私のなかの何かが健康になった
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私のなかの何かが健康になった
- ミヒャエル・エンデの言葉 -
「モモ」「はてしない物語」
などの作品で知られる作家
ミヒャエル・エンデに
子安美知子・子安文の母娘が
インタビューをしている
子安 美知子 (著)
エンデと語る ― 作品・半生・世界観
朝日選書 朝日新聞出版
(書名または表紙画像をクリックすると
別タブでAmazon該当ページに。
以下、水色部は本からの引用)
で、エンデはこんな話をしている。
理解すべきことがありますか?
(中略)
音楽に理解はいらない。
そこには体験しかない。
私がコンサートに出かける、
そこですばらしい音楽を聴く。
帰り道、私は、
ああ今夜はある体験をした、という
思いにみたされている。
でも、私は、コンサートに行く前と
あととを比べて、
自分がいくらかりこうなった、
なんて思うことはありませんよ、
そうでしょう?
りこうになったわけでもないのに
体験によって満たされるもの。
それはもちろん音楽に限らない。
見にいったとする、そのときもです。
私はけっして、りこうになって
帰るわけではありません。
なにごとかを体験したんです。
すべての芸術において言えることです。
本物の芸術では、
人は教訓など受けないものです。
前よりりこうになったわけではない、
よりゆたかになったのです。
心がゆたかに -
そう、もっといえば、
私のなかの何かが健康になったのだ、
秩序をもたらされたのだ。
およそ現代文学で
まったく見おとされてしまったのは、
芸術が何よりも治癒の課題を負っている、
というこの点です。
前回書いた「芸術と医療は同じ?」
とまさに同じ視点だ。
「心が豊かになった」はよく使う表現だが
「何かが健康になった」
という表現はおもしろい。
でも、心満たされたとき
「元気になった」とはよく言う。
たしかに「健康」になっている。
薬でもないのに
免疫力を高め、元気にする。
芸術にはそういう力がある。
なのでエンデは、文学作品は、啓蒙や
何かを教えるために書くわけではない、と
はっきり言い切っている。
最も非本質的な課題です。
啓蒙をねらうのだったら、
私はエッセイや、評論を書きます。
あるいは
こうしたインタビューの形式とか。
人に何かを教える意図があったら、
小説や物語のオブラートに包んで
お渡しするより、
そのほうが適しています。
正しい知識を与えたいなら
エッセイや評論を書くよ、か。
お説教であってはならない、
と私はいいましたが、
それは著者がかかわった
思想の成果ではあるはずなのです。
一篇の詩は、知恵を
しのばせておく必要はないのですが、
知恵から生まれた
結果ではなければなりません。
が、
知恵そのもの、思想そのものが
顔出しするようであってはならない。
絵画でもおなじではありませんか。
あるいは音楽でも、彫刻でも-。
それらはすべて、
なにかの世界観に根ざした産物で
なければならない。
作者の世界観が
文学や絵画や音楽や彫刻といった
形になり、そしてそれは
触れた人を広く「健康にする」作用がある。
芸術は、生物が本来持つべき「調和」を
取り戻すのに大きく貢献する
不思議な力を持っている。
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