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2023年9月

2023年9月24日 (日)

AIには「後悔」がない

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AIには「後悔」がない

- 最適な予測はかつての模倣 -

 

雑誌「新潮」に寄せた文章において
下西風澄さんが、
 私たちは
 変容していくがゆえに生き延びている、
 傷つき得るがゆえに生きている。
と書いていたことを
前回紹介した。
その先を読んでみたい。

下西風澄
生まれ消える心
― 傷・データ・過去
雑誌新潮 2023年5月号

(以下水色部、本からの引用)

今日は、人間の心とAI(人工知能)との
違いについて語っている部分から。

将棋の棋士たちは、
AIが登場して人間の強さを
凌駕しはじめたとき
人間は指し手を(線)で考えるが、
 AIは(点)で考える
」ことに
衝撃を受けていた。

人間は線、AIは点とは
どういうことだろう。

人間は
「さっきこう指したのに、
 次にこう指すと、
 前の手が間違いで損だった
 ということになる」
という観点に縛られて、
指し手を限定してしまう。

しかし、
たしかに重要なことは
過去に何を指したかではなく、
現在の局面の評価値と未来の勝利
で、
AIはそれをフラットにして
その瞬間だけの優劣の判断ができる
というのである
AIには「後悔」がない)。

過去がどうであったかには触れず、
あくまでも現在を出発点に、
将来の最適解を目指す。

そこに「手の流れ」は存在しない。
確かにそこに後悔はないわけだ。

 

ChatGPTの登場により、
自然言語を習得したかに見える
コンピュータの出力に、
我々はほんとうに驚かされた。

でも、もっと驚いたのは

機械に言語を繰らせるという
壁を突破したのは、

言語の文法や構文への理解ではなく
大量の言葉のデータから
次の単語を予測するという
確率的なモデル
であったことだ。

言語を「理解」しているのではなく、
言葉の組み合わせの
統計的なデータを吐き出すことで
もっともらしい文章を作り上げている。

すなわち
この新たなる知性を携えた機械は、
なんらかの構文モデルなどによって
ゼロから自分で思考したり
話したりしているのではなく、

人間たちがかつて話した/書いた言葉を
模倣している
ということだ。

ChatGPTの話すそれらしさは、
人間の過去の言葉のそれらしさ
である。

 

そう言えば、
イーロン・マスクが率いるテスラの
完全自動運転向けソフトウェア
「FSD(Full Self Drive)」の
デモを見た
ソフトウェアエンジニアの
Satoshi Nakajima @NounsDAO さんは、
2023年8月26日にX(旧twitter)に
次のようにポストしていた。

アーキテクチャの解説が
とても勉強になる。

「赤信号では止まる」
「左に曲がるときは
 左のレーンに移動する」
「自転車は避ける」などの行動は、
一切人間が書いたプログラムでは
指定しておらず
、大量の映像を
教育データとして与えられた
ニューラルネットが
「学んで実行している」だけ。

ある意味、
「単に次に来るだろう言葉を
 予測するのが上手」なLLMと
似ている。

単に
「次にすべき
 ハンドル・アクセル操作を
 予想して実行」しているだけ。

LLMとは大規模言語モデル
(Large Language Models)、
ChatGPTなどがまさにその応用例だ。

「赤信号では止まる」が
明示的にプログラムされていないなんて。
それでも自動運転の車は走れる。

 

あくまでも現在を出発点に、
将来の最適解を目指し、
驚くような出力を出し始めたAI。

でもそれは、
膨大な過去のデータから導かれる
 目的達成のためには、
 * 次はこの言葉が来るだろう、
 * 次はアクセルを踏むだろう、
という最適な「予測」を
しているにすぎない。

次回も続きを読んでいきたい。

 

 

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2023年9月17日 (日)

苦しめるのは自らを守ろうとするシステム

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苦しめるのは自らを守ろうとするシステム

- 傷つき得るがゆえに生きている -

 

2023年ももう9月の半ばなので、いまごろ、
昨年(2022年)読んだ本の私的ベスト1は、
なんて書くのはタイミング的には
ほんとうにヘンなのだが、
あえて書かせていただいくと
22年年末に上梓された

