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2023年10月

2023年10月29日 (日)

「音語りx舞語り」が見せてくれた世界

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「音語りx舞語り」が見せてくれた世界

- 全体を味わう、分解しない -

 

もうひと月ほど前のことになるが、
主催している本郷幸子さんにお誘いいただき

2023年9月30日
音語りx舞語り (おとがたりxまいがたり)
Vol.2 オリエンタルダンス編


というミニコンサートに行ってきた。

230930otogatari

演奏曲目のひとつは、有名な
ヴィヴァルディ作曲/「四季」より「夏」

この曲、
ヴァイオリン協奏曲「四季」
の名の通り主役はヴァイオリンだが、
今回はそれにヴィオラとチェロが加わる
弦楽三重奏のスタイルで
演奏される予定になっていた。

本来の編成に比べれば
ずいぶん小編成にはなるが、
それはそれでどんな響きになるか楽しみだ。

と、これだけなら
よくあるミニコンサートのひとつだが、
今回のこのコンサート、
単なる弦楽合奏にとどまらない、
驚くべき企画をブチ込んでいた。
そう、まさに
「ブチ込む」と表現したくなるような
大胆な企画だった。

それはどんな企画か。

(1) ヴィヴァルディ作曲/「夏」
(2) 能 土蜘蛛
(3) オリエンタルダンス

この3つを同時に重ねて
公演しようというのだ


能とは日本の伝統芸能であるあの「能」。
オリエンタルダンスとは、
おへそを出した衣装で踊る
ベリーダンスで知られるあれだ。

「えっ!?ちょっと頭が混乱して
 何を言っているのだか?」
と思った方、
ハイ、私も最初にこの企画を聞いたとき、
まさにそんな感じでした。

このコンサート
音語りx舞語り (おとがたりxまいがたり)
というタイトルにある通り、
多くのクラシックコンサートとは違い、
演奏曲目についての丁寧な語りがある。

特に今回は上記(1)(2)(3)について
それぞれ演奏者の方から
個別に詳しい解説があった。
要点のみを書くと・・・

(1) ヴィヴァルディ作曲/「夏」
ソネット(14行詩)に基づいて
作曲されたもの。

曲の中から様々なフレーズを抜き出して
その部分を演奏しながら、
メロディーであったり、
奏法であったり、
和音であったりが
どんな情景を描いているのか、
クイズ形式で解説。

夏独特の空気感、木々や鳥や虫たち、
羊飼いの心情、天気の急変、
ひとつひとつの説明がわかりやすい。

(2) 能 土蜘蛛
能の謡(うたい)の方が、
「ヴィヴァルディの「夏」に合う能を」
と相談された時の戸惑いから話が始まる。
やはり「そんなのあるわけない」
と思ったようだ。

ところが(1)の曲と
ソネットの内容を見るうち、羊飼いの
「ぐったりしている、眠れない、
 暗闇で怯える」
などが印象に残り
「それなら『土蜘蛛』かも」
と思いついた経緯が明かされる。

土蜘蛛の内容説明のあと、
「謡(うたい)は、初めて聞くと
 何を言っているのか
 わからないと思いますが、
 一度、声に出して読んでおくと
 聞こえるようになります。
 なので、皆さんで冒頭部分だけ
 声に出して読んでみましょう」

中学校の英語の授業よろしく
「repeat after me」
が始まったのだが、

謡(うたい)の方のお手本のあと
会場内の全員で

「いろを盡(つく)して夜昼の。
 いろを盡(つく)して夜昼の。
 境も知らぬ有様の。
 時の移るをも。・・・」

と声に出して読んでみたのは、
特によかった。

あとで本物を聞いた時、確かに
「聞こえる、聞き取れる!」のだ。
自分で声に出して読んだところは
聞き取れるのに、なぜか他はダメ。
体感を伴ううれしい初体験だった。

(3) オリエンタルダンス
ダラブッカという
民族打楽器(太鼓)とともに
その歴史と、
オリエンタルダンスの
基本的な動き、
ベリーダンスの種類、
などが紹介された。

ここでも基本的な動きについては
会場内の人も立ち上がって
体を動かしてみることに。

ダラブッカ(太鼓)に張ってある皮と
能で使われる鼓(つづみ)との対比も
興味深いものだった。

 

と、個別の説明が終わっていよいよ公演。
もう一度書いておこう。

(1) ヴィヴァルディ作曲/「夏」
  *ヴァイオリン *ヴィオラ *チェロ
(2) 能 土蜘蛛
  *謡(うたい)
(3) オリエンタルダンス
  *オリエンタルダンス *ダラブッカ

