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2022年8月

2022年8月28日 (日)

実戦でまだ指されていないものが定跡!?

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実戦でまだ指されていないものが定跡!?

- 人類最高峰の頭脳の戦いが、 -

 

2022年8月19日の朝日新聞に
「女性初の棋士誕生なるか」
なる見出しで女流棋士の里見香奈さんが
8月18日から棋士編入試験に挑むことが
記事になっていた。

12歳で女流棋士となり、その後、
史上最多の通算49期のタイトルを重ね、
現在8つあるタイトルのうち5つを保持する
「最強の女流棋士」の里見さんでさえも、
年齢制限の26歳までに
奨励会を突破し「棋士」になることは
できなかった。

これまで奨励会を突破した女性は
ひとりもいないという。

ちなみに、2022年8月19日時点で
棋士は169人。全員男性。

里見さんが棋士編入試験に合格すれば、
まさに
 「女性棋士第一号」
となる。

将棋の強さ、だけでみる限り
「女流棋士」と「棋士」の世界は
少なくとも現時点では
全く別次元の世界のようだ。

 

では、その先、
棋士の世界のそのまた頂点では
今いったい
どんなことが起こっているのか?

すこし覗いてみたい。

 

2022年5月22日の朝日新聞に
「あっさり駒損 AI時代の定跡」
なる見出しで
今年2022年の第80期名人戦第4局について
大きな記事があった。
(以下水色部、記事からの引用)

A220522sai

勝った渡辺名人は、
これまで
「過去の実戦例から学ぶもの」
とされていた「定跡」は
誰もがAIを使うようになった現在においては
違うのだ、と明言している。

実戦では指されていなくても
 『AIで研究して、
  みんな知っているよね』
 というのが、今の定跡です」

副立会人の小林七段が思わず「ウソやん!」
と声を上げたほどの第4局の展開は
まさにこんな研究から
生まれたものだったようだ。

「実戦でまだ指されていないものが定跡」
って、我々はいったいどの時間を
生きているのだろう?

 

加えて、ご存知の方も多いと思うが
最近の対戦では、
テレビにしろネット中継にしろ
AIによる最善手とそのときの勝率が
リアルタイムで表示されるように
なってきている。

たとえば王位戦、
藤井聡太五冠対豊島将之九段の第一局
101手目、豊島の手番。

AbemaTVのAIは、34歩の一択、
あとは全部大逆転との御見解。

こうなると、テレビの前で
豊島ファンは
 「豊島、34歩だ、間違えないでくれー」
藤井ファンは
 「間違えろ、53桂成も美味しそうだぞー」
と声援を送ることになる。

AIによる候補手表示が登場する前までは、
まさにだれも近づけない
「ある意味、人類最高峰の頭脳の戦い」
を見ていたはずなのに、いまや、
視聴者全員に正解がわかっている当て物を、
対戦者が当てられるかどうかを見るだけの
安っぽいクイズ番組を見ているような中継と
なってしまった。

誤解をおそれずに言えば、
「志村、うしろ、うしろ!」と
叫びながらドリフのコントを見ている
子どもとおんなじ気分だ。
(ザ・ドリフターズのコントを知らない方、
 意味不明の表現をお許しあれ)

「人類最高峰の頭脳」が苦しみながらも
まさにフル回転して生み出してくる
渾身の一手、
そこにある驚き敬意畏怖
そして思いもしなかった世界を
見せてくれた喜び
それらは、いったい
どこに行ってしまったのだろう。

 

もちろんAI研究の面から見れば
すばらしい進歩と言えるだろう。

でも、その成果や今の利用方法って、
将棋愛好家が望んでいたものなのだろうか?

