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2024年1月

2024年1月28日 (日)

「ある時点での適切な断面図」

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「ある時点での適切な断面図」

- 先人たちの精緻な思考 -

 

フレーゲ、ラッセル、
そしてウィトゲンシュタインという
3人の天才哲学者が、
言葉についてどう考えてきたのか。
その過程を丁寧にたどりながら、
ふだん何気なく使っている
言葉の根本に迫ろうという

野矢茂樹 (著)
言語哲学がはじまる

岩波新書

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

著者本人が、「はじめに」で

何が楽しいって、
みんなが試行錯誤していて、
これが正解ですってのが
見えてこないけれども

どうやら前に進んでいるみたいだぞ
という手ごたえがある。

読者にもこの感触を
味わってもらいたい。

と書き、「おわりに」で

正確な記述は
もちろん必要不可欠の条件ですが、
しかし、私が目指したのは、
そこではありません。

私は言語哲学入門の参考書として
この本を書いたのではない
のです。

ほら、自分が面白かった話って、
他の人に話したくなりませんか? 
私の動機はほぼそれに尽きています。

と書いている通り、
全体に文体もやわらかいし、
例文もやさしいものが選ばれていて
解説も参考書的なものには
なっていないのだが、
著者と一緒に「面白がる」には
かなりの集中力が必要だ。

そんな中、
最終段で語られた言葉は
印象的なものだった。

ウィトゲンシュタインの
『論理哲学論考』と『哲学探究』について
コメントした部分だ。

『論理哲学論考』を完成させた後、
ウィトゲンシュタインは哲学から
一旦離れる。

「語りえぬものについては、
 沈黙せねばならない」と稿を閉じて、
本当に哲学的には沈黙するのです。

それからおよそ十年後に哲学を再開し、
『論考』を自ら批判して、
新たな言語観
へと
進んでいくことになります。

そして1936年から1946年にかけて
後期ウィトゲンシュタインの主著である
『哲学探究』を執筆します。

思考可能な世界を「論理空間」とし、
その外部を思考不可能としたことで、
論理空間自体の変化を考えることが
できなかった『論考』。

『論考』は
言語を固定された体系として
捉えています

そこが根本的にまちがっていたと、
『探究』のウィトゲンシュタインは
言いたいのです。

言語変化を視野に入れた言語観へと
移っていくウィトゲンシュタイン。

「論理空間」という用語が、
まさに言語を空間的に捉えていることを
表わしています。
『論考』は言語を一望のもとに
捉えたかったのです。
しかし、言語使用は時間の内にあります。

私は、
『論考』から『探究』への
変化の核心は、
空間的な言語観から
時間的な言語観への転換
だと
考えています。

では、
「まちがっていた」と本人が言う
過去の言語観に価値はないのだろうか?

では、『論考』で為されていた議論は
捨て去られねばならないのでしょうか。

いや、そんなことはありません

動的に推移していく言語の、
いわば時間的な断面図
- ある時点における言語使用の
  あり方を捉えた議論 - 
として十分な有効性をもっています。

言語実践を理論的に捉えようとしたら、
どうしたって
ある時点での断面図を
描くしかありません。

そして
適切な断面図を描くことによって
私たちの言語実践に対する理解も
深まるのです。

フレーゲも、ラッセルも、そして
前期ウィトゲンシュタインも、
言語を理論的に捉えようと
試行錯誤の日々を過ごした。

言語哲学に限らないが、
先人たちが各時代、各時代で
精緻に考え抜いたものからは
たとえそれが、のちの時代から見れば、
間違っていたり、
不完全であったりしたとしても
いつも豊かな洞察を得ることができる。

「ある時点での適切な断面図」
とはいい言葉だ。
断面図をいくつも持つことで、
初めて全体が立体的に見えてくる。

 

 

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2024年1月21日 (日)

「て形」って何?

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「て形」って何?

- 日本語教育用語との出会い -

 

フランス語、中国語、英語、日本語と
複数言語をあやつりながら
日本語の教師として活躍している
山本冴里(さえり)さんの
言葉をめぐる旅の記録

山本冴里 (著)
世界中で言葉のかけらを
 ―日本語教師の旅と記憶

筑摩選書

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

を読んでいたら、
第二章にこんな一節があった。

たとえば、「て形」と呼ばれる、
「て」をつける動詞の活用。

これは、日本語学習の最初の山だ。

「見る」「寝る」「起きる」など
一段活用の動詞は「る」を外して
「て」をつけるだけ
(「見て」「寝て」「起きて」)だが、
五段活用の動詞はそうはいかない。

「待つ」は「待って」でも、
「読む」は「読んで」だし、
「話す」は「話して」となって複雑だ。

「て形」?