*印6人による同時公演が始まった


その時の私の正直な気持ちは
「こんなに異質なものが、
 本当に合うのだろうか?」
という
「合う/合わない」に興味がある
「?」であった。

そもそも(1)と(2)は
テンポやリズムの観点で見れば
合いようがない。

いったいどんな演奏だったのか?
演奏のごく一部、1分弱だけだが
「音語り事務局」から
当日の様子が公開されている。
ご興味があればこちらをどうぞ。

1分の動画だけでは
よくわからないだろうな、と
ちょっともどかしくも思いつつ
現場で生の音に触れたひとりとして
感想を書き留めておきたい。

これだけ異質なものが
「ほんとうに合うのだろうか?」
というある種の疑念をもって
聞き始めたのに、
いざ演奏が始まって(1)に
(2)や(3)が重なりだすと、
当初の私の疑念は
完全に私の中から消えていた。

(1)(2)(3)が重なることで、
(1)でも(2)でも(3)でもない
「新しいなにか」が立ち上がってくる
その瞬間の緊張感と
それに立ち会えた喜びに
精神が集中して、
「合うか、合わないか」なんて
全く気にならなくなっていたのだ。

たとえて言えば、
とても合うとは思えない
 Aという食材、
 Bという食材、
 Cという食材、
3種の食材を使った料理を食べてみたら、
どの食材の味でもない
予想外の美味しい料理ができあがっていて
驚いた、みたいな感じだろうか。

混ざり合って響いてくる音は、
混ざり合って目に飛び込んでくる光景は、
それ全体がひとつになって
「新しい世界」を見せてくれていた。

特に、謡(うたい)の声量に
すべてが包みこまれるような一体感には
不思議な快感があった。
新しい料理として味わう。
全体を味わう、分解しない


もちろん、ベタに3つを重ねても
そんな世界はできあがらない。
周到な準備とその重ね方、間(ま)にみえる
芸術家としてのプロのセンスには
まさに敬服しかない。

クラシック音楽、能、オリエンタルダンス
そういう既成概念によるカテゴリーや
分類そのものが、芸術の幅を
狭めてしまっている面が
あるのかもしれない、とさえ
思えるような夜だった。

本郷幸子さんを始め、
音語りx舞語りの関係者の皆様には、
新しい世界に興奮させてもらったこと、
心から感謝している。

今後の活動にも期待しつつ、
「初めての世界に触れた」
自分自身への記録として
ここに残しておきたいと思う。



 

 

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2023年10月22日 (日)

「歓待」と「寛容」

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「歓待」と「寛容」

- 哲学者の対談から -

 

哲学者の國分功一郎さんが

國分功一郎 x 星野太
『食客論』刊行記念対談
「寄生の哲学」をいかに語るか
雑誌新潮 2023年8月号

(以下水色部、本からの引用)

の中で、
「歓待」という言葉について
こんな説明をしてくれている。

フランス語では歓待する者のことを
hôte/hôtesse

-英語で言えばホスト/ホステスです-
と言いますが、驚くべきことに、
辞書を引くと分かる通り、
この語には「主人」と「客」の
両方の意味がある


これは本当に
ビックリするようなことですが、
この語そのものが、
何か歓待を巡る太古からの記憶を
留めているのでしょう。

「主人」と「客」、
対照的な語ながら、
いろいろ思い浮かぶシーンを思うと
不思議と違和感がない。

つまり、
歓待が実践されているときは、
迎える側と迎えられる側が混じり合い、
どちらが主でどちらが客か
分からなくなってしまうようなことが
起こる。

それこそが歓待であり、
歓待においては、
もともと主であった者と、
もともと客であった者とが、
動的に混じり合うわけです。

そうそう、「歓待」を
心から感じることができたときは、
まさに「主人」と「客」の関係が
消えている。

この「歓待」と明確に区別すべき語
としてあげているのが「寛容」。

寛容(tolérance)は、

あなたがそこにいることに
私は耐えます、我慢します、
という意味ですね。

宗教戦争後、17世紀に
出てきた概念
です。

宗教戦争を始めとする、
歴史に深く結びついた概念
ということなのだろう。

寛容というと
聞こえはいいかもしれないけれども、
これは要するに、
相手のことを理解する気なんて
サラサラないが
殺しもしない
ということです。

お前のことは放っておくから、
俺にも近寄るな、と。

だから寛容は排外性と切り離せない

(中略)

寛容は相手の存在に
我慢するということですから、
個と個が維持されていて、
そこには何の交流もない。

そこにいるのはいいけれども、
私たちには触れないでね、
というのが寛容です。

「移民」と「その受け入れ国の住民」
という言葉も登場しているが、
少なくともフランス語では
「広い心で他人を受け入れる」
という意味で軽々しく使うことは
できない言葉のようだ。

