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2024年3月

2024年3月31日 (日)

交響曲「悲愴」の第4楽章、再び(2)

(全体の目次はこちら


交響曲「悲愴」の第4楽章、再び(2)

- 聴衆ではなく、演奏者を楽しませる目的で -

 

前回に引き続き
チャイコフスキー作曲
交響曲第6番「悲愴」第4楽章

の冒頭に見られる「特異な書法」
(本記事内でのみ
 便宜的に「交叉奏法」と呼ぶことにする)
をきっかけに広がった世界について
書きたい。

再び(1)では、
(1) スコアの解説欄に
  何らかの詳細説明はないのか?

(2) 交叉奏法採用の理由・効果
について書いた。
今日は演奏者の視点から生まれた
興味深いコメントを紹介したい。

(3) 聴衆よりも演奏者
「ホルン吹き」の知人が、同じ
交響曲第6番「悲愴」の第2楽章に、
こんな部分があることを教えてくれた。

まずは譜面を見てみよう。
(音楽之友社のスコア
 クリックすると拡大)
Sym62hra80

注目すべきはホルンパート(黄色矩形枠)。

Aの音でオクターブの跳躍が有るのだが、
これが1st/3rdと2nd/4thで
交互に入れ替わっている。

この部分、
実際の演奏をちょっと聞いてみよう。
クルレンツィス指揮 ムジカエテルナの演奏。


わかりにくい?
では、ホルンパートだけ取り出してみよう。
譜面はこんな感じ。
(クリックすると拡大)

Sym62hr80

1st/3rd の演奏


2nd/4th の演奏

ホルンパート全体演奏

当然だが合わせて聞くと
高いAの音と低いAの音が
8分音符で刻まれているだけ。
なのに演奏者には
オクターブの跳躍を要求している。

これに対して教えてくれたホルン吹きは、
「私は、遊び心が出たのだと
 思っています。
 そもそも、
 ワルツを5/4拍子で書くのも
 変わっていますよね」
と、チャイコフスキーの「遊び心」を指摘。

そのうえで、先の第4楽章を
「2つの声部に旋律を分けて書いた」ことも
今回の第2楽章のホルンの跳躍も、
聴衆よりも、むしろ
 演奏者を楽しませる目的で
 書いたのではないかと思っています

とコメントしている。

経験豊かな上級者ならではの
まさに味のあるコメントだ。

技量不足ゆえに
譜面にかじりついて
四苦八苦していた私には、
ともて思い至らない発想だが、
ちょっと冷静に考えてみると
これは「いい曲」の
大事な要件のひとつなのかもしれない。

演奏者が楽しめる曲だからこそ
いい演奏が生まれるのだから。

 

 

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2024年3月24日 (日)

交響曲「悲愴」の第4楽章、再び(1)

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交響曲「悲愴」の第4楽章、再び(1)

- 記事から広がっていった世界 -

 

チャイコフスキー作曲
交響曲第6番「悲愴」第4楽章

の冒頭の旋律についてとりあげた、
Eテレのクラシック音楽の番組
「クラシックTV」での内容を
ここに書いたところ、
この記事をきっかけに、

* 同じような例ってほかにもあるの?
* 複数の旋律が重なって演奏されたとき
 何をメロディとして捉えるのか、
 理論的に説明できるの?
* 昔からよく知られていたことなの?
* チャイコフスキーは
 なぜそのような仕組みを採用したの?

などの疑問が、読んだ方や音楽仲間との間に
飛び交うようになり、
さらなる情報交換の輪が広がっていった。

広がったからといって
それぞれの疑問に明確な回答が得られた、
というわけではないが、ブログをきっかけに
話題が次々と展開されていくワクワク感は
ひとりでは得られないものなので、
読者や音楽仲間への感謝の思いも込めて
記録としてその内容を残しておきたい。

まずは先の記事を簡単に復習しておこう。

1stバイオリンと2ndバイオリンは
こう弾いているのに

Sym64as

聴衆は、なぜか(?)

