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2022年9月

2022年9月25日 (日)

私のなかの何かが健康になった

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私のなかの何かが健康になった

- ミヒャエル・エンデの言葉 -

 

「モモ」「はてしない物語」
などの作品で知られる作家
ミヒャエル・エンデに
子安美知子・子安文の母娘が
インタビューをしている

子安 美知子 (著)
エンデと語る ― 作品・半生・世界観

朝日選書 朝日新聞出版

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

で、エンデはこんな話をしている。

私が音楽を聴いて、
理解すべきことがありますか?

(中略)

音楽に理解はいらない。
そこには体験しかない
私がコンサートに出かける、
そこですばらしい音楽を聴く。

帰り道、私は、
ああ今夜はある体験をした、という
思いにみたされている。

でも、私は、コンサートに行く前と
あととを比べて、
自分がいくらかりこうなった、
なんて思うことはありませんよ

そうでしょう?

りこうになったわけでもないのに
体験によって満たされるもの。

それはもちろん音楽に限らない。

シェークスピアの芝居
見にいったとする、そのときもです。

私はけっして、りこうになって
帰るわけではありません


なにごとかを体験したんです。

すべての芸術において言えることです

本物の芸術では、
人は教訓など受けないものです。

前よりりこうになったわけではない、
よりゆたかになったのです。

心がゆたかに - 
そう、もっといえば、
私のなかの何かが健康になったのだ、
秩序をもたらされたのだ。

およそ現代文学で
まったく見おとされてしまったのは、
芸術が何よりも治癒の課題を負っている
というこの点です。

前回書いた「芸術と医療は同じ?」
とまさに同じ視点だ。

「心が豊かになった」はよく使う表現だが
「何かが健康になった」
という表現はおもしろい。

でも、心満たされたとき
「元気になった」とはよく言う。
たしかに「健康」になっている。

薬でもないのに
免疫力を高め、元気にする。
芸術にはそういう力がある。

なのでエンデは、文学作品は、啓蒙や
何かを教えるために書くわけではない、と
はっきり言い切っている。

啓蒙ではなくて-啓蒙は、
最も非本質的な課題です。

啓蒙をねらうのだったら、
私はエッセイや、評論を書きます

あるいは
こうしたインタビューの形式とか。
人に何かを教える意図があったら、
小説や物語のオブラートに包んで
お渡しするより、
そのほうが適しています。

正しい知識を与えたいなら
エッセイや評論を書くよ、か。

一冊の本は、何かの思想の
お説教であってはならない、
と私はいいましたが、
それは著者がかかわった
思想の成果ではあるはずなのです。

一篇の詩は、知恵を
しのばせておく必要はないのですが、
知恵から生まれた
結果ではなければなりません。
が、
知恵そのもの、思想そのものが
顔出しするようであってはならない。

絵画でもおなじではありませんか。

あるいは音楽でも、彫刻でも-。

それらはすべて、
なにかの世界観に根ざした産物で
なければならない

作者の世界観が
文学や絵画や音楽や彫刻といった
形になり、そしてそれは
触れた人を広く「健康にする」作用がある。

芸術は、生物が本来持つべき「調和」を
取り戻すのに大きく貢献する
不思議な力を持っている。

 

 

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2022年9月18日 (日)

芸術と医療は同じ?

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芸術と医療は同じ?

- 体は戦場ではなく調和の場 -

 

現役のお医者さんとして活躍する
稲葉俊郎さんが書いた

稲葉俊郎 (著)
いのちを呼びさますもの

—ひとのこころとからだ—
アノニマ・スタジオ

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

から
「元気になったから病気が治る」
「生を養う」養生所
などについて紹介してきたが、
もう一節だけ書き残しておきたい。

 

「内と外で分断されていく」

現代は、外向きの社会的な自分と、
「いのち」を司る内なる自分とが
分断されようとしている時代だ。

多くの人は、外の世界に向けた自分を
コントロールすることに明け暮れている


テクノロジーが情報化社会をつくり、
そうした動きを後押しした。

社会の構造も、人間関係もそうだ。

外なる世界を強固につくり上げれば
つくり上げるほど、
自分というひとりの人格が
外と内とで分断されていく
という
矛盾をはらむ。

外と内とで分断とはどういうことだろう。

なぜなら、
外へ外へと視点が向きすぎると、
自分自身の内側と
どんどん離れていくことが多く、
自分自身との繋がりを失うと、
他者との繋がりは
空疎で実体のないものになる
からだ。

