「祈り・藤原新也」写真展
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「祈り・藤原新也」写真展
- 既に答えが書かれている今? -
東京の世田谷美術館で開催されている
「祈り・藤原新也」
という藤原新也さんの写真展を観てきた。
藤原新也さんは、
1944年門司市(現北九州市)生まれ。
東京藝術大学在学中に
インドを皮切りにアジア各地を放浪。
その後、アメリカ、日本国内、
震災後の東北、コロナで無人となった街、
などを次々に撮影。
写真に自身の短いコメントを添えて
これまでの50年を振り返っている。
もちろん写真もいいのだが、
コメントがまたいい。
(以下水色部は、
写真展の藤原さんのコメントを
そのまま引用)
藤原さんは、写真展のタイトルを
「祈り」にした理由を
次のように書いている。
今から半世紀前
世界はまだのどかだった。
自然と共生した
人間生活の息吹が残っていた。
(中略)
ときには死の危険を冒してさえ
その世界に分け入ったのは
ひょっとすると目の前の世界が
やがて失われるのではないかという
危機感と予感が
あったからかもしれない。
その意味において
わたしにとって
目の前の世界を写真に撮り
言葉を表すことは
”祈り”に近いものでは
なかったかと思う。
世界は広く、生はもちろん
死をもまた豊かであることを
感じさせる写真が並ぶ。
たとえばインド。
インドの聖地パラナシ。
諸国行脚を終えたひとりの僧が、
自らの死を悟って、
河原に横たわる。
夕刻のある一瞬、
彼は両手を上げた。
そして両手指で陰陽合体の印を結び、
天に突き出す。
その直後、彼は逝った。
死が人を捉えるのではなく、
人が死を捉えた。
そう思った。
人骨が散らばる写真にも
こんなコメントが付いていて
いろいろ考えさせられる。
病院では死にたくないと思った。
なぜなら、
死は病ではないのですから。
台湾での
自分が無名であることの
安堵感を味わう。
には、
「無名」のもつ味わいがあふれているし、
アメリカでの
カリフォルニア
には、
的を射たコメントに笑えるし。
観光ガイドにはない写真ばかりだが、
現地に飛び込ンでいっての写真には
生が溢れ、死が溢れ、
土埃が舞っていても声が溢れ、
色が溢れている。
なので
花と蝶は美しかった。
や
わたしのエネルギーへと変る。
が強い説得力をもって迫ってくる。
藤原さんは、最後
着々と人類の足跡が
刻まれようとしている。
この自己拡張と欲望の果てに
何が待っているのか、
その回答用紙に
既に答えが書かれている今、
いま一度沖ノ島の禁足の森の想念を
心に刻みたい。
と書いているが、
「その回答用紙に
既に答えが書かれている今」
あなたはどうするの?
と強い投げかけをしているように
読める。
重い問いだが、
「世界がまだのどか」で、
「自然と共生した
人間生活の息吹が残っていた時代」の
写真の数々は
新たな解を見せてくれているようでもある。
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