國分さんの「歓待」と「寛容」の
丁寧な説明を聞いたあと
『食客論』の著者星野さんは、
こうコメントしている。

歓待論は一見いいことを
言っているんだけれど、
何か違うなという感覚が
ずっとありました。

それは國分さんが
言ってくださったように、
hôteが最終的に
仲間になっていくという、
言ってみれば
正のベクトルにのみ
貫かれているからです


その点がどこかすっきりしない。

いかにも哲学者らしい違和感だ。

國分さんの言葉によれば、
『食客論』はそういう歓待の概念が
決定的に取り逃がしてしまうものに
注目しているらしい。

『食客論』読んでみようかな、
と思わせる対談となっている。



 

 

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2023年10月15日 (日)

作家はカタルシス

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作家はカタルシス

- 言葉あそびでお別れの言葉 -

 

雑誌新潮 2023年5月号が
【追悼】永遠の大江健三郎文学
という特集を組んでいたが、
その中で野田秀樹さんが書いていた

野田秀樹
作家はカタルシス
雑誌新潮 2023年5月号

(以下水色部、本からの引用)

から、メモを残しておきたい。
雑誌の記事って
なぜかすぐに記憶に埋もれてしまうし、
あとから探そうと思っても
難しいことが多いので。

 

野田さんは、ある時、
舞台の新作の
当日パンフレットにおける対談を
大江健三郎さんにお願いし、
快諾を得た。

そして今、敢えてその対談を
読み返さずとも思い出せる
大江さんが残してくれた
強烈な言葉が「触媒」であった。

大江さんは
「カタルシス」= catalysis
という英語の単語でしきりに
「触媒」について語った。

日本語として知っている
「カタルシス」= catharsis
(浄化作用)
とは、
別の単語だ。

野田さんのお芝居は、生の舞台にある
独特なカタルシス(浄化作用)が
最大の魅力だと思っているが、
ここで語られたのは
「触媒」の方のようだ。

(英語の音をカタカナで書くなら、
 「触媒」のほうが近い、と言えるだろう。
 「浄化作用」のほうは、あえて書くなら
 「カサーシス」だろうから)

もちろん、
通常の会話でカタルシスというと
「浄化作用」のことを指すけれど。

何か私は、それ自体が
暗号染みていて嬉しかった。

わかるな、野田、
「カタルシス」だそ。
と言われているようで。

この
「カタルシス」=「触媒」
というコトパは、
私のその作品が「海人」という
能を下敷きにした
現代の犯罪の話ゆえに
出てきたものである。

能の構造も、その私の作品も
いわゆる「依り代」
誰かが取り付くことで生まれる
世界だったからだ。

当日パンフの時点で、
大江さんは私の舞台は
まだ見ていなかったが、
すでに構造を言い当ててしまった。

依り代(よりしろ)」とは、
「神霊が依り憑く対象物のこと。
 御神木、岩石や山など」
注連縄(しめなわ)
囲まれていることも多い領域だ。

舞台の内容までは知らなかった大江さんが、
「依り代」の世界の舞台について
「触媒」をキーに語ったというのだから
偶然とはいえ、
野田さんもさぞ驚いたことだろう。

「読み返さずとも思い出せる」はずだ。

そんな大江さんに野田さんは、
実に野田さんらしい言葉あそびで
お別れの言葉を送っている。

どういうお別れの言葉を
最後にしようと考えていたら、
あ、と思いつきました。

それはきっとあの対談の時に
語っていた大江さんの言葉の
エッセンスでもあります。

作家はカタルシス、
 すなわち、語る、死す、
 そんな触媒。

 だから、作家自身は死んでも
 何も変わらないんですよ
。」

作家は触媒か。

* catalysis = 触媒
* catharsis = 浄化作用
* 依り代(よりしろ)
* 注連縄(しめなわ)

などのキーワードとともに
時々、思い返したい、と
ここにメモを残すことにした。



 

 

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2023年10月 8日 (日)

消滅とは無への抹消ではない

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消滅とは無への抹消ではない

- 来歴のうねりのなかで -

 

