。
ドラマでは実際の
堤防決壊の報道映像が使われていた。

写真左方向に二ヶ領用水が始まっている。
P3313124s

こちらも親水歩道が整備されており
P3313127s
我々同様、歩いている人も多い。
P3313129s
すぐにJR南武線の
登戸駅-宿河原駅間の下を
くぐることになるが、ここは、
腰をかがめないと通れないほど
高さがなく、
見上げたときの線路の近さに驚く。
こんな角度で、こんなに近くで、
線路を見ることはない。
P3313135s


一部桜も咲き始めているので、
花見気分で
遊歩道で飲食を楽しんでいる人も。
P3313136s

P3313137s


宿河原駅付近の北村橋の手前では
他の用水(左)との合流もある。
P3313141s


整備された散策路が続いており、
多くの人が水辺を楽しんでいる。
P3313145s


八幡下圦樋(はちまんした いりひ)付近
P3313146s

八幡下圦樋については
多摩区観光協会のページ
こんな解説がある。
P3313150s

八幡下圦樋(記念碑)
二ヶ領用水宿河原取水口からの
水量を調整し、
下流の洪水を防ぐための排水路として
明治43年(1910年)に設置された。

その排水は圦樋をつくって堰止め、
余った水を「堰の長池」に流し、
多摩川に放流した。

近年になって、
圦樋が逆に洪水発生要因となり、
昭和63年(1988年)に撤去、
記念碑建立。

【圦樋 (いりひ)】とは
 川の水を引き入れ、
 または川へ水を吐き出すための、
 水門に設けられた樋(とい)。

下流の洪水を防ぐために造ったものが、
逆に洪水発生要因になってしまったとは。
設置から撤去までの78年間に
どんな変化があったのだろう?

八幡下圦樋のすぐ下流、
五ヶ村(ごかそん)堀と二ヶ領用水、
つまり水路と水路の立体交差
P3313152s
上を流れるのが五ヶ村堀。
この五ヶ村堀、
小田急線向ヶ丘遊園駅の近くに
二ヶ領用水からの取水口があった
あの五ヶ村堀だ。
P3313153s

取水口から2km強流れて
ここまで来ている。
こんな形で再会(?)することになるとは。

その下流にも整備された親水遊歩道が続く。
P3313155s


と、ここまでの写真で気づいた方も
いらっしゃるかもしれないが、
宿河原堰取水口から八幡下圦樋の
すこし下流までは桜の名所でもある。

二ヶ領用水歩きをした日とは別の日
桜を見るためだけに歩いてみた。
満開の桜の時期はこんな感じになる。
P4073238s
P4073234s
P4073232s

上3枚の桜の写真だけ
撮影日は2024年4月7日

二ヶ領用水歩きに戻ろう。

大人がギリギリ通れるほど低い
小さな鳥居のある稲荷神社を抜けると
P3313160s

東名高速道路の高架が迫ってくる。

高速道路高架下に
【徒然草 第百十五段 石碑】
がある。
P3313163s

第百十五段が
宿河原(しゅくがはら)といふ
 ところにて、
 ぼろぼろ多く集まりて・・・」
と始まっているので、
宿河原と呼ばれる
この地に建っているようだが、
一説にはここの宿河原のこと」と
言われるレベルのものらしい。

その内容は、
宿河原のぼろぼろ(遁世者)が
自分の師の敵討ちをする話。
河原へ出て決闘し、
差し違えて死んだ話を伝え聞いた
兼好法師が、いさぎよく思えたので
「徒然草」に書き留めた、とのこと。

東名高速道路の下に、
鹿島田菅線と呼ばれる道路、
その下に二ヶ領用水という
3重構造を抜けて先に流れる。
P3313165s


JR南武線久地駅のそば、
下の地図の赤丸地点まで来た。
Nikaryogmap123kuji
向ヶ丘遊園の方から流れてきた
二ヶ領用水(上図黄色線:下写真左)と
歩いてきた二ヶ領用水(青線:下写真右)が
合流する。
P3313168s

合流した二ヶ領用水は
こんな大きな流れとなって
JR南武線久地駅から先、流れていく。
P3313169s
二ヶ領用水歩きの見所のひとつ
久地円筒分水まではもうすぐだ。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

 

 

2024年5月 5日 (日)

二ヶ領用水(2) 向ヶ丘遊園駅付近まで

(全体の目次はこちら


二ヶ領用水(2) 向ヶ丘遊園駅付近まで

- 庚申塔:報告されると困る罪過? -

 

多摩川の上河原堰取水口から
二ヶ領用水を歩き始めた前回の続き。

まだ、入口。
取水口から数百メートルしか来ていない。

三沢川との立体交差、
三沢川の下をくぐった二ヶ領用水は
その先、下の写真のような
整備された親水護岸となっており、
流れを見ながらのんびり歩くことができる。
P3313053s

