平野啓一郎さんの言葉
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平野啓一郎さんの言葉
- 小説の映画化について -
録画したTV番組を見ていたら
印象的な言葉に出会ったので
今日はそれを残しておきたい。
番組は、毎週3人のゲストが
司会を介さずにトークを展開する
「ボクらの時代」
「ボクらの時代」フジテレビ
2022年11月6日放送
平野啓一郎:妻夫木聡:窪田正孝
(以下水色部は放送からの文字起こし)
「映画の原作者」としての思いを
妻夫木さんが平野さんに質問する。
多々あると思うンですよ。
平野さんの立場から見て、
自分が生み出した
子どもみたいなものが
映像化するっていうのは
どういう思いがあるンですか?
このあたり原作者によって
きっと感じていることは様々だろう。
映画とか音楽とか
いろいろなジャンルのものから
影響を受けているンですけど、
自分の小説もそれと同じように
同時代のミュージシャンとか
映画監督とか
ものを作っている人が
僕の作品に反応してくれるってことは
やっぱりすごく嬉しいンですよね。
だから
監督さんとかキャスティングとか
いろんなことには
口出しをしないことに
してるンですよね。
映像化にあたっては、基本的に
「口出しをしない」タイプのようだ。
クリエイターに任せる。
そこには次のような思いが
ベースにあるようだ。
平野さん自身の声で聞いてみたい。
映画の作る人たちの作品なんで
僕はこうだと思って
映画もその通りなってたら
原作者としては
満足かもしれないけれど
ちょっとやっぱりなんか
映画としてはそれはうまくいってない
ってことなんじゃないかな、
って気もするンですよね。
関わった人たちの
クリエイティブなものが
反映される余地が
あんまりないってことなんで。
「原作者としては満足かもしれないけれど、
映画としてはうまくいっていないのでは」
こう言える原作者って
どのくらいいるのだろう?
映画による新たな表現を、
クリエイターを信じて期待している原作者、
それは、映画を観る側にも要求される
ひとつの価値観だ。
クリエイティブなものに接するとき
ちょっと思い返したい言葉だ。
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