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2022年10月16日 (日)

「所有」と「存在」

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「所有」と「存在」

- 日本の伝統的な所有感 -

 

前回、所有格の「の」
これだけをテーマに
9人の執筆者の文章で編まれている

大庭健、鷲田清一 (編)
所有のエチカ
ナカニシヤ出版

(以下水色部、本からの引用)

を紹介した。

そしてその最後に、

最初に書いた鷲田清一さんの
 「現代の都市空間は隅々まで
  誰かのもの、誰かの所有物だ。」
なる事実が、そもそも本来は
「当たり前」ではないことを
改めていろいろ学ぶことができる。

と書いた。

今日はその
「当たり前ではない」部分について
田中久文さんが書いた
「無所有の系譜」を読んでみたい。

 

日本の伝統的所有観の
最も大きな特色の一つは、
所有と存在という二つの概念が
明確に区別されていない

という点にあると思われる。

それはまず
言語表現の上に現われている。
「所有」という言葉自体を
考えてみても、
「有」は「もつ」と同時に、
「ある」をも意味している。

「もつ」とは
「存在そのものの本来のありかたを
 損なわないで手元におく」
ことだが、
近代的な意味での所有とは
「とる」つまり
「積極的に対象に働きかけて、
 対象を自分のものにし、
 自由にする意」
かもしれない。

一方逆に「存在」という言葉に関して
和辻哲郎などは、
それが本来は所有を意味していたと
解釈する。

英語では
John has two children.
と所有を表す動詞haveを使うが、
日本語では、
「太郎には子供が二人いる」
のように存在を表す動詞「ある(いる)」を
使って所有を表現している。

存在と所有とを一体視する考え方は、
西洋近代の私的所有権の考え方とは
大きく異なっている。

貝原益軒は『養生訓』の中で
身体に関して、
人の身は父母を本とし、
 天地を初とす

 天地父母のめぐみをうけて生れ、
 又養はれたるわが身なれば、
 わが私の物にあらず」
と述べている。

自己の身体は「私の物」ではなく、
「天地父母」から与えられたものである
というのである。

そうであるからこそ、
逆にそれをみずからの手で
大切に「養生」しなければ
ならないのだと益軒は説く。

私の体は「私のもの」ではないのだ。

苦労して育てた農作物ですら

農学者の宮崎安貞は

稼(実った稲)を生ずる物は天也。
 是を養うものは地なり


 人は中にいて天の気により
 土地の宜きに順い、
 時を以て耕作をつとむ。

 もし其勤なくば天地の生養も
 遂ぐべからず」

と述べ、
あくまでも天地の働きを補足し、
完成させるものとして、
人間の農耕を捉えている。

こうした考え方は、農耕だけでなく
商品経済の場においてもみられた、と
石田梅岩の言葉も紹介されている。

以上のように日本では、
身体や人間の労働を
自立的にみることなく、

それを宇宙や天地全体の働きの中で
捉えようとする考え方が
伝統的に強くあった。

 

天地に随順するという形で
所有を捉えるという考え方は、
人間の倫理を
放棄したわけではもちろんない。

近世の思想家の多くは、
「天」や「天地」そのものが
倫理や規範をおびたものである

とみなし、
したがってそこに参与する人間もまた、
そうした倫理や規範に
従わなければならない存在だと考えた。

 

「存在」そのものが
「人間がもつ」ということを
根底に成立している?
これまで「所有」と「存在」の関係を
考えたことなんて全くなく、
まさにボーっと生きてきたが
こうして説明されると
不思議な繋がりが見えてくるから
おもしろい。

 

 

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