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2023年3月19日 (日)

「畏れ」は 出会う「よろこび」

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「畏れ」は 出会う「よろこび」

- 小野和子さんの「たずねる」声 -

 

『50年にわたり東北の村々を訪ね、
 民話を乞うてきた民話採訪者・小野和子が、
 採訪の旅日記を軸に、
 聞かせてもらった民話、手紙、文献など
 さまざまな性質のテキストを、
 旅で得た実感とともに編んだ全18話を収録』
と紹介されている

小野和子(著)
あいたくてききたくて旅にでる
PUMPQUAKES

(以下水色部、本からの引用)

は、単なる民話集ではない。
とにかく、民話に対する小野さんの姿勢に
胸を打たれる。

というわけで本文を紹介したかったのだが、
本書最後に収められた

 映画監督 濱口竜介
「聞くことが声をつくる」


という濱口監督の文章が
これまたすばらしい。
本の魅力の根幹に触れる
解説にもなっているので
まずはこちらから紹介したい。

濱口監督は
「民話の語りと同時に、
 聞き手としての小野和子さんも
 記録させて欲しい」

単に語りの記録ではなく、
語り-聞く営みそのものの
ドキュメンタリーとして『うたうひと』
という映画を完成させている。

いくら強調しても足らないのは、
とても単純な事実です。

語り手たちは、聞き手がなければ、
そもそも民話を語り出すことができない

でも、誰でもが簡単に民話の
「聞き手」になれるわけではない。

しかも、小野さんが関心をしめしたのは
単に民話に対してだけではありません。

家族についての思い出や
暮らしにまつわる苦楽、
言うなればその人の歴史や、
存在そのものを受け止めるように
聞いていました。

"ask"も"visit"も
日本語ではともに「たずねる」ですが、
小野さんはずっと自らの足で
語り手のところにからだを運び、
全身でたずねていたのではないか、
小野さんが自分自身を
相手に捧げるようにして
「聞く」ことによって、
語り手の底に眠っていた民話は
あんなにも生命力を持って
語り-聞きの場に
あらわれた
のではないか、
と想像します。

その結果、
「聞き手」であった小野さんの話を聞いて、
濱口さんはこんな感想を抱く。 

それは語る声ですが、
やはり私たちに「たずねる」声として
響きました。

「聞くことが声をつくる」
と考えた濱口さんは、
小野さんに問いかける。

小野さんに「聞く」とはなにか、
と漠然とした問いを
投げかけたことがあります。

小野さんは、田中正造の言葉を
引かれました。

田中は「学ぶ」ことを指して
「自己を新たにすること、すなわち
 旧情旧我を誠実に
 自己の内に滅ぼし尽くす事業」
と言ったのだと。

「聞く」とは
古い自分を打ち捨てていくこと、
自分自身を変革することなのだと
小野さんは言っている。

そんな小野さんの記録を
「ページをめくることで
 どこか採訪の旅、
 自己吟味の旅の道連れとして
 招かれている思いがする」
と言う濱口さん。

目の前の一個の人間が
自分には計り知れない存在である、
という事実に行き当たるときに生じる
「畏れ」は、
その人の果てしなさと出会う
「よろこび」と常に一対です

人との出会いを語ったこの一文は
ほんとうに味わい深い名文だ。

 

 

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