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2023年3月26日 (日)

「折々のことば」との偶然

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「折々のことば」との偶然

- 民話は複数の声 -

 

『50年にわたり東北の村々を訪ね、
 民話を乞うてきた民話採訪者・小野和子が、
 採訪の旅日記を軸に、
 聞かせてもらった民話、手紙、文献など
 さまざまな性質のテキストを、
 旅で得た実感とともに編んだ全18話を収録』
と紹介されている

小野和子(著)
あいたくてききたくて旅にでる
PUMPQUAKES

(以下水色部、本からの引用)

は、単なる民話集ではない。
とにかく、民話に対する小野さんの姿勢に
胸を打たれる。

と始めて本書最後にある
映画監督 濱口竜介さんの言葉を
紹介したのが前回の記事で、
公開したのは2023年3月19日。

そのわずか数日後、
朝日新聞一面に連載されている
鷲田清一さんの「折々のことば」で
同じ本からの引用が続いた。

「折々のことば」

2023年3月23日
 生きるために「息を抜く」ことが
 許される場が、
 そこにあったのである。
      小野和子

2023年3月24日
 聞くことが声をつくる
      濱口竜介

こんな偶然があるだろうか。
濱口竜介さんについては
まさに同じ一行を引用している。

世の中に数多くある本の中の
全く同じ一行
ふたりの人間がほんの数日違いで
発信するなんて。

話題の新刊ならともかく、
3年以上も前に出版された本だ。

でも、
スピードを競っているわけでもないのに、
鷲田さんよりも先に紹介できたことは
悪い気はしない。
ほんとに不思議な偶然だ。

というわけで(?)
今日は、小野さん自身の言葉から
その「姿勢」の魅力を感じてみたい。
鷲田さんとは違う言葉のセレクションで。

小野さんは最初にこう書いている。

民話を語ってくださる方を
訪ねて聞くという営みを、
民話の「採集」や「採話」と
言ったりする場合があります。

ただ、わたしは、
「語ってくださった方」と
「語ってもらった民話」は、
切り離せないもの
と考えています。

だから、「採集」や「採話」という
言葉は使いません


そのかわりに「採訪」と言っています。
この「採訪」という言葉には、
「《聞く》ということは、
 全身で語ってくださる方のもとへ
 《訪(おとな)う》こと」
という思いが込められています。
そこで語ってくださる方と聞く者が、
ときには火花を散らしながら、
もう一つの物語の世界へ
入ってゆく
ことにより、
深くつながってゆくのです。

「民話」を単独の独立した話としてではなく
訪問先の人や土地、歴史のなかで
捉えようとしている。

民話を語る人は、必ずそれを
語ってくれた人「死者」を語る


死者への思いがあるから、
「言葉」は命を持ち、
「むかし」と「いま」をつないで
無限の未来を
生きる
のではないだろうか。

「死者への思いがあるから、
 無限の未来を生きる」とは
小野さんらしい言葉だ。 


…語りとは個人ではなく、
背後に一種共同体のような、
いや、人と人が集まった
複声のようなものが、
語る〈私〉を差し出しているのである。
語りとは単声ではない

複声が、語る私を差し出している、
繋がりの中にこそ民話の力があるのだ。

民話を語ってもらうとき、
わたしはいつもその人の背後に、
それを語った先祖の面影を見るし、
その声を聞く。

わたしのところまで、いま、
語り手を通して
きてくれている「物語」は、
語る人の「単声」としては
聞こえてこない。

時代を経た無数の先祖の声であり、
それは共同体とでも言うべきものの
複数の声として聞こえるのである

小野さんは、語る方に対してはもちろん、
先祖や土地に対する心からの敬意を
どんなときも大事にしている。

単に「お話を記録する」ではない
民話採訪者小野和子さんの魅力は、
まさにこの複数の声に耳を澄ましている
その姿勢にこそある。

 

 

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