下西 風澄(著)
生成と消滅の精神史
終わらない心を生きる
文藝春秋

であった。

とにかくすばらしい本で、
すぐにでもこのブログで
紹介したいと思っていたのだが、
濃い内容のどこをどう書いたらいいのか
迷っているうちに、書き始められないまま
9月になってしまった。

「紹介したい本」のリストが
どんどん成長していて、(自分自身への
読書メモ・備忘録も兼ねている)
ブログのほうがまったく追いついていない。

 

というわけで(?)
上の本の話は後回しになってしまうが、
今日はその著者下西風澄さんが
雑誌「新潮」に寄せた文章について
紹介したい。

下西風澄
生まれ消える心
― 傷・データ・過去
雑誌新潮 2023年5月号

(以下水色部、本からの引用)

2021年に亡くなった
フランスの哲学者
ジャン=リュック・ナンシー
のエピソードがたいへん興味深い。

ナンシーは50歳を過ぎて
心臓移植の手術を受けた。

彼は闘病しながら、
侵されていく自らの身体を通じて
生きることを書き綴った。

病床に横たわる身体は
たくさんの医療機器に繋がれ、
知らない機械たちが自らの命を
繋ぎとめている。

移植された見知らぬ人間の心臓を、
自らの免疫システムが攻撃し、
心身は不調をきたしている。

毎日服用する様々な薬剤は、
副作用でどんどん私を
滅ぼしていくように思える。

自分を助けてくれるのは、
自分の外部に存在していたはずの
機械や他者の臓器であり、
自らを苦しめるのは
自らを守ろうとするシステム
である
という矛盾に、
ナンシーは困惑していた。

他者が助けようとしてくれている一方、
本来は自分を守る機能が
逆に自分を苦しめている矛盾。

一個の私は、
侵入する無数の他者たちによって
生かされるとともに傷ついていく、
他者たちとの共生者なのだ。

下西さんはこう書いている。

もしかすると、
西洋の精神史が望んできた
「強い心」というのは、
私たちが若く健康で、そして
豊かな場所に生まれついた状況が
たまたま可能にしていた、
例外にすぎなかったものを、
理想的に理念化したもの
だった
のかもしれない。

西洋の精神史において、強い心は
他者から切り離された自律的なもの、
を前提に語られてきた。
でもそれが実現できる状況自体、
実は例外にすぎなかったのかもしれない。

ナンシーは

「われわれは、
 しだいに数が多くなる
 わたしの同類たちとともに、
 実際ある
 ひとつの変容の端緒なのだ」

と語ったという。

自己の同一性を
いかにして確立するか
という使命を担ってきた
西洋哲学において、

変容とは
同一性をかき乱すエラー
である。

しかし、
死の側で弱く傷つきながら
生き延びようとしたナンシーは、
私とはひとつの変容なのだ
と語った。

他者を切り離すのではなく、
他者との共生者として変容していく
不滅を実現するものは「強固」ではない。

私たちは、不滅であるがゆえに
生きているのではなく、
小さな生成と消滅を繰り返しながら
変容していくがゆえに生き延びている

私たちは無傷であるがゆえに
生きているのではなく、
傷つき得るがゆえに生きている

変容していくがゆえに生き延びている、
傷つき得るがゆえに生きている。

「傷」をキーワードに、
話は近年急成長している
AI(人工知能)との対比へと広がっていく。
次回に続けたい。

 

 

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2023年9月10日 (日)

対照的な2つの免疫作用

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対照的な2つの免疫作用

- いったいどうやって連携を? -

 

椛島(かばしま)健治さんが
皮膚について広く書いている

椛島 健治 (著)
人体最強の臓器
皮膚のふしぎ
最新科学でわかった万能性
講談社 ブルーバックス

(以下水色部、本からの引用)

の中から、
食物アレルギーの原因が
「食べること」ではなく
「皮膚から」だったという
興味深い話を
前回紹介した。

その最後に

 経皮と経口、皮膚と腸内、
 意外なものを並べて考えてみたくなる。

 体の外と内の話、
 と考えてしまいがちだが、
 よく考えてみると実はコレ・・・

と書いたので、
今日はそこから始めたい。

そう、トポロジー的に考えてみると
人間の体は「一本の管」とも言える。
口から肛門に穴が抜けているわけで、
 管の外側が皮膚、
 管の内側が腸管、
ということになる。
どちらも外界との境界を構成しており
一見内部に思える腸管も
実際には外部と接している、
体の表面、一番外側だ。