Sym64bs

の黄色丸の音を繋げて
メロディとして認識してしまう。
まさにチャイコフスキーに
魔法をかけられたような第4楽章冒頭。
先の記事では
 演奏(音)付きで紹介している
ので、
 詳しくはそちらを参照いただきたい。
 なお、本記事の中ではこの部分を
 便宜的に「交叉奏法」と呼ぶことにする)

この記事の投稿後に得られた追加情報を
整理してみるとこんな感じ。

(1) スコアの解説欄に
  何らかの詳細説明はないのか?


(1-a) 1968年版の音楽之友社のスコア
   (以下水色部引用)

悲痛な,哀切な,嘆くような第1主題
(1から)が弦ででる。

注意すべき点は,
第1バイオリンと第2バイオリンとが
主旋律の一音符ずつを交互にひいて
(1,3)旋律からなめらかさを
奪い去っていることである

(この主題が後に90から再びでる時は,
 主旋律が第1バイオリンに
 でているから比較されたい)。

「90から再びでる時は」とあるので、
90小節目を見てみよう。

6490s

90小節で
第1バイオリンが弾いているのは、
楽章冒頭で黄色丸の音を繋げて
メロディとして認識した、
まさにそのままだ。(黄色矩形部)

それにしても
「一音符ずつを交互にひいて」
旋律からなめらかさを奪い去っている
なんて。

いずれにせよ、50年以上前のスコアに
すでにこの記述。交叉奏法は
古くから知られていた構造のようだ、
と思わず漏らしたところ
さらに古いスコアを提供してくれた方も。

奥付がなく、発行年が不明なのだが、
1957年に購入した、とのメモがある。

(1-b) 1957年以前に発行された
   日本楽譜出版社のスコア

   (以下薄緑部引用)

先づ、アダヂオ・ラメントーソ、
ロ短調四分の三拍子で、
ヴァイオリンで奏せられる
下降的な主題は、
深い思いに沈むが如き感じである。
第一と第二ヴァイオリンが
 旋律を交叉して奏する
から、
 實際の旋律は第90小節と同じになる)

Sym64s

(70年近くも前の印刷物ゆえ
 使われている漢字も含め
 時代を感じていただきたく画像も添付)

こちらにも
「第一と第二ヴァイオリンが
 旋律を交叉して奏する」
と交叉奏法の記述がある。

しかも
「實際の旋律は第90小節と同じ」
とも。

音楽之友社版、日本楽譜出版社版、
どちらのスコアの解説にも
「一音符ずつを交互にひいて」
「旋律を交叉して奏する」
との記述はあったし、
90小節目では第1バイオリンのみが主旋律、
との認識も共通だったが、
残念ながらそれ以上の解説はなかった。


(2) 交叉奏法採用の理由・効果

(2-a) 対向配置のときのステレオ効果
交叉奏法の効果について、
「ホルン吹き」の知人からは、
「当時の私のホルンの先生は、
 対向配置のときのステレオ効果を
 狙ったのかな?
 とかコメントしていました」
なるメールをもらった。
対向配置とは、
第1バイオリンと第2バイオリンが
両サイドで向き合うような配置のこと。
第1・第2バイオリン間を
一音ごとに
パタパタとメロディが動くのだから
確かにステレオ効果は期待できそうだ。

14ページからなる江田司さんの論文
(2-b) チャイコフスキー作曲
   《悲愴》交響曲をめぐる
   鑑賞指導の研究

(薄茶部は論文(2-b)からの引用)
にも

オーケストラの第1・第2バイオリンの
「対面配置」による
ステレオ音響的効果を得るため
とする考えも,2000年代に入り,
世界の著名なオーケストラが
作曲家の生きた時代の
伝統的なこの配置を採用する頃から
多く語られるようになっている

なる記述がある。

ところが、このステレオ効果、
実際には期待できないという
研究もあるようで、同じ論文内に

たとえ2つのバイオリン・パートが
対向配置であったとしても,
聴き手にはそれぞれの音進行を
ステレオ音響的には聴き取れないことを
実験結果から裏付けられている

との紹介もある。

そのうえで、江田さんは
第1楽章の出だしのファゴットの
H-Cis-D-Cis(動機X)が
曲全体を支配していて、

断定は避けなければならないが,
第2,3楽章の主題労作等から,
第4楽章のバイオリン・パートにおける
特異な書法は,
動機Xを敢えて目に付くよう配置したと
推察される
のである。

