お鷹の道・真姿の池湧水群
(全体の目次はこちら)
お鷹の道・真姿の池湧水群
- ようやく野川に合流 -
前回まで、
1200年前の道、
東山道武蔵路に寄り道してきたが、
野川を目指しての
西国分寺駅からのぶらぶら歩きに戻りたい。
東山道武蔵路跡のすぐそばに、
旧国鉄の「中央鉄道学園」、
郵政省の戸建て宿舎などの
跡地を整備して作られた
武蔵国分寺公園がある。
ここから、
国分寺薬師堂は歩いてすぐだ。
国分寺薬師堂は、
建武2年(1335)に新田義貞の
寄進により建立されたと伝えられるもので、
宝暦年間(1751-1763)に現在地に再建。
緑が深くて美しい。
天平13年(741)の聖武天皇の命により、
鎮護国家を祈願して創建された
武蔵国分寺。
諸国国分寺中有数の規模だった寺地・寺域は
数回の変遷があったようだが、
僧寺の金堂、講堂、七重塔、鐘楼、
東僧坊、中門、塀、北方建物、
尼寺の金堂、尼坊、などが調査されている。
国分寺楼門
この門は、米津寺(東久留米市)の楼門を
明治28年に移築したもの。
板金葺で江戸時代の建築様式を
よくとどめているものらしい。
武蔵国の文化興隆の中心施設であった
国分寺の終末は不明だが、
元弘3年(1333)の分倍河原の合戦で
焼失したと伝えられている。
国分寺すぐ横から、
「お鷹の道・真姿の池湧水群」の
水路脇を歩けるようになっている。
江戸時代に尾張徳川家の
御鷹場だったことに由来して、
「お鷹の道」と名付けられた散策路。
真姿の池
「嘉祥元年(848)
不治の病に苦しんだ玉造小町が、
病気平癒祈願のため
国分寺を訪れて21日間参詣すると、
ひとりの童子が現れ、
小町をこの池に案内。
この池の水で身を清めたところ、
たちどころに病は癒え、
元の美しい姿に戻った」
との言い伝えのある
「真姿の池」には
小さな祠と鳥居がある。
国分寺崖線
国分寺から
小金井・三鷹・調布・狛江を経て
世田谷の等々力渓谷に至る
標高差約15mほどの崖線で
「ハケ」と呼ばれている。
この崖線が
「日本名水百選」にも選ばれている
ここの湧水群を生み出している。
東京地区の崖線の2大スター(?)と言えば
この国分寺崖線と
上野から赤羽までの日暮里崖線
ということになるだろうか。
ただ、国分寺崖線は、
多摩川がつくった河岸段丘だが、
日暮里崖線は、
波の侵食を受けてできた侵食崖。
その成立は大きく異なる。
湧水が流れる「元町用水」を
追うように歩くと、
ついにここに到達する。
野川との合流点。
ちなみに、合流点から
野川上流方向を見ると
こんな感じ。
ようやく野川に合流することができた。
ここから先は、できる限り
野川に沿って歩いてゆこう。
(全体の目次はこちら)
« 西国分寺 東山道武蔵路 | トップページ | 野川に沿って深大寺まで »
「旅行・地域」カテゴリの記事
- 「歓待」と「寛容」(2023.10.22)
- 野川遡行(2) 人工地盤の上の公園(2023.07.02)
- 野川遡行(1) 次大夫堀公園まで(2023.06.25)
- 多摩川 河口部10km散歩(2023.06.11)
- 旧穴守稲荷神社大鳥居(2023.06.04)
「歴史」カテゴリの記事
- 「歓待」と「寛容」(2023.10.22)
- 野川遡行(1) 次大夫堀公園まで(2023.06.25)
- 旧穴守稲荷神社大鳥居(2023.06.04)
- 研究者から見た「次世代シークエンサ」(2023.04.30)
- ゲノム解析が歴史解釈に与える影響(2023.04.23)
コメント