そう思うと、
「意外なものを比べている」
というわけではないことがよくわかる。

というわけで、
まずは皮膚から見てみよう。

皮膚免疫では
デフォルト(標準)の免疫反応は
「アレルギー反応」
です。

皮膚は、細菌やウイルス、寄生虫、
有害な化学物質やホコリなどに
常時さらされています。

そのため皮膚のバリア機能を突破され、
体内にこうした異物が侵入すると
ゆゆしき事態になるため、
これを直ちに除去する免疫反応が
発動されるように
プログラムされています。

一方、腸のほうはと言うと・・・

「腸管免疫」では「免疫寛容」が
デフォルト
になります。
(中略)
腸管で体外と体内を隔てているのが
腸粘膜です。

その点では、腸粘膜は
体外と体内を隔てる皮膚と
何ら変わりません。

皮膚と腸管の最大の違いは、
異物への許容度です。

腸管には、
経口摂取した飲食物が流れ込み、
小腸の徴絨毛(びじゅうもう)で
栄養分が取り込まれます。

皮膚のように異物だからといって
すべてを排除するような杓子定規な
アレルギー反応を起こしていたら、
必要な栄養分が摂取できずに
栄養失調になってしまいます。

異物であっても、
栄養分を含む食物については、
免疫応答を和らげて体内に
取り込まなければならないのです。

これを可能にするのが
「免疫寛容」です。

皮膚と腸管、
その働きを見る限りにおいては
同じ外界との境界ながら、
大きく違っている面があるわけだ。

皮膚免疫と腸内免疫の
基本的性格は対照的
です。

外部からの侵入を許さないように、
外来抗原の侵入を
極力排除する皮膚免疫に対して、

腸内免疫は、外来異物に対しては
比較的寛容です。

両者の性格は大きく異なり、
一見するとなんの接点もないように
見えます。

おもしろいのは、
この対照的で大きく違っているものが
なんらかの方法で連携することで
アレルギー反応が起こっている点。
ほんとうに不思議だ。

しかしアレルギー反応は、
皮膚の表面から侵入した異物で
感作が起きて、
それがきっかけで食物摂取を通じて、
食物アレルギーが起きます。

皮膚感作によって、
通常なら寛容だった腸内免疫が
外来抗原に
厳しく反応するようになったのが、
アレルギー反応の本質です。

両者の間には目に見えない
ミッシングリンクが存在するのです。

ミッシングリンクとは
連続性が欠けていることを指している。
鎖をつなぐ輪(リンク)は
見つかるのだろうか?

著者椛島さんは、
皮膚常在菌と腸内細菌との
相互関係を探る研究に期待している。

皮膚常在菌は、
1cm2あたり数十万〜数百万個棲息。

腸内細菌数は
体内におよそ40兆個もあり、
その重さは約1~1.5kgにもなるという。

つまり我々は数十兆個の
微生物と一緒に生きているわけだ。

皮膚感作がどのようにして、
腸内免疫に影響を与えているのかは、
まだまだ未解明な部分が多いようだが、
これらの菌が関係している可能性もある。

もしかすると、皮膚常在菌
あるいはその代謝産物が
腸内にデリバリーされて、
それが腸内細菌の活動に
影響を与えているのかもしれません。

皮膚常在菌の代謝産物といえば、
以前、
便は便りで、かつ・・・
という記事の中で、
 「しっとりつやつやの肌」は、
 皮膚上にある常在菌のおかげ。
 常在菌の「オシッコやウンチ」が
 さらに汗や皮脂と混ざって、
 皮膚はしっとりするのだ

なる、話を

青木 皐 (著)
人体常在菌のはなし
―美人は菌でつくられる
集英社新書

から紹介した。

「しっとり肌」をめざして
「きれいな」肌ケアをしている人は
読みたくない事実かもしれないが。

いずれにせよ。常在菌の働きからは
目が離せない。

 