と結論づけている。

もちろん、
ほんとうの意図はチャイコフスキーに
聞いてみないとわからないが、
多くの人を惹きつける魅力が
「特異な書法」による交叉奏法にはある。

この話、もう少し続けたいが、
今日はここまで。
最後にひとつ番外のおまけを。

(XX) 番外のおまけ
記事、読みましたよ」という
知人に会った時のこと。
「交叉奏法の記事、読んでいたら
 これを思い出しちゃいました」と
おもむろにメモ用紙を取り出し、
「おわだまさこ かわしまきこ」を
二行に分けてひらがな書きをし始めた。

意味がわからずポカンとしている私に
「こうやって交叉奏法のメロディのごとく
 一文字ごとに丸をつけると・・」
Owadamasakos

赤丸でも、黄丸でも
両名の名前が成立する偶然。

チャイコフスキーから
こんな話に繋がるなんて。
思いもかけない飛躍にこそ
人との会話の醍醐味がある。

 

 

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2024年3月17日 (日)

「科学的介護」の落とし穴 (4)

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「科学的介護」の落とし穴 (4)

- 今ここの幸せをつかみとれたら -

 

前回に引き続き、
介護施設長 村瀬孝生(たかお)さんへの
インタビュー記事から
印象的な言葉を紹介したい。

話しているのはもちろん介護についてだが、
介護に留まらない
考えさせられる鋭い指摘満載だ。

2023年2月7日 朝日新聞
オピニオン&フォーラム
「科学的介護」の落とし穴
介護施設長 村瀬孝生(たかお)さん
へのインタビュー記事
だ。
(以下水色部、記事からの引用)

230207


だれしも避けて通れない老い。
老いへの不安には
どう向き合えばいいのだろう。

「介護現場でレクリエーションや
 リハビリのための運動をします。

 その時、健康寿命を保ち、
 自立した生活をする
 『未来への投資』という
 発想に立つとしたら、
 楽しくなりません」

「今苦しいのは、
 未来をもっと楽にしたいと
 思っているからです。

 未来にある納期に
 間に合わせる計画のため
 今を差し出す

 それよりも、
 今ここの幸せをつかみとれたら
 どれだけ楽になるか。

 今を謳歌できる人生や社会に
 作り直せるかどうかですね」

未来をもっと楽にしたいと今を差し出す、
に考えの転換を促す村瀬さん。
楽になりたい、と思いながら
その気持ち自体が、
必要以上に自分を苦しめている場合も
あるのかもしれない。

「年をとれば老眼になるとか、
 足腰が弱くなるとか機能が衰える。
 たとえ医療や技術で補完しても
 やがて限界を迎えます


「自分の体をねぎらいながら、
 その変容に応じて
 老いを堪能できる生活に変えていく

 そして生身の限界を踏まえ、
 合意を積み重ねる
 共同体になっていく。

 それが持続可能な社会の
 ありようではないでしょうか」

計4回に渡って村瀬さんの言葉を
紹介してきた。

介護の世界もテクノロジーやデータを
駆使することで改善できる、
と単純に考えてしまうことの危険性を、
タイトル通り
 「科学的介護」の落とし穴
として語ってくれた。

それは、同時に、昨今、
あらゆる分野で幅を利かせている
データ偏重、効率主義、計画管理などへの
痛烈な問題提起でもあった。

そこには、

* 『見たいもの』しか見ない現場になる

* 生活は偶然性や
 いいかげんなものに満ちていて、
 データやエビデンスで裏付けられた
 正しさがベースにあるのではない

* 介護する側の目的を遂行するために
 集められたデータで
 効率が上がるほど、
 唯一無二の人生を生きた老体は
 単純ではありません

* 人間の不完全さや弱さを排除せず、
 許容する力が失われている

* 老いを堪能できる生活に変えていく

などなど、
何度も思い返したい言葉が溢れていた。

 