この記事に書いたように、
哲学者の森岡正博さんは
「無痛文明論」というぶ厚い本の中で

現代文明は
欲望が生命のよろこびを奪っている


と書いていた。

欲望を満たすことに夢中になり、
本来そこにあったよろこびが
奪われているのかもしれない。

 

 

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2022年8月21日 (日)

野川に沿って深大寺まで

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野川に沿って深大寺まで

- ふかふかの緑を踏みしめながら -

 

西国分寺駅から歩き始めた
今回の「ぶらぶら歩き」だが、
前回お伝えした通り、
国分寺駅の南側、一里塚橋のところで
ようやく野川に合流することができた。

ここからは
できるだけ野川に沿って歩いて行きたい。

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川幅はまだまだ狭いが、
草刈り等も丁寧になされており、
整備された川が、
住宅地の中を流れて行く。

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野川に限らず、水路で時々目にする
上部のこの梁のような構造は
いったい何のためのものなのだろう?
そもそも名称がわからないので
調べようがない。

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丸山通りの長谷戸橋には
「この橋は
 溢水のおそれがある場合には
 通行止となります
のでご注意下さい」
の掲示がある。

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東京経済大学のそば
鞍尾根(くらおね)橋のところで
再びカワセミに会うことができた。

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気がついたのは
朝イチ、姿見の池
カワセミを教えてくれた
おじさんのおかげだ。

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この、鞍尾根(くらおね)橋が
河川管理境界
ここまでが
東京都北多摩北部建設事務所、
ここから下流方向が
東京都北多摩南部建設事務所
の管理となるようだ。

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ここから下流は
堤防内、高水敷の部分を
歩くことができる。

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堤防は一見、
石を組んだように見えるが
よく見るといくつかのパターンの繰り返し。

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意図的とも思える隙間もあり
水はけを考慮したコンクリートブロック、
というところだろうか。

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犬の散歩にも何度もすれ違う。
とにかく、緑豊かなうえ
ふかふかとした部分が多く、
高水敷部は、足腰にやさしい。

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小金井市立前原小学校
のところまでくると
川は校庭の下に潜り込んでしまう。

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もちろん学校内には入れないので
学校の柵に沿って歩くと
そこには細い堀がありこんな掲示が。

「ここは昔の野川です。
 雨が降ると川の水が増えて
 危険ですので、
 中に入らないで下さい」

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水は流れていないが、
こんな水路が続いている。
増水時には活躍することだろう。

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昔の野川
河川工事され今は前原小学校の
校庭の下を流れている新しい野川
一旦分かれて、
またこの先で合流するようだ。

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合流地点はこんな感じ。
左の橋下が昔の野川
右の橋下が新しい野川
増水時にはどちらからも水が
手前方向に流れてくる。

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このあたりは市としては小金井市となるが、
「小金井」の地名は、
「黄金のように価値ある水が
 湧き出る井戸」が多くあることから
黄金井 = 小金井
が起源と言われているらしい。

引き続き緑の中を歩く。
流れてはいるが、草が茂っており
川面はほとんど見えない。

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子どもたちの声が聞こえてきた。
都立武蔵野公園」に出た。

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川の横、この広い野原は、
野川第二調整池

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野川の水位が上昇した際には、
洪水は越流堤を超えて調節池へ流入し、
川の水位が低下すると排水ゲートから
自然排水される仕組み。
貯留量はここだけで2万8千m3。
25mプール50杯分以上を貯められる。
野川の治水安全度向上を目的として、
約30年前、
1989年度に整備されたものらしい。

すぐとなりにはほぼ同じ規模の
野川第一調整池」もある。

川を少し逸れた
崖線部分を登る階段には
ムジナ坂」の名がついている。

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中学校の英語の教科書に
ラフカディオ・ハーンの
「Mujina」があったなぁ、という
古い思い出話で盛り上がる。
教科書の教材、恐るべし。
ウン十年前の内容を
思い出させる力があるのだから。

都立武蔵野公園を歩いていると、
西武多摩川線の下をくぐることになる。

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そこから先は
都立野川公園

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ひろびろとしていて緑が美しい。
崖線の上には
国際基督教大学(ICU)のキャンパスが
広がっている位置になる。

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何を捕まえようとしているのだろう?
水の中を歩く網を持った親子にすれ違う。