本を読んでいると、
「全体のバランスを維持することが重要」
という表現が繰り返しでてくる。
 全体とは?
 バランスとは何と何の?
ここを固定観念に囚われずに
柔軟に考えていく視点が特に重要だし、
そこにこそ新しい大発見が
あるような気がする。

 

 

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2023年9月 3日 (日)

口からではなく皮膚からだった

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口からではなく皮膚からだった

- 免疫寛容は食べることで -

 

椛島(かばしま)健治さんが
皮膚について広く書いている

椛島 健治 (著)
人体最強の臓器
皮膚のふしぎ
最新科学でわかった万能性
講談社 ブルーバックス

(以下水色部、本からの引用)

の中から、アレルギー疾患について
ぜひメモっておきたいトピックスを
紹介したい。

まず、免疫関連の用語について、
簡単に復習しておこう。

抗原
体内で免疫反応を引き起こすもの。

アレルゲン(外来抗原)
アレルギーの原因となる物質。

抗体
特定の抗原に反応して
産生されるタンパク質。
抗体は、
異物(抗原)と結合することによって
抗原の毒性を減弱し生体の防御にあたる。

感作
アレルギー反応が起きるには、
特定の抗原を取り込んで、
その抗原に対し過敏に反応する
「感作」が起きる必要がある。

免疫寛容
抗原を投与しても
免疫反応が起こらないこと。

さて、今日
紹介したいのは次の一節。

すべてのアレルギー疾患の起点に、
皮膚経由で体内に異物が入ってくる
「経皮感作」
があるという
重大な事実です。

長らく、食物アレルギーは、
アレルゲンが含まれる食品を
食べること(経口感作)により
もっぱら生じる
と考えられてきましたが、
近年、むしろ経皮感作がきっかけで
起きることがわかってきました。

食物アレルギーのきっかけは、
口からではなく皮膚から
!?

きっかけは、2003年、
英国の小児科医ラックによる
ピーナッツアレルギーに関する発見。

ラックは二重抗原曝露仮説を
提唱します。

これは、外来抗原の曝露には、
「経皮」と「経口」の2種類があり、
食物アレルギー反応は
経皮感作を通じて発症する
もので、

むしろ経口摂取される抗原は
人体に有用な食品などには
過剰な免疫応答をしない
「免疫寛容」を促すものだと
主張したのです。

小児医学の世界では、
長らく経口摂取による食物が
アレルギーの発症原因と
信じられてきたので、
この仮説は大論争を引き起こしたらしい。

ところが、その後も、
二重抗原曝露仮説を裏付けるデータが
次々に報告される。

その中には、2011年に日本で起きた
「茶のしずく石鹸事件」も。

これまで小麦を食べても
大丈夫だった人でも、
小麦を含んだ食品をとると、
激しい下痢を起こしたり、
皮膚炎を発症したり、
呼吸困難が起きるようになりました。

被害が報告された当初は、
経皮感作の知見が十分でなく、
石鹸で顔を洗うだけで、
なぜ小麦アレルギー反応が起きるのか、
原因がよくわかりませんでした。

アレルギー疾患の起点に
「経皮感作」があることを
裏付ける報告が集積したことで、
論争にはほぼ決着がつき、
いまでは「二重抗原曝露仮説」は
科学的に正しいものと
考えられているらしい。

とは言え、ここ10年、20年での
新しい成果だ。

残念ながら、こうした考え方は
一般の方にはまだ広まっておらず

いまだにアレルゲンの摂取を控える
食事制限療法が盛んに行われています。

しかし、こうした食事制限療法は、
アレルギー疾患を防ぐ「免疫寛容」を
引き起こせなくなってしまうので、
症状がよけいに長く続いてしまう
可能性があります。

食物アレルギーの原因が
「食べること」ではなく
「皮膚から」だったなんて。

しかも、食べることは
逆に免疫寛容をもたらす
ことに
繋がるなんて。

経皮と経口、皮膚と腸内、
意外なものを並べて考えてみたくなる。

皮膚と腸内、と聞くと体の外と内の話、
と考えてしまいがちだが、
よく考えてみると実はコレ・・・
次回に続けたい。

 

 

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