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2023年5月

2023年5月28日 (日)

プレイしている瞬間があればそれでいい

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プレイしている瞬間があればそれでいい

- ファーストサマーウイカさんの言葉 -

 

録画したTV番組を見ていたら
印象的な言葉に出会ったので
今日はそれを紹介したい。

番組は、毎週3人のゲストが
司会を介さずにトークを展開する
「ボクらの時代」

「ボクらの時代」フジテレビ
2023年1月22日放送
ファーストサマーウイカ×
宮司愛海×高山一実

(以下水色部は放送からの文字起こし)

忙しく活躍中の若い女性3人のトーク。
仕事のストレスを何で発散するか、
といった話題になったとき、
ファーストサマーウイカさんは
「一人でゲーセン行くの最高に好き」
と即答。
「ひたすらクレーンゲームやっているの」

「渋谷、新宿、池袋、秋葉原、川崎、
 蒲田、とかゲームセンタが
 ギュッとなっているところを
 転々として」
「何時間でも居られる」らしい。

だから、いらないの。
物はいらないの。やりたいの。

プレイヤーだから、
コレクターじゃないから

私は。

プレイしている瞬間があれば
それでいいの


お菓子取るのよ。
お菓子取って、現場とかに
「差し入れでーす」って、
でかめの、でかい
なぞのチョコとかガンガン入れて。

もうだから流していく。
ほんとにそこでデトックス。

ファーストサマーウイカさんの
声、話しっぷりは
聞いているだけで気持ちいい。

そぉか、モノが欲しいわけじゃないンだ。

「プレイしている瞬間があれば
 それでいいの」

に妙に説得力がある。


でもね、お金かかるのよ。
何か観る映画鑑賞だとか
舞台鑑賞っていうのは
お金払っているけれど、
得るものしっかりあるわけ


けど、もうクレーンゲームは
お金も出ていくし、その瞬間の
アドレナリンの一瞬で消えるから、
持続力ゼロだから、
もっと欲して、欲して
みたいになって。

でも、
出てきたものはべつに欲しくない、
ってなるから、
満たされているようでべつに
満たされていないのアレは


瞬間の麻薬状態なので、
ハイになっているだけだから。

だからけっこう終わったあと、
ずーんって疲れて

でもこう目を閉じると
「チャーチャラララ」って
ゲーセンの音が聞こえ。

ギャンプルとかと
同じような状態だから、
まぁなんかまぁ
健康的かどうかわからないけれど。

「瞬間の麻薬状態」を
ここまで客観的に語れるなんて。

でも、考えてみると誰にとっても
心から「発散できるもの」には
趣味だろうと、仕事だろうと
同じ言葉が当てはまる気がする。

「プレイしている瞬間があれば
 それでいいの」
だし
「出てきたものはべつに欲しくない」
だし
「瞬間の麻薬状態」
だし
「目を閉じると**が聞こえ」
だし、しかも
「健康的かどうかわからない」
だし。

 

結果としてのアウトプットではなく
「プレイしている瞬間」にこそ
本質的な喜びがある。

ファーストサマーウイカさん、
スタッフ含め周りを笑わせながら
ふざけたようにしゃべっているが
すごい言葉だ。
個人的「残すべき名言」として、
ここに記録しておきたい。

 

 

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2023年5月21日 (日)

「世界、問題集かよ」

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「世界、問題集かよ」

- どうしてそういうことが気になるの? -

 

「哲学対話」を幅広く実践している
永井玲衣さんのエッセイ

永井玲衣 (著)
水中の哲学者たち
晶文社

(以下水色部、本からの引用)

からの話、
前回に引き続きもう少し続けたい。

メモとして残しておきたい言葉の
羅列になってしまうが・・・

(1) 不自由

「わたしたちは、
 できるはずのことが
 できないときに
 不自由を感じるんです」

社会人向けの哲学対話の中での
ある人の発言。
「できるはず」がキーワードだ。
あることのできる・できないって、
どう判断しているのだろう。
つまりは「不自由」って
自分の判断が作り出しているもの、
とも言えるわけだ。

(2) 学生時代の思い出の1シーン

学生時代のバイトで
いやなことがあった帰り道、
遠く遠く遠くの知らないまちで
花火が上がっているのが、
ビルの隙間からほんの少しだけ
目に入ったときのことを思い出す。

すごくきれいで、圧倒的で、華やか。
でもその花火は、
わたしのものではない。

わたしの手からすり抜けて、
どこか知らないひとのために
打ち上がっている。

わたしは疲れた身体をひきずって、
誰もいない暗い道を
うつむき歩きながら、
遠い花火の音を聞いている

全体を通して
こういう小さなエピソードの挿入に
独特な味がある。
唐突なのに違和感がない不思議。

(3) 愛おしくない!

「いのちはかけがえがなく愛おしい」
と言いたいわけではない。
むしろ満員電車などで
ひとびとと身を寄せあうとき、
誰のことも愛おしくないと思う

うまい!

(4) 友人の鋭いひと言

「世界、問題集かよ」
哲学科の友たちのつぶやきだ。

学生時代の、こういうことを
ひと言で言い切る友人の言葉は
いつまでも心に残るものだ。
まさに世界は問題集だが、
歳をとって広く見廻すようになると
同時にそれは解答集でもある気がする

(5) ひとそれぞれ、で終わりたくない

わたしは普遍性と同時に
独自性を愛する。

そして、哲学の輪でもこれが
ゆるされるものであってほしいと願う。
だからといって
「これか真理なんです!」と
突っぱねられても難しいし、
ひとそれぞれで面白いですねと
終わっても残念だ

「ひとそれぞれで面白いですねと
 終わっても残念だ」
まさにそう。
これで終わったらちっとも「面白く」ない。
「ひとそれぞれ」を面白く楽しむための
ひとつの方法でもあるだろう。哲学対話。

(6) どうして気になるの?