【草堰(くさぜき)】と呼ばれる小さな堰。
流れに杭を打って、石、土、草などで
築いた堰をそう呼ぶらしい。
P3313056s
堰の横には取水口がある。
P3313058s

JR南武線が二ヶ領用水の上を走る。
P3313065s

少し下流にも似たような草堰が。
P3313066s
ここにも同じように取水口がある。
P3313064s

取水された水はどこに行くのか?
1本の流れを追ってみたところ、
さらに細い水路となって
住宅街の中に消えていった。
P3313069s

水はきれいで、鯉をよく見かけるが、
コサギも。白が美しい。
P3313067s

旧三沢川が合流する中野島中学校横では、
「この場所は石積護岸工です」
の表示のすぐ右側に
P3313821so
「この場所は蛇籠護岸工です」
の表示部分が並んでおり
P3313075s
石積護岸工」と「蛇籠護岸工」を
並べて見比べられるようになっている。

石積はまぁ見ての通りだが、
蛇籠(じゃかご)とはなんだろう?

【蛇籠(じゃかご)】とは、
竹材や鉄線で編んだ長い籠に
砕石を詰め込んだもので、
河川の護岸や斜面の補強などに
使用されてきたらしい。

確かによく見ると、鉄線の網の中に
砕石が詰め込まれている。
斜面の補強などでもよく目にするが
あれを蛇籠(じゃかご)と言うことは
初めて知った。


用水沿いはよく整備されていて歩きやすい。
P3313086s
歩いた日の水量は多くはなかったが、
堀自体はかなり大きい(深い)。
増水することもあるのだろう。
P3313089s

子どもたちの遊び場にもなっている。
P3313095s

堰による取水だけでなく、
二ヶ領用水への排水溝も目にする。
P3313087s
P3313094s

山下川(左)との合流地点まできた。
P3313100s
橋には、
「川崎の育ての親 二ヶ領用水
 二ヶ領用水は『次大夫堀』とも呼ばれ
 慶長16年(1611年)に完成しました」
との説明と一緒に、
小泉次大夫のレリーフが埋め込まれている。
P3313099s
(小泉次大夫の功績については、
 前回記事を参照下さい)

鯉が集まって
子どもたちを楽しませている。
P3313104s

向ヶ丘遊園駅の近く、
世田谷町田道路の下をくぐる少し手前で
親水遊歩道がなくなり、
流れの幅が広くなる。
P3313106s
まもなく、府中街道の下に潜り込むように
見えなくなってしまう。
P3313108s
(上の写真の左端)
二ヶ領用水が府中街道の下に
潜り込んだすぐ横に、
榎戸の庚申塔」がある。
高さ2.5m。見上げるほど大きなものだ。
P3313113s
「この庚申塔は
 明治3年に富士講の人たちが
 道中の安全や村の外から
 邪悪な物が入りこまないように、
 また五穀豊穣を祈念して
 小泉橋の袂に建立」
との説明がある。

富士信仰と中国の庚申信仰の
2つの信仰を併せ持つ複合的なもの
らしい。

塔にあった
庚申塔の謂われ」が興味深ったので、
そのままここに書き写したい。

中国に道教という思想があり
庚申信仰もその一つとして、
平安時代に我が国に伝わり、
江戸時代になると
庶民の間にも広まりました。

庚申信仰とは、
60日ごとに巡ってくる
庚申の夜
に眠ってしまうと、
人間の体内にいるという
「三尸(さんし)の虫」が
体内から抜け出だして天に昇り、
天帝にその人の罪過を報告するので、
庚申の夜は眠らずに、
「庚申待」といって、
健康長寿を祈願した事に
由来しています。

そこで庚申塔が、礼拝の本尊として
建てられるようになりました。

報告されると困る罪過が
だれにでもある
、が
前提になっている、ということか。

府中街道の下を流れる二ヶ領用水。
奥を横切るのは小田急線。
ちょうど電車が通過している。
向ヶ丘遊園駅のすぐそばだ。
P3313114s
小田急線の線路を越えたところに
五ヶ村堀の取水口がある。
ここから始まる五ヶ村堀とは、
このあと意外な形で再会することになる。
P3313116s
五ヶ村堀取水口のすぐ下流で
五反田川と合流。
下の写真、
 左が    五反田川、
 右が    二ヶ領用水、
 右上高架が 府中街道。
P3313118s
ここまで、
多摩川の上河原堰取水口から
二ヶ領用水に沿って歩いてきて
下の地図の赤丸まで来た。
Nikaryogmap12muko
その先も、二ヶ領用水は
地図上の黄色い線のように続いているが
五反田川との合流地点を見たあとは、
二ヶ領用水のもう一つの取水口、
宿河原堰取水口を目指すことにした。
(地図上の赤い点線矢印)

一旦、二ヶ領用水を離れ、
宿河原堰取水口へと移動する。

 

 

(全体の目次はこちら

 

 

 

 

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