「歓待」と「寛容」
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「歓待」と「寛容」
- 哲学者の対談から -
哲学者の國分功一郎さんが
國分功一郎 x 星野太
『食客論』刊行記念対談
「寄生の哲学」をいかに語るか
雑誌新潮 2023年8月号
(以下水色部、本からの引用)
の中で、
「歓待」という言葉について
こんな説明をしてくれている。
hôte/hôtesse
-英語で言えばホスト/ホステスです-
と言いますが、驚くべきことに、
辞書を引くと分かる通り、
この語には「主人」と「客」の
両方の意味がある。
これは本当に
ビックリするようなことですが、
この語そのものが、
何か歓待を巡る太古からの記憶を
留めているのでしょう。
「主人」と「客」、
対照的な語ながら、
いろいろ思い浮かぶシーンを思うと
不思議と違和感がない。
歓待が実践されているときは、
迎える側と迎えられる側が混じり合い、
どちらが主でどちらが客か
分からなくなってしまうようなことが
起こる。
それこそが歓待であり、
歓待においては、
もともと主であった者と、
もともと客であった者とが、
動的に混じり合うわけです。
そうそう、「歓待」を
心から感じることができたときは、
まさに「主人」と「客」の関係が
消えている。
この「歓待」と明確に区別すべき語
としてあげているのが「寛容」。
寛容(tolérance)は、
私は耐えます、我慢します、
という意味ですね。
宗教戦争後、17世紀に
出てきた概念です。
宗教戦争を始めとする、
歴史に深く結びついた概念
ということなのだろう。
聞こえはいいかもしれないけれども、
これは要するに、
相手のことを理解する気なんて
サラサラないが
殺しもしないということです。
お前のことは放っておくから、
俺にも近寄るな、と。
だから寛容は排外性と切り離せない。
(中略)
寛容は相手の存在に
我慢するということですから、
個と個が維持されていて、
そこには何の交流もない。
そこにいるのはいいけれども、
私たちには触れないでね、
というのが寛容です。
「移民」と「その受け入れ国の住民」
という言葉も登場しているが、
少なくともフランス語では
「広い心で他人を受け入れる」
という意味で軽々しく使うことは
できない言葉のようだ。
國分さんの「歓待」と「寛容」の
丁寧な説明を聞いたあと
『食客論』の著者星野さんは、
こうコメントしている。
言っているんだけれど、
何か違うなという感覚が
ずっとありました。
それは國分さんが
言ってくださったように、
hôteが最終的に
仲間になっていくという、
言ってみれば
正のベクトルにのみ
貫かれているからです。
その点がどこかすっきりしない。
いかにも哲学者らしい違和感だ。
國分さんの言葉によれば、
『食客論』はそういう歓待の概念が
決定的に取り逃がしてしまうものに
注目しているらしい。
『食客論』読んでみようかな、
と思わせる対談となっている。
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