二ヶ領用水(1) 三沢川との立体交差まで
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二ヶ領用水(1) 三沢川との立体交差まで
- 江戸時代初期の大用水 -
東京都の野川を歩いたときに立ち寄った
「世田谷区立次大夫堀(じだゆうぼり)公園」
そのときの記事に
江戸時代に
多摩川から引水した農業用水路。
徳川家康の命により、
小泉次大夫の指揮によって開削された。
公園内のパンフレットによると、
今の東京都側だけでなく、
神奈川県側も合わせた
稲毛・川崎、世田谷・六郷 計四ヶ領で
開削された用水は、
1597年から作業が始まり、
測量から小堀の開削終了まで
実に15年の歳月がかけられたという。
驚くのは、
指揮をした小泉次大夫の年齢。
「58歳から73歳までの晩年の大工事」
とのこと。
と書いたが、
一緒に歩いた川歩き仲間と今度は、
「次大夫堀の神奈川県側を歩いてみよう」
ということになった。
実際に歩いたのは、
2024年3月の天気がいい日曜日。
神奈川県側は、
稲毛領・川崎領(現在の川崎市)の
ふたつの領地にまたがって開削されたため、
『二ヶ領用水』と呼ばれている。
ちなみに東京都側は
世田谷・六郷領(現在の世田谷・大田区)で
『六郷用水』。
約400年前に
小泉次大夫が成し遂げたものは
二ヶ領用水 全長32km、
六郷用水 全長23km、
多摩川両岸の大用水路網だ。
二ヶ領用水の多摩川からの取水口は
(A)上河原堰取水口 と (B)宿河原堰取水口の
二ケ所あるが、まずは上流の
上河原堰取水口からスタートすることにした。
JR中野島駅から多摩川にでて、
上流に向かって土手を歩き始めると
上河原堰堤が見えてきた。
写真
左側が川崎市側、
右側が東京都調布市側。
上河原堰堤は
昭和46年(1971)に大きな改築が行われ
* 川崎市側に
洪水吐(こうずいばき)ゲート3門に
管理橋(163m)と魚道
* 固定堰と洪水吐ゲートの間に
流量調整ゲート(14m)
* 調布市側に魚道つきの固定堰(248m)
が整備された。
その後、平成24年(2012)に
固定堰を切り下げて起伏ゲートを設置し、
現在の堰堤になっている。
堰はまさに二ヶ領用水への取水が目的だが、
堰となっているため、魚道もあって
魚も多く集まることになるのだろう。
釣りをしている人のほかに、
大きな望遠レンズをつけたカメラを
しっかりした三脚に乗せている
こんな方々が何組もいた。
聞くと「ハヤブサ」が飛来するという。
残念ながらその時点では、
見ることができなかったが。
取水口まで来た。
案内板にある
まさに「現在地」からの写真がこれ。
左側に流れ込んでいるのが
二ヶ領用水の上河原堰取水口だ。
取水設備をゴミや流木から防護する
ネットフェンスが設置されている。
ここからは二ヶ領用水に沿って歩く。
取水口付近のせいか、
ゴミと水量調節のためと思われるゲートが
3連発。
特に、この3基目(下の写真)は、
実際にどう動くのかを見てみたい。
カメラ片手にキョロキョロ歩く我々を
見返してくる亀もいる。
先に掲載した案内板にある
2本の水路のX字交点まで来た。
左上から右下の水色↘が二ヶ領用水。
左下から右上の水色↗が三沢川。
さて、2本の水路がどうやって
交差しているのか。
地上からでは
それがわかるような写真が撮れないので
GoogleMapの航空写真に
助けてもらおう。
そう、立体交差なのだ。
三沢川が上を流れ、
二ヶ領用水が下をくぐっている。
「上」を流れる三沢川がこれ。
上なのに深い堀、
川面は見下ろしたかなり低い位置に。
これのさらに下をくぐるわけだから
二ヶ領用水、
一旦はかなり深い位置まで
潜っていることになる。
で、三沢川をくぐって出てきたところが
ここ。
この付近、避難用掲示板には
洪水 3階以上
内水氾濫 1階以上
と記載されている。
内水氾濫、
国立防災科学技術研究所のページには
雨水がはけきらずに地面に溜まります.
低いところには
周囲から水が流れ込んできて
浸水の規模が大きくなります.
排水用の水路や小河川は
水位を増して真っ先に溢れ出します.
このようにして起きる洪水を
内水氾濫と呼び,
本川の堤防が切れたり溢れたりして
生じる外水氾濫とは区別しています.
とある。
つまり洪水ではなく、
排水が追いつかない事態のこと。
雨が多いときには、
たとえ洪水の危険がなくても
このあたりでは注意が必要だ。
さて、ここから先は
整備された親水護岸。
流れのそばをのんびり歩いて行きたい。
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