第三章には、
エトヴェシュ・ロラーンド大学で
教鞭をとっており、
ハンガリー語絵本の
日本語への翻訳出版にも携わっている
内川かずみさんの言葉として

「同じ形で日本語教育に入った人は
たぶんみんな思うことですけれども、
え? 日本語ってこういうシステムが
あったんだというのが衝撃で。

「て形」にしろ、
「と・ば・たら・なら」にしろ、
自分では使えていても
違いが説明できなかった、

あるいは
どうしてこうなるのか
気にしたこともなかった、
っていうようなことを
教えなければならなくて、
教科書を読んで
まずは「ああ、なるほど」って
自分が感心して、
それを学生に伝えるのが
楽しかったですね」

も載っている。

「て形」とか「と・ば・たら・なら」って
いったいナンなのだろう?

少なくとも日本の学校で
国語の時間に教わった記憶が全くない。
なのに「て形」は
日本語学習の最初の山だという。

日本語教育のための
専門用語ということなのだろうか?

 

「て形」についてちょっと見てみよう。
まずは「て形、日本語教育」などで
ググってみた。
すると、丁寧な解説ページが
いくつも出てくる。
ところが、それらを読み始めると
さらなる未知の
「日本語教育用語」に遭遇することになる。

「動詞の3グループ」

どうも日本語教育においては、
日本語の動詞を
次の3グループに分類して教える方法が
広く使われているようだ。

グループ1(五段活用)
  - る(ru)で終わっていない動詞
     買う・書く・急ぐ・飲む など
グループ2(上一段/下一段活用)
  - る(ru)で終わる動詞
     見る・食べる・入れる など
グループ3(カ行/サ行変格活用)
  - 「する」と「来る」の2つ

これらのグループ別に
「ます」が語尾になる「ます形」を教え、
そして「て形」を教える、のステップ。
しかも説明には順番まである。
グループ2-3-1の順。

*グループ2(上一段/下一段活用)
  見る  見ます  見
  食べる 食べます 食べ
  入れる 入れます 入れ
*グループ3(カ行/サ行変格活用)
  する  します  し
  来る  来ます  来

なるほど。グループ2と3については
カ変、サ変を含みながらも
「て形」の作り方がかなり規則的だ

「ます」がわかれば、
「ます」を「て」にするだけ。

ところがグループ1について並べ始めると
とんでもないことに気づく。

*グループ1(五段活用)
  買う  買います 買って
  書く  書きます 書いて
  急ぐ  急ぎます 急いで
  飲む  飲みます 飲んで

なんなんだこの不規則性は。
無理やり整理して書くと
下記(1)-(5)にまとめられるようだが
(3)の例外に「行く(行きます)」があって
(1)-(6)を覚える必要があるらしい。

「ます」の前の字が
(1)「い」「ち」「り」の動詞は「って」
(2)「み」「び」「に」の動詞は「んで」
(3)「き」      の動詞は「いて」
(4)「ぎ」      の動詞も「いて」
(5)「し」      の動詞は「して」
(6)「行きます」   は  「行って」

「いちりって みびにんで きいて 
 ぎいて しして いきます いって」
の内容を、歌や呪文で覚えるようだ。
英語を学び始めた中学1年のとき、
「I my me, you your you...」
と呪文のように繰り返したことを思い出す。

外国人が
「いちりって みびにんで ・・・」って
モグモグ繰り返していても
それが日本語学習のためだなんて
まったくわからない不思議な呪文だ。

それにしてもおもしろいのは、
私を含めた日本語を母語とする者は、
呪文はもちろん
動詞のグループ1-3も、(1)-(6)も
一度も意識したことはないのに
迷いなく
正しく「て形」を作れることだ。

たとえそれが
初めて目にした動詞だとしても。
本書最後の注にも

日本語母語話者は、日本語教師としての
トレーニングを受けていなければ、
この「て形」について
明示的に学習する機会はない


そのため、
たとえば「ごばつ」という
新しい動詞があったとして、
「ごばってください」
活用はできるが、なぜ
「ごばいてください」
「ごばんでください」
などではないのか、
ということの説明ができない。

と興味深い例がある。

「日本語を学ぶ」「日本語を教える」
当然のことながら、
そこには日本語を母語とする者には
想像もできないような
多くの困難があることだろう。

知らなかった日本語教育用語からは
そんな困難さをなんとか体系的に教えよう、
学ばせようという、先人の苦労と工夫が
滲み出ている。

 

 

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2024年1月14日 (日)

チャイコフスキー:交響曲「悲愴」の第4楽章

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チャイコフスキー:交響曲「悲愴」の第4楽章

- 聞こえてくるメロディはどこに? -

 

Eテレのクラシック音楽の番組
「クラシックTV」
が番組初の公開収録として

クラシックTV
スペシャル 公開収録
「パワー・オブ・オーケストラ」


を昨年末に放送していた。
(初回放送日:2023年12月28日)
その中で、

チャイコフスキー作曲
交響曲第6番「悲愴」第4楽章


を取り上げていたのだが、その内容が
たいへんおもしろかったので、
今日はその部分を紹介したい。
(なお、貼ってある演奏は番組から。
 東京フィルハーモニー交響楽団
 円光寺雅彦(指揮)によるもの)