見るべき世界は外側だけではなく、
自分自身の内側にもある

自分自身は、外ではなく、
常に「ここ」にいるからだ。

社会人として、家族の一員として、
まさに外の世界に対して
自分を考えている時間は多い。

でも確かに
一見繋がっているように見えながらも
他者との繋がりに空疎感を感じる時とは、
まさに外側だけで繋がっている時だ。

そこに「自分の内側」があるときは、
そういう空疎感はない。


自分自身との繋がりを失うと、
自分自身の全体性を
取り戻すことはできない。

なぜなら、
自分の外と自分の内とを繋ぐ領域が、
「繋ぐ」場所ではなく
「分断」する場所
として働いてしまう
からだ。

外と内とを「分断」する場所ではなく
「繋ぐ」場所として機能させるために、
大きく役立っているものがある。

稲葉さんに指摘されるまで、
そういう視点で考えたことは
これまでほとんどなかったのだが。

そうした自分自身の
内と外とが重なり合う
自由な地を守ってきたのは、
まさに芸術の世界だ


外側に見せる社会的な自分と、
無限に広がる
内なる自分とを繋ぐ手段として。

そして、医療も本来的に
そうした役割があるのではないか
と、
臨床医として日々働いていて、
強く思う。

言われてみると、
芸術が、外と内とを「繋ぐ」ために
機能している面は確かにある。

さらに稲葉さんらしい視点は、
医療もそうだ、と
芸術と並べている点だ。

内側に広がる
自分自身と繋がることができたら、
自分以外の人々とも
しっかり繋がることができるだろう。

自分自身の内側とは、
まさに体の世界であり、心の世界だ。

医療の本質とは、体や心、
命や魂の本質に至ること


そうした原点に、
また舞い戻ってくる。

それは芸術や文化が求めて
積み上げてきた世界と
同じ
ではないだろうか。

自分はそうした思いを、
読み手の人と分かち合いたいと思う。
「分かる」ことと
「分かち合う」ことは、
同じことだと思うのだ。

「体」を
「病」との戦いの場としてみる
西洋医学の考え方からは
出てこないものの見方だ。

「体」や「心」を
戦場としてではなく、
「調和の場」として考える発想。

調和の場として
全体性を取り戻すために
大きく役立っている芸術、
本来、医療も同じような役目を
担っているのではないか。

その調和こそが健康であり、
生きるということなのだから。

「元気になったから病気が治る」という
最初の言葉が、
改めて大きな意味で響いてくる。

 

 

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2022年9月11日 (日)

「生を養う」養生所

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「生を養う」養生所

- 「病」と闘うだけでなく -

 

現役のお医者さんとして活躍する
稲葉俊郎さんが書いた

稲葉俊郎 (著)
いのちを呼びさますもの

—ひとのこころとからだ—
アノニマ・スタジオ

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

から 前回は
「元気になったから病気が治る」
という言葉を紹介したが、
もう少し本を読み進めてみたい。


英語で
「Health」(健康)という言葉があるが、
その語源は
古英語「Hal」から来ている。

「Hal」は「完全である」

という意味であり、そこから

「Holism」(全体性)や
「Holy」 (神聖な)や
「Heal」 (癒す)、
「Health」(健康)という言葉に

分化していった。

つまり、
「健康」 (Health)という言葉には、
そもそも
「完全」 (Hal)、
「全体性」(Holism)、
「神聖」 (Holy)
といった意味合いが
含まれているのだ。

