「わかりそう」は「思い出せそう」
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「わかりそう」は「思い出せそう」
- 甘美な「予感」の魅力 -
「哲学対話」を幅広く実践している
永井玲衣さんのエッセイを読んだ。
永井玲衣 (著)
水中の哲学者たち
晶文社
(以下水色部、本からの引用)
永井さんが実践している哲学対話が
どんなものかはまったく知らずに
読み始めたのだが、
型に縛られない「ゆるい」対話と
そこで展開される哲学的な思考を
永井さん自身、迷いながらも
楽しんでいるようだ。
それらの経験を通して語られる
永井さんの言葉には
ある種の独特なにおいというか味があり
なんとも不思議な読後感に包まれる。
そんな中から
印象に残った言葉を紹介したい。
あともう少しで
「わかる」ということに
たどりつけそうな感覚に
陥ることがある。
それは「最適解」のような
暫定的なものでもなく、
「共合意」というような、
その場だけの取り決めでもない。
もっと普遍的で、美しくて、
圧倒的な何かだ。
それに到達するということはない。
その予感がするだけ。
にもかかわらず、
その予感はひどく甘美で、
決定的なのである。
到達することはないにもかかわらず、
甘美で魅惑的な「予感」。
何かを知るとか、
何かを体得するとか、
自分の中で何かが変化する
「予感」の楽しさを、
そしてそれを感じられた瞬間の
独特なトリップ感を
実にうまく表現している。
という感覚は、
「もう少しで思い出せそう」
という感覚に似ている。
「わかりそう」は「思い出せそう」に
似ている、か。
哲学対話を
数多く経験した人ならではの感覚は
自らを深く掘り下げる。
ひとはもどかしさの苦痛に
顔をゆがめつつも、
その「何か」に、
いとおしさを感じている。
かつてわたしの中にいて、
わたしのものだった「何か」。
たまたまそれは
どこかへ飛翔してしまったが、
たしかにわたしが所有していたのだ。
だがもはやそれはひとかけらの姿も
わたしには見せてくれない。
その代わりわたしは、
それに途方もないなつかしさを
感じている。
かつてわたしのものであった何か、
そしてそれを失ってしまった
深いかなしみ。
探究とは、
想起することに似ているのだ。
われわれはもともと
持っていたのかもしれない。
知っていたのかもしれない。
今は思い出せないけれど。
だから、いとおしく、なつかしい。
考えることには、学ぶことには、
まさに甘美な魅力がある。
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