「陶器が見たピカソの陶器」
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「陶器が見たピカソの陶器」
- 未だ招かれざる客なのか -
人間国宝や文化勲章に推挙されても
それに応じることなく、一陶工として
独自の陶芸美の世界を切り拓いた
河井寛次郎。
河井寛次郎 (著)
火の誓い
講談社文芸文庫
(以下水色部、本からの引用)
には、
「陶器が見たピカソの陶器」
というたいへん興味深い文章がある。
昭和25年1月に書かれたものだ。
河井さんは、ピカソが焼いた
「楕円皿の色写真十幾枚ばかり」
を見て、その印象を語っている。
そのあるものは
何という絵の生ま生ましさだ。
確かさだ。自由さだ。
やはり絵の力を大きく感じている。
ある皿に対しては、
これは新鮮な生命なのであろう。
よくも使いこなせた
あの不自由な土や釉薬。
と賛辞を送っている。
でも、別なある皿に対しては、
楕円皿もまた性格を持っていることを
誰も見逃さないであろう。
そうだ、陶器だって一つの生物なのだ。
一見誰もピカソがいきなり皿の中に
踏み込んでいる素晴らしさに驚く。
そうだ、ピカソ程全身をあげて
陶器へ踏み込んだ画人を
自分は知らない。
と書き出して
皿は彼を許してはいない。
ピカソは歌ってはいるが
皿は和してはいない。
この協和しない性格の二重奏は
どうしたことなのであろう。
陶器の方からすればピカソは明らかに
未だ招かれざる客なのは遺憾である。
と続いている。
「彼を許してはいない」
「皿は和してはいない」
「招かれざる客」
と厳しい言葉が並ぶ。
彼が陶器の中に待たれている自分を
はっきり見付けてくれるのを
待っている。
ピカソは権利を行使はしているが、
当然負うべき義務を
忘れているようである。
一見彼に征服されたように見えても、
よく見ると陶器は服従はしていない。
なんとも表現がおもしろい。
どんな皿なのか。
想像してみるだけで楽しくなる。
別な皿の感想も見てみよう。
呼吸しているあの静物 -
知っていながら
形を無視したあの意気込。
その意気込はよく解る。-
しかしこれは
形を無視したこと自体のために
皿もまた絵をはね返すより
他に仕方がない。
いって見れば皿もまた
絵を無視しているのだ。
これはこれ皿の敗北であると同時に
絵の敗北でなくて何であろう。
こういう皿は
未だ他にも沢山あった。
二つが一つになりきれない
相互の失望。
「皿の敗北であると同時に絵の敗北」
こちらにもまた厳しい言葉が並ぶ。
そもそも陶器に絵を描くこと自体、
「陥し穴」とまで言っている。
絵を殺しこそすれ
決して生かしはしない。
これは陥し穴なのだ。
流石にピカソは落ち込んでも
生きている。が、それも
紙やカンバスの上以上に
生かされてはいない。
と感想を率直に綴ってきた河井さんだが、
ピカソのこれから、にも
思いを馳せている。
形を借りなくなるであろう。
それと新しく形を生み出すであろう。
少くとも陶器はそれを待っている。
具体的には
「形という性格を持たない陶板」
を
「彼の生命を焼き付けておくのに
これ以上の相手はない」
と提案している。
厳しい言葉が並びながらも
陶芸に挑戦している作家への目は
ほんとうにあたたかい。
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