稲葉さんは、
古代ギリシャ時代の劇場が残る
世界遺産「エピダウロスの考古遺跡」を
訪問した際、あることに気づく。

古代円形劇場という建築物が
おもに注目されている場所だが、
実際に足を運でわかったことは、
場全体が
総合的な医療施設であった

ということだ。

劇場を含む古代遺跡が
「医療施設」とはどういうことだろう。

エピダウロスの地には温泉があり、
演劇や音楽を観る劇場があり、
身体技能を競い合い
魅せ合う競技場があり、

さらに眠りによって
神託を受けるための神殿
(アスクレピオス神殿)もあった。

そこは人間が全体性を
回復する場所
であり、
ギリシャ神話の医療の神である
「アスクレピオス」信仰の
聖地でもあった。

温泉、演劇、音楽、競技場、神殿・・・。

この神殿には「眠りの場」があり、
訪れた人はそこで夢を見る。

夢にはアスクレピオスが出てきて、
夢を見ることで
自分自身の未知の深い場所との
イメージを介した交流が起きる。

聖なる場での
そうした夢の体験そのものが、
生きるための指針や
方向性を得るための
重要な儀式的行為でもあったのだ。

夢までをも対象としたその空間を
稲葉さんは、
芸術のための空間でありながら、
同時に医療のための空間でもあると
確信したようだ。

こういう空間、
全く同じではないものの
考えてみると日本にも古くからある

明治期にドイツから
日本にやって来た医師ベルツも、
日本では草津温泉などの湯治場が
体や心を癒すための医療の場として
機能している
ことを、驚きとともに
医学専門誌で発表している。

日本では多くの温泉が療養地として
自然なかたちで愛好されているため、
政府は温泉治療を
進めていくべきであると
力説している。

「温泉」という人々が集う場が
心の全体性を取り戻す場となり、
健康を目指す医療の場となる。

「病院」はあくまでも
「病」を扱う場所であるが、

江戸時代にあった「養生所」は
まさに「生を養う」ための
場所であった。

稲葉さんは、病院を補う場所として、
「健康」「生」を養う場所
必要だと感じている。

「養生」
改めて見直してみるといい言葉だ。

 

 

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2022年9月 4日 (日)

『いのちを呼びさますもの』

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『いのちを呼びさますもの』

- 「元気になったから病気が治る」 -

 

現役のお医者さんとして活躍する
稲葉俊郎さんが書いた
下記の本には、
まさに「いのちを呼びさます」
言葉や視点が溢れている。

稲葉俊郎 (著)
いのちを呼びさますもの

—ひとのこころとからだ—
アノニマ・スタジオ

(書名または表紙画像をクリックすると
 別タブでAmazon該当ページに。
 以下、水色部は本からの引用)

印象的なキーワードを拾いながら
いのちや健康について考えてみたい。

「元気になったから病気が治る」

現代医学の
「病気が治るから元気になる」
という考え方と、
「元気になったから病気が治る」
という伝統医療のような考え方は、
それぞれ善悪や優劣ではなく、
アプローチの違いなのだ。

初めて目にすると、えっ!?と
惹きつけられるフレーズだ。


西洋医学において「病」とは、
人をおびやかす侵略者であり
悪の存在であると捉える。

そのため、
「病」を倒すことが至上命題となる。
「病」とは何かをまず定義し、
「闘病」という表現があるように、
病気と闘い続け、
勝利を収める必要があるのだ。

でも稲葉さんは医療現場を通じて、
こういうアプローチだけでは、
大きな限界があることを
日々感じていたという。

病に勝利し、表面上見えなくなっても
別な形で現れてくることを
何度も経験したからだ。

西洋医学では、
体を戦いの場として見る。

病は敵であり、頭の判断で
「敵を倒せ」という命令により
強制的に排除する対象である。

それはつまり、体や心という場を
戦場として捉えることでもある

体や心は戦場なのだろうか?

人間の体は、調和と不調和の間を
行ったり来たりしながら、
常に変化している。

「健康」とは、
「調和」と言い換えることも
できるだろう。

全体のバランスを取りながら、
その根底に働く「調和の力」を信じ、
体の中の未知なる深い泉から
「いのちの力」を引き出す必要がある、
そう考えるようになる稲葉さん。

体の調和を取り戻すプロセスこそ
「いのち」が生きている
プロセスそのものなのではないか、と。

西洋医学における専門化は、
どうしても部分へ部分へと
枝分かれしていく傾向
にあり、

人間まるごとの全体性を
扱おうとする医療の根本
から
離れていくように感じてしまう。

その違和感をこそ、
私は大切にしている。

その違和感に
稲葉さんはどう向き合っているのか、
西洋医学だけではカバーできない
「調和」を取り戻すために、
われわれはどんな工夫をしてきたのか。

「いのち」を冷静に見つめる視線は
「調和」をキーワードに
歴史や芸術や文化にまでおよび
話は静かに広がっていく。

 

 

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