質問:
「偉いとはどういうことか?」
回答:
どうしてこういうことが
 気になるのですか?

一般の方の質問に、
東大の哲学教授である
梶谷真司先生が回答したもの。

質問に質問返し、の是非はともかく
どうしてそういうことが気になるのか、
まさにそれを考えること自体が
哲学の出発点なのだろう。

(7) 待ちきれずに封を切る

欲しかった本を手に入れると、
あまりの快感に、
あえて雑に読んでしまう


ろくに味わいもしない
スナック菓子みたいに、
ぽりぽりと消費してしまうのだ。

丁寧に一ページずつ
味わって読みたいのに、
呼吸を荒くして、
横断歩道の中央分離帯や、
ホームのベンチなどで
そそくさと読み終えてしまう。

帰りの電車の中で、
買ったCDのフィルムを
息せき切って
剥がしてしまう人みたいだ。

買ったCDのフィルムを
電車の中で息せき切って
剥がしてしまった経験があるからか、
妙に言葉に説得力がある。

まさに丁寧に楽しみたいのに。

 

本から気になった言葉を
ランダムに並べてみた。

この本独特の「不思議な読後感」は、
こういった言葉の羅列では
表現できないことを
わかってはいるのだけれど。

 

 

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2023年5月14日 (日)

「わかりそう」は「思い出せそう」

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「わかりそう」は「思い出せそう」

- 甘美な「予感」の魅力 -

 

「哲学対話」を幅広く実践している
永井玲衣さんのエッセイを読んだ。

永井玲衣 (著)
水中の哲学者たち
晶文社

(以下水色部、本からの引用)

永井さんが実践している哲学対話が
どんなものかはまったく知らずに
読み始めたのだが、
型に縛られない「ゆるい」対話と
そこで展開される哲学的な思考を
永井さん自身、迷いながらも
楽しんでいるようだ。

それらの経験を通して語られる
永井さんの言葉には
ある種の独特なにおいというか味があり
なんとも不思議な読後感に包まれる。

そんな中から
印象に残った言葉を紹介したい。


哲学対話をしているとき、
あともう少しで
「わかる」ということに
たどりつけそうな感覚

陥ることがある。

それは「最適解」のような
暫定的なものでもなく、
「共合意」というような、
その場だけの取り決めでもない。

もっと普遍的で、美しくて、
圧倒的な何かだ。

それに到達するということはない
その予感がするだけ。

にもかかわらず、
その予感はひどく甘美で、
決定的なのである

到達することはないにもかかわらず、
甘美で魅惑的な「予感」。

何かを知るとか、
何かを体得するとか、
自分の中で何かが変化する
「予感」の楽しさを、
そしてそれを感じられた瞬間の
独特なトリップ感を
実にうまく表現している。


「もう少しでわかりそう」
という感覚は、
「もう少しで思い出せそう」
という感覚に似ている

「わかりそう」は「思い出せそう」に
似ている、か。

哲学対話を
数多く経験した人ならではの感覚は
自らを深く掘り下げる。

何かを思い出そうとするとき、
ひとはもどかしさの苦痛に
顔をゆがめつつも、
その「何か」に、
いとおしさを感じている


かつてわたしの中にいて、
わたしのものだった「何か」。

たまたまそれは
どこかへ飛翔してしまったが、
たしかにわたしが所有していたのだ。

だがもはやそれはひとかけらの姿も
わたしには見せてくれない。

その代わりわたしは、
それに途方もないなつかしさを
感じている


かつてわたしのものであった何か、
そしてそれを失ってしまった
深いかなしみ。

探究とは、
想起することに似ているのだ

われわれはもともと
持っていたのかもしれない。
知っていたのかもしれない。

今は思い出せないけれど。

だから、いとおしく、なつかしい。

考えることには、学ぶことには、
まさに甘美な魅力がある。

 

 

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2023年5月 7日 (日)

若いときの仕事を見て

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若いときの仕事を見て

- 松岡昌宏さんの言葉 -

 

録画したTV番組を見ていたら
印象的な言葉に出会ったので
今日はそれを紹介したい。

番組は、毎週3人のゲストが
司会を介さずにトークを展開する
「ボクらの時代」

「ボクらの時代」フジテレビ
2023年1月29日放送
松岡昌宏×中村獅童×伊藤英明

(以下水色部は放送からの文字起こし)

テレビや映画、舞台で活躍してきた3人。
40代後半から50代という年齢、
それぞれに長い芸歴、
そんな共通点を持つ3人が、
過去の出演作品について、の話になった。

松岡さんは、
自分が出た古い作品を
偶然目にしたときの感想を
こんなふうに言葉にしていた。

そのたとえば10代のときにやっていた
時代劇の芝居とかを見たときに
愕然とするのがふたつあって、

めちゃめちゃひどいなっていう
自分の芝居、のひとつと
あと、
じゃぁ、いまオレこんなにピュアに
芝居できているのかな
、っていう。

あぁ、オレ
なんか変なテク使ってねぇかな今、

みたいなのを見ると、
ちょっと落ちますね。

経験と歳を重ねた今から見る
若いときの仕事。

未熟さゆえの「ひどい」ことは、
自分の仕事を振り返ってみても
いろいろある。

でも、未熟ではあっても
懸命にやった仕事には
ある種の「ピュア」な衝動が
確かにあった。

「オレ、
 なんか変なテク使ってねぇかな、今」

ちょっとドキリとして
この言葉をこうやってメモっているのは、
自分にも思い当たることが
あるからなのだろう。

ピュアかどうかはともかくも
「変なテク」には染まりたくない。

自戒の意味を込めて
ここに文字で残しておきたい。

 

 

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