まずは、チャイコフスキー作曲
交響曲第6番「悲愴」第4楽章から
冒頭の2小節のみお聴き下さい。

(A) チャイコフスキー作曲
交響曲第6番「悲愴」第4楽章
冒頭の2小節のみ
オーケストラ全体演奏

美しいメロディだ。

この部分、
1stバイオリンと2ndバイオリンの譜面は
こうなっている。

Sym64as

それぞれパート別に弾いてもらおう。
譜面を見ながらどうぞ。

(1) 1stバイオリンのみ


(2) 2ndバイオリンのみ


(1)と(2)を何度聞いても
(A)のメロディーが聞こえてこない。

では、(1)と(2)を同時に演奏してもらおう。

(3) 1st & 2ndバイオリン

公開収録ゆえ、会場のお客さんが
驚きでどよめいているのがわかる。

Sym64bs

どうしてそうなるのかよくわからないが、
聞いているほうが勝手に
譜面の黄色丸の音を繋げて
メロディとして認識しているのだ。

総譜(スコア)を見ると同じ構造が
ビオラとチェロの間にもある。

64cs

再度、スコアを見ながら
全体演奏をどうぞ。

(A) チャイコフスキー作曲
交響曲第6番「悲愴」第4楽章
冒頭の2小節のみ
オーケストラ全体演奏


まさに、魔法をかけられたようだ。

 

 

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2024年1月 7日 (日)

面接想定問答集にある呪文

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面接想定問答集にある呪文

- 「言葉が届く」の認識 -

 

大地震、航空機衝突・炎上、大規模火災と、
2024年は、国内だけでも
元日から大きなニュースが続いている。

被災した方々、被害にあわれた方々には
心よりお見舞い申し上げます。

 

命が危険にさらされる、とは
全く別次元の話ではあるが、
次の土曜日(2024/1/13)から始まる
大学入学共通テストに備えている受験生は
それはそれで
緊張した日々を過ごしていることだろう。
実力がうまく発揮されることを
祈るばかりだ。

受験と聞くと思い出すエッセイがあるので
今日はそれを紹介したい。
引用は、以下の本の中の
面接想定問答集にある呪文」から。

内田 樹 (著)
街場の大学論
 ウチダ式教育再生

角川文庫

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

ご存知の方も多いと思うが
大学の先生だった内田さん、
面接試験のことをこう書いている。

面接試験のときに、うっかり
「本学志望の動機は?」とか
「高校時代での印象的な出来事は?」
というような質問をすると
大変なことになる。

らしい。
どう大変になるのか。

たちまち、高校生諸君は
『大学案内』のコピーを
そのまま暗誦してきたような
ストックフレーズ

「呪文」のように唱え出すからである

(「高校時代の出来事」で、
「文化祭で、最初はばらばらだった
 クラスがやがてまとまり、
 最後はみんなと力を合わせて
 一体となったときの感動は
 忘れられません」というのも
これまで百回くらい聞かされた

たぷん、高校の進路指導室常備の
「面接想定問答集」の
一番先に出ている例文なのであろう)。

内田さん、
「恥ずかしげもなく
 できあいのストックフレーズを
 口にしておけば、世の中どうにか
 渡って行ける、というような
 世間を舐めた態度を
 私は評価することができない」
とお怒りだが、
「一体となったときの感動は・・」
と語る高校生の口調は
目に浮かぶようで妙におかしい。

私はそのストックフレーズの
「コンテンツ」に文句を
申し上げているのではない。

みなさんが、文化祭での
クラスの団結に感動したのも
本当なのだろうし、
本学の伝統ある校舎と
緑の多いキャンパスに
惹かれたのも真実なのであろう。

しかし、問題はそれが
「伝わる言葉」で
語られているかどうか

ということである。

お芝居の稽古での台詞のやりとりや、
太宰治の「如是我聞 四」を例にあげ、
「言葉は身体というフィルターを
 通過すると、
 深みと陰影と立体感を帯びる」
と語り、「伝わる言葉」について
考えるよう導いている。

まとまりのある、
つじつまのあったことを
しゃべるのが勧奨されるのは、
その方がそうでない場合より
相手に届く確率が高いからである。

ことの順逆を間違えてはいけない

よりたいせつなのは
「言葉が届く」ということであり、
「つじつまのあったことをしゃべる」
ことではない。

順逆を間違えてはいけない、か。

「つじつまのあったこと」
を言っているのだから伝わるはずだ、
と考えてしまいがちだが、
「伝わる言葉」は別物だ。

よく考えてみれば、それは確かに
誰にでも経験があることだろう。

最後、内田さんらしい言葉で
締めくくっている。

今日の初等中等教育では
「自分の意見をはっきり口にする」
ということは推奨されているし、
技術的な訓練も
なされているようだけれど、
残念ながら、「自分の意見」は
はっきりしているだけでは、
 聴き手に届かない
」という
もっとたいせつなことは
教えられていないようである。

 

 

 

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