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崖線の上の「国立天文台」と
崖線の下の「調布飛行場」に
挟まれたような位置を流れる野川。
間には「野川大沢調整池」がある。

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ここは、
野球場+サッカー場
規模の面積があり、
野川第二調整池の2.6倍もの水を
貯留できる。
ここも地下ではなく越流堤を超えて
調節池へ水が流入する「掘込式」
見渡せるので規模を実感できる。
越流堤はこんな感じ。

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堤防と堤防の間、
堤外地の幅は広くなってきたが、
水が流れている低水路の幅は
それほど広くなっていない。

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御塔坂(おとざか)橋まで歩いたところで、
時間的にもいい時間となっていたので
「今日はここまでにしよう」
ということになった。

最後、近くの深大寺にお参りをして

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吉祥寺駅前まではバスで移動。
お待ちかねの夜の部に。
一日の行程を思い出しながら
ビールで乾杯。
鞍尾根(くらおね)橋以降、
ふかふかの緑の上を歩いたせいか
足の疲労感も
どこかやさしくてここちいい。

今回の野川に沿っての川歩き、
振り返ってみると
鳥とその鳴き声が印象に残る
「鳥ととともに」の一日だった。
カワセミ、うぐいす、ムクドリ、カモ・・・
(写真に収めるのが難しかったため、
 写真ではカワセミだけの
 紹介になってしまったが)
記憶に生き物の姿や声が
貼り付いているのはいいものだ。

 

 

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2022年8月14日 (日)

お鷹の道・真姿の池湧水群

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お鷹の道・真姿の池湧水群

- ようやく野川に合流 -

 

前回まで、
1200年前の道、
東山道武蔵路に寄り道してきたが、
野川を目指しての
西国分寺駅からのぶらぶら歩きに戻りたい。

東山道武蔵路跡のすぐそばに、
旧国鉄の「中央鉄道学園」、
郵政省の戸建て宿舎などの
跡地を整備して作られた
武蔵国分寺公園がある。

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ここから、
国分寺薬師堂は歩いてすぐだ。

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国分寺薬師堂は、
建武2年(1335)に新田義貞の
寄進により建立されたと伝えられるもので、
宝暦年間(1751-1763)に現在地に再建。

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緑が深くて美しい。

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天平13年(741)の聖武天皇の命により、
鎮護国家を祈願して創建された
武蔵国分寺

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諸国国分寺中有数の規模だった寺地・寺域は
数回の変遷があったようだが、
僧寺の金堂、講堂、七重塔、鐘楼、
   東僧坊、中門、塀、北方建物、
尼寺の金堂、尼坊、などが調査されている。

国分寺楼門

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この門は、米津寺(東久留米市)の楼門を
明治28年に移築したもの。
板金葺で江戸時代の建築様式を
よくとどめているものらしい。

武蔵国の文化興隆の中心施設であった
国分寺の終末は不明だが、
元弘3年(1333)の分倍河原の合戦で
焼失したと伝えられている。

国分寺すぐ横から、
「お鷹の道・真姿の池湧水群」の
水路脇を歩けるようになっている。

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江戸時代に尾張徳川家の
御鷹場だったことに由来して、
お鷹の道」と名付けられた散策路。

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真姿の池

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「嘉祥元年(848)
 不治の病に苦しんだ玉造小町が、
 病気平癒祈願のため
 国分寺を訪れて21日間参詣すると、
 ひとりの童子が現れ、
 小町をこの池に案内。

 この池の水で身を清めたところ、
 たちどころに病は癒え、
 元の美しい姿に戻った」
との言い伝えのある
真姿の池」には
小さな祠と鳥居がある。

 

国分寺崖線

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国分寺から
小金井・三鷹・調布・狛江を経て
世田谷の等々力渓谷に至る
標高差約15mほどの崖線で
ハケ」と呼ばれている。