 

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2024年3月10日 (日)

「科学的介護」の落とし穴 (3)

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「科学的介護」の落とし穴 (3)

- 将来のため今を犠牲にする? -

 

前回に引き続き、
介護施設長 村瀬孝生(たかお)さんへの
インタビュー記事から
印象的な言葉を紹介したい。

話しているのはもちろん介護についてだが、
介護に留まらない
考えさせられる鋭い指摘満載だ。

2023年2月7日 朝日新聞
オピニオン&フォーラム
「科学的介護」の落とし穴
介護施設長 村瀬孝生(たかお)さん
へのインタビュー記事
だ。
(以下水色部、記事からの引用)

230207


前回の記事の最後、
「集められたデータで
 効率が上がるほど、
 唯一無二の人生を生きた老体は
 単純ではありません」
と言っていた村瀬さん。
では、介護担当者はどうすべきなのだろう。

「生身の体が
 今ここで求めることに
 応じられる仕組みに
 シフトする必要
を感じます。

 今、食べたい。
 今、うんこしたい。
 今、眠りたい・・・。
 そうした求めには今、対応しないと、
 取り返しのつかない傷を
 心身に残しかねない」

「そうした事態を避けるなら、
 今の生活を計画で縛るのではなく
 今ここで必要なことに対応するため
 計画を手放すことができる
 現場の裁量
が大切になります」

計画に縛られない現場の裁量で、
「今」に対応する。

「一方で経済社会は、
 将来の目標を達成するために逆算し、
 いつ何をべきか
 計画することで成り立っています


 正月のおせち料理を初秋に
 予約販売するのが一例で、
 未来を先取りするほどに
 もうけが出る。

 将来のため今を犠牲にすることを
 いとわない


 今ここの対応から出発するケアとは、
 成り立つロジックが正反対なんです」

理想はあっても、施設長としては
実際に直面している問題への対応も
もちろん必要だ。

「入居者に対して
 職員数が少ないと、
 働く側の生身の限界を
 超えてしまう。

 職員が疲弊するのを
 避けるためには、
 センサーなどの最先端技術で
 人の限界を補完せざるを得ない

 現実はあります」

「ただ、人間の能力の限界を
 文明の利器で補完し
 拡張し続けることで、
 本当に幸せが得られたのか

 立ち止まって
 考える時ではないでしょうか。

 人間の不完全さや弱さを排除せず、
 許容する力が
 失われている
と思います」

これに対して
インタビュアーの浜田陽太郎さんは
「社会を維持し、経済を回すためには
 仕方がないのでは」
と投げかけている。

「この社会は経済発展と引き換えに、
 生産性がないとみなされた
 お年寄りを効率よく介護するために
 施設を用意しているように見えます。

 『認知症』であれば、
 抑制し隔離されても仕方ないという
 暗黙の了解がある」

全体の利益のために、
 一人の人間の存在を犠牲にしても
 仕方ないという考えが、
 私たちの骨の髄まで
 染みてはいないでしょうか


「足手まといな者のリストの
 1番目にいる人を犠牲にすれば、
 2番目の人が繰り上がって
 次の犠牲となります。

 それを繰り返すだけの社会は、
 ほどなく弱体化する。

 日本社会は
 その状態にあると思います。
 それが私たちの望む経済でしょうか」

* 今ここで必要なことに対応するため
 計画を手放すことができる現場の裁量

* 将来のため今を犠牲にすることを
 いとわない、ではなく
 今ここの対応から出発する

* 人間の不完全さや弱さを排除せず、
 許容する力が失われている

* 1番目にいる人を犠牲にすれば、
 2番目の人が繰り上がって
 次の犠牲となります

村瀬さんの言葉は介護の世界を越えて
深く響いてくる。

 

 

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2024年3月 3日 (日)

「科学的介護」の落とし穴 (2)

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「科学的介護」の落とし穴 (2)

- 唯一無二の人生を生きた老体は -

 