前回に引き続き、
下西風澄さんが
雑誌「新潮」に寄せた文章を
読んでいきたい。

下西風澄
生まれ消える心
― 傷・データ・過去
雑誌新潮 2023年5月号

新潮社

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

人間にとっての「過去」は
一種の「傷」であるという下西さん。
それは忘却可能な
「過去」のデータとは違う。

キーワードは、忘却と反復

ハイデガーは、過去を二つに区別した。

一つは私たちが
日常を生きているときの過去で、

もう一つは私たちが
自らの存在を自覚するときの過去だ。

彼は
日々の日常的な生活における過去を
「保持」(記憶)と呼び、
実存的な過去を
「取り返し(Wiederholung)」と呼んだ。

「取り返し」は「反復」とも
訳されるらしいが、
私たちが未来を見据えながら生きるとき、
過去は常に取り返され、反復されている

この過去は、
単に「かつてあった」という
普遍的な記憶ではなく、
私自身を伝承するという形で
取り返される出来事である。

かつてあった生の可能性に
「応答する」ということ、
その過去を引き受けるという
決意によってはじめて顕になる過去が
人間には存在する

「保持」(記憶)の過去は忘却可能だが、
「取り返し」の過去は
生きている限り忘却不可能だ。

おそらくこれは、
人間とAIの本質的な違いにも
かかわってくるだろう。

AIにおける過去は、
ハイデガー的に言えば、
保持・記憶としての過去である

(中略)

AIには、
忘却可能な過去しか存在しない。

すなわちAlには、
どうしても現在にまとわりついてくる
「傷」が存在しないのだ。

そして逆に、AIが
消去可能なデータとしての
過去しか持たないかぎり、
固有の生を持つことはなく、
人間のような意識を持つことは
ないだろう。

過去とのつながりで
人間とAIとの違いを考える視点が
新たな視界を与えてくれる。

人間にとっての時間とは、
今この瞬間も、
未来を望むときも、
絶えず忘却不可能な
過去が反響している

自己固有な来歴のうねりだ。

繰り返したい。
人間にとっての時間とは、
自己固有な来歴のうねりだ


そして、次の記述に繋がっていく。

ある出来事が生まれ、
そして消えていく。

消滅とは、無への抹消ではない

人間における心の消滅とは、
別の再生のための潜水、
巨大な来歴のうねりのなかへの回帰だ。

生成とは無からの創造ではない
人間における心の生成とは、
夥しい数の失われたものたちからの
再生である。

私的「声に出して読みたい日本語」に
登録決定の名文だ。



 

 

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2023年10月 1日 (日)

養殖の餌を食べ始めた人工知能(AI)

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養殖の餌を食べ始めた人工知能(AI)

- いったい何が「過去」なのか -

 

前回に引き続き、
下西風澄さんが
雑誌「新潮」に寄せた文章を
読んでいきたい。

下西風澄
生まれ消える心
― 傷・データ・過去
雑誌新潮 2023年5月号

新潮社

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

「過去」の膨大なデータを学習し、
それらを「理解することなく」
それらしい出力を生成し続けるAI。

「過去のデータ」の
「過去」とはナンなのかを
考えながら先を読んでみよう。

あるいは最近では、
「合成データ(Synthetic Data)」と
呼ばれる手法も注目されている。

つまり、
現在のAIが学習しているデータは
主に、
実際に人間が「かつて」書いた言葉や、
「かつて」描いた絵などの
「過去の(現実の)データ」だが、

それは必ずしも
学習に「最適」だとは限らない

たとえば、
GPT-3の学習に用いられたデータは
英語版のWikipediaのテキストデータのみ。
まさに既存のテキストを
そのまま使っていた。
そうではなく、
「学習に最適のデータを与えたら」
の発想だ。

だとすれば、
学習させるのに最適なデータそのものを
人工的に合成しようという発想だ

(かつて残飯を餌に
 牛を肥やしていたのを、
 良質な肉の生産のために
 専用の餌を作りはじめた
のと同じだ)。

実際すでに、秘匿性が高くて
現実のデータを収集することが難しい
金融や医療などのAI開発の領域では、
合成データを利用した学習が
行われている

1年ほど前に、
将棋の世界におけるAIについて
実戦でまだ指されていないものが定跡!?
という記事を書いた。
その中で、将棋の渡辺名人は

実戦では指されていなくても
 『AIで研究して、
  みんな知っているよね』
 というのが、今の定跡です」

と明言していた。

これまで
過去の実戦例から学ぶもの」
とされていた「定跡」は
誰もがAIを使うようになった現在においては
違うものになっているようだ。

人間もAIも
もはや、学ぶべき過去データとは
そもそも過去である必要すらない

というわけだ。


いわばこれまでのAIが
天然の餌(現実の過去)を
食べて生まれた天然の知能
だとしたら、

これからのAIは
養殖の餌(作られたデータ)を
食べて生まれる養殖の人工知能
である。

新たな時代のAIが
学習するであろう過去は、
人間が起こしてしまった事実でもないし、
書いてしまったテクストでもない。

それは学習のための
餌に捧げられる過去(データ)である。

過去とは単なるデータなのだろうか?

下西さんは、人間にとっての「過去」を
一種の「傷」と表現して、
AIにおける「過去」とは区別している。

そこから何が見えるのか。
次回、紹介したい。

 

 

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