この崖線が
「日本名水百選」にも選ばれている
ここの湧水群を生み出している。

東京地区の崖線の2大スター(?)と言えば
この国分寺崖線と
上野から赤羽までの日暮里崖線
ということになるだろうか。

ただ、国分寺崖線は、
多摩川がつくった河岸段丘だが、
日暮里崖線は、
波の侵食を受けてできた侵食崖
その成立は大きく異なる。

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湧水が流れる「元町用水」を
追うように歩くと、
ついにここに到達する。

野川との合流点。

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ちなみに、合流点から
野川上流方向を見ると
こんな感じ。

P6112039s


ようやく野川に合流することができた。

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ここから先は、できる限り
野川に沿って歩いてゆこう。

 

 

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2022年8月 7日 (日)

西国分寺 東山道武蔵路

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西国分寺 東山道武蔵路

- 武蔵国は東山道から東海道へ -

 

前回
今から1200年以上も前に整備された
五畿七道について触れたが、

 七道は古代官道の名であると同時に
 諸国はいずれかの道に属すため、
 地方の行政区画ともなっている。

と書いた。

さて今回立ち寄った「姿見の池」がある
西国分寺付近は武蔵国となるが、
武蔵国は七道のうち東山道に配属された

ところが、
上野国(こうずけのくに)と
下野国(しもつけのくに)を通る
東山道の本道からは
南へ大きく外れた位置にあるため、
上野国の新田駅(にったのえき)付近から
武蔵国府に南下する支路が存在したことが、
奈良時代の歴史書
「続日本紀」に記されている。

この道を現在では
東山道武蔵路と称している。

現地の案内板には
こんなわかりやすい地図があった。

P6111994ss

地図を見れば明らかなように、
東山道武蔵路を往復することは
交通上かなり不便だ。
そこで武蔵国は宝亀2年(771)に
東山道から東海道へ所属替えとなる。

つまり771年には、東山道および武蔵路、
そして東海道が
すでに整備されていた
わけだ。

これにより駅路としての東山道武蔵路は
使命を終えることになるが、
発掘調査の成果から、
その後も武蔵国内の南北交通路として
平安時代の終わりごろまで
使用されていたことがわかっている。

 

さて、この東山道武蔵路の発掘調査は、
JR中央線の北側、恋ヶ窪地区だけでなく、
JR中央線の南側、西国分寺地区
でも行われている。

そちらにも回ってみよう。

国分寺市泉町二丁目
(旧国鉄中央鉄道学園跡地)で行われた
平成7年(1995年)の調査では、
東西に側溝を持つ
幅12mの直線道路が南北340mにわたって
発見された。

今は、遺構が一部展示施設となっている。

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柵の中はこんな感じ。
当時の道路造成面を型取りして
復元したレプリカが展示されている。

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道の側溝は主に平地を通る
古代道路の両端に設けられている。
路面の排水を目的としているほか、
溝によって
官道である道路の幅(範囲)を示したもの
考えられているとの説明がある。

展示施設を含めた泉町二丁目には、
幅15m、長さ400mの範囲で、
舗装した路面に当時の道路幅と
側溝の位置を表示したエリアがあり
展示施設から武蔵路の一部を
まっすぐに見通すことができる。

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武蔵路発掘の話を知らないと、
単に「広い直線上の空き地」にしか
見えないが。

P6112000s

と言ってもわかりにくいので、
Googleの航空写真を借りて、
上空から眺めてみよう。
これを見ると
発掘による保存エリアが明らかだ。

Gmap1s

赤い星印が、遺構の展示施設。
そこからまっすぐに南方向、
赤い点線が囲まれたエリアが
発見・発掘されたエリア。

北側の泉町二丁目(西国分寺地区)、
そのすぐ南、短い
西元町二丁目(旧第四小学校跡地区)
どちらも今は
国史跡(くにしせき)に指定されている。

 

「野川に沿って歩こう」と
始めた「ぶらぶら散歩」だが、
今回はまだ野川にまで合流できていない。

五畿七道から見えてくる
1200年前の律令国家のパワーと
技術に驚かされて
すでに3回も書いてしまった。

さて、次回は野川に合流できるだろうか。

 

 

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