前回に引き続き、
介護施設長 村瀬孝生(たかお)さんへの
インタビュー記事から
印象的な言葉を紹介したい。

話しているのはもちろん介護についてだが、
介護に留まらない
考えさせられる鋭い指摘満載だ。

2023年2月7日 朝日新聞
オピニオン&フォーラム
「科学的介護」の落とし穴
介護施設長 村瀬孝生(たかお)さん

へのインタビュー記事。
(以下水色部、記事からの引用)

230207


インタビュアーである浜田陽太郎さんの
「科学的に裏付けのあるデータで
 標準化された介護を実行させれば、
 質の良くないところも含めて
 全体の底上げを図れるのでは」
との質問に、村瀬さんはこう答えている。

現場は寛容さを
 失うのではないでしょうか


 標準化されたサービスを
 計画通りに提供したかどうかだけに
 重きを置いて評価される
と、
 現場は追い詰められる。

 評価の矢面に立つ管理者は、
 計画の遂行を現場に求める。

 役割を与えられた個々の職員は、
 まじめであるほど
 目的達成のために鬼になる」

計画通りに実行されたか、が
評価の重要項目となると
そのこと自体が目標になってしまい
本来の業務の目的を見失ってしまう
という経験は、
介護以外の現場で働いてきた私にも
確かにある。

「目的が先立つ介護は
 一方的な暴力をはらみやすい。
 それが組織化されるとなおさらです」

今の制度は、金銭の誘導による
 成果主義と懲罰主義の組み合わせ

 本質は出来高払いです。

 制度設計に込められた
 国の目的に沿って、
 プラン通りに
 ケアが行われたか否かで
 報酬が加算

 できなければ減算されますから」

もちろん、村瀬さんも
管理者として計画そのものを
否定しているわけではない。

「計画するのがダメとは言いません。
 でも、1日おきに入浴
 という計画が設けられたら、
 拒否されてお風呂に入れなかった時、

 『まあいいか』と
 計画を手放せるでしょうか?

 企業社会でも、
 計画を遂行できなければ、
 責任をとらされているでしょう。
 介護現場も例外ではありません」

インタビュアーである浜田さんは
「高齢者に拒否されたからといって、
 計画した介護をやらないのは
 楽をしたいだけでは」
と突っ込んだ質問をぶつけている。

お年寄りの『嫌』を受け止めて、
 いったん引くことは、
 その人の意思を
 尊重したこと
になりえます。

 ただ、介護職が
 引いたままだとネグレクトになる。
 だから、
 どうすれば入浴できるかを
 考えて実践する


「単なる入浴拒否ではなく、
 裸になった時のあばら骨や
 あざが見られたくないとか、
 拒否する理由は無限にある。

 その人にしか生じない理由に
 触れたとき、新しい発見がある」

「相手のサインを受け取り、
 介護の質向上につなげる。
 無駄に見えることにも、
 気づいていないだけで
 大切なことが潜んでいる


 介護する側の目的を遂行するために
 集められたデータで
 効率が上がるほど、
 唯一無二の人生を生きた老体は
 単純ではありません

「集められたデータで
 効率が上がるほど、
 唯一無二の人生を生きた老体は
 単純ではありません」
そう思って接してもらえたら
どれほど幸せなことだろう。

繰り返しになるが、
以下の言葉を読み返してみると
どれも、介護の世界に
限定されないものであることが
よく分かる。

*標準化されたサービスを
 計画通りに提供したかどうかだけに
 重きを置いて評価されると、
 現場は追い詰められる。

*今の制度は、金銭の誘導による
 成果主義と懲罰主義の組み合わせ。

*無駄に見えることにも、
 気づいていないだけで
 大切なことが潜んでいる。

評論家やコメンテーターの言葉でなく、
実際に日々現場に接している
実務担当者からの言葉だと思うと
いろいろな意味で救われる思いだ。

もちろん、理想通りには行かないことも
多いだろう。
しかし、行動を支える根本となる思想は、
どんな職業であれ、
特に正解がない仕事においては
より重要で価値が大きい。

 

 

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